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April 3, 2010
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友人にOさんという編集者がいる。 彼は、ある出版社に長らくいたが、 「自分の面白いと思える仕事をしたい!そういう本を作りたい!」と、 昨年だろうか、フリーになった。 そしてその後、ここならやりたい仕事、面白いと思える仕事ができる! と思えたと言って、ある設立間もない出版社Mに入った。 そのOさんが編集に携わった本が出版されるという。 かなりワクワクして、その本の案内を待っていた私。 しかし、その本は、いわゆるビジネス書、 「成功本(成功した会社の本)」であった。。。。 「なんら問題でも?」とこれを読んでる人は思うかもしれないけれど、 私的には、ビジネス書って、聞いただけでなんか買う気をなくす。 ビジネス的には当たり前のことだとは思うけれど、 「当たり前を疑う」という学問に従事している身としては、 「成功本」「自伝本」(及び経営系の本の多く)は、 ビジネスの拡大と金銭的な成功を、 全く疑うことなく「成功」の定義として自明視していることへの疑問と、 さらに「俺ってすげ~だろ~」的な自己顕示を感じてしまうため、 私があまり手を出さない分野。 「成功本」は、毎年毎年たくさん出ているけれど、 会社が変わるだけで内容ほとんど同じじゃん。 はっきり言って、知的刺激がないので読んだとしてもポイ捨て。 (でもこれって皆そうなんだと思う。明らかに「成功本」は ブックオフでの平積み率と100円率が高いもん) そんなわけで、いくら友人Oさんが編集したといってもな~、 買ってあげたいけど、成功本に何千円か出すなら、 ほかに買いたい本いくらでもあるし・・・、 という思いと、 でも、Oさんが夢を持って入った会社とはいえ、 そこは設立間もない弱小出版社M。 「ま、やっぱり経営的にはそういう本にも手を出さないと やっていけないんだろうな~」という推測もあり、 だったらやっぱり買ってあげないと! という気持ちもあり。 買おうかな、どうしようかな~~、と思っていた。 で、ここからが、やっと本題なのだが!!!! 先日、彼が、日記に「その本を読んだ本屋さんから来た感想文」(*)を アップしており、 それを読んで、私は「ああ、この本、やっぱり買おう!」と思った。 そう思ったのは、その感想が「この本の内容はとてもいい」 というものだったからではない。 本の内容如何ではなくて、感想に 「この会社の本を、出版社M(ひいてはOさん)が出すという 理由がわかった!」 と書いてあったからだ。 ああ、この会社(出版社M)は、今、 着実にブランドを築いていっているのだなあ、と感じた。 商品に込められた「思い」は、商品が直接語りかけるものではない。 しかし、そこにあるものは、やっぱり「伝わる」のだ。 そして、いくつもの商品を貫いている「思い」や「こだわり」も、 やっぱり何を言わなくても、伝わっていくのだと思う。 ブランドを作ることは、最初はビジネス的には厳しいかもしれない。 けれど、私としては、ブランドを築いていってほしいと思う。 M社から出ている本であれば、絶対面白いから買おう! と、私がパブロフの犬的に思うようになるまで。 応援してます! てことで、皆様、『謎の会社、世界を変える』ミシマ社 買ってね。 (感想文は内容も褒めてたよ!!!いわゆるビジネス書と毛色を異にするらしいっす)
March 12, 2008
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いや、ねらーなのは彼氏じゃないんですけどね、 とまず彼の名誉のために断っとく。 実際は、弟がねらーだと発覚したんですけど。 なんか、若干ブルー。 いや、自分だってねらーだし(書き込まないけど)、 友達がねらーなのは、ぜんぜん気にならないし、 むしろ、話楽しいし、いいんですよ。 でも、なんか、家族とか、ましてや彼氏とかには ねらーであって欲しくないな、と。 ああ、なぜ?!でも、そうなの! 今時ネットやってるヒトで、 2ちゃんねる見ないヒトって少数かもしれないし、 読んでればbasicallyまともなヒトのほうが多いのわかるし、 矛盾なのはわかってるんですけどね、 でも、なんか、品位を疑うというか・・・。 弟でも相当がっくりですよ。 だんながねらーだった日には、もう泣いちゃいます。 逆に言えば、私もそう思われる可能性があるってことなので、 てことで、みなさま、うちのだんなには、 私がねらーな件は、緘口令でお願いします! 夜露死苦!! でもって、みなさまも、ねらーであること、 彼氏彼女にはばれないようにしたほうがいいぞ!ってことで。
March 11, 2008
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大学院に行って良かったことのうちのひとつは、 「複雑なものを複雑なまま理解する」ことの大切さを学んだことだ。 世の中では、「AかBか」「黒か白か」という二者択一を迫られ、 そのどちらかを潔く選ぶことが、はっきりしていてぶれずにカッコいい! と思われるふしがあるように思うが (実際自分も過去そうおもってきたし、そう振舞ってきたこともあったが) 現実の世の中っていうのは、ほとんどの場合、 二者択一でぶった切れるようなもんじゃなくて、 すごく複雑な相互作用の中にあるのだと思う。 たとえば、 不倫している友達に、「それは悪いことだよ」というのは正論だし簡単だが、 でも、そこには、相手が「別れることを前提に」という話をしているとか、 「自分でもやめたいけれど好きな気持ちはやめられない。 むしろやめられる方法を教えてほしい」とか、 一言では言い切れない様々な事情が働いている。 何事においても、その分野で初心者のうちは、 「正解」を覚えていくことが、その分野での一定の知識を身につけていくうえで必要である。 でも、その分野に詳しくなっていくにつれ、人はだんだんと、 「正解のない世界」に入っていくのだと思う。 すなわち、「自分なりの正解」を出していく過程へと入っていくのだ。 そのときに重要なリテラシーとなるのが 「複雑な物事を複雑なまま理解する」という能力でないかと思うのだ。 それは「正しい/間違っている」の二者択一的な議論とは相容れない。 様々な人の、様々な利害と様々な考えは、それぞれの人の立場から見て正しいからだ。 そして相手の立場は、それぞれの立場から見て「間違っている」。 つまり、通常、ある物事は、Aという側面から見たら正しいが、 Bという側面から見たら間違っている、 そしてまたCという面から見たら・・・・というように、 多面性を持っている。 ほとんどの場合、すべての物事は、複数の人の利害を含むし、 その利害が一致することはまずない。 そのなかで、二者択一的な論理を持ち出すのはとても危険である。 議論が建設的な方向にいかない時というのは、 このように利害の対立が起きてしまったときに、 誰が「最も」正しいかという議論に走ってしまうためである。 (残念ことに、日本の政治はこのレベルだと思うけど) 「誰が最も正しいか」を話しても無駄である。 だって、それぞれの人の立場から、それは「最も」正しいことなんだから。 だから、利害や意見が対立したとき、重要なのは、 二者択一的に答えを見出すことではなくて、 まずは、複雑な状況を複雑な状況のまま理解する、ということであろう。 これは答えを出すなということではない。 ただ、少なくとも、状況を二者択一的な理解をするよりも、 複雑な状況をきちんとつかんでそれを理解するほうが、 よっぽど現実に即して、多くの人を救えることが多いはずだ。 もちろん、ずっと労力がかかり大変ではあるけれど、 その部分の知的負荷を怠けることはしてはならないのだと思う。 でもまた、その「複雑な状況を、いかに人にわかりやすく伝えるか」というのは、 また別の作業で、それはそれで大変だったりするんだけれどね。
March 10, 2008
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結婚式~2次会で、私の友人に何人も会うことになった彼がしみじみと言った。 「よく類友とか、友を見ればその人がわかる、とかいうけど、ほんとだよね~。」 ちなみに、私と私の友人の共通点は「いいかげん」。 (←友達の皆様、勝手ないいかげん認定、すみません・・・) 彼は、常日頃「飛鳥ってなんていいかげんな奴なんだろう!」 と思っていたが、 まさか、友人までがいいかげんだとは思わなかったらしい。 そして、友人までもが、みんな、 かなりいいかげんでテキトーなことに驚いたらしい。 (とはいえ、私は中でも群を抜いていいかげんだけどね) まー、よくよく考えてみれば、 「自分自身もある程度いいかげんだから、 とっーてもいいかげんな飛鳥を許せる」 ということで、友情がつながっている気がする。 (ちなみに、いいかげんでない方々は、私に怒りを感じ、呆れ果て、 付き合いきれないと、去っていく。) 同様に、うちの彼も頑固だが、彼の友人もやっぱり「頑固」。 うむ、面白い。 よって、自分のことを知りたかったら、占いとかするのでなくて、 友人をぐるりと眺め回してみると良い。 そうすれば、自分がいかなる人間かわかるであろう。 ・・・・にしても、キチキチした人間も、少しは友達に増えないものだろうか。 ・・・・無理か。
March 9, 2008
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最初に断っておきますが、ネタじゃないです(w。 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、私、先週の日曜日に結婚いたしました。 相手は大学の同級生で、彼の留学からの帰国を待っての結婚となりました。 いやー、負け犬軍団にいつまでも居座るであろうと思っていた私が、 自分でも意外な早さでの結婚です。 披露宴にいらしてくださった皆様、本当にありがとうございました!! 準備が不十分で、楽しんでいただけたか不安が残りますが、 私は、皆にいっぱい祝福されて、本当に嬉しかったです。 人数の関係でご招待できなかった方々が多かったのが、本当に残念ですが、 1月26日(土)に恵比寿で二次会を行いますので、 皆様、お誘いあわせの上、ぜひいらしてください☆ 詳細はまた載せますね~。 披露宴の翌日に引越しだったため、本当にバタバタしており、 まだ結婚したっていう実感は全然なく、 むしろ、すべてが夢・まぼろしだったような気すらします。 実感できるのは、この泥棒が入ったように散らかっている新居にいるということのみ。 ダンボールを開ければ開けるほど散らかっていきます。 片付けの先行きが全く見えません、どうしよう・・・。 そんな状態ではありますが、それでもよければ、 ぜひ家にも遊びに来てください。 だんなは帰りが遅くて暇だし・・・ではなく寂しいし(←新妻アピール)、 私はいつでもウェルカムです! それでは、これからもよろしくお願いいたします。
December 17, 2007
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スピヴァクの講演会@一橋に行ってきました。 以前書評を書いたこともあるけど、 スピヴァクは『サバルタンは語ることができるか』を書いた インドの人文学者・哲学者。 ポストコロニアル批評の代表的な研究者で、 現代の最高の知性の一人といってもよいお方。 当日は、主催者側が見込んでいた200名を はるかにオーバーした人数(たぶん600名程)が押し寄せ、 会場は大幅なキャパオーバーで大混乱。 (私は1時間前に行ったので、十分座れましたが) メディアに宣伝しているわけでもないのに、 これだけの人を辺境・国立まで呼ぶことができるという所に、 現代におけるスピヴァクの影響力を感じ取れる。 それほどのお方ですもの。どんな方かと思いきや、、、 髪の毛がオレンジの五分刈りな、ファンキーなおばちゃんだった。 予想外の人数による会場の様々なトラブル・手際の悪さにも、 むっとすることなくユーモアで対応していて素敵☆ しかも、講演途中にインドからかかってきた妹の電話に出る という暴挙っぷり(w。最高☆ でも、講演の内容は、ひとつひとつ、とっても深いな、と 感じさせる内容で、自分の研究についても、非常に考えさせられた。 このことは、もう少し時間をかけてゆっくり咀嚼したい。 それから、今回の講演では、通訳を担当した 東京経済大学の本橋先生の通訳が、本当にすばらしかった。 アカデミックの講演で普通の通訳を雇うと、 その分野の専門用語がうまく訳せないという問題があって、 聞いているこっちがイライラすることがよくあるのだけれど、 さすがポストコロニアル研究者だけあって、 非常に的確な訳でした。 そのあと行われたレセプションは 信じられないくらい人が少なくて(30~40人くらいかなあ)、 スピヴァクに直接質問する機会もあり(!)、 その他にいらしていた第一線の先生方とお話しすることもでき、 実に有意義でしたよ。 (学生料金が4000円だったので、皆遠慮してしまったみたい。 もったいない!) 私は、2ショット写真まで撮ってしまいました☆イェーイ! これだけでも4000円払った価値はあるわ! さて、ここでは、いくつか印象に残った話を。 第一に、コサインの『排除されたものたち』という本について。 この本には冒頭にこんな言葉がある。 「私たちは幽閉されることにすっかり慣れきってしまった。 そのため私たちは、幽閉されることに対しては、 何の抵抗も感じない。 (たとえば)女性漁師に 「腐った魚の匂いはいい匂いですか?悪い匂いですか?」 と聞いたとしても、彼女たちは答えられるだろうか?」 もちろん、女性漁師に腐った魚の匂いを聞くことは、メタファーである。 ここで言われていることは、 腐った魚とともに生活している者にとっては、 「腐った魚」は日常であり、与えられた現実であり、 それが、腐っているのかどうかすら判断する基準がない、 ということ。 私は、以前読んだある被差別部落出身の女性の話を思い出した。 その部落研究の中で、彼女は小さい頃の経験を思い出して、 こう語っている。 彼女には、友達の家に呼ばれないとか、 友達のお母さんが彼女に投げかけた言葉とか、 「なんとなく変だな」 と思うことが、記憶の中にいくつもある。 けれど、幼い頃の彼女には、 それは「なんとなく変なこと」というものでしかない。 その彼女は、大きくなって開放運動に足を踏み入れる。 そして、そこで様々な理論を学ぶことによって、はじめて、 小さい頃「なんとなく変だな」と感じた過去の様々な出来事が、 「ああ、あれは差別だったんだな」と、再度編みなおされた と語っている。 このように、差別や抑圧を受けている当事者の多くは、 自分たちが置かれている状況を、差別的なものだとも思わず、 疑うことを知らず、ただ、受け入れているのである。 だから、「幽閉された」者たちに、 権利の声を上げるよう求めたって、それは無理な話だ。 かれらの日常には、権利の概念はない。 いや、たとえあったとしても、 その権利が受け入れられる素地がないなら、 誰がそれを主張するだろうか。 コサインの言葉を借りて言うなら、 「腐った魚なんて嫌だ」と言ったならば、 新鮮な魚を与えられるのではなく、 今持っている「腐った魚」すら、取り上げられてしまう状況にあれば、 「腐った魚は嫌だ」なんて言えるはずがないのである。 コサインの文を引用したあとに、スピヴァクは、 「体験的な判断」と、「理論的な判断」を 区別することが重要であるといっている。 上の被差別部落の女性の例で言うなら、 「なんとなく変だな」と感じたことは体験的な判断である。 それをその後「差別」だと認定したのは、理論的な判断。 この、二つを分けることの意味は、とても重要である。 人々にとって、抑圧された者の声なき声に耳を傾け、 彼らの現実・体験を知ることは大事なことであるが、 それと、理論的な判断とはまったく別のものでなくてはならない。 抑圧された者が 「別に不幸じゃありません、今のままでいいです」 と言ったからといって、それを鵜呑みにして、 「あ、そう。じゃあこのまんまでいいのね」 と放っておくというわけにはいかない。 だって、それは「知らない」がゆえの、 体験ベースの判断かもしれないのだから。 しかしながら、である。 ここで終わらなかったのがスピヴァクの素晴らしい点なのだが、 では、彼らの声を、研究者や活動家が、 掬い上げて、代弁すればそれでいいのだろうか? 否、である。 スピヴァクは、研究者や活動家が、単に、 声なき抑圧された者の声を「代弁」することへも警鐘を鳴らす。 『サバルタンは語ることができるか』で、 スピヴァクが提起した問題とは、 そのような代弁者たちが、「彼ら」を分類し、分析することで、 「彼ら」の実情とはかけ離れた虚構の「彼ら」を作り出し、 あたかも自分たちが「彼ら」の代表者であり、 「彼ら」のことを彼らよりもよく知る専門家である ような顔をして語ることの権力性である。 声にならない声を聞こうとしつつも、 その聞いた声の代弁者にならないためには、一体どうしたらいいか、 という部分にスピヴァクはクリアーな答えは与えてはくれない。 たぶん、そこをもう一歩推し進めるのは、 スピヴァクにそういう疑問を投げつけられた私たちの役割だ。 体験的な判断と理論的な判断を分けること。 代弁者になることなく、彼らの声を拾うこと。 このことは、誰のために、何を研究するのか、という 私自身の根本的な問題に関わっていると思う。 この夏にでも、少し突き詰めて考えてみようと思う。 長くなったのでまずはこのへんで。
