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2017.6.12寺院・神社の境内には手水舎と灯籠、寺院にはさらに鐘楼・梵鐘があります。これ以外にも、寺院・神社の境内に、龍の居場所があります。冒頭の景色は、京都・洛東にある浄土宗総本山「知恩院」の境内に置かれた香炉です。御影堂の南東方向、池に架かる橋の手前に置かれています。 池の東側の石段道の上に納骨堂がありますので、そのお堂に向かっての香炉になります。 香炉の口縁の下部、凹形にくびれた箇所に龍がいます。北の「平安神宮」に向かいましょう。 2013.5.15応天門を入ると、広々とした広場があり、上下二段仕切られています。手前の下段側に、方位に関係する四神の内の二神の像があります。東側に配されているのがこの「蒼龍」。ここに龍がいます。元々は手洗所の機能を担っていたようですが、今は二神の像として眺める形のようです。西側には白虎の像が配されています。方位としては、北が玄武(神亀)、南が朱雀です。平安京の大内裏の南の門は朱雀門と称されていました。平安京自体の南門が羅生門です。平安神宮から一筋南が二条通です。二条通の南側、平安神宮からは南西方向に、 2022.6.28このオブジェ作品が目立つ場所、「みやこめっせ」があります。 オブジェ作品の東側に、市制100年記念として作られた「悠久」と称するモニュメントがあります。 2003.3.21この半球体の石造モニュメントの東の方位に龍の形象が刻み込まれています。寺院・神社とは外れますが、ここで採りあげておきます。ここから東の南禅寺近くに飛びましょう。この辺りにはよく知られた別荘などがある地域です。その一つに「何有荘(カイウソウ)」があります。特別公開があったときに、探訪し庭園を拝見しました。その庭に、 2004.11.28 龍の石像が置かれています。また、この庭には 「瑞龍」と名付けられた瀧が築造されています。「作庭は7代目小川治兵衛(植治)、洋館の設計は武田五一であり、明治から昭和初期に活躍して名を残した人々の手によってこの邸宅が作られた」(資料1)とのこと。ここから、洛中の中京に飛びます。神泉苑の南西方向、三条通の南に、 2017.3.10「武信(タケノブ)稲荷神社」(今新在家西町)があります。 境内の榎(エノキ)の御神木の大枝が平成20年(2008)8月に折れて落下したそうです。その大枝がチェーソーアート世界チャンピオン城所ケイジ氏によって龍に生まれ変わったのです。 ここから、中京界隈の南東方向に飛びます。 2017.3.10 再び「壬生寺」です。参道を進むと、本堂よりも手前、右側に弁天池があります。 この池に龍がいます。 この龍神像は、板金業を営み、アート&クラフトの領域でも活躍されている桶本忠弘さんの作です。 この橋を渡り、弁天池の中島に行けば、そこは新撰組隊士たちの墓所「壬生塚」になっています。近藤勇胸像、土方歳三胸像も建立されています。いわば新撰組の聖地です。 橋の手前の地面、ここにも龍が! 瓦を使ったこんな龍像が造形されています。さて、洛南に飛びましょう。 2013.5.5まずは、ふたたび伏見の「御香宮神社」です。 探訪した時に、この絵馬額が奉納されているのが目に止まりました。 船首部分に龍が描かれています。船首に龍が彫刻されて取り付けられているということでしょう。ここから、同じ洛南の北東方向、山科に飛びます。 2013.9.21「宮道(ミヤジ)神社」(勧修寺仁王堂町)です。勧修寺の南に位置します。古くは宮道氏の氏神社であり、勧修寺の鎮守社でもあった神社だそうです。(資料2)今では社殿一宇の小社にななっています。 その境内にこの龍頭が安置されています。かつては大きい手水舎があり、浄水を注ぐ龍頭の部分だったのだろうかという連想が働きます。が、事実とその意図は不詳です。(なお、それと推測できそうな写真を掲載されているサイトに出会いました。補遺でご紹介しています)それでは、最後に近江(滋賀)に飛びます。 2013.11.15めざしたのは坂本の「西教寺」です。ここもふたたびということになります。 境内には、この「石造龍頭像」に出会いました。これで一区切りとします。つづく参照資料1) 何有荘 :「京都市都市緑化協会」2)『昭和京都名所圖會 6 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p332補遺平安神宮 ホームページ何有荘 :ウィキペディア武信稲荷神社 ホームページ城所ケイジ チェンソーアート・ジャパン 彫刻人 ホームページ壬生寺 ホームページ 壬生塚案内図桶本忠弘 :「京都工芸美術作家協会」御香宮神社 ホームページ宮道神社(京都市山科区) :「京都風光」天台真盛宗総本山 西教寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.30
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京阪電車・石清水八幡宮駅前のロータリー傍の歩道で目に止まったマンホールのふた。可愛いイラストです。2022年が八幡(ヤワタ)市制45周年だったことがわかります。記念に作られたマンホールのふたです。既に拙ブログで昨年末から年始にかけて、12月24日石清水八幡宮の探訪記をご紹介しました。その日、駅前から八幡宮の周辺を歩いているときにマンホールのふたのウォッチングもしていました。2022年5月に神戸のマンホールのふたをブログに載せて以来、久々にこの見聞考を記すことになります。現在、2つのシリーズを続けていますので、気分転換を兼ねて、まとめてご紹介します。 これが道路・歩道を歩いていて現在目にする汚水のマンホールのふたです。 ふたの中心の太い円形の輪の中に、八幡市の「市章」が象られています。市のホームページを参照しますと、町村合併10周年を記念し制定された市章だそうです。つまり、このエンブレムは、町村合併した10周年の昭和39年(1964)10月1日に「町章」となりました。昭和52年(1977)11月1日、市制施行とともに、改めて「市章」になったことになります。(資料1)もともとは、明治時代に町村制が施行された時に、綴喜郡八幡町、都々城村、有智郷村が発足しました。この3町村が昭和29年(1954)10月1日に合併して、「八幡町」ができました。この八幡町が八幡市となったという変遷があります。(資料2)この市章について、次のように説明されています。「周囲の竹は、伸びゆく若い力と困難に打ち勝つ根強さを、中央の2羽の鳩は、八幡市の頭文字である「八」をかたちどるとともに、平和と友愛の精神を表現しています。竹と鳩は、ともに本市にゆかりの深いものです。」(資料1)八幡の竹は、エジソンが白熱電球を発明した時に、この地の竹をフィラメントに使ったことで有名になりました。石清水八幡宮のある男山の山上に、「エジソン記念碑」があります。この記念碑があることもよく知られていることと思います。もう一つが鳩です。これは昨年末に何十年ぶりかで石清水八幡宮を訪れて、私自身は初めて気づいたことにリンクします。 2023.12.24 この扁額は石清水八幡宮の大きな石造の一ノ鳥居に掲げてあります。「八」の字が鳥に象られています。 こちらは男山の山上にある社殿の正面、唐破風屋根の拝所の蟇股に象られている向かい合う鳥です。この鳥が鳩(ハト)です。なぜ、鳩?八幡宮は鳩を神様の使いとしているそうです。宇佐八幡宮から石清水八幡宮に八幡神が勧請された時、白い鳩がその道案内をしたという伝承があるそうです。そこに由来して鳩が尊ばれていると言います。(資料3,4)鳩のゆかりはここにリンクするのかなと推測しました。もともと「八幡」自体が「八幡宮」とつながっている名称なのですから。 もう一つ、このマンホールのふたが眼にとまりました。ふたのデザインは上掲のふたと同じです。しかし、何か違う印象を受けました。 これはふたの中心部分です。こちらのふたんの方が年代物のようです。かなり以前のもののよう・・・・・。よく見ると、上掲の蓋と図柄の凹凸が逆転しているのです。 こんなマンホールのふたも見つけました。中央部に市章が象られています。その周囲は、上掲のふたとは異なります。レンガ様の舗装歩道の状態に合わせてよりマッチングするようにしたふたのバリエーションのようです。石清水八幡宮周辺でのウォッチングで、汚水ふたを眼にしたのはこれら4種でした。マンホールのふた以外で、市政レベルのパブリックなインフラ設備に関わるものとして目に止まったふたが2つあります。 一つは、「水道・仕切弁」のふた。 もう一つは。「消火栓」のふたです。こんなところで、八幡市でのウォッチングを終えました。見知らぬ町のマンホールのふたウォッチングに出歩きたいなぁ・・・・・。この見聞考は断続的になりますが、これからも続けて行きたいと思っています。ご覧いただきありがとうございます。参照資料 1) 市章 :「八幡市」2) 八幡市 :ウィキペデキア3) 石清水八幡宮 京都観光おすすめナビ :「京西陣菓匠宗禅」4) 走井の鳩もなか :「やわた 走井餅老舗」補遺八幡市 ホームページ石清水八幡宮 ホームページ はちまんさんとエジソン ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。マンホールのふた見聞考 ウォッチング掲載記事一覧 探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか 6回のシリーズでご紹介。探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮周辺にて -1 相槌神社・泰勝寺・安居橋・五輪塔ほか 2回のシリーズでご紹介。
2024.01.29
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=== 2023.12.26 === 南の空9時30分近くに撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南から西方向、頭上は快晴状態です。良い天気。 東方向の空稜線の方は少し霞んだ感じを受けますがこちらも雲はないようです。 東方向の空15時10分近くに撮りました。稜線上空に白雲が少し浮かび青空が広がっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空他はどの方向も引き続き快晴状態が続いています。雲はなし。 南の空 16時50分過ぎに撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空いずれの方向も、快晴で夕暮れを迎えた時間帯の空の色調です。=== 2023.12.27 === 南の空9時近くに撮りました。北東寄りに太い筋雲が重なる感じで雲が広がっています。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向には、南の雲と連なる雲が出ていますが、青空が見えます。 頭上の空 東方向の空稜線の上空は普段よく見る空模様です。布を広げたようなひらべったい感じの雲に見えます。 東方向の空13時10分近くに稜線を眺めると、上空には形がわかりやすくなった白雲が折り重なっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空あとの三方向は白雲の形が大きく変化しています。雲が懸かった状態ですが、晴れた天気です。 南の空 16時45分頃に撮りました。雲がまた形を変えて広がっています。 その雲に少し夕映えが感じられます。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向の空の雲にも夕映えが見えます。 西の遠くの空の雲は夕焼けに染まっていました。 頭上の空 東方向の空 稜線上空は全面的に雲が覆っています。さて、雲がたりを続けます。詩集「しんみん川」のつづきです。 (参照『坂村眞民全詩集 第六巻』大東出版社)「口うつし」と題する三節の詩。その第三節に「雲」が詠み込まれています。 紫の雲が降りてきて この世を浄土にする 口うつしの功徳(クドク)よ p217「白い雲」と題する詩。前書きに「第八十七番碑に」と。その前半部分です。 除幕式の読経が始まると いつも母が白い雲に乗ってこられる 念ずれば花ひらくの 可愛いいお地蔵さまの お誕生を祝して澄みに澄む紺碧の空を 白い雲が近づいてくる p221「きょうは立冬」と題する詩の最後の部分に雲が詠み込まれています。 朴の広葉も全部落ち 一片の雲もなく 十七日の月が光る 冬の子しんみんよ 覚悟はよいか p233「ハワイの白雲」と題する詩。その前の詩がハワイに第九十一番目の大恩碑建立に関わる詩ですので、その時の一つです。全文引用します。 黒人僧の人も交えての 中村良観師ほか数人の導師が唱えられる 除幕入魂の経文がひびきわたると 母を乗せてきた ハワイの白雲が近づいてくる わたしは天上の母の喜びと 地上の石の喜びとを 胸いっぱいに感じ取り 今日から霊石となって ハワイの人びとの幸せを守る この碑の永遠(トワ)の栄えを祈った p234「初光吸飲」と題する詩に出てきます。 一片の雲もなく晴れ 光の中を飛び交うかもめたち p239「しんみん川」と題する詩。「横浜の旅から帰って」という前書きが付いています。この詩が、この詩集のタイトルの由来なのでしょう。全文引用します。 わたしが望むものは 疲れた多くの人びとの かわいたのどをうるおし 弱れるもろもろのものに力を与え 母なる川ガンジスのように 信仰と希望と愛の しんみん川を つくることである 流れてゆけ しんみん川 幸せの水を 満満と湛(タタ)え 地の果て 雲の果てまで p254雲の変化に戻ります。=== 2023.12.28 === 南の空 9時40分近くに撮りました。白雲が少し見えますが、快晴。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空は、まあ普段通りというところでしょうか。雲は白鼠色のトーンです。 東方向の空15時10分頃に稜線上空を眺めると、青空が広がり、部分的に白雲が浮かんでいる程度に変化しています。 南の空 雲が少し出てきたかな、という程度で天気は上々です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 晴れた良い天気が続いています。 南の空南西方向の空 西方向の空 南西から西にかけての遠くの空はバラエティに富んだ夕焼け雲が見られました。 ほぼ最大限のズームアップで部分的に撮ってみました。 頭上の空 東方向の空 稜線上空には、おもしろい形の白鼠の雲が連なっている姿が見えました。 こういう連なり方はあまりみかけていないと思います。雲っておもしろいですね。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2024.01.28
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洛東の三条通から東大路通の馬町まで飛びます。馬町は五条通の少し南です。京都女子大学の学舎に囲まれた形で、「香雪院」(天台宗、上馬町)があります。山門前の左側に「東山聖天尊」と刻された大きな石標が立ち、門の柱には「大歓喜聖天」と墨書された提灯が吊されています。妙法院の塔頭の一つです。 山門を入り、左折すると、境内地の南端近くに「鐘楼」があります。ここで眼を惹かれるのが鐘楼の彫刻です。 ダイナミックに躍動する龍が、鐘楼の頭貫とその下の貫との間全体に、丸彫りの透かし彫りとして嵌め込まれています。鐘楼の二面に龍がいます。 もう一面がこちら。 残りの二面には 雲文が彫刻され、その一面には宝珠が彫刻されています。 四面で雲龍と宝珠が彫像されていることになります。 梵鐘は、撞木と龍頭懸ける鈎との関係をを眺めると、龍頭は2つの撞座と同じ方向に向いているとわかります。この梵鐘、昭和24年5月に鋳造の刻銘があります。 池ノ間には、蓮華座の上に種子が記されています。梵字を判読できませんので、どの仏菩薩を示しているのか。私にはわかりません。残念! 下帯のこちらに造形されているのは龍のように見えます。少し不確かですが・・・・・。見応えのある鐘楼です。馬町から百万遍に飛びます。東大路通を北上すると、今出川通との交差点に至ります。この辺りが百万遍の中心でしょうか。この交差点で東に進めば、 2011.5.4 浄土宗大本山「百万遍知恩寺」(田中門前町)があります。 「鐘楼」はごくシンプルです。 撞木側 反対側この二枚を見ますと、龍頭が2つの撞座と同じ方向であることがわかります。また、池ノ間の箇所には阿弥陀如来と天女が描かれていますが、龍はいません。 龍頭は撮りやすかったです。ここから真っ直ぐ西方向、花園にある妙心寺境内に飛びます。 2015.2.20訪れたのは塔頭の一つ「衡梅院」(臨済宗妙心寺派)です。鐘楼・梵鐘の部類に入らないのですが、鐘の縁でここに加えておきたいと思います。鐘について読み直すあるいは見直す時に便利ですので。 拝観した時に、建物の廊下の近くに吊されたこの鐘に気づきました。半鐘と呼ぶのでしょうか。禅寺ですので、平常の修行行為と絡めた伝達の道具として使われるのでしょう。 この半鐘の反対側、撞座の左側に龍が象られています。また、龍頭は見づらいですが、鈎側の金具の方向を見ると、龍頭は撞座の方向とは直交しているように見えます。ここから、南へ。京田辺市へ一気に飛びます。 「西念寺」(浄土宗、田辺北里 )というお寺があります。 この梵鐘の龍頭の部分を切り出してみますと、 2つの撞座の方向に龍頭を引っかける鉄棒が延びているのが見えますので、龍頭の長軸線は撞座とは直交する形で付いていることがわかります。また、撞座の左右の下帯部分を切り出して、部分拡大してみました。分かりづらいので色調補正の画像処理をしてみると、 撞座の左右には、龍が象られていることが明瞭になりました。この梵鐘には龍頭以外にここにも龍がいました!さて、近江の湖西、海津にひとっ飛びします。 湖岸近くに、「西栄寺」(真宗大谷派、マキノ町西浜)があります。 