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なぜ私が仰天したかというと、一つは神屋楯比賣こそ事代主神の母親だからです。つまり竹内氏の言っていることが正しいとすると、事代主神の母親はスセリビメということになるんですね。確かにそう考えないと、「出雲の国譲り」のとき、大国主が「まず事代主神に出雲国を天孫(日向)族に譲っていいかどうか聞いてくれ」とタケミカヅチに言った理由の説明がつきませんね。事代主神が正統な出雲国の王位継承者だからです。それは当然、スセリビメの子であることを意味しています。 では、タケミナカタの母である沼河姫の正体はどういうことになるのでしょうか。沼河姫も実はスセリビメの可能性が極めて高いです。そんなことを言っても、『古事記』に出てくる大国主の妻問いの物語では、越の沼河姫とスセリビメは別人のように描かれているではないかと疑問に思う方もいるでしょう。 そう、別人の可能性はなくもありません。でも前回説明したように、「沼河姫」は越国の「巫女王」を示す世襲名です。八俣大蛇を退治したときに、スサノオと越の巫女王が政略結婚したのであれば、当然「沼河姫」の世襲名は出雲国の王統を継ぐスセリビメに継承されたはずです。 スサノオが越の巫女王と結婚したのではない場合でも、スセリビメを差し置いて、越国の巫女王と政略結婚をしたとなると大問題になります。スセリビメが亡くなった後、越国の巫女王と再婚したのなら話は別ですが。 そこでヒントになるのは、竹内氏の次の言葉です。「長男がタテミナカタで、末子が事代主であった」そう、出雲国では末子相続なので、最初にタテミナカタが生まれて、後で生まれた事代主が王位(祭祀王)継承者になったと見ることができるわけです。おそらく長子のタテミナカタは統治王か軍事王を引き継いだはずです。つまり状況的にみても、二人ともスセリビメの子であるとしたほうが、真実に近いように思えるんですね。 事代主が確実にスセリビメの子で、タテミナカタももしかしたらスセリビメの子であるとわかったことも大きな衝撃なのですが、実は本当に驚かなくてはならないのはここからです。 『先代旧事本紀』によると、事代主神の母親は宗像三女神の末子タギツ(高津)姫であるとしているからです。ということは、スセリビメは宗像三女神の末子ということになってしまうんですね。「そりゃ、ないでしょ」と思いませんか。だって、宗像三女神はスサノオとアマテラスの政略結婚で生まれた娘だったはずでしょ、って。(続く)
2020.05.23
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竹内氏の『古事記の宇宙』の凄さや面白さが少しわかってもらえたでしょうか。たった一行、あるいは数行の記述の中に、これまでまったくわからなかった『古事記』の神々の系図の謎が解かれているわけです。 思えば、最初のころに教えてくれた「アマテラスとスサノオの誓約は政略結婚のことである」というのは、初心者用の口伝でした。大年が大物主であり、ニギハヤヒであるというのは、中級者用でしょうか。すると、タケツノミトアヂスキタカヒコネが同一人物だというのは上級者用の口伝かもしれませんね。そして、『古事記の宇宙』では、とうとう極秘伝のさわりの部分が明らかにされたわけです。 そのころ私は、鼎談シリーズの四回目の第四章で秋山氏が触れたシンクロニシティ現象の研究に没頭しておりました。2016年のかなりの時間をシンクロニシティ現象の解明に費やしました。その結果、世に出たのが、2017年1月に出版された『シンクロニシティ「意味ある偶然」のパワー』という本です。秋山氏との共著ですね。 さらにその勢いに乗って、同年7月に同じ秋山氏との共著で『インチキ霊能者とホンモノ霊能者の見分け方』を上梓。その間、竹内氏も同年4月に今度は『古事記の邪馬台国』を出版します。ちょっとした出版ラッシュでした。 この竹内氏の『古事記の邪馬台国』も玄人受けするいい本でした。衝撃的だったのは、賀茂別雷大神を祀った京都の上賀茂神社の権殿に神武天皇が祀られていることを明らかにしたことでしょうか。で、前回オオヤマクイだった賀茂別雷大神の父親は、今回はタケツノミになっていましたね。ここも面白いポイントです。オオヤマクイが玉依姫と結婚して別雷大神が生まれた前か後に、タケツノミと玉依姫が結婚していたという口伝があると竹内氏は言っているんですね。 実はこうしたことは、よくあるんです。一番有名なのは、イカガシコメと結婚した第八代孝元天皇と第九代開化天皇のケースが挙げられます。孝元天皇とイカガシコメとの間にヒコフツオシノマコトが生まれた後、今度は開化天皇がイカガシコメと結婚して生まれたのが崇神天皇です。 タケツノミとオオヤマクイのどちらが先に玉依姫と結婚したかはわかりません。どちらも同世代(スサノオやアマテラスの孫の世代)です。大和国においては、オオヤマクイのほうが多分位(事代主)は上だったと思われますから、おそらく玉依姫と先に結婚したのがオオヤマクイで、その後がタケツノミです。 では神武の后となったイスケヨリヒメは誰の子だったかというと、一応記紀では事代主(おそらくオオヤマクイのこと)となっていますから、オオヤマクイの子なのでしょう。ただ、その妹で綏靖天皇の后となったとされる五十鈴依姫になるとわかりません。 まあ、そのようなことも竹内氏の極秘口伝からわかってくるわけです。(続く)
2020.05.25
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神武天皇ことサノノミコトの正式名称は、カムヤマトイワレビコといいます。正式名称の頭に「神」が付いています。それはつまり出雲神族であることを示しますね。なぜ神武天皇の正式名称に出雲神族の名前が付いているのか――。実は、竹内氏が口伝継承したという『帝皇日嗣』を読み解く最大の難関がここにあります。 竹内氏自身も、神武天皇の父親であるウガヤフキアエズの別名クマノクスヒがなぜか出雲神族の名前であると認めています。だけどそれは、出雲の神の系図を天孫族の系図に組み入れて正統性を強調するためだったとも言っています。 果たしてそれは形式上の話なのか、それとも実際に出雲神族の王統の血がサノノミコトに入っているのでしょうか。ハムレット的に大きな問題です。 竹内氏はこれに関連して、京都の上賀茂神社のご祭神は二柱おり、一柱は通常知られているカモワケイカズチノカミで、秘されているもう一柱は神武天皇であるとしています。そしてそのことが隠されているのは、天皇家を守るためだとも言っていますね。 これをどう解釈するかですが、これもいくつかのシナリオがあります。 形式上、出雲神族の神の名を入れたのだとすると、確かに簡単に決着します。オオドシの名前を天火明(アメノホアカリ)として天孫日向族に組み入れたように、正統な王統であることを強調するために、他族の神を組み入れたのかもしれません。その場合、ウガヤフキアエズはアマテラスとオシホミミの間の末子となり、正統な天孫日向族の直系になります。巷に知られている通り、神武天皇も天孫日向族で間違いありませんね。 ただし、私は必ずしもそうではないのではないかとみています。神武天皇は、正統な出雲神族の直系なのではないかという可能性です。そうでなければ、「神」という名を付けなかったのではないでしょうか。 思い出してください。 『帝皇日嗣』によると、スサノオとアマテラスが「誓約」で知られる政略結婚をした際、スサノオの子(実際はオシホミミとアマテラスの子)として四柱の男神が生まれ、アマテラスの子(実際はスサノオとアマテラスの子)として宗像三女神が生まれました。しかし、その際、宗像三女神の長女と次女が天孫族アマテラスの子で、末子タギツヒメは出雲神族の子である可能性があるということは既に説明したとおりです。 だとしたら、四柱の男神の末子クマノクスヒ(ウガヤフキアエズと同一神)もオシホミミの子ではなく、スサノオの子である可能性が強いのではないでしょうか。つまりそれぞれの末子だけ、たすき掛けにして入れ替えているわけです。 もしそうだとしたら、どの神なのでしょうか。 私が推測するに、有力候補は二人います。 (続く) 寄せ植えのように、いろいろな部族の王の血統が入り乱れて一つに集まっているのかもしれませんね。
2021.07.29
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古代日本において、九州・宮崎に本拠地を置いた日向(後の大和)族と、山陰地方・島根に拠点を築いた出雲族があり、その二つの部族の間で抗争があったという説は拙著『不思議な世界の歩き方』の第14章「知られざる人類の歴史」でもご紹介しましたね。簡単に説明すると、パミール高原にいた天(アマ)族は紀元前3世紀ごろ、「人類の進化を促し、真の繁栄に導く」ため、陸路と海路の二つのグループに分かれて、活火山が多く、「人類の進化と活性化に適した磁場を持つ地域」である日本列島を目指します。最初に日本に到着したのは、ネパール、インドを経て中国の江南地方から博多湾沿岸に上陸した陸路グループでした。彼らはすでに九州にいた部族を併合しながら日向地方(現在の宮崎)まで南進・平定し、日向族として君臨します。一方、インドから東南アジアの島々を経由して朝鮮半島に渡った海路グループは、壱岐島から出雲に上陸、出雲族となります。日向族の族長にはイザナギ、イザナミが、出雲族の族長にはスサノオの父フツがいました。パミール高原を出発するときの約束では、日本で合流したら一致協力して日本を治め、「人類の進化と文化の隆盛を促す」はずだったのですが、先に強大な国家を九州地方に築いた日向族はそれを拒み、逆に出雲族が保持する皇位継承の証である「十種神宝(トクサノカンダカラ)」の引き渡しを求めます。この要求に納得できなかった出雲族は、日向族に戦いを挑むことになりました。(続く)
2011.02.20
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長年(約400~500年間)続いた出雲族と大和族の覇権争いもようやく一応決着をみました。大和族の圧勝でしたね。紀元50年ごろのことではないかと武内宿禰さんは言います。そこで大和族は(あくまでも私の推測ですが)、残った出雲族と出雲族の盟友でもあったユダヤとの間で和議に持ち込むんですね。その時の大和族の王は神武、出雲族は事代主だったとみられます。初代天皇のニギハヤヒ、および多分いたであろうニギハヤヒの子供、それに大国主はどうなったのかはわかりません。ニギハヤヒや大国主も和議に参加していたかもしれないし、あるいは最後まで神武の正統性に異を唱えたナガスネ彦同様、殺されてしまったかもしれません。和議の結果、と言っても、ほとんど大和族が一方的に決めた結果だと思いますが、神武が出雲族の姫であるタタライスズヒメと結婚し、初代大和王朝の天皇となることが決まったのだと武内宿禰さんは言います。ここにも五十鈴の名前が出てきます。やはり大国主はユダヤであった可能性が強いと思うんですよね。それに宿禰さんによると、タタライスズヒメの妹は石切姫だと言います。これってイエスである五十鈴彦とその弟の石切彦と同じ名前ですから、ますます怪しい。宿禰さんにはこのこと(大国主=ユダヤ説)について話していなかったので、今度会ったときに聞いてみたいと思っています。さて私が、二回目にして最後となる和議が大和、出雲、ユダヤの三者間で行われたのではないかと推測したのには、理由があります。私のブログにもよく登場する国際気能法研究所の秋山眞人さんと古代史について話していたとき、秋山さんがふと「(奈良にある)三輪山は、大和、出雲、ユダヤが融合した場所なんですよね」と漏らしたことを覚えていたからです。その時は私も「ふ~ん、そうなのかな」くらいにしか思わなかったので、深く追究しなかったのですが、武内宿禰さんから聞いた古代日本の出雲族と大和族の話と、秋山さんの三輪山=大和、出雲、ユダヤ融合説を合わせると、後になってから妙に合点してしまったわけです。つまり三輪山は三者の和議の場であったから、三和(みわ)=三輪となったのではないか、と。なるほど、だから三輪山にニギハヤヒ(大物主)が葬られたとされるはずですね。形としてはご祭神として三輪山に祀られるわけですが、三輪山の和議によって、初代天皇だったという歴史的事実が三輪山の地中深くに埋められ、封印されてしまったからです。(続く)
2011.03.04
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賀茂氏(アヂスキタカヒコネ・タケツノミ)のご先祖様であるオオナムジと、その子タケミナカタを祀る神社で、旧約聖書を彷彿とさせる祭が執り行われるように、秦氏が創建したり関係があったりする神社でも、ユダヤ的キリスト教文化が色濃く投影されているように思われます。その賀茂氏と秦氏が中心となって平安京が造成されたことは、非常によく知られた事実です。そして、平安遷都(794年)から70年近くが経った863年、疫病が流行したため朝廷は神泉苑で初めて御霊会を行ったことが記録されています。御霊会は、疫病や死者の怨霊などを鎮めるために行う祭です。ところがその後も、翌864年に富士山が大噴火を起こし、869年には陸奥で貞観地震が起こり、津波によって多数の犠牲者が出るなど災害が相次ぎました。そこで、全国の国の数を表す66本の矛を立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り御霊会を執り行いました。この869年(貞観11年)の御霊会が祇園祭の起源とされています。 で、この祇園祭が、古代イスラエルで、ソロモン王が神殿完成の際、国に伝染病が起こらないように祈り、祭りを開催したことに非常に似ていると、前出のトケイヤー氏らによって指摘されています。トケイヤー氏によると、ソロモンはその祭を、ユダヤ暦第7月の15日から8日間行ったといいます。祇園祭もほぼ同じ時期に8日間開催(昔は6月7日から14日まで、今は7月17日から24日まで)されますね。また同氏によると、祇園祭は「エンヤラヤー」の掛け声とともに始まりますが、ユダヤ人にはヘブル語で「私はヤハウェを賛美します」という意味のエァニ・アーレル・ヤーと聞こえるそうです。ところが、日本人に「エンヤラヤー」とはどう意味かを聞いても、ただ掛け声にしか聞こえませんね。実は地名などの由来も、古代イスラエル人の末裔とみられる秦一族が絡んでいる場合が多いのです。宇佐八幡のそばには「天山山地」と名付けられた山々がありますが、秦氏のかつての故郷とされる弓月国は「天山山脈」のふもとでした。また、『十字架の国・日本』を書いたケン・ジョセフ氏によると、京都の東には琵琶湖がありますが、イスラエルにも琵琶湖と同じ大きさで形もよく似たガリラヤ湖という湖があるそうです。そのガリラヤ湖は古代においては、「キネテレ湖」と呼ばれており、その意味はまさに琵琶湖という意味だそうです。次も秦氏ゆかりの寺社や名前について取り上げましょう。(続く)
