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私がまだ小学生だった頃、父は「自己啓発」に燃えていた。父は、とある有名な(?)自己啓発プログラムとやらを購入し、毎日毎日、来る日も来る日も、そのプログラムのテープを聴いていた。そのプログラムのセットは、テープが何本かと、立派なバインダーのセットで、当時の印象としては、なかなかゴージャスなパッケージになっていたように記憶している。かなり高額なモノのようだった。「上昇志向」を表しているのか、妙な「矢印」がそのセットのトレードマークになっていて、マークをあしらった、サイコロ?なども付録になっていた。父は、得意げにそのサイコロを転がしてみせたりしたが、子供の私には、つまらないモノでしかなかった。プログラムの実行については、1本のテープを「繰り返し聴く」ということが大切なことのようで、父は、毎日大きな音でテープを聴いた。聴くのはかまわない。しかし、家中に響き渡る大音響で聴くものだから、朝から騒々しいったらなかった。朝聴いて、また昼にも聴いていたりするくらい、父はそのプログラムに心酔していたようで、休日には、家族も朝からそのプログラムを否応無しに聞かされてしまう。我が父は、大変、自己顕示欲の強いナルシストであった。父にしてみれば「オレが聴いているこの素晴らしいテープを、お前達にも聞かせてやろう」というつもりがあったのだろう。迷惑千万なことである。「もうやめてくれ」という家族の懇願は聞き入れられることはなく、家族はウンザリしているのに、父は「これは素晴らしいんだ」と言わんばかりに、家族の抵抗があると、さらに大音響で、テープをかけまくるのであった。田舎の一軒家だったから、やりたい放題である。おかげさまで、そのプログラムを小学生の私は、ほとんど学習してしまいました。というか、テープの内容を頭に刷り込まれてしまった。それから時は経ち、小学生だった私も社会人になった。入社した会社は、病的なくらいに上昇志向が強い風土。(例の「盗聴」の会社であります)ある時、会社が費用を負担して、自己啓発のプログラムを与えるので、選抜された者は、鋭意プログラムに取組んで欲しい!なんていうお達しがあった。それは、見覚えのあるプログラムであった。「まだ、あったのか、コレ」と思ったが、そんなモノを知っているのは、私だけのようであった。同期の男性が、プログラムセットを会社から渡された。ためしにテープを1本聞かせてもらったが、ナレーションの人が変わっていただけで、内容は似たようなものだった。10年経っても変わってないというのは、どうなん?これを聴きまくっていた父は、結局、事業に失敗し、どんどん転がり落ちる人生となっていった。そんなモノに、会社が大枚をはたいて取組むなんて「もったいないな~」と思ってしまった。すでに世の中を斜に見るクセもついていた私は、「そんなの小学生の時に聴いちゃったもんね~、あはあは!」などと得意げに皮肉なコメントを連発。周りの反応は「小学生の時に聴かせると、こんな風になっちゃうんだね~」だった。チッ、悪かったな「こんな風」で。そのプログラムは、いまだに存在している。「阿呆に聴かせると、もっと阿呆になる」のは間違いない。
2005年05月24日
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盗聴の会社を辞めて、次に勤めた会社は、また妙であった。面接の時に、血液型を聞かれ、「カラオケできる?」と聞かれ、重要なことは、希望年収くらいしか聞かれなかったけど、採用になった。この社長が、変な性格で、自分が社員と飲みに行きたいけど、自分抜きで社員同士が飲みに行くのを嫌った。仲間はずれはイヤなのかな。やはり中小企業でワンマン社長。人の出入りが激しいのは、前の会社を凌ぐ。なぜならば、年間を通じて忙しい時期とヒマな時期が極端で、ヒマな時期になると、目に障った人間を社長が追い出すからだ。「あいつ、ヒマそうだな、いらないんじゃないか?」と言う言葉で、忠実なシモベ女史が、首きりカマを持って動き出す。かなり横暴。そんなわけで、訴訟を起こされることも少なくなく、可愛い秘書は、常に何件かの訴訟問題を抱えて対応に追われていた。ある日のことじゃった。男性社員Cさんが、新しく入社した新人たちを連れて飲みに行った。まだ、会社のことをよくわからない新人達に、いろいろ情報を話してあげたり、まぁ、どこでもよくあるコミュニケーション飲み会であった。その頃には「社員同士が連れ立って帰ると、尾行される」というウワサがあり、みんな、一緒に飲みに行くにしても、会社を出るタイミングをずらしたりしていたのだった。タイムカードを毎日チェックするのは、カマ振り女だから、時間が一致していたというだけでも、あとからチェックがはいる。それは避けたい。「社長には、探偵の友達がいるので、気をつけた方がいい」そんな話もあったし、社内にスパイがいて、社員同士の関係を常に探っては、経理部長に報告しているというウワサもあった。スパイは誰だか、みんななんとなく知っていたので、その人の周辺では、みんな無口になった。さて、Cさんは、やっぱり先輩として、会社の悪いとこなども、新人に話したりしていた。酒も入れば、口も滑りが良くなるだろう。しかし、数日後、社長に呼ばれ、新人を連れて飲んだその日の会話をA4のレポートにまとめた「会話記録書類」をつきつけられ、「きみね、こういうことを新人に言われたら困るんだよ」と、お灸を据えられたそうだ。まさしく、探偵の仕事だ。レポートには、Cさんのセリフ、新人のセリフ、そのすべてのやりとりが、ことこまかにきれいにワープロ打ちされていたという。きっと隣の席にいたんだね、探偵が。この話はCさん本人から聞いたので、間違いない。「恐ろしいよな~」とCさんも感心していた。幸い、その会社には「会社に骨を埋めよう」なんて人はひとりもいなかったので、そんな環境がイヤになれば、みんな適当に去っていった。私はけっこう楽しくやっていたのだけど、仕事に馴れてしまい、あまりにも「へのかっぱ」で出来るようになってしまったので、新たな挑戦をすべく転職した。仕事には張り合いが欲しい。ま、ここでは、盗聴に限らず、世の中には「ウソ~」みたいな事実がいっぱいあるってことが、またしても、身を持って痛感の体験であった。なんで、こういう会社を選んでしまうんだろうか?私は?と、ちょっとだけ不思議だったけど…。つくり話じゃないですよ、全部ホントです。書かずにおられましょーか!ってくらいのホントの事です。あぁ、私の人生、ネタだらけ。
2005年05月14日