2020.2.27 ここの鐘楼に龍がいました。 虹梁の上の束の左側に龍が立ち上がるような姿勢で胴体が束の背後から右側に回って伸びています。雲龍図という趣です。梵鐘については未確認。最後は琵琶湖を越えて、湖東の守山市に飛びます。 「最明寺」(時宗、勝部町)というお寺があります。史跡探訪講座で訪れたお寺でした。 ここの鐘楼に、同様に龍がいます。 頭貫の上、蟇股の位置に龍が彫刻されています。これで、私が探訪した範囲の寺院の鐘楼・梵鐘に棲む龍のまとめとします。梵鐘に棲む龍について調べていて、梵鐘そのものについて知ったことがいくつもあります。前回の参照資料等から学んだことです。余談として、その要点のご紹介を加えます。梵鐘についてのご関心が高まるかもしれません。主要点を幾つか列挙します。「」は引用文。それがないのは理解した内容のまとめです。*梵鐘を数える単位は「口」。一口、二口、・・・・。*「鋳造品の鐘は大きさにより呼称が違う。大きい順から梵鐘・半鐘・喚鐘という。つまり、梵鐘とは鐘高55㎝(1尺8寸)以上、口径76㎝(2尺5寸)以上、重量375㎏(100貫)以上を指した。それ以下のものが半鐘、口径約30㎝以下のものが喚鐘となる」(資料1)*飛鳥・奈良時代の梵鐘で銘文があり、現存するのは梵鐘は4口だけ。 (資料1,2) 京都市妙心寺の梵鐘(文武天皇2年 698年) 奈良市興福寺の梵鐘(神亀4年 727年) 福井県越前町劔神社の梵鐘(神護景雲4年 770年) 千葉県成田山市出土の梵鐘(宝亀5年 774年) なお、その時代の作と鑑定されているのは、上記4口を含め全部で16口。*「梵鐘には別称がある。洪鐘(こうしょう)、蒲牢(ほろう)、鯨鐘(げいしょう)、巨鯨(きょげい)、華鯨(かげい)など鯨の名がつく。鯨にたとえられるのは、その大きさにあるようだ。なかでも蒲牢は竜の子といい、鯨に追われて大声で鳴くことにちなんで、懸吊部にかたどられたのだという。梵鐘には、より大きな音が鳴ることを期待した意味合いが込められたようである」(資料1)*鐘の音色で最も格式の高いのは、黄鐘調(オウジチョウ)と言われている。 兼好法師が『徒然草』の第220段の最後の部分に、「凡そ鐘の声は黄鐘調なるべし。これ、無常の調子、祇園精舎の無常院の声なり。・・・・」と記している。(資料3)まだ寺社の境内地には龍の居所があります。つづく参照資料1) 梵鐘の概要 :「織田文化歴史館」2) 梵鐘 :ウィキペディア3)『改訂 徒然草 -付 現代語訳』 今泉忠義訳註 角川文庫 p127補遺東山聖天参道【道標】 :「フィールド・ミュージアム京都」香雪院(京都市東山区) :「京都風光」百万遍知恩寺 ホームページ百万遍知恩寺 :「京都観光Navi」妙心寺 衡梅院庭園 :「おにわさん」浄土宗向旭山西念寺 ホームページ最明寺 :「滋賀・びわ湖 観光情報」徒然草 第二百二十段 :「徒然草 (吉田兼好著・吾妻利秋訳)」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.28
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2015.2.20寺院の境内の多くには、鐘楼があり、梵鐘が吊り下げてあります。今回は、京の洛南、伏見・深草にある「瑞光寺」の梵鐘から始めます。 梵鐘のほぼ全体を撮りました。 龍がいます!梵鐘の縦帯と称する箇所に龍を見つけたのです。梵鐘の表面にこれほど大きな姿の龍像を象っているのに出会ったのはここだけです。ということで、最初にご紹介。梵鐘の各部名称については、ネット情報でわかりやすい情報を得ましたので補遺にご紹介しています。ご覧ください。参照資料の中にも説明を含む記事があります。「梵鐘」という言葉について調べてみますと、梵鐘の梵は古代インドのサンスリット語のBRAHMAを音訳した漢字だそうです。神聖・清浄の意味を持ち、清らかさを表す言葉だと言います。また、古代インドのサンスクリット語そのものは梵語と称されてきています。つまり、梵鐘は神聖・清浄な鐘という意味になるようです。(資料1,2,3) それと、梵鐘を吊り下げる部分が撮りやすかったことも理由の一つです。この部分、「龍頭(リュウズ)」と称されます。その名の通り、ここには龍頭が様々にデフォルメされたバリエーションを見ることができます。どの鐘にもある部分、懸吊装置です。ところがこれがなかなかうまく撮れません。梵鐘の表面を見回しても龍像を見つけることはなく、龍頭だけというのがほとんどです。見上げることになりますので、その龍頭がうまく撮れないというのが残念なところ。ここではたまたま龍頭が撮りやすかった事例を含めて、鐘楼・梵鐘で見つけた龍をご紹介していきます。龍頭だけのご紹介事例は、梵鐘の表面に龍像がいなかったとご理解ください。(私が見落としたというケースはあり得ます)洛南でもう一カ所気づきました。北西方向の上鳥羽へ飛びます。 2014.2.27「實相寺」(日蓮宗、鍋ヶ淵町)というお寺です。近鉄京都線上鳥羽駅から歩いて20分ほどのところにあるお寺。 龍頭はこんな感じ。 梵鐘の下辺、下帯と称されるところに、龍が陽刻されています。ここから、洛中に飛びましょう。めざすは「東本願寺」。 2017.3.1 訪れた時は、この梵鐘が境内の一隅に仮置きされている時でしたので、眼の高さくらいでこの龍頭を撮ることができました。傍に仮設の案内板があり、1602年に鋳造された鐘で、「東本願寺撞鐘(梵鐘)」と明示されていました。 2020.11.18再訪した時には、阿弥陀堂門に近いところに建つ買い物広場の建物の南側に展示保存されていました。東側から撮った全景です。 案内板も詳しい説明で掲示されています。次は、寺町通三条へ。 2014.2.17寺町通三条上ルに「天性寺」(浄土宗、天性寺前町)があります。 この梵鐘の池ノ間には天女が陽刻されています。一方、梵鐘の下辺を眺めますと、 下帯に龍がいます。寺町通をさらに北上し、「阿弥陀寺」に飛びます。 2014.2.17 龍の表情がちょっとユーモラスで親しみを感じます。 余談です。この梵鐘の縦帯の箇所に3つの小さな孔が見えます。過去に史跡探訪講座に参加して知った余所のお寺での私の経験からの推測です。ここに太平洋戦争末期の痕跡が残っていると考えられます。当時寺院の鐘すらが国策としての金属供出の対象物にされたそうです。回収後、鐘の金属成分分析などの必要性から、サンプル収集として鐘に小孔を穿ったとのこと。孔が穿たれたけれど、鋳つぶされずに終戦となり、戦後に返還された鐘を眼にしていました。そういう鐘が各地にあるようですたぶんこの梵鐘もその例ではないか・・・・と思います(未確認ですが)。さて、洛東へ。まずは、三条通を東に粟田口まで飛びます。 「佛光寺本廟」(真宗佛光寺派、鍛冶町)の山門が三条通南側に北面する形で見えます。 ここの龍頭はこんな感じです。 梵鐘を見ますと、円形の撞座の上の縦帯には、蓮華座の上に「南無阿弥陀仏」の名号が陽刻されています。この鐘を撮った時には、名号に眼が向かっていました。しかし、よく見ると、下帯の部分に 龍がいます。機会を見つけてこれらの龍にフォーカスを当てて撮ってみたいと思っています。余談ですが、龍頭の向きについてです。東本願寺の梵鐘が一つの対比事例になります。 2017.3.1こちらは仮置きされていた時の梵鐘の全景です。それに対して、 こちらは現在の掲示案内写真の部分拡大です。池ノ間に天女と鳥(鳳)が象られているのですが、両図を対比すると90度向きがずれています。案内板の写真の撞座と梵鐘を吊すために龍頭に穿たれた孔が同じ向きになっています。つまり、龍頭の長軸線が鐘を撞く方向と直交する形になっています。 それに対して、こちらは現在、東本願寺の鐘楼で使用されている梵鐘です。こちらをご覧いただくと、龍頭は撞座と同じ方向を向いています。それは、龍頭の孔に通された太い吊り金具がU字形に見えることからわかります。龍頭の長軸線と鐘を撞く方向が一致しています。梵鐘の龍頭の付き方には、この二種類があることに気づきます。この龍頭の付き方が、鐘が撞かれたときの鐘の響きとどのように相関するのか?ネット検索して調べてみた範囲では、情報に出会えず不詳です。しかし、次の点について解説している記事を入手しました。それを参考にしますと、和鐘の基本的な形状は奈良時代から江戸時代まで変化はありません。しかし鐘を撞く方向(2つの撞座を結ぶ線)と龍頭の長軸線の方向が、奈良から平安時代前期の鐘は、原則直交する形式だそうです。平安時代後期以降の鐘では、鐘を撞く方向と龍頭の長軸線の方向が原則同一方向に変化していると言います。(資料2)この2種類の形式の梵鐘について、文化遺産オンラインのサイトの「梵鐘」の項で、事例を手軽に見られて参考になります。アクセスしてみて、ぜひご覧ください。(資料4)次回は洛東の続きから始めます。つづく参照資料1) 梵鐘の歴史と音色について :「株式会社ナベヤ」2) 梵鐘 :ウィキペディア3) 梵鐘の概要 :「織田文化歴史館」4) 梵鐘 :「文化遺産オンライン」 補遺梵鐘の各部名称 :「山口ケーブルビジョン」元政庵 瑞光寺 :「日蓮宗 いのちに合掌」正覚山實相寺 ホームページ真宗大谷派 東本願寺 ホームページ浄土宗天性寺 :「寺町専門店会商店街振興組合」織田信長が眠る寺・阿弥陀寺 :「京都ツウ読本」佛光寺本廟 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.27
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2010.11.25本願寺絡みで洛中から洛南に飛びました。そこで、一旦どんと近江(滋賀)の野洲まで飛びましょう。冒頭の楼門は「兵主大社」の楼門です。 探訪の時は、紅葉を愛でつつ参道を歩み、 建物近くの石灯籠の基壇をふと眺めたときに、 そこに龍がいることに気づきました。残念ながらこの石灯籠と近くの建物の記録がありません。石灯籠の全景を撮っていませんでした。残念!今までに龍像の彫刻がある石灯籠に出会った記憶が他にはありません。私には貴重な一例です。さて、京の洛東に飛び帰ります。飛先は建仁寺の境内。このシリーズの初回から触れています。 2017.6.12境内にある塔頭の一つが「両足院」。両足院への石段を上り、山門を入ると「毘沙門堂」が見えます。 この毘沙門堂の傍に青銅製灯籠が奉納されています。 この灯籠の中台の格狭間に龍がいます。ここでもこれ1枚を撮っただけでした。再探訪が必要ですね。さて、洛中・下京に飛びます。東本願寺の北、烏丸通高辻の南東側にある「平等寺(因幡堂)」です。 2018.7.16ここも既に触れていますが、高辻通の一筋南が松原通です。烏丸通松原東入ルに、「因幡薬師堂」の石標が立つ平等寺への正面参道があります。この時、お盆の灯籠が参道の並べてありました。この辺りは「因幡堂町」です。 本堂前に青銅製灯籠が奉納されています。火袋が六角形の灯籠です。 中台の格狭間六面に龍像が取り付けられています。惜しいことに一面が欠損状態ですので、逆に中台の六角形の格狭間に鋳造された龍像が後で取り付けられたものだということが解ります。ほぼ丸彫りの龍像ですから、鋳造という観点からはなるほど・・・・・です。洛中をさらに、JR京都駅を越えて南に飛びます。めざすのは「東寺」です。洛中の南辺に近いところに平安京時代の「羅生門址」があり、 そこから少し東方向に「東寺」が位置します。 2023.5.25境内に「大日堂」があり、傍に一対の青銅製灯籠が立っています。お堂の向拝の柱には、「回向所」と墨書された提灯が吊り下げてあります。 1基がこれです。灯籠の竿に巻き付く形で龍像が造形・鋳造されています。 もう一頭の龍がこちらにも。この灯籠の龍の姿態は上掲とは異なります。 迫力溢れる龍たち!!! 多少昇竜と降龍の対の趣を感じます。この2基の灯籠にある一つの差異に気づきました。それは灯籠の笠の蕨手(ワラビテ)の場所に一方は風鈴が付いていますが、他方には付いていません。これがこういうデザインなのか、一方の風鈴が欠損となったのか・・・・。不詳です。これをまとめていて気づいた点です。当日は意識していませんでした。洛中から洛南に飛びます。再び伏見にある「御香宮神社」へ。 この建物の中央に本殿への参道が通っている「拝殿」(割拝殿)の近くに、一対の青銅製灯籠があります。 1基がこれ。 2013.5.5火袋が六分割の球形網籠状にデザインされていて、中台も円形状で照応し格狭間が六分割されています。 もう1基の灯籠 2012.3.18 格狭間の一面だけ撮りました。 灯籠の竿には、「御香宮」「永代常夜燈」という文字が陽刻されています。灯籠には、多くの場合、「永代常夜燈」「常夜燈」という文字が刻されています。字句通りに解釈するなら、たぶんかつては灯籠が奉納される時に、併せて日々灯火を点じるための燈明料も奉納されたのでしょうね。今は信仰のシンボルとしての灯籠の奉納なのでしょうか。 灯籠の笠をよく見ますと、蕨手(ワラビテ)の根元に龍頭が造形されています。その時気づいて撮った写真です。そこで、記録写真で再確認しますと、 両足院の灯籠は、蕨手自体が鯱様の意匠に造形されています。一方、 平等寺の灯籠と、 東寺の灯籠は、蕨手の根元に、形は異なりますが、龍頭の意匠で造形されています。こういうのは、灯籠を奉納する施主の意向が反映するのでしょうか。灯籠を鋳造する匠に任されることなのでしょうか。私の探訪範囲で出会った燈籠に棲む龍のご紹介をこれで一区切りとします。寺院の境内には鐘楼・梵鐘(鐘)をよく見かけます。次回はこちらに着目してみたいと思います。つづく補遺兵主大社 facebook 建仁寺塔頭 両足院 ホームページ因幡堂平等寺 ホームページ真言宗総本山 教王護国寺 東寺 ホームページ御香宮神社 ホームページ灯籠 :ウィキペディア[神社建築] 灯籠 :「玄松子の記憶」常夜灯 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.25
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阿弥陀堂 御影堂 2017.3.1東本願寺の境内には正面から見て、御影堂(北側)と阿弥陀堂(南側)が並んでいます。こちらの記録写真の方が古かったので、ここから始めます。各お堂の正面には一対の大きな青銅製灯籠が奉納されています。 阿弥陀堂に向かって右(北)側の灯籠です。火袋は八角形。それに合わせてその下部の中台の格狭間も八面です。ここに龍が陽刻されています。この格狭間を間近で眺めて、燈籠にも龍がいることに気づき、関心を持ち始めた初期の頃です。サンプリング的に、この灯籠だけ撮っていました 私の確認では4パターンの龍の姿が8面に表現されていると思います。(間違っているかも知れません・・・・・が)探してみてください。それでは、西本願寺の境内に向かいましょう。 御影堂 2018.2.27阿弥陀堂の全景を撮ったのがありません。西本願寺の場合は、正面に向かって御影堂が左(南)側、阿弥陀堂が右(北)側にあります。 御影堂に向かって、こちらも右(北)側の灯籠です。この中台のところに、こちらにも様々な動きの龍が陽刻されています。火袋が四角形ですので、中台の格狭間も四面。その内の2面を撮りました。 左(南)側の灯籠はこの時、4面全部を撮っています。 ここでは、龍頭部をアップしたものも撮っていました。その時の気分でしょうか。この4面の格狭間全体の造形を見ますと、龍は基本的に2パターンですが、細部の造形が微妙に異なり、4面とも違う気がします。ご覧いただきご判断下さい。こちらもサンプリングをしたにとどまります。次に訪れたときには、全部の灯籠を確認してみたいと思っています。ここから山科に飛びます。 2019.3.29山門前に「本派本願寺山科別院」と刻された寺号碑が立つ西本願寺の別院本堂です。正面に大きな青銅製灯籠が一対奉納されています。 向かって右側の灯籠に近づいてみると、本山の灯籠と異なり、こちらは火袋が八角形です。当然中台も格狭間は八面。そこに龍が陽刻されています。 左側の灯籠です。 中台部分を切り出してみました。小さくて見づらいと思いますが、上掲の灯籠と一対ですので、こちらの龍の姿も2つのパターンが繰り替えされているようです。 この後、北に位置する東本願寺の「山科別院(長福寺)」も訪れました。 本堂の前には大きな石灯籠が一対奉納されています。こちらには龍はいませんでした。次回は他に京都と滋賀で出会った灯籠の龍をご紹介します。つづく補遺真宗大谷派 東本願寺 ホームページ真宗大谷派東本願寺【公式】 YouTubeお西さん(西本願寺) 公式サイト 浄土真宗本願寺派 公式サト灯籠 :ウィキペディア[神社建築] 灯籠 :「玄松子の記憶」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.24
