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しゅんらい いのうえこんこう 春 雷 井上 昆江りゅうがん かぜしょう えんし なな ようや み ちじょう あめあさ ごと 柳岸 風 生じて燕翅 斜めなり 漸く看る 地上 雨 麻の如しいんいん らいき なんざん ふもと よ さ しゅんし まさ はな ひら 殷々たる雷起 南山 の 麓 呼び醒ます春枝 将に花を発かんとす 詩文説明柳が植えてある池の岸辺に、突然強い風が吹き付け空飛ぶ燕の翼も斜めになるほどである。池の上の雨が麻のように乱れて水面を叩くのを漸く見ることが出来る。盛んに発生する雷は南山の麓一帯を駆け巡っている。春に花を咲かせる枝々を呼び起こし、まるで花々を咲かせようとしているようだ。1、柳の木の周辺を飛んでいる燕(合成) 2、南山の山々(想定)3、柳の木がある池の岸辺に風雨が強く吹きつけ、飛んでる燕の翼も斜めになるほどで ある。 (合成加工)南山の麓では春雷が発生し春に咲かせる枝々を呼び起こし、まるで花を咲かせようとしているようだ。 ※上の2の南山(想定)をさらに加工 (合成加工) 作者 井上昆江名は栄・貞勝。昆江は号。文政10年(1827)筑後(福岡県)。御井郡日比生村旧三井郡大城村日比生で生まれる。この年、父知愚(直次郎)は、広瀬淡窓より開塾の認可を得て『柳園塾』を開く。天保14年(1834) 昆江17歳の時、日田の広瀬淡窓の咸宜園に入塾。弘化4年(1847)帰郷。師淡窓より「託道之言」あり。父を援けて塾生を指導。明治9年久留米師範学校教師拝命。明治18年「咸宜園」に招聘さる。明治21年8月26日逝去、享年62. ※ 都合によりしばらく休ませていただきます。ありがとうございました
2017年04月06日
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ひめじじょう まつぐちげつじょう 姫路城 松口 月城 てんか だいいち そ な あ こんにち とうりん むげん じょう 天下 第一 其の名在り 今日 登臨 無限の情 てんしゅ そうそう くも お ひい るいへき げんぜん ばんぺい はば 天守 層々 雲を帯びて秀で 塁壁 厳然 万兵を 阻む ぎんあん はくば せきじ ゆめ つえ とど あお み しらさぎじょう 銀鞍 白馬 昔時の夢 杖を停めて仰ぎ看る 白 鷺 城 詩文説明姫路城は昔から天下第一の名声を誇っている名城である。今日登って下界を見下ろし無限の感慨に浸った。幾層にも重なる天守閣は雲をも突き抜け秀逸である。塁壁は幾万の敵も近づけない程の威厳に充ちている。銀の鞍の白馬にまたがり駆け巡る武将の雄姿の昔時が思いながら、私は杖をとどめてこの崇高で美麗に満ちた白鷺城を仰ぎ眺めている幾層にも重なる天守閣は雲を突き出て秀麗。(空色は白色で変化なかったので空色と雲は書き込んだものです3枚合わせ)道路沿いから堀に浮かぶ石垣。(大手門は右奥方で此処からでは見えません、かなり歩きます2枚に移し合成)1、大手門をくぐり天守閣に行く途中の壁には三角の窓穴が数ヶ所あり昔は鉄砲隊が敵 を撃退する為の窓の様です。(円内は鉄砲隊が三角穴から攻めてくる敵を狙い撃ち)2、天守閣から下を見おろした写真。(3枚を合成)白亜の要塞全景(右に説明)1、天守閣6Fには神殿があります2、横の建物につながる長い廊下を百間廊下と云って途中にある城中からの非常口。部 屋も沢山有ります(百間の間は門の中の日は月ですが昔の字であり使えません)3、百間廊下の途中の1室内に、2代将軍徳川秀忠の娘千姫と本田忠正の嫡男忠刻(夫 婦)の写真用の顔穴人形。4、番町皿屋敷で有名なお菊井戸跡(底はから井戸でなく水がきらきら光って深い) 作者 松口月城(1887~1981)明治⒛~昭和56年)明治20年福岡市安徳村今光(現、那珂川町)に生まれる。名は栄太、月城は号。医師、漢詩作詩家、熊本医専(現熊本大学医学部)卒。18歳にして医師となり世人を驚かせた秀才。宮崎来城に漢詩を学び、医師として活躍する傍ら作詞を続け平易で情熱的な漢詩作家として勇名を馳せ、書画共にも巧み。昭和56年㋆16日没せられた。享年95.
2017年03月02日
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お う か くさばせんざん 櫻 花 草場 船山 せいど ぼたん いたづら みずか ほこ し とうかい めいは あ 西𡈽の 牡丹 徒 に 自 ら 誇る 知らず東海に 名葩 有るを じょせいとうじつ せん もと ところ み しょううん な こ こ はな 徐生 当日 仙を求めし処 看て祥雲 と 做せるは是れ此の花 詩文説明 西𡈽(中国)では牡丹を国花とし、この花こそ真の天下の花の王者として自慢しているけれども、東海の日本に、よりすぐれた名花が有ることを知らないからである。徐福が秦の始皇帝の命を受けて仙人のすみかを尋ね歩いた当時、山に瑞雲のたなびくと見たのは、実はこの花(桜花)であった。「日本漢詩・明治書院」 1、西安に華麗に咲いている牡丹の花(中国ではあらゆる花の中で一番美しいとされている花2、佐賀県の徐福の里「徐福長寿館」の館内に掲げてある漢詩。3、徐福長寿館内にも大きな徐福像がありますが、裏の薬草園の近くに立っている徐福像(和歌山やあちこちに徐福が上陸したという伝説があり像がありますが園内の徐福は青森県の徐福像) 筑後川の河口にも像が立っています。1、佐賀県の「徐福物語」右上は3000人(1000人ともいう)の童男童女をつれて不老長寿を求めて蓬莱山へ向かったという絵画、中央が徐福(徐市)。1、日本で一番美しい花桜花 2、富士山を背景にした桜 3、京都の桜1、始皇帝(左)の命により、蓬莱山に仙人が住むという(三神山)あり、それを探り1000歳といわれる仙人(安期正)を伴って帰還する為の出資を求め東国へ旅立つ。(中国琅邪台)。日本にたどり着き二度と帰還しなかった。2、徐福上陸の地(佐賀県諸富町)。3、上陸後井戸を掘ってその水で手を洗った「御手洗井戸」(佐賀県諸富町)。4、佐賀県の徐福の里「徐福長寿館」作者 草場船山(1821~1889)名は廉(やすし)字は立大、通称立太郎、船山は号。草場佩川の子。現在の佐賀県多久市に生まれた。江戸・京阪を巡り、古賀侗庵・篠崎小竹・梁川星巌に師事した。歳19勉学から帰国し、郷黌仁教え、頗る名声有り、のち京都に出て諸有司と国事を談じ、ついで巌原藩の聘に応じてその学政を司り、明治の初め、三度上洛して学徒に授けた。明治22年病没、享年69。
2017年01月28日
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はつゆめ 初 夢 作者不詳 なみ しず かめ あそ えほう うみ しちにん の あ ほうらい さお 波 静かに亀 遊ぶ恵方の海 七人 乗り合い 蓬莱に 掉さす べんてん おんぎょく かみがみ ま いちや しゅんぷう ゆめ い きた 弁天の 音曲 神々 舞う 一夜 春風 夢に入って来る 詩文説明 海は青畳を敷きつめたように波は平らかである。恵方の方角から宝船がやってきた。乗り込んでいる七福神は、皆にこにこ顔で、弁天の美しい音色に合わせて、楽しそうに踊っている。 ・恵方=吉方。 ※ 七福=律儀・有福・威光・愛嬌・大量・人望・寿命 ・七福神=大黒天・恵比須・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人・布袋。 ・蓬莱=中国の神仙思想の三神仙の一つ。不老不死の仙人が住むと伝えられる。 ・作者不詳(一部に本宮三香作とするのもある) 1、名も静かで亀遊ぶ(酉年にて鶴・鶏も配す。 2、七福神がやってきた(後ろの島は福岡県宗像の沖ノ島・神の島)3、弁財天が演奏する音色に合わせ神々が踊る(巫女さん)
2017年01月01日
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さいびうた はくいしゅくせい 采微の歌 伯夷・淑斉 (前、伯夷淑斉を詠ずの関連) か せいざん のぼ び と ばく ばく か ひ し 彼の西山に登りその蕨を采る 暴をもって暴に易えその非を知らず しんのう ぐ か こつえん ぼっ われいず てきき 神農・虞・夏 勿焉 として没す我 安くにか適帰せん あ あ ゆ めい おとろ 于嗟 徂かん命の 衰えたるかな 詩文説明 住むべき世界を失った我らは、地の果てなる首陽山に隠れて、蕨をとって露命を繋いでいる。今世を挙げて謳歌している周王朝は、実は殷の暴虐を倒した新しい暴力に過ぎないのではないだろうか。武王を中心とする周室の者達もその行動の本質が実は悪であるのも知らずに誇っているのだ。周の世、そこには神農氏・堯、舜、禹の時のような、あの禅譲の薫り高い心は微塵も無いのではないか。その心こそ真の安らぎであるのに。もはや我らの住む世界ではない。ああ、死のう、天命も衰えたものよ。 1、武王が殷討伐に出かける処に出会った二人は討伐を諫める。2、平和な政治を行った神農像(伝説の王、農業の神と称され人類に農業を教えた)と 3、禹王像(歴史の残る夏王朝初代の王) ● 堯・舜は五帝のうちの1人。神農、堯、舜、禹の聖世を万民は慕った。 ★伯夷淑斉は暴虐に暴(武力)で立ち向かうのはやはり暴であるといい人の道に背いたものあるとい う。 我々の住む世界ではないと人里離れた山奥で蕨をとって食し、露命を繋いだがやがて餓死した。 1、殷墟の小屯村を示す石碑(河南省安陽) 2、西周王朝に功績のあった周公廟(陝西省岐山県)3、黄河の北にある首陽山麓の伯夷淑斉墓。(山西省永済郊外) 園内は左が伯夷像。右淑斉像。 (史記・十八史略・図説「史記」の世界) 伯夷と淑斉小国の王子達。領主の長子と末子として生まれ父は淑斉を跡取りに決めていた。父死亡後淑斉は兄を差し置いて相続者になるのは人倫に悖ると兄伯夷に薦めるが伯夷は父の命に背くことこそ人倫に悖ると頑として聞き入れず兄は国を出て行く、淑斉も後を追い、家督は中子に落ち着いた。2人はあまりにも高潔な性格の為どこへ行っても受け入れられず流浪を重ねた。人徳のある西伯(武王の父)風聞を耳にして訪ねるも西伯は既に死亡していた。そんな時武王が殷討伐に向かうのに出会う。あなたは父上(西伯)が亡くなられて間もないのに戦いに向かうとは孝の道に反しますと諫めた2人は惨殺されそうになったが太公望が2人は立派な方々ですと援護して助かったが世を嘆き首陽山へ隠遁しわらびを食としてたが餓死した。(2人にとっては周王朝による平和は天の道、人の道に背いて樹立された偽物で、周を宗主と仰ぐ世は我々の住む世界ではない)と。死の直前にこの歌を残した。
2016年12月01日
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はくい しゅくせい えい やまだほうこく 伯夷 淑斉を詠ず 山田 方谷 しょう き けいな つい じゅうい うちゅうぼうぼうたれ ひ し 商を 翦るの計成って竟に戎衣 宇宙 茫茫 孰か非を識らん きみさ ちゅうげんいく しゅうぶ しゅんぷうふ お しゅよう わらび 君去って中元 幾 周武 春風 吹き老ゆ首陽の 蕨 詩文説明 人民を悪政から救うため殷(紂王)を伐たなければと周の大王(古公亶父)以来謀を巡らしていたが、その曽孫武王が討伐した。茫茫たる広い宇宙にその非をを知り罪を鳴らした者はなかった。ただ、伯夷淑斉兄弟が去って後、中原本土には、幾人の武王が出現したことか。かってその命を繋いだ首陽山の蕨も、その後は春風に老いるばかりで、これを採る人もいない(節義の土が出ない)。 ※ 詩は武力をもって世を変えることの非と体を張ってそれを阻止する者がいないのを嘆く。 1,州王(発)殷の紂王を伐つ 2,周の武王 3,伯夷像 4,淑斉像(「図説・史記の世界」 1、洛陽郊外首里山このあたりに伯夷、淑斉の廟があったという。2、殷王紂の墓と伝わる墳丘。河南省淇県。3、発の父、西伯(太公望を採用した人文王・)が紂王に幽閉された菱里城遺蹟。 (なお聖人(太公望)を夢見たという人は西伯(文王)の祖父、古公亶父。『図説・史記の世界』 ※ 紂(殷王)は1婦人(妲己)の容色に惑溺して唯々その意に従い、淫虐の限り(酒池肉林)を尽くし、 贅沢三昧、意に反する者には炮烙の刑を行った。『史記・十八史略)』●酒池肉林=酒糟で丘を作り池には酒を流し池の周囲に肉林を作り裸の男女を遊ばせる)。●炮烙の刑=庭に穴を掘り穴の上には油を塗った銅柱を立て罪人を登らせ、穴下には焚火を燃やし罪人は堪らず穴に落ち焼け死する。妲己は笑いながら見物。 武王はこの様な紂を征伐したが伯夷淑斉は「暴にむくいるに暴(武力)をもってする武王のやり方に聊かの得も認めないと抗議。信義を守って周の粟を食らわず」二人は首陽山に隠れ蕨を採って命を繋いだが遂に餓死した。周王(武王発)は「天道是か非か」と発した。(天は果たして善人の見方だろうかと) 作者 山田方谷幕末繭山藩士。名は球。字は琳卿。号は方谷。文化2年(1805)、備中阿賀郡西方村に生る。5才で新見藩儒、丸川松陰に学び、21歳で松山藩主・板倉勝職に召出され、藩校有終館会頭、30歳、佐藤一斎に師事、40才、藩財政元締、久坂玄瑞・河合継之助と友好、明治6年、岡山閑谷學の学事を督した。明治10年病没。享年73.
