全1070件 (1070件中 1-50件目)
病人は病院の玄関に入れば患者になる。看護師さんの案内で診察室で医師の診察を受けることになる。 私は30年まえの11月初め、寒気がするので近所の医院で点滴をしてもらった。医師は大きな病院に行って精密検査を受けるようにと、勧めてくれた。翌日、会社の指定病院にマイカーを運転して行った。病院の受付に行くとたちまち車椅子に載せられた。胃カメラ検査の結果、十二指腸潰瘍と診断されて、そのまま入院、絶食・点滴の1週間になってしまった。おもゆ、3分がゆ、5分がゆとなり、再度胃カメラの結果、傷も癒え・出血も止まり、退院となった。3週間近い入院になってしまった。 翌年・秋にまた黒い便が出て、すぐ近くの病院に行った。同じパターンの治療だったが、10日で出てきて後、自転車で通院した。その翌年もまた同じことになった。 次の年は、ガスターという胃液を止める薬が出て、医師に勧められ秋口から、毎晩寝る前に飲むことにした。暮れ前まで飲んだが、十二指腸潰瘍は予防出来た。翌年もまた服用したが、胃腸の疾患は出なかった。その後、体質が変わったのか、胃の病気は忘れてしまった。 近年、いろいろな病気をやって、いろいろな薬を飲んでいる。特に朝晩、痛み止めを飲んでいるので、ガスターに類する薬を毎晩愛飲させてもらっている。
2016.03.13
コメント(1)
先週、娘が見たことがない美味しそうなものを食べていた。聞くとカルボナーラだと言った。少しだけ分けてもらったら、美味しかった。まるで子供やなと言われてしまった。 早速、スーパーで買ってきてもらって、お昼、ヘルパーさんに電子レンジで温めてもらって食べたら美味しかった。チーズがよくきいていた。ヘルパーさんは大丈夫ですかと半分お皿にのせてくれたが、あっという間に食べ、残りも食べてしまった。初めてのものを食べるのは、楽しい。お若いですねと言われてしまった。 お昼は、うどんとラーメンのめん類だが、これにカルボナーラも加わることになるパスタもめん類に変わりない。 あと美味しそうなパスタがないか、物色中。
2016.03.11
コメント(0)
住吉さんの太鼓橋といわれる住吉大社の反橋は、朱色の欄干が半円形で水に映ると虹のように見え優雅な姿である。地上と天上をつなぐ懸け橋の様だといわれている。天上とは住吉大社に祀られている海の神様のことである。 橋脚の石は、豊臣秀吉の側室・淀君が奉納したと伝えられている。 1955年(昭和30)に佐野安ドックと大阪木造船組合が、2009年(平成21)にサノヤス・ヒシノ明昌と宮大工が担当して、橋の架け替え、改修をしている。鋼製のアーチで長さ20メーター、幅6メータの重量を受け、石の橋脚の負担を減らした。これは造船技術の応用である。 サノヤスグループの創業者、佐野谷川安太郎は泉南・佐野の出身である。同地方は熊取谷、新家谷、日根野谷などの地名が多く、そのまま苗字にしている人も多い。
2016.03.05
コメント(0)
昨日、病院で胸部のX線写真を撮った。ドクターは異常なしと説明してくれた。とは言っても左右の肺と肋骨にあるガンは変化していない。ドクターは私が時々咳をするので、水が溜まっているのではないかと心配してくれたようだった。 抗がん剤TS-1を飲み始め約1年、2週間飲み1週間休むというパターンを繰り返している。さらに半年前から、飲む週の初日に点滴を受けている。月に3回車椅子を押して病院まで付き添ってくれる家族には申し訳なく感謝感謝である。 TS-1は5FUの流れをくむ抗がん剤である。5FUはガンが必要とする成分とよく似たものを、血中で造り、それをガンが摂っても栄養にならず、ガンは成長を止め、時には縮小、消滅ということがあるらしい。TS-1は5FUの副作用を減らすように開発されている。 効果はガンによって異なり、20~30%とされているが、肺がんでは50%とされている。私の場合、1年で3センチのガンは5センチになっているが、小さなガンは出たり消えたりしている。腫瘍マーカーも少し上がっていて、効果があったかどうかわからない。 副作用は便秘、下痢、食欲不振などがあるとされている。私は便秘、下痢が共にあり少し困っている。しかし、何を食べても美味しく、おやつを甘いもの、辛いものと用意して、ありがたく頂戴している。これは幸せなことである。 私も間もなく83才になる。
2016.03.04
コメント(0)
勧 酒 于 武陵 酒を勧む 勧君金屈卮 君に勧む金屈卮(きんくつし) 満酌不須辞 満酌辞するを須(もち)いず 花発多風雨 花発(ひら)けば風雨多し 人生足別離 人生別離足る 君に勧む金屈卮 杯になみなみと注がれた酒を遠慮する必要はない 花がさくころは雨風が多い 人の世も同じように楽しみの後に別れがあるものだ 金屈卮=金属製のさかずきで柄が付いていて先をまげてある。5合は入るだろう。 3月は別れの月でもある。卒業、転勤いろいろな別れがある。 井伏鱒二の有名な訳がある。 このさかずきを受けてくれ どうぞなみなみつがしておくれ はなにあらしのたとえもあるぞ 「さよなら」だけが人生だ
2016.03.01
コメント(0)
パソコンできくと打つと、いくつも出てくる。○聞く 虫の声をきく、サイレンの音をきく、少し消極的な感じがする。○聴く コンサートをききに行く、CDをきく少し積極的な感じがする。○訊く 訊問である。知り合いに警察OBがいた。たたき上げであったが、退職してかなりになるのに、病気で検査結果をきいて、お医者さんの説明を几帳面にメモした。そのうちに手帳を机の端で叩きだし、お医者さんにどんな仕事をしていたのですかと尋ねられ、警察官ですといって謝ったと言っていた。○効く 頭痛によくきく薬などがある。○利く 利くは範囲が広い。目がきく、私のすきなテレビ番組に何でも鑑定団がある。出場者の持ちこんだ骨とう品が本人が300万円と言っているのが、3000円と鑑定されその上偽物にしては出来が悪いといわれ、気の毒なことが多い。骨とう品の目利きは素人には難しいものだろう。鼻がきく、本来臭いをかぐのが、雰囲気を読むという意味に使われる。それができないと、くうきがよめないといわれてしまう。利き酒、利き手、口を利く・・・・などがある。 日本語は日本人にとっては便利だが、外国人はどう解釈したらよいのか困ることが少なからずあるだろうと思う。
2016.02.28
コメント(2)
北新地で昭和55年(1980)に当時の理事長が作成した「ホステス心得帖・おもてなしの条件」を一昨年に再発行したところ、3000部を出したのに好評で3000部追加した。客の会社経営者が社内教育用にと貰って帰るのも少なくないらしい。 ごく一部をピックアップしてみると、○美人には黙っていると美人というタイプとしゃべり出すと美人というタイプがあるが、黙っていると美人というのは3回で飽きられる。○自分のセールスポイントは何か、よく心得ておくこと、何もなければ月給泥棒である。○孤独に耐える強さがないと、必ず何かで失敗する。○裏方の人達に威張らないこと。人間は自分より立場の弱い人に対する態度で、その人の値打ちが決まる。 信頼を築くのに時間がかかるが、失うのは一瞬である。同僚との付き合いは、充分に知り合うまでは深入りしない方が良い。20代の不摂生は40代にてき面に現れる。・・・・などである。 私も40年ほど前、部長クラスの頃に、年に数回、何年か招待されて行ったことがある。だいたい同じ店だった。 バブルの頃は、客がホステスを遊んでやってる感じだった。きっと私はぶ然としていたのだろう。ママさんがやって来て、すみません教育が悪くてといって謝り、そして、私等は若い頃は苦労したのに、グチをこぼす有様だった。 間もなくバブルははじけ、御堂筋に4列も客待ちをしていたタクシーが1列になり、それも最終電に間に合うようにとターミナルまでで、商売あがったりですわと運ちゃんはいっていた。高級クラブもどんどん潰れていった。 沢山いた勉強不足のなんの取り柄もないホステスさんたちは今どうしているのかと、ママさんに聞くと「さあ、何してますんですかね」と答えた。きっとお腹の中で、溜飲を下げているのだろうと感じたものである。
2016.02.26
コメント(0)