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=== 2023.12.23 === 南の空朝撮れなくて、12時15分過ぎになってしまいました。天気は晴れ!!太陽の位置が・・・・。写真としては没の部類ですね。まあ、記録ということでご寛恕ください。早くも1ヵ月前のことになっています。まさに光陰矢の如しです。龍を追いかけていると、雲の変化を追えません。南西方向の空 西方向の空 西の方向はスカッとした青空。 頭上の空 東方向の空稜線上空も、青空が広がっています。良き日です。 東方向の空16時40分近くに眺めると、日の入り時刻との関係でしょうか、空の青さが薄くなっています。 南の空 雲が広がっていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 偶然、飛ぶ鳥の姿を点のように留めることになりました。写真を撮ってから、わずか5分ほど後に、ふと空を見ますと空の雲には変化が見えます。 南西の遠方の雲が夕映えていました。少し前には見られなかったのですが。 西方向の雲は筋雲のように・・・・。雲の変化っておもしろい。=== 2023.12.24 === 南の空9時5分頃に撮りました。白雲が浮かんでいますが、前日同様、気持ちの良い青空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空東の稜線上空は雲で覆われていますが、まあ普段よく見かける景色です。この日は、このあと、既に昨年末にご紹介した「石清水八幡宮」の探訪に出かけました。 東方向の空探訪から帰宅後、16時50分過ぎに撮った稜線上空の景色。 南の空南西方向の空 南西の遠くの空は夕焼けていました。デジカメの最大限のズームアップで。 電線や遠くの家の屋根など夾雑物を入れずに遠方の雲と空を撮るのは一苦労・・・。 西方向の空 頭上の空日の入りと相関する空の色合いなのでしょう。観察経験からの理解です。さて、雲がたりを続けます。詩集「しんみん川」のつづきです。(参照『坂村眞民全詩集 第六巻』大東出版社)「証の体験」と題する詩の冒頭に雲が詠み込まれています。 白い雲が 天使を乗せ 諸仏諸菩薩を乗せ 去来する 快晴のありがたさ p160「地球荘厳」と題する詩。一行の理解のためには全文の引用が必要かと・・・・・。 大地は涙で濡れ 鳴く鳥もなく 十八日月も明星も みなことごとく姿をかくし 雲も歩みをとめ 動いているのは川の水のみ 地球に額をつけ 世尊最後のお言葉を パーリ語で唱えまつる ああ宇宙が泣いた 偉大な人の涅槃(ネハン)よ 地球荘厳の日よ p177「告知」と題する詩。これも全文引用します。 地球に額をつけ 祈っていると 稲光りがして 雷が鳴り出した ああわたしの祈りを 天が聞き 地が聞き それをまだ眠っている人たちに 知らせたのだ 雨雲飛び 風唸り 夜明けゆく 彼岸の砂地 p190「雲照り川光る」と題する詩。「第八十番碑に」と前書きが付いています。この詩の半ばに雲が出てきます。 魂を入れて下さる 一峰禅師の声よ チベットのラサまで届けと わたしも唱和する すると石面の雲や川が 生き生きと動き出し 光り出すのだ p207この第80番目の「念ずれば花ひらく」碑にはチベットの祈りも刻まれたものだそうです。「雲」と題する三行の詩が載っています。 かなしき性質(サガ)のゆえに きょうも雲と共に 流れてゆく p215最後の巻の半ばまで、雲の詩句を見つけながら、読み進めてきました。あと200ページ。真民さんの生き方を込めた「ただひたすらに」と題する詩を最後に加えます。 ただひたすらに ただひたすらに ひとつの道を 歩いて行く とどまるな ふりかえるな p196雲の変化に戻ります。=== 2023.12.25 === 南の空9時50分過ぎに撮りました。この日も快晴の空模様。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空に雲が広く漂っていますが、通常からみればいい状況の空模様です。 東方向の空15時20分過ぎに、稜線上空を眺めると雲はほんの僅かで、青空が広がっていました。 南の空 南には、雲って感じの雲の姿が見えます。南西方向の空 西方向の空 南から西にかけては、かなり雲が広がっています。 頭上の空 頭上はそれほどでもありません。 南の空16時55分近くに眺めると、遠方の雲に夕映えが見られます。 ワンポイントでズームアップするとこんな感じ・・・・。南西方向の空 お向かいさんの屋根が入らないようにギリギリのズームアップで。 西方向の空 頭上の空近くの南から西、頭上にかけては、雲が大きく広がっていました。 東方向の空東の方も、遠方の空は少し夕映えしているようでした。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか 7回のシリーズでご紹介。
2024.01.23
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元旦に、このシリーズの初回でご紹介したのがこの「東福寺・経堂」の屋根瓦です。降棟の先端は通常鬼瓦あるいは鬼板が使われています。この部分に、龍を見つけたのです。「鬼不在」の鬼瓦バージョンとして、言わばこの龍瓦が作られたのでしょう。龍は龍神にリンクし、雨を呼び、火除けを連想させますので、意図的に龍が用いられているのかも知れません。鬼瓦の写真を撮るのが好きですので、この龍瓦を見つけたときは一種感動しました。そして、その観点を加えると、やはり屋根に棲む龍が各地にいるのです。まずは、京都・下京の「興正寺」 (真宗興正寺派)に飛びましょう。 2018.2.27 境内の北辺にある「経蔵」の正面、唐破風の屋根のところに、 二頭の龍が象られています。二頭であることも珍しいと思います。下京から鴨川を越えて洛東に飛びます。 2019.1.2既におなじみの「禅居庵」です。臨済宗建仁寺の塔頭です。建仁寺の境内の南西角です。 ここの本堂の屋根に龍がいます。やはりここでは、ちょっと寄り道して、 2019.1.2大和大路通を挟んで西側にある「ゑびす神社」を訪れましょう。 参拝した折に、垣間見て見つけたのです。 社殿の傍に、龍を造形した桟瓦が奉納されていたのです。奉納のための飾り瓦なのかも知れませんが、これまた珍しい龍瓦です。今でもたぶん置かれているでしょうね。東山の少し北に向かいます。飛先は仁王門通東大路の交差点。洛東東山仁王門です。 2021.3.24この北西角に「信行寺」(浄土宗、知恩院の末寺)があります。「開運出世 毘沙門天」碑が門前に立っています。本堂の伊藤若冲筆「花卉図 天井画」が有名です。普段は非公開。特別公開が以前にあったのですが、行きそびれて未見です。序でながら、辻惟雄編『若冲の「花」』(朝日新聞出版、2016年9月第1刷)に収録されています。画像で楽しむことはできます。 本堂の屋根に 龍がいます。ここから北東方向の黒谷に向かいます。めざすは「金戒光明寺」(浄土宗大本山)です。 境内の阿弥陀堂の背後(北東)に「新清和殿」があります。玄関口の切妻屋根の上に、 龍を見つけました。 黒谷から北西方向の北野に飛びます。めざすのは北野天満宮の傍に位置する 「東向観音寺」(真言宗泉涌寺派、観音寺門前町)です。 「行者堂」の屋根の降棟の先端部です。 画像処理により龍を少し見える形に明るくしました。ここから、南西方向の花園に飛びます。JR嵯峨野線の花園駅が一つの目印になります。花園駅前をさらに西へ。双ヶ丘の南東側にあるのが、 「法金剛院」(律宗)です。 2018.3.17道路に面した山門(右)を入ると、中門(左)があります。山門の左には寺号碑、門の右柱には「関西 花の寺第十三番」の木札。 中門の東側にこの宝形造の屋根に切妻屋根の付いた土蔵造の建物があります。境内の案内図には名称が記されていませんでした。 この切妻屋根に龍がいます。花園から亀岡市へ飛びます。 市内に「宗福寺」(浄土宗、矢田町)があります。 降棟の先端に龍がいます。京都の探訪で私が見つけたのはこれだけです。ここから一っ飛びで奈良・華厳宗総本山の東大寺へ。 2016.11.2境内には「戒壇堂」があります。 軒瓦と軒丸瓦の瓦当面には「享保壬子造戒壇堂」の文字が陽刻されています。 ここではとぐろを巻く龍を見ることができます。東大寺から南西方向に飛びます。めざすのは「唐招提寺」です。 2017.12.4唐招提寺にも戒壇があります。ここは築地塀で囲まれていますが、戒壇自体は露天状態です。 右側面の築地塀にある唐門の屋根に龍がいます。 さらに、塔頭「法花院」の門の屋根にも、 ここでは留蓋と称される瓦に龍がいます。さて、最後に滋賀県に飛びましょう。まずは湖南の坂本へ。京阪電車「穴太」駅が近くです。 「盛安寺」(天台真盛宗)の本堂から客殿の屋根を眺めた景色だったと思います。 その建物の降棟にいる龍に気づきました。そして最後は、湖北・米原市に飛びます。 「福田寺」(浄土真宗本願寺派、長沢)です。 この本堂の降棟の先端に龍がいます。今までの探訪機会において龍瓦に気づいたものをまとめてご紹介しました。門に棲む龍 ⇒手水鉢に棲む龍 ⇒建物とその付属物に棲む龍 ⇒屋根に棲む龍と巡ってきました。次は寺社等の境内・庭に再度目を向けて見ます。ここには、灯籠、鐘楼、その他、龍の居場所があります。灯籠から始めます。つづく補遺真宗興正寺派 本山興正寺 ホームページ臨済宗建仁寺塔頭 禅居庵 ホームページ京都ゑびす神社 ホームページ浄土宗大本山・くろ谷 金戒光明寺 ホームページ北野東向観音寺 公式ホームページ律宗 五位山 法金剛院 ホームページ戒壇院戒壇堂 :「東大寺」唐招提寺 ホームペーj福田寺(米原市) :ウィキペディア盛安寺 :「滋賀・びわ湖 観光情報」福田寺庭園 :「おにわさん」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.22
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2015.3.28比叡山の山上から始めます。山頂に建ち並ぶ「延暦寺」の伽藍の一つ「大講堂」です。ここは大津市になります。 大講堂正面・向拝の頭貫上の蟇股に彩色された龍がいます。坂本に降りますと、 2015.3.28「律院」(天台宗)というお寺があります。 本堂・向拝の頭貫上に向かい合う形で龍がいます。坂本から「三井寺(園城寺)」に飛びます。 2013.12.7境内には「閼伽井(アカイヤ)屋」の木札を掛けた建物があります。閼伽井とは神仏に供える水をを汲む井戸のことです。この建屋の中に井戸があります。 ここにも蟇股に龍が透かし彫りにされています。堅田に飛びますと、 2013.3.23「光徳寺」(真宗大谷派、堅田)があります。蓮如上人像の前にある銅像は、「堅田源兵衛父子殉教之像」です。この源兵衛父子の殉教の史実で知られたお寺です。 向拝の蟇股に龍がいます。堅田から琵琶湖を飛び越えて、湖東の篠原へ。 「法善寺」(浄土宗、野洲市小堤)です。国道8号線の「小堤」が一番近い交差点。 頭貫上の蟇股に龍がいます。さらに東へ。日野町に飛びます。 2014.4.26めざすは「正法寺」(臨済宗妙心寺派)です。 このお寺の大日堂に龍がいます。余談ですが、このお寺のある山の「正法寺山散策案内図」が設置されています。 近くには「日野ダリア園」があります。ここから北隣りの東近江市に向かいます。めざすのは「善教寺」(臨済宗妙心寺派、種町)です。 山号「初種山」の扁額を掲げた釈迦堂があります。 堂内の欄間にダイナミックな金龍が向き合っています。ここから、蓑作山の山上に飛びましょう。この山は東近江市と近江八幡市の境に位置します。 2016.10.22東近江市側に、「瓦屋寺」(臨済宗妙心寺派)があります。 この本堂の蟇股に龍が。 さらに、寺の本坊の唐破風屋根の玄関口の所にも龍がいます。次は、近江八幡市の湖岸近くの長命寺山に飛びます。 2013.10.5山上に「長命寺」があります。右の建物は、境内にある「護法権現社」の拝殿です。 山側の一段高い位置に本殿があります。頭貫の上に龍がいます。ここから、湖北の長浜市に飛びます。 JR北陸本線「長浜駅」に近いところに、「豊国神社」があります。 本殿の右側に「稲荷社」があり、その唐破風屋根の下に龍がいます。虹梁の上に、白狐がいますので、この色合いと白狐で稲荷社とわかりますね。次は、同じ長浜市内で北東方向の「大通寺」(真宗大谷派、元浜町)へ向かいます。 ここは、「大通寺広間附玄関」です。入母屋造りの屋根に軒唐破風をつけています。傍に立つ駒札によれば、「玄関は宝暦10年(1760)に当寺住職横超院の内室であった彦根藩主井伊直惟(ナオノブ)の息女数姫(カズヒメ)によって建てられたことが棟札により明らか」だそうです。 ここから湖西の近江高島にある乙女ヶ池近くに飛びます。 打下(ウチオロシ)地区に「日吉神社」があります。 2013.7.20 この拝殿に この龍の額が奉納されています。南に少し飛びます。 2013.7.20「白鬚神社」(高島市鵜川)です。 本殿 本殿の蟇股に龍がいます。私が滋賀県で探訪した範囲の寺社の建物に棲む龍たちを終わります。+αとして、それ以外の府県での探訪からの事例を加えます。 一つは大阪市にある「大阪天満宮」です。 本殿 その本殿・向拝の頭貫上に龍がいます。もう一つは富山市の岩瀬で出会った龍です。 「慶集寺」(浄土真宗本願寺派、岩瀬町)です。 建物では、向拝や拝所の頭貫あるいは虹梁の上、さらに欄間が龍たちの居場所になっている場合が多いと言えます。次は建物の屋根に目を転じます。そのあと、既に手水舎を採りあげていますので、灯籠に着目します。いずこの寺社でも灯籠はつきものですので。つづく補遺天台宗総本山 比叡山延暦寺 ホームページ「律院」と「阿闍梨餅」 :「天台宗」長命寺 :「滋賀・びわ湖 観光情報」長命寺護法権現社 豊国神社 長浜恵比須宮 ホームページ長浜別院 大通寺 (公式) :「真宗大谷派 長浜教区」白鬚神社 ホームページ大阪天満宮 ホームページ琳空山慶集寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.21
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2015.2.19京都市内の山科から市外に飛びましょう。まずは宇治へ。冒頭の本殿は、「縣(アガタ)神社」の本殿です。宇治橋西詰に立つと、大きな石鳥居が見えます。ここから参道になります。突き当たりの手前、左側が境内地です。平等院の西に位置します。 唐破風屋根の拝所で、前方を見上げると、頭貫の上にダウナミックな龍の透かし彫りを眺めることができます。 白い宝珠を掴む爪に目が惹き寄せられますが、残念なことに龍頭が今では欠損になっています。ここから男山の山上に飛びましょう。 2023.12.24そこには、「石清水八幡宮」(八幡市)があります。本殿を囲む廻廊と楼門の前面に唐破風屋根の拝所があります。 虹梁の上、束の両側には極彩色の透かし彫りが施されています。 左側に龍がいます。右には龍と向き合う形で虎がいますが省略。 もう一カ所、頭貫の両端の木鼻には、一般的には象か獅子の彫像が多いのですが、 ここでは龍が彫刻されています。ここで今、ふと思ったこと。はて、龍はどのように数えるのだろう?ネット検索で調べてみますと、一匹、一頭、両方OKだそうです。「ただし、想像上の動物として民話などに登場する場合は『匹』で数えます。『頭』で数えると、竜の現実的な存在感が増します」(資料1)この拝所前では一挙に3頭の龍を眺められることになります。男山から南東方向、京田辺市北部に飛びます。京田辺市の北部の「松井」と称される地域を探訪した時に出会った龍たちです。 2018.5.10八幡京田辺ICに近く、京田辺市の最北部に位置すると言えるのが、この「松井天神社」(松井向山)です。 本殿・向拝の頭貫の正面に金龍がいます。 少しクローズアップして・・・・。 金龍が中心に見える形で本殿が様々な意匠で煌びやかに彩色されています。松井天神社の南東方向で隣りの松井里ケ市にあるのが、 2018.5.10「来迎寺」(浄土宗)です。 このお寺で出会ったのが、本堂の脇陣の厨子の一つに安置された龍像です。 どういう目的で造形された物なのでしょう。佛具の一つとしての竜神でしょうか。ある史跡探訪講座の一環で拝見でき、教えていただく時間のゆとりが無かったので不詳です。ここからさらに南東の大住地域に向かいます。 2018.5.10「両讃寺」(浄土宗、大住八河原)です。 本堂の欄間に向かい合う二頭の龍が透かし彫りにされ、彩色されています。ここから奈良に飛びます。まずは、東大寺の境内、大仏殿の西側へ。 「東大寺指図堂」です。右側の柱に木札が掛けてあります。 このお堂の向拝に龍がいます。ここは平安時代に創建された中門堂跡地だそうです。1567年の三好・松永の乱で、大仏殿とともに焼失。江戸時代初期に、大仏殿三度目の復興気運が盛り上がったとき、「この中門堂跡地には大きな板絵に描かれた『指図』すなわち大仏殿の計画図面を展示するお堂が建てられた。指図堂という名称はこのことに由来するという」(資料2)とのこと。東大寺から南に飛びます。JR桜井線の帯解駅近くへ。 2016.5.28「帯解寺」です。手水舎の龍でご紹介していますが、本堂の向拝にも 頭貫の上に龍がいます。JR桜井線で言えば、帯解駅から一駅南、「櫟本(イチノモト)」駅に向かいます。帯解駅は奈良市の南西端に、一方、櫟本駅は天理市の北端に位置します。余談です。帯解駅は帯解寺に由来する駅名のようです。そして、寺名の由来は、「文徳天皇妃である染殿皇后が当寺に祈願し、無事安産されたことから、文徳天皇により、天安2年(858年)春、無事に帯が解けた寺、帯解寺(おびとけでら)と名付けられました」と言います。(資料3)ウィキペディアによれば、櫟本駅の「駅名は天狗が住む巨大な櫟(イチイ)の木があったという伝説に由来する」とか。(資料4) 櫟本には、「和爾下神社」があります。お堂の左側の板屏の瑞垣の向こうには境内社があります。 隙間から眺めますと、小社の頭貫の上に龍がいます。さて、ここから西方向、斑鳩の里に飛びます。「法隆寺」へ。 法隆寺の「金堂」に龍がいます。 1階の屋根と2階の屋根との間に支柱が設けてありますが、ここに龍がいます。 昇り龍 降り龍 支柱の龍は屋根の四隅に見る事ができます。 また、1階の屋根と裳階(モコシ)との間にもちょっと異様なこの彫像が屋根を支えています。これも龍の姿のように思うのですが・・・・どうでしょう。法隆寺から、南西寄りに南へ、県境を越えて和歌山県に入り、高野山へ飛びます。 「金剛峯寺」の主殿(本坊)この場所は、もとは豊臣秀吉が建て、後に青巌寺と称された寺があった場所です。秀吉は菩提寺として建てたと考えられているそうです。その青巌寺の柳の間で豊臣秀次が自刃して果てました。現在の建物は、青巌寺の場所に、江戸時代後期に、秀吉建立の青巌寺と形や大きさが同じ建物を建立したとされています。(資料5)上掲の右の写真は、大玄関(左:表玄関)と小玄関(右)の全景です。左の写真の檜皮葺(ヒワダブキ)の屋根には天水桶が置かれています。雨水を溜めておき防火に役立てるとのことです。(資料6,7) この主殿の大玄関の屋根の切妻部分に龍がいます。ここでひと区切りとします。次は、高野山から滋賀へ飛びます。つづく参照資料1) 竜 :「数え方単位辞典」2) 指図堂 :「東大寺」3) 帯解寺紹介 :「帯解寺」4) 櫟本駅 :ウィキペディア5) 高野山大学総合学術機構課長 木下浩良氏「高野山奥之院の『豊臣家墓所』について」 :「ストーンサークル」6) 大玄関と小玄関 :「高野山」7) 天水桶 :「高野山」補遺京都宇治 縣神社 ホームページ石清水八幡宮 ホームページ天神社 :「お茶の京都」<京都府南部(山城地域)の観光情報サイト>来迎寺 :「京田辺市観光協会」浄土宗 發迎山 両讃寺 ホームページ東大寺 ホームページ第11番東大寺指図堂 :「法然上人二十五霊場」帯解寺 ホームページ和爾下神社 :「天理観光ガイド・天理市観光協会」法隆寺 ホームページ高野山 高野山真言宗総本山金剛峯寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.20