2016年10月31日
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こ ごう こせき ほそあいとなん 小督の古跡 細合斗南 ちょうき せんと く こうそん あん みと しょうふう きょく い しげ 寵姫 潜匿 す此の郊村 暗に認む松風 の 曲 に入りて繁きを さんじょう こう み まゆ ごと つき なおお ちゅうし さいもん た 山上 恍として看る黛の如き月を 尚思う中使 柴門に立つを 詩文説明 ここは小督局が隠れ住んだという人里離れた郊外に今も残る屋敷跡。耳を澄ますと、暗がりの中に松風が搔き鳴らすのか琴の調べが聞こえてくるような気がする。山の上には美しい眉のようなほっそりした三日月が霞んでいて、また当時の柴造りの戸口には宮中から遣わされた使者が立っているようである。 1、【小督塚】小督仮住居跡、 2、高倉天皇の命で小督の琴の音を頼りに探しに嵯峨野まで来る、 3、暗がりの中、松籟を聞く。 (松の写真は三保の松原を嵯峨野の松に身立て、風と松毬を加え、昼間を暗くしてます(合成) ※【小督塚付近の風景】 1、京都嵐山渡月橋にある「琴聴橋。駒留橋ともいう」 2、嵯峨野の竹林 2、大堰川、保津川。遥か前方中央辺りが渡月橋 1、の小督塚の立札の説明文【謡曲「小督」の旧跡】 小督局は桜町中納言藤原成範の女で、宮中で美人の誉れ高く、高倉天皇(第80代在位1168~80)の寵愛を一身に集めていた。しかし、平清盛の女、徳子(建礼門院)が、中宮であった為、平家の圧迫を恐れて、この地、嵯峨野に身を隠した。その時の仮住居が、この「小督塚」辺りであったと云われている。謡曲「小督」は、天皇の命により、小督局を探しに当地を訪れた弾正大弼源仲国が、秋霧の間に微かに聴こえる琴の調べを頼りに遂に局の居住を探し得たという物語である。 作者 細合斗南 伊勢生まれの儒者。斗南は片山北海が大阪に結んだ混沌詩社に入って詩人たちと交わり、荻生徂徠の学問を奉じて、のち一家をなす。書にも優れ、大阪に塾を設けて詩と書を教えた。60歳で出家、京都に住み、享和3年(1803)享年77.
2016年10月05日
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たいこうぼう ちょう た ず さとういっさい 太公望 釣を垂るるの図 佐藤 一斎 あやま ぶんのう の え かえ いっかん ふうげつ こころ たが 謬って文王 に載せ得て帰られ 一竿の 風月 心と 違う おも きみ ぼくや ようよう のち ゆめ あ はんけい きゅうちょうき 想う君が 牧野 鷹揚の 後 夢は在り磻渓 の 旧 釣磯 詩文説明(中国殷・周時代)周の功臣、呂尚は、渭水の浜で釣をしていた処、たまたま猟に来た文王に見出され、その車に乗せられて心ならずも連れ帰られた。文王の子・武王が殷の紂王と牧野で戦った時、軍師として活躍。勝利の功により斉の国王に封じられたが、いつしか夢に見るのは嘗て釣りをしていた磻渓の磯辺である。 作者 佐藤一斎 (1772~1859)幕府の儒官。名は旦。 一斎は号。安永元年、岩村藩家老信由の次男として生る。20歳で中井竹山に学び、22歳林簡順の門に入り、34歳で塾長。天保⒓年、70歳時昌平黌の学統になる。門弟3千余名、朱子学を主としたが、私塾では陽明学を講じた。安政6年(1859)88歳で病没。 1、呂尚画像 2、3、太公望だ釣りをしたと伝わる魚釣台(陝西省宝鶏郊外)魚釣台1、呂尚(太公望と文王(西伯)の出会いレリーフ(陝西省宝鶏郊外) 2、太公望呂尚の塑像 (陝西省宝鶏外) 3、斉の臨淄にある姜大公祠(山東省臨博) 4、姜性に復した太公望の衣冠塚(山東省臨博)1、呂尚に「あなたこそわが父大公が待ち望んだ聖人だとわが師になって下さいと懇 願する西伯。 (上の魚釣台とレリーフを合成)2、牧野の戦いで紂王を破る。 (写真は「図説「史記の世界」より(白黒写真に色 を付けてます) 太公望呂尚周代の斉祖。性は姜、名は尚。字は子牙、先祖は堯に仕え呂(河南省)に封じられた因で、呂尚の呼び名があるという。渭水の浜で釣りをしていた。たまたま狩に来た文王が出会い、彼こそが我が父「大公」が待ち望んでいた大賢人であると見抜き、彼を軍師として連れ帰った。この話に基づき、彼を「太公望」と呼び、現在でも釣りをする人を「太公望」と表現しています(太公望が、その昔貧困に喘いでいた時、あいそをつかした妻は出て行ったが斉王になったので帰ってくると呂尚は水鉢の水をこぼし、この水をもう一度水鉢に戻せと言った「腹水、盆に返らず」(史記・十八史略))
2016年09月02日
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≪青の洞門その2≫ 【今様】 罪を重ねし 網谷一才 つみ かさ つぐな た ひがん ほうしぎょう 罪を 重ねし 償ひに 立てし悲願の 奉仕行 なむかんぜおん だいぼさつ うべ たま わ ねが 南無観世音大菩薩 諾い給え 我が願い 【民謡】青の洞門通れば響く今もまぼろし槌の音 昔偲べば禅海さまの影もうつろう鑿の痕【恩讐の彼方に】親の仇として追われる市九郎は僧侶(禅海和尚)となって羅漢寺を訪れた際、耶馬渓に赴き、人々の難儀を救うために洞窟を掘り始める。仇を討つ中川実之助もその姿に感動し、共に鑿を振るい21年後に貫通させる。2人は恩讐を超えた抱き合って完成を喜んだ。1、羅漢寺 2、五百羅漢 3, 現在に残ってる禅海和尚手彫りの洞門入口1、罪の償いと大悲願の岩場を砕く禅海和尚像 2、作家、菊池寛 3、仇と狙う中川實之助と出会う1、30年の歳月を費やし完成させた説明 2.洞窟から見る三国川 3、青の洞門全景(競秀峯)※作家 菊池寛(きくちかん)1,888~1948(明治21~昭和23)小説家・劇作家本名は寛(ひろし)筆名寛(かん)。香川県高松市に生まれ京大英文科卒。在学中芥川龍之介・久米正雄らと第3・4次「新思潮」を発刊。戯曲「屋上の狂人」「父帰る」を発表。小説に転じ1918(大正7)「無名作家の日記」「忠直卿行状記」181年「恩讐の彼方に」「藤十郎の恋」など発表。一躍作家の地位を得る。のち、「文芸春秋」を創刊、同社長となり、文芸家協会会長など就任。1937(昭和⒓)東京市議会当選。1948(昭和23年) 病没。
2016年08月02日
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あおのどうもん あみたにいっさい 青 洞門 網谷 一才 だんがい ぜっぺき けんこん はば なんろ のぞ ほっ めいこん なげう 断崖 絶壁 乾坤を 阻む 難路 除かんと欲して命魂 を 抛 つ つい がんぜん ひら ゆうだい なが おんしゅう ふたつ と あお どうもん 遂に眼前 に開く雄大 の眺め 恩讐 両 ながら解けたり碧の洞門 1、青の洞門の断崖絶壁 2、禅海和尚と青の洞門の説明版 3、高い山の絶壁に張られた鎖伝いの道しかなく下に落ちて死に至る者多いという。 絶壁の下を見つめる禅海和尚 詩文説明 禅海和尚(1691?~1771)元禄4年~安永3年。江戸中期の曹洞宗の僧。名は福原市九郎。 断崖絶壁で鎖渡しの険しい難路で足を滑らして死に至る人馬は後を絶たないという、その場所に通りかかった僧禅海は自分の犯した罪の償いと人々の為に岩場にトンネルを作る大誓願を起こした。ノミと槌で掘っていく或日、禅海を父の仇と狙う中川實之助が現われた。私は一生の罪の償いと人々の困難を救いたい為、この厳壁を掘り始めたて道を通したい、もう少しの処です掘った暁には討たれましょう暫しの猶予を下さいと嘆願、仇を早く討ちたい一心に実之助も共に掘り、禅海が掘り始めて30年、遂に貫通し、目の前には雄大な景色が開けた。困難な仕事を成し遂げた二人は感動の涙にふけり喜ぶ。憎しみ・苦しみ・悲しみは山國川の水に流れた。 1、人々の為トンネルを掘る大誓願を起こす 2、洞窟の内部、途中に左図の鑿打つ禅海和尚の像がある 3、現在大きく変り、三国川に沿った車道が見える。現在禅海和尚の遺蹟求道30mばか りが保存れている。 (映画全盛の時代に「恩讐の彼方に」小説菊池寛作が上映されました)作者 網谷一才 (1892~1965) 明治25年~昭和40年 享年73歳 兵庫の人
2016年06月29日
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「和歌」 流れての 高橋紹雲(辞世)流れての末の世遠く埋もれぬ名をや岩屋の苔の下水(陰徳太平記) 和歌(短歌) 説明時が流れて遥か未来になったなら、私の名前も、岩屋の苔の下を流れる水のように埋もれてしまうだろう。作者 高橋紹運(1548~1586)大友宗麟の武将、名は鎮種。筑前岩屋城主。立花宗茂(筑前立花城主)の実父。天正14年7月27日、島津軍5万の兵と戦い、将兵763名と共に全員玉砕。秀吉援軍先発隊とし赤間関(下関)まで来ていた黒田如水が一時和睦して援軍を待てと指示したが戦う決心は変わらなかった。義に厚く、信念を曲げず、秀吉の援軍が来るまでの半月を持ちこたえたがついに落城自害した。享年39. 辞世其の2「屍をば岩屋の苔に埋むとも雲井の空に名を留むべき」自刃前城の扉に書き付けた。北肥戦誌。1、車道から少し登ったところに高橋紹運墓道標。 2、更に細い山道となり、登り切った処に岩屋城本丸跡3、岩屋城本丸跡「嗚呼壮烈岩屋城址」碑ある。眼下に太宰府市・大野城市の絶景が広 がる1、本丸跡から車道の戻り横道から下ると紹運の墓への道しるべがある 2、墓地へ行く細い山道を下る3、遥か先に高橋紹運の墓所 ※謡われている川は藍染川のことでしょう。先に高橋紹運関連の「岩屋城の将兵を弔う (茂林和尚)」に記してます※岩屋城は太宰府を眼下に見る四王寺山の中腹にあり、四王寺山・藍染川・大野川など は万葉集で謡われている。 ※「岩屋城」と紹運次子の城主「宝満城」落城後、秀吉軍先遣部隊の毛利勢来るを耳 にした島津軍は立花城攻撃を撤退。途中香椎神宮や博多の街に火を放つ。 紹運長子立花宗茂はこれを筑後川まで追撃、高取居城を攻め落としたが敵主将島津 忠長は薩摩へ退却した。1、大友宗麟。耳川の合戦で島津軍に惨敗、勢威を失い、秀吉に援軍を嘆願する。 家臣団の離反が相次ぎ、和睦を進められるも高橋紹運は義を貫き玉砕した。2、大宰府周辺の地図。 高橋紹運の墓所は赤丸で囲んだ左上の位置。
2016年05月29日
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つと ふかがわ はっ ひらのきんか 早に深川を発す 平野金華 つき お じんえん しょしょく わ ちょうきょう いっぱん せいぶん かぎ 月 落ち人煙 曙色 分かる 長橋 一半 星文 を 限る てん つら たちま くだ ふかがわ みず ただ そうしゅう むか はくうん 天に連なって忽 ち 下る深川 の水 直ちに総州 に向って白雲 となる 詩文説明 月が西の空に落ち、家々からは朝食の準備かと炊煙が上っている、辺りの景色は次第にはっきりしてきた。永代橋は天を二つに切断して星の輝きをかなたこなたに分け隔てている。この天に連なる深川を下って海に出ると、この深川の水は白雲たなびく遠き先の総州まで連なっている。 1、「錦絵」永代橋深川新地(東京都江東区)★長橋=永代橋 2、隅田川1、隅田川(墨堤通り)現在の風景ですが、川向うの景気はビルの立ち並んでいるので昔を偲び屋根瓦の風景にしましたが手前の公園内道路はそのままにしてます。2、テレビの時代劇の小舟。(深川から隅田川を下る)3、深川は海に連なって、天に連なっているような白雲と海は遥か遠くの総州(上総・下総)まで続いているのであると。 作者 平野金華(1688~1732)貞享5~享保17江戸時代の儒者。名は玄仲(または玄中、玄沖)字は子和、通称源右衛門、幼少に父母を失い親族に養われる。江戸に出て医学を志すが、文学にも断ちがたく荻生徂徠に師事する。常陸(茨城県)の守山侯に仕えたが棒禄は少なく、或時、主君にまみえる者は新衣を付けよと命ぜられるも妻の衣を着て伺候し咎められ「薄棒で新衣を作ることが出来ず、幸いに妻がやや良いものを持っていたので着用したことを述べると、侯は即日加棒したという。享保17年(1732)病没。享年45.
2016年05月02日
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らっか とくとみそほう 落花 徳富蘇峰 ちょう ま はち うた いた ところよろ こううん ばくばく くさ りり 蝶は舞い蜂は歌う到る処 宜し 香雲 漠漠たり草 離離たり そうしゅん なん し ばんしゅん よ まんしゅう けいふう はな お とき 早春 何ぞ若かん晩春 の好きに 満袖 の 軽風 花 落つるの時 詩文説明 蝶が舞うようにして飛びかい、蜂が歌っているかのように羽音をたてて自由に飛び回っている。行く所何処でも、こうした春の風情で心地よいものである。桜花が雲のように咲き誇り、青葉が勢いよく茂っている。早春の景色は、この晩春の景には及びもつかないだろう。袖いっぱいに軽やかに風が吹き抜け、花がハラハラと散る好時節であるよ。 1、蝶舞い蜂は歌う春の風情は心地よいものである。2、桜花、青葉が勢いよく茂る早春 (写真は福岡市城南区金山中央公園瓢箪池) 1、袖いっぱいに風が吹き抜け花弁がハラハラと散る好時節である。2、『大江義塾創世記の教室』 この棟は明治3年に徳富家が水俣から移ってきた以前からあった建物です。『徳富記念園について』ここは、明治3年から兄弟が(蘇峰・蘆花)が幼少時代を過ごした旧邸であり、また蘇峰の設立した学校『大江義塾』明治15年~同19年まで、の旧跡です。『大江義塾旧跡』 (上図部分拡大) 徳富蘇峰 作者 徳富蘇峰 (1863~1957)文久3年~昭和32年)明治・大正・昭和時代の評論家。漢詩人。蘆花の兄。名は正敬。通称猪一郎。号は蘇峰。熊本県水俣出身、熊本洋学校に学び、花岡山の盟約に参加、同志社に学び新島襄から将来の期待をかけられたが、学生運動に巻き込まれ中退。19歳故郷で私塾(大江義塾)を創設。1886(明治19)年、民友社創立。国民之友、国民新聞を創刊。山県・桂太郎と結び、貴族院勅選議員となる。桂死後政治から身を引き、著述活動に専念。昭和4年経営不振のため、民友社を退く。皇室中心主義、国家主義思想により満州事変後の戦時体制下の過程で軍部と結び、大日本言論報国会会長。終戦後公職追放を受け、文筆生活に入る。歴史家としての著述もある。文化勲章受章。著書300余。昭和32年病没。享年94.
