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先先週 土曜日まで 半断食2週間続けて 30年ぶりに 体重70キロをきり その夜は 解禁の 暴飲 暴食をしたところ よそうどおり 1週間 昼夜を問わず 飲みまくり また 体重は70キロを超え 体の中は アルコールで満ち溢れた ようやく 日曜日から また 予定2週間の半断食に入った まだ3日目だが アルコールがほぼ抜けた感じだ 2週間後の 土 日には 久しぶりの ゴルフ会がある 半断食と暴飲暴食の繰り返しながらも 回復ペースが少し 早くなったようだ それにしても もっと上手に 自己管理が出来たらなあ
2005.05.31
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私は 金子みすずの スゴイトコロ という題で一度語った 彼女のスゴイトコロである 2つの観点を持っているトコロを 1つの詩ごとに示すシリーズにしてみたいと思った 早速 始める 1 昼の空 星なんて見えない しかし ほんとうは 星はあるのだ 星とたんぽぽ の1番 青いお空の底ふかく 海の小石のそのように 夜がくるまで沈んでる 昼のお星は眼に見えぬ 見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ
2005.05.31
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笑いのパターン分けを考えた人の中では 2パターン説 と 3パターン説 が多いのではないか 私は少なくとも4パターン説を採るが ほんとは もっと多いパターン分け をすべきと思う 2パターン説は ユーモア と ウイット エスプリともいう にわける 3パターン説は さらに コミック を加える 私は さらに サタイア 風刺ともいう をくわえる そこで この問題をシリーズで考える 私は 徒然草 兼好の笑い 2つをとりあげた そこで 気づいた 兼好の笑い あるいは 笑わせ は 軽い 風刺 あるいは 皮肉をふくんでいるな と 神社の獅子の向きの話にしろ 猫またの話にしろ 上人 法師 のカンチガイによる笑いである そこには 上人や法師を軽く風刺ないし皮肉って 兼好が 眺めていると思える
2005.05.31
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いえ いまさら67歳にもなって お天気おじさんとして 就職するためではありません 天気の変化のメカニズムを知る事は 物の変化のメカニズムの重要部分を知ることに繋がると思うし なによりも 私が日々その変化の中にいて これから夏にかけて ビールのみまくり 体重ふえまくり の恐怖と戦うのも 天気の変化の影響によるからである 天気の変化の基本メカが太陽の移動に伴って 地球の場所 が温度変化することに 端を発することを 私は知っている 今日は この基本知識を確認して 今後の研究への 決意をしよう
2005.05.30
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A地点から1万メートル離れた所にB地点がある 2人の人が 同時にAからBへと BからAへと向かった 歩いて 1人は時速5キロ もう1人は時速6キロ 2人は いつ どこで 出会うか 1人は1時間後5000メートル もう1人は1時間後6000メートルだから 1時間よりチョット前に2人は会い 真中よりチョット片寄ったところで出合う ことは見当がつく 2人の歩いた合計距離が1万メートルになる時間をだせばよい すると そのときの場所は自ずと解る 2人は合計で時速1万1000メートルとなる 1万メートル歩く時間は 1万 割る 1万1000時間である これを計算するとき 時間でだすより 分でだすのが自然だから 60万 割る 1万1000分となる これを計算すると 54と 1万1000分の6000分となる 54分では2人はまだ出合えていない あと 1万1000分の6000分先である これは1分より少ないから秒単位だ だから1万1000分の360000秒となり 32秒と あと1秒足らずで出合えることとなる 旅人算は 時間の単位 時間か分か秒か 距離の単位 キロかメートルか を同一にしなければ 答えが出ないことを教えてくれる 数学は 同一物の数量問題なのだから
2005.05.30
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猫また の話 89段 の語りはワリに知られている 猫また という 猫の年を取って人を食らうのがいるというウワサがあった ある法師が夜ふけまで連歌して帰りに 小川のほとりで 猫またにおそわれた 猫また だあ 助けてくれ 原文 助けよや 猫また よやよや といいながら 小川にはまった 近くの人たちが助けて 這うようにして家に帰った 真相は 飼い犬が主の帰りを知って飛びついたのだった 原文をぜひ読むべし 私の紹介の何倍も面白い おかしい 最後の文の原文 飼いける犬の 暗けれど 主を知りて 飛び付きたりけるとぞ
2005.05.30
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この問題面白いので シリーズものにしたい 法律でも この問題は 両方 考えている 憲法15条4項 すべて選挙における投票の秘密は これを侵してはならない 著作権法19条1項 著作者は その著作物の愿作品に 又は その著作物の公衆への提供もしくは提示に際し その実名もしくは変名を著作者名として表示し または 著作者名を表示しないこととする権利を有する この2つの条文を お客さんよ とりあえず 頭に入れておいてください
2005.05.28
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確か 昭和60年野球で阪神が優勝した年 私は 家を建て替えていて 仮住まいだった そのとき 1週間ほど お客さんとも会えなかった 結局 原因は お金の問題だったのだ あれ以来 同じウツ体験はないけれど 人間が 危機状態を避けるための 3つの方法 やり方がある といわれている その3つを 私は いつも利用しているのだ 1つは 逃避 逃げる 2つは 代償 代わりのことにのめりこむ 3つは 昇華 別の上位を目指す この3つ 私の方法は 弁護士の同人雑誌 奔馬 の編集長 碁の そこそこの 実力 このブログもまた 大いなる 方法になっている だから お客さんよ 私は 続いているんですよ
2005.05.28
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笑える度の高いのは 236段の語り 丹波に新しく神社ができたので 地元有力者が上人その他 多数を誘って 出かけた 神社の入口の魔よけの シシとコマイヌ が 普通と反対向きに立っていた 上人がこれを見て 大いに感心 なにか 深いワケがあるのだろう と 皆に説いた 参加者も これに なびいて 感心 そこで 神官にワケをたずねると 悪ガキどもが いたずら したのです けしからん と言って 普通向きに直した 以上 神官にワケをたずねたところ の原文 物知りぬべき顔したる神官をよびて この御社の獅子の立てられ様 定めて習ひある事に侍らん ちと 承らばや と言はれければ その事に候ふ さがなき童どもの仕りける 奇怪に候ふ事なり とて さし寄りて 据え直して 往にければ 上人の感涙いたづらになりにけり 以上 できれば 原文全部を読むことを勧める
2005.05.28
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私は今 19歳ではない しかし 私にも 19歳の時はあったのだ 今の 人たちの背景と 私の19歳の時の背景は 根本的に違う 私が 今19歳ならば 性的情報をインターネットですべて入手しただろう しかし 私の19歳の時 1957年 昭和32年 は 情報が 限られていた 私は 当時 最後の年であった いわゆる 赤線 京都 の 島原遊郭 で私のエネルギー 発散した このように その時 その時 の法律的状態があるのだ 現在の 19歳 はどんな 性的状態なのかな
2005.05.27