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2013.5.5蟇股に透かし彫りがされ、極彩色に彩色された龍像から始めます。洛南に飛びました。 ここは伏見桃山に所在する「御香宮神社」です。本殿の修復が完成した2013年に特別公開があり、そのとき本殿の瑞籬の内に入り、仮設通路を巡りながら、本殿外観を間近に拝見することができました。 屋根を支える束に龍が描かれ、 もう一つの束 本殿の柱は角の面取りがなされていて、 本殿正面の両角の柱に、昇龍と降龍が描かれています。 内側の柱も同様に昇龍と降龍が対になっています。多くの龍がこの本殿にいます。中世には伏見荘の産土神として崇敬され、文禄年間(1592-1596)には、豊臣秀吉が社殿を大亀谷に移し、伏見城の鬼門除けの守護神にしました(古御香宮社が現存します)。德川家康が現在地に移し、新たに社殿を造営しました。「とくに伏見で生まれた紀伊・水戸・尾張三公の藩祖はいずれも当社をもって産土神とあがめ、多くの社殿や石鳥居・石灯籠などを寄進した」そうです。皮肉なことに、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦においては、この御香宮神社が薩摩藩の屯所となり、大手筋を隔て、南にあった伏見奉行所の幕府軍との戦いが行われたのです。(資料1) 2013.5.5南の中書島に飛ぶと、「長建寺」(真言宗醍醐派、東柳町)があります。境内から撮った山門です。 長建寺で見つけた龍。ここから三栖に向かいますと、 2014.4.17「光徳寺」(真宗大谷派、三栖町)があります。 本堂・向拝の蟇股に龍がいます。三栖から深草に飛びましょう。めざすは「伏見稲荷大社」です。 2020.1.11この拝殿の右(南)方向に、 2016.10.5 「能舞台」があります。 柱と頭貫との角のところに三角の木材を加え、装飾性を加えかつ補強を兼ねているのでしょう。龍が彫られています。 伏見稲荷大社の周辺に「釈迦堂」と称するお堂があります。 釈迦如来坐像の手前、両側に幢幡が吊りさげてあります。その上部に龍像が取り付けてあります。ここにも龍が。伏見稲荷から稲荷山を越えて、南東方向の醍醐に飛びます。醍醐のほぼ中央、奈良街道に面して「醍醐寺」があります。真言宗醍醐派の総本山。醍醐の山上と山下の双方に堂塔が立ち並んでいます。山上は上醍醐、山下は下醍醐と称され、醍醐寺は総称です。良く知られているのは、「三宝院」。豊臣秀吉が醍醐で花見をしたことが有名です。表書院の前にある庭は、秀吉が花見に際してみずから地泉回遊式庭園を設計施工したと言われているとか。庭に聚楽第から移された藤戸石が有名です。 山の上、上醍醐には「開山堂」があります。 ここの蟇股にも龍がいます。醍醐から山科本願寺址付近へ飛びましょう。山科にはかつて浄土真宗の蓮如上人が本願寺の再建をこの地で果たし、山科本願寺を拠点とされました。蓮如上人は、最後はこの山科本願寺にて1499年3月25日に85歳で示寂されました。ここに「蓮如上人墓」があります。天文元年(1532)に細川晴元とことを構えたことにより、山科本願寺は同年に焼失。長く廃墟となったそうです。「天正年間、顕如上人は豊臣秀吉から旧地を譲りうけ、蓮如上人の墓を管理するため、享保17年(1732)に」(資料1)山科別院を建立されたと言います。現在は、東西両本願寺の山科別院があります。 「本願寺山科別院」(西本願寺、東野狐薮町)が国道1号線に近く、南にあります。 本堂・向拝の蟇股に龍がいます。金網が張ってありますので見づらいですが。山階小学校の北側に、「蓮如上人墓」(西野大手先町)があります。西野大手先町は東野狐藪町の北西側の隣りです。そして、西野大手先町の北隣りが竹鼻サイカシ町。こちらの町内に 「東本願寺別院」(長福寺)があります。 こちらも、本堂・向拝に龍がいます。同様に金網が張られています。東野から南西方向に向かいます。 西野山に「岩屋寺」(曹洞宗、桜ノ馬場町)があります。この石段を登った上です。通称が「大石寺」。このお寺には、浅野内匠頭長矩の位牌と四十七士の像が安置されています。また境内下段の地が、大石良雄宅址と伝えられているのです。旧宅址をしめす顕彰碑が建てられています。 この石段の左側に、境内社として「大石稲荷大明神」と称する稲荷社が祀られています。 この稲荷社の頭貫の上に、龍がいます。ここから、北上して、天智天皇山科陵の北側を流れる琵琶湖第一疏水を越えた先の本圀寺に飛びます。「本圀寺」(日蓮宗、御陵大岩町)の境内には、 2018.10.26「清正宮」というお堂があります。「加藤清正公眞生墓廟」とも称されます。「加藤清正の女(瑤林院)が父母の菩提追福のために建立したもの」「清正は生前熱心な法華信者であり、当寺とも関係が深かったから、清正に関する遺物・伝説が多い」(資料1)そうです。 お堂の周囲の桁の上を装飾する干支の動物の一つとして龍が彫刻されています。本圀寺は、元は堀川六条にあり、洛中法華21ヶ本山の一つとして約420余年に及んだのですが、昭和44年(1969)に現在地に移転しています。(資料1)京都・洛南を終えて、次回は京都府下に飛びます。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 6 洛南』 竹村俊則著 駸々堂補遺御香宮神社 ホームページ辨財天長建寺 :「京都観光Navi」光徳寺 ホームページ醍醐寺 ホームページ浄土真宗本願寺派 本願寺山科別院 ホームページ真宗大谷派山科別院長福寺 :「京都観光Navi」 第24番 岩屋寺 :「近畿三十六不動尊霊場会」本圀寺 :「日蓮宗 いのちに合掌」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.19
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シリーズとしての回数が増えてきました。インデックスとして一覧表を作成し、11回目からはこの一覧表を更新し、過去記事へのリンキングをしていきたいと思います。観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -3 門に棲む龍 (1) 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -4 門に棲む龍 (2) & 龍について 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -5 手水舎に棲む龍 (1) 西本願寺を起点に 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -6 手水舎に棲む龍 (2) 京都市内を巡る 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -7 手水舎に棲む龍 (3) 京都・続と奈良 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -8 手水舎に棲む龍 (4) 滋賀へ 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -9 寺社の建物と付属物 京都・洛中(1) 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -10 寺社の建物と付属物 京都・洛中(2)/洛東 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -11 寺社の建物と付属物 京都・洛南観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -12 寺社の建物と付属物 京都・奈良・和歌山観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -13 寺社の建物と付属物 滋賀+α観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -14 寺社の屋根に棲む龍 鬼瓦でなく龍瓦観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -15 灯籠に棲む龍(1) 東西両本願寺にて観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -16 灯籠に棲む龍(2) 遠近に飛び回る観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -17 鐘楼・梵鐘に棲む龍(1)京洛にて観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -18 鐘楼・梵鐘に棲む龍(2)京洛(続)&外へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -19 境内・庭等に棲む龍(1) 京洛と近江観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -20 境内・庭等に棲む龍(2) 京洛&外へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -21 門に棲む龍 続編観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -22 龍神・龍王とされる龍の社****************************観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -30 祇園祭と龍:長刀鉾・月鉾・綾傘鉾・白楽天山観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -31 祇園祭と龍:岩戸山・船鉾観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -32 祇園祭と龍:木賊山・太子山・油天神山・芦刈山観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -33 祇園祭と龍:伯牙山・蟷螂山・放下鉾観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -34 祇園祭と龍:山伏山・占出山・孟宗山・保昌山観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -35 祇園祭と龍:大船鉾・南観音山観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -36 祇園祭と龍:北観音山・八幡山・鷹山観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -37 祇園祭と龍:役行者山・黒主山観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -38 祇園祭と龍:鯉山・橋弁慶山 このシリーズをこれで終わります。 お楽しみいただければうれしいです。
2024.01.19
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2018.7.16京都・洛中の南部である下京には、「平等寺(因幡堂)」があります。烏丸通高辻の南東角、因幡堂町に所在します。 向拝(庇)を支える手挟(テバサミ)に龍が彫刻されています。 2ヵ所撮ってみました。 向拝の正面に鰐口(金鼓)が吊してあります。その丁度上のところに、「薬師如来像懸仏」が掲げてあります。この懸仏の両側に龍が彫刻されています。 2019.6.4その「薬師如来像懸仏」が龍谷ミュージアムで開催された「因幡堂平等寺」展で公開される機会がありました。受付カウンターの近くで、この懸仏だけは撮影可能だったのです。中央の薬師如来像の両側に龍が彫刻されています。まさに「間近に見られる最後の機会」と案内板に記されていました。 平等寺から、高辻通室町西入ルまで行けば、「繁昌神社」(繁昌町)があります。 その社殿の蟇股の箇所に龍がいます。下京にある東西両本願寺と興正寺は探訪していますが、阿弥陀堂や御影堂には龍の彫刻はなかったと思います。他の箇所にはたくさん龍がいるのですが・・・・。ここから、鴨川を飛び越え洛東に向かいます。東山三条の交差点の南西側に、 2013.4.17「大将軍神社」(長光町)があります。 ここにも龍がいます。少し北の仁王門通に向かいますと、 2021.3.24 「頂妙寺」(日蓮宗一致派、大菊町)があります。 向拝の蟇股に龍がいます。 2021.11.21ここから、円山公園の北側に位置する知恩院に飛びましょう。 2017.6.12知恩院境内の北東で一番高い境内地に円光大師(法然上人)の「御廟」があります。 石段を上がると「拝殿」、その北に廟堂があります。廟堂の周囲に唐門のある玉垣がめぐらされています。「唐門」が拝殿越しに見えます。 その唐門の蟇股に巻き付く形に龍が透かし彫りにされています。円山公園の東奥、知恩院の南側に向かいますと、 2016.3.22 2016.3.22 「吉水弁財天堂」(円山町)があります。ここは、円山公園の東北隅に位置する「安養寺」(時宗正法寺派、円山町)の門前下段の地で、飛地境内になるそうです。吊された提灯には「弁財天女」、柱の提灯には「吉水弁財天女」と記されています。 正面の頭貫と虹梁の間に龍が彫刻されています。 龍のダイナミックな透かし彫りになっています。八坂神社の境内に飛びますと、 2003.3.21 境内社の一つに「大国社」があります。ここにも、頭貫の上に透かし彫りの龍がいます。八坂神社の境内から、JRと京阪電車双方の「東福寺」駅近くへ飛びます。駅から数分のところに、 2017.11.21「瀧尾神社」があります。このシリーズの初回で触れています。この社殿の唐破風屋根の拝所、 瑞籬の中門の虹梁の上に向かい合う龍の透かし彫りを見ることができます。 こんなところにも龍頭が彫刻されています。唐破風屋根の前面の柱と瑞籬の門の柱とをつなぐ貫の門柱側です。この辺りでひと区切りとします。つづく参照資料*『昭和京都名所圖會 5 洛中』 竹村俊則著 駸々堂*『昭和京都名所圖會 1 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂*『昭和京都名所圖會 2 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂補遺因幡堂 平等寺 ホームページ繁昌神社 :ウィキペディア大将軍神社 :「京都観光Navi」頂妙寺 :「京都風光」知恩院 ホームページ吉水弁財天堂(円山弁財天堂) :「京都風光」 京都祇園 八坂神社 ホームページ瀧尾神社 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -3 門に棲む龍 (1) へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -4 門に棲む龍 (2) & 龍について へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -5 手水舎に棲む龍 (1) 西本願寺を起点に へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -6 手水舎に棲む龍 (2) 京都市内を巡る へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -7 手水舎に棲む龍 (3) 京都・続と奈良 へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -8 手水舎に棲む龍 (4) 滋賀へ 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -9 寺社の建物と付属物 京都・洛中(1) へ
2024.01.18
