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自分のリソースを発揮しなければ、目の前にある問題を解決する知恵や力は湧いてこないですねー。自分の良いところを自分がちゃんと活かしてあげなければ…。頭の中で、心の中で、「そんなんじゃダメ」とか「何やってんねん」とか「どうせ…」なんてつぶやいてたら、うまく行くものも行きません。自分が、自分自身の一番の味方でありたいものです。
May 1, 2014
わたしは祖母に育てられた。96歳までしっかりとしたまま、皆に愛されて大往生で天国に旅立ったのが4年前。おばあちゃん子だったわたしは祖母が喜ぶことをサプライズでよくした。目を細めてとても喜んでくれたので、ついついまた何かサプライズを考えるようになった。そんなとき祖母は「もう何も返すことができないから、死んでから返すわ」とよく言っていた。わたしは「おばあちゃん、そんなんええよ。第一死んでからなんて返せへんし。」といつも笑って返事していた。庭につつじが咲いて、「あぁ…今年もこうして綺麗に咲いてくれてありがたいなぁ」と思った矢先にそんな祖母の笑顔とともにその言葉を思い出した。そして、思い出した瞬間に涙があふれてきた。そうね。こうして、家族7人みんな揃って無事に毎日を暮せていることこうして花が咲いただけでこんなにもありがたいと思えること何でもないことをこんなに有り難いと思えるのは、おばあちゃんが見守っていてくれるおかげなのだろうと思った。返してくれてた。「そんなんいらんよ」と言ったのに。ありがたい祖母の愛にまた触れた瞬間でした。
May 1, 2014
知らない国、知らない街なのに、遠い昔に来たことあるような…どこか懐かしい気がする…そんな風に感じることって誰しもあるのではないだろうか?ネット、テレビ、映画で見た?どこかで記憶の片隅に残っていた?う…ん。それとは違う懐かしさのような。前世があるのかないのかわからないけれど、もしかしたらここに住んでいたとか、来たことあるのかもしれない…。そんな気にさせてくれる心に強く残る風景がある。心静かになりたいとき、電車の待ち時間、ふとした空き時間に意識をその街に飛ばしてみる。不思議に頭の中が広がり、気持ちも落ち着いてくる。自分の好きな街、お気に入りの風景、少しの時間で訪れてみるのも楽しいものです。
April 30, 2014
自慢話なんてするもんじゃない。自慢話なんて聞きたくもない。こんなことをよく耳にするし、以前はわたしもどこかでソレおもっていたところがある。けど、いつのころからか、すればいいんじゃないか?と思うようになった。ご本人、幸せそうだもの。ええやんねー。幸せなんやったら。
April 27, 2014
我が家では「話し合う」これが基本です。どんなことも黙って我慢して過ごすということを「良し」としていないので、基本が話し合うことになっています。これはけっこう忍耐力のいることで、簡単なことではないのかもしれません。けれど、ジツハ我が家では日常です。ではなぜそんなに話し合うことがあるのか?何故そんなに話し合わなければならないのか?答は簡単です。「自分の魂に正直に生きたいから」自分の魂に正直に生きるとは、決して我を通すことではありません。縁あって出逢って家族になっていること自体から見ても、今生のこのつながりを大切にし、お互いを慈しみ、愛し合うようになっているはずなのです。つまりは自分の魂に正直に生きるということは、相手に対しても正直に生きるということであり、お互いの魂の目的を達することに他ならないのです。なのに、ちょっとした行き違い、言葉の綾で、気持ちまで行き違ってしまうとこじれます。そのときに黙ってやり過ごすのか、それとも本来あるべき姿の愛の家族に戻ろうとするのか…?ココが分かれ目のように思います。わたしは本来の目的、慈しみ、愛し合う家族でありたいと思っています。だから話し合います。そのためには、自分の想いや感じていることや、考えていることなどをお互いに話し合い、聞きあい、そして認め合い、ときにはぶつかり合い、そして傷つけあったときもありました。そんな時間もとても愛しくもあります。そうして、ひとつひとつ深まってきた関係性があります。今日もそんな話し合いをしたことで、またひとつ深まった時間となりました。^ ^
April 23, 2014
誰かに対して、優しくするとか思いやりを持って接するとかちゃんと感謝するとかありがとうを言うとかこんなことって、行為のコトを言うんじゃないですね。気持が、想いが、心がそこに向いていなければ、本当の意味では届かないのですね。改めてそんなことを感じた3.11
March 17, 2014
事務所のロビーに置いているユッカ。一度は枯れかけたけれど、見事復活してくれました。お水をあげる時は「元気になってね」と声をかけ、日当たりの良い場所に移動して、脇を通るときには「ガンバッテ!」と元気づけてきたら、こんなにも元気になりました。うちのスタッフのY子さんが入社したとき、最初にお願いしたのが「お水をあげる時には笑顔でおはようと声をかけながら水やりしてくださいね」でした。その甲斐あって、こんなにもイキイキと元気になりました。人も植物も、声をかけて、手間をかけて、お日様をたっぷり浴びて…これが大切なのですね。おかげさまで、弊社の植物はお越しになるお客さまがココは事務所ですか…?と言われるくらいにイキイキと元気に育ってます。
March 17, 2014
自分にやってくることはたとえ予期せぬことでも、わたしがやる必要があるんだろうと思うことにしています。その方が自分でいられます。その方が自分主体で動けます。その方が方向性や着地点を自分で決められます。その分、覚悟が必要ですけれど…(^_^)/
March 13, 2014
夫の父96歳、現役の職人です。今日も元気に働いてる。義父は言います。与えられたことを一生懸命してきたことで、今日まで生きて来れた。母親のススメで大学に入った、そのことがあったから戦争に行っても大学卒であることが活かされた。時代が目まぐるしく変わっていく中で、とにかく目の前のことを、自分に与えられたことを精一杯やった。そうしたことで、生きて帰れたものの、何もなくなった中でこうしてここまでやってこれたのも、自分一人の力では到底無理なこと。こうしてこの年になっても元気で仕事ができているなんて、本当に有り難いこと。※父の言う精一杯やるというのは、与えられたから、やらんとあかんのでやるのではなく、そこに自分の仕事があり、自分がやるべきこととしてとらえるということ。もう一歩進んで、遣り甲斐をもって自分を最大限に活かすということ。こんな仕事…と思うような仕事であっても、それを思わずに誇りを持って仕事をすること。それをいつも言います。今も「わしができないと言ったら、もうできる人はいない。わししかできないねん。」だから少々手間がかかってもやるんだと。96歳の義父が言うと、とても深みも重みもある言葉。与えられてることの中に自分を生かす道がある。それを生かすも殺すも自分次第と言うことですね。
