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龍袍 縹地龍に卍字と花文様綴錦 京都国立博物館蔵 (資料1) 部分図資料に時代の明記はありませんが、中国からの舶来品です。「龍袍」というのは、中国の清代(1616~1912)に皇帝やその臣下が宮廷という公の場で来た朝服(朝袍)です。龍袍の文様は、龍が中心ですが、それ以外に様々な吉祥文様があらわされているそうです。(資料2) この参照資料の中にも龍が刺繍された龍袍の事例が載っています。さらに時代を遡ると、「唐の時代、龍は権力のシンボルとして皇帝の服を飾るようになっていました。長寿3年(693)には位の高い官人に龍の服が与えられました。皇帝から権力のシンボルである龍の服をいただくことは、たいへんな名誉でした。そのうちに龍の文様の服をかってに着る人も出てくるようになります。大徳元年(1297)には胸や背に小さな龍の文様をつけることは差し支えないが、衣服全体に及ぶような大きな龍をつけることが禁止され、延祐2年(1315)には五爪二角の龍文が皇帝専用の文様として規定されます。五本の爪をもち、頭に二本の角をはやした龍が権力のシンボルとして定まったのです。」その後、「明(みん)の時代にも同じく五爪二角の龍が皇帝の服を飾りました。いっぽう、臣下たちは皇帝の龍から爪を一本減らした四爪の龍の服を皇帝から賜るようになります。四爪龍は蠎(もう)とも呼ばれました。」清の時代には、臣下たちは龍とまったく同じ姿のものを、蠎と呼んで自分たちの服を飾るようになったそうです。 (資料3) 龍袍 紺地龍文様金糸刺繍 京都国立博物館蔵 (資料4) 部分図 部分図 龍袍 青地刺繍(未仕立て) 京都国立博物館蔵 (資料5) (部分拡大図) 雲に龍丸文様繻珍官服裂 京都国立博物館蔵 (資料6) 緙絲 紫地龍文様 元時代・13~14世紀 東京国立博物館蔵 (資料7) 紺吉服地蔵袍 18世紀 チベット民族 九州国立博物館蔵 (資料8) (部分拡大図) 紺地雲龍文様錦 𧙥衣 第二尚氏時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料9) 第二尚氏は、沖縄の琉球王国を統治した最後の王家の通称だそうです。(資料10) ここにも、琉球王国と明との間に交流があった一端が残されているようです。 他にも公開されている事例と出会いました。「龍袍」(黒川古文化研究所蔵) (資料11)「蠎袍:マンパオ」(文化学園服飾博物館蔵)という清朝末期の袍の事例 (資料12)ウィキペディアの英語版を検索しますと、「dragon robe」という項目があります。ここにも、龍袍が画像で紹介されています。クリックして画像をご覧ください。(資料13) 併せて、肖像画中の衣服に現れる龍を最後にご紹介します。こちらは日本語版のウィキペディアからの引用です。(資料14) 唐太宗(唐第2代皇帝、世民)の円領衫 明太祖(朱元璋、洪武帝)の黄袍 明憲宗(明の第9代皇帝、成化帝)の黄袍 世宗(明の第12代皇帝、嘉靖帝)の袞服 朝鮮 国王の赤袍これで衣服に現れる龍を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 龍袍 縹地龍に卍字と花文様綴錦:「国立博物館所蔵品統合検索システム(ColBase)」2) 中国の吉祥文様 龍袍 工芸室 川上さん :「京都国立博物館」3) 皇帝の龍 工芸室 川上さん :「京都国立博物館」4) 龍袍 紺地龍文様金糸刺繍 :「ColBase」5) 龍袍 青地刺繍(未仕立て) :「ColBase」6) 雲に龍丸文様繻珍官服裂 :「ColBase」7) 緙絲 紫地龍文様 :「ColBase」8) 紺吉服地蔵袍 :「ColBase」9) 紺地雲龍文様錦 秱衣 :「ColBase」 10) 第二尚氏 :ウィキペディア11) 龍袍 :「黒川古文化研究所」12) 蠎袍:マンパオ :「文化学園服飾博物館 収蔵品データベース」13) Dragon robe From Wikipedia, the free encyclopedia14) 漢服 :ウィキペディア補遺清時代の服飾 :「麗澤大学」北京故宮博物院200選 研究員のおすすめのみどころ(龍袍) 1089ブログ :「東京国立博物館」龍袍 金黄地綴織(西田善蔵コレクション) :「文化遺産オンライン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.06.30
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狩衣 紺地雲龍丸模様 江戸時代・18世紀 東京国立博物館蔵 (資料1) (部分拡大図) 背面狩衣とは、「平安時代から江戸時代まで、公家・武家の平服。襟が丸くて、そでにくくりが有る」(新明解国語辞典・三省堂)というものです。 直垂 紅地立涌長尾龍丸紋散模様錦 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料2) 部分図 背面 袴直垂とは、「鎌倉時代ごろ、武士などが着た衣服。方領(カクエリ)[肩から胸にかけて付けた長方形のえり}・無紋で、胸ひもが付いており、広いそでくくりがある。すそを括った袴(ハカマ)に入れて着る。[初めは庶民の服で、鎌倉時代以降、武家の礼服になった]」(同上)というもの。 素襖 黒麻地松皮菱雨龍菱模様 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料3)素襖とは、「直垂の一種。室町時代に始まり、江戸時代には武家の礼服として用いられた。布地は麻で、定紋をつけた」(日本語大辞典・講談社)というもの。 (部分拡大図) 黒麻地の地柄のように雨龍が菱形の意匠で潜んでいます。 長絹(子方) 緑地雲龍模様 江戸時代・18世紀 東京国立博物館蔵 (資料4) (部分拡大図) 長絹とは、”(「長絹の直垂」または「長絹の水干」の略)装束の名称。元服以前の公家や武家の童子の着た服。もとはつやのある絹織物の名であったが、のちにそれで作った衣服の名になった” (日本語大辞典・講談社)というもの。 踏込袴 紺地雲龍丸模様錦 東京国立博物館蔵 (資料5) (部分拡大図)踏込袴とは、「袴の一種。裾を狭く補足した野袴」(デジタル大辞泉・小学館)です。野袴とは、「裾にビロードなどで広い縁をつけた袴。江戸時代、武士が火事装束や旅行のときなどに用いた」(日本語大辞典・講談社)というもの。 着付 白呉絽地龍波濤模様 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料6)剣状にそそり立つ島々と波濤の上空を漂う雲の間を飛龍が富んでいる意匠です。 着付とは、「装束や舞台衣装などの特殊な衣服の着装およびその衣服」(日本語大辞典・講談社)という意味のようです。 打掛 黒天鵞絨地鷹龍松模様 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料7)打掛とは、「武家の婦人の礼服。帯を締めた上から掛ける。すその長い衣服。今は、結婚式などに使う。かいどり」というもの。(新明解国語辞典・三省堂)黒のビロード地に、金糸などで勇壮な刺繍が施されています。上部の松模様の上に、鷹が下方を睨み、波濤の中から龍が上空を睨んでいるという勇壮な図柄です。鷹と龍の組合わせは珍しい気がします。 これは、江戸時代最後の天皇である孝明天皇が着用した赤色の袞衣(コンエ、大袖と裳)で、京都御所の東山御文庫に御物として伝わるものです。(資料9) 孝明天皇の袞衣の龍等の色糸と金糸による刺繍は、別裂に刺繍したものを切り取って生地に切付の手法で縫い付けているそうです。(資料9) こちらは袞冕を身にまとう後三条天皇を描いた肖像図ですが併せて取り上げておきたいと思います。出典は石本秋園『大礼服着御図』と言います。(資料8)袖の部分に龍が刺繍されています。この辺りでまた、一区切りと致します。最後に余談です。衣服に現れる龍を調べ始めて、普段何気なく使ってきた語彙が気になりました。着物、衣、服、衣服、衣装、装束、服飾、服装、和服、洋服、和装、洋装。これらの語彙が思い浮かびます。改めて、初心に返り手元のいくつかの国語辞典を引いてみました。着物: からだに着るもの。衣服。[狭義では、和服を指す] (新明解国語辞典・三省堂)衣 : 「衣服」の意の雅語的表現。[狭義では僧の着る法衣を指し、広義ではてんぷら・ フライなどのまわりをくるんでいるものをさす)(新明解国語辞典・三省堂)服 : 着る物。[狭義では、洋服を指す)(新明解国語辞典・三省堂)洋服: 西洋風の衣服。[男子は上着とズボンを、女子はワンピース、スーツ、スカート などを用いる) (新明解国語辞典・三省堂)和服: 日本在来の衣服。 (新明解国語辞典・三省堂)洋装: [特に女性が]洋服を着ること。 (新明解国語辞典・三省堂)和装: 日本風の服装をすること。和服姿。 (新明解国語辞典・三省堂)衣服: 「着物」の意の字音語的表現。 (新明解国語辞典・三省堂) 身にまとうもの。洋服ではドレス・ジャケット・コート・スカート・ズボン・ 下着など、和服では着物・羽織・袴・長じゅばんなど。被服。着物。 clothes; dress; wear (日本語大辞典・講談社) 身にまとうもの。着る物。また、着ること。 (大辞林・三省堂)衣装: [外出・儀式用の]着物。[狭義では、演劇の舞台で出演者が扮装に用いる衣服を 指す] (新明解国語辞典・三省堂)服装: 身に着けた衣服の(調和のとれた)状態。 (新明解国語辞典・三省堂) 衣服とその付属品の総称。衣服と人間の一体化を意味し、時代・民族・階級・ 職業・性別・年齢などを象徴する。よそおい。みなり。clothing(日本語大辞典・講談社) 衣服を身につけ、よそおった様子。また、身につけた衣服や装身具。身なり。 (大辞林・三省堂)服飾: 衣服とアクセサリー。 (新明解国語辞典・三省堂)装束: 特別の場合に備えて、身じたくをすること。また、その着物。[古くは、衣冠・ 束帯などを整えた礼服をさした] (新明解国語辞典・三省堂) ①衣服を身につけること。服装を整えること。身じたく。②衣服。服装。装い attire; costume ③貴人の衣冠・束帯などの総称。そうぞく。court dress (日本語大辞典・講談社) [古くは「そうぞく」とも] ①特別の場合のための、整った一そろいの服装。 衣冠・束帯・直衣など、一定の法式にかなった装い。また、それで盛装するこ と。身じたくすること。②衣服、着物。③衣服を身に着けること。装うこと。 そうずく。 (大辞林・三省堂)語彙の使い分け、けっこう微妙ですね。それを普段あまり意識せずに使い分けている!言葉って、興味深い・・・・。衣服に関して、インターネットで出逢ったサイトがいくつかあります。ご存知かもしれませんが・・・・。ついでに、幅広く学べて役立つサイトのご紹介です。日本服飾史 風俗博物館 ホームページ綺陽装束研究所 ホームページ宮廷装束 高田装束研究所 ホームページ着物の基本 きもの365 ホームページきものの用語と各部の名称 さが美 ホームページつづく参照資料1) 狩衣 紺地雲龍丸模様 :「国立博物館所蔵品統合検索システム(ColBase)」2) 直垂 紅地立涌長尾龍丸紋散模様錦 :「ColBase」3) 素襖 黒麻地松皮菱雨龍菱模様 :「ColBase」4) 長絹(子方) 緑地雲龍模様 :「ColBase」 5) 踏込袴 紺地雲龍丸模様錦 :「ColBase」6) 着付 白呉絽地龍波濤模様 :「ColBase」7) 打掛 黒天鵞絨地鷹龍松模様 :「ColBase」8) 袞衣 :ウィキペディア補遺装束 :「コトバンク」和服 :ウィキペディア衣装 :ウィキペディア服飾 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.06.29