2018.10.11
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ところで、神武が出雲系、すなわちスサノオ系などと言うのは、いまだに信じられないという人も多いのではないかと思います。実は、私も半信半疑です。事の発端は、繰り返しになりますが、竹内氏が口伝継承したと主張する『帝王日嗣』には、アマテラスの子であるとされる熊野久須毘(クマノクスビ)は、実は神武の父のウガヤフキアエズのことで、ウガヤフキアエズはスサノオ系の神であったと記録されていると、竹内氏が『古事記の邪馬台国』に書いたからです。クマノクスビは、どう考えても熊野の神ですから、スサノオ系でその神に該当するのは、「熊野の高倉下」こと天香山(アメノカグヤマ)しかいないのではないか、と私は論じました。ところが、そのように仮定すると、意外と辻褄が合ってしまうので、神武はもしかしたらスサノオ系であったのではないか、と思えてきてしまうんですね。たとえば、『古事記』には天孫(日向)族の王位継承者のニニギが大山津見の長女イワナガヒメを返したことで短命となった、と書かれています。普通、そのようなことは書きませんよね。それでも、書いたということは、日向族の王統が短命に終わったということを強烈に示唆しています。その理由はいろいろと考えられます。ニニギとコノハナサクヤヒメの間に子供ができなかったとか、生まれた子が誰の子かわからなかったとか、海幸彦と山幸彦の争いが尾を引き、正統な後継者を決めることができなかったとか、です。誰の子がわからない王子を王に据えるよりは、まだ素性のわかっているアマテラスのひ孫である天香山を日向族の正統な王にしたほうがましだ、と考えたのかもしれません。竹内氏の『帝王日嗣』によると、もう一つ重大な系図トリックがあります。それがアジスキタカヒコネの問題です。『古事記』によると、アジスキタカヒコネは瓜二つのアメノワカヒコの葬儀で使われた喪屋を切り倒すことによって、出雲族と決別しましたね。奈良にはアジスキタカヒコネを主祭神とする高鴨神社がありますが、別名は神捨篠社(かみすてささのやしろ)と呼ぶと『先代旧事本紀』に書かれています。神を捨てるとは尋常ではありませんが、「神」すなわち出雲族の王統を捨てることによって、高鴨神社のアジスキタカヒコネが、京都の下鴨神社のタケツノミになったと解釈すると。合点が行きます。どちらも賀茂の祖神ですから、どう考えても同一神です。で、問題は、このタケツノミの娘がタマヨリヒメであると『山城国風土記』に書かれているのは間違いで、本当は「タケツノミとタマヨリヒメは関係があったのだ」と竹内氏が『帝王日嗣』の極秘口伝にあると言っていることです。つまり、それを系図にすると次のようになってしまいます。この系図の説明は明日以降にすることにしましょう。(続く)
2018.10.26
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竹内氏の『古事記の宇宙』の面白いところをご紹介しましょう。もちろん「無の神」から始まるという創世記も面白いのですが、天照大神が帝皇日嗣132代であるという話や、ヤマトトトヒモモソヒメが第百代の日巫女であるという神様の日嗣系図があるところが非常に興味深いです。百襲(ももそ)が「第百代を襲名した」という意味だとは想像したことすらなかったですからね。もっとも「百代襲名」の話しは、最初に竹内氏が書いた『正統竹内文書の謎』に載っている話です。 しかしながら、『古事記の宇宙』の中でも特に衝撃を受けたのは、オシホミミがアマテラスの子ではなく、夫だったとしたところでしょうか。確かにオシホミミは天忍骨命と書きますから、「忍」を秘密にするという意味とすると、骨(死体)になっていたことを隠された神という意味になります。オシホミミはスサノオとの戦いで亡くなったわけですね。 そしてなんと、誓約で生まれた五人の皇子のうちほかの四人はすべてアマテラスとオシホミミの間にできた子供で、天津日子根尊がニニギ、活津日子根尊がヒコホホデミ(山幸彦)、熊野楠日尊がウガヤフキアエズだというんですね。つまりこれまで親子であると思われたニニギ、ヒコホホデミ、ウガヤフキアエズが実は兄弟であったと『帝皇日嗣』に書かれているというわけです。 これも実はすごい話なんです。これによって、日向族と出雲族の系図がぴったり合うからです。これまでは日向族の系図が長すぎて、出雲族の系図との整合性がとれなかったのですが、これによって矛盾が解消されました。 実は1970年代にそのことを指摘していた人はいました。原田常治氏(1903~1977年)です。原田氏は全国の神社のご祭神や由緒、それに「没収された神社の系図」を調べあげ、『記紀以前の資料による古代日本正史』を1976年に上梓しました。原田氏の凄いところは、ニギハヤヒが大物主であり、大年であったことを早くから見抜き、さらにタケツノミがアヂスキタカヒコネと同一人物であることも調べ上げ、神武が婿養子として大和に来たことを看破していたことです。 ただその原田氏ですら、オシホミミがアマテラスの子ではなく夫であったことは見抜けませんでした。それでも原田氏の偉大なところは、竹内氏の『帝皇日嗣』が出てくる前に、もっとも真実の系図に近づいた研究家であったということです。 で、私がどうしてその原田氏の存在を知ったかというと、北川恵子氏らが著した『アーリオーン・メッセージ』に彼の著作が彼の作成した系図と共に掲載されていたからです。つまり宇宙人も一目を置く著作が『記紀以前の資料による古代日本正史』であったということになるのでしょうか。(続く)
2020.05.20
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2008年7月21日。相模の霊峰・大山に登ったときのことです。頂上の奥社を参拝し、下社まで下山してきたらすでに暗くなっていました。さらにそこから下って、途中、大山寺の境内を歩いていると、後ろから何やらひたひたと私の後を追ってくる気配がします。振り返ってよくみると、それは茶黒の斑模様のワンちゃんでした。昔実家で飼っていた犬と同じような色と模様です。その犬は、別に不審者がいたから追い出そうとするわけでもないのですが、私に向かって時々吠えます。何か構ってもらいたいのかなと思って、おいでをしても近寄らずに距離を保って、時々吠えるんですね。人懐こいような、人懐こくないような、不思議な犬です。とうとう大山寺の参道の正面の階段まで、私の後をずっとついてきました。私が階段を下りていくと、階段の上に立って、こっちを向くように吠えるんですね。大山寺の本堂と階段とワンちゃんの構図が面白かったので、そこで写真撮影。その時写したのがこちらです。ばっちりと決まっているでしょう。階段の上で見送りをしてくれた茶黒ちゃんと大山寺です。で、家に帰ってその写真を見ていたら、気づいたわけです。大山寺屋根の上に光る球のような物体が写っているのを。こちらです。この日は満月ではありませんでしたから、月ではありません。また、月の質感とも全く異なるものであることも写真からわかりますね。もう一つの可能性は屋根の上に設置されたライトですが、その後、何度も大山寺には行っていますが、そのようなライトは存在しませんでした。では何だろうと思って、秋山氏に写真を鑑定してもらいにゆきました。(続く)
2026.04.04
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さあ、これで国譲り神話に登場する人物たちがほぼ出そろったのではないでしょうか。私は一時(と言ってもずいぶん前のことですが)、大陸から渡ってきた大和族が原日本人である出雲族を倒して大和政権を作ったとばかり思っていたのですが、どうやらそうではないことがわかってきました。「縄文文明」を築いた「原日本人」、それからゴラン高原かシュメールから渡って(戻って?)きて原日本人を制圧していった出雲族と大和族、それにユダヤ人(古代ヘブライ人)がどうやらいたようです。武内宿禰さんによると、そのユダヤ人たちは出雲族の物部一族と仲が良かったというんですね。ということは出自不明の大国主さんはもしかしたら、ユダヤ人であったかもしれないと思えてきます。ナイルワニのいるエジプトあたりからやって来た可能性はありますね。ユダヤ人の来日は、紀元前からしばしばあったと宿禰さんは言います。ただし彼らは「目立ってはいけなかった」ので記録はないそうです。記録に残っているユダヤ人は、紀元300年ごろやってきた秦氏で、彼らは「日本(スメル族)の分家の分家」のようなものだったとか。「彼らには祭祀をする人がおらず、彼らが神聖視したアークにしても、日本に来れば神輿に取り込まれてしまった」と言います。さて、天孫降臨の神話に話を戻します。「大和族お得意の系図改ざん」により、ニギハヤヒを三分割したことはお話しましたね。つまり初代天皇ニギハヤヒの名称の一部であるアメノホアカリを大和族に組み入れ、初代天皇の血筋が大和族に流れるように系図をでっち上げたわけです。おそらくニギハヤヒから統一王の称号を奪おうと画策した時点の大和族の王はニニギであったのではないかと思います。だからこそ神話では、兄(アメノホアカリ=ニギハヤヒ)、もしくは父(アメノオシホミミ)を差し置いて、天孫降臨(ニギハヤヒからの称号奪還)をするわけです。ニニギはその際、出雲族と仲の良かったユダヤ人のグル―プを懐柔したのではないでしょうか。それがニニギの天孫降臨の前に立ちはだかった五十鈴川出身の猿田彦として描かれたのだと思います。そうでなければ、なぜ猿田彦が出てくるのか、説明がうまくつかないですよね。この天孫降臨の前に、出雲族の王であった大国主が政治的圧力と武力で大和族に屈した話は国譲りの神話に記されていますね。出雲族も最初はかなり抵抗し、何度も大和族を撃退、もしくは懐柔策に抵抗したように見受けられます。ですがやがて、大国主の息子である事代主は懐柔され、もう一人の息子で最後まで抵抗した武闘派の建御名方神も諏訪で大和族に鎮圧されます。(続く)
2011.03.03
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大和王朝はこのようにして紀元50年ごろ、神武によって基礎が築かれたのですが、その後も何世紀にもわたって政権内部でいろいろな権力闘争があったようです。そうした話は別の機会にするとして、大和族によるほぼ一方的な「和議」の後、出雲族とユダヤ、天狗族、それに縄文人がそれぞれどうなっていったかを推測してゆきましょう。まず出雲族ですが、おそらく一部は懐柔され大和政権に組み込まれていったのでしょう。物部氏がその一例でしょうか。元々は出雲族の兵器の製造・管理を主に管掌していたとみられ、その兵器製造の技術力を買われて大和族に重用されたのではないかと思います。後に大和政権の中で、有力軍事氏族へと成長、その軍事的な活躍により政治的地位を固めてゆきました。一方、最後まで抵抗したナガスネ彦や建御名方のような出雲族の人たちは、徹底的に叩かれました。一部は敗走して、諏訪から関東圏へ逃げ延びましたが、大和政権の支配地域の拡大に伴い東北へと逃れてゆきます。追討の手は緩められることなく、最後は坂上田村麻呂によって壊滅的な打撃をこうむります。一方、親出雲族派だったユダヤはどうなったのでしょうか。大和政権にとって、ユダヤの持つ測量や石切りの技術は魅力的だったに違いありませんね。重用された人もいたのでしょう。ヒントとなるのは、和議となった紀元50年ごろとほぼ同じ時代を生きていたのであろう五十鈴彦(イエス・キリスト)と石切彦(イエスの弟)のその後でしょうか。武内宿禰さんによると、五十鈴彦は聖地伊勢の港の管理人で伊勢の磯部家を支配していたといいます。五十鈴彦の紋章は三角形が二つ重なったダビデの星であり、それぞれの三角形は物体と精神を象徴していたそうです。伊勢神宮にダビデの星があるのは、そのためだと宿禰さんは言います。つまり和議の前後、伊勢はユダヤの地だったわけですね。宿禰さんが伝承した口伝(正統竹内文書)では、石切彦は最後、青森・戸来村で亡くなっています。子供もたくさんいたらしく、その子孫が沢口家となりました。五十鈴彦もやはり、青森を経て、さらには北海道、もしかしたら北アメリカへと渡っていると伝わっているそうです。竹内文書を最初に読んだとき、なぜキリストの墓が青森にあるのかよくわからなかったのですが、出雲族(蝦夷)の敗走先を知ると、合点が行きますね。やはり多くのユダヤも出雲族とともに、北へと逃げたのではないでしょうか。(続く)
2011.03.10
