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おはようございます。ブログ主でございます。 こんな放置ブログ誰も読んでないとばかり思ってました。そもそもmixiで書いてたのを、やがてmixiがつぶれても残せるようにしようと思ってコピペしたのが発端ですけれどもね。(そのmixiも数年放置している訳ですが…) 一体どういう方々がこんなしょーもないブログを読んでらっしゃるのか、書き手として非常なる疑問であります。多分ワタクシ並みの変人ぞろいではなかろうかと勝手に推測してますけれどもねw まぁ、なんというか、こんな駄文を飽きもせず読んでいただける方が居られると言うのは有難い事です。この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございます。 現在 執筆(続きの)などは一切しておりません。というか、膨大な資料の吟味を必要とする作業ですし、なかなか時間の都合が取れなくなったという事情がございます。ヘタしたら再開時には全く違う話から始まるかも、という危惧さえあります。まぁ、そもそも「相手の土俵で相手の主張を尊重しながら否定して行こう」というスタンスであるが故の検証や吟味、考察なのでありまして。単に「一神教って鬱陶しいよね」とか「宗教ってイマドキねぇ」と切り捨ててしまわないようにするのって、結構大変だったりするんですよね。いちいち資料を探し、字引を引き、同じ個所で違う表現は無いかと聖書自体の種類を変えたり、そりゃもうかなりの労力を使う作業でございます。見返りは全く以ってございませんけれどもねw なので、一度どこかで「うわっ面倒だ」と思って緊張の糸を切ると、続きが大変です。今まさにそのような状況でして。ええ。面倒でございます。何より、mixiの時もそうでしたが、突っ込んでくるクリスチャンの方々の読解力や理解力の低さ、そして全くもって理論的な論理展開できず何も立証せぬまま「OOなはずだ」とか「XXだ。理由は聖書に云々」とピヨピヨさえずられるのが面倒というか鬱陶しいと言いましょうか。同じ日本語でコミュニケーションをとっているのにも関わらず、言葉が通じない。そんなもどかしさ。リアルの世界よりも激しく馬鹿な言葉を平気で吐いて来る輩相手に、こちらだけいちいち資料を集め、それらを研究し、反証材料をそろえて提示しても、彼らはなーんにもせずとも暴論展開しっぱなしですしね。これ、マジで呆れるばかりです。うん。この辺も「どうせ書いてもなぁ…㋖な人いっぱい来るしなぁ…」と面倒がったのが現在に至る原因の一つにもありますねwww なんかだんだん愚痴っぽくなりましたね。相済みません。 まぁ、今朝こうして書いてみたのは、単なる気まぐれです。アクセスレポを見てみると、こんな寂れた放置ブログなのにここ一年やたらと見る人が増えて来てる。ずっと放置のままってのもなんだか申し訳ない。かと言って、今調べてたり吟味してる資料などない。前にやってた分のデータとノートはどっか行った。聖書も口語訳と中国語版がどこか行って見当たらない。買い直すのも面倒だ。そういう現状では真面目なブログUPなど出来ない。さて、どうしたものか…と思案した挙句、「よし、テキトーな事でも少しくっちゃべろう」と思っただけの事です。新しく何か書いたのか、レポート仕上がったのか、と思われた方には実に申し訳ない。それがいつになるのか、ワタクシにも見当つきません。 そんなに楽しい話題でもなく、面白い内容でもないのに、読まれてる方が居られるのは至極疑問でございますw宜しければこれからもご笑読ください。 最後に、ものすごく久しぶりにクリスチャンな方々に一言。 人に広める前に、まずあなた方が教理を全て理解しましょうね。自分でも分からない、理解しきってないモノを人に「真実だ」などと嘯いて吹聴して回る行為は詐欺に等しいですよ? それではまたいずれの日にか。C U Next time! Bye~!
May 25, 2018
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最近、キリスト教以外の一神教にも嫌悪感を覚えたりしますねw 宗教というモノをなんだと思ってるんでしょうかね。信仰心という錦の旗印の基に他人を卑下したりするのが昨今の宗教の限界点なのかも。 そんなのは宗教と呼んでいいのかすらわからん。 前置きはさておいて、今回は「青銅器時代にやっと登場した最初の人類アダム」について書いてみようと思います。 それではどうぞ。 まず、バイブルをお持ちの人はご自分のを用意して照らし合わせながら読む事をお勧めする。 今後のコラムは創世記の「神話」が如何に周辺諸国の神話の模倣であるかや創世記の非科学的な面を指摘して行こうと思っている。しかし、世の中にはなかなかどうして創世記の大洪水や天地創造という物語…英語で書いた方が意味が通じやすいかもしれない。「The story」を信じてやまない人々が多数存在する。 それらはバイブルの中に示されている出来事や年代記を以って考察しても、どうあがいても「神話・寓話」の範疇を脱し得ず、真理・真実であるとは到底考えられないようなモノである。考古学・生物学・天文学・地政学などはおろか、数々の古代遺跡などまで考慮すると創世記の話は文字通り「寓話」でしかないと言える。 創世記には最初の人類アダムからイサクまでの年代記が記されている。アダムは930歳まで生き、ノアは950歳まで生きた…とかの話だが、年代記を考察する上でこれらを全て足し算にするのは計算が狂ってくる。彼らの生存年数の多くの部分はその子孫との生存年数と重なる部分があるからだ。 子供をお持ちの方なら理解出来よう。仮にあなたに2歳の子供がいるとすると、その子供との「共存年数」と言うのが既に2年ある訳で、子供の年代記は2年前から始まっているのに対し、あなたの年代記はまだその終焉に至っていない。なので、年代記を考察する上では「何歳まで生きたか」というよりは「何歳に子供を産んだか」という点に注目する必要性がある。 非常に親切(?)な事に、創世記には彼らが何歳の時に子孫に恵まれたかについて言及されている。創世記5章のアダムからノアを見てみよう。 アダム(130歳の時セト)→セト(105歳の時エノシュ)→エノシュ(90歳の時ケナン)→ケナン(70歳の時マハラルエル)→マハラルエル(65歳の時イエレド)→イエレド(162歳の時エノク)→エノク(65歳の時メトシェラ)→メトシェラ(187歳の時レメク)→レメク(182歳の時にノア)→ノア(500歳の時にセム・ハム・ヤフェト) 最初の人類であるアダムからノアの子孫セムが生まれるまでは1556年かかっている。もう少し進めて創世記11章を見よう。そこにはセムからアブラハムまでの年代記が記されている。 セム(100歳の時アルパクシャド)→アルパクシャド(35歳の時シェラ)→シェラ(30歳の時エベル)→エベル(34歳の時ペレグ)→ペレグ(30歳の時レウ)→レウ(32歳の時セルグ)→セルグ(30歳の時ナホル)→ナホル(29歳の時テラ)→テラ(70歳の時アブラム、ナホル、ハラン) セムからアブラムー後のアブラハムーが生まれるまでは390年の歳月を要した。創世記21章ではアブラハムは100歳でイサクを儲けたと記されており、25章ではイサクは60歳でヤコブに恵まれたと記されている。30章にはヤコブがヨセフを儲けたと書かれているが、残念ながら年代は記されていない。 ここで問題点を見てみよう。以前言及したように、創世記にはアブラハムが飢饉から逃れるためにエジプトに移住してファラオ相手に美人局行為を働く場面が記されている。彼の曾孫ヨセフはエジプトのファラオの信頼を得てエジプトで定住する。今まで見て来たバイブルの資料をもとに考えると、人類が誕生してから凡そ1550年頃に大洪水で一部を除く生物が全滅し、その大洪水以降凡そ400年でアブラハムがエジプトに行きファラオと逢っている。実に荒唐無稽極まりない話である。小学校で習う世界史だけを以ってしても、この年代記が如何に話にならないかが理解出来よう。クリスチャンがいくら創造論者であり進化論の否定するとしても、大量の遺物や遺跡などの証拠が発見された旧石器時代、新石器時代、青銅器時代などまで否定する訳には行くまい。 何の事かピンと来ないクリスチャンの方々の為に、その点を考察して説明して行こうと思う。 ユダヤ人のエジプト移住はヒクソス(Hyksos)がエジプトを占領していたBC18世紀末からBC16世紀初頭のエジプト15~16王朝期というのが考古学・古代学の定説の一つである。それを基にしてもしなくても同じかもしれないが、ここで考えてみよう。 最初の人類アダムが登場してからアブラハムまでは1946年かかている。最初の人類が登場してから2000年で絶対君主制度を持つ「国家」が登場すると言うのはまずあり得ない。旧石器時代はそれらの「国家」という仕組みを持たず(村落形式の集落地は君主を持つ国家とは言えまい。それすら400万年前から3万年前までの数100万年続いた訳であり、その間にエジプトのような国家システムを持つモノは未だ確認されていない)、国家としての仕組みを人類がおぼろげながら確立するのは青銅器時代以降の話である。 それでさえ、アダムが登場してから1500年頃には世界はノア一家を残して全滅の憂き目に遭っている。そこから凡そ400年後にはエジプトという「国家体制」があり、アブラハムが嫁さんを使ってファラオ相手に美人局に及んだ事が記されている。人類抹殺レベルの大洪水からたった400年後に、絶対君主を持つ国家システムが確立しているとか、どこまでも詭弁や物語に過ぎないではないか。まずあり得ない。 BC1万5千年前後に新石器時代に移行し、それからだいぶ先のBC3100年頃になってやっとエジプト第1王朝時代が幕を開ける。ここで無茶苦茶な仮定をしてみよう。アブラハムがファラオに美人局を働いた時期がエジプト第1王朝時代だと仮定しよう(これはマジでクリスチャンに非常に懇意的過ぎる解釈に基づく無茶苦茶な仮定であるw)。その無茶苦茶な仮定においてさえ、最初の人類アダムの登場よりはるか以前に旧石器はおろか新石器時代の人類が土器を精製していたと言う非常におかしい年代記になるではないか。新石器時代の人間が粘土で土器を作っていた時に、YHWHは同じく粘土遊びでアダムを作っていたとでも言うつもりなのだろうか。 そもそもアブラハムのエジプト移住を第1王朝だとした事自体がキリスト教に対する最大の譲歩に近い。その計算に基づくと、以後の全ての出来事にシャレにならない歴史的空白が出来る事をも無視しての譲歩なのだ。 以後の出来事に焦点を合わせるとこうなってしまう。仮にアブラハムの曾孫ヨセフがエジプトに移住したのをBC18世紀~16世紀だと推定したら、新石器時代が終わり青銅器時代が始まった頃に「最初の人類アダム」が誕生したと言う計算になる。ヒクソスがエジプトを占領したとされる時期を基準に考察しても、アダムは青銅器時代の初期に当たる純銅器時代に登場した事になる。イエスに焦点を合わせてエジプト移住をBC16世紀としたら、アダムは完全に青銅器時代の真っただ中に登場した計算になるのだ。 人類が青銅で剣などを制作していた時に、YHWHは粘土遊びでアダムを作っていたと言う事なのだろうか。 バイブルで把握できる人類の歴史は約6000年に過ぎない。古代の語り部にとってはそれは想像もつかない程の悠久な時の流れかもしれないが、現代においてはそれよりも遥かな時間の観念が存在する。 こんなことを言ったらクリスチャンの中では稀に「創世記の時の流れは今と違う可能性が云々」とキチ●イばりの強弁をやらかす輩が存在する。どうか正気に戻って頂きたい。創世記の登場人物が900歳まで生きたり、500歳で子を儲けたりとかの寓話もまず生物学的にもありえない話だが、オレはそのあり得ない前提を全て肯定した上で年代計算をやってみたが結局は矛盾した話にしかならないと言うのを立証した。 その当時の1年は今の1年と違うと言いたいのか?その当時は地球の自転速度が異様に早かったとでも?それだと仮定しても、それはバイブルに登場する人物のみに適用される事では無いので結果は何一つ変わり映えしない。 そんな主張をする位なら、いっその事創世記を新しく編集して書きなおした方が説得力があろう。創世記に出て来るアダムの子孫の数を膨大に増やしたり、彼らの寿命や子孫を儲けた時期を膨大に増やした方が辻褄が合うではないか。 今日はここまで。てか、実に当たり前な話なんだけれどもね。 彼らの主張を基に考察してもてんで話になりはしない。そういう話を骨の髄まで信じ込んでいるのがクリスチャンとしか言いようがない訳で。 「親指姫は実存した」とか「ドラゴンボールは本当にあって、7つ集めると本当にどんな願いも叶えてくれる」と信じている人に対してみんなどういう反応を示すのだろうかねwそれらと同様であるとしか言えないよね。 さて、次は「ユダヤ民族の起源」についてお送りしましょう。 一体どこから「ユダヤ民族」が始まったのか、その始祖や起源はどこからなのか、本当に牧師などが言うようにアブラハムがそれらの起源なのかについて歴史学・考古学的な視点で探って行こうと思います。 なので、ちょいとバイブルとは離れた記述が多いかもねwまぁ、気にしないで軽~ぅく!読みましょうww それでは次の時間まで C U Next time! Bye~
Sep 9, 2013
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その1からの続きです。 3.良心を捨て、バイブルを悪用する現代の牧師達 上で言及したように申命記では十一献金は3年に一度、それも社会的弱者を救済するような性質を帯びていると言える。ラマダンの施しにその現代版を見る事が出来よう。 しかし、今日びキリスト教会に蔓延している十一献金はどうなのだろうか。3年に一度はおろか、1年365日ずーっと強要される様な性質のモノで、申命記の言葉の範疇を大幅に逸脱した非バイブル的システムではないか。 それに、吸い上げた献金は社会奉仕などに使われない。教会の建築、設備購入、牧師の給与、教会運営費にほぼ全てを費やし、社会救済活動などには徴収した十一献金総額の十分の一も使ってないのが実情ではないか。 とあるプロテスタントの団体は総収入の10%を社会奉仕活動につぎ込んでいると主張しているが、それらのウチ「純粋な社会奉仕活動」はどれ程の割合なのかと問いたい。彼らがやっている事は宣教・宣伝活動の一環としか言いようがないではないか。 一言で言えば弱者などは後回し。教勢拡張・維持しか興味が無く、それらに収入のほぼ全てがつぎ込まれている。 さらに問題視せねばならないのはクリスチャンが持つ特有の偽善性であろう。根本的に旧約の律法など、現代においては守る事が不可能に近い事柄だらけである。オレは今まで幾つかそれらを述べて来た。 それらの「守ろうにも守れないほどのおかしな律法」についてクリスチャンに尋ねると、決まって「それらは既に廃止されている。イエスキリスト以降は新しい約束として新約が(以下略」とのたまう。その律法が廃止されたか否かについてはだいぶ前に述べたのでここではそれ自体の言及は控えておくとしよう。 しかし、それならばクリスチャンの主張通り旧約の律法は廃止されているのに、何故十一献金は廃止されずに存続しているのだろうか。ここでクリスチャンがよく「新約以降も十一献金が存続して良い」と主張する論拠になっている個所を見てみることとしよう。 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。(マタイの福音書23:23~24) マタイの福音では、イエスは十一献金を否定していない。しかし、文面をよくよく吟味すれば分かる通り、イエスは十一献金をぶよに、正義や慈悲・誠実をらくだに比喩しており、ぶよのように小さな十一献金は濾してるがらくだのように大きな正義・慈悲・誠実は度外視していると律法学者やパリサイ人を非難している。 これらのバイブルの箇所を自分に都合よく利用する人々をクリスチャン自身は何と言うだろうか。そう、「異端」である。そもそも、バイブルを悪用すれば十一献金はおろか、全財産を捧げよと強要する事も可能なのだ。その箇所も見てみよう。 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。(使徒言行録4:32) これを見ると、いわゆる「初代教会」の人々は全財産を預け、共同で使うと言う「共同体的生活」をしていたのが見て取れる。現代においても全財産を献納させて共同生活を送らせる「異端」や「新興宗教」がやたらと多いが、バイブル的に言えばそれらの「怪しい宗教団体の人々の生活」はキリスト教の「初代教会信者」の生活とほぼ同一である。 また、ルカによる福音書21:1~4では、イエスは全財産をささげたやもめを褒めている。マタイによる福音書10:34~39やルカによる福音書12:49~53では、イエスは家族は対立すべき敵であり、親・家族・全財産を捨てて自分に従うように言っている。 昨今のニュースで「おかしな新興宗教の闇」がしばしば話題になったりする。オウム事件以来、これらの集団生活を強いる宗教は危険である、という認識が社会に広まっているからである。ちょっと古い話で言えば人民寺院事件などもそうであると言える。 しかし、これらの「危険な新興宗教」や「おかしな異端宗派」がやらかしている事は、上記で挙げたイエスの教えに最も従っていると言えるのではないのだろうか。 バイブルを悪用すればいくらでも、家族や財産を捨てさせる事は可能でありその名分もある。正常な思考を持つ人間にとっては、いくらイエスなる人物が偉大であっても、そのような事が正しくないという事は明白に理解出来ると思う。イエスの言う通りに全財産を教会に献金し、家族をも捨てて狂信する人が周りに居たらきっとみんな制止するだろう。 ちょっと余談が過ぎた気もするのでそろそろ十一献金についての結論を下して見ようと思う。 十一献金は政教一致時代であったイスラエル共同体での税金的存在でしかない。今日のクリスチャンは国民として国家に税金を納付し、また教会にも消費税の倍額を納付している格好に過ぎない。それに、十一献金以外の…例えば宣教献金とか、建築献金などなどの献金はその聖書的根拠すら無い。 十一献金という代物は中世以降歴史から消え去り、アメリカのペンテゴステで20世紀初頭に復活したがほぼペンテゴステのみで行われ、他の宗派や欧州には波及していない。ペンテゴステ自体がそもそも矛盾した神秘主義と現世的帰福信仰を強調する集団であるが…。 このペンテゴステから始まった「聖霊運動」が主にアジア諸国のプロテスタント(アメリカの影響力が強い地域)に拡散し、シャーマニズムや迷信に近い様な聖霊体験主義、十一献金、現世主義的な帰福信仰などがいろんなプロテスタント教派に浸透してしまった訳である。簡単に言えば、ペンテゴステの教理はお金が儲かる、ヨダレが出ちまう教理であり、金に目が眩んだ牧師や新興宗教団体の詐欺師紛いの輩が教派を超えてこぞって取り込んで行った訳である。 十一献金を信仰生活の必須条件だと主張するのは一種の恐喝であり、旧約の他の律法は全部さし置いて十一献金のみを主張するのは欺瞞・偽善であるとしか言いようがない。 16世紀、カトリックは豪華絢爛な聖ペテロ聖堂を建てる為に免罪符発売を強行し、それが原因で宗教改革が起こりプロテスタントが生まれた。 しかし、ペンテゴステあ自慢するメガ・チャーチはカトリックの聖堂よりよっぽど豪華絢爛である。教勢拡張やその維持だけを念頭に、十一献金などを強要する昨今のプロテスタントは16世紀の腐敗しきったカトリックと同様であると言える。 最後に、十一献金の必要性について力説しそうな牧師やクリスチャン達に、バイブルの有り難いお言葉を一つ送るとしよう。 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。(マルコによる福音書10:21~22 同様の箇所がマタイ19:21~22にもあるのでそちらでも可) バイブルの一か所を都合よく取り出して十一献金を正当化する牧師は、自分が進行しているイエスの言に従い全財産を全てホームレス等に分け与え、公園でテントでも張って期限切れのコンビニ弁当でも食べればいい。それがイエスの教えではないか。そういうのが出来ないのであれば、クリスチャンや牧師は自分の私利私欲を満たす為に都合のよい聖書箇所のみを悪用する邪悪な集団だとしか言いようがない。 今回はここまで。言いたい事はもっとあるんですけれどもね、しんどくてw 次からは旧約からバイブルの虚構をついて行って見ようと思います。題して「青銅器時代にやっと登場した最初の人類アダム」。 そもそもね、バイブルの中身が歴史的事実とか言ってのけるバカがいるけれどもね。バイブル自体がバビロニア以降に書かれた代物だろうに。 それ以前とされているバイブル(旧約)の話にしても、バビロン神話や他の口伝が元であるしね。 考古学の研究で明らかになって行く歴史の事実はバイブルの事実性に対して沈黙の一途だよね。出エジプト記なんて、エジプトにも周辺の中東諸国どこの文献にも存在しないしね。 ユダヤ民族がエジプトに移住していた事実は記録されているけれども、それはアピルと呼ばれる流牧民の集団であり、単一祖先(アブラハム)を持つ一つの民族・種族ではない事が記されてるしね。 でも、こういうのに対して牧師は沈黙するよね。 そして、さもバイブルに書かれている事が真実・史実であるかの如く信者を教育・洗脳している訳で。 で、そのアホらしい「作られし神話」を事実・真実・史実だと信じちゃった素敵な頭脳を持つクリスチャンが、「日本神話は虚構」とか言ってのけるからもう笑える訳で。 その辺をも含めて、バイブルの虚構を探って行こうと思います。お楽しみに! それではまた次の時間まで、C U Next time! Bye~
Aug 6, 2013
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はてさて、と。ブログへの移転も何とか終わりましたが、字数制限や表現制限のおかげで、最初の寄稿はやはりmixiからになりそうです…w バックナンバーのような活用法になるとは思いますけれども、良ければブログの方もご笑読頂けると幸いです。 そちらのURLも載せておきますね。 http://plaza.rakuten.co.jp/atheistsho/ さて、今回は「ゴミの中から拾った財宝」という題でお届けします。 それではどうぞ。 いろんな所で賛否両論あるモノの一つに、十一献金(tithe)が挙げられる。 この十一献金というのが主流になっているのはアメリカを主体としているペンテゴステが一番だが、他の宗派でも結構見受けられる。もっとも、プロテスタントであっても欧州ではほぼ見かけられない制度である。 クリスチャンは基本的には他の教派を「異端」と罵るのが大好きであるが、面白い事にこの「十一献金」制度だけは、その異端視される教派のモノを採択したがっているor採択しているという点に尽きる。 例えばエホバの証人。彼らが命をかけて旧約の律法を遵守しようとする姿は時に大いなる批判を呼ぶし、無論「異端」と罵られてたりもする。しかし、他の律法は兎も角、十一献金だけは右に倣えで採択している一部プロテスタントの卑怯極まりない欺瞞には反吐が出る思いである。 今までも少し述べて来たが、旧約の律法と言うモノは現代においてはゴミ同様の代物である。しかし、そのゴミの山を漁って回る不届き者が存在する。 ゴミの中で何か「再活用」出来そうなモノは無いかと探しまわる牧師が居り、そのゴミを宝物だと錯覚し後生大事に拾い集める狂信者がいる。 努力は報われるのであろう。牧師達はゴミの中からついに宝物を発見するに至る。それが「十一献金」である。 今回はパートを分けて書いてみようと思う。 1.バイブルの中での十一献金 十一献金の起源はそもそも何か、と言えばアブラハムがメルギセデクに分け与えた十分の一を起源として挙げられると思う。しかし、アブラハムの「十一献金」は昨今の牧師が言うようにYHWHに捧げたモノでは無く(十一献金を神のモノ扱い)、メルギセデクに与えている。 ここで、本格的に十一献金についての箇所を見てみよう。十一献金について、旧約は二通りの異なる見解を示している。 三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたのうちに嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい。そうすれば、あなたの行うすべての手の業について、あなたの神、主はあなたを祝福するであろう。(申命記14:28~29) また他の箇所も見てみよう。 そして祭壇に進み出て、それらの物をアロンの子孫である祭司たちに差し出し、穀物、ぶどう酒、オリーブ油、ざくろ、いちじくおよび他の果物の十分の一を、エルサレムで仕えているレビの子孫たちに与えた。別の十分の一を六年分金に換えて取って置き、毎年エルサレムに行って使うのであった。また三年ごとにはその金を孤児、寡婦、およびイスラエルの仲間に加わった改宗者たちに持って行って与え、モーセの律法が定めている規定に従って、共に食事をした。それはまた、祖父ハナニエルの母デボラが命じた掟でもあった。というのは、父が死に、わたしは孤児となっていたからである。(トビト記1:7~8) トビト記は肝心のプロテスタントが一切バイブルとして認めてはいないが、カトリックや正教会では認めているので敢えて載せる事にした。 さて、これらの箇所を見ると、十一献金は3年に一度の制度であり、それらはレビの子孫だけではなく孤児や寡婦などの社会的弱者にも分け与えるように示している。 その一方で、民数記では十一献金はレビ人のみに与えられる特権として出て来る。 主はアロンに言われた。「あなたはイスラエルの人々の土地のうちに嗣業の土地を持ってはならない。彼らの間にあなたの割り当てはない。わたしが、イスラエルの人々の中であなたの受けるべき割り当てであり、嗣業である。見よ、わたしは、イスラエルでささげられるすべての十分の一をレビの子らの嗣業として与える。これは、彼らが臨在の幕屋の作業をする報酬である。従って、イスラエルの人々はもはや臨在の幕屋に近づいてはならない。罪を犯して死を招くことのないためである。レビ人のみが臨在の幕屋の作業をし、その罪責を負わねばならない。これは、代々にわたって守るべき不変の定めである。彼らは、イスラエルの人々の間では嗣業の土地を持ってはならない。わたしは、イスラエルの人々が主にささげる献納物の十分の一をレビ人に彼らの嗣業として与えるからである。それゆえ、わたしは彼らに、イスラエルの人々の間では嗣業の土地を持ってはならない、と言ったのである。」(民数記18:20~24) 申命記では十一献金は貧困に喘ぐ社会的弱者への一種の救済措置のように描かれているが、民数記では一種の税金的要素を孕む「報酬」として規定されている。税金的要素と言ったのには訳がある。当時のイスラエル共同体の社会運営上、祭司やレビ人は現代で言う行政事務、教育、司法、裁判、医療までをも担当する「国家公務員」的な仕事を遂行していた。そして宗教的な祭事なども担当していた。政教一致時代であった事を鑑みると、当時のイスラエル共同体では十一献金は「税金」の性質を強く帯びていたと言える。 ”聖書は無謬であるので十一献金は守らねばならない”等と嘯く牧師が稀にいるが、その御大層なバイブルには上記(申命記)に記された通り「3年に一度」となっている。民数記ではそもそも税金扱いである。 にもかかわらず、1年365日全ての収入の十分の一を強要するのは、金に目が眩んだ牧師の戯言としか言いようが無かろう。 2.イスラエル共同体以外での十一献金の歴史 その後の十一献金はキリスト教の栄えた西欧で流行った献金であるが、6世紀以降は少しずつ教会がこれを主導もしくは強要する動きが出て来るようになった。8世紀のカロリング王朝のピピンとカール大帝はもはやこれを義務と制定するに至る訳である。特に10世紀に大流行した私有教会制を利用した世俗領主達は領民からの十一献金を税金的に扱い、それを私有するに至る。 教会は1078年のラテラン公会議や1179年のグレゴリウスの教会制度改革を通じて、これら領主に流れる「旨み」を奪還しようとしたが失敗に終わり、それらのほとんどは相変わらず領主の懐に入って行った。対策としては、せいぜい小教区の司祭がその生活維持や教会の維持の名目で、穀物・ワイン・家畜・飼料(ここまで大十一献金)・亜麻・家禽・野菜(ここまで小十一献金)・開墾地(新十一献金)を付与し、領主に求めるに過ぎなかった。 それすらろくな収入にはならなかった。フランスを例にとると、実際は1/14や1/15でしか無く、領主が誤魔化していた部分が多いと言える。それらですらアンシャン・レジームの末期では民衆の不平や非難の対象になり、1789~90年のフランス革命の折に廃止の憂き目に遭っている。イギリスでは1688年に、ドイツでは1807年に十一献金は廃止されている。 バイブルでの十一献金は税金の性質を帯びており、中世ヨーロッパでも十一献金は領主への税金という指向性が強かった。そして、それらは廃止された。 そのように歴史の彼方に消えて行った十一献金を、アメリカの清教徒達が復活させてしまって今日に至る。ご存じの通り、アメリカを建国したのは迫害を逃れて新天地を探し求めた清教徒達であり、今は数は非常に減ったモノの、ちょっと前まででもアメリカは原理主義的クリスチャンの天国であった。WW2やそれ以前のアメリカ宣教師の影響を強く受ける日本では、これらの妙な原理主義が未だに横行しているのが実情だと言えよう。 1900年代にアメリカ・カンザスで始まった聖霊運動に根を置くペンテゴステ派により十一献金は劇的な復活を遂げる。特にこのペンテゴステは異言や聖霊治療などを仄めかす迷信的・帰福信仰的宗派で、徹底的に十一献金やその他の献金を強要している。よく”十一献金(or一般献金)を捧げないのは神様のモノを盗む行為である”というメッセージを飛ばす牧師も見受けられる。 ペンテゴステに限った事ではないが、これらの宗派は迷信的な聖霊運動を非常に強調し、現世的な帰福信仰(祈れば神様が満たして下さるetc)をしきりに強調する特徴がある。これらの話がどれほどおかしくて危険なのかは明白だが、欲に目が眩んだ牧師は我先に十一献金を採択している。さらには無根拠な聖霊運動なるものまでをも採択し、信者の目を曇らせ、洗脳に勤しんでいる…としか言えないような牧師が非常に多いのが現状である。 mixiは一発で書けたのに、やっぱこっちだと字数制限かかるんですね…wその2へ続きます。
Aug 6, 2013