July 7, 2007
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国でたとえれば日本、歌でたとえれば演歌と言われるくらい、 大和の撫子なわたくし。 基本の性格は、重~く、暗い情念系。 実は、言いたいこともあんまり言えずに、情念が鬱積するタイプ。 しかも、さすが巳年生まれ。 表面上忘れたふりしてるけど、実は、過去の細々したことを、 ずっとずっとずーーーっと、しつこく覚えている。 それが嫌なことなら特に。 一見そんな人に見えないかもしれないが、それは、私が情念を抑圧し、 軽く、明るく見せかけているからである。 「そんな明るく見せかける必要はない」という方がおられるかもしれない。 しかし、私の内面の情念の暗さには、本人も辟易なのだ。 ましてや、他人であれば、いかばかりか。 それでも情念を押し殺し、軽く明るい顔を前面に押し出すようになって早十数年。 軽さも明るさも板についてきて、最近では情念そのものも薄くなってきたような気がする。 そもそも、自分の過去を悔やんだり人を恨んだりするのは、 実際、大変疲れることなのだ。 そんな思いがなくなってくれるなら、それに勝ることはない。 しかも季節は春。心なしか足取りも軽くなる。 しかし、そんな明るい私の心にひとつ、暗い疑いがよぎって消えない。 もしや・・・・これは、情念が軽くなってきているのではなくて、 生き霊が飛んでいるのではないか。 情念は、それを解放せず抑圧すると、生き霊となってしまうのである。 生き霊系の大御所、六条の御息所(@源氏物語)がそれを証明している。 六条の御息所は「人を恨んだり憎んだりするのは品がない」 「嫉妬などしない良い人間でありたい」と思っていた。 そのため、彼女の嫉妬は理性によって抑圧され、抑圧された嫉妬は、 最終的には、生き霊となって御息所の体を飛び出してしまうのである。 生き霊ほど始末の悪いものはない。 本人は無意識なんだから、本人にも生き霊が何をしでかすかわからないし、 コントロールも不能で止めようがないのだ。 大体、人間の性格など、そうそう変わるものではない。 演歌系・情念系の私が、最近情念を感じないのだとすると、 それは情念が薄くなってきたのではなくて、抑圧のあまり、 私の情念が生き霊となって飛んでいっている可能性はありうる。 大いにありうる。 しかも、根暗な私の生き霊のこと。 ほんとに根暗な嫌がらせをしつこくしつこくするに決まっている。 これはいけない。うん、いけないよ。 そもそも、生き霊が発生するメカニズムは、 自分の中に生まれた悪意や煩悩を抑圧するところにある。 コントロールできない生き霊を生むくらいなら、 自分の中に生まれた醜い感情を抑圧せず、解放してあげたほうがよい。 そう。 たとえ私が、たいへん毒を吐いていたとしても、それは、生き霊防止のため。 本当の私は、「良い人でありたい」と強く強く願い、それに向けて努力する人である。 ただ、上記のような事情を比較考量した場合、 (毒を吐く害悪)<(毒を吐かずに感情を抑圧した害悪=生き霊発生) であるので、あえて毒を吐いているのである。 これぞ、世界平和。ワールドピース。 よって、みなさまには、表面上の毒を聞いて、私を「性格の悪い人」だと 誤解をしないようにしていただきたいものである。
March 19, 2007
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以前も書いたことだが、美人は美醜にして決まるに非(あら)ず。 美人かどうかを決めるのは美人ポジショニングを取っているかどうかである。 世の中には、 「どこからどう見ても決して美人とはいえない(というよりブに近い)のに、美人ポジショニングを獲得している人」 がいる一方で、 「美人なのに、なぜか扱われ方がブにカテゴライズされている人」 がいる。 美人に生まれたからといって、自動的に美人カテゴライズされるわけではなく、 美人ポジショニングを取れなければ、その人は「美人カテゴリー」から「美人なのに(涙)カテゴリー」へと転落する。 逆に言えば、たとえブに生まれようとも、美人ポジショニングを獲得することによって、 「美人カテゴリー」への昇格が可能になるのである。 繰り返すが、美人になれるかなれないかは、生まれた顔には関係ないのである。 世の女性にとって、これは朗報ではないだろうか。 さて、それでは、美人ポジショニングを決める力とは何だろうか。 それは、「本人の(強力な)思いこみ」と、そこから生まれる「周りに反論を許さない威圧感」である。 美醜を決めるのは、私はイケてる!という「思いこみ力」である。 それが、現実の美に裏打ちされているかどうかなんて、全く関係ない。 そして、それ以上に重要なのは、現実の美醜に関して(少なくとも本人の目の前では)口を挟ませない威圧感である。 美醜にかかわらず、美人ポジショニングを取っている人を見てみよう。 次の日からどんな目に遭わせられるかわからない。そんな予感を与える威圧感がある。 冗談でも「よく見ると、変な顔ですよね」なんて軽口を叩けそうもない。 そんな言葉、口にしたとたんに、目で瞬殺されるであろう。 実際、考えてみると、「あいつ、自分のこと美人だと勘違いしてない?」と陰口をたたかれながらも、 本人の目の前では誰もそんなこと絶対言えない、という雰囲気を醸し出している人が、 あなたのまわりにもひとりくらいいるのではないだろうか。 そんなの裸の王様ではないか、という人がいるかもしれない。 けれど、裸の王様でいいのである。 裸の王様の問題点は、「王様は裸だ!」と叫ばれたとき、裸な自分を恥じ、すごすごと逃げ帰ってきたことにある。 ここで、王様が「王様は裸」といった瞬間に子どもを捉え、 「この布が見えないなんてバカな国民は我が国にはいらぬ。追放じゃ!打ち首じゃ!」 と叫び、恐怖政治をとったならば、 裸の王様は公衆の面前でバカ扱いされるなんて事にならなかったはずである。 恐怖政治下では、王様が「白いものでも黒」だと主張すれば それが黒になるように、 「私が私のことを美人だと言えば美人」だと主張すれば、 実際、現実のほうが変わっていく。 周りへの有無を言わさぬ威圧感から美人ポジショニングを獲得した人は、 そのポジショニング故、当然、美人扱いを受けることになる。 美人扱い。これこそが、重要なのである。 そもそもなぜ、多くの女性(ときに男性も)が「美」を求めるのかというと、 われわれの生きているこの社会には、「美」を価値と考える価値観が浸透しているが故に、 「美」には付随して社会的資本が与えられるからである。 美人扱いを受けるということは、美人に与えられる社会的資本を使用できるということであり、 (人が美を求めるのは、美から引き出される社会的資本を享受したいからだと考えるならば) 美人扱いさえ受けられれば、美人になる目的は達成したのであり、 本人が美人かどうかの現実はどうでもいい。 (なお、「美人であること」が社会的資本としてどのような価値を持つかということは、 既に様々な研究で明らかにされている(*)ので、ここでは省略する。) ちなみに、「思いこみ」と「威圧感」から、美が社会的に構築されていく現実のプロセスに関しては、 研究としては非常に面白いトピックだと思うのだけれど、 そんなのこれを読んでいる一般の方々にはあんまり面白くはないだろうから、 今日のところは、「思いこみ」と「威圧感」から 美が社会的に構築されていくということのみを覚えて、 明日から実践してみてはいかがだろうか。 ただ、威圧感があるということは、裏を返せば「怖い」ってことだから、 その結果、「あの人怖い」という評価を得て、社会から孤立することになったとしても、 責任取れないからね。ごめんね。 (*)たとえば、以下を参照。 井上章一 1991『美人論』 リブロポート 蔵琢也 1998 『なぜ、ヒトは美人を愛するのか』 三笠書房 キム・K.P. ジョンソン他 2004 『外見とパワー』 北大路書房
March 18, 2007
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明けましておめでとうございます。 とうとう30歳になりました。 しかし、私は親友陣にすら 「え?飛鳥まだ20代なんだっけ?」 と何回も何回も言われる女。 私自身、あまりに30代な気分で何年もいたため、 体感年齢にやっとこさ実年齢が追いついてきた感じである。 何より「30代、未婚、子ナシ」に名実ともに足を踏み入れたのである。 何だか感慨深い。 そういえば20歳になったとき、 「10代をもう一回やれと言われたら、どう生きるかなあ」 と考えた。 そのときの結論は「同じでいい」だったと思う。 事実、私はそのころ毎日が楽しくて楽しくて仕方がなかったし、 自分自身が誇らしく、大好きだった。 おかげで、学生時代の友人には 「君、あのころちょっとイっちゃってる人だったよ」 と言われるけれど(w、 そんな他人の目線に気づかないくらい、私は幸せでいっぱいだった。 強くエネルギーに満ち溢れ、無神経で愚かだった私は、 (前から書いている通り)今でも私の郷愁の的であり、 これからもあり続けるであろう。 さて、では20代をもう一回やれと言われたら? やっぱり今回も「同じでいい」かな。 いっぱい摩擦もあったけど、おかげで色々学び、 ちょっとだけ他人の痛みがわかるようになり、 何をしたいかがかなり明確になってきた。 少し人より時間がかかってしまったことは否めないけど、 人間として成長した、いい10年だったのではないか。 平均寿命も延び続けていることだし、 まあ、のんびりやっていってもいいだろう。 というわけで、すっかり引きこもっていたここ数年でしたが、 今年は少ししたら、色々落ち着く予定なので、 そうしたら、みなさんとゆっくり会いたいな。 こんな私を見捨てずにいてくれた友達の皆様、 今年もどうぞよろしくお願いいたします。 皆様の一年が、10年後に振り返ったとき 「よかった」と思える一年でありますように。
January 6, 2007
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(ここでいう負け犬とは、 酒井順子「負け犬の遠吠え」における負け犬、 すなわち、30代・未婚・子なしを指します。) 一応、この判定は、20代後半~30代前半のいわゆる適齢期男女を大正としています。 ですので、あんまり若い方・あんまり年上の方あてはまらない部分もあるでしょうが、まあやってみて。 さて、それでは、あなたの負け犬度を判定します。 以下の質問に○か×かでお答えください。 1)今まで結婚式・披露宴に出席した回数は5件以下である。 (会社関係やサークル仲間など、みんなでは会うけど、 個人的には遊ばない友達の結婚式は除きます) 2)今の彼氏・彼女と別れても、次がいるさと思う。 (いない人は「一生結婚できないかも・・・」と不安にならない。) 3)雅子さまと紀子さまならば、雅子さまのほうにシンパシーを感じる。 さて、上記の質問にいくつ○がついたでしょうか。 ○3つの人:Welcome to 負け犬 world! あなたもわたしも負け犬です。 アスカハウス(*)のお部屋を空けてお待ちしております。 (*)アスカハウス:将来私が建てる予定のコラボレーティブ・ハウス。 漫画喫茶とジム・エステ、ついでに美形スタッフがついてきます。 ○2つの人:負け犬度はかなり高め。危険信号点滅中。 方向性を変えるならば今だ! ○1つの人:負け犬度は低め。 あとはあなたの努力しだいです。 ○ゼロの人:今のまま普通に生きていれば、 そのうち結婚できるでしょう。 ちなみに各質問の意味ですが、 (1)普段から遊ぶ仲の良い友達の友人の結婚式・披露宴に 5件以上よばれたことがある。 この質問では、結婚した友人が回りに何人いるかを判定している。 なぜなら、この世は類友。 自然に【結婚するグループ】と【結婚しないグループ】がいつの間にかできていて、その間には、ふか~くてくら~い川がある。 たとえば、大学の同期などで集まっても、 結婚した人は「今月、結婚式が3件もあってご祝儀貧乏なの~」とか言ってる。 おいおい、私は今までで出た総結婚式数が3件だぞ! 一ヶ月で追い抜かれてるじゃねえか! このように、結婚する人の周りには、結婚する人が集まっているのだ。 (そして、結婚しない人の周りには、結婚しない人が集まっている・・・) なので、あなたが【結婚するグループ】に入っているのならば、まずは心配ない。 あなたはいずれ結婚できるであろう。 あなたが【結婚しないグループ】に入っていたとしたら? まあ、それも心配ない。 負け犬の共はみんな負け犬。将来、一緒にいてくれる友達には困ることはないからだ。 (2)今の彼氏・彼女と別れても、次がいるさと思う。 (いない人は「一生結婚できないかも・・・」と 不安にならない。) この質問では、あなたの結婚でも切迫度を判定している。 なんかね、29くらいになると、 「この彼・彼女と別れたら、一生結婚できないかも・・・」 と不安になるらしい。 そして、その不安・切迫感が、結婚の決め手となるのである。 これが、そこそこ美人だったり、小金持ちだったりする、 微妙にモテる人のほうが、負け犬になるという落とし穴。 「これが駄目でも、まあ次・次!」とか思ってるからいけないのである。 「これを逃したら次はない!」と思わねば!(3)雅子さまと紀子さまならば、雅子さまのほうにシンパシーを感じる。 この質問は、女子のみ限定かもしれないけれど、 その人の資質を現す上で、ひっじょーーに重要。 これは、「目標への底力」「執念力」を表す指標である。 負け犬が負け犬になるのは、結局は 「結婚はしたいけど、見苦しくはなりたくない」 という中途半端な気持ちがあるから。 雅子さまにはその迷いがあるけど、紀子さまにその迷いはない。 「目標をセットしたら、その目標に向けて着々と邁進」なのである。 だから、あなたが紀子さまタイプであれば、 「結婚したい!」と思い出したら、 何歳になっていても、きっとできるであろう。安心してよい。 え、雅子さまにシンパシーならどうしろって? だーかーらー、アスカハウスがあるってば。 きっと老後も楽しいから、大船に乗った気持ちで待っていておくれ。 以上、あなたの結果はどうでしたか?
