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中学1年生の頃に、大好きな友人と交換日記していた。その日記が出てきたので、読んだ。なんともクリエイティブな文章が、面白い。私が引っ越すことになって、日記は2ヶ月くらいのものだったが、当時のことが思い出される内容で、興味深い。そのなかに、友人が私について書いていたこと。私の性格は、しつこくて執念深いところがあるそうだ。おおおおおぉぉ…。やっぱりそうだったのか。その性格はいまも変わっていないよ、友よ。キミも元気か?何に使う?キラキラ光るスパンコールのかわいいノート★デニム ノートブック
2009年08月12日
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昔の手紙や写真を整理していたら、中学生の頃に、家族全員で書いた作文が出てきた。そもそも我が父は、自分に文筆の才能があると信じて疑わない自信過剰な人だった。そのせいか、私は、小学校の文集に毎回先生の推薦で文章が掲載されるという文才に恵まれた。その後、中学1年生で初投稿した文章が新聞に掲載されるなど、実績のない父にくらべたら、堅実な才能の伸ばしぶりであった。…と、自画自賛するあたり、けっこう父ゆずりかもしれない…。で、その昔の家族の作文とやらは、父が号令をかけて、なかば無理矢理に全員に書かせたものであった。私は、無理矢理その編集をやらされていたのだった。(どんな家族だよ)それをワープロで打って紙にレイアウトして、最後にコピーをとって、冊子としてホチキスで留めて、「発行」したのだった。発行といっても、家族に配るだけだが、父は、親戚にも送ったかもしれない。すでに40を過ぎて、当時の文章を読むと、これがまぁ、父も母も、私に対する不満を書いていた。父は、当時13歳の私が自己主張をはじめたことがどうも気に入らないらしく、文章としては、肯定しつつも、作文全体から読み取れるのは、子供の分際で生意気に自己主張してくるが、しょせん子供なんだから、そんな主張は認めない的な印象であった。母の作文は、私がキツい言葉を使う事に対して、もっと優しい言葉を使ってほしいだの、女のコらしいふるまいをしてほしいだの、書いているが、これも文章としては肯定しつつも、私に対する不満を述べているのであった。妹に関しては、当時まだ小学校低学年であったため、こんな作文を書かされることについての文句から始まり、まぁ、たわいもない学校での出来事などが書かれていた。父は、私に、他の2名、つまり母と妹に作文を書くように説得する役目をムチャぶりしたので、妹の作文の出だしは、「これは姉に書けといわれたから書くのであって、この作文がどうなってもその責任は姉にあるので、自分は関係ない」という前置きであった。なんて仲の悪い家族だろう。たしかに当時、家庭内はギスギスしていた。だから父は、全員で作文などというヘンなことを思いついたのかもしれない。あとは、当時まだめずらしかったワープロを、使いこなしたかったのかもしれない。私もワープロを打つのは楽しかった。しかし、今、読み返すと、私はそんなに文句や不満を言われる人間であったのかと、ややゾッとする。しかし、おそらく父がいやがった自己主張というのは、あって当然の主張であったと思うし、おそらく、父は自分の思い通りに子供が言う事を聞かないことに不満を持っていたから、私のことを批判的に書いたのだと思われる。母がいやがった私のキツい言葉というのは、間違いだらけの母の行動や、世の中に対してストレートにものを言い過ぎたからかもしれないが、母は、なにかと間違っている人間だったので、私の批判的な言葉が、ぐさぐさと胸に刺さったのだと思う。母は、私と議論すると100%負けるような人なのである。妹に至っては、暴君の父と、その奴隷でしかない母と毘沙門天のような私のコンビネーションが巻き起こすトラブルに巻き込まれまいと、必死であった様子が伺える。そして、私は思うのであった。みんな誰でも自分の都合通りに動かない人間を批判したがるものなのだと。それは、相手が正しいとか間違っているとかいう問題ではなく、単に自分が気に入らないから、批判するのだ。そして誰しも、自分の考えが正しいと思って生きている。13歳の私は、そんなに悪い人間ではなかったと思うし、学校で問題も起こさず、成績もトップクラスだったし、友人も多かったし、まぁちょっと悪ふざけはしてたけど、親は、もっとほめてくれても良かったと思う。それが、こんなに批判だらけっていうのは、彼らの思惑と、私の状況が違っていたからにすぎない。こういうことで、むやみに傷つけられる13歳や14歳は、どれだけ多いだろう…。当時の私でさえ、この親の作文を読んで「ははん、また言ってるよ…」という冷めた感覚で受け止めていた。そうでなかったら、自分を批判する文章をワープロ起こしなどできない。いや、むりやりワープロ起こしをさせられたことで、感覚がニヒルになって冷めていったのかもしれない。どっちが先だったのか、今となってはもうわからん。家族全員で作文、などと聞くと、他人様は、こぞって「おやまぁ、なんて仲のいい家族」などと思うだろうが、それは父の思うつぼで、実情は、暴君の父が家族を無理矢理動かし、イジメに近いことを毎日行っていたにすぎない。しかし、家庭内の問題は、表には決して見えないものである。新聞に文章を投稿したのは、そんな両親に頭に来たからだ。あからさまに親を批判するのではなく、世間一般の大人と子供のありようについて書いた。当時のイジメ問題をからめて、大人批判。しかし、それを読めば、我が親達は、自分たちこそが、娘に批判されているとハッキリわかるはずなので、私なりの「仕返し」であった。新聞に掲載され記念品ももらえたので、私の「仕返し」は成就した。怒りはためずに発散するのが良い。この文章が長いのも、それだけ怒っているのである。書いて発散しているのである。古い手紙や写真を捨てるように、風水などで勧めているけど、こうして過去をひもとく度に、同じような怒りをおぼえたり、過去に対して改めて考察するなどの無益な行為を繰り返してしまう。捨てることは、必要かもしれない。整理しながら、捨てるべきか、とっておくべきか、など、逡巡することが多いのだが、迷ったらとっておく、よりも、迷ったら捨てるの方が、いいのかもしれない。ま、とってあったせいで、こういう駄文も生まれてしまうわけだし。なわけで、でてきた作文達は、すでにシュレッダーにかけました。さようなら。最近、シュレッダーにかけるものが多くて、手動のシュレッダーでは疲れるし、気が遠くなるので電動式を買いました。すばらしく効率が上がった。【送料無料】A4用紙なら5枚、CD/DVD/カードなら3分割 クロスカットシュレッダーSHR-375C▲コレを楽天で買った。良い感じです!これでジャンジャンバリバリ「さよなら」できる。ところで、余談ではあるが、14歳という年齢が、何かと問題にされることがある。問題を起こす年齢として。しかし、その原因について社会が明言することがない。それは、私の両親がまことしやかに13歳の私を批判したように、大人にとって、たいへん目障りで都合の悪い性質を14歳が持っているからであって、それを明言し肯定したいと思う大人は、この世にはひとりもいないっていうことなんじゃないかと思う。まったく相容れない世界が大人と14歳の間にあると思う。人生で最も戦わなくてはならない年齢は14歳である。40過ぎても、私はそう確信する。それは親のエゴとか、社会のエゴとか、建前と本音のいやらしさなんかと初めて出会って、それに負けない力をつけるための初陣なのだ。14歳しょくん!負けるな!戦え!…って、14歳は読まねーか…ははは。戦い方を間違えると、14歳の心の闇などというタイトルをつけられて、また別の意味で新聞に載ってしまうのである。とにかく、14歳は、たったひとりで戦わなければならないのである。
