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「摂理と運命」 2014年2月7日 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2012年7月10日放映「聖書に基づく確かな信仰」「摂理と運命」 甲斐慎一郎 創世記、22章6~14節 「初めに情報ありき」を信じるなら、創造主である神が備えられた「摂理」の道を歩むことができますが、「初めに物理法則ありき」を信じるなら、創造主なる神が存在しないのですから、私たちの身に起きるすべてのことは「運命」としてあきらめるしかありません。 そこで「摂理」と「運命」について学んでみたいと思います。 一、運命について 私たちは、「摂理」と「運命」との違いを知っているでしょうか。国語の辞書には、次のように定義されています(三省堂、新明解国語辞典)。 「摂理」--キリスト教で、最終的に人を善に導く神の意志。 「運命」--そうなることに決まっている、物事の成り行きや人間の身の上。超越的な力によって決定されており、人間の力では、いかんともすることができないこと。 「運命」の類似語に「宿命」というのがあります。 「宿命」--人それぞれの身の上に、生まれつき定まっていて、変更が許されないと考えられている、幸・不幸などの巡り合わせ。 「運命」とその類義語である「宿命」については、これでよいのですが、「摂理」については、その語源から考えてみましょう。 二、摂理について 「古代民族の諸宗教は、自然や世界の過程の中に、ただ盲目的な『運命』しか見なかったのに対して、キリスト教は、そこに自由な聖なる意志に基づく神の『摂理』を信じました。それは古代宗教史に全く新しいものをもたらしたのです。 摂理とは、創造者なる神が、彼とは異なる被造物の経過と歴史を自らの意志によって、時の中で保持し、統治する知恵と全能といつくしみです。摂理という言葉の語源は、創世記22章8、14節にさかのぼるといわれます。その箇所でアブラハムは、イサクをいけにえとしてささげよとの命令を受けて山に登りますが、その子に手をかけることを禁じられた時,いけにえの雄羊があらかじめ備えられていました。アブラハムは、その子イサクがいけにえのないことについて質問した時、『神ご自身が全焼のいけにえを備えてくださるのだ』(創世記22章8節)と答えました。このことばがラテン語訳の聖書で〈Deus providet〉と訳されて、摂理の意味をもつようになりました。すなわち、人間の必要と危急と困惑とに当面して神がささげるべき雄羊を欲し、選ぶ予見と予備と配慮、これが摂理の意義です。 『摂理』には、『予見・予知』と『配慮・世話』との両方の意味があります。人間が、ただあとから悟り得ることが、あらかじめ神によって決定され、配慮されているのです。神が世界のために、人間のために、教会のために、その知恵と聖なる意志によって、これら被造物の存在と持続のために必要なすべてのものをあらかじめ見、かつ知り、あらかじめ備え、配慮してくださいます。そのようにして被造物に対する神の意図が成就し,神の栄光が輝き出るためです」(『キリスト教大辞典』教分館、649頁、1963年)。 一言で言えば、「摂理とは、窮地に陥り、困難に直面している人間に対して、神がその無限の知恵と愛によって、その必要なすべてのものをあらかじめ知って備え、また配慮してくださること」です。 「神の支配する世界では、神の摂理が行われ、すべてが神の計画に基づいて合理的に構成されている。たとえ善良な人間が悲惨な生涯を終えるようなことがあったとしても、それは神の試練による救いであるかもしれない。たとえまた愛する者を死で失ったとしても、神の準備した天国で再びめぐり会うことも可能であろう。神の支配する世界では一つの不合理もあり得ないのである。 だが、神を失った世界では、醜く悲惨で不合理な人生が、そのままの素顔をあらわにする。しかもその不幸な生涯を終えた人間は、死とともに永遠の闇の世界に消えて行く。このように人生は非合理に満ちたものであるがゆえに、それは『運命』なのである。運命とは、人為を越えた非合理の別名である。それは合理性を本質とする『摂理』の反対物にほかならない。したがって神を失った時、人生はそのまま運命となる」(ある宗教学者)。次回は2014年2月14日「三つの現実」です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.01.31