November 26, 2006
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かつてラカンは弟子たちにこう言ったという。 「君たちラカン派にとって、世の中がラカン的な象徴に満ちているように見えるのは、君たちがラカン派であるからにすぎない、君たちがユング派だったりクライン派だったりしたら、世の中はユング的あるいはクライン的に見えるだろう」 自らの業績を相対化してみせた皮肉たっぷりのこのラカンの言葉は、ある種、学びの本質を端的に言い表している。 学ぶということは、単に知識を得ることではない。 学ぶとは、その得た知識によって、世界を見る枠組みがかわることを指す。 逆に言えば、たとえどんなに知識を得ても、その人の世界の捉え方が変わらなければ、その知識の獲得は「学び」とはいえない。 ある知識を得ることで、今まで何でもなかったかのように見えていた風景が、別のリアリティをもってうかびあがってくる。 それが、学びである。 たとえば。 ルビコン川は、カエサルの話を知らない人にとっては、小さな何の変哲もないイタリアの田舎の川である。その知識がなければ、そこをわざわざ訪れても、何の感慨も生まれないことは間違いない。 しかし、カエサルの話を知っている人にとっては、ルビコン川は、わざわざ訪れるに値する壮大なロマンを感じる場所である。 ある知識を獲得することで、何の変哲もなかった川が、偉大なカエサルの足跡の第一歩に変わる。 その川の風景は、その知識を獲得した人の前には、全く違うものとして立ち現れる。 世界の認識が変わるのである。 同様に、 マルクスを知れば、世界は階級的に構成されているように見えてくるだろうし、 ニーチェを知れば、世界は愚民であふれている(w)ように見えるのだろう。 その意味で、学ぶ楽しさのひとつとは、どんどん変わっていく自分自身を発見することだ。 だから私が、会うたびに違うことを口走っていたとしても、それは私が一生懸命学んでいることの証。 ちょっとくらいの一貫性のなさは、見逃してほしいものである。
November 14, 2006
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ここのところ、うまく言葉にできずに、 ずっと引っかかっていることがいくつもある。 どうしてアカデミアの世界と現実の世界は、 こんなに乖離しているのだろう。 どうして恵まれた立場に生まれた人が、 その恵みをあまりにも当然のものとして、 恵まれなかった人々を軽蔑し排斥できるのだろう。 言葉の届かない相手を前に、 私はどのような態度をとったらいいのだろう。 すごく大きい問題であり、手垢のついた問題であるけれど、 すごく大事なことだ。 こういう問題に直面するたび、 いつも自分の手に負えないことが悲しくて、 陰鬱な気分になるのだけれど、 大事なことは、諦めないことだ。たぶん。 どうしたってわからない、わかるはずもない、 わかったつもりになるのはかえって失礼、といった 色んな考えもあるだろうけど、 だからといって、 考えるのをやめ、行動するのをやめ、関わるのをやめて、 私のわかる世界にだけ居ようとするのは、 やっぱり違うのだと思う。 急がなくていいので、 ゆっくり、でも、きちんと考えていこうと思う。
November 13, 2006
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そうそう、今更だけど、これも読んだんだった。 書いてあることが私にとってはあまりに普通だったため、 うむ、という感じだった。 インターネットの先に何を見るか、 という視点はちょっと面白い。 少し考えてみたいと思う。
November 7, 2006
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最後の夏の100冊から10日間。 さぼっていたわけではない・・・・といいたいところですが、 とりあえずノルマだけはこなそうと、新書でお茶を濁していたというのがほんとのところ。 ・『文化経済学のすすめ』 ・養老猛司の本2冊 ・『集中力』谷川浩 ・『人に言えない仕事はなぜ儲かるのか』 ・『ケータイを持ったサル』 まあどれも、ふつうの新書である。 ふつうの新書とは、つまり「読み捨て」だという意味だ。 あ、でも、養老猛司も谷川浩も面白いよ。 エッセイとしては普通に面白い。 ただ、下2冊はひどかった・・・。 あなた、エコノミストってほんとですか?(『人に言えない仕事~』) あなた、本当に研究者ですか?(『ケータイを持った~』) と聞きたくなるほど、論理が雑。 まあ、新書だからな。
November 5, 2006
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知の冒険者たちシリーズ第一巻・フーコー ★★☆☆☆ 書いた書評が、消えた・・・。 ショック。 書き直す元気がないので、★だけ。 でも、★ふたつじゃ申し訳ないくらい悪くない本です、 とだけ、言っておこう。
November 4, 2006
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ジンメルの思想のエッセンスを、非常にわかりやすく、丁寧に解説しており、 入門書としては、パーフェクト。素晴らしい。 けれど★4つにしたのは、あまりにわかりやすすぎて、内容が薄まっており、 「知的にすごく興奮する」というかんじではないなあ、と思ったから。 (入門書なので、そこまで要求するのは酷かもしれない。) でも、社会学に触れたことない人、ジンメルなんて知らんわ、っていう人には、 文句なしにお勧めです。 2~3章は社会学の学説史やジンメルの方法論的なことなので、 内容を追うだけなら、1章から4章に飛んでもよいかも。 以下、個人的な備忘。 「私とは何かを他者に伝えようとする場合に私たちは、 自分をかくかくしかじかの特徴をもった人間であるといったかたちで、 自分が帯びるある種の特徴を切り取ることによって、 つまり「断片化」することによってしか伝えることはできない。 このことは逆に私たち阿賀他者を認識する場合にも同じである。」(p99) 「距離とは隔たりであると同時に、接近可能性である」(p131) 「私たちのコミュニケーションは <伝えたいことがそのまま伝わる>という 伝達者の主体的能動性の発動という側面を越えて、 伝えたいこと以上に<つい伝わってしまう>ことの方が 思いのほか大きいのだ」(p146)
November 3, 2006
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『スティグマの社会学』アーヴィング・ゴッフマン お勧め度 ★★★☆☆ ゴッフマン初挑戦。 まとめると、人のアイデンティティが、 社会の中でいかに作られてるか、という話なのだが、 着眼と発想がものすごくおもしろい。 アイデンティティとは、「固定した属性」ではない。 むしろ「関係性」そのものであり、 個人が持つ様々な役割の中で、主に演じられるもの、 個人が持つ様々な顔の中で、頻繁に意識されるもの、 それが、主たるアイデンティティとなっていく、 というようなこと。 しかし、色んな情報を詰め込みすぎてる。 いっぱいいっぱい言いたいことがあって、 全部捨てれないから、とりあえずぜーんぶ 「えーーい!入れちゃえ」って詰め込んでしまったような、 そんな文章。 「ADHDじゃねえか?このひと(w」と疑いたくなる。 面白いところはたくさんあるんだけど、 次から次に話題は移っていくし、しかも体系的でない。 早回しの映画を見てるとか、宝探しみたいなかんじだ。 てことで、★3つ。 何回か読み込んだほうがいい本だろうな。 そのときそのときで、お!と思う部分が違うような気がする。 どうにもこうにも訳に困っている部分が多々みられるので、 これから読む方は、原著の方がいいかも。 てことで、原著2冊注文。届くの楽しみ。 中身については、届いた本とあわせてまたレビューします。
November 2, 2006
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あまりに社会学の基礎が足りん、ということで、 基礎系の教科書を数冊購入。 家族、都市、産業、労働、階層、文化、福祉、環境、 ジェンダー、国際関係、社会運動etc.・・・ 社会学の範囲、広すぎ。 「人」と「社会」にかかわること、何でもありだな、こりゃ。 それが魅力でもあり、大変でもある。
November 1, 2006
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東京でやっていたものを見逃してしまって後悔していたのだが、京都の会期日程が、ちょうど学会で京都に行く時期と重なっている。 わざわざ京都まで来て、東京で見れたものを見るというのもなんだな~とは思いつつも、やはり心残りだったため行ってきた。 いやあ、よいとは聞いてはいたのだが、本当にむちゃくちゃよかった!!! 数年前の、横山大観展以来のヒット。 どれほどデジタル技術が発展しようとも、絵画だけは、本物を見なくては伝わらないものがある。 (まあ、逆に、写真での方が実物よりいいんじゃない?っていう作品もあるんだけどw。) けれどひとつ確かなのは、実物がドキューンとくる作品はどれも、写真でみてもそのドキューンは伝わってこない。残念なことに。 こればっかりは絶対見なきゃわからないのだ。 それがわかっているから、プライスさんは大胆にも、全109点をブログで公開するという衝撃のマーケティング手法を使っている。 http://d.hatena.ne.jp/jakuchu/ (右側メニュー「全109点はこちらから」で見れます。) ひとつひとつの絵につけられているプライスさんのコメントも素敵。 この人は単なるコレクターじゃなくて、本当に江戸絵画の世界に魅了されて、 江戸絵画を純粋に愛してやまないんだなというのが、素直に伝わってくる。 ていうか、プライスさん的には、これはマーケティング手法じゃないんだよね。 たぶん、「展覧会を開くことのできない地方の方々にも、私の持っている作品のよさをお伝えしたい」ってことが一番大きいのだろう。 それだけ、自分のコレクションに自信があるともいえる。 確かにここに紹介されている作品は画像だけでも十分素晴らしく、実物の美しさはいかほどか、と嘆息したくなるような作品が数多くある。 (でも、マーケティング戦略としてみても、この方法は正しかったと思う) 衝撃的といえば、展示の仕方も衝撃的。 普通このような展覧会においては作品を守るためガラス越しの展示が多い中、屏風などの多くは、ガラスなしで展示されている。 ガラスは作品を守るためだとはわかっていても、やっぱりガラスなしでの方が、その作品の息吹が伝わってくるのであって、これも、日本の多くの方に作品を楽しんで欲しいというプライスさんのご好意らしい。 プライスさん、太っ腹!!ラブ!! もちろん、このサイトで作品は全部見られるけれど、今後九州と名古屋でもやるから、ぜひ足を運んで欲しい。 名古屋くらいまでなら、十分に行く価値のある展覧会だと思う。 私ももう一回行きたいと思うくらい、本当に素晴らしかった。 伊藤若冲の色使いのコントラストは、最高にモダンでおしゃれだし、 丸山応挙の作品は、余白が素晴らしい緊張感を保っていた。 でも今回、私の中で一番のヒットだったのは、「雪中松に兎・梅に鴉図屏風」by 葛蛇玉。 大胆かつ繊細な大作。あまりに美しくて美しくて、涙がこぼれそうになった。 http://f.hatena.ne.jp/jakuchu/20060627095340 ああ、これを毎日見れるなんて、プライスさんたらなんてうらやましいの!! ぜひ俺を、プライス家の養女に!! 西洋画もいいけれど、日本画もいいなあ、と心から思える展覧会です。 本当にぜひ。
October 21, 2006
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まあ、みてくれよ。この写真を。 いかにも美女と野獣なこの写真。 注目すべきは、野獣の方だ。 白いスーツ。 胸に挿した赤いバラ。 睨みをきかせた凄み顔。 「俺の戦利品だぜ!」バリに花嫁の腰に回された手。 こ、濃い。。。。しかもなんかねっとりとエロい。 いかにも田舎の極道成金ってかんじだ。 ちょい悪オヤジっていうか極悪オヤジ? しかし、この極悪成金の正体はというと、スラヴォイ・ジジェクなのである。 ジジェクといえば、サイード、バトラー、スピヴァクなどと並ぶ現代思想の大御所。 現代世界における one of 最高の知性の持ち主といってもいい人である。 ・・・・ま、まじで、この極悪成金があのジジェク?! 町で会ったとしても、目を合わせないように避けて通るタイプの人だ。 どこからどー見ても、現代世界で最高の知性の持ち主には見えねえだろーー。 本当に人って見かけで判断できないよなあ。。。。 ちなみにこの嫁さん、20くらい年下の下着モデルらしいっすよ。 なんつーかもう、ある意味、オヤジの鑑。 日本のちょい悪オヤジたちよ。目指すはジジェクだ!
October 20, 2006
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けっこうみんなが書いていることだけど、 朝からやっているみのもんたの番組。 私が朝の準備をする時間にいつもやっているので、 つい見てしまうことがあるのだが、 ほんっと、朝からやな気分になる番組だ。 様々な事件や問題を取り上げて、言うことといったら、ただ 「こんな悪いことが起きているなんて信じられない」 「どうしてこんな悪い人を放っておくのかわからない」 って、悪い点をあげつらうだけ。 「わからない」「信じられない」って言ったって、 その「わからない」「信じられない」ことが、現実に起きてるのだ。 あんたが「わかる」「信じられる」世界こそバーチャルで、 そっちのひどい現実がこの世界のリアリティーなのだ。 みのは、そのリアリティーを切り捨てる。 そのコメントは、「世界を理解しよう」「人を理解しよう」という気持ちを、まるまる放棄している。 キーワードは「常識」。 常識は常に正しい。常識で理解できないことは全て悪。 だからみののコメントは、「私は常識だから正しい。常識を持っているはずの私と違うあんたは悪。信じられない」で、終わり。 「わからない」「信じられない」で終わるのではなくて、むしろそれを現実として受け止めて、 「どうしてこんなことになったの?」 「どうしたら変わるの?」 ってことを、分析して、考えて、それを伝えていくのが、メディアの使命じゃないの? たまに何人かいるコメンテーターが、それが起きた深い理由を推察したり、別の側面から見た解釈を言ったとする。 しかし、みのは「別の解釈」を禁じて、それを打ち消す方向に話を持って行く。 もちろん、その先は「常識は正義で、私が理解できない人は悪人」。 アカデミアの世界では、常識を疑わない人間は、バカと呼ばれる。 コペルニクスやガリレオや例を持ち出すまでもなく、 正しいと思われている常識は、常に大量の間違いを含んでいる。 だから、心から言おう。 ばーか、ばあーーーーーーか。 ただ、みのもんた的精神は、分析に値する興味深い現象であることは確かだ。 長くなるので、みのもんた的精神の分析は次回。
October 19, 2006
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忙しい人の秘書なんていう仕事をしていると、 いろんな所からいろんな電話がかかってくる。 一日電話のやり取りで終わってしまうこともしばしば。 (これが来ないときはパッタリ来ないのだけど。不思議。) で、しみじみ思うのだけど、何かを人にしてもらいたいのなら、態度って本当に重要だよなあああ。 言葉遣いとか、こちらへの気遣いとかがあって、 私の方も、できる限りご希望に添うようにしてあげたいと思う方もいれば、 「それが人にものを頼むときの態度か?!」と思い、もはや私のところで「申し訳ございませんが、ボスは今忙しいので」と断ってしまいたいと思うくらいの方もいる。 (いや、もちろん、それでもお取り次ぎしますけどw) いきなり「○○だけど××いる?」みたいな電話でもOKなのは、仲良しさんや先輩、お世話になっている方などなのだけど、 そういう方々はこちらもよく存じ上げているし、また、そういう方々は大体においてボスの携帯を知っているので、あんまりオフィスの方に電話をかけてくることはない。 (しかし、むしろそういう人ほどこちらが恐縮したくなるくらい丁寧なのは一体どうしたことだろうか) オフィスに電話をかけてきている時点で、絶対に断れない「しがらみ軍団」ではないことが多いわけで、とすると、あとは秘書の胸算用ひとつとなるわけである。(いや、もちろん全部お伝えしますけどw) というわけで、秘書に好かれ、アポをできる限り早く取る方法。 1)秘書に対してであっても、態度は丁寧に 2)アポや依頼の内容と要望をできる限り詳しく伝える 3)どんな遠い方でも、できる限り仲介者を探して○○さんの紹介で~といった方がいい 案外(2)を嫌がり「内容はボスに直接お話しいたしたい」という態度の方が多いのだけど、その点は秘書を信用してもらわないと困る。 当人が電話なんぞイチイチしてられないから、秘書がいるんである。 しかも、当人にいくら説明したところで、当人は忙しすぎて、何を頼まれたかなんぞ全く覚えていないのである。 そこを締切直前に秘書が「これをやってください」とプッシュするのだから、秘書に内容(と〆切日)をわかっていてもらう方が、絶対ぬかりはない。 スケジュールだって、本人だったら断るところでも、秘書が「この人のアポを入れてあげたい」と思えば、ちょっと無理矢理に入れちゃうこともできるのである。 将を射んとせばまず馬を射よ。 人間関係は気遣いなのである。
October 18, 2006