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『古事記の宇宙』でそのほかに面白かったところは、越のヤマタノオロチの正体を明確にしているところです。それによると、越の八俣大蛇とは、高志国(越前、越中、越後)にいた八つの川を支配する八人の王のことで、その八人の王を束ねて統治していたのが、翡翠で有名な糸魚川のある越後の沼河姫(ヌナカワヒメ)であったというんですね。 竹内氏は明確には語っていませんが、スサノオがその八俣の大蛇を退治したというのは、おそらくその沼河姫と政略結婚したか、あるいは沼河姫の姉妹や娘と政略結婚したことを意味するのではないでしょうか。それがクシナダヒメです。後にスサノオの四男であるニギハヤヒが持つことになる「櫛」と「玉」の神器の称号は、草薙剣とともに八岐大蛇の越国から来ているのは、間違いないように思われます。 一方、八俣大蛇に関連して、「竹内文書」は非常に面白い「証拠」の数々が残されていることを示しています。糸魚川の上流の北アルプスに白馬鑓ケ岳という2903メートルの山があるのですが、「竹内文書」にこの山の名前が出てきます。「国常立之神(天皇)が天空浮舟に乗って鑓ケ岳に向かって羽根飛び登りゆくところを羽根と名付ける」と書かれているんですね。それで東経137度11分の羽根ラインを見つけたことは拙著『竹内文書の謎を解く』に詳しく書いてありますが、問題はこの鑓ケ岳と、『古事記』でスサノオが降臨したとする出雲地方の船通山を結んだ直線上に八尾(富山県八尾町)と八頭(鳥取県八頭郡)という地名が並んでいることです。 八俣大蛇はまさに八つの頭と八つの尾を持つ怪物でした。しかもこの直線は、古代ピラミッドとされる尖山(富山県立山町)と、天神第五代の宇宙神を祭った天柱石(富山県平村)という「竹内文書」で聖地とされる点を貫いているんですね。 つまり「竹内文書」を書いた人は、東経137度11分の羽根ラインや、鑓ケ岳と船通山を結んだ直線上に聖地が並んでいることを知っていた節があるわけです。そのことを竹内氏に尋ねたことがあります。そのような口伝があるかどうか、と。すると、次のような答えが返ってきました。「羽根ラインのことは聞いていないが、古代越の国には翡翠王国とも呼べる王国があり、糸魚川で取れる翡翠を使って、太陽光を反射させた、一種の光通信網を持っていたのではないか」 面白いでしょ。越の国には翡翠王国がかつてあったのです。その末裔の巫女王が沼河姫と言っているわけです。で、沼河姫は諏訪大社のご祭神であるタケミナカタの母親としても名前が出てきますね。つまり、彼もまた大国主が出雲国を天孫族に譲ることを認めるかどうかを決める王位継承者の立場にいたことを示しているわけです。(続く)
2020.05.21
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信じられないことに、スセリビメが宗像三女神の末子に組み込まれていた!というところまで前回は話しましたね。『古事記』に騙された、と。 しかしながら、ここで竹内氏の『帝皇日嗣』を知っている我々は気づくわけです。そういえば、誓約の際、アマテラスが「私の子である」と宣言した五人の王子の中に、実は自分の夫(アメノオシホミミ)を忍ばせていたということを。だったら、宗像三女神も必ずしもアマテラスとスサノオの間に生まれた子でなくてもいいわけです。 確かに「(宗像三女神は)あなた(スサノオ)の子である」とアマテラスは言っていますが、自分の子とは言っていませんものね。もちろんそのうちの二人はアマテラスの子かもしれませんが、末子のタギリが沼河姫の子(スセリビメ)であってもいいわけです。天照は少なくとも嘘は言っていなかった。 ここでようやくわかりましたね。誓約で生まれたとされる五王子と三女神は、ただ単に、天孫日向族系の王子たちと出雲神族系の王女たちに分けただけだということを。してやられました。だけど『帝皇日嗣』がなければ、わからなかったことなんですね。 でも、本当にスセリビメは宗像三女神の末子であるタギツヒメなのでしょうか。可能性はかなり高いです。というのも、大国主とスセリビメの間にできた長子とみられるタテミナカタノミコトの名前に注目してください。「ミナカタ」は「ムナカタ(宗像)」に似ていませんか。タテミナカタは、宗像三女神の子とも読めるわけです。 衝撃はまだまだ続きます。仮にスセリビメが宗像三女神の末子タギツ姫であるとすると、大祓詞(おおはらえのことば。中臣の祓詞)にしか出てこない瀬織津姫の正体までわかってしまうからです。その正体が誰かは、ご自分で調べてください。祝詞にはっきりと書いてあります。 竹内氏の『古事記の宇宙』でもう一つ注目されるべきなのは、オオヤマクイが賀茂別雷大神の父親となっていることでしょうか。最後にさりげなく系図が載せてあるだけで竹内氏はあえて何も書いていませんが、雷神(火雷神)がオオヤマクイであったわけですね。丹塗矢でもあります。すると、勘のいい人ならすぐにわかってしまいますね。ミゾクイミミの娘のところに通った事代主の正体が示唆されているわけです。(続く)
2020.05.24
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このように竹内氏が本にした『帝皇日嗣極秘口伝(正統竹内文書)』のシリーズは、読む人が読めば本当の系図がわかるように、さりげなく口や筆を滑らしながら、少しずつ公開されていったわけです。ただしほんの一部だけですけどね。 では竹内氏が筆を滑らせた『古事記の邪馬台国』で、ほかに何が明らかにされているか、順番を追ってみてゆきましょう。 面白いのは、ナガスネヒコが徐福の子孫であったとする説ですね。根拠の一つは、秦の始皇帝の時代には既にあった「弩」という機械仕掛けの弓を持っていたことです。この弓によって、白肩津の戦いで神武天皇の兄である五瀬命は傷を負って亡くなったと言います。 ナガスネヒコの別名が日ノ本将軍(日下将軍。ひのもとしょうぐん)というのも面白いです。日下家は徐福の子孫だったなんていう仮説も成り立ちそうですよね。また、兄に安日彦(あびひこ)という、太陽神を信仰する祭祀王がいたと竹内氏は言います。 この安日彦の存在は記紀神話からは完璧に消されています。それでも、鎌倉~室町期に成立したとされる『曽我物語』(実際に鎌倉期にあったとされる「曽我兄弟の仇討ち」を題材にした軍記物語)には、かつて大和地方を支配していた鬼王として「安日彦」が出てきます。安日王とも呼ばれ、神武天皇に追放されて、東北に逃げたことが伝わっていたことがわかります。 東北の安東家(元は津軽安藤家)がナガスネヒコの子孫だという説もあるようです。実際に安東氏の後裔である旧・子爵秋田家には、家祖の安倍貞任をナガスネヒコの兄である安日王の子孫とする系図が残っているといいます。 『帝皇日嗣』はさらに、日ノ本将軍であるナガスネヒコが東北に逃げたので、青森県に「日本中央」と彫られて古い石碑があるのだといいます。この「日本中央の碑」はこれまで全くの謎で、坂上田村麻呂(758~811年)が征夷大将軍となり蝦夷征伐に行った際に彫らせた碑ではないかなどと考えられてきました。でも、そうではなくて、徐福の子孫のナガスネヒコが彫らせた可能性が出てくるわけですね。 しかも興味深いことに、『若州羽賀寺縁起』によると、そのナガスネヒコの兄アビヒコの子孫であると主張する檜山系安藤氏(後の安東氏)の二代目当主で、室町時代の武将・安藤康季(あんどう・やすすえ)は、1398年に若狭国(福井県)の羽賀寺が消失したので後花園天皇からの勅命を受けて再興させた際、「(奥州十三湊)日之本将軍」を名乗ることを天皇に認めさせているんですね。 だとしたら、「日本中央の碑」は、巷に言われているように坂上田村麻呂が造らせた碑ではなく、日ノ本将軍・ナガスネヒコおよびその兄安日彦が造らせたとみるほうがはるかに理に適っているわけです。(続く)
2020.05.27
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蝉の季節ですね。散歩中に見つけた蝉の抜け殻です。我が家の網戸にもセミが張り付くようになりました。前回はタギツヒメからタギツヒコの流れを見てきましたが、次(明日以降)のブログではヌナカワヒメからヌナカワミミの流れをみてゆきましょう。
2021.07.24
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東北関東大震災があったので中断しておりましたが、発生から丸12日が過ぎたこともあり、今日から「出雲族と大和族の話」を再開いたします。大和族と出雲族とユダヤ(古代ヘブライ人)の和議の後、それぞれの部族がどうなったかを考察しているところでしたね。出雲族とユダヤの一部は大和政権に協力しますが、多くは関東から東北方面に逃れたのではないかと私は見ています。それでは原日本人とみられる人たちはどうなったのでしょうか。第20話から再開します。下の写真は今日の夕方、自宅前に現れた虹です。「約束」が成就したんですね。出雲族と大和族の話20天狗族はどうなったのでしょうか。私には、一部の縄文人たちとともに山奥に逃げ延びて、そこに籠っていたように思えます。彼らはそれぞれ独自のネットワークを形成。縄文人たちの中には、サンカとして生き延びた人たちもいたのではないでしょうか。天狗族の天空飛行の技術は、大和族に奪われることはなかったのでしょう。ただし、7世紀には役行者のような人物が山から出てきますから、ごく一部の修験者に技術が伝授された可能性はあります。役行者や一言主を天狗族とすることもできるでしょう。源義経に剣術を教えたとされる鞍馬山の天狗も天狗族でしょう。そういえば、竹内巨麿も鞍馬山の奥にある大悲山で、神霊から飛翔の術を授かったり、神代文字を読めるようにしてもらったりしたと巨麿伝に書かれていますから、神霊が天狗族であったかもしれませんね。いずれにしても天狗族(羽根族、白鳥族、天空浮船族)は、日本の歴史からは消えてしまいました。私が退行催眠で見たビジョンと、秋山さんの前世リーディングによって浮き彫りになった天空浮船(気球)族の謎もだんだん解けてきましたね。その話を武内宿禰さんにしたところ、私のビジョンの審神者(さにわ)をしてくれました。武内宿禰さんと言えば、審神者の「本家本元」でもありますね。ここで審神者とは何か、簡単に説明しておきましょう。古代神道の祭祀において信託を受けた際に、その神意を解釈して伝える人のことを言います。元は「清庭」(さやにわ)の意味で、神を祭り、神託を受けるために清めた庭のことを指したことからこのように言われるようです。仲哀天皇が琴を弾き、武内宿禰が沙庭(さにわ)で神の命を請うたという記述が古事記に載っていることは有名な話です。さあ、審神者の第一人者である宿禰さんの解釈を聞いてみましょう。(続く)お知らせ:実はこの続きはすでに左のフリーページにアップしてあります。明日以降順次ブログにアップしますが、早く読みたいという方はフリーページの「出雲族と大和族の話」(現在第22話の途中まで公開中)をお読みください。気長に読みたいという方は明日までお待ちください。
2011.03.24
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むっちゃん1217さん(以下むっちゃん)の説をご紹介する前に、彼が第73世武内宿禰になったいきさつを少し説明しておきましょう。それは彼が19歳の時でした。どこからともなく謎の使者が現れて、武内宿禰を補佐する長老メンバーの一人であると告げたうえで、むっちゃんに「武内宿禰」になるように告げたのだそうです。最初、むっちゃんは何のことがさっぱりわからなかったのですが、だんだんと事態が飲み込めてきます。その使者によると、どうやら日本には古代から、武内宿禰の血統を継ぐ数家が、それぞれに門外不出の神典・秘儀を分散して継承し続けてきたというんですね。そして、それぞれの家が継承してきた神典・秘儀のすべてを継承するのが「武内宿禰」になるのだそうです。しかも、むっちゃんが「武内宿禰」に選ばれたいきさつというのが凄いんです。1767年12月に亡くなった「武内宿禰」の予言により、決まったというんですね。どういうことかと言うと、そのとき亡くなった「武内宿禰」さんは、「100年後に王政復古を成し遂げたのち、99年後に蘇る」と「遺言」したのです。つまり、1767年に100年を足して1867年に明治維新があり、さらにそれから99年足して1966年12月に生まれたものが1767年に亡くなった武内宿禰の生まれ変わりであるというわけです。そう、その1966年12月17日に生まれたのが、「むっちゃん1217さん」だったんですね。驚いたのはむっちゃんでした。「なんじゃ、それは!」という感じだったでしょうか。そう思うのも無理はありませんね。むっちゃんも最初は、「私のような人間では人を救ったりすることはできない」と断りました。ところが長老グループは、「人は救わなくてもいい」と言います。「では何をするんですか」と聞き返すと、「祈って伝えるだけだ」と言います。さらにむっちゃんが「救わなくてもいいんですか」と畳み掛けると、長老グループは「結構です」と言う。むっちゃんはその時の変わったやり取りを今でもはっきりと覚えていると言います。むっちゃんはとうとう決心をします。「普通の人ではない世界に身を置くのもいいのではないか。祈って伝えるだけなら、私にもできるのではないか」と。むっちゃんは、「武内宿禰」を引き受けることにしました。(続く)
2011.02.22