2016年03月27日
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かんがく きどたかよし 勧 学 木戸孝允 どば おそ いえど せきさい おお こおざん だいたく ことごと す た 駑馬 遅しと雖も 積歳 多ければ 高山 大沢 尽 く 過ぐるに堪えたり こ み いっきく せんがん みず なが おおよう ばんり なみ な 請う看よ一掬 泉巌の 水 流れて汪洋 万里の波と作る 詩文説明 どんなにのろまな駑馬でも、疲れも疎まずひるまず、年月を物ともせず進んで行くとどんな高い山でも沼沢地でも必ず通過する事が出来る。山の谷間の岩間から一時も絶え間なく流れでる僅かな水も流れ流れてやがては広々とした大海の波となるのである。人間も日頃から努力を続けていけばやがては大成する事が出来るのである。 作者 木戸孝允(1833~1877)「天保4年~明治10年」政治家。長州出身。父は和田昌景。通称小五郎。桂家を継ぎ慶応元年(1865)木戸と改正。吉田松陰に学び、剣を斉藤弥九郎に学び、江川英龍に洋式兵術を学んだ。尊攘・討幕運動に指導的役割を果たす。西郷隆盛・大久保利通と共に維新の三傑と云われる。維新後五ヶ条の誓文・版籍奉還・廃藩置県などに尽力。征韓論・台湾征討に反対。後,参議に復し、第1回地方官会議議長となる。西南戦争最中に病死。妻松子は尊攘運動の頃、彼を庇護した。(芸者幾松)。 1、どんなのろまな駑馬でも年月を重ね少しづつ進んで行くと高い山でも上ることが出 来る2、沼沢地もうまく通過する事が出来る3、また、岩間から根枯れ出る水もやがては! 1、広々としたかわとなり、 2、大海の大きな波ともなる(三保の松原) 3、人間も日頃からたゆまず勉学に努力していくとやがては大成する (写真(モデル)は総理大臣となった伊藤博文)
2016年02月27日
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まつしま しゃくなんざん 松 島 釈 南山 てんか さんすい あ おのおの いっぽう び ほしいまま 天下 山水 有り 各々 一方の 美を 壇 にす しゅうび しょうしゅう き てんか さんすい な 衆美 松洲 に 帰す 天下 山水 無し 詩文説明 天下至る所に山水の景勝地がある。それぞれ、その地で高い評判を誇っているであろう。しかし此処松島はそれ等の景勝と比べてみても他に劣らない類の無い天下第一の絶景である。 松島の島々 釈南山(像)は天下一の景勝で山水の美景が全て集結していると見つめながら賛美した。 1、夜景は特に素晴らしい 2、観光旅行で五大堂をバックに集合写真 作者 釈南山 (1756~1839) 江戸後期の臨済宗の禅僧。名は「(山召)チョウ岷」(チョウミン)。字は古梁。号は南屛山人・南山。相模国高座郡大沢村の人。幼少から仏門に入り、11歳の時、江戸に行き、東禅寺の万菴原資に従って落髪、沙弥となる。寛政5年(1793)38歳で仙台瑞鳳寺第14世を嗣いだ。後、覚範寺へ移り、また瑞鳳寺に還り、晩年は雄心院に退休し、天保9年(1839)11月87歳で没す。
2016年01月31日
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明けまして新年のご挨拶を申し上げます しゅうし りゅううしゃく 秋 思 劉 禹錫 いにしえよ あき あ せきりょう かな われ い しゅうじつ しゅんちょう まさ 古 自り秋に逢うて寂寥 を悲しむ 我は言う秋日 春 朝 に 勝ると せいくういっかく くも はい のぼ すなわ しじょう ひ へきしょう いた 晴空 一鶴 雲を排して上る 便 ち詩情 を引いて碧しょう に 到る 詩文説明 昔から人は秋になると物寂しく悲しい思いをするが、私は秋の日なかの方が春の朝より勝っていると思う。晴れわたった青空高く一羽の鶴が、雲を押し除けるようにして飛び上って行く、人の詩情をそそる晴れやかな気持ちに至らしめる。 1、秋の風景紅葉。(大宰府市光明禅寺・前回の岩屋城の将兵を弔う中の藍染川の前のお寺) 2、春の風景(京都円山公園のしだれ桜)(中国の漢詩ですが日本の風景で春と秋の景色で表現しました) 1、中国(長江の秋景色) 2、中国江南地方の農村の春景色 中国黄山の晴れ渡った空、雲を押し除ける様に鶴が飛び上がっていく。 (詩情をそそるような風景だ。新年早々良い事がある様に私も乗せてもらう事にした “絶景かな絶景かな、漢詩が出来そうだ“) 作者略伝 劉禹錫(772~842)中唐の詩人字は夢得。中山(河北省定県)の人。貞元9年(793)、22歳の若さで柳宗元と共に真摯に及第。王叔文の一派の政治改革に参加。永貞元年(805)、王叔文が失脚すると、朗州(湖南省常徳市)司馬に左遷された。後中央に戻されたが、玄都観の宴で詠じた詩に当局誹謗の意有りとされ、再び連州(広東省連県)に左遷された。後、官は検校礼部尚書に至る。晩年は白居易と親交有り白居易は彼を「詩豪」と呼び称えたという。
2015年12月31日
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いわやじょう しょうへい とむら 岩屋城 の 将兵 を 弔う 茂林和尚 いっしょうこう な きゅうしゅう かん せんじょう ち そめかわ い なが 一将 功 成りて九州 に 冠たり 戦場 の血は染川に入って流る ひと ころ かたな こ ひと い けん つきしろ かぜ たか いわや あき 人を殺すの刀 は是れ人を活かすの剣 月 白く風は高し岩屋の秋 ※染川=当時天満宮近くを流れる小川で藍染川(川の一部分が残っている) 詩文説明 戦い敗れたりと雖も、高橋紹運の武功は九州に轟いた。その戦いの激しさは、将兵たちの血で染川が赤く染まるほどだった。人を殺す刀は、使う人によっては人を活かすものになる。たとえ戦いに敗れても自刃したと雖も、高橋紹運と将兵たちの、武士としての名前は立派に生かされた。戦いが済んだ今、岩屋の上に白い月が懸り、秋風が高く吹いている1、血に染められたという藍染川(他に梅壺侍従蘇生碑がある)2、西正寺(高橋紹運菩提寺)大宰府駅近くにあり。3、岩屋城(本丸跡)と高橋紹運の説明版(四王寺山中腹の登り口) 岩屋城の戦い天正14年(1586)筑前岩屋城は九州制覇を目指す島津(大将忠長)率いる5万の兵の総攻撃を僅か700の軍勢で主君大友氏への義と立花城に籠る実子立花統虎(宗茂)を生かす為に負け戦と解りつつも戦う。援軍が来るまで14,5日も支えれば島津の立花城攻は遅れる。戦いは壮烈で染川は鮮血で染った。島津軍の死者3,000。紹運も自刃、39歳。兵士達は皆、割腹或いは刺し違えて全員玉砕。秀吉軍が到来し島津は秀吉に全面降伏。島津の放火で焼け野原の博多は秀吉によって復興。 1、森の中の平らの所で前方に胴塚が見える(岩屋城に近く険しい坂を下る)2、入り口から見る高橋紹運の墓3、上の写真岩屋城説明版を登って行くと斯の城址碑に着く1、二日市駅近くに般若寺跡があります(紹運以下の首実検が行れ敵味方の戦死者の霊を祀った)地元の人に聞くと此処等一帯に本陣が敷かれていたという2、国の文化財石造七重塔(鎌倉時代作)3、般若寺近くにある「高橋紹運の首塚」 作者 茂林和尚(年号不詳)筑前秋月、仏心寺の僧。島津忠長は落城の翌日、片野の丘上で敵味方戦死者供養の為、茂林和尚を招き、導師として一大法会を営み、島津忠長自ら焼香して追討を捧げた。
2015年11月27日
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くまがわざつえい ひろせたんそう 隈川雑詠(其の一) 広瀬淡窓 きざん えん みず ちゅうおう あ つと こ もうこう こせんじょう 亀山は宛として水の 中央 に在り 伝う是れ 毛侯の古 戦 場 がげき さいせい むな いちむ ろか みだ ひら つきそうそう 画戟 彩旌 空しく一夢 芦花 乱れ発いて月 蒼々 詩文説明 亀山は往時と変わらず、昔の儘の隈川の中央にある。この亀山の地では、昔、毛利侯と島津軍が戦った古戦場があると伝えられている。今日、穏やかな水辺にたたずんでいると、此の処で鉾や鮮やかな旗を立てて戦ったことなど、一場の夢にすぎぬように思われる。ふと見れば、河原には月が青白く、葦の花の咲き乱れた光景を照らしている。 1、此処亀山(現在亀山公園)は毛利と島津が戦った往時と変わらず隈川の中央に有り、 古戦場があったと伝えられている円内右が毛利元就、円内左が島津義弘 (合成) 2、島図軍と毛利軍の戦い図(合成) 1、水辺にたたずみ往時を思い浮かべる広瀬淡窓。ふと見上げると月の光が河原の葦の 花を照らしていた (詩文に合わせて葦の花に光を当てた画に造りました)2、現在の咸宜園址の室内に当時の咸宜園の東塾と西塾の図が掲げてありました。 作者 広瀬淡窓(1782~1856)天明2年~安政3年。 江戸時代末期の儒者。名は建。字は子基。通称求馬。号は淡窓・苓陽・青渓・遠思楼主人。豊後(大分県)日田、魚町の人。父貞恒は豪商で諸侯の御用達しを務めた。10歳で久留米松下筑陰に学び、16歳の時筑前(福岡)の亀井南溟、昭陽父子に学ぶ。18歳冬病にかかり帰郷。26歳の時日田裏町に塾(桂林荘)を開く。入門者次第に多く、狭くなり、10年後堀田村に新築(咸宜園)を開いた。入門者4,000人余りに達す。門下から高野長英、大村益次郎、中島大華、平野五岳、長三洲、など排出。頼山陽、梁川星厳、田能村竹田、帆足万里、斉藤竹堂なども訪れている。長年の育英の功により苗字帯刀を許された。安政3年11月病没。著書多数。
2015年10月28日
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はくろ はくきょい 白鷺 白居易 じんせいしじゅう いま まった おとろ われ うれ おお ため はくはつ た 人生 四十 未だ全 くは衰えざるに 我は愁い多きが為に白髪 垂る なにゆえ すいへん そうはくろ うれ な ずじょう また いと た 何故に 水辺の 双白鷺 愁い無き頭上に亦 糸を垂るる (白居易44歳の時江州に左遷されて任地に赴く途中の舟の中で詠む) 詩文説明 人生四十といえば、まだすっかり衰えたとは云えないのに、私は心配事が多いせいか、もう白髪が目立って伸びている。それにしてもどうして、水辺のつがいの白鷺は、心配事などなかろうに、頭に白い糸の様な白髪を垂らしているのだろう。 1、40代から白髪が目立ってきたという白居易 2、白居易の草堂に近い廬山山上の如琴湖(色を加えつがいの白鷺(鳥名・コサギ)を配す) この白鷺の頭には長い毛があり白居易は自分は苦労した挙句白髪が増えたがこのつがいの白鷺は苦労もないのに「自分と同じように白髪が有るんだろう」と云っている3、双鷺図(狩野元信画)4、廬山の香炉峰にある白居易の草堂 作者 白居易(772~846)西暦772年(中唐時代)に河南省新鄭県に生まれる。名は居易・字は楽天、酔吟先生・香山居士は号である。代々地方官僚で家は貧しかった。日夜学問に励み16歳で詩を作って、詩壇の長に認められた。28歳の時,地方試験に及第、都長安に出る。翌年進士に、更に上級試験を2つ突破、35歳で高級官僚コースを歩む。宰相武元衡の暗殺事件が起きた際、犯人を捕らえるよう上奏したことから左遷された。元和12年廬山の香炉峰下に草堂を建てて移る。元じん(示遍に眞)と友情厚く共に平易な詩を目指し、これを「元白体」と云い広く読者を獲得した。洛陽履道里にて没し、尚書右僕射(宰相の官)を追贈される。
2015年09月25日
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こうじょう ふね さがてんのう 江上の船 嵯峨天皇 いちどう ちょうこう せんり つう まんまん りゅうすい こうせん ただよ 一道 の長江 千里に通ず 漫々たる流水 行船を 漾 わす ふうはんとお ぼっ きょむ うち うたご こ せんさ てん のぼ ほっ 風帆 遠く没す虚無の裡 疑 うらくは是れ仙査の天に上らんと欲するかと ※江=淀川の北岸辺りを指し此処には嵯峨天皇の離宮があった(現在離宮八幡宮辺り)。 ※河陽=現在の京都山崎付近。 ※長江=長い川。 詩文説明 河陽の離宮辺りから見ると、淀川が千里の彼方まで続くかのように水は漫々と流れている。その流れに、船は行きかっているが、船々(帆船)は風に乗ったように早く、遥か遠く彼方に消えていく光景は、まるで仙人の乗った筏が天に上るかのように思われる。 作者 嵯峨天皇(786~842)第52代天皇。 平安初期、延暦5年9月7日桓武天皇の第2皇子として長岡宮に御降誕。平城天皇の同母帝。御名は神野。神野は乳母の姓による宮中古代の故実に基づく。幼児から聡明。読書を好み、長じては経史を博覧せられ、文・書に卓越。(詩人であり和歌よりも漢詩を好んだ)。書は釈空海・橘逸成と共に「三筆」と称られる。「薬子の乱」などを平定、内政の充実に努め、平安京を安定させた。葛野(現在の嵯峨野)を愛し嵯峨離宮(現在の大覚寺) を造営。「嵯峨は唐の嵯峨山から取り自ら名命」に居住、承和9年7月15日、57歳で崩御された。没後「嵯峨天皇」の号を受ける。御在位15年。 1、淀川 2、左の淀川を左右反転させ、行く手の川と空の地平線を一体にして仙人になった私が筏に乗って 疾風の如く進んで行く詩文の状況を創りました。何本かの線は風の速さを示したものです。 1、京都山崎辺りの錦絵 2、嵯峨天皇の離宮址碑 3、嵯峨天皇
2015年08月28日