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最近、自分の中で、大きな心境の変化があった。 何かが事件があって変化した、というわけではなくて、 「あれ・・・?あれれ? これ、もしや前と変わってるんじゃ・・・?」 というかんじで、気づいたら、変わっていた。 そんな淡々とした変化だったけど、この変化は、 ちょっと前の私には、本当に考えられなかった位の変化なので、 ちょっと自分でもびっくりしてしまった。 その変化したある側面から見れば、 ちょっと前の私と、今の私は、まるで別人になっている。 たとえば、 好きで好きでたまらなかった人が、ある日気づいたら、 「なんであの人のことあんなに好きだったんだろう?」 と、自分でも、小首をかしげることがあるように。 自分の心すら、これほどまでに当てにならないものなのである。 ましてや、人の心をや。 私たちは、そういう変化の流れに飲まれることをよしとせず、 何とか流れの中に楔を打ち、立ち留まろうとし、 『絶対』とか『永遠』という約束をするけれど、 そんな私たちのちっぽけな努力は、 変化の流れの力には逆らえないのではなかろうか。 その流れはとてもとても強いから、私たちは、 どうしたって流れに巻き込まれていくのである。 もちろんその流れは、一気に楔を押し流すこともあれば、 少しずつ削っていくことも、 いつの間にか楔を差した地面ごと動かしていくこともあるだろう。 流されていることを、楔を指した人に気づかせないままに。 このように、変化の流れというものに、人はなかなか抗えるものではない。 変化していくのが当たり前だからこそ、大事なのは、 絶対とか永遠とかいった『ことがらが変わらないでいること』、ではない。 大事なのは、そのとき、そこで、絶対とか永遠とか 『打ちたてようと思った』という事実そのものである。 そのときに、 「この変化という流れに逆らってみよう、 深く深く楔を打ち込んで」 と思えたほどの、強い強い『思い』。 そのあと、どんなに自分が変わってしまっても、 他の人のほうが変わってしまっても、 その時『変わらないでいよう、変化に抗おう』とした気持ちは、 キラキラした思い出になる。 だから、『絶対』が果たされなかったといって、悲観的になる必要はない。 それは『流れに逆らうためのトレーニング』となり、 次の機会にもっと強く楔を打ち込むための力を与えてくれたのだから。 そして何より、私たちは、実際、 『絶対が実現すること』より、 『絶対に変わらないと思っていたことだって変わる』ということの方に、 救いや恩恵を受けているのであるから。
October 17, 2006
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史記、おもろい! とにかくあっという間に読めてしまった。おすすめ。 でも中国の歴史に関する造詣が浅くて、 いまいち、誰と誰がどういう関係で、 どの国とどの国がどういう関係なのか、こんがらがり。 中国の歴史に詳しい人なら、もっと楽しめるはず。 各列伝の最後にある司馬遷の各人物に対する寸評がまた、 身も蓋もなくて笑える。 司馬タン、ではなぜその人物を「列伝」に入れたんだい? と問いたくなるような酷評、多々。 多分、司馬タンの時代には「偉人」として扱われていた人を とりあえず網羅的に集めて、司馬タンなりの目線で描いた ってことなんだろうけど。 でも、司馬タンの史記はあまりに有名な本なので、 司馬タンのおめがねにかなわず、酷評されてしまったが故に、 いまだに「愚者」「悪者」の印象をもたれてしまった人も たくさんいるんだろうなあ。 いつか、日本語の訳文を参照しつつ、原文を読んでみたい。
October 16, 2006
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今、私は、大学時代の恩師の秘書をしている。 授業を受けるわけでもないし、 専門が違うから指導を受けるわけでもない。 けれど、日々、先生とお昼ご飯を一緒に食べたり、先生の原稿をタイプしたり、先生が取材に答えている会話を耳にしたりする。日々「ただ側にいるだけで」 私は、先生の思想や知識を、「体にしみこむような形で」 確実に学んでいっている。(専門違うけどw) ああ、世の中には、こういう学び方もあるんだなあ。 というか、授業などの何かを「教える」というような形で 「学び」が行われるようになったのは、近代以後の最近のことで、 むしろ、人間社会では長い間、「学び」というのは、 「教える」のではなく、「ただ側にいる」という形で、 行われていたのだと思われる。 古代ギリシャでは、弟子は師の元に付き従って、 師が誰かと話すのを見ること、師と話すことが学びの術であったし、 古代中国でもそうであった。 現代でも職人たちは口々に「技術は教わるのではなく盗む」という。 企業家を志す人が、企業家のかばん持ちをし、 政治家を志す人が、政治家の秘書となったり、 役者を志す人が、役者の付き人になるといった慣習って、 なんかわかるなあ。 何を習うってわけでなく、でも、学ぶ何かがたくさんあるから。 最初聞いたときには全然わからなかったことでも、 繰り返し聞くうちに「すとん」とわかる時が来るのだ。 不思議なことに。 だから、何かを学ぶなら、ただもうひたすら、師匠のそばにいるという方法もあるのではないかと思う。(ちなみに、この「体にしみこむ形での学び」の不平等性を指摘したのがフランスの社会学者、ブルデュー。実は、このような「学び」が、家庭内でも行われている。だから、どんな家に生まれたかで、その人の知識や考え方のレベルに差がでてきてしまう。教育機会は平等だといっているけれど、上流階級に生まれた子弟は、それだけで、ゲタをはいている状況になっているのだ。)でも、「体にしみこむような形で」学んでいるから、 気をつけないと、先生の考えに相当染まっちゃうのよね(w。 だから、師匠選びは大事だ。「習うわけではない学び」とは、すなわち「私を入れる箱」「私を入れる枠組み」を作ることだ。私という存在の枠を、どのような大きさのどのような形のものにするか、それを決めることだといってよい。この「習うわけではない学び」という「箱作り」は、無意識のうちに行われる。そして、どうせ作るならば、箱は出来るだけ大きく、できるだけ柔軟にしておくほうがいい。「私を入れる箱作り」とは、私たちの無意識・私たちの可能性を耕すことと言い換えられるかもしれない。そして、「師匠から体にしみこむ形で伝えられた学び」の本質は、私という畑を、できるだけ広くできるだけどんな作物にも対応できるよう、じっくりじっくり耕しているということなのだ。だから私は、師匠は、できれば、専門における専門性だけではなく、幅広い教養を持っている人がよいのだろうと思う。その人のそばにいることで、無意識のうちに、「今までの自分の枠」外のものを自分の中に存在させ、自分の可能性を広げることにつながるからだ。いい師匠を持ちました。
September 30, 2006
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昨日、自主参加させてもらっているゼミの飲み会があった。 そこで先生と博士の方に、 「どのように勉強してきたか教えてください」と聞いてみた。 ・・・・驚愕。 「大学1年で1日100ページ、 大学2年以上は、1日150ページが学校のノルマだった。 論文なら1日9本。」 (ちなみにその人は、アメリカの大学を卒業しているので、 in Englishである。) 1日150ページ or 論文9本in Englishだったら、 1日1冊in Japaneseじゃん!! しかも、それを大学1年から?! 衝撃を受けました。 (しかも、彼は論文を書くときは、1日30本ほど関連論文を読むという。そのペース、ありえないでしょ!!) 学部生(少なくともアメリカの学部生)がやっていることを 院生がやらないわけにはいかない。 まじで、1日1冊、こなしていかなきゃだめだわ、こりゃ。 ちょっと「1日1冊なんて、無理!」というモードだったんだけど、 ・・・がんばりまうす。
September 29, 2006
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夏もすっかり終わってしまいましたが、 夏の100冊は全く終わる気配を見せません。 あまりに進まないので、本格的にノルマ化することにしました。 1日1冊。でも土日はお休み。 (ていうか、そこで何とか追いつくことになると思われる) とすると、年間260冊、1ヶ月21~22冊。 ・・・ていうか、夏の100冊ってあり得ない設定だな。 普通に5ヶ月かかるじゃん。新潮文庫め! さて、とにかく(13)『社会学への招待』である。 そのへんにあった本をふらりと手に取ったのだけど、 いやはや、そのへんにあったわりに非常によい本であった。 「そうそう、社会学の魅力ってそこなんだよ!」 ということが、非常に端的に述べられている本である。 私が「そうそう、社会学の魅力ってそこなんだよ!」 と思うことは、以下のようなダイナミズムである。 個人が集まって ↓ 社会が形成される ↓ 社会はルールを作り出す ↓ 社会(とルール)は個人を束縛する ↓ 最初は個人が集まって社会を作ったのかもしれないが、 こんどは社会の中に人間が生まれるようになる ↓ 社会とルールは外部的な束縛にとどまらず、 個人の内面の価値観そのものを形成する ↓ その社会の価値を内面化した個人が、 その社会とその社会の価値を再生産していく ↓ では個人は社会によって作られたロボットであり、 社会の再生産の単なる歯車なのだろうか? ↓ いえいえ、個人にはそれでもなお自由が存在する ↓ そして、その自由やイレギュラーさから、 社会は単に再生産されるのではなく、 微妙に変容していく(つまり最初に戻る) それって面白くない? ・・・うーん、言葉足らずで申し訳ないが、 まあ、このようなことを、 より読む者を引き込むような感じで書いてるのが この本なのである。 社会学にちょっとでも興味を持っている人にはおすすめ。
September 28, 2006
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サバルタンとは、イタリアのマルクス主義思想家グラムシの用語で、本来「従属階級」という意味だが、 ま、ここでは、抑圧されている人、従属的な立場にいる人、エリート以外の人、社会的弱者というような理解でよいのではないだろうか。 スピヴァクの文章は、非常にもってまわった言い方をしているので、内容については、いまだ咀嚼できていない部分が多いのだけれど、簡単に説明すると以下のような話ではないかと思う。 彼女の結論は至極単純で「サバルタンは語ることができない」というものである。 世の中には弱者(サバルタン)を代弁するような人が様々いるけれども、本当の弱者(サバルタン)は、語る場所もなく、語る術もない。 では、サバルタンを代表して、語っているのは誰か? それは、(1)当のサバルタン以外の人たち (外部からのヒューマニスティックな慈善家や、現地の人々を興味の目で眺める研究者、そしてサバルタンを利用しようとする事業家や活動家など)、 そして、(2)サバルタンから何らかの変容を遂げた人たち、である。 この(2)サバルタンから何らかの変容を遂げた人たちとは、どういう人であろうか。 繰り返すが、サバルタンには、語る「場所」も、語る「術」も与えられていない。 語る場所を与えられるためには、そのサバルタンは、サバルタンの地位を脱出しなければならない。 それは、高等教育を得ることだったり、活動家になることだったりするのかもしれない。 しかし、「語る場所を持てるようになった」ということはつまり、「その語りに人々が耳を傾けてくれるようになった」ということであり、その段階でそのサバルタンはサバルタンではなくなっているのである。 (だって、人々は、「聞く価値のある人の話」にしか、耳を傾けない。そして「話を聞く価値のある人」というのは、通常、社会的成功者である)。 さらに重要なことは、サバルタンが「語る」ためには、サバルタンが「語ること」をもっていなくてはならないのである。 しかし、残念ながら、本当のサバルタンというものは、「語る事実」も「語る言葉」をもっていない。 たとえば、本当に生活保護が必要な餓死寸前の生活をしている人々のうちには、生活保護という制度そのものを知らない人が多くいるように。 彼らは、自分が生活保護を受けられるという事実も、それを主張する言葉も持っていない。 虐待を受けている子どもや女性も同様である。多くの人は「逃げればいいのに」と彼らに対して思う。けれど、彼らは逃げる場所も知らなければ、そもそも、自分が助けてもらえる存在だということも知らない。彼らは現実の前に絶望し、ただ暴力者の前で沈黙し、現実をやり過ごしているのみなのである。 (ちなみに、このようなサバルタンが日本にどれだけいるか、ということについては夜回り先生として有名な水谷修さんの本を読むといいと思う。そこで書かれている様々な事例には、ちょっと衝撃を受ける。) 「語れるサバルタン」というのは、「語る事実」を知ることのできた、すなわち「語る事実」へとアクセスする術を持つことのできた、サバルタンの中の特権階級である。 そのサバルタンは、語る言葉を持った瞬間に、サバルタンから何らかの変容を遂げるのである。 サバルタンは語ることができない。 よって、私たちは、サバルタンについて書かれたものや言われていることを、(たとえサバルタン自身によって書かれたものだとしても)そのまま信用することはできない。 なぜなら、人間は、過去を常に上書き修正して生きていっているからである。語る言葉を持った瞬間に、そのサバルタンは自分の過去を、新たに得た言葉で書き直してしまうのである。 被差別部落の人々にインタビューした桜井厚の研究には、この具体例が如実に現れている。 たとえば、ある女性は、部落解放運動に関わるようになってから、過去に自分に投げられた周りの人の様々な態度や言葉に込められていた差別的な意味合いを自覚するようになった。 (逆に言えば、それまでは、それらの経験は「差別的な経験」としては受け取られていなかったことになる。) 彼女にとって、それらの経験の意味づけは、解放運動に参加する前と後では全く違う。 そして、今の彼女が語る内容は、昔の彼女が語る内容とは、違っているであろうことは、容易に想像がつく。 この例からもわかるように、サバルタンについて書かれたテクストは、サバルタンの現実とは、無関係なところで生まれている言説なのである。 では、サバルタンについてどのようにアプローチし、どのように理解し、そして、彼らへの抑圧をどのように解決していいのだろうか。 スピヴァクはすっきりとした解決策は与えてはくれていない。 ひとつ、彼女が可能性としてあげているのが、デリダ的脱構築、すなわち「文章の空白を読む」ということである。 何が書かれているのかではなく、何が書かれていないのか、という部分にこそ、人間が無意識のうちに抑圧している他者や、当たり前のように前提としている思考や欺瞞が存在しているからである。 サバルタンに近づくためには、私たち自身の中にある、常識としてふだん考えもされない事実や、見過ごされている欺瞞に、自覚的でなくてはならない。 なんで、そこまでしてサバルタンを研究しなくてはならないか、と考える人もいるかもしれない。 けれど、逆に考えれば、そのような私たちが見過ごしている常識や欺瞞を照射し、人々に気づかせることができることが、サバルタン研究の意義であるともいえるのではないか。 スピヴァクは、「何かを学び知る」という特権は同時に、「何かを失う」ことであるという事実に言及している。 そして、私たちに、学び知ったことを「一旦忘れ去ってみる」ということを推奨している。 この部分は、非常に重要な示唆である。 なぜなら、私自身、研究対象たる働く女性たちと話していて、かなりの違和感を感じるからだ。 かつて私自身も彼女たちのone of themであり、彼女たちと同じような感覚を持っていたはずなのに、 学校に入り、労働の現場から身を引き、学問的知見を学ぶことによって、 私のものの見方は、たぶん、彼女たちとは決定的に違ってしまったのだと思う。 (とはいえ、私は逆に「知ってしまったものの悲劇」もあると思うけれど。) なので、「いったん、学び知ったことを忘れてみる」ということは、 彼女たちが何に惑い、何に苦しみ、何が必要なのかを「実感として」感じるために、 とても重要なプロセスである。 たとえ、本当には「実感として」感じることはできないのだとしても、 感じようと努めることそのものこそ、研究者の良心であり、学問への愛と敬意なのだと思う。 さて、内容はさておき(って、これだけ長く説明してきて、「さておき」もないけど)、 私がこの本で非常にImpressiveだったのが、彼女の語り口である。 確かに文章は読みにくいのだけれど、非常に好感の持てる本であった。 たぶんその難解さは、第一に、彼女が安易な断定や論理の飛躍を避けているために、 第二に、デュールーズとフーコー批判という形をとっているこの本の構成のために、 すなわち「デュールーズとフーコーくらい(ついでにマルクスとデリダも)先に読んどけよ、お前ら」っていう要請のために、 起こっているものであろう。(でも、マジでわかりにくいけど!) 彼女は、デュールーズやフーコーといった先人たちを批判しているが、 私は、彼女のその批判は、無意識のうちに抑圧を行使しているフーコーやデュールーズへの怒りや、彼らを引きずり下ろそうという意図ではないと思う。(彼女自身もインタビューで「私が怒っていると思われるのは心外であった」というようなことを述べている。) むしろ、彼女が主張したいのは、デュールーズやフーコーといった現代の知の巨人ですら気づくことなく自らの中に内面化している、根強い西洋中心主義・エリート主義・帝国主義・男性中心主義といったようなものに対する、ある種の衝撃と絶望なのだ。 サバルタンは語ることができない。 その沈黙はあまりに深いから、私たちは、まるでサバルタンは存在していないかのような錯覚にたやすく陥るし、サバルタンをたやすく無視することもできる。 サバルタン自身だって現状に満足したり利用しているじゃないかと言い募ることもできるかもしれない。 けれど、忘れてはならないのは、サバルタンは語ることができないという点である。 語ることができないからといって、存在しないわけではない。もちろん無視していいわけでもない。 そのなかで、どのようにサバルタンに近づくか、という点について、 スピヴァクは、非常に謙虚に、そして真剣に向かい合っている。 (ちょっと厳密かつ厳格に過ぎるような気がしないでもないけど)。 良い本でした。
