ぶ や せいげつ はやし らざん
武野の晴月
林 羅山
ぶりょう しゅうしょく つき せんけん こうや へいげん は かいぜん
武陵の 秋色 月 嬋娟 曠野 平原 晴れて快然 たり
せいせい てんぱ てつせき な いちりん せんりくさ てん つら
青々を輾破するも轍迹 無し 一輪 千里 草 天に 連なる
詩文説明
此処高台から見渡すと、江戸の郊外、武蔵野の原は、もうすっかり秋景色となり、月の光もさやかで麗わしい。広々とした平野は、昼も欺くばかりの明るさで晴れ渡っていて清々とした気持である。青々とした草を踏み散らした後もなく牛馬や轍の跡もない。一望の広々とした草原は天と連なってるように見え、空にはただ一輪の月が高くかかっているばかりである。
高台から武蔵野の郊外を見降ろすと広々と平原が広がり昼のような明るさで景色は秋色。
空には一輪の月が懸っていてすがすがしい気持ちになる。
(当時の武蔵野の平原の景色は判りませんので写真はイメージです。実在ではありません)
武蔵野の原の「西行物語」のエピソード、西行が老僧と出会うシーン。
(林羅山の武野の晴月とは関係ありません。
(
武蔵野の原を描いた様子です)。
作者 林羅山 ( 1583 ~ 1657 )天勝 11 年~明暦 3 年。没年 75 。
江戸初期の儒者。幕府儒官。名は忠又は信勝。幼名は菊松丸、通称また三郎。法号は道春、羅浮子とも号した。
京都の人。はじめ建仁寺の僧だったが、早くから朱子学の研究に志し、藤原惺窩の門人となった。
1605(
慶長
10
年
)
徳川家康に仕え以後家綱まで4代の将軍の侍講。外交文書・諸法度の草案をつくり、幕政の整備に貢献した。
1630(
寛永
7
年
)
上野忍ヶ岡に家塾を建てた
(
後の昌平黌の基となる
)
。「大学抄」「大学解」『論語解』など多くの漢籍の訓点・出版、経書講述など大きな足跡を残し、朱子学の見地から日本史の叙述を試み、『振動伝授』『本朝神社考』などを著わし日本固有の信仰と朱子学説との調和を図った。『本朝通鑑』『羅山文集』など他にも多数ある 。(日本史辞典・角川)