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ちゅうしょおう きゅうきょ なんぐうたいしゅう 中書王の 旧居 南宮 大湫 まんざんしゅう あつ はくうんう すうじん はる のぞ けいすい なが 万山 秀 を鍾めて白雲 浮かぶ 数仞 遥かに臨む桂水の流れ し ちゅうしょおう さ のち なにびと ち せいゆう りょう 識らず 中書 王 去りて後 何人かこの地に 清幽を 領 す 詩文説明 美しい峰々が連なり空には白雲が浮かんでいる。きり立った高い崖の下に桂川の流れが望まれる。中書王が亡くなって後、この地で世間の煩わしさから離れ、静かな暮らしを欲しいままにした人が他に一人でもいただろうか。 1、美しい峰々が連なり空には白雲が浮かんでいる(嵐山の度月橋…2、崖の下を流れる保津川(川下りをしたかったのですが時間がなく残念) 1、2、嵯峨野の竹林(静寂な処で薄暗い) 3、画に見る昔の度月橋(葛飾北斎画)●中書王の山荘=小倉山荘、大堰川のほとり常寂光寺の辺りにあり、雄蔵殿と称されたとあります。しかし現在山荘があるのか、碑があるのか時間がなく、解りませんでした。(中務卿が唐名で中書王にあたる為、後に具平親王が中務卿となり兼明親王を前中書王と呼ぶ) ●中書王=兼明親王(平安中期)。天延3(975)年小倉山荘「雄蔵殿」に住む。 醍醐天皇の第16皇子として延喜14(914)年に生まれる。7才で源氏の姓を賜って臣下に下り、播磨權守、参議、權中納言と昇進し、天禄2年(971)左大臣に至るも当時の朝廷では藤原氏の権勢が強く菅原道真・源高明など左遷、他氏を排斥した摂関政治。左大臣という高官に達した親王も思うに政治が出来なく、失意の内に隠遁、亀山に山荘を営んだ。しかし藤原氏の横暴は更に親王を耐えがたい境遇へと追い込む。今度は藤原一族の権力争いが始まり、親王もその渦中に巻き込まれる。藤原兼通の謀略で貞元2年(977)皇族の身分に戻され、官位剥奪、閑職の中務卿の役目を受ける。ここに至って親王は「執政者に枉げて陥れられる。君昏く臣諂ひて、愬ふるに処名無し。命なる矣天なる也」と渾身の憤りを込めた長編詩「莵裘賦」を読み、嵯峨亀山の地に隠棲する。延元元年9月6日(987年10月1日) 薨去 作者 南宮大湫大湫は尾張の人で、名は岳、字は喬卿、号を大湫・烟波釣叟などと称し、幼にして父母を喪い、業を中西淡淵の門に学び、尾張・伊勢次いで江戸で講説に従事した。儒者。
2015年07月25日
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おけはざま すぐ おおたきんじょう 桶狭間を過ぐ 太田 錦城 こうげん いにしえ とむろ こふん まえ たたか か しょう おご なん まった え 荒原 古を 弔 う 古墳の前 戦い克って将 驕る何ぞ全 きを得ん かいふうあめ ふ ひる やみ ごと きょうは きへい てん くだ 怪風 雨を吹いて昼 晦の如 し 驚破 す奇兵の天より降 るかと 詩文説明 荒れた原野の古い塚の前に佇むと思いは当時の信長の戦いが駆け廻る。此処で今川の軍勢は、勝利に酔って、武将たちは驕り高ぶり休んでいた。突然怪しい風と共に、曇って来たかと思う間に、忽ち昼間にも拘らず一変し暗くなり風雨となった。近づいていた信長軍、雨が止むのを期に一気に攻め込んだ、この奇襲に今川軍は仰天、天から兵が降って来たかと驚いて、ついに敗北してしまった。1、桶狭間古戦場跡(桶狭間は田楽坪とも云われ名古屋市と豊明市に跨っている様で双方 から出土品が出ており、どちらにも古戦場跡の碑が建っている。 (左が名古屋市の古戦場公園にある碑で、右側が豊明市の碑) 2、 信長は清州城に居て今川軍の大軍を前にして篭城か、出陣か思案にくれていたが、 翌日早々に幸若舞「敦盛」を舞い出陣した。(円形内は敦盛を舞う信長)3、敦盛古謡歌碑 1、大高城・沓掛城を落とし勝ち戦に今川軍は勝利に気を緩め油断していた (円内図)正午過ぎ頃、視界を遮るような豪雨が降りだす。これに乗じて信長軍は接 近し雨が止むのと同時にいっきに今川本陣に奇襲をかけた。 2、25000の今川軍に対し2000の信長軍であったが、この奇襲で見事勝利した。 (両軍の数は書物によって違いがあります。1枚の写真に円内を挿入し写真を少なくしました) 作者 太田錦城(1765~1825)明和2年~文政8年江戸中期の儒者。名は元貞、名は公幹、号は錦城。加賀(現在の石川県)大聖寺の医家の八子。明和2年に生まれる。京都の皆川淇園、江戸の山本北山等に学んだ。更に勉励、折衷学派を大成。のち加賀藩の儒官として三百石を賜った。文政8年(1825)61才にて病没。著書「九経談」「疑問録」など。
2015年06月24日
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かごしま かくちゅう さく かめいなんめい 鹿児島客中の作 亀井南溟 た いえ しちく くうめい さん こかく ろう よ むご じょう 誰が家の糸竹か空明に散ず 孤客 楼に倚る夢後の情 こうげつ なんめい なみ おどろ あき たか いっぴゃくに とじょう 皎月 南溟 波 駭かず 秋は高し一百二の登城 詩文説明どこの家で奏でているのか、琴や笛の音が月光に照らされて明るい夜空に広がっていく。いま、夢から覚め、孤独の旅人である自分が、旅館の欄干に持たれて、この調べを聞いていると、旅愁を掻き立てられ。見渡せば、月は皎々と照り渡って、南方の大海は波もなく穏やかである。この百二の都城を持つ鹿児島に、秋空は高く澄んでいる。1、夢の中で琴や笛の音が聞こえていた 2、目が覚めて、どこの家で奏でているのだろうかと旅館の欄干に持たれながら聞いていたが、 見渡せば月が晧々と辺りを照らしていて秋空は高く澄んでいて大海も至って穏やかで郷愁 を掻き立てられた。3、亀井南溟画像 作者 亀井南溟(1743~1814)寛保3年(1743)現福岡市西区姪浜の医師の家に生まれる。名は魯、南溟は号。14才の時から佐賀、下関、大阪に遊学。僧大潮元皓や医家永富独嘯庵に学び博多に帰った。朝鮮通信使一行が来た時、接待使の1人として参加、自作の漢詩を示したところ絶賛され評価を高めた。その後父と共に唐人町(中央区)に医院学塾を開業。36歳で儒医兼務として士分となる。後、藩校の学問所西甘棠館の初代館長となる。朱子学派藩校修猷館に対し荻生徂徠学派を教義とした。志賀島から「漢委奴国王」と刻まれた金印が出土し、これを検証、後漢の光武帝が奴国王に授与したものと断定し猶一層名声を高めた。寛政10年(1798)唐人町の火災で甘棠館をはじめ亀井家の全てが焼失、甘棠館は再建されず喪失。文化11年(1814)又もや原因不明の出火により家と共に焼死享年72歳。「漢委奴国王」・「委」は日本に対する古い呼び名。「奴」は福岡平野を中心とする当時の小国名。「漢」は当時の世界国家であった漢の皇帝は漢に帰属し軍事や功績があったり貢物を持ってきた国に金印を与えていた。 1、福岡市唐人町にあった西の学問所・甘館棠跡地 2、藩校・西学問所跡地に建てられている説明案内板 3、志賀島から出土した金の塊を後漢の光武帝が奴国王に授与した金印と断定し世間をうなら せた。
2015年05月27日
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か い かくちゅう そぎゅうそらい 甲斐の 客中 荻生徂徠 こうよう びしゅ りょくぶどう そうろ さんこう かくほう うるお 甲陽の 美酒 緑葡萄 霜露 三更 客袍を 湿す すべか し りょうしょうてんか まれ ふよう ほうじょう いちりん たか 須らく識べし 良宵 天下に少なるを 芙蓉 峰上 一輪 高し 詩文説明 甲斐の国の特産である美味しい酒は、緑麗しい葡萄から造られたものである。夜も更けて三更となり霜や露が降りて旅の衣も湿ってしまった。こんな良い夜というものはめったにある事ではない。ふと見上げると、なんと富士の高嶺に一輪の月が高く輝いている。真に愉快この上もない。ぶどう酒を飲みながら旅の疲れを癒していた。夜も次第に更け霜露も降りて辺りも湿ってきた。ふと夜景を見ると富士の高嶺に一輪の月が空高く輝いている。こうゆう美景はめったにお目にかかることはない。満足この上もなく有り難いものである。 (詩文を想像しながら作った画像です葡萄は緑ですが、ワインのも緑にしました。冗句です ) 1、美味しい葡萄酒は甲斐の特産緑の葡萄から造られたものである。 2、夜も次第に更けて霜や露が降りてくる時間帯となってきた。3、荻生徂徠の肖像画 作者 荻生徂徠(寛文6年~享保13年)1666~1728江戸中期の儒学者。名は雙松、字は茂卿。幼名は伝二郎、通称惣右衛門、号は徂徠。祖先が三河の荻生の人で物部守屋の末裔にちなんで物部を氏とし、荻生を姓とした。5歳で文字を知り7歳で林道斎に学び詩を作った。父方庵が罪を得て上総国(千葉県)に蟄居を命ぜられ、徂徠も父に従って同地に赴く。この地にある事12年、読書に余念なく「大学諺解」1冊を研究して講学の端緒を開くことが出来たといわれる。25歳で江戸に帰り芝、増上寺の門前に住み学に励む。増上寺の山主の世話で柳原吉保に仕え、名声上り、将軍綱吉もしばしば吉保の邸の徂徠の講義を聴いた。後吉保の辞職に伴い日本橋茅場町に移り、門弟の教育に専念。歳63で没す。門弟多し。
2015年04月26日
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はる はな たず かんさんぼん 春の花を尋ぬ 菅 三品 ごれいそうそう くも おうらい ただあわ たいゆ ばんじゅ うめ 五嶺 蒼々 として雲 往来す 但 憐れむ大庾 万株 の梅 たれ い しゅんしょく ひがしい たる つゆあたた なんしはな はじ ひら 誰か言う春色 東 より到ると 露暖 かにして南枝花 始めて開く 詩文説明 五嶺に連なる山々は蒼く聳え、その上を白い雲がゆったりと行き来している。その中にあって、大庾嶺の万株の梅の木々が花を附けている事に心惹かれる。誰が言ったのであろうか、春は(景色)東方からやってくるなどと。これらの梅の花は露も暖かな南の枝から咲き始めているのに。1、中国五嶺山に連なる山々は青々と聳え、幾つもの白い雲はその上をゆったりと往来 している。 2、春は東方から来るなどと誰が言ったのであろうか、ここ大庾峰は江西省の大庾県の 南にあり梅の花が南の枝から咲き始めている。(写真はまだ肌寒い季節に咲き始めた大宰府で写した梅花)3、(誰が東方から春が来ると言ったのは、判らないが菅原道真の「東風吹かばの歌」に由来し ているのではないでしょうか?写真は福岡大宰府の歌石碑)実は村上天皇の天暦年間内裏坤元禄屏風に。「春は東方(東は春の意)から」と詠った詩があり、白居易の詩に「大庾嶺上の梅、南枝落ち北枝開く」を踏まえて南の枝から梅の花が開いたとある。●五嶺山=湖南・江西と江東・江西の間に渡る南嶺山脈の5つの嶺の総称。大庾は大庾嶺。唐の宰相、張九齢が梅を植えて梅嶺と名付けた。大庾嶺の梅林に見立てた福岡県久留米市の梅林寺の梅林 (3枚の写真を合成、うち2枚を同じ写真を繫ぐ) 作者 菅三品(899~981)本名菅原文時。菅原道真の孫。平安中期の公家、学者、文章博士。内記・式部大輔などを歴任、尾張権守となる。村上天皇が諸臣に政治上の意見に応じ、三ヶ条の意見をまとめた。また天皇の種々の宴に招かれ詩を献じ、大いに名声をあげた。76歳で正四位となり天元4年(981)従三位に叙せられたが同年没す。
2015年03月27日
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まつまえ じょうか さく ながおしゅうすい 松前 城下の作 長尾 秋水 かいじょう かんたく つきうしお しょう はさい れんしょうかげ どうよう 海城 の 寒柝 月 潮に 生 ず 波際の 連檣 影 動揺 こ ごせんさんびゃく り ほくしん ちょっか どうひょう た 此れより五千三百 里 北辰 直下 銅標を 建てん 詩文説明 海辺の城下町に冬の夜回りの拍子木の音が響き渡る、おりから月は満潮と共に浮かぶ。波打ち際に垣根のように連なる帆の影が静かに揺れている。思えば北方にはロシアが侵略の目を光らせ気にかかるのは、国境の事である。此処から5,300里も離れた北極星の直下に国境表示の銅標をうち建てたいのである。 1、松前城下に夜周りの拍子木の音(中央夜回り)が響き渡りる。 2、右端に松前城が聳え立つ 。(写真は詩文に合わせ合成) 潮の満ちると共にやがて月が出る。波打ち際には垣根のように帆船が並ぶ「北前船」。 (写真は実在ではなく詩文の内容にあわせて作ったもの) 1、松前町の位置する日本地図と円内に北方千島列島の4島) 2、松前町の海岸を択捉島の最北端に見立て国境表示の銅標を建てたいものである。(写真は合成、銅標は作ったもの) 作者 長尾秋水(1779~1863) 幕末の志士。名は景翰、初め直次郎と称したが、後、藤次郎と改める。号は秋水、字は文卿。現在の新潟県村上市に生まれた。14歳の時久保田家の養子となる。まもなくして江戸に遊学、苦学すること十年、帰郷するが後、今度は水戸に移り勉学に研鑚、天下に雄飛の志をお越し京阪の間に出没、奥州から北海道松前まで足を伸ばす。海防を痛論、警告するも人を耳を貸さなかった。郷里に帰り、藩侯は学官に推薦しようとしたが門閥の阻むところとなり実現せず熊本へ向かう、後帰国し西蒲原郡吉田村で病没、享年85歳
2015年02月27日