January 31, 2013
書棚を整理していたらこんな本が・・・。 亡き父のカタミ? 昭和38年の本だった。 わたしが4歳の頃、父はこの本を手に取るような心境だったのだろうか・・・? 今となってはどんな想像もできるんだけど、わたしがいま「感性論哲学」を学び、娘二人は大学の哲学科を出たことは何かの無関係のような気がしない。 父は空の上でにんまりしているのかもしれない。
January 31, 2013
自分が誰かの言葉や態度で傷ついたとき、「どうしてそんな言い方しかできないのかな?」と、相手を攻める気持ちが自動的に湧き上がります。その誰かが身近であればあるほど、怒りと同時にとても悲しい気持ちになります。だけど、それは相手がこちらが傷ついていることに気づいていなかったり、知らないだけだったり、わかってはいても素直に気持ちを表現する術を持たないだけだったり。自分が誰かを傷つけている自分が誰かに悲しい思いをさせている自分が誰かの怒りを買ってしまっているなんてことを知ったら…「何とも思わない」なんて言える人はいないでしょう。外側からはわからない何かに追いつめられて、何かに抵抗して、そうせざるを得ない状況なのかもしれません。だから、「そんなつもりじゃない」とか「それは誤解だ」とか「勝手な解釈しないで」と言うような思いになるのではないでしょうか。大切な人を攻撃する人大切な人を傷つける人大切な人を大切にできない人は、誰よりも自分自身が傷ついているし、誰よりも自分自身を許せないものなのかもしれません。一番傷ついている人なのかもしれません。まっすぐの愛を欲しているだけなのかもしれません。誰かを傷つける人は誰よりも傷ついている人なのかもしれません。温かい愛で包んであげられたらいいですね。
January 31, 2013
ごろりと仰向けになって空を眺めたとき、わたしの後頭部あたりがどうもすわりが悪い。しばらくすると頭の後ろから首、そして肩にすわりの悪さからの緊張が伝わってきてとてもじっとしていられなくなる。なので、エステでじっとして施術を受けるのは無理。返ってからだがコリコリに…(-_-;)後頭部に何か問題でもあるのかと思って調べたこともあったけれど、異常なし。後頭部が生まれつきヘンな形なんだろうか?と思ってみたり。そんなときに出逢ったからだのプロのT先生(整体、解剖学、マクロビオテック、気功などを教えている先生)に話したら、「子どもの頃に後頭部を強く打ったりしたのかもしれないね。覚えていないかもしれないけど…」とおっしゃった。先生によると、人の意識や記憶は、脳だけが司っているのではなく、身体全体の細胞に記憶されているのだという。そんなことを聞いてから、ヨシヨシしてから仰向けになることにしている。そうすると、コリコリになるのがマシな気がしている。からだとは本当に神秘なものだと思う。
January 31, 2013
うちのわんこ(うめたろう)は、まだ1歳にもならないやんちゃ盛りの甘えん坊。うっかり、テーブルの上なら安心と食べ物でも置いてるとジャンプしてとってしまう。油断ならないやんちゃ坊主今日もプリンの蓋がゴミ箱にあったのを見つけて、くわえて食べてた。甘くて美味しい匂いがしたんだろう。だけど、飲み込んだら大変!「うめたろう、待ちなさい!」「うめ!待ちなさい!」やっと捕まえて、口を無理やりこじ開けて、蓋を取り出した。子どもとは言え、鋭く尖った歯が並ぶ。その口を力ずくでこじ開ける。けど、噛まない。とっても不満そうだけど噛まない。こちらも噛まれるかも?と言う恐怖感もない。この絶対的な信頼感はすごい。疑わないどころか、疑うことすら念頭にない。すごいことだと思う。言葉を交わしあうわけではないのに、何かがどこかで通じ合っていると感じている。すごいことだと思う。
May 20, 2011
「学ぶ心さえあれば、万物すべてこれ我が師である」 誰かに何かを指摘されたとき、「あなたには言われたくない!」と言いたくなることがある。(面と向かって言うかどうかは別として)そう思ったそのとき、自分に突きつけられた問題から逃げた瞬間だと思う。「あなたに言われたくない!」と思ってしまったら、もう自分の問題として捉えようとしていない。誰に言われようと、どんな言い方をされようと、相手に言う資格があるかないかではなく、問題は言われる自分が言われるような何かを持っているということだと思う。相手のせいにしても、何も変わらない。言われたことに対して、何をどうするか?それだけに集中することだと思う。絶対変わる。必ず結果が付いてくる。そのままにしたら何も変わらないどころか、自信がどんどんなくなっていく。できるかできないかではなく、やるかどうか!「学ぶ心さえあれば、万物すべてこれ我が師である」 松下幸之助
May 11, 2011
新しい出逢いとは、は何とも言えずうきうきと楽しいものだと思う。ちょっと前までは知らない者同士だったのに、それがいくつもの偶然が重なり、今はひとつのテーブルを囲んで談笑しながらお食事をするなんてことになると尚更。そんな素敵な出逢いがあった。実は、2度お逢いして、お話しした時間のトータル15分程度だったにも関わらず、3度目にはSさん宅にお邪魔することになっていたのだからびっくり。まぁ、流れに任せましょう。それにしても「縁」とは不思議なものだとつくづく思う。出逢いの妙と言えばいいのだろうか。ここはどこ?Sさん宅で彼女の手料理をごちそうになっている私は誰?お向かいに座って微笑むMさんはどなた?なんて思うくらいに3度目のここで初めてゆっくりとお話しした3人だった。だけど、乗ってみるものだと思う。出逢いはやってくる。それに乗るかどうかは自分次第。乗らない理由なんて探せば山ほどあるだろう。だけど、厚かましくても、驚いてても、「行きがかりのご縁」なんだから乗ってみる。そうしたら、面白いことにコロコロと回転して、何だかまた楽しいことが始まりそうな予感。ほらね、乗ってみるもんですね。
May 5, 2011