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審神者の武内宿禰さんはこう言います。「それは何世代にもわたる記憶の映像を見たのではないかと思います。最初ペルシャにいて、それから石を切りにエジプトへ渡り、そして日本に来て、日本で亡くなった。一人の人間の魂の記憶ではなく、三世代ぐらいにわたる一族の記憶のような気がします」私が退行催眠で見たビジョンや秋山さんの前世リーディングでは、一人の人間が中東から日本に渡ってきて、日本で死んだことになっていますが、宿禰さんはそれが3世代ぐらいの記憶ではないかと言うんですね。面白い見解だと思います。もしこうした話が本当だとしたら、私はおそらく原日本人の中の天狗族に属していて、一度中東方面に旅立ち、再び戻って来た天空浮船族の中にいたのかなとも思えてきます。私が天空浮船(気球)に乗って中東から日本にやって来た(戻って来た?)のは、私の勘では今から約5000年前です。ちょうどそのころ、富山の尖山は古代ヒスイ文化圏の県庁所在地で、同時に東アジアの首都があったのだ、と宿禰さんは言います。正統竹内文書にそのように書かれているというんですね。そして尖山には、たくさんのラインが通っているのだそうです。そのラインにはとても重要な意味があったと宿禰さんは言います。ライン上で同時刻に鏡を使って光通信を行ったのだそうです。と言っても、当時は鏡がありませんでしたから、磨き抜かれたヒスイを使った、とか。「太陽の反射を利用して、モールス信号のように通信したのだ」と言います。鏡には新潟姫川のヒスイが使用されたそうです。私が見た「前世ビジョン」でも、私には日本各地を測量して地図を作製した記憶があります。羽根ライン、伊豆・下田富士のピラミッドライン、山岡町のピラミッド石と尖山ピラミッドを結ぶラインを「インスピレーション」により次々と「発見」できたのも、当時この測量に携わっていたからかもしれませんね。(続く)
2011.03.25
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記紀に記された日本神話の本質が段々とわかってきたのではないでしょうか。大和族側から見た都合のいい物語のオンパレードなわけですね。それにしても私が感心するのは、大和族に属する武内宿禰さんの潔さです。大和族側の系図改ざんの事実を認めるだけでなく、宿禰自身が秘儀・行法を出雲族から奪ったこと、さらには原日本人の神祇や記録を実質的に奪った(「残している」)ことも認めているからです。拙著『竹内文書の謎を解く』でも金井南龍さんの意見としてご紹介しましたが、5世紀末ごろ神代文字で書かれた神代の歴史である「竹内文書」を漢字かな交じり文に直したうえで写筆したとされる、武内宿禰の孫・平群真鳥(武内宿禰さんによると、第8世武内宿禰)の「へぐり(平群)」は、飛騨地方の方言「へぐる」であり、「裏切る」「だます」という意味があるのだといいます。また、武内宿禰の「すくね」も「くすねる」を連想させますよね。あくまでも私の推測ですが、もし武内宿禰さんが口伝で継承している「正統竹内文書」や巨麿が公開した「竹内文書」が大和族によって改ざんされる前の原日本人の記録をある程度正確に残しているのだとしたら、それは大和族の良心(あるいは良心の呵責)がなせる業であったのではないでしょうか。大和族が改ざんした歴史があまりにもひどかったので、「あれ(記紀など)は、本当の記録をくすねたり、だまし取ったりして都合よく改ざんした嘘っぱちなんだよね」ということを後世の人たちに暗示するために、わざと自分たちの名に「だます」「くすねる」を連想させる文字をいれたのではないかと思ってしまうわけです。さて、さらに日本の神話を読み解いてゆきましょう。アマテラスの称号を統一王朝に取られた大和族の一部は、何とか祭祀王の称号を取り返そうとします。このままではスサノオの息子で初代天皇のニギハヤヒの天下ですよね。そこで念使いの集団を使ってニギハヤヒの周りに結界を張り巡らせるなど妨害工作を開始すると同時に、「出自不明の大国主」を抱き込もうとします。大国主はスサノオの娘と結婚して出雲族の王となった人物でしたね。記紀では、高天原を追放され出雲国に降り立ったスサノオの子孫、あるいは実の息子ということになっています。でも大国主さんは、どうやらスサノオの子孫でも実の息子でもないみたいなんですね。私が考える結論を先にお伝えすると、越の国などにいた原日本人の子孫か、あるいは古代ヘブライ人など大陸から来た人物ではないでしょうか。大国主の話を書くと長くなりそうなので、大国主が何者なのかの考察は、次回にいたしたいと思います。(続く)
2011.02.28
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この日はUFO雲のオンパレードでした。午前10時ごろから午後3時ごろまで、ほとんど同じ場所に停滞しておりました。このような日もあるんですね。
2011.03.14
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次に、これも秦氏が創建したとする説もある八幡神社を見ていきましょう。八幡神社は全国に約4万4000社あり、大分県宇佐市の宇佐神宮を総本社としています。稲荷神社に次ぐ多さです。ご祭神は、誉田別尊(応神天皇)とされる八幡大神(はちまんおおかみ)、宗像三女神とみられる比売大神 (ひめのおおかみ)、それに神功皇后です。なぜ秦氏が関与したのではないかとの説があるかというと、秦一族の大量移民を受け入れてくれたのが、主祭神となっている応神天皇だからですね。秦氏が感謝の意味を込めて、応神天皇を主祭神とする神社を作ったとしても、まったく不思議ではありません。しかも、宇佐神宮の宇佐の地は、神武天皇の東征や神功皇后の三韓征伐(実際は新羅征伐)の際の重要な拠点であり、当然、朝鮮半島から逃げてきた秦一族の多くもここに住み着いたことが推察されます。新羅は、紀元前2世紀末から4世紀にかけて存在した辰韓の後継国家です。で、その辰韓というのは、「秦韓」とも呼ばれ、中国の秦朝の労役から逃亡してきた秦人の国ともされ、言語も秦人(秦朝時代の中国人)に類似していたと言われているんですね。ここでも一つの物語が浮上してきます。弓月の君らが当初、日本に亡命できなかったのは、新羅が邪魔したからでした。つまり辰韓から新羅に移行する過程で、秦人の難民が朝鮮半島に溢れましたが、彼らが持つ養蚕など高度な技術を流出させないようにするため、新羅が日本への移住を邪魔したというシナリオです。そこで神功皇后が新羅と戦い、さらにその子応神天皇の時代に、葛城襲津彦によって弓月の一族を救出したわけです。もちろん、違った解釈をすることもできます。新羅は秦人の国の後継国でしたが、苦役を強いた秦の始皇帝の末裔である弓月の君の一族のことを許せず、日本への亡命を邪魔した、とするものです。いずれにせよ、宇佐神宮のご祭神となっている神功皇后と応神天皇は、弓月の君を祖とする秦氏の恩人であったことに間違いがないように思われます。(続く)
2018.10.08
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最初に、なぜスサノオの四男のオオトシが大物主ことニギハヤヒなのかを説明しましょう。オオトシが大物主であることは『古事記』の記述からも明白です。大物主神は、「国作り」を前にして参謀のスクナヒコナを失い途方に暮れているオオナムヂを助けた神ですが、その物語の直後にオオトシの神裔(神の子孫の系統)が記されているからですね。ある神の活躍の物語が記された後に記されるのが神裔ですから、当然大物主はオオトシのことであったとわかるわけです。では、どうして大物主がニギハヤヒであることがわかるかというと、大物主の正式名称が倭大物主櫛甕魂命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)で、『日本書紀』でもオオモノヌシは「お前(オオナムヂ)の奇魂(くしたま)」であると答えているからです。「櫛甕魂」と「奇魂」は「櫛玉」のことです。で、この「櫛玉」の称号を持つ神と言えば、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこ あめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)」しかいません。また、大神神社の由緒では、オオナムヂの和魂(にぎたま)であるとしていますが、「ニギ」はまさにニギハヤヒの「ニギ」にほかなりません。オオトシ=大物主を系図から読み解くこともできます。『古事記』によると、三嶋湟咋(みしまのみぞくい)の娘の勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)という美人を気に入った美和(三輪)の大物主神は、赤い丹塗り矢に姿を変え、勢夜陀多良比売が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、彼女の下を流れていくときに、ほと(陰所)を突いたといいます。彼女は驚き走り回ったあと、すぐにその矢を自分の部屋の床に置くと麗しい男の姿に戻ります。こうして二人は結ばれて、生まれた子が富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすすきひめ-)であり、後に「ほと」を嫌い比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)と名を変え、神武天皇の后となった、とあります。この物語では、オオモノヌシは「丹塗り矢」に姿を変えています。丹塗り矢は、松尾大社のご祭神で「鳴り鏑(鏑矢)」の異名を持つオオヤマクイです。で、オオヤマクイはオオトシの子ですから、オオトシの分身、すなわち「姿を変えた大物主」となります。必然的に、オオトシは大物主であり、ニギハヤヒということになりますね。ちなみにヒメタタライスケヨリヒメとはイスズヒメのことです。で、大物主ことニギハヤヒが賀茂氏と秦氏を結びつける一大功労者であったことは、三輪山の由来からもわかるんですね。なぜなら三輪山こそ、「美和」であり「三和」の象徴。すなわち、スメルに源流を持つ三部族――アマテラスの天族、スサノオの神族、ツクヨミの月族――の融和・和合のシンボルに他ならないからです。(続く)
2018.10.14
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神武の父であるウガヤフキアエズは、海神族・オオワタツミの娘タマヨリヒメを正妃としたことになっています。これが混乱を来す原因でもあります。というのも、タマヨリヒメはほかにもいるからです。魂が依るのですから、巫女の役職名だからしょうがないのですが、同時期に同じ肩書き(玉依)の巫女が複数登場するから解釈が困るんですね。そのもう一人のタマヨリヒメというのが、既に紹介したミシマミゾクイ(スエツミミ)の娘のタマヨリヒメです。神武と結婚したイスズヒメの母親ですね。で、さらに混乱に拍車をかけているのが、賀茂伝説(「山城国風土記」逸文にみえる賀茂神社の縁起譚)でタケツノミの娘がタマヨリヒメであったとされていることです。仮にもし、この同時代の三人のタマヨリヒメが同一人物だとしたら、どういうことになるかというと、タケツノミはミシマミゾクイであり、オオワタツミであった、という結論に至ります。すると、記紀神話の物語自体が破たんしてしまうんですね。海神の国にいた王が、八咫烏ことタケツノミになってしまいます。また、神武は同母異父妹と結婚したことになりますね。しかしながら、これを矛盾なく説明することも可能です。ウガヤフキアエズが結婚したのは、タマヨリヒメの姉であるトヨタマヒメで、神武が誕生した後に姉が亡くなったので妹のタマヨリヒメが乳母として神武を育てたとすることです。このプロットは、記紀神話ではウガヤフキアエズに使われています。実母が出産後に海帰ったので、妹のタマヨリヒメが乳母としてウガヤフキアエズを育てた。そしてこともあろうに、ウガヤフキアエズは自分の乳母と結婚して神武らを生んだと記紀神話は言います。まあ、なくはない話ですが、ちょっとひどいプロットですよね。だけど実は、ウガヤフキアエズではなく神武のときにタマヨリヒメが乳母となったとすればいいのです。つまり、神武とイスズヒメは同母異父兄弟ではなくて、従兄妹(いとこ)婚になりますね。実はこの系図に関係する口伝が正統竹内文書に残っているそうです。タマヨリヒメは神武の正母ではなく、乳母であった、と。ここから類推されることは次の通りです。・オオワタツミの長女トヨタマヒメはウガヤフキアエズと結婚して、神武らを儲けた。・オオワタツミの次女タマヨリヒメはオオヤマクイと結婚してイスズヒメとクシミカタ(鴨王)を儲けた。では、タケツノミはミシマミゾクイであり、オオワタツミだったのでしょうか。その答えはわかりません。ただ、オオワタツミとは海軍王の称号のようなものだとしたら、八咫烏ことタケツノミがオオワタツミであってもおかしくはありません。で、タケツノミはアジスキタカヒコネなどいくつもの別名をもっていましたから、三島ミゾクイでも、スエツミミにもなりえるわけです。アジスキタカヒコネは古代イスラエルの血統を持つとみられるオオナムジの子ですから、既に神武にもその正妃イスズヒメにも古代イスラエルの血が入っていたという可能性が浮上するわけです。(続く)
2018.10.19
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竹内氏の『帝皇日嗣』が面白くかつ凄いのは、たった二、三行の文言で、記紀の記述によって信じられていた物語のプロットや系図が音を立てて崩れ落ちることです。「八岐大蛇を束ねていた巫女王(みこおう)が沼河姫でした」と言うだけで、もしそれが本当なら、一つの論文が書けてしまうくらいインパクトがあります。 すぐにわかるのは、「沼河姫」が越の巫女王(みこおう)の世襲名であるということです。スサノオとクシナダヒメの時代に巫女王だった沼河姫が、その一世代後の大国主とスセリビメの時代に大国主の側室としても沼河姫が出てくるわけですから、世襲・役職名としか考えられないわけです。 次に考えられるのは、クシナダヒメが実は沼河姫なのではないかということですが、これは竹内氏が何も書いていない以上、推測するしかありません。 でも、ここで問題として浮上するのは、出雲族は末子相続でスサノオの末子スセリビメが王位継承者であったのに、スセリビメの母親の名前が『古事記』のどこを探しても出てこないことです。越国の女王との和睦によりスサノオとクシナダヒメが政略結婚して、ヤシマジヌミという長男が生まれたとしか、『古事記』の読者は知らされていないのです。当然、竹内氏は知っているはずですが、おそらく極秘伝のために明かしておりません。 そもそもスサノオの子供たちの母親は、宗像三女神の母親がアマテラスで、四男の大年の母親が神大市姫であることがわかっているだけで、木(紀)の国の王となった次男五十猛命(大屋彦)の母親すら明かされていないんですね。 もっと怪しいのは、出雲国の王位継承者であるスセリビメの婿養子となった大国主とスセリビメの間にできたであろう子供が存在しないことになっていることです。それはあまりにもひどい扱いです。私は本当に二人の間に子どもがいなかったのか、竹内氏に聞いたことがあります。 そうしたら「隠されているだけです。ちゃんと書いてあります」というんですね。私が「まさか神屋楯比賣とか?」と聞くと、竹内氏は「その通り。だって神ですよ、神。神になれる女王はスセリビメ以外にいますか」と言うんですね。私は仰天しました。なぜ私が仰天したかわかる人は、かなりの神話通、古代史通です。(続く)