大阪の代表的な食べ物として「バッテラ」が紹介されていた。 創業300年以上の大阪すしの老舗「小鯛雀寿司すし萬」で小鯛、海老、穴子の押し寿司と鯖(さば)が定番になっているが、「バッテラ」はポルトガル語の小型のボートを意味する。 すし満では、小笠原沖で獲れた鯖を焼津港に揚げ大阪中央市場をへて、新鮮なうちに3枚におろし酢にしているらしい。てっきり日本海産が鯖街道を通って来ていると思ったが違っていた。 私も新聞を見て、すぐにスーパーでサバの生酢し(しめさば)を買ってきてもらって食べた。やはり脂がのっていて美味しかった。 近年、野菜果物はイチゴ、トマト、キュウリのように年中あるものが多いが、魚はかなりはっきりとした旬がある。秋は秋刀魚(サンマ)今頃は鰤(ブリ)と鯖、間もなく鰆(サワラ)そして鯛、鰹(カツオ)と続く。 魚というと、マグロとくるが、私は旬のサンマやサバの方が好みである。日本食ブームでマグロが乱獲され、絶滅種に成りかけているらしいが、これはちょっといただけない。
2016.02.24
コメント(0)
パソコンで文章を書く時に、マチと打つと、町と街が出てくる。いつもどちらかなと迷うが、先日、新聞に明快な解説が出ていて、眼から鱗が取れたという感じがした。 「町」は田んぼの中に道が通り、人が集まるようになった。「街」は道路が交わり、人やモノが行きかい家や店が立て込んで、賑やかになった。 「町」は一定の領域を示し、行政の単位となる範囲を示す。「街」は都市の中でもひときわ栄えている場所で、道路やその周辺は賑わっている。 街角というと、もとは道と道の交わるところをピンポイントで示し、英語のストリートコーナーのことであった。それがしだいに都市の賑やかな路上を示すようになった。商店街、繁華街、官庁街というと人通りの多いことがよく判る。 大阪の市街地は京都と同じように、碁盤の目の様だと言われるが、天神橋筋6丁目、谷町4丁目というとよく判る。西天満とか東船場というと漠然としている。 いずれにしても、今回は町と街の差がよく判り、ほっとしている。
2016.02.19
コメント(2)
NHKスペッシャルの第2夜は「武士700年の遺産」と副題が付いていた。 律令時代に農民たちは、きびしい年貢を逃れようと地方に散り、そこで千枚田を作った。石垣を積み上げ水を引くという、厖大な労力が必要な作業だった。そしてそれを守るために、自然発生的に武士が生まれた。 武士たちは、鎌倉に集まった。坂東武士とよばれ、彼ら独特のそれまでにはなかった思想を持っていた。公(おおやけ)意識と名こそ惜しけれに象徴される倫理観を持っていた。そして、私利私欲は恥と考えていた。それを武士道といってよい。 武士道はずっと引き継がれ、武士の流れをくむ明治政府の高官たちも資本主義の政府にしては、珍しく清潔だった。 その倫理観は日本人に今も引き継がれている。東日本大震災で被災者たちは、一つのおにぎりを貰うのに、整然と並んでいた。外国で災害が起こると、すぐに暴動、略奪が起る。外国からはそれが不思議に見えるらしい。日本では、火事場で泥棒をしないという不文律がある。彼らにも、名こそ惜しけれの倫理観がバックボーンとしてあるのだろう。 司馬さんは、戦後の日本はいい社会になったと言っている。自由とはいいながらも、そこには個々のつよい精神があったと言っている。さらに精神をつよくして、世界に誇れる国にしてほしいとメッセージを残した。
2016.02.17
コメント(0)
2月12日は司馬遼太郎さんの命日で、毎年、この日は菜の花忌といわれ、講演会などの行事がある。今年はNHKが2夜にわたって特別番組を放送した。 司馬さんは終戦直前に戦車に乗っていて、上官の命令があまりにも非常識で、いつから日本人はこんな馬鹿になったのかと疑問を感じ、歴史小説を書き始めた。「竜馬が行く」「跳ぶがごとく」がそれであるが、「この国のかたち」では太古の時代にまでさかのぼっている。 司馬さんにはもっと生きてもらいたかったが、「この国のかたち」は現在の日本人に宛てられたメッセージと受け止め、読み直してみたい。 日本は島国である。外からくるものは全て崇拝し好奇心を持った。しかし、長い間に日本独自の文化を確立した。山にも川にも神が宿るというもので、現在も、大和・三輪山は山全体がご神体とされている。 仏教が伝わった時に、両方を信仰し、神仏習合とよんでいる。東大寺の守護神・手向山八幡宮でも、今年の新年の1年の安全祈願に、神職とともに僧侶が玉ぐしを上げている。これは日本独特であるが、キリスト教の牧師がモスクでお祈りということは、あり得ないことだろう。しかし、両教徒がもっと融和することが、世界平和への道ではなかろうか。神仏習合を司馬さんは「無思想の思想」といっている。 司馬さんは現在の日本を無感動体質と憂いていたが、住居の近くの町工場をよく覗いていたらしい。あるバルブメーカーに「道なき道」と揮毫している。挑戦すればきっと道は開けるという意味だろうが、日本の産業は、中国、韓国に自動車、電気製品ともに価格競争で負けている。しかし、それらを支えているのは、日本製の高品質・高性能の精密部品である。それを作る町工場群は両国は持っていないし、これからも持てないだろう。 司馬さんは「この国のかたち」で、町工場にこれからの日本を託したように、私は感じた。
2016.02.16
コメント(0)
1970年(昭和45)ごろ、千葉県野島半島沖で大型貨物船で次々と突然姿を消してしまうという海難事故が続いた。いずれも1~3月の極寒期である。1969年1月に「ぼりばあ丸」70年1・2月に2隻のアメリカ船が行方不明になった。古くから野島半島沖は魔の海と恐れられていた。 70年2月9日に「かるふおるにあ丸」(3万4千トン)が遭難した時に全容が明らかになった。突然、船首部分が持ち上がり、次にぽっきりと折れてちぎれてしまうというのである。貨物船はアメリカに行くときは、雑貨を平積みするが、帰りは鉄鉱石を積む、これは比重が重いので、2番船倉、4番船倉に積み、1番、3番は空にする。この2,4番船倉の長さと大波のピッチが一致した時に、折り曲げ作用が生じて疲労し、突然破壊に至ることが判った。運輸省はこの時期は船を大波に直角に運行するこを避けるようにと勧めたのみである。 ほぼ同じ時期に、私が長年勤めた会社で、球形タンクが設計強度の半分くらいの圧力で破裂し、中の水が噴き出す事故が起きた。直径20メーター、鋼材の厚さは3センチだった。鋼材は客先の支給で、メーカーはk製鉄だった。そして、溶接が悪いと決めつけられた。一方的に悪者にされたのでは、会社としては大ピンチになるので、私も駆り出された。 鋼材にも何かあるはずと調べてみると、硬くて強いが低温で柔軟性が急に落ちるという弱点を見つけた。通産省の委員会で、鋼材に目に見えないような傷があり、そこを溶接して、低温で圧力を掛けると破壊も起こり得るという私の意見も参考にしてくれた。 委員会の結論は、高抗張力鋼の低温脆性破壊と名づけ、鋼材はもっと粘りのある(靭性)ものを目指し、溶接は溶接部分を予熱して丁寧に行うことと査定があった。造船メーカーにも伝えられているはずで、その後事故は起こっていない。 当時は高抗張力鋼の開発初期で、60キロクラスであったが、その後、80キロ、100キロと改良され、本州四国連絡橋にも使用されている。 東京タワーも高抗張力鋼の鋼管を溶接して組み立てられている。ここに至るまで40年の歴史がある。考えてみると長い蓄積の上にあるものと感じる。
2016.02.14
コメント(0)