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たてやま のぞ こくぶせいがい 立山を望む 国分青崖 ゆめ めいざん み しじゅうねん くれ さんろく とう ただ うんえん 夢 に名山 を見ること四十年 暮に山麓 に投ずれば只 雲煙 てんめい ひ い おどろ あいゆう ぎょくりつ ぐんせん わ まえ あ 天明 日出でて驚き相揖すれば 玉立せる 群仙 我が前に在り 名山に憧れて40年、この立山連峰を夢にまで見つづけ、やっとの思いで訪ねる機会が出来た。昨日暮方、山麓に着き宿から眺めたが、雲や靄が一面に懸かって何も見る事が出来なかった。早朝陽が上り空が明るくなると山の姿がくっきりと現れたので、驚き思わず頭を下げて礼拝すると、清廉なる雪に輝く連峰が、我が目の前に並び立つ仙人のように迫っていた。 ※立山は雄山・別山・浄土山の連峰の事であり、最高峰は大汝山で頂上に雄山神社がある。富士山・白山・と共に日本産霊山に数えられる。 40年からの夢であった立山に来てみたが山麓は雲や霞で見る事が出来なかった (昼間の景色を暗くして星空の状況を作りました) 1、翌朝陽が上ると次第に視界が開けてくる 2、清廉なる雪に輝く連峰が眼前に広がってきた。 並び立つ仙人様に神々しく、思わず頭を下げ礼拝していた。 (3枚の写真を合成人物を入れる)※立山連峰・左の山が別山岳・中央が雄山岳・右側の山が浄土山岳。作者 国分青崖(1856~1944)(がいの字は頭の山が無いのが正しい)明治・大正・昭和時代の漢詩人。名は高胤、字は子美。号は青崖。「高知新聞」の記者となり明治22年「日本新聞」の記者となる。大正12年大東文化学院の教授となり作詩を指導する昭和12年芸術院会員に列す。昭和19年3月5日病没享年88歳。
2015年02月01日
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う こう こ そう 烏 江 胡 曾 てい あらそ おお はか いきお すで かたむ はっせん へい さん そか こえ 帝を争い 王を図りて勢 い已に傾 く 八千の兵は散じて楚歌の声 うこう こ ふね わた な あら とうご む ふたた へい おこ は 烏江は是れ船の渡る無きに不ず 東呉に向かって再び兵を起すを恥ず ※東呉=江東(春秋時代の呉の領土) 詩文説明項羽は劉邦共にと中原の帝王になろうと劉邦と幾多の戦いを戦い常に連勝を重ねてきたが、ついに勢いは敗戦に傾く運命となった。部下八千の将兵は逃げ散じ四面楚歌の声を聞く憂き目となった。烏江に渡り捲土重来巻き返すことも出来たであろうに、項羽は船はありながらも東呉で再び兵を起すことを恥じて自刃してしまった。 1、項羽は劉邦と中原の覇権をかけて戦い連戦連勝であった 2、馬上の凛々しき項羽像 3、劉邦像(前漢の王)(中国五千年(2) 1、項羽軍はついに垓下の戦いで敗北をきっし軍兵達は離散。2、残った兵は食料も尽き、気力も失いただ」項垂れる。3、夜中、四方周辺からは楚の歌が聞こえ楚の出身者が多い項羽軍は望郷の念にから れ、項羽は多くの自軍の楚の出身者たちが降伏してしまったのかと絶望しつつ烏江 まで逃れ追撃された。(四面楚歌=張良の策略) (テレビ番組項羽と劉邦)1、烏江。(渡し場の役人が船を用意して長江まで渡らせようとしたが、項羽は「挙兵 の時は8,000人を連れて出兵したのに今は私一人がどうして川を渡る事が出来よう か彼らの父兄に合わせること顔がないと恥じる。 2、項羽軍に最後の戦いを挑み、自刃して果てた。3、垓下遺址碑 (史記の世界ふくろうの本) 作者 胡曾晩唐の人。西川の節度使の書記となって功を樹てた。「九疑図経」「詠史詩」「安定集」の著書がある。
2015年01月10日
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今年こそ 何かよいこと あるごとし 元日の朝 晴れて雲なし 石川 啄木皆様にはますます素晴らしい年になります様心からお祈り申し上げますと共に今年もアキアキのブログを宜しくお願い申し上げます。
2014年12月31日
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かりぼしきりうた まつぐちげつじょう 刈干切唄 松口 月城 よせい じょうじょう やま へだ き じゅんぼく かし ぞくふん な 余声 嫋嫋 山を 隔てて聞く 純朴 の歌詞 俗氛 無し たいこ いふう こ ち み すいえん ところどころ けいうん わ 太古の威風 此の地を看る 炊烟 処処 渓雲に 和す 詩文説明 刈干切唄の民謡歌がここ高千穂一帯の山々に朗々とこだまして聞こえてくる。その詞はまことに純朴そのものである。またこの地方も太古の昔から時代の流れにも変わることなく、日本の素朴さが漂っている。村の家々からは、炊事をしているらしく、その烟が谷間にたなびき雲と一体となり溶け合っていて、和やかな情景を奏でている。 1、高千穂一帯の山々と国見丘の雲海 2、炊烟をあげている村の家々(写真は宮崎県椎葉村)詩文に合わせ、炊烟は作りました) 3、高千穂 切干風景 1、大鎌を振りあげ萱を切る村人(刃渡り30センチ柄の長さは60センチ余りの大鎌) 2、神話の里 高千穂の「神楽」(岩度神楽または夜神楽ともいわれる) 3、高千穂峡真名井の滝 刈干切唄(宮崎県高千穂地方の民謡)日向の高千穂辺りで、秋になると屋根をふいたり牛馬の飼料にする笹や萱を刃渡り30センチ、柄の長さ60センチ余りの大鎌で刈るとき、山の急斜面などで大鎌を振る拍子に合わせながら歌うという、いかにも日本的な素朴感と哀愁をたたえた唄である。(これは、冬の間の牛馬の餌にするために、晩秋、山の斜面に生えている草を「刈って干し」て保存しておく、その刈り取り作業のときの労働歌) 民謡 刈干切唄○ここの山の刈干しゃ すんだヨ 明日はたんぼの エー 稲刈ろかヨ○もはや日暮れじゃ 迫々(さこさこ)かげるヨ 駒(こま)よいぬるぞ オー 馬草負えヨ○屋根は萱(かや)ぶき 萱壁なれどヨ 昔ながらの エー 千木(ちぎ)を置くヨ○秋もすんだよ 田の畔道(くろみち)をヨ あれも嫁じゃろ オー 灯(ひ)が五つヨ○おまや来ぬかよ嬉しい逢瀬(おうせ)ヨ こよさ母屋(おもや)のエー 唐黍(とうきび)剥き(むき)ヨ○歌でやらかせ この位(くらい)な仕事ヨ 仕事苦にすりゃ オー 日が永いヨ 作者 松口月城(1887~1981)福岡市安徳村今光で藤又四郎の4男として生まれる。本名栄太、号は月城・筑紫山人。14歳の時松口家の養子となる。18歳で開業医の国家試験に合格。医師の傍ら漢詩を宮崎来城・土屋竹雨に学び、詩・書・画に優れる。常に「判り易い詩を」唱え、全国的に愛吟されている。作詩1万首を超る。医功、教育事業に大なりと文化勲章を授かる。
2014年12月12日
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びゃっこたい とくとみそほう 白虎隊 徳富 蘇峰 いちむ おんしゅう しじゅうねん かくじょう はる いた くさ せんせん 一夢 恩讐 四十年 鶴城 春は 至りて草 芊々 あわ た びゃこ こうがんし ばんだ おううん ぼでん まも 憐れむ他の白虎 紅顔子 万朶の桜雲 墓田を護る 詩文説明 戊辰の役に敵と味方に分かれ戦った会津戦争も40年たった今では昔の夢となってしまった。春が来て鶴ヶ城には草が青々と茂っていて戦いがあった痕跡も見当たらない。若くして命を賭した白虎隊の墓には多くの桜が守るように咲き誇っている。 1、会津戦争 (戊辰戦争、1868(慶応4年)1月3日鳥羽伏見の戦いから五稜郭の戦争までの討幕派と旧幕府軍の交戦 で会津にも討幕派の軍が押し寄せてきた。会津は年齢により青竜・白虎・朱雀・玄武の4隊に分 かれ白虎隊は16~17歳の少年隊で編成、前線で戦うも戸の口の戦いで敗れる。2、8月飯盛山で19人の白虎隊は自刃する。1、戦いの有ったことも夢のように青葉が茂り、現在では会津城には桜が咲いていて美 しい。(会津城の桜の写真の持ち合わせなく咲いている会津城のイメージで作る)2、白虎隊の墓の周りには桜が守るかのように咲き誇っている。(桜を合成)3、19人の白虎隊の墓(会津若松駅前の銅像と桜を加えてます) 作者 徳富蘇峰(1863~1953)文久3年~昭和32年。ジャーナリスト。蘆花の兄。本名は猪一郎。熊本県生まれ、熊本洋学校に学び華岡山の盟約に参加。同志社に学ぶが中退、1990年「国民新聞」を創刊。桂太郎と結び、1911年貴族院勅選議員。桂死後政治から身を引き著述活動に専念。1943年文化勲章受章。
2014年11月22日
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にっぽんとう えい おおとりけいすけ 日本刀を詠ず 大鳥 圭介 たんや けんま いくひゃっかい そうこう さんじゃく たま あい な 鍛冶 研磨す 幾百回 霧降 三尺 玉に姶 無し うたが にっぽんとう えいり かつ ばんこんさくせつ こころ きた 疑わず日本刀 の 鋭利なるを 嘗て 蟠根錯節 を 試 み来る 詩文説明 匠の刀鍛冶師が幾百回も鍛錬、心魂を籠めて出来上った三尺の長剣は霜の降りしかと疑うばかり冴えて冷たく輝き埃なき玉の如く澄み切っている。かる故、日本刀の鋭利な事は一寸の疑惑を挟む余地もない。曾って三千年来国家幾多の難儀にその平定の為に発揮した鋭利さはそれを実証しているからである。 1、日本刀 2,焼き付いた鋼を1000度位で加熱。 3、焼き付いた玉鋼に小槌を水につけながら鍛錬し形成していく1、加熱した素材を繰り返し々々叩き渾身を打ち込む 2、出来上がった刀を鋭利に丹念に研いでいく 3、幾百回とも熟練した刀剣匠が心魂籠めて作り上げた日本刀は冴えて冷たく輝き玉のように澄み切っていてその切っ先は鋭利で切れること疑いなし。1、関ヶ原の合戦図 2、幕末動乱の時、近代日本を成す為に戦った人々 (下関唐戸維新祭りの幕末維新村にて)※ 昔から幾多の時代の困難な紛糾(戦い)を平定するため日本刀は関与し解決してきた ものである。 作者 大鳥圭介(1833~1911)天保4年2月25日~明治44年6月15日江戸末期の幕臣・外交官。号は如楓。播磨赤穗郡赤松村の小林直輔の子に生まれる。緒方洪庵・江川英龍らに蘭学・兵学を学び、中浜万次郎に英語を学ぶ。1866(慶応2年)幕臣にあげられ歩兵奉行となる。1868(明治元年)戊辰戦争では江戸開城に反対し。幕兵を率いて脱走、日光・会津などで官軍と戦い、榎本武揚の海軍と合流し函館五稜郭に立て籠もったが翌年降伏、1872(明治5)年、許されてから明治政府に入り、1889(明治22)年駐聖公使となり、1893(明治26)年韓公使を兼任、日清戦争の外交工作を画策した。明治44年病にて没。享年80歳。
2014年11月01日
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かんがく きどたかよし 勧 学 木戸孝允 どば おそ いえど せきさいおお たかやま おおさわことごと す た 駑馬 遅しと雖 も 積載 多ければ 高山 大沢 尽 く 過ぐるに堪えたり こ み いっきく せんがん みず なが なが おおよう ばんり なみ な 請う看よ一掬 泉巌の 水 流れ流れて汪洋 万里の 波と 作る 詩文説明 どんなにのろまな馬でも休まず怠ることなく長い年月を努力すれば、どんなに高い山でも、どんな沢地や沼地であろうとも必ず通過する事が出来るものである。ほんのわずかな岩間から湧出ている水も絶え間なく流れ出ていれば、やがて流れ流れて、広々とした大海の波となるのである。このように人間も不断の努力を続ければ、やがて大成するものである。 1、駑馬と雖も歳月をかければ、どんな高い山でも沢や沼地でも通過する事が出来るで あろう 2、僅かな岩間からもれる水 3、小さな水も流れ流れてやがては大海の波となる 1、大海の波となる(写真は木戸孝允の郷土、関門海峡)2、人間も目標を以って将来を見つめて勉学する事を勧めます (写真は幼少から萩の松下村塾で勉学に勤しむ桂小五郎)合成3、不断の努力を重ねるとやがては大きな人物となる (写真は江戸の大火を救った勝海舟と西郷隆盛「江戸無血開城」【両英雄】 作者 木戸孝允 (1833~1877) 天保4年~明治10年 政治家・長州藩出身。和田昌景の子、号は松菊、木圭、通称小五郎、のち準一郎。桂家を継ぎ1865(慶応元年)木戸と改正した。吉田松陰に学び、斉藤弥九郎に剣術を学び、江川英龍に洋式兵術を学んだ。尊攘・討幕運動に先導的役割を果たし、西郷隆盛・大久保利通と共に明治維新の三傑といわれる。維新後、五箇条の誓文の起草、廃藩置県など尽力。征韓論・台湾征討に反対した。西南戦争の最中に病死、妻は彼を庇護した芸者幾松
2014年10月10日
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おおさかじょう まつぐちげつじょう 大 阪 城 松口 月城 ほうこう きず ところ こ めいじょう いふう か ここ まんぺい たむろ 豊公 築く 処 之の名城 威風曾つて茲に万 兵 屯 す ぎぜん ち ぬ てんしゅかく とうえい え ごと ごうじょう あき 巍然たる地を抜く 天守閣 倒影 絵の如く 濠 上に 明らかなり 「和歌」 「露と落ち露と消えにしわが身かな 難波のことも夢のまた夢」豊臣秀吉 (辞世) えいゆう じぎょう しん いちむ とりん なん きん かいこ じょう 英雄の 事業 真に一夢 登臨 何ぞ 禁ぜん懐古の 情 詩文説明豊臣秀吉の築いた名城大阪城には何万という軍兵が留まっている。天守閣は威厳を備え高く聳えその姿は、お濠上に逆さに影を投じて絵のように美しい。英雄の大事業も夢のようで懐古の情も禁じ得ない。 1、名城 大阪城 2、茲陣営には当時は何万という軍兵が集まっていた 3、天守閣は威風堂々凛と聳えその姿は美しく濠上に影を映している。 (画像は天守閣を反対にして倒影を作った合成 1、豊臣秀吉の事業は信長の楽市・楽座令を継承し、朱印貿易制度、貨幣鋳造、刀狩、 太閤検地などを行い死後安定の為「五奉行」「五大老」を設け集団指導体制の方向 を打ち出し、天下統一を図っていた。 (写真は天下統一の意味で三保の松原富士山・日本国土・太閤秀吉を作成) 2、天皇により豊国大明神の神号を与えられた。(京都伏見の豊国神社・唐門は国宝) 3、松口月城記念館 作者 松口月城 (1887~1981)明治20年~昭和56年名は栄太。号は月城。明治20年4月21日福岡市安徳村今光に藤又四郎の4男として生まれる。14歳の時、松口家の養子となる。18歳にして開業医師となり、世人を驚かせた秀才である。医業の傍ら漢詩を宮崎来城に学ぶ。漢詩や南画に秀で、我が国の吟詠漢詩界に尽くした至宝でもある。昭和49年春、その功績により文部大臣賞を受けた。享年95歳。月城の偉業を偲び、1994(平成6年)「松口月城記念館」が福岡県筑紫郡那珂川町「ミリカローデン那珂川」に隣接建設された。