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私は社会人になってから、何社か転職した。その後なりゆきでフリーになったのだけど、まぁ、結果として、これが私の進む道だったんだな、と、今は、確信している。そりゃ、落胆したり、落込んだり、いろいろあったサ。でも、今は、これでいいと思えるんだから、いいんじゃないかな。さてさて、その昔(もう「昔」なんだなぁ)、私がまだ新人のペ-ペ-だった頃、社内では、会社に対する不信感がうずまいていた。新人達は、私も含め「この会社はどっかおかしい!」と感じていた。中小のベンチャーっぽい企業だから社員は、公には50人と言いながら実際は20~30人程度。社長を含め、エライ人達は、なんだかとてもよそよそしい。人間がふれ合うような温かい感覚が皆無の会社であった。厳しい社風ばかりが、会社の空気をキリキリさせていた。はじまりは、帝国データバンクの会社便覧(だっけ?)の自社のページだけが、きれいに切り抜かれていたのを、新人営業マンが、アポ取りやってて発見したことからだった。自分の会社の部分だけ確認できないようになってるなんて、怪しいじゃないか!ということで、法学部出身のヤツが、友達に調べてもらってわかったことは、なんと!「同族会社」だったってことだった。入社に至るまで、そんなことは、まったく知らされていなかった。普通の株式会社だと信じていた。なので、この事実に、ショックを受けた男性社員は多かった。一般には、同族経営というのは、ある程度までにしか伸びないと言われている。親族ばかりが要職を占めるし、縁故でないと出世もしにくい。野心満々の男達にとっては、それがショック。同族ってことは、会社に同じ苗字の人が、何人かいるわけで、役員の苗字が同じなはずなのだが、会社には、同じ苗字の役員はひとりもいなかった。なぜならば、みんな「偽名」を使っていたから。偽名で名刺も作られ、偽名で呼び合い、偽名でクライアントに営業し、偽名でなにもかも通して、周囲をあざむいていたのだ。社長と部長と課長と経理課長と。おまいら兄弟やんけ!社外的にも「同族」であるというのは、印象が悪いと考えたのだろうけど。人が悪いにもホドがあるよね。帝国データを切り抜いてわからないようにしておくなんざ。そんなわけで、新人達は、ひそかに大騒ぎをした。辞める者も続出した。疑心暗鬼がとびかい、ウワサと事実が混濁して、ひどい緊張感だった。そんな状況だから、新人同士で飲みにいっては、ウワサ話に花をさかせて、会社の悪口言い放題となってしまっていた。ある日のことじゃった。朝からひとりの男性社員が、社長室に呼ばれた。部屋から出て来たソイツに事情を聞くと、新人社員しか知らないはずの話を社長が知っていて、激昂しながら「きみねぇ~!そんな事実はウチにはないんだよ~!」と怒鳴りながら、彼に向かって灰皿を投げたそうだ。それから、新人達は、会社の中では、会社の話をしないことに決めた。会社の中には、盗聴器が仕掛けられているからだ。だれもいない社内で新人同士でした会話を、社長は知っていたのだ。間違いない!学生の頃は、ファンタジックなことばかり考えていたけど、この会社を体験してからは、「事実は小説よりも奇なり」とはマコトであったことだよ、と、痛感。お若いみなさんも、お気をつけて…。オトナはキタナイこと平気でするゼ…。そんなオトナにならないで…。
2005年05月13日
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昨夜、テレビドラマでホストの話をやっていた。TOKIOの松岡クン演じるホストが、売り上げを踏み倒されそうになるシーンで、携帯もつながらずドロンした客のことを「彼女を信じたい」とかなんとか言ってるシーンがあった。それで、ちょっと思いだしたので、ひとつ昔話でも…。昔、父が自分の集めた本の山を売ろうとして、稼業をいきなり古本屋に変えたことがあった。「古物商」という肩書きが必要な商売だが、これは警察に申請すれば簡単に取得できるものらしい。事務所を本屋に改造して看板を出しておくと、客は来るものである。最初は、自分の蔵書だけで始めたのだが、いつしか頼みもしないのに、「買ってくれ」と、本を売りにくる人もやってきて、父は、他の古本屋よりも、いい値段で買い取ってあげていたようだった。っていうか、古本屋のやり方なんて学んでないから、他の店の基準とか知らなかったのかもしれない。いっぱしにレジスターも導入。いいお金で買ってくれる古本屋なので、あっと言う間に本が増えた。なんとなく古本屋らしくなった。当然、私も店番を手伝わされ、レジを打っていたのだが、やはり、そこは素人。一度、大きなミスをしてしまったことがある。5000円を10000円と勘違いして、7000円以上のおつりを渡してしまった。その客が帰ったあとに、「あれ?これ5000円札じゃん!あ!間違えた!」とすぐに気付いたけど、客の姿はすでになく、私は、たいして売上のない古本屋なのに、いきなり5000円の損失を出したのである。やばいじゃん!すぐに父に告げたが、意外や父は怒らなかった。「きっと、返しにきてくれるよ!」と、彼は言った。私、母、妹の3人は「まず、返しにくるなんて、ありえないだろう」と父の甘い考え方を否定した。それでも父は、「いや、世の中っていうのは、そういうもんじゃない、あのお客さんは、きっと返しにきてくれるよ」と言い張るのだった。その日、客は、ふたたびは現れなかった。「返しにくる」「こない」の論争は続き、父は、意地になって、毎日「きっと、今日、返しにくるよ」と言いながら、店を開けていた。結局、その客がお金を返しにくることはなかった。私は、父がこんなにも甘い考えのお人好しであることに驚いた。こんな考え方じゃ、先が思いやられた。ある時、今は見かけない「ちりがみ交換」の車がやってきて、たくさんあるから本を売りたい、と言ってきた。「ちりがみ交換」の本来のルートよりも、父の店で本を売る方が金になると思ったのだろう。普段、個人が売りにくるのとは比べ物にならない量に、父も心が動いたのか、「ちりがみ交換」のオッサンと「これからもよろしく!」と仲良くなったようだった。「ちりがみ交換」はその後、しょっちゅう現れて、本を売った。その頃には、このまま古本屋としてやっていけそうな雰囲気も出て来ていたのだが…。「ちりがみ交換」のオッサンが父に持ちかけた話は、横浜の関内にあるショッピングビルのイベントスペースに申込んで、そこで本を売ろう!きっとバンバン売れるぞ!というものだった。父は、すぐにその話にとびつき、イベントをすることを決めた。詳細はどうだったのか、よく知らないが、そのイベントをするにあたって、店中の本を「ちりがみ交換」のオッサンに預けたのだ。「ちりがみ交換」のオッサンの車に乗せて。そのまま「ちりがみ交換」のオッサンは、二度と現れなかった。ドロンでござる。父の古本屋は、大半の本を失い、廃業となった。短かったな…。さすがの父も「きっと、返しにくるよ」とは、言わなかった。
2005年05月12日