2009年08月12日
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学生の頃の日記が出て来たので、読み返してみる。古いモノは捨てた方がいいと思っていたので、捨てるつもりだったが、読んでいるうちに、捨てられないような気分になった。とにかく、毎日、世の中の自分を取り囲む不条理や、つまらない人間にダメ出しを連発し、常に怒りまくっている日記なのである。その怒り方が、哲学的な表現でまとめられていて、今の私なんかより、ずっとずっと文章を書く上での表現が豊かであった。それにしても怒っている。毎日怒りに満ちていたようである。そして、丁寧に、なぜ自分がこのように怒っているのか、その原因についても言及しており、「この怒りをわすれまいぞ!」という気概が見てとれるのであった。おそらく私は、自分の怒りを刻み付けたかったのだろう。読み返してみると、その怒りの感情は、今はすっかり持ち合わせないけど、たしかにその怒りの体験があったからこそ、今の自分があるなぁ、と、よくぞ刻み付けたな自分、と、感心するのであった。そして、読んでいると、あぁ、そうであったな、と、すっかり忘れていたことを思い出すのであった。禅の教えからすると、こうやって思い出すというのは、よろしくないらしいが、改めて、こんなふうに辛かったんだなぁ、と、大人になった自分の目線で読み返すのは、悪くない気がする。これは、一種の「検証」のようでもある。捨てるつもりで開いた日記だが、また保存袋に戻った。しかし、永遠に検証して楽しむわけにもいかない。どこかで、捨てなくちゃね。最近、多すぎる本とか、書類とか、部屋を埋めてるモノたちを見て、墓場までは持って行けないんだから、と、片付けたい衝動にかられて動いている。しかし、なかなか片付かない。もう人生折り返し地点なんだから、持ち物をせめて半分くらいに減らしたい気分なのである。こんなに難しい課題はなかなかない。それにしても、歳をとって、怒らなくなったなぁ。怒りの結晶のような若い自分の日記を読んで、つくづく感じた。こんなまるい人間になるとは、当時の友人達は想像もしなかっただろう。【62%OFF】ランキング1位取得!人気NO.1アルバム!10冊まとめ買いで送料無料!【62%OFF】フリー...【メール便で送料無料】 ヨーロッパで人気の paperblanks ペーパーブランクス。革表紙の味わい...
2008年12月04日
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6歳の少年が、母親がトイレにいっている短い時間に殺されるという事件が起きた。場所は公園。思い出したのだが、私も幼稚園くらいの時分に、トイレきっかけで母親とはぐれてしまったことがある。場所は、やっぱり公園。あまりに幼い頃の事なので、自分ではよく覚えていないが、インパクトの強い出来事だったのだろう、親とか親戚から、ずっと「あの時~」と聞かされて育った。トイレきっかけで母親とはぐれた私は、その辺をウロウロして母親の姿を探していたが、もはやその姿は「迷子」そのものだったのだろう。公園のすぐ横が商店街だったこともあり、親切なオバサンが、近くの警察署に私を届けてくれた。交番じゃなくて、警察署だったことが、この出来事を親・親戚にインパクトあるものにしたようだった。警察署預かりになった私は、会議室みたいなところで、ファンタ・オレンジかなんかを与えられ、住所と名前と電話番号を聞かれて答えた。まだ幼い子供が、住所、氏名、電話番号をしっかり述べることができた、ということで、えらくホメられ、この出来事は、私にとっては、けっこうポイント高いのだった。私の中では、好奇心の旺盛な自分が、つい勝手にウロウロしてしまったのだろうと思い込んでいたのだが、最近母親と話ていたら、新たな事実がわかった。トイレに行っていたのは、母ではなく、私であり、母は、私がトイレに行っている間に、近くのショップに移動してしまっていたのである。なんという無責任な母親でありましょう。今まで、私は、自分が「やらかした」とばかり思っていたのに。こういう「実は…」的なことを、母はずっとかくしていることが多く本当に信用ならない女だと思う。60代半ばになってから、ポロリポロリとボロを出す始末。幼児がトイレに行っている間に、その場を離れてウィンドウショッピングに行ってしまうなんて。普通の母親じゃないよなぁ。私の友人なんて、小学生の娘がトイレに行っている間、入り口でずっと待ってるよ。母が言うには「すぐそこの近くの店だった」から、わかると思った、であるが、律儀な性格の私は、もとの場所にいなければそれは「居ない」ってことだし、よもや自分の母親が、自分を放ったらかしにして、ショッピングに夢中とは思わない。話していて思ったのだが、母はこの件について、自分が悪いとはつゆほども思っていないようであった。なんか、無性に腹立たしいのであった。まぁ、事件と関係ない話であるが、なんとなく思い出したので。
2008年09月19日