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陣羽織 緋羅紗地龍丸模様 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料1) 身に着けるものの連想から、衣服(着物)をネット検索で調べてみました。武家装束の1つで、もとは戦場で武将が着た陣羽織に龍が使われています。 陣羽織 茶地立涌梅鉢雲龍丸松模様錦 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料2) 陣羽織 紺地龍丸雲模様金襴 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料3) 陣羽織 白生絹地雲龍模様(模造) 東京国立博物館蔵 (資料4) 陣羽織 猩々緋羅紗地応龍波濤模様 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料5)これは歌舞伎で武家装束として使われたものとか。襟の部分に、昇龍と降龍が刺繍されているようです。波濤文が見えます。 陣羽織の背には、飛龍と波濤文様が鮮やかに描かれています。 四天 亀甲雲鶴龍模様 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料6) 歌舞伎関連として、亀甲文の中に龍が雲鶴と組合わせた模様として刺繍されています。芸能という分野では、舞楽でも龍が使われています。 陵王裲襠 雲に龍丸模様唐織 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料7) 中国古代の蘭陵王を題材にし、雅楽の左方舞楽の曲名となっています。右手に桴(バチ)を持ち、龍頭の面を付けた一人の演者による走舞(ハシリマイ)です。(日本語大辞典・講談社より)「中国、北斉の蘭陵王長恭が、あまりにも美貌なので、戦の際には竜の仮面をかぶって戦った故事にちなむという」(大辞林・三省堂、一部転記)陵王の舞衣装の一部です。さて、陣羽織は武将の武力による戦いの場での装束の一部ですが、江戸時代の泰平の世での大きな戦いは「火」との戦いでした。江戸火消の火事装束です。ここにも龍が現れます。 火事装束(着込・胸当) 萌黄地松皮菱裏牡丹雨龍模様緞子 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料8) 火消襦袢 黒木綿地波応龍模様刺子 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料9) 刺子とは、「綿布を裏表に重ね合わせて一面に細かく刺し縫いにしたもの。丈夫で、武道着・剣道着などにする。[以前は消防服にも用いられた]」(新明解国語辞典・三省堂、転記)というものです。今村翔吾さんの時代小説・羽州ぼろ鳶組シリーズを読んでいますと、大火と格闘し消し終えた後に、火消半纏の図柄を描いた内面を裏返して着て、表にみせつつ、火事場から引きあげるという場面が出て来ます。この両面の画像を見て、このことを思い出しました。「江戸東京博物館」ホームページのデジタルアーカイブスには、「上着(刺子半纏)」の事例が載っていて、それには龍虎の図柄が描かれています。(資料10)また、「IM アイエム internet museum 」というサイトで、「火消半纏 龍に纏文」という火消半纏(国際基督教大学博物館 湯浅八郎記念館蔵)と出会いました。(資料11)また、今では火消半纏がファッションの1つになってきているようです。そんなサイトも目に止まりました。時代の変化はおもしろい。この当りで一区切りとして、衣服について続けます。つづく参照資料1) 陣羽織 緋羅紗地龍丸模様 :「国立博物館所蔵品統合検索システム(ColBase)」2) 陣羽織 茶地立涌梅鉢雲龍丸松模様錦 :「ColBase)」3) 陣羽織 紺地龍丸雲模様金襴 :「ColBase)」4) 陣羽織 白生絹地雲龍模様(模造) :「ColBase)」5) 陣羽織 猩々緋羅紗地応龍波濤模様 :「ColBase)」6) 四天 亀甲雲鶴龍模様 :「ColBase)」7) 陵王裲襠 雲に龍丸模様唐織 :「ColBase)」8) 火事装束(着込・胸当) 萌黄地松皮菱裏牡丹雨龍模様緞子 :「ColBase)」9) 火消襦袢 黒木綿地波応龍模様刺子 :「ColBase)」10) 上着(刺子半纏) デジタルアーカイブス :「江戸東京博物館」11) 火消半纏 龍に纏文 :「IM アイエム internet museum 」補遺作品と鑑賞 陵王 :「文化デジタルライブラリー」舞楽面 陵王 :「ColBase)」江戸時代の消防 :「消防防災博物館」火消半纏コレクション :「火消 HIKESHI SPIRIT」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.06.28
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(部分拡大図) 前回「刀剣と龍」に着目しました。刀は腰に差します。そこからの連想で、「印籠と根付」に龍が見られるかを調べてみました。冒頭の印籠は「蟠龍鳳凰蒔絵螺鈿印籠」と称されています。江戸時代・19世紀の作品。根付螺鈿銘「杣田造」とのこと。東京博物館蔵 (資料1)印籠の上の丸い根付に、鳳凰の図柄が描かれています。 (部分拡大図)こちらは印籠の反対側の面です。表裏両面で幡龍の図柄となっています。 (部分拡大図) 雲龍木彫印籠 江戸時代・19世紀 東京博物館蔵 (資料2) (部分拡大図) 印籠の反対側の面です。 底裏線刻銘「小松光方」/根付:線刻銘「光方」です。 珠取龍蒔絵印籠 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料3)こちらは印籠の形が少し変わっています。水滴のような形状です。3本爪で宝珠を掴んでいる龍の図柄です。 印籠の裏面は、中央に人物像、周囲に雲龍文が描かれています。さて、この人物は誰なのでしょう? 龍濤木彫印籠 第二尚氏時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料4)この印籠は、時代表記から推測しますと、かつての琉球王国からの渡来品のようです。 印籠の根付に、龍頭が彫刻されています。 印籠の両面で、一体の龍と波濤文が彫られています。既に、根付という言葉を上記で使っています。根付とは「帯にはさむ、たばこ入れ・印籠などのひもの緒につける細工物。[広義では、<腰ぎんちゃく>をも指す」(新明解国語辞典・三省堂)と説明されています。そこでさらに、根付に龍を見られるかを探してみました。ネット検索中に出逢った根付関連のサイト「京都 清宗根付館」で、根付の分類を解説されています。その分類上の1つ、「形彫(かたぼり)根付」の掲載事例が、龍と格闘する武人の形彫りです。ここで龍と出会いました。(資料5)根付の世界でも、龍に絡んでおもしろい作品をいくつか見つけました。 龍太鼓木彫根付 線刻銘「為隆」 江戸時代・18世紀 東京国立博物館蔵 (資料6) 黄楊の木が使われています。 龍宮牙彫根付 線刻銘「景利」 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料7) こちらは象牙を形彫りした根付です。 龍仙人木彫彩色根付 吉村周山作 江戸時代・18世紀 東京国立博物館蔵 (資料8) 檜が使われ、彩色されているそうです。 この仙人像の正面だけを見ると、なぜ龍仙人なのか、ピンと来ませんが、 仙人像の側面と背面を見ますと、ナルホドです。 龍仙人木彫根付 線刻銘「美兼」 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料9) 公開されているのはこの1葉だけですが、上掲の根付から類推ができますね。 蟠龍木彫根付 線刻銘「風昇」 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料10) 龍頭立兜牙彫根付 線刻銘「神子斎」 江戸時代・19世紀 東京国立博物館蔵 (資料11)ネット・オークションでは、結構、根付が出品されているようです。少し眺めてみると、龍を形彫りした作品も散見されます。ここでは触れませんが・・・・・。この辺りでご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 蟠龍鳳凰蒔絵螺鈿印籠 :「国立博物館所蔵品統合検索システム(ColBase)」2) 雲龍木彫印籠 :「ColBase」3) 珠取龍蒔絵印籠 :「ColBase」4) 龍濤木彫印籠 :「ColBase」5) 根付とは :「京都 清宗根付館」6) 龍太鼓木彫根付 :「ColBase」7) 龍宮牙彫根付 :「ColBase」8) 龍仙人木彫彩色根付 :「ColBase」9) 龍仙人木彫根付 :「ColBase」10) 蟠龍木彫根付 :「ColBase」11) 龍頭立兜牙彫根付 :「ColBase」補遺印籠 :ウィキペディア根付 :ウィキペディア京都 清宗根付館 ホームページ根付(ねつけ)のもつ本来の意味と新しい使い方とは? :「The Ichi」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.06.27
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ネット検索をしていて、刀剣の領域にも龍が見られることを発見!刀剣の刀装具である「鐔」に龍が彫刻されています。鍔の名品が公開されています。冒頭の写真は「雲龍図鐔」です。(資料1)画像の利用がOKですので、以下、鐔に彫られた龍たちをご紹介します。 雲龍図鐔 銘義為作 (資料2) 雲竜図鐔 銘砂川正矩作 (資料3) 雨龍図鐔 志水甚五作 江戸時代・17世紀 (資料4) 雲龍透鐔 正阿弥伝七作 江戸時代・18世紀 (資料5) 水龍図鐔 後藤光方作 江戸時代・17世紀 (資料6) 雲龍図鐔 後藤作 江戸時代・17世紀 (資料7)刀身そのものに視点を移します。刀身に龍が彫刻されている事例を開示しているサイトを見つけました。「刀剣ワールド」と称する刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館が実例を詳細に紹介されています。以下から、アクセスしてご覧ください。(資料8) 刀 銘 天秀 水心子白熊入道正秀(刻印) ⇒ 倶利伽羅龍の彫刻 剣に巻き付いている龍の図柄 脇差 銘 直胤(花押)天保六年八月 ⇒ 倶利伽羅の欄間透彫 短刀 銘 山城国西陣住人埋忠明寿 慶長拾三年三月吉日 所持熊谷清六 ⇒ 「珠追龍」の彫刻 刀身を覆う刀装具は、柄頭、柄、鐔、鞘、柄尻という各部から構成されています。鐔の龍文様は上掲を見つけました。他に龍が棲みそうな箇所は、鞘と柄頭でしょうか。鞘については、「登り龍文様透かし彫り水牛鞘柄刀子」という事例があります。(資料9)また、「紅木製鞘獅子及龍浮出文白銅金具附刀子」という事例もあります。(資料10)歴史を遡りますと、古墳時代の刀や刀の一部が発掘されています。柄頭を装飾した金具として出土したものがあります。 双龍文環頭大刀柄頭 古墳時代・6世紀 愛知県春日井市 猪之洞古墳出土 (資料11) 双龍環頭柄頭 古墳時代・6世紀 滋賀県高島市 鴨稲荷山古墳出土 (資料12) 単龍環頭柄頭 古墳時代・6世紀 大阪府茨木市 海北塚古墳出土 (資料13)他にも、千葉県の金鈴塚古墳出土の「金銅装双龍環頭太刀2柄」(資料14)や、「双龍環頭太刀」(資料15)と出会いました。刀剣と龍は古墳時代から既に縁があったことがわかります。最後に、笄(コウガイ)に龍文を装飾した事例を見つけました。 (部分拡大) 龍文小柄・笄 江戸時代 19世紀 (資料16)この辺で終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 国立博物館所蔵品統合検索システム(ColBase) 京都国立博物館 E甲428-22) 同上 京都国立博物館 E甲255-183) 同上 京都国立博物館 E甲255-244) 雨龍図鐔 東京国立博物館 :「ColBase」5) 雲龍透鐔 東京国立博物館 :「ColBase」6) 水龍図鐔 東京国立博物館 :「ColBase」7) 雲龍図鐔 東京国立博物館 :「ColBase」8) 刀剣ワールド ホームページ9) 登り龍文様透かし彫り水牛鞘柄刀子 :「文化遺産オンライン」10) 紅木製鞘獅子及龍浮出文白銅金具附刀子 :「文化遺産オンライン」11) 双龍文環頭大刀柄頭 東京国立博物館 :「ColBase」12) 双龍環頭柄頭 東京国立博物館 :「ColBase」13) 単龍環頭柄頭 東京国立博物館 :「ColBase」14) 金鈴塚古墳金銅装双龍環頭太刀2柄 :「文化遺産オンライン」15) 双龍環頭太刀 :「文化遺産オンライン」16)龍文小柄・笄 九州国立博物館 :「ColBase」 補遺日本刀 :ウィキペディア日本刀の部位名称 :「刀剣ワールド」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.06.25
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デュランタが紫色の小さな花を咲かせ始めました。 今はこの2カ所で花が咲き始めました。アザレアが咲き終えた後、その伸びた蔓を取り除いていました。その下になっていたデュランタが花を咲かせるようになりました。昨年、かなり広がっていたので剪定をしすぎたのかなと思っていたところでした。 オーシャンブルーの初花だよりは載せていました。少し前から、オーシャンブルーが毎日、かなりの数の花を開くようになりました。 一鉢にサフランモドキ(たぶん)が咲いています。ネットの画像検索で調べてそう判断しました。トケイソウはポツポツと咲き続けています。小さな庭からの花だよりです。ご覧いただきありがとうございます。補遺デュランタ :「みんなの趣味の園芸」サフランモドキ ゼフィランサス・カリナタ :「植物写真鑑」ゼフィランサス :「みんなの趣味の園芸」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.06.24