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「夜逃げ後の廃屋に住んだ話」は一気に書き終えて、スッキリした感があります。こんな風に自分のことを語るのは、エゴイスティックな感じだワ、と思いつつ、ほとばしるように文章になっていきました。ずっと書いてみたかったことなので、ようやく吐き出した、って気もします。すべて事実ですが、書いてる本人も、当時を思いだしつつなんだか、楽しみながら書けました。いや、面白かった。ホント。どんな過去も、時が経てば、おだやかな微笑みをうかべて綴ることができるものなのだなぁ…と、しみじみ感じてます。幸せも不幸も、誰かとくらべることは出来ません。昔、ある年下の少女にそのことを教わりました。自分を幸福と思うことも、不幸と思う事も、その人次第です。誰かのせいで不幸になるのではない…、(ひどい目にあうことはあるけど)そもそも不幸というものがそこにある「何か」ならば、戦えばいい。打ち砕けばいい。問題を見つめると、自分が見える。自分が見えると、戦うべき相手がわかる。そこに自分の姿があるばかりだとしても…。目をそらしてはいけない。そんな生き方を、人はハードボイルドとか言うのかもしれないね。ははは…。その後の「廃屋」は、資金もないため、地主の意向に従う他に選択支はなく、頃合いを見計らって引越しすることになり、今度は、アパートの1F(ファミリー向け)を普通に借りました。私に与えられた部屋は、陽の光の差さない窓のない部屋で、朝、寝床から起きるとまず電気をつける生活でした。それでも、毎日なんとかポジティブに生きて、今があります。夏に就職の内定をもらいました。ベンチャー系の中小企業でした。妹は、すごく勉強して、奨学金で誰もが知っている超有名大学に入学しました。貧乏出身とはいえ、エリート街道まっしぐらです。アイツは、スゲーやつです。いろいろイタイ話もありますが、それはまたそのうちに…。そうそう、「廃屋」は、その後すぐに取り壊され、駐車場になってしまいました。新しい家は、そこからそう離れた所ではなかったので、時間のある時に、ぶらりと見に行ったら、きれいに駐車場になっていて、家があったことなんてウソみたいでした。悲しいとも嬉しいとも思わなかったし、何の感情もなかったけど、「あぁ、駐車場かぁ…」と思った、かな。そんでもって、例の喫茶店はというと、その後、若者向けのBARになったのだけど、ふるわなかったのか、思いだしたように訪ねたら、やっぱり100円パーキングに変身していました。「あぁ、また駐車場だぁ…」そうやって、何もかも、カタチをなくしていってしまうからこそ、私は、誰かに伝えたいと思ったのかもしれません…。
2005年04月27日
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謎の中国人男性Kさんは、仕事を開始するにあたって、その喫茶店の厨房にて、中華料理の腕を見せてくれるというので、家族4人で、野菜炒めをごちそうになったが、味はイマイチであった。というか、野菜が生っぽくて、タマネギなんかシャキシャキしすぎ。ウマイのか?これ?こういうのが「本場」の中華なのか?うずまく疑念…。しかしKさんは「自称料理人」であるからにして、プライドもあるだろうし、父は意味もなく「ウマイね!ウマイね!」と言っているし、(絶対わかっちゃいないと思われる)誰も「マズイ」とは言えない雰囲気であった。「アワビの料理もドゾ!」なんて言うので、期待してたら、缶詰めのアワビをスライスしただけのものが出て来た。「これって料理なのかね?」と思ったけど、そんな事は口に出さずにとりあえずいただく。そんな儀式めいた挨拶を終えて、「では、明日からよろしくお願いします」と、謎の中国人男性Kさんに、店の担当をバトンタッチした。ちょくちょく母も手伝うので、まぁ、大丈夫でしょう。ある日のことじゃった~。店からコーヒーミルがこつ然となくなった。そんなものがなくなるなんて、どう考えてもおかしい。客がそんなものわざわざ厨房に入って盗むとも思えない。それからも不審な出来事が続き、母が「なんかおかしい、変だ」とぼやくようになっていた。Kさんが店を担当するようになってからというもの、近所の中華街の方から、中国人の方がちょくちょく様子を見にきていた。Kさんがしっかりやれているのかを見に来ているようだった。日本語がダメな奥さんは、けだるく店番をしていた。居るだけって感じ。そして、そして、ある日のことじゃった~。Kさんが突然店に来なくなった。父はあわててKさんの知合いを訪ねたようだった。家に帰ってきた父は、我々にある重大な事実を告げた。「Kさん、ドロボウだったんだって」「へ?」一瞬、全員ハトマメ顔になる。「Kさん、ドロボウで有名だったんだって。それが真っ当に働くっていうんで、親戚が時々様子を見にきていたらしいんだよ。料理人なんてウソで、どこも勤まらなかったらしいよ。またドロボウして、つかまったから店にこれなかったってワケだ…」なるほど、どうりでコーヒーミルがこつ然となくなったわけだ。料理が生焼けっぽくてマズかったのもうなづける。アワビをスライスするくらいしかできなかったのだな。様々なことが符号して、私達家族は、食卓を囲んで大笑いした。もう、可笑しくて可笑しくてしょうがなかった。「Kさん、ドロボウ」っていうのも大受けだが、そこまで人を見る目のないオヤジも傑作であった。オヤジも笑った。母も笑った。妹までもぷーぷーと笑った。もうね、激しく可笑しい。笑うしかない!父も「まいったまいった!」と笑っていたが、オノレも笑われているとは思っていなかったようだ。なぜみんな笑ったのか…?多分、クロスワードパズルが解けたような爽快感があったのだろう。人間って不思議だ。そんな事件(?)があって、さらに追い討ち!夜の部を担当していた父の知合い達も、空伝票を切りまくって、売上がないのに仕入れのお金だけしこたま請求してお金だけ持ってばっくれたことが発覚。やっぱりね。結局、売り上げで食べて行くことなんて、夢のまた夢。大損して終った。喫茶店経営、ふんだりけったりの終幕であった。
2005年04月26日