ナニワの味として、KYKのとんかつが紹介されていた。昨年、とんかつを作りはじめて50年のキャンペーンをやっていたらしい。肉といえば牛肉を先ず思い浮かべる関西で、大阪を代表する食べ物にしたKYKは立派なものである。 KYKは戦後間もない昭和21年(1946)にアベノで、本物のコーヒ豆を仕入れ飲ませてくれた喫茶店KYKが始まりである。私も学生時代難波・心斎橋に比べ、アベノに行くことは少なかったが、阪堺電車に沿って、KYK、ぜんざいのふるさと、うなぎ屋が並んでいたのを覚えている、その時はKYKは喫茶店だったことになる。 関西になじみの少なかった豚肉を大阪を代表する食べ物にするのは、大変なことだっただろうと思う。今も豚肉は厳選し、硬そうなすじは切り取り、パン粉は自家製で毎日作り、油も油濃くならないように、色々な油を混ぜ合わせているらしい。 KYKといえばアベノかいわいだけだと思ったら、関西一円にチェーン店をひろげ、神戸牛の本場・神戸にも早くから進出し、現在も立派に受け入れられているようだ。 KYKはグループとして、カレーのサンマルクを経営しているらしい。本格的なイギリススタイルで、日本にはそれが伝わっている。カレーというとインドと思うが、インド産の香辛料を持ち込み、料理としてはイギリスで完成させている。インドでは、聖なる牛は食べない。 KYKは美味しい料理を作っただけでなく、広く商売をひろげ、さすが、大阪商人と感じた。
2016.02.13
コメント(0)
座禅は仏教の修行法のひとつで、釈迦が悟りを得た時の姿勢である。そして、達磨がインドから中国に伝え、広まった。 最澄は唐に渡った時に、禅を学んだが、12世紀に栄西が宋から臨済宗を伝え、間もなく道元が曹洞宗を伝えた。臨済宗は禅問答があり、最初は支配階級に広まった。曹洞宗は下級武士に浸透し、ひたすらに座禅をする「只管打坐」を説く。17世紀になり、明代の隠元が黄檗宗を伝えた。 曹洞宗の大本山は越前の永平寺で、臨済宗は京都と鎌倉に多くの寺院があり、黄檗宗は宇治の萬福寺である。 座禅では腹式呼吸が重要で、それによって脳内にセロトニンという物質が分泌され、アルファ波が出て脳がリラクッスした状態になると、科学的に証明されている。 戦後、鈴木大拙が欧米で講演を行い、アップル創業のジョブズ氏も座禅を組んでいた話は有名である。 なお、茶道は禅寺での眠気さましに、お茶を喫したのが始まりと言われている。
2016.02.10
コメント(0)
先週、「気になる言い伝え」という面白そうなアンケートが載っていた。 1、茶柱が立つと縁起がいい 2、ご飯に箸を立てるべからず 3、四つ葉のクローバーは幸運 4、夕焼けの翌日は晴れ 5、北枕で寝てはならない 6、気にしているものはない 7、夜爪は親の死に会えぬ 8、霊柩車を見たら親指を隠せ 9、畳のへりは踏むべからず 10、3人で写真撮影、中央の人は早死にする あと、敷居を踏んではならない。上の乳歯は床下、下の乳歯は屋根上に。うわさをされるとくしゃみ。福耳の人は金持ちになる。食後すぐ横になると牛になる。・・・・・ どれも子供のころからよく聞いている。私はよいと言われることは、素直に信じるが、よくないと言われることは、気にするほどのことはないがあえてはしない。 母親が色々なことを言っていたが、台所の流し台に熱い湯を流すと台所の神様がやけどをするというのだった。家に仏壇も神棚もなくても、台所に荒神さんを祀っている家が多かった。 我が家の流し台はステンレス製であるが、熱湯を流すとボコンボコんと悲鳴を上げている。ステンレスは膨張圧縮に弱く、何回も繰り返すと材質が劣化する。いつも少し気になるところである。
2016.02.09
コメント(0)
NHK大河ドラマ「真田丸」が好評のうちにスタートしている。作・脚本の三谷幸喜さんは、執筆の基本姿勢としては、「史実として残っていることは、決して曲げない」としている。しかし、それでは面白いドラマにならないので、いろいろな想像を膨らませて、エピソードをは挟んでいくとしている。 西部劇「アラモ」が参考になるとも書いている。1836年、西部のテキサスはメキシコ領で、アメリカ移民たちは、独立しようとアラモ砦に立て籠もり数千の敵に百数十人で立ち向かい、激戦の末に全滅という「アラモの戦い」という歴史的事実がある。 西部劇「アラモ」は1960年、ジョン・ウェイン監督・主演で名作とされている。2004年、同名の映画がつくられ、英雄ディビー・クロケットは西郷隆盛に、ナイフの達人ジム・ボウイは土方歳三に、若き指導者トラヴィス大佐は、石田三成に似ていて、この3人が団結して大軍勢と死闘を繰り広げる。第1作ではディビ―・クロケットをジョン・ウェインが演じていて面白いが、2作目の方が事実に近いらしい。 NHKも大河ドラマがこの数年、低調が続いているが、有働キャスターをナレーターに起用、いろいろな年代の俳優が出て、挽回を期している。しかし、なんと言っても脚本が大事で、1年という長丁場を乗り越えるのは、容易ではないだろう。三谷幸喜さんを期待したいと思う。
2016.02.07
コメント(0)
大阪の家電メーカー・シャープが、台湾のホンハイ精密の傘下に入る可能性が高くなった。 赤字に苦しんでいたシャープに対し、株式の49パーセントを買い取る代わりに、液晶技術の開示を求めてきたホンハイに、シャープは技術の開示を断った。それで今度は会社丸ごと買うというものである、7000億円で。液晶技術はホンハイにとって、それほど価値があるのだろう。 液晶技術の海外流出を防ごうとする国家機構は3000億円を出し、あと銀行の援助を求めている。しかし、経営陣の引退という条件も付いている。それに対しホンハイは、当面人事に手を付けないと言っているだけに、決まったも同然である。ホンハイは液晶技術と共にシャープの技術開発力も評価しているのだろう。 シャープは亀山に秘密工場を造り、高性能の大型液晶テレビを作ったが、類似品が意外に早く出た。選択と集中で堺に大型液晶の工場を1兆円の資金で造ったが、価格競争になって収益が出なくなり、膨大な借入金だけが残り、今回の危機になってしまった。 新製品、新技術は開発した会社を丸ごと買うのが、現在の趨勢らしい。売り上げ2兆のシャープをホンハイが根こそぎ飲むのは、難しいことではない。 電卓の開発以来、頑張ってきた同窓生、後輩たちの心情を思うと気の毒でたまらない。技術というものははかないものだとつくづくと思う。
2016.02.06
コメント(0)
冬は夕食は鍋という家が多い。すき焼きは語源が農具の鍬で肉を焼いたとされていて、鍋物に入らないかも知れない。 名張に伊賀牛の金谷があって、座敷ですき焼きを食べさせてくれる。10年ほど前に、支店長が幹事で従業員の慰労のために食べに行ったことがある。私を含めて6人だった。 すき焼きを注文すると、係の女性がきて焼いてくれた。一枚100グラム位のステーキより少し薄めの霜降り肉だった。鉄の鍋で一枚づつ砂糖と醤油でていねいに焼いてくれる。一枚づつ6人分焼くと、野菜を炒めるようにして焼いてくれる。あっという間に一巡した。 幹事はもう一人前づつ注文した。私は合図したが間に合わなかった。2巡目もまたたく間だった。伊賀肉は柔らかく美味しかったが、若い人はまだ物足りなさそうだった。勘定書きを見て幹事は目をむいていた。1人前6千円で12人前食べたことになる。 我が家のすき焼きは、油がとぶのが困るので、先ず白ネギなど水分の多いのを醤油と砂糖にたれを加え、それにすき焼き肉を入れてたいている。さらに春菊、えのきだけ、玉ねぎ、白菜も入れることがある。私は糸こんにゃく派で、女房ははるさめ派である。あと、豆腐と麩が入る。 この時期はキムチ鍋であるが、私はピリ辛は少し苦手で、漬物売り場でキムチを買いそれを適当に入れて調整する。やはり体が芯から暖かくなる。 鍋物というと色々あるが、すき焼きは別格という気がする。
2016.02.03
コメント(0)
梅 花 王 安石 牆角数枝梅 牆角(しょうかく)の数枝の梅 凌寒独自開 寒を凌ぎて独リ自ずから開く 遥知不是雪 遥かに知る是れ雪ならざるを 為有暗香来 暗香の来れる有るが為 垣の隅に数本の梅がある 寒さに勝って一人自ずから花が開いている 遠くから見てこれは雪でないことがわかる かすかな香りが流れてくるので花が開いていることがわかる この詩は立春の頃の作とされている。 作者の王安石は宋の時代の宰相で詩人であったが、改革派で地方重視の策を提唱し失脚した。 作者の略歴を知ると、この詩の深い意味が判るように思う。
2016.02.02
コメント(0)