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本殿の手前、右側に立つ大きな角柱碑に文字列が大きく刻されています。私には判読できない文字が含まれています。 「獲□□川□□三種神寶」 □が判読できない文字何等かの三種類の神宝が所蔵され、祀られているということでしょうか?現代では、どれだけの人がこの石碑の文面を理解できるのでしょう・・・・・。 本殿正面の石段右側の奥には、正面に大きく「水」一字を刻した水槽が置かれています。本殿の雨水受けの意味合いでしょうか。それほど古いものではなさそうです。 南面する本殿の東側面 神馬像 本殿の東に、ブロンズ製の神馬像が奉納されています。 境内にテントを張った一画があり、覗いて見ますと、脚部に「本社太鼓」という銘板が見えます。太鼓を載せる台座で脚部に車が附いているようです。神社の祭礼と関係するのでしょう。 (資料1)これは、江戸時代に出版された『摂津名所図会』の挿画になっているこの神社の神事の1つで「難波村 牛頭天王綱引」と題し、綱引きの様子が描かれています。左ページの鳥居には「祇園牛頭天王」と記された扁額が掲げてあります。綱引神事は毎年1月の第3日曜日に行われるそうです。「綱引神事は当社の御祭神、素盞嗚尊(すさのをのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、民衆の困苦を除かれた故事に基づき始められたと言われています」(資料2)とのこと。平成13年(2001)に大阪市で初めての無形民俗文化財に指定されました。(資料2)夏祭は7月。7月13日の宵祭には、平成13年(2001)に230年ぶりに復活された道頓堀川の船渡御が斎行され、水上祭が行われます。太鼓、神輿が参加するとか。14日が本宮祭です。(資料2)本殿の西隣りに社務所があります。多くの人が列を作っていました。御朱印授受などでしょうか。写真は撮りませんでした。社務所と獅子殿の間の空間、境内地西辺を巡ります。 獅子殿の北側沿いに参道があり、西門に至ります。石鳥居を外の道路から眺めた景色。ここは黒木鳥居の形式のようです。こちらには、「八坂神社」の社号碑が建てられています。 西門から境内に戻ると、社務所方向に向かう参道が分岐し、参道の角に蹲風の小さな手水鉢が置かれています。風情を感じる手水鉢です。 その先に、摂末社の1つ「篠山神社」が祀られていて、由緒について駒札が建ててあります。祭神は篠山摂津守十兵衛景義です。「江戸時代 此の地の代官として着任 寛政5年(1793年)~文化6年(1809)、摂津・河内・播磨の三国の惣代、住民がこの地に青物市場開設を嘆願し当代官の尽力により市場開設が許可され、住民は生活の安定・福祉増進に恩恵を蒙った。住民は感激し、遺徳を尊び報恩感謝の念を結集し生き神様(生祠)として奉祭・ 篠山代官は佐渡金山奉行と立身出世、幕府財政に寄与した」(駒札転記)この篠山神社は、篠山十兵衛景義の遺徳を顕彰するため、明治十三年十二月二十六日創建されたのです。(資料2) ちょっと驚きです。 屋形灯籠の右背後の石碑では「世の人のあふくも」というフレーズしか読めませんが、篠山十兵衛景義の詠んだ歌が刻されているようです。(資料2) 世の人のあふくもたかき功こそ巌とともに朽ちせざりけれ裏面には遺徳を顕彰する碑文が記されています。その他の摂末社は見過ごしました。社務所の前方南で、興味深いものが目に止まりました。 1つはこれ。石橋の石柱です。右側面に来歴が新たに刻されています。転記します。「旧難波入堀川(新川)賑橋ニ用ヒアリシモノ昭和三十年春埋立ニ際シ当社内ニ移ス」 改めて正面を見ますと、「にきはひ」という文字が刻されているところまでは判別できます。そのしたはたぶん「はし」なのでしょうが、私には読み取れません。慣れ親しんだ橋の記憶を残そうということなのでしょう。 その近くにこの記念碑「難波葱発祥の地」が新規に建立されています。碑文を転記します。”難波村の葱栽培は享保10年(1725)に初見され、明治初年には50町歩あり、難波一帯は広大な葱畑であった 難波葱は葉の繊維が柔らかく強いぬめりと香り、濃厚な甘みが特徴で、九条葱、千住葱などのルーツと伝わっており、大変古い葱といえる 平成29年(2017)「なにわの伝統野菜」に認証された 難波葱の会 ”本殿前から境内地を東の方に歩みます。 石造黒木鳥居が立ち、石柵を瑞垣とした一画が目にとまります。 内側には、「宮趾」と刻した石碑が建てられています。 宮趾の石碑の北隣には、境内の東境界寄りに「殉国の碑」と大きな石灯籠が建立されています。 一方、宮趾の石碑のある位置からすぐ南には、東西方向の参道があり、こちらにも石鳥居が立ち、東門があります。こちら側にも「難波八坂神社」の社号碑が立っています。東門となる石鳥居から歩む参道の正面に獅子殿が見えます。参道からの景色は前回ご紹介しています。 これで、南の石鳥居から参道を北に進んだ際の参道側に配置された狛犬像まで戻ってきました。 傍に立つ石灯籠。竿・反花の下の格狭間には、波文様が浮き彫りにされています。 南の石鳥居に戻ります。築地塀の内側には、「敬神」と刻した碑が建立されています。最後に、境内に掲示の案内地図を部分図でご紹介します。 現在地として表示された難波八坂神社の境内地とその付近をさらに拡大。境内地の境界となる通り名がグーグルマップに表記されています。東側の境界が大黒橋筋、南側の境界が弓場町通、西側の境界は通り名不詳。その一筋西側が市場筋です。これで境内巡りを終えて神社を後にしました。大黒橋筋から一筋東が国道26号線。この道路を北に進めば、大阪市立難波元町小学校があり、その少し先に、大阪メトロ・なんば駅への地下入口(No.32)があります。公共交通機関ではここが最寄り駅といえるでしょう。ご一読ありがとうございます。参照資料1. 難波八坂神社 :ウィキペディア2. 難波八坂神社 ホームページ補遺「難波の綱引き」について おおさか資料室 :「大阪市立図書館」Tug of War ritual, Namba Yasaka shrine [Deep Japan] 綱引き神事 難波八阪神社 YouTube[八岐大蛇ができるまで」令和5年 大阪市浪速区 難波八坂神社 綱引き神事 大綱打ち八岐大蛇完成まで 大阪市指定無形民俗文化財 YouTubeミナミ道頓堀で船渡御 難波八坂神社夏季大祭 2019.7.13 YouTube難波八坂神社 夏祭 船渡御 2023 Osaka Night Walk - Funatogyo on the Dotonbori River 4K HDR Japan ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 大阪・難波 難波八坂神社 -1 石鳥居・本殿・獅子殿ほか へ
2024.06.20
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先々週(6/7)、あべのハルカス美術館に行った後、難波に所在の難波八坂神社を探訪してきました。冒頭に掲げた巨大な獅子頭を象った獅子殿の実物を眺めてみたいと思ったのが動機です。数ヶ月前にあるテレビ番組でこの獅子殿が外国人観光客の人気スポットになっていると報じていました。それで少々興味を抱いた次第です。平日の金曜日午後でしたが、確かに大勢の外国人観光客をみかけました。50~60人くらいの人々が居たように思いました。 元町3丁目北の通りに面した石鳥居から境内に入りました。あちらこちらに参拝客が居ますので、できるだけ人を入れずに撮ろうとすると制約されます。石鳥居の左(西)に建立された石灯籠には、「當坊清雅代」という文字が刻されています。こういう刻字は初めてです。意味不詳。 参道側に、小ぶりな手水舎があります。 獅子像の口が水の注ぎ口になっていることが、少し珍しいと感じました。 参道を進むと、左手前方に獅子頭が樹木越しに垣間見えてきます。 こんな感じで初コンタクトです。巨大! 神社の本殿正面の石段両側には、ブロンズ製と石造の狛犬像が奉納されています。 難波八坂神社のホームページの案内によれば、現在の本殿は昭和49年(1974)5月に完成した建物です。現代建築・鉄筋コンクリート製のようです。 軒端に数多くの吊灯籠が奉納されています。「当社(難波八阪神社)の創建年月日など詳しい資料は残っていませんが、社伝によれば古来『難波下の宮』と称し難波一帯の産土神でした。後三条天皇の延久(1069年から1073年)の頃から祇園牛頭天王(ごずてんのう)をお祀りする古社として世間に知られていました」とのこと。(ホームページより)神社名に「八坂」を冠していますので、祭神は京都の八坂神社と同じ。素戔嗚尊、奇稲田姫、八柱御子御子です。 本殿側から南西方向、東の門・石鳥居から続く参道の正面に、お目当ての獅子頭(獅子殿)全景が見えます。人間の大きさからこの獅子頭の巨大さがうかがえるでしょう。 この獅子殿は、高さ12m、奥行7m、幅7mの大きさで、上記本殿の竣工と共に完成したそうです。鉄骨・鉄筋コンクリート造で、外観は銅粉吹き付け合成樹脂仕上げと言います。この巨大獅子の目はライト、鼻はスピーカーの役割を果たしているそうです。獅子の歯は24本だそうです。(同上) 前面は舞台になっていて、「お正月には、神楽・居合道など、夏祭りには、獅子舞・民踊等各種芸能が奉納されます」とのこと。(同上) 後部の殿内は一部木造で、祭神として素戔嗚尊の荒魂が祀られています。「真鍮製 折腰格天井にはめ込まれている鳳凰の彫刻は、全て手彫りでその意匠が異なっております」(同上)とのこと。天井部分、詳細な観察はできませんでした。 獅子殿前面の両側に、ブロンズ製の灯籠が奉納されています。竿・反花の下の格狭間の文様が目に止まりました。 一面撮り忘れましたが、ほぼ同形の鳳凰が彫像されています。獅子や龍の彫像は見慣れていますが、鳳凰は珍しいと感じました。灯籠の竿には1974年7月奉納の銘文があります。折腰格天井と照応させてあるということでしょう。それでは、続きに境内をめぐります。つづく参照資料難波八坂神社 ホームページ補遺難波八坂神社 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.06.16
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16階のあべのハルカス美術館で「尾張德川の至宝」展を鑑賞したあと、このフロアーから屋外に出てみました。そこは長方形の屋外庭園になっています。北と東方向の外縁部は数段高くしてあり、透明のガラス壁が設置され回廊風の外縁になっています。この外縁に沿って大阪市内の眺望を楽しめます。16階はハルカス300(展望台)のチケットカウンターが設置されているフロアでもあります。この展望台へのアクセス図をみると、あべのハルカス内にあるあべのハルカス美術館の位置関係もわかりやすいです(補遺をご参照ください)。冒頭の景色は西寄りの眺望です。左半分に見える緑のエリアは天王寺公園、北に延びる道路は谷町筋です。 東方向に少し移動して、視点を東寄りに移していくとこんな感じです。 遠くに山並みが見え始めます。 ビル側に目を転じると、この憩いの空間部分の敷地面積が減じる形で、ビルが屹立しています。 こののっぽビルは、画像検索して地図を確認すると、阿倍野区松崎町2丁目にあるシティタワーグラン天王寺です。 外縁沿いに歩き、東辺に佇むと、北から南方向に、東側を眺望できます。東の遠方にも山並みが連なっています。 この憩いの空間の東辺から西方向にビルを見上げた景色 東の外縁から少し離れて眺めると、また雰囲気が変わります。これもまた、久しぶりに眺めた周辺環境でした。補遺あべのハルカス :ウィキペディア施設案内 ハルカス300(展望台)までのアクセス :「ハルカス300」CITY TOWER GRAN TENNOJI :「GOOD DESIGN AWARD」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.06.15
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入場券の半券先週金曜日(6/7)、大阪・阿倍野にあるあべのハルカス美術館に出かけてきました。目的は「徳川美術館展 尾張徳川家の至宝」の鑑賞です。この美術館に来たのはかなり以前です。大阪市立美術館を訪れるのより頻度が低く、久しぶりでした。展示会場は16階のワンフロアーです。展示は3部構成プラス特別公開という形でした。 Ⅰ 尚武 もののふの備え Ⅱ 清雅 -茶・能・香- 茶・能・香の3セクションで構成 Ⅲ 求美 特別公開 国宝「初音の調度」と「源氏物語絵巻」から各1点 訪れた日は、5月28日からの後期展示でした。 これは事前に入手したPRチラシの片面です。このチラシに3部構成の一端が集約されています。<Ⅰ 尚武>では、まず徳川家康と尾張家初代藩主だった徳川義直の肖像画各一幅が展示されています。いずれも桜井清香模写による模本でした。昭和12年の模本。桜井清香はやまと絵画家であり、徳川美術館職員でもあったそうです。(資料1、以下略)義直像の原本は第二次世界大戦中での空襲の折に焼失。この模本はいまでは貴重な肖像画になっているそうです。画像からは謹厳実直で少し神経質そうな印象を受けました。 チラシの右下部に載る「銀溜白糸威具足(ギンダミシロイトオドシグソク)」は通期展示で、徳川義直着用の鎧具足一式です。当日購入した図録によりますと、この具足を義直は特に好み、参勤交代の折には必ず携帯したと言います。展示品を拝見すると、着用したことはあるのでしょうが、実戦での着用はなさそうな印象を受けました。具足の保存状態は実に良い印象です。義直が尾張国の初代藩主となったのは慶長12年、8歳の時です。慶長19年(1614)10月、大坂冬の陣、翌年元和元年(1615)4月、大坂夏の陣。豊臣氏滅亡。少し調べてみますと、徳川義直は、1615年4月名古屋城にて婚儀を行っています。それを名目に家康は名古屋城を経て、二条城に入り、大坂に向かいます。大坂夏の陣です。「この夏の陣では、義直率いる尾張藩は、家康・秀忠の本陣を守る後詰の役を、紀州藩の徳川頼宣とともに果たした。」と言います。(資料2)尚武に相応しく、刀剣と銃が展示されています。「太刀 銘 左 名物 大左文字」「刀 銘 村正」「脇差 銘 吉光 名物 鯰尾藤四郎」が並んでいます。チラシに載るのは脇差(銘吉光)です。この3点は義直所持のもの。展示されている刀身はガラス越しに眺めると美術品そのもの。戦場での人殺しの道具という機能が捨象されてしまいます。