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「夏だけ店長」をすることになった無計画な喫茶店。コーヒーメーカーも普通の家庭用だし厨房はあるけど、そんなに大量生産はできない。でも、コーヒーだけでは、稼げないので、ランチをはじめた。なんと、カレーライス、スパゲッティ-ミートソース、ハンバーグという豪華3種類のランチメニューを提供していた。カレーはハウスのインドカレーを大量に手づくり。スパゲッティーは当然レトルトを使い、ハンバーグも湯煎するだけのやつ。それでも、丁寧に作るし、味噌汁とコーヒーがついて500円だったから、それなりにボチボチ客は来てくれた。店長とはいえ、学校が終って参加してくれる妹が来るまでは1人。母が入る日はいいけど、うかうかトイレにも行けないのだ。朝から鍋いっぱいのカレーを作らなければならないし、米を炊かねばならん。ランチタイムは、たまに4人連れのオヤジ達が来たりする。注文を受ける時に、心の中で「頼むから、同じメニューにしてくれ!」と必至に願う。カレーライス、スパゲッティ-ミートソース、ハンバーグを同時に注文されるとかなり大変なことになるのである。できれば全員カレーにしてくれ!願いは通じる時もあるが、通じない時もある。あう。そんな心中を知らないオヤジ達は、店内に設置してあるカラオケセットを見て、「ここは夜もやってんのぉ~?」なんて呑気なことを質問してくる。実は、夜も店をあけて「スナック」にしよう、という計画もあり、そちらは、母だけが担当するのは厳しいので、父の知合いを数人頼んで切盛りしようではないか、ということになった。オトナの世界はわかりましぇ~ん。父も怪しいが、父の知合い達はもっと怪しい。私は決してかかわり合いになりたくなかったので、むしろしっかり昼を切りまわした。しょっちゅうカレーを食べに来てくれる若いお客さんがいたが、ある日、彼女を伴ってやってきた時には、ちょっと嬉しかった。注文は、やっぱりカレーだった。夏の間、客がいない時には、大音響で好きな曲をかけたり、閉店後の店内でカラオケしたりして、それなりに楽しいこともあった。夜の営業の方も、それなりにまわっているようだったが、我々家族は「これでやっていけるはずはない」と思っていた。すべては、父の無計画な決断と行動であり、我々は巻き添えなんである。特にまだ中学生だった妹は、子供らしい自由な時間を奪われていまだにこの時期のことを恨めしく思っていることだろう。夏が終わりに近付いた頃、私の「店長」も終るので、父は今後の「昼の部担当者」を街でひろってきた。本当に拾ってきたという感じで、まったく初めて知合ったばかりの人をひっぱってきたのである。それは、中国人の夫婦であった。料理人をやっていたというその中年男性は、Kさんという。奥さんは日本語はまるでダメで、店番がやっとであるが、それでも父は、この人達に任せようと決めた。母も私も妹も、自分達が解放されることは歓迎だったが、謎の中国人の登場に「だいじょうぶかいな?」という疑念をぬぐい切れなかった。父だけが「いやぁ、いい人が見つかった!」と、上機嫌であった。天然アホの父は、とかく人に騙されやすい人であった…。私達家族は、この後、そのことを思い知ることになるのだった。
2005年04月26日
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強制退去命令はいずれ来る。…近いウチにまた引越しだな。とはいえ、日々を生きていかねばなりません。事業がメチャクチャになっている父は、事業内容にかかわらず、何でもやるゾモードになっていて、なんと今度は、喫茶店を始めた。開店資金なんてものは、ない。金なら、ない。どうやって始めたかというと、もともと不動産関係を扱っていたため、「もう、ここやめたいんだよね~」という喫茶店の持ち主に依託された喫茶店の物件をそのまま居抜きで、我がモノとしたわけである。いずれ売る予定なのだろうが、それまで、ちょっとの間やらせてよ、ってなことでしょう。持ち主と父は交友関係があったらしいから、「まぁ、いいんじゃないの」となったと思われる。が、もしかしたら、父が勝手にやっていたのかもしれん。その可能性も否定できない。今となっては、どちらでも良いことだが。喫茶店を始めたといっても、実際に働いたのは、母である。もともと父は、他人に茶を汲むなんて行為はできないタイプだ。「オマエ、やっとけ」と命令するくらいしか能がないのである。からっぽの樽程、大きな音を立てる、というヤツである。しかし、母も喫茶店なんてやったことはない。速攻で食品衛生管理の資格を取得してきたが(講習に出るだけらしい)、最初はアイスコーヒーをつくるのに、普通のコーヒーを冷蔵庫で冷やしていた。濁ってなんとも感じの悪いアイスコーヒーであった。喫茶店を経験したことがあるのは、私だけであった。家が没落する前には、近くの純喫茶でウエイトレスのバイトをしていたのだ。コーヒーにはうるさいのである。母に、アイスコーヒーにはアイスコーヒー用の豆を使うように指導した。そんな店に客なんか来るのか?と、私も最初は思ったが、これが来るんだな~。場所は横浜の中華街に近く、それなりに立地が良かったといえる。もともと喫茶店だったわけだし。当時は「ドト-ル」が世間に認知されはじめたばかりで、コーヒー180円ということが、センセーショナルに扱われていた頃だったので、薄利多売を狙った父は、負けじとコーヒー150円の貼り紙をした。それで、なんとなく客が入ってきた。コーヒーメーカーで、ひいた豆を使ってちゃんと入れていたから、コーヒーの質に問題はない。客もまぁまぁ満足だったんじゃなかろうか?夏休みに入り、私と妹は「毎日手伝え!」という指令を受けた。生活力のない子供の身としては、逆らうわけにもいかず、まぁ、完全に毎日ではないとしても、店のカギを持って毎朝出かけていった。特に、大学は夏休みが長い。私は「夏だけ店長」となった。フリフリ13号、19歳の夏のことじゃった~。
2005年04月25日
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廃屋に数年暮らしている間に私は美術大学を受験して、なんとか(どういうわけか)競争率20倍の学科に入学が決まった。合格発表のその日、家に帰ると、玄関に簡素なタレ幕が飾ってあり、「おめでとう・よくぞこのボロ家で!」とデカデカと書いてあった。そして、妹が紙吹雪を散らかし、ボロ家の家族が祝福してくれた。タレ幕の作者は父のようだった。アホか。基本的に不幸に見舞われた一家であったが、こういうお祭り的なことは大好きであった。…だから没落したのかも。ボロ家に住みながらも、両親は、なんとか学費を捻出してくれた。もちろん借金やらなにやら含む。ちなみに妹のなけなしのバイト代にもちょっとお世話になった。廃屋は廃屋でなくなり、我々はけっこう快適に暮らした。2階には10畳の部屋があり、その他に6畳と4畳。風通しが良く、ボロいことを除けば普通に暮らせる。幸いネズミも出なかったし。妹の部屋だけは、土壁が崩れて中から蟻が這い出して、かなり悲惨だったようだが…。それと、玄関のドアが、あるといえばあるのだが、基本的にカギは「錠前」であった。家のカギが錠前というのは聞いた事なかったので、ん~、って感じだったな。セキュリティに問題有りである。ある日のことじゃった~。家に侵入者があった。裁判所の人が留守中に勝手に入って、階段の踊り場に「貼り紙」をして行ったのじゃ~。どうやら、無法に住みだした私達に勘づいた土地の所有者が、「住むなら金を出せ」と迫ってきたのを、父が突っぱねていたら、訴えられてしまったらしいのである。土地は夜逃げ家族のモノではなく、別に地主がいたらしい。