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その2です。 他の場面も見てみよう。創世記の、ヤコブが天使(というかYHWH。これに関してはメタトロンであるとかガブリエルだったとかYHWHだったとか諸説あるが、ヘブライ語的にはエル、即ち「神」の名称が使われた事を記しておく)と戦って勝利した逸話を見てみよう。 ヤコブはYHWHと戦って勝利し、イスラエル(Israel:神に勝った者、神を組み伏せた者との意味)と言う名前を授かった。 ちょっと待て。なんかおかしくないか?自分にちょっとでも不忠義なヤツは情け容赦なく殺しちゃうYHWHが、こんな不名誉な名前を何故許したのだ?これは後述する当時の時代背景が謎を解く鍵になる。即ち、カナーンの神エルがYHWHと戦ってYHWH勝ったという事をを暗示する箇所でもあり、ヤコブがイスラエルという名前を得たのはYHWHがカナーンの神エルと同化した事を象徴する箇所でもあると言える。 エルという名前は地名や人名などにとても多く使われるようになった。例えばエリヤ(Elijah)は「神である」という意味であるし(ヤ、jahはYHWHの縮約である)、ヤコブがエサウから逃げる道すがらにYHWHの夢を見て、そこをベテル(Bethel:神の家)と名付けた逸話がある。 YHWHの場合、ことユダヤ教では「その名前をみだりに呼んではならない」と厳格に締め付けているのに、エルの場合は人名・地名はおろか、果てには「神に勝った者」という名前にまで広範囲に使われるようになった。そして、これがYHWHとエルの融合の証拠になりえるのである。 何故なら、現代のクリスチャン及びユダヤ民族を見てみよう。彼らは決して自らの民族や宗教的ルーツを語る際に「イスラヤ」とは言わずに「イスラエル」と言うのである。この「ヤ」と「エル」の違いは大きい。これを見ると、カナーン(patheon)の最高神エルとYHWHが程よく融合されたことが窺える。 その融合の理由としては、ユダヤ人のカナーン定着・定住が、カナーン族のエル教との同和・融合なくしては極めて困難であったから、と言える。これは、YHWH信仰がカナーン定着の過程で起こった他宗教との同和・一致運動の賜物であると言える。 旧約の序盤から始まった「神」に対する名称の混在は、モーゼ五経に対する四文書説(J,E,D,P資料)で分析すれば把握することが可能である。 即ち、モーゼ五経は4つの伝承によって成り立つが、色んな伝承がごちゃ混ぜになって今日の聖書という経典になったのである。(4資料説については今度詳しく述べる。待てない人は各自で調べるがよろしい) ここで20世紀の神学者、オルト氏(A. Alt)の研究を引用したい。(別にPCのAltキーとは無関係) オルトの研究によると、カナーン定着の過程において多くのユダヤ族長達がエル別称(El epithets)を共有し始めたという。旧約の文脈を見ると、初期のユダヤの「神々」は主に一般的神名(Generic Name)であるエルに説明句をつけた形で述べられている。(XXXエル、エルXXXなど) 例をいくつか挙げよう。多いので箇条書きになる事をご容赦頂きたい。 種族間同盟のエル別称(El epithets) ・エルシャダイ(Elshadai) 創世記17:1、28:3、35:11、43:14、48:3、出エジプト記6:3、エゼキエル11:5など ・エルエリオン(El Elyon) 創世記14:18~24など ・エルオラム(El Olam) 創世記21:33など ・エルロイ(El Roi) 創世記16:13など ・ベテル(El Bethel) 創世記31:13、35:7など これらの「神」を表すエルは、聖書の当該箇所を読めば分かるように山・川・木・石などの特定の場所と結びついている、いわゆる土地神・シャーマニズム的な要素を帯びている。 また、これだけではない。他にもエル別称(El epithets)は使われていた。それは、名も無き神々(Nameless Gods)がカナーンの定着の過程で、先祖や族長の名前をつけて登場した件である。 これも箇条書きで記そう。 ・アブラハムの神 創世記28:13、31:42、31:53など ・イサクの神、ヤコブの神、イサクを守った畏怖すべき神 創世記31:42、31:53など ・ヤコブの神 創世記49:24など これらには族長宗教(シャーマニズム)の傾向が強く現れている。この様な神の名称でわかることは、族長が崇拝している神は その族長の名前と関連付けて呼ぶ、という事である。 先述のエルが場所や物と関連付けされていたように、後述の方は族長に関連付けられていることが明白である。 このように、カナーンに定着した部族間でエル別称(El epithets)を共有することにより、徐々にYHWH崇拝がカナーンに浸透して行ったと見られる。 ※資料出展 [A. Alt / Essays on Old Testament History and Religion / Oxford: Basil Blackwell, 1966] 一先ずここまで。パート2は早めにUPします。 結構短く纏めたつもりでしたが、文字数の壁は厚いですね。今回の分で5000強。パート2も似たり寄ったりな字数で上がります。 なので 今回はByeは言いません。この話が全て完結して Vol.10に行くときに言いますw しばし待ってください。意外と執筆、大変なんです…裏付けやら証拠集めやら、それの吟味やら。 それをさらに要約して字にしてるので、時間がかかるのは諦めてくださいw 頭の中でヘブライ語と英語と日本語がゴチャゴチャしてますよ… 間にインターミッションといいましょうか、閑話休題と申しましょうか、いくつか気楽な日記も乗せますが、執筆は諦めたわけではないですのでw
