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2023.01.16
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本のタイトル・作者



テヘランでロリータを読む (河出文庫)

本の目次・あらすじ


第1部 ロリータ
第2部 ギャッビー
第3部 ジェイムズ
第4部 オースティン
エピローグ

感想


2023年007冊目
★★★★★

小説を読まない、という人が言っていた。
誰かの頭の中で考えられただけの架空の話を読むなんてどうかしてる。


図書館や書店に行けば、何より人気な「本」は小説なのだとわかる。
なぜ人は小説を読むのだろう。
作り物のそれを求めるんだろう。

戦時下のウクライナで、人は本を読んでいるのだという。
電気が来ないなか、紙の本を。

コロナで緊急事態宣言になった時、日本でも多くの人が本を読んだ。
遠くなっていた、失われていた「読書」という行為。

なぜその状況にあって、人は本を読むのだろう。
なぜ人は、フィクションを必要とするのだろう。
何の足しにもならない、それらを。

NHKラジオ「高橋源一郎の飛ぶ教室」11月11日放送の回で、「教え子たちとの秘密の読書会」として取り上げられ、読んでみた一冊。

それは第1部で、それ以前に著者が大学で教えていたときの話が第2部。
ラジオでも紹介されていた、イラン・イスラーム共和国対『グレート・ギャッツビー』の裁判を授業で行った手に汗握るシーンは、第2部のもの。
全編が教え子たちと教師との読書を通じた対話…のような内容だと思っていたら、違った。

フィクションの持つ力とは、何なのか。
あるいは英文学の文学論。

弾圧と戦時下のイランを生きた、著者の回顧録。

そのどれものジャンルに当てはまり、すべてを内包したひとつの重層的な「物語」。
著者は、文章を書くのも上手く、比喩が妙。
私は「ウプシランバ!」と叫んだヤーシーが「新しい言葉を見つけたとたんに使わずにいられなくなるんです。夜会服を買った女性が映画やランチに着ていきたくてたまらなくなるみたいに」というところが好き。わかる!
著者の「『デイジー・ミラー』のあいだには、秋の葉のように空襲警報の音が潜んでいるだろう。」もすばらしい表現だ。


1950年頃、テヘランに生まれる。名門の出で、父は元テヘラン市長、母は国会議員。13歳から海外留学し、欧米で教育を受け、1979年のイラン革命直後に帰国し、テヘラン大学の教員となる。1981年、ヴェールの着用を拒否してテヘラン大学から追放される。その後、自由イスラーム大学、その他で教鞭をとる。1997年にアメリカに移住。1997年から2017年までジョンズ・ホプキンズ大学教授。現在、ワシントンDC在住


私はイランのことをよく知らず、読んでいてそんな事が起こっていたなんて、と驚いた。
そして今ウクライナで起こっていること、アフガニスタンで起こっていること、を思った。
繰り返すこと、変わらないこと。
それは遠い世界のことなんだろうか。

「ヴェール」に象徴されるもの

ヴェールを身につけるよう強要された女性たち。抑圧された彼女たち。
はじめ、これは「イラン」のことだから、と思った。
自由な日本で生まれた私には、想像できないな。
そう思って、ふと考える。
私たちのマスクと、もしかしたらそれは少しだけ、似ているかもしれない。

はじめ、それは自衛のためだった。
気にしている人が身につけたものだった。
花粉症の人が花粉から身を護るように。
あるいは意思表示でもあったかもしれない。
けれど次第に、それは義務になった。
そして、町中に貼り出される。
――マスクをつけていない方は入店できません。
その時はじめて、マスクが意味を変えてしまったことを知る。
選択の余地がもう、残されていないことを。

日本では「世間」が、マスクの着用を強いた。
仕方がない。当然のことだ。
「空気」が、「雰囲気」が、「同調圧力」が、それを当然のものとした。
別の国ではそれを法律が定めた。