September 27, 2006
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古典を読んどかねばと、古典講読にとりかかっているのだが、 これが、ちっとも進まない。 話の流れがある小説と違って、 学術書というのは何が書いてあるか予測がつかない。 なので、ちょっと油断すると、一瞬にして 話がわけわかんなくなるんである。 さらに、たとえ集中してたとしても、 文そのものがわかりにくいこともしばしばだ。 「もうちょっとわかり易く書いてくれよ、 何いってんのかちっともわかんねーよ、おっさん」 と何回も思う。 しかし、これが、人生を重ねて経験を積んでいくと、 書かれていることに思い当たる節がたくさんあり、 「おおおお!なるほど!私が経験したことはそういうことだったのか」 と、すらすらと読めるようになるらしいのだ。 (ほんとかよ・・・涙) 逆に、早熟にしてこういう古典を読んだ人たちは、 様々な現実に触れるたびに、 「ああ、なるほど。あそこに書かれていたことはこういうことだったのか」 と、逆向きの追体験をするのだろう。 前者と後者では、疑問の溶解の方向が真逆なので、 価値観の形成がかなり違うということは想像がつく。 私は間違いなく前者なので、 もし私が後者のような早熟な読書家だったら、 どんな人間になっていただろうか。 (私はこういう「もし私が●●だったら」という想像をするのが好きである) とにかく、古典、すすまないんである。 でも読んでいれば、わからないなりにハッとする部分があるのが、 古典講読の面白いところだ。 しかし、本(特に古典)というのは、読めば読むほど、 「上には上どころか、すっげーーーー上がいるもんだ」と、 自分の知識の浅さと、発想の貧しさに絶望的な気分になる。 (ああ、そういう意味で、「古典を読め」といわれるのは、 一種の戒めなのかも。 こんなの読んだら、いい気になんか絶対なれないもの。) 色々意義はあるのだろうけれど、 「古典を読む」ことの第一の意義は、 わからないけど読む、ということなんじゃないかと思う。 第一に、 わかっていることをわかるように書いたものを読んでも、 私たちの心の中に作られた常識という壁は崩せない。 自分を相対化して見るには、 自分の「当たり前」が通用しない、 「わけのわかんないもの」が必要なのである。 第二に、 「わけのわからないもの」を理解しようと努めることで、 自らの限界を乗り越えることが可能になる。 少しずつ、自らの限界を伸ばしていっていると、 突然、階段を上るようにわかる日が来るのではないか (だといいなという妄想込み)。 というわけで、古典を読む際は、 「このおっさん、何言ってるか全然わっかんねえなー」 と思いながら読み、 99%わけがわからないままに終わる、 というのが、古典の正しい読み方なんじゃないかと思う。 決して、私の頭が悪い言い訳なわけじゃ・・な・・い・・・。
September 26, 2006
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遅くなってしまったのでまとめて。 『日本文化は異質か』浜口恵俊編 予想以上に、非常に出色だった。 シンポジウムをもとにした論文+討論集だったのだけど、問いの立て方がどれも目鱗。 学者ならではの、本質的な問いの立て方をどなたもしていて、 「世界の見方・捉え方」にどれも新しい視点を与えており、 非常に面白かった。 (ちなみに、榊原英資氏の論文も載っているのだけど、 これを読むと、実務家と学者がいかに違うかがわかる。 どちらがいい悪いではなく、本質的に目線が違う。) 『自由からの逃走』フロム ぜひ読んでほしい本。 なぜ、人が自ら自由を手放すのか、について考察している。 訳者の言葉を借りれば「いっぽうではひとびとが求めてやまないはずの、価値としての自由が、他方では、ひとびとがそこから逃れ出たいと望むような呪詛となりうる」という、非常にユニークな論である。 『古典入門:自殺論』宮島喬 デュルケムの本そのものを読む前に概要を押さえるにはベスト。 宮島先生がデュルケム研究者だったとは・・・知らなかった。 そういや、姜尚中先生もマックス・ウェーバー研究者からスタートしてるんだよね。 友達の日本文学研究者が言うには、やっぱり日本文学なら夏目漱石研究をまずはしなさい、と勧めたくなるらしい。 もちろん今までも山ほど研究されているんだけど、でも、その過去の研究のレビューをすることだけでも、すごく力がつくらしい。 古典、おそるべし。 『愛国問答』香山リカ+福田和也 私はやっぱり香山リカの地に足のついている感じが好きです。 福田和也についてはあとがきにある「元来、左翼の貧乏くささが嫌で、右翼になったようなものだった」という言葉が、まさに彼をあらわしているんだと思う。 『暴走する世界』ギデンズ 現代問題の入門書としてはいいかもだけど、 現代問題になじんだ人にはもの足りないだろう。 "runaway world"を『暴走する世界』と訳すのには、?。 もちろん、そっちのほうがキャッチーなのはわかるけど、どんどん変わっていく世界、今までの常識が通用しなくなる世界、という方が正しい気がする。 『ウォーラーステイン』河北稔 こちらも、ウォーラーステイン初心者にはよいと思う。 『講座社会学:文化』宮島喬編 再生産の話は本当に面白い。 再生産話に興味のある方は、ぜひブルデューを。 『研究する意味』小森陽一編 研究生活に不安になったとき読むといいかも。 しっかし、夏の100冊をはじめて1ヶ月、まだ11冊とは。3日に1冊かよ。 スピードアップせねば・・・。 終了 『陰影礼讃』谷崎潤一郎 『朗読者』ベルンハルト・シュリンク 『たそがれ清兵衛』藤沢周平 『日本文化は異質か』浜口恵俊編 『自由からの逃走』フロム 『古典入門:自殺論』宮島喬 『暴走する世界』ギデンズ 『ウォーラーステイン』河北稔 『講座社会学:文化』宮島喬編 『愛国問答』香山リカ+福田和也 『研究する意味』小森陽一編 読み途中 『アメリカのデモクラシー(1)』トクヴィル 『悲しき熱帯I』レヴィ=ストロース 『精神分析入門(上)』フロイト 『日本の思想』丸山真男 『大衆の反逆』オルテガ 『社会学への招待』バーガー 積ん読(この機に頑張って読むぞ!) 『愛するということ』フロム 『消費社会の神話と構造』ボードリヤール 『再生産』ブルデュー 『ディスタンクシオン』ブルデュー 『社会学』ギデンズ 『カルチャラル・スタディーズ入門』ターナー 『ジェンダー・トラブル』バトラー 『経済学史』シュムペーター 『ジェンダーと歴史学』スコット 『HABITS OF THE HEART』(心の習慣)Beller 『THE MANAGED HEART』(管理される心)Hochschild 『THE TIME BIND』Hochschild 『PUBLIC OPINION』(世論)Lippmann 『IMAGINED COMMUNITIES』(想像の共同体)Anderson 『Hamlet』(ハムレット)Shakespere 『停電の夜に』ジュンパ・ラヒリ 『悲しき熱帯II』レヴィ=ストロース 『フランクリン自伝』フランクリン
September 25, 2006
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ひさしぶりに藤沢周平を読みかえす。 うーん、これまで気づかなかったけど、 この人、文章上手いわ(ていうか、気づけよ)。 『たそがれ清兵衛』に入っている短編はどれも、 内容は一緒で、パターンが統一されている。 話の筋は、読まなくてもわかる。 でも、読んじゃうんだな。 全体として、非常に押さえられた文体なのだけど、 ときどきはっとさせるところがある。 モノクロの映画を見ていて、 いきなりある部分だけカラーだった、みたいな、 そんなかんじ。 夏の100冊途中経過 終了 『陰影礼讃』谷崎潤一郎 『朗読者』ベルンハルト・シュリンク 『たそがれ清兵衛』藤沢周平 読み途中 『アメリカのデモクラシー(1)』トクヴィル 『悲しき熱帯I』レヴィ=ストロース 『精神分析入門(上)』フロイト 『日本の思想』丸山真男 『自由からの逃走』フロム 『大衆の反逆』オルテガ 『ウォーラーステイン』河北稔 積ん読(この機に頑張って読むぞ!) 『愛するということ』フロム 『消費社会の神話と構造』ボードリヤール 『再生産』ブルデュー 『ディスタンクシオン』ブルデュー 『社会学』ギデンズ 『カルチャラル・スタディーズ入門』ターナー 『ジェンダー・トラブル』バトラー 『経済学史』シュムペーター 『ジェンダーと歴史学』スコット 『HABITS OF THE HEART』(心の習慣)Beller 『THE MANAGED HEART』(管理される心)Hochschild 『THE TIME BIND』Hochschild 『PUBLIC OPINION』(世論)Lippmann 『IMAGINED COMMUNITIES』(想像の共同体)Anderson 『Hamlet』(ハムレット)Shakespere 『停電の夜に』ジュンパ・ラヒリ 『悲しき熱帯II』レヴィ=ストロース 『フランクリン自伝』フランクリン しかし夏の100冊本来の目的である課題図書のはずの、 アカデミック方面の本が全然すすまない。。。
September 24, 2006
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さて、この夏の100冊でよくお世話になっているのが、 中公クラシックスシリーズ。 中公クラシックスは、中央公論が出している、新訳の古典シリーズである。 私は、その装丁のシンプルな美しさと新書サイズという手軽さから、 このシリーズを好んで買うのだけれど (だってこれが揃って棚に並んでいると本棚が美しいのだ)、 その見た目の美しさ以上に、 私が中公クラシックスシリーズを愛する理由がある。 それは、各本の最初に収められている寄稿である。 寄稿には、著者の簡単な業績や人生のまとめが織り込まれており、 それらの寄稿は、多分、各本の著者の研究者によって 書かれているのだと思う。 (つまり、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』なら、 レヴィ=ストロース研究者が寄稿を寄せている。たぶん。) もちろん、寄稿者は、寄稿するくらいだから、 当然その本を推薦しているわけだけど、 これが、そこんじょそこらの書評や推薦文とは全く違う。 なんというか、寄稿者がその本や著者に抱いている愛に打たれる。 各寄稿者がその本やその著者に、ある種心酔に近いくらいの、 ものすごい愛を抱いているのがわかるのだ。 (いやまあ、その本やその著者の研究者になるくらいだから、 当たり前なのかもしれないけど。でも、すごい。) もちろん、各寄稿者は大体は研究者だから、 その筆致は努めて冷静で分析的だ。 決して、大声で「素晴らしい!」なんて言い立てていない。 けれど、その抑制的な文面の行間から、 「・・・でも、ほんとに最高だから読んで!!!」 という寄稿者の気持ちが、溢れるように伝わってくる。 そして、彼らの気持ちが伝染して私も、 うわああ、読みたーーーい!!という気持ちになるのである。 まあ実際、本文で挫折することもよくあるのだけれど・・・(涙)。 でも、そんなときも、この序文を読み返すと、 「やっぱり頑張って続きを読もう!」という気持ちになる。 それだけの力が、このシリーズの寄稿序文にはある。 この序文を読むだけでも、このシリーズを買う意味があると思うほどだ。 感動とは『感じて動く』と書くけれど、 愛の力は、確実に、人に伝わり、人を動かす。 しかも、強制ではなく、本当に気持ちのいい自発的な方向で。 研究者だったら、学問と研究対象に愛を抱くこと。 ビジネスマンだったら、自分の商品と自分の顧客に愛を抱くこと。 あんまりふだん意識しないけれど、 そういうことって、実はすごく大事なんじゃないかなあ。 その「愛があるかないか」が、 最終的なところで論理や損得も超えて、 「伝わるか伝わらないか」につながる気がする。 このことは、日常の研究過程や業務過程では忘れがちなので、 きちんと心にとどめておきたい。 ちなみに今日読んだのは、折口信夫『古代研究』の寄稿(by岡野弘彦)です。 ちょっと涙出ちゃったくらい、これもいい寄稿でした。 というわけで、みなさまに中公クラシックスお勧めです。
September 16, 2006
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古典を読んどかねばと、古典講読にとりかかっているのだが、 これが、ちっとも進まない。 話の流れがある小説と違って、 学術書というのは何が書いてあるか予測がつかない。 なので、ちょっと油断すると、一瞬にして 話がわけわかんなくなるんである。 さらに、たとえ集中してたとしても、 文そのものがわかりにくいこともしばしばだ。 「もうちょっとわかり易く書いてくれよ、 何いってんのかちっともわかんねーよ、おっさん」 と何回も思う。 しかし、これが、人生を重ねて経験を積んでいくと、 書かれていることに思い当たる節がたくさんあり、 「おおおお!なるほど!私が経験したことはそういうことだったのか」 と、すらすらと読めるようになるらしいのだ。 (ほんとかよ・・・涙) 逆に、早熟にしてこういう古典を読んだ人たちは、 様々な現実に触れるたびに、 「ああ、なるほど。あそこに書かれていたことはこういうことだったのか」 と、逆向きの追体験をするのだろう。 前者と後者では、疑問の溶解の方向が真逆なので、 価値観の形成がかなり違うということは想像がつく。 私は間違いなく前者なので、 もし私が後者のような早熟な読書家だったら、 どんな人間になっていただろうか。 (私はこういう「もし私が●●だったら」という想像をするのが好きである) とにかく、古典、すすまないんである。 でも読んでいれば、わからないなりにハッとする部分があるのが、 古典講読の面白いところだ。 しかし、本(特に古典)というのは、読めば読むほど、 「上には上どころか、すっげーーーー上がいるもんだ」と、 自分の知識の浅さと、発想の貧しさに絶望的な気分になる。 (ああ、そういう意味で、「古典を読め」といわれるのは、 一種の戒めなのかも。 こんなの読んだら、いい気になんか絶対なれないもの。) 色々意義はあるのだろうけれど、 「古典を読む」ことの第一の意義は、 わからないけど読む、ということなんじゃないかと思う。 第一に、 わかっていることをわかるように書いたものを読んでも、 私たちの心の中に作られた常識という壁は崩せない。 自分を相対化して見るには、 自分の「当たり前」が通用しない、 「わけのわかんないもの」が必要なのである。 第二に、 「わけのわからないもの」を理解しようと努めることで、 自らの限界を乗り越えることが可能になる。 少しずつ、自らの限界を伸ばしていっていると、 突然、階段を上るようにわかる日が来るのではないか (だといいなという妄想込み)。 というわけで、古典を読む際は、 「このおっさん、何言ってるか全然わっかんねえなー」 と思いながら読み、 99%わけがわからないままに終わる、 というのが、古典の正しい読み方なんじゃないかと思う。 決して、私の頭が悪い言い訳なわけじゃ・・な・・い・・・。
September 15, 2006
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このところ、「その人が何を言っているか」という内容そのもの以上に、「その人がどういう語り口で語るか」ということの方が、何倍も何倍も重要だということを痛感する。私が心地よいと感じる語り口の基準は二つある。ひとつは、「自分が間違っているかもしれない」ということを、どこかで考えながら語る、ということ。もちろん、人がもつ意見は、その人の経験や知識や様々なものに基づいて出てくるものだから、ある側面では、間違いなく真実である。しかし重要なことは、それ以上に、わたしたちの考え方や発想が「常識」や「パラダイム」に規定されているということだ。「絶対の真実」などない。「絶対の真実」を伝えると思われている科学ですら、そうである。アインシュタインだったか誰だったか有名な科学者が、「科学者の業績とは、次の新しい理論が生まれるまでできる限り長く応用される(そしてできれば、次の理論ができたあともその一部として生き延びられる)理論を作り出すということに他ならない。」というようなこといっている。その時代時代で信じられてきた「絶対の真実」が、いとも簡単に崩れ去り、塗り替えられてきた事実は、歴史を見れば瞬時にわかることである。私たちが今日「当たり前」と思っていることは、明日「当たり前でなくなる」ということは、いくらでも起こりうることである。だから、私は「自分が絶対に正しい」と信じ、「結論が最初から決まっている」人の語り口は好まない。「自分が絶対に正しく」「結論が最初から決まっている」という人との会話は、コミュニケーションにならないのだ。会話を通じたコミュニケーションというのは、それ自体が非常にクリエイティブな作用で、相手と自分とのやり取りの中で、新しい考えを一緒に作り出していく作業である。話している過程で、今まで自分の中で思いもつかなかったような発想や結論が出てきた経験を誰しも体験したことがあるのではないだろうか。(もしもないなら、自分が「閉じたコミュニケーション」をしているのではないかと、疑った方がいいと思う。余計なお世話だが。)しかし、「結論が最初から決まっている」人と話すと、言葉を重ねれば重ねるほど、コミュニケーションの無力感を感じてしまい、相手が理解からほど遠くなっていく。それは、新しい考えをともに作る、という発想がないからではないだろうか。よって、たとえ、どのような意見をもっていようとも、「自分は間違っているかもしれない」という可能性を常に残した語り口をもつ人、また、どれほど意見が違おうとも「相手の話に一部の理を見つけよう」という努力をする、という語り口を持つ人を、私は好むのである。この態度さえあれば、どれほど意見が違っても、友達になれるし、お互いを尊重し合える。繰り返すが、大事なことは「何を語ったか」ではない。「どう語ったか」なのである。長くなったので心地よい語り口その2はまた今度。