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えらい長い事開けたので、何を書いたらいいのかも忘れちゃいましたw 前に書いた様な気もするんだけどな…と思いつつ、書き記して行こうと思います。 今回は「エロとシ●ブの経典・雅歌」という題でお届けしようと思います。 それではどうぞ。 旧約聖書の中でも雅歌はキリスト教特有の権威主義的な要素が少なく、どちらかと言えば二流官能小説のような所が多い。よって、牧師や神父は雅歌をメッセージにほぼ使わないのだ。なんせ「性」というモノをやたらと罪悪視している教理なのだから。 たまに、雅歌の官能的な表現は深い比喩的表現であると強弁するクリスチャンもいたりするが、そんな自己都合のみに始終した詭弁など話になるまい。 ここで、とあるキリスト書籍から雅歌について書かれている部分を一つ紹介してみよう。 「八つの章からなる雅歌は旧約の中で最も大きな論争を引き起こす章の一つである。これは根本的に雅歌の旧約の中で役割や存在の意味に関連していると言える。この愛の詩(または恋愛詩集)は旧約の中で一体どのような意味合いを持ち、何の役割を果たしているのだろうか。雅歌はとても官能的な表現に満ち満ちている。神や信仰、或いは愛の倫理的意味や愛の結晶である出産という事には全く触れず、ただ肉体的美しさのみに専念している。その中にはユダヤ以外の民族の恋愛詩集で見られる形態や異教の神話の模倣も多々見受けられる。さらには解釈の為の明確な鍵は一つも提供されてはいない」(社団法人韓国カトリック中央協議会著 ”雅歌入門”より抜粋) クリスチャンですらあまり読まないし引用もしない経典。今からその雅歌を見てみようと思うが、内容は全て「ソッチ系」なので、分かり易い部分のみを幾つか抽出してみようと思う。尚、新改訳だけではピンとこない部分もあろうと思うので、今回は口語訳も同じ個所を載せてみようと思う。 乳●は二匹の小鹿。ゆりに囲まれ草をはむ双子のかもしか。(新改訳) あなたの両乳ぶさは、かもしかの二子である二匹の子じかが、ゆりの花の中に草を食べているようだ。(口語訳。共に雅歌4:5) 衣を脱いでしまったのに、どうしてまた着られましょう。足を洗ってしまったのに、どうしてまた汚せましょう。(新改訳) わたしはすでに着物を脱いだ、どうしてまた着られようか。すでに足を洗った、どうしてまた、よごせようか。(口語訳、共に雅歌5:3) エ●チやる気マンマン。「脱いだのだから~」だとさ。 他の箇所も見てみよう。 気高いおとめよ、サンダルをはいたあなたの足は美しい。ふっくらとしたももは、たくみの手に磨かれた彫り物。秘められたところは丸い杯、かぐわしい酒に満ちている。腹はゆりに囲まれた小麦の山。乳房は二匹の子鹿、双子のかもしか。(新改訳、雅歌7:2~4) 女王のような娘よ、あなたの足は、くつの中にあって、なんと麗しいことであろう。あなたのももは、まろやかで、玉のごとく、名人の手のわざのようだ。あなたのほぞは、混ぜたぶどう酒を欠くことのない丸い杯のごとく、あなたの腹は、ゆりの花で囲まれた山盛りの麦のようだ。あなたの両乳ぶさは、かもしかの二子である二匹の子じかのようだ。(口語訳。こちらは7:1~3) あなたの立ち姿はなつめやし、●房はその実の房。なつめやしの木に登り、甘い実の房をつかんでみたい。わたしの願いは、ぶどうの房のようなあなたの乳房、りんごの香りのようなあなたの息。(新改訳、雅歌7:8~9) あなたはなつめやしの木のように威厳があり、あなたの乳ぶさはそのふさのようだ。わたしは言う、「このなつめやしの木にのぼり、その枝に取りつこう。どうか、あなたの乳ぶさが、ぶどうのふさのごとく、あなたの息のにおいがりんごのごとく(口語訳、こちらは7:7~8) お客さん、随分溜まってますねぇ。(謎) 雅歌はこのように、女性の肉体を欲する個所で満載なのだ。 今度はちょいと目先を変えてみよう。 恋なすは香り、そのみごとな実が戸口に並んでいます。新しい実も、古い実も、恋しい人よ、あなたのために取っておきました。(新改訳、雅歌7:14) 恋なすは、かおりを放ち、もろもろの良きくだものは、新しいのも古いのも、共にわたしたちの戸の上にある。わが愛する者よ、わたしはこれをあなたのためにたくわえました。(口語訳、こちらは7:13) さて、なかなか馴染みのない名前が出て来た。「恋なす」。 KJVを見るとmandrakeと書いている。マンドラゴラの異名を持つ植物である。 分かり易い事にこの植物は毒性を持ちながらも麻●効果を望める代物。 現に聖書ではその様な使われ方(麻薬・催●剤)をされていたことが表記されている。そこの箇所もついでなのでご紹介しておこう。 小麦の刈り入れのころ、ルベンは野原で恋なすびを見つけ、母レアのところへ持って来た。ラケルがレアに、「あなたの子供が取って来た恋なすびをわたしに分けてください」と言うと、レアは言った。「あなたは、わたしの夫を取っただけでは気が済まず、わたしの息子の恋なすびまで取ろうとするのですか。」「それでは、あなたの子供の恋なすびの代わりに、今夜あの人があなたと床を共にするようにしましょう」とラケルは答えた。夕方になり、ヤコブが野原から帰って来ると、レアは出迎えて言った。「あなたはわたしのところに来なければなりません。わたしは、息子の恋なすびであなたを雇ったのですから。」その夜、ヤコブはレアと寝た。(創世記30:14~16) 70年代のヒッピーかよ…と思えるような話がビシバシ。 かといえば、もう少し背徳的な描写もある。まぁ、これは今まで紹介してきた中でも数回触れている、聖書お得意の近親●姦チックなお話。 あなたが、わたしの母の乳房を吸った、本当の兄だと思う人なら、わたしをとがめたりはしないでしょう。外であなたにお会いして、くちづけするわたしを見ても。(新改訳) どうか、あなたは、わが母の乳ぶさを吸った、わが兄弟のようになってください。わたしがそとであなたに会うとき、あなたに口づけしても、だれもわたしをいやしめないでしょう。(口語訳、雅歌8:1) 兄妹同士でキスするのが一般的というのは、儒教的倫理観を持ち合わせている我々からすればなかなか理解し難い部分だと言える。むしろ他人の方が…と思うが、どうもそういう流れでは無いのがバイブル。 その一方では、笑いしか起きないような箇所もあったりするのだ。 わたしたちの妹は幼くて、乳房はまだない。この妹が求愛されたら、どうすればよいのか。(新改訳) わたしたちに小さい妹がある、まだ乳ぶさがない。わたしたちの妹に縁談のある日には、彼女のために何をしてやろうか。(口語訳、雅歌8:8) 新改訳だけを見ると「何の心配してんねんww」と笑えるが、口語訳を見るとこれは笑えない事だと言う事に気付かされる。妹に何をするつもりなのか。 しかし、次に紹介する場面は表現が猟奇的すぎて、もはや病んでるのか?と疑いを持ってしまう様な意味不明な個所である。 わたしは城壁、わたしの乳●は二つの塔。あの人の目には、もう満足を与えるものと見えています。(新改訳) わたしは城壁、わたしの乳ぶさは、やぐらのようでありました。それでわたしは彼の目には、平和をもたらす者のようでありました。(口語訳、雅歌8:10) シュール過ぎて何とも言えません… 今回はほぼ紹介と突っ込みだけに始終してしまった感がある。 しかし、他に言いようのない箇所が雅歌なのだ。 エロと薬物と不道徳の書物。これらが本当に「聖なる書物」という呼ばれ方でいいのか、オレには到底疑問である。 このように、牧師や神父が触れない旧約の箇所には面白い部分が満載である。権威主義に溺れている現代クリスチャンには衝撃的かもしれないが。 今回はここまで。いやぁ、短いですねぇww 次はもう少し真面目に私論を述べる事にします。題して「ゴミの中から拾った財宝」とでもしておきましょうかw 少しだけスポイルしておくと、十一献金に関しての話をして見ようかと。 これは現在世界のキリスト教の主流では無いのですけれどもね。一度全面廃止になったモノを、20世紀にペンテゴステ派が復活させて、主にペンテゴステで行われている事で他の教派では稀なのですけれどもね。 実際、欧州や米国などでも一部の教派以外は行ってないのですがね。ペンテゴステ以外でも採用している所は幾つかありますね。 さて、何故このようなモノがあるのか、何故現代においてこのようなモノが復活しているのかについて深く切り込んでみようと思います。 あ、あと余談ですが… 近々、このコラムだけはmixi以外のブログに移すかもしれません。メッセージで「過去のを読みたいけれども探すのが困難」というのを承っておりまして。 (それが今ご覧になられている、ここですw)だからと言ってmixiで打ち切り、という事は致しませんw多分先にこっちから書くと思います。 それでは次の時間まで C U Next Time!! Bye~
Aug 3, 2013
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新年一発目の疑問発掘の時間がやってまいりました。 さて皆様、手元にバイブルのご用意はよろしいのでしょうかね? 今回お届けするのは「クリスチャンが知らない二つ目の十戒」について。 「え?十戒って二つあるの?」と思われる方が居られるかも知れないけれども、実はそうなんですよ。えぇ。 バイブルを深く読めば一発で気付く問題ですけれども、クリスチャンはこれを気にも止めませんね。 それでは始めましょうかね。 クリスチャンが認知している十戒…というか、一般的に「十戒」として知られているモノは出エジプト20章に初めて登場し、申命記5章でも確認できる。 しかし、プロテスタント・カトリック・ユダヤなど、諸派によっては主張する十戒が微妙に異なったりもする。 中身がほぼ同じモノではあるものの、順番が違ってたり、あるいは内容そのものが若干ニュアンスが違ったりするモノがあるのだ。 その原因を考えると、一つは訳の問題もあり、また十戒そのものが「第一戒は何何である、第二戒は何何である…」と言った様な表記じゃないのにも起因する話でもあると思う。 よって、かなり極論的に言えば十戒は分類や訳によっては11戒にもなり得るし12戒とも分類出来ちゃう。(そもそもバイブルの章と節の区分自体が便宜上の問題で中世に定められたと言う点を考慮すべし) しかし上記3宗教が「十戒」という言葉を使っているのは、出エジプトで「10の戒律が与えられた」と書かれているからである。YHWHは十戒をモーゼに与えた後に律法を与えている。 しかしここで大きな問題がある。 最初の十戒をモーゼがYHWHから有り難く頂戴している時に、肝心のイスラエルの民は金の子牛を崇拝していたのだ。 それを目撃したモーゼは持ち前の短気さを遺憾なく発揮し、なんとYHWHから頂戴した戒律を記したものをぶっ壊し、それでも飽き足らずに同族を三千人ぶっ殺しちゃう。 そしてモーゼはYHWHに「もう一度」十戒を頂戴する訳である。 YHWHもその場面を先刻承知だったようで、このようにモーゼに語りかけている。主はモーセに言われた。「前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう。」(出エジプト記34:1) しかし、ここで本題。 YHWHは確実に「前に書かれていた言葉を記そう」と言っている訳で。 これは何をどう考えても、出エジプト20章のモノと「全く同一」のモノを再び与えよう、という話であると言えるのだが… 続きの34章を読めば、クリスチャンが知っている「十戒」とはかけ離れたモノが記されているのである。 詳しくはバイブルを参照して頂きたい。長文なので、オレが個人的に「二度目の十戒」を要約しここに書き記して見る。 1.アモリ人、カナン人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人とは契約を結んではならないし、彼らの祭壇を引き倒し、石柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒しなさい。姦淫になるので結婚もしてはならない。 2.ほかの神を拝んではならない 3.鋳像の神々を造ってはならない(偶像崇拝をしてはいけない) 4.除酵祭を守りなさい(現代で言う過越ですね) 4.初めに胎を開くものはすべてささげろ(何も持たずに、わたしの前に出てはならない) 5.安息日を守れ 7.小麦の収穫の初穂の時に七週祭を、年の終わりに取り入れの祭りを祝いなさい8.年に三度、男子はすべてYHWHの前に出ねばならない 9.YHWHにささげるいけにえの血を、酵母を入れたパンと共にささげてはならない。過越祭のいけにえは翌朝まで残しておいてはならない。 10.土地の最上の初物をYHWHの宮に携えて来なければならない。あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない。 これがモーゼがYHWHから貰った二度目の十戒であり、これらが石板に刻み込まれた訳なのだ。 そこのトコも見てみよう。 モーセは主と共に四十日四十夜、そこにとどまった。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、十の戒めからなる契約の言葉を板に書き記した。(出エジプト記34:28) 34章で頂戴した文面を石板に記した訳である。 YHWHは34章の初めで「前に書かれていた言葉を」と明言しているのにもかかわらず、最初の十戒-いわゆるよく知られている十戒-とはまるで違う事を述べている。同じ出エジプト記の中ですら、このような矛盾があるのだ。 (YHWHが”自分で記す”と言っておきながら〈1節〉実際はモーゼが記しちゃった件〈28節〉についてはもはや笑えるレベルだが、その程度は見逃そうではないか) 最初の十戒はモーゼがぶち壊してしまった。そして、新たな十戒をYHWHから貰った訳である。 何故これをクリスチャンが無視して通るのだろうか。 事ある毎に、YHWHについて突っ込まれると決まってクリスチャンはイエスに言及し、「新しい契約云々」という事を言うではないか。 ここでははっきりと「新しい十戒」が授けられたのが見て取れるではないか。 本来 クリスチャンが守るべき十戒とは、出エジプト記34章のものなのではないのだろうか。 そして、クリスチャンに「十戒」と聞いた時に、はたして「古い十戒」を言うのか、はたまた「新しい十戒」を言うのか…何故その様に答えるのか、そして他の事案でははたして「古い契約」と「新しい契約」のどちらに言及するのか、非常に興味深い話でもある。 尤も、これに対してのクリスチャンの「言い訳・弁明」も既に予測がつくが、それらの「詭弁」を流してやる度量も聞き手側には必要なのかもしれない。 本日はここまで。 実はこれ、書き直しなのです… 本当は1/3にUPしようとして書いてたんですけど、途中でmixiがフリーズ→全消去という悲惨な目に… 長文を書いててこういう事が起きると、一気にゲンナリしちゃいます。 さて、次回は「エロとシ●ブの経典・雅歌」という題でお届けします。 ノ●ピーとか押●学も真っ青な程のお話。マー●もびっくり。 牧師とか神父のメッセージで雅歌って滅多に取り上げられない理由を、ズバリ鋭く探って行こうと思います。まさに性書の本領発揮。 それでは次の時間まで、C U Next time! Bye~♪
Aug 3, 2013
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一極化された思想と闘うシリーズの時間ですよw 最近は極力論戦を避けようとしているオレですけどね。 言っても無駄な人とか、読解力が無く理解力に乏しい人に時間などを裂くのがだんだんと「勿体ない」と思うようになって来てしまったのでしてね… まぁ、このコラムは続けられるトコまで続けてみようかとも思いますけどね。 相手の土俵でどこまで行けるのか、という一種のチャレンジにも近い感覚ですwさて、今回は「神の暴君YHWH、人間の暴君モーセ」という題でお届けします。 それではどうぞ。 聖書の出エジプトを見ると、民衆がモーセに反逆する場面が多々出て来る。 それはモーセの指導者としての地位が確固たるモノでは無かった事を表す指標でもあると考えられる。飢えと渇き、そしてモーセの排他的YHWH崇拝に対してユダヤ民族が不満を表した記述が数か所あり、ユダヤ民族がモーセに反感を抱いていた事は容易に推測できる。 しかしモーセはその反感を持つ民に対して説得したり理解を促そうと努力することなく敵対し、その過程は凄惨を極める。 モーセがYHWHから十戒を貰い受けている間、ユダヤ民族は金の子牛像を作ったと言う有名な話がある。(余談だがこの「金の子牛」は、オレはアピス神像ではなかろうかと推測している。無論、諸論のある話ではある) その光景を目の当たりにしたモーセは激怒し、十戒の石板を叩き割ると言う謎の火病を発病し、レビの子らがモーセの命により剣で武装し虐殺をおこなうのが描写されている。(YHWHがモーセに命じたという記述がないので「モーセの命」と表現する事にする。モーセのデマカセ・煽動の可能性は無い訳ではない、というかその線が濃いかもしれない) その個所を見てみよう。 彼らに、「イスラエルの神、主がこう言われる。『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』」と命じた。レビの子らは、モーセの命じたとおりに行った。その日、民のうちで倒れた者はおよそ三千人であった。(出エジプト記32:27~28) 今まではYHWHの働きで…という前置きが多々あったが、この記述についてはそういう前提が無い。ただ、モーセが「YHWHがこない言うてる」と煽動しているだけである。 それをさておいてでも、これは妥当な話なのだろうか? 十戒がそんなに早く公表され、聖職制度がそんなに迅速に決まったのか、という疑問が浮かび上がる。そもそも十戒、叩き割ってるじゃないか、と。 さらには3千人も殺せるのだろうか。それ程の大量虐殺があったとしたら、即座にモーセに対する反乱が起きてもおかしくなかろう。それについては聖書は沈黙しスルーしている点が不自然である。さらに言えば、レビの子らはどのように3千人を選別し殺害したのだろうか。金の子牛に礼拝をささげたのは3千人だけではなかろう。 そして極めつけは、この恐ろしい狂信的残虐行為がキリスト教内部では正当化されている点であろう。YHWHに愛されている存在であろうとも残虐に、しかも人の手で殺人を行う宗教に愛はあると言えるのだろうか。もしこの虐殺がYHWHの意であるならば、わざわざモーセ一味の手を借りる程もなかろう。なんせYHWHは全知全能であり、事実出エジプトするに当たりエジプト中の長者の命を奪った程の神通力の持ち主であるから、無辜の民が巻き込まれるかもしれない人為的行為に頼らずに、己の全能なる能力で金の子牛を崇拝した人々のみに災難や死を齎せばよいではないか。 この辺の矛盾に対してクリスチャンは無茶苦茶な仮説で逃げるか、もしくは口をつぐんで沈黙一貫である。下手に何かを言ったら、YHWHの全知全能が脆くも崩れ去るのを彼らはよく知っているのだ。だからこそ「信仰でしか理解できない」と、己の盲信・狂信ぶりの自慢大会でしかこういった事由を説明できない。 モーセへの反逆事件は他にもある。今度は上記で述べた事件の加害者レビ族の反逆である。民数記16章を見ると、モーセはレビ族に香炉を持ってくるように指示した後、「YHWHがやれっつったんだよ」とも言わんばかりの宣言をかました直後に大災害が起こる。そして、レビ一族は全て地に飲まれ、またその難を逃れた彼らの支持者250名は突然の火によって焼かれる。その個所を見てみよう。 地は口を開き、彼らとコラの仲間たち、その持ち物一切を、家もろとも呑み込んだ。彼らと彼らに属するものはすべて、生きたまま、陰府へ落ち、地がそれを覆った。彼らはこうして、会衆の間から滅び去った。彼らの周りにいた全イスラエルは、彼らの叫び声を聞いて、大地に呑み込まれることのないようにと言って逃げた。また火が主のもとから出て、香をささげた二百五十人を焼き尽くした。(民数記16:32~35) 一族を所有物ごと飲み込む地割れも、250人もの人間を焼き尽くす炎も、実に奇跡がかった罰である。しかし、こんな超自然的な懲罰を目の当たりにしても、罰当たりなユダヤ民族は「モーセとアロンが同族を殺した」と憤る。 小学生だってこんな奇跡を見たら神を信じると思うのだが、シャーマニズム全開の社会観の時代ですらこう言った話は信じられなかったようだ。目撃者もいたはずだが、何故これらの行為をユダヤ民族はYHWHからの懲罰ではなくモーセやアロンの仕業であると非難したのだろうか…それについては、各々で考えてみてほしい。 しかし、このユダヤ民族のモーセ・アロン追求はさらなる悲劇を生み出す。なんと、YHWHが直々に疫病を齎し、14700人の命が奪われるのである。ちょっと長い文面だが引用する。 その翌日、イスラエルの人々の共同体全体は、モーセとアロンに逆らって、「あなたたちは主の民を殺してしまったではないか」と不平を言った。彼らがモーセとアロンに逆らって集結し、臨在の幕屋の方を向くと、見よ、雲がそれを覆い、主の栄光が現れていた。モーセとアロンが臨在の幕屋の前に進み出ると、主はモーセに仰せになった。「この共同体から離れなさい。わたしは直ちに彼らを滅ぼす。」二人はひれ伏した。モーセはアロンに言った。「香炉を取り、それに祭壇の火を入れ、香を載せ、急いで共同体のもとに行って、彼らのために罪を贖う儀式を行いなさい。主の御前から怒りが出て、もう疫病が始まっている。」アロンは、モーセの命令どおりに行い、集結している人々の中へ走って行った。疫病は既に民の間に広がり始めていた。アロンが香をたき、民のために罪を贖う儀式を行い、死んだ者と生きている者との間に立つと、災害は治まった。この災害による死者の数は一万四千七百人であった。コラの事件による死者はこの数に含まれていない。(民数記17:6~14) 前述の「金の子牛事件」との最大の相違点は、この疫病はYHWH主導であると明記されている点である。YHWHもモーセも、一切の寛容は持ち得ない様である。 かなりおぞましい文面が続いているが、聖書の中のこれらの記述は、モーセが現代の牧師達が日曜日にメッセージで述べているような「モーセの指導力・求心力」とは正対する事実である。モーセは自らの指揮下で砂漠を流浪するユダヤ民族の統制の為に反逆者達をこれでもかという程の残虐さで「見せしめ」的な虐殺を行い、同じようにコントロール的な意味合いで一神教思想を刷り込み、自身の悪行のスケープゴートにYHWHを利用したのではなかろうかという推測が浮かび上がる。 無論、これらの推測は全て「モーセやYHWHが実在した」という仮定の上での話ではある。 しかし、実存した・していないの如何に関わらず、これらの行為はキリスト教がよく口にする「義」や「寛容」、あるいは「人類に対するアガペの愛」などとは非常に距離がある話である。過酷な連座制を強いる事のどこに義や公平性、愛、寛容などがあるのか甚だ疑問である。 一部のクリスチャンは「それらはイエス以降の云々」と言うと思うが、イエスによって断ち切られたはずの連座制処罰が未だに残っているではないか。 信じる事でその対価として得られる救いならば、それはイエスが存在しなくともダイレクトにYHWHを信望すれば叶う話である。 「イエスによって異邦人にも~」の主張は、このコラムの一つ前の「番外編」をよく読んで頂きたい。異邦人になど救いは及んでないとイエス本人が証明せしめているではないか。 それらの人々はきっと、生まれたての我が子に向かって「この原罪を背負った罪人よ、早くイエス様を迎え入れろ」と言える様な人々でしかなかろう。 なんにせよ、YHWHもモーセも、「己の意のままに」殺害を繰り返した点ではヨシフ・スターリンやアドルフ・ヒトラー、金正日などと肩を並べる暴君であるとしか言いようが無い。 最後に、一つ映像を紹介しておこう。 断ち切られていないキリスト教の救いについて、そして原罪なるものやそれらに対する信仰、その反作用や矛盾について、一度深く考えてほしい。 http://www.youtube.com/watch?v=1Rwioe1SGkQクリスチャンの主張とはこういう事であり、クリスチャンは生まれたばかりの自分の子供にこういう事を平気で言える様な神経の人しか集まっていないのかもしれない。 本日はここまでw 今回は短いので少し読みやすいかも知れませんね。 聖書をお持ちの方はどうぞご自分の聖書を開いて、読んで、そして鵜呑みにせずに考えてみましょう。 そこから見えるモノが、あなたを自由へと導くかも知れませんよww さて、次回はもうちょいショッキングな内容を。 題して「クリスチャンが知らない二つ目の十戒」について。 これ、メッセージで言う牧師先生に出会った事ないですね。まぁ…十戒が2個あったら、それはそれで「偉大な指導者」としているモーセを否定するか、あるいはYHWHが違う事を…?というジレンマに陥っちゃいますからね。 それでは次の時間まで C U Next Time!Bye~
Aug 3, 2013
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その1からの続きです。 他の箇所も覗いてみよう。長いので中略で要点のみ挙げるが、気になる人は調べて読んでみてほしい。 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。~中略~ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。」~中略~そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」(ヨハネによる福音書6:47~65) キリスト教及びクリスチャンが理性的な疑問に対して説明つかない時によく使う「躓き」という個所の由来とも言うべき名詭弁である。 イエスは自らの「命のパン」に準え、この「命のパン」なるものを信じる人は永遠の命を得ると力説している。しかし、弟子たちはそんなの信じられない、とバッサリ切っている。まともな思考能力を有する人間ならば至極当然の流れである。 人間がどうして神なる存在を認知し、信じる事が出来るだろうか。 しかし、弟子たちはどうして使徒という役目を受け負えたのだろうか。 人間がどのような手段で神を認識・認知し、またそれを他へ教え広める事が可能なのか。 宗教という名目で自己の立場を得ようとする詐欺師でなければ、どうやって神という存在を知り、神と言う存在を信じ、神と言う存在について説明できるのだろうか。 ちなみに付け加えておくが、「認識できないからこそ」などの神秘論に論拠を置くクリスチャンの主張は、そのもの自体が単なる盲信でしかないと言っておく。そして、上記の箇所では到底看過できないような箇所がある。 その部分だけ強調して引用すると、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』の個所である。 要するに、YHWHの許可が無ければ、誰もイエスを信じる事など不可能であるとイエス自身は述べている。 これは、イエスに対しての信仰・不信仰は、人間側ではコントロール出来ない「YHWH側の範疇」での事であると言う話である。 しかし、キリスト教は人為的な信仰生活・伝道活動を至上命令として遂行している。根拠は先述したマタイ28:19である。 マタイの箇所の矛盾性はここでも発揮される訳だが、今はひとまずスルーしておく。当該個所に戻ると、全知全能な神YHWHの許可如何で左右される事柄を、人為的行為で以って達成せしめようとしている。徒労ではないか。 そして、この「父(YHWH)の許可が無ければ誰もイエスの元に来る事は出来ない」としている箇所に注目して頂きたい。 その上で、超有名な箇所を一つ引用しよう。 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネによる福音書14章6節) イエスを通らなければ、父(YHWH)の元には行けないそうだ。 上で紹介したのは、YHWHに由らばければイエスの元には行けないそうだ。 トンチか?ギャグか?どうしろと言うのだ。 こういう矛盾した循環論理に溺れ、自分の人生をあるかどうかすら定かではないような存在の奴隷に転落させるのがクリスチャンになる第一歩と言えよう。 聖書に矛盾などないとか言ってるが、たった数節読み漁るだけで、矛盾続出ではないか。 聖書の中はこのように嘘や偽り、詭弁、偽善などで満ち溢れている。 これが「聖なる書物」というのも疑問だが、これらを鵜呑みにしているクリスチャンは思考力に決定的な欠陥があるか、もしくは聖書をまともに読んだことのない類の人であろう。 ひとまずここまで。いやぁ、毒舌でしたねw 今日は日曜なので、プロテスタントの皆様方は教会に行くでしょうね。 是非 牧師先生辺りにこういう疑問を投げかけてみては如何でしょうかね。 尤も、反応なんて既に知れた話ですけどねw オレの事を「異端」と罵るか、もしくはかのイエスの使った最強の手法、「躓いてはならない」とはぐらかされるのがオチですよ。 こういった矛盾点を明確に説明できるクリスチャンなど、いやしませんて。 自分トコの「救い」とやらがどういう性質のものなのかもロクに分からず信じているのがクリスチャン。 そして、その救いは須らく全人類に行き届くと言いながらも、他宗教や他思想を誹謗する事に余念がないクリスチャン。 多分、言い訳にヨハネ3:16を出してきそうですけど、それがどれ程の藪蛇になるのかも分からないのがクリスチャン。 そのくせ、自分達の宗教は愛だの寛容だの赦しだの救いだの… エンターテイメントとして見たら、クリスチャンと会話を交わす事は非常に面白いかもしれませんw ただし、論理的な思考を辞めた人々なので、深入りはお勧めしません。 何を言っても無駄な人は存在するのですよ。論理的に矛盾点を指摘しても、それ自体を理解できない程の、ね。 近いうちに本編UPします。お楽しみにねw
Aug 3, 2013
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モーセとYHWHの事も既に寄稿出来そうなトコまで調べてるんですけどねw 今回はちょいと目線を新約に飛躍させて、イエスの事を書いてみようかと。 いやねぇ、オフラインでクリスチャンと話す機会があったんですけどね。 「イエスこそは救い。イエスが来てから全ては救いに変わった」 などと夢物語を述べて来るので楽しかったですw そのイエスの発言と弟子達の問題点、そしてそれらが現代キリスト教に及ぼす影響とかをちょっと考察してみました。 気軽にお読みくださいww まず、ちょいと例題を挙げておこう。 A.らくだが針の穴を通る事は非常に困難 B.金持ちが天国に入る事は困難 上のAとBの例題だが、Aは物理的問題(物質的・質量的)であり、Bは精神的(道徳的)な問題である事は説明しなくてもフツーの人なら理解出来ると思う。 よって、これらAとB二つは同次元での比較対象にはなり得ない。 さて、そこで当該個所を引用して見てみよう。 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(マタイによる福音書19:23~24) 上記のAとBが混在する個所で、イエス直々に言われた個所である。 要するに、金持ちは天国になど入れる訳が無い、そんな事は不可能である…と強調しているわけである。 パッと見では成立するロジックの様に見えるが、その実は比較対象にすらならない詭弁でしかない。 「らくだを針の穴に通す」事は言わば一つの才能・術・技の類の話であり(物理的な問題であるが故)、「金持ちが天国に入る」事は精神的、道徳的に立派でなければ…の話であるからだ。 (「神の国は信仰で~」とかという主張が聞こえてきそうだが、焦らずにそのまま読み進めてほしい。その辺も含めてあえて「道義的な問題」として扱ってるのだから。てか、「人間の信仰云々」を盾にすると赤っ恥かくよ?w) まぁ、せっかちな人もいるだろうから、この先を引用して話を進めよう。 弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。(マタイによる福音書19:25~26) 人間の技や術などをもってしては、らくだを針の穴に通す事など到底不可能だと言っている所である。そりゃそうだ。物理的に不可能だもの。 しかし、キリスト教の神はそれが可能だそうだ。 それもそうだろう。彼ら(クリスチャン)の主義主張に則れば、YHWHは全知全能なんだから、出来ない事などあろうはずがない。 さて、ここから述べる事は文面をしっかり理解して読んでほしい。 金持ちが天国に入る事が困難だと言う事は、その人の「人間としての技術」とかが関係する話ではない事をイエスは示唆している。 即ち、他の努力…言わば優れた人格であるとか、そういったような道徳的、あるいは精神的な面での必要性を述べている訳である。 実際に現実社会を見ると、金持ちになる為にはその仮定が道義的に正しい事ばかりでは困難であり、さらには金持ちになった後の生活が道徳的に美しいとも言い切れない部分が多々あるのは否めない。 言い直せば、 人間は立派な道徳性や精神面での成熟があってこそ天国に入る事が相応しい、と言っているのと変わらない様な内容が上記の話であり、金持ちはその特性上、道徳的や精神的、人格的に立派になる人がごく少数であるという論理になり得る。まぁ、この論理というか解釈が非常に懇意的だと感じる人もいるとは思うが、信仰的な解釈をすれば金の有無など全くの無関係でしかない訳で。 金持ちで信仰があれば救われる…のならば、イエスの言ってる事がThe詭弁以下になり下がるではないか。自分達の神の言葉を否定するとか、畏れ多いにも程がある。 話が逸れたので、本題に戻そう。 それでは、本文でイエスが「神は何でもできる」と言ってのけた事は何を意味するのだろうか。 道徳的・倫理的に欠陥があろうがなかろうがそんな事は関係ない。YHWHの気のままに、YHWHの好き放題に裁量可能だ…と言っている事でしかなかろう。 人間側はまだ未熟で資格未達なのに、YHWHの全知全能な能力を以ってすれば、YHWHのお気に入りを今すぐにでも天国へ導ける…という、実にしょうもない自慢話レベルの与太じゃないか。 100歩譲って考えよう。 「YHWHには全知全能の能力があるので、らくだを針の穴に通す事などたやすい」と主張するならば、まぁこれは理解してやろうじゃないか。 しかし、 「YHWHには全知全能の能力があるので、人格的(倫理的)に未成熟な人間であっても天国へ迎え入れる」とかの自慢話は、嘲笑の的でしかない。 この先の話の展開の為に、もう少し引用しよう。 すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」(マタイによる福音書19:27~28) ちょっとここで話を整理してみよう。 ・金持ちは天国に入る事が困難 → イエスの発言 ・じゃあ、誰が救われるの? → 弟子たちの疑問 ・人間には出来ないけど、YHWHは全知全能だから可能 → イエスの回答 ・弟子たちが家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てイエスに従う → 人間としての行動、行為の範疇 この場合、仮にイエスの弟子たちが天国に入れる…としたら、それは人間としての努力で勝ちとった結果なのか、それともYHWHやイエスが施した救いの恵みなのだろうか。 「人間にはできないけど神はなんでもできる」という発言との相関性を考えたら、実に謎ではないか。 生業や家族を捨てた事により金持ちになれなかった為に得られた特権なのか? それとも、これもYHWHやイエスの能力が全能だからこその結果なのか? 全能ならば、何故全てを捨てる事を強要するのか、と。 続きを見てみよう。 わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。(マタイによる福音書19章29節) 家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てる行為は人間の行動なのか、それともYHWHやイエスの能力に起因する事なのか、どっちだ? 「人間にはできないけど神はなんでもできる」とイエスははっきりと述べてるが、それはこの場合どのような意味になるのだろうか。 人間側の範疇で全てを捨てたから天国へ入れるようになったのに、YHWHだから天国へ入れられる…というのはきつい冗談である。 結局は人間側の責任に帰結する話でしかないのに、「人間にはできないけど神はなんでもできる」と言ってYHWHを美化しているだけに過ぎないではないか。 本当にYHWHなりイエスなりが全知全能であれば、金持ちだろうが貧乏だろうが、妻がいようが子供がいようが独身だろうが、兄弟がいようが一人っ子だろうが、全て天国へ入れられるのではないか。 こういう、人をはぐらかす様な話を詭弁と言わずに何を詭弁と言うのだろうか。救いというものの存在が、イエス以降でも如何にあやふやなものであるかを【一つだけ】例に取り説明した。他の箇所まで手を伸ばすと膨大な量になるので、それはいずれこのコラム本編が新約に差し掛かった時に述べることとしよう。 そして、今度はクリスチャンの安易な伝道についても考察してみよう。 鯛焼きは皆さんご存じの通り、鯛など入ってない。アンコが入っている。 それはそうだ。地域によっては大判焼きとも言うが、オレは鯛の形をしたのが好きで、頭から食べる主義だ。 まぁ、そんな事はどーでもいいが…それと同じような話がある。 鯛焼きの中に鯛が無いように、イスラエルの社会の中に神としてのイエスは存在しない。 もっと言えば、キリスト教の中に(クリスチャンの中に)イエスなど存在しない。彼らの言動を見れば、もはや何も言うまい。 まぁ それはちょいと置いとこう。駄説が過ぎたので本文に入ろう。 キリスト教の伝道行為は誰にでもしていいものではない。 日本、アメリカ、イギリス等々…凡そイスラエル共同体以外には伝道などしてはいけないとイエスは述べている。 イスラエル共同体の中でも、フツーの人には伝道など以ての外。禁忌である。 ただ一つ、イスラエル共同体の中での異端者、落後者等にだけ伝道するべきとイエスは述べているではないか。 しかし、現代のイスラエルにはイエスを神として認めるものなど存在しない。 おかしな事に、イスラエルでない国や地域でこそイエスを神として崇め、賛美すると言う変な事態になっている。 その個所を引用してみよう。 十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」(マタイによる福音書 10:2~6) イエスの12弟子には「使徒」という肩書きが付与される。 使徒とは、イエスの教えを初めて世に伝える役目を負った人を指す。決してエヴァと対決する役目などありはしない。 12使徒とされた弟子たちは、既に数年イエスに付き添っていて、イエスの事は他の人よりも遥かに詳しかったのは想像に難くない。 だからこそ、当然とも言うべきかも知れないが、彼らに「使徒」という役目が与えられたのは至極自然な流れだと言える。 しかし、イエスはしっかり述べてる。いや、もう少し強く「命じて」いる。 ・異邦人のトコに行くな ・サマリア人(隣人、隣国)にも行くな ・イスラエルの家(国家)の失われた羊のところへ行け と。 もう一度言うが、イエスの教えや救いは異邦人などには全く無効でしかない。 さらに言えば、大多数のイスラエル共同体には必要とすらされてない。 イエスの教えはただ一つ、失われた…即ち「救いから落後したイスラエルの民」にのみ有効なのである。何より、イエス本人がそう証明しているではないか。 しかし、現代のキリスト教やクリスチャンは、この救いの範疇の外にいる人間にやたらと伝道をしかける。面白い事に、当のイスラエル(ユダヤ教)にはイエスの影もないのに、無関係な異邦人の社会ではこのイエスなるのが縦横無尽に活躍しているのだ。 これはどういう事なのだろうか。 無論多くのクリスチャンがマタイ28:19を論拠に言い訳して来るであろう。しかし、「一点一画の間違いも矛盾も無い」と豪語している聖書の中の、しかも彼らが信望している神という存在の言葉はこれ程までに矛盾しているではないか。 いやぁ、字数制限 いい加減にして欲しいですねぇ。その2へ続きます…
