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スペイン人により「ミタ(強制労働)」という名目で、両親が命を捧げる鉱山に駆り出されることが決まった時、まだ幼かったコイユールに母親はその秘伝のシンボルとマントラを伝授した。すべてを伝え終わってから、母親はコイユールの目を優しくみつめて言った。「このことができるようになっても、それは、コイユール、おまえが特別な能力をもっているということではないのよ。それを忘れないでね。お日様やお月様やこの宇宙が、私たちのこの手を通して、そのお力を送ってくださっているだけなの。私たちは、ただそのお力を通すための道具としての役割を果たしているだけ。どんな人も、みんな、それぞれにいろんな役割をこの世界の中で果たしながら、目にみえない糸でつながって、支えあいながら生きているのよ。だから、このことをして、お金儲けに使ったりしてはいけませんよ。コイユールにはコイユールの、別の人には別の人の、それぞれの役割があって、そして、そのどれが偉くって、どれが偉くないとか、そんなことは全然ないのだからね。このことを、よおく憶えておいてね、コイユール。人は、みんな同じように価値のある存在だということを。」そして、母親はまだ幼いコイユールの頬を撫でながら、優しく微笑んだ。その時、母親の目に光っていた涙の理由を、まだほんの6歳だったコイユールには理解できなかった。しかし、今はその意味がわかる。母親は、もう二度と娘に会えないことを覚悟していたのだ。そして、今、こうして12歳に成長したコイユールには、母親の言葉の意味が心に染みるように理解できた。(お母さん…!)コイユールは、心の中で母親に呼びかけた。母親の優しい眼差しが再び瞼の裏に浮かび、目頭が熱くなった。やがてコイユールは、成長と共に、その療法を自分や祖母のためだけにでなく、他の人の要望に応じても徐々に使うようになっていた。何しろ貧しいインカの人々は薬草も満足に買えなかったし、コイユールは母のいいつけをよく守って、決してそのことによって金銭を受けることもしなかった。気休めにすぎないと言う者もあったが、幾らかは薬の代替療法としての役割は果たしていた。そんな彼女の噂は少しずつ集落に広がり、いつしかこの館の夫人の耳にも届いた。それ以来、夫人の求めに応じて、コイユールはこの夫人のもとを折々に訪れるようになっていたのだった。
2006.01.19
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コイユールは夫人の腰に両手を添えて、目を閉じた。そして、閉じた瞳の奥で、太陽と月を象徴する秘伝のシンボルをイメージした。それから、ある秘密のマントラを心の中で3回唱える。すると、頭上から、さっと白い光が自分の体の中に入ってくる感覚があり、そのまま光は両腕を降りてきて、夫人の腰に添えられた手の平から流れ出していくのが感じられた。コイユールは目を閉じたまま、手の平に意識を向けた。自分の手が白く光る感覚と共に熱を帯びてくるのが感じられる。部屋の中は水を打ったように静かになった。アンドレスは、二人の様子を興味深気にそっと見守った。夫人は目を閉じたままうっとりと脱力したように横たわり、コイユールの送っていくエネルギーのあたたかさに酔いしれているようだった。目を閉じて精神を集中しているコイユールの額には、うっすらと汗がにじんでいる。静かに手を添えるコイユールの瞳の奥に、遠い昔の母親の姿が甦ってくる。幼い頃から好奇心が旺盛だった彼女は、よく怪我をした。母親は「まあ、コイユール。またなの?」と呆れ顔をしながらも、いつも娘の傷口に優しく手を添えたものだった。母親の手はあたたかく、どんな薬草よりも効き目があった。それは単なる気のせいや気休めとは少し種類の違うものだった。頭痛、腹痛、腰痛などの痛みや怪我、病気、時には精神的な病にも効果があった。今で言うところの「手当て療法」に似ているかもしれない。それは、コイユールの家に代々伝えられてきた秘伝の自然療法であった。どちらにしても、コイユールにとっては、優しく母に触れてもらえるということが何よりもただ純粋に嬉しかった。
2006.01.18