「29年かぁ…」早いもので、結婚して29年。出逢ってからだと30年を超える。良くも悪くも仲良しで、だからこそ聞き流せないことがあり、知らん顔できないことがあり、放っておけないことがある。と言うことは、がっぷりと組み合い、どっぷりと向き合い、お互いの本音と本音で話し合うことになる。(これ、けっこうハードです・・・)そして、いつの間にか30年ちかく経ち、いろんなことも笑える日が必ず来るって感覚が少しわかりかけてきた気がしている。だからこそ、逃げないで、ごまかさないで向き合っていきたいと思う。そんながっぷりの私たちを傍で見てたのが、わが子たち。毎年、結婚記念日にはいろいろと趣向を凝らした贈り物をくれる。今年は「お箸」春慶塗の赤が美しいお箸はつやがあって、軽くて持ちやすく夫もわたしもとても気に入った。そう言えば、私たちの結婚式の引き出物に春慶塗のお盆を使ったのを思い出した。
May 2, 2011
最近、「自分の心の内を見る」ってことをしない人が多い気がしている。自分の感じていることに気づいていない、自分が何故そう感じるのかを知らないことには、自分と言う人間がわかっていないとも言えるんじゃないだろうか。わたしはいつも思っているのは、これだけの人間が毎日行き交っているのだから、衝突もすれば、引っかかりもすれば、当りもする。そして、誤解もあるのが当たり前だと思う。ソレを回避するというよりも、起こって当然なんだからどう収めるかの問題だと。何かが起こったとき、「スワッ!大変だ!!」と大半の人がスグに反応してしまうんじゃないだろうか。反応するのがダメというわけではない。ただ、反応している自分を感じられるだろうか。呼吸が浅くなっている自分をどこかで気づいているだろうか。身体のドコに力が入り、心の中に何が湧き起こっているのかを意識できているだろうか。これらの作業は慣れたら時間にすれば数分でできるはず。だけど、やらない。いや知らないだけなのかもしれない。とにかく、多くの人がやらない。で、反応の海に吸い込まれて溺れそうになったり、アップアップ状態になったり、苦しくて他責にしたり、しんどくて、辛くて、もうこんな思いはしたくないのでこうならないためにどうするか?と考え始めたり。そうしているうちは、残念ながら何度も何度も何度も何度も同じようなことが起こり続ける。
May 27, 2010
耳の痛いこと言ってくれる人があるならば幸い。言われなくなると、ある一部の自分に囚われたり、自分が見えなくなる。その結果、滞る。で、言われなくなる原因は、耳の痛いことを言ってくれる人に耳を貸さないから。誰しも聞かん人には言わんもん。
May 27, 2010
いつも通りのことをしていたら、いつも通りのことしか起こらない。いつも通りのことを続けているうちに、変化するのが怖くなる。けれど、変化を恐れていたら、進化は起こらない。変えられるのは自分だけ。そして・・・、変えるのは気に入らない現実に対して、いつも通りにしてしまう自分。
May 26, 2010
自分に正直とは、自分の頭の中にある考えを指してるのではない。自分のお腹にある想いに対して正直にと言う意味。だから、考えをいくら聞かされても腹落ちしない。
May 25, 2010
メンタルヘルスの現場から。メンタル的にストレス過多の状態が続くと、当然ながら心身ともに余裕がなくなり、硬直的な行動になりやすい。例えば、ある会議室での会議中に非常ベルが鳴ったとしよう。すわっ、火事だ!そこにいる全員がひとつの扉に集中して外に出ようとするなんてことが想像できると思う。しかし、その唯一扉はいくら押してもビクともしない。必死でたたいても誰も開けに来てはくれない。なんてことになったら大パニック!になることは容易に想像ができるが、実はその扉は押すのではなく、引く扉だった・・・。なんて笑い話のようなオチは、大パニックの前には怒りでしか受け入れてもらえないだろう。人は過度のストレス状態では硬直的な行動になりやすいと言うことであり、「押してもだめなら引いてみな!」という発想の転換が出来ない。押してだめなら、もっともっともっと押す!そしてドンドンと心身ともに硬直していくので、思考も行動も別の選択の余地がない。(火事場の馬鹿力で扉を壊して逃げ延びるってのもありかもしれないけれど。)これって別に特別なことではなく、実は日常に起こっていることだと思う。うまく行かないことに対して、同じことを何度も繰り返すってことを・・・。
May 24, 2010
もうすぐ6月か。日中は半袖のTシャツくらいがちょうどイイくらいに暑いけれど、朝晩がこうも肌寒いと薄物では寒いことがある。しかし、どうも6月にもなると厚モノの服は肩身が狭い。「厚モノでも春色なら平気でしょうね。」なんて訳のわからない言い訳を自分にしてみたりする。こんな風に感じるのは日本には四季があるからではないかと思う。例えば、昨年のロンドンに行ったとき、11月末のダウンが必要なくらい寒い日でも、タンクトップ一枚の人もいれば、北極に行くのかと思うほどの毛皮のコートの人もいた。イタリアの初夏もそう。ちょっと肌寒いと皮のコート着てる人がいたり、日差しが強くなるとタンクトップの人がいたり。そんなことを思うと、四季にあわせて何を着るのか、どんな色を着るのか、どんな素材を着るのか、こんなことを考えながら生活する日本は豊かなのではないだろうかと思う。
May 1, 2010
誰かに何かを指摘されたとき、「あなたには言われたくない!」と言いたくなることがある。(面と向かって言うかどうかは別として)そう思ったそのとき、自分に突きつけられた問題から逃げた瞬間だと思う。あなたに言われたくない!と言う名の下に、自分の問題として捉えようとしていない。誰に言われようと、どんな言い方をされようと、相手に言う資格があるかないかではなく、問題は言われる自分が言われるような何かを持っているということだと思う。相手のせいにしても、何も変わらない。「学ぶ心さえあれば、万物すべてこれ我が師である」 松下幸之助
April 21, 2010