Aug 3, 2013
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書き直し7回目です…もう諦めてこのまま書きます。 オレの文章力だと限界が…(泣) さて、ちょいと最近バイブルのちょっぴり猟奇的でエッチな箇所が出て来てるので、ウブな方は赤面されてるのでしょうかね? いやいや、創世記とかはまだまだ全然健全かもしれませんよww 疑いの方は、旧約だけでいいので通読してみましょう。 さて、今日は「高齢者美人局の先駆者アブラハム」について。 それではどうぞ。 創世記12章には、恐らく人類最初の美人局被害者、ファラオの嘆息が記録されている。まずはそこを引用して進めよう。 ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたはわたしに何ということをしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、言わなかったのか。なぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。だからこそ、わたしの妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい。」(創世記12:18~19) 飢饉で困ったアブラハムは比較的肥沃であったエジプトに移住する。エジプトに入国する前に、自分の”美しい妻”サライを横取りされるのが怖い&自分が殺害されるのが怖かったアブラハムは、なんと妻のサライに「どうかオレの妹だと言ってくれ」と頼んでから入国する。 自分の妻を守る所か、自分の命惜しさになんという…と呆れかえる方も居られると思うが、この二人、実はガチの兄妹だったりもするのだ。即ち、アブラハムとサライは近親婚をやっていたのである。 事実、彼女は、わたしの妹でもあるのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではないのです。それで、わたしの妻となったのです。(創世記20:12) いわゆる「畑違い・腹違い」の兄妹ではあるが、それでも兄妹で結婚というのは現代の価値観を以ってすれば到底理解など出来まい。オレはこの話を読んでる時に最も思い出したのは、ゲーム「ダービスタリオン」の近親配合(血統50%以上が重なるインブリード)を思い浮かべた。 まぁ、当時の社会的な風習を鑑みると同族や兄妹同士での近親婚はさほど珍しい話でもなかったようだ。歴史的な考察を離れて聖書的に見ても、近親はロトなどに代表されるように、それほどタブーでは無かった様でもある。 しかし、キリスト教での「義なる人」とか「信仰の祖」などと崇められる方々は、実に近親●姦がお好きなようだ。 話を元に戻そう。ともかくエジプトに入国したアブラハム一味は、ファラオに計画通りサライを「妹」として紹介する。そしてファラオはサライを妻として召し入れて、その報酬を兄のアブラハムに支払う。ここからが美人局の歴史の始まりである。 ファラオはサライがアブラハムの妻である事は全く知らない。しかし、美人局の定番である脅し役、YHWHがファラオに呪いをかけ、病気を見舞うのだ。ファラオにすれば、「寝耳に水」としか言いようが無かろう。あるいは青天の霹靂だろうか。 後述する被害者2号アビメレクとファラオは被害の様相が若干異なる。アビメレクは「殺すぞオラァァ!」と恫喝を受けただけに過ぎないが、ファラオは病気に羅患してしまう。どうやら、ファラオはサライと「大人なパコパコ 」をやったようである。 当然ファラオは怒る。その場面が最初に引用した12:18~19である。 しかしさすがは王様。支払った花代はそのままにする辺りがケチケチしていない。というか、ある意味サライを本気で愛し、サライのこれからの生活を考慮した上での善処かもしれない。 その花代を手に、アブラハムはサライと共にエジプトから追放される訳である。1回目の美人局が成功した瞬間だ。 やってる事は嫁さんに売春を斡旋して金を得たのとなんら変わりが無い。それも、仮にも妹という肉親を使っての売春行為である。これを猟奇的と言わずにして、何を猟奇的であると言えるのか…とも思う。 こんな人が今の日本にいたら、クリスチャンは彼を断罪して止まないであろう。でも、これは聖書で「信仰の祖」と讃えられているアブラハムの話である。これを断罪しているクリスチャンに、オレは出会った事が無い。それはそうだ。彼らにとってはノンクリや異教徒こそが敵であり、身内に対しては献身的な寛容・許し・理解を示せる集団なのだから。 ここまで読んだ方の中には「あれ…?”1回目”?被害者”2号”?」という疑問を持った方も居られると思う。実はこの美人局、アブラハムとサライはもう一度やらかす訳である。再犯の記録は創世記20章に載っている。 アブラハムは、そこからネゲブ地方へ移り、カデシュとシュルの間に住んだ。ゲラルに滞在していたとき、アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。その夜、夢の中でアビメレクに神が現れて言われた。「あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」(創世記20:1~3) エジプトでの事件のリプレイ発動である。もはや詳細とかやり口などは説明するまでも無いと思うが、一つとんでもなく笑える部分があるのをご紹介したい。 なんと、アブラハムがサラを被害者2号・アビメレクに引き渡した時点で、サラは齢90を超えた「超老婆」だったのである。 元々、第一回目の犯行の時ですらアブラハムは既に75歳、サライは65歳だったのである。(創世記12:4を参照しましょう) この点について以前クリスチャンと議論をした事があるが、彼らは「旧約、特に創世記の時はみんな長寿だった。700歳以上生きた人もいる。現代に直すと若かったと言える」という妙チクリンな主張をしてきていた。 これを真っ向から、彼らの経典・聖書から引用して論破してみたいと思う。 第2回目の犯行の前、YHWHは100歳になったアブラハムと90歳のサラの間に子供を授けると約束したが、それを当の本人達が嘲笑っているではないか。当該箇所を引用してみる。 アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。」(創世記18:11~13) このように、創世記18章で90歳のサラは自分の老いを嘆いており、子供を身籠れない事を嘆いているではないか。クリスチャンの理論はこれと非常に矛盾するのである。 しかしさらに笑えるのはそれに続く創世記20章である。ゲラルの王であり被害者2号のアビメレクは、この老婆を嫁として迎え入れちゃう訳である。 アブラハムは、なんと生理もアガって、セ●クスでの楽しみすら感じられない様な90歳overのお婆さんで美人局を成立させたのである。もはやギャグとしか言いようがない。どんな敏腕を以ってしても、一般人でもなく財力も地位もあり選択肢も多い「王」なる人間が、わざわざ90歳を超えたお婆さんを妻として迎える妥当な理由がない。 こういった荒唐無稽な美人局犯罪はアブラハムだけの犯罪ではない。 昔から「蛙の子は蛙」と言うではないか。それらの犯罪性志向は、晩年に生まれた息子・イサクにもバッチシ受け継がれたのである。当該個所を再び引用しよう。 その土地の人たちがイサクの妻のことを尋ねたとき、彼は、自分の妻だと言うのを恐れて、「わたしの妹です」と答えた。リベカが美しかったので、土地の者たちがリベカのゆえに自分を殺すのではないかと思ったからである。イサクは長く滞在していたが、あるとき、ペリシテ人の王アビメレクが窓から下を眺めると、イサクが妻のリベカと戯れていた。アビメレクは早速イサクを呼びつけて言った。「あの女は、本当はあなたの妻ではないか。それなのになぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。」「彼女のゆえにわたしは死ぬことになるかもしれないと思ったからです」とイサクは答えると、アビメレクは言った。「あなたは何ということをしたのだ。民のだれかがあなたの妻と寝たら、あなたは我々を罪に陥れるところであった。」(創世記26:7~10) やってる事が親子二代で全く変わっていない。ところで、アビメレクは26:8で、窓の外で行われている事を目撃してしまう。「戯れ」とは、聖書翻訳された方々の並々ならぬ努力やオブラートを評価したい。他の国の聖書をみると、韓国と中国ではダイレクトに●撫と書かれており、英語ではCaressと書かれている。 「妹です」と言った人物と愛●を交わしている場面を目撃したアビメレクは、さぞかし驚愕した事であろう。そして浮かび上がった疑念をダイレクトにイサクにぶつける訳である。 こう言った犯罪行為が聖書の中で繰り返される一因として考えられるのは、中近東一帯に古くから言い伝えられてきたいろんな神話や伝承などが最終的に編集される段階で生じた問題点であると考えられる。いずれ機会があればこれも深く調べて語りたいが、「奪われた妻を取り帰す旦那」という話や地方的特色、歴史・考古学的見地から考察すると、これらの美人局行脚の元となっているのはケレト叙事詩ではないかとオレは思う。そして、これらのアブラハム美人局の犯行記録は、必ずしも全てが全てだったとは言い切れない。 中近東の古代史を調べると、かの地方では膨大な量の伝承がある事がわかる。即ち、ある伝承では「アブラハムはファラオに妻を取られた」と言い伝えられ、また他の伝承では「サラを取ったのはアビメレクである」と伝えられ、はたまた違う伝承では「アビメレクはイサクの妻リベカを横取りした」と書かれていた可能性が濃厚かもしれない。 それらの多種多様な伝承がバビロニア以降文章化されるに当たり、このように「微妙に似通った中身が繰り返し登場する」事に繋がっているのではなかろうか、という疑念は消せない。少なくとも、聖書を研究したり、それらに纏わる古代史などを調べた事のある人間に取って、これは払拭しがたい話であり、また完全否定など出来ようが無い話でもあるのだ。 しかし、クリスチャンはそうは思わない。聖書は一字一句間違っておらず、聖書には矛盾も存在せず、聖なる神のお言葉だと真剣に信じ込む人が多過ぎる。オレの様に疑問を抱き、論理的に調べたりしたらその人は可哀想にも「異端」などと蔑まれる事請け合いな宗教である。 いつまでクリスチャンは、このような「童話・寓話集」とも言うべき伝承本を「真実」とかと言いながら受け入れるのだろうか。 あるいは、聖書の中身が事実であると仮定したら、60歳overを娶ったファラオと90歳overを娶ったアビメレクはイカレポンチな王様だと言うのだろうか。 何より、こんな詐欺行為・犯罪行為を為している人物を聖人・義人などと讃えるという事がどういう事なのか、クリスチャンは本気で理解しているのだろうか。謎である。 今日はここまで。いやあ、読めば読む程「聖なる書物」というよりは「性なる書物」と言った方が的確な気がしますな。えぇ。 次回は「神の暴君YHWH、人間の暴君モーセ」についてお届けします。 教会のメッセージでは決して語られる事のない聖書を、存分にお楽しみくださいw それではまた会う日まで、C U Next Time!Bye~
Aug 3, 2013
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その1からの続きです。 こんなみすぼらしい一介の部族神が民族神にグレードアップしたのがYHWHの正体そのものである。YHWHはユダヤのみを寵愛し、他民族へは残虐極まりないではないか。これは「人類を須らく愛する」とかの主張や有名なヨハネ3:16の言葉とは全く以って矛盾する姿であるが、オレはこれこそがYHWHの真の姿であると確信する。 YHWHはユダヤの民族神としては良いかも知れないが、全人類の神としてはその資質が物凄く未達であると言えよう。他民族との戦争に置いて常に善し悪しに関わらずユダヤのみを推し、他民族を全滅させるYHWHが全人類を須らく愛していると言うのは単なる詭弁であるとしか言えず、ユダヤのみをYHWHが選んだとするのはなんら不思議のない解釈であろう。 ユダヤ教が全世界でほぼ唯一とも言うべき「他民族にすすんで伝道を行わない」理由はここにある。旧約聖書は単なるユダヤ民族の経典でしかなく、他民族とはなんら関係のない話であるのだ。数々の大量虐殺や近●相姦、不●、人種差別、性差別、障害者差別、●姦、暴行、そして血生臭い戦争の記録で彩られている書物のどこをどう見たら「聖なる書物」と言えるのだろうか。 話が段々逸れて行っている感が否めない。この辺はオレの文章力の無さを露呈している様で恥ずかしいが、逸れてしまった分をそのまま突っ切ってしまって、もう少し聖書的なチン皮について語ってみようと思う。 割礼という習慣について、一部の原理主義的キリスト教団では「是」という判定をしている所が多く、海外の過激なプロテスタントの牧師などはこれを擁護してならない。彼らがその根拠としているのは旧約の「割礼は神の民の証」たる所にその所以があり、聖書の言葉には間違いなど存在しないと頑なに信じているからに他ならない。 そういう方々に幾つか提示してみたい。 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。(ガラテヤの信徒への手紙5:2~4) 割礼に対して随分否定的な「聖書の箇所」である。 もう一つ見てみよう。 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。(フィリピの信徒への手紙3:2) パウロはかなり露骨かつ過激に割礼に対して嫌悪感を剥き出しにしている。なんと犬呼ばわりさえ厭わない構えである。他の箇所ではさらに過激にチン皮について述べているパウロの姿を見る事が出来る。 兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。(ガラテヤの信徒への手紙5:11~12) もはやここでは皮だけではなく、チン御神体(!)ごと去勢してしまえとの過激なお言葉である。聖書に矛盾は無いと主張する原理主義的な方々はどちらを取るのだろうか。きっと都合の良い方を取るという事だけは想像に難くない。 これらの「チン皮論争」についてイエスが述べている話があるが、残念ながら聖書66巻には含まれない外典扱いのものである。まぁ、聖書の選別作業がどのようなものであったか、どのような思惑がそこに介在したかを少しでもキリスト教の歴史について真面目に調べた事のある人は理解出来ると思うので、あえてそれを「イエスの言葉」としてここに紹介してみたいと思う。 彼の弟子たちは彼に言った。”割礼は有益ではないでしょうか”。彼は彼らに言われた。”もしそれが有益であるならば、男たちの母親はその父親により彼らをすでに割礼を受けた状態で産んだであろう。しかし、有益なのは、霊における真の割礼である”。(トマスの福音書53節、出典:トマスによる福音書 講談社学術文庫出版) ある意味オレはこれが正解に最も近いとさえ思う。くだらない言葉に惑わされている原理主義者たちがちと哀れである。 余談ではあるが、オレはそういった「若干気の毒なプロテスタントの家庭」で生まれ育ってしまったので、なんと生後3日目にして親が医者の大反対を押し切り、チン皮を切除した(包茎手術した)過去を持つ。こんなものに何の意味も無いと思うが、それに拘った親、そして未だにこういった矛盾と虚構が支配するトコから抜け出せない自分の親が実に歯痒いばかりであるが…もはや余生もさほど長くはあるまい。願わくばオレが間違ってて親が正しく、天国とやらでゆっくり休んでほしいと思うばかりである。 しかしながら、その願いがかなう事のないような話である事を自分で証明している事が実にアイロニーであるとも思う。親とは何度となく神学論議を繰り返した事があるが、言葉に詰まると二言目には「お前よりイエス様の方が大事。お前は私にとっては切り離すべき腕のような存在(マタイ27:29~30の事だと思う)だ。それ以上言うなら親子の縁を切る」と言い放つ方で、もはや洗脳の進行は末期であり断念している状態である。 こういう事が実際にあるので宗教とはそら恐ろしいと言うべきであろう。 今日はここまで。 ちょっと私生活に話が及びましたが、盲目的な追従はどんな事であれ危険でしかない訳ですよ、えぇ。 しかし、聖書がこんなにも沢山チン皮について語ってると知ってるひとはあまりいませんよねww こういうのを探し出して話題にしちゃうオレも、随分暇人なのかもしれませんwwww さて、次回は「高齢者美人局の先駆者アブラハム」というお話をお届けしますね。 アブラハムとサラの物語、時系列を探ると これがもうとんでもない話なんですよねw真面目に信じてる人が実に哀れとしか言いようが無いです… それでは次の時間まで、 C U Next Time!Bye~
Aug 3, 2013
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昔からクリスチャンにも大人気だったこのシリーズ。 何故そんなに読みふけるのかが書き手としては疑問だったりもしますw 資料は現在新約のイエス辺りまでは書けそうな分量でありますね。 長い事サボったおかげというか、なんというかw 予定ではVol.100を目指してるので…まぁ、やれるトコまでやってみますw さて、今日はちょっぴり下世話な話を。 題して「チン皮収集家ダビデ」をww それではどうぞ。 今回はちょっとシモな話題になるのをお許し頂きたい。 まずは聖書から引用してお話ししよう。 サウルは言った。「では、ダビデにこう言ってくれ。『王は結納金など望んではおられない。王の望みは王の敵への報復のしるし、ペリシテ人の陽皮百枚なのだ』と。」サウルはペリシテ人の手でダビデを倒そうと考えていた。家臣はダビデにこのことを告げた。ダビデはこうして王の婿になることは良いことだと思い、何日もたたないうちに、自分の兵を従えて出立し、二百人のペリシテ人を討ち取り、その陽皮を持ち帰った。王に対し、婿となる条件である陽皮の数が確かめられたので、サウルは娘のミカルを彼に妻として与えなければならなかった。サウルは、主がダビデと共におられること、娘ミカルがダビデを愛していることを思い知らされて、(サムエル記上18:25~28) ゴリアテを撃破し英雄となったダビデを恐れたサウルが、彼を婿にすると言っては殺そうとする謀略の話である。 ここで問題になっている「陽皮」とは何か。 これ、実は包茎の皮の事である。いや、マジで。お疑いならご自分で調べられてもOKだ。 神学的見地でこの「チン皮」の役割的に長い事議論があったが、ペリシテ人の包茎の皮は「割礼を受けてない者の身体」であるから戦利品となり得る、という解釈が主な話である。(当時としては、と言う事ではあるがw) 戦場で死んだ死体のズボンを引きずり降ろし、チン皮を切り取っているダビデの姿を想像すると笑えるやら、おぞましいやら、複雑な気分である。かつ、ダビデがチン皮を200個もGET出来たのはYHWHがダビデと共に居たからというのがくっきりはっきり明記されているではないか。YHWHの慈悲深さ(?)には実に驚きを隠せない。 そして、ここでのチン皮物語は 実は続きが少しある。それも見てみよう。 ダビデは、サウルの子イシュ・ボシェトに使者を遣わし、ペリシテ人の陽皮百枚を納めてめとった妻ミカルをいただきたい、と申し入れた。(サムエル記下3:14) サウルが死んだ後ダビデはヘブロン一帯を統治していたが、ヨアブに敗北し戦々恐々としていた。この時サウル王家はイシュ・ボシェトが王位にあったが、実勢はアブネルが握っていた。(旧帝国時代の愛新覚羅溥儀と関東軍の関係を思い浮かべれば理解し安かろうと思う) ここでは政治的駆け引きが描写されており、現代と違わない腹黒さがいろいろ出ているのだがそれはひとまず置いといて、アブネルがダビデに使いを出した時のダビデの返答が実に面白い。 上で出した3:14の文言だが、チン皮100個を納めて貰い受けた分、格別な思い入れがあるのかもしれない。しかし、ここからさらに三流ドラマのような流れの愛憎劇が繰り広げられる。 イシュ・ボシェトは人をやって、ミカルをその夫、ライシュの子パルティエルから取り上げた。パルティエルは泣きながらミカルを追い、バフリムまで来たが、アブネルに「もう帰れ」と言われて帰って行った。(サムエル記下3:15~16) なんとチン皮ミカル(失礼w)は旦那が存命中にも関わらず再婚していたようである。ユダヤの律法がこんなに無視されているとは驚きを隠し得ない。 イシュ・ボシェトがその「他人の嫁」を取り上げようとしたら、二番目の旦那さんは泣きながらバフリムまで追いかけて来たらしい。愛が深いな…とは思うが、なんか本当に安いドラマのような展開である。 やはり結納の品がチン皮だったからこんなにこじれるのであろうか。 そもそもチン皮を戦利品とかの名目で収集するとは実に残酷で驚きである。というか悪趣味甚だしい。こんな残酷な事をやらかしたユダヤの祖先は、案外アウシュビッツ・ビルケナウのナチスの蛮行を「オレはもうちょい頑張ったぜ」と鼻で笑うのかもしれない。ナチスですらチン皮には興味を持たなかったようで、どれ程探しても歴史上の戦利品で「チン皮」を取り扱ってるのはYHWHと共に居たダビデのみであり、そのチン皮に由来する波乱も様々な形で出ているのである。 汚い話を続けるので少し気が引けるが、このチン皮や割礼と言ったモノに関する事件や後世の話を少ししてみようと思う。 まずは一つ引用から。 ただ、次の条件がかなえられれば、あなたたちに同意しましょう。それは、あなたたちの男性が皆、割礼を受けて我々と同じようになることです。そうすれば、我々の娘たちをあなたたちに与え、あなたたちの娘を我々がめとります。そして我々は、あなたたちと一緒に住んで一つの民となります。しかし、もし割礼を受けることに同意しないなら、我々は娘を連れてここを立ち去ることにします。(創世記34:15~17) まぁ、これは事の発端が●姦事件なので何とも言い難いが、ユダヤの律法で照らし合わせると強●しても娶ればOKだったはずである。YHWHがそう言っていたのだが、ここでは通用しないらしい。創世記の頃と出エジプトや申命記の頃とではYHWHの心情も変化しているのだろうか。一貫性のない神である。 それはさておいて話を本題に戻そう。動機は発端は非常に同意しがたいが、シケムはディナを心底愛してた事が記されている。そして、その愛を知ってのシケムの一族はシケムの愛を成就させるために一族郎党全員が割礼と言う条件を受け入れる。 しかし、続きを見ると話の方向性がおかしなトコに向かうのが分かる。長文なので一部を抜粋する事をお許し頂きたい。 町の門のところに集まっていた人々は皆、ハモルと息子シケムの提案を受け入れた。町の門のところに集まっていた男性はこうして、すべて割礼を受けた。三日目になって、男たちがまだ傷の痛みに苦しんでいたとき、ヤコブの二人の息子、つまりディナの兄のシメオンとレビは、めいめい剣を取って難なく町に入り、男たちをことごとく殺した。ハモルと息子シケムも剣にかけて殺し、シケムの家からディナを連れ出した。ヤコブの息子たちは、倒れている者たちに襲いかかり、更に町中を略奪した。自分たちの妹を汚したからである。そして、羊や牛やろばなど、町の中のものも野にあるものも奪い取り、家の中にあるものもみな奪い、女も子供もすべて捕虜にした。(中略)神はヤコブに言われた。「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてその地に、あなたが兄エサウを避けて逃げて行ったとき、あなたに現れた神のための祭壇を造りなさい。」(中略)こうして一同は出発したが、神が周囲の町々を恐れさせたので、ヤコブの息子たちを追跡する者はなかった。(創世記34:24~35:5、中略多数含む) 内容がかなり長いので一部のみの抜粋に終わった事を重ねてお詫びしたい。気になる方は聖書で前文読まれてみる事をお勧めする。 割礼(包茎手術)を受けて痛みが激しくなると、そのスキにヤコブの息子達が剣を取りシケム一族を殺戮し略奪したという事が書かれている。 確かに事の発端である強●は庇いようのない事である。しかしながらディナを深く愛し部族全体がユダヤの慣例に従い共存する事を受け入れた人を殺害する事もさることながら、当該の事件に全く関係のない部族全員をぶち殺すとは一体何事なのだろうか。さらにはその部族の女と子供を捕虜として連れて来るというのは何という蛮行なのだろうか。それが何を意味するかについては、過去のシリーズで少し述べているので参照して頂きたい。 これらの約束事を破り、行き過ぎな蛮行を仕出かしたその卑怯さ、卑劣さにはただただ驚くばかりである。ヤコブはこれらの「卑怯な行為」により、近隣の他部族から攻められる事を恐れたが、そこで義なるYHWH(?!)は「ベテルに逃げろ」と告げ、さらには周囲を威嚇しヤコブ一味の逃亡を手助けしたという。 目には目を、歯には歯を…でみるとあからさまに過剰な報復であり、やり方が陰湿で卑劣としか言いようがない。ここでもサムソンの時と同様に、無関係な人々が被害を受けている。これらの行為を罰する所か庇いだてするYHWHという存在の道徳性は疑問である。自分が偏愛する部族の為なら道徳性も公平性も知った事ではないとする神、それがYHWHの正体であり、これはクリスチャンが唱える義なるものでもアガペの愛でも何でもないと言える。 字数制限と伏字が結構面倒ですね…その2へ続きます。
Aug 3, 2013
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その1からの続きです。さらに少しばかり蛇足ではあるが、2006年のニューヨークタイムズに、「サムソンは反社会性パーソナリティ障害である」という記事があった。サンディアゴ・カリフォルニア大学(UC)傘下の研究所で、エリック・アルトシュラー博士が発表している。興味のある方は探して見てはどうだろうか。 サムソン一代記を読んでのオレの素直な感想は、「これって単なる不特定多数に向けた無差別な犯罪行為の記録だよな」という事である。 現代に例えるなら、秋葉原通り魔事件を引き起こしたヤツとか池袋通り魔事件の犯人、池田小学校連続児童殺傷事件の犯人とかとサムソンは本質的になんら相違点が無いと言える。 そして、このような凶悪で残酷かつ凄惨な犯罪にYHWHが加担したのは実に大問題ではないのだろうかw その昔、阪神大震災の時の事をとあるキリスト教の牧師が述べているのを聞いて驚愕した記憶がある。彼は、「震災は偶像崇拝を戒める為の神の試練」だと堂々と言い放ったのである。 他にもインドネシア地震・津波に関しても同様の発言をしてた牧師がいた。 個人的には「アホちゃうか」と思ってやまない。 それらの自然災害で被害を受けたのはノンクリスチャンとか異教徒のみなのか?その「津波発言」を行った牧師(あえてどこの教団かとか言及しないがプロテスタントである事だけ明言しておく)は、アメリカ・ニューオーリンズを襲ったハリケーン・カトリーナの被害に対しては「同性愛に対する神の裁き」とはっきり明言したが、カトリーナの被害で亡くなった方々は全員同性愛者なのか?バカ丸出しの理屈でしかない。 結局その牧師の発言は、自分トコの神(YHWH)を、「不特定多数に死を齎す犯罪者」レベルにこき下ろしただけに過ぎないのだが、当のクリスチャンはそういうのを全く吟味しないので実に笑える話に仕上がっている。 仮にその牧師の主張が全面的に正しいと仮定したら、所詮キリスト教のYHWHとかはシャーマニズム的要素から抜け出せず、道徳的観念の欠如した原始的な信仰対象でしかない事が浮き彫りになるではないか。 その牧師の話が無くとも、このような「サムソン物語」とかの聖書の内容を読むだけで我々はそのような低俗なYHWHをいとも簡単に発見する事が出来る。 これらの物語が古代ユダヤの伝説や昔話・逸話の類を寄せ集めて造ったであろう、という点は容易に想像がつく。じゃないと、こんな荒唐無稽な話が「真実」とかと信じられる人はいないし、もしこれが真実であると仮定したならばYHWHという存在がどれほど邪悪で醜悪なものであるかを浮き彫りにする結果にしかならない。それはクリスチャンが主張する義とか愛とかの装飾語とは程遠い姿を露呈するモノであり、前者の「物語説」で言えばクリスチャンの主張する「聖書は全て真実である」という話と真っ向から矛盾する話である。 人間の体に取り憑き、4030人ものの無辜なる人を虐殺せしめし存在が義であるとか愛であるとか公平であるとか、実にへそが茶を沸かす話である。 こういう「The story」を信じてる人間は無知蒙昧としか言いようがなかろう。 クリスチャンも、こういう悪霊に取り憑かれる前に、どこかでお祓いでも受けてみてはどうだろうか。お勧めする。 今回はここまでw いやぁ、なんというか、書いてて反社会的パーソナリティー障害についてもちょっと調べてみたんだけど、これ クリスチャンに当てはまる人多いねw 要点をいくつか述べてみると ・他人の権利を無視、或いは侵害する(異端とか異教徒とかetc) ・児童や青少年時代から兆候があり、成人後も続く ・人を騙したり社会規範や法を衝動的に犯す(こんな荒唐無稽な話を真実とか主張する時点でもう、そりゃもう。騙してるとしか言えないよねw) ・攻撃的であり、自分の行動を省みたり後悔・懺悔の念が非常に希薄(とあるコミュの方々にお見せしたいですよこれww) ・主に犯罪者、詐欺師等に多く、政治家の中でも兆候がみられる ・自己破壊的行為に走る傾向がある (出典先:不良少年、不良成人:反社会的パーソナル障害に対処するには。著者:ドナルド・ブラック アイオワ大教授) キリスト教を信じるからそうなるのか、そういう兆候を持っているからこそキリスト教に引きよせられるのかは実に謎ですね。ええ。 さて、次回は今回よりも不愉快で猟奇的内容なので、閲覧注意ですw 題して「チン皮収集家ダビデ」をwww 若干18禁かもしれないけど、mixiって18歳以上だから 全然OKだよね?w まぁ 聖書の内容なんだし、聖書は18禁指定じゃないしねw それでは次の時間まで! C U Next Time! Bye~
Aug 3, 2013