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(そうか…!)と、コイユールは、はたと思い至った。フェリパ夫人はコイユールとアンドレスの仲の良いことをよく知っていたので、アンドレスが休暇でクスコから戻ってくる今日、わざわざ彼女を館に呼んでくれたのだろう。フェリパ夫人の優しさを感じ、コイユールの胸はあたたかい気持ちに満たされた。「入ろう。母上が、君の例の治療を待っているんだろう。」アンドレスは、そっとコイユールを館の門の中に促した。大理石でできた玄関先では、フェリパ夫人が待ちかねたように二人を迎え入れた。「アンドレス、お帰りなさい。コイユール、よく来てくれましたね。」「ただいま、母上。」腕を広げたフェリパ夫人の胸の中に素直に抱かれて、少年は母親の喜びに応えた。フェリパ夫人の瞳にかすかに涙が光っている。夫人にしてみれば、愛息子を「学校」という名目でスペイン人によって人質にとられているようなものであろう。息子の無事な姿に、どれほど安堵しているか想像は難くなかった。コイユールはそんな二人をまぶそうにみつめた。母親の腕に抱かれたのはもう何年も昔のことだ。そして、これからもそんな日はもう戻ってこないだろう。「さあ、コイユール、中に入ろう。」アンドレスはゆっくりと母親の腕から離れ、コイユールを部屋の中へ導いた。コイユールはだんだん自分がいることが申し訳ない心境になっていた。せっかくの親子みずいらずの再会なのだ。「でも…。」「コイユール、さあ、入ってちょうだい。」「あの、私、いいんでしょうか…。」「もちろんよ。あなたに来てほしくて、呼んだのですから。」夫人の上品で優しい笑顔に促され、コイユールはおずおずと豪奢な部屋の中に入っていった。「今日はお呼びくださり、どうもありがとうございました。お加減はいかがですか。」「まあ、コイユール、そんなに難しい話し方をしなくっていいのよ。」夫人は微笑んで、コイユールにソファを勧めた。そして、3人分のコカ茶をいれながら、夫人は腰の辺りに手を当てた。「冬の間からずっと痛んで困っていたのです。もともと冬場は痛みやすいのですけれど…。あなたに手を当ててもらったら、楽になるように思うの。」コイユールは頷いて、夫人にうつ伏せになるよう頼んだ。そして、服の上からそっと夫人の腰の辺りに片手を添えた。「この辺りですか?」「ええ、お願いするわ。」夫人はうつ伏せになったまま、静かに目を閉じた。
2006.01.17
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「今、ちょうどクスコから戻ったところなんだ。コイユール、元気にしていたかい。ここの冬は今年もきつかったろう。」アンドレスはいたわるように声をかけながら、コイユールの元気そうな姿にふっと安堵の溜息をついた。彼はインカ族の人々の生活の厳しさを、その現実を、知っていた。「私なら大丈夫。それより、アンドレスこそクスコではちゃんと落ちこぼれずにお勉強についていけているの?」コイユールはわざといたずらっぽく、少年の瞳を覗き込んだ。「あったりまえだろう。俺はこう見えても、あの学校じゃあトップなんだぞ。」アンドレスもいたずらっぽく笑ったが、その瞳には嫌味のない自信が溢れていた。「またあ!」と笑いながらも、アンドレスのことを身近に知っていたコイユールは、それが誇張ではないことを直感的に感じた。そして、御曹司に似合わず、昔から自分を「俺」と呼ぶ様子も変わっていないことに安心感を覚えた。アンドレスは数年前からクスコの都に送られ、そこで名家の子弟たちが学ぶための特別な学校で教育を受けていた。少年の身なりは、その学校の制服である。帯に飾られたスペインの紋章は、それ故のものだった。アンドレスが通っているのはスペイン人によって建てられたキリスト教の神学校で、亡きインカ皇帝または貴族の血をひくインカ族の子どもたちが学ぶ特別の施設だった。現在は25名ほどの男児たちが、スペイン渡来の知識人たちによって、キリスト教、ラテン語、スペイン語、ケチュア語(インカの公用語)などの高等教育を受けていた。もちろん、スペイン側にとって不利になるような危険な思想はこのような場所では触れることはなく、むしろ、スペイン側にとって危険となる政治的思想から特権階級の少年たちを隔離し、自分たちに都合よく教育するという狙いもあったのだろう。生活は学校付属の寄宿舎に入れられており、外界とは隔絶され、故郷に戻ってこられるのは年数回の長期休暇のみだった。コイユールはアンドレスの血統のことは何も知らなかったが、集落の噂でフェリパ夫人の家系には特別な背景があるらしいことは聞いていた。しかし、彼はまったくお高いところがなく、どんな身分の誰にでも分け隔てなく接した。コイユールは彼のそんなところが好きだった。
