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USM1さん
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萌芽月さんComments
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「襲われた」鳥たちに別れを告げると、すぐにイースト・ポイントの中心に到着した。
「イースト・ポイント」と題された看板には、「our military heritage」、オーストラリア軍遺跡とでもいうようなサブタイトルがある。
ここイースト・ポイント、そしてダーウィンは、オーストラリア建国後、オーストラリア本土で初めて他国に攻撃されたという、オーストラリアにとっては国家的にメモリアルな場所。その攻撃した国とは、他ならぬ日本である。
オランダ領東インド(現在のインドネシア)を占領していた日本は、対抗しようとする連合国軍の基地があった北部オーストラリアに対し攻撃を加えようとした。1942年2月19日午前9時58分、ダーウィンに対し188機の日本の戦闘機により最初の空襲が開始され、戦艦、市街地及び飛行場に甚大な被害が発生した。公式には243名の死亡が確認されているが、実際にはさらに多数の方が亡くなっているとの説もある。その後も日本軍は空襲を繰り返し、ダーウィン及びその周辺に対し64回もの攻撃を行ったほか、その他のノーザンテリトリー、クィーンズランド州、西オーストラリア州北部の町に対して攻撃を行った。
しかしながら、オーストラリアの北東に位置するソロモン諸島方面でアメリカ軍が勝利を収めた1943年頃に戦局は転換、1943年11月12日の空襲が最後となった。
オーストラリア政府は、厳しい検閲を行い、空襲やこの地域で発生したことに関する情報を伏せようとした。オーストラリア国民は何も知らない方がよいだろうと判断したのである。しかし、その代わりとして、オーストラリア国民は、食糧や弾薬が不足し、危険や不便と隣り合わせで、日本軍が退却するまで何か月も何年もの間過ごしてきたダーウィンの人々のことをほとんど知ることがなかったという。
イースト・ポイントの一角には、「ミリタリー・ミュージアム」があって、中には当時使われていた旭日旗(日本の軍旗)や寄せ書きされた日本国旗、兵器、戦車などが展示されているほか、9.2インチ砲の砲台が開放されている。
自分は、外国に来た時、なるべくその国と日本との間の歴史をその国で学びたい、と思っている。日本では見えにくい「歴史」がその国だとはっきり見えることがあるからだ。オーストラリアと日本、現在の良好な関係の過去には、このような歴史の積み重ねがある。そして、その事実は、被害を蒙った場所で語り継がれている。
<つづく>
参考資料:"When War Came To Australia"(ダーウィン・ミリタリー・ミュージアム内で配布されていたパンフレット)
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