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『稲村の火の館』を後にして、広川町役場に行ってみましょう。偉人を偲んで 【濱ロ梧陵 1】 偉人を偲んで 【濱ロ梧陵 2】広川町役場の前は、物語『稲むらの火』を再現した広場として整備されています。 松明を持っている像ですね。濱口梧陵は稲むらの火にあった災害対策だけでなく、他の分野でもたくさんの偉業があります。教育分野では、嘉永5年(1852年)33歳の時に若い方の教育の為、私塾を創設しました。その私塾は慶応2年(1866年)耐久社となり、明治25年(1892年)には耐久学舎と名を変え、明治41年(1908年)現在の耐久中学校となっております。耐久中学校校庭に建てられた濱口梧陵の銅像です。また医学の分野でも数多くの功績があります。当時流行していたコレラの防疫のため、関寛斎を西洋種痘所(後の東京大学医学部)で学ばせ、コレラ防疫に業績をあげました。また、西洋種痘所(後の東京大学医学部)が焼失したときは、再開のために多額の寄付もされています。ドラマの『JIN-仁-』では、武田鉄矢さんが演じる緒方洪庵という医師を援助する人物として、石丸謙二郎さんが演じていましたね。さらに政治の分野でも政治家として活躍されておりました。大久保利通の要請により初代の駅逓頭(後の郵政大臣)になった方です。濱口梧陵碑です。濱ロ梧陵の生涯の事績やその徳行を称えて、没後に建てられた碑です。碑文は勝海舟です。濱口梧陵は64歳の時、渡米中にニューヨークでお亡くなりになりました。その後、福沢諭吉や勝海舟らによって会葬が営まれました。濱口梧陵のお墓にあった説明板ですね。お墓は想像とは違い質素な感じでした。小泉八雲は彼を「A Live God」(生きる神)と称賛していました。また広村の民も彼の恩に報いるため、『濱口大明神』という神社の建立を計画していました。神社の建立計画を濱口梧陵は、頑として許さなかったらしいです。広村堤防建設の際「住民百世の安堵を図る」という言葉を残したと聞いております。その言葉通り、堤防完成から88年後に発生した昭和南海地震による津波では、この堤防のおかげで被害がずいぶん減った様です。近年では阪神淡路大震災、まだ記憶に新しい東日本大震災。日本全体で、ようやく災害対策という言葉が浸透し、国民の関心が強まってきました。残念なことに、今の時代に濱口梧陵の様な政治家は存在しないと思います。それでも、私たちには、復興に向け『互助』という素晴らしい力が生まれました。濱口梧陵の犠牲的精神、教訓があってのことですね。これで、偉人を偲んで 【濱ロ梧陵】は終わりです。過去の「偉人を偲んで」はこちらから ファッション・ブランド品のお買い得情報はこちらをどうぞ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
Feb 5, 2013
濱ロ梧陵にゆかりある地の散策、まずは『稲むらの火の館』に行ってきました。梧陵の偉業と精神、教訓を学び受け継いでゆくため、誕生した施設です。偉人を偲んで 【濱ロ梧陵 1】 入口に建てられた碑は、内閣総理大臣 小泉純一郎 と記されていますね。ここには、濱ロ梧陵記念館と津波防災教育センターがあります。濱ロ梧陵記念館には、梧陵にまつわる貴重な史料が展示され、梧陵の生い立ちから晩年までをたどることができます。そして、津波防災教育センターでは、来たるべき津波災害から大切な生命やくらしを守ることを学ぶことができます。防災体験室では、津波災害から命を守る「応急」、「復旧」、「予防」の3つの知恵をゲームで学ぶことができます。他にも、津波シミュレーションの装置や、3D津波映像シアターなどがあり、津波の怖さを教えてくれます。広村堤防です。濱ロ梧陵が莫大な私財を投じて作った堤防です。ここは国指定史跡となっております。安政5年(1858年)に約3年10か月もの歳月を費やし完成。堤防の完成と同時に植えた黒松とハゼノキの防潮林は、昭和21年(1946年)の昭和南海地震で起こった津波を食い止め、集落を守るという重要な役割を果たしました。後世のため私財を投じて堤防を築いた濱口梧陵らの偉業に感謝するため、昭和8年村人によって感恩碑が建てられました。この広村堤防の工事は、将来再び襲来するであろう津波に備えての防災事業というだけではなく、多くの作業員を雇用することにより、荒廃した被災地からの住民離散を防ぐ。そう、復興事業でもあったんですね。この工事にかかった4665両という費用は、濱ロ梧陵が全て私財でまかなったらしいです。次回、もう少し、ゆかりある地を巡ってみましょう。 ファッション・ブランド品のお買い得情報はこちらをどうぞ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