2006.01.16
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インカ族のフェリパ夫人とスペイン人の神父との間に生まれたこの少年は、混血児だけあって美少年で、肌の色は褐色がかってはいたがコイユールよりもずっと柔らかい色だった。髪もコイユールと同様に黒髪だったが、もっと茶色っぽい明るい色をしていた。インカ族特有の精悍さと、スペイン人のもつ華やかさとを兼ね備えた雰囲気がある。そして、もう一つ、これは人種とは関係のないものだが、その少年には奥底から湧き上がってくるような明るさ、というか、輝きがあった。それは単に人柄の朗らかさとかそういったことだけでは説明をしにくいもので、何が、ということを表現することは困難なのだが、この暗い時代を払拭するような、そんな、何か、を感じさせる雰囲気をもっていた。少年は、爽やかな緑色の西洋風なシャツにインカ風の緑色の短マントをつけ、腰には鮮やかな赤色の帯をしめていた。その帯には、スペイン軍の紋章が飾られていた。自然なウェーブが軽くかかった黒髪は直毛の多いインカ族とは趣が違うが、その髪はインカの少年らしく肩のあたりですっきりと切りそろえられている。そして、大きな鞄と数冊の書物を手にしていた。書物の背表紙には、スペイン語と思われる文字が見えている。コイユールは懐かしそうに少年をみつめた。アンドレスと会うのは、半年ぶりだ。「アンドレス、なんだか、大人っぽくなったわ。」目を細めるコイユールに、少年は少し頬を赤らめて、さっと視線をずらした。「コイユールは、全然変わらないな。」「もう!なにそれ、失礼ね。」コイユールはわざと口を尖らせて見せてから、思わず吹き出した。つられるようにアンドレスも笑い出し、それから、二人はお互いの目を改めて見返した。
2006.01.15
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翌日、畑の仕事を少し早めに切り上げて、コイユールはいそいそとフェリパ夫人の館に向かった。館は集落の中心部にあり、コイユールの住む閑散とした畑地から歩いて30分程離れたところだった。館のあるこの辺りまで来るとスペイン風の洋館なども点在しており、異国の風情が漂っている。集落の中心にはスペイン人によって築かれたキリスト教会があり、教会の周りには豊裕層が利用する商店が数件並び、それを圧倒する勢いで露店が連なっていた。けっこうな賑わいである。また、その界隈では、いろいろな人種を見ることができた。一番多いのは、もちろん褐色のインカ族の人々だが、それ以外にもインカ族とスペイン人との間に生まれた混血児、そして、当然のように白人がおり、さらには黒人もいた。これらの人種の差はこの国の階級にそのまま反映されており、この物語にとっても、おいおい重要な部分になってくるので、少々詳しく説明しておく必要があろう。現在のこの国の階級は、5つに分かれている。つまり、ヨーロッパからやってきたスペイン人、ペルー生まれのスペイン人で『クリオーリョ』と呼ばれる人々、混血児、『インディオ』と呼ばれるインカ族の人々、そして、黒人の5つである。この18世紀末の人口は、上の順に、おおよそ30万(スペイン人)、300万(クリオーリョ)、500万(混血児)、700万(インカ族)、80万(黒人)である。スペイン生まれの白人は副王、総督、代官などの役職、大司教、司教をはじめとする高位の僧職、有力な商業を独占していた。もちろん、大勢の貧乏人もいたが、自分たちがスペイン生まれであるという理由だけで、彼らは植民地生まれの白人をひどく見下げていた。一方、殖民地であるペルー生まれの白人(クリオーリョ)は純粋の白人であり、ある意味では植民地を実際に築いてきた人々の子孫であったにもかかわらず、スペイン生まれの白人より、はるかに下位の階級を構成していた。彼らは政府や教会の端役につくのがせいぜいで、あとはのらりくらりと遊び暮らすのが普通だった。ちなみに、武器と馬を所有、あるいは使用することができるのは、これら白人だけである。さらに、混血児は複雑な立場にあった。人口からいえばクリオーリョ(ペルー生まれの白人)よりも多く、スペインの征服以来、白人の男とインカ族の女との間に生まれた不義の子、およびその子孫であった。白人の社会にも、インカ族の世界にも入りこめないため、多くは商人や行商人となったり、役所や僧院のどうでもいいような役についていた。