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前の日記のタイトル、かなりキョーレツな印象だったかもしれません。オトウサンヲキリコロセ、ですからね。このフレーズに、私が初めて出会ったのは小学生の頃です。学校では、国語をやっており、わかりやすいテーマと題材で、先生とやりとりをしていた年齢です。私は3歳で絵本をスラスラ朗読でき、迷子になっても警察でスラスラ住所と電話番号を言えるような子供でしたから、家にある大人向けの書籍も適当に読んでいました。こんなかしこい子供を鍵っ子にした両親は、本当に考えがなかったと思います。両親の留守中に、すべての書棚を見聞しました。「オーラ○セッ○ス」というタイトルの本も適当に見ておきました。家には、親の性格を考えると、見栄を張っただけだろう?というような文学全集や、百科事典があり、両親が留守の小学生には、好奇心を満たすのに苦労はありませんでした。しかし、文学の棚にあった「高野聖」は、なんでこれがもてはやされるのかさっぱりわかりませんでした。その感覚は今でも変わりません。幼い感覚だからでしょうか???おそらく開高健の本の中に「オトウサンヲキリコロセ」はあったと記憶しています。開高健の作じゃないようですが。当時、子供の私は、父に対してわだかまりはあったものの(キリコロスまではいかんなぁ)と思っていました。こんなフレーズを父の書棚で見付けるっていうのも皮肉だなとか、そんなことの方を先に考えるヤツでした。なんと、まぁ、物騒な文学じゃ…と、思いつつ、忘れる事ができないでいた。これが、鳥の鳴き声がそのように聴こえる、という一種のオノマトペを使った表現であると知ったのは、つい最近のことでありまして…。とはいえ、あまりに物騒なためか、あまり流布しておらぬ。なんだかわからない人も多いだろうけど、まぁよい。当時、小学生だった私にとって、この表現の「出現」は、(果たしてお父さんやお母さんを切り殺すなんていいものか?)という心の問いかけになっていたように思う。このブログの読者さんなら、もうお分かりかと思うけど、私は、親に対しては、ずっと深い情念を抱いているのである。それが、愛情なのか憎しみなのか、なんともいえない。しかして、若きフリフリ13号は、親を殺すことはなかったのだ。よかった、よかった。むしろ今では親を心配しているくらいだ。いいやつなんだ。そんな自分を方向づけてくれたのは、あの強烈な「オトウサンヲキリコロセ、オカアサンヲキリコロセ」だったのかなぁと思う事もあり、今の子供達に足りないのは、自分の感情を遥かに凌駕したような強い感情の叫びなのかもしれない、と思ってあえてタイトルにしてみたんですよね。でもま、こどもはさほどネットしねーか…。「オトウサンヲキリコロセ」で検索かけても、あまりひっかかりはないですし。ものごとを統制していく世の中なんだなぁと感じます。でも、自分以上にイッちゃってる存在に、救われることもあるし、表現の自由は、ずっとあった方がいいと思うね。小林多喜二も売れてるらしいし。蟹工船良い死に様ではなかったらしい…。今日はテレビで「ターミナル」見たけど、プロレタリアート文学はやっとビザがおりた、みたいな感じかもね。
2008年09月06日
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あいやー!美しいバングルですこと!こういうガツンとしたアクセサリー、大好きです。【送料代引手数料無料】杯盤商品!希少!Loewe ロエベ ゴールド ブレスレット バングル 7657307先日、デパートのアクセサリー売り場で、大きめの指輪などをギラギラさせているブランドに出会いました。ダイヤだったら何千万円になろうかという大きな輝きは、もちろんフェイクだけど、特殊技術でダイヤと同じ輝きが出るとかなんとか。ダイヤじゃなくても、こんだけ光るならいいかも~。と、私などは思ってこちらの目もギラギラ。売り場のオネーサンが言うには、こんだけ良いものをそろえてきても、日本人の女性は、小さなアクセサリーを好むので、なかなか売れないと。たしかに、細すぎるくらいの金のネックレスに小さな小さな石がチョン、と乗ったトップというスタイルが多いよね。装いの奥ゆかしさなのであろうけど…。あと、あまり大ぶりだと、オバサンっぽくなってしまうから、そこは若い女性の危惧するところかもしれない。彼氏も引くだろうし。女性はあまりにドカンとしたアクセサリーをつけていると、むずかしいヲンナだと思われるかもしれない。彼氏もどんなアクセサリーをプレゼントしていいものやら、わからなくて困るだろうな。男を困らせない程度にわかりやすいファッションを選ぶのがモテるポイントだね。ところでロエベというブランドには、個人的な傷がある。学生のとき、やたら貧乏生活をしていた私。バイト先には、とてもおしゃれなお嬢様がいて、いつも仲良くしてたけど、ある日、彼女が大きな荷物を抱えてやってきた。中身は「ロエベのバッグ」だと言う。「お誕生日だから親に買ってもらったの」と彼女は言った。私はそもそもブランドにはたいして興味がなかったが、誕生日だからとブランドのバッグをプレゼントしてくれる親がいる彼女と、誕生日にもらったものといえば、ハンカチくらいの記憶の私の境遇を比べてしまい、落ち込んだ。そうとう落ち込んだ。同じバイトしてるのになぁ…とも考えた。彼女は、バイト代を好きに使えるのだろうが、私は、なぜか、バイト代から無条件に2万円を親にとられていた。学生のバイトだから、2万とられると、残りは2万とかになってしまう。しかたがないので、空いてる日は、めいっぱいバイトした。そういうこともあって、いつも暗く落ち込んでいた。それから時は経ち、社会人になり、買おうと思えばブランドのバッグだって買える境遇になっても、まだ、彼女がロエベのバッグを抱えて仕事先に来た日のことを思い出す。ロエベのバッグは、私と彼女の国境を分ける印のようなものだった。あれから20年くらい経った今でも、デパートのバッグ売り場でロエベのマークを見るたびに、思い出すのである。こんな思い出が、結局は一生忘れない思い出になってしまうものなのだなぁ、と、しみじみ思う。時々、ロエベのバッグを買って持てば、この思いから解放されるのだろうか?などとも想像してみる。が、そういうリベンジは、むなしい気分になるだけだろうから、しない。思えば、あれは、ちょっとした格差社会の構図だったのかも。今は、社会が格差で歪んでいる時代。私が感じたのと同じように、なんともいえない辛い思いをしている若者が、今の方が、多くいるのだろうと思う。経済格差では子供たちが心理的にいちばん辛いのではないだろうか。若いうちの苦労はかってでもしろ、なんて言葉があるけど、「辛い思い」はしないにこした事はない。心の傷となって残ってしまうから。ロエベのバッグ以外でも、そんな辛い思いを何度も経験した私は、まだ学生なのに、なんの物欲もない人になってしまった。欲を持つから辛いのだと、どこかで悟ったのか、ある日、自分が何も欲しくないことに気がついた。もう、なーんにもいらないのである。とても自由な気分であったが、どこか頭がおかしくなったんじゃないか?とも自分で思ったりした。およそ若者とは思えない感覚を手に入れてしまった。いわゆる無気力な状態とも違う。変な感覚。社会人になって経済的に人並みになってきた時、ようやく、良いものを自分のために買うようになった。贅沢もした。リハビリみたいなもんか…。でも、今でもロエベのバッグだけは、あの時の事を思い出すメタファーである。ロエベには申し訳ないが。【送料無料セール!】《26%OFF》Loewe ロエベ ナナメガケ 311.86.032 TRIGO GOちょっとぐらいは、欲しいかな。今は。エトロ スカーフでも、エトロのスカーフの方が欲しいかも…。ビバ!物欲!