Feb 4, 2013
今回、紹介する偉人は『濱口梧陵』です。以前、違うお話で少し濱口梧陵さんについて書いたのですが、和歌山の偉人巡りでは、この方も絶対外せませんね。濱口梧陵は、和歌山県広川町出身で、あのヤマサ醤油を創業した濱口家の7代目当主です。濱口梧陵といえば『稲むらの火』です。小泉八雲という方が書いたお話なんですが、小泉八雲さんはギリシャ生まれの小説家でパトリック・ラフカディオ・ハーンというお名前です。安政元年(1854年)の安政南海地震による津波で起きた故事をもとにした物語です。そして、この物語の主人公のモデルは、濱口梧陵さんなんです。物語の概要は、村の高台に住む庄屋の五兵衛は、地震の揺れを感じたあと、海水が沖合へ退いていくのを見て津波の来襲に気付き、祭りの準備に心奪われている村人たちに危険を知らせるため、五兵衛は自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に松明で火をつけた。火事と見て、消火のために高台に集まった村人たちの眼下で、津波は猛威を振るう。五兵衛の機転と犠牲的精神によって村人たちはみな津波から守られたというお話ですね。実に村人の9割以上の尊い命を救ったわけです。津波への警戒と早期避難の重要性、人命救助のための犠牲的精神の発揮を説いたすばらしいお話です。その後も濱口梧陵は、将来くるであろう地震、津波に備え、莫大な私財を投資して、多くの偉業を遂げました。それでは、次回、濱口梧陵さんにゆかりある地を散策してみましょう。行程表更新しております。 ファッション・ブランド品のお買い得情報はこちらをどうぞ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
Feb 4, 2013
歴史の本を読んでいると、無性にその場に行ってみたくなることが多々あるんです。行ったところで、その時代の面影は、ほとんどないでしょう。視覚的にも、当時にはない人工物があったり、逆に当時あった自然が失われていたり。聴覚的にも、波の音、風で揺れる草木の音が、自動車の音でかき消され、嗅覚的にも、潮の香、草花の香、土の香が排気ガス等の大気汚染で失われ、踏みしめる大地もアスファルト。面影なんてほとんどないのに、そこがその場所であったと碑を建て、語り継ぐ。逆に面影がないからこそ、想像し、感動するのかな。というわけで、紀伊国屋文左衛門が江戸に向けて船出をしたといわれている場所、和歌山県にある下津港に行ってきました。紀伊国屋文左衛門 1 紀伊国屋文左衛門 2紀北で釣りをする人ならご存知の方も多いと思いますが、下津港という港があります。近くには、ピアーランドという釣り公園もありますね。その下津港が紀伊国屋文左衛門が船出したといわれている場所です。文左衛門の勇気ある行動をたたえて、顕彰碑が建てられています。一代で財をなし、一代で散った豪快な商人、紀伊国屋文左衛門。しかし、その才略、かつ天性気宇闊達な生きざまは、今日の商人に商機をつかむ叡知と放担的な勇気の必要性を教えてくれています。『惚れた仕事に命をかけて、散るも華だよ男なら』愛する人の旅立ちを、奥様はどういう気持ちで見送ったんだろ。和歌山県人気質は冒険心と豪快さといわれています。今、仕事に命をかけられる人、いや、それ以前に、自分の仕事に惚れ込んでいる人はどれだけいるのだろう。仕事だけに限らず、そのためなら散っても本望と思える様なものを、どれだけの人がもっているのだろう。一代で財をなし、一代で散った豪快な商人。散ってもなお英雄として讃えられる紀州商人の魂ですね。これで、偉人を偲んで【紀伊国屋文左衛門】は終わりです。 ファッション・ブランド品のお買い得情報はこちらをどうぞ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
Feb 3, 2013