なお、黒人についてであるが、彼らはもともと奴隷としてアフリカからこの新大陸まで白人によって連れてこられてきた者たちである。しかし、人数的には、このペルー界隈にはそれほど多くはなかった。この黒人の境遇についても語るべきことがあるが、この物語では深くは入らずにおこうと思う。そして、最後に忘れてはならないインカ族についてだが、この時代、彼らは様々な環境に暮らしていた。町に出て白人の召使い、下級労働者、職人になった者、行商人の手下となった者などもあった。とはいえ、その大部分は、もう少しこの物語が進んでから登場する彼らインカ族の首領(カシーケ)のもと、コイユールたちのように細々と農業に従事していた。また、その農法も、インカ時代とあまり変わらぬ素朴なものだった。しかし、インカの時代と大きく異なり、彼らはひどく搾取され、虐待され、本来の文化も信仰も奪われ、物理的にも精神的にも深い傷を負っていた。さて、そろそろ物語をもとに戻そう。コイユールがそんな様々な人種の往来する路地を進んでいくと、ほどなくフェリパ夫人の館が見えてきた。館はちょうど教会のすぐ傍にあった。スペイン風の立派な2階建ての広々とした洋館で、白亜の壁に美しいオレンジ色の煉瓦屋根が映えていた。大きな窓は初夏の花々にふちどられ、庭は使用人によって良く手入れされ、刈り取られたばかりの草の匂いが漂っている。館の前に立ちながら、コイユールはその見事な建物を見上げた。華やかな洋館に少女らしいときめきを覚えながらも、複雑な心境が湧き上がってくる。自分たちの生活とのあまりにも隔絶した世界、そして、本来この地にあるべきものではないという違和感。あるいは、憤りにも似た感情がかすかに動く。しかし、それを振り払うようにして彼女は門の方に進みかけた。と、その時、背後で張りのある明るい声が響いた。「コイユール!!」彼女が振り向くと、そこには一人の混血児の少年が朗らかな笑顔で立っていた。「アンドレス!」コイユールからも、思わず笑顔がこぼれた。
2006.01.14
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コイユールはささやかな夕食の皿を片付けるために、席を立った。「そういえば、コイユール!」沈黙を破ったのは老婆の方だった。コイユールは皿を洗う少量の水を桶から汲みながら、祖母を振り返った。「なあに?」水は刺すように冷たく、指先にしみる。「さっきフェリパの奥様の使者が来て、またおまえに館まで来てほしいと言っていたよ。」「本当?!おばあちゃん、行ってもいい?」コイユールの表情がぱっと明るくなったのを見て、老婆は少し苦い笑いをしながら、やれやれといった様子で軽く両手を広げた。「コイユール、お前は、あのお屋敷に行くのが好きなんだねえ。ほんとに…。」「…ん。」コイユールは祖母の気持ちを察して、視線をそらし、それ以上はその話題はやめて皿をゆすぎ始めた。『フェリパの奥様』と呼ばれたのは、このティンタ郡のあたりではかなりの名家と言われる一族の奥方で、インカ族の女性だった。ただ、その夫人はスペイン人の神父と結婚していたのだった。祖母にしてみれば、スペイン人と結婚したその女性が、インカ族にとっての裏切り者と思えていたのも無理からぬことであった。しかし、もしコイユールの母親が生きていたら、ちょうどフェリパ夫人と同じくらいの年齢だったろう。彼女にとって、その優しい夫人に母親を重ねて見てしまうこともまた、とめられぬことであった。そして、フェリパ夫人の館には、もう一つの大きな楽しみがあった。フェリパ夫人とスペイン人の間にはアンドレスという混血児がいて、ちょうどコイユールと同じ12歳の多感な少年だった。フェリパ夫人と知り合って2年ほどになるが、その館でたまたまよく顔をあわせたその少年とは、なぜかとても気持ちが合った。今では、二人はまるで幼な馴染のような親しい間柄になっていた。もちろん、そんなことは祖母には言えなかったが…。(アンドレスはどうしているかしら。もう半年くらい会ってないもの…。)皿の綺麗になったことを蝋燭の灯りにすかして確かめながら、祖母に悟られないよう、コイユールはそっと微笑んだ。
2006.01.13