息子が小学校のとき同じクラスだったY君のママであるNさんとはもう20年近くの付き合いになる。二人してママさんソフトチームに入って、ボールを追いかけた時期もあった。子育てに明け暮れた頃があり、それから一段落して仕事をし始め、そして今までの紆余曲折もお互いに支えあい、励ましあい、時には叱咤激励しあった友人である。今ではお互いに仕事が忙しくなり、数ヶ月に一度くらいの割合でランチタイムを一緒に過ごすのがせいぜいだが、逢えばいろいろと四方山話に花が咲く。その彼女と久しぶりのランチ。そして、今日話したのは夫婦のこと。彼女も私もお互いに夫との関係はすこぶる良好である。知人や友人はもとより、私たちを知る人から「仲が良いね」と評されることは多い。しかし、そう言われるには理由があった。それは、夫と過ごす時間や話し合う時間をとっているからの結果であり、何もしないで良好なわけではない。当然だけど何もしないで勝手に仲が良いなんてことはない。別の言い方をすると、お互いに手間隙かけている。育んできたし、いまも継続中である。手抜きはナシだから。だから、よそ見をする気もならないし、飽きるなんてこともない。昨日の私と今日の私は違う。同じに見ないで欲しいと思う。変化を置き去りにしないで欲しい。そう思うと同時に相手も同じだと気づく。だからこそお互いを知るために話し合うこと、理解のために確認しあうこと、27年も同じ屋根の下に暮らしていてもまだまだ尽きない。夫婦関係においても、恋人関係においても飽きるとか倦怠期とか、もう分かっているからなんて思い込むのは、相手にも自分にも怠慢だと思う。私たちは、話し合う分ぶつかり合うことも多いけれど、死が私たちを別つときまでお互いに興味と好奇心を持って話し合い続けるだろうと思う。27年経てもなお、発見することはまだまだある。唯一無二のパートナーである彼への興味は尽きない。
April 21, 2010
毎月開催中のエニアグラムを活用した「自分の強みを活かす術」強化トレーニング・アドバンスコースの日だった。これはベーシックコース(如何に人は違うかを知る)終了された方のコースで、人は如何に同じであるかを知ることで、他者との人間関係をよりよくしていく方法を確立していくことを目的としている。そのために本当の自分を知る。自分を知るということは、自己探求であり、自己探求とは=自己観察+自己理解と私は考えている。この自分を知るという作業で過去の自分から学ぶということは多い。しかし、この過去の自分に意識を向けていくにつれ、辛い過去、哀しい過去、淋しい過去、耐えた過去などのついつい反応してしまう過去に出逢うことになる。過去に囚われず、縛られず、こだわり過ぎずに過去に向き合えたら気づける事はとても多いのだけど、知らず知らずに反応し、ついつい囚われたり、縛られたりしてこだわってしまうになる。自分が囚われている過去、縛られている考え、こだわりすぎる出来事にスポットを当てて、いったい何がどうなっていたのか・・・?それをプレイバックシアターという手法でワークとして取り組んだ見たのが日曜日の事。結果は…ある人にとっては40数年間、ある人にとっては30数年間、ある人にとっては20数年間何度も脳裏に浮かんだ傷ついた経験があった。それ自体はトラウマと言うほどの出来事ではないけれど、同じような気持ちになったときの原初体験なのか?何度もその光景を思い出した経験があった。このワークを通して感じたことは、今までに感じていた過去の出来事へのソレに対する見方が変わった。変えようとしたのではない。変わったのだった。物事は見たままとは限らなかっただけ。プレイバックシアターによって別の見方に気づいただけのことだけど、自分自身の囚われや縛られた感情にも影響がありそう。過去をかわいそうなものにするのは簡単で、みんなで抱き合ったり、泣きあったり、欲しかった愛を確認しあうのは気持ちがイイ。だけど、そんな非日常の高揚感のあるワークは病み付きにはなるけれど日常生活には役立たない。日常に生かすことが何よりの目的であり、自分の生き方に反映できてこそだと思う。粛々と自分の人生を受け止め、自分と真正面から向き合う。そんなことを繰り返してきた1年半だけど、本当に大きな変化を遂げた人の笑顔はイキイキと輝く。それを再確認した日曜日のワークだった。7月末には夏合宿を開催予定なので、興味のある方、参加されたい方はお問合せください。
April 18, 2010
ご案内メンタルヘルスの現場から感じているのは、人が行き詰まりを感じるときの共通点は、目の前の仕事に対して「自分を活かす」視点ではなく、求められることを与えられたやり方でやらなければいけない現状があります。しかし、それをこなせない自分。その自己否定と、結果を出せないでいる現実の苦しみで出口のないトンネルに入り込んでしまっている。決してできない彼らではない。ただ、求められることに対して、彼らの資質に合わせたものではなく、与えられるやり方でやらなければいけない現実に直面し、できない自分を突きつけられ、行き詰ってしまったと言うこと。自分を活かすことについて、それぞれの資質や特徴について、引き起こしやすい問題などを知ることで随分と楽になれます。社会を担うこれからの彼らがため息をつき、うつむいて、肩を落として歩く姿は見ていられないし、意欲をなくし、自己否定に入り、自分を見失っておられる姿は辛いものです。メンタルヘルスの鍵は、「個人力」を活性させることです。だからこそ、それぞれの人が「自分を活かす」ことを知っていただきたいと願っています。「エニアグラムを活用した自分の強みを活かす術」体験講座■ 日時 1月15日(金)18時30分から21時 ■ 受講料 1000円(体験講座のため)お申し込みorお問合せ下記も開催中です。「エニアグラムを活用した自分の強みを活かす術」トレーニングコース■ 日時 1月10日(日)13時から17時 ■ 受講料 10,000円終了後、新年会(参加費は2,000円前後)
January 9, 2010
あなたにとって哀しいこととは何ですか?そう問われたら、何と答えるだろうか。生前、父は何度も言った。「知らないと言うことほど哀しいことはない」と。知らないことは物の価値や値打ちがわからない・・・これも哀しい。知らないことは思い描くことすら出来ない・・・これも哀しい。知らないことは出来ない・・・これも哀しい。だからこそ、自分の世界を広げよといわれ続けた。本を読め。人の話に耳を傾けよ。そして、知ったことを実行することで自分のものとせよ。本は書いた人のもの。聞いた話はその人のもの。読んだだけで鵜呑みにするな。聞いただけで鵜呑みにするな。だからこそ、自分で実行することで自分のものとなる。とも言われた。読んで、聞いて、それを自分の体験で話すこと。自分の考えで話すこと。「それが真の意味で知ると言うことになる。」と言った。
January 5, 2010