食べたいお魚のランキングが載っていた。 1、ウナギ 6、ブリ・ハマチ・カンパチ 2、マグロ 7、サバ 3、アジ 8、カツオ 4、サケ 9、イワシ 5、サンマ 10、タイ あと11、アユ 12、アナゴ 13、カレイ 14、キンメダイ 15、ヒラメ 16、フグ 17、ホッケ 18、シシャモ 19、サワラ 20、アンコウ と続く。 私の一番好きな魚はタイである。刺身の一切れを熱湯にくぐらせ表面がわずかに白くなったのを、わさび醤油で食べると最高である。タイは焼いてよし、煮てよしであるが、アラをスープにしたのが、潮汁と言い、骨に付いたわずかな身をしゃぶるのも楽しい。タイの頭を炊いたのは兜煮といい、目の下、えらの上の身を食べ、目玉も食べいつの間にか皮まで食べていて、骨だけになっていた。 今頃は富山湾の氷見の寒ブリの旬である。油がのって身がしまり、それでいてくせのないのが美味しい。 毎日のように柿の葉すしを食べているが、サバは生ずしとなる。酢をあまりきかさないで、身が赤いくらいがいい。塩サバと大根をたっぷりの汁にしたのが、船場汁という。思い出すとなつかしい。 アナゴは焼きアナゴであるが、肉厚のものはウナギとは違うおいしさがある。 イワシは子供の頃、丸干しで毎朝食べた。小ぶりであったが、頭から食べると頭がよくなるといわれた。 大阪は大阪湾と瀬戸内海でいつもおいしい魚がたべられた。私も魚を食べて成長したようである。
2016.01.31
コメント(0)
天皇皇后両陛下がフィリピンをご訪問された。フィリピンにある戦没者の慰霊碑に供花されるのが主な目的だったが、フィリピン側の歓迎ぶりはかつてないもので、アキノ大統領が空港までお出迎した。 アキノ大統領は父が暗殺された後、皇室に温かいおもてなしを受け今も覚えていて、父親と同年の天皇を父のように思っていると伝えられいる。晩さん会も終始なごやかだったそうである。フィリピンの人達も心から天皇のご来訪を喜んでいるに違いない。 私は20年前に3年間勤めた会社がマニラ郊外に工場を出し、計4回マニラに行っている。工場の若者たちは真剣によく働いたが、日本をあこがれ、いろいろと質問されたものである。 今回の天皇ご訪問で、マニラ周辺の在住日本人もおおいに盛り上がっていることだろう。市内の日本料理店、ラーメン屋、カラオケまでお祭り騒ぎになっているに違いない。 アジアといえば反日と思いがちだが、中国、韓国以外は、タイ、インドネシア両国とも友好的で、フィリピンは世界で一番、日本に親しみを感じている国といわれている。 資源のある国、物を買ってくれる国も大事だが、日本を親しく思ってくれる国も大事である。もっと交流があってもいいと思う。あまり聞かないが、フィリピン向けの観光ツアーもあってもいいと思う。ヤシ林など日本で見られない風景はきっと癒してくれるだろう。
2016.01.30
コメント(0)
大阪の関東煮の材料、梅焼きは大阪以外では見られられないものらしい。 娘が時々、関東煮をたいて持って来てくれる。関東生まれのヘルパーさんが、関東のおでんが大阪では関東煮というのかと言っていた。娘に大根をたいてもらい、田楽味噌をのせて、これが田楽で本来のおでんだというと、ヘルパーさんははじめて見たのか驚いていた。 梅焼きは大阪の蒲鉾ではどこでもずっと前から焼いていて、竹輪や蒲鉾と同じように、ハモやグチのような魚のすり身が原料である。厚焼きは卵がはいっているが、梅焼きはさらに卵白、卵黄を加え泡立てて、梅の形の型に流しこんで焼いたものである。表面がキツネ色に焼きあがった出来立てはフワフワで、それで十分お八つになる。 関東のおでんの材料に竹輪麩があるらしいが、どんなものか想像が付かない。我が家では麩はすき焼きの最後の方に入れ、たっぷりと出汁を吸わせて卵をつけて食べる。それはそれで美味しいが違うものである。 梅焼きは正月のおせちに欠かせない。紅白の蒲鉾とともに、梅焼きが入っている。おせちには特別にウズラの卵が入っていて、きれいだが、めでたいような気がする。海老とともに正月らしいものになっている。
2016.01.27
コメント(0)
大相撲初場所で大関琴奨菊(31)が14勝1敗で初優勝した。日本人力士が優勝するのは10年ぶりで、それまではモンゴル勢の回り持ちのようだった。 先場所から3横綱がケガで調子が悪く、日本人大関の優勝のチャンスだったが、稀勢の里はいざという時に勝てない弱点があった。 琴奨菊は今場所初日から3横綱を含めて12連勝していた。13日目に伏兵・豊ノ島に負けた、琴奨菊のあせりもあったのだろうが、豊ノ島は中学以来のライバルだった。 千秋楽は大関・豪栄道との取り組みだった。豪栄道もケガをして大きく負け越しているが、意地を見せて何かをするのではないかと思ったが、琴奨菊の快勝になり、初優勝となった。久しぶりに千秋楽の相撲をテレビの前で手に汗を握って見た。 これで稀勢の里も自信を持ち、二人で頑張ることだろう。若手も実力をつけてきているので、来年の今ごろは大分様子がかわっていることだろう。 これで相撲の人気もさらに高まる期待するものである。
2016.01.26
コメント(2)
落語を主に収録していたハードディスクを整理していたら、笑福亭松鶴の「らくだ」が出てきて、あらためて見た。 長屋の嫌われ者らくだの宇之助がフグに当たって死んでしまった。遊び仲間のやたけたの熊五郎がなんとか弔いを出してやろうと考えた。そこに通りかかった紙屑やの久六が呼び止められ、何か買ってくれと熊五郎にいわれたが。この家には何も買うものはないと断った.しかし、無理やりに引っ張りこまれ、商売道具のチンギ(棹はかり)を取り上げられてしまった。 熊五郎は久六に大家のところに行って、酒を持って来てくれと頼み、もし断られたら死人にカンカン踊りをさせますと言えと命じた。言われたように大家に行くと、剛毅な大家はらくだには家賃を払ってないので酒を持っていく義理はない、カンカン踊りをぜひ見たいと言った。 さっそく、熊五郎は久六にらくだの死体を背負わせて、大家の家に行きカンカンノーと踊らせた。大家は驚いてすぐ酒を持って行かすと言い、清酒2本が届いた。次に料理を長屋の人達に持ってくるように言って来いと言うと、おかみさんたちはすぐに持ってきた。 熊五郎は久六に先ず一杯と勧め、久六はあと仕事があるのでと少し飲んだ、もう一杯と勧められ遠慮しながらまた飲んだ。3杯目になると少し様子が変わり、熊五郎は飲みっぷりがいいと言い、久六はなかなかいい酒だと言った。4杯目はもっとたっぷりと注げと言い、ついに2升の酒がなくなってしまった。 大家に行ってもっと持って来いと言え、でないとカンカン踊りをさせると言え、大逆転。これが落語のらくだのあらすじである。 現在、大阪松竹座の新春歌舞伎で、落語のらくだが新作歌舞伎になり、やたけたの熊五郎は市川愛之助が、紙屑やの久六を市川中車が演じている。中車がどんな演技をするのか、考えただけでも楽しい。なお、市川中車は昨年、家業の歌舞伎に復帰した香川照之のことである。
2016.01.24
コメント(0)
国民的アイドルグループ・SMAPの解散が報じられ、結局、解散は回避されたが、大騒動になった。 私は年末の紅白もここ数年ほとんど見ないし、SMAPのこともあまり知らなかった。しかし、木村拓哉や中居正広のことは、テレビドラマを通じてよく知っている。 慌てたのは政府関係者だった。参院の予算委員会で安倍首相はグループの長年の持続は難しいと言っていたが、大騒ぎになったのは、オリンピック関係者だった。競技場問題、エンブレム問題と続発する中で開会まで後3年足らずになって、キャンペーンで盛り上げようとしていたに違いない。 キャンペーンにはSMAPに活躍してもらおうと期待し計画をしていたことだろう。グループが解散したらとんでもないことになると恐れたが、回避されてほっとしたことだろう。 木村、中居など5人がすべて人気があり、実力もあるだけに彼らにはSMAPが必要ないのかもしれない。しかし、5人の実力者が揃っていることが奇跡的で、それが国民的グループの基本になっている。 彼らはそれぞれ不満もあるだろうが、この騒ぎで自分たちの置かれている立場をあらためて認識したことだろう。グループのますますの活躍とさらなる発展を期待したいと思う。
2016.01.22
コメント(0)