2020.05.22
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とうとう出ることになりました。苦節一年半。人類史上最大の奇書とされる『オアスペ』の全貌を明らかにする大作です。全体の内容を紹介するとともに、秋山氏とともに丁寧に解説していきます。『世紀の啓示書「オアスペ」の謎を解く!』6月14日にアマゾンで販売開始し、書店に出回るのは6月20日ごろの予定です。
2020.05.29
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祭祀王ヌナカワヒメの血脈(あるいは霊脈)がどのように綏靖天皇にまで継がれていったのか――その明確な答えを得るのは非常に難しいです。それでもいくつかのシナリオを想定することはできます。二つの場合にわけて考えてゆきましょう。 (スセリビメとヌナカワヒメが別人の場合) タケミナカタを儲けたヌナカワヒメがスセリビメとは別人の場合ですね。このシナリオでのヌナカワヒメの候補は、同じ宗像三女神でも二女のイチキシマヒメです。自分がムナカタなのですから、ミナカタの名前を息子に付けたとしても不思議はありません。 おそらくイチキシマヒメはアメチカルミズヒメとしてスサノオの四男オオドシことニギハヤヒと結婚、オオヤマクイ(丹塗矢)を儲けています。そのオオヤマクイとタマヨリヒメが結婚して生まれたのがイスズヒメですから、ヌナカワヒメの祭祀王の称号は、タマヨリヒメからイスズヒメへと渡り、それが息子の綏靖天皇へと引き継がれたのではないでしょうか。(スセリビメがヌナカワヒメの場合) このシナリオではスセリビメと大国主の間に生まれたタカテルヒメにヌナカワヒメの祭祀王の称号が渡ったはずです。そのタカテルヒメはおそらく次の二人と政略結婚しています。一人はニギハヤヒで、アメノミチヒメとして結婚、アメノカグヤマを儲けます。もう一人は八咫烏ことタケツノミ(アヂスキタカヒコネ)で、アメノミカジヒメとして結婚、タギツヒコを儲けています。タギツヒコは二代目タケツノミとしてタマヨリヒメとも結婚した可能性がありますから、タマヨリヒメにヌナカワヒメの称号が渡り、イスズヒメがそれを継承したという見方ができます。あるいは、アメノカグヤマはウガヤフキアエズと同様に熊野の神であることを考慮すると、ヌナカワヒメの称号はアメノカグヤマから神武の母親であるトヨタマヒメに渡り、それが神武を介してイスズヒメ、その子綏靖天皇に継承されたのかもしれませんね。 いずれにしても、越の国の祭祀女王の称号であったヌナカワヒメは、神武とイスズヒメの結婚によって綏靖天皇ことカミナヌカワミミノミコトに継承されたことはほぼ間違いのない事実だと考えています。 結構複雑な政略結婚を重ねた結果誕生した大和王朝ですが、その入り組んだ血統をわかりやすく説明してくれるのが、「天」と「神」と「大」です。たいていの場合、正式名称の前に付きます。大きく分けて三つの系統があったことが名前からわかります。すなわち天孫日向族、出雲神族、大年神流大和族の三つの系統ですね。次回はこの三つの系統で、その複雑な系図を読み解いてゆきましょう。彼岸花が咲く季節となりました。よく観ると、三つの系統に分かれています。自然界でも三つに分かれることが多いですね。
2021.07.27
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何とまぶしい夏の青空。白くて大きい入道雲にも圧倒されます。龍神やら風神やら、いろいろな顔が見えるところが面白いです。
2021.08.03
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「神」「天」「大」のほかに出てくる「高」についても書いておきましょう。高はタカミムスビこと高木神の「高」です。その娘がアマテラス(天照大御神)ことヨロズハタトヨアキツシヒメ、またの名タクハタチヂヒメです。アマテラスはアメノオシホミミと結婚して、ニニギを儲けました。ただし、竹内氏の『帝皇日嗣』によると、次男ニニギのほかに、長男アメノホヒ、三男ヒコホホデミ、四男ウガヤフキアエズを儲けているそうです。このアマテラスの夫と四人の子供の五柱の男神が、誓約で誕生したことになっています。ここまでが『帝皇日嗣』で明らかになったことです。で、この「高」という名がどのように世襲されたかと言うと、最初に登場するのは、タカヒコネ(アヂスキタカヒコネ)とタカヒメです。大国主と宗像三女神の長女タギリヒメの間に生まれた息子と娘ですね。つまり高木神の「高」は、娘に「タク」として伝わり、その孫に「高」として継承されたことがわかります。ところがここで問題が起こります。そのタカヒメと結婚したアメノワカヒコが高木神を裏切って出雲神族側についてしまったんですね。怒った高木神はアメノワカヒコを射殺します。残されたタカヒコネは、出雲神族と天孫日向族の板挟みになります。そして「こんなのやってらんない!」とばかりに、アメノワカヒコの喪屋をけ飛ばして逃走します。このときオオドシを頼って大和の葛城山に拠点を置いたのだと思われます。その証拠に葛城山麓の奈良県御所市には、全国のカモ(鴨、賀茂、加茂)神社の総本社とされる高鴨神社があるでしょ。ご祭神は、アヂスキタカヒコネ。高木神の「高」族であったことがわかります。同時に賀茂(鴨)氏の祖神であることもわかるわけです。つまりタケツノミですね。その高鴨神社から葛城山を仰ぎみると、中腹に高天彦(たかまひこ)神社があります。そのご祭神が、アヂスキタカヒコネの祖父・高木神とその孫イチキシマヒメになっています。高族の痕跡が残っているんですね。ではなぜ、高木神とともに孫のイチキシマヒメが祀られているかというと、それは宗像三女神の次女であるイチキシマヒメとスサノオの四男であるオオドシが政略結婚したからです。「大」が「高」の二人(タカヒコネとイチキシマヒメ)を受け入れて、ある程度の協力関係を築いたと解釈できるわけです。そのことは『日本書紀』にもそれとなく書かれています。高木神が大物主神ことオオドシに対して「わが娘のミホツヒメをお前に娶らせて妻とさせたい。八十万の神たちを引き連れて、長く皇孫のために守ってほしい」と頼んでいますね。この「わが娘ミホツヒメ」が高木神の孫イチキシマヒメである可能性は高いとみます。またの名をアメチカルミズヒメと言います。しかし、ここに問題があります。それがタカテルヒメなんですね。母は高津姫。「高」族の正統な後継者のような名前を持っています。だけどこの高津姫の正体は宗像三女神の三女タギツヒメなんですね。次回は、タギツヒメから始まる「高」の秘密について論じてみましょう。天孫高族の正体?
2021.08.06
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さて、出雲国(葦原中国)の正統な王位継承者はスサノオの末子のスセリビメであるはずなのに、なぜスサノオの四男の大年が神器を持っていたのかという問題があります。おかしいですよね。本当だったら、スセリビメに渡るはずの神器です。その前になぜ大年に神器が渡ったことがわかるのか、という話をしなければなりません。理由の一つ目は、さすがの記紀編纂者もそれだけは認めざるを得なかったらしく、ちゃんとニギハヤヒが神器「十種神宝」を持っていたと明記していることです。二つ目はニギハヤヒの正式名称が天照国照彦天火明櫛玉饒速日命となっていることです。天照、国照という祭祀王の称号だけでなく、「櫛」「玉」「火」などの神器が渡っていることがすぐにわかる名前になっています。なぜ大年がニギハヤヒと同一人物であるかは既に説明しましたが、『古事記』に御諸山(三輪山)の神である大物主が大年であることが明確にわかるように書かれているからですね。当時、大和地方の王になった人物と言えば、ニギハヤヒしかいませんから、大物主はニギハヤヒであることがわかるわけです。ではなぜ神器が渡ったのか。私は何か大きな理由があるのだと思って、正統竹内家の口伝継承者である竹内氏に聞いてみました。すると答えは「スサノオと大年の間で大げんかがあったからだ」というものでした。これが本当だとすると、親子喧嘩の果てに大年が神器を持って大和地方に”家出”してしまったことになりますね。親子で袂を分ったわけです。何とも複雑なスサノオ家の実情です。大年が持って行ってしまったから、正統な王位継承者であったスセリビメには神器がなかったことになります。しかし、いつ神器が大年の手に渡ったかについては、次のようなケースも考えられます。大年ことニギハヤヒは一度、スセリビメの婿養子である大国主ことオオナムヂを助けたことがあるんですね。ナガスネヒコ軍に追い詰められたナムヂを窮地から救ったのが大年でした。ナムヂを補佐していたスサノオの兄とみられるスクナヒコナは、どうやらナガスネヒコとの戦闘で命を失ったようです。で、大年はナムヂを助ける条件として三輪山に祝い祀ることを挙げています。「三輪山に祝い祀る」とは、ナムヂが神器を大年に渡した上に、大年を正式に大和の王と認め、従えということだったのかもしれませんね。このことを知っていると、『古事記』の出雲神話がよく理解できるようになります。今の話を念頭に置いて、もう一度よく『古事記』を読んでみてください。
2015.12.21
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テレビでしか見ていませんが、すごい地震と大津波です。被災地の方々に心よりお見舞い申し上げます。こちらも揺れましたが、ほとんど被害は出ておりません。大津波警報の発令により、海岸線にお住いの方々がこちらに避難する騒ぎはありました。今更ながらに津波の破壊力に驚かされます。被害が最小限に抑えられ、災害から一日も早く復興されることをお祈り申し上げます。
2011.03.11
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母はいかなる宗教も必要としていませんし、信じてもいません(その点では私も同じです)。そのためかどうか知りませんが、輪廻転生も死後の世界のことも決して認めません。そこで私が「では死んだら人間はどうなるの?」とたずねます。母は「死んだら真っ暗。何もなくなるのよ」と言います。私はさらに聞きます。「それでは、生まれる前はどうだったの?」母は答えます。「生まれる前も真っ暗。何もなかったのよ」なるほど。巷の脳生理学者が言うように、すべての超常現象が脳の作り出す錯覚や幻想だとしたら、死んだ後や生まれる前に自分と言う魂が存在しているはずはありませんね。魂が不滅であることも認めるわけにはいかないはずです。つまり肉体が滅びれば、すべては「土」に返り、無になるわけですね。「でももし輪廻転生があるとしたら、どうするの?」と私。「そんなの真っ平御免よ。もう十分に生きたわ」と母。まあ、そういう考え方もあるでしょう。そんな母ですが、頭のガチガチな科学至上主義者とは違って、UFOや宇宙人などの不思議な話は大好きなんですね。私がこれまでに取材したUFOや宇宙人の話をすると、目を輝かせて聴いてくれます。母の口癖は「死ぬ前に一度でいいからUFOを見たい、宇宙人に会いたい」です。私がふざけて「宇宙人なら目の前にいるじゃない」と自分を指さしながら言うと、母は「あんたじゃ駄目よ。だって鼻も目も口もちゃんとついているじゃない」と笑います。母にとっての宇宙人は、鼻や目や口が普通についていてはいけないみたいなんですね(笑)。この大宇宙にはどのような宇宙人が暮らしているんでしょうね。夜空に瞬く星々を見上げながら、いつか母にUFOを見せてあげたいな、と私もつい考えてしまうのです。
2011.03.23