イランでは、ヴェールの着用が禁止され、そしてまたイラン革命でヴェールの着用が義務付けられた。
この本でも、著者はヴェールの着用に抗う。
それは、「ヴェールそのものではなく、選択の自由の問題」なのだと。
著者の祖母は敬虔なムスリムで、「神との神聖な関係を象徴するヴェールが、いまや権力の道具になって、ヴェールをかぶった女性が政治的シンボルになってしまったことに憤慨していた」。
またこう言う人もいた。
「あの人たちはイスラームを売り物にしているーー ー度の人も次の人以上にイスラームをうまくパッケージしようとしているんです。」

なぜ、「彼ら」はーー男たちは、目に見えるかたちの成果を女に求めるのか。
制圧を誇示するために、見せびらかすために、なぜヴェールを被った女が必要なんだ?

13歳からのイスラーム [ 長沢栄治 ]

にあった。
イスラームの教えによると、女性は「表に出ている部分はしかたないが、そのほかの美しい部分は人に見せぬように」。
これが何のために当時書かれたのかを思えば、男がヴェールの着用を強いることはまったく馬鹿げている。
男が欲情するから?はああああん?あほか?
自らの理性のなさを外側に押し付けてんじゃねえよ。

男に従順であるように。男より賢くならないように。男より力を持たないように。
女を押さえつけて、支配する。
支配を、抑圧を、制度に組み込んで、法律に整えて、男に都合の良い世界を築く。

ただ女生徒のピンクの靴下がちらりと見えたと言うだけで処罰する。
保護が必要なのだと言いながら、処女性を何より尊びながら、陰では真逆の暴行が加えられる。

それが神の望んだことだというなら、ずいぶんな神様だ。
そいつは男で、人間の半分が女だということを忘れていたんだろうね。
自分が誰から生まれたのかを。

私はイスラム教徒でフェミニスト [ ナディア・エル・ブガ ]

ではこう言っていた。
イスラム教は本来的に女性を抑圧していたものではない、と言う。
それは男性たちに翻訳され、解釈されるうちに誤って伝えられてきたのだと。

しかし、これは宗教の問題か?
(それが本来の宗教の意図するところであるかという話は置いておいて)
世界中で、程度の差はあれ、同じことが起こっているんじゃないのか?

昔、遥洋子さんがテレビで仰っていたことをよく覚えている。
女性が襲われたとかそんな事件のニュースで、スタジオに「露出が激しい格好をしていた女性にも問題があるのではないか」というようなことを言った人がいて、彼女は本気でキレていた。

「女が裸で歩いてようが、そんなことは関係ないんだよっ!!」

私はその時はじめて、社会の言葉が、自分にも浸透していたことを知った。
そしてそれに抗うすべが、フェミニズムというのだということを。

現代の日本でさえ、枚挙に暇がないあれやこれや。
ニュースを見て何度も繰り返す怒りと、もうどうしたって変わりはしないという世界への諦め。

イラン革命では、はじめは緩やかな規制だったヴェールの着用は、やがて義務と変わる。
商店に入るにもヴェールを身に着けていなければ物を売ってもらえない。
著者は大学の教壇にも立てなくなる。

たとえばある日、「女性は男性より感染リスクが高いので、マスクでの生活を続けましょう」と言われたとする。
男性はみなマスクを外している。
ならばマスクを着けるか着けないかは、個人の問題じゃないか。
女性のなかに、マスクを外す人が出てくる。
いえ、だめです。女性はマスクを着けなくては。これはあなた方を守るためなのです。

スーパーに入る女性はマスクを付けてください、と張り紙が出る。
マスク不着用の女性入店お断り。
女性による抗議集会が開かれる。
けれど今度はそれが、「女性らしくない」からと叩かれる。
女は、マスクで口元を隠しているくらいが七難隠れて丁度良い。
むしろマスクをしている方が美人に見える。
マスクを外すのは、恋人か夫の前だけにするべきだ。

そうしてある日法律が施行される。
ーーー女性は家の外ではマスクを着用しなければならない。

数年後。
男性は大声をあけて笑っている。仲間と喋りながら飲み食いしている。
女性はその場で、目で微笑むことしか出来ない。
マスクを外せないから食べるときは女性だけの空間が設けられるようになった。