今年も駅伝のシーズンである。先日の高校の部では、男女共に広島が優勝し、女子の中学生から高校、一般とタスキをつなぐレースでは愛知が初優勝した。それぞれ県を代表し誇りに思って走ったことだろう。その姿は美しい。 県の名称はすべていわれがあったはずである。 山 6県 山形、山梨、富山、和歌山、岡山、山口、 川 3県 神奈川、石川、香川 岡 3県 静岡、岡山、福岡 島 5県 福島、島根、広島、徳島、鹿児島 崎 2県 長崎、宮崎 各県ともに誇りにする自然風景があったのだろう。滋賀県が折角の琵琶湖をアピールするような県名に変えたいというのも理解できる。 戦後すぐに外地から引き揚げてきた船から日本の緑なす山を見て涙を流し、山紫水明のわが祖国と感激したという。 しかし、山紫水明の国が現在災害大国になっている。豪雨、洪水、地震、津波と毎年のように起る。災害は忘れた頃にやってくると明治時代の学者が言ったが、それから100年たって大変化があったのだろう。 瀬戸内海は美しい。豪華客船が瀬戸内に入ると中国・四国の山々、海に浮かぶ大小の島々に観光客は感激し、このコースが大人気になっているらしい。 我々にはその景色を次代に伝える義務があると思う。
2016.01.19
コメント(0)
今頃、三輪ではそうめん作りの最盛期を迎えている。 小麦粉と水と塩を混ぜてこねるという単純な作業だが、その日の温度、湿度をみながら、職人がカンをはたかせ作業に入る。それを熟成させて、ゆっくりゆっくりと延ばす。早朝に作った輪を昼前に大和川(最上流)の河原に持って行って天日干しをする。このようにして、絹のように細く雪のように白いといわれるそうめんが出来る。この寒風仕込みがコシを作る。 三輪には最大300のそうめんメーカーがあったが、現在80社に減っている。すべて手作りというのは、ごくわずからしい。三輪はそうめん発祥の地とされている。その後、播州や小豆島に伝わり、揖保乃糸が有名である。江戸時代に九州・島原にも伝えられた。 そうめんといえば夏のものであるが、冬にたっぷりのだしで温かくして具にいろいろな物をのせるのも、またおいしい。 私は夏も冬も夜寝る前に、毎晩少しではあるが食べるのを日課にしている。
2016.01.17
コメント(0)
上方落語の桂春団治さんが85才で亡くなった。これで上方落語の四天王が皆いなくなったことになる。四天王とは戦後上方落語の復活に力を合わせた、四人の落語家のことである。 笑福亭松鶴、桂文枝、桂米朝と桂春団治のことで、松鶴の落語は豪放、文枝は女性を演じたら天下一、米朝は知性的だった。春団治の芸は軽快だった。しかしそれは稽古を重ね練り上げた究極の至芸だったとされている。持ちネタは決して多くなかったが全て完成されていた。大阪の町の悪たれの出てくる「いかけ屋」は弟子たちも真似が出来ないと言っている。 春団治は子供の頃、野球をやり浪商に入ったが正選手とのあまりの差に中退し、父親の二代目春団治に弟子入りした。踊りの名手で高座でのきれいな所作となって随所に現れる。大阪の奇人・初代春団治とは全く違う端正かつ華麗な春団治像を作り上げた。 松鶴の弟子・仁鶴と鶴瓶、文枝の弟子・三枝の文枝と文珍、米朝の弟子・ざこばと南光とそれぞれ活躍しているが、春団治の弟子・梅団治も日本の話芸に出て一流であることが証明されている。春団治一門も孫弟子を含め30人の勢力になっている。 四天王が復活させた上方落語も今や隆盛を極めているが、バラエティー番組に目が行く若者たちには、予備知識の必要な落語は少し敷居が高いようである。こうなれば早くに死んでしまった桂枝雀が惜しまれる。異端児といわれたはちゃ無茶な落語が今こそほしいと思う。
2016.01.16
コメント(2)
今年の正月は姉妹がそろい、久しぶりに百人一首をやった。孫たちも興味を持ったが、パイロットの孫と阪大教授の娘婿が理科系にかかわらず、意外に興味を持ち、共にじっくりと勉強したいと言っていた。 娘たちの若い頃に、天津風と霧立のぼるをおはこの札にしていたのは、宝塚の天津乙女、霧立のぼるが印象にあったのだろう。宝塚女優の芸名に小倉百人一首の和歌にちなんだものが多いことがわかった。 天津乙女 天津風雲のかよい路吹きとじよ乙女の姿しばし止どめん 霧立 登 村雨の露もまだ干ぬまきの葉に霧立のぼる秋の夕暮れ 春日野八千代 あまの原振りさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも 神代 錦 千早ふる神代もきかず龍田川からくれないに水くぐるとは 嵐吹く三室の山のもみじ葉は龍田の川の錦なりけれ 有馬稲子 有馬山猪名の篠原風吹けばいでそよ人を忘れやはする 浅茅 忍 浅茅生の小野の篠原忍ぶれどあまりてなどか人の恋しき 秋月恵美子 秋風にたなびく雲の絶え間より漏れいづる月の影のさやけさ 淡路恵子 淡路島通う千鳥の鳴く声に幾代目覚めぬ須磨の関守 宝塚の事をあまりよく知らない私でも、以上すぐ思い付いたのできっとまだまだ沢山あるのではないかと思う。
2016.01.15
コメント(0)
今年のえべっさんは3連休とパッチリ合って、さぞ参拝者が多かったことだろう。 心斎橋筋、戎橋筋から高島屋の横を通って南海電車の線路に沿って行く道は、昔から船場の商人たちが今宮戎に通った道である。 梅田から歩いていけるところに堀川戎があるが、大阪はやはり今宮だと私は思う。南海の今宮戎の駅を降りると、すぐ近くに戎神社の本殿がある。まいったあと、新世界に行き、ジャンジャン町で串カツを食べるにも寄し。 両側の屋台の間の細い道を雑踏のなか難波に向かうのがえべっさんらしくて好い。屋台でお好み焼きを食べたことがあるが、高い割りに美味しくなかった。時間がかかるが、難波に出るしかない。 アツアツのうどんにラーメン、お好み焼きにたこ焼き、551の蓬莱でふかしたてのぶたまんにかぶり付くのまた好い。難波に出れば食べ物に不自由しない。 かつて、えべっさんでお賽銭が頭に当たって痛いといっていたが、家にかえれば背中のフードから500円玉が出てきて、早速、福をもらったと喜んでいた人がいた。
2016.01.12
コメント(0)
「大阪環状線 ひと駅ごとの愛物語」というテレビドラマが間もなくはじまる。以前に阪急の宝塚から西宮北口にいたる電車内での乗客をえがいたオムニバスがあった。今度は10駅を選び、下車する物語で10話すべて脚本家が変わるという、興味深いものである。 JR大阪環状線は1895年、大阪~天王寺が開通し、当時は城東線といった。1895年大阪~安治川口~桜島が開通、西成線と呼ばれた。天王寺から今宮、港町に関西本線が入っていた。今宮から安治川口まで貨物線が走っていて、それがループ状になったのは、1961年(昭和36)のことである。21,7キロ、19の駅がある。当時はまだ市内に焼け跡が残っていた。 50年たって市内は見事に発展している。窓から見て一番の景色は大阪城、天守閣と周辺の公園は絵になる。天王寺はアベノハルカスで一変した。天王寺を出ると通天閣がすぐ前に見え、大正からは大阪ドームが近くに見える。西九条から見える中之島のビル群は美しい。福島からは最近出来た高級ホテルの林立に圧倒される。カメラマニアを忙しいことだろう。そして、朝と夕方ではまた様相が変わる。 昼間の空いた時間に30分余り、のんびりと窓の外を眺めるのもきっと楽しいことだろうと思う。
2016.01.09
コメント(0)
今年はサル年である。私はトリ年の早生まれで、小学校以来、同級生は大半がサル年だった。今年7回目の年男になる。 以前、高島易断の暦に各干支の性格を書いていた。サル年の生まれの人は、頭の回転が速く、アイデアマンで独立心旺盛で、それでいて人付き合いがよく、会社にあっても上司にも部下にも愛されるとあった。小学生以来色々な人がいて、そう単純なものではなかった。 しかし、工高の同窓会で「社長」と声をかけたら、10人近くがこちらを向いたので驚いたことがある。会社に勤めていて、独立した50人近い工場を経営しているのやら、モータリゼーションのさきがけで、単車、自動車の修理・販売、大手メーカーのデーラーもいた。1軒のスーパーからはじめて、今や東大阪、堺に20軒近く経営しているのもいる。皆、頭の回転が速く独立心が旺盛だったといえよう。 1億の人間を12で割るにだから、そんなことが出来るはずがないと思うが、トリ年はコツコツと餌に困らない、イヌは正直で勤勉、イノシシは猪突猛進、ネズミは素早いという。そんなに単純なものではないといいたいが、そんな気もしないでもない。妙なものである。 サル年生まれは、超有名な豊臣秀吉。私と同世代では、石原慎太郎、青島幸男、五木寛之、藤本義一がいる。事業家としては京セラの稲森会長が昭和7年1月生まれである。