それにしても4年間放っておいて、ちょっと人が住んだら「金を出せ」っていうのもなんだかな。あさましい気がするな。訴えられても、ない袖はふれないので、そのままにしていたら、裁判所による強制執行となったらしい。それにしても留守中に勝手に入るのは合法なのだろうか?なんでカギをちゃんと閉めて帰れるのだろうか?いろいろ疑問がわいたが、裁判所なので、留守宅にも入っていいらしく、さらに、裁判所というところには、どんなカギでもあけることができるマスターキーのようなものがあって、簡単に入れるという話だった。本当かどうかわからないが、当時は、そんな話を聞いて「ほほぅ~」と納得していた。裁判所は「この物件は裁判物件である!」という内容の「貼り紙」をしていったのだが、これを勝手に剥がすと犯罪となるそうで、この上、お縄になっちゃいけねぇってんで、さすがの父も手は出せない。しかし、毎日確実に目にはいる所、階段の踊り場に貼られているので、見るたび感じ悪いことしきりである。「どうしましょう」とみんな思った。「こうしましょう」といって、父がその「貼り紙」の上に、クソのような絵をかけました。オー!ナイス・アイディア。「どうよ」と得意気な父。「いいんじゃない」と「貼り紙」を隠しながら、我々は「強制退去命令」が近いうちに来ることを無言で悟ったのだった。
2005年04月25日
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電気も水道も止まった家の、薄暗い陰気な台所で、野盗のような父娘が、放置された冷蔵庫を汚れたロープでグルグル巻に縛っている。ん~、スゴイ光景かも~。※注意:ここから先は、キモチワルイ展開がありますので、お食事しながら読むのはやめておきましょう。冷蔵庫の扉が、運んでいる最中に開いてしまうなんてことは、絶対に避けたい。中から飛び出してくるものは、地獄じゃからの。準備を整え、さぁ、運ぶぞ!父と私は冷蔵庫をはさんで向かい合い、グッと腰をいれた。さすがに重いので、えっちらおっちらって感じだ。移動を開始すると、斜になった冷蔵庫の下部から、ポタタタタタタ…っと、黒い液体が滴りおちてきた。中のモノが肉だろうが何だろうが、腐敗の果てに完全に液状化したものが隙間から滴り落ちているのだろう。ともすれば、私の足にかかりそう。ギャーギャーギャー!少しわめいてみたが、作業は中断できない。そもそも我が父は、多少の娘の叫びには動じないのであった。ひでぇ野郎なんだ。しょーがないので、液体を避けつつ運び出す。いらん力が必要だ。ちっ!廃屋ではあるが、広い家である。通り道になっている部屋の床が、腐って抜けているので、そこを迂回していく。ちなみにこの部屋は単なる通り道扱いで、その後も使われることはなく、抜けた床はそのままにされ、数年間の間、その床を見たものはない。上に適当にゴザが敷かれており、家人はそこを避けて行き来していた。修理しようとか、そんな気を起こす者はいなかった。すべては「とりあえず」なんだから、余計なことはしないのだった。さて、ゴミ集積所が近くて良かった。いくらなんでも、冷蔵庫は重すぎる。その日の作業はそれで終了。ヤレヤレだわい。この日、作業の前、廃屋の前に立ち、私が最初に目にしたものは、玄関前のネズミの死骸であった。最低の歓迎。しかも私が第一発見者である。父に発見させればよかった。つい先に玄関に来てしまった。「ネズミが死んでるよ~!」と告げると、父は、見もせずに「捨てとけ!」と言い放つ。オニめ!想定の範囲内の回答であったが、捨てとけって言われてもね~…。死んだネズミをよく見ると、かすかに腹のあたりが動いている。ウジがわいているのだ。こいつを片付けるのか…。その辺に落ちていた棒切れでちょっと突いてみた。ワーーーーっと、ウジムシ達がネズミから飛び出し、四方八方に逃げていく。「蜘蛛の子を散らす」という表現はあるが、「ウジの子を散らす」という趣である。昔、ウジを散らす時に「パン」という音がすると聞いていたのだが、別に音はしなかった。しかし、なんて気持ち悪い生き物だろう。オヤジよぉ、10代の娘にウジのわいたネズミを片付けさせんのかよぉ~、と嘆いてもムダなことはわかっていたので、とにかくどうしようかと悩む若き日のフリフリ13号。スーパーのビニール袋をゲット。そこにぶち込んで封を縛ってゴミとして捨てれば良いのだが、ネズミをつかむものが手元にない。ウジも適当にどこかに行ってしまった。父はすでに冷蔵庫にとりくんでいて、中から「おーい!」と呼んでいる。モタモタしているわけにもいかない。このまま玄関に放置していると、冷蔵庫を運んだ際に、踏みつぶしかねない。その方がキモチワルイ。割り箸でも落ちてればなぁ~、と、途方に暮れたが、結局、ネズミの長い尻尾の先を素手でつまんでビニールに放り込んだ。わー、えんがちょ~!もうこうなったら、何事もなかったことにするしかない。感情を捨て、決断と行動のみで行くしかないのだ。しかし、自分で書いていてキモチワルイ。気分悪くなっちゃった人がいたら、ゴメンなさい。なんでこんなことを書きたかったんだろうかと、自問自答してみたら、この件に関して、感情的に共感してくれる人なんて、当時も今も誰もいない。誰かに伝えたかったんですね…。こんなことがあったんだよ~!って。すべての体験は個人的なものだし、伝えたからって、何が得られるわけでもない。でもこうして書くと、なんだかスッキリするのです。読者の皆様、おつきあいいただきありがとうございます。
2005年04月24日
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ふと、昔、廃屋に住んだ時のことを思いだした。「廃屋(はいおく)」と言うと、「え?ガソリン?」と返されることが多い。実際(笑)。借金取りか何かに追われた家族が夜逃げをして、そのまんま4年間ほど放置されていた家で、荒れ果てた廃屋となったものである。家は戦前に建てられたもので、古いが作りはしっかりしている。部屋数も多いし、風通しも良い。日当たりもまぁまぁ。ベランダもあるし。住めば都とはよく言ったものだ。そもそも、なんでそんな廃屋に住むことになったのか、簡単に説明すると、父親が事業に失敗し、金がまわらなくなって、豪邸を売却し、安いアパートに移り住んだものの、狭すぎて不便!ということで、もともと不動産を扱っていた父親が、知合いのツテで見つけて来た「空き物件」のようなものだった。もちろん「廃屋」なので、賃貸に出されていたわけではなく、「夜逃げした家族の親戚」っていう人物と父に交流があったので、「そこに住めば?」という話になったらしい。もちろん「廃屋」なので、家賃というものはかからない。オヤジはそこに目をつけたんだな…。「夜逃げした家族の親戚」なる人物に、毎月数万円の金を渡し、4人家族が広々と住める家をジャックしたのだった。「夜逃げした家族の親戚」は、もともとお荷物のゴミ物件に人が住む許可を与えるだけで、小遣い稼ぎってところだったろう。