選択の自由の問題。
これを「ありえないことではない」と思う世界に日頃から生きているのが女で、「考えたこともない」のが男なのではないのか?と思うんだ。

私たちの場合、法律は節穴そのものであり、宗教も人種も信条もおかまいなしに女性を虐げた。


私はここを読んだときに、ハッとした。それは、

女であるだけで [ ソル・ケー・モオ ]

を思い出したから。「インディオで女」の二重の差別下にあるオノリーナは言う。

「あんたの言う法は何も見てやしないじゃないか。あんたの言う法はいい加減に目を覚まして、あたしたちにも平等に扱ってもらえる権利があるってことを教えてくれてもいいんじゃないのかい。」

この本を読んでいる間、私は「私がイランに生まれていたら」と何度も思った。
はたして私が男だったら、そう考えただろうか。

この違いはいつ、生まれたものなのだろう。
自分が虐げられるものになる可能性があるという前提を孕むこと。

それを神さまが作ったのだとしたら―――やっぱり私、そいつは男だと思うよ。

フィクションの持つ力

小説。物語。
誰かが考え出した話を、私たちは読む。
架空の人物が文字の上で動く。
紙の上のインクの染みでしかないそれを、なぜ人は必要とするのか。

著者は、「小説は現実逃避の手段」だと言う。
とてもではないけれど文学を論じている場合ではないような環境下において、なお人は貪るようにフィクションを読む。

奇妙にも、私たちはこうして逃げこんだ小説によって、結局はみずからの現実をーーー言葉にする術などないと感じていた現実を、問いなおすことになったのである。


目の前の出来事は、言葉を超えていく。
いま、ウクライナで、ロシアで起こっていること。
世界で起こってきたこと。今も起こっていること。

「これから流れる映像には遺体が映っています」というテロップ。
死体を包んだ布がどさりと穴に投げ込まれる。
私はそれを見る。その音を聞く。
けれどもう、それで、涙を流すことはない。
麻痺させて、感じないままに、生きていく。
自分の半径数メートル、手を伸ばして当たるところだけのことに日々汲々として。

本はシェルターになる。
自分の周りにぐるりと本を積み上げて砦を築き上げる。
何より安全なそこで息を潜める。

手に負えない世界を、無力な自分を。
ただバラバラと与えられるだけの手持ちのピース。
何が完成するのかもわからない一片。
そもそもこれは、ひとつのパズルなのか?

小説は、完成図が決まっているパズルだ。
手にしたピースを一つ一つ組み上げていけば全体像が見える。
だから私たちは逆のことを考えられるのかもしれない。

天から気まぐれに降ってくる、てんで勝手に与えられるピース。
その1つから、組み上げていく事ができるのじゃないかと。
あるいは自分がその1つを持っているのではないかと。

あらゆるおとぎ話は目の前の限界を突破する可能性をあたえてくれる。そのため、ある意味では、現実には否定されている自由をあたえてくれるといってもいい。どれほど過酷な現実を描いたものであろうと、すべての優れた小説の中には、人生のはかなさに対する生の肯定が、本質的な抵抗がある。作者は現実を自分なりに語り直しつつ、新しい世界を創造することで、現実を支配するが、そこにこそ生の肯定がある。あらゆる優れた芸術作品は祝福であり、人生における裏切り、恐怖、不義に対する抵抗の行為である。私はもったいぶってそう断言してみせた。形式の美と完璧が、主題の醜悪と陳腐に反逆する。


人はなぜ小説を読むのか?
誰かが頭の中で考え、字を組み合わせただけの言葉を有難がるのか?
それは、小説が、物語が、現実の「その先」へ行ける唯一の方法だからだ。

作家は、現実世界のごっちゃになったピースから慎重に使うパーツをより分けて、同じ色合いのピースをそれぞれ寄り集める。
ひとつの形式の額縁にはまった美しい画になるように。

その画の前で、読者は圧倒されて立ち尽くす。
そして読者は、そのそれぞれのピースの色を、それに近しい色を過去に実際に見たことがあることに気づく。
醜悪で陳腐な単片を、その手のひらに。