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私は弁護士 すなわち 法律家なのに 法律のことといっては あまり語っていないじゃないか といわれないために このシリーズを始める 法律とは ベキダ のシステムであること しかし 強制執行を伴う アル のシステムをめざすものである この2つの 異なった方向に分裂しているのが 法律だ だから 分りにくい ところがあるが 法律なんて なんら 難しいことは 1つたりとも ありません だから私は 法律の細かい規定の知識をひけらかしたくないのだ 私は 空を飛ぶ鳥の目から見た法律 を語り始めている これと呼応して 地上から見える法律も語ろうと思う 今日は アイサツまで
2005.05.27
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私は 私の 徒然草 読みの感想を 徒然つまみ読み草 と題して このブログで数回にわたって 語った 恐らく 2 3人が読んでくれたかどうか 私のブログ小屋には まだまだ 覗きにきてくれる人が少ない だけでなく 字が細か過ぎる つまり過ぎる 長過ぎる など ウンザリして立ち去る人がホトンドらしい 私は レトリック お客さんに読ませる工夫を 語っておきながら 自分の語りに その工夫が欠けていることを認める レトリックの道は険しい 私の 徒然草語りは 1 碁 2 笑う 3 自分語り 4 人生観 5 イモ クリ ダイコン コイ カツオ 6 金ではなく鉄として 7 既視感 デジャビュ 8 京都人論 9 選択 他を捨てて 集中 それに 10 兼好8歳のときの思考 の10の語りからなる この仁中で まず 2 笑い から読んでほしい これから 他人の 徒然草読みを紹介していきたい しかし なんといっても 兼好さんの 原文で読むのが 最高に面白いですよ
2005.05.27
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私は今 歌う設備のある処に行くと アカベラ マイクなしで 氷川きよしの ズンドコ節などを歌いまくって 悦に入っている 私は 高校時代から 弁論大会の優勝の常連だった 香住港 の 海に向かって大声を張り上げて 練習した 成果だ 高校卒業後 京大に入ってから 当時 いわゆる 歌声全盛時代に 私も それに一体化していた その後 出版社に入り 労働組合作りに参加し ヒロイック気分を経験した ヒロイック気分の重要さを 夏目漱石だったか 福澤諭吉だったかが説いている 私は この2人を好き好きである 大学時代 出版社時代を通じて 私は ロシヤ民謡 労働歌に 魅せられた ロシヤ民謡と労働歌には ホレホレだった 私は 弁護士になってから 18年間 ロータリークラブ にも所属した その時も ロータリーの歌を歌って意志統一をした 歌の機能は多いにある いま 思うに 歌は 警戒すべきマヤク類似物だと思う
2005.05.26
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私は大学時代 昭和33年から38年まで 1958年から1963年まで そのころは まだ サラ金は発生していない もし 発生していたら 私は それを利用しまくり 破産宣告をうけていたかも 金融の唯一の手段として 質屋を利用した 本の質屋もあった 私は今でも残念なことあり 私が古本屋で買った 伊藤整 訳 の発禁本 チャタレイ夫人の恋人 ロレンス原作 小山書店発行 を読まないまま 質屋に入れて 流したこと この本が発禁になったこと自体 いまや 不思議な時代に突入しいてる いまや 新潮文庫に 同じ本の完訳本が出ていて 私も持っている が まだ読んでいない いまや この本を読んだからといっても 恐らく いたずらに 性欲を 刺激興奮することはないだろう ことが 見え見えだからである 私の質屋経験のひとつは お笑いだ 私は金に窮して 蒲団を 下宿近くの行きつけの質屋に持ちこんだ が 断られた 当時 京大には 生活課があって アルバイト斡旋の他に 学生証を担保に500円を貸しつけてくれた 私は いつも 学生証の預り証しか持っていなかった
2005.05.26
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5月7日に私はレトリックについて語り始めた 私の好きな 清水幾太郎の本 私の文章作法 中公新書 の中の文を紹介した 我 思う 故に 我あり の殺し文句で有名な デカルトがレトリッンを軽視した これに反して ヴィーコはレトリックを重視した 私 清水幾太郎は レトリツクを大切と思う と 清水が言うとおり レトリック とは 自分の考え 思いなどを 聞き手 読者の頭 心に染み透らせるための 工夫 のことである 学者が 自分の考えを レトリックの工夫なく ヘタクソ表現を撒き散らしていることを 清水は怒っている ソノトオリ 広告は いかに 人の心 関心を盗むかに イッショウケンメイだ 本の題名もそうだ 落語や講演の 冒頭の ツカミもそうだ 最近 話題の本に サオダケヤ ハ ナゼ ツブレナイカ というのがあるらしい 私は まだ 買っていないが 買うことになるだろう これは 会計を分りやすく解説した本らしい 私は 大円 小円問題も取り上げている 会計 が大円で サオダケヤが小円になる 本の題名で人の心を盗む方法として インパクトある小円を使ったのだ ちょっと前の本 分数のできない大学生 も同じである 大円は 大学生の学力不足 小円として 分数できない があるのだ これらは よく レトリックしている お客さんよ どんどん レトリックしよう
2005.05.26
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お客さんよ 経済のことは 生活そのもののことです このことに関心を持たない人はいない 私だとて 関心を持っていますよ 私は 奔馬 の中で 経済のことを 恐らく 10篇以上の作品として 発表したとおもう 私は 清水幾太郎の信奉者で なにごとも 裸でぶつかって行こうとしている 経済のことについては 私は 朝日新聞 論説委員だった 笠 リュウさんの 花見酒の経済 に惚れた人間です リュウさんと シミズイクタロウさんを私は受け継いでいるつもりてす このブログは 考える方法としていいツールだと感じています これから 私の 経済理論がどのように深まるか 楽しみとします
2005.05.25
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私は高校生の時からいままで50年間も碁ゲームを ナゼ 続けているのか カルロス ゴーンさんが 日産自動車を再建した原動力の質問を受けて モチベーション モチベーション アンド モチベーション と答えたとおり 人がある行動を続けるのは モチベーションが必ず伴っている 人が小説やらエッセーやらを書くのも モチベーション モチーフ がかならずある 私が碁を続けるモチベーションは 勝つ 喜びに外ならない 私は 京都弁護士会の中ではトッブを山口貞夫さんと争うレベルにある 私は 朝日新聞主催の アマチュア選手権京都大会の南地区の10位レベルにいる しかし けっして 京都代表にはなれない 悲しさを知っている 私は 碁を打ち 弁護士たちの 文芸同人雑誌 奔馬 ほんば の編集長をいままで31号 までつづけ 近く 32号を発行するのも 私が それなりの 表現能力を持っていることを 人に見せしめたいという モチベーションあるがために外ならない 私がゴルフに消極的な理由は 私が ゴルフ落ちこぼれだからである
2005.05.25
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いままで 言葉の働きを 9つまで 検討してきた 言葉の働きを ここまで分析した本を私は読んだことがない ここまで分析したのは私だけかどうか 意味 1 感情 2 この2つの働きに着目するのが ほとんどすべての人の関心である 実行まで遠い 3 大袈裟作用 4 言葉の意味化 5 意識のシャッキリ化 6 言葉の省エネ傾向 7 言霊作用 8 言葉のオブジェ使用 9 言葉の10番目の働きは ソシュールが指摘したことである 彼は 言葉の2つの機能を分析した 1つは 単なる 記号の機能 もう一つは いままで 私が分析してきたような 意味を始めとする 中身の機能である 単なる 記号の機能を シニフィアン 中身の機能を シニフィエ とソシュールは名付けた 私はいままで シニフィエを分析してきたのである だから 言葉の10番目の働きは シニフィアンの働きである この働きは 外国語を考えると理解しやすい 彼が何を言おうとしているか分らない しかし 彼は 言葉を喋っている 意味から切り離された言葉を シニフィアンという そうだ 言葉のシニフィアン機能はなかなか見えにくいのだ しかし 言葉というものを分析するには 絶対に必要である ソシュールさんに喝采しよう