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「情報が物質を造る」 2014年1月31日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。1月28日放映「平安と将来と希望を与える神の計画(2)」 「情報が物質を造る」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、1章1~5節 先日、テレビの番組において、人を写真で撮り、それをパソコンに入力し、3Dプリンターに接続して、その人とそっくりの立体形の人形ができたのを見せて、「情報が物質を造った」と説明していました。まさにそのとおりです。聖書は、「主(神)が仰せられると、そのようになり、主(神)が命じられると、それは堅く立つ」(詩篇33篇9節)と記し、神のことばという「情報」が「物質」を造ったと初めから教えています。現代は、ITの時代です。ITとは「Information Technology」すなわち「情報技術」ということです。情報がなければ、何も考えられず、また何も造ることはできません。21世紀になって、人類は「情報」ほど大切なものはないことがわかったのです。 一、初めに物理法則ありき 「車いすの天才科学者」として有名な英ケンブリッジ大のスティーブン・ホーキング博士は、「2010年9月に『ホーキング、宇宙と人間を語る』を出版し、たちまちベストセラーになりました。日本の新聞にも、ホーキングが『宇宙は神によって創られたのではなく、物理法則によって自然に作られるのだ』と書いていることに対して、欧米ではキリスト教関係者から強い反発を受けているというニュースが流れました」(『ホーキング、宇宙と人間を語る』258、259頁、エクスナレッジ、2011年)。 ホーキング博士は、次のように述べています。 「この世界には完全なる法則の集合があり、現在の宇宙の状態を知ることができれば、今後宇宙がどのように発展するのかを予言することができる、という考え方です。このような法則はどの場所でもどの時刻でも成り立つべきで、そうでなかったらそれは法則ではありません。例外や奇跡もありません。神でも悪魔でも宇宙の発展に干渉することはできないのです」(『ホーキング、宇宙と人間を語る』239頁、エクスナレッジ、2011年)。 ホーキング博士は、この本の出版に関して次のような謝辞を述べています。 「宇宙は偉大な設計図によって創造されました。そして本も、その設計図に従って書かれるのです。しかし、宇宙は無から生まれましたが、本は無から自発的に現れることはあり得ません。宇宙が創られるために創造主は必要ではありませんでしたが、本が出版されるためには制作者が必要です。その役割は著者だけが果たすのではありません。編集者、デザインをした人、校正をした人、図版の制作者、絵を書いた人、個人秘書、コンピューター補佐役の名前を挙げて感謝しています」(『ホーキング、宇宙と人間を語る』255~257頁、エクスナレッジ、2011年)。 二、初めに情報ありき ヨハネは、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた」と記しています(1~3節)。「ことば」は心の表現、言い換えれば、人格を持つ者の表現です(マタイ12章34節)。 情報学者のヴェルナー・ギット博士は、この「初めにことばありき」というヨハネのことばを用いて「初めに情報ありき」という本を出版しています。すなわち「ことば」は、情報にほかなりません。 聖書は、「家はそれぞれだれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です」と記しています(ヘブル3章4節)。 ケン・ハム氏は、「背後に知性の存在を指し示すものの例として、建物、ラシュモア山の彫刻、車を挙げ、これらは決して自然にはできません。知性のある誰かが計画して作ったから存在するのです」と述べています。 「ヒトの遺伝情報を読んでいで、不思議な気侍ちにさせられることが少なくありません。これだけ精巧な生命の設計図を、いったいだれがどのようにして書いたのか。もし何の目的もなく自然にできあがったのだとしたら、これだけ意味のある情報にはなりえない。まさに奇跡というしかなく、人間業をはるかに超えている。そうなると、どうしても人間を超えた存在を想定しないわけにはいかない。そういう存在を私は『偉大なる何者か』という意味で十年くらい前からサムシング・グレートと呼んできました」(Amazon.co.jp: 〔文庫〕生命の暗号 (サンマーク文庫): 村上和雄: 本)。 情報学者のヴェルナー・ギット博士は、宇宙には「情報」と「エネルギー」と「物質」があり、情報がエネルギー(物理法則)を造り出し、エネルギーが物質を形造ると述べています。情報がなければ、エネルギー(物理法則)はなく、エネルギーがなければ、物質は存在しません。 「初めに情報ありき」と「初めに物理法則ありき」のどちらが正しいでしょうか。私たちは、どちらを信じるでしょうか。次回は2014年2月7日「摂理と運命」です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.01.29