2016.01.08
コメント(2)
私が若い頃は、友達どうしよくあだ名で呼び合ったものだ。 草野球の友達でカモといわれたのがいた。キャッチャーをしていて、試合で相手の強打者がボックスに立つと、カモやカモやと大声を出した。相手は力んで内野フライを上げた。彼はカモカモというのが口癖だった。今で言うと楽勝ということか。その彼が偶に麻雀でカモにされていた。 高校時代にエロという気の毒なあだ名をつけられた友達がいた。何故俺がエロかと抗議すると「お前は風呂屋の息子で番台に座っているやろ」「番台から女湯をエロっぽい目をして見ているやろ」と決めつけられていた。心斎橋で大きな声でエロと呼ばれて、堪忍してくれよと泣きそうな声を出していたのは、私も可哀そうすぎると思ったものだ。 学生時代のソウシュンと名付けられた男がいた。芝居の河内山宗俊のイメージだった。体育会系でもないのに、坊主頭で、本名は宗広だった、さっぱりした気性で皆に好かれていた。長年勤めた大会社で55才の定年になり、子会社に行くよう勧められたが、本人はきっぱりとこの会社に入ったので、この会社で退職させてもらうと、四国に帰ってしまった。さすがソウシュンと皆でいったものだ。大阪でのクラス会に時々顔を出していたが、昨年、突然の訃報があった。ソウシュンらしくあっさり逝ってしまったものだ。 私は小学校の頃、ブッタン、大仏と呼ばれていた。その頃は丸顔で体つきも少しふっくらしていた。しかし、何といってもずば抜けて大きかった。当時、大仏といわれるのが嫌だったが、今ではそれもいいと思っている。最近、几帳面な性格が頑固爺になっていると自戒している。そう長くない人生、大きな仏のように、ゆったりと毎日を送りたいと思う。
2016.01.06
コメント(0)
今年も間もなく、大相撲初場所が始まる。 相撲部屋は出羽の海一門、二所ノ関一門、高砂一門、立浪・時津風一門に大別される。 出羽の海一門は各親方の独立禁止が不文律だった。41代目横綱の千代の山が次の出羽の海親方になると目されていたが、親方の娘との結婚を嫌がり、佐田の山が婿養子になり一切を引き継いでしまった。 1965年(昭和40年)千代の山はやむなく独立し九重部屋を創設した。当時、千代の山は大阪ミナミの料亭の娘と一緒だったという説もある。13人の弟子を連れて出たが、その中に北海道から千代の山を頼って出てきた北の富士がいて、すでに大関になっていた。間もなく北の富士は横綱になったが、部屋の運営は苦しく、当時の高砂親方が助けてくれた。その後、千代の富士、北勝海(現八角親方・理事長)が出てきて、今も九重部屋は十両以上の関取が6名いる大勢力になっている。 その後、出羽の海一門から栃錦の春日の部屋が独立した。二所ノ関一門からは花籠部屋が独立し、若乃花、貴乃花の兄弟が出、さらに二代目若貴兄弟横綱が出て大人気を呼んだが、現在人気も下火になっている。琴桜の佐渡嶽部屋も琴光喜、琴欧州が引退し勢いがなくなっている。 高砂一門は九重、八角部屋が主力になり、本家の朝潮の高砂部屋は影が薄い。 立浪・時津風一門は小部屋ばかりだったのに、今やモンゴル勢の3人の横綱を擁し、活況を呈している。 今年はどの部屋が勢いつくか、大相撲も違った角度から見ると、また興味深い。
2016.01.03
コメント(0)
明けましておめでとうございます。 旧年中はこのブログをご覧いただき、励ましていただいて、1年続けることが出来ました。 有難うございました。 今年も引き続き頑張りたいと思います。 古い話を思い出しながら、書くのが私の使命と思っています。 つまらない話も多いですが、ご容赦いただき、引き続きご支援賜りますようお願い申し上げます。
2016.01.01
コメント(2)
一昨日、産経の夕刊・「おおさか川柳」に久しぶりに私の句が載った。題は「田舎」だった。 三輪そうめん柿の葉すしで満喫し 私は大阪市内で生まれ、育ち、堺に移って60年になる。田舎=故郷は持たない。20年余り前に仕事の都合で、桜井に住み、マンションを買った。三輪山の南麓1キロほどのところだった。三輪山がよく見え、山の辺の道もすぐ近くを通っていた。 3年でまた、関空の近くの勤務になって空いてしまったが、週末は毎週1泊した。長谷寺や飛鳥が近かったが、何といってもマンションのすぐそばに田んぼがあり、夏はカエルが鳴いてのんびりとなつかしい感じがした。私の先祖はきっと大和に住んでいたのだろうと思った。 川柳「田舎」と知り、先ず思いだしたのは、三輪そうめんだった。三輪山の麓の水はそうめんに適し、冬の寒風はそうめんをおいしくするとされている。柿の葉すしは吉野の名産であるが、この頃はデパートで手軽に買える。 この二つを思い浮かべると、川柳はすんなり出来てしまった。しかし、これが入るとは夢にも思わなかった。6カ月ぶりのことであるが、それよりも12月28日の最終の夕刊に載ったことに意義がある。 今年はいろいろと嫌なことがあったが、すべて吹き飛んだような気がする。終わり良ければ総て良し、これで気分よく年が越せそうだ。 来年も引き続き川柳を作り続けたいものである。
2015.12.30
コメント(0)
産経新聞の夕刊に、阪神の元吉田監督の85年の優勝時のことが連載されていた。85年は巨人戦のバース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発ホームランに代表される打線が強力だった。 しかし、投手力が弱く取った以上に点を取られていた。特に前年優勝の広島には弱く、出たランナーにかき回されてバッテリーが混乱して点を取られていた。岡田は相手が懸命に点を取りにくるのは、我々の力を評価している証拠だといって、皆は自信を持った。 夏の折り返しの時点では、広島に3ゲーム差を付けられていたが、吉田は1点を取る作戦も取り、ついに優勝した。さらに日本一にもなった。吉田は知将と猛将を兼ね備えている。知将は三原、上田、野村に代表され、猛将は西本、星野などのことである。 今年の和田は阪神が優勝可能な実力があったのに、もう一点を取るがめつさに欠けていたと思う。 来年の金本監督は豪快そうに見えるが、知将の素質も持っているように思う。春になったらどうなるのか、待ちわびる。
2015.12.29
コメント(0)
先日、戦後の名女優・原節子が93才で亡くなった。突然、引退して50年まったく表舞台に出てこず、稀有の大女優と評されていた。テレビで彼女主演の映画「東京物語」を見た。名監督・小津安二郎の代表作でもある。 私は昭和28年ころ、毎日のように映画を見ていたが、ほとんどが洋画であった。この映画だけは勧められて見たが、あんまりピンとこず、ラストシーンの笠智衆も寂しそうだなと思った程度であった。 尾道に住む笠智衆と東山千栄子の夫妻は東京に居る長男、長女を訪ねた。長男は開業医で、長女は美容院を営んでいた。二人とも忙しく両親の面倒を見る余裕がなかった。長女は弟の妻に1日東京を案内してやってほしいと頼み、戦死した次男の嫁(原節子)は勤めを休んで二人を案内し、夜は自宅に連れて帰り、夕食を共にした。 翌日、長男と長女は相談して、熱海の旅館を手配してくれた。しかし、熱海の温泉旅館は隣室の麻雀の音が喧しく、近くでバンドが夜遅くまで歌っていて、夫婦は寝つけなかった。1泊で引き上げてきて、長女の家では邪魔者あつかいであった。夫妻は表に出て、妻はまた、嫁の家に泊めてもらうといい、夫は尾道に居た友達のところに飲みに行った。しかし、カンバンで追い出され、へべれけで長女の家に帰ってきて迷惑がられた。 それで尾道に帰ってきたが、間もなく妻は急死してしまった。葬儀には長男、長女がやってきたが、間もなくそそくさに帰ってしまった。嫁は3日間残って、後片付けを手伝ってくれた。いよいよ帰るいう時に、笠智衆は妻が大事にしていた時計を嫁の原節子に、貰ってやってくれと差し出し、嫁は号泣しながら受け取った。 一人残った笠智衆は家の窓から、町の屋根の向こうに見える瀬戸内海を見るラストシーンは、涙なしでは見られなかった。 この映画は家族をテーマにしていて、国際的にも評価されていた。