August 30, 2006
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久しぶりに、心動かされる小説を読んだ。 読んだばかりで、まだ、内容についてコメントできるほど、 きちんと作品を咀嚼できていない。 けれど、きちんと咀嚼したい、と感じさせる小説であることは確かだ。 そして、ひとつはっきりと気づく。 私にとって、小説とは、「問いを投げかけてくるもの」だ。 私が心動かされる文学は、物語の形をとった哲学である。 作者が答えをあらかじめわかって書いている文学、 作者の価値判断がはっきりと感じられる文学、 作者が啓蒙的な文学には、私は心惹かれない。 それらが、どれほど美しく、どれほど素晴らしくても、 それらはただ美しく、素晴らしく、完成形としてそこにあるもの、だ。 文学というよりも、むしろ美術であり、鑑賞の対象なのである。 だから、私の好きな文学は、基本的に暗い。 遠藤周作が好きで、ドストエフスキーが好きで、初期の藤沢周平が好き。 どこをどう切り取っても、サガンとか出てこないのである(苦笑。 (いやサガンはサガンで異常に切ないので、この例えは間違っているかも。) 茂木健一郎によると、「感動する」とは「脳に傷をつけられる」ことなのだという。 私が『朗読者』から受けた感覚を、感動と呼べるのかどうかはわからない。 けれど、「脳に傷を付けられた」ことは間違いない。 お勧めの本です。 重くて暗いけど(w。 しかし、『海辺のカフカ』にしろこの『朗読者』にしろ、 15歳ってのは、男子にとってどんな意味があるんだ? うーむ。。。。 以下備忘で、いくつか、気になった文章を。 「黙殺というのは、数ある裏切りのヴァリエーションの中ではあまり、目立たないものかもしれない。(略)この黙殺行為は、派手な裏切りと同じくらい、二人の関係の基礎を揺るがすものなのだ」 「彼女は常に戦ってきたのだ。何ができるかを見せるためではなく、何ができないかを隠すために」
August 19, 2006
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さすが、というほかない。 論理の隙のなさはもちろんだが、 素晴らしきは(私などが言うまでもなく)その筆致である。 それが文章なのにもかかわらず、私たちには、 彼の書いた音が聴こえ、肌触りが感じられ、情景が目に浮かぶ。 たとえば、彼は日本の漆器椀について書いている。 「(漆器に描かれた)金蒔絵は明るい所で一度にぱっとその全体を見るものではなく、暗いところでいろいろの部分がときどき少しずつ底光りするのを見るようにできているのであって、豪華絢爛な模様の大半を闇に隠してしまっている・・・」 「漆器の椀のいいことは(略)暗い奥深い底の方に、容器の色とほとんど違わない液体が音もなく澱んでいる・・・」 「私は、吸い物椀を前にして、椀が微かに耳の奥へ沁むようにジイとなっている・・・」 これらの文章からは、漆器の手触り、ゆらめく色加減、 椀がたてる微妙なる音など全てが、 間違いなく私の耳に、目に、手に、伝わってくるのである。 ただ、素晴らしいとしかいうほかない。 谷崎は、かつての女の美をして 「暗黒の自然界が生み出す凄艶なる魑魅のひとつ」といっている。 女は、その身のほとんどを暗がりの中に沈ませ、 首筋や手などの一部分を露わにするのみである。 夜に閨の中でその肌ざわりや声を元に相手の正体をつかみかけても、 「夜が明ければどこかえ消えてしまう」生き物なのである。 谷崎がいう魑魅のような女の美と色気は、 もはや、どんな夜でも光で照らし出されている現代では、 持つことが難しいように思える。 そのような光があふれる世の中に、闇がまだひとつあるとすれば、 それは心の闇である。 銀座のクラブのママたちが色っぽいのも、 彼らが夜という闇に生きる身だからというだけではなく、 多くの秘密を抱えて生きているからであろう。 だから、凄艶な美や、色気がほしければ、 心の闇や秘密は、ある程度心の中にとどめておくのがよい。 もちろん、抱えすぎて心の病にかからない程度に、という限定はつくけれど。 夏の百冊途中経過 読み途中 『陰影礼讃』谷崎潤一郎→終わりにするかも・・・・ 『アメリカのデモクラシー(1)』トクヴィル 『悲しき熱帯I』レヴィ=ストロース 『精神分析入門(上)』フロイト 『日本の思想』丸山真男 『自由からの逃走』フロム 積ん読(この機に頑張って読むぞ!) 『愛するということ』フロム 『消費社会の神話と構造』ボードリヤール 『再生産』ブルデュー 『ディスタンクシオン』ブルデュー 『社会学』ギデンズ 『カルチャラル・スタディーズ入門』ターナー 『ジェンダー・トラブル』バトラー 『経済学史』シュムペーター 『ジェンダーと歴史学』スコット 『HABITS OF THE HEART』(心の習慣)Beller 『THE MANAGED HEART』(管理される心)Hochschild 『THE TIME BIND』Hochschild 『PUBLIC OPINION』(世論)Lippmann 『IMAGINED COMMUNITIES』(想像の共同体)Anderson 『Hamlet』(ハムレット)Shakespere 注文中 『朗読者』ベルンハルト・シュリンク 『停電の夜に』ジュンパ・ラヒリ 『大衆の反逆』オルテガ 『悲しき熱帯II』レヴィ=ストロース 『フランクリン自伝』フランクリン
August 16, 2006
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友人が夏の100冊に挑戦中なのに刺激を受け、 私も夏の100冊に挑戦しようかと思い立つ。 しかしながら、私の読書傾向ってかなり偏っているので、 ちょっとは広げる努力をしないと・・・。 ということで、みなさま、 おすすめがありましたら教えてください。 今のところの予定(我が家にあるが、手を出していない本) 1.『陰影礼賛/東京に思う』谷崎潤一郎 →陰影礼賛、読むと涼しい気分になりそう。 2.『アメリカのデモクラシー』アレクシス・ド・トクヴィル →アメリカ論に手を出したい。 アメリカ関係でいい本があれば、教えてください。 3.『文明の衝突』サミュエル・ハンチントン →冷戦終結後の世界を見事予見した政治学者の本。 現在を読み解くに必須の本とは知っていながら積ん読中。。。 4.『Hamlet』英語版 シェークスピア →いつか読もうと思った英語版。 この春ボストンで現代語訳付きの英語版を買ったにもかかわらず、やはり積ん読・・・。 ていうか、なぜかHamletを劇場で見たことがないんだよなあ。 読むより観るのが先だよな。普通。 5.『ライ麦畑でつかまえて』村上春樹訳版 サリンジャー →最初の方を読んだけど、春樹訳だと全然印象が違うということだけはわかった。 んーーー、何か小説も読みたい。 本当におすすめお待ちしています。
August 14, 2006
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二日目。まずは弘前へ行く。しかしすごい暑さ。青森とは思えない。弘前では、駅前でレンタルサイクル(無料)を借りるとよい。弘前城はでかいし、観光名所は点在しているし、自転車なしで徒歩だったらどれほど辛かったかと思う。ちなみに弘前城は桜の名所だ。確かに桜の時期に来ていたら相当綺麗だったろうと思われる。ちなみに青森の桜の時期はGWである。そのころ国内でお時間ある方ぜひどうぞ。3時ごろには観光も終わり、弘前でねぶたを見るというのもありだったのだが、前々からすごいとは聞いていた太宰治の生家、斜陽館をどうしても見たかったので、弘前をあとにして、電車を2時間乗り継いで斜陽館へ。しっかし、津軽平野って、ほんっとうに何もない。ひたすら田んぼと山。時々民家。そんな津軽平野の真ん中の、本当に何にもない、失礼ながらくそ田舎と言ってもよい町に、突然現れる異常に豪華な館。いや本当に、すごいの一言。昔の田舎の金持ちというのは、田舎にはありえない建物を建てることがよくあり、私も祖母の生家がそんなだったため、ある程度想像はしていたのだけれど、それでもびっくりした。広さももちろんだが、板張りから家の細かな造作、調度品まで、「おいおいこれが明治時代の青森(しかも青森よりさらに田舎)に?」というくらい、すごい。跡取りのみが大切にされるかつての日本において、10番目という位置で生まれた太宰。食事を取る場所であり、家族の集う場でもあった茶の間は、父と長男の座る一間と、他の兄弟たちが座る一間とに、5cmほどの段差をつける形で分けられている。太宰はその5cmをのぼれなかったという。というのも、太宰が小さい頃、そこをのぼろうとすると、他の兄弟たちが頭を押さえつけて、のぼることを押し留め、のぼってはならない、のぼることはできないのだと教え込んだというのだ。ううむ。こういう家に生まれ育つ幸と不幸というのは、どういうものなのだろう。激しいプライドとコンプレックスを併せ持つだろうことは想像に難くない。自分自身も優秀であればあるだけなおさらだ。帰り、五所川原で途中下車し、立ちねぶたを見る。五所川原のねぶたは、縦に長く高いのが特徴で、25mほどもあるのだ。しかし、それ以上に私の度肝を抜いたのが、五所川原ねぶたの人々の姿。パターン1)女子の上半身はさらしやビキニでへそ出し、下半身はつなぎ。男子は上半身裸につなぎ。パターン2)服の柄は、龍とか虎で、色は赤・紫など。ヤ、ヤンキー・・・?!時々、青森から来たと思われる白地ベースの浴衣の跳人衣装の人がいるが、いやもう彼らは明らかに浮いている。始まるまで、道端で座ってビールを飲んでたりしているのだが、その座り方も堂が入っている。お、俺、こっちのねぶたに参加じゃなくて、よかったです。。。立ちねぶたで大きいから、とび職さんが多いせいでそうなのかなと思ったけど、あとで、地元の友人に聞いたところ、五所川原は、美人の産地であるが、ヤンキーの産地でもあるそうである。当然、早婚で子沢山。少子高齢化のすすむ青森において、少子化と無縁の地、五所川原。21世紀の日本は、ヤンキー大国になるという私の仮説を先取りして実証している町であった。
August 5, 2006
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青森のねぶた祭りに行く。学生の特質(時間はあるが金はない)をいかし、バスでえっちらおっちらと。片道10時間かかるが、その分、なんたって片道5000円だ。往復で新幹線とは2万も違うのだ。時間をお金で買う社会人と違い、私は時給で時間を売り渡している身。そりゃバスでしょ。さて、青森は、お祭りムード全開。なんたって、一週間、毎日お祭りをやってるのだ。すごっ。しかも、ねぶた祭りは参加型である。ねぶたを引く人、太鼓や笛などのお囃子に加え、『ラッセラー』の掛け声とともに、跳人(はねと)が踊るのである。当然私も、祭りを彩る、跳人(はねと)になって、跳ねる。これが、すっごく楽しい!!途中から、人々の汗は飛んでくるし、汗臭さに息苦しくなるし、隣の人とぶつかると汗でヌメッとなって気持ち悪いけど、そんなことを気にならないくらいムチャクチャ楽しい。参加する人は、毎日でも参加するらしいけど、それもわかるな。本当に楽しいもん。(しかし、その体力がもつのがすごい・・・)私は友人に誘われて行ったのだけど、観光客でも衣装レンタルできるし(3000円くらいで安いし)、登録とか必要なく、どのねぶたにも自由に参加できるので、ぜひみなさま、いつか青森に行って跳ねてみてください。見るより跳ねるほうが、全然楽しいよ!!
August 5, 2006
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今日、今後の進路の相談で、久しぶりに、 大学学部時代のゼミの教授にお会いした。 (ていうか、先日、推薦状を書いてもらいに行ったら、 別途わざわざ時間を設けて頂くことになり、それが本日。 「今後の人生をどうするつもりかについて話し合う必要アリ」 と判断されたらしい。かなり心配をかけていると思われる。) さて、J先生は学者らしく、物事の表面に惑わされないで、 すこーんと、核心に切り込んでくる。 大体においてその切り込み方は、 超核心だが普段全く考えていない方向から、来る。 本日も、「で、これからどうするの?」という話が始まって、 私がいかに口に糊するかというところで悩んでるんです、 と切り出したところ、そっこー、 「いや、そんなことはどうでもいいんであってさ」 と、その問題は一蹴。 「明日死ぬかもしれないわけですから、 そこのところ考えて、何をしていたら 道半ばで死んでも自分で納得できるかを考えなきゃ」 と、一気に生き死にの話に。 (>ゼミの皆さま、いかにもJ先生っぽいでしょ(笑? ぜひあの口調を思い出しながら読んでください。) しかし、最近過労死で死んだというゼミ生(私たちの3つ上らしい)の話とかを聞くと、 確かに「明日死んでも後悔しない」というのは大事なことかもしれないと思う。 そして、帰ってきたら、たまたま、こんな記事を目にする。 http://www.rankado.co.jp/data-base/0000/2000-7-18.html >「西村君、僕は今、君の後ろで斧(おの)を持って立っているんだよ。この斧で君の頭を打てば君は死ぬんだよ。君が死ねばその作品が君の遺作になるんだよ。それでいいのかい」。 うわーん、シンクロニシティ。 神さまも「よーく考えなさい」って言ってるんだろう。 にしても、先生、「道半ばで死んでも」って・・・。 縁起悪すぎです(苦笑)! 追記) なんでそんな話になったのかわからないのですが、 夏休み(9月末まで)の間、 先生の秘書業務をすることになりました。 ゼミ生の皆さま、先生のところに用事があれば、 私が懇切丁寧に対応いたしますので、ぜひお越しください。
July 31, 2006
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もう何ヶ月も前から予約していた音楽座ミュージカル『泣かないで』。 わが愛する遠藤周作の『私が・棄てた・女』が原作のミュージカルである。 『星の王子様』しか観たことないけど、音楽座のミュージカルは音楽も割とよかった覚えがある。 しかも、十数年前、この舞台を見た遠藤周作本人が「このミツ(本作の主人公で、周作の色んな作品に出てくるひと。周作が思い入れの深い登場人物)は自分の思ったとおりのミツ」って言っていたそうである。 そりゃ行くでしょ! さて、問題は誰と行くかである。 私は一人で舞台や映画を見るのがあまり好きではない。 やっぱり終わった後に感動を誰かと分かち合いたいのである。 目に留まったのが、遠藤周作作品をほぼ読んでいるというマイミクA嬢。 実はお会いしたことがないのだが、前からお会いしたいと思っていた。 これはお会いするのにぴったりの機会では? と考え、お誘いしたところ快諾いただく。 わーい。 私は頭のいいちょっと毒のある美人さんが大好きなのである。 頭がよくてちょっと毒があるのは日記を読んでいればわかるし、 美人さんだとは共通の友人から聞いている。 ウキウキ。 これで、終演後、周作話・舞台話に話が咲くにちがいない。 さて当日。 会場前でお会いし、滞りなく開演する。 が、しかし。 終演後のふたり。 私:「・・・・・」 A嬢:「・・・・・」 いや、日本のミュージカルにしては、踊りも歌も頑張ってたよ。(それでも微妙だが) 悪くなかったよ、悪くはなかった。 でもさ、でもさあっ!!!その脚本はないだろー! あの話の中で、一番大事な部分が、ものすごく端折られてるんですけど! 前半のどうでもいい部分に異常に時間をかけているのはまだ許せるとしても、 「さあっ、ここから周作の周作たるゆえん。周作のメインテーマ(愛とは何か、神とは何か)であり、泣き所だ!」 って準備したら、そこがものすごくあっさり流されて、舞台、終わっちゃったんですけど!! え?え?ええええっっ!!これで終わり? その時間配分、完全に間違ってるだろ?! あのね、『私が・棄てた・女』って、ものすごく泣ける話なんですよ。 俺、いっつも号泣ですよ。 なのに、この舞台ときたら、「うるっ」って来たと思ったら、終わっちゃうんだもん。 おおい、あの大事な、シスターの葛藤は?! ミツのやりきれない現世での切なさは?! 人はいつどんなときに神を必要とし、 そして、神はどのように人に答えるかっていう話が、 まるまる、すぽっとぬけてるんだよーーーーう。 そこ取ったら、遠藤周作じゃないじゃん! てなわけで、私とA嬢、ぽかーーん。。。。 申し訳程度に拍手して、食事へ移動。 毒トークを繰り広げる。 ああ、本日の収穫は、A嬢とお知り合いになれたことだけであった。 次は、ブロードウェイかバレエでもいきましょう!>A嬢 家に帰って、周作とV.フランクルを読み返す。 ああ、やっぱりいいなあ。 私は品性を大事にしているし、 最近話題の『国家の品格』なんてのも確かに重要なものだと思うけれど、 人間にといって本当に大事なものは、こういう優しさだ。 決して強さだけではない。 むしろ弱さの中に、消えそうな輝きできらめくようなもの。 でも、それだけが、人間が弱いだけの、卑しいだけの存在ではないと、教えてくれる。