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さて、連載の間がスゲー狭いって?w そりゃねぇw半年以上も連載すっぽかして、資料だけは溜まってくんだからねぇ…w さて、今日も元気よく(?)行ってみましょうか。 題は「サムソンに取り憑いた悪霊、YHWH」で。 それではどうぞw 聖書の中にはいわゆる「ヒーロー」が多数登場する。サムソン、ダビデ、アブラハム等など… その中で今日のテーマはサムソンである。この人は士師記13章から登場し、伝説的とも言うべき力を発揮する事で有名だ。 このサムソンがティムナに行く途中で一人のペリシテ女性に惚れ、親の反対にもかかわらず結婚を望む。 いい純愛話かと思いきや、これが実は「義なる神」とか「博愛の神」と言われてるYHWHがペリシテ人をぶっ殺すための計画であったとは驚きである。 父母にはこれが主の御計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分からなかった。当時、ペリシテ人がイスラエルを支配していた。(士師記14:4) それではここで、この偉大なる神(?)YHWHの意図するものは何かを探るため、サムソン一代記を掘り進めて行ってみよう。 その女に再び会う為にサムソンはティムナに向かう。道中、ライオンに襲われるが、ジョジョで言えばスタンド的存在のYHWHが降臨したサムソンは難なくこれを撃破する。 しばらくして念願叶い、女と婚約に漕ぎ付けて迎えに行く途中、サムソンは以前ぶち殺したライオンに蜂が群がり、蜂蜜がある事を気付く。 (当方は動物の死骸に巣をつくるハチを知らないので、その種類を御存じの方は是非教えて頂きたいw) そのライオンの死骸を、サムソンはなぞなぞとして服30着を賭けて出題する。問題は「食べる者から食べ物が出た。強いものから甘いものが出た。」という荒唐無稽なモノ。分かろうはずがない。 どれ程考えても答えが分からなかった(そりゃそうだ…)ペリシテ人は新婦を脅迫して答えを聞き出す。答えは「ライオンと蜂蜜」である。 クリスチャンはこれらの問題をそのままスルーしてるが、オレはどれ程考えてもその問題でこの答えには辿りつけなかったと思う。サムソンが答えを「それはライオンと蜂蜜だよ」とぬかした瞬間に「んな問題分かるかヴォケ」と猛反論に転じかねない。 常識的に考えて、ライオンから蜜が得られるというのがあり得るのだろうか。それに答えは一つでもなく二つである。サムソンのなぞなぞは、その事柄が仮に真実だとしても、あくまで個人的経験則に基づいた荒唐無稽ななぞなぞに過ぎず、それをして価値のある財産を賭けるなど非常識も甚だしい。 よって、このなぞなぞの答えを導き出し得るのはこの世にサムソンしか存在せず、サムソンは労せずして服30着をむしりとろうとしただけのショボい詐欺師でしかないと言える。 しかし、物語上ではペリシテ人は答えを新婦から聞き出している。 その方法も強迫という、よろしくない方法には違いないがサムソンが仕掛けた事を考えるとイーブンとも言える様な展開ではなかろうかと思う。 しかし、これを受けてサムソンは逆切れ大激怒する訳で。 そして、他の町に行き、なんの関係も無い無辜の人々を次々と虐殺しては服を追い剥ぎ、それで負けの清算をする。それも、義なる・聖なるYHWHが畏れ多くも畏くもサムソンに降臨召されての出来事である。 そのとき主の霊が激しく彼に降り、彼はアシュケロンに下って、そこで三十人を打ち殺し、彼らの衣をはぎ取って、着替えの衣としてなぞを解いた者たちに与えた。彼は怒りに燃えて自分の父の家に帰った。(士師記14:19) 客人が卑怯な方法で答えを知ったからと言って、(自分の事は棚に上げて)サムソンは憤慨し宴会場を飛び出しては、何の罪のない人々30人をただ虐殺したのである。 江戸の敵を長崎で討つとはまさにこういう事であろう。突然サムソンに襲われた30名の被害者の感情を思うと実に切ない。 しかもこれらの出来事は偉大なるYHWHの霊がサムソンに降臨して起きた出来事である。実に義なる神という存在とやらは、一味違うのである。 この事件の後サムソンは再び女を訪ねるが、義父は宴会場で怒って帰ってしまったサムソンをみて「娘の事が嫌いになったんだ」と判断し、娘は他人へ嫁に出した事を告げる。(そりゃそうだ) 姉(結婚相手)よりも美人とされる妹を嫁にどうか、という打診をサムソンは即刻棄却し、再び怒りにまみれて飛び出してしまう。まぁ、人の好みはいろいろあるだろうし、蓼食う虫も好き好きと言うのでサムソンの心境も理解できなくはないが、ここから先は通常の人間の理解の範疇を大幅に超える出来ごとに繋がる。なんとヤツはジャッカルを300匹捕え(それはそれですごい。現実的に可能かどうかの検証が必要ではなかろうかと思われるが、クリスチャンは聖書の中の言葉は真実だと言い張るのでその通りだと仮定して進めることにするw)、それぞれの尻尾を結び、火をつけて畑に放つ。広大な範囲での放火である。 ここで特筆すべきは被害者が義父とかではなく、全くの利害関係のない一般のペリシテ人である事だ。 恨みを募らせたのは娘を他の人に嫁に出した義父のはずなのに、その報いを受けたのは全く関係のないアカの他人というのは実に腑に落ちない。 しかも、その赤の他人に憂さ晴らしをしたサムソンの心境はオレには到底理解できない。そういう行動を真っ当な人間がやるだろうか。疑問である。 財産被害を受けたペリシテ人がただただ可哀想である。 これら一連の事件に怒りを覚えたペリシテ人はユダヤに圧力をかけ、サムソン逮捕に漕ぎ付ける。この行動は社会安寧維持や治安維持の観点から見ると、実に普通の対応と言える。 なんせ、当該の容疑者は数十人の連続殺人及び広域放火という悪質な重罪人ではないか。当然、ここは法の裁きを受けるべきであろう。 しかし、サムソンが逮捕されると再び「義なる神」YHWHが介入しちゃう。 サムソンがレヒに着くと、ペリシテ人は歓声をあげて彼を迎えた。そのとき、主の霊が激しく彼に降り、腕を縛っていた縄は、火がついて燃える亜麻の糸のようになり、縄目は解けて彼の手から落ちた。彼は、真新しいろばのあご骨を見つけ、手を伸ばして取り、これで千人を打ち殺した。(士師記15:14~15) 捕えられたサムソンにまたもやYHWH悪霊が憑依し、一千名をどつき殺すという偉大な(?)怪力を披露する。大虐殺が終わったサムソンは非常に喉が渇き、YHWHはこれに即刻答えて地を裂き水を与えるという慈悲(??)を施したそうだ。 真っ当な思考能力を有する人間ならば、無関係な人々を殴り殺し、無関係な人々の畑を焼き払ったサムソンが正しいと思う人はいないだろう。 同じように、無辜の人々を虐殺する為に力を与え憑依したYHWHなる霊も、真っ当な神と思う人間は居るはずが無い。虐殺や放火は義でも愛でもなんでもないからである。 物語をもう少し先まで見てみる事にしよう。 ユダヤの凶悪犯罪者サムソンの怪力を危惧したペリシテ人は対策を練り、当時サムソンがゾッコン(死語失礼)だったデリラを買収し、その力の根源を探ろうとする。 デリラはサムソンに哀願し、サムソンは数々の嘘を教える。 「乾いていない新しい弓弦七本で縛ればいい」だの、「まだ一度も使ったことのない新しい縄でしっかりと縛れば」だの、「わたしの髪の毛七房を機の縦糸と共に織り込めばいいのだ」だのと延々騙すのである。 まぁ、これは保身が絡んでいるので、サムソンを一概に責め立てる様な話でもないとは思う。 でも、ここで少し疑問に思う所がある。 正常な思考を以ってすれば、いくらなんでも「力の秘密を教える事」がどういう結果を招くのかを充分わかるはずではなかろうか。 実際に何度もペリシテ人に通報されているのだから、いくらなんでも気付くとは思うのだが。YHWHはサムソンに必要最低限の知恵は与えなかったのだろうか。こう何度も「力の秘密→通報」という事が繰り返されれば、さすがにデリラを信用できなくなるのが普通の流れだが ここではさにあらず。本当の秘密を暴露して捕まってしまうのだ。 そして捕えられたサムソンは、やがてペリシテの神殿でYHWHの名を叫び祈り、そしてペリシテ人三千人と無理心中をしてしまう訳だが。 数回続いた通報事件で、デリラに秘密を打ち明けるのがどういう結果を招くのかは火を見るより明らかと言えよう。よほどの低能でない限り、どんなに惚れこんでいようが、結果の分かる事にアホのように突っ込んだりはしないと個人的には思うが… 子供の頃にこの「サムソン物語」を映画で見た事があるが、あれは今考えても理解に苦しむ場面が多かったように思う(当時はクリスチャンホームだったので別段疑問も抱かずにスルーしてた。実に恐ろしい話である) 余談だが、あれをリメイクするのならばコメディーとして作るべきであろう。これはシリアスな話ではあり得ない。 字数が…TTその2へ続きます。
Aug 3, 2013
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いやぁ、しばらくこれの存在をすっかり忘れてましたよ、えぇw 結構煮詰めてた物も多いので、またぞろ連載再開しますねw よく見ると、前の連載 昨年の11月で止まってるので…サボりすぎですねw それでは行きます。 題は、前回予告の通り「聖書の中での近●相姦」について。 聖書の中では近親相●はそれほど珍しい話題でもない。 文面が長いので引用しないが、創世記19:30~38が最も有名であろう。 二人の娘が父親を酒に酔わせ、性●為して子供を儲ける…これは「現代の観点」からしたらとんでもなく不道徳で猟奇的と言えよう。 しかし、この個所をクリスチャンに言うと、「それが故にその子孫であるモアブとアンモンは呪われた」と言ってくる。 でも、聖書ではロトって聖者扱いだよね?聖者の子孫が呪われし血筋?? その、ロトを義なる人と言ってるのは旧約だけではない訳で。 新約でもロトを「義」と認めてる個所を提示してみる。 しかし神は、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、助け出されました。なぜなら、この正しい人は、彼らの中で生活していたとき、毎日よこしまな行為を見聞きして正しい心を痛めていたからです。(ペトロの手紙二 2:7~8) へぇ~、正しい心を痛めてた人が、自分の娘を差し出すのは心が痛まなかったのだろうかねw 近●相姦で娘が身籠った時は、その正しい心は痛まなかったんだろうかね。 そういうのが「義なる人」と書かれているのが聖書という書物である。所詮は、今まで散々シリーズで述べて来たように、「古代の風習」を書き連ねた書物に過ぎず、その言葉が「現代に生きて働きかける」など、失笑の限りである。 まぁ、その「義なる人」をマネする聖職者が後を絶たない訳だが。 聖神中央教会事件とか、もう…おっと、話が逸れたので元に戻そう。 近親●姦と言う事に対して、聖書はその「律法」の中で厳しく取り決めている。その「律法上での取り決め」を見てみよう。 兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。、(申命記25:5~6) 例えば、兄弟の内、兄貴が子供を作れずに死んだならば、その義理の姉さんを弟が娶って、穴●弟として子供をもうけろと言うのがこの個所である。 これ、もし弟が「そのような事は出来ない」と拒否したらどうなるのだろうか。それは、7節から10節にかけて細かく説明されてる。 即ち、その義理の姉さんは長老たちのトコで行き、「ウチの義理の弟が私とパコ●コしてくれません」と訴えろ、と書いてある。 それで長老たちが「まぁまぁ、タダ●ンやし、ヤっとけばええやないか」と義理の弟を説得せねばならないという荒唐無稽な話に発展する。 それでも弟が理性があって「そんな、兄貴を恥ずかしめるような事は出来ない」と拒否したら、義理の姉は義理の弟の靴を脱がし、顔に唾を吐いて罵詈雑言を浴びせるように取り決められてる。 現代であったら新聞に載るような話ではなかろうか。 この点については、多くの神学者が「古代ユダヤの社会において、一人身になった寡婦は生存自体が難しく、生存権と女性人権を守るための手段として制定された律法である」と解釈したり述べたりする。 その理屈を適用しても、それならそれで義弟が義姉の生活や生計の面倒をみるだけで良くないか、と言える訳で。何も性●為をする必要性が無かろう。 無論、古代の「長子(初子)思想」は理解できるが、別段二男の子供でもその家の血筋が途絶える訳でもなく、尚且つ義姉と性●為して産んだ子供だけが血筋を引く訳でもあるまい。ただの近●相姦を奨励しているだけの話でしかない。 逆説的に考えたら、兄弟が子供を残してくたばった時については聖書は沈黙している。先ほどの神学者先生達の主張の通り、生存権とかの話なら子供がいる方がもっと生活は困窮するのではないのか?とも問いたい。 それに、アブラハムとサラを例にするが、何も近親婚は寡婦になった時だけではあるまいに。 他に有名な話としたら、オ●ニーの語源と言われている「オナン事件」があるだろう。 オナ●ズム(onanism)と言うのは性●為を中断する行為、または手●・●慰などの総称として、今時の中学生でも充分わかるだろう。俗にオ●ニーと言われるが、創世記38章では ユダヤ人という語源になったユダの息子がオ●ニーの語源になった経緯を詳しく述べている。 そもそもエルが何故殺されたのかについて全然詳しく述べられてない上に、オナンの行動や心情に対する配慮というものが全くなく、ただただ近親●姦が義務として押し付けられている。 これが「義」なる話なのかどうか、このような内容が「現代でも生きて働きかける」内容なのかどうかについてはもはや言うまでも無かろう。 で、このオナンについて記されている創世記38章は、さらにキツめの近●相姦についても掲載されている。舅と嫁の近親●姦である。 ユダとタマルの話だが、なんと言うかもう言葉を失うばかりの内容である。 ここで紹介するのも嫌悪感が湧く様な箇所なので、どうかご自分で深く読んでみる事をお勧めする。 で、この近●相姦の産物として生まれた子供が、家系図を手繰るとなんとダビデの先祖であり、ゆくゆくはイエスに繋がる「ベレス」という人物である。聖書の系譜で言えば物凄く重要な位置取りの人は、近親●姦によって生まれた訳である。そりゃ、近親●姦をしようが何をしようが「義である」と認定しない訳にはいかない理屈も納得である。 さらには、おそらく人類初の美人局をやらかしたアブラハムとサラだが、彼らは結婚し子供をもうけているが、創世記20章を見ると異父兄弟である事が分かる。他にも4親等での結婚は数多いが、それらはさておこう。現代の日本の法律でも、4親等離れたら結婚は可能であると記憶しているのでこれは「現代でも通用する」話であろう。 しかし、イエスというのは実に素晴らしい先祖で、素晴らしい血脈で生まれて来たのだな…と改めて思う。 もちろん、レビ記ではこのような事をYHWH自身が厳しく戒めてる。 引用しようと思ったが意外と長いので、箇所を指定する。 レビ記18:6~24までである。 義なる人も、信仰の祖も、全部該当するけれどもYHWHは彼らを罰する所か寵愛している。 けれども、これは偏愛ではないらしく、YHWHは博愛の神だとクリスチャンは主張して止まない。あらそうですかw 無論これは古代史的に考察したり、当時の社会環境や思考、習慣、風習、そして子孫繁栄という課題を常に背負っていた古代部族社会の問題を考えると一概に「近親●姦は間違っている」とは言えないと思う。 しかし、我々21世紀に生きている者にとってこれは「聖なるお話」とは言えない。「性なる話」ではないか。 このようなモノを「現代にも~」とか言ってたり、一片の疑いも疑問も持たず盲信する事が如何に危険な思考停止なのか、一度深く考える必要があるのではなかろうかと思う。 今回はあっさりとこんなトコでw 毎回 超長文だと飽きるでしょ?ww さて、次回は「サムソンに取り憑いた悪霊、YHWH」について言及します。 義とか善とかと、何かと良い方向での修飾語しか使われないYHWHですが、それは本当なのかどうかについて見て行きましょう。 それでは次の時間まで C U NEXT TIME! Bye~
Aug 3, 2013
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その2です。原文では伏字など一切しなかったのですが、字数制限と共にやたらと表現ひっかかりますね…ま、続きをどうぞ。直ちに、子供たちのうち、男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい。(民数記31:17~18) ミディアン族との戦争で勝利したモーゼがユダヤ民族に言った言葉である。モーゼは非処女は殺し、処女はあなたたち、即ち「ユダヤの男子」の為に取っておけ、と命令する。そして、これに続く民数記31:32~35では、略奪してきた戦利品として羊675000匹、牛72000頭、そして処女32000人を分配している。このように、女性は単なる「モノ」でしかないのである。家畜と同じような扱いの戦利品はモノとしか言いようがない。 母神崇拝があった一部古代文明圏では、女性は「多産(豊かさ)」の象徴として尊重されていた。特にバビロニアと古代エジプトでは女性の権利はかなり尊重されていたように見える。対して、遊牧民などにおいては状況は正反対であったと言える。イスラエル(民族)での女性人権の没落は旧約聖書が登場した辺りから著しく進んだとされている。ユダヤ教の影響力が強大になるほど、それに比例して女性の人権は下降して行き、BC3世紀辺りから女性は教会で男と区分されるようになり、その頃からモーゼの律法を読む事も禁じられたと記録されている。イスラエルで出版されている「ユダヤ百科事典」はこの事について、「その結果女性たちはその殆どが文盲であった」と認めている。 もう一つ、余談ではあるが付け加えておく事にしよう。 ユダヤ教の「もう一つの創世記」である「ハカテア書」等によると、最初の男アダムの最初の妻(つまり最初の女性)は「リリス」であるとされている。 YHWHはアダムと「同じ方法」でリリスを造ったが、リリスがアダムと「同等の権利」を求めるとアダムはこれを拒絶し、リリスはアダムの元を去ったとされている。 その後リリスはYHWHから過酷な罰を受け、夜の夢の中で男の精気を吸い取る「夜の魔女」になったとされる。そして、その事件後にYHWHはアダムの肋骨を使って二番目の女性「エバ(イブ)」を創造したとされている。 これは聖書に載ってない…と思いきや、今日の聖書でも その(リリスの存在の)痕跡を探す事が出来る。 荒野の獣はジャッカルに出会い、山羊の魔神はその友を呼び、夜の魔女は、そこに休息を求め、休む所を見つける。(イザヤ書34:14) ここでの「夜の魔女」がリリスであると言えるのか?という疑問が湧く方もおありだろう。英語聖書のHNV(Hebrew Names Vrsion)を見ると、ものの見事に「夜の魔女」の箇所が「Lilit」として記されている。 he wild animals of the desert shall meet with the wolves, and the wild goat shall cry to his fellow; yes, the 【Lilit】 shall settle there, and shall find her a place of rest. (Isaiah 34:14 / HNV) ちなみに、他の訳(ウチにある分や知っている分だけしか出せないので申し訳ない)でのこの個所は 韓国語がフクロウ(改訳版)、夜の獣(標準新改訳)、鬼(共同翻訳版)であり、中国語が夜の怪物(北京語版)、英語版が夜の獣(NIV)、フクロウ(KJV)となっている。 ※KJV版の「フクロウ」の表記の言葉を受ける言葉は「herself」となっている。通常 英語圏ではフクロウは「森の賢者」としてのイメージがある、受けるとしたら「himself」が普遍的であることを付け加えておく※ まぁ、数千個の写本が存在する聖書であるから、一概に「魔女が正しい」とか、「フクロウが正しい」とか、「獣が正しい」などとの断定は非常に危険な話なので避けておくが、いろんな状況や文献、それらの文脈の繋がりを見るとオレはこれは「リリス」に関する著述であると思える。 ようするに、何が言いたいかというと(前置きが長くなって申し訳ない)… 男の肋骨で女を造った、と言う話は 既に女が男の「所有物の一部を原材料としている」、つまり「男の所有に属する存在」というのを聖書が強調している点である。 何故 アダムと同じように造られたリリスは アダムと同等の権利を認められずに、「魔女」という不運なタイトルを付けられなければならないのか、と言う事である。非常に不憫でならない。 女性のクリスチャンの方々は もう一度聖書をよく読んでほしい。 あなた方がずっと信じている「旧約」だろうが、新しく交わされた「新約」だろうが、相も変わらずあなた方は「無権利」であることを再確認してほしい。 そして、できたらこれを どこかのフェミニスト団体にでも告発してみては如何だろうかw 本日はここまで。人権とか平等とかを真剣に考える人は、到底このような話を理解できないと思う。 次回は、クリスチャンが「聖なる書物」と称しているバイブルの正体に少し迫って見ようかと思う。本当に「聖なる書物」と呼んでも良いものなのか、と。 無論 聖なる素晴らしい書物であるならば、子供に推奨しても問題ないよね? なので次回は「聖書の中での近親●姦」について。 聖書なんだか、性書なんだか はっきりさせましょ、と。 それでは また会う時間まで、 C U Next Time!Bye~
Aug 3, 2013
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意外とコメントがつかない割に、メッセとかで人気を博しているこのシリーズ。クリスチャンの方も結構読まれているみたいで、どうなんだろうかと。 今のところ まともに反論出来てらっしゃるクリスチャンは居られないので、面ばゆいやら痛快やら。 多分、反論=聖書の否定と言うのはご理解していらっしゃるようで。 前置きが長くなりましたねw字数的に問題のあるコラムなので、本文に行こうと思います。 今回は「女性の人権を蹂躙する聖書」という、フェミニストが目をひん剥いて怒りそうなお話を。 保守的であるキリスト教団で、女性を牧師や神父などに任命するのを避けてきているのは長く受け継がれた伝統、言いかえれば一種のスキャンダルとも言える。男女平等が具現化された現代社会においてまでその理由を提示し持続されているキリスト教・教会内部での性別区分体系は、古代人の風習や思考方式をダイレクトに伝えている経典を「無謬である」と主張したことから始まる壮大な悲劇と言える。 得てして女性牧師・神父反対論者の言い分とされる根拠は、新約聖書に載っている「女は男にモノを教えたりしてはならず、ただ従え。そして教会では黙れ」と書いている事と、旧約の「最初の女性は男性を手助けするモノとして男性の体を用いて創造された」訳であるから、あくまでも助手的な立場であるという主張をぶち上げている。 それでは、聖書は一体女性をどのような目線で見ているのか見てみよう。聖書の中での女性蔑視・差別は旧約どころか新約までに及ぶ。 (前中略)お前は男を求め、彼はお前を支配する。(創世記3:16、新改訳) この訳は「正確性」に多少欠けるので、口語訳を併記する。 (前中略)あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう。(創世記3:16、口語訳) ※以後特別な注釈がない限り、新改訳を用います※ 創世記のここから始まり、モーゼの律法を見るとこうなっていく。 祭司の娘が遊女となって、身を汚すならば、彼女は父を汚す者であるから、彼女を焼き殺さねばならない。(レビ記21:9) しかし、もしその娘に処女の証拠がなかったという非難が確かであるならば、娘を父親の家の戸口に引き出し、町の人たちは彼女を石で打ち殺さねばならない。彼女は父の家で姦淫を行って、イスラエルの中で愚かなことをしたからである。あなたはあなたの中から悪を取り除かねばならない。(申命記22:20~21) 分かりやすく言えば、「ある男がある女と結婚したが、その女が処女じゃなかったら石で打ち殺せ」という話である。 某コミュのバカ処女厨が喜びそうな箇所で、一見これを元に「貞操は守るべきである重要なことだ」と主張するクリスチャンもいるだろう。 だが、これは良く見たら分かる通り、男には適用されない。女のみに適用されるモノなのだ。 ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。その娘は町の中で助けを求めず、男は隣人の妻を辱めたからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。もしある男が別の男と婚約している娘と野で出会い、これを力ずくで犯し共に寝た場合は、共に寝た男だけを殺さねばならない。その娘には何もしてはならない。娘には死刑に当たる罪はない。これは、ある人がその隣人を襲い、殺害した場合と同じような事件である。男が野で彼女に出会い、婚約している娘は助けを求めたが、助ける者がいなかったからである。(申命記22:23~27) 他の男と婚約している女をレイプしたら、他人の妻をレ●プしたのと同様の罪を課す、と言う個所である。 男にも死罪があるので一見平等に見えるが、騙されてはいけない。よくよく見てみよう。 女の場合だが、町の中で●イプされて声を上げなかったら、声を上げなかった罪(=不●を楽しんだ罪?)として死罪だが、野原でレイ●されたら無罪だそうで。 理由は「声を上げても助けてくれる人が居ない」という点である。 ここで犯罪の傾向及び発生状況をちょっと考えてほしい。 レ●プという犯罪は、声を上げられないような状況で行われる事が非常に多い。もしこの律法が日本の現行法(刑法)で制定され、「強●被害に遭った女性が声を上げなかった(あげられなかった)場合はこれを●姦とは見なさない」という法律が出来たら、フェミニストによる大規模人権デモが起きかねない。誰が納得できるのだろうか。 ふたりの人が互に争うときに、そのひとりの人の妻が、打つ者の手から夫を救おうとして近づき、手を伸べて、その人の隠し所をつかまえるならば、その女の手を切り落さなければならない。あわれみをかけてはならない。(申命記25:11~12、口語訳) 実に呆れかえるばかりの個所である。キン●マ掴んだら手首ごと切断。 女は男の着物を身に着けてはならない。男は女の着物を着てはならない。このようなことをする者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。(申命記22:5) ズボンをはいている女性のクリスチャンは今すぐ悔い改めるべきであろう。というか、服装のユニセッ●ス化が進んでるこのご時世において、時代錯誤甚だしい話である。 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。八日目にはその子の包皮に割礼を施す。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない。女児を出産したとき、産婦は月経による汚れの場合に準じて、十四日間汚れている。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な六十六日の間、家にとどまる。男児もしくは女児を出産した産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す。祭司がそれを主の御前にささげて、産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は出血の汚れから清められる。これが男児もしくは女児を出産した産婦についての指示である。なお産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする。祭司が産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は清められる。(レビ記12:2~8) ここでは女性は男児を出産すると33日間汚れていると言う。 かなりキリスト教に友好的な解釈をして、これは産婦の体を気遣ったものだとしよう。 じゃぁ 何故女子を出産したら倍の期間汚れているというのか。こういう所に女性卑下の思考がある。 そして、祭司(牧師)に贖罪の献げ物(献金)をしないと清められない。「信者」と書いて「儲ける」と読む理由が実によくわかる。 次も長文なので割愛するが、月経ですら聖書は不潔だと言って憚らない。レビ記15:19~28にあるので、そちらをも参照してほしい。 文字通りの「生理現象」ですら汚れだというのである。女性からしたら「どないせぇっちゅーねん」な状態である。 そして、そもそも創世記で「女が子供を産む苦しみを」と言っておきながら、その一方「汚れた女などから生まれるから人は罪人なんだ」という荒唐無稽な箇所まで存在する。下記を見てほしい。 どうして、人が神の前に正しくありえよう。どうして、女から生まれた者が清くありえよう。(ヨブ記25:4) 産まれた事が罪なのか、と問いたい。 よくクリスチャンが口にする「旧約は【旧い約束】で、我々は新約、【新しい約束】に生きている」という個所を考え、新約をも見てみよう。 婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。(テモテへの手紙一2:11~12) 女は教師や教授になるな、と聖書は言っている。この個所の為に、「女性の牧師(神父)はダメだ」とする教団が実在する。 というか、テモテ1の2章は この掲載文の前後を読むと呆れかえってしまうような内容である。お時間のある方は是非ご一読願いたい。 婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。(コリントの信徒への手紙一14:34) 女には発言権など無い、と聖書は明確に言っている。教会ででっかい声で「アーメン!」とか「ハレルヤ!」とか叫んでる女性陣はこの個所を御存じなのか、はたまた知ってて無視してるのか疑問が絶えない。 ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。(コリントの信徒への手紙一11:3~10) 女はかぶりモノをしないと教会で礼拝すら受けられない。何もせずに教会に行ってられるクリスチャンの女性は、次からはせめてヘアピンでも刺していくことをお勧めする。じゃないと、アンタラの「怒りの神」に何をされるか老婆心ながら心配である。 カトリックの女性が頭に頭巾などをかぶって祈りや礼拝をするのは、この個所が理由となっている。 妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。(エペソの信徒への手紙5:22~24) 同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。(テモテへの手紙一2:9) なんという男尊女卑なのかと思う。テモテ1は、好意的な解釈をすれば女性に「豪華奢侈をするな」という戒めかもしれないが、何故男には一言半句もないのに女性にばかり言うのだろうか。 何故フェミニストどもは こんなにも女性人権が蹂躙されている聖書の内容に対して反対の立場を表明しないのか疑問である。抗議すらしない。 また、女性はイスラエル・ユダヤ民族が遊牧民族であった事を忠実に反映しており、聖書の中で女は「物」のように交換されたり献上されたりする。 古代の遊牧民にとって女性は単なるイチ労働力、遊戯の対象、或いは種族維持手段でしかなかったきらいがある。彼らの娘たちは事ある事に、他種族間での取引などの対象でもあった。 聖書の中でもそのような箇所を見てとれる。 アブラハムが彼の妻サラを王に献上したという美人局行為には閉口するばかりであり(全能のYHWHがついているのに守ってもらえないと思ったらしい)、ロトが自分の娘を暴徒に差し出そうとする辺りはもはや想像を絶する接客行為であると言える。ある意味、自分の息子を生贄にしようとしたアブラハム、いやそれ以上の「服従者」であると言えよう。 娘はモノかコラ。 しかし、聖書の中では女性は徹底的に「モノ」でしかない。 ハイハイ字数制限字数制限。その2へ続きます。
Aug 3, 2013
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その1の続きです。 まずは「律法は廃止された」と主張する新約の個所から見てみよう。 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。(コロサイの信徒への手紙2:14~16) 他の箇所もいろいろ挙げてみよう。 律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。(ガラテヤの信徒への手紙3:10~11) なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。(ローマの信徒への手紙6:14) 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、(エペソの信徒への手紙2:15) その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。――律法が何一つ完全なものにしなかったからです――しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。(ヘブライ人への手紙7:18~19) 律法は「廃止された」という明確な個所である。 一方、律法は一点一画もなくならない、律法は守らなければならないという矛盾した個所もある。同じく新約から抽出してみよう。 わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。(マタイによる福音書5:17~19) モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。(ヨハネによる福音書7:19) しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。(ルカによる福音書16:17) 律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。(ヤコブの手紙 2:10) これはどういう事なのだろうか。 新約の中だけでも 律法をめぐり「廃止された」、「守らなければならない」と矛盾する意見を吐露しているではないか。 特に、キリスト教徒が神として崇めるイエスは律法に対して曖昧な立場をずっと取っていた。彼は弟子たちが安息日に麦を切り取って食べる事を許し、また安息日に病人を治したりしていた。その反面、上記で引用したように律法は一点一画も無くならず、忠実に守るようにも言っている。 福音書の中でイエスは律法に対して曖昧な立場を取っているが、無割礼・律法廃止を主張していた使徒パウロはその書簡の中で律法を否定し、信仰を重要視している。彼はユダヤ地域ではないヘラ地域に福音を伝える責を受けた使徒であり、この律法に関しての観念が元で他の「使徒」とは相争う様相を見せている。これらの対立が表面化したのは 後のキリスト教の方向性を指し示す結果ともなった、キリスト教の偉大なる権力闘争の始まりとなった「ニケア(ニカイア)公会」であるのは言うまでもない。 果たして、律法は守るべきなのか?それとも、守らずとも良いのだろうか? 「守らずとも良い」と主張する教派は前出の部分のみを引用し、「守らなければならない」と主張する教派は後述の部分のみを引用する傾向にある。 言い直せば、バイブルの中身とは 所詮「好きなように利用できる部分が満載の矛盾に溢れた都合のよい書物」に過ぎないのである。こういう点を悪用し、廃止されたはずの律法から上手に「十一献金」は抜き出して使うけれども、混織の服や豚肉などは「律法は廃止されている」としてまた上手に活用しているのが現代のクリスチャンに他ならない。 ゴミのような決まり事、人権無視な個所で満載のモーゼの律法。 そしてそれが廃止されたのか、はたまた守らねばならないのかという点でさえ好きに解釈できる内容の新約聖書… 日曜日によくマラキの箇所を引用して「十一献金をしない事は神のモノを盗むのと同義である」と力説されている牧師さんたちは、絶対トンカツとか食べないんでしょうね? 今日はここまで。毎回の事ながら、字数に苦労します… 文章力が足りないので 無駄な文面が多いという自覚だけはあります…平にご容赦のほどを。 さて 次回は、今回の中で扱ったものの一つ、「女性の人権を蹂躙する聖書」というタイトルでお届けしようと思います。 フェミニストな方とオレは相容れないと思いますけど、こればかりはフェミニストの方に読んで頂きたい。真の「平等」に向かう為に、ね。 それでは次のコラムの時間まで、C U Next time!! Bye~