2005.05.25
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少年の時の幸せの原因を私は知っている それは 心配のない状態 ということである おもえば マルクスは すべての大人にも 心配のない状態をつくろうとした 能力に応じて働き 必要に応じて受取る そういう社会を しかし それは不可能である 結局 大競争をして 勝者 敗者が出て 富を大にして 勝者は多くを得て 敗者は少しもらって 不安を組み込む社会こそが いい社会と判明した したがって 年3万人の自殺者はやむを得ない そういうことを 飲み込まなければならない
2005.05.24
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私は67年生きてきた 残るは 50年ぐらいか 私が私を振り返り見るに 私は 朝強 夜弱 人間だとつくづく思う 私は まず 5歳ぐらい いや もっと前から 夕方に寝て 夜中2時に起きて 布団に腹ばいになって 安田文学堂書店の本を 読む というか 眺める というかをしていた 少年のころ 朝早く起きて ちょうど今6月ころは 5時には起きて 夕べ仕掛けたウナギがはえ縄にひっかかっているか 川に出向く日課だつた 大学の2年間 私は牛乳配達のアルバイトをした 1日たりとも休んだことはない 朝5時から7時ごろまで 今 私は 5時に起きて 7時前に事務所にきて ブログを発信している このように 私は 朝に仕事ができるタイプであることが明らかだ そのかわり 夜 はサッパリ駄目 本を読む力も乏しい テレビを眺めるのが 一番 いい過ごし方か 私はテレビ枕に寝転んでテレビを見るので 寝込んでいることが多い 私の家の 台所 又の名を女房という がテレビを切ると 私は 反射的に文句をいう特技があるのも不思議だ
2005.05.24
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人が人を支配する3つの力を分析したのは 1人は アルビン トフラーであり もう1人は 私 安田健介であるが 私は無名であり トフラーさんは著名である いままで その力として 1 暴力 実力 有形力 物理力 警察 軍隊 核兵器 暴力団 殺人 傷害 暴行 監禁 逮捕 拉致 誘拐 強制執行 2 経済 富 経済制裁 兵糧攻め 貫一お宮 懸賞金 特許の報償金 宝くじ すなわち 暴力 と 経済の力を挙げた さあ 残る1つは何か これが分らない人はいないでしょう トフラーさんは 知識 といい 私は 精神 といったのです トフラーさんは 第3の波 の語りの中で これからは 3つの力の中で 知識 の力が 支配力の中心になる と言ったのです 北朝鮮は 暴力を支配力の基本としている せざるをえない というべきか 先軍政治と称する 核の脅威を最大限 利用する 日本は 経済の支配力はそこそこだが 暴力の支配力は 憲法的制限のもと 限られている 核は 持たないことを 世界に向けて 宣言している だから 北朝鮮に対しては 対話 すなわち 精神と 圧力 すなわち 経済制裁 のコンビネーションをどのように上手く使うかになる 日本の支配力は3つの支配力の1つが欠けている状態にある 暴力の支配力は アメリカに助太刀してもらわざるを得ない このことをじゅうぶん認識しよう 核とは 恐ろしい暴力である これを克服するには 精神が上位の支配力になるしかない 日本の憲法9条は 精神が 暴力より 上位になるためのステップたりうる この条文を 世界戦略的に 積極的に 推し進める という ゲーム理論もあると思う
2005.05.24
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私が囲碁を意識したのは 小学生の頃だ ただし 実際に 私が 碁を始めたのは高校生になつてからだ 小学生のころ 私は 田舎 兵庫県の日本海の谷間の村に住んでいた ここに住んだについては 戦争が関係している 私の父の故郷であるが 戦争がなかったら 生まれて引き続き 安田文学堂書店として 京都で 生きつづけただろう 私も 戦争に 翻弄されたのである ともかく 私は 高校生のころから 碁をやり始め 50年になる その結果は 京都の弁護士連中の中では 1 2位を争う程度 朝日新聞の全国大会の京都予選の南地区大会10位が現在の位置である
2005.05.23
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5月19日に私は 大円 小円問題を提起した 私の大好きな 清水幾太郎の本 論文の書き方 岩波新書 1 私の文章作法 中公新書 2 の 1の中の 抽象と経験の間を往復しよう という呼びかけは 抽象という大円と 経験という小円の関係を意識した呼びかけであることを語った 清水幾太郎は書く立場で語っているが 出口汪は 同じことを 読む立場 すなわち 受験生の立場で語っている この2人の呼びかけは 大円が抽象命題で 小円がその具体事例ということだ 山田ズーニーさんが 生活機能文の書き方として 論点 論拠 意見 望む結果 根本思想 話す人の立場 受取る人の受け取り方のイメージ の7要素を打ち出したのは 清水 出口 の 大円 小円 意識とは違う ここまで考えて 大円 小円の2つのパターンが見えた 1つは 清水 出口の 大円 小円意識で 大円が抽象命題 小円が具体あるいは経験事例というケースである 山田ズーニーさんの 大円 小円意識は これとは違う 山田さんの大円は 生活機能文をいかに表現すれば最高か意識であり 小円は それを7つの要素で語ったということだ このように 1 抽象命題 具体事例 2 テーマ 論点 という2つの大円小円の意識の違いを見る事が出来た
2005.05.23
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私たち人間が言葉を使えなかったら 他の動物たちと同列の生き物になる その方が良かった という人がいても どうにもならない 私は 今まで 言葉の8つの働きを語った 1 意味 2 感情 3 実行まではまだ遠い 4 言葉はコトを大袈裟にする 5 言葉そのものが意味の一部になっている 6 言葉とはボヤッとした意識をシャキッとした意識に変えるものである 7 言葉は実行とくらべて 極端に 少ない エネルギーで足りる 8 言葉そのものが あたかも 事実だと思いこむ心性を生む 9番目の言葉の働きは サルトルが指摘したことである 彼は言葉に何を見たか 彼は 言葉を 機能として使う人と 物 オブジェとして使う人のあることを指摘した 機能として使う人は 普通 大部分の人 オブジェとして使う人は 詩人だとした いわゆる 詩語 と言われる 言葉のことである
2005.05.23
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1946年 昭和21年 敗戦の翌年 私は 田舎の村の小学3年だった 家数が100軒なかったから 全校生徒数は60人ほどだった 私始め疎開組を含めて これだけだった だから いわゆる複式授業で 1 2年いっしょ 3 4年いっしょ 5 6年いっしょ の教室で 先生は1人で勉強した 4年を先生が教えている時 3年は自習だった ところが私は 4年の生徒たちが 先生の読んだ後 声を出して朗読しているのを これだけは 覚えてしまったほど 興味を感じたのである 私が複式授業で もうひとつのクラスのもので覚えているのは これだけである タチバナアケミの歌で 楽しみは 珍しき文 人に借り 始め ひとひら 開げたるとき 楽しみは まれに 魚煮て 子ら皆と うましうましと 言いて食う時 このふたつである その時は この歌の読み手が誰かを知らず 歌だけを覚えた タチバナが 江戸末期の歌人で 清貧に甘んじ 家族をだいじにした人だと知ったのは つい最近である
2005.05.21