「石首魚石入蝋色塗(イシモチイシイリロウイロヌリ)」の刀拵と脇差拵がデザインとして印象的でした。拵とは刀の鞘と柄などのことです。「火縄銃 三匁五分筒 銘 以南蛮大筒鉄重張」芝辻作は、寛文8年(1668)の作です。銃床は黒漆塗に三葉葵紋と六葉葵紋の蒔絵、筒には三葉葵紋と丁子唐草の象嵌が施されるなど、豪華な装飾が施された造りです。製作時期を考えると、もはや武威を示す飾りとしての象徴なのだろうなという印象を受けます。これも美術品という次元です。<Ⅱ 清雅>の部では、茶道具で印象的なのがあります。大名物「唐物茄子茶入 銘 茜屋」のふっくらとした曲線を描く形が素敵でした。「油滴天目(星建盞)」の無数の細やかな油滴の斑文の広がりから静穏な印象を受けました。しっとりとした感じでもあります。同様に大名物「三島茶碗 銘 三嶋桶」は灰色の素地に三筋の小さな向日葵文様、上部には二筋の幾何学文様がそれぞれ象嵌されています。楽しい意匠です。チラシには「織部筒茶碗 銘 冬枯」(重文)が載っています。斜めに黒釉を掛け分けた幾何学文様の茶碗です。緑釉の茶碗は馴染みがありますが、黒釉の織部茶碗を拝見するのはめずらしいので印象に残りました。チラシの左上に載る能装束は前期展示のため、見られませんでした。能装束では、「茶地鶴菱・桐文金襴袷法被」の整然としていてかつ華やかさを感じさせる意匠に惹かれました。特に興味を抱いたのは、「龍戴(リュウタイ)」という龍を象った冠と、「天冠(テンガン)」と称する天女が被る冠でした。こちらには月輪が象られています。香道の領域では、保存されてきた香木、香合、香を楽しむ道具一式などが展示されています。一番印象に残るのは、「菊折枝蒔絵四種盤」です。香道には、勝敗を競う組香が発展したのは知っていました。しかし、この組香での勝敗の状況を視覚化するために、器物を盤上で進めて競うという形の道具が作られていたのを初めて見ました。源平香は紅白の旗、矢数香は矢、名所香は吉野と龍田にちなみ桜と紅葉の造花が盤上で進められます。競馬香は、薄板二枚を並べた盤上で駒を進めるのです。なかなか凝った趣向です。<Ⅲ 求美>の部で記憶に残るのは、「菊折枝蒔絵」の「碁盤・双六盤・将棋盤」の三点です。蒔絵の施された豪華な遊戯具です。碁と将棋はイメージできます。見ていて分からなかったのは双六盤がどのように使われるのか。これは以前から抱いている疑問で、久しぶりに同種の双六盤を見て、ふと疑問自体を思い出しました。そして、展示会場の最後を飾るのが2つの国宝です。1つは、「初音の調度」から1点です。これは、寛永16年(1639)三代将軍家光の長女千代姫(1637~1698)が数え年3歳で尾張家二代光友に嫁いだ際の婚礼調度をさします。『源氏物語』第23帖「初音」に題材をとった47件の調度を始め、第24帖「胡蝶」に基づく10件の「胡蝶蒔絵調度」その他総計70件の調度を総称して、「初音の調度」と呼ばれています。上掲チラシの右上は、前期の展示品です。後期は「胡蝶蒔絵掛硯箱」が展示されています。掛硯箱は携帯用の箪笥形式で、天板に釣手が附けられていて持ち運べる形です。短辺の正面が横開きの扉になっています。扉を開けると引き出しが三段あり、上段に硯・銀製桜花水滴・錐・小刀が収められています。六条院春の御殿の春爛漫の池苑の景色が、人を表さない留守模様で蒔絵で表されています。 これはPRチラシの片面。ここに最後の展示品の図が使われています。徳川美術館が所蔵する国宝「源氏物語絵巻」です。所蔵する巻の中から4巻の各一場面を、開催期間を4区分して順次入れ替えで展示されています。私が訪れた時は、後期前半で、丁度このチラシに載る「宿木(三)」でした。 図録は表紙の上に帯が巻かれていて、表の表紙の帯に「宿木(三)」の場面が使われています。久しぶりに身重の中の君を訪れた匂宮が、くつろいだ姿で琵琶を弾きます。すねてばかりではいられない中の君が、几帳の端から、脇息に寄りかかり少し顔を覗かせているという場面です。この場面、匂宮が訪れた時、折しも薫から中の君に文が届いたことにより、匂宮は中の君と薫の関係を邪推する心理が蠢いているという背景の中で、匂宮と中の君が居るという場面なのです。源氏本文への深入りはやめておきましょう。序でに図録の裏表紙の帯をご紹介しておきます。 これは今回の展示の対象になっていません。「柏木(三)」の有名な場面。源氏の正妻・女三の宮と亡くなった柏木との密通により産まれた不義の子・薫の五十日の祝いにおいて、源氏が薫を抱いている場面です。会場内は撮影禁止ですので、PRチラシと図録から作品を引用しました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. 当日購入した図録『徳川美術館展 尾張德川家の至宝』編集・執筆 徳川美術館学芸部2. その1 家康が大坂の陣で豊臣を滅ぼす :「愛知千年企業 江戸時代編」補遺あべのハルカス美術舘 ホームページ大坂の陣 :「ジャパンナレッジ」徳川美術館 ホームページ おもな収蔵品 千代姫婚礼調度 国宝 [初音の調度] 初音の調度新春特別公開 徳川美術館所蔵 国宝 初音の調度 :「九州国立博物館」特別公開「国宝 源氏物語絵巻」展覧会見どころ紹介 徳川美術館 YouTube国宝源氏物語絵巻に浮かび上がる色彩 NHKラーニング :「NHK」白だけで4種類 NHKラーニング :「NHK」襲(かさね)の美学 NHKラーニング :「NHK」平安貴族が愛した紫色 NHKラーニング :「NHK」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.06.14
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御影堂門と南の阿弥陀堂門との中間あたり、門側(東辺)に手水舎があります。 水の注ぎ口は龍像です。水盤の側面には清浄水と刻されています。コロナ禍の関係でしょうか、龍の口から水は注がれていません。 阿弥陀堂こちらも単層入母屋造本瓦葺で、間口15.6m、奥行21.25mの木造建物です。阿弥陀堂の屋根全体が張り出していて、正面に階があります。 南東角で、廻縁の下部の礎盤、縁束、木組の眺め。基壇の上面は敷瓦(甎)を四半敷にして舗装してあります。 南側からの眺め 階傍からの眺め 阿弥陀堂と大師堂をつなぐ渡り廊下、大師堂の南臆面 北東角から眺めた阿弥陀堂。木組を金網が覆っています。鳥害除けでしょうか。 象形の木鼻は見やすいですが、蟇股が金網に遮られて十分に見えないのが残念。 階前で、堂屋根の軒先を支える柱は礎盤上に建てられ、足元を保護金具で覆われています。その意匠はごくシンプルです。 境内南東隅に鐘楼があります。 鐘楼の欄間の透かし彫り、虹梁のシンプルな彫り、木鼻の獅子像を楽しめます。 境内からの阿弥陀堂門の眺め 木鼻は獅子像と花。開花の状態が彫刻されていて、立体感が見事です。 阿弥陀堂門の門扉御影堂門と同様に桟唐戸ですが、こちらの方は狭間の透かし彫りがなくて中央に宗紋が浮き彫りされているだけです。下部も、9つの枡形に対し4つの枡形とシンプルにしてあります。 虹梁上の蟇股と大瓶束それぞれの両側の透かし彫りは見応えがあります。 外側から眺めると、孔雀と鶴が透かし彫りにしてあります。 阿弥陀堂門もまた、築地塀から少し凹んだ内側に門が設けられているのは御影堂門と同じです。違いは築地塀の延長面に埓(ラチ)が設けてある点です。これは勅使門の所と同じ形式です。 道路から眺めた阿弥陀堂門。門の先に阿弥陀堂が見えます。境内に戻り、御影堂門に向かいます。 境内から撮った御影堂門。 屋根の先端近くに置かれた獅子像の留蓋 御影堂門前に佇み、東方向を眺めた景色。突き当たりは柳馬場通で、南北の通りになります。地図を確認しますと、御影堂門前の通りの南北両側は、すべてお寺の名前です。佛光寺の塔頭寺院なのでしょう。 柳馬場通側から眺めますと、突き当たりが御影堂門でその門の向こうに大師堂の大屋根を眺める景色になります。門に至る両側にお寺が軒を連ねているという景色になります。浄土真宗系としては、本願寺よりも古い時代から、教団を形成して活動してきたのが佛光寺派だったことを改めて今回認識しました。『都名所図会』や手元の書によりますと、文明年間(1469-1487)、経豪上人の時代に、教団としての大きな転換点があったようです。(資料2,3)日本史の年表を見ますと、「1461 蓮如、最初の『御文』を書く」、「1471 蓮如、越前吉崎に道場建立」「1496 連如、石山に御坊を建立」という史実が載っています。(資料4)写真を撮らなかった建物が2つあります。1つは鐘楼の西隣りにある「和合所」と称される建物。これは、もとは毎朝法話をされる方のための宿泊所として使用されていたようです。現在は、「ロングライフをテーマに地域の暮らしや観光をデザインする『D&DEPARTMENT』の京都店」として活用されています。(資料5)もう1つは、手水舎の東側、築地塀との間にある「茶所」と称する建物。この茶所は「茶所布教」として法話の会場に使われています。(資料6)また、昼は定食が人気の食堂(dd食堂京都)としても使われています。(資料5,7)が、私が訪れた時は閉まっていました。営業外の時間だったのかもしれません。いずれにしても、この本山佛光寺の探訪で、京都に本山を置く浄土真宗系4宗派の伽藍・境内を一応訪ね終えることができました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. 建物について :「本山佛光寺」2.『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫3.『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p338-3414.『新選 日本史図表』 監修 坂本賞三・福田豊彦 第一学習社5. 境内に素敵なセレクトショップも。仏光寺通の名の由来となった「佛光寺」 :「ことりっぷ」6. 本山佛光寺茶所布教 :「浄土真宗の法話案内」7. 佛光寺 :ウィキペディア補遺真宗佛光寺派 本山 佛光寺 ホームページ佛光寺 :ウィキペディア真仏 :ウィキペディア了源 :ウィキペディア経誉 :ウィキペディア[五十一]「経豪上人」~経豪上人、佛光寺を継ぐ~ :「真宗興正寺派 本山興正寺」真宗十派 :「真宗教団連合」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・下京 仏光寺 -1 御影堂門・大師堂・灯籠・しだれ桜 へ
2024.06.11
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風俗博物館と龍谷ミュージアムでの鑑賞をはしごした後、続きに運動を兼ねて仏光寺までウォーキングしました。粟田口にある仏光寺本廟は以前に探訪したことがありますが、この真宗佛光寺派本山・仏光寺は訪れたことがありませんでした。四条通の南が綾小路通、さらにその南が仏光寺通と、寺名が通りの名称になっています。更に一筋南が高辻通です。南北方向は仏光寺通と高辻通の間に仏光寺が位置します。東西方向は、烏丸通の東側の東洞院通が、寺域の西側境界になります。地図で確認して初めて気づいたのですが、高倉通と堺町通は高辻で一旦道路が途切れ、仏光寺通から北にこの2つの通り名が続きます。そして、高倉通(西)と堺町通(東)との中間に高辻通から仏光寺通を結ぶ南北方向の通りがあります。高倉通と堺町通が合流し、仏光寺の門前の通りとなり、その後再び元の通りに分岐しています。つまり、東側はこの門前の南北の通りが境界です。 御影堂門を正面から。逆光になり、門の石段近くから撮りました。 築地塀には、5本の定規筋がひかれています。北側の築地塀に凹みが見える箇所には勅使門があります。北から廻って下ってきた時、撮り忘れました。 南を眺めると、門前の通りは突き当たります。築地塀の角の所が高辻通です。 先に、寺域の南辺となる高辻通と築地塀の南東角を眺めておきましょう。築地塀の手前に、慶讃法会基本理念「大悲に生きる人とあう 願いに生きる人となる」が大書された掲示板が設けてあります。(資料1) 木鼻の獅子像 吊灯籠 龍が打ち出されています。 門扉門扉上部の狭間の中央には宗紋が透かし彫りにしてあります。 御影堂門は四脚門で、本柱と控柱の間には花狭間が嵌め込まれています。 御影堂門側から眺めた大師堂(御影堂) 北東側には寺務関連の建物。名称未確認 大師堂は、単層入母屋造本瓦葺で、間口26.5m、奥行33.1mという規模の木造建物です。正面に間口10.2mの向拝が付いています。(資料2) (資料3)これは江戸時代に出版された『都名所図会』に挿画として載る佛光寺の全景です。親鸞聖人が流罪から赦免された後、建暦2年(1212)40歳の時、帰京されて山科・東野に草庵を結ばれました。この草庵が佛光寺の草創となったそうです。当初は、興正寺と号したそうです。第七世了源上人の時、後醍醐天皇の元応2年(1320)、今比叡竹中庄汁谷に移転します。現在の京都国立博物館のあたりです。天正14年(1586)、豊臣秀吉が方広寺大仏殿建立を発願した折に、要請されて五条坊門通(現在の仏光寺通)の現在地に移転しました。(資料4,5)佛光寺という名称の由来を、『都名所図会』は次のように伝えています。「後醍醐天皇の御宇に盗賊寺内に乱入し、尊像(注記:阿弥陀仏象)を奪ひ逃ぐるといへども重くして詮方なく、二条河原に投げ捨て去りぬ。その夜より瑞光を放ちて帝闕を映照し、百官これをあやしむ。帝光の行衛を尋ねさせ給ふに弥陀の光明なり。勅使驚いて尊像を帝に奉り、宮中に安置す。その後、興正寺に遷座し、寺号を仏光寺と改めて勅願を賜ふ」(資料4)また、仏光寺のホームページには、「勅願により『阿弥陀佛光寺』略して佛光寺の寺号を賜ったと伝えられています」(資料5)と説明されています。 大師堂の柱と木組 向拝の木鼻と蟇股の彫刻 金網があるのが残念! 大師堂前のブロンズ製灯籠 格狹間には様々に躍動する獅子の姿 雨水槽の正面に宗紋が陽刻されています。その前、大師堂と阿弥陀堂の前方に3本の桜の木があります。しだれ桜です。知る人ぞ知る桜スポットになっているようです。3本の桜の木は昭和47年(1972)、秩父宮・高松宮・三笠宮のお手植だとか。(資料6)次回は阿弥陀堂似向かいます。つづく参照資料1. 御消息・基本理念 :「本山佛光寺 慶讃法会特設サイト」2. 建物について :「本山佛光寺」3.『都名所図会 6巻[2] 』秋里籬島著、竹原亞信繁画、天明6(1786)刊 :「国会国会図書館デジタルコレクション」4.『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫5. 佛光寺のご紹介 :「本山佛光寺」6. 佛光寺の桜 3本の紅色しだれ桜 :「ウォーカープラス」補遺真宗佛光寺派 本山 佛光寺 ホームページ佛光寺の桜 :「まいぷれ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・下京 仏光寺 -2 阿弥陀堂・阿弥陀堂門・鐘楼・手水舎 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・東山 仏光寺本廟