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2014.5.3神社や寺院の建物およびそこにある付属物に数多くの龍が棲んでいます。冒頭の建物は、「北野天満宮」の拝殿です。北野天満宮境内の西側には、紙屋川が流れています。この左岸に沿って築かれた土堤が御土居跡として残っています。豊臣秀吉が京の都の周囲に築造したこの御土居の一部です。この御土居の内側が洛中と呼ばれます。東の鴨川に沿っても御土居が築かれていましたので、鴨川より東は洛東ということになります。そこで洛中の北、北野にある北野天満宮から始めます。 拝殿正面の柱には頭貫が通り、その上に蟇股が組み込まれています。この蟇股の一つに、龍が透かし彫りで極彩色に彩色されています。 吊り灯籠が下げてあります。 その吊り金具に巻き付く形で龍が造形されています。 もう一つの吊り灯籠にも。 北野天満宮から南に飛びますと、北野の南辺近くに、 通称「だるま寺」で知られる「法輪寺(法輪禅寺)」(臨済宗妙心寺派、行衛町)があります。 この衆聖堂の二階の中央に 釈迦涅槃像が安置されています。 正面の背後に祭壇があり、その両開きの扉の上の欄間に龍が透かし彫りで彩色されています。引き返し、北野の東、紫野に向かいます。 2018.9.13大徳寺の塔頭「龍源院」の特別公開が行われた時に拝観しました。臨済宗大徳寺派です。 寺名に龍が。軒丸瓦の瓦当面に「龍」の字が陽刻されています。 方丈の襖に「龍と波」が描かれています。江戸期の作。ここから東へ、寺町頭(寺町通の北端)に飛びましょう。寺町通は鴨川の流れに沿った通りです。寺町通と鴨川との間に、かつては御土居が築かれていました。 寺町通の北端に位置するのが「上善寺」(浄土宗)です。鞍馬口通寺町東入ル北側。京都六地蔵巡りの第一番で知られるお寺です。 本堂へ 本堂の向拝の蟇股に龍が彫刻されています。 2014.2.17寺町通を南に進むと、「阿弥陀寺」(浄土宗鎮西派、鶴山町)があります。「大正6年、勅使来訪織田信長公正一位階追陞、『織田信長公本廟』として公認された寺」です。(資料1) 本堂の北側にある建物、庫裡だったと思います。その玄関口に龍がいます。阿弥陀寺の南隣りが「十念寺」。その南隣りに 「仏陀寺」(西山浄土宗、鶴山町)があります。大蔵院と号する古刹で、朱雀・村上両天皇を開基とするそうです。ある史跡探訪講座で訪れました。 本堂を拝観したとき、荘厳する装飾の中に龍が彫刻されていることに気づきました。その時、撮ったのがこの1枚。 余談ですが、山門の手前、左側に南面する形でお堂があります。「王城地祭地蔵尊」記された扁額が掲げてあります。こういう形で地蔵堂があるのはちょっと珍しいかなと思います。寺町通をさらに南へ、丸太町通を横断すれば、中京界隈に至ります。 2020.8.26(*付記)まずは、「行願寺(革堂)」(天台宗延暦寺派、行願寺門前町)です。革堂という通称の方が、たぶんよく知られていると思います。 2014.2.17本堂の向拝の正面に、 * 龍がいます。金網で覆われているのが、残念ですが・・・・。寺町通から新京極通に飛びます。新京極通六角下ル東側にあるのが、 2018.3.26(*付記)「誠心院」(真言宗泉涌寺派)です。俗に「和泉式部寺」として知られています。寺名が和泉式部の法名に由来し、また境内には和泉式部塔と称される巨大な宝篋印塔があります。 2018.4.9ここの本堂は、向拝の庇部分が唐破風の屋根になっています。 * * その虹梁の上に龍がいます。 * *ここで一区切りとして、次回は洛中内の下京に向かいます。つづく参照資料*『昭和京都名所圖會 5 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 1) 信長忌 [寺町・阿弥陀寺] :「京都観光Navi」補遺北野天満宮 ホームページだるま寺[法輪寺 :「ふらふら京都散歩」「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 大徳寺 龍源院 :「京都観光Navi」上善寺 :「京都観光Navi」阿弥陀寺 :ウィキペディア仏陀寺 :「京都風光」和泉式部 誠心院 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -3 門に棲む龍 (1) へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -4 門に棲む龍 (2) & 龍について へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -5 手水舎に棲む龍 (1) 西本願寺を起点に へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -6 手水舎に棲む龍 (2) 京都市内を巡る へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -7 手水舎に棲む龍 (3) 京都・続と奈良 へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -8 手水舎に棲む龍 (4) 滋賀へ
2024.01.17
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=== 2023.12.20 === 南の空9時35分過ぎに撮りました。曇り空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空布を広げたような雲が南から西方向ならびに頭上の空に広がっています。 東方向の空東の稜線上空だけ、白雲がわき上がり、雲の姿がわかりやすい。昨年末よりしばらく遠ざかっていました雲の変化と雲がたりをもうしばらく続けたいと思います。 東方向の空14時25分頃に撮りました。稜線上空の雲は横雲が浮かぶ形に変化し、青空が見えています。 南の空南西方向の空 南方向の空は雲の形がはっきりした広がりに変わり、青空が見え始めています。 西方向の空 頭上の空西から頭上にかけては、青空が大きく広がってきていました。 南の空17時15分過ぎに撮りました。日の入り後の残照が留める明るさでの空模様です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 ほんの数分後には、上弦の月がズームアップで撮れる暗さになりました。=== 2023.12.21 === 南の空9時35分頃に撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空どの方向にも雲が見られず、快晴で一日の始まりです。 東方向の空14時近くに稜線を眺めると大きな白雲が浮かんでいますが、空の青さが増しています。 南の空南西方向の空 南の方向には雲が少し浮かぶ程度です。太陽の位置の関係で見ずらい景色になっています。 西方向の空 頭上の空西から頭上にかけては、雲がかなり広がっています。天気は良好です。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空16時35分過ぎに撮りました。日の入り前の時間帯なのでしょう。雲は見られず、空には暗色に覆われる前の夕暮れ時の淡い色合いが広がっています。さて、雲がたりを続けます。詩集「しんみん川」のつづきです。(参照『坂村眞民全詩集 第六巻』大東出版社)前回(2023.12.29)は、「うたに合わせて」と題する詩の引用で区切りとなりました。この後、50ページほどの詩に「雲」は詠み込まれずに、進みます。そして、「砂が光る」と題する詩の中央部分に、久々に「雲」が出てきます。 夜明けてゆく重信川の川原で 祈っていると 雲間から突然月が光り出し わたしに力を与えて下さる 地球に額をつけて 地球よ平安なれ平安なれと 五十ぺん近く唱える p86「雲」と題する6行の詩が、その次に出てきます。 キラキラと光り輝く新造薬師寺の 水煙の上を白雲が悠々と流れてゆく 昔も流れ今も流れ これからも流れてゆくだろう 変わらぬものは 雲のみか p93「霊石誕生」と題する詩に出てきます。この詩は「念ずれば花ひらく」の第47番目の碑について詠まれた詩の冒頭部です。 朝浄めの雨が降り 式が始まる頃は快く晴れ 五色台一帯の山林の紅葉が光り 白雲低く去来し 式を一層荘厳にした p94「円環」と題する7行詩に出て来ます。 もうすぐ立春だから 月に円環ができているのであろうか 雲一つない空に美しく輝く 二十日の月を仰ぎながら 光を吸飲し祈る 早く目覚めた鳥が 川上へ向かって鳴いてゆく p103その次は、「孤独」と題する詩です。9行の詩。 孤独なユトリロ 孤独なセザンヌ 孤独なゴッホ 孤独なリルケ わたしもその一人 それでいいんだ 流雲 流水 共に流れてゆこう p116「白い十字架」と題する3章の詩では、1章の冒頭に詠み込まれます。 前日来の天雲は去り 夜明けの空は冷え澄んでいた p119「第五十五番目の碑に」と題する詩も、冒頭行に詠み込まれます。 一片の雲もないさわやかな五月の風 p124真民さんは原爆に対する詩を幾つも作っています。雲は出てきませんが、この詩集に収録されている「地球に額をつけて」と題する詩をご紹介して区切りとします。 巡りくる八月六日 広島原爆の日 地球に額をつけて祈る こぶしを握り うでを振り 抗議するのは もうやめよう 心を一つにして 核のない地球実現のため 地球に額をつけて祈ろう そのための鐘であり 歌であり集会であれ p136雲の変化に戻ります。=== 2023.12.22 === 南の空9時25分過ぎに撮りました。雲がほとんど見られず、快晴といえるでしょう。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空普段、雲が多く出ている稜線上空も青空が広がっている感じです。 東方向の空15時5分過ぎに稜線を眺めると、空の青さが一段と加わり、雲は見えません。 南の空南の空には、少し雲が浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空天気は上々です。 南の空16時35分過ぎに撮りました。空にはわずかな雲。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空頭上も、稜線上空も雲がはなく、晴れた一日となりました。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2024.01.16
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2013.12.7滋賀県大津市にある「園城寺(三井寺)」から始めます。天台寺門宗の総本山です。いまでは、三井寺の名称の方が一般的に知られていますね。この大門(仁王門)を入り真っ直ぐに金堂に向かう途中、一段高い境内地への石段の手前左側に、 この手水舎があります。 ここの龍は、なぜかこんな形で檻の中に・・・ あるときこうせざるをえない理由が生まれたのでしょうね。山門や本堂の向拝に棲む龍を金網でカバーする形にしている現状と同様に・・・・。しかし、やっぱり、檻や金網は無い方がいいなあ・・・・。ここから坂本に向かいます。 2013.11.18ここは「西教寺」。天台真盛宗総本山です。信長の延暦寺焼き討ちの後、明智光秀が復興に尽力したことと明智光秀一族の墓があることでも知られているお寺です。 本堂前にある手水舎。龍が立ち上がる姿で造形されています。 2013.11.18西教寺から南東に100mほどのところに、「興玉(オキタマ)神社」があります。 坂本といえば「日吉大社」が最も知られている神社でしょう。西教寺の探訪の続きに、夕方でしたが境内を巡りました。夕暮れであまり写真がうまく撮れません。 2013.11.18 ここの手水舎にも龍がいます。ここまで来れば、やはり比叡の山にある延暦寺へ飛びましょう。延暦寺といえば根本中堂。その近くに、 2015.3.28 この手水舎がありました。坂本から膳所へ。 2017.1.28膳所の旧東海道筋に「若宮八幡神社」があります。 2017.1.28京阪電車の膳所本町駅からほど近いところに「膳所神社」があります。ここは膳所城本丸跡地の近くです。 ここの手水舎にも 坂本から南に飛んで立木山へ。 2015.1.17ここには、「立木観音」が祀られています。厄除け観音として知られています。立木観音で覚えているだけなのですが、調べてみますと、正式には「立木山安養寺」というお寺です。 龍は手水鉢の口縁に沿ってうねるようにその胴体を這わせています。手水鉢の正面には、「浄漱」と刻されています。「漱」は「①すすぐ。口をすすぐ。うがいをする。②あらう。すすぎきよめる」(『日本語大辞典』講談社)という意味です。余談ですが、この漱の文字で連想するのが夏目漱石。本名夏目金之助が本を書くときに使ったペンネームです。この漱石は「漱石枕流」という語句に由来します。夏目金之助はこの言葉が気に入りペンネームに使ったと言われています。漱石には「負け惜しみ」という意味が込められているそうです。(資料1)「漱石枕流(ソウセキチンリュウ)」は「≪「枕石漱流」というべきところを誤ったうえ、石にくちすすぎ、流れにまくらをするのだと強弁し、こじつけていったことから≫ 負け惜しみの強い、また、こじつけでうまく逃げることのたとえ」(同上書)と説明されています。さて、大津市の東側に隣接する草津市の志那町に飛びましょう。 2017.5.13琵琶湖岸に近い所にあるのが「志那神社」です。志那神社から南東方向に進むと、同じ志那町内に 「三大神社」があります。藤の花で知られています。 2017.5.13 こちらは浄水の注ぎ口としての龍が手水鉢の右側面に位置しています。手水鉢の正面には「濯水(タクスイ)」と刻されています。洗濯の濯です。「濯」は「①あらう。ア)すすぐ。あらいきよめる。イ)きよめる。潔白にする。②おおきい。おおいに」(『角川新字源』角川書店)と説明してあります。志那町の東方向に穴村町があります。 2017.5.13ここに、「安羅神社」があります。この神社、由緒によると、祭神に関して日韓古代史に関係するとの考証がなされている神社のようです。 ここから、近江八幡市に飛びます。とはいってもまずは、野洲市との市境に近い所に位置する神社です。 JR琵琶湖線の篠原駅に近いところにある「上野神社」です。 2019.6.6 手水鉢の正面には「水盥」と刻されています。「すいかん」と読むのでしょうね。「盥」は「皿(タライ)の上で、両手に水をかけているさまにより、をあらう意を表す」そうで、「①あらう。手をあらう。②そそぐ」(『角川新字源』角川書店)という意味を表すそうです。「たらい(盥)」は、「手あらい」の意味が転じて、「湯水を入れ、洗濯などに用いる、丸く平たい容器」(『日本語大辞典』)をさすようになったとか。上野神社から南に飛びますと、鏡の里があります。国道8号線の傍に、 2019.6.6「鏡神社」があります。源義経関連で知られているところです。 ここは手水鉢の左側面に龍がいます。近江八幡市の北、琵琶湖岸近くまで飛びます。琵琶湖に面しているのが長命寺山。この山上にあるのが「長命寺」です。 2013.10.5長命寺から琵琶湖をほぼ縦断する方向で高島市に飛びます。湖西の湖岸・白ひげ浜から湖岸沿いに南西方向に南下したところに位置する、 2013.7.20「白髯(シラヒゲ)神社」です。近江最古の大社と言います。 ここには、立ち上がる姿の龍がいます。これで、手水舎に棲む龍の通覧を終わります。あくまで私の十有余年の探訪範囲でのまとめですが・・・。次はやはり寺社の建物に棲む龍を採りあげて行きたいと思います。境内にある建物の一つでもある鐘楼は別にまとめるつもりですので対象外とします。つづく参照資料1) 漱石枕流 :「近代科学資料館」(東京理科大学)補遺三井寺公式総合案内 ホームページ天台真盛宗総本山 西教寺 ホームページ西教寺 :「滋賀・びわ湖 観光情報」興玉神社 :「大津のかんきょう宝箱」山王総本宮 日吉大社 ホームページ若宮八幡神社 :「滋賀・びわ湖 観光情報」膳所神社 :「滋賀・びわ湖 観光情報」厄除け立木観音 立木山安養寺 ホームページ志那神社 :「滋賀県神社庁」2023年 三大神社 藤の開花情報 :「草津市観光協会」39.安羅伽耶の里(草津市安羅神社) :「近江史を歩く」上野神社 :「滋賀県神社庁」鏡神社 :「滋賀県神社庁」長命寺 :「近江八幡観光物産協会」白鬚神社 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -3 門に棲む龍 (1) へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -4 門に棲む龍 (2) & 龍について へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -5 手水舎に棲む龍 (1) 西本願寺を起点に へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -6 手水舎に棲む龍 (2) 京都市内を巡る へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -7 手水舎に棲む龍 (3) 京都・続と奈良 へ
2024.01.15