Aug 3, 2013
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その1の続きです。 まずは「律法は廃止された」と主張する新約の個所から見てみよう。 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。(コロサイの信徒への手紙2:14~16) 他の箇所もいろいろ挙げてみよう。 律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。(ガラテヤの信徒への手紙3:10~11) なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。(ローマの信徒への手紙6:14) 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、(エペソの信徒への手紙2:15) その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。――律法が何一つ完全なものにしなかったからです――しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。(ヘブライ人への手紙7:18~19) 律法は「廃止された」という明確な個所である。 一方、律法は一点一画もなくならない、律法は守らなければならないという矛盾した個所もある。同じく新約から抽出してみよう。 わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。(マタイによる福音書5:17~19) モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。(ヨハネによる福音書7:19) しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。(ルカによる福音書16:17) 律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。(ヤコブの手紙 2:10) これはどういう事なのだろうか。 新約の中だけでも 律法をめぐり「廃止された」、「守らなければならない」と矛盾する意見を吐露しているではないか。 特に、キリスト教徒が神として崇めるイエスは律法に対して曖昧な立場をずっと取っていた。彼は弟子たちが安息日に麦を切り取って食べる事を許し、また安息日に病人を治したりしていた。その反面、上記で引用したように律法は一点一画も無くならず、忠実に守るようにも言っている。 福音書の中でイエスは律法に対して曖昧な立場を取っているが、無割礼・律法廃止を主張していた使徒パウロはその書簡の中で律法を否定し、信仰を重要視している。彼はユダヤ地域ではないヘラ地域に福音を伝える責を受けた使徒であり、この律法に関しての観念が元で他の「使徒」とは相争う様相を見せている。これらの対立が表面化したのは 後のキリスト教の方向性を指し示す結果ともなった、キリスト教の偉大なる権力闘争の始まりとなった「ニケア(ニカイア)公会」であるのは言うまでもない。 果たして、律法は守るべきなのか?それとも、守らずとも良いのだろうか? 「守らずとも良い」と主張する教派は前出の部分のみを引用し、「守らなければならない」と主張する教派は後述の部分のみを引用する傾向にある。 言い直せば、バイブルの中身とは 所詮「好きなように利用できる部分が満載の矛盾に溢れた都合のよい書物」に過ぎないのである。こういう点を悪用し、廃止されたはずの律法から上手に「十一献金」は抜き出して使うけれども、混織の服や豚肉などは「律法は廃止されている」としてまた上手に活用しているのが現代のクリスチャンに他ならない。 ゴミのような決まり事、人権無視な個所で満載のモーゼの律法。 そしてそれが廃止されたのか、はたまた守らねばならないのかという点でさえ好きに解釈できる内容の新約聖書… 日曜日によくマラキの箇所を引用して「十一献金をしない事は神のモノを盗むのと同義である」と力説されている牧師さんたちは、絶対トンカツとか食べないんでしょうね? 今日はここまで。毎回の事ながら、字数に苦労します… 文章力が足りないので 無駄な文面が多いという自覚だけはあります…平にご容赦のほどを。 さて 次回は、今回の中で扱ったものの一つ、「女性の人権を蹂躙する聖書」というタイトルでお届けしようと思います。 フェミニストな方とオレは相容れないと思いますけど、こればかりはフェミニストの方に読んで頂きたい。真の「平等」に向かう為に、ね。 それでは次のコラムの時間まで、C U Next time!! Bye~
Aug 3, 2013
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