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丸くて、暗い でも暖かい場所。くるっとまるまって、心地よい。時折、きゅっと緊張してくる。持ち主が、悲しんでいる時。何度も、恐らくあったのだろう。誰かが、泣いてる、悲しんでいる。お母さんが泣いてる。悲しまないでと言葉を持たない私は伝えたかった。この人を守らなくちゃと感じた。私をはぐくみ、世に出そうとする母体。私は言葉は持たなかったけれどいつも心と体で思っていた。「悲しまないで」と。この人が泣くと、私も悲しくなる。この人が泣いていると私のこと見てくれないのも知っていた。でも、この人を悲しませちゃいけない、そう感じていた。胎児の記憶・・・今頃出てくるというのも、奇妙な話だけれど。暗い場所、あらぶる心が、子宮の中まで伝わってきていた。泣かないで・・・悲しまないで・・・私が悪い子だから、泣いてるの?子宮の中で、身をひそめた。そんな、古い悲しい記憶がとめどなくあふれ出てくる。ここから、始まっていたのだなあと感慨にふける。それから、50年もたった今も、ここから、出られずにもがいていたのだと繋がる記憶。安堵する想い。あれから、50年・・・泣いているお母さんと私をずっとここから救ってくれる人を探し、待ち続けていたのだと悲しい記憶。。。なんて切ない記憶なのか。。。
2012年10月31日
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全力で楽しんだこと、心に刻みつけていこう。あの時は、楽しかった 「けど」「けど」で、楽しかったことを打ち消してしまわないよう 「けど」は、リセットの言葉。台無しにする言葉。楽しかったこと、それだけでいい。楽しめた自分がいた笑い合った仲間がいたなにより、笑っている自分がいたこと 覚えていてほしい 楽しかった記憶は、 大切な宝物 「けど」は幼い頃、大人から、台無しにされることへの恐れからくる予備準備それは、ただの思考の癖宝物を台無しにしてはいけないね。大切な絆、抱いて 前へ進もう共に明日の力になりますように
2011年11月20日
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子どもが、不登校や引きこもりになると、過去に親からされた理不尽なことを、訴えてきます。「あの時、こうだった!」「お母さんが、こうしろと言って、反対にひどいめにあった」 「私(俺)の話を全然聞いてない!」と、言われたことありませんか?そして、おかあさんは、アタフタヾ(▽ ̄;ヾ) )))...((( (/; ̄▽)/ アタフタ「ちゃんと、聞いてるわよ」「ほんとに、そんなことがあったの?どうしてその時言わなかったの?」「じゃあ、どうしたかったのよ。自分でやればよかったじゃない」 なんて、逆に言葉を返すと、子どもは、怒り心頭・・・暴れます。 子どもは、表現力がありません。今のせい一杯の気持ちを言葉に一生懸命しているのでそううまくはありません。そして。。。 子どもが欲していることは、言葉を返して欲しいのではなく自分の気持ちを受け取って欲しいだけなんです。 先ほどの会話ですが、「お母さんは 俺の話を聞いてない」これを翻訳しますと、「お母さんはいつも、俺の気持ちをわかってない。自分の気持ちだけを俺に押しつけてくる。勝手に俺の気持ちを判断して、決めつけて、それが、俺の気持ちとはかけ離れているんだ」ということだろうと思うのです。 「あの時こうだった」の翻訳。「あの時、俺はこうしようと思っていたんだ。だけれど、今までの経験で、とても怖かったんだ。その怖い気持ちなんか、どうでもいいように扱われてただ、お前の考えなんかどうでもいいって言われた気がして、お母さんのやらせたい事を無理やりやらされて、俺、もう、ほんとはやりたくなかったんだけど必死でやったんだよ。がんばったんだよ。でも、やっぱり無理で、俺なんか、生きてて価値があるのかと死にたい!って、そこまで、思い詰めてしまったんだよ」って感じでしょうか。 子どもの言葉の中に、受け取って欲しい大切な感情があることを知って欲しいと思います。
2011年11月12日