意味はない。そのゴミみたいなパーツに、意味はない。
何の意味も、理由も、必然性もない。
そう思ってきた。

けれど作品は、小説は、意味を与える。意味を認める。
意味がないという、その無意味に抗う。
もう一度構成する。改めて構築する。何度でも再定義する。
意味はある。そう信じるのだと。

だから私たちは、小説を読むのだ。
誰かの作り出した嘘の世界で、存在しない人間に心を寄せて。
心から楽しみ、喜び、怒り、悲しんで。

想像力によってつくりだされた偉大な作品は、ほとんどの場合、自分の家にありながら異邦人のような気分を味わわせます。最良の小説はつねに、読者があたりまえと思っているものに疑いの目を向けさせます。とうてい変えられないように見える伝統や将来の見通しに疑問をつきつけます。私はみなさんに、作品を読むなかでそれがどのように自分を揺るがし、不安な気持ちにさせ、不思議の国のアリスのように、ちがった目でまわりを見まわし、世界について考えさせたかを、よく考えてもらいたいのです。


イラン・イスラーム共和国対『グレート・ギャッツビー』の裁判で、西洋的頽廃はこき下ろされる。
悪影響を与えるような、こんな本を読んではいけない!
そこにある生徒は言う。
「スタインベックを読んだ人が全員ストライキをしたり西武に向かったりしましたか?メルヴィルを読んだからといって鯨をとりに行きましたか?」

そうではない。
なのになぜ、「彼ら」は小説をそこまで恐れるのか。
検閲、発禁。
これまで数々の作品が廃棄され、燃やされてきた。

それは、小説だからだ。
作品に感情移入をすることで、自分を問い直すことになるから―――価値観を根底から揺さぶり、自分を不安にさせて不安定にさせるから怖いのだ。

小説は寓意ではありません。授業時間が終わりに近づくと私は言った。それはもうひとつの世界の官能的な体験なのです。その世界に入り込まなければ、登場人物とともに固唾をのんで、彼らの運命に巻きこまれなければ、感情移入はできません。感情移入こそが小説の本質なのです。小説を読むということは、その体験を深く吸い込むことです。さあ息を吸って。それを忘れないで。


ひとはひとり、ひとつの人生をしか生きられない。
けれど小説は、数多の人生を経験させてくれる。

違う人間の目で世界を見たように、他者の靴を履いて歩くように。
まるで違って見える世界、まるで異なる世界がそこに立ち現れる。
本を閉じて現実の世界に戻っても、その魔法は続いている。
当たり前が当たり前ではなくなり、信じていたものたちは崩れ落ちる。
世界が、ぐらぐらと抜けかけの乳歯のように揺れる。
残った神経がひどく痛む。

だから小説を読まない人もいるのだろう―――冒頭の「誰かの頭の中で考えられただけの架空の話を読むなんてどうかしてる。ましてそれに感情移入をしたりするだなんて。」―――それはきっと、怖いからだ。
「ここからここまでが私」という自分。
固定された、「私」。

小説を読めば、自分を形作るものが何度も内側から侵食され、破壊され、作り変えられる。
だからこそ、人には本が必要だ。物語が必要だ。

透明な自分がこれまで手にしたピースで纏った、雑多な色。
無理矢理に組み上げたそれで、自分を作る。
外側から見えるように、これが私だとわかるように。
不格好で継ぎ接ぎだらけで、形を保つのには動かないほうがよい。
そうっとそうっと、息を微かに。

けれどフィクションが、あなたの衣を吹き飛ばす。

吹き上げられた紙片に、あなたは目を見張る。
あなたは初めてそこに、画を見る。意味を見出す。
地面に散らばった過去を、まばらになった残りのピースを貼り付けたあなたは見つめる。
そうして剥ぎ取られ、自分だと思っていたものが、まるで思い違いだったと気付く。

あなたは、大きく息を吸い込む。
深く深く、息を吸う。

さあ、何度でも拾い集めて新しい自分をつくろう。

だから人は、フィクションを読むのだ。

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最終更新日  2023.01.16 00:34:17
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