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「時空を超越した神の救い、その2」 2014年1月27日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年1月20日放映「平安と将来と希望を与える神の計画(1)」 上記の図の説明は、説教要約 337「見えないものに目を留める(1)」と説教要約 338「見えないものに目を留める(2)」 と説教要約 339「見えないものに目を留める(3)」をご覧ください。 「時空を超越した神の救い、その2」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、4章18節 この書の特徴の一つは、「まえがき」において「時空を超越したわざを行われる全知全能の神」と「時間と空間を超越して贖罪のわざを成し遂げてくださった救い主イエス・キリスト」が主題となっているメッセージを集めたと書きましたが、もう一つの特徴は「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(第二コリント4章18節)という聖書のことばからのメッセージを記した4、5、6にある「見えないものに目を留める(1)ー(3)」です。 私は、40年間、昭島市において福音を宣べ伝えてきましたが、最も困難を覚えたことは、聖書からのメッセージは、すべて「目に見えないもの」を語り、それを信じるように勧めることなので、「目に見えないものは存在せず、よく分からない」と考える聴衆に、どのように語るならば分かってくれるかということです。これは至難のわざです。そのような時、出会ったのが「物理学的人生論」で、私の科学に対する考え方を根本的に変えた本です。 聖書は、「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(第二コリント4章18節)と教えていますが、「現代科学も、見えるものは一時的で、見えないものはいつまでも続く」と教え、「現代科学の多くは、肉体的な知覚の範囲を越えた(言い換えれば、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という五感で知ることができない)実在の質や量を扱っています」。「現代科学も、科学的に証明することができない前提(エネルギーが存在すること)を信じるのであり、これは信仰にほかなりません」(本文の5.「見えないものに目を留める(2)」より引用)。科学をこのようにとらえることは非常に大切であると思います。 「あとがき」を書き終えた直後に『宇宙は何でできているのか』という本が出版されたことを知り、早速、購入して読みました。第一刷は、2010年9月30日発行です。副題は「素粒子物理学で解く宇宙の謎」で、著者は、文部科学省が世界トップレベルの研究拠点として発足させた「東京大学数物連携宇宙研究機構(IPMU)」の初代機構長の村山斉師です。 私が宇宙や素粒子の謎について引用した『物理学的人生論』は、第一刷が1965年ですので、今から45年前です。その間に数々の新しい発見があったことでしょう。それで最新の宇宙と素粒子に関する書物を読んだことですが、結論を申し上げるなら、「エネルギーは現代物理学の基礎概念です」(猪木正文『物理学的人生論』153ページ)ということは、最新の研究と発見と本質的に少しも変わっていません。以下は、最新の素粒子物理学の研究と発見です。 「学校では『万物は原子からできている』と習いますし、たしかに地球以外の星も原子でできてはいます。しかし実は『原子以外のもの』が、宇宙の約96%を占めている。……それがわかったのは、2003年のことでした。……宇宙の中で、私たちが理解できた原子は4.4%にすぎません。宇宙のエネルギーの23%を占める暗黒物質は星や銀河ができるもとであり、……また、宇宙のエネルギーの73%は、もっと得体の知れない暗黒エネルギーで、『見えない力』で宇宙の膨張を後押しして膨張をどんどん加速しています」(村山斉『宇宙は何でできているのか』44、224ページ)。 この書も参考文献に記したように、優れた著書に負うところが大きいことを書き添えたいと思います。お気づきのことがありましたならば、ご指導をお願いいたします。 執筆の機会を与え、またいろいろとアドバイスをしてくださったいのちのことば社出版部の方々に心から感謝しています。 2010年12月 著者(拙著『聖書の中心的な教え』の「あとがき」より) 次は2014年1月31日「初めに情報ありきか物理法則ありきか」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.01.24