2015.12.27
コメント(0)
昨日、CT検査と15回目の点滴をうけるために病院に行った。 先週の血液検査と合わせてドクターの判断は良くはなっていないということだった。ガンが大きくなって、がんそのものが痛くなったら、放射線治療という選択肢があっただけに、自分としてはまあまあかと思っている。 右肺にあったのが、3センチのものが近くにあった1センチのもの2個と合体して5センチになり、左肺の3センチのものが4センチになっていた。肋骨のガンは大きくなっていない。しかし、1~2センチのものが右に約10個、左に5個あった。 新薬が出ていて、劇的に効くが副作用が強く、かつ効果は6カ月~1年で後は効かないというものだった。 結局、来年も引き続き現在の点滴を続けることになった。副作用のほとんどない現在の薬はきっとガンにもやさしいにだろう。
2015.12.25
コメント(0)
大阪検定2級ー7 1、2014年(平成26年)1月に亡くなったやしきたかじんさんは、大阪ことばを使った多くのヒット曲を世に送り出しました。次の歌詞が含まれている曲名は何でしょう? もう一度やり直そうで 平気な顔をしていまさら さしずめ振られたんやね あんたわがままな人やから 1-1やっぱ好きやねん 1-2ICHIZU 1-3あんた 1-4大阪恋物語 2、漫画の神様と呼ばれた手塚治虫をはじめ、大阪からは多くの漫画家が輩出されました。1922年(大正11年)に大阪で生まれ、2010年(平成22年)放送されたNHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」のモデルの一人にもなった漫画家は誰でしょう? 2-1赤塚不二夫 2-2石ノ森章太郎 2-3藤子不二夫Ⓐ 2-4水木しげる 3、昭和40年代を中心、関西のテレビ局でも多くのドラマが制作されており、その中で、花登筐原作、あるいは脚本による、いわゆる根性ドラマが全国ネットで放送されました。次のうち、花登筐原作、あるいは脚本に関与しているテレビドラマはどれでしょう? 3-1渡る世間は鬼ばかり 2-2土性っ骨 3-3心はいつもラムネ色 2-4ありがとう 4、大阪の料理では、昆布の中でも最高級品といわれ、上品な味で透き通った出汁がとれる種類の昆布が主として使われてきました。北海道産のこの種類の昆布の約90%は大阪で消費されるといわれるこの昆布は何でしょう? 4-1羅臼昆布 4-2日高昆布 4-3真昆布 4-4都昆布 5、1907年(明治40年)に、わが国初のガソリンエンジン付き消防ポンプを開発し、業界トップの消防車の開発・製造・販売として知られる、大阪に本拠を置く企業グループはどれでしょう? 5-1タナカ 5-2ナカノ 5-3モリタ 5-4ヨシダ 正解 1-1(正解率70%) 2-4(正解率89%) 3-2(正解率66%) 4-3(正解率62%) 5-3(正解率79%)
2015.12.23
コメント(0)
大阪検定3級ー7 1、大阪城公園の南側の法円坂には、市街地としては広い公園があります。7~8世紀ごろ、この地には何があったのでしょう? 1-1大阪最古のため池 1-2蔵屋敷 1-3難波宮と呼ばれた宮殿 1-4日本最大級の環濠集落 2、堺に生まれ、豊臣秀吉に仕えながら、後年切腹を命じられたわび茶の大成者とは誰でしょう? 2-1高山右近 2-2村田珠光 2-3与謝蕪村 2-4千利休 3、江戸時代に架けられた四ツ橋は、4本の橋が、川の交差点に架けられていますが、交差する二つの川の名称として正しい組み合わせはどれでしょう? 3-1西横堀川ー長堀川 2-2西横堀川ー道頓堀川 3-3木津川ー長堀川 3-4木津川ー道頓堀川 4、文楽は三人の人形遣いによって演じられることが大きな特徴です。これを三人遣いといい、三人がそれぞれの部位を動かすことによって繊細な表情の表現を可能にしています。次のうち三人遣いを指す言葉として誤っているのはどれでしょう? 4-1主遣い 4-2左遣い 4-3右遣い 4-3足遣い 5、名物カレーで知られる、ミナミにある自由軒難波本店で、この店のカレーを愛した作家は誰でしょう? 5-1梶井基次郎 5-2川端康成 5-3織田作之助 5-4司馬遼太郎 正解 1-3(正解率83%) 2-4(正解率97%) 3-1(正解率57%) 4-3(正解率27%) 5-3(正解率38%)
2015.12.22
コメント(0)
朝日の川柳掲載が終わってしまった。私の掲載作が昨年よりマイナスというのは悔しい。 朝日では二人の選者が選んだ優秀作20句が載っていた。何故これがというのもあったし、なるほどと思うのもあり、私のとあまり変わらないのもあった。 そして我選集になる。 「席」 席譲られ思わずピンと背をのばす 発想はいいが、リズムが悪い 「ショック」 花のパリショックショックの集団テロ テロをテーマにしたのが多すぎて全てボツになったらしい 「導く」 白バイに先導されて道路脇 高速で見たまま書いてみた 「自信」 若虎よ鍛え鍛えて自信もて 金本新監督への応援歌 「便利」 あれそれで何でも通じる便利な家族 これはいけると思ったが単純すぎたかな 川柳も考えているのも楽しいし、かすかな期待を込めて新聞を開くのも楽しい。来年も持続させたい。
2015.12.20
コメント(0)
今年、泉北ニュータウン在住で泉陽高校出身の西加奈子が直木賞を受賞、大阪生まれの芸人・又吉直樹が芥川賞を受けた。関西出身の作家が復活したという声に反発している評論家がいた。 関西は豊かな文化の土壌があり、それを見抜いて東京生まれの谷崎純一郎が永住し「細雪」をはじめ数々の名作を生み出している。 そもそも、直木賞の直木三十五は船場の生まれで、旧制市岡中学を卒業後、早稲田に行った。在学中に小説を書いていたが、菊池寛、久米正雄などと知り合い、文芸春秋の創刊に皆が協力した。芥川龍之介の芥川賞は判るが、なぜ直木賞か、直木三十五はきっとグループのボスだったのだろう。 川端康成も生まれは船場だった、さらに船場生まれの藤沢桓夫は織田作之助と親友だった。 そして、司馬遼太郎、田辺聖子、山崎豊子、宮本輝と続く。黒岩重吾、藤本義一は堺に住んでいた。先日亡くなった野坂昭如は神戸で育ち、神戸の華僑の生まれの陳舜臣は司馬遼太郎と同じ大阪外語で交流があった。 村上春樹は京都伏見の生まれで、芦屋で育ち、神戸高校を卒業している。今や絶頂の東野圭吾は生野の生まれで、大和川近くの高校を出て、大学では電気工学を専攻し、ユニークな発想の推理小説を書き読者を魅了している。 泉北ニュータウンに住む難波利三は田辺聖子に勧められて、堺市の与謝野晶子倶楽部の会長を務めている。 こうして見てみると、関西の土壌の下に延々と根が伸び、あちこちから新芽が出て大木になったという感じがする。西、又吉も80年100年というスパンで見ると、新しい芽だと思う。成長を期待したい。 以上、僭越ながら思うところを書いてみた。
2015.12.19
コメント(0)
朝ドラで五代友厚を演じているディーン・フジオカが注目され、朝ドラの人気をたかめている。フジオカ(35)は福島県生まれで、工高卒業後アメリカに留学し、180センチの背を活かしてモデルになり、その後俳優になった。 香港、台湾に飛び、両国で何本かの映画で主演し、人気スターになっている。NHKの朝ドラによばれ五代友厚を演じている。英語、中国語、韓国語、インドネシア語がしゃべれるが、薩摩弁、大阪弁は難しく、外国語のつもりで稽古したと言っている。 五代友厚のことはまったく知らなかったが、勉強して150年前にこんな立派な人がいたかと感激し、その役をさせてもらえるとは名誉なことと言っている。 五代は薩摩藩士であったが、維新の時に大久保利通などと共に活躍し、新政府の要職につくよう要請されてが、大阪に行った。銀制度が廃止され、どん底にあった大阪経済復活に力を注いだ。多くの大阪商人から金を集め、その金を必要とするところに貸し出して、利子をとるという近代的な金融業を確立した。 紡績、鉄道などが創業し、後に東洋のマンチェスターとよばれる大大阪の基礎を築き、初代大阪商工会議所の会頭になった。現在、本町にある商工会議所の玄関横に立派な銅像が立っている。