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言葉の働きを今まで7つまで考えてきた 言葉の8つ目の働きは 言霊 ことだま と言われる働きである この点を強く指摘したのは 井沢元彦である 彼は この事に関して2冊 すでに本をだしている 私はそれを探したが見つからない 彼は 日本人は特に 言霊的影響を受けてきた という 言葉は事実 実現 実行とは違うことは 言葉の3番目の働き としてのべてきた 言葉の言霊的効果とは 言葉がすなわち実現だと感ずる心性だという 宗教 占い 奇跡 オハライ などは この働きに通じるだろうか
2005.05.21
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お客さんも私も 毎日 語りながら生きている 1対1の日常生活の中の語り 何人かの座談の語り 講義 講演 演芸の語り 1対多の語り 小説 エッセー 知的散文などの書く方式の語り ブログを開設している人はブログで語っている 生きている人で語らない人はいない 紫式部は今でも 源氏物語を通じて 語っている ふだん 語り方なんて 意識するほどのことではない しかし 1対多方式の語り したがって読みも含めて 語り方が やや複雑になるので 語り方というテーマあるいは論点を意識化しておいた方がよい ブログで語っているあなたは 語り手 話者ともいう なのだ その場合 あなたが丸ごと語り手なのではなくて あなたが語り手を分身として生み出しているのだ そうしなければ あなた自身を 客観視 対象人物視して語る事が出来ない こういう語り手を生み出せない人は多い こういう語り手を生み出せた時 その人が飛躍 成長した瞬間となる ちょっと説教がましくなった 今日は ここまでとして お客さんに 考えてもらうキッカケにしてほしい
2005.05.21
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今日仕事で大阪の裁判所に行った時 友達の弁護士に会った 彼いわく ちょっと太ったね と 私は30年振りに70キロを切ったところなのに 私が私を認識する内容と 他人が認識する私とは違うなあ 半断食 禁ビールは明日夜まで14日続く 明日夜 解禁する あやちゃんと確認をとった 問題はその後だ これまで 何回も 同じことの繰り返しだ しかし 13日前のヒサンな体内天気の記憶はある その記憶が 体内天気を 一時雨のち晴れに導くかどうか 私のビール依存度は相当根深いからなあ その結果を私は野次馬となって見物しよう ただ見物するだけはツマラナイ 私は雨のち嵐の方にかけよう
2005.05.20
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私が「奔馬」創刊号に発表した「私の書く、読む方法」の一部を今まで2回(5月10日と5月12日)に分けて発表した。 今まで発表した分の中で、寺田寅彦の「科学と文学」は読んでほしい。 私が引用したところだけでもいい。 考えていたものがただそのまま器械的に文字に書き現わされるのではなくて、むしろ、紙上の文字に現われた行文の惰力が作者の頭に反応して、ただ空で考えただけでは決して思い浮かばないような潜在的な意識を引き出し、それが文字に現われて、もう一度作者の頭に働きかけることによって、さらに次の考えを呼び起こす、というのが実際の現象であるように思われる。 こういう創作者の心理はまた同時にその作品を読む読者の心理でなければならない。 ある瞬間までに読んできたものの積分的効果が読者の頭に作用して、その結果として読者の意識の底におぼろげに動きはじめたある物を、次に来る言葉の力で意識の表層に引き上げ、そうして強い閃光でそれを照らし出すというのでなかったら、その作品は、ともかくも読者の注意と緊張とを持続させて、最後まで引きずって行くことが困難であろう。 この部分は、私が「言葉の10以上の働き」で考えていることとも連なっている。 エマソンが「読書というのは楽しみを得るひとつの方法なのである。 それよりも劣るが、もうひとつの方法は詩作、もしくはわれわれが創作と呼んでいるものだが、これはわれわれがそれまでに読んだものの忘却と記憶とがひとつにまざりあったものでしかない」といっているのは、オモシロイですねえ。 寺田寅彦が「科学が文学と握手すべき領域は随筆文学、エッセー文学のそれであるかと思われる」といっている。私もこれに賛成。
2005.05.20
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ファラデーさんの ローソクの科学 に関する講義が本になっている 岩波文庫 ローソクの科学 である 翻訳者は 矢島祐利 この講義は 1860年のクリスマスの頃 連続6回6日 70歳の ファラデーさんが 少年少女向きに イギリスで行ったもの イギリスでは恒例の講義という ファラデーさんも少年の頃 この種の講義に出合って科学者への夢を募らせた 日本でも最近 理科教育浸透のための 試みがされている その試みのひとつに この作品のテレビ化 実演化 教材化 などを私は期待する 私は これから6回に分けて エッセンスを解説しよう 興味が湧いたら 岩波文庫本を読み さらに 探求を進めてください 私もやりたいが 私は すでに失われた時間が多すぎる だから 若いアナタに期待する
2005.05.20
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昭和39年春 私は 出版社 双葉社に入り 週刊大衆編集部配属になった オリンピックが東京であり 新幹線が開通した 私は 取材担当を始めにして その後 グラビア担当になった 初めての経験をいろいろした その年の夏 私は 早朝 上野の質屋に質草を入れて 何がしかのカネを手にいれて 朝食に有り付ける状態となった 給料前でキャッシュフローがなかったのだろう 質屋から出て しばらく歩いていると 突然 私の両脇を2人の男が挟んで 私の腕を掴んだ 私は いままで67年間で あの時ほど恐怖を感じたことはない 私は 浚われた 恐怖心で とっさに 助けてくれー と路行く人々に向かって叫んだ しかし 誰もたすけてくれる気配はなかった すると 2人の男は 何かしゃべった 警察まで来てくれ と言ったのだったかもしれない 上野警察署に連れていかれた その頃は恐怖心は少しは和らいだはずと思うが 思い出せない 私が質草にしたのは カメラマンから中元にもらった 仕立券付ワイシャツ生地だった 私は 身分と カメラマンの氏名と連絡先を言わされた 恥ずかしかった 釈放された 私は 編集部の部屋に帰ってから わざと 饒舌に 事件の顛末を大袈裟に語った 今振り返ると 上野警察は やや説明不足とはいえ 職務に熱心に取り組んでいたと 感心すべきだとおもう けれども 自分の恐怖体験なものだから なかなか そのように思う 心の余裕ができないのである
2005.05.19
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言葉の働きを考えてきた 一つめは 意味の働きで これが一番重要な働きである 同音異義語が日本語に多くあり 従って 話し言葉で 意味取り違えが よく起きる 兎 追いし を 美味し 赤とんぼを 負われて見た を 追われてみた サンタルチヤを 惨たる血や 丘を 越えてを お顔 肥えて などと 間違えることがある 同音異義語からダジャレが生まれる 同音異義語あるゆえに漢字書き取り試験がある 同音異義語からトンチも生まれる トンチはダジャレだ 同音異義語は漢字で区分けがつく 表意語だ いや 表意語たる漢字ことばが有るゆえに 同音異義語が多いのだろう 英語は 完全なる表音語である 日本語は 一部 表音語 一部 表意語である 漢字かな混じり文となる 読み書くには良いが 話し聞くには弱点となる 言葉の2つめの働きは 感情を含むことである 同じ意味を示す言葉でも 方言にまつわる感情と 標準語のソレは違う 日常語と違う学術語が使われるのは 意味の厳格さと感情排除のためだ メクラは蔑視感情を伴うから 目の不自由な人というが 目傷害者でどうか 敬語 丁寧語 蔑視語など 過度に感情を 日本語は 伴い過ぎになりがちだ 私は 感情をできるだけ抑える日本語をめざすべきと思う 言葉の3番目の働きは 言葉は意識の段階であり 実行 実現の段階ではないことである 実行の段階で ほとんど 意識 予定 予測は 修正 変更を要する 三木清も 中江藤樹も このことを 自分の哲学に取り込んだ 三木は 構想力の論理 神話 制度 技術 経験から行為に導く 中江は 知行合一 努力によって行為に導く と 方法が分れる 言葉の4つ目の働きは 言葉にすると 意識がはっきりする以上に 大袈裟にもなることだ セクハラという言葉によって 事が大袈裟になった 言葉の5つ目の働きは 言葉そのものが意味に似た役割をはたしていることだ 小説の登場人物の名前 漱石の 坊ちゃん でいえば かの赤シャツという言葉が 彼を示す重要な意味の一部になっている 言葉の6つ目の働きは ボヤッとした意識を シャキッとした意識に変えることだ さて 言葉の7つめの働きは 言葉に要するエネルギーが極めて少量でたりることだ このことは 波多野完治が指摘した 3の言葉の働きと通底している 彼いわく 庭の栗の木から栗の実をとるとしよう 栗をとるには まず棒を持ってきて栗の木の下で それをふりまわさなければならない その他色々しなければならない これに反して 言葉の法はただ 栗を拾うとだけいえばよい それで万事落着である と 省略語は 少なイエネルギーで済む言葉を 更に 省エネ化しょうとするものか