暮れの紅白歌合戦を見ていて流れてきたのが「世界に一つだけの花」その中で歌われていた「・・・♪僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?一人一人違うのに その中で 一番になりたがる~♪」知っていても、わかっていても、十分に理解していても、それでも・・・それでも自分は世界でたった一つの花と思えないのは何故なんだろう。これは、“ただ、自分を肯定する(誰かと比べなくても)”ことができないと言う意味でもあるだろう。以前読んだ本の一節を思い出す。そこには、「人は生まれてくる時点で誰かのお世話にならなければ生きていけない。だから、そもそもが受身だと言える」と書かれていた。誰かの手を借りて命を育む。だから、お腹がすいても、おむつが濡れても、どこかが痛んでも泣いて訴えて、誰かの手をかけてくれる人を呼ぶ。手をかけてくれる人が傍にいて、程よいタイミングで手をかけ続けてくれる限り、生命の安全は保たれる。がしかし、泣いても叫んでも手をかけてくれる人がいないと生命の危機を感じることとなる。だけど多くの場合、いつもほどよい距離にいて良いタイミングで手をかけてくれる人がいるなんてことはまずない。自分を肯定するってことが中々難しいのは、生命を脅かされるようなストレス(お腹がすいたのにスグにおっぱいもらえないとかの大人からすれば簡単なこと)を幾度となく感じてきたからなのだろうか・・・なんて思った。そして、受身だから、手をかけてもらうために、相手に受け入れてもらうために、喜ばせたり、可愛がられたりが必要になってくるのか。確かに子どもは生んでもらった御礼を5歳迄で返すと聞く。そう言えるくらい5歳までの子どもは天使だから。それ以降はドンドンと自我が前に出て、生意気になるから。すると、たっぷりと無条件に愛を注ぎ、手をかけてくれた人が夜叉のようになって否定しにかかるなんてことが普通に起こる。それも、悪気なくなのだ。元々はそんなところから始まっているのだから、そこの仕組みを知れば、誰かと比べたり、誰かに肯定されなければ自分を肯定できないというのは、卒業したいと思う。誰かに認められること、誰から必要とされること、誰かに肯定されることだけが、自分を肯定する術ではないと気づくときなのかもしれない。そこに気づけば、今はもう自分で生きられる力をもったんだから、自分の選択で生きれば良いことを知るときなのかもしない。幼く未熟だった頃の選択肢のない選択をいつまでも持ち続けることはない。自分主体で生きる・・・すべての人にとってテーマだと思う。
January 1, 2010
人は本当に話したいことはなかなか言えないもの。簡単に口にできてしまうことは、心の表面どころかほんの思いつきだったり程度のものではないだろうか。本当に言いたいこと、本当に聴いてほしいことはなかなか言葉にできない。それは、本人が自分の本心・本音に気づいていないことが大半なので言えないんだと思う。だから、その本人すらが気づいていない本心や本音に気づいていくためのサポートがカウンセリングであり、そこを聴けるかどうかが素人の相談とプロのカウンセリングの違いと言える。プロは、自分の興味本位で聞くのではないし、自分の意見を押し付けるのでもない。相談者が自分の心に意識を向けて、本当に言いたいこと、本当に聴いてほしいこと、ここにフォーカスしていくことをサポートするのがプロであり、そのためにはトレーニングが必要となる。相手の言うことに対して「うん、うん、うん」とうなづいているだけでは、カウンセラーではなく、ウンセラーでしょ。プロを目指すならば、様々な勉強をして、知識を蓄えることや技術としての場の設定や、関わり行動云々も大切だと思うけれど、自分が何を感じているか、それによって自分が何を発していて、それが相手に何を与えているのか?ココに意識がいかないままでは本質には近づけないし、茶飲み話の域を脱しない。プロを目指す人から相談を受けることがよくある。その時に言うのは、「自分を知ってください」と言うこと。自分を知らずして、他人の何をサポートしようと言うのだろう。クライアントの前で取り繕いは通じない。“フリ”は通用しないのだ。現場はロールプレイではない。自分が発したものがそのまま返ってくるだけで、リアルな現実にはどんな言い訳もできない厳しさがある。自分が発するものは自分の中から出てくる。それに意識を向けられないままでは、命がかかっている他人のサポートは危険だと思う。※ 命がかかっていると書いたのは、生き死にの意味だけではなく、広義の意味で人は自分の人生を掛けて悩むものなので命がけと表現したいと思う。メンタルダウンが増えているからこそ、プロを目指す人たちには一見遠回りのようでも「自分を知ってほしい」と切に願っている。
December 27, 2009
朝晩が肌寒く感じる季節になってきましたが、お変わりなくお過ごしでしょうか?エニアグラムを活用したマネージメントセミナーを下記要項にて開催いたします。体験セミナーは無料となっておりますので、是非一度お越しください。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~日常の人間関係やコミュニケーションの中で、人の言葉や・行動に対して違和感を覚えたり、疑問に感じたりすることはありませんか?「どうしてあんな言い方をするんだろう・・?」 (私ならこんな言い方はしないのに。)「どうしてこんなこともできないんだろう?」 (私なら当たり前のようにすることなのに。)私たちは、「自分と人は違う」ということを知っています。しかし、「自分にとっての当たり前=他人にとっての当たり前ではない」ということには意外と気付きにくいものです。それ故に、自分の価値観・考え方を知らぬ間に一般化して他人にも当てはめてしまい、その結果「相手が何を考えているのかわからない」ということが多々起こります。「人はそれぞれ・・」を理屈だけではなく、人間性心理学、エニアグラム理論を応用した性格タイプの違いを知り、対人関係に活用していただくために公開セミナーです。上司・部下、同僚、家族、友人間のコミュニケーションのみならず、より良い対人関係の構築にお役立てください。◆ 日時: 2009.10.9 (金)18:30-21:00終了予定◆ 場所: 弊社セミナールーム(京都府八幡市男山)◆ 参加費: 体験セミナーにつき無料◆ お問い合わせ お申し込み
September 25, 2009
今日も明日も我慢じゃ、明後日は晴れない。今、笑えるから、今日の心が晴れる。いまの心が最優先。
September 25, 2009
懐かしい映画音楽を久しぶりに耳にした。ソフィアローレンとマルチェロマストロヤンニの哀しく切ない愛の物語。「ひまわり」高校時代に授業をサボって観にいった。帰ったら、、授業をサボったことがバレていて…母に大目玉。高校生ながらおとなの世界を垣間見た気がしていた。愛する意味もよくわからずに、映画の主人公に感情移入して涙した。そして、本気の恋にもあこがれた。心の奥まで響く音楽と最後のシーンの画面いっぱいに広がるひまわりが咲き乱れる様子が今も目に焼きついている。先日、とある方から聴いた言葉がある。“本気で出逢う”これは相手の根本的なところを受容しあう関係を言うと聞いた。わたしは本気でどれだけ出逢えているのだろうか。例えば…夫に対して、彼の根本的なところなのに、わたしが気に入らないからって不満としてぶつけては居なかっただろうか。もしかしたら、何かの形で吐き出しているんじゃないだろうか。本気で出逢う。そんなことを思いながら、この映画の音楽を聴いていた。