狭いアパートには、全員うんざりしていたので、家族も反対する理由がなかった。というか、廃屋に住むというアイディアに対して、賛成も反対も、どう意見していいのやら、わからなかったのだ。どう転んだって、今以下の生活にはなりたくないという気持ちだけがあった。当時、私18歳、妹13歳であった。さて、夜逃げの後始末っていう問題は、さすがに言い出しっぺの父が担当した。金はないので、業者など頼めるはずもなく、何度も出向いては、ちょっとづつ掃除をして、なんとか人間の住める状態にしようとしていた。家に帰ってくると父は、毎日必ず「現場報告」をした。「や~、まいったよ。テーブルにさ、おせんべいがのってるのよ、4年前の。よっぽどあわてて逃げたんだね~!」とか「今日はベッドの下からお金が出て来たよ、誰かヘソクリしてたんだな~」とか、いろいろ、聞いていると、生々しい。いつになったら片付くのかね~?という気にもなったが、あきらかに父は楽しそうであった。父がせっせと毎日片付けていたおかげで、私や妹も、家の中に入っても問題がない、という段階までになった。それ以前は、ハチャメチャな父でも、さすがに娘を入れるのはキツイだろうと判断していたらしい。普通なら、必ず手伝わされたものだ。で、最後に1回だけ、かり出されたことがあった。もう、それを運び出すことができれば、住めるぞ、ということだった。冷蔵庫だ。こればっかりは、父ひとりでは運び出せない。でかいから。4年前の冷蔵庫である。当時の住人が買っておいたであろう卵や肉やその他の食品が、入ったままになっている。「開けてはいけない、見ない方がいい」と父は言ったが、やはり中がどうなっているのか気になる。これからコイツを抱きかかえるようにして運ぶんだから…。一応、ちょこっとだけ確認しておこう…と、少しだけあけてみた。もちろん鼻呼吸は止めて。モノはそんなに多く入っていなかったが、一瞬にして「やはり見ない方がいいかも!」という判断となりすぐに扉を閉めた。手前にあった茶色くカラだけになった卵を見てそう思った。あぁ、長くなりそうだ…続きは、また明日。おやすみなさい…。
2005年04月24日
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通っているアトリエで、可愛いワンちゃんにふれ合い、散歩で出合ったネコとふれ合い、近所のペルシャ猫とゴロゴロふれ合い、そうしたら、たくさんの犬やら猫やらに囲まれて、心おだやかな夢をみました。夢の中で、猫が身体をよじ登ってきた感覚が、面白かったなぁ。私は猫が大好きで、道を歩いていても、猫がいると、立ち止まって挨拶をする。鼻ツラに指を差し出してニオイを嗅ぐなら、その猫は脈あり。ちょっとぐらいなでさせてくれるかも、である。指も嗅いでくれないようなら、脈はない。嫌がられているので、立ち去る。こんなに猫が大好きな私でも、ちゃんと猫を飼った経験はない。幼児期には、家には犬がいて、その犬とよくたわむれていたらしいが、幼稚園に入る前だったので、記憶はあまりない。親の話によると、砂をかけたり、かなり乱暴に遊んでいたらしい。犬の方は「自分の方がオトナだから」という意識があったのか、私の行為には、ただ耐えていたそうな。その犬が病死して、その後も、父親の趣味で、ちっちゃい犬を飼ったが、すぐに病死。今度は一転、シェパードを飼ったのだけど、コワイしなつかないし、食費はかさむしで、手放すことに。その後は、引っ越しをして、母が近所の野良猫達を集めてしまった。面倒を見るのが好きなようで、近所中の猫達が集まる家となり、まぁ、半分、猫を飼っている気分ではあったな。猫にもいろいろ性格があることや、生き方、死に方、本当に、猫にも人生ならぬ猫生があるものよ、と、勉強になった。本来、私は猫の毛アレルギーだったのだけど、猫が好きで、かゆくなりながらもふれ合っているうちに、だいぶ克服したように思う。しかし、近所のシロちゃん(オス猫)は、私の猫体験中、最高に多毛な猫で、ひとなでするごとに、白い毛が大気中を舞うので、ちょっと息を止めたくなる。よ~くなついてくれているのだけど、毛だらけになるのは、御勘弁。でも、毎日、今日はネコいるかな?と、玄関を出て、道を歩けば、そこいらの路地に目をやるフリフリ13号なのでした。いってきま~す!
2005年04月06日
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今日は母の誕生日だった。けっこうな歳なので、いくつになったのか、いまいち記憶を辿れないけれど、今日が誕生日だってことは、しっかり覚えている。今は、とても離れて暮らしているので、電話でもして「おめでとう」を言ってやろうか、なんて思いつく。しかし、留守電で不在の模様。さては、近くに住んでいる妹君が連れ出したか…。案の定、二人は「ふぐ」なんぞ食べに行っていた。遅くに電話をすると、家に帰っていた母は、「初めてふぐを食べた!ああいうのは、好きだ!」と嬉しそうだった。いい歳なのに、初めてふぐを食べたそうだ。もともと好き嫌いの多い人だから、食べたことのない食品もたくさんあろう。それに父が連れ出さねば、1人で遊びに出かけるなんてことのない世代だ。今日の「ふぐ」は、妹がごちそうしたのだろう。心優しい妹だ。そんな晴の日もありながら、去年熟年離婚となった父は、連絡もなく、どうしているのかわからない。(ホームレスには、まだなっていないらしい)その父方の祖母は、骨折のその後はよくわからないけれど、多分、寝たきりに対応してくれる施設に移されたのだと予測される。結局、父方の3兄弟は、極力何もしないつもりか…。その3兄弟のひとり、私の叔母の娘(いとこ)が今年、結婚式をするそうだ。叔母は、兄2人を式には呼ばないと言ってるらしい。やれやれ…。この叔母のもうひとりの子供が「ニート」って言われるやつをやっている。本人に自覚があるのかは知らないけど。親の金で一人暮らしをし、親の金でよーわからん映像の学校に行き、制作と言って、行動的にやってると思えば、またこれすべて親がかり。本人は「成長したオレを見てくれ」っていう感じなんだけど、アンタはまだまだタダのスネかじりですから~!残念!お前に選挙権があると思うと、この国の将来が不安だよ!さて、親戚関係はさておき、家族のありかたをふりかえると、子供の時から、楽しい時間というのは「その時だけ」だと認識していた。その時だけ仲良く、楽しく過ごすのだ。週末に家族で出かけてレストランで食事する、なんていうのは、とっても楽しかったけど「その時だけ」って思わなくちゃいけなかった。家に帰れば、苦しい現実が待っている。夫婦がもめたり、家族でもめたり、いがみあったり、そんなことが行われる日常に戻る。シンデレラの馬車のように、「その時だけ」を享受することで、喜びを感じなくちゃ、いけない。だからといって、「その時だけ」の楽しい時間は、なくていいものではなく、やっぱる「大切な時間」だったなぁ、と、あとから、あとから、感じるのである。もめたり、いがみあったりしていても、家族は「お食事」に外出していた。思い返せば不思議な行動パターンであったことよ。そんな家庭に育った私は良しにつけ、悪しきにつけ、「その時だけ」というコンセプトを持ったオトナになった。だから、母に対して、いろいろ思うところはあったとしても、今日は、優しくしていい日なのだ。「Happy Birthday mama~」電話でなぜか私のお産の時の話になった。大変な難産だったそうだ。何度も聞かされているが、またしても新たな情報が!ともあれ、私を産んでくれてありがとう。せいぜい長生きしてください。