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2016.3.20 2016.5.14京都市内の最後に、伏見区に飛びます。深草にある「藤森神社」です。この石鳥居は旧伏見街道に西面しています。旧伏見街道は、現在、北の東山区では本町通、伏見区に入って、直違橋通と称されています。現在の地図の町名に関連しているのでしょう。本町は1丁目~22丁目、直違橋は1丁目から11丁目と連なり、それぞれが通りを挟んだ両側町です。 2016.514 かなりの歳月を経た、長老級の龍ですね。 2016.3.20藤森神社からでは、深草の北北東方向になりますが、「瑞光寺」(日蓮宗、深草坊町)があります。「元政庵」という名称で知られているお寺です。 この境内に祀られた境内社の傍に、この手水鉢が置かれています。 大方の手水舎の龍がブロンズと思われる金属製であるのに対して、石造龍像なのが印象的です。さらに北の稲荷山に飛びますと、 2016.10.15伏見稲荷大社には、背後の稲荷山を巡り山頂までの参道が周回しています。その参道の途中で、一カ所だけ龍のいる手水舎に出会っています。 ここの龍頭も石造稲荷山には他にもあるかもしれませんが・・・・。京都市から京都府下に飛びましょう。まず、我が地元の宇治市に飛びますと、 2015.2.19 平等院の西側に「県(アガタ)神社」があります。 そこの手水鉢の正面には、「縣井」と太字が刻されていて、龍がいます。 宇治市の西方向に八幡市があります。男山に飛ぶと、昨年末に直近の探訪としてご紹介した「石清水八幡宮」の所在地。こちらから拙探訪記をご覧ください。8回のシリーズでご紹介しています。 2023.12.24男山の中腹、中参道沿いに「石清水社」があります。この石鳥居を通り抜けると、正面に「石清水井」があり、井戸には覆屋が設けてあります。ここは、神様に香水を供えるための井戸なのか、手水の役割も担っているのか、私には不詳です。ひとまずここでご紹介しておきます。 覆屋の虹梁の正面に極彩色で龍が描かれています。覆屋全体に彩色描画が施してあります。男山から南東方向に向かえば、京田辺市があります。 2020.2.27田辺棚倉に所在する「棚倉孫(タナクラヒコ)神社」です。 京田辺市の南は精華町です。 2014.6.12「武内神社」があります。 この二社にも龍がいます。それでは、南方向の奈良県に飛んでみましょう。 2020.1.2奈良市内に「福智院」(真言律宗、福智院町)があります。 この石造地蔵菩薩立像の前に手水鉢があり、 そこにこの龍が!!JR桜井線は「奈良」駅を起点にし、「京終(キョウバテ)」、「帯解(オビトケ)」と停車駅が続きます。ともに面白い駅名です。この帯解駅の近くに、 2016.5.28「帯解寺」があります。帯解子安地蔵尊で知られたお寺で、「子安山」が山号です。 ここの手水舎に龍がいます。それでは南西方向に飛びましょう。JRで言えば大和路線の法隆寺駅へ。 2020.1.25 めざすは「法隆寺」です。 仁王門に向かう手前の手水舎に龍がいます。 もう一カ所、池の傍にある手水舎にも。 ここはちょっと異色です。大きな水瓶の注ぎ口が手水鉢に浄水を注ぐ龍頭になっています。この形式は今までに私が初めてみたものです。法隆寺から南にある河合町に向かいましょう。 2018.4.12ここには「広瀬大社」があります。 参道途中の手水鉢に龍 二ノ鳥居さらに進むと、本殿の境内地に 正面に「広瀬社」と太い文字が刻された手水舎があります。 河合町から、東方向の天理市に飛びます。 2016.5.28「和爾坐赤坂比古(ワニニイマスアカサカヒコ)神社」が坂道を上がった小高い場所にあります。JR櫟本駅から直線で約1.4㎞の距離に位置し、この辺りの集落の最も高いところにある神社です。 ここにも龍がいます。ここでもう一区切りとします。天理から次は滋賀県に飛びます。つづく補遺藤森神社 ホームページ本町通(京都市) :ウィキペディア京都深草 瑞光寺 ホームページ京都宇治 県神社 ホームページ石清水八幡宮 ホームページ棚倉孫神社 :「京都府神社庁」福智院 :「奈良県立図書情報館」京終 :「コトバンク」奈良 安産 帯解寺 ホームページ法隆寺 ホームページ廣瀬大社 ホームページ和爾坐赤坂比古神社 :「いにしえの里、天理へ」(天理市観光協会) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -3 門に棲む龍 (1) へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -4 門に棲む龍 (2) & 龍について へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -5 手水舎に棲む龍 (1) 西本願寺を起点に へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -6 手水舎に棲む龍 (2) 京都市内を巡る へ
2024.01.14
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2016.2.27京都市内の寺社の手水舎を巡ることを続けます。探訪の折に見つけた龍たちです。過去の暦年の探訪記録写真から、龍たちを見つけ出すのに結構時間を要しました。十分な整理ができていませんので、アトランダムな飛び回りになります。 右京区の梅津には「梅宮大社」があります。梅で有名な神社。小ぶりな龍がいます。ここから北西に飛べば嵐山です。渡月橋を西に渡って、少し川上方向に歩めば、 「櫟谷宗像神社」があります。 ここにも、小柄な龍がいます。ここから、東の上京区に飛びましょう。紙屋川を越えると、北野天満宮です。 北野天満宮の南に「東向観音寺」があります。 ここの手水舎は井戸に覆屋が設けてあります。手水鉢には浄水の注ぎ口として石樋が設けてあるだけですが、 宝形造の屋根の露盤の上に、龍がいます。といっても、残念ながらかなり欠損部分がみられますが、間違いなく龍の胴体と思われます。今出川通に沿い、東の堀川通を飛び越えてさらに進めば、 2014.2.9 「白峯神宮」があります。「蹴鞠」の神事で良く知られています。今ではサッカーの守り神になっているようです。 その境内に「潜龍社」という境内社があります。 瑞籬の傍に、小さな手水とマスコット的なキャラクターの龍がいます。小さな子供たちが喜びそう。さらに東へ。左京区に向かいますと、 2020.11.6「聖護院門跡」前の春日上通を挟んで南東側に「須賀神社」があります。 小さめの水鉢に、正面から見ると見る角度によってちょっとユーモラスな印象を与える龍がいます。 側面からの眺め須賀神社は、聖護院一帯の産土(ウブスナ)神だそうです。東山区に下り、六道辻に行くと、 子育地蔵で知られた「西福寺」があります。門前から正面に 石造不動明王像が見え、 その前に龍がいます。この水鉢、不動明王に水を手向けるものなのか、手水鉢の役割をになう浄水なのか・・・・・私は判断しかねています。西福寺から北西方向になりますが、南北の通りである大和大路通に面して通りの西側に 「ゑびす(恵美須)神社」があります。正月は「十日えびす」で大賑わいとなる神社です。もうはや13日。 ここには相対的に大きな龍がいます。龍の全身像が見やすく造形されています。大和大路通の少し南で、東側には 2019.1.2建仁寺の塔頭の一つ「禅居庵」があります。 ここは亥(イノシシ)が浄水の注ぎ口なんですが、ここでは手水舎の覆屋にご着目!! 普通なら蟇股のある位置に龍が彫刻されています。亥を載せたところで、少し余談です。手水舎の浄水の注ぎ口には様々な動物がいます。私の探訪経験範囲でご紹介しましょう。亥(イノシシ) :禅居庵、護王神社(御所の近くで烏丸通に東面)兎(ウサギ) :岡崎神社(京都市左京区)、宇治上神社(宇治市)、 園城寺(三井寺:滋賀県大津市)丑(ウシ) :菅原院天満宮(御所の近くで烏丸通に東面)亀(カメ) :壬生寺(京都市中京区)、松尾大社(京都市西京区) 兵主大社(滋賀県野洲市)蛙(カエル) :玉津岡神社(綴喜郡井手町)本題に戻ります。かつて洛中と呼ばれた地域の一部になる中京区に飛びましょう。 2017.3.29六角通新京極に西面する「誓願寺」(浄土宗西山深草派総本山)があります。 山門を入ると、左側に手水舎があり、龍がいます。ここから、下京区に向かいます。初回に触れた下京の諸寺以外に、神社にも龍がいます。 2021.9.28まずは「市比賣神社」です。 市比賣神社から南西方向、間之町通に東面して、 2021.9.28上珠数屋通上ルに、「文子(アヤコ)天満宮」があります。 ここから一旦さらに西に向かいます。再び堀川通を越えて進むと、壬生通があります。 2017.3.10壬生通沿いに少し北に上がると四条通より手前に「壬生寺」(浄土宗)があります。 同じ下京区内ですが、ここから南西方向に八条通西大路まで飛びます。東西の八条通と南北の西大路通が交差するところ。この北東側に 2016.10.27「若一神社」があります。この辺りは、平安時代の平清盛の西八条殿があった跡だそうです。 ここにも龍が。さて、東方向に飛び、東山の山並みを飛び越えると、山科区です。 2019.5.3 天智天皇山科陵から少し東方向に「護国寺」(日蓮宗、山科区御陵)があります。 ここの手水鉢にも小ぶりな龍がいます。この辺りで、一区切りといたします。南側の伏見区から続けます。つづく補遺梅宮大社 ホームページ摂社:櫟谷宗像神社 :「松尾大社」白峯神宮 ホームページ聖護院門跡 ホームページ須賀神社(交通神社) :「京都観光Navi」京都ゑびす神社 ホームページ禅居庵 ホームページ兵主大社 facebook浄土宗西山深草派 総本山 誓願寺 ホームページ市比賣神社 ホームページ文子天満宮 ホームページ壬生寺 ホームページ若一神社 :「京都神社庁」護国寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -3 門に棲む龍 (1) へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -4 門に棲む龍 (2) & 龍について へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -5 手水舎に棲む龍 (1) 西本願寺を起点に
2024.01.13
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巨大な五輪塔の傍の道を進みます。 「大聖不動明王」と記された扁額を懸けた丹塗りの鳥居があります。ここが「杉山谷不動尊」の入口です。 石段道を上ります。 二ノ鳥居参道に、奉納された幟が林立しています。 参道の右側に、手水舎が見えてきました。その手前に数多くの石碑が建立されています。石碑群に近づき眺めると、左から源美大師、地蔵尊像、豊吉大明神、荒木大神、判読不可の石碑、稲玉大神、白米大神と判読できそうです。私は伏見の稲荷山山上にある御塚を連想しました。 「源美大師」碑の右隣りに安置された地蔵菩薩像 手水舎の左側には、小不動尊が祀ってあります。 参道の前方を眺めた景色後で調べてみると、この杉谷不動尊は「神應寺」の奥の院にあたるそうです。(資料1) 「厄除延命地蔵尊」の扁額を掲げた地蔵堂が参道の右側にあります。 少し開いていた格子戸前から眺めた地蔵菩薩立像です。 地蔵堂の近くに石造「不動明王立像」が祀ってあります。 その先に、朱塗りの手すりが見える分岐点があります。手すりの設置された道沿いに行けば神應寺に行けることがわかり、山を降りなくてもすむと、一安心。 この分岐点に地蔵菩薩像が祀ってあり、「南無地蔵菩薩」と墨書した提灯が吊されています。ここにはお地蔵さまが数多く集合されています。 隣には、小さな一石五輪塔が祀ってあります。 その先には、「神應寺稲荷 豊川拕柷尼真天」の幟が立つ稲荷社があります。 小社の前に、一対の狐像が置かれています。 もう一つこの覆屋があります。 近づいて拝見すると、石造「観音菩薩坐像」が安置されています。 「杉山谷不動堂」 ここは「奥の院」と呼ばれているそうです。拝所のところで堂内を拝見しましたが、撮影禁止でしたので、残念ながらこれ一枚です。本尊は不動明王(秘仏)です。脇侍として、善悪を掌る矜羯羅(コンガラ)、制多迦(セイタカ)の2童子が控えています。厄除け不動として、人々に信仰されているそうです。(資料1) 本堂に向かって左側の斜め奥に「観音堂」があります。十一面観世音菩薩が祀られています。お堂の回りに「南無十一面観世音菩薩」と記した幟が奉納されています。私は参道を上がってくる際に見落としたようなのですが、途中に、「ひきめの滝」と称される滝行場に至る分岐の道があるそうです。 参道を引き返し、朱塗りの手すりが設置された分岐点から神應寺への山道を辿ります。途中で谷間を跨ぐケーブルカーの軌道橋が見えます。 道はそのまま境内につながり、最初に「鐘楼」が目に止まりました。 境内の中央に、本堂に向かう参道があり、左右に建物が建ち並んでいます。 左側の建物の手前の角にも、豊川拕柷尼真天を祀る小社があります。 参道の右側には池があり、その傍の松の木が横に枝を伸ばしています。 参道の先には「本堂」が見えます。参道の手前に立入禁止を示す竹が参道を横切って置かれていました。こちらも残念ながら本堂には近寄れませんでした。本尊は薬師三尊仏。平安時代前期作と伝わる行教律師像、衣冠束帯姿の豊臣秀吉像も安置されているとか。(後掲の案内板説明より) 本堂の正面には、「大雄殿」と記された扁額が懸けてあります。デジカメのズームアップ機能で撮ってみました。 同様に、本堂右手の玄関口をズームアップで。本堂前の庭の様子が少しわかります。写真を撮っていた位置に近いところで、後で紀伊付いたのが、竹の柵で囲われたこの石です。「淀君茶室の庭石」という案内標識が立っていました。帰路は神應寺の表参道を降ります。 参道を降る途中にこの駒札が設置してあります。本来なら参道を上ってくる途中で見る駒札になります。 参道を降り終えたところで、表参道を振り返って撮った景色 神應寺の山門右の門柱には「絲杉山神應寺」の木札が懸けてあり、左の門柱には「道不可求可致」の偈が掲げてあります。「道は求むべからず、致すべし」と読み下すのでしょうか。 鬼瓦 留蓋 山門にむかって立ちますと、左側に神應寺の「由緒」が掲示されています。上掲の駒札と併せて、要点を箇条書きにまとめてみます。*八幡神を男山に勧請した行教律師が貞観2年(860)に応神天皇の位牌所として開創*法相・天台・真言の宗旨を経て、室町時代に曹洞宗に改宗*豊臣秀吉との関係が深かった。正室北政所が中興12世住職弓箴善彊に帰依*德川家康をはじめ歴代将軍から寺領が安堵されてきた*元禄3年(1700)多くの雲水が毎年修行する常法幢地の寺格を得、洛南有数の禅苑に*明治の神仏分離令の難を逃れ、行教像は明治6年に墓所のある本寺に移された*貴重な資料や文化財を多数伝承保存している 「曹洞宗 神應寺」の寺号石標が立っています。参拝としては逆コースを歩いてきたことになります。後は京阪電車の石清水八幡駅に引き返すことになります。 駅前の広場には、このモニュメントが設置されています。八幡の竹とエジソンの発明・白熱電球を象徴しているモニュメントです。全長6.35mの円形の塔です。夜になると明かりが灯るとのこと。(資料2)ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 杉山谷不動尊 :「八幡市観光協会」2) あれはなんだ!?京都・八幡市で目を引く3つの巨大モニュメント :「KYOTO SIDE」補遺杉山谷不動尊 :「枚方市」神應寺 :「八幡 STORY&FUIDE」神應寺(じんのうじ) :「八幡市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮周辺にて -1 相槌神社・泰勝寺・安居橋・五輪塔ほか へ
2024.01.09
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門に棲む龍の続きとして、「西本願寺」の手水舎から始めます。(2020.6.25 *印) 手水舎に棲む龍は、浄水の注ぎ口の役割を果たしています。よくご存知のことでしょう。龍は全身像として造形されています。 * 2011.11.27 * * *この手水舎の覆屋を眺めますと、 * * 四方の蟇股には、太閤桐の紋章が陽刻されています。 こちらは「東本願寺」の手水舎の龍です。(2017.3.1) 立ち上がる感じのダイナミックな龍です。 既にご紹介しています滋賀県長浜市にある「大通寺」は、その山門が本山東本願寺の山門を継承して建てられたと言われています。そのため、本山の山門が焼失した時には、その再建にあたり役立ったということが、当寺の案内板に記されていました。 大通寺の手水舎の龍も、姿は全く異なりますが全身像で造形されています。(2015.6.28) こちらは「興正寺」の手水舎です。西本願寺の南隣りにあります。(2018.2.27) 小ぶりですが、同様に全身像の龍です。この4例を眺めても龍の姿は多様であり、おもしろいかぎり・・・・。 覆屋の蟇股を眺めますと、上掲の西本願寺の例とは異なり、ここに龍がいます。 四方の龍は、透かし彫りの造形で、それぞれスタイルが異なります。 最初に載せた面の裏側を、覆屋の内側から眺めると、このように龍本体と背景が丸彫りにされているこがわかります。どのように龍像の全体を表現するかが、匠の技の見せ所になっているのでしょう。観察するとおもしろい!! この3つの背面を上掲の龍とマッチングして、龍像をイメージしてみるのは如何でしょうか。さて、京都・洛北の鞍馬寺に飛びましょう。(2016.6.18) 本殿金堂の東側に、「閼伽井護法善法神社」があります。 この神社の正面右側に龍がいます。 こちらも龍が全身像で造形されています。この龍は宝珠を握っています。鞍馬寺でもう一カ所、 「転法輪堂」の傍の手水鉢で龍を見つけました。ここで一区切りとして、続きは次回に。つづく補遺お西さん(西本願寺) ホームページ東本願寺 ホームページ長浜別院 大通寺(公式) :「真宗大谷派長浜教区」真宗興正派本山興正寺 ホームページ鞍馬寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -3 門に棲む龍 (1) へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -4 門に棲む龍 (2) & 龍について へ
2024.01.08
