『日本文化主義』尋牛亭日常の箴言

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 長い歴史ある日本と違い、中国とは異なる周辺民族よる殺戮支配が繰り返され、現在はハッチワークのように他民族を人権無視で無理矢理、共産党が束ねている国家という認識が正しい。

 中国や韓国とは究極のグローバルの格差社会で、汚職や賄賂も多く、既得権者たちが内政の失敗をごまかすため民度の低い反日国家になってしまっているようだ。多くの善良な人々が不幸ですね。


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わが国は、建国の理念にたちかえり、家族国家を取り戻すこと。そのために、ひとりひとりができることをする。それが日本の日本人が、すべきことなのではないか。大東亜戦争の教訓と体験に学び戦死した人々を無駄死にさせないようにするためには国益のため『日本文化主義』の文化防衛という考え方でリーダシップのある類い稀な資質、明確な目的意識とアイデアを持った首相(大統領制にした方が国際社会に政治的アピールもよいのだが、いまの政治家たちは分かっていない)になってもらいたい。『
日本文化主義 』に期待したいと考えています。 ブログランキング・にほんブログ村へ
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日本最古の茶碑(高山寺・京都市)

 高山寺(京都市)にある日本最古の茶園碑。
茶の原産地は中国・雲南省といわれ、漢のころから四川省を中心に栽培されるようになり、唐代には「茶」という字がつくられた。日本においては、宋へ渡っていた禅僧・栄西が1191年(建久2年)に臨済禅(りんざいぜん)といっしょに茶の種を日本へ持ち帰って栂尾(とがのお)(現在の京都市右京区)に高山寺(こうざんじ)を開いた明恵(みょうえ)に贈ったのがはじまりだといわれる。明恵は境内にその種を蒔き全国にひろめた。栂尾の茶を「本茶」と呼び、他の産地の茶は「非茶」と呼ばれ明確に区別されてきた。

 室町時代になると喫茶の流行はしだいに洗練されて茶の湯として確立しはじめた。同時に庶民のあいだでも京都を中心として喫茶は広く普及し、このころになると、最高級を誇っていた栂尾の茶を追い抜いて宇治が生産量第1位の茶の産地として認められるようになった。

 「宇治七銘園」(朝日、川下、祝、宇文字、森、奥山、批杷)があらわれたのはこのころである。宇治産が日本最高の茶に育てあげられたのは、足利義満が宇治に幕府の茶園を開いて大名、公家がこれに倣ならった結果いっそう名があがったともいえるが他にも大きな理由が二つある。

 覆茶の店古図.jpg下を描いた古図(提供/泉秀樹氏)一つめは「覆下(おいした)」という製茶技術の発明である。「覆下」とは茶の木を日陰に入れてしまうことである。覆いをかけて室むろのようにして新芽を育てる。「簀下(すした)十日、藁下(わらした)十日」といい、立春から百日ほどたった5月中旬の茶摘みの日から20日前を基準にして、太陽の光を遮断する。

 その後、茶師は自分の茶園を見回って摘むべき樹に紙札を結びつけ、茶摘みの女衆にこの目印のついている樹の生葉と呼ぶ新芽だけを摘みとらせる。選択は厳格で雨の降る日は摘まない。「露芽(つゆめ) 」といわれ、品質が落ちるからである。てっぺんの芽とそれに一番近い2枚の 腋芽(わきめ)をつむだけで「一芯二葉(いっしんによう)」とか「一槍二葉(いっそうによう)」といわれている。

 宇治茶の質をさらに上質なものに育てたもうひとつの理由は、肥料にあった。寒肥、春肥をはじめ、茶を育てるためには毎年7、8回も肥料を撒かなければならない。それも、大量に、である。となれば、堆肥をつくるための糞尿を、一定量、恒常的コンスタントに入手し、ストックする必要があった。 
宇治川の流れを利用.jpg                                                                                                    宇治川の流れは工場で製造する化学肥料などない時代だから、利休は卓越した構想力で京都という当時の繁華で豊かな大都会や秀吉が築いた伏見城やその城下町で毎日排出される糞尿に目をつけて、これを、人員を集めて確保し、組織して宇治川) つまり、京都北郊の 栂尾は周山街道の道幅が狭すぎて肥料が大量に運べなかったという重大な欠点があったので、茶業を育てることができなかった。それに比べて宇治川の船による糞尿輸送力は無限だから、茶の栽培面積も生産高も飛躍的に大きくなっていった。

 しかし、これら肥料に関する記録はまったくない。茶が高貴な、あるいは富裕な人々の口に入るものであったため、関係者は京都や伏見の人々が排泄する糞尿から馥郁(ふくいく)たる香りを放つみごとな味の茶が生まれることを記録しなかったのだろう。