一代で財をなし、一代で散った豪快な商人、紀伊国屋文左衛門。偉人を偲んで 【紀伊国屋文左衛門 1】はこちら しかし、その才略、かつ天性気宇闊達な生きざまは、今日の商人に商機をつかむ叡知と放担的な勇気の必要性を教えてくれています。これは、彼の生誕の地、和歌山県有田郡湯浅町にある紀伊国屋文左衛門の碑です。昭和34年に建てられたこの碑は、商売の神様と呼ばれる松下幸之助さんが奉納したらしいです。松下幸之助さんはみなさんもよくご存知ですよね。パナソニック(旧:松下電気産業)を一代で築け上げた創業者です。松下幸之助さんも和歌山県出身です。そして紀伊国屋文左衛門を尊敬していた様です。商売の神様と呼ばれている人が尊敬する商人、今でも商売繁盛を願う人々が訪れます。そして、JR湯浅駅近くに建てられている銅像ですね。そして、ここは先日紹介した、西国三十三観音霊場第二番札所である紀三井寺の石段です。この紀三井寺の石段は『結縁坂(けちえんざか)』と呼ばれています。その由来についてお話しましょう。江戸時代の豪商・紀ノ国屋文左衛門は、若い頃はここ紀州に住み、貧しいけれど孝心篤い青年でした。ある日、母を背負って紀三井寺の表坂を登り、観音様にお詣りしておりましたところ、草履の鼻緒が切れてしまいました。困っていた文左衛門を見かけて、鼻緒をすげ替えてくれたのが、玉津島神社の宮司の娘「おかよ」でした。これがきっかけとなって、文左衛門とおかよの間に恋が芽生え、二人は結ばれました。後に、文左衛門は宮司から大金を借り、みかんを買い集め、巨額の富を得たということですね。紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表坂は、それ以来「結縁坂」と呼ばれるようになったらしいです。それでは、次回、実際に紀伊国屋文左衛門が船出した場所を訪れてみましょう。行程表更新しています。 ファッション・ブランド品のお買い得情報はこちらをどうぞ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
Feb 3, 2013
『沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国ミカン船』唄にも残る江戸時代の豪商『紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)』ですね。寛文9年(1669年)紀州湯浅の出身で、一代で巨万の富を築き上げた人物です。冒頭の唄に出てくるミカン船の伝説が有名なんです。みかんの産地で知られる和歌山はある豊作の年、かなりの安値で取引がなされておりました。その一方、嵐が続き船が出せないため、江戸ではみかんが不足し、高値で取引されておりました。そこで、紀伊国屋文左衛門は、玉津島明神の神官の高松河内から大金を借りて、みかんを買い集め、家にあった古い大船を直し、荒くれの船乗り達を説得し命懸けで嵐の太平洋に船出したというお話なんですね。みかんが不足していた江戸ではみかんは高値で飛ぶように売れ、巨額の富を得ることができました。そしてその帰り、大阪で伝染病が流行っていると知り、流行り病は塩鮭が良いと噂を流し、江戸で塩鮭を買占め大阪で売り、さらに巨額の富を得たと言われています。その後も、江戸で材木商を営み、江戸城をも焼いた明暦の大火では、材木を買占めてまたも巨額の富を得たとされています。『両方の 手で大門を 紀文閉め』という川柳が詠まれています。大門とは、当時の吉原の門の事で、紀文とは紀伊国屋文左衛門の略称です。吉原を紀伊国屋文左衛門が貸し切りにしたという豪勢な様子を表しているんですね。ただ、その後の彼は全財産をつぎこんだ十文銭の鋳造事業の失敗により衰退してしまいました。一代で財をなし、一代で散った豪快な方なんですね。それでは、次回、紀伊国屋文左衛門にゆかりのあるところを散策してみましょう。 ファッション・ブランド品のお買い得情報はこちらをどうぞ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
Feb 3, 2013