2008年03月25日
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西遊記2 Vol.1シンゴちゃんの西遊記などのおかげでゴダイゴの歌声を聴く機会もちょくちょくあるわけだが、私にとってゴダイゴの歌声は、思春期の思い出でもあり…(EP)銀河鉄道999 劇場版主題歌特に銀河鉄道999などは、心に響くのであります。劇場で見た銀河鉄道999は、心の中に刺さっています。で、その銀河鉄道999を、テレビで放映するという時、やっぱり録画したいと思うのが普通ですが、当時はまだ、VHSビデオが「画期的」であった頃。中学生だったかな、私は。父に「ビデオに撮りたい」と申し出たところ、「ビデオテープ1本2200円」といわれて、妹と共同でなんどか2200円を上納して録画させてもらったおぼえがある。今思うと、あの2200円って…???自分の子供から金を取る親だったなぁ。しみじみ。殴られたり肉体的な虐待はなかったけど、なんだよなぁ、やっぱり。おおらかな愛のある親に育てられたかった。
2008年03月11日
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ここ何年か父に会っていない。ちょっと会ってみたい気もしないでもないが、会ったが最後、いろいろとののしられたり、金を要求されたり、害の方が多いのがわかりきっているので、会わないわけだ。向こうもこちらに会えば、チャンチャンやりあってしまうということがわかっているのだろう、アクセスはない。かわいくない者同士なんである。父は、最後の砦であった事務所も、家賃滞納で追われ、住む場所もなくルンペンになるか?と思っていたが、なんとかアパートを借りて生活しているらしい。と、風の噂に聞いた。軽自動車も所有しているそうだから、まったく不可解だ。仕事しているわけではないのに、どうしているんだろうか?いまどきのワーキングプアとかホームレスとか、そういったすべての単語があてはまらない父である。昔から何をして喰っているのかわからないところがあったが、今もそうである。知りたくもないが。ただ、ヤツに金がないのはあきらかで、誰かに迷惑をかけながら生きているはずで、そんなわけで、金をくれる人を常に探しているらしい。別れた我が母なら、情に折れてなんとかなるだろうと、たびたび口説きにきていたようだが、その母も昨年引っ越してその住所を教えていなかった。うっとおしいからである。ところが、あの男はどうにか調べて、母の新居を訪ねてきたそう。母はお金は渡していない、というが、本当はどうなのか…?茶を飲んで帰っていったとのことだ。しかし、調べ上げて訪ねてくるなど、ストーカーみたい。こえぇ~。こっちには来ないでね~。
2008年01月25日
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もう3年?4年かな?オヤジと会っていないが、どこでどうしているやら。風の噂では、海の近くにアパート借りて住んでいるらしい。とりあえず人間らしい生き方をしてるようである。また別の噂では、女が出来たとか出来ないとか。う~ん、性格は最低だが顔だけは良いからな…。60代でも浮ついた男よ。先日、昔父が入院して手術した際、その頃浮気されてムカ腹を立てていた母が、毎日病院でイビっていたという話を母から聞いた。私はその時まだ中学生だったような。そんな裏舞台が展開していたなんて。次々と母の口から暴露ネタが出てくるので、最近は「今日は何が出る?」と身構えるようになってしまった。酒を飲ませてゴキゲンにさせると新ネタを吐露する。父の甲斐性のなさにあきれて育ったが、最近では母の性格の悪さ、その実体に愕然とさせられる。やれやれ。小さなバイキング ビッケ DVD-BOX(1)【POBD-60227】=>10%OFF!小さなバイキング ビッケ DVD-B...
2007年10月25日
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日経新聞のCM、会社に新聞を持ってきた娘が切り抜かれた新聞を見て「もう!お父さん!」と切ったであろう父を責めるシーンがあるが、あの新聞の代金は父が払っているのか、それとも娘が払っているのか、とても気になるフリフリ13号であった。「日経育ち」というキャッチコピーからして、お父さんが払っているっぽい感じにケッと思う。私の体験だが、子供のときは新聞代を親が払っていたが仕事の関係から私が日経新聞を自分のお金でとるようになった。しかし、ニュースが好きな父はよく新聞を切り抜く人で私の日経も切りたくてしょうがない。私が読んだあとのゴミをあさるように切り抜きしていたことがある。私が自分でとっている新聞だから、私が読む前に切抜きなどしようものなら、そりゃ許せんと、私は父を怒鳴るであろう。親が払っている新聞については、朝も早くから主要な部分が切り抜いてあって、読めないことがあったが、よもや人の新聞でそれはすまい、ということだ。他人同士のような家族だった。american crafts a la mode crepe
2007年07月04日
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子供の頃、川崎で頭の割れた人がアスファルトでもんどりうっているのを見たのが始まり。小学生の時、学校帰りに車に当てられた。ノロノロだったので怪我はなかったが、運転手は「ゴメンね~」と言っただけで走り去った。オトナになってからも携帯に夢中になってる運転手がブレーキをしっかり踏んでいなかったため横断歩道を渡っていた私にノロ~っとぶち当てた。小学生当時、変質者が出るという噂があり、帰り道は特に気をつけるように言われていた。そんな折、通学路で殺人の死体が発見された。第一発見者はお友達。桜の木の下に死体は置かれていた。中学に入るとすぐに交通事故に遭遇。自分ではなく数十メートル離れた横断歩道で同じ学校の女子がダンプにひかれた。騒然としていたが、少し離れていたため、現場が見えなくてよかった。悲惨だったらしい。その女子が学校に再び来ることはなかった。大学でも、交通事故があり、現場を通ると、ミンチになった肉がタイヤの模様になって道路にこびりついていた。直後にそこを通ったため。通勤途中、目の前でダンプが横転。もう少しで歩道に突っ込むところだった。横転したダンプと自分の距離10メートル。危なかった。あまりの振動に、心臓が飛び出そうだったよ。運転手は近くの会社の人に引っ張りあげられたが、フラフラだったので、車体から落ちたりしていた。そのダメージの方が大きいのでは?と思った。20代の頃は、事故の多い国道沿いを歩かなければならなかったので、毎週、新しい事故の痕跡を見ながら会社に通う。神奈川県は交通事故の多いことで有名だ。ビルの壁に大きな穴が開いていたのはまるで漫画のようであったし、ガードレールがひしゃげていたり、ポールが折れていたりするくらいは、もう驚くに当たらない。今日は何かな?という感じ。そういや、ダンプ横転もこの道。ある夜、暴漢に遭ったのもこの道。後ろから突然羽交い絞めにされ、胸などもまれたが、暴れて危機を脱出。逃げる男はチンピラ風だった。両側3車線の国道で、人も歩いているが、むしろ誰も気に留めない。車は、暴漢に襲われているのを見ても止まりはしないし、騒音が激しいので、誰も気づかない。