全2件 (2件中 1-2件目)
1
「永遠の霊的な教え」 2021年8月8日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2019年7月4日放映「真理のキリスト教」 真理「永遠の霊的な教え」 甲斐慎一郎 詩篇90篇1~17節 ある人は、「過去のない人は、動物に近い。そうして未来のない人は、まさしく動物である」と言いましたが、「伝道者の書」の著者のソロモンは、神の霊感を受けて、次のように述べています。 「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」(伝道者3章11節、新改訳二版)。 このみことばは私たちに、人間だけが「永遠」とか「永遠の世界」、そして「永達なる神」を思うことができるということを教えています。そこでこの詩篇90篇から永遠について考えてみましょう。 一、神について(1、2節) モーセは、「まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です」(2節)と記していますが、永遠とは、どういうことなのでしょうか。 このことに関しては、R・A・トーレーの次のような定義が最もよいのではないでしょうか。1.始めがなく終わりがない(無始無終)2.常に同一で全く変わらない(不変性)3.何にも依存せず独立している(自存性) 神はモーセに対してご自身を啓示された時、「我は有りて在る者なり」(出エジプト3章14節、文語訳)と言われましたが、これこそ「無始無終」にして「絶対不変」なる「自存者」を表しています。 この定義に従えば、永遠なるものは神以外には存在しないことがわかるでしょう。ですから神は信じるが、永遠は信じないとか、永遠は信じるが、神は信じないということは、あり得ないのであり、神を信じるということは、必然的に永遠を信じるということを含んでいるのです。 聖書は私たちに、「永遠の罪」「永遠のさばき」「永遠の刑罰」「永遠の火」「永遠の国」「永遠の栄光」「永遠の支配」「永遠の贖い」そして「永遠のいのち」について大胆に教えています。 二、人間について(3~11節) この箇所には、「人のいのちのはかなさ」(3~6節)と「人の心の罪深さ」(7~9節)と「人生のむなしさ」(10、11節)が記されています。もし私たちが永遠なる神と永遠の世界を信じなければ、いのちのはかなさと心の罪深さと人生のむなしさは、避けることができないことがわかるでしょう。なぜなら永遠を信じないことは、必然的に次のような人生にならざるを得ないからです。 1.刹那の人生 「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」という刹那的な人生です(第一コリント15章32節)。 2.流転の人生 「移ろう草のよう」(5節)に、人生の土台も善悪の規準も定まらず、世と時の流れに流されている放浪の人生です。 3.盲目の人生 人生の目的も目標もわからず、どこに行き着くかを知らないで、さ迷い、「やみの中を歩む」(ヨハネ8章12節)人生です。 三、救いについて(12~17節) このように、はかなく、罪深く、むなしい人生から救われるためには、永遠なる神を私たちの住まいとするほかにはないことがわかるでしょう。それは、永遠なる神を私たちの心の中に迎え、その永遠の神のいのちに与かることです。まさに使徒ヨハネが「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と述べている通りです(ヨハネ3章16節)。 聖書が教えている救いは、この世において、すでに「永遠のいのち」が与えられて、「永遠の世界」に生きることです。それは、具体的には永遠の観点から物事を見、また考え、そして判断して、永遠に有益なことだけをすることです。それは、主イエス・キリストが言われたように「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働」くことを意味しているのです(ヨハネ6章27節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2021.08.08
コメント(0)
「十二使徒への訓戒(4)」 2021年8月2日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2019年5月7日放映「神の傷と人の傷」 「十二使徒への訓戒(4)」 マタイ10章34~42節 甲斐慎一郎 イエスは、十二使徒への訓戒の第4回目として、彼らの「動機」について教えられました。十二使徒への訓戒を順を追って述べるなら、次のようにまとめることができます。 1.なすべき事(5~15節)――彼らのなすべき事は、すばらしい福音を宣べ伝え、愛の行いと奉仕をすることです。 2.あるべき姿(16~23節)――そのために、彼らのあるべき姿は、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおであることです。 3.心構え(24~33節)――そのために、彼らの心構えは、人を恐れず、神を恐れることに徹することです。 4.動機(34~39節)――そのために、彼らの動機は純粋であることです。 そして最後にイエスは、ご自分の弟子たちを受け入れる者への報いについて述べておられます(40~42節)。 それでは、私たちの動機が純粋であるかどうかをためすものは、何でしょうか。イエスは三つのことを教えられました。 一、偽りの平和よりも真理の戦いを選ぶかどうかです(34、35節)――知性の面 キリストの弟子に求められることの一つは、「神のみこころは何か……をわきまえ知る」ことです(ローマ12章2節) もし一家五人が徒党を組んで悪事を働いているならば、互いに対抗することもなければ、分裂することもありません。しかし二人でも三人でも、罪を悔い改めて正しいことを行うならば、「一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになます」(ルカ12章52節)。 このような時、私たちは、罪と妥協する偽りの平和と、罪と訣別する真理の戦いとの戦いのどちらを選ぶでしょうか。私たちは、偽りの平和よりも真理の戦いを選ぶ時、その動機が純粋であることがわかります。 二、家族への愛よりも神への愛を優先するかどうかです(36、37節)――感情の面 知的に理解して、偽りの平和よりも真理の戦いを選んでも、実際問題として、五人家族の中で、三人が二人に、二人が三人に対抗して分かれるようになるということは、情的には忍びがたいことです。そのため、ある人々は、家族への情にほだされて、再び罪と妥協する偽りの平和へ逆戻りしてしまいます。 この「情愛や肉親愛」(ストルゲー)また「恋愛や夫婦愛」(エロース)は、善悪をわきまえず、見えないところがあり、これらの人間的な愛は、「聖愛や神的な愛」(アガペー)によって支配されなければ、暴走したり脱線したりする恐れがあります。 このような時、私たちは、家族への愛と神への愛とのどちらを優先するでしょうか。私たちは、家族への愛よりも神への愛を優先する時、その動機の純粋さが証明されます。 三、自己主張よりも自己否定を選ぶかどうかです(38、39節)――意志の面 現実の問題として、情にほだされず、家族への愛よりも神への愛を優先するということは、容易なことではありません。それは「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と言って、自己を否定し自分の意志を神に明け渡さなければできません(ルカ22章42節)。 しかし信仰の世界では「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたし(イエス)のために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」(39節)。 私たちは、死に至る自己主張と生命に至る自己否定とのどちらを選ぶでしょうか。私たちは、自己主張よりも自己否定を選ぶ時、その動機が純粋であることがわかります。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」http://japan.cgntv.net/movie_player.php?number=2384&sub_number=116556
2021.08.02
コメント(0)
全2件 (2件中 1-2件目)
1