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石清水八幡宮を昨年12月24日に探訪したご紹介は年末年始にかけてご紹介しました。裏参道を降りてきた後、ニノ鳥居(上掲の左)を通り抜け、表参道を再度上りました。上掲右の石段から下に降りてみる気になったのです。この石段道所から、お寺らしき大きな屋根が目に止まっていたからです。この石段道を降りれば、石清水八幡宮の周辺を探訪する起点にもなると思ったこともその一因です。 上掲の石段道を降りると、石垣の傍に「下馬」と刻された石碑と角柱の石標が立っています。石標の方は残念ながら刻字が判読できません。石清水八幡宮への石段道ですから、ここで馬から降りて、この後境内は徒歩にて進めということでしょう。 右の方に目を転じると、地蔵堂と神社が並んでいます。 地蔵堂の格子戸越しに拝見すると、ここのお地蔵さまもお顔に化粧が施されていました。京都市・宇治市と同様に、地蔵盆にい地蔵さまを浄めてから化粧するという風習があるということでしょう。隣の小さな神社は工事中のようでした。 石清水八幡宮への石段道とこの神社との位置関係が景色としておわかりいただけるでしょう。 ここは「相槌神社」。案内板が設置されています。 建物の右側には、「山ノ井戸」と刻した石標が立ち、この井戸があります。この井戸がこの神社の由来になるそうです。「山ノ井戸」は八幡五水の一つのようです。平安時代に活躍した有名な刀鍛冶、大原五郎太夫安綱が、山ノ井の水を使って刀を鍛造したとき、神がきて「相槌」をなしたために、ここに神社を建てて祀ったそうです。安綱が神と交互に作刀のために交互に槌を打ち合わせた「相槌」という名が付けられたとか。山ノ井は江戸時代に井筒などが整備されたそうです。江戸時代中期、1710年頃までは石清水八幡宮の管轄下にありましたが、その後は近隣住民が独自に修繕などを行い、神社との関わりが強くなったようです。(案内板より) 相槌神社前の道を東方向に進むと、 「松花堂 泰勝寺」の表札を掲げたお寺の山門が見えました。表参道から眼下に見えていたのはこのお寺です。 山門の左手前に「松花堂旧跡」と刻した石標が立っています。 山門の左の壁に案内板が掲示してあります。「天正18年松花堂昭乗は9才の時男山に入山滝本本坊の実乗に師事し阿闍梨となつた。特に書画茶道作庭に長じ、自らの草庵を松花堂と称した。小堀遠州、沢庵、石川丈山、林羅山等と親交があり、寛永の文化人として屈指の人物である。 当寺は昭乗の墓所を中心に建立俗に松花堂と呼ばれ境内の宝物館には昭乗、遠州、沢庵、光悦等の墨蹟を始め多くの寺宝が展示されている。又人々のえとの守り本尊八躰が泰安され難を転じ福を招くお守りが授与される。本堂前庭は各種南天を配し、三途の川を渡つて彼岸へ船出する石庭があり、茶席閑雲軒は日本百席の一つである。」(案内板転記) 山門の柵前から延べ段の先に唐門が見える境内を眺めるに留めました。参拝には寺務所にて予約が必要と上掲案内文の末尾に記されています。機会を見つけて、再訪したいと思いました。相槌神社前まで戻り、北方向に進みます。右(東)側には川が流れています。 この反り橋が見えてきます。 「安居(アンゴ)橋」という名の橋。 橋の北側にこの駒札が立っています。橋名の由来は諸説あるそうですが、駒札には2つ紹介されています。*鎌倉時代より八幡の町ぐるみで行われていた安居神事から名付けられたという説*かつてすぐ川下に「五位橋」があり、相対する仮の橋が造られ「相五位橋(アイコイバシ)」と呼ばれ、これが変化して「安居橋」となったとする説江戸時代初めの古絵図には、平橋が架けられている形で描かれていいるそうです。元禄7年(1694)には、「安居橋の月」が八幡八景の一つに選ばれました。慶応4年(1868)1月、橋は鳥羽伏見の橋で焼失。約150m川下にあった「高橋」という反り橋(太鼓橋)を偲ばせる形で、安居橋が再興されて現在に至るとか。 駒札の隣りにこの石碑「やわた放生の景」が建立されています。現在、ここが石清水八幡宮の「石清水祭(放生会)」の神事の舞台になっているそうです。 石清水きよき流れの 絶(タエ)せねは やとる月さへ くまなかりけり (石清水清き流れの絶えせねば宿る月さえ隈なかりけり)の歌碑もあります。調べてみますと、この能蓮法師の歌は、『千載和歌集』の「巻二十 神祇」1280 に採録されています。文治元年(1185)9月の石清水八幡宮での歌合せでの詠歌だそうです。(資料1) 川下を眺める 振り返った景色安居橋の所から、石清水八幡宮探訪の最初に訪れた頓宮殿の境内地を通り抜け、当初の起点まで戻りました。そして一ノ鳥居前から、境内地沿いに左(西)方向への道を歩いてみました。少し道沿いに進みますと、 竹垣と「神護寺」と刻した寺号標が見えます。 左方向に道を歩めば、左側に頓宮殿の西門と連子窓のある屏が見えました。 右側に見えたのが、この巨大な「五輪塔」です。そう、最初に頓宮殿の門越しにその一部を垣間見ていた五輪塔です。基壇が設けられています。 石段を上がると、 五輪塔より少し離れた右側手前に「航海記念大石塔」と刻した石標が立っています。 五輪塔の左側手前に駒札が設置されています。鎌倉時代(12世紀末~1333年)頃に建立された五輪塔。高さ6m、最下段の横幅は2.4m。中世以前の五輪塔では日本最大で、国指定重要文化財です。(駒札より)五輪塔は5つの石から構成され、下から「地、水、火、風、空」という物質の構成要素を象徴しています。小規模な五輪塔は全国的に分布しています。仏教思想に基づいて平安時代に創始されたと言われています。「多くが武士層によって造立された。元来は堂の落成、仏像開眼時の供養を目的のひとつとしたが、鎌倉以後は先亡者の供養や墓石としてつくられるようになった」(資料2)そうです。 正 面 右側面 裏 面 左側面 周囲を巡ってみました。どの面にも刻銘等が一切ありません。目的、製作者、年代など不明です。謎多き巨大五輪塔です。「言い伝えによると、平安時代末頃、日宋貿易の摂津尼ケ崎の商人が中国から帰国する途中、海上で嵐に巻き込まれ、あわや転覆かの時、石清水八幡宮に一心に祈ったところ、無事本土にたどり着くことができ、感謝してこの石塔を建立したといいます。この話から、『航海記念塔』とも呼ばれています」(駒札説明文、最後の段落を転記)この説明で、上掲石標の立つ意味が理解できました。石柵に囲まれた基壇から降りて右の側面をみますと、 「不動堂道」と刻した道標が目に止まりました。そこで、この不動堂と上掲に載せた神応寺を訪れてみることにしました。つづく参照資料1) 石清水清き流れの絶えせねば宿る月さへ隈なかりけり :「古代文化研究所:第2室」2)『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社補遺泰勝寺 :「八幡市観光協会」泰勝寺庭園 :「おにわさん」歌人等によって詠まれた八幡の歌 八幡を詠んだ歌 :「八幡散策」八幡八景 :「やはた走井餅老舗のブログ」勅祭石清水八幡祭 :「石清水八幡宮」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか 8回のシリーズでご紹介
2024.01.07
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2020.6.25 2013.4.27西本願寺の阿弥陀堂門。左が堀川通に面した正面。右が境内から撮った景色です。切妻造で前後に唐破風の付いた四脚門です。この門には前回とは異なる箇所に沢山の龍がいます。 2018.2.27 2020.6.25これは四脚門の正面・右(北)側の控柱です。この角柱の下部、礎石のすぐ上には柱の保護を兼ねた荘厳装飾金具が取り付けてあります。ここに龍がいた! 撮れなかった或いは撮らなかった面がありますので、大凡の全体像をイメージしていただければと思います。機会があれば現地でごらんください。 正面・左(南)の控柱 2020.6.25 正面・右(北)側の本柱 2018.2.27 正面・左(南)側の本柱 2018.2.27 境内側・左(北)側の本柱 2020.6.25 境内側・右(南)側の本柱 2020.6.25 境内側・左(北)側の控柱 2020.6.25 龍の様々のダイナミックな姿が各面に造形されています。さて、龍がなぜこのような姿で表現されるのかについてです。南方熊楠が「竜とは何ぞ」の一文の中で、支那つまり中国の龍について要を得た説明だとして『本草綱目』から引用している説明文があります。孫引きになりますがご紹介します。(資料1)<竜形九似あり、頭蛇に似る、角鹿に似る、眼鬼に似る、耳牛に似る、項(ウナジ)蛇に似る、腹蜃に似る(蜃は蛇に似て大きく、角ありて竜状のごとく紅鬣(コウリョウ)腰以下鱗ことごとく逆生す)、鱗鯉に似る、爪鷹に似る、掌虎に似るなり、背八十一鱗あり、九々の陽数を具え、その声銅盤を戞(ウ)つがごとし、口旁に鬚髯あり、頷(アゴ)下に明珠あり、喉下に逆鱗あり、頭上に博山あり、尺水と名づく、尺水なければ天に昇る能わず、気を呵して雲を成す、既に能く水と変ず、また能く火と変じ、その竜火湿を得ればすなはち焔(モ)ゆ、水を得ればすなわち燔(ヤ)く、人火を以てこれを逐えばすなわち息(ヤ)む、竜は卵生にして思抱す>こんなにも詳細に想像上の動物・龍を具象化しているのには驚きます。どうしてあのような龍の姿をイメージできるのか、それには根拠があったのですね。そして、そのバリエーションが、画家や彫刻家の想像力・創作力により、様々に表現され、各所に龍が棲息していることになります。現在の市販されている辞書が龍をどのように説明しているか。手許にある辞書での説明を列挙してみましょう。コンパクトな辞書か厚みのある大きな辞書かによって、辞書編纂方針と記述のボリュームに対する制約がありますので、様々な説明のバリエーションがあることに気づきます。1.想像上の動物。水中にすみ、形は大きなトカゲに似て胴体が長く二つの角とひげと四本の足がある。自由に飛行して雲を起こし、雨を降らすという。たつ。りょう。(資料2)2.想像上の動物。体は大蛇に似ていて、頭には二本の角があり、口辺に長いひげをもつ。水中または地中にすみ、時に空中を飛行し、雲や雨を起こし、稲妻を放つという。(資料3)3.想像上の動物の一つ。竜(タツ)。水中あるいは地中にすみ、空中を飛行し、雲や雨を起こすという。仏教では仏法の守護神とされ、中国では天子になっぞらえる。「りょう」とも。(資料4)4.たつ。想像上の動物。巨大な爬虫類の形をしていて、鳳(ホウ)・麟(リン)・亀(キ)とともに四霊の一つ。雲をおこし雨をよぶ。「天竜・登竜門・独眼竜・飛竜」「竜虎・竜神」(資料5)5.想像上の動物。体は巨大な蛇に似て鱗(ウロコ)におおわれ、頭には二本の角と耳がある。顔は長く口辺にひげをもつ。平常は海・湖・沼・池などの水中にすみ、時に空にのぼると風雲を起こすとされる。中国ではめでたい動物として天子になぞらえ、インドでは仏法を守護するものと考えられた。たつ。(資料6)6.海中または池沼中にすみ、神秘力を有するという想像上の動物。姿は巨大な爬虫類で、胴は蛇に似て剛鱗をもち、四足。角は鹿に、眼は鬼に、耳は牛に似、地上では深淵・海中に潜み、時には自由に空中を飛翔して雲を起し雨をよぶという。インドでは仏法を守護した説話が多く、普通、毒蛇・コブラの形で表現され、竜王はその威力を神格化したもの。我国では竜神といわれる。中国では鱗虫の長とし、麟・鳳・亀と合わせて四瑞とし、天子になぞらえる。また形体により、鱗のあるのを蛟竜(コウリュウ)、翼のあるのを応竜、角のあるのを虬竜(キリュウ)、角のないのを螭(チリリュウ)、天に昇らないのを蟠竜(バンリュウ)などとよんだ。りょう。たつ。(資料7) 辞書の記述の対比からまた情報がひろがります。辞書を読む面白さがあります。龍の足の爪の本数については、いずれも言及されていません。祇園祭で懸装品を見ていてあるとき疑問に感じました。爪の本数の意味合いについては、補遺をご覧ください。門に棲む龍についてはこれくらいにして、手水舎に棲む龍に移ります。つづく参照資料1)『十二支考 (上)』 南方熊楠著 岩波文庫 p144-1452)『新明解国語辞典 第五版』 三省堂3)『現代国語例解辞典 第二版』 小学館4)『学研全訳 古語辞典 改訂第二版』 学研5)『日本語大辞典』(初版) 講談社6)『大辞林』 三省堂7)『広辞苑』(初版) 岩波書店補遺爪の数 :「卜深庵」(武者小路千家)意外と知らない龍(竜)の爪の意味、ほんとうは何本? :「Mitsutomi」竜の指の数の意味を知りたい。日本と中国で違うのか? :「レファレンス協同データベース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -3 門に棲む龍 (1) へ
2024.01.06
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建仁寺に棲む龍から初めて、手水舎と三門に眼を向けました。お寺は門を通り抜けて境内に入りますから、三門、山門、表門、総門などと呼ばれる門を先にとりあげて龍に出会いましょう。寺社の門を観察しますと龍がいます。探訪経験からは大きなお寺の三門や山門を居所としている場合が多いと思います。冒頭の山門の龍を見つけた時は、一瞬感動しました。 四脚門の左右の本柱の上部に正面を向いた龍が門から今出現したかのように・・・・迫力抜群です。(2018.2.27) この龍は、真宗興正派本山「興正寺」の門にいます。 京都市下京区にあり堀川通に面しています。 この龍も四本爪です。興正寺の北側には、北隣りの浄土真宗本願寺派本山である「西本願寺」との間に北小路通が東西方向に通っています。この通りを西に歩むと、 この通りに面して南面する「唐門」(国宝)が西本願寺の門の位置づけで保存されています。 近年、修復されて往時の輝きを再現した唐門になり、まさに「日暮門(ヒグラシモン)」に復活しています。この門に龍がいます。(2022.6.2) 龍が透かし彫りされている箇所を切り出してみました。 この二枚は唐門が修復される以前に訪れた時に撮ったものです(2013.4.27)。同様に、 2018.1.28極彩色の経年変化による褪色状態がおわかりいただけるでしょう。 東本願寺御影堂門 境内からの眺め 2020.11.18(*付記)烏丸通に面する真宗大谷派の本山である「東本願寺」の御影堂門に龍がいます。 * 2017.3.1 * *頭貫の上全体にいる巨龍です。金網が張ってあるのが残念ですが・・・。 京都・東山の渋谷街道を歩いた時、「小松谷正林寺」を訪れました。(2020.9.22) この山門には、本柱の頭貫の上に宝珠を握った龍がいます。 丸彫りですので、境内側から観察すると、龍の胴体が彫られています。 京都・嵐山に「天龍寺」があります。境内の「勅使門」には、 2015.9.10門に連なる築地塀の側面保護の部分(上部)にこの龍がいます。反対側は虎です。 「下御霊神社」は寺町通に面した鳥居の先に、この門があります(京都市中京区)。 ここも頭貫の上に龍がいます。(2020.8.26) 滋賀県長浜市に「大通寺」があります。山門を境内から撮った景色です。上層部、下層部の二重門で左右に山廊と築地塀が付いています。東本願寺の山門を模して造られたと言います。(案内文より) この山門にも龍が集まっています。 (2015.6.28)この辺りで、門に棲む龍たちの一区切りとします。次回はちょと違う視点を含めて門に棲む龍ほかをご紹介します。つづく補遺真宗興正派本山興正寺 ホームページお西さん(西本願寺) ホームページ東本願寺 ホームページ正林寺 :「法然上人二十五霊場」天龍寺 公式ホームページ下御霊神社 ホームページ長浜別院 大通寺(公式) :「真宗大谷派長浜教区」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて へ
2024.01.05
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中参道を降り、松花堂跡までの探訪のあと、この分岐点まで引き返して裏参道を降ります。平坦な参道の先で石段道になります。その手前に石灯籠があります。 屋形石灯籠の変形バージョンでしょうか。笠は屋形形、火袋は方形、そして中台までは屋形石灯籠と同じですが、普通は竿が円柱のところが、変わった形になっています。それに併せて基礎も円形から方形になっています。竿の形ですが、四面を撮ってみました。 竿は台形で外枠が蟇股の感じに見え、中央部が彫り込まれて、両開きの門扉が線刻されています。桟唐戸の形式です。そして、四面とも桟唐戸の意匠が異なります。参道側を正面とすると、右面に「明和九」という年号が読み取れます。その後は写真からは判読がしづらいです。明和(メイワ、1764~1772)の期間を考えると、明和9年は明和の最後の年になります。宿坊大西坊という刻字があります。左面には奉納者の住所と名前が刻されています。宿坊を仲介にして石清水八幡宮に奉納されたということでしょうか。長い歳月の経過が、竿が二枚の石材を組んだものであることを示しています。 ここにも、裏参道のどの地点かを示す表示シートが掲示してあります。 裏参道の傍に、石垣が築かれています。この上が坊跡なのでしょう。石垣の角は算木積みで、石垣は野面積みの形です。 石垣の下も、開平された空間が奥に広がっていて、「太子坂・萩坊跡」案内板が設置してあります。「二ノ鳥居の北に至る『裏参道』は、江戸時代まで『太子坂』といい、古くは約700年前、鎌倉時代の上皇が参詣の帰りにこの道を通った記録があります。 坂の途中を造成して造られた坊のひとつ、『萩坊』は、安土桃山時代の高名な画家・狩野山楽が、豊臣秀吉に追われ隠れ住んだことでも知られ、客殿は山楽が絵描いた金張付極彩色の図で飾られていました。山楽の子・狩野山雪の襖絵は八幡宮の北側にある神応寺に所蔵されています。 坂を下ると、聖徳太子3歳の像を祀った『太子堂』があり、室町時代には他に丈六(一丈六尺)という像高3m程の巨大な阿弥陀仏を安置した行願院もありました。 明治時代初めの神仏分離令ですべて破却されましたが、難を逃れた太子堂は、現在も滋賀県大津市の国分聖徳太子会で大切に守られています」(案内文転記)案内板に掲載の地図を切り出してみました。太子堂が存在した当時の状況が記されています。 石段道の反対側を眺めた景色 裏参道を見上げた景色 「京都府歴史的自然環境保全地域」の標識 裏参道はこんな少し急勾配の石段道を降ることになります。 参道脇にみた石枠の囲みです。「竹雨水」と右側に刻されています。 裏参道を見上げると・・・。 見下ろすと・・・・・。 参道を見上げて。右は参道脇の石積み。 振り返って・・・。 参道脇には、距離を示す石標が立っています。「一町」と刻されています。 いよいよ表参道が見え始めてきました。 振り返って。 「裏参道①」の表示シートが石柱に掲示されています。 裏参道の降り最後のコーナーになります。 石段道の曲がり角には、男山京都府歴史的自然環境保全地域がどの範囲かがイラスト表示されています。保全地域の中に、さらに特別地区・野生動植物保護地区が指定されているようです。二段構えの保全・保護です。最後の石段道を降ると、 表参道の二ノ鳥居の少し手前に設置されたこの案内絵図の近くに出てきます。 赤丸を追記したところが案内絵図の設置された現在位置です。中参道を上り直し、大凡青丸を追記したこの位置から裏参道を降ってきました。これで、石清水八幡宮の探訪を終わります。ご覧いただきありがとうございます。なお、この石清水八幡宮の周辺もこの時少し探訪しています。稿を改めてご紹介します。補遺石清水八幡宮 ホームページ狩野山楽 :ウィキペディア第38話 狩野山楽(1559-1635年) :「関西・大阪21世紀協会」【例大祭のお知らせ】国分聖徳太子堂 :「BIWAKO OTSU TRAVEL GUIDE」財団法人国分聖徳太子会所有の木造聖徳太子立像の概要を知りたい。 :「レルァレンス協同データベース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -2 表参道(七曲がり・大扉稲荷神社・坊跡ほか)へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -3 三ノ鳥居、表参道の左(西)側エリア へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -4 御羽車舎・社務所・手水舎・竈神殿ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -5 ジャンボ御神矢、本社(御社殿)の外観 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -6 本社周辺の摂社・末社と信長塀 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -7 岩清水社・石清水井、松花堂跡、坊跡等 へ