都会は恐ろしいものだな、と初めて思った。家に帰ったら、口紅が頬骨のあたりまでついていた。口をふさがれたからだ。ここ数年は、事故に遭って救急車を待っている現場に2回ほど遭遇。意識不明の若者がアスファルトに倒れていて、周りに数人の人がいて、救急車を待っている。事故に遭うと、このようにあまり頼りにならなそうな通りすがりの人たちに身をゆだねるしかないのだなと思い、より一層、気をつけようと思う。鉄骨が落ちてきて頭を打って運ばれた人の工事現場の横を通ったりもしたな。「今さっきのことだよ」と言われる。その救急車とすれ違ったのだ。そういえば、横浜の焼肉屋の大きな牛の像が盗まれたことがあったけど、盗んでいくトラック、つまりその牛を荷台に載せた軽トラックとすれ違ったこともある。牛はその後公園で発見され、もしかしたら話題づくりのための自作自演かもしれないと思った。夜だったけど、堂々と運んでいたもの。血糊を踏んだ事もある。駅前の雑居ビルで、看板を壊されたマスターが、壊した若者を店の外まで追いかけていって刺したとかで、未明の出来事だったらしいが、その血糊が横断歩道に掃除されずにあったのだ。ぬるっとするから何かと思って下を見たら、血だったのだ。ゲッと思ったが、そのまま会社へ。事件のことは、その後家に帰ってから知った。ちなみに、その雑居ビルでは、ママに横恋慕した客が焼身自殺を図るという事件もあった。呪われたビルである。事故多発の国道もすぐそこ。近所の陸橋では飛び降り自殺があった。よく通る陸橋だった。引越しをよくする家だったが、引っ越すたびに泥棒に入られた。3回。そのうち1回は私が家にいる間に侵入。警察に「はちあわせなくて良かった」と言われる。まったく。コタツで寝ていたのだった。起きたら窓が破られていたというもの。事業をしている父は何度も人に騙されて憤っていた。詐欺師みたいな人とつきあうからだ。世の中、油断ならねぇと、父を見て思った。バイト先では、おつりをちょろまかし続け、10万円ほどガメた社員がクビになった。おつりをちょろまかす現場をおさえるために、バイト&社員がみんなその社員を監視し続け、ようやく犯人が確定したのだった。私も、見た。証言もした。ちなみにそこの主任にはセクハラされた。学生のときは、のんびり屋の友達と一緒にいるとき、目の前で置き引きがあった。マクドナルドで注文している間、カウンターに置いていた荷物を、少年がさりげなく持って出て行ってしまった。「ちょっと、今の!?」と声をかけたときにはもう遅かった。友達はのんびりしすぎだと思った。ショッピングセンターでベンチに財布を置いて数メートル先のジュークボックスにお金を入れている間に、財布を取られた友達。私は、すぐそばに座っていたが気がつかず。ほんの一瞬の出来事。ひとときでも財布を置いちゃダメだ、と、友達に諭した。ちなみに痴漢は数え切れないほど、いろいろ遭遇した。小冊子が書けるだろう。会社に入ればセクハラされるし、モラハラされるし、そもそも我が父がモラハラだったし。モラハラは人生を左右するから、問題だ。そんなわけで、私はとても疑い深く、警戒心の強い人間になりました。神様が、そう生きろ、と言っているとしか思えません。御心のままに生きるのみ。いろいろ語れるほどありながら、大きな事故にも遭わず、レイプもされず、入院したこともなく、両親もいて、友達もいて、それなりに生活できている自分の人生は、幸せです。海外旅行も、行った先でテロがありましたが、無事でした。「何か」ある人生なのです。新解釈格言・ことわざ・名言・警句大全書
2007年06月07日
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夜、普通の主婦がいないスーパーにお買物に出かける。最近の私はとっても不健康な生活をしている…ううぅ。スーパーの前にある喫煙コーナー(?灰皿があるからなぁ)に足が悪くて杖を持った動きがけだるい40代後半くらいの女性がタバコを吸っていたんだけど、化粧はそこそこキレイにしているし、そのへんのスナックに行けばけっこうモテそうな風情のハスッパな雰囲気の女性だった。死んだ叔母を思い出した。ちょっと雰囲気が似ている。叔母は、それなりの年齢の時にお見合いをして結婚したものの、相手がぐうたらなのに頭に来て、数ヶ月で離婚した人だった。その後は真面目に工場勤めをして、定年まで働き、独身のまま亡くなった。タバコの吸いすぎだと思うが、肺にたくさんブツブツが出来て死んでしまった。子供の頃、毎夏ごとに、山形の叔母の家に泊まりに行った。夏休みを山形の灼熱の盆地で過ごした。叔母と祖母の二人暮しの家では、叔母がルールだった。田舎の人だからか、厳しい節約ルールがあってちょっとでも守らないと口うるさく注意されたっけ。でも、独身だった叔母は、近所のスナックなどに行き楽しんでいる姿を私に見せてくれたのだった。その頃私は小学校高学年だったと思うけど、オトナの世界を見せてもらった。ビアガーデンにも連れて行ってもらった。けっこう大きな特設ステージがあって、叔母は「歌って来い!」と私に言ったけど、引っ込み思案していたら一緒に出ようと行って説得してくれた。いざステージに上がってカラオケが鳴り始めると、私はけっこう堂々と歌えた。曲は当時流行っていた「津軽海峡冬景色」。あぁ、こんな事もできるんだ~私、と、度胸がついた。そんな体験をさせてくれた叔母だった。我が父母も、酒飲みであったけど私をスナックに連れていってくれたことはない。なんというか、ウチの母が、父の行くスナックに連れていって欲しそうではあったな…。それでもどちらがモラルに厳しかったかといえば、子供をスナックに連れて行った叔母の方だと、今でも思う。叔母は厳しい生き方を選んだ女だった。スーパーの前で会った女が、思い出させてくれた。悲しい別れをした叔母であったから、ずっと悲しい気持ちの想い出ばかりを抱いていたのだけれど、そいうえば楽しい事もいっぱいあったなと、元気だった時の叔母の姿に似た女性が思い出させてくれた。私は両親に育てられたが、叔母にも育てられた。叔母は第二の母でもある。改めて感謝の気持ちを贈りたい。合唱。
2007年04月20日
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レッド・ツェッペリンが大好きだ。昔、ツェッペリンな男と付き合った。良い思い出である。その後、ディープ・パープルな男とも付き合う機会があったが、こちらも衝撃的な思い出である。ディープ・パープルな男はもともとレーサーであったそうで、ドライブなどは、激しくスピードが出るので空を飛んじゃうかと思わされたし、何事も激烈なのであった。ディープ・パープルもだいぶ聴いたが、結局、ツェッペリンが良い。しっくりくる。ツェッペリンな男に歌詞カードを借りて何を歌っているのか確認したら、あまりに意味がないことを歌っていて、びっくりしたっけな。後年、リリー・フランキーがラジオで「ロックって言うのは、キスしたい!とか好きだ!とかいう言葉をかっこよく繰り返すそれだけなんだ、いかにかっこよくくだらないことを歌うかなんだ」と言っていたのを耳にしたが、激しく頷ける。そんな私もビートルズな男とは付き合ったことがない。ビートルズは苦手だ。ついでに言うと村上春樹も苦手だ。村上龍はすらすら読めるが、村上春樹は私にとって外国文学のようによくわからない。ちんぷんかんぷん。アレがわからないと日本人じゃないくらいに売れてしまったので、ちょっと後ろめたい。その点では恨んでいると言っても過言ではない。因数分解と同じだな。でも、いまさら読まないぞ。レッド・ツェッペリン/プレゼンス(紙)愛と幻想のファシズム(上)【CD】ディープ・パープル/マシン・ヘッド<2005/6/22>