2005年03月20日
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何年か前から、音信不通になってしまった友達がいる。年賀状を出しても返信はない。宛先不明で返ってくることもないので、きっと受取ってはいるんだろうと思う。ま、わからないんだ。中学生の頃に初めて会って、友達になった。学校は違ったけど、塾で会って、気が合った。ふたりでいると、バカみたいに楽しかった。本当に「箸が転がってもおかしい」くらいにいつも笑い転げていた。10代っていうのは、実に想像力が豊かな年頃で、その頃の私は、『たったひとりで砂漠を旅していても、偶然出会う運命にあるのがヤツである…』なんて、ファンタジーなことまで考えていたくらいに、運命的な友達だと思っていた。オトナになって、お互いに忙しい仕事についた。いつからか、ヤツは女なのに「実は自分は男だ」と言い出すようになった。「性同一性障害」を主張しはじめたのだった。学生の頃から、こいつかなりナルシストだな、と思うフシはあったけど、そうくるとは!って感じ。「障害」と名がつくと、なんだか鬼の首とったように主張がはじまることがある。国に認められたエラい先生が書いた論文かなんかを、メールで送ってきて主張する姿勢に、反論した時から、連絡がなくなってしまった。嫌われちゃったんだな、きっと。邪魔な人間をカットする。これを「リセット」と私は呼んでいる。私も別の人にやったことがあるし、彼女以外にも、「リセット」をかけてきた友人はいる。「リセット」の時は、<その1>理由の説明は、なし。<その2>「リセット」は突然はじまる。そして有無をいわさず、関係は切れる。こんな話を聞くと(読むと、か)、「リセット?そんなのあり得ない~」と思う人もいるだろうな…。「リセット」をやる人間というのは、その中身が、たいがい「激烈」なのだろうと、個人的に分析している。自分が強すぎる何かを抱えていることで、自分も苦しいけど、さらにそれを苦しめる人間には「もう耐えられない!」ってんで「リセット」するのだと思う。だから「リセット」は、一見ひどいようだけど、実はいちばん優しい解決方法なんじゃないかと、私は思う。彼女からの音沙汰がないことに、嬉しいとも、悲しいとも思わないけど、きっとたくましく生きているんだろうな、と、思う。それでいい。もう、私はハガキを送らないヨ。彼女の中に、私は確実に生きているという確信がある。私の中に彼女が刻みこまれているように。それをあえて成長させなくてもいいのだよ、きっと。自分の中に他人のエゴが入り込むことを拒否するのは、生きていく上で当然のこと。己のエゴの方が大切だもの。強く生きている人間が好き。だから、自分のことも大好きでいられるように、私自身、強くたくましくあろうと思うのヨ。友達よ…、私達は、いつかふたたび会うことがあるのだろうか…。私は、その時がいつであろうと、かまわない。また、会うことがなくても、かまわない。あ、でも、男になっててわからなくなってるかもな。ま、どっちでもいいんだけどな。お互い頑張ろうな!
2005年02月24日
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施設にいる祖母が骨折をして、入院したそうだ。この先、怪我が治っても、寝たきりになるそうだ。母からの電話で知らされたが、祖母とは20年以上会っていない。祖母は父の母で、最近熟年離婚した母は「私は関係ない」と言っている。骨折した時、施設から父のところに連絡があったが、父は生活するのも困難な状況らしく、何も出来ないので、妹である私の叔母に連絡をした。しかし、叔母は「すぐには行けない」と言って、何日か経ってから施設を訪れたという。どうやら、うまく連絡がとれなかった間に、医者の判断で、「手術をしない治療」がセレクトされたらしい。もう、けっこうな歳なので、手術をしたところで、結果は同じだったという話を医者がしたらしいと、叔母経由で母は伝えるのだが、要するに祖母はこれから寝たきりということだ。で、祖母をどうするのかについて、誰も真剣に考えたくないらしい。父はには、妹と弟がいて、本人は長男だが、一番人望がない。経済力もなんにもない。本人が「オレにはないからできない」と、ことごとく義務を放棄する男だ。妹である叔母が、母に連絡した時も、「オレには連絡がない」と怒っていたそうだが、連絡したところで何になるのか、と、思われていたのだろう。さて、叔父ともずーっと会ってない。この3兄弟、祖母のことをどうするのだろう。どう扱うのか、ちょっと興味がわく。全家族がろくなもんじゃないので、少しは「まともな行い」を見てみたいという、ほのかな期待か…。なぜ、私は祖母に20年以上も会っていないのかというと、私が子供の頃、事業に行き詰まった父は、親にお金を無心したが断られた。一銭も出してくれない親を恨んで、それから、祖母、祖父との交流は絶たれてしまったわけだ。事情はよくわからないが、祖父母の悪口ばかりきかされていたので、「祖父母は悪い人達」という刷り込みが出来上がってしまい、会いたいとも思わなくなった。そして年月は流れた、というわけだ。我が親に言いたい。「明日は我が身と思えよ」とね。
2005年02月22日