2014年09月12日
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くまもとじょう はらうじょう 熊本城 原 雨城 そがく ひがし のぞ にし ひ うみ しらかわ みなみ くだ みず せんかん 蘇岳を東 に望み 西は火の海 白川 南に 下って水 潺湲 とうこう いぎょう しろ とも さかん しゅうう しゅんぷう ゆうこん とむろ 藤公の偉業 城と偕に熾 に 秋雨 春風 勇魂 を 弔 う 詩文説明阿蘇山を東に望み、西は洋々たる不知火の海である。白川を南に下って行き、水はさらさらと音を立てて流れている。加藤清正公の治水など偉大なる業績は、お城と共に永久に輝くことであろう。しとしとと降る秋雨も、そよそよと吹く春風も、共に清正公の猛き魂を慰めているようである。 1、熊本城より東に阿蘇山を望み 2、西に火の海を望む(不知火海) 3、関ヶ原合戦図 (合戦では石田三成,小西行長等との確執があり,仲悪く徳川方に属した)1、白川(大雨の度に氾濫を起こしていたので治水と利水を考え灌漑工事に取り組む)2、鼻ぐり井出公園から一部見る事が出来る鼻ぐり井出3、鼻ぐり井出(白川の流域では火山灰の土砂が多く、加藤清正は土砂が溜まらないように、白川 沿いの馬場楠村に大きな堰を造り用水路を堀り、川底に仕切り岩盤を残し水の通る下辺には 穴が左右交互に刳り貫かれ一つの穴から出た水は必ず壁に当たって渦巻き火山灰は渦を巻い て舞い上がり勢いよく次の漕へ噴出し土砂を巻上げ、次々と下流へ押し流して底に堆積する ことなく下流に流れる仕組みを作った。1、加藤神社と熊本城(清正は城主となり隈本城を熊本城と改名) 2、加藤清正像 加藤清正 (1562~1611)永禄5~慶長16。安土桃山時代の武将。熊本城主)尾張愛知郡中村に生まれ幼名虎之助、母が豊臣秀吉の母親と従姉妹の関係で幼少より秀吉に仕える。賤ヶ岳の戦いをはじめ九州征伐など多くの戦功有り、1588年熊本城主となる。文禄・慶長の役には大いに奮戦、中でも蔚山の戦いで武名を挙げた。関ヶ原合戦では徳川方に属したが秀吉の旧恩により豊臣家との関係も断たなかった。築城、治水、干拓の名手。1611年熊本で病死。享年50歳。熊本市花園町、日蓮宗本妙寺に祀られる。 ※ 治水を施し田畑は潤い豊かにして、その施政は「せいしょうこう様」と崇められています。作者 原 雨城(1884~1971)大正・昭和の漢詩人。画家、書家。名は篤。雨城は号。肥後国し鹿本郡八幡村に生まれる。祖父は肥後藩士原彦次郎元重。元重は歌人でもあり、白露仙桂舟と号した。父、敬五郎も春渚と号し田能村直人に南画を学んだ。一家そろって芸術に対する理解があった家の長男に生まれた。享年89歳。詩集は「以文抄後編」がある。
2014年08月15日
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ぐうせい にいじまじょう 偶 成 新島 襄 やま み たか ぎぎ うみ み ひろ ようよう 山を見れば高きこと巍々たり 海を観れば広きこと洋々 たり あじ え ぞうか みょう しょうしん すこ はつよう 味わい得たり造花の 妙 なるを 小心 少しく 発揚 す (承句の広き=原文文字は、「門」の中に「活」 詩文説明 山を見ればどこまでも高く、険しく、海を見れば、洋々として広く限りがない。この大自然の素晴らしさを心ゆくまで味わえば、人もまた、山のように高く、海のように広々とした心になる。小さなことにこだわっていた私の心も、少しは活気を取り戻し、大きくなったような気がしてくる。 (大自然の偉大さに比べて、人間の存在、営みがいかに小さいものか痛感され、大自然の中に身をおいているうちに、自然と心もほぐれ元気が湧いてきた)。 1、山は気高く何処までも気高く聳えている 2、海は広々として広大無限に限りない、大自然から見ると人間は、小さなことにこだ わって如何にも小さい。 3、新島襄画像。(大自然を眺めると心も大きくなり活気が甦る)。 作者 新島襄(1843~1890)天保14年1月~明治23年1月。 明治時代の宗教家・教育者。名は襄、初めの名は七五三太夫。天保14年上州(群馬県)安中藩板倉家の江戸一ツ橋邸で生まれた。襄は幼時から漢学を修め、さらに藩主の命により杉田玄白に蘭学を学ぶ。16才の時、海軍伝習所に入り志を世界に馳せる。元治元年(22歳)アメリカの汽船ベリソン号にて上海に密航、ワイルド・ローバー号の給仕としてアメリカに渡る。船中ジョーセフの名を与えられ、略して襄と名乗った。渡米のち、ボストンのアマースト大学に入学、ついでアンドヴぁ―神学校に学ぶ。明治4年岩倉具視が大使として訪米の折は案内役として欧州に赴き、後帰米、神学校に復学、7年卒業。牧師の資格をとり、日本にキリスト教主義の学校を作るため帰国、京都に同志社を創立、西欧文化の開発に多大の貢献を成した。同志社を大学に昇格する為奔走中、病に倒れ、明治23年1月23日、48歳で神奈川県大磯にて没す。門下に徳富蘆花、浮田和民らがいる。
2014年07月18日
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あそ ざん あだちかんじょう 阿蘇山 安達 漢城 ぎ が そがく せんしゅうひい さんせいてん つら きゅうしゅう あっ 巍峨たる蘇岳 千秋に 秀で 山勢 天に連なって九州 を 圧す こうてい ゆうげん れいか あ むきゅうばんこ しんしゅう まも 孔底 幽玄 霊火 有り 無窮 万古 神洲 を 護る 詩文説明 高く聳えたつ阿蘇山は、千年もの間、この地に抜き出て際だっている。雄大な外輪山の姿は、あたかも九州を圧するかのように思われる。噴火口の底深くには霊妙な火が秘められており、永遠に、我が国を護る事であろう。 1、阿蘇五岳(釈迦の涅槃像に見えます) 2、中岳火口の上の高い山が根子岳 3、火を吹く火口 1、噴火口の奥底には霊妙な火が秘められており永遠に我が国を護るであろう 2、阿蘇は九州のほぼ中央に位置し、阿蘇五岳を取り囲む外輪山は恰も九州を圧するかのようであ る。 (中央の人物は作者・安達漢城) 作者 安達漢城 (1864~1948) 明治・大正・昭和の政治家。名は謙蔵。号は漢城。熊本の友枝私塾で漢学を修める。のち済々黌に学ぶ。その後、佐々友房について朝鮮遊学。日露戦争のさなか、朝鮮で「朝鮮時報」「漢城新報」を創刊。明治28年(1895)朝鮮閔妃事件に関連し獄に入る。のち無罪となり熊本に帰った。佐々友房と共に国権党を起す。この後、同35年、衆議院議員となり、中央倶楽部を経て、大正元年(1912)立憲同志会入会。同4年、外務省参事官、同13年逓信大臣。内務大臣を兼務。昭和2年、立憲民政党樹立党総務に推された。後、満州事変が起り、政友会との協力を主張、それがもととなって、内閣が総辞職。立憲民政党を脱退。同8年、国民同盟を結成、総裁となる。国民の精神高揚の為、横浜に八聖殿(孔子・釈迦・キリスト・ソクラテス・聖徳太子・弘法大師・親鸞聖人・日蓮上人)建立。熊本にも三賢堂(菊池武時・加藤清正・細川重賢)を建立した。同13年には詩吟を以て国民の精神修養の為、全力を注ぎ大日本吟詠連盟を結成し全国大会など吟詠振興に貢献した。のち国民同盟を解体、同17年、政界を引退、同23年没。85歳。
2014年06月13日
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さいきょうじ と ひろせたんそう 西教寺 を訪う 広瀬 淡窓 きおう じょうるいてきろ あき きのう えいゆう いず ところ もと 亀王の城 塁 荻蘆の 秋 昨日の英雄 何 れの処 にか求めん ちょうこう むか おうじ だん な たんせい げっしょくうれ た 長 江に 向って往事を談ずれ莫れ 灘声 月色 愁いに堪えず 詩文説明 亀山上皇の御代に築かれた防塁も、今では崩れて荻や蘆がぼうぼうと生い茂っている。このような有様の中からでは、昔、ここ博多湾に二度に渡り元が攻めてきて神仏の祈願と共に、国を挙げて武者たちは怯まず勇猛に戦った激戦のことなど想像もできない。川を見ながら、往事の戦の事を話すのはやめよう。往事と少しも変わらない川の流れと月の光とが、私の心にものの憐れを感じさせ、堪えられないほどである。 1、御笠川 2、御笠川の川向う岸に見える西教寺。川岸には(手前に荻蘆を作る) 荻や蘆が生い茂っていた・往事と変わらぬ水の流れを見つめる広瀬淡窓 3、福岡市今津元寇防塁(戦の跡)。※元寇防塁=長さ20キロに及ぶ石塁を築いていたが 現在も福岡市(博多)に数ヶ所に残っています。 ※長江=本来は中国の揚子江のことですが、ここでは御笠川を指しています。 1、「敵国降伏」の宸額(亀山上皇の宸筆、一説には醍醐天皇)が掲っている福岡市の 箱崎八幡宮の楼門 2、当時外敵を予言した日蓮上人銅像(福岡市東公園)。立正安国論を著わす。 3、亀山上皇銅像(福岡市東公園)。当時「敵国降伏」を祈願した。 ※往事(文久・弘安の役を指す。筥崎宮の海岸に元軍(蒙古)が押し寄せてきて激戦となり再度の弘安の役には我が国は防 禦の為「執権 北条時宗」が博多湾に防塁を築いた。 作者 広瀬淡窓 (1878~1856) 天明2~安政3 江戸後期の儒者。名は健、字は子基。号は淡窓、他に青渓、蒼陽、豊後日田の人。父は諸藩御用達商人。徂徠学派の亀井南冥に学び、1805(文化2)、家業を弟に譲って、26歳の、時書塾桂林荘を開き、次第に入門者が増え、10年後に堀田村に移し咸宜園と称した。塾生前後4000人に達し、盛んな事九州随一と云われた。門下生には高野長英、大村益次郎、谷口藍田、亀谷省軒、柴秋村、長三洲、清浦奎吾などの逸材が輩出した。頼山陽・梁川星厳田能村竹田などが訪れている。長年の育英の功により天保13年(1842)苗字帯刀を許された。安政3年没。享年75歳
2014年05月16日
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おおう どうちゅう えのもとたけあき 奥羽 道中 榎本 武揚 せんけつ あと とど きゅうせんぽう そうと いっち き なん ごう 鮮血 痕は留まる 旧 戦袍 壮図 一躓 気 何ぞ豪なる しょういん りょう うご うしゅう みち はくうん てん かか ちょうかいたか 松陰 涼 は 動く 羽州の 路 白雲 天に掛って鳥海 高し 詩文説明 陣羽織の鮮血はまだ生々しく一敗地にまみれたが、あれは一寸のつまずきである。奥羽まで退き、松の木陰で涼を取りながら眺めた鳥海山は、雪を戴いてすがすがしく聳えたっている。 (明治元年官軍江戸入城により、幕軍は最後に一戦を函館で交えんと奥羽の道を退く時の作)。 1、榎本武揚が函館めざす途中松の木陰で涼をとる (背景は奥羽の道筋でなく北海道の「土方歳三嘆きの松」の前で一休み(現在)を使い作成)2、五稜郭の説明版 (武田斐三郎成章が中世ヨーロッパの城塞都市を参考に設計した西洋式土塁)3、五稜郭周囲の堀の水は固く完全に凍っている(3月下旬なので驚きました)。 作者 榎本武揚 (釜次郎)。(天保7年~明治41年)1836~1908 幕臣円兵衛の二男として江戸に生まれる。弘化4年昌平坂学問所に通い江川太郎左衛門に学びそこで中浜万次郎に西洋の知識を得る。20歳で幕府の海軍伝習所に入り、航海術を習得する。同5年江戸築地の海軍操練所の御軍艦操練教授に採用される。文久2年27歳、オランダ留学生に選ばれて渡欧、洋学の習得に努める。慶応3年、オランダに発注した開陽丸(軍監)を廻送して帰国する。明治元年(1868)海軍副総裁に就任、江戸開城に際し、官軍への軍艦譲渡を拒否し、幕府艦隊を率いて逃亡。函館に蝦夷共和国政府をつくる。同2年新政府軍の攻撃を支えきれず、この間土方歳三は戦死、新政府参謀黒田清隆の勧告により降伏、五稜郭開城となり捕らえられて入獄。同5年赦免され、のち明治政府に出仕、開拓使に属する。同7年海軍中将に任ぜられ特命全権公使露国公使館在勤を命じられる。同8年千島・樺太交換条約を締結する。同11年にロシアより帰国。同18年外務大輔、議定官、海軍卿、駐清特命全権公使などを歴任、同20年に子爵を授けられ、その後文部大臣、枢密院顧問官、外務大臣、農商務大臣を務め同年73歳で没した。 1、五稜郭の中にあった箱館奉行所 (復元されたもの) 2、箱舘奉行所入口に掲げてある内部の見取り図と説明。 3、五稜郭公園より五郎郭タワーを望む。1、函館戦争図 2、五稜郭内の大砲 3、五稜郭タワー1Fにある土方歳三像と説明1、五稜郭タワー1Fにある大砲。 2、松の木陰ならず五郎郭跡碑の前で一休み。3、ペリー来航記念碑前(泰平の日本の幕末にいきなり黒船を率いて幕末騒乱の基を起こした米海軍司令官ぺりー)
2014年04月19日