September 25, 2009
大人になるってことと、成熟するってことは違うと思う。何もしていなくても、年を重ねたらある年齢から大人と呼ばれる。しかし、成熟は年を重ねることを指すのではなく、人としての在り様(内面)が問われるのだと思う。
September 25, 2009
子どもが転んだら、抱き起こしたくなるのが親心かもしれない。子どもが泣いたら、泣いてる原因を探して泣き止まそうとするのが親心かもしれない。子どもが怒ったら、その怒りを抑えようとするのが親心かもしれない。だけど、そのひとつひとつが、自分で起き上がるチカラ、子どもの泣いて訴えるチカラ、怒りを顕わにするチカラを損なってしまうとしたら。。。だとすると、転んだときその次の変化(行動)が起こるまで見守りたい。そして力いっぱい抱きしめたい。泣いたとき、怒ったとき、次の変化を見守りたい。そこに子どもの知恵とチカラが育まれる。そして、頑張った子をしっかりと抱きしめたい。そこに親と子の心の絆が育まれる。
September 25, 2009
父が亡くなってからもう14年になる。生きているときは多忙を極めていたためにちっとも家に居ない人だったけれど、それでも折に触れて色々な言葉を残してくれた。それが耳に残っていて、必要なときにまるで天からのメッセージのようによみがえってくるから不思議。父がよく言っていた言葉の一つに『他人(ひと)の言うことよりもしていることを見なさい。』口では何とでも言える。だけど、行為が物語る。人は言っていることや結果に目を奪われがちなものだけど、結果ではなく、行為、振る舞いに表れているものだからと。他人の言葉を鵜呑みにするなとも言われた。それは自分の目で、耳で、感覚で、確かめろということでもあった。人は何かにすがりたいものなんだと思う。だから鵜呑みにしてしまうことがある。信じてしまうことがある。けれど、自分がなくなっては意味がない。
June 14, 2009
『今年の結婚記念日も仕事でバタバタと過ごしてしまったね…』との会話から、急遽温泉行きが決まった。(ごり押し )けれど、週末は全部仕事が入っていて泊りがけの温泉旅行は無理。ならば、平日で☆と言うことで調整した結果6/11-12の一泊二日で行くことにとは言え、4時頃まで仕事してそれから出発。行き先は近場の温泉『武田尾温泉・紅葉館 別庭 あざれ 』今頃の季節はほたるも見られるんだとか。お料理はかの神田川俊郎プロデュース神田川道場茶寮でいただけるのも楽しみの一つ。そしてお部屋はコテージ風に独立したお部屋でゆっくりした時間が楽しめそう。土曜、日曜もなく仕事の時間がほとんどでゆっくりとくつろぐのも久しぶり。仕事でもなく、研修でもなく、ワークショップでもなくの温泉は本当に久しぶり。旅に出るといつも思う。それは『行く』と決めるだけなんだということ。行き先が平日の温泉であれ、北海道であれ、イギリスであれ、イタリアであれ同じこと。『行く』と決める…それだけで全てが動き出す。そして万が一、そのタイミングが×ならば自然に行けなくなるのだからそれに従うまでのこと。行くと決めるだけ。すると決めるだけ。それだけで全てが動き出すのを実感する。なんだかんだと理由をつけて行けなくしているのは自分。そしてソレを不満に思うのも自分。自分が作り出した幻想に自分が縛られて、自分でもがいているだけのこと。決めるだけ。行きたければいけばいい。決めるだけ。ただそれだけ。行ったら満足☆ほたるも見れた。ご馳走も食べた。ほっこりと過ごせた。結婚して27年過ぎて思うのは、やはり夫と過ごす時間が一番くつろげる。
June 14, 2009
人はそれぞれ常に何かの課題を抱えているものだと思う。それに気づかないで知らん顔していたり、知っていても向き合わなかったり、後回しにしたりはあるけれど、常に課題はある。その課題に対して、意味づけして納得するのは違う。課題は取り組むものであり、意味づけして何もしないのは対処していることにならない。そして、取り組むというのは行動することを言う。私は思う。『いま一番気になっていることに真っ先に取り組むこと』それが一番精神衛生上良い。この精神衛生上良いことはとても大事で、心が病むとすべてのことに影響が出る。いま何か問題があったら、気にかかることがあるはずで、それに対して行動することで気が楽になる。何でもいいから手をつけ始めること。それで気が楽になる。些細なことからでいいからやりはじめることだと思う。人は指先のトゲすら気になるデリケートな神経を持ち合わせている存在なのだから。
June 13, 2009
先日の夜、何気なくつけたテレビ。普段はほとんどテレビを見ないので久しぶりのテレビ。画面に映ったのは、久米宏が司会で田原総一郎が出ていた。そこに京都・美山でこだわりぬいたコーヒー焙煎職人・オオヤさんという方が出てた。スタジオにコーヒーを煎れるためのセットが置かれ、その場で実演し、久米さんや田原さんが満足そうに頷きながら飲み干していた。「飲みたい!」そして、昨日ソレが叶った。京都のとある喫茶店。こじんまりとした中に店主のはっきりとした主張も静かに漂うお店だった。口数の少ないその人は、コーヒーを注文すると豆から挽き始め、丁寧に蒸らしながら入れる様子に見入った。出てきたコーヒーは濃い目。だけど、口に含むと何ともいえない深い味わいがする。しかし、苦くはない。酸っぱくもなく、コクがあるとしか表現の仕様がない。美味しい。静かに美味しい。大騒ぎするのは似合わない気がする。静かににやりと美味しい。コーヒーがこんなに美味しいものだとは知らなかった。
June 5, 2009
5日から降り続いた雨もようやくあがり、薄日がさし始めた京都の空を眺めながらのランチMTG。青空を背景に天にのびる京都タワー一仕事終えてランチMTGのお相手は、公私ともに最強のパートナーである夫。ランチはステーキ御膳で向かい側に座る夫を眺めつつ・・・白髪が増えたね。相変わらず細いなぁ。黙ってみていると『どうした?』と聞いてくる。『ううん、何も・・・。』と答えると、微笑み返してくれる。いつものこと。いつものことなのだ。こな穏やかな気持ちをじっくりと味わっていると、どんなことも何があっても、芯のところで、根っこのところで安心感を感じられると思える。何が起ころうとも逃げない、裏切らない、知らん顔しないのを実感しているから。わたしたちは企業やそこの個人の内面に関わる仕事ゆえに、自分の状態を整えておくのは必須条件だと考えている。まず自分が整えられてこそ、ニュートラルな視点で関わることができる。表面的な関係だけじゃない。お互いの深部をえぐりながらも本気で関わってきた27年があるから、いまこうしてこの感覚を味わえるのかもしれない。パートナーと言うよりも同志と呼ぶほうがしっくり来るかな。