2024.06.10
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六条院春の御殿1/4縮尺展示の左側には、通路を挟んで寝殿造の建物の一部を再現した空間が設けてあります。北側には襖障子が仕切りとなり、西側と南側には御簾が掛けられた板敷きの部屋空間が再現されています。ここが、等身大の実物装束その他、平安時代の風俗を実物大で展示する空間になっています。 南側の御簾越しに眺めた女房の姿 この等身大の女房(人形)が着ているのは、三条天皇の中宮妍子が女房たちに着せた「二十枚の重袿(カサネウチギ)」を再現したものです。妍子は藤原道長の娘であり、藤原妍子が皇大后として大饗(ダイキョウ)を主催したときに、二十枚の重袿を女房に着させるという華美な演出を行ったと言います。 この案内文が傍に掲示してあります。 この時の女房たちの衣装について、『栄花物語』巻24「わかばえ」に記述が残されていると言います。 表着(ウワギ)は萌黄色で菱形文様の織物、唐衣(カラギヌ)は秘色の返襟で、桜色の亀甲文様です。 単の上に、重袿として三色を内側から6枚、6枚、7枚と重ねて着ています。重袿は、「過差(カサ)の禁制で5枚が基本となり五衣(イツツギヌ)と呼ばれた、複数の色の重なりで『かさね色目』を表現することは女房装束の華とされた」(資料1)そうです。 裳を背後に大きく広げ、二筋の引腰が伸びています。掲示の案内に記されていますが、当時藤原道長は装束の倹約令を発令していたそうです。それに対して妍子が華美な重袿の演出をしたことに「とんでもないことだ」と怒ったと言います。(資料1) 御簾のすぐ傍の衣桁に掛けてあるのは、「袍(ホウ)」です。法華経千部供養の場面で殿上人たちが着用しているのは束帯です。平安時代の貴族男性の昼の装束で、正装です。束帯の表衣と言われるのが「袍衣」になります。当時の貴族の勤務服として、この袍の色は、身分秩序として位により色が定められていました。(掲示の案内板より)ここには、位袍と称された、位と着用できる色の関係が反物で展示されています。左から順に: 一位 深紫 人臣の最高位。太政大臣のみ着用。紫根(シコン)で染められた色 二位 浅紫 左大臣と右大臣が着用。紫根で染められた色 三位 浅紫 大納言・中納言・近衛大将などが着用。紫根で染められた色 四位 深緋 近衛中将が着用。日本茜で染められた色。 五位 浅緋 四位・五位以上が昇殿を許され「殿上人」に。日本茜で染められた色。(掲示の案内板より) 左から順に: 六位 深緑 六位以下は「地下(ジゲ)」と称される。刈安と蓼藍で染められた色。 七位 浅緑 大学寮の博士、陰陽師など。 刈安と蓼藍(タデアイ)で染められた色。 八位 深縹 雅楽寮の楽人たちの中の諸師達が着用。蓼藍で染められた色。 初位 浅縹 最下位の位。蓼藍で染められた色。 その下は位のない「無位」 (掲示の案内板より)つまり、袍の色を見れば、貴族の位階が判然とわかったのです。 この展示空間の南端側に、「公家女房晴れの装い」として、等身大の衣装が展示されています。平安時代中期に、唐様を変化させて日本独自の十二単(ジュウニヒトエ)が完成します。こちらも拙ブログ記事で既にご紹介しています。併せてご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -2 小袖の展示、草木染め、十二単観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -6 四季のかさね色目・「晴れの日の正装」観照 風俗博物館 2018年前期展示 -2 十二単の変遷とかさね色目 この十二単の展示の近くに、「継紙」の一例が展示されています。「継紙とは、異なる質や色の紙を継いだ料紙のことです」(掲示案内より)継紙の技法には、 切り継ぎ: 主に直線的に切った紙を継ぐ 破り継ぎ: 破いた紙を継ぐ 重ね継ぎ: 薄様の紙を重ねるがあり、また、「金銀の箔や砂子を散らしたり、金泥で蝶や鳥、折枝などを描いたものなど継紙には様々な趣向が凝らされています」継紙は鑑賞用あるいは誰かに送る文用に用いられています。継紙が成立したのは平安時代だそうです。料紙そのものの美が関心の対象にもなっていくのです。(掲示案内より) 北側の襖障子この北側に、 草木染で染めた松かさね 蓮糸織りこの箇所も作品を変えながら草木染めの常設展示コーナーとなっています。こちらも拙ブログ記事で過去にも触れています。上掲の2020年の拙ブログ記事をご覧ください。 衣装の文様について、この案内パネルが掲示されています。時間をかけて鑑賞していくと、コンパクトながら、平安時代の世界へ、『源氏物語』の世界へ、タイムスリップできる空間が広がっています。これで今期展示のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. 当日いただいた小冊子 「風俗博物館 令和6年2月~ 展示」号補遺風俗博物館 ホームページ国宝「三十六人歌集」特別公開特集② :「ことしるべ Kotoshirube」西本願寺本三十六人家集 :ウィキペディア王朝継ぎ紙の世界 ホームページ 王朝継ぎ紙研究会 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -1 法華経千部供養(1) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -2 法華経千部供養(2) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -3 法華経千部供養(3) へ 観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -4 産養(ウブヤシナイ)へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -5 かさね色目に見る美意識 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -6 遊びと日常 & 竹取物語 へ
2024.06.09
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東の対の屋の西廂の北端には、女房たちの日常生活の場となる「局(ツボネ)」があります。局への出入口となる襖障子と、対の屋から寝殿へ出入りするための妻戸が開いているのが見えます。襖障子の傍に、囲碁の道具が置かれ、その傍に角高坏と折敷に菓子類を載せて置かれています。 局で行われているのは、平安の遊びの1つの「偏つぎ」です。偏と旁(ツクリ)に分けた札を使い、その組み合わせで漢字の知識を競い合うという遊び。 この偏つぎの遊びの具現展示も、定番の1つです。その時々で展示のしかたが変化しています。寝殿の北側に回り込みますと、 渡殿に沿う形である曹司(私室)。この渡殿にあるのは、上臈(ジョウロウ)に与えらる部屋、局(ツボネ)です。紫式部が中宮彰子のもとに仕えていたとき、藤原道長の屋敷・土御門殿では、東対と寝殿を結ぶ渡殿の一番西寄りの局を自室として与えられていました。局には、格子や妻戸が備わっています。几帳で仕切る部屋とは違い、独立したものだったようです。 衣架(衣桁)には衣服が掛けられていて、女房が衣装を整えています。 その隣では、火取の上に伏籠(フセゴ、竹製の籠)を伏せて、その上に衣服を掛け、香を焚き染める作業に勤しんでいます。香は趣味の良さを相手に伝える手段の1つです。「香りを纏うという意味で、もうひとつの装束ともいえる」(資料1)ものでした。 さらに西側では、平安時代の女性が美人と評される重要な条件となった黒髪の手入れを身だしなみとして行っている場面が具現展示されています。 鏡台(左)と櫛箱(右)。様々な化粧道具が櫛箱に並べてあります。その手前の箱に入っているのは、髢(カモジ)でしょうか。この香り焚き染めと身繕いもまた、女房の日常生活の代表的な場面として定番になっています。今までにも繰り返し眺めています。 全景 このフロアの一隅に、平安初期を題材とした『竹取物語』のクライマックスが具現展示されています。平成24年(2012)に平安時代を感じる手助けとして加えられ、常設展示されました。今回はこれも写真を列挙する形の簡略なご紹介にします。 かぐや姫を月から迎えに来た王様 付き従ってきた女官たち 天女 慌てふためき、嘆く侍女・悲しむ翁 従容と月よりの迎えを受け入れるかぐや姫 嘆き悲しむ媼(オウナ)『竹取物語』については、ごちらの拙ブログ記事を併せてお読み願えるとうれしいです。観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -4 かさね色目・竹取物語観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -6観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -4 竹取物語・天徳内裏歌合観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -5 六条院の日常と竹取物語探訪&観照 風俗博物館(京都) -4 竹取物語・等身大の時代装束展示 ⇔ 2016年では、最後のセクションに移ります。(このセクションは、入手資料の公式の順路で言えば、法華経千部供養の場面を廻る途中で拝見する展示空間になります。)つづく参照資料1. 当日いただいた小冊子 「風俗博物館 令和6年2月~ 展示」号補遺風俗博物館 ホームページ竹取物語 :ウィキペディア竹取物語 10miniボックス 古文・漢文 :「NHK」DVD「古典資料DVD 古典入門(1) 『竹取物語』~古典の豊かな想像力」 YouTube竹取物語絵巻デジタルライブラリ ホームページ 立教大学 上巻・中巻・下巻等、また張交屏風などのページもあります。竹取物語 和田萬吉 :「青空文庫」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -1 法華経千部供養(1) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -2 法華経千部供養(2) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -3 法華経千部供養(3) へ 観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -4 産養(ウブヤシナイ)へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -5 かさね色目に見る美意識 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -7 等身大の装束展示ほか へ
2024.06.08