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今日はちょっと話が脱線しますが、昨日書いた「原日本人(縄文人?)」という表現について修正しておきます。私はこれまで、縄文人=原日本人ではないかとみて議論を展開してきましたが、厳密に言うとそうではないという「声」がどこからともなく聞こえてきます。確かに縄文人は原日本人と言えるのですが、どうやら原日本人がすべて縄文人かというとそうではないと「声」は告げているようです。どういうことか、と聞き返すと、大体次のような答えが返ってきました。今から1万2000年前、ちょうど大洪水があった後の時期と重なると思うのですが、日本列島には多数の縄文人と少数の「別の人種」がいたようです。別の人種の人たちは縄文人よりも体が大きくて、鼻が大きくて高いなど顔立ちもまったく違っていました。そして、縄文人とはあまり混じり合わずに山の上の方で暮らしていたとの感触を受けます。「そのような骨格の人骨は、発見されていないではないか」との疑問に対しては、「骨がいったい地中でどれだけの間残っていると思っているの?」との「返答」がありました。まあ、少数の別の人種の骨が見つかることは、かなり可能性が低いと言えそうですね。唯一のヒントは、ニギハヤヒのために最後まで戦ったとされるナガスネ彦にあるかもしれません。さて、平地に住む縄文人にとって、「別の人種」の人たちは、白い扇を持って天を飛ぶ「山の天狗」のような存在だったでしょうか。実際彼らは、空を飛ぶ技術を持った「技術集団」でもあったのだと声は告げているようです。便宜上、彼らを「天狗族」とでも名付けておきましょう。天狗族は山を使って連絡を取り合う技術も持っていました。「声」は、それが羽根ラインの原型であると言います。ご存知のように、羽根ラインは奥能登の大室山、富山市の呉羽山、それに岐阜県の位山を結んだラインでもありましたね。やがて天狗族の一部が理想を求めて、あるいは冒険心から大陸へと渡ります。中には日本列島に残った人たちもいたようです。大陸に出て行ったグループが、アマ族、つまり武内宿禰さんがいうところのシュメール人となった人たちだと思うんですね。そのアマ族の人たちは二つのグループに分かれて、何世紀もの放浪の果てに紀元前4,5世紀ごろ日本に戻ってきたのではないかという説はご紹介したとおりです。ただし、大陸に渡ったアマ族のうち、今から5000年前の紀元前3000年ごろに日本に戻ってきたグループもいたのではないでしょうか。アマ族の人たちが紀元前4、5世紀に日本に戻ってきたときには、ごく少数の天狗族と多数の縄文人がいたわけですね。アマ族である出雲族と大和族の人たちは縄文人を次々と制圧してゆくのですが、天狗族の人たちは山に隠れて固唾を飲んでその情勢を見守っていたように思うんですね。もちらんアマ族とは同類、同種の人たちですから、彼らが山に暮らしていることを出雲族も大和族も知っていた節があります。私の感触では、ユダヤも天狗族もほぼ同じ立場であり、出雲族や大和族の人たちよりも技術集団の色彩が濃かったのではないかと思っています。(続く)
2011.03.08
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知人が祖父らから聞いたという皆神山の「神様の話」に近いことを言っているのが、新宗教「大本」(大本教)の二大教祖の一人出口王仁三郎です。王仁三郎は1898年、京都府亀岡市の高熊山で修行をしている時に神懸かりとなり、富士山と皆神山に霊体で連れて来られたのだそうです。その後も王仁三郎は、皆神山で言語を絶するような崇厳な神秘体験をして、皆神山の真の意味を悟ったようです。皆神山について王仁三郎は、「信濃の国松代町の郊外にある皆神山は尊い神山であつて、地質学上世界の山脈十字形をなせる地であり、世界の中心地点である。四囲は山が十重二十重にとりかこんで、綾部、亀岡の地勢と些(すこ)しも違はぬ蓮華台である」と、『月鏡』に書いています。大変な持ち上げようですね。蓮華台とは蓮華座のことで、蓮華の形に作った仏・菩薩の像の座のことです。まさに世界の中心の神の座の意味があります。で、この『月鏡』を読むと、なぜ陸軍参謀本部が大本営を皆神山に遷(うつ)そうとしたかの理由がなんとなくわかってくるんですね。王仁三郎は次のようにも書いています。「大石凝真素美(おおいしごりますみ)翁は、此地に帝都をおかれたなら万代不易の松の代を現出することが出来ると主張し、世界中心遷都論を唱へて囹圄(れいご:牢屋のこと)の人となつた事実がある。真素美翁ばかりでなく外にもさういふ説を唱へた人があるが、最近飛行機が盛になるにつれて東京は安全の地でないと云ふ見地から、信州遷都論が一時或有志によつて伝へられた事があるが、全く此皆神山は蓮華の心に当つて居るのだから、四方の山々に砲台を据ゑつけてさへ置けば、如何なる飛行機をもつてしても襲ふ事は出来ぬ安全地帯である。こんな要害のよい所は、世界中外にない。霊界物語にある地教山は此山である」大本教は弾圧されましたが、海軍だけでなく陸軍にも大本教のシンパは大勢いたと思うんですね。だからこそ、陸軍参謀本部は皆神山を大本営の移転先に選んだのではないでしょうか。また、大本教の説明によると、皆神山については次のように書かれています。「無限絶対無始無終の真神から、霊系の厳霊大神(げんれいおほかみ)と体系の瑞霊大神(ずいれいおほかみ)が鳴り出でられましてより数十億年、厳霊大神の経綸の中心地の一つが天教山(富士山)となり、瑞霊大神の経綸の中心地の一つが地教山、すなわち世界ではヒマラヤ山、日本では信州の皆神山となりました」出てきましたね「霊系の厳霊」と「体系の瑞霊」。厳霊と瑞霊が何かを定義するのは難しいのですが、厳霊が神霊界や精神世界で働く「素材」や「力」だとしたら、瑞霊はこの世とか物質世界で働く「素材」や「力」であると考えてもいいのではないかと思っています。このように、出口王仁三郎によると、富士山が霊系の厳霊大神が働く中心地で、皆神山は体系の瑞霊大神が働く中心地であることになります。何か似ていますよね、前日のブログに書いた、私の知人の話と。ただし、富士山ではなく位山になっていました。神様が霊体として降臨した中心の場所が位山で、物質的なモノを作ろうとした中心の場所が皆神山でしたね。やはり皆神山には、物質界で働く何かがあるんです。(続く)
2015.09.10
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私にはまだ疑問がありました。仮に天狗族という少数の技術集団が古代日本に縄文人とは一線を画して山の中で暮らしていたとしたら、多数の縄文人たちが暮らす場所に地名を残すことはできなかったと思うんですよね。たとえば、羽根という地名です。この地名を後世に残すとしたら、里で暮らしている人々に溶け込まなければできませんね。すると、インスピレーションはこのように告げます。「だから(縄文人たちは)女性を(山の上に住む天狗族に)ささげたでしょう。ただし(ヤマタノオロチのように)食べたりはしなかったけどね」おやまあ、このインスピレーションさんがおっしゃることが本当なら、縄文人たちは山にいる天狗族に女性をプレゼントしたことになります。それにより縄文人と天狗族の間に「交流」が生まれ、お互いに行き来できるようになった。そうなれば、天狗族たちの拠点(基地)を示す「羽根」のような地名を残すことも可能だったのでしょう。「声」はそのように言っているようです。すると、スサノオに退治されたというヤマタノオロチは天狗族だったのでしょうか。それに対して内なる声はこう告げているように感じます。天狗族とは異なり、彼らを真似して人里から離れて棲み、人間に実験をするグループもいたのだ、とか。これは爬虫類系宇宙人のことを言っているのでしょうか。ちょっと謎ですね。そうした「ヤマタノオロチ」のようなグループと天狗族は区別する必要があるようです。さて、話を元に戻しましょう。鳥居の「居」という字を漢字字典で調べよとのお達しでしたね(笑)。白川静の『常用字解』によると、祖先を祀るとき、祖先の霊の代わりになって祀られる「かたしろ」と、「腰掛」が合体した漢字だそうです。そこから喪に服するときのように、儀礼のときにうずくまる姿勢を指すのだといいます。確かに鳥族や羽根族(天狗族)をうずくまらせた(服従させた)場所を鳥居と呼んだとも解釈できますね。もちろん、こうした大和族による東西に延びる帯のような「結界」は一朝一夕にできたわけではありません。その後何世紀にもわたる、出雲族の残党をはじめとする不満分子狩り、つまり「蝦夷討伐」の中で作られた結界のような気がします。そしてご存知のように8世紀後半から9世紀初めにかけて桓武が東北に派遣した坂上田村麻呂により、結界は完成をみるわけです。その話は以前、「出雲国譲りラインの謎」として月刊誌「ムー」に書いたとおりです。その「ムー」ですが、今日(3月9日)発売の四月号に私が書いた「伊豆半島ピラミッド・ラインの謎」が掲載されておりますので、ご興味のある方はお読みください。(続く)
2011.03.09
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オオナムジが古代イスラエルのガド族出身で、弓月の君がセブルン族ら失われた古代イスラエル10支族の末裔であったとすると、どうして賀茂氏と秦氏が強く結びつき、かつ出雲大社や諏訪大社、それに秦氏や賀茂氏に由来するとされる神社で開催される儀式や祭が、古代イスラエルの儀式や風習・歴史と酷似しているかがはっきりしてきます。出雲大社と諏訪大社は説明しましたから、京都の由緒ある神社を一つ一つ見ていきましょう。最初は、秦氏が8世紀に建立したとされる伏見稲荷神社(京都市伏見区)。全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社です。こんなにも有名な稲荷神社の総本社であるのに、その御祭神は結構、謎に包まれています。ご祭神は稲荷大神。主祭神・宇迦之御魂大神(うかのみたまおおかみ)ほか4柱の総称であるとされています。他の四柱の神とは、佐田彦大神、大宮能売大神(おおみやのめおおかみ)、田中大神(たなかのおおかみ)、四大神(しのおおかみ)です。その主祭神である宇迦之御魂大神は、「お稲荷さん」とも呼ばれる穀物の神様ですね。『古事記』によると、スサノオと大山津見の娘・カムオオイチヒメとの間にできた息子です。オオトシことニギハヤヒの弟ということになっています。佐田彦大神は、記紀神話に登場する猿田彦のことだと言われています。大宮能売(オオミヤノメ)は、宮殿の平安を守る女神であると考えられています。しかしながら、わからないのは田中大神と四大神です。稲荷神と何らかの深いかかわりのある神であると言われていますが、由緒がわかっていません。田中大神は文字通り「田の神」と思われますが、オオナムジ、猿田彦、タケツノミ説もあるようです。四大神に至っては、一柱の神名なのか四柱の神の総称なのかもわかっていません。穀物神・オオゲツヒメの御子神である若年神、夏高津日神、秋比売神、久久年神の四柱の神で、四季を表す神ではないかとの説もあるようです。こうした神々をどうして秦氏が祀ろうとしたのでしょうか。(続く)
2018.10.03
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実はオオナムジ同様、猿田彦は謎の神です。天孫降臨するニニギの前に立ちふさがった、眼光鋭く、鼻の大きな異形の神として描かれています。日向族にとって、キャスティング・ボートを握っていた重要人物であることに間違いありません。大きな鼻と言えば、秦氏とも関係が深そうですね。秦の始皇帝も大きな鼻を持っていたと書かれています。記紀神話からわかるのはここまでです。ところが、正統竹内文書の口伝には大変なことが伝わっています。猿田彦はもしかしたらキリストかもしれないと言うんですね。どうして竹内氏がそう思うかと言うと、猿田彦は五十鈴彦(イスズヒコ)と呼ばれた時期があり、その五十鈴彦は弟の石切彦(イシキリヒコ)と同様に中東方面から日本にやってきたキリストのことであるとの口伝があるからだ、といいます。キリストであれば、古代イスラエル人の末裔ですね。つまり秦氏と同郷の人ということになります。猿田彦が出自の全くわからない異形の神であるということは、仮にキリストではないにしても、遠い異国からシルクロードを渡ってやってきた古代イスラエル人の末裔で、かつツクヨミ族であった可能性は高いように思います。そうでなければ、これだけの影響力を持つことはなかったのではないでしょうか。記紀神話では、猿田彦がニニギを先導するという重要な役目を果たしたことによって、天孫降臨が叶ったのだと記されています。(続く)
2018.10.05
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秦氏が創建したとされる伏見稲荷大社のご祭神が、古代イスラエル人と関係が深い神々(人々)であった可能性について指摘しました。しかしながら、日ユ同祖論者らの中でこの神社が注目を集めているのは、「いなり」という言葉にあります。「いなり」は今日では「稲荷」と書きますが、おそらく「いななり(稲生)」の音変化ではないかとする説が有力です。その一方で、「いなり」は秦氏の氏神であり、最初は当て字で「伊奈利」と書いたのだという説も根強くあります。どちらの説にせよ、秦氏の氏神的な穀物神であったことは間違いないように思います。で、日ユ同祖論者らがこの言葉に注目する理由は、「いなり」が「INRI(いんり)」という頭文字から取ったのではないかと考えているからです。これはイエス・キリストのラテン語名称の頭文字を取ったもので、「Iesusu Nazarenus, Rex Iudaerorum」(ナザレのイエス、ユダヤ人の王)という意味だと言うんですね。秦氏がもし、ユダヤ的なキリスト教徒とも言える景教徒であったならば、秦氏の氏神がキリストであったとしても不思議はありません。すると、正統竹内文書の口伝でキリストであると伝わっている猿田彦(佐田彦大神)を祀っているのは、まさに秦氏は猿田彦がキリストであると知っていて、祭神として祀っていたということになります。ではなぜ、スサノオの息子である宇迦之御魂が主祭神にされているのでしょうか。これにはいくつかの解釈が可能です。たとえば、宇迦之御魂は穀物神であることから、別名で「御食津神(みけつかみ)」と呼ばれています。大気都姫(オオゲツヒメ)で説明しましたが、「みけつ」にも「月(げつ)」が隠されているように思われます。宇迦之御魂は「御月神」、すなわちツクヨミ一族の氏神という意味なのかもしれないわけです。あるいは、宇迦之御魂は「食糧大臣」という役職名、あるいは世襲名であった可能性もあります。ニニギの「天孫降臨」の功労者である猿田彦が、食糧大臣「御食津神」となったのであれば、矛盾しませんね。実際、『古事記』神話を読むと、アメノウズメとともに伊勢の地(五十鈴の宮)を任された猿田彦は、食物の管理と関係がある役職(伊勢湾での漁)についたかのような表現が見受けられます。また、猿田彦がスサノオの養子となり、宇迦之御魂になった可能性もありますね。そのスサノオにも、ツクヨミ一族の血が流れていたケースも考えられます。『古事記』では食物の女神オオゲツヒメを殺した(肉体関係を持った)のは、スサノオになっていますが、『日本書記』(一書第11)では食物の女神である保食神(うけもちのかみ)を殺したのはツクヨミになっているからです。宇迦之御魂が誰であったにせよ、宇迦之御魂の別名の御食津神(みけつかみ)を三狐神(みけつかみ)と結びつけて、キツネを稲荷神の使いとする稲荷信仰が生まれました。秦氏の氏神がキリストならば、ひょっとすると稲荷信仰はキリスト教信仰なのかもしれませんね。(続く)