May 9, 2009
先日のこと、近くのレンタルビデオショップへ娘たちとお気に入りのDVDの続きが観たくて借りに行った。連休中のせいか、けっこう賑わって混雑していた。わたしたちのお気に入りはスグに見つかり、早々にお会計を済ませて帰ろうとレジに向かった。ふと、レジ脇のポスターで映画館で見逃した映画が今日からレンタル開始なのを知った。「あ、これこれ、観たかったの!」レジのお姉さんに「ありますか?」と聞いてみた。そのレジのお姉さんは、レンタルの棚を確認し、返却BOXを確認し、あちこち探した上で申し訳なさそうに「申し訳ございません。今日レンタル開始なので貸し出し中でまだ返却されたものもございません。」と言った。この対応に感心した。人気の映画のレンタル開始日なので全部ではらっているのはわかっているはず。なのに、棚を確認し、返却されていないかを確認し、自分の目で確かめてから、丁寧に頭を下げて詫びる。何でもないことのようですばらしい対応だと思った。彼女の仕事を最大限にまっとうする姿勢に心打たれた。これはココの教育なのか?いや、ほかの人たちでここまでしてもらった覚えがないので、このお姉さんのホスピタリティーの高さだろう。いや・・・すばらしい対応だった。
May 7, 2009
スタッフのみんなと月に一度くらいは...とランチに出かけた。お天気も良くちょっとお外に出たい気分なので。行き先はお気に入りのココまずは前菜ここはいつも彩りの美しさとともにお味もグーなので、とっておきのお店。田舎町の一角にありながら、おしゃれな感覚と繊細なお味は開店当初から変わらない。見えない仕事が、見える仕事を支えると同じく裏切らないお店なのだ。さりげなく行き届いたサービスも居心地が良くて。おいしいチーズをパラパラパラっとその場ですりおろしてくれるのでチーズの良い香りが立ち上る。(ゴクリ)あるおすし屋さんの大将が言われた言葉を思い出す。「自分の仕事をまじめに、誠実に、一生懸命やってますから」ここもそうなんだ。自分の仕事をまっとうすること。まじめに、正直に、誠実に、一生懸命に。そこに信頼が生まれる。そこに安心が生まれる。そこに居心地のよさが生まれる。そうしてお店と顧客の信頼が成り立っていくんだと感じる。最後の最後まで手を抜かないのも嬉しい限り。
May 6, 2009
レッドクリフを観て来た。思えば、レッドクリフ Part1≪キャッチコピーは「三国志の完全映画化」「信じる心、残っているか」≫これでトニーレオンに魅せられて、それからトニーレオンの出演作を片っ端から観た。そして今回待ちに待ったPart2の公開西暦208年。「レッドクリフ Part 2 ―未来への最終決戦―」 - 赤壁 -YouTube 5分でわかる「レッドクリフ」 赤壁 redcliff 三国志 映画の中でジョン・ウー監督からのメッセージがあった。それは、レッドクリフのテーマは『勇気』『友情』そして『愛』勇気があればどんな困難にも立ち向かえ、さらに友情が加われば不可能も可能になる。『あなたは孤独じゃない』が伝えたい。この映画自体は戦いの映画なので、力と力のぶつかり合いであり、そこにはプライドや、欲、意地や、見栄や、虚栄が渦巻き、美しい部分ばかりではないが、それも隠し立てのないところで、人の心の中に確実にあるモノだろう。良くも悪くも、時代が違っても、国が違っても、言葉が違っても、人と人の求めるものに何の違いもない。そんな気になる。何千年の昔から、人間は何も変わっていないのか...?美しい部分だけでは生きられない。どろどろの部分だけでも生きられない。人としての業?そう思うと人生って、その変わりのない"人としての業"を背負いて、人生の山あり谷ありの道を肉体と言う限りある乗り物に乗ってどう生き抜くということなのだろうか。
May 2, 2009
今日は結婚記念日。19825.1-今から27年前の今日わたしたちは結婚した。思えば、あッと言う間の27年ではあるが、色々なことがあった。本当に色々なことがあった。今こうしていること、仕事を含めて様々な環境、それらを誰が想像できただろうと思う。誰が予測できただろうと思う。それくらいに色々なことがあり、様々な想いがあり、沢山の出逢いがあり、今があるのをつくづく感じる。目標を立てる。必要な人には、必要だろうケド、わたしは今日までの人生の中でそれを必要と感じたことは一度もない。自分をモチベートする方法として有効な人は活用すれば良いだけで、みんなにその方法が向くとは思っていない。実際にそれをしなくても素晴らしく飛躍的に自由に活躍している人を沢山知っているし、逆に目標と言う名の制約にがんじがらめになっている人も沢山知っている。とは言え他人さまのことは別としてわたしのバアイ、画せず、目標も何もなくその場その場を(精一杯)何となくでることをするしかない“超いい加減な人生”を生きてきただけなのかもしれないけれど、間違いなく27年前のわたしよりもむ今のわたしに満足しているし、好き。なのでわたしはこれからも、自分の人生を通して、今のこの瞬間に何を感じ、何を想っているのかに気づき、それを大切にして生きたいと思っている。今朝、ご飯を食べながら夫が「27年の間にお前にとってオレは変わったか?」と聞いてきた。わたしは「枝葉の部分は変わったと思うけれど、根っこは何も変わっていないと思う」と答えた。夫はわたしに感じているのは「素直に委ねられる存在」と言った。わたしが夫に感じているのは「何があっても信頼できる存在」と言った。夫婦は3年で飽き始め、7年で自他の区別が解け始めると聞くが、お互いの心の持ちようではないかと思う。そう言えるのは、27年実践しているから。
May 1, 2009
伊豆・下田の海夏には賑わう海も今はまだ静か。寄せては返す波の音だけが静かに繰り返されるだけ。砂浜のサクサクとした感触が心地よい季節になってきているのを足の裏で実感しつつ、どこまでも続く海を眺めていた。ふと気づくのは、淋しい気持ちで眺めたら淋しい海となり、楽しい気持ちで眺めたら楽しい海に見える。わたしがどんな心のうちなのかで見え方が変わる。海は何にも変わらないのに。これは何に対しても同じなんだろう。自分の心が映し出されるだけ。そう見るからそう見えるだけ。深呼吸ひとつ伸びひとつ心地よさを追いかけてみよう!