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なんとはなしに、父親のことを思い出すことが多い。もう2~3年?会っていない。会ってみたい気もするが、会ったらケンカをしそうな気がする。会わない方が平和に過ごせる。だからといって大嫌いなわけではない。ヤツがあまりにも人間的に幼く、だらしがない甲斐性なしなだけだ。それが最も問題だ。自分の生い立ちを思うと、そこには父親の存在が色濃く浮かびあがる。今日も、朝、目がさめてから、夢のなごりか…(あまりよくは覚えていないが)。子供の頃に家にあったおもちゃのことを思い出す。「億万長者ゲーム」「人生ゲーム」「生き残りゲーム」「オセロ」ボードゲームは、主なものが家にそろっていたっけ。家族で遊び、近所のガキどもを呼んでは遊んだ。リカちゃん人形、リカちゃんのマンション、リカちゃんのスーパーマーケット、いろいろな人形、タイガーマスク人形、でっかいパンダのぬいぐるみ、人形関係も充実していた。よくよく思い出せば、家にはトランプ、花札をはじめ、ルーレット、囲碁、将棋、麻雀、骰子、ギャンブル関係は、ほとんど揃っていたなぁ。ルーレットあるって、どうよ?骰子なんか、革製のツボがあって、象牙の骰子だったもんなぁ。当時は象牙もプラスチックもよくわからなかったけど、象牙の方をどっかに放り投げてしまうと、オヤジは決まって「あれは高いんだぞ!しっかりさがせ!」と吠えたっけ。オトナになってから、あれが象牙だったと気がついたわけさ。時々、夜メシの後に、家族で骰子ゲームに興じたりしていたもんだ。1の目が出ると「ピン!」と言って点数が高い。さすがに「ちんちろりん」はやらなかった。あと、訓練みたいに、骰子をならべて、1個づつツボに放り込んでいくとかツボの中で骰子を積み上げるとか、技モノにもいろいろチャレンジした。骰子をツボの中で積み上げるのはオヤジしか出来なかった。正月になれば、家族で花札大会をした!トランプで7ならべ大会も盛り上がった!当時は、けっこう楽しかったもんさ…。そういや、ウチって初期のテレビゲームもあったなぁ。画面も2色程度で、テニスみたいにボールを打ち合うゲームと、ライフル(本物っぽいでかいので打つ)で画面を撃つやつ。なんかすっごい充実してたかも。今となれば、なにもかも、なつかしいもんだな…。オヤジのことが懐かしい。でも、今は、会おうとは思わない。親子たって、人間関係は難しいもんさ。
2005年02月07日
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イタリアで放浪している夢を見た。ここ2日は、自分に休養を与えるべく、寝たいだけ寝るという生活をしてみた。そんなわけで、昼まで寝ていたりするから、堕落した生活のようでもあるが、考えると長くて8時間の睡眠なので、さほどの堕落ではないような気もする。普通じゃン?要は世の中のみなさんがシャキシャキ働いている時間なのに、寝ているというシチュエーションが「だらしない」印象を与えるのである。朝起きた方がいいのはわかっているが、子供の頃からの夜更かし型の私です。で、イタリア放浪は、なかなかスリリングで楽しかった。なんで放浪してるのか、設定はよくわからないけど、リュックともうひとつ、擦り切れそうな青い布製のスポーツバッグを持って、パレードに出会って偶然とてもいい位置で見物できたり、ちょっと自分も目立ってみたり、そんなことがあって、また道を行き、高級ホテルのロビーを貧乏臭い格好で通り抜ける時にドキドキしたり。それなりに「しっかりしなくちゃ!」という気持ちで旅する私。途中、スーパーのようなところで店ともめて、「テコでもひきさがるもんかい!」という気迫で戦っていたり。「あれ、ここはあの時のあの場所なんだろうか?」と、物語りで知っている土地に偶然足を踏み入れてみたり。不思議なノスタルジア。どこにも自分が根ざしていない感覚。目覚めてみれば、みんな夢。でも夢は、語りかけてくれる。私に今足りないもの、必要なものは、旅行なのかもしれない。きままな旅をしたい…。さて、現実にできるのか、それは、現実の私次第だね…。それと、先日の霊感口説きにあってから、どうしても頭から離れないイメージがある。ひっかかっている、という感じだ。それは、笑う山羊(?)が目から催眠パワーを放つイメージなんだけど、そのイメージがどこからくるのかが気になってしょうがない。「もののけ姫」のワンシーンかなぁ?それとも他の漫画かなんかのワンシーンかしら?イメージの出所は、いまだ謎。そのうち忘れるかもしれないが…。人生には謎が多い。謎を解くように生きている気がする。最後にパズルが完成するのか、それとも未完成のままか、それは神のみぞ知る…。今宵も良い夢を…。
2005年02月01日
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実家の母とビールを飲む。いつもはセーブしている母が快調にとばすので、「だいじょうぶ?」と声をかけるほど。なんだかはじけてるなぁ。こっちは黄色ブドウ球菌のせいで、いまいち胃の元気がない。酒がすすまない私を尻目に、母のグラスはヒュッ、ヒュッと空いていく感じがする。なんだか、アブないぞ。前日に妹が、母と飲んだらしいが、その報告では、いろいろ父親の方の家に対する怨みを語っていたそうな。完全なるヨッパライだったそうな。そういうことは、いまだかつてなかっただけに、姉妹の間で話題になるわけで…。私の前にいる母も、確実にぶっちぎり状態に入りつつある感じだった。母は、昨年、2年の別居を経て、正式に父と離婚した。それまでの人生いろいろあったのは、母も娘も同じこと。娘としては、耐える母を理解しつつ、殊勝に押し黙っていた感があるのだが、いきなり、ここにきて母、ぶっちぎりである。私が小学生の頃、実は台所にジンを隠していて、誰にも知られないように飲んでいた話は、先日初めて聞いておどろいたが、今回は、父が別の女の人との間に「子供が出来た!どうしよう!」と大騒ぎしたという事件があったという話を初めて聞いた。『今、明かされる真実』って感じだ。私は、リポーターになって、もっとネタをひきだそうかと思ったくらいだ。そんなにゴタゴタあったとは、しらなかった。バカなオヤジだな。正月の「駅伝」を見ながら、私の卒業した大学の話になって、この正月、初めて母は、当時の私がどのような受験状態にあって、どういう基準で大学を選び、どういう条件で受験をしたのかを初めて知ったようだった。「ほぉ~う、そうだったんだ~」と感心していた。おい、今かよ!当時、私は、勝手に親には把握されているんだと思っていたが、全く関心を寄せられていなかった事実に、いまさら軽く愕然とした。「受験の倍率10倍だったんだよ」と私が言うと、「それは、すごいね~、そんな所だったんだ~」だって。合格した、その時に言ってほしかった。親子なんて、そんなもんかね。しかし、思う。母には母の大事な事に集中していたんだろう。親がいつでも子供に100%意識を向けられるなんてことはない。父が外で子供を作ったなんてことになったら、母はそのことで頭はいっぱいになるだろう。それはべつに私の受験とかぶってはいなかったが、母と父の人生を俯瞰すると、それはまるで「青春」のようなドタバタぶりだ。そこを、やつらの子供として生きる私と妹がいたわけで、うちの家族は、上下左右なしに、個人の集合体だったように思う。残念ながら分解してしまったが、私の中では、4人の「家族」の肖像は、しっかりと胸に残っている。生きていると、古くて役に立たない記憶はどんどん忘れていくが、忘れたくないことがたくさんあって、ちょっと切ない。だから、こうして書いていく。
2005年01月06日
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