2007年04月07日
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人生を生きやすくするためには、わからないことをなくしてしまうこと。自分にとって「わけのわからない」ものごとを、出来るだけ少なくすること。そのためにはいろんなことを知らなくてはならない。学ばなくてはならない。でも、学ぶには、タイミングってものがある。学校に通っている間に教わることは、いったん社会に出てしまうと、誰も教えてくれない。だから、学校に通っている間に、学校で学べることは精一杯学んだほうがいい。ただ、思春期とか、いろいろ精神的に不安定な時に、そんな風に合理的に割り切って勉強できないってこともある。勉強を放棄する事が、生き方につながると信じて、賭けをするように生きる場合もあるし。私は今40歳だけど、いまだに心残りなことがある。因数分解がわからないことだ。あのサイン、コサイン、タンジェントっていうのが全くわからない。今になって、どこでそれを教えてくれる?このまま、一生、因数分解がわからないまま死んでいくのは、なんだかイヤである。どうしたものか…。自然数解が存在する全構造の解明
2007年04月03日
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奇跡というほどではない偶然を体験したり、普段と違うモノを食べたりと、忙しい日々。目まぐるしいと脳が睡眠を欲する。よって、余は寝る。寝る寝る寝るったら寝る。おやすみ~。
2007年03月28日
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喫茶店のバイトをしている頃、家の凋落とともに、差し押さえを体験しました。かさんだ借金を返す甲斐性のない父も悪い。そもそも父には、借りたものを返すという発想がなかった。「ないものはしょうがない」と頑張るから、結局サイアクの状況を迎える。「明日、裁判所が来る」そう父は言った。「なんでもかんでも差し押さえられるから、自分のものには名札を貼っておくように!」とのことだったので、その晩、妹と名札を作って自分の持ち物に貼り付けた。翌日は、留守中に裁判所は来ていたみたいだった。父のモノは差し押さえられてしまった。サイドボードとか、タンスとか。まぁ、そんなに高価なものはなかったので、裁判所も「なんでぃ」って思ったんじゃないかな。子供はしっかり名札を貼っているし(笑)。それで家財を失い、家を失い、引っ越すことになってバイトもやめることになったんだったなぁ、そうだった。父は差し押さえについて、「あとで競売に行って買い戻せばもとどおりだ」と言っていたが、引越し先に、タンスがあったのは買い戻したのだろうか?あまり関わりになってないので、ようわからん。しかし、今日のニュースでは、差し押さえはアポなしで来ると言っているけど、父はなんで「明日来る」ってわかっていたんだろうか?それもあまり関わりになってないので、ようわからんな。
2007年03月22日
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東急東横線の駅の商店街を抜けたところに喫茶店はあった。人は多く商店街はいつもにぎわっていた。学生街だし、活気があった。喫茶店はいつもお客さんが入る。常連さんもいた。一人の常連のオジサンは、カウンター席がお気に入り。いつもカウンターでコーヒーを飲む。カウンターがあるあたり、ちょっとBARっぽいつくりになっていた。オジサンはさだまさしみたいなヤサオトコ風で、店に自分のウェッジウッド「ワイルドストロベリー」を預けていて、彼が来ると、店はそのカップでサーブしていた。特別扱い。ある日、チンピラヤクザ風のセカンドバックを持ったお兄さんと、その情婦といった感じの色っぽい女性が入ってきた。賑わう商店街には、こういうちょっと非合法な人々もいて、時々、見るからに怪しいお客さんが入ってくるのだ。角刈りカツラ【パーティーグッズ・仮装・かつら・ウイッグ】ウブな私は、とっさに「あ、コワイ」と思ったが、仕事なのでいつも通りに「ご注文は?」と聞きに行った。たしか、ハンバーグセットだかなんだか食事メニューを頼まれたので、フォークとナイフをテーブルにセットしに行ったんだ。白いナフキンを置いて、その上にフォークとナイフを並べる…はずが、空調にあおられたのか、ナフキンがひらひら~っとテーブルの下に落ちてしまった。「あ!ヤバ!」よりによってこんな怖そうな客に失態!「あが~!」と思ったが、笑顔で「スミマセン」と拾おうとすると、なんとチンピラ兄さんが、とっても優しい声で「あ、いいよいいよ~」と自分で拾ってくれた。声が柳沢慎吾みたいなんで拍子抜け。女性の方がすごかった。私に対してではなく、チンピラ兄さんに「ちょっとアンタ何やってんのよ!」とがなりつけてる。コワイコワイ。真ヒゲのOL薮内笹子(1)見た目はどうみても怖いチンピラ兄さんが、見た目情婦っぽい色気ヲンナに言われ放題であった。思っていたのと逆であった。私は、この時、人は見かけだけで判断できないものだなぁ、と、しみじみ思った。チンピラ兄さんは、料理を出しに行った時も、ソフトな対応で優しかった。ヲンナは睨んでいた。
2007年03月19日
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太ったお兄さんとやせたお兄さんの二人は同じ大学の学生だった。どちらかというと太ったお兄さんの方と一緒に働くことが多かったのは、単純にシフトのせいだったのだろう。太ったお兄さんは、もうすっかりベテランって感じだった。料理担当はちょいハゲオヤジだったが、それ以外の注文は、なんでもこなしていた。彼がいちばん嫌がっていたのは、アイスティーを作ることだ。アイスティーは、熱く淹れたものを氷の入ったグラスに注いでかき混ぜるのだが、この時、上手にやらないと、アイスティーがにごってしまうのだ。よく失敗して「あぁー!」と声を上げていた。彼の「あぁー!」には怒りが含まれていた。情けない「あぁー!」ではなくて「なんだこのやろー」的な「あぁー!」。アイスティーの注文を受けただけで、ちょっと顔が曇る。とてもわかりやすい人物であった。適度な忙しさの時は、機嫌が良いが、混んでくると無口になり、少し汗をかきながら怒気を漂わせた表情で黙々と仕事をする。60人くらいは入れそうな喫茶店であったから、混むとけっこう忙しい。特に彼らが通っている大学の学生が集団で大挙してくる事が時々あって、そんな時は、不機嫌どころか「戦闘体制」モードに突入していた。顔が怖いし、真剣だし、話しかけることもはばかられる雰囲気になった。学生40人の注文を一気に受けるのだから無理もない。で、中には「注文間違い」というのが発生することがあり、この場合、注文をとった私に対して「なんだこのやろー」的なリアクションをされるので、ちょっとドキドキしてしまうのであった。学生の集団は入ってくるなり騒がしいので、注文をよく聞き取れなかったりする場合があった。