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「時空を超越した神の救い、その1」 2014年1月20日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年1月9日放映「新しい事をされる神」「時空を超越した神の救い、その1」 先日、テレビでニュースを見てからチャンネルを変えた時、放送大学の講義が放映されていたので、興味深く見ました。その講義の内容は、「インターネットが発達すると、人は時間と空間の拘束から解放される」というものでした。確かにインターネットが普及すると、人は、時空を超越して情報を伝えることができるようになります。 江戸時代に薩摩藩の西郷隆盛は、江戸から薩摩まで行くのに50日かかったということですが、約1500キロメートルの道程を50日かけなければ、薩摩の人と話すことはできませんでした。東京~鹿児島間は、新幹線で7時間で結ばれます。飛行機に乗れば、1時間50分で着きます。電話をかけるなら、呼び出し時間を入れなければ、すぐに鹿児島の人と話しをすることができます。電子メールを送信すれば、数秒で文章も写真も送ることができます。文明の利器が発達すれば、人は、時間と空間の拘束から解放され、地球の反対側に住んでいる人たちにも、一瞬のうちに情報を伝えることができるようになります。 文明の利器が発達すれば、時空を超越して物事を行うことができるというのは、良いことだけでなく、悪いことにも当てはまります。たとえば、戦いに用いる武器も、初めは刀、弓矢、鉄砲ですが、それが大砲、焼夷弾、原爆や水爆などの核爆弾、ミサイルなどになり、時間と空間に拘束されないものになります。武器を製造する根底にある人間の悪い心は、「悪事千里を走る」ということばのように、文明の利器が発達すればするほど、テレビ、電話、インターネットなどの情報機器を通して「罪悪」が時空を超越して広く、深く人々の心に悪影響を及ぼすようになります。「終わりの日には困難な時代がやって来る」(第二テモテ3章1節)ということばは、このようなことが理由の一つとしてあるのでしょう。しかし聖書は、このような情報機器が発達していなくても、アダムの堕罪による罪は、あらゆる時代の、あらゆる人々に及んだと教えています(ローマ5章12節)。 聖書には、神の啓示が記されています。神の啓示は、人の探求ではわからない神と神に関する究極の真理を、神が時空を超越して一足飛びに私たちに示されたものです。ですから神の啓示されたことは、時間と空間に拘束されている人間には、全く不思議で信じられないものです。しかし科学や文明が発達し、人間が発見し、発明した文明の利器でさえも、たとえば衛星放送のテレビを放映すれば、一瞬のうちに、全世界の人たちにカラーで動く絵を見せることができます。「スカイプ」を使えば、アメリカにいる友人とテレビ電話として、顔を見ながら話しをすることができます。今時、そんなことは信じられないという人は、全世界にだれもいないでしょう。ましてすべてのものの創造主であり、科学の土台となっている自然の法則をつくられた全知全能の神は、初めから、時空を超越して、人の探求ではわからない神と神に関する究極の真理を啓示することができるのは当然ではないでしょうか。 この書は、このような時空を超越して啓示された神のことばである聖書のメッセージを集めました。いや、この書に記されたメッセージだけでなく、聖書のどこを開いても、そのメッセージは、全時代の、全世界の人々に、一瞬のうちに、神のことばを信じる人たちの心の中に働いて(第一テサロニケ2章13節)、神の救いのわざが成就するのです。 特に、2.「天地の創造(2)」、10.「人間の堕罪(2)」、14.「キリストの降誕」、16.「キリストの十字架」、17.「キリストの復活」、18.「キリストの昇天」、20.「神に近づく道(2)」、39.「聖書が教える祈り」、43.「三つの現実」、47.「三つの天」、57.「キリストの再臨(1)」、58.「キリストの再臨(2)」、61.「この世、ハデス、永遠の世」、64.「聖書が教える神の国(3)」というメッセージは、神は、時空を超越したわざを行われる全知全能の方であり、全時代の、全世界の人々を死に至らせる罪からの救いを受けるには、時間と空間を超越して贖罪のわざを成し遂げてくださった救い主イエス・キリストを信じることが必要であると教えています。 この書をお読みになる読者の皆様の上に主の豊かなご祝福がございますように心からお祈り申し上げます。(拙著『聖書の中心的な教え』の「まえがき」より) 次は2014年1月27日(月)「時空を超越した神の救い、その2」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.01.16