Aug 3, 2013
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かなり長い間 違うお話ばかりしてましたねw 再び 連載開始しますよw 今回は「YHWHの邪悪な律法」について。 旧約の中での「人権」は古代社会的な発想そのものであると言える。女性を蔑み、異邦人に醜悪な呪いをかける辺りがそうであると言える。 異邦人に対する呪いは前に書いたのでここでは省略する。女性蔑視については、チャートを改めて詳しく述べる事にする。 今回は これら二点を除いた上での荒唐無稽な聖書の律法を見てみよう。 YHWHがモーゼに与えた律法は異邦人に対する敵対と、障害者に対する冒涜の極致にある。 すべて去勢した男子は主の会衆に加わってはならない。私生児は主の会衆に加わってはならない。その子孫は十代までも主の会衆に加わってはならない。アンモンびととモアブびとは主の会衆に加わってはならない。彼らの子孫は十代までも、いつまでも主の会衆に加わってはならない。(申命記23:1~3、口語訳) 旧約の中で、人間をどのように見ているかを良く表すゴミのような箇所の一つである。今度は同じ個所を新改訳で見てみよう。 だれも父の妻をめとって、父の衣の裾をあらわにしてはならない。睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない。混血の人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても主の会衆に加わることはできない。アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない。(申命記23:1~4、新改訳)新改訳はかなり露骨な言葉で表わされていてちょっとビックリする。意味合いも違い、口語訳の「加わっては【ならない】」という表現が「加わる事は【できない】」に変えられている。能動的か受動的かの差異があるので、意味合いは全く違うようになる。 また特記すべき所として、口語訳の23章1節は新改訳では23章2節になっている。つまり、新改訳の23章1節が追加されているのである。これは翻訳の基礎となった写本が違う点に由来するが、中身が大きく違ってくる。(あるはずの言葉と無かった言葉などの差異) これが一言一句間違いない聖書とか(以下略) 他の箇所も見てみよう。障害者は礼拝も献金も、何もかも出来ないと差別されている。 アロンに告げなさい。あなたの子孫のうちで、障害のある者は、代々にわたって、神に食物をささげる務めをしてはならない。だれでも、障害のある者、すなわち、目や足の不自由な者、鼻に欠陥のある者、手足の不釣り合いの者、手足の折れた者、背中にこぶのある者、目が弱く欠陥のある者、できものや疥癬のある者、睾丸のつぶれた者など、祭司アロンの子孫のうちで、以上の障害のある者はだれでも、主に燃やしてささげる献げ物の務めをしてはならない。彼には障害があるから、神に食物をささげる務めをしてはならない。(レビ記21:17~21) この言葉通りにするならば、障害者はそもそも牧師または神父などにはなりえない。それどころか、交通事故で骨折した人間や水虫を患っているもの、ニキビが出来た学生などは全て教会に行けない。無論、眼鏡もダメだ。メガネをかけているクリスチャンは神を穢すので、さっさと教会をやめるべきかもしれない。 仮にも「愛の宗教」とか「義なる神を拝む」とかと謳っている宗教なのに、これは一体なんなのだろうか。障害者に向かって堂々と「貴様らは救われない」と断言してみたらどうなのだろうか。偽善ぶらないで。 また彼らに告げなさい。あなたたちの子孫のうちだれであれ、イスラエルの人々が主に奉納する聖なる献げ物に汚れたまま近づく者は、永久にわたしの前から断たれるであろう。わたしは主である。アロンの子孫であって、皮膚病にかかっている者や、漏出のある者はだれも、清くなるまでは聖なる献げ物を食べてはならない。死体に触れて汚れた者、精の漏出があった者、あるいは人を汚れさせる爬虫類、人を汚れさせる人間に触れた者は、その汚れの種類を問わず、すべてその日の夕方まで汚れている。彼は身を洗うまでは聖なる献げ物を食べることができない。日没になれば彼は清くなり、それ以後は聖なる献げ物を食べることができる。それは彼の食物だからである。死んだ動物や野獣にかみ殺された動物を食べて身を汚してはならない。わたしは主である。わたしの命令を守りなさい。それを破って罪を負い、それを汚して死を招いてはならない。わたしは彼らを聖別する主である。一般の人はだれも聖なる献げ物を食べてはならない。祭司のもとに滞在している者や雇い人も食べてはならない。(レビ記22:3~10) おかしな訳を一つ指摘しておきたい。22章10節の「一般の人」と言うのは、原文の意味合いや韓国語版・中国語版・英語版などの聖書を見たら どれもこれも「異邦人(Alien)」と訳されている。5節の「爬虫類」も同様で、多くの聖書は「虫(Bug)」と訳されている。日本の訳はえらいマイルドにしてる。これが間違いのない聖書とか(以下略) つまりは、病にかかっている人とか皮膚病(水虫とかアトピーとか)の人とか蚊に咬まれた人とか異邦人は「汚れた人」だとYHWHは強調しているのである。 障害者、異邦人、私生児、性的欠陥者、怪我人、病人は教会にも行けず、捧げものを食べる資格もなく、聖職にもつけないとYHWHは毒舌を吐いて差別しているのである。これらの律法の差別的邪悪さには言葉を失する。 (聖書はYHWHの言葉であるはずだろ、と) もっと犯罪行為を増長している箇所もある。見てみよう。 死んだ動物は一切食べてはならない。町の中にいる寄留者に与えて食べさせるか、外国人に売りなさい。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない。(申命記14:21) ここで言う「死んだ動物」というのは、健康体を屠殺したモノを指すのではなく、「病気などにより自然死したモノ」を指す。なので、疾病の拡散防止や衛生面で見る限り、その点は非常に正しいと言える。 しかし、それを旅人や異邦人に食べさせたり売ったりしてもよい、と言うのはどういう事なんだ?不良食品の販売を勧めているのか? 分かりやすく現代風に言えば、「我が国の国民には放射能で汚染された食物を販売する事は禁じるが、諸外国に輸出するのはOK」と言ってるのと何が違うのかと問いたい。キチガイ甚だしい箇所である。 今度は奴隷について見てみよう。奴隷の問題は女性蔑視とともに、聖書ではよく言及されている人権問題であり、歴史上の奴隷商人が自分の行動の正当化や男尊女卑思想家の自己正当化によく使われていた。 出エジプト21:20~21、申命記15:16~17などを参照してほしい。 自分たちがエジプトで奴隷生活をしていて、そのつらさをYHWHに訴えたわりには自分たちも同じように奴隷を活用していた事実に失笑を禁じ得ない。 それは置いとくとして、当時の社会状況を考察すると 奴隷から解放されても生計を維持する事が出来ない人はままいたとされる。そもそも奴隷としてつれてこられた場所(元々生活していた所)と現在の生活拠点が一致していたと見るのは難しい。なので、一生奴隷制度を推奨(?)しているわけである。これは人権的に正しいと言えるのだろうか。 また、奴隷は人間としての価値を全く与えられてなかった。出エジプト記21:30と21:32を引用したい。 もし、賠償金が要求された場合には、自分の命の代償として、要求されたとおりに支払わねばならない。(出エジプト記21:30) もし、牛が男奴隷あるいは女奴隷を突いた場合は、銀三十シェケルをその主人に支払い、その牛は石で打ち殺されねばならない。(出エジプト記21:32) 30節は「奴隷ではない一般人」を牛が殺めた場合である。この場合は飼い主は死刑、もしくは言い値の賠償金を支払うことになっている。 しかし、それ(被害者)が奴隷だった場合には32節の通り、飼い主は銀30シェケルという「はした金」だけで済むのである。人間の命が、たった銀30シェケルであるとYHWHは定義している。あほらしい神である。 また、モーゼ律法は「やるな、やってはならない」という否定的論法で満ち溢れている。それらは全人類に適するものではなく、ユダヤ民族の風習に纏わる様な話でしかないと言える。 例えばレビ記12章3節。赤ん坊は産まれて8日目に割礼(包茎手術)を受ける事が義務付けられている。 (余談だが、オレも病的原理主義クリスチャンの母親に生後8日目に医者の反対を押し切って包茎手術を受けた過去を持つ。傷跡が未だにあったりする) 割礼、即ち包茎手術は医学的見地で見て、それほど利になる事のないユダヤ民族の風習の一環でしかないと言える。 多くの「●×クリニック」とかの院長医師が包茎手術の利点・長所を強調していたりするが、それに該当する人は性器の表皮に問題を抱えているごく少数である事は言うまでもない事実である。 下世話な話から違う点に目線を変えよう。 あなたたちはわたしの掟を守りなさい。二種の家畜を交配させたり、一つの畑に二種の種を蒔いてはならない。また二種の糸で織った衣服を身に着けてはならない。(レビ記19:19) 毛糸と亜麻糸とを織り合わせた着物を着てはならない。(申命記22:11) 2種類の材料を使い混織された着物を着てはならないとされている。今時のご時世にポリエステルと他の材料との混織じゃない服を探すほうが難しく、また高価だったりもする。これを禁止している正当性が全く分からない。 そして食べ物に関する禁止事項はそれこそ膨大な数に上る。これだけで字数を相当食うので(mixiに跳ねられるので)、気になる人は是非レビ記11章を広げて読んでほしい。 食べてはならないとされている理由も「汚れている」とかとの一方的な決め付けで困惑しそうだが、仮にもYHWHが造ったとされる被造物を「汚れている」とかと定義している事に驚愕である。 YHWHは何故「汚れているもの」を創造したのだろうか?創造しなければ、そもそもこういった律法自体必要なかったではないか。 それに、汚れたものが皿に触れたら皿を割れとか、汚れたものが体に触れたら日没まで汚れるとか…荒唐無稽の極致と言える。なんだその「えんがちょ」と言いたい。 人間以外の生命体の多くを否定し(汚れているとかと勝手に定義し)、体に触れるだけでも「汚れる」と思うのはただ単にユダヤ民族の傲慢と独善から生まれたものではないのだろうか? さて、ここまで読んだクリスチャンからの反論が手に取るように分かる。 「上で述べた律法は全てイエスによって廃止(無効化)されたものなのに、何故それを責めるのか」と言うだろう。 しかし、その廃止された律法である「十一献金」は何故教会で行われているのだろうか。 そして、何故廃止された律法だらけなレビ記と申命記をバイブルにずっと加えているのだろうか。廃止されているのならば加える必要はなかろう? そして核心を一つついてみよう。 果たして、その旧約の律法は本当に、本っっっ当に廃止されているのか? その点に関しては新しい約束、つまり「新約」を見ればはっきりするだろう。 新約はこれについて二分する意見を述べている。 つまりは、「律法は廃止されている」と言及している反面、一方では「律法は廃止されていず、守らなければならない」と言及している。まさに自己矛盾である。 字数の関係で 一度切ります。続きはすぐにUPします。
Aug 3, 2013
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その4です。長い話でしたが、これで終わりですのでwまた違うところも見てみよう。 ヤコブはやがて、一族の者すべてと共に、カナン地方のルズ、すなわちベテルに着き、そこに祭壇を築いて、その場所をエル・ベテルと名付けた。兄を避けて逃げて行ったとき、神がそこでヤコブに現れたからである。(創世記35:6~7) この箇所(神がそこでヤコブに現れた)のヘブライ写本を見ると、ha-elohim(神が) niglu (姿を現した)と表記されている。 haは定冠詞であり、 nigluのuは英語でのs、複数形を意味する。 日本語では「現れる」という動詞の複数形の表現がないが、原文(写本)を見る限りは YHWHは複数形(エロヒム)で表現し、複数形で現れている。 ユダヤ人はカナーンの神「エル」を吸収したが、これは多神教であった。多神教思想であったがゆえに「複数のエル」が出現する事もありえた。 それまでエルを信仰していたカナーン人がユダヤと同化し、多神教から唯一神にへの変革の段階であったことは推測できる。その段階で、「エロヒム」という言葉は 時には「複数の神」を意味し、時には漠然とした「神」という意味でも使われ、時には「YHWH」を指し示す意味でも使われたに過ぎない。 その観点で解釈すると、複数形で表された「エロヒム」という単語は一般的な「神々」を言う言葉だと言える。 創世記において「我々」という単語や、神々という「複数形」の意味を持つ「エロヒム」が度々使われた事は、ユダヤの唯一神思想(YHWH思想)がカナーンにそれほど根付かなかった、という事を示唆しているだけに過ぎないと言える。 出エジプトでも同様であると言える。 出エジプト当時、ネゲブ地方に一時定着したヘブライ人(ユダヤ人)は、ミデアン族以外にもモアブ族、エドム族、アモリ族との交流・接触があり、モーゼが留守にした際には彼らの神である金の子牛(アピス神像ではないかと推測される)をも祭っている。 それ以降も、いわゆる「異邦の神々への崇拝」は途絶えることは無かったと言える。 ヤロブアム王は二体の子牛像を作ってヘブライ人に渡し、「見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である。」と言っている。(列王記上12:28) 列王記下18:4を見ると、ヒゼキヤ王がアシェラ像を倒し、モーゼの青銅の蛇を壊す。 出エジプト当事に モーゼがちょっとだけその神通力(?)を発揮したとされる青銅の蛇が、ヒゼキヤの当時まで崇拝対象であった事の裏づけである。 歴代記に記されている、ソロモンがエルサレムの神殿に装飾として施したと言われる二体の黄金の天使のモザイクは異邦宗教の影響であり、列王記上11:7に拠ると、ソロモンがエルサレムに神殿を建築するにあたり、エルサレムの東の丘(写本では山ではなく丘と表記されている)にモアブ族の神であるケモシュ神、アンモン族の神であるモレク神のための神殿をも建築している。 この点は、当時のユダヤ人の多神教主義を再確認できる点である。 (ちなみに写本では現代の聖書に表記されている「憎むべき」の表記は無い) この点についてクリスチャンからは「それはソロモンが異邦の女を妻に娶った事により堕落したのを示唆しているに過ぎない」と反論してくるだろう。 しかし、旧約の中ではYHWHは絶え間なく現実の世界に足繁く現れ(現代にも一度でいいから現れてくれ…)、過酷な罰を与える場面は数知れない程ある。 そのイメージ化にも拘らず、ソロモンはYHWHから何ら特段の罰を受けることも無く、富と栄誉を謳歌し、太平に暮らしたとされている。 YHWHは何故堕落したソロモンに罰を与えなかったのだろうか? その答えは実に簡単である。 聖書は唯一神を基礎とする、とクリスチャンは主張するが、聖書の中で「複数形」で表記されたYHWHは「神々の中の一つの神」に過ぎず、その数多の神々の中でのユダヤの神YHWHを信仰する、という事でしかない。 先述した通り、聖書の中では「神々の中の神」という表現は意外と沢山見つけられる。 びっくりする箇所を一つ提示しよう。申命記6:4に対する考察である。 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。(申命記6:4) これも原文(ヘブライ写本)に基づいて解釈してみよう。 ここでの「我らの神」の原文表記は「エロヒム」である。そして、「唯一」の原文は「エハド(E had)」である。 ヘブライ語のエハドは複数単一形である。 ピンとこない人のために説明すると、何かのものが12個揃っている状態を複数単一形で「1ダース」と表記する事がある。日本の複数単一形でいうと、10合は1升という複数単一形で表されるでのである。 これは「唯一」足りえない。 聖書はバビロニア時代において、4つの伝承が一つに合体し、現在の内容になったとされている。 言うならば、聖書は4つの異なる伝承が一つに無理やり合体した結果、創世記1章と2章みたいな致命的な矛盾だらけのものになってしまっているのである。 しかし、このような多神教信仰の慣習はイザヤ以降では姿を見受けられない。 現代の神学では、「唯一神思想」はイザヤ以降に定立されたとする見解が支持されている。 この時(イザヤ)は、バビロニアから既に多くの時間が過ぎ去った後である。 唯一神信仰はペルシア王ゴレスの統治下に置いて、第二のイザヤによって紹介されている。 (イザヤは一人ではない。イザヤは第三までおり、イザヤ書の著者は一人ではない) バビロニア捕虜時代以降になって ようやく、ユダヤの部族神エル・シャダイ(El-Shaddai、山の神の意)はその部族神という立場から「全知全能の唯一神」へと変貌を遂げるのである。 ペルシャの王達はその唯一神信仰を強要し、ユダヤの信仰・歴史・法・言語に多大なる影響を及ぼしている。 歴史的・考古学的な遺物をもってしてもこれは立証できる。 旧約時代のイスラエルにおける宗教的状況は、エルサレムにYHWHの神殿があったのにもかかわらず、まだカナーンの神々を崇拝していた痕跡がある。 考古学的に、バビロニア以降でも異邦の神々を崇拝していたと見られるカナーンの遺物が数多く発見され続けている。 元々 カナーンの神々は農業と関連が深い、豊作の女神達が主流である。 アシェラ(Ashera)、アシュタロト(Ashtoreth)、アナト(Anat) などの「豊作・生産」を象徴するカナーン固有の女神のみならず、遠く離れたペニキアの植民地であった北アフリカのカルタゴCarthage)出身のタニット(Taanit)の像までもが古代イスラエルでは崇拝の対象とされていた痕跡が見つかっている。 現在のイスラエル地域の発掘調査において、これらの神の像は 主に一般人の住居と推定される場所から数多く見つかっている。これらの多くは土で作られた土器である。 当時は青銅などの金属は非常に高価であり、一般人が個人で所有し得る信仰という次元での神の像は土器として、様々な大きさで大量に見つかっている。 一種の家の守神とも言えるこれらの土器や欠片は、その発掘量は発掘箇所の広さから 多くの人が所持していたと推定されている。そして、それらを大量生産できるような「型」も発見されている。 アシュタロト女神像は頭部を型を使い大量に生産し、それを胴体に嵌め込んだと見られている。 とある神像は作る際に頭部を鳥の形に簡略化されたものもある(ホルス?)。 タニット女神像は胸の部分に独特のリボン型の装飾がなされていて、右手は崇拝者を慈しむように上に掲げられ、左手は豊かさを象徴する乳房に添えられている姿が多い。 アナト女神像は穴があり、多くは棒等に刺して 若干高いところに飾っていたように推測されている。 また一つ、先述のようにペルシアのゾロアスターが唯一神信仰を確立させたという定説もあるが、エジプトの影響力も無視できない事をすこし触れておきたい。モーゼは存在を示すものが無く虚構の存在である可能性が否定できない上、モーゼ五経とされているものは全てバビロニア以降に登場しているが、もしも本当にモーゼが存在していたとするならば、多くの学者はその時代をエジプトの19代王朝ではないか、と推測している。 そのおよそ1世紀前の18代王朝のエジプトはアケナトン(Akhenaten: BC 1337~1354年の間統治)という王がいた。 アケナトンは元々「アモン:ホテプ(Amenhotep)」という名前であるが、彼は「アトンのお気に入り」という意味を持つアケナトンに改名している。 アケナトンは当時多神教崇拝であったエジプトに「唯一神アトン」を信仰するよう神学的な革命を敢行したが、これが歴史上の最初の「唯一神信仰論」だとされている。 アトン(Aten)という名詞は「太陽」を意味するものであり、これは太陽神ラーからの派生であると推測されている。 アケナトンの統治下ではエジプトはパレスチナやシリアに対する支配力を喪失し、国力は衰退したとされている。 結局彼は謎の死を遂げ、甥であったツタンク・アモン(ツタン・カーメン)が代位に付くが、やはり若年で突然死する。 そしてアケナトンの弟子(従者)であったアイが臨時にエジプトを統治した。 結局 唯一神論者達が政権を握った18代王朝は、国家の国力衰退による支援金切捨てに反感を持った司祭階級の激烈な反抗により没落し、クーデターを起こしたエジプト軍人ホレブにより第19代王朝へと移行するわけである。 歴史上 最初に登場した唯一神論は こうして脆くも姿を消したわけだが、このような古代の唯一神論が現代キリスト教の「YHWHの唯一神思想」に影響を与えた、とする学者も少しずつ発言力を増大させている。 個人的に特に注目する点は、アケナトンがアトン崇拝を広めるために作ったとされる「アトン賛美詩」が、驚くほど 聖書の詩篇104章と似通っているという点である。 一つの事実として、唯一神思想は常に この世での権力統一と一致する。部族国家(多民族国家)では唯一神はありえない。 唯一神思想は帝国思想(Empire)の成立以降である、という事は非常に興味深い。ユダヤ人も同様に、バビロニア以降になって ようやく「唯一神論」が固まるのである。 権力統一という観点での神という思想は 決して珍しい事ではない。 日本でも天皇は天照大神の子孫だとされ、かつてのある時代に置いては「現人神」とされていた点を考えると 分かりやすいと思う。 時期が開いたので ちょっと脈略に欠け、読みづらい文面にはなりましたが Vol.9は一先ずここまでとします。そのうち これについては もっと掘り進みますので、どうぞ ご期待を。 次回のVol.10は「YHWHの邪悪な律法」について書きます。 最近 某クリスチャン系コミュで しょうもない挑発とかばかり見てるので、おいおいと書くとは思いますが。そんなに時間空けないように勤めます。今回は 遅くなって申し訳ない。 それでは次の時まで、C U Next Time!Bye~
Aug 3, 2013
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全然 早めのUPでも何でも無かったこと、ご容赦くださいませw 前回の話の続きです。 それでは始めます。 創世記に記録されているアブラハム伝承(創世記12~25章)はヘブロン、イサク伝承(同25~26)はベルセバ(ヴェルセバ)、ヤコブ伝承はベテル、セゲム、ドゥダンと連結されている。 つまりは、これらの重要な話の舞台がパレスチナという極小かつ一定の地域に限定されている。 考古学的な発掘調査に拠ると、これらの地名は中期青銅器時代の中部パレスチナにおける代表的な都市であった、とする意見が有力視されている。 先述の通り、旧約聖書は各々の族長達の伝承がカナーンの特定箇所に結びつき、生成(形成)、展開されてきたと言える。 言わば、各族長の伝承は元々それら一つ一つが「独立した伝承」と言えるのである。 それら各伝承の「材料」は長きに渡り口伝として伝えられ、作られ(加味され)、編纂されて現在の文書になったと言えるのである。 即ち、ユダヤのYHWH信仰はアミニズム(Animism)と多神論(Polytheism)を基とする初期状態から単一神論(Henotheism)に変化し、最終的にYHWH唯一神論(Mono Yahwism)に「進化」したと言えるのである。 これらの点は神学で研究する旧約のカナーン征服の辺りで見ることが出来る。 カナーンに入ったアピル(ユダヤの始祖)達が山岳地帯を占領し、カナーンの民衆と「種族同盟」を結んだ事からも、それらの兆しは見て取れる。 このような時代背景はユダヤ人に宗教混合的な現象を齎した事は想像に難くない。 だとしたら、カナーンで「吸収」された「エル」という名称は どのように使われたのだろうか。 聖書を見ると、旧約の中ではエルという単語は「神」という一般名詞的な使われ方をされている。 バァルのような異邦の神を「エロヒム」と表記したり、サミュエルの霊魂を「エロヒム」と表記したりもしている。 「エロヒム」はその使用用途がかなり広範囲であり、正確に突き詰めるとエロヒム=YHWHではなく、エロヒム>YHWHとなり得る。 例を幾つか挙げてみよう。申命記5:7では「エロヒム」という単語が使われている。ここでエロヒムは、原本(写本)を見ると「他の神」に使われている。 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。(申命記5:7) 他の例も挙げてみよう。詩篇から引用。 主は大いなる神。すべての神を超えて大いなる王。(詩篇95:3) この箇所の写本を見ると、「YHWHは大きい(大いなる)エルであり、エロヒムの中で最も大きい(大いなる)王である事を宣言(する)」と書いている。 ここでも「エル」は神々の中の「一つ」として示され、「エロヒム」は神々そのものを表している。 今度は列王記からも見てみよう。 エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」民はひと言も答えなかった。(列王記上18:21) ここでも原文(とされているもの)を見てみよう。そこでは「もしYHWHがエロヒムであるならその後ろに行き、もしバアルがエロヒムであるならその後ろに行け」となっている。 当時としてはやはりエロヒムという単語はYHWH単体を示す訳ではなく、「神々」を表す一般的名詞として使われていたと言える。 即ち、「エル」という単語は最初はカナーンの人々の神に対する固有名詞だったのだが、ヘブライ民族との融合・同化の過程において「神」という普遍的な名詞になったと言えるのである。 「エル」が一般的な神の名称(単数形)として使われていたなら、何故 複数形である「エロヒム」という表記がこんなに多いのだろうか。 ユダヤの神は自分を「YHWH」と述べただけで、そのYHWHは単数形として扱われている。反面、エロヒムは「複数形」を表すが、これは「複数で記録されたものは尊厳を表す」と言った解釈が現時点での言語学的・神学的・考古学的な解釈として最も一般的である。 (どこかのクリスチャンがこれを「三位一体」の表現だと言うかもしれないが、その主張の虚構さについては また今度詳しく述べるので 今はスルーとさせて頂く) エロヒム=YHWHと仮定したら、何故YHWHは「複数形」ではないのだろうか。また、YHWHの事を表すときに、一部では「唯一」に反するような「複数形」が使用されている。創世記を見てみよう。 神は言われた。「【我々】にかたどり、【我々】に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」(創世記1:26) 主なる神は言われた。「人は【我々】の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」(創世記3:22) 創世記でYHWHは「我々の一人(One of Us)」、「我々の形(Our Image)」、「我々に似せて(Our Likeness)」と、明らかに「唯一」ではなく「複数」であるように言っている。唯一の神だとするならば、「我々」という単語は「私」に直されて然るべきである。しかし、複数形で表されていると言うのは「実は唯一の神ではなく、複数の神々が存在していた」と言うことを示唆するものではないのだろうか。 オフの明け方にこの作業してますが、文字数制限が(以下略)その4へ続きます…
Aug 3, 2013
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その2です。 他の場面も見てみよう。創世記の、ヤコブが天使(というかYHWH。これに関してはメタトロンであるとかガブリエルだったとかYHWHだったとか諸説あるが、ヘブライ語的にはエル、即ち「神」の名称が使われた事を記しておく)と戦って勝利した逸話を見てみよう。 ヤコブはYHWHと戦って勝利し、イスラエル(Israel:神に勝った者、神を組み伏せた者との意味)と言う名前を授かった。 ちょっと待て。なんかおかしくないか?自分にちょっとでも不忠義なヤツは情け容赦なく殺しちゃうYHWHが、こんな不名誉な名前を何故許したのだ?これは後述する当時の時代背景が謎を解く鍵になる。即ち、カナーンの神エルがYHWHと戦ってYHWH勝ったという事をを暗示する箇所でもあり、ヤコブがイスラエルという名前を得たのはYHWHがカナーンの神エルと同化した事を象徴する箇所でもあると言える。 エルという名前は地名や人名などにとても多く使われるようになった。例えばエリヤ(Elijah)は「神である」という意味であるし(ヤ、jahはYHWHの縮約である)、ヤコブがエサウから逃げる道すがらにYHWHの夢を見て、そこをベテル(Bethel:神の家)と名付けた逸話がある。 YHWHの場合、ことユダヤ教では「その名前をみだりに呼んではならない」と厳格に締め付けているのに、エルの場合は人名・地名はおろか、果てには「神に勝った者」という名前にまで広範囲に使われるようになった。そして、これがYHWHとエルの融合の証拠になりえるのである。 何故なら、現代のクリスチャン及びユダヤ民族を見てみよう。彼らは決して自らの民族や宗教的ルーツを語る際に「イスラヤ」とは言わずに「イスラエル」と言うのである。この「ヤ」と「エル」の違いは大きい。これを見ると、カナーン(patheon)の最高神エルとYHWHが程よく融合されたことが窺える。 その融合の理由としては、ユダヤ人のカナーン定着・定住が、カナーン族のエル教との同和・融合なくしては極めて困難であったから、と言える。これは、YHWH信仰がカナーン定着の過程で起こった他宗教との同和・一致運動の賜物であると言える。 旧約の序盤から始まった「神」に対する名称の混在は、モーゼ五経に対する四文書説(J,E,D,P資料)で分析すれば把握することが可能である。 即ち、モーゼ五経は4つの伝承によって成り立つが、色んな伝承がごちゃ混ぜになって今日の聖書という経典になったのである。(4資料説については今度詳しく述べる。待てない人は各自で調べるがよろしい) ここで20世紀の神学者、オルト氏(A. Alt)の研究を引用したい。(別にPCのAltキーとは無関係) オルトの研究によると、カナーン定着の過程において多くのユダヤ族長達がエル別称(El epithets)を共有し始めたという。旧約の文脈を見ると、初期のユダヤの「神々」は主に一般的神名(Generic Name)であるエルに説明句をつけた形で述べられている。(XXXエル、エルXXXなど) 例をいくつか挙げよう。多いので箇条書きになる事をご容赦頂きたい。 種族間同盟のエル別称(El epithets) ・エルシャダイ(Elshadai) 創世記17:1、28:3、35:11、43:14、48:3、出エジプト記6:3、エゼキエル11:5など ・エルエリオン(El Elyon) 創世記14:18~24など ・エルオラム(El Olam) 創世記21:33など ・エルロイ(El Roi) 創世記16:13など ・ベテル(El Bethel) 創世記31:13、35:7など これらの「神」を表すエルは、聖書の当該箇所を読めば分かるように山・川・木・石などの特定の場所と結びついている、いわゆる土地神・シャーマニズム的な要素を帯びている。 また、これだけではない。他にもエル別称(El epithets)は使われていた。それは、名も無き神々(Nameless Gods)がカナーンの定着の過程で、先祖や族長の名前をつけて登場した件である。 これも箇条書きで記そう。 ・アブラハムの神 創世記28:13、31:42、31:53など ・イサクの神、ヤコブの神、イサクを守った畏怖すべき神 創世記31:42、31:53など ・ヤコブの神 創世記49:24など これらには族長宗教(シャーマニズム)の傾向が強く現れている。この様な神の名称でわかることは、族長が崇拝している神は その族長の名前と関連付けて呼ぶ、という事である。 先述のエルが場所や物と関連付けされていたように、後述の方は族長に関連付けられていることが明白である。 このように、カナーンに定着した部族間でエル別称(El epithets)を共有することにより、徐々にYHWH崇拝がカナーンに浸透して行ったと見られる。 ※資料出展 [A. Alt / Essays on Old Testament History and Religion / Oxford: Basil Blackwell, 1966] 一先ずここまで。パート2は早めにUPします。 結構短く纏めたつもりでしたが、文字数の壁は厚いですね。今回の分で5000強。パート2も似たり寄ったりな字数で上がります。 なので 今回はByeは言いません。この話が全て完結して Vol.10に行くときに言いますw しばし待ってください。意外と執筆、大変なんです…裏付けやら証拠集めやら、それの吟味やら。 それをさらに要約して字にしてるので、時間がかかるのは諦めてくださいw 頭の中でヘブライ語と英語と日本語がゴチャゴチャしてますよ… 間にインターミッションといいましょうか、閑話休題と申しましょうか、いくつか気楽な日記も乗せますが、執筆は諦めたわけではないですのでw
