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2024.06.14
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 ​ 6月15日から16日にかけて「ウクライナ平和サミット」がスイスで開催される ​。スイス大統領が6月10日に発表したところによると、90近い国や団体が参加を表明しているというが、当事者であるロシアは招待されず、ヨーロッパ諸国の半数は参加しない。要するに、アメリカとその従属国による宣伝イベントにすぎない。

 アメリカの国防総省は1992年2月、DPG(国防計画指針)草案という形で世界制覇計画を作成した。その時の大統領はジョージ・H・W・ブッシュ、国防長官はディック・チェイニー、国防次官はポール・ウォルフォウィッツ。このウォルフォウィッツが中心になってDPG草案は書き上げられたことから「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」とも呼ばれている。

 そのドクトリンではドイツと日本をアメリカの戦争マシーンに組み込み、新たなライバルの出現を防ぐことが謳われている。実際、このドクトリンに従い、日本は1995年からアメリカの戦争マシンーンに組み込まれているが、アメリカは旧ソ連圏だけでなく西ヨーロッパ、東アジア、東南アジアにアメリカを敵視する勢力が現れることを許さないという意思を示している。

 このドクトリンをベースにしてネオコン系シンクタンクPNACは2000年に「アメリカ国防の再構築」というタイトルの報告書を発表、それに基づいてジョージ・W・ブッシュ政権は世界戦略を作成していく。その戦略を起動させたのは報告書が発表された翌年の9月11日に引き起こされた出来事。ニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃されたのである。2001年10月にアフガニスタン、03年3月にはイラクを先制攻撃しているが、いずれも9月11日の攻撃とは無関係だった。

 ウクライナでは2004年に大統領選挙があったが、投票で勝利したビクトル・ヤヌコビッチはアメリカ政府にとって従属度が足りない人物。そこで2004年11月から05年1月にかけて西側は反ヤヌコビッチ運動を仕掛けた。これが「オレンジ革命」である。

 ヤヌコビッチの大統領就任を阻止したアメリカは自分たちの手先で金融界の人間であるビクトル・ユシチェンコを大統領に就任させたが、彼が推進した新自由主義的な政策は貧富の差を拡大させ、国民は怒る。そこで2010の大統領選挙で有権者は再びヤヌコビッチを選んだ。そこでバラク・オバマ政権はヤヌコビッチ政権を倒すため、ナチズムを信奉するグループを使ったクーデターを成功させた。

 しかし、ヤヌコビッチの支持基盤で住民がロシア語を話す東部や南部ではクーデター体制を拒否、南部のクリミアはロシアの保護下に入り、東部のドンバス(ドネツクやルガンスク)の人びとは軍事抵抗を始めて内戦になった。

 クーデターを拒否するウクライナ人は他の地域でも少なくなかったようで、クーデター後、軍や治安機関メンバーの約7割が離脱、一部は反クーデター軍に合流したと言われている。そのため、ドンバスで始まった内戦は反クーデター軍が優勢だった。

 クーデター体制の戦力を増強する必要があると判断した西側は「停戦交渉」を始め、「ミンスク合意」なるものができたが、これは時間稼ぎにすぎず、キエフ政権は合意を守らなかった。その間、西側に支援されたクーデター政権は内務省にネオ・ナチを中心とする親衛隊を組織、傭兵を集め、年少者に対する軍事訓練を開始、並行して要塞線も作り始めた。

 停戦交渉が行われている段階から西側では「時間稼ぎに過ぎない」と指摘する人がいたが、ドイツ首相としてこの合意で仲介役を務めた​ アンゲラ・メルケル ​は2022年12月、ツァイトのインタビューでミンスク合意は軍事力を強化するための時間稼ぎだったと認め、その直後に​ フランソワ・オランド ​(当時の仏大統領)はメルケルの発言を事実だと語っている。1998年10月から2005年11月までドイツ首相を務めた​ ゲアハルト・シュレーダー ​も同じことを言っている。

 8年にわたる準備期間を経てクーデター政権は2022年初頭からドンバス周辺に部隊を集結させ、ドンバスへの砲撃を本格化させ始めた。ウクライナの元議員、​ オレグ・ツァロフは2月19日に緊急アピール「大虐殺が準備されている」を出している ​。

 そのアピールによると、この地域を制圧してからキエフ体制に従わない住民を「浄化」してドンバスを制圧、軍、SBU(ウクライナ保安庁)、ナチス信奉者はキエフ体制に従わない住民(ロシア語系住民)を皆殺しにする計画で、それを西側は承認しているとしていた。

 それに対し、ロシア軍は2月24日からウクライナに対する攻撃を始めた。ミサイルなどでドンバス周辺に集結していたウクライナ軍の部隊を壊滅させ、航空基地、レーダー施設、あるいは生物兵器の研究開発施設を破壊し始める。これでロシア軍の勝利は確定的だった。

 そこでイスラエルの首相だったナフタリ・ベネットを仲介役として停戦交渉を開始、双方とも妥協して停戦の見通しが立ち、ベネットは3月5日にモスクワへ飛ぶ。彼はウラジミル・プーチンと数時間にわたって話し合い、ゼレンスキーを殺害しないという約束をとりつけることに成功した。

 その足でベネットはドイツへ向かい、オラフ・ショルツ首相と会うのだが、その3月5日にSBUのメンバーがキエフの路上でゼレンスキー政権の交渉チームに加わっていたデニス・キリーエフを射殺している。クーデター後、SBUはCIAの下部機関だ。

 停戦交渉はトルコ政府の仲介でも行われた。アフリカ各国のリーダーで構成される代表団がロシアのサンクトペテルブルクを訪問、ウラジミル・プーチン大統領と6月17日に会談しているが、その際、​ プーチン大統領は「ウクライナの永世中立性と安全保障に関する条約」と題する草案を示している ​。その文書にはウクライナ代表団の署名があった。つまりウクライナ政府も停戦に合意していたのだ。

 停戦交渉を完全に壊したのはブチャでの虐殺だとされている。西側はロシア軍が行ったと宣伝してきたが、すぐ、その主張に対する疑問が噴出し始めた。西側の主張に反する証拠や証言が出てきたのだ。状況証拠はキエフ政権の親衛隊がロシアに敵対的態度を取らなかったと判断された住民を虐殺したことを示している。

 この問題が浮上する前、ロシア軍は停戦交渉の中でウクライナ政府と約束した通り、キエフ周辺から撤退を始めていた。3月30日にはブチャから撤退を完了、31日にはブチャのアナトリー・フェドルク市長がフェイスブックで喜びを伝えているが、虐殺の話は出ていない。ロシア軍が撤退した後、現地へ入ったウクライナの親衛隊が住民を虐殺したと考えられている。

 つまり、「ウクライナ平和サミット」は猿芝居にすぎない。






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最終更新日  2024.06.14 00:00:11


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