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「古代ヘブル語の時制概念」 2014年1月14日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年11月25日放映「聖書に親しむ」 「古代ヘブル語の時制概念」 甲斐慎一郎 イザヤ書、49章8節 一、時制について 言語には時制があります。時制は「ヨーロッパ諸言語などで、過去・現在・未来など、時の違いを表す際の動詞を中心に見られる語形変化の組織である」と辞書には記されています(旺文社、詳解国語辞典)。 二、ヨーロッパ諸言語と日本語の時制 日本語の時制には「過去形」と「現在形」はありますが、「未来形」はなく、「現在形」で代用しています。たとえば「明日、学校へ行きます」というのは未来のことですが、現在形で表現しています。英語であるならば、「明日」という未来を表す言葉があれば、必ずWillかShallをつけなければなりません。しかしWillとShallは、助動詞ですから、英語も未来形の動詞は、ないことになります。それでも英語は、「過去形」と「現在形」と「未来形」がはっきりしています。そのために私たちは、時間というものは「過去」から「現在」そして「未来」に流れているものであると、何の疑いもなく信じています。 しかし人間の霊と心は、過去・現在・未来という三つに区切ることは出来ず、一つにつながったものとしてとらえています。たとえば、今が1月14日の午前1時であるとするならば、午前1時1分は、未来ですが、1分後には、現在になり、さらに1秒でも過ぎれば、過去になります。未来と思っていた時が、一瞬のみ現在となり、すぐに過去になっていくのです。 三、ヘブル語の時制 ですから「信仰の世界」や「神の世界」や「聖書の世界」は、このような「過去」「現在」「未来」という時制概念が全く通用しません。なぜなら「神にとっては過去や未来というものはなく、すべての事柄は等しく現在である」からです(ジョン・ウェスレー)。人間も「過去」のことは、過ぎ去って、どうすることもできず、「未来」は、来ないかもしれない不確かなものですから、神の前においては、「過去」や「未来」というものはなく、すべての事柄は等しく「現在」なのです。 ヘブル語には、古代ヘブル語と現代ヘブル語があり、現代ヘブル語は「過去形」と「現在形」と「未来形」がありますが、旧約聖書の原語である古代ヘブル語の時制には「完了形」と「未完了形」しかありません。 古代ヘブル語は、神の選民であるイスラエル人の言語で、旧約聖書は、神の視点から、また神を中心に記されています。それで、それを書き記す古代ヘブル語の時制は、「神にとっては過去や未来というものはなく、すべての事柄は等しく現在である」という神概念を基にしているので、「過去形」や「未来形」がない時制になったものと思われます。 四、古代ヘブル語の時制の特徴 古代ヘブル語の時制には、次のような特徴があります。 1.古代ヘブル語の時制概念はかなり自由です。古代ヘブル語の時制は、「完了形」と「未完了形」しかありませんが、「未完了形」といっても必ずしも未来の行為を表すとは限りません。過去の行為を表すこともできます。 2.特に、神が主語となる場合には、過去と未来が厳密に分けられることがありません。なぜなら、神は常に働いておられますから、過去に行われたことは、未来においても現実となるからです。ですから「未完了形」の動詞が過去の行為を表すと同時に未来の行為をも表すことができるのです。また反対に「完了形」の動詞がまだ起こっていない神の行為に対しても使われます。神が確実に実現されることは、たとえまだその出来事が完了されていなくても、「完了形」で表されることが多いのです。 五、聖書の読み方 私たちは、聖書を読む時、また神のことばを聞く時、「神にとっては過去や未来というものはなく、すべての事柄は等しく現在である」ということを念頭に置き、過去や未来の出来事にとらわれないことが必要です。すなわち、この聖書の記事は、過ぎ去った「過去の出来事」なので、今の自分には関係がないとか、この聖書の記事は、まだ来ていない「未来の出来事」なので、今の自分には関係がないというような捉え方をしてはならないのです。聖書は、次のように教えています。 「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた」(イザヤ49章8節)。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(第二コリント6章2節)。次は2014年1月22日(水)「時空を超越した神の救い、その1」」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.01.07