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標題を短く収めるために省略形で書きました。このセクション、正式には、 四季のかさね色目に見る平安王朝の美意識というタイトルでの展示です。上掲のように、六条院春の御殿の東の対(対の屋)の西廂を使って、四季折々の装束のかさね色目について、ミニチュアで具現化展示が行われています。この四季のかさね色目、そこに表現された平安時代、宮廷の美意識を展示することは、この風俗博物館の展示での定番です。常設展示に近い具現展示の一環になっています。 このセクションの全景を撮るとこんな感じです。それぞれのかさね色目について、詳細な案内パネルがご覧のように掲示されています。 これは前回ご紹介した「東の対」を南西側から見た景色です。建物の西側面の高欄と簀子が見えています。これでおわかりの通り、東の対については、1/4縮尺で建物の一部を具現化されているにとどまります。今回は四季のかさね色目の具現展示を簡略通覧するだけに致します。かさね色目の名称とその装束の着用期間だけ旧暦の月表示でご紹介します。 梅かさね 11月~2月 桜かさね 若菖蒲かさね 4月~5月 白撫子かさね 4月~6月 女郎花(オミナエシ)かさね 7~8月頃 黄菊かさね 10~11月頃まで 紅紅葉(クレナイモミジ)かさね 10・11月頃 これは今までに私が見た範囲では初展示と思います。次の一文を引用します。”「紅葉の様々」として『満佐須計(マサスケ)装束抄』に記載される紅葉する木々の色を表したかさね色目”だそうです。(資料1) 雪の下かさね 11月中旬より春頃まで 松かさね 四季通用・祝いに着る色こちらを併せてご覧ください。具体的な説明を書き込んでいます。観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -4 かさね色目・竹取物語観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -4観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -5 香爐峰の雪、平安王朝の美意識観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -3 歳暮の衣配り・平安王朝の美意識ほか観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -6 四季のかさね色目・「晴れの日の正装」観照 風俗博物館 2018年前期展示 -2 十二単の変遷とかさね色目風俗博物館の具現展示で、通常展示の定番の1つとも言えるこの四季のかさね色目について、私が見てきた範囲において、その展示の推移を一覧にしてみました。 (過去の拙ブログ記事をチェックして見ました。カウントミスがあるかも知れません。)今年の展示を基準にして過去に遡ってみますと、次の通りです。梅かさね '2023 '2022 '2021 '2020 '2019 '2018桜かさね '2023 '2022 若菖蒲かさね '2023 '2022 白撫子かさね '2023 '2021 '2020 '2019 '2018女郎花かさね '2023 '2022 黄菊かさね '2022 紅紅葉かさね 雪の下かさね '2023 '2022 '2021 '2020 '2019 '2018松かさね '2023 '2022 '2021 '2020 '2019 '2018過去の展示では 菖蒲かさね '2021 '2020 '2019 振り紅葉 '2021 '2020 '2019 藤かさね '2018かさね色目の展示の様子をイメージしていただければと思います。今回は、かさね色目のミニチュア装束の傍に置かれた花々の花瓶に焦点を当ててみました。 移ろいゆく季節、自然の花々の彩りが色目に反映しています。その花々と花瓶がまた実に精緻・精巧に具現化されています。こちらも見応えがあります。この辺りで、次に移ります。つづく参照資料1. 当日いただいた小冊子 「風俗博物館 令和6年2月~ 展示」号補遺風俗博物館 ホームページ満佐須計装束抄 :ウィキペディア満佐須計装束抄1 :「国立公文書デジタルアーカイブ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -1 法華経千部供養(1) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -2 法華経千部供養(2) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -3 法華経千部供養(3) へ 観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -4 産養(ウブヤシナイ)へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -6 遊びと日常 & 竹取物語 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -7 等身大の装束展示ほか へ
2024.06.07
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明石の姫君は、11歳で裳着をを迎えた後、東宮(皇太子)に入内し、東宮妃として「明石の女御」と称されます。内裏より六条院に宿下がりした後、旧暦3月10日過ぎに、実母・明石の君が住まわれる冬の御殿で、無事に皇子を生みます。明石の女御は13歳の若さです。三夜、五夜と様々な行事・祝宴が冬の御殿で行われます。源氏一門の繁栄をかけた「七日の産養の儀」(皇子が誕生して7日目の祝宴)を威勢を示し晴れやかに行うために、前日に明石の女御を春の御殿に移します。明石の女御が六条院で本来の居所としていた春の御殿の寝殿西側に移りました。冒頭は、春の御殿の東の対(対の屋)ですが、今回ここが「7日の産養の儀」の場所に見立てられています。 南西の角には、産養の祝宴に列席した人々への禄(祝儀)の品が準備されています。 その傍に佇むのは「言口(イイクチ)」と称される役割を担う五位の束帯です。出産後3日の産養から、粥(カユ)をすする儀式に関係します。粥をすするときの問答で、答える側の役割を担う者を言口というとか。(資料1) 一方、南東隅の簀子に座るのは「問口(トイクチ)」の役割を担う殿上人です。問口は、問答において、問を出す役割の者をいいます。(資料2)この行事は、「廻粥(メグリガユ)」(啜粥 ススリガユ)と称されます。”赤子の無事の成長を妨げる邪鬼に対して粥を与えることで、邪気祓いをし、将来の多幸と無事の成長を祈る儀式”で、粥が邪気を祓うと信じられていました。(資料3)”当時の赤子の夜泣きは悪霊がなせる業だと考えられていたこともあったため、悪霊退散の儀式として、「問口」の役が「こちらに夜泣きする赤子がいらっしゃいますか」という問いに対して、「言口」役の五位の束帯7名が、赤子の夜泣きが止まり、息災に成長し、位人臣を極める赤子の輝かしい未来の言祝ぎの誦詞を唱え粥をすすりながら、東から西に庭上を廻り歩く(三夜は三廻り・五夜は五廻り・七夜は七廻り)ことで、あらゆる邪気を祓いながら、庭上を廻るということが行われた。”(資料3)そうです。 南西側の簀子には、生まれた皇子のための衣装その他さまざな品が、箱、櫃、檜破籠(ヒワリゴ)などに納めてあります。 「まず、出産が近づくと、吉日を選んで、産室を清浄な白一色に改める。壁代をはじめ、御帳台・屏風・几帳・畳の縁も白に改め、出産に奉仕する女房達も皆白装束に改める。この白装束と白い調度品は出産してから7日目までは続けられた」(資料3)ということで、冬の御殿から春の御殿に移ってからも、7日の産養いは白一色です。 源氏が生まれて7日目の若宮を抱いています。 ”大殿の君も、若宮をほどなく抱きたてまつりたまひて、「大将のあまた儲けたなるを、今まで見せぬがうらめしきに、かくらうたき人ぞ得たてまつりたる」と、うつくしみきこえたまふはことわりなりや” と『源氏物語』の「若菜上」に、源氏の喜びが記されます。 <大殿の君も、お生まれになって間もない若宮をお抱き申されて、「大将が子供をたくさんもうけているそうだが、今までわたしに見せてくれないのがお恨めしかったところへ、こんなに愛らしい人を手に入れさせていただいた」とおかわいがり申されるのも、もっともなことではある> ここでの大将とは、夕霧をさしています。 (資料4) 白い屏風の前に、白装束の紫の上が座っています。 簀子に控える白装束の女房。白い裳が背後に広々と広がっています。 祝宴の品々 白い御帳台には、明石の女御が横になっていらっしゃいます。 白の几帳 白一色!! 建物の東側に回り込み、南北が几帳で仕切られ、西の母屋の内に御帳台が見え、明石の女御の頭部が垣間見えます。 実物の展示はありませんが、「御湯殿の儀」を具現化したこのパネルが説明文付きで掲示してあります。 この御湯殿(オユドノ)の儀に使われる道具類は具現化展示されています。この御湯殿の儀は、”産まれた子の無事の成長を願い誕生してから7日間、朝夕2回行われる儀式で、産湯とは別に、儀式として赤子にお湯を浴びせかけるものである。まず、時刻の吉凶を占って、吉方の井戸の水を用いて産湯を用意し、それに「御剣(ミハカシ)」「犀角(サイカク)」と作り物の「虎の頭」の影を産湯に映し、その霊力を授かった湯で赤子を清めるという儀式”だそうです。(資料3)「御湯殿」(お湯をかける役)と「御迎湯(オムカエユ)」(相手役)の女房が中心となって行われます。虎の頭は邪気祓い、犀角は水気除けと毒消し・解熱の効力がある病気祓いとしての霊力が尊ばれたそうです。『紫式部日記』には、「十二 九月十一日酉の刻~御湯殿の儀」としてこの儀式の様子が詳細に記録されています。中宮彰子が産んだ若宮に対する産養の儀の描写です。この後半に、この儀式において、散米(ウチマキ)や「読書始(ドクショハジメ)の儀」、鳴弦(メイゲン)が行われる様子が記録されています。山本淳子さんの現代語訳を引用します。(資料4)「殿のお坊ちゃん方お二人、源少将<雅通>などが、散米を投げては大声を上げ、我こそは大きな音を出して邪気を祓おうと、競争で騒ぐ。浄土寺の僧都がお湯の加持にあたっていらっしゃるのだが、剃髪の頭にも目にも散米が当たりそうなので扇をかざし、若い女房に笑われる。 漢籍を朗読する博士、蔵人の弁広業が前庭の高欄の下に立って、『史記』の一巻を朗読する。鳴弦の係は二十人。五位の者が十人、六位が十人で、二列にずらりと並んでたっている」弓の弦を鳴らすことと散米は魔除けであり、漢籍の一部を読み上げるのは、将来の叡智を願うという行為です。 これは階の右側、庭に置かれています。右は散米の道具かなと推測しますが、左は不詳です。 若宮を抱く源氏の位置の少し左(西)側の屏風の目に、真っ白な二階厨子が並べて置かれています。その上面の皿に盛り上げてあるのは、産養の儀の祝宴で提供する菓子・果実の類でしょうか。 几帳と屏風の背後に、白装束の女房が控えています。この産養の具現化展示には、「東宮妃・明石の女御の皇子誕生、若宮の披露と源氏一門の栄華」というサブ・タイトルが付けてあります。中宮彰子の若宮出産と藤原道長の一門の栄華に呼応する政治的・社会的文脈です。「七夜の産養は最も格の高い人が務める一番大がかりなもので、誕生した子の将来を政治的に後見する存在が誰であるかを社会に広める重要な儀式であった」(資料3)では、次の展示に進みましょう。つづく参照資料*『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦 編 須貝稔 作画 小学館1. 言口 :「コトバンク」2. 問口 :「コトバンク」3. 当日いただいた小冊子 「風俗博物館 令和6年2月~ 展示」号4.『紫式部日記 現代語訳付き』紫式部 山本淳子訳註 角川ソフィア文庫 p219-220補遺風俗博物館 ホームページ廻粥 :「コトバンク」啜粥 :「コトバンク」散米とは :「東光寺オフィシャルサイト」散米 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -1 法華経千部供養(1) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -2 法華経千部供養(2) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -3 法華経千部供養(3) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -5 かさね色目に見る美意識 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -6 遊びと日常 & 竹取物語 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -7 等身大の装束展示ほか へ
2024.06.06