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恐らく、不登校やひきこもりの子が将来的に減るということはないだろう。アダルトチルドレン、境界例、発達障害なども同じように思う。 むしろ、拡大していくだろうと予想する。恐らく、クラスの3分の1は、学校へ行きづらい子たちで占められるようになる時代がくるだろう。親たち世代の刷り込みの枠・・・「世間体重視」「学力重視」 「ねばならない」等々の自分の「感情」を見つめず、起こる事象に気を取られ、心を大切にしない生き方はそのまま、子どもの感情を大切にできない育児につながる。感情喪失 の世界は、どんどんまん延していくだろう。 裏切られるのが怖くて、全力で人を愛したことがない。傷つくのが怖くて、人を信頼できない。普通の顔をして、誤魔化し続けて生きてきたそのつけが、弱い立場のものに影響を及ぼす。世の中は、恐れだけが、まん延している。結果、平気で人を踏みにじることに鈍感であり人とのつながりを大切にすることの意味がわからない。 全力で人を信頼すること、愛することを、やったことがないものには、自分の愛おしさもわからない。その逆もしかり。自分の価値を大切にしない人に、見返りなしで誰かを本気で愛せるだろうか。 不信で、一歩も前に出られないなら一度、全力で、誰かを愛してごらん。裏切られてもいい、見捨てられてもいいただ、誰かを精一杯愛し続けてごらんよ。やってみないとわからないじゃないか。大切に思えたこと、愛する力をもったことそれが、自分の生きる力になるんだよ。自己犠牲的ではなく、愛する力を得たものだけが、自分の中の光のかけら・・・暖かさを育てることができるのではないかと そう思うんだよ。 勘違いするのは、「愛情をもらったことがないから・・・」だから、ずっともらい続けようと「くれくれゲーム」を一生やり続けますか?死ぬまで、「あれが無い、これが無い」と言い続けますか?
2011年11月12日
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AC傾向の強い方は、思考が忙しい。そして、それは、多方面に及ぶので、かなり、思考は乱れる。加えて、過去の無意識の慢性的なトラウマも発動し続けて、混乱しているのが、普通の状態。人と接すると、これが数十倍に膨れ上がる。だから、疲れる・・この疲れは、AC傾向の少ない人に比べたら、半端なく疲れる。 この疲れの状態がマックスになると、逆切れ状態に変わる。「いつもいつも、私ばっかり」「こんなに気を使っているのに」「もう、やだ!!」余裕がなくなるね。 逃すために、感情を閉じて、感じないようにしてきた。本を読むことで、気持ちを安定させてきた。言葉のないクラッシック音楽をヘッドホンで聞いてきた。ゲームをもくもくとこなしてきた。1人になりたい。ゆっくりしたい。いなくなりたい。 人の言葉が、心に入ってこないように、心をシャットダウン。 うるさい思考は、いつも自分を責める。「でしゃばるな、目立つな、おりこうさんにしろ!しっかりしろ、恥ずかしいことをするな」やめて、やめて・・・私を自由にして!と、本当の自分は抵抗するけれどそれでも、忙しい思考は無意識に流れてくる。 あなたは、もう、十分我慢してきました。 幼い頃からの、親の洗脳。頭の中で、責め続ける、幻の親の思考。自分で作り出している ボイス。無意識を意識にあげて、誰の声なのか分別していきましょう。
2011年11月08日
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おおざっぱな感情マップを作ってみました。ま~るい円になってます。人間の感情には、これらが全部存在します。というか。。。存在して、ひとつの円満な人格となりえます。ACの方々の多くの勘違いに、負の感情を感じたらいけないという成育歴があります。悲しみがあるから、何かを失った時の辛さを知る事ができる。悲しみがなければ、大切なものが何かさえわかりません。大切なものが分からない人生なんて、何かが欠損してる人生としか思えません。私の気に入ってる座右の銘に、「がんばるよ、今日休んだら 明日から」という迷言をもらった事があります(笑私の本質を見事にあらわしていると思いました。 ある人には、「なんていいかげんな!」となるでしょうが、私が、このように自分を責めないでいられるようになるまで実に数十年、かかっています。怠惰であることは、「恥・怠け者」というレッテルを幼い頃からの刷り込みで持ち続け、自分を責め続けてきたのですね。休みたいけど、怠けものは、嫌だという葛藤をずっと数十年続けてくるなんて実際のところ、はんぱなエネルギーではありませんよ。怠けた人を見ると、批判的な気持ちがわき起こります。それが、子育てにもかなり影響してしまいました。他にもありますよ。