2015.12.16
コメント(0)
今年も今日から年賀状の受付が始まった。最近、ネットで新年の挨拶をする人が多くなり、年賀はがきの売り上げが減っているらしいが、30億枚出ているという。日本国民一人あたり30枚になるのだから、すごい数である。これも世界に類を見ない日本文化といえよう。 私も先週、180枚完成させた。といっても挨拶文は印刷を頼み、あて名はパソコンの住所録からプリントした。娘が2人でやってくれたが、3時間以上かかっていた。 180枚というのは、いつも200枚であるが、喪中の挨拶が20近くあり、それだけ余ってくる。今年は喪中がいつもより少なく、ぎりぎりになってしまった。 この年齢になると、親が亡くなったというのはまず無い。その代わり本人が4人もいた。私が出にくいのを知っていて、そのうちに見舞いに行くと言ってくれていた人が急病で亡くなってしまった。まだまだこれから付き合いを深めたい人もガンで亡くなってしまった。仕事で知り合い気が合って年賀状だけやりとりしていた人も、会社と高校の先輩でお世話になった人もいた。喪中のはがきを見ながら、思い出し寂しい思いをしている。 奥さんを亡くした人が2人いた、これからどうするのかと同情する。しかし、息子や娘を亡くした人には、5年前に次女に死なれて辛い思いをしただけに、なんとお慰めしたらいいのか、中々言葉が出てこない。 私も今年は色々あった。人それぞれ色々とあったに違いない。1年は決して軽いものではないと思う。
2015.12.15
コメント(0)
京セラの創業者で日本航空の再建を成功させた稲盛和夫(83)の著書「ごてやん 私を支えた母の教え」が話題になり、豪紙で注目されている。 この本の主旨は、会社は従業員を幸せにする為にあるということで、欧米流の会社は株主の為にあるという理論と相反すると驚異の目で見られている。 稲盛は鹿児島の生まれで、子供の頃素直にいうことを聞かずに相手を困らせる子供という意味の方言「ごてやん」として育った。武士の魂と商才を合わせ持っていた。それを実現させたのは、いつも神様・仏様が見ているという信仰心の厚い母の教えで、彼の経営哲学の原点である。 鹿児島大学を出て、27才で京セラを創業したが、「従業員の幸福のため、お客様に尽くそうと、次々と新材料や新製品を開発した。 いつか、京セラではよく働かされるろ聞いたことがあるが、従業員は厳しくても必ず自分に帰ってくると信じていたのであろう。京セラは今や日本を代表する会社になっている。 戦後日本を支えてきたパナソニックの松下幸之助、ソニーの井深大、ホンダの本田宗一郎、皆ともに厳しくかつ優しかったとされている。根底に人への愛があったのだろう。 金ではじまるアメリカや中国の企業は常に不安定だが、人間が支える日本の企業は決して揺るがない。 ビジネススクールの教える最も重要な教訓の一つは、完全に間違っていると、豪紙は評している。
2015.12.13
コメント(0)
12月9日、直木賞作家の野坂昭如が亡くなった。毎年のように夏になると、テレビで放映される「火垂るの墓」の原作者として有名である。 野坂本人が生まれて間もなく母親が死に、神戸の方に養子にやられた。神戸で大空襲にあい両親が亡くなり、近所に住む縁者を頼ったが、どこでも邪魔者あつかいされた。「火垂るの墓」では一緒にいた妹が食べるものがなく餓死したことになっているが、実際は福井の疎開先で亡くなっている。しかし、妹への鎮魂の作のは変わりはない。 私は彼の自叙伝のような小説を読んだことがある。てにをは抜きの独特の文体であるが、関西人にとっては、日常会話と同じですんなりと読めた。 野坂はシャンソンを歌い、テレビのバラエティー番組に出る多才さであったが、参議院選に出て当選、しかし、田中政治に嫌気をさして、三月でやめてしまった。 10年前に脳こうそくになり、そこそこ活動していたらしいが、先日亡くなってしまった。もっと戦後のことを書いてほしかったのに、惜しいことである。
2015.12.11
コメント(0)
74年前の12月8日「開戦の詔勅」が出された。その詔勅のことを「大詔」といい、戦争中毎月、8日のことを大詔奉戴日といった。 開戦を決めた御前会議に出席した重臣の多くは、この戦争は勝てない、戦争をしてはならないと思っていたが、言い出せなかったと言っていた。しかし、内外で数百万の犠牲を出した責任は重大である。 アメリカは中国大陸に侵攻した軍を引き上げるように要求してきたが、日本政府はそれを断り、アメリカの経済制裁により戦争になった。日本の大陸への侵攻は大義名分がなく、何のメリットもなかった。あの時に引き上げておれば、歴史は変わっていたはずである。 日本は資源がないので、物を作り諸外国に買ってもらって、国が成り立っている。現在も変わらない。今後も諸外国と友好関係を結ぶことが重要なことである。
2015.12.08
コメント(0)
21回目の地球温暖化対策会議が先週、パリで開催された。毎年、世界各国で開催されるが、第7回が日本の京都であり、京都議定書なるものが作られた。 しかし、アメリカは大型トラックの排ガス規制が自動車メーカーの反対で実現せず。中国、インドは今まで先進各国が長年出し続け、今さら工業化を進めようという発展途上国に押し付けるのかと反発した。過去20年これという成果が得られなかった。 豪雨、洪水と干ばつは頻発し、北極の氷が溶けて、海水面が上がれば、1メーターで国土がなくなってしまうと悲痛な声を上げている太平洋の島国もあった。このままでは、今世紀末に地球大気の温度が5度上がるといわれている。 世界で1、2位の温暖化ガスを排出をしている米中両国が話し合いの結果、26パーセントの削減で同意した。すでに相当削減の進んでいる日本も26パーセントで同意した。これで今世紀末の大気温度の上昇は2度になるとされている。 さて我が家であるが、効率の悪いガスフアンヒーターを外し、ダイキンのうるるとさららに入れ替え約1カ月、温度25度湿度50パーセントにセットして、快適に日を送っている。11月のガス、電気代は昨年より2割ほど下がっている。これから冬季、月4万円位の削減を期待している。 その分日本の排出ガスの削減に寄与するはずと、自賛している。
2015.12.06
コメント(0)
美しい大和言葉のランキングが出ていた。中国から入った漢語、外国由来のカタカナ外来語とともに日本語を構成する大和言葉(和語)の多くは、響きが美しく独特な語感がある。 1、思いをはせる 6、たたずまい 2、おかげさま 7、ひたむき 3、ときめく 8、おすそ分け 4、慈しみ 9、心を寄せる 5、心尽くし 10、つつがなく 以下、ゆかり、心配り、なごむ、たおやか、そこはかない、いたわり、たしなみ、けなげ、おいとまする、ねぎらい、とつづく。 「友人がご子息を亡くしたとき、『あなたの気持ちに思いをはせるのみ』としか手紙に書くことができなかった」それを「あなたの気持ちを想像するのみ」としたら、神経を逆なでしかねない。と例があったが、明確に論理的に見える漢語に比べて、大和言葉は感情をふんわりとつつみながら、聞き手の想像力にも働きかける、豊かな語感を持つ言葉が多いとされている。 「妥協するだと、イヤイヤなのか、納得しているのか分からないが、『折り合う』と表現すれば、話し合いを重ね、お互いに折れ、譲り合い、認めあうことで出てきた答えと、感じられる」 つつがなくお過ごしですかと書けば、ただ元気ですかよりも、病気や災難などが起きずに、無事に何事も起きずにともっと広い意味になる。 人と人のコミュニケーションのために、文字ができる前につくられたのが、大和言葉の始まりだから、音が耳から直接心に響く、日本人の原風景的言葉といえ、深みとか温かみを感じる人が多いとされるといわれている。 もっと大和言葉を使ってみたいと思うものである。
2015.12.05
コメント(0)
全1070件 (1070件中 1-50件目)