2024.01.04
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建仁寺の法堂の天井に龍がいます。 2018.11.10この時撮った中では、この位置から撮ったのが龍図の一番全体を示しています。建仁寺開創800年を記念して制作されたもので、小泉淳作筆「双龍図」です。建仁寺では創建以来初めての天井画となるそうです。(案内掲示より)「龍は仏法を守護する存在として禅宗寺院の法堂の天井にしばしば描かれてきた。また『水を司る神』ともいわれ、僧に仏法の雨を降らせると共に、建物を火災から護るという意味がこめられるいる」(案内掲示一部転記)と言います。お寺の天井は龍の居所の一つの源といえます。 宝珠を握る四本の爪の龍が描かれています。 上掲の天井画ほぼ全体図に幢幡(トウバン)が吊り下げられています。法堂の荘厳装飾の一部となっていますが、良く観察しますと、ここにも龍が棲んでいます。 2014.5.15ある史跡探訪講座に参加して、相国寺(京都市上京区)とその周辺を探訪した時に、一般公開の案内板が境内にありました。ここの法堂の天井画は、狩野永徳の息子である狩野光信筆「幡龍図」です。通称「鳴龍」と称されています。 2015.5.10 東福寺の本堂(仏殿兼法堂)には「大涅槃図」が掲げられる涅槃会の折に拝見に行ったことがあります。この時は大涅槃図に意識が集中していました。別の機会に東福寺の探訪をした時、本堂前から堂内を眺めて天井画に気づきました。部分図しか撮れませんでしたが、堂本印象筆「蒼龍図」です。 2013.6.30史跡探訪の講座で、滋賀県日野町に所在の「仏智山信楽院」(浄土宗)を訪れました。このお寺は蒲生氏郷の菩提寺です。 本堂の天井に荒れ狂う巨大な龍がいます。「雲龍」図です。 雲龍が本堂の天井の中核となっていて、少し脇道にそれますが・・・・、 左右の間に飛天が描かれ、 外陣の天井には、韋駄天、八大龍王が描かれています。すべて日野出身の画家高田敬輔(タカダケイホ)筆による天井画。圧巻です。 2003.1.25大阪の四天王寺の中心伽藍の一隅に「龍(リュウ)の井戸」があります。その井戸の覆屋の天井に龍がいます。探訪の折に撮ったのはこの部分図だけです。ほぼ類似の写真がありますが省きます。これも天井画に範疇に入るでしょう。「四天王寺では、中心伽藍金堂の地下深くに流れる荒陵池の麗水に住む青龍が寺域を守護していると信仰されています」(案内文一部転記) 井戸の傍に、この金属製の龍像が鎮座しています。 ここから、また別の領域に棲む龍たちが連想として現れます。寺社の手水舎を居所とする龍たちです。次回はそちらに時空を跨いでいきましょう。私の好きな龍図として、初回に建仁寺の海北友松筆「雲龍図」(襖絵)をご紹介しました。襖絵は<障壁画>という領域の一つとなっています。障壁画は障屏画と壁画を併せた名称です。障屏画は、びょうぶ・ついたて・ふすま・戸などに描いた絵ということになります。(『新明解国語辞典 第5版』 三省堂)そこで、障壁画という分類でみると、屏風も龍の居所になっています。 2018.7.22 この屏風絵は、2018年の祇園祭後祭の宵山の折、八幡山の近くの民家に飾り付けられたものを撮りました。拙ブログの祇園祭紹介の中でご紹介していたと記憶します。宵山では併せて「屏風祭」が行われています。通りに面した窓を開放し、座敷に屏風等を飾って祭に協力されるのです。それは自家の伝統継承等を示す機会にもなるのでしょう。いずれにしても継承されてきた作品群を鑑賞できる機会です。屏風に描かれた龍図が美術館や博物館で展示されても、写真が撮れませんので残念です。建仁寺から時空を広げる上で、もう一カ所、龍の居所をご紹介します。 2018.11.10それは、この三門に棲む龍です。 三門あるいは山門には様々な彫刻が施されていて、門に荘厳性を加えるとともに、邪気邪霊の排除という霊性防御の境界という側面もあるのかもしれません。 この三門で気づいたのは、この箇所に龍の透かし彫り彫刻が施されいることです。山門によっては様々な龍像が見られます。この領域を居所とする龍もご紹介したいと思います。ここまででいくつかの龍の棲息地が見いだされてきます。思いつきでの順番で挙げてみます。 1. 障壁画 襖絵、屏風(衝立と戸は記憶/記録にありません) 2. 天井画 一般の撮影が認められているか、禁止かはお寺の方針次第 3. 屋根瓦 4. お寺の山門、三門 5. 寺社の手水舎 誰でもが見慣れている龍の居場所:清水の注ぎ口 6. 石や金属を素材にして制作された龍の彫刻像等。灯籠の彫刻も含めます。 7. 寺社の建物(お堂、蔵など) 8. 絵画 様々な絵師/画家が描いていても、展覧会などではほとんど撮影禁止 9. 「龍/竜」という文字の形で石碑などに刻まれたもの今、連想できるのはこれくらいです。それでは時空を跨いで右往左往いたしましょう。つづく補遺建仁寺 ホームページ臨済宗黄檗宗各派本山 雲龍図 :「臨黄ネット」(臨済禅 黄檗禅 公式ネット)小泉淳作 公式ホームページ小泉淳作 :「NHKアーカイイブズ」狩野光信 :「コトバンク」狩野光信 :ウィキペディア堂本印象 :ウィキペディア京都府立堂本印象美術館 ホームページ信樂院 :「日野観光協会」高田敬輔 :ウィキペディア四天王寺 中心伽藍にある「瀧の井」 :「4travel.jp」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ
2024.01.03
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南総門を出て、東寄りに歩き石段を降りると、左端に案内標識が見えます。 この標識の箇所で左に回り込むと「裏参道」に入ります。緩やかな石段道を下ります。 「男山京都府歴史的自然環境保全地域 観察ポイント3」として「シジュウガラ」の案内板が参道の脇に設置されています。 参道の左(西)側に、「宝塔院(琴塔)跡」案内板が設置されています。本堂に東側に、平安時代中期の万寿年中(1024~1028)には建てられていて明治まであった天台密教系の仏塔があり、方形の二重の塔で天台宗の「大塔」の様式だったと言います。軒の四隅に琴がかけられていたので琴塔と呼ばれたそうです。明治の神仏分離令で撤去されたのち、基壇の中央に参道が通されたそうです。つまり、この写真はその基壇の位置から撮ったことになります。(案内板より) 左側には東総門に至る急な石段道が見えます。この石段道は立入禁止です。この石段の少し先、左側に手水所が設けてあります。今は石造水鉢を見るだけです。 その先が分岐点です。右方向矢印付き「展望台、ケーブルのりば」の案内板が見えます。ケーブルカーで来た人は、裏参道の最後の径路を上って本社に向かうことになるわけです。右側の裏参道に進みます。 道沿いに進むと、左側に広い空き地があり、「護国寺跡」案内板が設置されています。既にご紹介していますが、神託を得て八幡神をこの男山に遷座させた奈良大安寺の行教和尚が、それ以前からこの地にあった石清水寺を「護国寺」と改称させて、石清水八幡宮の神宮寺としました。本殿と一体となり、全山を取り仕切る役割を担わせたのです。発掘調査により、江戸時代の文化13年(1816)に建てられた本堂の礎石跡がみつかっているそうです。この寺も明治の初めに破却されました。(案内板より) 男山に一年中住む野鳥をイラスト入りで紹介した案内板が設置してあります。キシ(雄)を中央に、左上から時計回りに、ヒヨドリ、エナガ、ハシブトガラス、シジュウガラ、ムクドリ、キジバト、スズメが実物大で描かれています。道沿いに下って行くと、この分岐点に至ります。 左は裏参道。右が岩清水社、松花堂跡を経由して表参道に出る参道に別れます。まずは岩清水社・松花堂跡を探訪することにしました。 右側の参道を下り始めると、「中参道」の表示シートが取り付けてあります。裏参道と表参道を連結する参道が中参道と称されています。幾度かご紹介してきた「石清水八幡宮イラストマップ」には、中参道という表記はありません。 中参道を下って行きますと、「岩清水社」(摂社)が右(山)側に見えます。石段の右側の石灯籠の傍に社名を記した駒札が立っています。 石鳥居の先にあるのが、「石清水井」です。方形の井戸に、四隅が石柱、切妻屋根本瓦葺きの覆屋が設けてあります。 頭貫、虹梁など覆屋は極彩色です。 虹梁の上に、屋根を支える蟇股。植物文様が描かれています。虹梁の正面には、金龍像と雲が極彩色で描かれています。 頭貫や桁の描画彩色も見応えがあります。 円柱頭部の木組みとその描画彩色もご覧ください。 「石清水社」の御祭神は天之御中主神です。 石清水社の前方、谷側には「瀧本坊跡」と刻された石標が立ち、その右傍に「東谷 瀧本坊跡」案内板が設置されています。石標の先に踏み込むと、坊跡は参道に沿う形で奥へと広がっています。「江戸時代初期に『寛永の三筆』の一人と称された松花堂昭乗(ショウカドウショウジョウ)が住職をつとめた坊です。現代では『松花堂弁当』の由来として有名ですが、書画だけでなく茶の大成者でもありました。江戸城など幕府の数々の建築を手掛け、将軍の茶道師範でもあった小堀遠州は昭乗の親友で、この瀧本坊には遠州と共に造った茶室「閑雲軒(カンウンケン)」があり、詳しい絵図面も残されています。」(案内文一部転記)2010年の発掘調査では、南に客殿の礎石、北には漆喰作りの瓢箪型の池、東の崖の斜面に30m以上に渡る礎石の列が見つかったそうです。茶室の北に懸け造りの書院があったことがわかったそうです。「茶室『閑雲軒』は7mもの柱で支えられ、床面のほとんどが空中に迫り出した『空中茶室』ともいうべき構造であったことが判明しました」(案内文一部転記)石鳥居前の石段道を下ります。 石段下から石清水社を見上げた景色 斜面沿いの石段道を下ります。 参道が左に屈折する突き当たりに至ります。角地にある石段を上がると、 「史跡 松花堂およびその跡」と刻された石標と「東谷 泉坊跡」案内板が設置されています。 参道付近には、この案内板設置されています。「男山 京都府歴史的自然環境保全地域」(京都府)を示すものです。松花堂昭乗のことと建物について触れています。 泉坊跡の案内板のところから、南方向にはかなり広く開平されているようで道が続き、石垣もあります。たぶん数多くの坊跡が南方向に存在するのでしょう。 中参道沿いの一段高い所に石敷の小径があり、 その先へ歩むと「史跡 松花堂およびその跡」案内板が設置されています。 石敷道から南方向にこの跡地が広がっています。この跡地の平坦面は三段になっているそうです。そのうち南の二段が泉坊跡であることが調査により判明しています。(案内板より) 方形に鉄柵で囲まれた場所は「庭(露地)の遺構」。中露地主要部だそうです。この鉄柵の傍にも案内碑が設置されています。 銘板が見づらくなっていますが、上部に載るのがこの図です。「八幡泉坊松花堂真図(東博蔵)」写真トレース図(斜線は発掘検出部) 上掲「東谷 泉坊跡」案内板から切り出しました。この図の中央部分の一番上から、草庵(緑色方形の箇所)、露地の遺構(四角の枠の箇所)、泉坊の書院(黄色い長方形の箇所)です。右端の黄色方形の箇所は泉坊の本堂と表記されています。松花堂昭乗は「瀧本坊」の住職でしたが、引退後、泉坊に草庵を建て「松花堂」(茶室)と名付けました。草庵松花堂と書院は、今はここから約2km南にある「松花堂庭園」(八幡市女郎花)に移築されています。移築先のこの2ヵ所とここが「松花堂およびその跡地」として国の指定を受けています。昭和57・58年(1982-1983)に整備のための発掘調査が行われたそうです。なお、発掘された庭(露地)の遺構は、昭乗没後、江戸時代後期に作り直されているそうですが、「絵図にぴたりと一致するもので、現地に露出展示されています」(案内文より)イラストマップを見ますと、この松花堂跡から石段道を降れば、影清塚・大扉稲荷社前に出て表参道に入ります。私は松花堂跡前から中参道を上り直し、上掲の分岐点で右折して裏参道を降りました。つづく補遺石清水八幡宮 ホームページ天之御中主神 :ウィキペディア万物の根源を示すといわれる三柱 :「Discover Japan」 「天之御中主神」「高御産巣日神」「神産巣日神」松花堂庭園・美術館 ホームページ 松花堂昭乗物語 松花堂弁当発祥の地-松花堂昭乗と松花堂弁当-松花堂昭乗とは 茶文化 :「八幡市」草庵松花堂 :「八幡市」和歌散書花鳥図屏風 松花堂昭乗筆 :「文化遺産オンライン」松花堂昭乗筆書状 :「Keio Object Hub」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -2 表参道(七曲がり・大扉稲荷神社・坊跡ほか)へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -3 三ノ鳥居、表参道の左(西)側エリア へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -4 御羽車舎・社務所・手水舎・竈神殿ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -5 ジャンボ御神矢、本社(御社殿)の外観 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -6 本社周辺の摂社・末社と信長塀 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -8 裏参道を降る へ
2024.01.02
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今年もよろしくお願いします。お楽しみいただければ幸いです。今年は「辰年」。辰(たつ)は十二支の第五番目です。動物では竜とされています。そこで「たつ」と聞き、思い浮かべるのは「りゅう」(竜/龍)です。竜より龍の文字が私的な好みです・・・。ふと、なぜ「たつ」が「りゅう」なのか?手許の辞書を引きますと、「たつ」に「竜」をあてて「りゅう(竜)の和語的表現」と説明し、「辰」の字をあてて「十二支の第五。竜を表す」と説明しています。(『新明解国語辞典 第5版』三省堂) ナルホド、です。「たつ(竜)」の項目では、どの辞書でも、竜/龍が想像上の動物と説明しています。その説明の詳しさは辞書により様々。その点は、また後日触れましょう。この想像上の動物(龍)がどこにいるのか。その気になってみつめるといろんな所にいます。掲載写真には、探訪日時を付記しました。 2018.11.10まず、私好みの龍の筆頭はこの襖絵です。場所は建仁寺の方丈。京都市東山区に所在。 桃山時代に海北友松が描いた「雲龍図」です。ほかの場所にも龍がいますが、それはまた後日にご紹介します。 2017.11.21 これは瀧尾神社の拝殿天井にいる全長8mにも及ぶ木彫りの龍です。初めて見たときはその迫力に圧倒されました。 8540京の彫刻師九山新太郎作です。瀧尾神社の最寄り駅はJRあるいは京阪電車の「東福寺」駅です。 2015.5.10さて、東福寺からまずこの経堂にいる龍をご紹介します。 屋根の降棟の先端の鬼瓦を寺社探訪の折に撮るのが好きです。この経堂を見た時に、鬼ではなくて、龍が彫像されていることに驚嘆しました。この龍を見たのが瓦に棲息する龍を見た最初です。 鬼瓦にあらす龍瓦というのは、私の探訪経験では数カ所くらいです。これもまた龍の棲息地です。そして、龍にも異形の龍の領域があります。 2018.7.14祇園祭(前祭)の船鉾の舵の部分。ここに螺鈿細工で創作された「飛龍」が棲息しています。不可思議で魅力的な龍です。 舵のこの側面にも龍がいます!! 2023.7.16この舵が装着されている船鉾の懸装品である後懸にも龍がいます。 2018.7.14正面から捕らえた龍像です。船鉾には、他にも数多くの龍がいます。後日ご紹介。実は、祇園祭は龍がたくさんいる棲息地です。様々なところに龍が姿を見せています。これもまた、祇園祭のちょっとマニアックな楽しみかたになりますね。それでは、私の見聞範囲での龍の棲息地を時空を跨いで縦横に往来しましょう。ドラゴン・ワールドを少しずつ広げて行きたいと思います。お楽しみいただければうれしいです。つづく付記 記録として このブログ記事をまとめている時、石川県能登地方を震源とする地震が発生。 2024.1.1 16時10分頃 M7.6 石川県 震度7~4 宇治市は震度3
2024.01.01
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