華岡青洲の偉業をたたえ、建設された『青洲の里』の少し北に華岡家の墓地があります。そこには華岡青洲のお墓もあります。華岡青洲についてはこちら 青洲の里についてはこちら昭和42年(1967年)公開された映画『華岡青洲の妻』の主演俳優のお三方がここを訪れたこともあるんです。青洲役の市川雷蔵さん、妻加恵役の若尾文子さん、母於継役の高峰秀子さんですね。『華岡青洲の妻』は映画だけでなく、ドラマ化もされ、多くの俳優さんが演じられていますね。青洲役は、江守徹さん、竹脇無我さん、三浦友和さん、最近では谷原章介さんですね。妻加恵役は、南田洋子さん、竹下恵子さん、十朱幸代さん、小泉今日子さん、和久井映見さん。母於継役は、月岡夢路さん、淡島千景さん、森光子さん、田中好子さん。上記以外にもまだ演じられた方はいらっしゃるのですが、ごめんなさい、名前が出てきません。原作となった小説『華岡青洲の妻』の著者、有吉佐和子さんも和歌山県出身の小説家なんです。こちらは墓地の入口に建てられた碑ですね。もう字は読めないですね。墓地には、いくつかの墓石があるんですが、入口には墓石群の見取図があり、それぞれの墓石が誰のお墓であるかは一目瞭然です。青洲の墓の近くに、妻加恵、母於継の墓石もありました。華岡青洲様全世界の優秀なお医者様、それに従事する関係者の方々が、日夜努力をしております。そのおかげで、人類の寿命は延び、当時は諦めるしかない病も今では治るものも多くあります。先生の意志を継いだ門下生の方々のお弟子さん、そのお弟子さんと、みなさん活躍していますよ。日本の医療技術は世界でもトップレベルですよ♪私は、昨年夏に突然、指が動かなくなり手術をしました。過去にも麻酔を必要とする治療を数回しております。この先、私は治療を受けるたびに先生を思い出し感謝するでしょう。まだ世界には、病に苦しむ人々、幼くして天に帰る子どもがたくさんいます。これからも医療の発展を見守って下さい。千音これで、今回の偉人を偲んで【華岡青洲】は終わりです。
Jan 23, 2013
華岡青洲の偉業をたたえ、建設された『青洲の里』に行ってきました。華岡青洲についてはこちらを施設のフラワヒルーミュージアムは、華岡青洲が開発した通仙散の主成分、曼陀羅華をモチーフに黒川紀章氏が設計したものです。華岡家発祥の地という碑が建ってました。華岡青洲の銅像ですね。併設の『春林軒』では、当時の様子をリアルに再現して展示してあります。春林軒とは、華岡青洲が創設した診療所であり、門下生に医学を教える医学校でもありました。他にも、当時使われていた医療器具など多くが展示されておりました。青洲の里の北側に、華岡家の墓地があり、そこに華岡青洲のお墓もあります。そちらにも行ってまいりましたので、また次回に。
Jan 23, 2013
華岡青洲(はなおか せいしゅう)という方をご存知でしょうか?世界で初めて全身麻酔を用いた手術を成功させた方です。宝暦10年(1760年)紀伊国那賀郡(現・和歌山県紀の川市)に生まれました。彼は手術での患者の痛みを和らげ、人の命を救いたいと考え、麻酔薬の開発を始めました。動物実験を重ね麻酔薬の完成にまでこぎつけますが、人体実験を前に行き詰まってしまいます。そのとき、青洲の母「於継(おつぎ)」と青洲の妻「加恵(かえ)」が自分の体を使って麻酔薬を試してほしいと自ら申し出ました。その結果、加恵が失明するという大きな犠牲の上、全身麻酔薬『通仙散』が完成したのです。「日本麻酔科学会」のシンボルマークは、華岡青洲が開発した通仙散の主成分、曼陀羅華です。平成12年(2000年)に創立100周年を記念し、青洲の肖像と曼陀羅華の花をデザインした切手も発行されました。そして、和歌山県立医科大学は青洲の偉業を讃えて、曼陀羅華の花に「医」の文字を配した学章を使用しています。彼は天保6年(1835年)享年76歳で生涯を終え、故郷の和歌山県紀の川市に眠っています。世界初の偉業を成し遂げた華岡青洲は当然すごい人なんですが、多くの人の命を救うために、自ら献身を申し出た母、そして失明した妻。兄弟愛、夫婦愛、家族愛。。その域を超えた人類愛ですよね。ここから医療は目まぐるしい進歩を遂げ、今もなお多くの方が命を救う努力をしています。どんな状況であっても1日でも長く生きていてほしいと願う家族のために。そんな中、昨日の麻生副総理による高齢者高額医療費問題での発言。。個人の人生観を否定するつもりはないですが、延命治療に頼ってでも生きたい、生きていてほしいと願う人もいます。ご自身の立場、発言の影響力、発言する場をお考えいただければと思います。さて、この華岡青洲の偉業をたたえ『青洲の里』という施設がありますので行ってきました。青洲の里のレポートはまた次回に。
Jan 21, 2013
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