「怒るなんて、みっともない」「泣くなんて、はずかしい」小さな子どもに、そんな制約を付け続けたら、「感情を感じるな!」という命令を子どもは大人たちから受け取ります。一体、誰が、「はずかしい、みっともない」と思うのかも明確でないまま、私たちは、負の感情を感じるなと思い込まされていきます。「わがまま」を経験したから、「自我」という意識も目覚める。「臆病」であることを経験したから、「勇気」の意味がわかる。「ウソツキ」であることを経験したから「正直」であることの気持ちよさパワフルさに気づく。怒りっぽく、欲が深いからこそ、他者に「慈愛」と「パワー」を与えることを知る。それぞれ、反対の感情でありながら、互いの感情をつき従えて、私たちは、バランスをとることを学びます。このような感情は、全ての人が共通に持っているものです。全ての人が持っているということは、他者の中に、自分がいる ということです。 スイッチとか、地雷とかよくセッションの中で使いますが他者の傲慢さに、嫌悪感を抱く時、それは自分の中にかつて、押し込められた傲慢さが、「出せ!」と騒いでいるだけ。傲慢さを従えているものは、劣等感です。日頃は、劣等感を表に出し、傲慢さを出したらいけないと傲慢ちゃんに、ストップをかけているだけのことです。自分のスイッチこそが、閉じ込められた感情なのだろうと思います。ひとつひとつの自分を見つめ、自分のスイッチを確認していきましょう。それを教えてくれるのは、他者の中にいる、自分です。人格がまるくなるということは、隠された自分の感情を発見していく作業でしか、ないのではないでしょうか。 P.S. 今日は、ちょっと遠出をして、瀬織津(せおりつ)姫ゆかりの神社に行ってきました。いつも、表側は賑やかな、大社なんですが、(今日は菊花展で賑わってました)裏側に、こんな場所があるなんて知りませんでした^^;ここは訪れる人もほとんどいない、奥まったところですが表側とは次元が違う繊細な磁場に満ちてます。瀬織津姫と、マグダラのマリアさんってもしかして波動が似てる??よく、わからんが・・・似てる感じしたんだよね。森林浴もかねて、エネルギー充填してきました。
2011年11月02日
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種も、まかないことには、芽を出さない。火種・・・トラブルと思われがちだが、まずは、種をまかないことには、なにも得るものもない
2011年10月31日
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その場しのぎの甘い優しさや同調は、数日もすると風化していく。そして、道を誤る。 そして、人の人生を狂わせることもある。悪者覚悟で、 厳しさを示す茨の優しさこそ何年、何十年後に、自分の本物の優しさになる。そう思うんだよ。
2011年10月31日
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分離不安・・・よく子育て中に聞く言葉ではないかと思います。小さな子どもが、お母さんの姿が見えなくなると不安になって、泣いたりします。人見知りも、その一種なのだろうと思います。愛着のある人に対して、離れることを不安に思うことそれが分離不安ですね。子どもの場合は、時期が過ぎて、十分に愛情を受けたり、お友達との関係が構築されてくると少しずつ離れて過ごせるようになっていきます。この時、無理に分離を計ると、かえって長引くのではないかと感じます。私が小学校で、登校拒否をした数か月、両親は今でも「いじめ」だと信じて疑いませんが「いじめ」は、ありませんでした。確かに、スパルタの先生や、石を投げっ子してグループでケンカもありましたが^^;私には「分離不安」という言葉の方がとてもしっくりきます。学校に行こうとすると、強烈な不安感が襲ってきます。学校へ行く途中では、後ろ髪を引かれる気持ちでいっぱい。学校へ行ってしまえば、そのことも忘れてしまうのですが帰宅すると、お母さんは、果たして泣いてないだろうかいなくなってしまっているんじゃないか私がいない間に、なにか大変なことが起こっているのではないか・・・いつもの日常を確認することで、ほっとしたのものでした。分離不安を卒業しないまま大人になるとそれが、人間関係において、依存体質の1つの要因になるのかもしれません。相手が近くにいると、あれこれと口を出したくなる。離れていると、ちゃんとやってるだろうかと、気になってしょうがなくなる。