2005.05.19
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このタイトルで クシンしながら 全文ワープロを打ち終わって 登録ボタンを押したのだが 登録できず 全文が消えてしまった そこで 要旨だけのべる 私が勧める 清水幾太郎の 抽象と経験の間の往復 とは 抽象という大円と経験という小円のことである 清水は論文の書き方としてこれを説いている 出口汪 ひろし は同じことを 評論文の読み方として説いている 山田ズーニーさんは 文章という大円の中の生活機能文という小円 について 生活機能文という大円を7つの小円に分けて説いている 私は2回 メタ について語った 私が語る という小円を メタ 上から見下ろすこと という大円 により 反省しようとする事である 大円から小円を導く 演繹 えんえき方法 小円から大円を導く帰納 きのう方法 あり こんご大円小円問題をぼつぼつ考えていく
2005.05.19
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よく あそこまでで 踏みとどまったものだなあ 私は 恋人と 私の下宿の蒲団の中で裸で抱き合っていた 私は もちろん 彼女の足りない処に 私の余ったものを 差し入れたかった しかし 彼女は 結婚まではそれをしない哲学を奉じていた それに私は従っただけだが それにしても 今の私の所持する精神でもって その時 事に当っていたなら 事態は 変わっていた可能性が大きい 今なら 私は 手の指によるテクを駆使したに違いない それもせず 手の指で 彼女の溢れ出ている液体を 触れて確認するばかりだった 彼女は今 どうしているか
2005.05.18
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自分の自慢話でスンマセン 一昨年から断食を一部取り入れる減量を断続的にやってきて 83キロから75キロは1か月で達成した 75キロより増量した分は いわば近年の臨時太りを解消しただけで 威張れるほどの達成とは言い難い その後 多少のリバウンドはあったものの 75キロを若干上回ったことがある程度である 私のあるべきだと言われている標準体重は65キロである 身長171センチですので これは35年前の姿である 70キロは30年前の姿 私は自分でも 65キロがいい と考えている その目標達成の前に 70キロへの減量達成が課題だった この目標に向けて2年間 増えたり 減ったりを繰り返してきた 70キロに何回か近づいたことがあるが また離れていって 70を切ることがなかった 昨日初めて切ったのである ホンのチョットだけであるが 私の体の中のどこの脂肪が燃えたのか これは手で診断して すぐ分った 左右のアバラボネのすぐ下の部分である この部分の脂肪から燃えることは 以前からの確認事項である まだヘソの辺りの脂肪をもやす必要があり そうすると 65キロに自然に行きつきそうだ しかし 私のビール大量継続飲みの悪生活習慣 を断ち切れるだろうか これが大問題なのだ これの達成のための処方箋として 定期的な あやちゃんとのテート約束があるのだが ピール飲み欲求もふてぶてしく強いチカラだから怖い
2005.05.18
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私は民主主義を身に着けているか いくらかは身につけている筈だが ヨーク考エテ見ヨウ 日本は今 民主主義を根本思想として取り入れている国である システムとしても 当然 民主主義を取り入れている 法律を作るのは国会議員 法律を実行するのは公務員 官僚 裁判するのは裁判官 であるが これらスベテは根本は国民がしているのである ところが このことは なかなか実感しづらい あたかも 国民とは離れた偉い人が これら 立法 行政 司法をやっている かのごとく 感じているのではあるまいか その1つの証拠に 4年後までには実施になる 裁判員にクジビキで国民の誰かがなる クジビキだから 誰が当るか分らない制度について そのクジビキに当りたくない人が7割もいることがある 1億円のクジに当るのは吝かでないにもかかわらず である この証拠案件から 私だけでなく 7割の国民が 民主主義の肌着を身に着けていない可能性を感じる 3割は身に着けているのか ウラヤマシイ いや当然だが 国民が 政治すなわち立法も 行政も 裁判も 本来は 全部自らしているのである しかし私もお客さんも いちいち全部やっている余裕がない だから 有能とおもえる番頭さんを雇って やらせているのである 国民みずから いちいち全部をやらないのには いくつかの訳 理由がある 昔 ギリシャのアテネでは 人の数も少なかったし 奴隷がいて 自由人は余裕があったし 国民が自ら これらをやっていた そのため ソクラテスは死刑にされた そのアテネでも このやり方の欠陥を意識した人がいた 誰だか知らないが いわゆる衆愚政治 バカ政治のオソレである 日本始め民主主義の国がみな 番頭を雇ってやらせる方式を採用しているのは 1 忙しくて 自分でやり切れない 2 優秀な番頭にやらせた方がいい面がある 自分はバカの面もあるし という理由からである しかし 番頭に任せ切っていると 番頭は仕事をエエカゲンにやったりすることがある 番頭をして緊張せしめ いい仕事をさせるためには 番頭を監視したり 取り替えたり 手本をみせてやったり することが必要 国会議員に対しては 選挙 公務員 官僚に対しては 情報公開 行政訴訟 規制緩和 監査制度 裁判官に対しては いままでなかったので こんど 裁判員制度を作った という次第 そこでお客さんよ 裁判員に当ることを 宝くじに当るより 強く期待して 幸い当った時は 番頭たる裁判官に対して いい手本を見せてやって下さい なにしろ 私は34年間 弁護士をやっていて 職業裁判官の事実を見ぬく目に クエスチョンをかんじたことが多くある 裁判員が加わった法廷で 私は裁判員をたよりに刑事弁護をすることを楽しみとする
2005.05.18
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私は兵庫県 日本海傍の JRの駅の 佐津駅の近くの谷間の村で 少年期を過ごした このあたりの海岸線はリアス式に入り組んでいる 私は安来谷という狭い谷間の村で生活していた そこの谷間を流れる川は 狭くて浅い 幅は広いところでも10メートルくらいか 深さはやや深いところもあるが 浅いところは10センチほど この川にも鮎 天然の鮎が生まれ育つ こんな川だから鮎つりを見たことがない 私たち村の少年たちだけが アユブチ という遊びを兼ねた鮎取りをするのだ 太く背丈ほど長い銅線のムチ 手で握る所はぐるぐる巻いて そういうムチを持って 足は藁草履を履いて 川に入る 川の浅い処に鮎を追い込んで 鮎めがけてムチを打ちおろす いちばん上手な取り方は 鮎の頭の先あたりにムチを命中させ 鮎を脳震盪にさせて 鮎がフラフラッとなったところで 捕まえるという方法である 下手な取り方は 鮎の胴体の真中にムチが命中してしまい 鮎が2つに切れてしまうという方法である 鮎はなかなかすばしこく 私は鮎に翻弄される方がほとんどである しかし このゲームは私を無我夢中にさせた あのころに 戻りたいなあ
2005.05.17