背後から手を伸ばしてテーブルに注文の品を置くのだが、大笑いをする際に、一気にのけぞった女性が、私の持っていたステンレスの丸盆をゴイ~ンと後頭部で鳴らしたこともあった。悪いのは客だが、「スミマセン」と謝るわたし。集団でこられると困るのは厨房だけではなかった。太ったお兄さんの面白いところは、チョコレートパフェのトッピングのバナナを、たまに勝手に「オマケ」と言って増やしちゃうところ。バナナは1本が基本なんだけど、2本にしてしまったことがあった。2本バナナが刺さったパフェは、なんとなく格好悪かったが、お客さんはちょっと嬉しいのかも…?やせたお兄さんとは、そんなにお話したこともなく、印象が薄い。ただ、パチンコが得意であり、月に10万円以上稼ぎ出すそうで、それで喰ってるとかなんとか…。すごい特技だと、感心したことがある。太ったお兄さんには、そんな特技はないようで、喫茶店の厨房でひたすら客の注文と戦う日々のようであった。私は浪人生であったので、まだ学生の彼等をあまり理解できずにただ、ながめていたんだ。ふ、若かったな…。
2007年03月18日
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店長は、今思い出すと、とてもイイ男だった。顔はガルシア風味であったが、全体の雰囲気は松田優作を崩したような感じだったといえなくもないし、なにしろ、あまりしゃべらないのがシブかった。あまり会話した記憶がない。「あぁ」とか「そう!」とか「こうやる」とか「やって」とか「だめ」とか「いいよ」とか、そういう短い言葉しか発しなかったように思う。他の従業員から聞いた話では、店長がしゃべらない理由は「しゃべると疲れるから」だそうだ。私などは、いくらしゃべっても疲れないので、そんな店長が不思議でならなかったが、店長という立場ゆえに疲れる場合もあるのかもしれない、と、今ならすんなり理解できる。ムダ話をしているところを見た事がないし、大口をあけて笑っているところも見た事がない。はしゃぐ、という事がなかった。当時、店長はおそらく30代前半ではなかったろうか…。同じ年齢のそのへんのサラリーマンに比べたらえらく緊張感のある人間だったと思う。私は、けっこう仕事をしっかり出来ていたので、店長から叱られたりすることもなく、どちらかというと認めてもらっていた。なぜ3ヶ月でやめることになったかというと、私の家が没落して引越しを余儀なくされて家と喫茶店の往復が困難になってしまったからである。店長に相談すると、すぐにやめられるのは困るから、店長の兄である店のマネージャーという人が、夜は車で家まで送ってくれるという。一応、未成年であったし、バイトの終わる時間が夜10時過ぎであるため、そのように気を使っていただいた。マネージャーの車というのが、白いフェアレディーZだった。「僕のZで送りますよ」と、毎日閉店時刻になると店の前で待っていてくれた。ありがたいことであった。残念だったのは、マネージャーがちょっと小太りのオジサンで、(もしかしたら、そんなにおじさんではなかったかもしれないけど)顔もイマイチだったことだ。これで、マネージャーがちょっとイイ男だったりしたら、家路までの短い夜のドライブもまた、違ったムードであったかもしれなかった。そんなわけで、何事もなく、無事に家に送り届けていただき、感謝している。本当に、やめてしまう最後の最後まで、店長は「もっと続けられないのか?」とひきとめてくれたが、ずっとマネージャーに送り続けてもらうわけにもいかないし、やめることに決めた。無口な店長は、「惜しい…」と、ひとこと言ってくれた。私は、人から必要とされるという感激を味わった。一生懸命働くって、いいことだなぁと思った。サティ:ピアノ・ソロ作品全集
2007年03月17日
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高校を卒業してから、私は地元の純喫茶でバイトをはじめた。初めてのアルバイトが喫茶店のウェイトレスである。オレンジと白のストライプシャツに、黒のタイトスカートが制服だったけど、あまり好きなセンスではなかった。学生街だったこともあり、地元の大学の学生がバイトで厨房に入り、せっせと飲み物を作っていた。太ったお兄さんとやせたお兄さんの二人。私の他にはウェイトレスがもう2人。1人は、すっかりオバサンで、以前から勤めている人。もう一人はまだ高校生だったかな?オキャンな娘で、年下だったが、背丈はずいぶん上だった。店長はパンチパーマが伸びたような髪形をしていて、ゴンザレスとかガルシアという名前の方が似合っているような顔立ち。シブイ男であった。あまりしゃべらないし、いつもムッとした表情をして店内を鋭い視線で見渡していた。既婚で奥さんと子供がいるらしかった。その喫茶店では、ハンバーグセットや、カレー、ピザなど、ひととおりの料理を出すので、食事目的のお客様も多い。カレーはよく煮込んだビーフカレーで、絶品であった。カレーや食事メニューは背の低いちょいハゲのオヤジが担当していた。もちろんコーヒーも本格派で美味しい。店に入ると、バイトは一杯だけコーヒーをサービスしてもらえる。本格的なアイスコーヒーの味を、そこで初めて知った。それまでの私は、ネスカフェで作ったアイスコーヒーしか知らず、ホットコーヒーは、サイフォンでいれたりしていたが、豆にこだわりがなかったので、味覚はまだまだ未発達だったのだ。この喫茶店が、私をオトナにしてくれた。そんなわけで、地元に根をはった人気の喫茶店で、毎日けっこうな客の入りであった。ここでのバイトは、3ヶ月程度で短かったが、私にとっては、濃い体験だった。コーノ サイフォン SKD型5人用(布タイプ・アルコールランプ付)
2007年03月17日
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買物がてら道々考えていた。10代からのイロイロ。フェアレディZで送り迎えされても、シボレーのドライブに誘われても、バラを100本プレゼントされても、高級フレンチに連れていかれても、ロールスロイスに乗せられても、たいして嬉しくなかったんだよなぁ…。何をしてもらうのが一番嬉しいんだろう?私。よく母に「オマエは何をプレゼントしてやったらいいのかわからん」と、言われたけど、ん~、確かに。ちょっと自分でも考えてみなければ。そうそう、芸術的なモノをもらうと嬉しかったりするな。あと、美味しいモノか。もちょっと鮮明にせねばな…。みんな、自分が何を一番喜ぶか自分で知っているんだろうか?どうなんだろう。そこのあなた、どうですか?白蝶真珠スペシャル
2007年02月17日
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ふと、モアイのことを思い出した。ティッシュスタンド ビッグモアイ遂に出た!モアイのティッシュスタンド。友達に自慢できる度No.1う~ん、友達に自慢できるのか、微妙~。このサイト、うんとこの商品を押していておかしい。「あなたのお部屋がイースター島に早変わり」というコピーは、いかがなものかと思うゾ。昔、お勤めしていたとき、部長が電話でしきりに相手に待ち合わせ場所を告げていた。電話口にツバを飛ばしながら、大きな声で「アモイですアモイ!!渋谷のアモイ像のところで、それでは!」とガナっておりました。渋谷の有名なモアイ像の前で待ち合わせるのだということは、聞いていてニュアンスでわかったけど、アモイって何だ?その後ちゃんと落ち合えたらしい。アモイの件は部長に突っ込まないで同僚とネタにしたのは、いうまでもない。