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『源氏物語』の「御法」で、紫の上が法華経千部供養の法会を主催された折、「花散里と聞こえし御方、明石なども渡りたまへり」と述べています。 <花散里と申しあげたお方や明石の君などもお出向きになる> (資料1)つまり、花散里の御方や明石の君などもこの法会に列席します。余談ですが、本文について、手元の書の頭注を読んで気づいたこと!花散里御方、明石とあり、明石は呼び捨ての記述です。ここには花散里と明石との身分差を表す意図が潜んでいるとあります。身分差という障壁がきっちりと書き込まれているのです。そこまで考えずにこの本文を転記していました。ウ~~ン・・・・・。確認してみますと、花散里は、源氏の父である桐壺院の女御であった姉(麗景殿女御)の妹です。明石は、明石の入道の娘。近衛中将の官を捨てて国守の播磨守となり、後に出家してそのまま明石の浦に住みついた明石の入道の一人娘です。いわゆる受領階層の娘ということになります。「北の廂に、方々の御局どもは、障子ばかりを隔てつつしたり」 <御方々のお席は、寝殿の北廂に、襖だけを仕切り仕切りしてしつらえてある>(資料1)冒頭の様子がその描写の具現化です。ここでは、北廂の東西方向が襖障子や屏風、几帳を仕切りに使い、東側に花散里の御方、西側に明石の君の御局が設定されています。そして、冒頭の場面は、西側の明石の君の御局が具現化展示されています。 西廂を北側から眺めた情景塗籠を自らの席とされる紫の上に仕える女房たちが西廂に居並ぶ後姿です。北廂とは襖障子で仕切られています。 北廂の奥(南)側は床面が一段高くなっています。ここは西廂に近い西端です。手前(北)側には、明石の君が準備された「捧物」が唐櫃に納めて置かれているようです。 奥(南)側には、二階厨子が並べて置かれ、ここにも様々な捧物が置かれている様子。 旧暦の3月10日、明石の御方が御簾越しに匂宮(5歳)と対面しているのでしょう。(資料2)(女性が畳の上に座っていることから、明石の御方と推測しました。参照の掲示パネルにはこの点の明記はありません)「このころとなりては、何ごとにつけても心細くのみ思し知る。明石の御方に、三の宮して聞こえたまへる」 <(紫の上は)このごろともなると、どんなことにつけても余命を心細くばかり身にしみてお感じになる。そのお気持ちを明石の御方に、三の宮をお使者としてお申し上げになる> (資料1)三の宮は帝の第三皇子、匂宮です。匂宮の母は明石の中宮ですので、紫の上のお使いという形で祖母である明石の御方に、紫の上の歌を届けるのです。 北廂の御簾の向こうには畳が置かれ、手前の匂宮は茵(シトネ、褥)に座っています。 御簾を介して紫の上の文を渡す匂宮紫の上は、死期の近いことを予感し、明石の御方に歌を贈ります。 惜しからぬこの身ながらもかぎりとて 薪尽きなんことの悲しさ 紫の上 瀬戸内寂聴さんは、こんなふうに訳されています。(資料3) もはや惜しくもない この身だけれど ついにこれを最後と 薪が燃え尽きるように 死んで往くのが悲しくて 明石の御方明石の御方は、紫の上の贈歌を拝見して、返歌を認めます。「御返り、心細き筋は後の聞こえも心おくれたるわざにや、そこはかとなくぞあめる」 <ご返事は、こちらからも心細い筋合いのことを申しあげるのでは、心づかいが足りないと後々に取り沙汰されようかと、当りさわりなくお詠みになったようである> (資料1) 薪こる思ひは今日をはじめにて この世にねがふ法ぞはるけき 明石の御方 寂聴訳 千年も薪こり菜つみ水汲み 法華経奉仕をなさるのは 今日の御法会がそのはじめ はるかな御寿命の涯までも 法の道を成就なさる遠い道のり (資料3)この後の『源氏物語』の本文は、よもすがらから朝ぼらけにかけての法会の状況を語り、最初にご紹介した「陵王の舞」の場面に転じていきます。 明石の御方の袖口に見る色目のかさね 北側から北廂の明石の御方と控える女房たちを眺めた情景 こちらは花散里の御方の御局です。襖障子を仕切りにして、屏風や几帳を立てて、御局が設けられています。 花散里の御方の背後に置かれた屏風と高灯台「事はてて、おのがじし帰りたまひなんとするも、遠き別れめきて惜しまる」 <御方々は、法会が終わってめいめいに帰ろうとなさるが、それにつけても紫の上は、これが永遠の別れのようで、名残惜しく思わずにはいらっしゃれない> (資料1)紫の上は、花散里の御方に、歌をお贈りになります。 絶えぬべきみのりながらぞ頼まるる 世々にと結ぶ中の契りを 紫の上 (資料1) 寂聴訳 やがて命の絶えるわたしの 営む最後の法会こそ その功徳によって結ばれる あなたとの永久の御縁の その頼もしさよ (資料3) 花散里の御方 それに対して、花散里の御方は、ご返事として歌を詠みます。 結びおく契りは絶えじおほかたの 残りすくなきみのりなりとも 花散里の御方 寂聴訳 あなたと結ばれた御縁の 絶えることがあるものですか もはや余命少ないわたしは どんな法会でも有り難いのに こんな盛大な法会に結ばれて (資料3) 几帳の部分図 几帳は移動可能で空間を隔てる便利な室内建具の1つです。土居と称する木製の四角の台に、足と呼ぶ丸柱が二本立てられ、上部に手と呼ぶ横木が渡されています。その横木に帳(トバリ)が垂らされます。野筋と呼ぶ長い紐が裏で折り返されて、表に二条になって垂れ下がります。この場の女房は几帳の裏側に座していることになります。几帳は、幅を縫い合わせる時に、中ほどを少しずつあけておき、意図的に几帳の「ほころび」を作っておくそうです。そのほころびが「かいま見」に利用されるとか。女性が男性と対面する場合、多くは几帳を隔てとしたそうです。また、几帳は衣類を掛けることにも利用されました。(参照資料) 左端の几帳は、野筋が左側に垂れ下がっているのがわかります。つまり、この几帳は、襖障子の側に表を向けて置かれています。東廂と北廂の間の襖障子が開けられた場合、几帳の表が東廂に向けられているわけです。 襖障子紫の上と花散里との贈答歌のやり取りが記された後、この法会の催しが次の文で締めくくられます。「やがて、このついでに、不断の読経、懺法など、たゆみなく尊きことどもをせさせたまふ。御修法は、ことなる験もみえでほど経ぬれば、例のことになりて、うちはへさるべき所どころ寺々にてぞさせたまひける」 <この法会に引き続いて、そのまま不断の読経や懺法など、あれこれの尊い仏事を怠りなくおさせになる。御修法(ミズホウ)は、格別の効験も現れぬまま月日が経っているので、これが日常のようになり、しかるべき所どころ、寺々で引き続いておさせになるのであった> (資料1)御修法というのは、病気平癒の祈祷。いわば一般的な祈祷です。格別な効験がでないけれど引き続き寺々等で行ってもらっていると言うことを、きっちりと紫式部が書いています。現実を冷徹に観察した事実・体験を記述し反映させているところはさすがだと感じます。権威にこびることなく、実にシニカルでもあります。一点だけ補足しておきたいと思います。紫の上は、寝殿の塗籠を自身の座とします。この二条院としての見立てでは、寝殿の西の塗籠に相当する場所を見立てに使っているだけのようです。手元の本によりますと、塗籠は、「母屋の東西どちらかや廂などに設けられる、壁で囲まれた閉鎖的空間をいい、二間四方になる場合が多い。出入口は妻戸になるが、その位置は様々で、明かり取りがあるとの説がある」(参照資料より) また、「母屋や廂などに設けられた部屋。周囲を壁にして塗り込め、妻戸をつけて出入口とする。大きさは一定しない。おもに納戸として使用された」(資料4)と説明されています。この六条院春の御殿の寝殿では、塗籠の壁で囲まれた箇所の壁自体が省略されているように見えます。その位置は寝殿の全体から判断できます。この展示では、座とした場所の位置を見立てて具現化されていると考えるのが適切なのだろうと思いました。紫の上が主催した法華経千部供養の法会場面をこれで終わります。今回の企画のもう一つのハイライト「産養(ウブヤシナイ)」の場面に移りましょう。つづく参照資料*『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦 編 須貝稔 作画 小学館1.『源氏物語 4』 新編日本古典文学全集 小学館 p495~4992.当日いただいた小冊子「令和6年2月~ 展示」号と会場に掲示の説明パネル3.『源氏物語 巻七』 瀬戸内寂聴訳 講談社文庫 p2574.『源氏物語必携事典』 秋山虔・室伏信助 編 角川書店 補遺風俗博物館 ホームページ七僧 :「コトバンク」散華 :「飛不動 龍光山正寶院」塗籠 建築用語辞書 :「東建コーポレーション」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -1 法華経千部供養(1) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -2 法華経千部供養(2) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -4 産養(ウブヤシナイ)へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -5 かさね色目に見る美意識 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -6 遊びと日常 & 竹取物語 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -7 等身大の装束展示ほか へ
2024.06.05
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法華経千部供養の法会のために、母屋に安置された普賢菩薩像普賢菩薩は合掌し白象の背上の蓮華座に結跏趺坐する姿で、平安時代以降に制作された作例が多いそうです。(資料1) 普賢菩薩は仏の理性を示す菩薩で、諸菩薩の上位とされています。慈悲をつかさどり、堅固な菩提心を持ち、女人往生を説いたため、極楽往生を願う女性たちの篤い信仰を受けました。(資料1)寝殿の北側に回ります。 女房たちは表着の上に付ける裳を背後に広々と広げて北廂に居並んでいます。 さらに後ろ(東)の方にも居並んでいます。 北側から北廂とその先の塗籠辺りを眺めますと、 左(東)にも女房が控え、 法華経千部供養の主催者・紫の上が塗籠を法会におけるご自身の座としています。『源氏物語』の「御法」には、「南東の戸を開けておはします。寝殿の西の塗籠なりけり」 <紫の上は、南と東側の戸を開けてご自分のお席にしていらっしゃる。そこは寝殿の西の塗籠なのであった> と記されています。 (資料1) 紫の上右手には数珠が握られています。 傍近くに置かれた調度品奥側から、唐櫛笥(カラクシゲ)、鏡箱、鏡台、泔坏(ユスルツキ)、火取(ヒトリ)ここで、法華経千部供養として行われた法華八講の3日目、五巻の日に行われる行事「薪(タキギ)の行道(ギョウドウ)」の様子を眺めましょう。この行事は寝殿内の母屋と廂を使って具現化されていますので、部分的にしかみることができません。 行道の眺め 寝殿の南西側から 行道の眺め 寝殿の南側から 法華経第五巻・提婆逹多品(ダイバダッタホン)に、釈尊が前世で薪を拾い、水を汲んで仙人に仕えて妙法を得たという話が載っています。”この段を唱する時は薪と水桶を背負った六位の蔵人と七僧が「法華経をわが得しことは薪こり菜摘み水くみ仕へてぞ得し」(行基作)と歌いながら本尊の周りを右廻りに歩き廻る”という「薪の行道」が行われます。(資料2)「今回の展示では、七僧、薪や水桶持ちの六位の蔵人に加え、殿上人が高位の方々の捧物(ホウモチ)を手に行道し、上達部がこれに続いて行道する姿を展示」してあります。」上掲は行道の行事に加わる上達部たちの具現化です。冒頭の普賢菩薩坐像の背景に薪あるいは水桶を前後に棒に吊して歩む蔵人の姿が垣間見えます。 行道する七僧の姿 寝殿の南東側から 透渡殿の東からの眺め 行道する僧の姿 南東側の庭から 東廂を行道する七僧の姿 東側の庭から「御法」には、次の文が記されています。「七僧の法服など品々賜す。物の色、縫目よりはじめて、きよらかなること限りなし。おほかた、何ごとも、いといかめしきわざどもをせられたり。」<七僧の法服などをそれぞれの身分に応じてお与えになる。それらの色合い、仕立て方をはじめとして善美を尽くされる。すべて何もかも、まことにおごそかで立派な法会を営まれた>と。 (資料1)さらに、その続きに、この法会について、紫の上は源氏に詳しいことを語らず、それ故源氏も立ち入った助言をしていなかったにも関わらず、儀式作法にかなっていたので、源氏が感心されたということが述べられていきます。 寝殿内の見えにくい箇所が具現化された様子は、「薪の行道」説明パネルが掲示されています。他にも説明パネルが備えてあります。 寝殿の南東側の透渡殿(スキワタドノ)にも、法会に列席した殿上人が座っています。 庭には童が待機しています。 南東隅に馬も待機しています。 寝殿の南西隅、東廂の南端に展示された十二単この辺りで一区切りとします。つづく参照資料*『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦 編 須貝稔 作画 小学館1.『仏尊の事典』 関根俊一 編 エソテリカ事典シリーズ1 学研 p78-792.『源氏物語 4』 新編日本古典文学全集 小学館 p495~499補遺法華八講 :「コトバンク」仏に関する基礎知識:普賢菩薩 :「高野山霊宝館」普賢菩薩 :ウィキペディア成仏は法華経にあり 提婆達多品 ”ざっくり納得 法華経のすべて” :「日蓮宗」法華経 提婆達多品 法華経の現代語訳 :「カクヨム」法華経 普賢菩薩勧発品 法華経の現代語訳 :「カクヨム」「優曇華」とはどんな花? 滅多に見られない貴重な花です :「1からわかる親鸞聖人と浄土真宗」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -1 法華経千部供養(1) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -3 法華経千部供養(3) へ 観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -4 産養(ウブヤシナイ)へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -5 かさね色目に見る美意識 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -6 遊びと日常 & 竹取物語 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -7 等身大の装束展示ほか へ
2024.06.04