July 31, 2006
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いまだに数多くの議論を生んでいるダーウィン・進化論。 その議論のひとつとして、 「進化論は歴史教育や道徳教育にマイナス」 というものがある。 産経新聞からその種の議論について、ある記事の一部を抜粋してみよう。 ================================================ 進化論偏向は道徳教育にマイナス 日本の識者も主張 「人間の祖先はサルだという教育は、生物の授業の仮説ならともかく歴史教育や道徳教育にはマイナスだ」「進化論はマルクス主義と同じ唯物論であり、人間の尊厳を重視した教育を行うべきだ」という議論は日本でも多くの識者から主張されてきた。 マルクス主義の影響を最も強く受けているとされる日本書籍の中学歴史教科書は平成十三年度使用版まで、見開き二ページを使ってダーウィンの進化論と旧約聖書の創世記、戦前の歴史教科書の日本神話を対比させて聖書や神話を否定的に受け止めるよう誘導していた。 このような教育に対し、日本神話の再評価を訴えている作家・日本画家の出雲井晶さんは「道徳の上では人間は人間、獣は獣。人間を獣の次元に落とす進化論偏向教育が子供たちを野蛮にしている。誰が日本人を作ったのかというロマンを教えるべきだ」と話す。 中川八洋筑波大教授は著書『正統の哲学 異端の思想』でダーウィンを批判。創造論、進化論の双方が非科学的だとしても「文明の政治社会の人間の祖先として『神の創造した人間』という非科学的な神話は人間をより高貴なものへと発展させる自覚と責任をわれわれに与えるが、『サルの子孫』という非科学的な神話(神学)は、人間の人間としての自己否定を促しその退行や動物化を正当化する」と論じている。 (ソース) http://www.sankei.co.jp/databox/kyoiku/etc/050926etc.html ================================================ うーむ。 私自身の感覚では、人間の祖先がサルってむしろ感動的だけどな。 サルどころか、アメーバだったりするんだよ? それがこんなになるなんて、鳥肌が立つほど感動できる。 私たちの祖先がアメーバやサルだったりするほうが、 よっぽど、子どもたちに夢と希望を与えないか。 だってそれは、私たちが過去の限界を、 乗り越えることが出来る、ということを意味するからだ。 今は絶対に乗り越えられない限界に思えるものでも、 そのパラダイムを乗り越えることが出来る。 空を飛びたいと強く強く願う集団があれば、 何百万年後かに、羽が生えた人間が登場するかもしれない。 (それを人、と呼ぶかどうかは別として) 今それぞれの人が抱えている個人的問題や、 貧困・暴力・差別といった社会的問題だって、 なんか解決可能な気がしてくる。 だって、アメーバから人まで進化したんだから、 それに比べれば、ねえ。 そっちのほうがずうっとロマンがあるし、 人間の可能性を信じれることになる気がする。 ついでに、上記本文には、 >『神の創造した人間』という非科学的な神話は >人間をより高貴なものへと発展させる自覚と責任を >われわれに与える とあるけれど、 神話って、結構ミもフタもない話のオンパレードで、 私なんか神話を読むと、がっくりきちゃうこと多い。 日本国を産んだイザナミとイザナギの話なんて、 もう、トホホもいいところだ。 知らない方のためにあらすじを追うと、 愛する妻・イザナミを取り戻すため黄泉の国まで行ったイザナギ。 イザナミが、黄泉の国の王と相談してる間、 「絶対見ないでください」と言われる。 にもかかわらず、イザナミはその相談が終わるのを待ちきれず、 「ダメ」と言われてるにもかかわらず、覗いちゃうんである。 そこにあったのはウジがわいて雷神がまとわりつくイザナミの姿。 (当たり前だ、死んでで腐ってるんだから。) そしたら、それに驚いたイザナミは、妻から逃げ出すんである! おい、逃げんなよ!イザナギ!!!!!! 追いかけるイザナミであるが、イザナギはなんとか振り切る。 でもって、最後には現世に帰ってこられないよう、 あの世とこの世の入り口をでっかい岩でふさいでしまう。 そこで、あの世側に残されたイザナミが、腹いせに、 「お前の国の人間を一日1000人殺してやる」 と言って(神のくせに、大人気ない・・・)、 イザナギもイザナギで、謝ればいいものを売り言葉に買い言葉、 「だったら、一日1500人産ませるからいいもんねー」 と言い返したわけで(さらに、大人気ない・・・)、 つまり、これが日本人の死の起源、 この痴話喧嘩によって、日本人は死ぬことになったんである。 こんな二人が、「日本人の起源」である。 ・・・・ねぇ、この話のどこが、 「誰が日本人を作ったのかというロマン」 「人間をより高貴なものへと発展させる自覚と責任をわれわれに与える」 話なわけ??? ある意味人間のトホホっぷりを突いてて面白いとは思うけど、 でもこれこそ「道徳教育上」問題じゃないの(w? 誤解してほしくないのだけど、 私は決して進化論が正しいとか、聖書や神話は嘘だとか 言ってるわけじゃない。 でも、聖書や神話には間違いなく 「ロマン」や「高貴さへの自覚と責任」という要素とは 相反するものが存在する。 上記のような論者は、本当は 「人は神に選ばれた生物である」という「選民思想」 を言いたいんでしょ? だったら、「ロマン」とか、耳触りのいい言葉を使わずに、 ズバッとそう書けばいいのに。 ま、私は「だってそもそも俺はお前たちとは違うんだから」 って感じで、自らの優越を示そうという精神こそ、 限りなく貧しいと思うけどね。
June 11, 2006
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コメントを書いてて『他者』の理解、について考える。(『他者』の定義は、諸説入り乱れなのでここでは厳密に言わない。)人は、自分以外の(もしかすると自分自身も含めた)『他者』とは絶対的な断絶がある。どんなに手を伸ばしても届かない断絶がある。母の胎内にいるとき、母は『自己と同一の他者』である。しかし、人は、母の胎内から出て母と切り離さた瞬間、『自己と同一の他者』を永遠に失う。そして人が出会うのは、『自己をわかってくれない他者』である。(そりゃそうだ。なんたって胎内にいるときは、『おなかすいた』と胎児が思ったら、それが自動的に伝わって、母親がご飯を食べるのである。そのような自動性は、母親と赤ん坊になった瞬間に絶たれる。)赤ん坊が泣くのは、不快なときである。そして泣かない赤ん坊はいないという事実は、赤ん坊が生まれてからすぐに『自分の欲求が(自動的に)伝わらないことによる不快』という現実に、何度も何度も向き合っていることを示す。そのような出会いによる、絶対的な絶望と断絶感から、人生、すなわち自我の発達が始まる・・・(とかいう話をどこかで読んだ気がするけど、これって何ていうんだっけ?)とにかく、『自分を完全に理解してくれる他者/他者を完全に理解する自分』というのは、生まれ落ちた瞬間に絶たれた夢である。にもかかわらず、『自己を理解してもらいたい』『他者を理解したい』という欲望は、生れ落ちた瞬間に、(絶たれたがゆえに)人が希求してやまない夢である。『他者』と『自己』は、惑星と衛星の関係に似ている。惑星が自己の意思でその軌道を変えて、衛星に触ることができないように、私たちは『他者』というものに、直接触れることはできない。(そりゃそうだ、直接触れたら、惑星と衛星じゃなくなっちゃう。)では、そのような『他者』との絶対的な断絶を、どのように乗り越えればいいのか。思うに、私たちは、相手と自分の間に感じる「わかった気がする」部分と「わからない」部分について、「何がどう違うのか」「何をもってわかった(気がした)と感じたのか」という感触を、丁寧にきちんと言葉を尽くして記していくような気の遠くなる作業と、それをインタラクティブに行うことによって生じる膨大なコミュニケーションを共有することによってのみ、私たちは、理解したいけれど理解しえない『他者』に少し近づけるのだと思う。 (正確に言えば、近づいたという幻想を抱ける、かな?)その『理解』は、惑星と周りをくるくると回る衛星の間の理解である。その間にはブラックホールがあって、惑星と衛星にいる私たちは、お互いを行き来することはできない。だから、私たちは、『他者』を観察するのみである。惑星の住民の望遠鏡の精度が悪いせいで、衛星の地表は全然見えないかもしれない。衛星の住民は太陽の関係で、1年のうち半分の惑星の状況を見えないかもしれない。だから、『他者』とのコミュニケーションにおいて、「てめーのみてる俺は本当の俺じゃねぇよ」「貴方は私を何にもわかってない」という感覚がいつまでもつきまとうことは、最初からの必定である。だって、『他者』はそもそも『理解しあえない人』なんだから。重要なのは、『相手を見たい』という気持ちと、『相手を見てみた』という行動である。『他者』とのコミュニケーションの目的とは、他者を理解することではない。『他者』とのコミュニケーションそのものである。だから、どのような形であっても、『他者』とはコミュニケーションをとることが、取らないことよりもよいのである。そして、そのコミュニケーションは、簡単でないほうがいいのである。だって、簡単だったら、すぐコミュニケーションが終わっちゃうでしょ?『自己』と『他者』とを結ぶものは、『このひととこれだけの量をコミュニケーションした』という量的なものだけである。極論してしまえば、そのコミュニケーションの中身はどうでもいい。共感や理解が全くないコミュニケーションだって、コミュニケーションがないよりましなのだ。繰り返すが、重要なものは『コミュニケーションの量』なのである。へええええ、そうだったのか。書いてるうちにこんな話になっちゃったよ。すげえ。なのでみなさん、大事な『他者』とは、とにかくコミュニケーションをとるように。たとえ、そこに理解や共感が全くなくても(うっわー、ブラック・・・)。ちなみに、そのような作業によってのみ、『自己という他者』についても、少し近づくことができるので、一挙両得ではないかと思うのだが、『自己の他者性』については、書くとまた長くなるのでこのへんで。
May 17, 2006
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『誇り』は自己の業績に対して抱くものであり、人の業績に対して抱くのはおかしいのではないか、という私の意見に対して、非常に興味深い意見をいただいた。一番興味深かったのは、ある共同体の出身者の業績を自身に転化することにより(もしくは、その業績への貢献を自身を投影することにより)、自己の価値を見つめなおす、という論である。少し抜粋すると、『(前略)ワールドカップのサッカーで日本が勝てば嬉しくて誇らしい。WBCで日本のチームが勝てば嬉しくて誇らしい。何も関係ないけど、同じ共同体から誰かが成功すれば嬉しくて誇らしい。人は人の成功体験を分かち合って自分の物として同化する。誰かの成功を自分の心の糧として取り入れる。それが自信となりさらなる成功の糧となる。人を祝福することから、有形無形、何か自分もその成功に寄与できたのかもしれないと思い、自分の価値を見つめなおす。(中略)個人的には彼氏のことを誇りに思っても、全然関係ない監督を誇っても、何一つ問題ないしおかしくもないと思う。っつーか、問題と思う方がどうかと思う。誇ることが自分の心の糧になるなら誇ればいい。そのことで自信が付いて次へ進めるなら誇ればいい。』少しと言ってながくなってしまったけど、このような意見は、彼のみならず、今までも数人の人から聞いたことがある。彼らは、「郷土」や「国家」に対する誇りを「自分が存在するというだけで、自分の存在には価値がある」と人が認識するための装置として捉えている。それが、「家」だろうと「国家」だろうと、役に立つし、役に立つならいいじゃないか、と言っている(のだと思う)。さて、翻って考えるに、「誇り」というものを持つには、今の現代日本の中では、自分という個人にその源泉があることが、一番明らかなやり方である。個人というものを基本単位に設計され構成されている現代日本では、「家」や「地域」や「国家」は、周辺である。そしてその周辺度は、彼らのいうように、個人→家→地域→国家となればなるほど強くなる(つまり、自己との関連性が低くなる)。周辺にあるはずの国家に対して、誇りの問題が大きく取りざたされるようになってきているということは、逆に考えてみると、より中心的な「個人」「家」「会社」などといったところへの誇りが持てなくなってきていることの兆候ではないか。なぜなら、より中心的な部分で誇りを持っていれば、より周辺への誇りなど、殊更取り立てて言う必要のないことであるからである。逆に、そのような周辺への誇りは、周辺であるがゆえに、「殊更取り立てて言う」必要が出てくる。誇りの密度が薄いからである。密度が薄いものとの関連を、自己及び他者に承認させるには、「強く」「何度も」「声高に」言う必要が出てくる。つまり、昨今の愛国心問題とか国の誇り問題は、より近い部分での誇りをもてなくなっているということを、暗喩しているものだと考えることができる。とはいえ、「自分は存在するだけで価値がある」ということを知るのに、「日本人だから」なんて周辺にまでいかなくてはいけないという部分に、私はやはり違和感を覚える。もちろん、それはきっかけとしてはいいのかもしれない。ただ、そのような周辺への誇りは、常に、その集団以外への抑圧や蔑みに転化しやすいという危険性がある。(自己への誇りの場合、その危険性はかなり小さい。だって、「俺ってすげえ。あいつらはアホだ」という態度は、大体まわりから嫌な奴って思われるし、そうなると、多勢に無勢だから分が悪い。逆に言えば、その危険性は、周辺が広がれば広がるだけ高まる。)そして、何より、一番の問題は、そのような誇りは、彼らが満足できる誇りの形には到達しえないということである。ちょっともう眠いので、説明は省くけど、たとえば、それは、売りに出されるときは「美人女優」であった人でも、そのうち「演技ができる」ことを証明しようとするように、結局は、誇りにしたって、「自己の実績」を得ないことには、その「誇りへの欲求」を満足させることはできないのではないか。だったら、最初から、「自己の実績」を積み重ねる方向にエネルギーを向けた方が、効率がよいと私は思うのだが、どうだろう。ちなみに、彼からはもうひとつ、>『私が「日本を誇りに思わない」のが理にかなっている』と思うのは全然かまわないけど、>それを堂々と宣言してしまうのはかなり病んでて頭おかしく聞こえるから>気をつけた方がいいと思うのは余計なお世話か。とご忠告を頂きましたが、日本と私の関係をいうなら、「私が日本を誇りに思う」んじゃなくて、「日本が私を誇りに思う」ような関係のほうが、私はいいな。そっちのほうが、ずっと気分がいいもの。やっぱり。でもって、「まつおあすかの価値観世界」の中では、もう既に(日本はほんとに私を誇っていいよなあ、こんな素敵な国民がいてよかったね)と思ってるんだけど、残念ながらそれは「まつおあすかの価値観世界」の中だけであって、たぶん他の人にはあんまり受け入れられない。(それこそ頭おかしいと思われる)なので、そんなこと言っても「まあ、そうかもね」とそれなりに納得してもらえる、実績なり能力なりを獲得していくしかないのですな。ふぅ。がんばろうっと。
May 15, 2006
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なんでも教育基本法に「愛国心」とかいう言葉が盛り込まれるかどうかが、議論になっているようだ。愛国心の議論の中で、ひとつ、私がどうしても理解できない感覚が、「日本を誇りに思う」という言葉、もしくはその感覚である。私は、日本という国は、とっても素晴らしい国だと思う。戦争してないし、水と安全はタダだし、不況とはいえ食うには困らない。日本文化も本当に奥深くて、その美や精神は私の心を捉えて離さない。じゃあ、だからといって、「日本は私の誇りです」と思うかというと、それはない。全然ない。逆に「日本は私の誇りです」という人々の感覚を私は全く理解できないし、そんな発言を聞くと、恥ずかしくて妙に居心地悪くなってしまう。それはなぜか。まず、話を「誇りとは何ぞや」という根本的なところに戻してみたい。誇りとは何ぞや。私の考えでは、誇りとは、自身の成し遂げたこと(もしくはその過程)に対して持つものである。家柄がいいとか、(家が)金持ちだとか、そういうのは誇りとは呼ばない。だって、「自分が元から持っているものを誇ることは、恥ずかしいこと。」だからだ。私たちは、家が金持ちとか名門だとかいう理由で人が威張ってたりすると、その人たちを、バカにする。それは、その人が、たまたまそこに生まれたということだけであって、その人が努力して手に入れたものではないからなのである。さて、翻って、「日本を誇りに思う」人たちに、「日本の何を誇りに思うのか」ということを聞いてみると、歴史的な文化、奇跡的な戦後復興、最近で言えばWBCでの世界一などなど。私が不思議なのは、それを誇りに思う人々は、多くの場合、「それを作った人々ではない」ということだ。私が日本人なのは、「たまたまそこに生まれた」という所与のものであって、私が努力して得たものではない。たまたま生まれた国の文化が素晴らしかったり、その国が世界一を成し遂げたとしても、私がそれに貢献したわけではない。なのに、どうしてそのような「他人の業績」を「自分の誇り」にすることができるのか。前に友達からこんな話を聞いたことがある。ある女性が、片思いの相手について「彼は私の誇りなの」といったのを聞いて、その友達はぶったまげたそうだ。しかし、その友達も、ある大好きな映画監督に対し、「彼と同じ日本人であることを誇りに思う」ということを言っていた。このふたつの発言は、「人の業績を自分の誇りにする」という点において、同じようにおかしい。けれど、前者の発言は、瞬間的に「そりゃーおかしいだろ」と思うのに対し、後者の発言はそんなにおかしいとは感じられない。個人の間では、「そりゃーおかしいだろ」と思うことが、どうして国の話を経由されると、「ぜんぜんおかしくない話」になってしまうのか。ここに「国家」「愛国心」のマジックがある。(これはこれで、すごい考察に値する面白い話だけれど、本筋から離れてしまうので、これはおいといて、話を戻そう。)とにかく、きちんと考えてみると、「その業績に貢献してない人間が、それを誇りに思うなんておかしい」はずなんである。とすると、私が「日本を誇りに思わない」のは、全く理にかなっている。なぜなら、私が、その「世界に誇れる日本の素晴らしさ」を作ったわけではないからだ。(私がしている貢献といえば、インフラのために税金払って、安全のために犯罪に加担しないで、景気のために消費しているくらいだ。)それを、私が「日本を誇りに思う」など、おこがましいにもほどがあるじゃないか。それでは、よく「誇り」といわれている(間違って使われている)、私たちを育むこの日本という環境に対して持つ感情は、何か。私は、それは、「感謝」なのだと思う。「こんな日本を作ってくれてありがとう」という先人への感謝、「こんな日本に生まれさせてくれてありがとう」という神様への感謝。「日本人の誇りを取り戻せ」とか言うけれど、まったくナンセンスだ。誇りとは、所与としてあるものではない。取り戻すようなものではなく、作るものである。誰かが作った日本の価値を誇りに思うのではなく、「いやあ、やっと私も、日本の誇りと呼べるような仕事ができました」というような形の「誇りのあり方」のほうが、私は好きだ。・・・て書いてて気づく。これって、ケネディが言ってることじゃん。「国が私に何をしてくれるかじゃなくて、私が国のために何ができるか」いやあ、ケネディ、さすがだなあ。