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「過去を変えてこそ将来がある」 2014年1月8日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2013年11月14日放映「主のことばを聞く」「過去を変えてこそ将来がある」 甲斐慎一郎 イザヤ書、44章22節 ほとんどの人たちは「過去は変えられないが、未来は変えられる」と考えています。世の多くの人たちがこのように思うのは当然のことです。しかし聖書は「過去を変えてこそ、将来があり、過去を変えられなければ、将来はない」と教えています。なぜでしょうか。 一、二種類のこれからの時(未来と将来) 宗教哲学者の波多野精一氏は、二種類のこれからの時をそれぞれ「未来」および「将来」と呼び、実存哲学者ハイデガーは、「未来」および「到来」と呼んで区別しました。 ◆未来--いまだ来たらずという意味で、見通しがきかない絶望と不安の時です。 ◆将来--まさに来たらんとするという意味で、見通しがきく希望と平安の時です。 未来は現在から離れて人の手が届かない時であるのに対して、将来は今につながる人の手が届く時であり、大きな違いがあります。 二、二種類のいままでの時(過去と由来) 前述した実存哲学者のハイデガーは、二種類のいままでの時をそれぞれ「過去」および「由来」と呼んで区別しました。 ◆過去--過ぎ去ったという意味で、今さらどうすることもできない時です。 ◆由来--由って来たるという意味で、今にまで伝えられて来た時です。 過去は現在から離れて人の手が届かない時であるのに対して、由来は今につながる人の手が届く時であり、大きな違いがあります。 三、過去-現在-未来という生き方 もし私たちが、いままでの時を過去としてしかとらえることができなければ、悪かった過去も良かった過去も、すでに過ぎ去って人の手が届かない、今さらどうすることもできないものとなるので、それを改めて現在という時に生かすことができません。その結果、これからの時を未来としてしかとらえることができず、絶望と不安に陥るのです。 神は時空を超越された方ですから、「神にとっては過去や未来というものはなく、すべての事柄は等しく現在です」(ジョン・ウェスレー)。人間も過去のことは、今さらどうすることもできず、未来のことは、来ないかもしれない不確かなものですから、神の前においては過去や未来というものはなく、すべての事柄は等しく現在です。 もし私たちが現在、神を信ぜず、今まで犯してきた罪を悔い改めず、キリストの十字架による贖いを信じないで罪を赦されず、聖霊によって罪をきよめられなければ、罪深い過去の姿は、そのまま現在の姿であり、それはまた未来の姿でもあり、罪深い姿は永遠に続きます。これが永遠の滅びであり、地獄です(ヨハネ3章36節、黙示録20章15節)。 人は、罪深い過去を、罪がなかったかのようにぬぐい去ることは絶対にできません。ですから聖書は、「過去を変えられなければ、将来はない」と教えているのです。 四、由来-今-将来という生き方 もし私たちが神を心から信じて、いままで犯してきた罪を心から悔い改め、キリストの十字架による贖いを信じて罪を赦され、聖霊によって罪をきよめられるなら、その罪をきよめられたいままでの姿は、今の姿でもあり、それはまた将来の姿でもあり、罪をきよめられた姿は永遠に続きます。これが永遠のいのちであり、天の御国です(ヨハネ3章16節、黙示録21章3、4節)。 人は、罪深い過去を、罪がなかったかのようにぬぐい去ることは絶対にできません。しかし神には、それができるのです。 「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」(イザヤ43章25節)。「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」(同44章22節)。 神は、キリストの十字架による贖いによって、私たちの罪をぬぐい去ることができるので、私たちは、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行」くという将来があるのです(第二コリント3章18節)。次は2014年1月15日(水)「古代ヘブル語の時制概念」です。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2014.01.07
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