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今年もグルーン・カーテンがほぼできて、今朝オーシャンブルーの初花が開花!!第1号です。 グリーン・カーテンは少し前にほぼ出来上がっていました。 花をズームアップすると、葉裏に昆虫がくっついています。アリでしょうか? 早くも葉は食い荒らされてきています。下の方がかなり荒らされていて、 上の方は今のところ大丈夫のようです。でも、時間の問題かも・・・・・。 グリーン・カーテンの傍に置かれたプランターには、ユリが咲いています。 少し前から咲いていましたが、いつからだったか・・・・意識していませんでした。 小さな庭の西端、ブロック塀の傍で、ガクアジサイが咲いているのに気づきました。 ガクアジサイの根本を見ると、赤色で小ぶりののガクアジサイが咲いています。 玄関口の東側にこの花が開いています。家人に尋ねると、ムラサキツユクサだとか。 西側の窓の下の棚には、このベビーサンローズの花(たぶん・・・・・)が開いています。これは家人に今朝言われて、知りました。ネット検索して知った花名です。別名がアプテニアだそうです。オーシャンブルーの花、第1号をきっかけに、小さな庭を眺めると咲く花が入れ替わっています。小さな庭に咲く花記録がまた1ページ増えました。補遺ガクアジサイ :「四季の山野草」ムラサキツユクサ :「みんなの趣味の園芸」ベビーサンローズ :「花と緑の図鑑-Garden Vision」アプテニア(ベビーサンローズ)の育て方 :「植物ノート」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.06.03
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先月末(5/29)に、今年の2月から始まっている展示を鑑賞する目的で風俗博物館に行って来ました。堀川通をはさみ、西本願寺の前(東側)、龍谷ミュージアムの北にあります。展示フロアーはビルの5階。会場に入ると眼前にこの景色が広がっています。 入場券半券 1/4の縮尺で再現された六条院春の御殿の寝殿が、今回の企画展示では、紫の上の私邸・二条院に見立てられ、紫の上(43歳)主催で法華経千部供養が執り行われる場面が具現化されています。『源氏物語』「御法」に描かれた場面です。正面の階の右側の母屋に普賢菩薩像が安置され、法華八講の法会が行われている場面です。 塗籠手前の南廂に源氏(51歳)が着座しています。サブ・タイトルは、~仏の御教えの結縁・准太上天皇の正妻格として後援された紫の上の法要と惜別~ です。「年ごろ、私の御願にて書かせたてまつりたまひける法華経千部、急ぎて供養じたまふ。わが御殿と思す二条院にてぞしたまひける」 <紫の上は、これまで長い間、内々の御発願としてお書かせ申していらっしゃった法華経千部を、急いでご供養になる。ご自分の私邸のようにしていらっしゃる二条院でお催しになるのだった>(資料1)と、『源氏物語』の「御法」に述べられています。この法華八講は紫の上個人の発願として行われました。「三月の十日なれば、花盛りにて、空のけしきなどもうららかにものおもしろく、仏のおはすなる所のありさま遠からず思ひやられて、ことなる深き心もなき人さへ罪を失ひつべし」3月10日(旧暦)に法華経千部供養が執り行われました。この時の法会の様子が書き込まれています。<仏がおわしますと聞く西方浄土の有様もそう変わりはあるまいと想像されて、特に信心の深い人ではなくても罪障が消滅するというものであろう>と語る人の思いが記されています。(資料1)「法華経千部は1日1部を35人で作成して完成に3年を要する」(資料2)という準備がまず必要です。”この法華経千部供養は法華八講(法華経八巻を4日間で講説する)の形で行われており、3日目の第五巻提婆逹多品を講ずる日は「五巻の日」とも称されて最も盛大になり、夜に入って「薪(タキギ)の行道(ギョウドウ)」が行われた。”(資料2)と言います。法華経八巻が八座に分けられ、一日に朝座と夕座の2回で4日間の法会となります。”参会する人々に饗膳が振る舞われた後、講座の開始を知らせる鐘が鳴らされ、法会を行う僧達が参入する。一同が堂に入り、講師が高座に登ると、声明が唱えられて散華が行われる。初日の最初の講座で願文が読み上げられ、その後、講説(経典について講釈すること)、論議(教義上の質問に問答すること)、誦経(経文を暗誦する)、行香(焼香の香を配る)という流れで進行していく。”(資料2)というものだそうです。それでは、法華経千部供養の場面を眺めていきましょう。 龍頭の船 鷁首の船 寝殿前庭にある池には、龍頭と鷁首の二種の船がうかべられています。 簀子に坐るのは右大将の夕霧です。 鉦鼓 階に向かって左側の楽人たち 釣太鼓 階に向かって右側の楽人たち 供養の法会に列席する源氏と夕霧ほか 階前の両側には、器に盛った散華のための花を捧げ持つ童たちが並んでいます。 階の傍に立てられた裂幡(キレバン)「夜もすがら、尊きことにうちあはせたる鼓の声絶えずおもしろし」 (資料1) <夜もすがら、尊い読経の声に合わせて打ち鳴らす鼓の音が絶えず聞えて興をつないでいた> ほのぼのと夜が明けてゆく朝ぼらけの中で、陵王の舞が始まり、「陵王の舞ひて急になるほどの末つ方の楽、はなやかににぎははしく聞こゆるに」 <陵王を舞って急の調べになるときの終り近い楽の音が、はなやかにまたにぎやかに聞こえてくると>(資料1)と記されるシーンです。舞は陵王、曲は蘭陵王と言われ、唐楽左方走舞の名作中の名作だそうです。中国・北斉(549~577)の蘭陵の王・長恭は、戦場での士気を鼓舞するために恐ろしい面をつけて戦い大勝利を得ました。この時喜んだ部下達が陵王の舞を作ったと言います。(資料2) 別の舞人が控えています。こちらは「落蹲(ラクソン)(納蘇利ナソリ)」を舞う舞人。二人舞の時には納蘇利と称するそうです。蘭陵王と番舞(ツガイマイ)になり、高麗楽右方走舞の代表曲。(資料2)この法会を記述する最初の方に、「楽人、舞人などのことは、大将の君、とりわきて仕うまつりたまふ」 <楽人や舞人のなどのことは、大将の君(=夕霧、右大将)が、特にご奉仕になる>と記されています。(資料1) 鴨居には華鬘が掛けてあります。「薪の行道」 行事を行う殿上人の姿が見えます。 普賢菩薩像の前には、護摩壇の上に法具が整然と並べてあります。その左右前方の赤色の大床子の上に並べた巻物は書写された法華経の一部です。護摩壇の手前の机には、法華経の経巻を開けて載せてあります。それでは、見られる範囲で寝殿内の様子も眺めます。つづく参照資料*『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦 編 須貝稔 作画 小学館1.『源氏物語 4』 新編日本古典文学全集 小学館 p495~4992. 当日いただいた展示解説パンフレット 令和6年2月~ 展示号補遺法華八講 :「Web版 新纂浄土宗大辞典」法華八講 :「コトバンク」華鬘 :ウィキペディア舞楽 ”陵王” YouTube雅楽GAGAKU 「蘭陵王」公演-平安雅楽会 YouYube舞楽”納蘇利” Bugaku "Nasori" YouTube舞楽「納曽利」Bugaku “Nasori” , Gagaku YouTube雅楽とは :「日本雅楽會」舞楽 :「文化デジタルライブラリー」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -2 法華経千部供養(2) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -3 法華経千部供養(3) へ 観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -4 産養(ウブヤシナイ)へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -5 かさね色目に見る美意識 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -6 遊びと日常 & 竹取物語 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -7 等身大の装束展示ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -1 「この世をば・・・」 7回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -1 6回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -1 豊明節会・五節の舞 5回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -1 女楽~『源氏物語』「若菜下」より~ 4回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) 6回のシリーズでご紹介観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 4回のシリーズでご紹介観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 3回のシリーズでご紹介 2014年探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 4回のシリーズでご紹介 2016年
2024.06.02
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「本願寺伝道院」北側面には、正面通に面して、道路沿いに石柱が立ち並び、その間を鎖と錠でつないであります。敷地境界を明示しています。錠がありますので、このスペースは自転車等の駐車スペースに利用されるのかもしれません。興味深いのは、石柱上面に鎮座する石像群です。 No.1 No.2 No.3 振り返った景色翼のような形が彫り込まれていますので、鳥をイメージしているのでしょうか。縦方向に少し押しつぶしたような感じの造形です。 No.4象をイメージさせる石像。しかし、胴体の後部の翼のような部分が不可思議。 No.5鼻は象の鼻のようですが、脚部は上掲の象様石像とは異なります。スフィンクスの脚の感じを連想します。さらに、こちらも翼が付いているようにも見え・・・。 No.1~No.3と同類型の石像に見えます。 No.6 振り返った景色 No.7これはNo.4と同類型のようです。 No.8 No.9 No.1~No.3と同じ類型のようです。 No.10これは上掲諸像とは異なり、獅子に近い感じです。 No.11正面通に面した境界石柱の西端です。No.10と同類型のように見えます。 No.12 油小路通に面した境界石柱の北端です。これはNo.5と同類型のようです。 No.13No.10と同じ類型に思えます。 No.14No.1~No.3の類型につながる感じ。 これは、No.4と同類型に思えます。 No.15 No.16こちらは、No.5の類型につながるようです。 No.17再び、No.1~No.3と同類型が鎮座しています。 No.18最後はNo.10と同類型です。これらの石像群のイメージのソースは何処にあるのでしょう・・・・・。西欧のロマネスクの怪物図像やイスラム美術の図像とも結びつきそうにありません。獅子様のイメージは、スリランカの獅子像や日本の寺の木鼻に彫刻された獅子像が比較的ソースとして繋がるように感じます。(資料1)鳥様並びに象様の石像たちのソースに関連する資料もまた不詳です。不可思議です。そこがおもしろいところかもしれません。 本願寺伝道院前から正面通の西方向を眺めますと、今も昔ながらの商家の町並みが保たれています。堀川通の手前、東側に西本願寺の総門が正面通に向かって建っています。これは、昭和34年(1959)に交通量増加に対応するための堀川通りの拡張計画が立てられたときに、その要請に対応して、東側歩道傍に総門が移転されたのです。総門はこれが3度目の移転になるとか。(資料2)その先に見えるのは御影堂門です。余談ですが、かつて豊臣秀吉の時代には、御影堂門・総門を西端として、正面通は東山の方広寺まで、方広寺大仏殿の正面の通りとして一直線に延びていていたそうです。正面通は現状、途中で分断されています。現在は東山の豊国神社正面の石段と大きな石鳥居のところが東端となる形で通り名は残っています。西本願寺の背後から先も、正面通は千本通まで通り名が続いています。(資料3)少しマニアックなご紹介でしたが、これで終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. 獅子図 :「Toshi's Homepage "ジャワ探求-南の国の歴史と文化”ほか」2. 境内と建造物 :「お西さん」3. 正面通 :ウィキペディア補遺スフィンクス :ウィキペディアイスラム美術 :ウィキペディアイスラム文化の建築や装飾、様式の特徴を画像で解説【中世の様式②】 :「インテリアのナンたるか」ロマネスク :ウィキペディアエミール・マールと巡るロマネスク美術8 世俗的図像と怪物的図像:「ロマネスクの宇宙」怪物 :「唐草図鑑」幻想的な動物、鳥獣文、植物文、唐草文、組紐文・・・ロマネスク美術館へようこそ! :「4trvel.jp」バンブローナからプエンテ・ラ・レイナへ :「石の表情-ロマネスク紀行-」マンティコア :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 諸物細見 -25 レトロな銅像(二宮金次郎像)& レトロな建物(伝道院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表
2024.06.01
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