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そんなインカの人々の遭遇した苦しみの中で、最大のものはミタ(強制労働)であろう。ミタはもともとインカ帝国の制度で、公共事業のために人民を賦役に出すことであった。スペインはこの制度を悪用し、植民地の経済開発の一つの要石とした。もともとのインカの法では、15日間の家事労働のミタ、3~4ヶ月の牧場でのミタ、10ヶ月間の鉱山でのミタが定められており、彼らは仕事に応じて給料をもらえるはずであった。また、ミタに出なければならないのは、全人口の7パーセントにすぎなかった。しかし、そのような緩やかな規則は、この時代には通用しなかった。被征服下のこの時代には、「ミタ」とは主に鉱山での奴隷的な強制労働を意味した。かつて栄華を誇ったインカの地は今やスペイン王の持ち物の一部とみなされ、この地の民もまた、スペイン王の所有物の一部にすぎなかった。かくして、ペルーには、かつての「黄金帝国」の名にふさわしい、金銀を豊かに産出する鉱山が実在した。スペイン人は、その鉱石の採掘、貴金属の抽出に躍起となり、そのための労働力としてインカの人々を酷使したのだった。もともとのインカの法で定められた期限も、給料もあったものではなかった。それどころか、想像を絶する過酷な労働、不衛生で劣悪な生活環境のために、鉱山での強制労働に出たもので生きて故郷に戻ってこられる者は殆どいなかった。不幸にも鉱山でのミタに送られることが決まった人々は、家財をすべて売り払い、決死の覚悟で故郷を後にした。そして、実際に、二度と生きて戻ってくることはなかった。スペインに送られた金銀は、文字どおり、インカの人々の血と涙の結晶だったのだ。コイユールの両親もまた、彼女が6歳の時に鉱山のミタに駆り出され、祖母の元に彼女を託したまま二度と戻ってはこなかった。以来ずっとコイユールは、祖母と二人、小さな畑を耕しながらひっそりとこの集落で暮らしてきたのだった。
2006.01.12
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インカ帝国が征服されて以来、インカ族の人々は征服者によって酷使され続けていた。スペイン生まれの白人たちは、土着のインカ族の人々を「インディオ」と呼び、激しく蔑視した。その人種的偏見は甚だしいものであった。被征服下の人々は、人としてまともに扱われていなかったと言っていい。過酷な税の取立て、農産物の一方的な安い買いつけ、水利権の剥奪、織物工場や鉱山での想像を絶する過酷な強制労働など、彼らの苦しみの種は尽きることがなかった。納めなければならない税の種類もその額も、尋常ならざるものだった。まず、スペイン王には生産物の5分の1を税として納めなければならなかった。その他にも、教会に納める10分の1税、不動産税、貿易税、印紙税、売上税など上げればきりがなく、正直に納めていたら手元に何も残るはずはなかった。それほどの窮状を知りながらも、土地の代官に任命されたスペイン人たちは、さらに搾取を重ね、彼らの上役人の目をかすめて違法な二重課税を公然と行った。そして、二重にかすめとった税を、自らの懐に収め、私腹を肥やした。上役人はもちろんそのことを知っていたが、それを戒めるどころか、当然のことのように代官の悪行を黙認していた。
2006.01.11
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すりつぶしたチュウニョを口に押し込んでいる祖母の横顔に目をやった時、コイユールは、幼い日に幾度もきかせてもらった祖母の昔語りをふいに思い出した。コイユールがまだ幼い頃、老婆はよく彼女を膝に抱きながら、昔語りをしていたのだった。『昔、この国には、黄金や銀や様々な宝石が、たっぷりあった。皇帝様や貴族たちは、黄金の耳飾をつけて、色とりどりの美しい刺繍のほどこされた服をまとい、宝石のきらめく飾り帯をしめていた。神殿の壁には黄金が張られ、その庭では、黄金のトウモロコシの間で、黄金製のリャーマが遊んでいた。庭には、砂のかわりに黄金の粒がまかれていた。』幼いコイユールは瞳を輝かせた。『おばあちゃん、それって、いつのこと?』『今から、200年くらい前までは、この国はそんな様子だったのさ。』『でも、今とは全然違うわ。』『黄金の国の噂は、海のずっとむこうのヨーロッパっていうところまで伝わったのさ。それで、その黄金の国を手に入れたいという奴らが船に乗ってやってきた。奴らは、インカの皇帝様やこの国の人々をだまし、皇帝様を捕らえて殺しちまった。そうして、この国をすべて自分たちのものにしちまったのさ。』そこまで話すとたいてい老婆は口をつぐみ、心に何かをおしこめたような目をして、ただ黙ってコイユールの頭をいつまでも撫でていたものだった。