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ぶ や せいげつ はやし らざん 武野の晴月 林 羅山 ぶりょう しゅうしょく つき せんけん こうや へいげん は かいぜん 武陵の 秋色 月 嬋娟 曠野 平原 晴れて快然 たり せいせい てんぱ てつせき な いちりん せんりくさ てん つら 青々を輾破するも轍迹 無し 一輪 千里 草 天に 連なる 詩文説明此処高台から見渡すと、江戸の郊外、武蔵野の原は、もうすっかり秋景色となり、月の光もさやかで麗わしい。広々とした平野は、昼も欺くばかりの明るさで晴れ渡っていて清々とした気持である。青々とした草を踏み散らした後もなく牛馬や轍の跡もない。一望の広々とした草原は天と連なってるように見え、空にはただ一輪の月が高くかかっているばかりである。 高台から武蔵野の郊外を見降ろすと広々と平原が広がり昼のような明るさで景色は秋色。空には一輪の月が懸っていてすがすがしい気持ちになる。 (当時の武蔵野の平原の景色は判りませんので写真はイメージです。実在ではありません)武蔵野の原の「西行物語」のエピソード、西行が老僧と出会うシーン。 (林羅山の武野の晴月とは関係ありません。(武蔵野の原を描いた様子です)。 作者 林羅山(1583~1657)天勝11年~明暦3年。没年75。江戸初期の儒者。幕府儒官。名は忠又は信勝。幼名は菊松丸、通称また三郎。法号は道春、羅浮子とも号した。京都の人。はじめ建仁寺の僧だったが、早くから朱子学の研究に志し、藤原惺窩の門人となった。1605(慶長10年)徳川家康に仕え以後家綱まで4代の将軍の侍講。外交文書・諸法度の草案をつくり、幕政の整備に貢献した。1630(寛永7年)上野忍ヶ岡に家塾を建てた(後の昌平黌の基となる)。「大学抄」「大学解」『論語解』など多くの漢籍の訓点・出版、経書講述など大きな足跡を残し、朱子学の見地から日本史の叙述を試み、『振動伝授』『本朝神社考』などを著わし日本固有の信仰と朱子学説との調和を図った。『本朝通鑑』『羅山文集』など他にも多数ある。(日本史辞典・角川)
2014年03月29日
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ひ ばい よしつぐこざん 飛 梅 吉嗣 鼓山 かく めぐ ほうらん はる けむ ほっ かんこう びょう あ すいらん まえ 郭を繞る峰巒 春 煙らんと欲し、 菅公 の廟は在り翠嵐の前 ていばい とき も ひょうそう き せきしつ おお ぞう れいがく へん 庭梅 時に漏らす氷霜 の 気、 石室 多く蔵す礼楽の編 とふろう むな ざんが うら かんのんじ しず こしょう あわ 都府楼 は空しく残瓦を怨み、 観音寺は静かに 古鐘 憐れなり しんめい かん こうすい こと さいし せんしゅう おの げんぜん 神明 管せず輿衰の事、 祭祀 千秋 自ずから儼然 詩文説明 大宰府の周辺の山々は霞かかって煙のようである。天拝山、宝満山、四王寺山などがある。菅公のお宮は此の宝満山の前に鎮座せられている。庭の梅は花が咲くと色と云い香りと云い清喜潔白な気を漏らしている。又石室のお倉の内には多くの詩歌礼楽の書物が保存せられている。都府楼は全く昔の形はなく唯礎石のみが残って時々土の中から古の残瓦の片々が掘り出されるのを見ると怨めしき感じがする。又観音寺にはその当時の古鐘が今も尚あるがこの音を聞けば無限の憐れさを感じる。その後の輿衰はの事は神様は一向無頓着であるが、菅公のお祭りは千年の後までも儼然と行われていおる。1、霞架かって煙る大宰府周辺の山々 2、宝満山 3、天拝山 1,菅原道真の詩歌(東風吹かば) 2,詩歌礼楽などが収められてある宝物殿 3,詩歌(東風吹かば)碑 4,都府楼跡 1 、大宰府の飛梅 2、観世音寺と鐘楼 3、千年以上の続いている大宰府の祭(秋思祭) 作者 吉嗣鼓山(生年不詳~1958) 大宰府祠畔に住み南画家にして昭和33年(1958)4月19日没す。詩も亦能くした。南画家拝山の子で鼓山も父の跡を受け父子二代に亘り南画の大家であった。
2014年03月07日
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ぎおう こきょ す ひらのごがく 妓王の故居を過ぐ 平野 五岳 なん もち おんか きそ ひと ぜんじょう い よ はる 何ぞ須いん恩華を競うを 一たび禅場に入りて世と賖かなりなら しょうよう せいてい まど あ おな ふ せいし ふさ あや倣わず昭陽の成帝を 蠱わすに 敢えて同じ不せんや西子の夫差を誤るに かじん まつろおお ぶつ き めいぎ ぜんしん らっか 佳人の末路多くは仏に帰し 名妓の前身 これ落下 ぶしゅうへんぺんいま ところ ただみ いぞう けさ つ 舞袖翩翩 今いずれの処ぞ 唯看る遺像の袈裟を着くるを 詩文説明同じ白拍子の間でどうして1人の男の寵を競わねばならないのか。一思いに出家してこの世から逃れるしかない。漢の成帝を惑わせた趙飛燕・昭儀の真似などできようか。また越の美女西施が呉王夫差をたぶらかして妃の後釜に座ったのと同じようなことはしたくない。佳人の末路は仏門に帰することが多い。名妓の前世は果敢なく散りゆく桜の花なのか。軽やかに袖翻すあの舞姿は何処に失せたのか。ただ目の前に看るのは袈裟をまとった亡き人の面影だけである。1,祇王寺 (京都嵯峨野) 2,祇王寺庭園 3,妓女 1,平清盛像 2,祇王木像 3,妓女木像 4,平野五岳1、漢の成帝と趙飛燕姉妹 (1,2、共に[クイーンズ後宮の乱(中国語ラマ)] 2、趙飛燕の舞姿 3,西施※祇王・仏御前白拍子の祇王は「平家にあらずんば人にあらず」と驕り高ぶる権力者、清盛の寵愛を受けて妓女・母刀自と共に平穏に暮らしていたが、ある日、仏御前という白拍子が清盛を訪ねてきて清盛の前で舞いたいと願うが清盛は逢おうとしない。祇王の取り成しで清盛の前で舞うことを許され舞うことになった。すっかり仏御前の舞いに魅了された清盛はこの若い仏御前を迎え入れ、祇王を追い出してしまった。ある日、仏御前が時間を持て余すのを見て仏御前を慰めようと権力ずくで祇王を呼び出し仏御前の前で舞わせた。立場が変わった祇王は屈辱に耐えかね、自害したい気持ちを抑え、出家して母、妹と共に嵯峨野に隠れる。その庵に頭を丸めた仏御前が訪ねてきて清盛に執成してくれた恩と自分も何時かは同じ運命をたどるのではないかと察し、非を詫び許しを請い、受け入れてもらって4人は仲良く仏門での生活を送った。※超飛燕姉妹(姉:飛燕(宜主) ・妹:昭儀(合徳)名は宜主、身のこなしが軽い処から(飛燕)の名を与えられた。やがて皇帝の目に留まり、宮廷に迎えられ、その美貌からやがて姉が皇后へ・妹は昭儀となっていくが、姉妹は皇子出産を狙い宮女達との権力争いを繰り広げるが、皇后の地位を狙う傅瑤(定陶王后)に翻弄され共に自殺に追いやられた生涯であった。※唐代に李白は楊貴妃の美貌をこの趙飛燕に例えたことから宮廷を追われた。西施(施夷光)西子ともいう)。中国春秋時代、臥薪嘗胆の熾烈を極めた呉越の戦いで、越王勾践の臣范蠡は呉を滅ぼすための策として西施を呉に贈る。夫差は西施の美貌に夢中になり弱体化して越に滅ぼされた。後、西施は范蠡と共に斉へ去っていった。(児島高徳が後醍醐天皇を助けに行き桜の幹に『天勾践を空しゅうすること勿れ 時に范蠡無きにしも非ず』と書いたことで有名)作者 平野 五岳(ひらの ごがく) 1809年3月26日(文化6)年~1893年3月3日(明治26)年 豊後国日田郡幕府領渡里村(現日田市)生まれる。江戸時代後期の画僧。名は岳、字は五岳。号に竹邨方外史、古竹園主、古竹老衲など。正念寺に生まれ、のち、専念寺の養子となり同寺を継ぐ。儒学を広瀬淡窓に学び、田能村竹田に画に学んだ。やがて独自の画風を確立していく。享年85歳。
2014年02月07日
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えのしま かんちゃざん 絵 島 菅 茶山 さんよう しょとう れっ りん な かきょう おのおの ほくじん ほこ た 山陽 の諸島 列して隣を成す 佳境 各々 北人 に誇るに堪えたり いちじ た ち およ がた ふよう うみ へだ ぜんしん あらわ 一事 唯だ この地に及び難きは 芙蓉 海を隔てて全身 に露 す 詩文説明瀬戸内海の島々は列をなして並んでいる、その佳き眺めは関東の人々に誇れるものだ。だが、たった一つ、この地、江の島に及ばないのは、富士山が海の向こうに、すそ野までくっきりと素晴らしい姿を見せている景色である。 江の島から見る富士山1 絵の島から見る富士山拡大 絵の島 瀬戸内の島々 広島因島 広島県竹原から望む 作者 菅 晋帥(しんすい)(1748~1827) 寛延1年~文政10年字は礼卿、通称太仲、茶山は号。江戸後期の儒者・漢詩人。菅波氏、つめて菅という。備後神辺(広島県深安郡神辺町福山)の人。父は扶好、通称は樗平農商業を業とした。茶山は寛延元年に生まれた。京都に出て那波魯堂に朱子学を学び、その後郷里に帰り、教育に専念した。家の東北に面する黄葉山の名から塾名を黄葉夕陽村塾と名付ける、また近くに茶臼山があったので自ら茶山と号した。昌平黌の三博士(柴野栗山・尾藤二洲・古賀精里)をはじめ、大阪の中井竹山、安芸の頼春水・杏坪兄弟らとも親しく交わった。詩名最も高く高く東に寛斎あり西に茶山ありといわれた。文化元年扈従して江戸に赴き、帰って後命ぜられて『福山志』を編し、その後三たび棒を加えられて30口となり、文政6年(1823)には大目付に進み、同10年80歳の長寿を祝したが、隔膜を患い8月13日没す。その私塾は大いに栄え、頼山陽は一時その塾頭であった。菅茶山は67歳の時鎌倉を訪ね七里ヶ浜から江の島に遊び、この時江の島の正面、相模湾を隔てて、全身を白く装った富士を望み、その気高い姿に感動して作ったものである。 (茶山は吟詠では、「チャザン」または「サザン」とまちまちに詠んでいるようですが、私は「チャザン」で教わりましたのでルビを「チャザン」にしています。尚日本史辞典(角川) ・ 日本漢詩(明治書院)では「サザン」となっています。 東京武道館での全国吟詠合吟大会出場の時、前日に箱根に泊まり、東京・浅草・鎌倉辺りを観光。江の島にも寄りまして、お土産店の並ぶ中程の弁財天で失敗しないようにと手を合わせたものでした。この時、橋の上から富士山を見たのが初めてで、やっと見る事が出来たと感動しました。
2014年01月18日
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あけましておめでとうございます 今年もよろしくお願い申し上げます今年は午年、皆様にとりましてすべてに 馬が三本の矢を馳駆しうまくいく年にな ることを願ってやみません。 ★ 老馬の智紀元前662年、斉の桓公は兵を率いて孤竹を征伐した。出兵した時は春であったが、凱旋する時は冬になっていた。一面冬景色の中地理不案内で斉軍は道に迷ってしまった。夜になり真っ暗闇の上霧も発生、山や谷は深く至る処で断崖絶壁がある。西も東も判らなく危険を感じた管仲(名宰相)は全軍を停止させ、やむなく野宿させ早朝出立したが通れる道が見つからない。桓公が困っていると管仲が提案した。「こんな時は老馬の智は役に立つでしょう、年老いた馬は本能的感覚で道を探し当てるものだ」と一頭の老馬を放ち、一行はその跡に付き後を追った。やがて老馬は元の道を探し当て兵達は無事行軍する事が出来た。(経験を積んでこそ状況を適切につかみ判断が出来るの譬え、優れた知性を持っていると思っていても、つまらぬ人間と思われている人や老馬にも劣る事も有る。人それぞれ得手や特徴を持っていて人は皆、素晴らしい)管仲=唐の杜甫が漢詩「貧交行」の中で「管鮑の交わ り」といって管仲と鮑叔牙の貧富変わらぬ友情を 讃えた詩が有名。
2013年12月14日
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ふねあんもん しゅく かつ かくん したがい ここ はく いま ねん らいさんよう 舟暗門 に宿す。曾て家君に従い、此処に泊す。今11年なり。 頼 山陽 ほうそう つきくら じゅけむり ごと きし う はせい かくみん おどろ 篷窓 月暗くして樹烟 の如し 岸を拍つの波声 客眠を驚かす。 もく かず ふちんじゅうねん こと へいこう とうか ふたた ふね つな 黙して数うれば浮沈十年 の事 平公 塔下 両 び船を繋ぐ ○暗門=音戸。 ○今11年=文化11年(1814)9月11日。 安芸灘より呉湾に通ずる水道で、海辺には平清盛の塔がある。と地の人々は、 この瀬戸を清盛が拓いた際、経石を埋めて鎮護のしるしにしたと伝えている。 詩文説明船の窓から外を眺めると、月影は暗く岸の樹木は煙のようにおぼろ気である。船べりをうつ波の音が、枕に響いて眠られぬまま、既に過ぎ去った10年の身の上を考え、浮き沈みの跡を数えると、かつて父と共に、この平清盛の塔下に舟を繋ぎ留めて泊まった昔が思い出されてならない。 (頼山陽詩集)1、舟の窓から外を眺めると月影は暗く樹木もどんよりとしていた。(橋が架かっている処が瀬戸の音戸の大橋で850年前は、入口の幅は1m程でほぼ陸地続きのようであったといわれてます。平清盛が宮島へ行くのに行路をを短縮、1日で土地を削り清盛の大きな船が通れるようになったように伝えられている様です。2、船べりで波の音が響き、眠られぬまま10年前父に伴い訪れたことを思いにふける。3、頼山陽の父、頼春水画像。1、高烏台の平清盛の日招像。 (清盛が沈む夕日を扇で招き返したといわれる伝説の場所。日没の方向に 扇を向けて立ち海上交通の安全を見守っているといわれます)。2、3、平清盛の供養塔。(頼山陽が舟泊まりしたのはこの辺りのようです。4、清盛の供養塔の近くに音戸の舟歌の説明の碑が建っていました。 (碑文:今も去る八百余年平清盛公が1日で開削したと伝えられるここ音戸の 瀬戸。往時幾多の暗礁と渦巻く流れは内海でも屈指の難所であった。逞しい 中にも素朴で哀調のこもった子の舟歌は何時の頃から歌われたものか乏し い帆綱とたたかいながらこの瀬戸を上り下りした船頭衆の間に生まれ今日の 歌に継がれたもので今では日本の民謡「音戸の船歌」として良く親しまれてい る。音戸町船歌保存会)。1、音戸大橋を渡る手前に音戸ロッジという名の小高い山の食事処があります。 現在地を示したマップです。2、音戸ロッジから音戸大橋を見る。私が訪れたのは丁度つつじの花が綺麗な真 っ盛りでした。3、撮影した場所(食事処)より階段を上るとますます視野が開け音戸の絶景に魅 了されます。