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たわむれに 日記タイトルのことをしてみた 私は キーワードを入れて検索する能力を ようやく最近 身につけた それというのも このブログの日記を 右手人差し指だけで 今もそれをしているとおり 書くことが出きるようになった その応用という次第である キーワードによる検索能力を私は身につけたので 日記タイトルのことをしてみたのである ところが あにはからんや すると 私のこのブログが出てきたのには たまげた 楽天さんのサービスなのだろう ありがたいことだ 私のホームページは4年間で来訪者がノベ3000人を切る 然るに 私のこのブログは 開設後2月も経たないのに 来訪者がノベ3000人を超えた ブログの人との繋がり力は魅力ですなあ
2005.05.17
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私が先般 山田ズーニーさんの 生活機能文に関する本に感心したことを書いたところ 楽天にブログを開いている 桜餅410さんから 同感的ご挨拶をいただいた 早速桜餅さんのブログを食べに行ったら ズーニーさんの感心する文例を挙げていた この文例はよく分る文例だと私も感じていた 母親が微熱ある子供を保育園に行かせるについて よくある程度なので さほど心配はないが 外で遊ぶことは 控えてほしい時の 保育士さん宛の手紙の文例 悪い文例 今日は うちの子は 休ませるほどではないのですが ほんのちょっとだけ熱があります 良い文例 太郎は 本日 微熱があります この時期よくあることで まず悪化することはないと思いますので たいがいのことはさせて問題ありません ただ 外での運動のみ大事をとって休ませてください 悪い文例は意見をキチンと述べていないのである ズーニーさんの論はおおいに考えさせてくれる
2005.05.17
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AとB 続くがゆえに 人は生き続ける Aは自分を生き続くために Bは自分のコピーをして生き続かせるために 魚や昆虫などで Bを全力実行して 自らは死に コピーに生き継がせるのがいる 自分は死ぬんでっせ それでも Bは 苦痛ではなく 欲望満足なんだろう 命の継続と引継ぎのための行為には 欲望の満足が伴うようになっている そこに神を見る人あり 私は然らず 人はAもBも 必要としてだけでなく 遊びとしても 時に毒となるまで過度に 実行したりする 私がしばしば そうなる AもBも快楽だからである 私がそうであるように 過度なAやB乱行のあと 生命存続の欲望が勝って やっとABの波は凪ぐ 今の私の半断食がそうだ Bを何歳から始め何歳で終わらしめるか B盛んなりし時 定相手と組むか 異相手とこそ楽しむか それは 趣味問題か 倫理問題か 経済問題か 人はさまざまな モチベーション ベクトルに 突き動かされて ABと生命存続の間で さまざまなバリエーションを見せる
2005.05.16
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5月10日のブログで、私は「裁判員制度への期待」をこめた原稿を、ある雑誌に送った。 要旨は次のとおり。 裁判員制度は平成21年5月までに実施が始まる。 調査では、裁判員になりたくないという人が多いが、H氏の言葉どおり「想定の範囲」だ。 裁判員の担当する裁判は重罪事件であるが、大部分は被告人も弁護人も犯罪事実を争わないだろうから、問題ない。 問題は犯罪事実を争う事件だが、3人の職業裁判官と6人の素人裁判員が対等に合議や評議をして多数決(ただし裁判官1人の賛成必要)で決める。 素人裁判員が職業裁判官に飲まれないことが必要だ。 事実の認定は、職業裁判官も素人裁判員も能力は変わらない。 いや、職業裁判官はアカにまみれたノウハウやらマニュアルを身につけているから、この点にこそ素人裁判員の判断を私は期待する。 裁判官も裁判員も「自由心証主義」つまり、どの証拠を信用し、どの証拠を排斥するかにリクツは要らない。直感で決めたらいい。 事実認定の要は、証拠のどれを選ぶかと、推理判断である。 すべての誤裁判は、この2つの誤りから起きる。 裁判官は、とかく、検察官よりに判断し勝ちである。 この点裁判員は断固、自分自身の判断を貫いてもらいたい。 ただし、被害者のことを考えすぎて、無罪判決をおそれないよう要望したい。 判決は、あくまで、この被告人が有罪か無罪かの問題だから。 以上のようなことを書いて送った。 すると、あと1ページほど追加してほしいと依頼あり。 そこで、次のことを追加しようと考えている。 1つは、「国民参加の意義」のことである。 立法にしろ、行政にしろ、司法にしろ、すべて、国民が小数の担当者(議員や官僚や裁判官)にさせているのにすぎない。 ヘンな立法をしたら、国民は選挙で与党を変更すればいい。 ヘンな行政をしないよう、情報公開の徹底や行政訴訟や規制緩和をしている。 ヘンな司法をしないよう、裁判員制度があるのだ。 次に、陪審制と今回の裁判員制度のチガイにもふれよう。 裁判員制度は裁判官といっしょに裁判する参審で陪審ではない。 どちらがいいともいえない。 参審もいいのではないか。 こういうことを追加しようかとおもっている。
2005.05.16
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私もお客さんも言葉なしには生きられない その言葉なるものを 人の他は 使えていない 人とて 生まれて チョットズツ チョットズツ しか使えない 成熟しきった人とて 使える言葉数 言葉を組み合わせ 選択し 文にする技 は 千差万別である その言葉を考えているのである 今まで 意味 感情 言葉から実行までの距離 言葉による事のオオゲサ化 言葉そのものが言葉の働きの一部に食いこんでいる の5つの働きを調べて来た 言葉の6つ目の働き そもそも 言葉は何らかの意識を発表するものであるが 一体 意識が先に発生して その後に 言葉が追うのか それとも 言葉こそが先に発生するのか あるいは 同時なのか この問題は 大いに争いの最中である 私は 意識が先の説を採っている 私の推理は 言葉の発生の前に 人はアナログな意識を持っているのではないか アナログ意識とは まだ 焦点の定まっていない意識のことを考えている そのアナログ意識を 言葉を発すると デジタル意識に固定化 焦点化させるのではないか デジタル意識とは 1点に固定した意識のことを考えている 私はこの過程を ボヤットした意識をシャキッとした意識に変える と標語化している 言葉の働きの中の 大袈裟化 意識そのものに食いこみ化 と この言葉のデジタル化とは 底で繋がっている これを通底 ツウテイという 言葉そのものが 意識の中に食いこみ化していることが 言葉より意識が先という間違い説を生んだと思う
2005.05.16
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一昨年から私は断食を生活の一部として取り入れ始めた それまでは 毎日朝昼晩を食べるのは当然と習慣していた 断食を試みた機会は一度もなかった とくに私は朝飯が好きだった 昔から朝に強く 起きたらすぐ意識がシャンとする 最近は朝5時に起きる 老人性にあらず 横に寝ている台所は災難だとこぼしている 高校の時 昼飯時 中に弁当不参の生徒あり 経済的理由はなかったはずだから不審だった しかし 振り返り見ると 大学浪人時代や大学時代には しばしば意図せざる半断食をやったことを思い出した しかし 昼抜いても 夜 中華料理屋の皿洗いのアルバイトをやっていて ラーメンライスか焼きそばライスを腹いっぱいたべられたりして 辻褄をあわせていた これ 意図せざる半断食だったなあ 話を今に戻す 今日 半断食7日めを続けている 明日あたり 30年ぶりの体重70キロ切りが実現するだろうか それにしても 今も味わっている このエクスタシーの不思議さよ これ 食べ物の味の説明と一緒で説明困難であるが 断食による こんなエクスタシーを感じている他方 またビールを1本体内に注ぎ込んだトタン 今度は 夜寝ていてこむら返りするほど わが身を痛みつけてもビールの毒を体内に注入し続けるのも不思議だ われながら たいして学習していないと言う事ではないか 今度こそ こむら返りから学習できるか ミモノである
2005.05.14
