練習場所の予約が取れなかったからとコーラスが中止になり、ならばと映画館へ行ってきました。
原作は未読。
この映画に描かれていることは浅田次郎さんの創作ですが、少女たちが自ら死を選ぶといったことと似たことはあっただろうなぁと思わせる内容でした。年とともに涙腺がゆるくなってきているので、この映画でもグスッときました。
近衛第一師団・少佐 真柴役のの堺雅人さん 東部軍経理部・主計中尉 小泉役の福士誠治くん 曹長役の獅童さん 平和主義者の教師・野口先生役のユースケ・サンタマリアさんとそれぞれがぴったりとはまっているのも 映画にひきこまれていく重要な要因になっていると思いました。
特に たたき上げの軍人の役をやらせたらピカイチの(?)獅童。よかったな~、いい演技だったなぁと思うにつけ ムリして歌舞伎をつづけていくこともないのにとも思ってしまうのでした。ご本人は 「自分の芯は歌舞伎役者であること」と固く思っているのは知っているけれど・・・歌舞伎役者としての獅童にはここまで「いいなぁ~、素敵だ」と思うことがないのがねぇ・・・
泣かされて重い映画 でも観てよかった と充実した心持ちで映画館から出られた映画ではありましたが 「はて?」と思うこともいくつか。
真柴に命令を伝えに来る謎の軍人。2・26事件の兵の様な旧式のマントをはおってと台詞でも映像でも表わされていましたが。
2・26事件=理不尽な軍国主義の象徴 というのは短絡的な感じがしました。5・15事件、2・26事件と続いていく流れの中で 軍部の暴走に傾いたことは事実だと思う(そう習ったとも思う)のですが 澤地久枝さんの小説やNHKの2・26事件時の電話傍受記録ドキュメントなどで 反乱を企てた将校に貧しい東北地方の農家出身者も多くいて東北の困窮生活を愁い、同時に政財界の癒着に憤りを感じていたこと 若い将校たちを焚きつけた中堅幹部(?)たちは事件を起こさせておいて いざとなったら自分たちは知らぬ存ぜぬで梯子をはずして 反乱軍鎮圧に動き 事件後は軍部独裁の先鋒となっていったと聞きかじっていると なんかモヤモヤ。
読みなおしをしてないので間違った認識かもしれませんが・・・
祖父が帰宅して「どうも東京で大変なことが起きたようだ」と言っていたのが 後から考えると2・26事件の日だったとか。
祖父は 近衛兵だったこともあったので「近衛兵が前線に送られるということは 日本は戦争に負けるということだ」と敗戦前(いつごろかは不明)に母に話したそうです。
軍国教育のまっただなかにいた母は「日本が負けるなんて。なんてこと言うのだろう」と憤慨したようなのですが、祖父が正しかったんだよねぇと私に昔語りをしてくれました。(母は昭和6年生まれ)
四日市で奉仕作業に行っていた工場が空襲され 反対方向へ逃げていたら死んでいた(祖父母は 母は死んだものと諦めてたようで、家に帰ったら「生きてた」と喜びとほっとしたゆえの脱力で迎えられたとか)という経験をした母と 空襲はあったものの命の危機とまではいかなかったらしい父とでは 同じ戦争体験者でも緊迫度が違うと子ども心にも感じたものでした。
じかに体験した人の言葉の重みは大切に受け継いでいきたいと思います。
といいつつ、自分の子どもには話してないかもしれないなぁ・・・
自分の財産であると主張してたマッカーサーが 財宝を守っている女学生の遺骨の姿を見て「このままにしておこう」というのも それほど説得力がなかったような・・・(汗)投降を促しているのにかたくなに拒んで自死に走る日本人を 米兵はその思考を理解できないでいたし、怖れもいだいたのは事実ですが それと映画の中ではうまく結び付いてはいなかった気がします。
パンフでは「『日本の未来のために』という一つの強い思いがあったから 厳しい任務を遂行できた。その思いがあったからこそ この映画で描かれているのは決して悲劇ではなく、勇気と希望のメッセージなのだ」と結ばれているのですが、私はどうもそちらの方の受け止めは失敗したようです
女学生の霊が孫娘やその婚約者にも視えたのもなんだかなぁ・・・それに「できちゃった婚」云々はいらなかったと思います。
と不満をぐちぐち書きましたが、映画館を出るときに感慨深かった映画であることは間違いありません。