Aug 3, 2013
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早9回目を迎えたこのシリーズ。可能ならば100回以上やってみたい! さて、今回はタイトルが過激です。 「YHWHは唯一神ではなかった」 これを聖書を基に説いて行く訳だから、クリスチャンにはたまらない話かもね。それではどうぞ。 旧約を見ると、YHWHははっきりと自らを「唯一神ではない」と言っている。 当該箇所を見てみよう。 その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトの【すべての神々】に裁きを行う。わたしは主である。(出エジプト記12:12) わたしが建てようとしている神殿は大いなるものです。わたしたちの神は【すべての神々】にまさる大いなる方だからです。(歴代誌下2:4) 異邦人の神、即ち「他宗教」の存在をを認めている、実に興味深い箇所である。また、ヨブ記も見てみよう。口語訳では出てこないが、新改訳ではこのような明記がある。 誰が鴇に知恵を授け、誰が雄鶏に分別を与えたのか。(ヨブ記38:36) ※鴇=トキ、と読みます。 鴇に知恵などなさそうに見える。個人的な主観で申し訳ないが、鳥頭という単語が浮かぶのである。 鴇と知恵を結びつけた因果関係を探ると、古代エジプト神話に繋がる事がわかる。 古代エジプトでは鴇はトート神(Toth)を表していると言える。トートは鴇の姿で現世に現れ、「知恵の神」と呼ばれているのだ。「鴇が正確に魚を捕って食うようにトートは正確である」という賛美詩もある。これもやはりエジプトの神を認めた箇所と捉えることが出来る。 他の箇所も見てみよう。 主よ、【神々】の中にあなたのような方が誰かあるでしょうか。誰か、あなたのように聖において輝きほむべき御業によって畏れられくすしき御業を行う方があるでしょうか。(出エジプト記15:11) この言葉もYHWHは決して唯一神ではなく、数多くの神の中の一つ、即ち「ユダヤ民族の神」に過ぎない事を示唆している。それに、この箇所はBC13~12世紀に書かれたと推定される、カナーンの他宗教の神の賛美詩を真似た節すらある。聖書にない箇所なので引用しよう。 おお、偉大なるバアルよ、貴方のような方が他にいるのだろうか。神々の中に、貴方のような方が他にいるのだろうか。(W.F. Albright / Yahweh and the Gods of Canaan/ P.12) 近代のクリスチャンが大きく勘違いしている部分でもあるが、旧約のYHWHは「自分だけを信仰するよう」要求しているのであって、決して「YHWHのみが唯一の神である」とは主張していない。 これがYHWHの主張なのである。 しかも旧約ではYHWHとエロヒム(Elohim)という二つの単語の混用により生じる微妙な問題が多々ある。YHWHが異邦人達の神であるエル(El, Elohim)と出会い、融合してしまった事を掘り下げ、ユダヤの神がどのような経緯で「唯一神思想」に向かったのかを詳しく見ていこうと思う。 まず、旧約聖書で「神」というものを表す単語は2つある。一つはYHWHであり、もう一つはエロヒムである。原文や他国版と見比べたら実に分かりやすいのだが、日本語版聖書では概ねYHWHはヤハウェもしくはエホバに、エロヒムは神に訳されているので見分けがつきやすい。 「名称は違えど同じ神である」と反駁する、聖書を読まないクリスチャンがいると思われるが、当該箇所をよく読んだらわかる話である。 それぞれの表記(YHWHとエロヒム)で、聖書の中での人格(神格?)すら大きく変わって記されているのである。簡単に一例をあげるならば、YHWHと記録された方は後悔したり怒ったり恨み言を言ったり嫉妬したり…と、非常に人間らしい感情を持っているのに反し、エロヒムで記された方はそのような人間的感情の描写がないのである。 これは極端的な例を挙げたら、創世記1章と2章の違いとも言える。創世記が二度記録されているのはそれぞれの記述の矛盾点で説明がつく。1章と2章での創造の順番が違うのである。 これは資料批判法に則ってヘブライ語写経を見るとよくわかる。創世記1章での神は「エロヒム」であり、2章での神はYHWHである。 先に一つはっきりさせておくが、バアル・エル・エレル・エロヒム…これらの言葉は実は同義語である。無論 細部的な神の性格はそれぞれ差異があるものの、これらの名前は全てカナーン人やペニケア人、ヒッタイト人及びユダヤ人において「偉大なる神」を意味する同義語であったのだ。 そして、YHWHを崇拝していたユダヤ人がカナーンに定住するようになり、カナーンの神であったエル・バアル・アドニス・タムズなどに影響を受けたのである。そして極論的に言えば、エルに限ってはYHWHと同化、というか融合しているのが良く分かる。 それはユダヤ人が複数神の存在を当時認めていたからに他ならず、バビロニア時代より前はYHWHは全ての民族の神ではなかったとも言える。ヘブライ(ユダヤ)12部族が全てYHWHを崇拝していた訳でもないのである。(そもそも12部族も占星術の12宮道のパクリである可能性が否定できない) ここでYHWHに融合された節のあるエルについて簡略に見てみよう。 エルは全ての神々や人類の父とされ、世界を造りし者であり、牛の姿で表されていた。レルという山に住み、大酒飲みで、若い頃に二人の姉妹を誘惑して妻に娶り、子孫をもうけ、砂漠に避難場所を持ち、家族で8年間砂漠で過ごしたとされる。バアルはエルの息子とされている。(モーゼ伝記と共通している所を死ぬほど突っ込みたいが、ここではスルー。悪しからず) この様なエルの性格は現代キリスト教においての「神」とされているものとは大きな差があるが、当時YHWHを崇拝していたユダヤ人がカナーンのエルと出会い、その「エル教」なるものが驚く事にYHWH教と摩擦無く出会っていた事を創世記14:19~22に見る事が出来る。 創世記14章にはアブラハムが争いに勝利し凱旋した折に、エルを崇拝する祭司、サレム王のメルギセデクがパンと葡萄酒をもてなした事が記されている。(当時は司政一致時代であるので祭司が王であった事に不思議は無い) いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。(創世記14:18) 「いと高き神」という単語をヘブライ語で見ると「エル・エリオン(El Elyon:エルの尊敬語)である。エルを信じていたメルギセデクが「いと高き神の司祭として明記されているのである。これに続く22節で、アブラハムは対抗してソドムの王に「YHWH」の名前で誓いを立てる。 アブラムはソドムの王に言った。「わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います。(創世記14:22) ここで記されている「主」は当然YHWHである。即ち、エルとYHWHは別の神であることが分かる。そして、この箇所はエルとYHWHがはっきりと区別できる場所で、エルがやがてYHWHと融合したのを暗に示す箇所と言える。 ほかの箇所も見てみよう。 いと高き神が国々に嗣業の土地を分け、人の子らを割りふられたとき、神の子らの数に従い国々の境を設けられた。主に割り当てられたのはその民、ヤコブが主に定められた嗣業。(申命記32:8~9) ここでも前出同様に、「いと高き神」はヘブライ語で「エル・エリオン」であり、「主」がYHWHである。この箇所でははっきりとエルは全ての人々に土地と人数を振り分ける、文字通り「最高神」として書かれている。そしてYHWHは単に「イスラエルを割り当てられた」だけである。どうみてもエルの方がYHWHよりパワーバランス的に上位であったことが窺える。多神論をより鮮明にしている箇所をもっと見てみよう。 神は神の会議のなかに立たれる。神は神々のなかで、さばきを行われる。(詩篇82:1、口語訳) 新改訳では少し意味が分かりにくそうだったので口語訳を引用した。 この箇所をクリスチャン的な立場(YHWHのみの唯一神思想)で読むと非常に辻褄が合わなくなる。即ち、「自分(YHWH)が自分達の集まりで裁いた」という、なんのこっちゃな文面になるのだ。 ヘブライ語版を見ると、最初の神と言う表記はエロヒム、次の神の表記はエルになっている。これは、ユダヤの神YHWHがカナーンの神エルの法廷に裁判長として出廷した、というような記述に他ならない。82章を読むとわかるが、エロヒム(YHWH)がエルを相手に裁判を繰り広げている。 エルに対する尋問が続くにつれ、詩篇の著者は「神(エロヒム)よ、立ち上がり、地(エル)を裁いてください」と言っている場面もある。 いずれにせよ、この「YHWHが【神々】の集まりに出向いて他宗教の神を尋問した」という件は、現在のキリスト教が固持してやまない「唯一神思想」やキリスト教理に完全に反する話である。 現在はmixiの過去日記からせっせと転載してるだけですが、それでも字数制限の壁が非常に鬱陶しいですね…その2へ続きます。
Aug 3, 2013
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その2です。 それでは、YHWHがシャーマニズム的な神っぽい面を見てみよう。ユダヤ人を解放したがらないエジプトに対するYHWHの反応は上記のシャーマニズムの典型的な姿を見せている。 あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。(出エジプト12:13) 子山羊や子羊を〆て、その血を門や柱に塗ったら「死が過ぎ越す」という話である。これは、クリスチャンが迷信と言って止まない「神社のお札を貼っての厄除け」と同レベルの話である。 主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々に命じて、わたしのもとに献納物を持って来させなさい。あなたたちは、彼らがおのおの進んで心からささげるわたしへの献納物を受け取りなさい。彼らから受け取るべき献納物は以下のとおりである。金、銀、青銅、青、紫、緋色の毛糸、亜麻糸、山羊の毛、赤く染めた雄羊の毛皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、ともし火のための油、聖別の油と香草の香とに用いる種々の香料、エフォドや胸当てにはめ込むラピス・ラズリやその他の宝石類である。(出エジプト25:1~7) 神殿を建築するという名目でYHWHが金目のものや材料を要求している件である。あほらしすぎてなんと言えばいいかもわからない。 上記をオレ的にパロディで言えば、仮にも全知全能の神ともあろう者が「教会を作るから、セメント・レンガ・PC・車・マイク・エアコン・ピアノ・土地・諸経費をよこせ」と言っているのと何一つ変わらない。上記の文言と同一であろう。何故ならば、必要な物を羅列しておいて「さあ、差し出せ」と言っているのだから。 これが「全能」なるものの姿なのか?全能ならば、自分の為の神殿くらい自分で一瞬で作れるのではないのか?物を捧げろというのは全能の神の所業であろうか、それともシャーマニズム的な性格を抜け出せない神の所業だろうか、どちらなのかは言うまでもなさそうである。 蛇足で付け加えるならば(本題からズレる事をお許し願いたい)、YHWHは全能とは程遠い。 自分が救いたいと願っている者も「自力でどないにかせぇ」と言って憚らない。ノアの箱舟は誰が作ったのだろうか。YHWHが与えたならもっと楽になったではないだろうか。ロトはどうか。一瞬で他の町にテレポテーションでもさせてあげてたら、ロトとその娘達は荒野で近親●姦に及ぶことも防げたではないか。世界を滅ぼし、街をも滅ぼすほどの全知で全能なるものがそんな事一つもできやしない。上記の出エジプトの件もそうである。わざわざ命を殺めて血を塗らなければ、YHWHは自分の民も識別できないという一面を曝け出しているのだ。これのどこが「全知」であり「全能」であると言えるのだろうか。 こんな野蛮的なYHWHの性格は旧約の後半部(イザヤ書以降)から徐々に改善の兆しを見せる。これは、当時(バビロニア)のユダヤ人に少しずつ浸透し始めたゾロアスターの影響ではないか、と推測できる。 事実上、現代の神学においてもユダヤ教が成立したのはイザヤ以降という見方が有力である。イザヤ書をかなり重視しているのである。また今度ゾロアスターに関する研究文でも載せてみるが、ゾロアスターからキリスト教に齎されたものとしては「天使と言う概念、死後の世界観、メサイヤ思想」などが挙げられる。 バビロニアの時にゾロアスターの流入により影響を受けたユダヤのYHWHは、旧約の後半になると段々と普遍的な神になって行く。しかし、YHWH信仰は根本的な限界があったとしか言えない。YHWHの排他性やシャーマニズムチックな礼拝行為はバビロニアが終わり、ローマ時代に至るまで続けられている。 結局、古臭いシャーマニズムチックなYHWHに取って代わり、新しい慈愛の神(イエス)が登場するのは当然と言えば当然な処置(?)であるとも言えよう。 現代の我々が目に出来るキリスト教の信仰に目を向けてみよう。世界の主要宗教の一つにまで成長したのにも関わらず、トテミズム・シャーマニズムからどれ程成長しているのだろうか。 プロテスタントがカトリックから独立するときに叫んだ「万民祭司長説」はゴミ箱に捨てられて久しい。プロテスタントは祭司(牧師)を中心に進行される教会中心の定義からは未だに脱していない。聖霊の名を借り、呪術師が自らを「牧師」だと称し、迷信行為に励んでいるではないか。 昔、科学と人文知識が体系化される前は、世の中の全ての現象は呪術により支配されていると信じられてきた。悪魔、もしくは神が全ての自然現象と関係していると思われたのだ。 そしてその神々(もしくは悪魔)に、人間を生贄として捧げていたが、これはやがて動物御供に取って代わるようになる。それ以降、人類が文明を発達させるにつれ宗教も多々なる発展・改革をしていることは事実であるが、キリスト教はその発展から目を逸らしているように思える。恐らく認めたくないのであろう。例題はいくらでもある。ダーウィンの話をしようか、それともガリレイがいいのだろうか。 未だにキリスト教が、またクリスチャンが旧約のYHWHから開放されていない現実を見るとかわいそうで仕方が無い。そして、その事実(自分達の信仰しているYHWHのシャーマニズム的な性格など)を鑑みずに他宗教を「迷信」などと断罪しているのを見ると、哀れを通り越してピエロのように見えるのである。 今回はここまで。何だかあまり纏まってない文面になったね。オレの文章力じゃ、こんなもんだわ… もうちょっと勉強するので、そこらへんは大らかに見て頂けると助かりますwwさて、次回はクリスチャンが激怒しそうなタイトルだよ! 題して「YHWHは唯一神ではなかった」をお送りするよ! 前に宣言した通り、絶対に手綱を緩めずに攻めるよ! それでは C U Next Time!Bye~
Aug 3, 2013
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意外と「クリスチャン」がよく見てるこのシリーズ。 よく見て、よく考えて、よく調べて、よく知ってくださいね。 「励まし」のメッセも意外なほどにクリスチャンから多数飛んでくる。 クリスチャンにも、理性がある人はいるようだ。 話が脱線しすぎたので、本題に入りますね。 今日は「アニミズム(animism)から発祥したYHWH」という題で。 宗教の発達過程を考察して見ると、それらの起源が自然現象に対する敬意によるアニミズムや、超自然的な現象との接触によるシャーマニズム(shamanism)、動植物などを崇拝するトテミズム(totemism)が基になっていることが多いのは周知の事実である。 キリスト教のYHWHもまたその範疇からは脱し得ないのが事実である。 前(このシリーズのVol.6)で言ったように、YHWHはシナイ半島にある山に深い繋がり、というか起源を持つアニミズムの一種であると言えるし、旧約に記されているユダヤ人の言動を見れば、随所にシャーマニズム・トテミズムが点在している事を把握できる。 旧約時代のユダヤ人は生物の血と肉を捧げることにより罪が許されると考えていた。特に、レビ記1章や出エジプト記29章などを見ると、YHWHは絶え間なく「傷の無い生贄」を捧げることを要求している。その動物の肉を分類しなければならないのもおかしいと思うし、血をテントに撒き散らさねばならない所も疑問だらけだが、何よりその生き物を燃やした香りが「宥め」であるという記述には唖然とさせられる。該当箇所を見てみよう。 奉納者が内臓と四肢を水で洗うと、祭司はその全部を祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。(レビ記1:9) それから翼を持って胴を引き裂くが、祭司はこれを裂き切らずに、祭壇の燃えている薪の上で煙にする。これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。(レビ記1:17) その雄羊全部を祭壇で燃やして煙にする。これは主にささげる焼き尽くす献げ物であり、主に燃やしてささげる宥めの香りである。(出エジプト記29:18) ※注:口語訳を見ると「宥めの香り」は「香ばしい香り」と表記されている どれ程の古代的な考えなんだろうか。口語訳で考えると、仮にも愛の神とかのたまうような奴が絶え間なく生贄を要求し、あまつさえその燃える香りを「香ばしい」と言えるのだろうか?それは「命」が燃える匂いではないのか?そこに愛はあるのか? 新共同訳の方で見ると、生贄で「宥め」ないと、何をするか分からないような凶暴な神、という事なのか?そもそもなだめるってなんだ…全知全能の神なのに。クリスチャンが全く以って自分の言動を吟味することなく傲慢に振舞う裏には、こういいうのが見え隠れしてると個人的には思う。「自分」が反省したりするわけではなく、他の「命」で償えばいい、というのをYHWH自らが宣告しているのだ。強烈な責任逃れである。 このような「生贄を捧げないと罪は許されない」という考えは実に稚拙で幼稚なシャーマニズム的発想である。ソロモンの件を見ると、YHWHに14日間礼拝しながら捧げた家畜の数が載っている。 ソロモンは和解の献げ物として牛二万二千頭、羊十二万匹を主にささげた。こうして、王はイスラエルのすべての人と共に主の神殿を奉献した。(列王記上8:63) 現代の口蹄疫でもこんな数まで行かないのに国の経済は大打撃である。はたして、古代は現代よりも豊かだったのか?14万2千頭の家畜を屠殺したとなれば、砂漠の地で遊牧生活が主であった当時としては国家の滅亡をも意味するほどの事であろう。この文言は、どこをどう読んでも、どう考察しても「嘘」であると思われる。でも、クリスチャンは「聖書には真実しかない」と言う。これほど辻褄が合わない話があるのだろうか。 神々の怒りを鎮める為に生贄を捧げる、と言ったような野蛮的な行為は古代の世界各地で行なわれた。それは事実である。しかし、愛の神様が…失笑ものではないか。 また、聖書には動物御供のみならず、人身御供もYHWHが要求していた部分が登場する。 有名な箇所は創世記のアブラハムとイサクである。牧師達はこれを「単なる信仰の試み」だと主張する。はたして本当にそうなのか? イザヤ・エレミヤ・エゼキエルなどをよく読むと、異邦人達が人間をグモスやバアルなどに生贄として捧げ、それをYHWHが見て激怒したのを牧師達は根拠として出してきて「YHWHは人を生贄としては受け取らない、喜ばれない。愛の神だからである」と主張する。 しかし、これは「異邦人が他の神に生贄を捧げた」からYHWHがキレているのであって、YHWH自体は人間の生贄を決して否定しない。YHWHがキレたのは「他の神に生贄を捧げた」からであって、「人を生贄で捧げた」からキレてるのではないのだ。 根拠は聖書にある。自らの娘(人間)をYHWHに生贄として捧げ、YHWHが受け取った事実があるからである。 士師記11章を見てみよう。エフタの誓いがあるではないか。 エフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。(士師記11:30~31) アンモン人との戦争に勝ったエフタは、その一人娘が迎えに来て大きく悲しんだ。しかしエフターは義理深い(?)ので、キッチリ自分の一人娘を血祭りというか火祭りというか…ともかくぶっ殺してYHWHに捧げたのである。(士師記11:36~39を参照) 自分の娘をぶっ殺して生贄とは、猟奇的にも程がある。牧師達は常々アブラハムとイサクに関するメッセージをする時に「YHWHはイサクを殺す気が無かった。YHWHは残忍ではない」と主張するが、エフタはどうなのだ?エフタの娘は何故ノンストップで死んだのだ?何故牧師達はエフタの逸話は取り上げないのだ? 他のも見てみよう。 また、自分の持ち物のうちから、永久に主のものとして奉納したすべての奉納物は、人であれ、家畜であれ、先祖伝来の畑であれ、それを売ったり、買い戻したりすることはできない。永久に奉納物はすべて、神聖なもので主に属する。特に、永久に神に奉納された奉納物が人である場合は、その人を買い戻すことはできず、必ず殺さねばならない。(レビ記27:28~29) 物であれ人であれ家畜であれ、一旦YHWHに捧げたら(そんな約束をしちゃったら)売買もできず、人に至っては「必ず殺すべし」と書いている。実にキリスト教の愛が見て取れる部分である。 民数記31章では、戦争で勝ったイスラエルが沢山の捕虜を従えて凱旋すると、モーゼがトンデモな事で怒る。「なんで女を全員生かしたんだ、処女以外は殺せ」と怒るのだ。(民数記32:15) そこでYHWHに献上された人間は32人に至る。(民数記31:40) このYHWHに捧げられた人間達もエフタの娘と同様、殺されている筈である。先述のレビ記で明記されているように、YHWHに捧げられた人は殺さねばならないのがキリスト教徒の流儀であるからである。実に「愛」に溢れた神であり教義ではないか(嘲笑) 文明学的な見地でこれらの宗教的行為を考察すると、これらの人身御供はやがて動物御供に取って代わる。古代宗教で見られた人身御供は、強力な王朝(文明の発達)の登場と共に、人間の代替、つまり動物御供に切り替わる。 主が死ぬと使用人も全て生き埋めにしていた殉葬という習慣も、時代と共に土偶などを埋葬することで代替された。(日本だけではなく、エジプトや中国などにも現存するものは多い) つまりは、野蛮的な方法から普遍的な方法に切り替わったのである。 この切り替えがうまく行かず、人身御供(イサク)を相変わらず「素晴らしい信仰」などと囃し立てるキリスト教は野蛮なのか否か、はっきりと分かるであろう。 また、シャーマニズム的な神格を持つ神々は得てして「人間的な感情を持ち合わせている」事が一つの特徴として認められる。そこで聖書を見てみよう。YHWHも他のシャーマニズミカルな神々と同様、後悔や嘆き、反省を繰り返している。数箇所提示してみることにする。 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」(創世記6:5~7) サムエルは死ぬ日まで、再びサウルに会おうとせず、サウルのことを嘆いた。主はサウルを、イスラエルの上に王として立てたことを悔いられた。(サムエル上15:35) 御使いはその手をエルサレムに伸ばして、これを滅ぼそうとしたが、主はこの災いを思い返され、民を滅ぼそうとする御使いに言われた。「もう十分だ。その手を下ろせ。」主の御使いはエブス人アラウナの麦打ち場の傍らにいた。(サムエル下24:16) 彼らが異国の神々を自分たちの中から一掃し、主に仕えるようになり、主はイスラエルの苦しみを見るにしのびなくなった。(士師記10:16) なんで「全知全能」ともあろう者が過ぎたことを苦心し、後悔し、嘆くのか。これは「全知」でも「全能」でもないではないか。 旧約の中でのYHWHは憤怒、嫉妬、誤解など、およ人間が持ちうる人格を全て有している。特に、自然災難がこれらの神格に反映されている節が多く、これらの「憤怒・嫉妬」などの性格は主にシャーマニズムにおける「神が崇められる主要因」でもある。 信者(シャーマニズムの)は、神の慈悲を請い憤怒を宥めるために熱心に信仰しなければならないのである。疑問に思うのならば、世界のシャーマニズムや土俗宗教を調べられたらはっきりすると思う。 また、YHWHの人格は名称によっても異なる。YHWHと記されている分では上記のような人格を有している反面、エロヒムと記されている分ではそのような人格が無い。これの理由は、旧約を資料批評法で解釈すると旧約が4つの伝承に別けられるからである(これは超長文になるので、今度詳しく述べる事とする)。 文字数制限のストレスがキツいですね…その2へ続きます。
Aug 3, 2013
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その1からの続きです。そんなYHWHにも怖いものはあったようだ。士師記1:19を見てみよう。YHWHの力は、鉄の戦車に遠く及ばないようだ(苦笑)。しかし、これの言い訳は士師記2:2~3にある。ユダヤ人がYHWHに不従順だったからだそうだ。子供の言い訳も、これよりはマシであろう。しかし、その繋がりで士師記3章を見ると、笑いを通り越して呆れてくるばかりである。士師記3:1を見てみよう。 中東一帯を全部征服しなかったのは、戦争を知らないイスラエルの子孫達に戦争教育をさせるためのものだと言っている。これが「愛・義」の神の姿なのか?そもそも「神」としての発言として正しいのだろうか?単に「鉄の戦車」に勝てなかっただけだろ? 今度は、別の人がいわれの無い罰を受ける場面を見てみよう。 サムエル下12:11を見よう。ダビデがウリヤを最前線に送り、その間にその妻バッセバを横取りした。これを見たYHWHは激怒し、預言者ナダンをダビデに遣わして、「お前の妻どもを他人に与えるぞ」と脅迫した。一見、クリスチャンが言う「公儀の神」に当てはまりそうだが、ちょっと考えてみよう。 罪を犯したのはダビデなのに、なんで何もしていないダビデの「妻達」が罰を受けるのだ?なんで他人にヤられなければいけないんだ?なんかおかしくないか?ダビデの妻達がダビデに「さっさと略奪愛しなさいよ」と煽ったのなら話も分からんでもないが… そして続くサムエル下12:15~18では、なんと子供が殺されている。ダビデはともかく、なんで何にも知らない赤ん坊を殺すのか。これが「義」だと思うのか。何故赤ん坊が罰を受けねばならないのだろうか。 サムエル下24:15では7万人もの人が虐殺されている。これは元々、YHWHがダビデに「人口調査をしよう」という心を持たせた結果である。YHWHは自分がそうさせたのにも関わらず、罰を3つ提示し、その中から一つ選べ!とダビデに迫り、ダビデは病を選んだ。その結果7万人の罪の無い人々が犠牲になったのである。 それも、7万人で済んだのはYHWHの愛のお陰だという。天使がエルサレムを全滅させようとしたら、愛の神(?)YHWHが「もうそこらでやめときぃ」と声をかけたから7万で済んだらしい。 罪を犯したのは人口調査を「勝手に」行なったダビデである。この罪を、何故無辜な7万人の人が背負って死なねばならないのか。「目には目、歯には歯」という形の復讐は理解できるが、これは余りにもアホらしすぎないか?そもそもダビデを煽り、囃し立てたYHWHの責任はどこにいったんだ? YHWHはキチガイっぽい。そもそもダビデを余りにも偏愛しすぎている。余りにもダビデだけに寛容である。前王のサウルが王位を追われた時の罪より、ダビデが犯した罪の方が遥かに重いではないか。国民を7万人も死なせねば納まらないような罪も、計画的な略奪姦通も、ダビデ自身は罰せられることなく無関係な人々が罰を受けている。おかしくないか?これのどこに「義」があるんだ? YHWHの試みは実に稚拙である。アブラハムには老齢で得た息子を殺せと言って憚らないし(実際は寸止めで事なきを得たが)、ヨブは子供はおろか使用人、果ては家畜までも全滅させられた。 試みをするのは良かろう。罰を与えることも必要だとは思う。 なんでそれが「関係の無い無辜な人々」へ向けられるのだ?イサクが何をやって生贄にならねばならないのだ?ヨブの使用人がなんか悪さでもしたのか?ユダヤの7万人は? 聖書上での「人間」は、「手段」としての人間に他ならない。聖書は人間の為のものではなく、YHWHの為にのみ意味を持つ書物である。人間の命はゴミのように扱われているではないか。どこに「YHWHが人間に愛を以って接している」事が見て取れるのだろうか。 たった一つの教訓の為に、たった一つの試みの為に、そんなに多くの命が犠牲になる必要性があったのだろうか?YHWHは全知全能なのではないのか?他の方法は思いつきもしないのか? 初代キリスト教会から5世紀前後までのおよそ4世紀の間、小アジアで力を持っていたマルシオニズム(Marcionism)の主張によれば、「旧約のYHWHとイエスは全く異なる存在である」と主張し、旧約を廃棄することを主張していた。(この点については字数上、今度詳しく説明するとする) マルシオン(Marcion. AD144)は「旧約のYHWHは劣等なユダヤの悪神」と断定し、代わりに新約のイエスを「慈悲と愛に満ち溢れた真理の救い主」と主張した。あながち間違っているようにも思えない。 ここで注目すべきはYHWHの表記である。旧約ではYHWHの名前が7020回出てくる。他にもエホバ・ニッシ(出エジプト記17:15)で1回、エホバ・シャローム(士師記6:24)で1回、エホバ・サンマ(エゼキエル48:35)で1回、エホバ・イルレ(創世記22:14)で1回出ているが、新約では1回も出ていない。 無論 その理由の一つに言葉もある。旧約は古代ヘブライ語で書かれている点も一つの要因ではあろう。しかし、初代教会の人々が言っていた「神」は、旧約の偏執的なものではなく、もっと普遍的な愛を叫ぶ神を彼らは表現したかったのではないだろうか。 クリスチャン達よ、どうか目を覚ませ。むしろ無神論者でアンチクリスチャンなオレがクリスチャンの皆様に「聖書を読みましょう」と勧めたい位である。 日曜日に牧師がメッセージで読み上げる文のみ偏食するのではなく、聖書の隅々まで全て読みましょう、という話である。聖書の片隅にある、暗くて邪悪な言葉をも。 その上で、自分が追従する神を今一度見てみたらどうだろうか。 YHWHは古代ユダヤの種族神以外のものではない。旧約の神であり、ユダヤの律法に縛られた哀れな神である。旧約のYHWHは決して愛の神でも義の神でもない。信仰の対象になどありえないのだ。 それは、廃棄されるべき非道徳的なもので彩られている悪神なのである。 今回はここまで。途中で字数が気になり、かなり削除したのをお詫びします。 (mixiではパート2にまで分けなくても書けました…若干不便ですね)聖書の文言は各々で聖書を開くなり、ネットでみるなりしてください…書くのも一仕事ですw さて、次は「アニミズム(animism)から発祥したYHWH」と言うのをお届けしますね! キリスト教が偶像崇拝だと言って憚らないシャーマニズム(shamanism)やらトテミズム(totemism)やらがキリスト教の起源だと聖書的に説明するからね!お楽しみに! それでは次の時間まで、C U Next Time!Bye~
Aug 3, 2013