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5月4日に私は正義に2種類あること 1種類は 平均的正義 2種類は 配分的正義 平均的正義 とは 機会を誰にも平等に与え 自由競争を激烈にせしめた結果 勝ち組と負け組が出きることを当然のこととして認める このような 平等な自由 をいう 配分的正義 とは 結果として誰にも平等な自由をあたえる このような 平等な自由 をいう ことを語った 平均的正義は 機会さえ平等にすれば 結果の不平等は当然と考える方式である 配分的正義は とにかく結果を平等にもっていく方式である この2種類の正義はまるで方式が違う この2種類の異なる正義をどのように組み合わせるのが良いか 歴史の上で 平均的正義を軽視し 配分的正義を重視した 社会主義方式 の失敗がはっきりした 平均的正義方式による激烈な自由競争こそ 人に勝ち組へのモチベーションを与え 富 の全体が大きくなるからである 配分的正義方式による平等な富の交付は あくまで 補充的であるべきである 生活保護や破産や年金や保険など 平均的正義方式による激烈な自由競争になるためには 官営を止め 民営にするのが必然である 官営にはモチベーションが含有されない 自由競争の負け組は 破産を経て 敗者復活戦にチャレンジすればよい 幼 老 病 自由競争に加われない人は 生活保護 年金 などで 最低限度の文化的生活を享受する だから 郵便局の民営化を私は賛成する JR西日本のこないだの大事故に関して 民営化が原因という意見をいう人がいたが この指摘は見当違いだ
2005.05.14
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私は今まで 言葉の働きを 1 2 3 4 の4つ語ってきた 1 意味のハタラキ 2 感情のハタラキ 3 事実との違いのハタラキ 4 意味や感情が大袈裟になるハタラキ である 5つ目の言葉のハタラキを 固有名 を考える事によって 見出せる 小泉純一郎 という固有名をお客さんは どのように受け止めますか たぶん テレビや新聞その他から すでに3年以上イメージを得ていて それとコミで受けとめるでしょう 安田健介 という固有名の場合はどうですか 何のイメージもないから 安田健介という固有名そのものとしてしか受け止められないでしょう それでも 人間の中の1人に安田健介と名づけられた者がいて その人と受けとめるでしょう 普通名や 固有名でも 小泉純一郎とか富士山とかの場合は イメージなり意味なり感情なり に結びついた記号であるが 安田健介という固有名の場合は 言葉そのものの他何もない それでも 言葉としては成立しているのです すなわち 言葉の本体は イメージや意味や感情である筈なのに それだけではなく 言葉そのもの も言葉の本体の一部なのだ と言う事を 固有名問題が浮かび上がらせてくれたのです メルロ ポンティという人は 人を思い出そうとして 顔は思い浮かぶが 名を思い出せないとき 何かまだ気持が落ち着かず その人を完全に思い出せていない と感じるのは 何故か という問いを発した この例は 私もお客さんも 経験したことあるでしょう 私はそこまで耄碌してないという人は除きます 言葉のハタラキ5番目の結論 言葉そのものが 言葉の本体の一部に食いこんでいること
2005.05.14
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私は日曜日 家でテレビをよく見る 平日はたいがい夜9時ごろ帰り 食事しながらテレビをよく見る 食べ物番組も時々見る 出演者は 食べた物の味の感想を言わされる その感想を聞いても こちらはそれを食べていないから 本当のところは丸で分らない なぜか 味と言葉は どうにも 折り合いのつかない間柄だからではないか 味は言葉によっては 表現不可能なあるものではなかろうか
2005.05.13
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先週 私はビール飲みまくりで最悪の体だった おそらく 水とアルコールが 頭の中の神経細胞や体の中の細胞の隅々にまで入り込んでいたのだろう 顔も手足も体全部が水膨れ 浮腫んでいた 夜中何回もトイレに起きる 出るのは 水ばかり 寝ていて こむらがえりを起こす これ 最悪の兆候らしい 頭の働きは鈍り 気分はウツに傾く 今日は金曜日 この前の日曜日から なんとか半断食 禁ビールの緒についた 今までなんとか6日続き 今は 絶好調に近づいたことを感じる 体の中の不用の水が出て 断食なのにドーンとウンガ出る状態になっている 平凡な晩飯をチョー美味いと後2時間先に味わうだろう 女房喜べ 今日 昼飯を抜き 午後 家庭裁判所の行き帰り 街中はなんと誘惑に満ちている事か 事務所の隣のファミマに行けば 棚にビールが幾らでも 私は知っている 1本だけで止める力が私にはないことを これ正にアルコール依存症の特徴らしい この状態を来週末まで維持できるか スルッキャナイ それができれば 私の体のエクスタシーは頂上に達するだけでなく 私の体は30年ぶりに 70キロをきる切る自重となる その状態でアヤちゃんと会いたいものだが
2005.05.13
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この前 人が人を支配する力の第一として 暴力というか実力というか有形力というか 軍隊というか警察というか物理力というか こういった力のことを語った 人が人を支配する力を分析して明らかにしようとする試みである 実際のあり様は 3つに分析するものが入り混じって 人の人への支配力のそれぞれのアリスガタになるのである 家庭内暴力 ドメスチックバイアレンス DV 殺人 傷害 暴行 監禁 誘拐 拉致 暴力団 軍隊 警察 核兵器 戦争 武士 いくさ これらはすべて 力により人を支配しようとするものである この中には 認めるべき有形力と 認めるべからざる有形力に分れる さて 支配力の2つ目として分析できる力は 経済である トフラーは 富 といっている 経済の力 経済力 金 富 が 支配力を持つことは理解しやすい 私もお客さんも日々体験しつづけていることだ 暴力という支配力も経済すなわち生活のために使うことあり 強盗が一例 いくさ 戦争において 物理力で戦うだけが能じゃない 兵糧攻め 経済制裁 による攻め方もある 北朝鮮は 軍隊 核 拉致など 暴力を支配の基本としている しかし それだけでは食べていけない 生きていけない 経済 富が必要だ そのため アサリ ウニ マヤク ミサイル などを他国に売り 他国から必要品を手に入れている 日本は 経済 富の力はかなり持っているが 暴力 軍隊の力を憲法9条の力により 制限をうけている 日本に足らざる暴力を アメリカに助太刀してもらっている 果たして これでいいか ヨークカンガエヨウ
2005.05.13
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昨日 京都から高知まで電車での行きかえり 時間にして10時間に 山田ズーニーさんの本 伝わる・揺さぶる 文章を書く PHP新書 揺さぶる の後に イクスクラメーションマークあ り を買って読んだ 得るところ多かった 作者は11年間 大学受験高校生への小論文通信教育雑誌の編集などに携わり 今は独立している人 この本を彼女は 実用以上 芸術未満の領域の文章 生きていくための必需品たる文章 生活機能文 コミュニケーション文 と言えるジャンルを扱う としている 文章の7つの要件として 1 意見 2 望む結果 3 論点 4 読み手 5 自分の立場 6 論拠 7 根本思想 を挙げている 1 3 6は 文章の中身である 7は人間力だ 4 5は自分と相手 2がまさに機能文たる所以 私が感心したのは 論点 という論点 論点とはテーマを絞り込んだもの と彼女は定義している 各論でびっくり感心したのが 議事録の纏め方である 論点で纏めるというものだ 私は感心したので これからボツボツ 彼女が ほぼ日刊イトイ新聞に書きつづけている 大人の小論文 を読んでいくつもりだ
2005.05.12
