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2021.03.31
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カテゴリ: Love 和歌山
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再び、​ 新宮市観光協会のHP ​の図(一部加筆)に登場してもらう。
前々回、出雲の人々が関わっていたとすると、

伊勢路で花窟神社から山手に入り、紀州鉱山を経て
熊野本宮大社への道が一番早く開発されたと私は考えていると述べた。

**こんかい、のっけから私の妄想であることを宣言する**

熊野本宮大社、花窟神社、産田神社の創建が
崇神の御世(花窟神社は予測)だった。

次に古いのが、熊野速玉大社と神倉神社で景行天皇の御世である。
陸路の参拝からしばらくたって、熊野川を利用したルートが開発された。

最後の熊野那智大社、青岸渡寺、補陀落山寺は仁徳天皇の御世である。
紀州鉱山の他に妙法鉱山が開発されたと私は考えている。
那智湾まできて、上陸し那智川に沿って遡るルートが開発された。
河内王朝だから、物資は那智湾から船に乗せられ海岸伝いに運ばれた。

斉明/天智の頃になると、仏具の生産、銅銭の製造のために、
本格的に貴金属の加工が始まり、鉱業の立ち上げが行われる。
飛鳥池遺跡に大規模な工房が建築され、
そこに素材を運び込むルートが開発される。富本銭がこの頃鋳造される。

陸のルートとして、紀伊路から中辺路、大辺路ルート。
この時期、天皇は牟婁湯(田辺の南の白浜温泉)に行幸している。
藤白王子に有馬皇子を祀ったのが658年頃。
役行者に葛城二十八宿のルート、大峰奥駆道のルートを開発させる。

次の世代の文武の時代には、政権を握った藤原不比等が
引き続き飛鳥池の工房を運営したか、藤原京の工房を作ったか、
いずれにしても、鉱業の励行と素材運搬ルートの掌握を行った。
大宝律令を定め、鉱業の重要性を明確にした。各地で鉱山が見つかる。

紀州路に道成寺を創建(701)。妙法鉱山の西側に阿弥陀寺創建(703)。
威信財(富の象徴)が仏教伝来によって、古墳時代の玉や銅鏡から
金箔などが施された仏像や仏具となり、
さらに、唐に倣った銅銭を欲するようになる。

銭の鋳造が何度か試みられている。
ついに、元明の時708年和同開珎(銀銭、銅銭)が製造されている。
聖武の時には、745年の奈良の大仏の鋳造により、
大量の銅、すず、水銀、金が国内の鉱山から集められている。

銅は山口県の長登鉱山から、
金は東北の(陸奥の国)黄金山神社近くからとれたものとされている。
紀州鉱山や妙法鉱山からの産物は使われなかったのか?
記録にないことがかえって怪しくはないだろうか?

その後、聖武の子、孝謙(重祚して称徳)が亡くなると(770年)、
光仁・桓武親子が、それまでの権力者から脱却を図り、
律令制を再建し、遷都を試みる。平城京⇒長岡京⇒平安京。
その後嵯峨の時、空海が徴用される。

空海は真言宗の開祖であるが、また、土木技術、鉱業技術など
多くの技術に精通した人であった。
四国、紀ノ川沿いの水銀鉱床やその他の鉱物を探査したと思われる。
素材を平安京に運び込むルートを整備したと思われる。

桓武の時、794年平安京の南の入口に城南宮を創建。
796年、空海がその近くに東寺を創建。
815年、阿弥陀寺に空海が訪れている。(空海開祖との伝承有)
816年、田辺の高山寺で稲荷明神を会ったという伝承がある。

その後、稲荷神社を狐を祀る神社に変えたという伝承もある。
これは、ルート上の稲荷神社を掌握したということか。
つまり、秦氏が空海の援護者になったということだろう。
秦氏は渡来系の技術集団であり、流通ルートも押さえていたと思われる。

さらに、
高野山を開き、小辺路を開拓。
大峯奥駆道が険しい山の峯伝の道に比べ、
小辺路は尾根を避け、歩きやすい道である。

大峯奥駆道のスタートが金峯山寺で
小辺路のスタートが金剛峯寺。
どちらも金の匂いがすると思われるが、
皆さんはどう思われます?

その後、藤原家による摂政関白政治が続く中で
登場するのが花山である。不思議な事績を残している。
17歳で即位し、19歳には退位した。
愛した人の死が原因とか、藤原家の陰謀だとか言われている。

花山は退位後、出家し熊野詣でにでる。
中辺路に牛馬童子の像として足跡を残している。
那智の滝界隈で1000日修行として籠っている。
陰陽師・安倍晴明を近くに呼んでいる。鉱山の探索をしていたのか?

その後、西国33か所めぐりは花山が始めたものとされている。
私はこう考えている。
藤原家の富の源泉を押さえないと、その呪こから逃れられない。
その源泉は鉱山と貴金属加工房を制圧していること。

そこで、動きにくい天皇位を譲渡し、
熊野詣と言って那智にこもり、新しい鉱山を探索した。
また、そこから得た物資を運ぶためのルートとして
西国33か所の寺を配置した。

1番:青岸渡寺(創建は仁徳の御世)
2番:紀三井寺(
770年)
3番:粉河寺(創建は770年)
あれれ、770年って、
称徳が亡くなった年。

符合するなあ。
桓武らが平安京への
ルートの掌握を考えて、
熊野古道の拠点にそれぞれを配置したのではないだろうか。
それを花山が改めて確認した。

花山の動きは体制を変えるには至らなかったが、
何かの爪痕を残したと思われる。
わざわざ歴書に情けない経歴を書き残されていると
当時の権力者に疎んじられていたと勘繰ってしまう。

そして、熊野詣が一大ブームとなる。
白河天皇が登場する
白河はそれまでの摂関政治から院政に切り替えた人である。
都で政治をしていなければならない忙しい人である。

しかし、熊野詣を行い、何度も都を不在にしている。
これは宗教心かも知れないが、
それ以上に重要なことがあったと考えられる。
それが富の源泉、貴金属の素材を運び込むことだと思うのだ。

身分の高い人が動けば護衛がつくし、
上皇だと知ると、襲う人もいないだろう。
身分の高い人たちは熊野本宮大社横の湯の峰温泉で逗留していればよい。
湯の峰は毒消しの効能がる湯治場である。

白河は平安京の南の入口の城南宮の近くに鳥羽離宮を創建する。
色々な機能がそなわった離宮で、まるで遷都のようだと記されている。
白河上皇:12回、鳥羽上皇:23回、後鳥羽上皇:29回、後白河上皇33回。
上皇たちは武士が台頭し、六波羅探題が置かれるまで熊野詣を繰り返した。

六波羅探題により、後鳥羽上皇が隠岐に流される。
同時に、富の源泉が抑えられたのかもしれない。
院政はその後も続くのである。
もし、熊野詣が宗教的なものだけなら、その後も続いたはずである。

今回は熊野詣のルートの発展を推理して見ました。
記録にはあまり残っていないのですが、
ジオパークの規模などを見ると、
鉱山の埋蔵量も期待できそうな気がします。どうでしょうか?

つづく。

​​​​
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最終更新日  2021.03.31 10:37:28
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