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意外と大人気のこの企画(?!) そのうち、マジで本でも書いてみようかと思えるから不思議。 こういうのを きっと 思い上がり、って言うんだろうねw 待っている人がかなり多いから、ちょっとペースアップして書いていこうと思うよw さて、今回は「復讐と呪いの神YHWH」という題。 前回告知したように、ここからかなり厳しめの言葉が乱舞するので、そこんとこよろしく。 では、行きます。 YHWHはクリスチャンから、いや人々から「義なる神」、「博愛の神」と呼ばれるに相応しい神なのだろうか?クリスチャンは上記の麗辞をよく口にする。 しかし、旧約をよく読むと、YHWHは現代人が見ても到底納得できない逸話が数多く登場する。 神学校で習う、YHWHを表す言葉の一つに「脅迫の神(God of intimidation)」というものがある。 この言葉の通り、YHWHは実に暴君であると評価しても良いのではなかろうか。 例をいくつか挙げよう。サムエル上を見ると、YHWHはアマレクとの戦争で次のように命令する。 行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。(サムエル上15:3) YHWHは「子供も乳飲み子も」見境無く殺せ、という実に残虐な、呪われた命令を下す。サウルはアマレクに打ち勝ったが、アマレク人を殺す事より略奪する事に重きを置き、牛と羊は殺さずに略奪してきた。これがYHWHを怒らせ、命を背いたサウルに対して預言者サムエルを通じ、彼が王位から退く事を予言させる。 他のも見てみよう。 サマリアは罰せられる。その神に背いたからだ。住民は剣に倒れ/幼子は打ち殺され/妊婦は引き裂かれる。(ホセア14:1。口語訳では13:16) 聖書の章が変えられてる(改竄されてる)事はこの際目をつぶろう。本文を見てみよう。 サマリア地方の人がYHWHに背いたからと言って、幼子を殺すまではまだ理解しよう(?)。妊婦の腹の中の、生まれてもいない赤ん坊を殺すとは何事だ。 赤ん坊を殺すのは他にも有名な場面がある。クリスチャンならよくご存知の、出エジプトの逸話である。 出エジプト11章を見ると、数々の災難にもめげず(?!)ユダヤ人を解放しないエジプトのファラオにYHWHはとても苛立っている。(持ち前の奇跡でファラオの心を改心させない辺りが実にYHWHらしい)そして、その最後の災難がファラオだけではなく、エジプト中の全ての人・家畜の初子を抹殺する、という暴挙に出る。初子が成長していない家も多々あっただろう。天真爛漫な、ユダヤとエジプトの関係など全く知らず、それらに何の関係も無い子供らを、ただ「見せしめ」で殺したのである。 全エジプトが泣いた。ファラオはこの涙に打ち勝てず、ついにユダヤを解放する。 100歩譲って、大人はまぁ事情が分かるし、実利的なものもあるからいいとしよう。 子供に一体何の罪が?家畜に一体何の罪が?これはなんの虐殺なのだ?なんで子供が犠牲にならねばならないのだ?ただ、敵対的な異邦人を抹殺しようという陰湿な呪いに他ならないではないか。 この「何故子供を殺さねばならなかったのか」と言うのは、出エジプト20章でYHWHがモーゼに与えた十戒を見ると鮮明に浮かび上がる。 (前略)あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし(出エジプト20:5。前略部分は前の戒にかかる部分なので省略) 現代では赤ん坊も一人の人間として扱うが、古代の慣習の中には「連座制」というのがあり、罪人はその当人のみならず、その家族までをも抹殺し、いわゆる「お家断絶」状態にするという法があった。聖書の中のYHWHはその古代人の思考から抜け出せない、現代から見ると非常に時代錯誤な姿を曝け出しているのである。 (当時の慣習うんぬん、というクリスチャンの反論が予想されるので先に言っておくと、それを主張するならば、聖書の言葉が現代でも当てはまると言う言葉を取り消すべきであろう。都合よく「これはいい、これはダメ」というのは理論的に話にならないのだ) 他のも見てみよう。こんなもんじゃないのだ、YHWHは。異邦人に対してのYHWHの呪いは終わるところを知らない。 あなたの中からならず者が現れて、「お前たちの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と言って、その町の住民を迷わせているということを聞いたならば、それを尋ね、探り、よく問いたださねばならない。それが確かな事実であり、そのようないとうべきことがあなたたちの中で行われたのであれば、その町の住民を剣にかけて殺し、町もそこにあるすべてのものも滅ぼし尽くし、家畜も剣にかけねばならない。分捕り品をすべて広場の中央に集め、分捕り品もろとも町全体を焼き払い、あなたの神、主に対する完全に燃やし尽くす献げ物としなければならない。その町はとこしえに廃虚の丘となって、再び建てられることはない。(申命記13:14~17.口語訳では13:13~16) あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。ただし、女、子供、家畜、および町にあるものはすべてあなたの分捕り品として奪い取ることができる。あなたは、あなたの神、主が与えられた敵の分捕り品を自由に用いることができる。このようになしうるのは、遠く離れた町々に対してであって、次に挙げる国々に属する町々に対してではない。あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。(申命記20:13~17) 異邦人の男は皆殺しにして、女と財産は略奪せよ、という、実に愛と義に満ちたご命令である。 しかしこれは、前出の13章にある「そこにあるすべてのものも滅ぼし尽くし」と矛盾するではないか。ようするに、異邦人(男)を殺した後は略奪しようが燃やし尽くそうが、好き勝手に解釈してよいのだ。なんと便利な神なのだろうか。 同じようなのは他にも多数である。申命記7:1~5、同13:7~10もそうである。この箇所は「他宗教を信じる者は皆石で打ち殺せ」というものである。この箇所は、クリスチャンが他宗教を誹謗中傷する事の「正当化」によく使われる。 そもそも、こう言った残虐行為はYHWH自らが陣頭指揮を取り、直々に下命しているのである。(士師記6:25、歴代誌下34:7、申命記7:16なども参照しましょう) ヨシュア11:6~14を見るとさらに厳しい。カナーンに入るという大義名分の為に他民族を滅亡させる件である。「息のある者は一人も残さなかった」とは、まさに圧巻である。 これらに相関する場面を見てみよう。申命記19:1やエレミヤ19:9が代表的だろう。 彼らの敵と命を奪おうとする者が彼らを悩ますとき、その悩みと苦しみの中で、わたしは彼らに自分の息子や娘の肉を食らい、また互いに肉を食らうに至らせる。(エレミヤ19:9) エレミヤ18章、19章を見ると、エレミヤがYHWHに「どうか恨みを晴らして下せぇ」と祈ったのに対して、YHWHはこんなにも道徳的な呪いを賜ったのである。愛の神、義の神、全知全能の神にしては随分と「他の方法を考えない(考えられない)」偏執的な神であろう。 特に恐ろしいのは申命記28章に他ならない。YHWHの呪いの最傑作であろう。 申命記28章では、実に心の狭いYHWHが「自分を信じない人」に対して遠慮のない呪いをかけまくっている。字数の都合上、簡単に要約してみたい。 申命記28:15~69での呪いは次の通りである。 町にいても呪われ、野にいても呪われ、肺病、熱病、高熱病、悪性熱病、干ばつ、黒穂病、赤さび病にかかり、目暗になり、婚約者が他の男にレイプされ、悪質な腫瘍が全身に広がり、敵の奴隷になろうとしても買う人もなく、皿も呪われ、子供や穀物や家畜も呪われ、帰っても呪われ、出て行っても呪われ、死体は獣に食われ、種を蒔いてもイナゴが食べつくし、穀物を収穫しても他人が食べつくし、子供を産んでも捕虜として連れていかれ、自分の子供を食べつくし、子供の肉をも独り占めし、生まれたばかりの赤ん坊を密かに食べ… 内容が長すぎるので要点のみを簡略に言ってみた。実際はもっと長く、もっと詳しい。 これが「ウソだ」と思う人、もしくはYHWHの呪いをじっくり鑑賞したい人は今すぐ聖書を開いて申命記28:15~69を見てみよう。ウソかどうか。 YHWHは一頻り呪いをかけると、次のような麗句(?)で締めくくっている。 主は、かつてあなたたちを幸いにして、人数を増やすことを喜ばれたように、今は【滅ぼし絶やすことを喜ばれる。】あなたたちは、あなたが入って行って得る土地から引き抜かれる。(申命記28:63) 「滅ぼし絶やすこと」が愛であり、義であるとは さすがである(嘲笑) 士師記20:23を見ると、兄弟同士での戦いをYHWHが奨励する。和解でもなく、許しでもなく、気に入らなければ全て殺戮するのがYHWHの本性なのである。異邦人を「殺すべき相手、赤ん坊までをも殺し滅亡させるべき相手」とみるYHWHは、彼ら(クリスチャン)が断罪して止まないバアルよりも道徳性に欠ける悪神・雑神である。これらは、本当に「愛・義・全知全能の神」と言われるような存在の言動なのだろうか?それに相応しい言動なのだろうか?答えは否である。 他宗教だけに留まると思ったら大間違いである。レビ記20:27を見てみよう。口寄せや霊媒などの土俗信仰をも殺せと言っている。恐山のイタコさんたちはいい迷惑である(笑) 民数記15:32では、安息日に薪を拾った、という理由で死刑になっている。わずかこれだけの事すら赦せずして、何が「愛」で何が「義」なのだろうか。 列王記下2:23~24では、YHWHの使い(エリシャ)に対して「や~い、ハゲ!ハゲ!」とからかった「小さい子供」がYHWHの呪いにより42名も殺されている。小さい子供のちょっとした冗談も赦せない愛とは一体何物か。 サムエル上6:19では、70名がYHWHに殺されている。以前 戦争で勝ったペリシテ人がYHWHの「主の箱」を手に入れたが、YHWHによる災難に勝てず、この箱をユダヤに返還した。ベト・シェメシュ地方のユダヤ人は大層喜び、生贄を捧げて崇めたのだが、箱の中を見た、というだけで見せしめに70人を殺したのである。 歴代誌上13:9~10では、牛が暴れたのでYHWHの箱が落ちそうになり、これを防ぐために箱を支えようとしたウザが殺されている。罪名は「箱に触れたから」だそうだ。そのまま地面に激突して箱の蓋が取れてたら、今度はその場に居合わせた全員が殺されてただろうか。 列王記下1章ではアハズヤが病になり占い師に占ってもらった所、預言者エリヤに伺いを立ててない事にYHWHが怒って病気になったと教えられる。これに恐怖を覚え、エリヤを訪ねるようにしたアハズヤの使いを、エリヤとYHWHは100人余り火で燃やして殺した。人間の命をなんだと思っているのだろうか。 民数記26:61では、ナダブとアビフが自分の家の炭火で生贄を捧げようとして殺されている。どんだけ心が狭いんだか。 楽天ブログって文字数制限ハンパ無いですね…その2へ続きます。
Aug 3, 2013
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その1からの続きです。「YHWH」が「ヤハウェ(Yahweh)」や「エホバ(Yehowah)」と呼ばれるようになったのは、マソラのユダヤ人神学者達がYHWHに母音をつけてからである。 ユダヤ人は出エジプト記やレビ記の戒めを守り、YHWHの名前をみだりに呼ばず、どうしてもYHWHの名前を呼ぶべき所(聖書の朗読など)ではこのYHWHの部分をアドナイ(Adonai、わが主、と言う意味)という言葉で代用してきた。 後世に、このアドナイの母音とYHWHの子音を合わせたものでエホバ(Yehowah)という発音が編み出されたのである。 無知な人に突っ込まれそうな気がするので先に言えば、語学的に第一母音は第一子音の下では読み方が変わる。AはYの下ではEになるのだ。 これにより、16世紀の神学者達はYHWHをエホバ(Yehowah)と呼び、それが現代にまで続いているのだ。 それではヤハウェ(Yahweh)とはなんだろうか。これもアドナイに根拠を置く読み方であるが、AをEに変換せずに呼んだ読み方で、現在ではこちらが妥当性があるのでは?といわれている。 しかしオレはここから先もYHWHと書いていくつもりである。畏怖の心があるわけではない。どーでもいいのだ。そして、よほどの事が無い限り(どこかのコミュみたいに相手に尊重の心を示す必要がない個人の日記上の記述である為)、YHWHを「神」や「主」とは書かないつもりである。 YHWHとは「神」という崇高な名称に値しない残虐で偏執的な存在なのである。 ユダヤ民族のYHWHは、決して人類の文明上での「普遍的神性」など持ち得ないと断言する。 そもそも、全知全能な神に「名前」があることからしておかしい。名前は「人」がつけるものである。 今のオレの名前は親がつけたものである。皆さんもそうであろう。ペットを飼った事がある人は、ペットに名前をつけたことがあるだろう。それと同様である。ペットが自ら「オレをジョンと呼んでくれ」などとは言わないのだ。 今日はここまで。途中でサクっと聖書の矛盾を指摘しといたけど、そこがちょっと話がズレちゃったかな、と反省。 神が嘘をつくのがもうね…アホ過ぎ。全知全能なのか全痴全NOなのかがわかりはしない。 次回はちょっと辛辣に行くよ!題して「復讐と呪いの神YHWH」。 次回以降は クリスチャンの人は精神衛生上に悪いから見ないほうがいいかもね。 でも、見た上で信じるのもカッコイイかもね。オレは無理だけど。 というか、ここまでがソフト過ぎた位だね。もうちょっと攻撃的に行くよ。 クリスチャンからしたら、オレはややこしいんだろうね。下手に神学齧ってて、理論で否定されると辛そうだもんね。 どこかのコミュでは聖書の矛盾を指摘したら「矛盾してたらなんですかwww」って書いてた人もいたけどね。そもそもの前提が「神は絶大であり、必ず存在する」というのがクリスチャンの論理の前提なのに、それの矛盾を説明できない時点でもうwww ここから先は ちょっと攻撃性が増します。聖書に依って、またほかの歴史的な資料や科学で証明された事なども挙げて、全力でキリスト教を否定していきます。 現在の予定ではパート100で終わると思います。てか、それ位書けるほど聖書はおかしい部分が多いわけで。 何故こんな事をするんだ?という質問が前にメッセで来てましたね。とあるコミュで質問してた時ですけれどね。 その時は「疑問点の解明」と答えたよ。それも間違いじゃない。未だに研究もしてるし、悩んでる。 下手なクリスチャンよりよっぽど聖書読んでると思うしね。てか、反論かますクリスチャンって、ホント聖書読んでないヤツ多いしね。 でも、本音で言えば クリスチャンが大っ嫌いだからに他ならないよ。 あのウンコみたいな選民思想、謙りなど一片もない傲慢さ、何の権限を持ってるのか知らないけれど人を一方的に断罪する高圧的・威圧的態度、他宗教を誹謗し続ける不遜さ、他に救いなどないと言い切る排他性…どれもこれも鼻持ちなら無い。キモい。 なので、ここで好きなだけ辛辣にキリスト教を攻撃してみようと思うわけ。 とあるコミュのバカ一人が、大人しい論調で喋ろうとしてたのに火をつけてくれたよw 全力で否定するよ。ここでは一切の遠慮もなく、ね。 クリスチャンの最もな問題点は、前提が「神は存在する」以外が無い事。 そもそも「神は存在するか否か」については、「いる」としか彼らは言わない。そして、その根拠は聖書かスピリチュアルな体験談しかない。オウム真理教と変わんねぇよ、それ。 おっと余計なお喋りが過ぎたね。次回はいつになるかは未定だよ! キリスト教以外の論題もあれば言ってね!分かる範囲でいろいろと主観を言うよ! それでは次の時間までごきげんよう! C U Next time! Bye~
Aug 3, 2013
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何かと難しい話をしたら 何故か興味を持つ人が多い。うーむ。 オレだけが「ややこしい」人、じゃなかったようだ。一安心wwww 今日は「YHWHの語源と起源」について語るよ! キリスト教の神YHWHの名前はどこから由来されたのか。 この四文字の解釈も、「ヤハウェ」というのと「エホバ」というのがある。 旧約を見ると、アブラハムにYHWHは自らの名前を「YHWH」だと自称している。多くのクリスチャンもそういう風に理解している。 しかし、アブラハム自体がそもそも虚構の存在である可能性が否めない。歴史上で明らかになった点を見れば、エジプトやカナーン地方で「アピル」と呼ばれていたセム族系列の遊牧民がユダヤ民族の始祖として知られている。(この点については長くなるので、後ほど「ユダヤ人の起源」というのを別に寄稿するので待って欲しい) 最近発見されたアマルナ文書(書簡)などによると、アピルは部族的・家族的な「家柄」と呼ぶべきものが存在せず、国家組織に軍人(傭兵)として雇用されたり、ロマのような自由な生活を営む、多様な起源を持つ「非定着的人々」として記されている。即ち、多様な部族から成り立つ人々で、移住して集まった部族であり、その移住の時期も様々であると言える。 このバラバラな背景を持つ人々が一つの民族的唯一神を信仰すると言うことは妥当性に乏しいのではないだろうか。 だとしたら、ユダヤ・ヘブライ民族の始祖とされているアピルはいつからYHWHを崇拝していたのだろうか。出エジプト以前の話を一先ず除外してみると(神話的なので創世記は除去します)、モーゼから始まると推測してよかろう。 モーゼはエジプト人に迫害されていた同族の問題でエジプト人を殺害し脱出する。そしてミディアンの地に安住し、そこで「神の山ホレブ」でYHWHに対面し、同胞を救出せよ、との指令を受ける。これを「シナイ契約」と言う。 ちょっとここで聖書の言葉を一つ 先に挙げておきたい。 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった。(出エジプト 6:3) ここでYHWHはアブラハムやヤコブに「名前を知らせなかった」と明言しているが、これは真っ赤な嘘である。創世記12:8節と創世記21:33ではアブラハムが「神の名を呼び」礼拝をしている。 アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、【主の御名を呼んだ。】(創世記12:8) アブラハムは、ベエル・シェバに一本のぎょりゅうの木を植え、永遠の神、【主の御名を呼んだ。】(創世記21:33) また、創世記22:14ではアブラハムは「主は備えてくださる」という意味を込めて「ヤハウェ・イルエ」という「地名」を作っている。 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。(創世記22:14) 教えてるじゃねぇか… まぁ、こんなしょーもない嘘はキリスト教ではありふれてるし、今日はこういうのを突っ込むのが目的ではないので先に進もう。 上で引用した最初の聖句、出エジプト記6:3での「全能の神」と言う言葉に着目したい。 これの原文は「エル・シャダイ(El Shaddai)である。 多くのクリスチャンは知ってると思うが、このエル(El)は神、という意味である。 シャダイというのは「山」を意味するアッカード語(Akkadian)のshad(um)から由来されたと見るのが聖書学的にも一般的な解釈である。 これを直訳すると「山」と「神」なので、「山の神」になって然るべきだが、どこをどう間違えたら「全能の神」になるのだろうか。実にアホっぽい訳の仕方である。 これに対して、保守系キリスト教の人々が本気で主張している説を紹介したい。彼らは、高いところ(=山)にいるので、全能の神と翻訳しても差し支えない、むしろそうすべきだ、と主張している。これ、ホントだから。 でも、ここでオレは果敢に言ってしまおうと思う。それは詭弁である。 本当の理由は、「山の神」と直訳してしまえば、キリスト教が異端として罵るアニミズム(Animism)が連想されてしまうからだと思う。というか、他に理由がありえない。 語源的にもそうだし、聖書的に見てもYHWHは「山の神」と訳すのが正しいと思われる。 例をいくつか挙げよう。創世記12:8ではアブラハムが「山」で神を呼び礼拝し、創世記22:2ではYHWHが「山」でイサクを生贄に捧げろ、と言っている。先述の創世記22:14の訳は、日本の聖書ではないものを読むと「神の山で備えられる」という翻訳がある。(日本の聖書は口語訳であろうが新改訳であろうが、やたらと諸外国の聖書と比べて訳が簡潔かつ杜撰である)出エジプト3:1では、モーゼは神の「山」ホレブに登る。 礼拝や生贄を捧げるのは山であったし、モーゼがYHWHとシナイの契約を交わしたのも山であり、彼が十戒を受け取ったのも山である。語源的にも聖書的にも、やはりYHWH(El Shaddai)は「山の神」と訳されるのが正しいのである。山の神≠全能の神である。 「山の神」以外の見解も存在する。フェミニズムにイカれたクリスチャンの一部は、エル・シャダイを「乳房のある神」と主張する論もあるのだ。根拠として彼らは、シャダイが「乳房」を表すヘブライ語と似通っているという点を主張する。(שד) しかし、多くの神学者の見解と同じように、シャダイは「山」と訳すのが状況的にも語源的にもしっくりとくる。YHWHは「福(豊かなること)」の象徴として乳房に言及した事はあるが、YHWH自身をこれと同一視したことはない。 それに、父系社会を基盤として遊牧生活を営んでいたユダヤ人にとって、「乳房がある神」というのは即ち「女神」としての誤解を生んだはずである。父なる神か、乳なる神の差か。 また、旧約で女がどのように表記されているか、どのように扱われてたのかは、ちょっとでも聖書を真面目に読んだ人・勉強した人ならばよく分かるはずである。 個人的には嫌いであるが、フェミニスト運動もまぁ…必要と言えば必要なのかもしれない。しかし、聖書を土台としたフェミニスト運動は無茶である。ちゃんとしたフェミニスト運動をしたいのならば、まずは聖書をゴミ箱に突っ込むトコから始めないとどうしようもなくなっちゃう。 でも、オレにとっては乳房がある神、というのもそんなにヘンではないと思う。オレから言わせれば、チンチンがぷらんぷらんしてる神もオッパイがぼいんぼいんしてる神も、そんなに大差ない。 エル・シャダイが「山の神」だか「乳なる神」だかはひとまず置いて、YHWHという「神聖四文字」についても見てみよう。 これ(YHWH)は全て子音で構成されている。豆知識を一つ言えば、YHWHは旧約全体で7000回近く出てくる名前だが、新約になるとこれがさっぱりない。 イスラエルの神であるYHWH。これの本来の意味はまだ分かってないが、一説では「ある(存在する)」という意味の動詞ハヤ(hayah。最初のHを強く発音(アクセントをおく)と”生きる”という意味にもなる)が変化した言葉で、「在る者、生かす者」という意味だという説もある。また、神学界では異端として扱われた意見の一つ(ゲン族仮説)によると、モーゼが身を寄せたミディアン人だったという点に着眼し、YHWH信仰はそもそもミディアン人からのものであった、という仮説すらあり、語源もそこからでは?とも言われている。とある学者は、YHWHは南ネゲブ地方とアカバマンの間の地域でのみ信仰されていた神の名前である、という推測もある。それらのどの説を見ても、また時代的背景・歴史的根拠・聖書的解釈をみても共通するのは、YHWHの名前と「山」は密接である、と言う点である。 文字数制限がかかりましたので、続きはその2へ。
Aug 3, 2013
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まだまだ続く、極悪一神教への反論シリーズも早5回目。 今日は「キリスト教=ファシズム」という題材で語るよ! それでは本題。 キリスト教の神、YHWHは一体どんな神なのだろうか。 多くのクリスチャンが主張するように、世界のどの宗教の神よりも広い包容力と慈悲を持っているのだろうか。 本当に高等宗教の神としての神格性はあるのだろうか。 YHWHはそもそも「神」と呼ばれるに相応しいのだろうか? とあるコミュと違い、オレはここではなるべくYHWHを「神」とは表現せず、YHWHと呼ぶことにする。 何故ならば、神としての資質に未達していると思われる。散々先述しているので、YHWHの非道徳性など、人よりも劣っている分は 是非過去の記述を参考して頂きたい。 牧師・宣教師・神学者のメッセージやコラムなどを目にすると、「義なるお方」、「慈悲・愛・慈しみ深い方」など…それこそあらゆる哲学的表現までをも総動員してYHWHを賛美・美化する。 これを聞いてたら、まるでかつてのアーリア民族がヒトラー(Hitler)のナチズム(Nazism)について熱狂的支持・賛美を送っているところを彷彿させる。 ヒトラーは他民族に対しての排他性が強かった。 特に、ヒトラーが政権を掌握する前にドイツの経済界を掌握していたユダヤ人を極度に嫌悪し、大虐殺による民族浄化を試みた。そんな彼が戦争を起したのも、ある意味納得が出来よう。 中国の「中華攘夷」と同じ思想であるのだ。排他性は、こうも怖いものである。一方、YHWHも異邦人・異邦民族に対する排他性は負けてはいない。 エジプトではなーんにも知らない、罪も無い赤ん坊を殺戮して回った。 特にYHWHが嫌悪したのはアマレク・モアブ・アンモン族である。これにYHWHは戦争をしかけ、無残にも全滅させてしまう。 (ちなみにモアブ・アンモン族の先祖は、ソドムとゴモラで唯一神により義の人とされたロトである。すげぇ!YHWHは義だろうがなんだろうが殺すのだ!) ヒトラーはかつて「優秀な遺伝子を後世に残すため」、障害者やロマ(ジプシー)などをも虐殺し、身体的欠陥で病院に入院していた患者を駆逐・抹殺した。 YHWHも、身体に傷がある(障害がある)物は不浄な(汚い)存在だと罵り、共同体から追い出せと申しておる。うーむ、似ている。 ヒトラーは性●錯症候群であったと知られている。アーリア民族の中で、肉体的に健康な若い男女に早婚を勧め、優秀な人種を後世に継ぐよう厳命している。また彼は、血が混ざる(混血児)事を極端的に嫌悪し、ヒステリックな程に恐れていた。 YHWHも同様に性倒●症候をみせている。性的不具者に対する病的なまでの嫌悪感と、兄の嫁と一緒に寝てでも代を継げと強要している。(オ●ニーの語源)同じように、異邦人との混血を何よりも嫌悪していたのである。 ヒトラーとYHWHはこれほど共通点が多い。端的に定義付けるならば、一つ目はドイツのファシズム(fascism)であり、もう一方はユダヤのファシズムであると言える。 でも、相違点もある。ヒトラーは少なくとも女性を差別はしなかった。(ユダヤ人の女を侮蔑したのは民族的な見解であると言える) その点を見ると、YHWHはヒトラーにすら劣る存在ではないか。 現代のクリスチャンが、このような血生臭い古代ユダヤの民族神を「汎神論」や「無所不在」などというので飾り立てるのは、聖書に書かれてる言葉で言うと まさに「「豚に真珠」なみに似合わない事である。 こんな古臭いユダヤファシズムを現代において盲目的に賛美・美化することは嘘の流布であり、偽善ではないのか。 クリスチャンは互いに異端と罵るだけでは事足りず、キリスト教とはなんの関係も無い宗教や思想にまで誹謗中傷を行なっている。 「悪魔(サタン)」、「異端」、「無救済」、「虚構」…など、数々の美しい(??)単語を羅列し、キリスト教が持つ邪悪性・排他性を余すことなく曝け出している。 クリスチャンは、●○な音楽はサタンの音楽だとか(教会在籍時、ツェッペリンが好きだと言うことで牧師にどえらい説教喰らったぞオレ)、アメリカの△▲(企業名)が悪魔崇拝者に巨額の献金をした(調べたらすぐ出るよ)とか、実にくだらない虚偽事実を流布しながら、サタンの存在を心から恐れ、その恐怖に身構えている。(文化をサタンとか断罪しててよく言うよ、と思うが) しかし、サタンも、サタンを崇拝する人も他にいるわけではない。 クリスチャンが信じているYHWHを直視してみよう。これは善良的なのか、悪魔的なのか。 6回目のCMっぽくもなるが、次回よりオレは牧師がメッセージの時間に使うのを躊躇うような、聖書の片隅に追いやられた暗い面を白日の下に一つずつ曝け出す。 だからと言って、オレは決して「YHWH=SATAN」という公式を完成させようとしているのではない。 どちらかと言えば、キリスト教を知らないノンクリスチャンが間違った事を洗脳されないように、そして既成の独善的クリスチャンを聖書という足枷から開放できれば、と思っている。 聖書が人間によって作為的に創作された、と言う点を真に理解すれば、もうこれ以上牧師の奴隷みたいな信仰生活を送らなくても済むではないか。 「神」「神」「御業」「奇跡」などを挙げ連ねる鬼畜な洗脳集会にも行かなくても済むではないか。 また、他人を貶すことも無くなり、「サタン」、「異端」、「異教徒」、「反キリスト」、「無救済」、「虚構」などという既存の狂信的クリスチャンの常軌を逸した行動に混ざらなくても済むではないか。 もう一度言う。聖書の文字から、クリスチャンは解放されるべきである。 今日はひとまずここまで。うーん、なんか今回は感情的な文になったかもね。 え?毎回だって?あらそう。 実は、最近 かなりサイコなクリスチャンと話す(コミュのトピで)機会があったけど、実に失礼で高圧的な話をされてカチンと来たのさ。柔和路線で行こうかとも思ったけど、ここでは強硬路線を崩さないで、延々 キリスト教の虚構性を断罪していくことにするよ。 彼らが他宗教や他人にしているようにね。 「自分はOKだけど他人はNG」などというジャイアニズムをオレは認めない。 あれはマンガだからOKなのよ。現実にやったら常識はずれすぎるってば。 次回はちょっとアンチキリスト的では無い所の考察を一度しようと思うのね。 いや、なんというか、全面否定をするならば、彼らの主張を前提にしたほうが楽でさ。 不遜で嘘だらけで不誠実で矛盾してるし。 でも、次回は本当にキリスト教的な内容になるかもしれない。アンチのみんな、ごめん! 大いなる反撃の前奏曲だと思って、笑って赦して! 次回は「YHWHの語源と起源」について考察するよ。お楽しみに! それでは C U Next time! Bye~※追記※この日記は、元々mixiで気楽に連載していたモノです。そこからの転載なので、表記にそれらのニュアンスを匂わせる部分があろうかと思われます。その点、ブログだと若干の違和感を感じられる方が居られるとは思われますが、一つご理解の程をよろしくお願い申し上げます。
Aug 3, 2013
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その1からの続きです。幼い時から悪とは何ぞや?ふざけてるのか?これも「人は生まれながらに悪」と定義している。 ノアの洪水で皆殺しにしといて、「義人」ノア一家のみを助けて言う言葉がこれか… だからノアの洪水やアマレク人の大虐殺、その他にも見られるように「罪を犯す余地の無い」赤ん坊までも皆殺しなのか?それじゃ、なんで処女は助けてるんだ…www また、ヨハネの黙示録には終末が「はっきりくっきりしっかり」明記されているが、創世記にはノアの洪水以降YHWH自身が「もう二度と生き物を滅しない」と、これまたはっきりくっきりしっかり明記している。 YHWH程の前言撤回の名人は見たこと無い。虹の意味ねーじゃねーか。 そして、選ばれて救われたノアの子孫たる俺らが堕落して終末を避けられない、というのはまた何と言う論理なんだ? ロトを見てみよう。ソドムとゴモラの審判の際、「義人」ロトと二人の娘は助かっている。他の人々は「堕落した」という理由で火により全滅した。 しかし、その選ばれた「義人一家」が「近親相●」で子供をもうけた猟奇的事実はこれまた何ぞや?選択された「義人」ですらその有様なのに、人類の終末から救われるとされたクリスチャンは堕落しないのか?(これに対しては後ほどまた語るので…) 人間は神の人形でも、おもちゃでもない。自らの意思を持った存在である。 十戒の2番目を見ると、罪は3~4代まで(しか)続かないと明記されている。どんな重い罪であっても(神を冒涜しても)、3~4代代替わりしたら、その罪の影響は消えると言うことだ。 こう記されているにも拘らず、アダムの罪は一体何代続いてるのだ?それはどうやって説明するんだ? これを言うと、「その罪を贖う為にイエスが来られた」と多くのクリスチャンは証言する。しかし、イエスが全ての罪を購った証明は?現在でも続く原罪がなくなってないのは何故だ?贖われてないのではないか! 人間は完璧ではない。なので我々は多くの道徳的欠陥を持って生きている。 それを「原罪」と呼ぶならまだわかる。しかし、不完全な俺らがその限界点を持って生きているのとYHWH・イエスと何の関係があるんだ? クリスチャンはこう言う。「人間は道徳的に不完全な存在である。よって、イエスを受け入れなければ救われない」… 一体イエスが何だと言うのだ!彼がなんの権限を持って罪を赦す赦さないなど行なうのだ?彼が神という証拠はどこにある?そして彼の死が我々の罪を贖った証明は?原罪が消えてないではないか!!! 中東の小さなユダヤの地に現れた一宗教家の生死が我々日本人、もしくは中国人、はたまたアメリカのネイティブインディアンの生活になんの関係があるのか。上記で言ったクリスチャンの言葉の三段論法には真ん中がすっぽり抜けている。これを理論的に埋められるクリスチャンはいるのか?出来ないのなら、やおらやたら「原罪」とか言うな!! キリスト教は二元論的論理に傾きすぎている。 イエスを信じれば救われ、信じないと地獄行きで…性悪説こそ真理で、性善説など間違いだ、という二元論である。 この二元論によってどれほどの数の人々が虐殺され、魔女や異端に断罪され死んでいったのだろうか。 キリスト教は人間を「罪人」としか言わない。何故人間の中身に善、もしくは悪しかないのだろう? 「うしろめたさ」などと言う言葉はクリスチャンは知らないのか? キリスト教は人間が持つ罪悪感を赤裸々に刺激する。その後で、「イエスは罪を赦してくださいます」と言う。すごいマッチポンプである。 人はこの無限のパラドクスの中で、心理的にどんどん追い詰められるのだ。自分の罪をFormatしてくれるという甘い言葉から離れることが出来ない。 繰り返される罪の犯しとそのFormat(悔い改め)に慣れてしまったらもうアウトだ。時には「罪を犯す」という感覚に対して鈍感にすらなるからだ。気になる人は、宗教別の犯罪発生率を見ると良かろう。トップは断然、とある一神教である。 仏教ではそれら全てを「業」や「徳」で表している。そこに仏陀に対する信仰はない。仏陀は「先生」なのだ。しかし、キリスト教はそうではない。(誤解されるやも知れないので先に言うが、俺は無神論者であって決して仏教徒ではない)イエスが言った葡萄農園の話(マタイ20:1~16)でも見られるように、どんなに「手遅れ」な状況であってもイエスを信じさえすれば罪は赦されるという。これのどこに道徳性があるのか。 刑務所で最も人気の高い宗教はキリスト教だという。そりゃそうだろう。 どんなにケダモノの様な犯罪を犯しても、祈ったらFormat。仏教が刑務所で人気が無い理由がそこにある。仏陀をどれほど信心しても、業は消えないからだ。 でも、おかしくないか?罪を犯した当人に謝罪の気持ちが現れて初めてその人は「罪を悔いてる」状態になるわけで、当事者でもないイエスが「貴方を赦します」と言ったからって反省したことになるの? イエスに100回、1000回「赦してください」と祈った所で、当人が心を入れ替え、自分の罪を悔いないと話にならないではないか。でも、キリスト教が言ってる赦しはこれなんだよね。 自分の傲慢さ・不遜さは見向きもせず、「イエス様に赦してもらった」と錯覚して生きてるクリスチャンを見ると言葉を失する。イエスに赦しを請う前に、自分の心は本当に良化したのか考えてみる事をお勧めする。じゃないと、話すのがバカらしいのよね。ぶっちゃけ。 キリストを信じるとアラ不思議!人間はみんな「罪人」にしか見えなくなる。 キリスト教の布教方法は実に単純で、人の善良なる所を奨励するのではなく、人間自体を「罪人」として追い込み、神に依存するように仕向ける。そして、エンドレスに「罪を犯し」、「神に赦しを請う」という反復作業に入るのだ。 キリスト教は原罪論に基づき人を「罪人」として追い込むよりは、人の心の中の美しくて善良な部分を引き出す方法に布教を変えたほうがよくないか? 性悪説・性善説という白黒な二元論より、「人間の中には善悪どちらも存在する」と言う点を認め、「悔い改めよ」ではなく「良い行いをしましょう」に変えたほうがよっぽど道徳的ではないか。 自分で吟味する時間が今回は足りなかったので、変な文章になってると思うね…今日はここまで!キリスト教的に突っ込みどころ満載な「穴だらけ」の文章かもね。 でもいいのさ!認める所は認める。でも反論もそれなりに鋭くしちゃう! 次回は「キリスト教=ファシズム」について語るね!いつになるかは秘密だよ!それでは、C U Next time! Bye~