2013年12月13日
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いちじょう じ あそ いとう じんさい 一乗寺に遊ぶ 伊藤 仁斎 しゅうしょく そうぼう すいび のぼ くも ろうじゅ まじ かり はじ と 秋色 蒼茫 翆微に上り 雲は老樹に交わり雁 初めて飛ぶ さんえん かき じゅく からす ふく さ けいかん きのこ おお ひと お かえ 山園 柿 熟し 鳥 銜んで去り 渓澗 蕈 椆 く 人 負うて帰る まち とお み ちり ばくばく はやし ふか ただみ きり ひひ 市遠ければ看ず塵の漠々たるを 林 深ければ只見る霧の霏々たるを たず ほっ たじつ み す ところ ひえい さんぜん やすい いそ 尋ねんと欲す他日身を棲ましむる処 比叡 山前 野水の磯 (詩文に合わせた挿入写真を作る)1、秋に気配を感じる瓜生山に上り中腹から初めて雁の群れを見た。 2、更に進むと山園の柿をカラスがつついていたが、そのうち柿を銜えて飛んで行 った。羽音が耳をつく。3、進むにつれ林は深くなっていった。 詩文説明瓜生山(京都一乗寺)の広く青々として秋の気配が満ちている中を中腹位まで登ってきた。さらに上方を見ると、雲は老樹の木立と絡み空には、今年初めて見る雁が列をなして飛んでくる。更に進んでいくと、山園に、柿が赤く熟れ、柿をつついて食していた鳥が羽音とともに飛び去って行った。谷川付近では茸類が多く採れるとみえ、それを背中のかごに入れて帰る村人たちを見かけた。この一乗寺辺りの村は、街から遠く離れているので、塵や埃はなく、空気がきれいだ。見える物といえば、林が深い為、立ち込めた霧だけである。将来、静かに暮らす処とすれば、比叡山の麓、つまり、この清澄な水をたたえた河原のある一乗寺村の辺りだろう。1、霧の中、谷川付近で椎茸を入れた籠を背負っていく村人に出会った。湿地の 為、茸類が採れるのだろう。2、此処は比叡山の近くで、人里離れていて空気も水も澄んでいる。3、瑞厳山園光寺(京都一乗寺)◎将来棲む処といえば、比叡山の麓でこうゆう塵埃のない野水のきれいな一乗 寺辺りに住みたいとなあ。 作者 伊藤仁斎 1627~1705 (寛永4~宝永)江戸初期の儒者。幼名は源七・源蔵。名は維貞。字は源佐、号は仁斎。別号古義堂・棠隠。京都の人。古義学派の創始者。その塾古義堂に全国より集まる門弟3000余、学界の一方の勢力となった。一生仕官せず、貧苦の中に学問に努め、寛文(1661~1673)初年朱子学を宋儒の独断論として、直接孔孟の原点に聖人の本旨を求める復古学を主張。朱子学の理気説と現実を無視する静的世界観に対して、宇宙人道の活動的立場をとる一元気論を唱えた。学風は道徳論が中心で、仁と義の解明を通して政治論が展開された。死後、弟子たちから古学先生と諡された。以後、長男東涯が古義堂を守り、江戸の荻生徂徠と拮抗し学界を動かした。主著「孟子古義」「童子問」「語孟宇義」など (角川書店.日本史辞典)
2013年11月07日
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い す ず がわ らいさんよう 五十鈴川 頼山陽 へいち うんき しょう さんてん もくいん たた 平地 雲気を生じ 参天 木陰を畳む まんねん かみ いま ところ ちょうしょ しらい こころ 万年 神 の在す処 兆庶 子来 の 心 こ みず きんこ なが なんびと せんしん はか 此の水 今古 に流る何人 か浅深 を測らん かんゆう えいちゅう あざむ たいよう りん のが 姦雄 裔冑 を欺 かんとするも太陽の臨を遁れず ※兆庶=多くの民。 ※子来=子が親の処に来るが如く神を敬い来る。庶民が有徳の君(神)の許に集まる。 (50歳の山陽が母を奉じて伊勢神宮の内宮に詣でた時の作) 詩文説明平地に彩雲がたなびき、天に散ずる老杉は、深い木陰を畳んでいる。この地は永遠に天照大神の静まるところ、万民が子の如く敬い来たる所である。この五十鈴川の水は、太古より流れて尽きず、あたかも皇統の連綿たるに似て、何人もその深浅をうかがい測ることは出来ない。たとい姦雄があって、大神の御子孫を欺こうとしても、太陽の神、大神の尚照鑑を免れることは出来ない。1、漢詩「五十鈴川2、伊勢神宮入口鳥居を過ぎると直ぐ宇治橋「五十鈴川」です (詩文・万年神の在す処 兆庶子来の心) 3,五十鈴川にかかる宇治橋の中央付近(最初の鳥居をくぐり橋の中央)1、「五十鈴川」宇治橋の右下。 2,「新橋・(宇治橋の次の橋)下左側」長い塀の屋敷が眼に入ります。おはらい町通 りの中間位に(おはぎ餅店「赤福本店」)の裏 3、「新橋下右側」(五十鈴川)1、内宮にはこんな大木が至る所に多数あります。2、3,古より口と手を清めるという伝えがある川(五十鈴川)左右 1、天照大神拝殿(万民が古より慕い参拝してる)。新しい拝殿が隣にある(式年遷宮 日、数日前で建物は全部出来あがっていて数日後の遷宮日を待つばかり)2参道の神木。(あまりに大きいので驚嘆している参拝に訪れてる人)3、おはらい町通りとおかげ横丁との交差する処に招き猫 (遷宮を招いている様子ではないでしょうか)
2013年11月02日
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び わ こ じょう さく むろきゅうそう 琵琶湖上の作 室 鳩巣 び わ こ じょう みず そら つら ばんり きょむ もくげき うち 琵琶湖上 水 空に連なり 万里 虚無 目撃の中 じょうは てん ひた たが こうげ ぐんざん ち わか おのおの せいとう 畳波 天を涵して迭いに高下し 群山 地を分って各 西東 こそん えんじゅ ずが まよ ひゃくしゃく ちょうきょう さいこう と 弧村の遠樹 図画に迷い 百尺 の 長橋 彩虹 を飛ばす ひと おぼ ほうしゅう いっきょう しょう し こ い いくにん おな 独り覚ゆ芳洲 の逸興 を 生ずるを 知らず此の意 幾人か 同じき1、琵琶湖から見る山々(比叡山) 2、琵琶湖から山々(伊吹山) 詩文説明琵琶湖の表面には、水と空とが一つに連なっているかのようになっていて、万里の遠方まで目に入る物は何もない。波は幾重にも重なって大空を涵しているかのように、互いに上下している。周辺の山々は東西にひろがって聳えている。さらに見渡すと、弧村の遠方の樹々が、図画の中に入れようとしても及ばない位美しく、瀬田の大橋は彩りも鮮やかで、丁度虹が空にかかっているかのようだ。芳ばしい花の咲いている河原をみて私は大層興味を覚えたが、この私の心持と同じように、この風景を見ている者は、果たして何人いるだろう.1、比良山(近江八景の1,比良の雪) 2, 作者は瀬田の唐橋その物が虹のようだと言ってます(虹と芳ばしい花 も作成し加工)。 3、琵琶湖大橋をを渡った直ぐ琵琶湖を写したのですが琵琶湖はちょっぴり。 作者 室 鳩巣万治元年~享保19年(1658~1734)江戸中期の朱子学派の儒者、名は直清、字は師礼。通称新助、号は鳩巣・滄浪。備中英賀郡の人・父は浪人。1幼児より秀才。15歳で前田綱紀に仕え、命により京都に遊学、木下順庵に師事。1711年(正徳1)新井白石の推挙により幕府儒官となり、8代将軍徳川吉宗の侍講。朱子学の立場を守り、政治・経済論に優れていた。性極めて穏健にして誠実。著書「献可録」「兼山秘策」「駿台雑話」など。1、琵琶湖大橋を渡った直ぐにショッピングセンターの道の駅がありますが道 の駅の裏手から撮影 (湖畔に立つ女性の銅像)2、1に同じく道の駅裏から写した琵琶湖大橋。 3、比叡山からの帰りに琵琶 湖を見下ろす。
2013年10月19日
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いつくしま あさのこんざん 厳 島 浅野坤山 はる ごうはい み いちほうらい あいあい うんえん ずいだい よう 遥かに鼇背を観れば一蓬莱 靉靉たる雲煙 瑞台を 擁す つき ちょうろう お わんじょう しず まんどう せいれつ なみ てら きた 月は長廊に落ち湾上 静かなり 萬燈の星列 波を照らして来る詩文説明遠くから厳島を眺めるとまるで海亀の背の様な形の島のようで島上には雲がたなびいている、あたかも神仙の住んでいるという蓬莱のようである。それは厳島神社の楼台を囲み覆っているようにも見える。夜になって月灯りは長い廊下を照らして、湾の上は真に静かである。そして灯籠の灯りが幾萬もあろうかと思われるような星が並んでキラキラと光り輝き波に移って美しく揺れ動いているように見える。1、遠くから見た厳島全景海亀の背なかのようで神仙の島のようだ 2、島上には雲がたなびき灯籠に点る灯りが無数の星のようにきらきら輝いてい る様に見える。 3、厳島神社 1、厳島(広島県宮島)の灯籠には灯りが点って輝いている。2、夜には月灯りが楼台の長い廊下を照らす。3、昼間の厳島(宮島)の正面写真。※注: たなびく雲、夜景(昼間の写真を加工)、灯篭、月と月灯り、灯篭の灯り、な ども詩文の説明に合わせで造ったものです。 作者 浅野坤山(天保13年~昭和12年)1842~1937)明治~昭和初期までの政治家.安芸広島藩(42万6千石)の最後の藩主(第12代藩主)。浅野懋昭(広島藩主第七代藩主浅野重晟の四男)の長男に生まれ浅野家の支藩浅野長訓の養子となり長訓が本家を相続したので、世継ぎとなった。幼名長興・茂勲と称し、のち長勲(ながこと)と改めた。文武に優れ、薩長両藩の討幕挙兵策にも、土佐藩の大政奉還運動にも加わり、3藩連携にも努めた。孝明天皇の行幸に供奉し、将軍慶喜にも大政奉還を説いている。明治維新後、版籍奉還で知藩事(地方長官)に任命され廃藩置県で知事に免ぜられた。宮内省出仕権華族局長官・貴族院議員等を経て、昭和12年没。勲一等侯爵。享年961、広島城 2、広島藩最後の藩主(12代藩主)本名、浅野長勲(あさのながこと)3、浅野長勲の書。 4、浅野長勲銅像
2013年09月27日
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じ しょう すぎうらしげたけ 自 訟 杉浦 重剛 がく のぼ てんか しょう みず ほこ い き ごう 岳に登って天下を小 とす、 自ら誇る意気の豪なるを、 そ さんじょう やま いか これ あお いっそう たか 其れ山上 の山を奈んせん、 之を仰げば一層 高し 詩文説明山に登って下界を見下ろすとと天下も小さいものだと思われ、自ら意気の豪なることを誇るのである。しかし、今登りつめた山の頂上でも、まだまだ高い山がある。これはどうしたらよいであろうか。自分の登った山はかなり高いと思うのだが、山上を見渡すと更にいっそう高い山が聳えている。人間もこれと同じで、いくら登っても自分よりいっそう上の人間がいますこれを仰いでもっと上を目指し、決して慢心などすべきではない。(題名からして自戒を述べた詩ですが、人類すべてに対しての教育の神髄だと思います)。学問だけでなく、すべての事に対して頂点を極めたつもりでも上には上があるので慢心せず向上心をもってもっと上を目指しなさいよ)と言われてます。以前に述べました草場佩川作の「山行示二同志一」の内容と似てますね。(偉人の素晴らしく有り難い御言葉です)作者 杉浦重剛(1855~1924)安政2年~大正3年明治・大正時代の教育者。幼名謙次郎。梅窓・天台道士と号した。父杉浦重文母八重の二男として近江(滋賀県)で生まれる。初め藩校遵義堂に入り、ついで経史を藩儒高橋坦堂・洋学を黒田麴盧に学び更に京都の儒者岩垣月洲に入る。16歳の時選ばれて藩の貢進生として大学南校(現東京大学)に入り英学を学び22歳で英国に留学教授ロスコ-・ショーレマン両教授に従って化学を研究。在位5年病によって帰国、その後、大学予備門(第一高校の前身)の校長、文部参事官兼専門学務局次長を歴任、この間称好塾を設け、同志と共に東京英語学校を設立、また新聞記者の社説を担当、雑誌「日本及日本人」・「日本新聞」の発刊に尽力、欧化主義に反対し日本主義を唱えた。明治22年外相大隈重信の条約改正案を批判猛烈な反対運動を起こした。翌年滋賀県選出の代議士となるも1年で辞職した。43年国学院学監、大正3年東亜同文書院院長となり東宮御学問所良子女王殿下の御学問所に出仕、御用掛倫理科の御進講にあたった。大正13年病により東京淀橋の自邸で没した。享年70歳。1、山に登る(人は上を目指し勉学・修行に勤しむ。 2、高い処から下界を見下ろす。 3、更に上ると下界はちっぽけに見え、自分が大きな者に見えてくる。1、一つの山の頂点に登ってもまだまだ高い山は沢山あり聳えています。 (写真人物はは作者、杉浦重剛)2、一層上を目指し慢心せず向上心を以って勉学に・仕事に勤しまなければなら ないと自戒する
2013年09月06日
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