April 15, 2009
毎朝起きる時間、家族間の朝の挨拶、朝食の内容、テレビをつけるかつけないかetc…毎日の朝の1時間程度の過ごし方ですら家々でそれぞれの過ごし方があるんだと思う。例えば、我が家のバアイ、家族は5人と1匹。仏壇と神棚にお茶やお水をお供えすることから一日が始まる。そして、朝からはテレビをつけないのがここ20年来の習慣だし、家族間で「おはよう」と挨拶しあうのは当然だし、朝ごはんは一応みんな揃って食べる。これは我が家にとっては、至極当たり前の毎朝の様子である。うちもまったく同じですという人はどれくらいいるのだろうか。見当もつかないけれど。これが食生活、休日の過ごし方など日々の暮らし方が違うことで、お金やモノへの価値観や、仕事への意識など色々違ってくると思う。何が言いたいのかと言うと、毎日の過ごし方も違えば、当然重きを置く視点も変わる。それをみんな同じに考えること自体に無理があるということ。自分とは違うコトをやっている人に出逢ったら、もう既に違うということに気づく必要がある。そしてどうするか?訊くこと。そうしている理由は本人しかわからないものだから。それも答えを持って聞くのではなく、本当の意味で訊くこと。本当のことを言わない理由は、「本当のことを言っても聴かずに自分の考えで聞こうとするから」「どうしてそうしているの?」そこからがコミュニケーションの始まりだと思う。勝手な解釈では相手の世界は見えてこない。
March 20, 2009
相乗効果相乗効果(そうじょうこうか)は、ある要素が他の要素と合わさる事によって単体で得られる以上の結果を上げること。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』弊社のスタッフCさんとKさんのお二人の仕事ぶりがまさにコレ。一人ひとりの能力はもちろんある。それにも増して、お互いの関係性がお互いの潜在能力や良い意味での競争力や向上心を引き出しあい、結果として高いレベルのものをアウトプットしてくれている。人は人によって活かされる…。まさに!相乗効果起こってますか?
March 19, 2009
昨夜遅く娘が交通事故に遭った。娘は東京、私たちは京都。ドラえもんでもいたら別だけど、スグにいける距離ではない。増して夜の時間だったから。娘が交通事故に遭遇なんて・・・、夢にも思っていなかったが、よくよく思えば毎日あちこちで交通事故が起きている現実を見れば、ありえない話ではない。事故の状況は、本人はまったく覚えていないそうなのだが、警察によると「信号のない交差点を横断中にタクシーとぶつかってボンネットに乗って振り落とされた」らしい。それがたんこぶ1個で済んだのは奇跡的なことと言えるのかもしれない。大事に至らなかったことで、思わず天に向けて手を合わせた。そして、生かされている。生かしていただいている。そう感じる瞬間でもあった。今日を無事過ごせるのもある意味では、見えるもの見えないものすべてがうまくかみ合って成り立っていると言えるのだろう。何事もない今日は、当たり前じゃない。そんなことを思えるのは、哀しいかなこんなことがあったときくらい。なので、書き留めておこうと思う。大きなトラブルも、何事もなく過ごせるのは当たり前ではなく、すべてがうまく整った日であり、これはなんとありがたいことだろうか。ふと心の中に浮かんだ言葉があった。謙虚と言う言葉。意味を調べてみたら、「ありのままを見る素直な心」とあった。控えめとか、でしゃばらないと言った意味合いが強い言葉のように捉えがちだと思っていたのは私だけか・・・。今回、切に切に感じたのは、自分のできる範囲を超えたとき、自分のできることの限界を感じたとき、神に祈る、天に祈る想いになる。そして、ただただ祈るのみしかないと思い知る。そこに神の領域と人の領域のラインがあり、いとも簡単にそのラインを超える出来事は起こる。「人は特別ではない。」大自然の営みの中では、人も木も花も草もかわらないひとつの生命でしかないことを思い知る。それを知ると自ずと謙虚にもなれる。何かが起こるたびに自分が何も出来ない、何も知らないということに出逢う気がしている。それは悲観的な意味ではなく、自分を知るという意味でとても意義のあることだと思っている。
March 10, 2009
我が家の毎朝の光景わたしが起きて、朝食の準備をしながら、ひと段落着いたところで夫を起こす。夫が起きて来たらわたしとハグ。それから、娘を起こす。起きてきた娘は、まず「パパおはよ♪」と、パパとハグ。そして、「ママおはよう~」と、わたしとハグ。もちろん、娘は生粋の日本人だし、帰国子女でもない。けれど、娘たちの幼い頃からの習慣なので、当然の如くにそうする。我が家的には、定着した他愛もない習慣ダケド、パパと娘はとっても仲良しだし、家族円満に一役買っているんじゃないかな・・・。聞くと、21歳にもなった娘とハグしているお父さんたちとっても少ないようです。 ハグするだけで娘の調子がわかりますから。
March 9, 2009
身体の知性私たちの身体は、頭(マインド)ほどは事細かく条件づけられてはいないので身体は自己管理の外にあるかのよう。頭(マインド)は、あーすればこうなる、こーすればあーなる、となるとこうで、あーでと永遠に続くかと思うくらいに思考し、それに感情までも伴走させてしまうことすらある。すると、自己イメージの世界に溺れる。その点から言うと、身体はまだまだ未知の世界であり、身体はまだ自然の一部のままにある。右足を踏み出そうと思わなくても右足が出る。次は左だという前に左が出ている。そして交互に重心を移動させてうまく歩いているのだから大したもの。これは無意識のなせる技とも言えるし、からだの持つ知性とも言える。何故からだの知性と言えるのか。段々と上手になっていくし、慣れると応用が利くし、学習するし。ソノ上に脳の指令には基本的には背かずに従ってくれるし、言葉は直接的には持たないから文句も言わないし。忙しくてお昼を食べてなくても文句も言わずに働いてくれる。十分休養をとっていなくても動いてくれる。この身体の存在をあまりに当たり前に見ぎてはいないか?と、常々感じている。例えば、緊張しているときなどは深呼吸を何度かすることで随分と落ち着くってことがわかっている。なのに、それは当たり前に扱ってしまい、それ以上の注目をしない。呼吸からどんな可能性があるか?計り知れない未知への可能性を秘めているかもしれないのに。身体の知性を活用しようとするとき、脱力、呼吸、瞑想、これはキーワードになると思う。そして、ビジネスの場面でこれらが出来ている人ってどのくらいいるんだろ?気づいたときがチャンスでは?
March 8, 2009
土曜日だけど、急遽の相談でクライアント先へ行くことになった。まぁどことも聞けば色々と問題はある。そのひとつひとつが問題ではあるが、根本はなんだろう?何がそれらを引き起こしているのだろう?そこに意識を向けていく必要がある。起こっていることはそれぞれの部署、それぞれの個人、それぞれの問題なんだけど、大本を手繰ればひとつ。そこに気づくだけ。個別コンサルでお越しの社長コンサルでも色々な問題を抱えておられるようだけど、原因はたったひとつなのだ。すべてはそこから派生しているだけのこと。そこに気づくだけ。。。
March 7, 2009
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