2018.10.07
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手書きですが、これまで話した系図を簡単にまとめてみました。初めはスサノオとアマテラスの政略結婚から始まっています。その結婚で生まれた長女タギリと三女タギツを娶ったのが、スメル(シュメール)および古代イスラエルの末裔とみられるオオナムジ。タギリとオオナムジの間に生まれたのが、アジスキタカヒコネですが、出雲族と決別して、別名八咫烏ことタケツノミとなります。ここでは点線で「大綿津見」となっていますが、タマヨリヒメの父親がタケツノミであるとする『山城国風土記』が正しいとすると、大綿津見は海軍大将の意味でタケツノミが大綿津見であったことになります。一方、系図上大活躍しているのが、政略結婚をしまくったオオトシことニギハヤヒです。上の系図にも二か所で登場しています。そう言えば、『古事記』のオオトシの神裔はとても長かったですね。日向族のアメノチカルミヅヒメを娶って生まれたのは、丹塗り矢ことオオヤマクイ。ちなみにアメノチカルミヅヒメは、タカミムスビ(タカギカミ)の娘ミホツヒメの可能性があります。ニギハヤヒは、ナガスネヒコの妹であるミカシキヤヒメと政略結婚しただけでなく、高照姫とも結婚しています。高照姫は『古事記』のオオトシの神裔に記されている香用姫である可能性が高いです。で、その香用姫から生まれたのが、天香山です。別名は熊野の高倉下。竹内氏の口伝が正しいとすると、神武の父ウガヤフキアエズは熊野久須毘で出雲系の神であるとのことでしかたら、まさに熊野の神である天香山がウガヤフキアエズに該当するわけです。神武が熊野で苦境に陥ったときに助けたのは、高倉下の武力(武器庫)でした。さらに神武を先導したのは、神武の母方の祖父・ヤタガラスということになりますね。神武は出雲族の神たちに守られていたわけです。その証拠に、神武の正式名称は「神倭伊波禮毘古」です。既に説明したように、日向系は「天」を出雲系は「神」を頭に付けるでしょ。神武は、実は出雲系の王であったという動かぬ証拠となるわけです。(続く)
2018.10.23
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仮に神武天皇の父親が出雲神族系でなくとも、イスズヒメの父親は間違いなく出雲神族系(正確には大年神流大和族)のオオヤマクイですから、「神」の呼称が神武天皇に渡ったとしても矛盾しません。そしてその「神」の名は「ヌナカワ」の世襲名とともに息子のカムヌナカワミミに引き継がれたと私はみます。ほかにも懿徳、孝霊、孝元など歴代の天皇に「大日本」を冠した名前が付けられたのも、大年神流大和族の流れを意識した呼称であることは間違いないと思われます。二世紀半ばになると、大和国は内乱の時代に突入しますが、それを救ったのが第九代開化天皇と第十代崇神天皇。二人とも大年神流大和族直系の母親を持ちます。開化天皇の兄はオオビコですから、まさに大年の「大」が付いています。私が第101代卑弥呼(日御子)と比定しているオオタタネコも「大」が付いていますね。間違いなく大年神流の血統を継ぐものです。だから大物主神を祀る祭主になれたわけですね。第100代卑弥呼のヤマトトトヒモモソヒメではいけなかったのです。ヤマトトトヒメならOKです。なぜなら彼女もまた、大年神流の直系オオヘソキの娘イカシコメが母親だからです。その辺のことは、それとなく『日本書紀』に記されていますね。このように「天」、「神」、「大」、それに今回は説明しませんでしたが、タカミムスビの「高」の名を冠した正式名称にはそれぞれの王族の血流を示す意味がちゃんとあるのです。それを念頭に記紀を読むと、より分かりやすく物語を理解することができるのではないでしょうか。
2021.07.31
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天孫高族の流れでは、高木神から娘のアマテラス、その娘のタギリに「高」が継承されたのはほぼ間違いないと思われます。アマテラスの別名タクハタチヂヒメの「タ」とタギリヒメの「タ」はおそらく「高」から来ています。そしてタギリヒメの子供がタカヒコとタカヒメですから、明確に高族であることがわかります。さて、問題の宗像三女神の末子タギツヒメことタカツヒメ(高津姫)ですが、タギリヒメと同様にスサノオとアマテラスの子であれば、当然「高族」の血統なのですが、竹内氏の『帝皇日嗣』によると、高津姫ことタギツヒメは、実はスセリビメであることになります。というのも、『帝皇日嗣』ではカムヤタテヒメはスセリビメであると伝わっているからです。カムヤタテヒメがスセリビメであるという証拠は、ほかにもあります。それが「ヤ(屋)」です。カムヤタテヒメの「ヤ」は娘タカテルヒメの別名「ヤオトメ(屋乎止女)」に引き継がれています。ヤオトメは「八乎止女」とも書きますね。神に奉仕する八人の巫女を指します。スセリビメの母親は、八つの川の頭領(越の八岐大蛇)を束ねていた祭祀女王「ヌナカワヒメ」でした。その娘のスセリビメがそこから「ヤ(屋)」をもらって、「カムヤタテヒメ(神屋楯姫)」となったと推察することができるわけです。カムヤタテヒメは事代主の母親ですが、『先代旧事本紀』では高津姫であると書かれています。そして国宝の「海部氏系図」にはカムヤタテヒメとはタギツヒメのことであるとしています。それらを総合すると、スセリビメ=カムヤタテヒメ=タギツヒメ=タカツヒメとなります。すると当然、スセリビメはスサノオの連れ子であって、アマテラスの子ではありませんから、高族の直系ではないことになります。高木神からすると、義理の孫です。その義理の孫に「高」という称号が付いたことが面白いんですね。「高」がスセリビメに渡った理由は、おそらくニギハヤヒことオオドシが天火明として天孫日向族の系図に組み込まれた理由と同じです。出雲神族の正統な後継者を天孫日向族の系図に入れておかないと、自分たちの正統性を主張することができなかったのではないかとみます。クマノクスヒのケースと似ていますね。タカテルヒメの「高」は、タカテルヒメ(別名ヤオトメ、アメノミチヒメ)とニギハヤヒの間に生まれたアマノカグヤマに受け継がれます。アマノカグヤマの別名は、『帝皇日嗣』に書かれているように「タカクラジ(高倉下)」であることから、それがわかります。タギツヒメの系統から継承された「高」は、タカヒコネ(高鴨)やタカヒメからどこに受け継がれたのでしょうか。おそらくタケツノミの「タケ(タカ)」、タギツヒコの「タギ(タカ)」として継がれ、タマヨリヒメの「タ」への流れになったのではないでしょうか。三女神のうち残るイチキシマヒメの別名とみられるミホツヒメ(高木神の実孫)から、ホツ(フツ)や玉として「高」が継承された可能性もあります。そのイチキシマヒメとニギハヤヒが結婚して生まれたのが、後にタマヨリヒメと結婚してヒメタタライスズヒメを儲けた「朱塗り矢」ことオオヤマクイです。タタラは蹈鞴のこととされていますが、意外と「タカラ(宝)」とか「高良」のことではないかと思っています。
2021.08.08
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あくまでも私の推測ですが、スメル族の2グループが日本へ戻る道のりは、紆余曲折の連続だったのではないかと思います。なぜなら、シュメール人が突然消えたのは、紀元前2000年ごろとされています。そして彼らがようやく日本にたどり着いたのは、どうやら紀元前4、5世紀ごろなんですよね。その間、1500~1600年間もシュメール人(スメル族)はあちこちを放浪していたことになります。まあ、中にはもっと早くに日本に戻ってきた人たちもいたのかもしれませんが、それについてはよくわかりません。第73世武内宿禰さんの話に戻ります。スサノオのグループ(後の出雲族)は陸路日本へ向かい、北九州に上陸します。一方、スメラミコトたち(後の大和族)は、海路日本に向かい、九州の南にある高千穂に上陸(天下り=海下り)しました。そしてそれぞれのグループは、当時日本にいた「原日本人」たちをどんどん征服していくんですね。やがて紀元前4世紀ごろ、この二つのスメル族のグループの間で戦いが勃発。一進一退の攻防が続きます。そのころの出雲族は日本海側を支配、大和族は瀬戸内海を海路東進し、近畿地方に入ります。一時は出雲族スサノオと大和族アマテラスの間で政略的な結婚が成立するなどして和睦がありますが、大国主の息子の事代主が王の時代に再び戦争となり、大和族が出雲族を制圧します。その結果、大和族の王であった神武(サノ彦)が事代主の娘を娶り、大和朝廷が確立します。紀元50年のころだと言います。このとき大和族の武内宿禰は、出雲族の物部から八雲叢雲十種神宝の行法を奪ったので、いまでも正統竹内家にこの行法が伝わっているそうです。敗れた出雲族は関東・東北地方に逃げ、のちに蝦夷(エゾ、エミシ)となります。最初から日本にいた人たち(縄文人、原日本人)は、サンカとなりました。(続く)
2011.02.25
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またまた話が複雑になってきたので、これまでの話を整理しますね。シュメール(あるいはパミール高原のアマ族)の末裔とみられる出雲族と大和族が、それぞれ陸路と海路を使って紀元前4、5世紀ごろ「日本に戻って」きて、原日本人を制圧してゆきます。やがて出雲族と大和族の間で覇権争いが始まり、一進一退の攻防の末、和議があります。その和議で、出雲族の王スサノオに大和族の巫女であったアマテラスが嫁ぐこと、その子が統一王朝の初代天皇になることなどが決まります。それとは別に出雲族の王、大和族の王がそれぞれいたという図式ですね。スサノオの息子が統一王朝の初代天皇になるわけですから、出雲の王がいなくなってしまいます。そこでスサノオは、娘のスセリヒメと結婚した大国主に出雲王の称号を与えることにしたのではないでしょうか。大国主はスサノオの子孫ではなく、実は娘婿だったんですね。さて、問題の大国主さんです。武内宿禰さんから、大国主は「出自不明」であると初めて告げられた時は、私も意味がよくわかりませんでした。大国主は出雲族の人間だと思っていたからです。でも、どうやらそうではないみたいです。ではどこの人間だったのでしょうか。ヒントは大国主の神話である「因幡の白ウサギ」に出てくる和邇(ワニ)にあるように思うんですね。ワニは外国、大陸のものですから、日本にいないのになぜワニが出てくるのでしょうか。一説にはワニはワニザメのことだとしてサメであると主張する人もいるようですが、10世紀に書かれた『和名抄』には、『古事記』と同じ和邇の表記を用い「和邇は」「四足があり」、「鰐のこと」であると明記したうえで、大鹿が川を渡るとき之を中断すると記してあるそうです。そう、まさしく、あのアフリカなどに生息する鰐のことなんですね。『和名抄』には別途「鮫」の記載がありますから、ワニと鮫は明確に分けられていたんです。神話の内容からしても、サメの背中を渡るのでは、物語がイメージできません。やはりワニの背中をウサギが渡るのであれば、納得できるわけです。因幡の白ウサギの話は外国で起きた話となります。とすると、大国主は外国人なのでしょうか。その可能性は高いと思うんですよね。というのも、それは彼の呼称にあります。そもそも大国主とは大国を治める帝王という意味ですね。それは島国や出雲国というより大陸の国を連想させます。また、大国主の別称は「葦原醜男・葦原色許男神(あしはらしこを)」でもあるんですね。醜男なのか色男なのかはっきりしませんが、かなり個性的な人物だったに違いありません。ここも私の推測ですが、個性的な出で立ちですぐに思い浮かぶのが、天孫降臨の神話に出てくる猿田彦です。「鼻長七咫、背長七尺」と書かれていますから、かなり鼻が長くて、大男だったとみられます。しかも目が八咫鏡のように輝いていたと言います。この猿田彦もいかにも外国人っぽいですよね。大国主と同郷でしょうか。この猿田彦が大和族たちの「天孫降臨(統一王朝の乗っ取り)」を助ける、あるいは手引きする役目を果たすんですね。もしかしたら記紀では、大国主を「国譲りの大国主」と「手引きをした猿田彦」にわけた可能性もあります。そしてこの猿田彦の故郷が伊勢国の五十鈴川の川上であると知って、「ああ、なるほど」と合点がいくのです。(続く)
2011.03.01
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宿禰さんの言うように今から5000年前に越の国の尖山に東アジアの首都があったのだとしたら、富山県などの北陸やその周辺(岐阜、新潟)にはかなり高度な技術を持った天狗族(天空浮船族)が暮らしていたのではないかと思うんですね。奥能登の宝立山、羽根海岸から60キロ離れた富山市の呉羽山、羽根神社に子午線を引き、さらには位山、岐阜県萩原町の羽根、愛知県岡崎市の羽根、そして赤羽根まで、総延長240キロの南北線である羽根ラインを作ってしまうような高度な測量技術です。その子午線は、西から順番に白山、位山、尖山、下田富士を通る4本の経線であったのではないかと思います。天狗族の人たちは、この子午線を基準にして日本列島を正確に測量、地図を作製したのではないでしょうか。まさか越の国にそのような文明が開けていたはずはないと思われる方もいるかもしれませんが、実は日本神話にはそのことを臭わす説話が残っています。その一つが記紀に記されたヤマタノオロチの神話、そうしてもう一つが江戸時代に記された『肯構(こうこう)泉(せん)達録(たつろく)』に残っている越中の伝説なんですね。(続く)と、ここまでがフリーページに掲載しておいた「出雲族と大和族の話」です。明日からまだ公開していない第23話を掲載します。ヤマタノオロチの謎の解明に挑みます。