あるいは、恋人同士や友達同士だと、いつもくっついていないと不安になるとかあるかもしれません。近づくと、いつも相手の気持ちを確認せずにはおれない・・・離れると、不安に悩まされる・・・子どもが旅行に行くのでも行っても、不安、行かなくても不安。自分の範疇(はんちゅう)からいなくなるのが怖いこのように、自分の子どもで満たそうとした方もいるかもしれません。ペットや、宗教などで自分を満たす方もいるかもしれません。これは、自分と母親との過去の心理的な絆の薄さの投影からきているのではないかと感じます。では、分離不安を解消するためには、どうしたらいいのでしょうか?大人になってから自分の母親との関係を再構築するのは至難の業です。ほぼ9.5割方、無理なのではないかと思えます。分離不安を抱えたまま大人になった方に多いのは寂しさ、孤独感、嫌われている感が強烈だと感じます。人と関わって、失敗した過去が、さらに人への恐怖感を募らせます。「私は1人が好きなの、気が楽だわ」と、自分を騙し、そう思いこんでいくのかもしれません。「他者とのつながりと絆」求めて止まなかったもの。欲しくてたまらなかったもの。手に入れたくても手に入れられなかったもの。勇気を出して、一歩踏み出すことからしか、やり直しは出来ないのかもしれません。そうすることで、握り締めた子どもたち(=執着している相手)への執着も、自然と手放すことができるようになるのではないかと思うのです。失敗しても大丈夫^^だって、やり方を知らないだけ。最初からうまくできるわけ、ないもの^^失敗は、進んでいる証拠なの。ちゃんと、トライしているから、失敗するってことだもの。
2011年10月29日
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「こうしなければ、ならない」「言われたから、そうしなきゃ」これは、義務感からきた行動ですね。本当はやりたくないのに、見捨てられ不安から強迫的に、自分を追いたてる行動です。「義務感」は、自分の気持ちではありません。このような行動は、無理をするのでやがて心も身体も破たんしていきます。あげくの果ては、「だって、こうしろって言ったでしょ」と、逆切れ・・・ここに、興味深い心理実験があります。人間のお母さんに、子どもと同じ重さの重りを乗せたゴンドラをロープで引き上げてもらいます。重くてとても持ち上がりません。ところが、ゴンドラに我が子を乗せて持ち上げてもらうとあら不思議・・・見事に持ち上がります。お母さんは、言ったそうです。「持ち上げてあげれば、子どもが喜ぶと思って」と。人が行動を起こす時、自分から発した純粋な動機づけと外部からの圧力からの動機では、想いの方向が違いそれが、行動にも現われるということを示しているのではないかと感じます。子どもが乗ったゴンドラを引きあげたお母さんの気持ちをきっと、子どもも受け取っていくのだろうと思います。もし、ここに、「やってあげたのよ」という気持ちが入りこむと子どもは、お母さんの気持ちを受け取れないのではないかと思います。「お母さんにやってもらって、申し訳ない」きっと、そういう思いをうけとらされることでしょう。やがて「申し訳ない」という心の癖が基盤を作ることになっていくのでしょう。人間というものは、自分が一番かわいい。これは、間違いがないことです。それは、別に悪いことでもありません。ごく普通のことです^^しかし、そこに他者(応援してくれる人)が現われることで自分ひとりでは出せない勇気が湧いたり、前に進む力を出すことができるようになるのではないかと思うのです。「あなたのことが好きだから」受け取った想いこそが、また誰かに伝える勇気になり智慧になり、感動になるのではないかと思うのよ。今、動けなくなっている不登校の子供たちもきっと、まっすぐな想いを受け取りたくて、ずっと待ち続けているのだと思いますよ。
2011年10月24日
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都合により、ブログを移転しました。FC2ブロブ「歩いていこう」は、しばしお休みします。一区切りなのかもしれません。アメブロは、今まで通り、業務連絡を取り混ぜてぼちぼち、書いていきます^^数年ぶりに、懐かしの楽天に戻ってきたのは良いけれど、使い方をすっかり忘れてしまって四苦八苦しました。またよろしくお願いします。りんりん
2011年10月22日
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