Aug 3, 2013
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不定期連載(?!)なこの企画を待ち望んでいる人が意外と多いw こんなに短期間で次を書くとは想像もしてなかったよww まだ文章もそんなに纏まってないけど、とりあえず書いてみますね。 それでは。今日は「罪を繰り返しFormat(フォーマット)するクリスチャン」と言うのを。 人間に対して大きく二つに分けられた論理がある。 人間の本性は善であるという「性善説」と、悪であるという「性悪説」である。キリスト教は「愛の宗教」であるにも拘らず、徹底的に性悪説に基づく。 ヨハネの福音8:44をご覧頂きたい。ここでイエスは人間自体が悪魔の子孫だと言って憚らない。 どっちなんだろ?俺らは神の民?それとも悪魔の子?言ってることがチグハグだ。 気を取り直して先に進もう。確かにイエスのこの言葉を裏付ける部分は聖書に数多く存在する。 旧約では女性が子供を身篭る事自体を「罪」と見做している。レビ記12章では妊娠を「不浄なもの」と位置づけている。これは後ほどダビデが自分の出生について語る時、【わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです】(詩篇51:7)と言うように嘆いている所からも見て取れる。生まれることは、キリスト教では罪なのだ。 それではその罪はどこから始まったのだろうか。原罪というものを見てみよう。創世記3章3~5を見てみよう。ここで明らかにYHWHはウソをついている。YHWHは「食べると死ぬぞ」と言っており、蛇(サタン)は「食べても死なない」と言っている。食べても二人は即死などせず、苦しむ事も無かった。 もしここで神の言うことをアダムとエバが聞いていたら、人間は未だにエデンで畜生のように生きていたに違いない。YHWHは善悪をも知らぬ人間を何故作ったのだ? 創世記に見られるこの逸話でのYHWHの神経質的な反応は「知識と信仰は決して両立できない」という面を表している。ただYHWHを盲信せよ、と言うのと何が違うのか。 まぁ とにかく造物主の言い付けに逆らってサタン(蛇)の言うことを聞いたのが「罪」と断罪され、代々この罪が遺伝することになった(笑)。キリスト教ではこれを原罪(original sin)と呼んでいる。 しかし、原罪は人間にではなくYHWHにこそあるのではないのだろうか。 YHWHこそ、しょうもない禁忌を作っておいて、それを破ったからと言って強烈な連座制の罪を断罪した罪意識を感じなければならないのではないだろうか。 そもそも「知恵の実」を創りし時、「全知」なる神はいずれそれを人間が食べることを予測できなかったのか? 伝統的な神学でのこれに対する答えとして「神は人間に自由意志を与えた。その自由意志を悪用(?!)した人間は罪を問われて然るべきだ」という。 これに対してのフリードリッヒ・ニーチェの反論を見てみよう。 「責任を問う全ての事には”復讐の本能”がある。この復讐本能が数千年の間、人間を支配している…(中略)…意思に関する理論、この致命的なウソは処罰の為に発明されたものである」 (偶像の黄昏-フリードリッヒ・ニーチェ著より抜粋) 自由意志論は劣等な復讐本能が作り出した虚構という話を説いている訳だ。 これも取り入れた上で、先ほどの創世記の話に戻ろう。 人が知恵の木の実を食べることを「知らずに」それを作ったのは神の「全知」に問題があり、また「食べられないように」処置を施さなかったのは「全能」に問題があるのではないか。 はたまた、これを全て知っていながら人間が食べるまでほったらかして、その上で人間を断罪したならば これはニーチェが主張するようにYHWHの道徳性に大きな問題性があると言えよう。 さらには木の実を食べた代価が「決して許されない代々に渡る罪」だとしたら、そもそも知恵の木を作らなければ万事解決ではないか。それで断罪など… 例え話をしよう。家で包丁を無造作に置き、子供がそれを触って手を怪我したとしよう。 無論 勝手に触った子供は怒られる。しかし、包丁を無造作に置いた親にも責任は重大なのである。 家庭でも親の責任が問われるような事なのに、神が「食べるのを知ってて罰を与えるのも知ってて木を置いた」と言うのは計画性犯罪に他ならず、これを見るとYHWHは決してキリスト教が主張する「愛の神」ではありえない。どちらかと言えば「凶暴な独裁者」ではないか。 しかし実はキリスト教の歴史を紐解けば、キリストが現れる前の「ユダヤ教」では「原罪」という概念がちゃんと成立されたことが無い。その良い例がヨブである。 YHWHは「東方で最も大きな者」と言われるヨブに、信仰上の試みを与える。 ヨブは全ての財産を失い、全ての家族を失い、使用人ですら全滅させられる。 しかも、彼の体も病気で膿が出る始末。(信仰の試みにしてはすごいね!子供と使用人になんの関係が…可哀想に) そんなヨブを見舞いに来た友達はヨブを叱る。 「お前は神の前で罪を犯したんだ。さあ、神に赦しを請おう」と…(アホやね)しかしヨブ記32章で、ヨブは「オレのどこが悪いんだ」と開き直り(?)ながら抗弁し、三人は言葉を失う。(これが正常やね…ヨブ記32:1参照) ヨブは自分が知らずに犯したかも知れない罪はおろか、原罪すら否定しているのである。なんという大逆!現代のクリスチャンは彼を「傲慢だ!不従順である!」と断罪し、非難するに違いない。 しかし、YHWHはヨブを「義なり」とし、YHWHに赦しを請えと忠告した敬虔なクリスチャンである友人達を「偽善者」として叱り、贖罪の生贄を捧げろと強要している。(ヨブ記42:7~8) おいおい、原罪はいいのかよ神様wwwそこはスルーかwww さて、一例も挙げたので本筋に戻って、原罪をもう少し掘り下げてみよう。 「原罪論」を最初に主張したのはタートゥリアン(terturian AD 155~230)と言うカルタゴ生まれの人である。元々彼の両親は異教徒であり、彼もまた法律家で40歳の時にキリスト教に改宗したローマ人である。 タートゥリアンが司祭だったという主張もあるが、客観的な資料ではどれもその証明がなされていない。 しかしその当時、彼の主張はすぐに忘れ去られ、次に原罪論が日の目を見るのは告白論(Confessions、懺悔録とも言う)で知られるアーガスティン(Augustinus)である。 彼はAD354年、北アフリカ・ヌミビアの町で生まれ、彼の母はクリスチャンであったが、父親は異教徒として知られている。 アーガスティン以前の神学者は「悪」を人間の外で見出そうとしたが、アーガスティンは人間の内部から見つけようとしていた。即ち、人間の意志そのものを「悪」と見做していた訳である。 また、アーガスティンは若い頃は放蕩な生活を送り、私生児を作った経験を通じて、性(SEX)を物凄く罪悪視していた。そして、人間が持つ「性欲」を「原罪」と断定している。 (オレは実に原罪に塗れている事が良く分かりますねww) 彼は自分とは異なる意見を持っていたペラギウス(Pelagius)という聖職者を論争の末「異端」と断罪し、これは後のAD430年にエペソ公会堂でも「異端」と認定されるに至っている。 双方の主張をここで比較してみよう。 アーガスティンは「人間の原罪は子孫にも受け継がれ、洗礼などで救われるし、キリストの赦しのみが唯一の贖いである」と説いている。現代のキリスト教の根幹であろう。 一方ペラギウスは、「アダムは元々寿命があり死は避けられなかった。新しく生まれた子供は罪を犯す前のアダムと同じである。また、律法(十戒)を守る事でも救いは訪れる」と説いた。 しかしこの論理は多くの支持者を背負ったアーガスティンによって押され、ついに彼は断罪された。 結局、この様な背景を元に登場した原罪論は、神に対しての「疑問なき信仰」を強要し、その結果、被支配階級の人々には絶対的な足枷となる「原罪」を付け、彼らの人生や意思を縛り上げてしまった。 そして、この原罪論を信じて止まないキリスト教が見つめる世界は実に絶望的で悲観的といわざるを得ない。既にノアの箱舟で「堕落した人間は一掃した」としておきながらも、聖書の最後の黙示録は「終末論」で結末を迎える。 そして、アダムの逸話以外でも原罪は多く述べられている。もう一つ、創世記8:21をご覧頂きたい。 文字数制限かかったので、続きはその2で…
Aug 3, 2013
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すっかりちょっと忘れてた反キリスト論の再開だよ! 最近 とあるコミュでクリスチャンと議論してるんだけど、ちゃんと答える人が少ないのね。 こっちだと気兼ねなく書いていいからね!所詮個人の日記だしさw それでは、予告していた「不可知論」についての考察。 新約聖書・使徒行伝の17章が今日のテーマ。 これを見ると、パウロはどの神なのかよく分からないトコの神殿で不可知論を説明している。 ちなみに、不可知論と言うのは【人間は真理を知り得ない】という説である。 (これに基づいた反論があったので、書くにはいい機会かな?と思ったよ) しかし、不可知論を説きながらキリスト教を布教する姿こそ矛盾に他ならない。不可知論の基本は、万物の本質や実在に基づき、人間が経験できないもの、または人知を超えるものは【分からないもの】とする論理である。 しかしここで分からないのは、「不可知論」を唱えながら、「神とは●×△な方」という理解を示している点である。知ってんじゃねーか。 てか、どうやって知ったのか興味あるね。聖書以外では根拠ないんでしょ…?どうせ。 その聖書を使って反駁できるけど、それは反論来てからにしよう。 本当に不可知論を説けるのは無神論者以外にはあり得ない。 無神論者は、人知を超えたモノを「分からない」と定義しているので、その存在を認めていないから無神論者たるのであるからだ。 なので、不可知論によって宗教を広めようとする事自体がとても矛盾していると言える。 さらには神に名前(YHWH)まで付与しておいて不可知論を語るなど、臍が茶を沸かす始末である。 実にあほらしい事ではあるが、現代の多くのクリスチャンが使徒パウロに倣って、不可知論を言いながらキリスト教の正当性を主張する事が多々ある。いや、本当に多々あるってば。 例を挙げると、「この宇宙の万物が偶然に存在する確立はほぼ無い」と言ったある著名な科学者の言葉を創世記の科学的証拠だと言って憚らなかったり、また「人間の思考では絶対者の偉大な考えを理解する事は不可能」とのたまう。 そいつらは学校で論理の勉強ちゃんとやったのか?と疑わしい程である。 科学者が言った「この宇宙の万物が偶然に存在する確立はほぼ無い」という説はもしかしたらかなり妥当性がある主張なのかもしれない。 しかし、それは有神論を直接的に証明する事ではない、と言う点をクリスチャンは華麗にスルーしちゃう。 100歩譲って、有神論が完璧に証明されたと仮定しよう。(あくまでも仮定ね) その立証された宇宙万物の絶対的調整者、つまり【神】が、キリスト教のYHWHたる証拠にはなりえないのである。他の可能性を排除する考えはクリスチャンの専売特許なので、彼らは易々とやってのけるに違いないが。 これはクリスチャンがとてもよくしでかしてる循環論理の矛盾である。 この矛盾点は立証されていない事を論理の根幹にした時には避けられない点である。 (クリスチャンはこの点を絶対に理論的に論じようとしない。敗北が怖いのか、認めるのが癪なのかのどちらかではないかと推測する) 有神論が立証された、という仮定で話を進めるが、それがYHWHもしくはキリストだとクリスチャンが主張するならば、それは「何故創造神がYHWH・キリストに帰結されるのか」に対する検証や立証があって然るべきであるのは当然であろう。でも、クリスチャンはしない。 お読みのクリスチャンの方々はどうぞ立証したらよかろう。恐らく聖書を根拠にするに違いない。他に材料がないんだし。 でも、聖書を根拠にするには、まず聖書が「根拠に値するかどうか」の立証が必要であり、聖書が併せ持つ「矛盾点」をも説明せねばならないことを付け加えておく。 矛盾を抱える古代小説を根拠には出来ない点はご理解して頂くほか無い。 もしオレが「この世界は偶然で成り立つ確立は非常に低い。よって、この世は天照大神が作られたに相違ない」と主張したならばクリスチャンはなんと答えるだろうか。 見えてるではないか。…まさか、認めたりしないよね?ww 聖書と言う書物以外では見当たらない「根拠」なるものを【仮定】でもなく【真実】として検証もしないまま受け入れ、それを元に万物の論理を解き明かしていくのは致命的な循環論理の矛盾を生む出す。 頼むから日曜学校とかでこんなウ●コみたいな論理を真実だと教えないで頂きたい。日本の将来が物凄く心配である。一番情報に対して吸収が早い時期に、こんな矛盾した事を平然と教えるのはもはや犯罪と言っても差し支えないと思う。 どの国・どの民族にも、それぞれの「絶対主」たる名前があり、それぞれの「体系的理論」というアイデンティティーの根幹がある。 その絶対者がシヴァではダメなのか?あるいは天照大神は?ロアは?西アフリカのウナンヴォテは? 世界中には実に多くの「創造主」たる名前がある。 これをキリスト教は一切認めることなく、数多の「造物主」の中の一つに過ぎないYHWHこそが真理で、これを信じないと地獄に投げ込まれると異教徒を呪ってる。 正直あほらしいとしか言えないのである。 「絶対主はYHWH・キリスト以外に存在しない」とクリスチャンが主張するならば、それを証明しうる客観的な理論を成立させる必要があるのではないか? 「キリスト教を信じたら、そこに救いがあったのよ」とか 「主イエス以外に救いは無し」と言うならば、上記の矛盾点はキリスト教は必ず解明せねばならない問題点なのである。 オレは無神論者で現在宗教を持たない。ある意味ではスターリン主義に近く、「宗教は麻薬」とも思ってるような節もある。 しかしながら全ての宗教を否定はしない。信じることでしか救われない弱い立場の人間がいることも事実で、それらの一点においてのみ宗教は価値がある、と思う。 上記の一点に目を向けたら、神、もしくは真理はどの民族・どの宗教・どの宗派にも等しく存在しなければならない。 しかし。 キリストのみが真理で、他の宗教は全て偶像崇拝であり、YHWHを信じなければ地獄…! というクリスチャンの皆様の素晴らしい信仰告白が、現代のキリスト教を「間違いなく」作り、支え、受け継いでいくのではなかろうか。 この点で言えば、キリスト教は社会悪であるとすら言える。 今日はここまで。 次回は、「罪を繰り返しFormat(フォーマット)するクリスチャン」というのをお送りしましょう。 お楽しみに! C U Next time!Bye~
Aug 3, 2013
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第二弾。あまり長文にならないようにしてみます… 今回のお題は「信仰が優先なのか、愛が優先なのか」 キリスト教根本主義の一番の問題点は ズバリ、信仰第一主義である。 クリスチャンは異教徒・不信者を改宗させる為に、「キリスト教は愛の宗教」だと主張して接近を図ってくる。そして、その根拠としては第一コリント13章、俗に言う「愛の章」を示してくる。 しかし、第一コリント以外を見てみよう。 聖書全般で説いている、もしくはより重要視されているのは愛ではなく信仰であると断言できる箇所がいくつもある。 それも普通の信仰ではなく、盲信を強要してくるので始末に負えない。 一例を挙げて説明していくことにする。 多くの牧師・宣教師が「信仰」や「試み」に対してメッセージを行なう時に、最も多く例に挙がってくるのは アブラハム&イサクの試み、そしてヨブの試みである。 どちらの試みもYHWHは 信仰の対価に血を(命を)求めている。 (ヨブは違うという反論は受け付けない。ヨブ本人は生き延びたが、身内はどうか) これは土俗信仰の一環として旧約時代の世界ではよく見られた光景ではあるが…ユダヤ人は、自らの罪を贖う方法として羊、鶏、鳩、山羊、牛などの家畜を殺し、YHWHに生贄をささげる習慣がある。彼らはどのような形態であれ、生き物の血と肉を捧げる事により自らの罪が許されると信じて止まない。 (現代も、ユダヤ教は罪の贖いの為に 過ぎ越しの祭りの際には 生きた鶏を殺し、その肉を貧しい人に分け与えることで 贖罪を得る風習が残っている) 閑話休題。話が逸れつつあるので本題に戻す。 YHWHはアブラハムに、老齢でやっと生まれた子供のイサクを「自らの手で殺して生贄に捧げよ」と命じている。信仰の祖と言われるアブラハムは、このウ○コみたいな命令を真に受けて、イサクを祭壇の上に寝かせて刀で刺し殺そうとする。とてもおぞましい話ではないか。 結局、YHWHが「おぃおぃマジかYO!マジになんなYO!やめとけYO!」と止めに入り(一部誇張表現があった事をお詫び致します)、全てはアブラハムの信仰を試す試みであったとネタばらしをして 山羊を与えて礼拝を続行し一件落着水戸黄門八時四十五分になるわけだが、この時点ですでにアブラハムはYHWHの命令とあらば、自分の嫡子をも殺せるという鬼畜な精神状況であったことが覗える。(士師記には 自らの娘をYHWHに生贄で捧げるよね。それも 運悪く娘になっただけで、基本 家族の誰かが…) 信仰について語るときにアブラハムを引き合いに出す全世界の牧師・宣教師に問いたい。 貴方達はYHWHの命令とあらば自分の子供も迷い無く殺せるほどの信仰をお持ちなのですか…? 仮に、だけど… 持ってる!と答えたヴォケは今すぐ死ね。全能なるORSM(オレサマ)の命令だ。人じゃない奴が人の真似すんじゃない。 ちゃんとした「神」という存在であるならば、上記のような要求などはそもそもしないだろう。そんな要求自体、とても幼稚で話にならないレベルである。 この世に今までいたどんな独裁者も、自分に対しての忠誠心を確認するために「自分の手で自分の子供を殺せ」などといった馬鹿げた事は言わない。 もし(YHWH以外でも、いかなる宗教のであっても)目の前に突然神が現れこんな要求をしたならば、真っ当な思考を持ってる人は 自分が崇拝していたのが悪魔であると気づくであろう。そして、もうその神を崇拝・礼拝することをやめるであろう。 YHWHからの こんな馬鹿げた、衝撃的な命令を受けたアブラハムは”そんな命令は聞けません”と堂々と言うべきであった。それこそが正しい信仰であり、ちゃんとした信仰でもあると言えよう。 そうではなくアブラハムのようにYHWHの命令の通りに実行しようとするのは、これは信仰ではない。 これは狂信である。キチガイ行為なのである。 士師記の人(誰だか今失念しました…今度調べてUPしときます)も自分の娘を殺しYHWHに生贄として捧げてる。 どう考えても鬼畜の所業としか思えないが、聖書は彼らを褒め称える。 もちろん大多数の牧師・宣教師も、彼らの信仰は「模範となる、学ぶべき信仰」とたてる。 このように、聖書では倫理も道徳もかけらもないような所業ですら「素晴らしい信仰」と称えられているのである。 第一コリント13章には信仰・希望・愛のなかで最も大事なのは愛だと説いている。しかし事実は違う。第一コリントのこの部分を除いた分を見ると、聖書全般で強要してくる、「信者が最も優先すべき事」はYHWH(イェス)に対しての盲目的信仰である。 身近にいるクリスチャン・牧師などを見てみよう。彼らのメッセージも実は愛より信仰を強要していることがしばしばだ。 彼らは不信者・異教徒には「一旦」”愛”という言葉で近づくが、いざ改宗に成功すると「愛」などは眼中にない。あるのは「信仰」である。 牧師・宣教師達はアブラハムやヨブの逸話を例に、信仰を強要するメッセージをしばしばする。聖書のその部分を強調し信仰を重要視する理由はある意味非常に簡単に説明がつく。 大事な息子ですらYHWHに捧げる準備が常に出来ているアブラハムのように、クリスチャン(っつーか自分トコの教会の信徒)達も 全財産までも神(という名前のどこか)に捧げられるような強い信仰を促している訳である。 牧師・宣教師達よ、もうそろそろ 信仰ではなく愛について深くメッセージを述べるべきではないか? あなた方が行なうメッセージの大部分は信仰に関する事である。愛ではない。 これで、キリスト教を「愛の宗教」というのはどうなんだろうか。 信仰に関するメッセージのみが続くとしたらば、キリスト教の牧師は信徒に献金しか求めていないと見られても仕方あるまい。 穿った見解だという意見は却下。そこを突っ込む人は、歴史上のキリスト教をAD150年以降から現在に至るまでつぶさに調べてから言ってください。 本日は一先ずここまで。何書いてるんだか分からなくなりました。 随所に支離滅裂な言葉が多いですが気にしない! 失敗を怖がってたら何も出来ない! GO AHEAD! 【次回予告】 次回はキリスト教の内部の矛盾の一つ、「不可知論」についてです。 不可知論とは 普通は無神論者の論ですが、これ クリスチャンがよく言うんですよ。いやまじで。 いつになるかは 気分次第です。お楽しみにっ!
Aug 3, 2013
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今回のお話は、キリスト教の【救い】についての否定文。 今度もっと詳しく書くつもりですけど、これはこれで長文。 しかもややこしい。 なので そーゆーの嫌!って人は回れ右で。 宗教論争のネタでデリケートな話でもあるので、転載は許可を得てからにしてください。 良かったら お読みになった後 感想やら異論反論やら頂けると有難いです。 人類が地球上に登場して以来、数多の人々が生き、子を産み、亡くなっていった。 もし、YHWHが 全ての人類や宇宙の全てを創造した絶対唯一神と言うならば、これらの全ての人々を把握していなければおかしい。じゃないと、キリスト教は不公平であると言わざるを得なくなる。 とても簡単な例を挙げよう。イエスが誰なのかも知らずに生きて亡くなった弥生時代の人々が、やがてくるであろう最後の審判(黙示録を参照)で全員ゲヘナに投げ込まれる…これは妥当な事なのだろうか? 聖書が神の御霊により書かれた一点一画の間違いのない言葉だという前提で上記の問題を考察すると、私たちの先祖の多くは地獄の火の中に投げ込まれているに違いない。知らなかった事はキリスト教的には罪なのだ。(カトリックの煉獄論は中世以降の創作なので省きます) そして聖書をよく読んでみよう。YHWHという神はユダヤ人12派のみが信仰していた「民族神」とも言うべき存在であり(日本の天照大神のようなもの)、YHWHについて知っていた(旧約当時)のはイスラエル周辺の人々以外にはありえない。さらには、旧約・申命記には「モアブ人とアモン人の子孫は永遠にYHWHの前に出ることは許されない」と規定されている。ユダヤ人なのに。 これが果たして、全ての人類を統べる神と言えるだろうか? YHWHが誰なのか、何なのか、そもそも何て読むのかなども知らない人が地球上の9割以上を占めていたので、これに聖書の言葉を当てはめると 救いの機会は唯一ユダヤ人のみに与えられた特権であったと言えよう。(だからイエスキリストが生贄でうんぬん…は後で反論するので ここではスルーします) 旧約時代におけるユダヤ人以外の人類って 一体なんだったのだろうか? そして旧約のいろんな所に羅列されている、YHWH直々の呪いの言葉たちは一体なんなのだろうか?異邦人だから良いのか?人間はYHWHに姿取られ作られた、特別なものではないのか?YHWHは愛の神ではなかったのか? クリスチャンはよく「その異邦人の救いのためにイエス・キリストがこの世に遣わされて…」と、ヨハネの福音3:16をメインに押してくる。 しかし、イエスが2000年前に歴史に登場(したのかどうかは定かでもないけど)して以来、キリスト教が全世界の隅々に伝えられてからどれくらい経つのか。 その過程(侵略・虐殺行為)はもうあえて触れないが、世界的に伝わってからおよそ100年程であろう。ならば 中国奥地の人々は?インドやヒマラヤの人々は?我々の先祖は?その100年に入ってない時代の人々は? 彼らはイエスが誰なのかも、十字架の贖いが何なのかも知らずに一生を生き抜いた。信仰を持つ機会は毛ほども無いままに。そして、聖書が絶対的に正しいならば、彼らはゲヘナの中にいる。おそらくね。 プロテスタントはここで「神の意思は人では理解できない」などと訳のわからない理屈を述べてくるが、カトリックは一味違う。 カトリック信者は、キリストを知る前に亡くなった人々に関しては、生き方の善悪の程度によりYHWHが審判を下す、あるいは仏教の輪廻転生に近い「煉獄」なるものを主張してくる。しかし、これは明らかに 彼らキリスト教徒が絶対視する聖書の主張とは真っ向から違う。聖書のどこを見ても「煉獄」という言葉は無い。66巻以外の所謂「ロスト・バイブル(死海聖書)」にもないよね。 しかしプロテスタントは神の「予定説(御技説)」、もしくは「召命説」により、イエスを知ることなく生きたと言うこと自体が神の選択から外れていた事だという不平等な解析を下す神学者・牧師が少なからずいる。でも、キリスト教は愛の宗教であり、平等・博愛であるとも言う。どっちやねん。 ダンテの組曲の中で、ソクラテスがYHWHを知らなかったと言う理由だけで地獄で苦痛を味わう場面がある。これは中世時代1000年間の間カトリックの基本教理であり、原理主義的プロテスタントが支持している部分でもある。 即ち、YHWHを知らなかった、或いは知ってても受け入れなかったのは人間の個人の意思、というよりは神の生得的な意思が作用したに他ならない訳である。 でも、クリスチャンは「人間の自由意志が…」とよく言うよね、特に原罪に関する話では。どっちやねん。 かといってクリスチャンが積極的に他人を救おうとしてたか、というと これもなかなか、ねぇ。一例として、義の人・聖人として名高い「ノア」を見てみよう。 ノアは例の大洪水の時に、人間では自分の家族以外全滅させてる。彼が他人を救うために尽力したというのは創世記のどこを探しても残念ながら見当たらない。違う人を引き合いに出してみよう。千早さんでもいいが、知名度のより高いオスカー・シンドラーを。彼は2次大戦当時、一人でも多くのユダヤ人を救うために財産を吹っ飛ばした。映画「シンドラー・リスト」の原題(金主に資金を募るために見せるプロット)では「シンドラーの箱舟」だったそうな。 シンドラーに対して、ノアが非常に自己中心的で心の貧しい人に見えるのは気のせいだろうか。ノアは本当に義の人、聖人と呼ばれるほどの人なのだろうか。 キリスト教の教理的には 他人にどうであれ、自分が盲目的にYHWHを盲信していれば…まぁ、条件は満たす可能性があるよね。 現在、自分たちの神こそが唯一且つ絶対であり、他の宗教の神は全て偶像であって、信仰してもゲヘナに投げ込まれると言って憚らない宗教はキリスト教のみである。 (注:イスラム教も絶対唯一神教理ではあるが、イスラム教はアラー【のみ】が救いとか、他宗教の神は偶像だとか言わない。コーランの中には預言者としてイエスの名前すらある。あと、最近の新興宗教の一部が同様の主張をしている点は認めたいが、彼らの母体になっている基幹の宗教はキリスト教であるので同一視した事を付け加える) イスラム教、仏教、ヒンズー、ゾロアスター、ブゥードゥ…等等 他宗教はキリスト教とは異なる主張をしており、他宗教にも救い、転生などがあると説いているが、キリスト教系列のみが「YHWH、イエスを信じないとゲヘナ(以下略)」と定めている。(使徒行伝4:12)クリスチャンが言う地獄、ゲヘナの火の中にはきっと卑弥呼から始まって聖徳太子、織田信長、徳川歴代将軍、大石内蔵助…等などナド、イエスが誰なのかも知らない先祖は一人も残らずゲヘナに鎮座されてる。私はこの矛盾を某神学校校長に尋ねたことがあるが、彼は私の質問に対し「初歩的な話だ。聖書を読み、祈って答えを求めなさい」と言って明言を避けた。初歩的?…なるほど。しかし、同時にこの疑問はキリスト教が「博愛」と「平等」を掲げる限り、人間としてキリスト教に思う最も「原初的な」質問でもあるのだ。 キリスト教は自らの主張「キリスト教こそが唯一の真理であり、人間はみな生まれながらに原罪を背負っている罪人なのだから、キリストを信じる事以外には救いはありえない。キリストは愛であり、人々をみな平等に愛しておられる」を正当であると言うためには、ここまで出た疑問点に対する答えを理論的に且つ明確に示さなくてはならない。(第二コリント13章を読めとかは幼稚すぎるのでパス。) それが不可能ならば、今までキリスト教が主張してきた教理は全て嘘っぱちであり、キリスト教の教理は数千年間、無辜の人々を苦しめ、殺めた、ただの詭弁だらけの政治プロパガンダの一種に過ぎない事を認めるべきであろう。 (キリスト教教理が政治的な意図を持つプロパガンダである根拠は多すぎるので、後日別のコラムとしてUPします。許されるのならば…) そして、イエス、もしくはキリスト教は知っていたが他の宗教を信仰していたり、何も信じたりしない無神論者の中にも本当に善良に生きた人は数多く存在していた。しかし、キリスト教では無神論者うあ異教徒は無条件でゲヘナ行きが内定されており、これは全て神の計画であり、一つの間違いもない完全なる聖書の言葉として伝えられている(苦笑)。道徳主義者、哲学者、慈善事業家など、どんな人であれ、どのような善行を行なってもプロテスタントの理論ではゲヘナ行きを避けることはできない。人間は「原罪」をもって生まれたから、どんな善行を行なってもイエスを信じなければダメらしい。 ほほぅ。一つお伺いしたい。 暴力と抑圧を駆使したキリスト教国家英国に対抗し、非暴力と無抵抗でインド独立の祖となったヒンズー教徒の偉人、マハトマ・ガンジーも、やっぱり例外なくゲヘナに行ってて、そん時にインドでインド人をシバキまわしてたイギリス兵は当然天国にいるんですよね?ねぇ?どうなの?それが平等なの?へぇ~。 どちらが【神】という存在の意の元に生き抜いたかは 言うまでもなさそうです。 もっと笑えることがある。ユダヤ人はイエスを認めてないんだ。旧約をみると出てくる偉人は全てユダヤ人なのに、ユダヤ人はイエスをメシアとして絶対認めない。(ちなみに彼らは聖書を読まない。彼らが読むのはタルムードである) プロテスタントの教理に従えば、イエスを認めないユダヤ人12派こそ全てゲヘナ行きではないか。選ばれし14万4千のだけどね。 YHWHに選ばれた民、ユダヤ人がイエスを否定したという理由でゲヘナに投げ込まれる?素晴らしい矛盾ですよね。「シャローム」とかのユダヤ式挨拶を賛美歌やゴスペルで乱発するクリスチャンはこの点はどう思うわけよ? ちょっと目線をゲヘナ(地獄)からエデン(天国)に移してみよう。一体どんな人が行くんだろうか。 シュバイツァー博士みたいな素晴らしい方も当然行くでしょう。クリスチャンだし。 でもね、ただ 生きてる間キリストを信仰してたというその一点だけで、普段クズのように生きてたクリスチャンも、あるいは数限りの悪行を重ねた挙句、今際の時にキリストを受け入れた人も天国には行くんだよね。 世界各国の死刑囚を収監してる刑務所で最も人気の高い宗教はキリスト教だそうだ。理由は簡単。信じれば天国だから。 逆に、仏教のように、生前の「業」を後生に受け継ぐ輪廻転生は人気が低いそうで。わかる気がするよねぇ。 私はネットで、また日常で多くのクリスチャンと出会い、話をした。 中には非常に良き人格を持つ人も「稀に」いた。 しかし、私がクリスチャンであった頃も、無神論者になった後も、最も多く出会ったクリスチャンは暴言を吐き、「どうせあなたは救われない魂だ」、「貴方はサタンである」などの呪いの言葉を浴びせてくるクリスチャンであった。 イエスは信じているが人間性は劣悪なクリスチャン達… こんな人々が、ただイエスを信仰してたという理由だけでエデンに行くならば、オレはゲヘナで聖徳太子や織田信長と火遊びしたいね。 そんな程度の人の魂が集まってる所が、本当に天国…なの?地獄ではないの? 一体YHWH、イエスという神はどうなってるんだ? この世での行いは何一つ評価することもなく、唯 自分をどのように信仰してたかだけを評価するゴミのような雑神なのか? 私は、この拙い文を読む【クリスチャン】の方に、是非「信=エデン 不信=ゲヘナ」という常識のカケラも見当たらない教理について一度熟考する事を強く望む限りである。 超長文・駄文・乱文 実に失礼致しました。
Aug 3, 2013
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