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「私の書く、読む方法1」で発表したところを、私は読みかえしてみた。 寺田寅彦の作品の援用やらボルヘスの作品の援用やらあって、ややムツカシイなあ。 お客さんもイヤ気がさして、読みおえなかったかもしれない。 ひきつづき読んでいただくと、中には、おもしろいところもあるやも知れない。 1、私はエッセーも小説も書きたい (つづき) だから私は私の読みたいものを書かなければならない。これはひょっとしたら、私の書くものを読みたい人が私のほかにもいるのではないか、との予感と結びつく。お笑い草であったとしても、人はみなこのような気持で書くのではなかろうか。現に私は丹波哲郎の死後の楽しい世界のガイドブックや、細木数子の占いの本や、桐山なんとかのあごん教の本とかは、馬鹿ばかしくて、苦々しくて、本に視線を送ることさえ嫌である。「ボルヘス、オラル」の「書物」を読む。25枚位である。これも全部読んでほしい。私は2ケ所だけぬき書きする。「ある講演の中でエマソンは、図書館とは魔法の書斎であると語っているが、その書斎には人類の精神が魔法にかけられて閉じ込められている。彼らは沈黙の世界から飛び出そうと、われわれが呪文を唱えるのを今か今かと待っているのである。まず書物をひもとくのだ、そうすれば彼らは目を覚ますだろう。続けてエマソンはこう述べている。われわれは人類が生み出した最高の人びとと親しく付き合うことができる。しかし、こちらからそれを求めてはならないし、注解や批評は読まないに越したことはない。そんなことをすれば、彼らの言う言葉を直接聞くことはできないであろう」「わたしはこれまで人生の一部を文学に捧げてきたが、そのわたしの考えるところでは、読書というのは楽しみを得るひとつの方法なのである。それよりも劣るが、もうひとつの方法は詩作、もしくはわれわれが創作と呼んでいるものだから、これはわれわれがそれまでに読んだものの忘却と記憶とがひとつにまざり合ったものでしかない」「それよりも劣るが」というところがいい。私も人が書いたものと私が書いたものを読んで最高の喜びが得たいのだ。 寺田寅彦の「科学と文学」は、緒言、言葉としての文学と科学、実験としての文学と科学、記録としての文学と科学、芸術としての文学と科学、文学と科学の国境、随筆と科学、広義の「学」としての文学と科学、通俗科学と文学、ジャーナリズムと科学、文章と科学、結語に分けて書いている。 全文を読んでもらうこととして、「科学が文学と握手すべき領域は随筆文学、エッセー文学のそれであるかと思われる」といっている。次の一部分はどうしても引用したい。 科学者のに限らず、一般に随筆と称するものは従来文学の世界の片すみの塵塚のかたわらにかすかな存在を認められていたようである。現在でも月刊雑誌の編集部では随筆の類は「中間物」と称する部類に編入され、カフェーの内幕話や、心中実話の類と肩をならべ、そうしていわゆる「創作」と称する小説戯曲とは全然別の縄張りの中に収容されているようである。これはもちろん、形式上の分類法からすれば当然のことであって、これに対して何人も異義を唱えるものはないであろう。しかしまたここに少しちがった立場に立つものの見方からすると、このような区別は必ずしも唯一無二ではないのである。早わかりのするためには最極端な場合を考えてみればよい。すなわち、一方には、およそ有りふれた陳套な題材と取り扱い方をした小説の「創作」と、他方では、最独創的な自然観人生観を盛った随筆の「中間物」とを対比させて見れば、後者のほうが前者よりもより創作的であり、前者のほうがひと山百文の模造物への中間にあるものと考えられるであろう。 ただいわゆる「創作」は概して言えばだいたいに「話の筋」が通っており、数行のレジュメで要約されるストーリーを持っている場合が多い。これに反して、中間的随筆は概してはっきりした「筋」をもたない場合が多い。しかし、この差別も実はそれほどはっきりしたものではなくて、創作欄にあるものでも、ほとんど内容的に身辺の雑事を描写した随筆的なものもあり、また反対に、随筆と銘打ったものでも、その中には、ある人間の一群の内部生活の機微なる交錯が平凡な小説などより数等深刻にしかも巧妙な脚色をもって描かれているものが決して少なくないのである。例をあげよとならば、近ごろ見たものの中では森田草平の「のんびりした話」の中にある23の体験記録などはいかなる点でも創作であり内容的には立派な小説でもあり戯曲でもあると考えられるのである。もっとも、こういう体験記は「創作」でないという説もあるかもしれないが、そういうことになれば、現代わが文壇でポピュラーな小説的作品中の多数のものはやはり小説でなく創作でなくなるのである。創作とは空想と同義ではない。題材の取り扱いの上に作者の独創があるかないかが問題になるのである。ゲーテの「イタリア紀行」は創作であり、そこらの三文小説は小説ではないことは事新しく言うまでもないことである。 こういうふうに考えて来るといわゆる「創作」と随筆との区別は、他の多くの「分類」の場合と同じく、漸移的不決定なものである。ただ便宜上、いわゆる小説家戯曲家の書いた「多少事実と相違するらしいもの」が創作小説と名づけられ、小説家以外のものまた小説家でも「ほんとうにあったこと」と人が認めるものを書いたものが随筆の部類に編入される、というのが実際の事相であるように見える。 こういう見方を進めて行くと、結局、いわゆる創作とは、つじつまを合わせるため多少の欺瞞を許容したこしらえものの事であり、随筆とは筆者の真実、少なくとも主観的事実を記録したものであるというふうに見られる。こういうふうに見ると、すでに前条に述べたような「人生の記録と予言」という意味での芸術としての文学の真締に触れるものは、むしろ前者よりも後者のほうに多いということになりはしないかと思われる。そうして後者のほうは、同時にまた科学に接近する、というよりもむしろ、科学の目ざすと同一の目的に向かって他の道路をたどるもののようにも見えるのである。 以上の所説は、一見はなはだしく詭弁をろうしたもののように見えるかもしれないが、もし、しばらく従来の先入観をおいて虚心に省察をめぐらすだけの閑暇を享有する読者であらば、この中におのずから多少の真の半面を含むことを承認されるであろうと信ずる。 それはとにかくとして、現在において、科学者が、科学者としての自己を欺瞞することなくして「創作」しうるために取るべき唯一の文学形式は随筆であって、そうしてそれはおそらく、遠き「未来の文学」への第1歩として全く無意味な労力ではないと信ずるのである。 長目の引用は終わりである。私も形式上の「小説」と「エッセー」のジャンルの優劣はないと考える。したがって「優れた」小説とエッセーを読みたい。書きたい。小説かエッセーかはっきりしなくても何らさしつかえない。 岩波書店から出ている、阿部昭の「エッセーの楽しみ」という題の本の中に、「短篇小説の青春」という題の50枚位のエッセーがある。志賀直哉の小説の手引きとしてすすめる。志賀直哉は88歳まで生きたのか。60年近くも創作をしたのか。長篇1つ、中篇3つ、短篇120をつくったのか、とわかった。右のエッセーでは主に、志賀直哉の青春時代としての20代の短篇小説に触れられている。 私は右のエッセーの中で紹介されている志賀直哉の小説観をここに移しておきたい。「暗夜航路」発表のころの感想として「小説はどんな材料でもいい。創作か、随筆か、伝記か、日記か、という事は材料の差ではなく、書く態度の差である。創作態度で書けばそれらは総て創作である。事実を事実のままに書いて、記述になるか、創作になるか、随筆になるか、それは書く態度で変って来るものと考える」と何かに書いているという。また別の場所かに「私では創作と随筆との境界が甚だ曖昧だ」と書いているという。ついでに、自分の文章について「子供の文章に似ている」「自分には童話を書く気でなくても童話的になる傾向がある」と書いているそうである。ついでに、阿部昭は志賀直哉の小説について、「作者が一貫して追い求めているのは、人間の心の正体というものであろう」「いつの時代にも、すべての青年を人生の門口で待ち構える、惑わしと危険に満ちた2つのものと真っ向から切り結ばなくてはならなかった。言うまでもない、1つは性欲もしくは女であり、1つは(左翼)という言葉に代表される、反抗的な衝動のもろもろである」と書いている。ついでに、右のエッセー集の中に、「ヘンリー・ライクロフトの手記を読む」というエッセーがあり、私はすすめに応じてその本を買った。買ってしまったかどうかは、まだ読んでいないからわからない。岩波文庫の、ギッシング作、平井正穂訳「ヘンリ・ライクロフトの私記」である。 (つづく)
2005.05.12
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