2011.03.25
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「大和族お得意の系図改ざん」とは、何なのでしょうか。武内宿禰さんは言います。「ニギハヤヒと大年(大歳神)とアメノホアカリは同一人物なんですね。ニギハヤヒはスサノオの息子で、大物主でもありました。大物主は世襲名です。ところが大和族お得意の系図改ざんにより、大物主をニギハヤヒ、大年、アメノホアカリの三つにわけてしまった。そして大年は出雲族の祖先、アメノホアカリは大和族の祖先ということにして、大和族の正統性をねつ造、さらにニギハヤヒに分けることで歴史を隠したのです。正統竹内文書は、その改ざんされる前の歴史を残しています」武内宿禰さんは大和族のご出身なのですが、とても面白い「内部情報」を教えてくれますね。さらに武内さんはこのように言います。「私は日本史の講師なのでこんなことを書いたら×をもらいますが、古事記と日本書紀は大和族の一部であった中臣家の藤原不比等が右大臣だった時に、自分に都合のいいように書かせたものです。不比等は鎌足と天智天皇の子供です」ここからはまた私の推測なのですが、大和族にとってはとにかく出雲族出身のニギハヤヒが初代天皇であることにするのはまずい、と思ったのでしょうね。それでは出雲族とは対等になってしまう。そこで大和族を天孫族・天津神と位置づけ、天から下った神のように装いました。海から下った(海路やって来た)ので、天下ったというわけですね。陸路来た出雲族を土着の神々、つまり国津神とします。もともと大和族にはアマテラスという祭祀王(女王)の称号がありましたから、アマテラスを天孫族の祖先として神格化。さらには日本にやってきたときの大和族の王イザナギと妻イザナミを「アマテラス」の両親に仕立て上げます。厄介なのは出雲族の王フツとその息子のスサノオの存在です。そこで大和族は、フツは存在しなかったことにします。さらにスサノオは、乱暴狼藉を働いた、あるいは高天原を奪おうとしたとして天から追放されたことにしてしまいます。まあ、当時は出雲族と戦争の最中で、スサノオはおそらく出雲族の武将だったでしょうから、大和族から見れば手におえないぐらい強かったのでしょう。だから大和族の作った神話では、ボロクソに言われるわけです。神話でいうアマテラスとスサノオの誓約(うけい)とは、まさに出雲族と大和族の第一回目の和議のことを指しているんですね。この時はおそらく出雲族のほうが戦いで優勢だったのでしょう。アマテラスの称号(を持つ巫女か王女)が出雲族に渡ってしまいます。アマテラスの称号が大和族からなくなってしまった。これが大和族側の言う「アマテラスの岩戸隠れ」になるわけです。誓約(和議)により、スサノオは大和族のアマテラス(巫女か王女)と結婚までしている以上、国津神扱いにもできないので、スサノオをイザナギとイザナミから生まれた息子、アマテラスを姉にしてしまうという、「お得意の系図改ざん」をしたわけです。(続く)
2011.02.27
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大地震があったこともあり先週の金曜日、母と父の様子を見に東京の実家へと出かけてきました。母は東日本で起きた大地震とニュージーランドで起きた地震をごっちゃにしているらしく、テレビで流れるニュース映像を見て「あら地震があったのかしら。ニュージーランドは大丈夫だったの?」と私に聞きます。そう、母は、私が普段ニュージーランドにいると思っているんですね。そこで、ニュージーランドで暮らしているのは私の姉で、私はいま日本に住んでいること、それに今テレビで報道している地震は、一週間前に日本で起きたことだと伝えます。母は、一週間前に東北・関東地方が大地震と大津波に見舞われたことも忘れてしまったんですね。だからテレビで津波の被害に遭った地域の映像が流れるたびに、初めて知ったかのように驚きます。母との対話を楽しむようになって久しいです。私が母に「お元気ですか?」と聞くと、母からはいつも「生きているよ」と返事が返ってきます。「何か異常はなかった?」と聞くと、母は「あっても忘れたわ」と答えます。私は時々ふざけて「今年で何歳になったの?」と母に尋ねます。今回は「57歳ぐらいかしら」との答えが返ってきました。答えは、その時によって50代や60代、あるいは70代になります。そこで私が「じゃあ、私は何歳だと思う?」と応じると、「さあ、いくつかしら35ぐらい?」と母は答えます。私が正直に52歳であることを告げると、母は驚いて「そんなになったの!? じゃ、私はいくつかしら」と、いぶかります。母はちゃんと生年月日は覚えています。1928年生まれ。そこで私が新聞を見て今年が2011年であることを告げると、母はちゃんと計算して自分が83歳であることを導き出すんですね。母は元気です。それが何より。実家に3泊4日滞在しましたが、その間毎晩、お互いのボケ防止のために(笑)、三人でマージャンをやりました。自分の指を使って牌を並べ、手を使って牌を運び、頭を使ってゲームをするのは、何よりの頭の体操です。もっとも、真剣勝負のマージャンではなく、遊びのマージャン。すべて手の内をオープンにしてワイワイガヤガヤ、ああだこうだ言いながら遊びます。遊べるのが何より。まだまだ青春はこれからですね(笑)。
2011.03.22
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巨麿さんが公開した竹内文書同様、宿禰さんが口承伝授された正統竹内文書も、神々が地球に降臨したところから始まります。口伝では、神々は北極星、昴、オリオンの三ツ星からやってきたことになっていますが、宿禰さんは天孫降臨=宇宙人飛来説はとっていません。生命の元となる魂がそうした宇宙からやってきたと解釈しているそうです。途中の歴史は端折って、何度かの天変地異を経て現代の地球文明が始まった時代に進みます。今から1万2000年ほど前、世界各地で大洪水が起きた後、最初の文明を築いたのは日本であったと宿禰さんは言います。「縄文文化」と呼ばれていますが、確かに実質的には世界最古の文明であった可能性が強いですね。やがて最初の文明を築いた人たちは世界中に散って行き、文明を広めて行きます。日本から大陸に渡った人たちは、理想の国を大陸に求めたのだそうです。大陸に渡った人たちの中には、のちに出雲族となるグループと、のちに大和族となるグループがいました。彼らは別々のルートでメソポタミアにたどり着き、合流。太陽を信仰するスメル族、すなわちシュメール人と呼ばれ、そこに古代文明を築きます。シュメール人の最大都市はスサと呼ばれ、スサの王をスサノオと呼んだそうです。スサノオは政治・軍事をつかさどる王として君臨し、のちにこの政治・軍事グループは出雲族となります。一方、それとは別に祭司をつかさどる者たちをスメラミコトと呼んだそうです。スメラミコトの祭司グループはのちに大和族となります。そのあと、突然シュメール人たちは姿を消すのですが、どうやら一部は中東まで行きユダヤとなったグループもいたみたいです。なぜシュメール人たちは、メソポタミアの地を去ったのか。それは自然と共生するという彼らの古神道的な理念や信仰が、厳しい砂漠の風土に馴染まなかったのだと宿禰さんは言います。砂漠の地方では自然は人間に敵対するものでしかなく、理想とは程遠い地であった――。失望したシュメール人たちは、再び二手に分かれて日本に戻ることにしたのだそうです。(続く)
2011.02.24
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大和(日向)族がなぜ、出雲族と一致協力して国を築くことに反対したのか。その真の理由はわかりません。先に着いたものが日本を支配するのは当然だと思ったのか。そうだとしたら、すでに日本に暮らしていた人々こそ先住権がありますよね。それは出雲族にしても同じ話です。考えられるのは、それほど武力や技術力において大和族と出雲族が突出した存在だったということなのでしょう。さて、その大和族と出雲族の抗争ですが、初期の戦闘における出雲族の勢いに押された大和族が和議を申し出て、イザナギとイザナミの娘アマテラスを出雲族フツの息子スサノオと結婚させます。この婚姻により二部族間の結びつきが強まり、協力して日本を治めるという目的が達せられたかに思われました。ところが、大和族の一部のグループは出雲族との協力関係を快く思っていなかったようです。彼らは強力な呪術集団で、結界を張ったり呪術を施したりするなどして出雲族を排除するように画策。ほどなく大和族と出雲族が再び対立するようになります。おそらく大和族は事前に戦争を予期して準備を整えていたのでしょう。出雲族は次第に劣勢となり、東へ東へと追いやられ、諏訪から東北へと敗走します。こうして大和族の神武は出雲族を追い出して、「初代天皇」として大和政権を樹立するわけです。同時に歴史を改ざんし、本来は(おそらく連合政権の)初代天皇であったニギハヤヒの役割を大和族に都合のいいように変えてしまうんですね。その後も大和政権は出雲討伐の手を緩めませんでした。桓武の時代には坂上田村麻呂を東北に派遣して、蝦夷として出雲族を征討しました。さて、いまご紹介した大和族と出雲族の抗争の歴史は、チャネラーの北川恵子さんの説ですね。私はその説をそのまま信じているわけではありませんが、妙に合点が行く部分もあり、一つの有力な説として興味深く記憶に留めておきました。そしてこの話を聞いてからしばらくして、非常に似たような話を聞くことになります。それが拙著『竹内文書の謎を解く』の第3部にも登場する、古神道の神主であり第73世武内宿禰の称号をもつ「むっちゃん1217」さんの説だったんですね。(続く)
2011.02.21
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長く風雪に耐えていた我が家のしだれ梅が今日、満開となりました。自然はただ淡々と、このように生の営みを続けているんですね。慌てもせず、惑わされもせず、風にも負けず、ただ淡々と。
2011.03.16
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ここで登場人物の関係がややこしくなってきたので、整理しながら話を進めましょう。武内宿禰さんによりますと、出雲族と大和族の覇権争いでは、大和族が最初優勢でしたが、出雲族が反撃し、一回目の和議があります。その和議で、出雲族のスサノオと大和族のアマテラスが夫婦となりました。スサノオには息子ニギハヤヒと娘スセリヒメができますが、娘は大国主と結婚します。大国主は出雲の王となります。ニギハヤヒは物部氏の先祖となる人物ですが、正式名称はアマテラス クニテラスヒコ アメノホアカリ クシタマ ニギハヤヒノミコトというのだそうです。つまりアマテラスとニギハヤヒノミコトは同一人物であることになるんですね。ここからは私の推測で、今度むっちゃんに会ったときに聞かなければならないのですが、アマテラスとは祭祀を行う巫女(女王)、あるいは祭祀王の称号だったのではないかと思うんですね。大和族の巫女(アマテラス)とスサノオの結婚により生まれた子供であるニギハヤヒに、祭祀王アマテラスの称号が与えられたわけです。ここで北川恵子・アリオンの主張で、日本の初代天皇はニギハヤヒノミコトであったという説が思い出されますね。つまり第一回目の出雲族と大和族の和議で、スサノオとアマテラスの政略結婚の結果生まれたニギハヤヒノミコトが統一王朝の初代天皇になることが決まっていたかもしれないわけです。問題はその次です。実は宿禰さんにもどこから来たかわからないというのですが、スサノオの娘スセリヒメと結婚した大国主です。出自不明だというんですね。とにかく、出雲族の王となった大国主とスセリヒメの間に事代主が生まれます。宿禰さんのよると、この事代主が王(おそらく出雲族の王)の時代に、再び出雲族と大和族の間で抗争が勃発します。そして結果は大和族の圧勝に終わり、出雲族は敗走するわけですね。再び私の推測ですが、戦争に勝利した大和族の王である神武は統一王朝初代天皇のニギハヤヒに対してアマテラスの称号、そして「大物主」という初代天皇の称号を渡せと迫ったわけです。出雲族という後ろ盾を失ったニギハヤヒは、圧力に屈して、すべての称号を返上します。この時、「大和族(後の大和朝廷)お得意の系図改ざんがあった」と、第73世武内宿禰さんは言います。(続く)
2011.02.26
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再び「縄文の美」にテーマを戻します。今日ご紹介する一品はこちら。縄文中期の遺跡である山梨県笛吹市の一の沢遺跡から出土した人体文土器です。これも冊子に掲載された写真を転載しているものですが、この写真が実にいいんですね。撮影したのは、小川忠博氏。普通に写しただけでは、なぜこれが人体文土器なのかわかりませんが、小川氏は縄文土器の紋様だけを取り出して360度の紋様を一枚の連続写真にしてくれました。それがこちらです。4パターンの人体のような模様がクルクルと踊りを踊っているように見えますよね。まるで音符か記号のようにも見えます。この写真を見てもわかるように、縄文土器の四方向に、人体を表わしたような紋様のパターンが四つ施されています。しかもどのパターンもとてもお洒落です。四神の原型と見ることもできます。ここまで洗練された紋様となると、もはや文字か音符と同質のものであるとしか思えませんね。縄文時代の人々は、この土器を回しながら眺めて、歌でも歌いながら楽しんでいたのではないでしょうか。
2015.12.22
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