May 5, 2006
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今(さらながら)、 フロイト『精神分析入門』を読んでいます。でもって、さらに今更ていうか、当たり前の発見なんですが、が、この本ね・・・これね、読むのすっごく怖いよーーーーーー(泣)。 なぜかっていうと、この本で語られている事例と分析手法に、 自分に当てはめて考えてみるとですね、 すると・・・・・・・・。 うわあああああ△×■○▲×!!! あの時のあの行動にこんな意味があったのか! この行動ってもしやこんな心理を反映してる?! ってなことがいっぱいなんです。 しかも、それはあたってるんです!なぜって、『なぜそこまで断言できる?』って尋ねたくなる位、(ていうか本書内でもフロイト先生ご自身で質問されていますが)フロイト先生ってば、自信たっぷりに、『だって、そうなのです。』って断言してるんですもの。ついでに、何十ページもの論証がついてくるんですもの。20世紀の知の巨人、フロイト先生の論証力にかかれば、私など赤子のようなもの。たやすくフロイト先生の論証にはまってしまいます。例えばですね、分析された結果に対して『そうではない』と否定する行為そのものが、 その結果が正しいということを証明している、なんてこと言われちゃうと、もうどうにも逃げ道がなく、信じないわけにはいかなくなるじゃないですか。きゃーーーーーん!!! ちなみに出た分析結果に関してですが、 内心があまりに美しくないことが判明したので、 ここには詳しくは書きません。ていうか、書けません(涙)。 『ああ、(やっぱり)美しくない心の持ち主なんだな』と、 (再)認識していただく程度でよろしいかと。 なお、「あまり」美しくないではなく、 「あまりに」美しくないと一応認識している点に注意。 だって、フロイト先生によると、書き間違い・言い間違いは 本人が否定したがっているが内心強く望んでいる心理を表すんですよ。 私は意識して「あまりに」と使ったのですが、 ここで私が間違えて「あまりに」という言葉を使ったのだとしても、 内心ではやっぱり「あまりに美しくない」と強く思っているいうわけで、 とにかく意識してようとしてまいと、どうしたって俺の心は、 「あまり美しくない」ではなく、「あまりに美しくない」になるんです。 ああまたしてもフロイト・トラップにはまってしまった。恐るべし、フロイト・トラップ!! フロイト先生の本は、精神分析分野で使うよりも、相手に絶対ひとつの答えしか与えないネゴ法とか、そんな授業で教科書として使ったほうがいいのではないでしょうか・・・。
March 24, 2006
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人間というのは、本当に身勝手で独善的な生き物だ。他人がどれほど身勝手で独善的でも、「まあ、そういう人もいるよね」というので片付けられるけど、自分の中の身勝手さや独善さに気づいたときというのは、本当に愕然とする。そういうのを気づくきっかけって、たとえば、「この人は私にプライオリティをおいてくれてるに違いない」と思っている人が、あんまり構ってくれなかったりするとか、すごく些細なことだったりするのだけれど、この例で言えば、「この人は私を大事にしてくれる」という勝手な思い込みをしている自分の見通しの甘さと、そういう些細なことに我慢がならない自分の器の小ささに、ほんとにびっくりする。いきなり自分語りになるけど、私は、他人の悪意には耐えられるし対抗もできるけど、自分の悪意には耐えられないという精神構造をしている。悪意、ということばでいうとあれだけど、つまりはダークサイド。とはいえ、私も普通の人間だから、色々な悪意や独善や嫉妬は自分の中に抱えているし、時にはそれが噴出することもあるし、ダークサイド全開で人を利用したらもっと人生うまくいくかもなーと思ったりはするのだけど、やっぱりそのダークサイドをコントロールできるだけの理性を持ち合わせていたいと思う。(って、俺はジェダイか?!)なぜなら、私は、人とは、自分にとって利用価値があるかどうかという判断や、嫉妬とかの感情を超えて、信頼とか愛情とかで結ばれていたいから。(うおおう、俺ってばいまだに青春真っ只中だな。はずかしいな。)でも、こういうことを思えるのは、私が、そういう「自分の中の悪意を理性で乗り越えている友人」をまわりに持っているからだとおもう。いや、君たちが悪意orientedな人、といってるわけじゃないよ(笑。>友よ。でも、自分の中の悪意を全く感じなくて正論しか言えないような人であれば、そんな人はつまらない。(と、君たちも思っているはずだw)だけれども、悪意と欲望に身を任せているような人にはなりたくないし、いたとしても(実際よくいるけど)もちろん怖すぎなのでお近づきになりたくない。でも、たとえ今、こんなことを思っていても、ダークサイドグループに自分がいたらきっと「損してる」って思って苦しくて、「朱に交われば赤くなる」という通り、ふつうにダークサイドに堕ちていくんじゃないかなあ。しかしながら、私がダークサイドに落ちても、間違いなくパルパティーンや、アナキンレベルのシスになることはなくて、せいぜいドゥークー伯爵レベルなわけです。使い捨てされて終わるわけです。だったら私はジェダイでいたいしジェダイとしてまっとうに死にたい。でも、私みたいなココロの弱い人がジェダイでいるためには、ジェダイ・スピリットなサークルにいて、ジェダイな人たちと交わることはとっても重要。確かに実生活ではポリティックスも重要だし、うまくやってすごくはやく「あがり」を勝ち取る人はいるけれども、まっとうに努力して、地道に成果を出していれば、それを見ている人は必ずいる(・・・と私の人生の先生が何人もそう言うからそうなんじゃないかな。そう信じたいな)。・ ・・ってゆうようなことを、一年に一回は書いてる気がする。まあ、俺も修行がまだまだなアプレンティスってことです。あー、はやく一人前のジェダイ・ナイト、ジェダイ・マスターになって、こころ穏やかに生きていきたい。
March 14, 2006
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ずいぶん前に買って、そのときは「うーん、この人を教授にしている津田塾って大丈夫か?」と思ったものだが、私の愛読するブログの持ち主が、この本(および著者)を評価していたので、再度読み直してみる。 本書の基本的な内容&雑誌記事などから推察するご本人が読んで欲しいポイントを要約すると、 1)「からだの声にもっと耳を傾けましょう」 2)「出産は素晴らしいものだから、怖がらずに経験してみましょう」 3)「もっと家族や地域住民どうしで助けあう社会を作りましょう。」 4)「セックスライフを充実させましょう」 ってことである。(たぶん。) で、この4つを実現する方法として「(近代化する以前の)昔の人間には、そういう習慣や本能が備わっていたので、そこに回帰しましょう」といっている。 基本的には、近代化への批判であり、言ってることそのものは「ま、そういうことも必要かもね」ってくらいには納得できることである。 若年出産のススメなど、「これアリかもね!」っていうようなことも言ってる。(でも、今の日本の労働市場の現状を考えるに実際には厳しいけど) しかしながらです。 現状認識にしろ、使ってくる事例にしろ、どうにもこうにも古い。 また、明らかに知識が偏っており、ものすごく勉強不足。 さらに、論理展開がまったくもってずさんで、ちょっと考えてみると、あれ?さっき言ってたことと矛盾しねぇ?ってことが盛りだくさん。 それが、本書の最大の問題であり、それがゆえに批判されてしまうのだと思う。(って、かなり致命的な問題だけど) ついでにすごいのが、 「大して才能もない女子には、結婚&出産という、女性の本能を活かし、社会に貢献する道があるのだから、自己実現だの考えずに、相手に顔だの金だの条件をつけず、とりあえず誰でもいいから結婚して、子どもを産みなさい!」 って言ってるとこだ。いやすごい。ここまでは私も言い切れない。 (いや、ほんとに『大して才能のない』『生命力の弱い』『大多数の普通の女性が心配』、って言ってるんだよ。すげぇ。) もちろん著者は、第三世界のリプロダクティブ・ヘルスに現場で携わってきた方で、学問的知識が乏しいのは当然かもしれない。 それを差し引いても、やっぱり使われている事例があまりに偏っているのと、現羽状認識がかなりズレてるのはいかがなものかと。 色々突っ込みたいが、突っ込みどころがあまりに多くて、書ききれない。(文末に少し例をあげておく。) ここまで、論理展開に突っ込みどころ満載ということは、むしろ著者が意図的にやったとしか思えないほどだ。いや、そうに違いない。総じて、 「この本にある相当思い切った論理の飛躍を、読者を笑わそうとして戦略的に書いたのなら、頭のいい人」 だが、 「これを本気で書いてるのなら(もしくは本気で書いてこのレベルなら)、イタイ人」 というところなんじゃないでしょうか? ほんとに、笑わせようとしてるのか、大まじめなのかがわかりにくいんですよ。 前者だとしても、もう少し笑わせる文章のトレーニングが必要かと思われますが。 というわけで、ぜひ、著者には、次の本で >『大して才能のない』『生命力の弱い』『大多数の普通の男子』は、次世代を守り育てるという社会に貢献する道があるのだから、中絶しようとしている妊娠した女子を引き取って結婚し、妻と子どもを養うために、一生懸命働きなさい! という本を書いてもらいたい(w。 だって、『大して才能のない』『生命力の弱い男子』の子どもを残してもしょうがないでしょ(w? もちろん『大して才能のない』『生命力の弱い女子』の子どもも残してもしょうがないんだけどさ、 女子の場合、1年に1人しか産めないっていう限界があるし。 『大して才能のない』『生命力の弱い女子』の方が大多数である以上、『才能のある』『生命力の強い女子』は少数なわけで、彼女たちだけでは人口を維持するのは10人とかうまなきゃならなくて、たいへん。 しかも、才能ある彼女たち(芸術家や聖職者など)には『(その才能を使った)特別の使命』(by 三砂さん)があるわけで、そうそう出産&子育てなどにかまけてられないはず。 しかたないので『大して才能のない』『生命力の弱い女子』にも、お腹を貸してもらおうじゃないかと。 いやー、そんな本を出してくれたら、最高に面白いのに。 (*事例がずさんな例1)たとえば、著者は、えらく『昔の知恵』がお好きなようで、「ポリネシアのある部族では、排卵を知ることで(コンドームなどを使った)避妊をしなくても子どもの数は適正に保たれていた」などの例を出していますが、日本では、柳田邦男が書いている男女一人ずつの子ども「ツヴァイ・キンダー・システム」(子どもは二人制)とか、いわゆる「口減らし」で里子に出したり女郎屋に子どもを売ったり、出産後調整の方が一般的で、(日本の昔には)そんな出生コントロールの知恵なかったんだけどな。 (*事例がずさんな例2)彼女は、『性欲を抑えるとオニババになるから、開放しろ』といっているわけですが、今アフリカでは、どれほど出産制限しようとがんばっても、「セックス以外楽しみがない」ため、ばんばんセックスしてばんばん子どもができてしまう(で、人口爆発と飢餓と環境破壊がものすごい勢いで進行している)という現実があるわけですが、そういう人には、彼女はどう指導するのかな?(むしろ彼女はこっちの専門家だと思うんですけど。) (**現状認識がずれてる例1) 彼女の不思議な前提は、「出産しないのは痛いのがイヤだからである」というところだ。 「痛いのがイヤだから生まない」というのは、『負け犬の遠吠え』に書かれていた考え方である。著者はこの本を読み、意見をまともに受け取ったのだろう。そこで、「痛いからイヤなんていわず、そんなに痛くも苦しくもないのよ」という風に諭している。 しかし、実際、人は「痛いから産まない」のだろうか? 明らかに違うだろう。 多くの場合、「育てられない(=お金がない、面倒を見る人がいないetc)から産まない」のである。 私だって、産むだけでよければ、むしろばんばん産みたい(w。 著者も言っているように「40代50代になって、子どもを産んでおけばよかった」と後悔したくないし、「子育てって面白そう!」という好奇心もある。 ジェーン・バーキンのように、色んな男の子どもを一人づつ持つのも面白そう! まあでも、今の状況じゃ育てられないもの。産めません。 (ちなみに日本の中絶30万件のうち、実は半数以上は夫婦間でできた子どもの中絶であり、「育てられない」から産まないのですね。) (現状認識がずれてる例2) 彼女は「10代でさっさと出産しちゃって、働き盛りといわれる40代くらいに働き始めればいいじゃない!」といっています。私もそれはアリだと思う。 (1)『子育ての期間、(国でも夫でもいいけど)誰かが食わせてくれて』、 (2)子育てが終わったら、『働く先』が見つかる、のであるならば。 けれど、残念ながら、今の日本の労働市場の状況では(1)も(2)もとっても難しいんだな。 第一に専業主婦の妻と子どもを養えるだけの仕事に就ける男性が減っていて、男性も自分で食べるだけで精一杯だし、第二に、子育てという長期のブランクがある女性を正社員として普通に雇おうなんて企業は皆無に等しい。
February 22, 2006
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もう、最近NHKしか見てないんじゃないかと思うほど、NHKにはやられっぱなしだ。 わが家はBSがデフォルトで勝手についてきてしまうという特殊な住宅街に住んでおり、NHKは合計で4チャンネル見ているのだが、4チャンもあれば、おお!と思う番組の多いこと。 今見ているのは、井上陽水×5人の楽器演奏者。 押尾コータロー(ギター)、 ジェイク・シマブクロ(ウクレレ)、 山下洋輔(ジャズピアノ)、 高田漣(スティールギター) 菊池成孔(サックス) だよ? もー超ぜいたく。 陽水の声と演奏と映像が、これ以上はないってほどお洒落なの。 DVD販売してたら買いたいほど。 何かと不祥事の多いNHKであるが、その圧倒的な取材力と映像力、BSはお金を払う価値がある気がする。 DVDに取っててもいいし。つーか、オンデマンドでライブラリにあるだろう映像を売ってほしい。ほんとに。 昔のNHKスペシャルとか、みたいのいっぱいあるんだよな。今、NHKでやってる私のお勧めは、 ・デスパレートな妻たち(米国で今一番ホットなドラマ) ・プロフェッショナル(ゆげたんお勧めの茂木健一郎メインキャスターな現代版プロジェクトX) ・あの人に会いたい(昔の有名人のインタビュー等の映像) ・課外授業(有名人が母校に教えに行く番組) ・スーパーライブ ・世界遺産 ・映画(CMがない。ノーカットが多い) ・アクターズ・スタジオ・インタビュー ・おっと、BSマンガ夜話とBSアニメ夜話も忘れてはならない あとは、その時々にあわせて、色々やってますな。 今なら、モーツァルト生誕250年とか。 そういや、つながるテレビ@ヒューマンも、キャストが面白い。 内容は「いかにもNHK」で大しておもろくはないのだが、 先週は、美輪明宏と西原理恵子というすごい取り合わせだった。。。 この番組もゆげたんに教えてもらったのだが、初回、サイバラは、野洲高校@全国高校サッカー優勝高の「セクシーサッカー」とかいう指導方法に対して、 「ま、セクシーとかいうても、高校生ですからあの子たち、8割童貞でしょ?」 とかいう爆弾発言をかましたらしい。 さすがサイバラ(w。 そのサイバラが美輪様には圧倒されていたよ。 うん、まあ、あのお方はもはや人間を超越されているので。
February 6, 2006
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