 卓越した構想力と芸術家としても美学の才能がある利休は豊臣政権中枢にあって内々の政治的仕訳に隠然たる影響力を持つようになった利休の手紙に「今一度、橋立(はしだて)の極上(ごくじょう)を一服申度いっぷくもうしたく候そうろう」(宛先・日付とも不明)という言葉がある。

 茶壷を宇治の茶師・上林久茂(かんばやしひさもち)に送って、手初めの茶(その年の最初に摘んだ茶の葉)を詰めてもらうことになっていたことを示す文書で、「橋立」という秀吉が所望しても利休が手離さなかった名物の壷に詰めた「極上」の茶をもう一度さしあげたいという手紙である。

 「極上」とは碾茶(てんちゃ)(抹茶)の等級で当時は極上、別儀(べつぎ)、極揃(ごくそそり)、別儀揃(べつぎのそそり)、上揃(じょうそそり)の5品位に分け、最高の茶は「白袋(しらぶくろ)」と呼んでいた。「極上」の値段は1斤(約600g)銀60匁(約225g)であった。


茶摘みの古図 茶摘みの古図。上林と書かれた旗が見える(提供/泉秀樹氏)この手紙に出てくる茶師・上林はそのころ宇治の一大茶業家であった森彦右衛門を抑えて浮上した丹波出身の一族で、現在でも当時と同じ宇治橋西一丁(宇治市宇治妙薬)に店舗と居宅を構えている。

 利休は自ら宇治へ赴いて畑の茶の樹を吟味し、茶詰めに立ち会って選び、大名に斡旋していたのだ。上林家と早くから手を組んで一種のブローカー的な仕事も行っていたのだった。上林家は秀吉の信任を得ていたころの利休との密接な連携によってそれまで宇治を支配する力を持っていた森一族をおさえて、宇治郷の代官になって活躍できるようになった。

 そして、徳川幕府の時代を迎えると茶を製造販売する上林家ら茶業家は「茶師」に任じられて定期的に江戸へ茶を送る役割を課せられるようになり、宇治は日本一の茶所に成長した。これはひとえに利休の地場産業を育てる卓越した構想力で再構築されたシステムだったことが分かる。

 そのように産業育成での功績のあった利休(宗易)だったが、1591年(天正19年)2月28日、豊臣秀吉の命によって70歳で切腹した。切腹の理由は諸説あって明確ではないが、とにかく秀吉の逆鱗げきりんに触れたのである。

大徳寺山門 これが原因として最も有名なのは京都・大徳寺の山門の上に利休がみずからをかたどった木像を置いたという事件がある。大徳寺の山門の下を、秀吉はもちろん身分の高い人々が通る。したがって、たとえ天下の茶の湯の名人といえども、位を持たない利休自身の像を上に置く不遜を、秀吉は許すことができなかった。寵愛していた利休だったからこそ、余計に裏切られたと強く感じたとか、「内々の儀は宗易(利休)へ、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と口癖のように述べたという秀吉が大徳寺山門利休木像事件により利休に切腹を命じたとされているのが定説になっているが、卓越した構想力のある利休の切腹の真相は違うのではないかと考えられる。

 この刑はいかにも重すぎるとして、秀吉の実母や秀吉の弟秀長が利休の命乞いをしたが、利休自身がこれを拒んだという。芸術のために命を捧げる強い意志とプライドが拒んだのにちがいない。秀吉は絶大な政治的権威をもっていた。
南宗寺(京都市)にある利休の墓
 しかし、秀吉は茶の湯にいくら熱中しても利休の芸術的権威を本質的に理解していたとは考えにくい。切腹を命じられた理由は無謀な朝鮮出兵に反対したからだとも、利休がキリシタンであったからだとも、何人かいた娘の一人を秀吉の妾にという話を断わったとも、茶室で秘密裏に家康を毒殺する秀吉の命令を断わったことによるといわれるが、いまだにはっきりこれと特定できてはいない。その時代の闇社会や政治の裏の内々の力が大きくなり過ぎ、宗易の才に秀吉の力が及ばなくなるのではないかという危機感を強く持ったのだと考えるのが妥当だろう。

 確かな事は茶坊主の宗易は才能の過信を休む、というように利休と改名した。謝罪や口添えを断って、利休として結局、秀吉の言うことを聞く秀吉の母や秀吉の絶大な信頼ある秀吉の弟の秀長にも命乞いをせず、自決という武士の作法としての切腹を選択したことだ。

 ここらで自立した国にしないと、そして日米関係もこの位の構想力と覚悟がなければ、自民党政権のように、これからも永遠に米国の属国のように外国のために税金がかかることだけを要求されるのだろう。それにしても右でも左でもない良識ある普通の国民からみても昨年夏の衆議院選挙前からずっと既得権官僚のマスコミへの違法リークは酷過ぎるので何んとかしてもらいたい。







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Last updated  2010年01月19日 02時38分37秒 コメントを書く
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