2006.01.09
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すっかり日が落ちて夜の帳がおりる頃、コイユールは自分の住む集落に戻ってきた。先ほど神殿で見た光景の鮮烈さに、まだ頭がぼうっとしている。この辺りは、日が落ちると急速に気温が下がる。コイユールは両手で腕を抱くようにして、家路を急いだ。すっかり体が冷えきっている。まもなく彼女は、アドベ(干し煉瓦)造りの小さな小屋にたどり着いた。小屋には窓は無く、ただ一つ台形の入り口がついている。インカ時代とあまり変わらぬ、昔ながらの素朴で質素な造りの家だった。インカ当時と異なっていることといえば、入り口にかろうじて板の扉がついていることくらいであろうか。インカの時代には、入り口には布を垂らしているだけだったのだ。コイユールは入り口のところで軽く衣服についた草をはらってから、夜の冷気から逃れるように、急いで扉の中に入った。「ただいまあ。」かじかんだ手をすり合わせている彼女を、優しい笑顔の老婆が迎えた。コイユールの祖母である。老婆は小柄な体に古衣を何枚か重ねて身にまとっているが、灯りとりの蝋燭と小さく燃える焚き火くらいしか火の気の無いこの部屋では、寒さは骨まで染みているに違いなかった。黒ずんだ褐色の手や顔には深い皺が刻まれ、つやの無い白髪を後ろで一つに束ねている。小屋は小さな一部屋の造りで、床には古びた布が敷いてあり、あとは木の質素なテーブルと椅子があるくらいで、他に家具らしいものは見当たらなかった。「どうだったね。神殿に行ってきたんだろう。」老婆は穏やかに問いかけながら、いつもと変わり映えのない夕飯の皿をコイユールに手渡した。その手首はひどくやせ細っており、まるで枯れ枝のようだ。「うん…。」コイユールは曖昧に返事をしながら、その色あせた皿を受け取った。皿の上には黒っぽい色をしたチュウニョが、もうしわけ程度に乗せられている。それは野ざらしにしたジャガイモを霜で凍結させ、真昼の強い日差しで解凍させた保存食品で、この地域の貧しい農民たちの一般的な食糧である。「ねえ、お婆ちゃん。昔のインカ帝国の皇帝様って、今はもう、いないのよね…?」独り言をつぶやくようにそう言って、コイユールはぼんやりと宙を見つめた。老婆はそんな彼女の様子には頓着せぬ様子で、皿の上に残ったチュウニョの粒をすりつぶした。「そうさね。ずいぶん昔に、スペインの奴らに殺されちまったからね。」
2006.01.05
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その時、神殿の柱の陰でふいに人影が動いた。コイユールは、はっと息を呑んで、反射的に草かげに身をかくした。(誰かいる?!)人影はゆっくりと柱の横を通って、人気のない神殿内から一歩外へ踏み出してきた。そして、人影は神殿の柱に片手を添えたまま、はるか山の端に沈もうとしている太陽の方を眺めやった。西に傾いた黄金色の太陽の光は、雪を頂いた山頂を染め上げながら、ひときわまばゆく輝いた。その瞬間、そこにいる人物の姿がくっきりと照らし出された。それは、凛々しい風貌のインカ族と思われる男性であった。そのひきしまった肢体に巻きつけられた黒ビロードのマントが、風に翻っている。帯をしめた腰のあたりまである長い黒髪も、日暮と共に冷気を増した風の中に舞っていた。膝と靴のあたりにある金の留め金が、陽光を反射して、鋭い光を放つ。端正な横顔に西日が降り注ぎ、その瞳が金色に反射しているのが遠くからもわかる。切れ長の目もとには力がみなぎり、光を受けて、まるで炎が燃えているようだ。それは激しく、情熱と怒りに満ちているようにも見え、しかし、どこか悲哀を帯びていた。日が西にさらに傾くにつれて、朱色が増し、その人影をいっそう染め上げていく。まるで全身が黄金色に燃え上がっているようだった。コイユールは目をこすった。心臓の鼓動が高く鳴り響いている。幻覚を見ているのかもしれない。一度、ギュッと目をつぶって、頭を振り、そして、ゆっくりと目を開けた。そして、さきほどの人影の方にもう一度目をやった。そこには、誰もいなかった。ただ、上空を一羽のコンドルが高く飛び去っていった。
2006.01.04
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この付近で特記すべきことは、ビラコチャ神殿があることである。ビラコチャ神はケチュア語で「創造主」を意味する。アンデス地帯で古くから信仰されてきた神であり、インカ最大の神でもあった。インカの初代皇帝はビラコチャ神の御子であるとも言い伝えられていた。コイユールが目指したのは、このインカ最高神の神殿である。スペイン人に侵略された後はインカの人々はキリスト教への改宗をせまられ、表立ったビラコチャ神への信仰は続けられなくなっていた。かつては様々な聖なる儀式が執り行われたインカの精神的なシンボルでもあったこの神殿も、今は山中にひっそりと眠るように佇(たたず)んでいる。しかし、インカの人々の魂の中には、今もビラコチャ神への熱い信仰心が確固として生きていた。このインカ最高の神、創造主ビラコチャに捧げられた神殿を見るたびに、コイユールの心は、往年のインカ帝国の栄光を想って熱くなった。征服下の時代に生まれたコイユールにとって、それは想像するしかないものであったが、この神殿を訪れるたび、祖先の記憶が甦ってくるような感覚を覚えるのだった。物心ついてからというもの、毎年、雪解けを待って、誰よりも早くこのビラコチャ神殿を訪れることが習慣のようになっていた。そして、神殿は今年も静かにそこにあった。神殿の基底部は、蟻一匹通さないほどの精緻な石組みでしっかりと支えられていた。太い堂々とした石組みの柱を備えた堅固な建造物は、厳かな雰囲気に包まれている。夕暮れ時の黄金色の光に照らし出されるその神殿は、ひときわ美しいことをコイユールは知っていた。凛とした冷たい風に吹かれ、西日に照らし出された人気のない神殿は、長い漆黒の影をひき、人をよせつけない神秘的な威光を放っている。神殿から少し離れた場所で足を止め、コイユールはその雰囲気に思わず息をひそめた。その犯しがたい神聖さに圧倒されながら、インカの祖先の熱い魂が、体の奥底から湧き上がってくるような激しい感覚にとらわれる。
2005.12.29
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時は1774年のペルー。スペイン人によってインカ帝国が侵略され、約200年の時が経っていた。そのペルーの南部高原に、かつてのインカ帝国の旧都クスコがある。そのクスコの南方140キロほどの所に、この物語の最初の舞台となるティンタ郡がある。この郡は南北に180キロ、東西に90キロほどの広さで、美しい谷を中心に、肥沃な農地が発達している。この郡の人口は約2万だが、その大部分はインカ族の末裔であり、スペイン人から「インディオ」と呼ばれる人々であった。コイユール(インカの言葉であるケチュア語で女性の名:「星」を意味する)は、集落から離れた山道の高台に立ち、この谷の背後に広がる美しく清冽な山々をまぶしそうにみつめた。はるかに連なるコルディエラ山脈のビルカノータの山々がそびえたち、その頂きには白い雪がまだ厚く残っている。季節はまもなく初夏になるが、アンデスの高地の空気は冷たく、そして、とても澄んでいた。このあたりの気候はアンデスの中でも、特に厳しく、寒いのである。コイユールは涼しげな目元をした、今年12歳になる少女だった。青銅色に見えるその褐色の肌の色は、彼女がインカ族の末裔であることを示していた。つややかな長い黒髪を三つ網にして、首の前に垂らしている。色とりどりの刺繍の入った長いスカートは、この地域の一般的な平民の普段着である。スカートと黒髪が、まだ冷たい初夏の風にパタパタと音を立ててなびいている。やっと谷の氷が解け始め、緑の草が芽吹くこの時を待っていた。山を見やっていた、その黒い澄んだ瞳を前方の道に戻して、少女は再び人気のない山道を登り始めた。「急がないと、夕日の時間に間に合わなくなってしまう…。」一人つぶやくと、小走りに道を登り始めた。集落を出て、もう1時間以上は山道を進んできただろうか。高地の薄い空気の中では、息が少し苦しくなってくる。しかし、この谷で生まれ育ったコイユールは、それほど苦にすることもなく、身軽な足取りで先を急いだ。 はるか谷の下には、ビルカマユ川が青く輝きながら蛇行し、流れている。このビルカマユ川は、やがてマチュ・ピチュの傍らを通り、はるか彼方の海に注いでいく。少し傾き始めた太陽の光が川面に反射して、黄金色に輝いている。遠く、山鳥の声が響いていた。
2005.12.24
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