2007年02月12日
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ユダヤの格言集だかジョーク集だったか、単行本で何冊かシリーズになっているモノがあった。中学生のころ、目医者に結膜炎を治しに行くのに、いつもその本を持っていった。さびれた医者で、私のほかにあまり客もおらず、目だったのか、「本がすきなのね~、勉強家ね~」などと先生に言われたが、本の内容を知っていたら、そんなに褒めはしなかったろうな。バカな人に1時間つきあうと、1週間バカになる。バカな人に1日つきあうと、1ヶ月バカになる。バカな人に1週間つきあうと、1年間バカになる。というような事が書いてあった。そんな2~3行の短い文章がいっぱい掲載されていて、かなりシニカルなものも多かった。上記のバカ説は、非常に心に刺さったので、今でもバカな人には極力時間を割かないように努めている次第。ユダヤ・ジョーク集とっておきのユダヤ・ジョークユダヤ最高のジョークユダヤ人5000年のユーモア続ユダヤジョーク集ユダヤ・ジョークの叡智けっこう売り切れているモノが多い。▼これは真面目な格言集らしい。ユダヤの格言99いまや、私が読んでいたその本は売っておらず、あのふざけた内容の満載だったユダヤの書籍は、いまさら読み返してみたいと思ってももうないのである。残念なことだ。
2007年02月08日
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横浜は、港からちょいと離れると坂の多い街が多い。港北区に住んでいた時、自宅は坂のてっぺんにあった。学校から帰る時は、その長い坂を上らなければならなかった。風の強い日は、髪が風に弄られるのが好きだった。風に髪とスカートを好き放題にさせながら登る坂道。ある日、坂の上の方にある、金属製のフェンスが太陽に反射してギラリと光った。坂の途中の私は、その光を目指した。いつか越えなければならないフェンスがそこにあると感じた。輝くフェンス。今もそのフェンスを見つめて坂を登っている気分…。Wan-Gan King / 鈴木博文
2007年02月07日
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今日1月31日は、我が家の「どろぼう記念日」である。私が中学生の時、まだ新築間もない我が家に初めてどろぼうが入った。泥棒って、泥の棒って書くんですね。まさにその日は、どしゃぶりの雨で、泥棒は、台所の窓を割り、サッシの鍵を開けて侵入した。我々がその侵入に気がついたのは、朝になってからだった。台所の床が泥で汚れていて、居間の絨毯にも泥がついていた。その泥の足跡は、居間にある大型の金庫の前で、たくさんこすっていた。鍵を開けようと粘ったのだろう。台所の棚の引き出しもちょっと開けたままになっていた。この状況は、どうみても泥棒に入られた。警察に電話。まだ中学生だった私は、鑑識さんに指紋をとられるという貴重な体験をさせられてしまった。幸い、家族全員寝ている間に侵入~脱出まで終わったようで、犯人と鉢合わせにならずに良かった。金庫は結局開かず、開けても実際たいした物は入っておらず、悔し紛れに盗んだと見られる、仕事関係の書類の束だけが、家の裏で発見された。それは、仕事上大事なものであったようだが、換金できるものでもなかった。泥棒にしてみれば、入り損な家であったことだろう。その後、わかったのは、ウチで収穫がなかったので、隣の家にも侵入しようとしたらしいこと。お隣も警察を呼んでいたのだ。真夜中に。お隣さんは、侵入しようとしている人影に気がついてすぐに通報したらしい。犯人が強盗に変身しないとも限らない状況だったので、お隣の方が、ちょっと危険だったかも。ま、そんな事があり、その後、引越し。引っ越した先で、また入られた。その時も、たいして家に盗るものなどなく、母の指輪が1個なくなっていた程度であった。オンボロな家なのに、なぜ狙われたのか不思議。その後、引越し。またまた入られた。オンボロアパートなのに、なぜ狙われるのか、ほとほと不思議。この時、私は家の中でコタツで寝ていた。気がついたら、侵入の形跡があったのだ。サッシが割られていたのを発見した時は、ゾッとした。泥棒と鉢合わせするところであった。居間の電気は外から見えないので、誰もいないと思ったのだろう。侵入してから電気が点いているのを見て、あわてて引き返したに違いない。何も被害はなかった。警察からは、「下着とかなくなってないですか?」と聞かれたが、あいにく下着の数など把握していなかった。この時は、20代であったが、お洒落な下着を買うほどの金銭は持ち合わせていなかったし、専ら通販で安い下着をオーダーしていたのだ。まぁ、多少なくなっても惜しくもない。ただ、近所に変態の覗き野郎が住んでいることを知っていたので、そいつの仕業かと、ちょっと疑いつつ気持ちは悪かったな。お隣さんの息子が、よく覗きをしでかすので、我が家では問題になっていたのだ。警察には、言わなかった。やはり憶測の域を出ないし、お隣さんである以上、つきあいもあるからだ。そんな思い出たちが蘇る…。今日は私の「どろぼう記念日」毎日が記念日。(vol.2)
2007年01月31日
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不二家なぁ…。「隠してやりおおせたかった」という点では、遺体バラバラにするのと変わらないね、考え方が。バレなければ、よかったんだろうけど、バレちまったら仕方がない。とりあえず腹を抱えて入院騒ぎとかないわけだから、実害は低かったという事でナンボか救われているね、不二家。学生の頃、バイトの話で盛り上がった時、不二家の工場でバイトしてたっていう人から聞いた話は戦慄モンだった。ケーキなんかは、ポロっと床に落ちても、ヒョイっと拾ってそのまま製品ラインにのせちまうのは当たり前だったとさ。その人は「不二家のケーキなんで絶対食べない」と言っていた。でも、それってもう10年以上前の話。今回、露見したということは、さらにひどい状況で稼動していたということなのだろうと思われる。拾ってヒョイどころか…って話でしょうね、きっと。ネズミの城になっているという話も聞くし。よほど、ひどい状況だったんじゃないかな~?ウチの家族はもともと不二家を愛していたんだが、ある時からコージーコーナーに浮気した。不二家とコージーでは、コージーのケーキが大きくて値段も高くてちょっと格が上だった。だから、就職したての私なんぞは、自分のレベルが上がったと誇示せんばかりに、不二家ではなく、あえてコージーのケーキを家に買って帰ったりしていたのを思い出す。懐かしいなぁ。あの頃はコージーコーナーのナポレオンパイというのが、とっても贅沢で、ちょっと高くて、憧れだったんじゃ~。女子たちの間では、デートでミルフィーユを頼むのは危険な行為!とかいう話題が盛り上がっておった。そんな時代じゃった~。クリスマスのケーキがいつしか不二家からコージーに変わっていった。コージーの方が、はさんであるイチゴのボリュームもあって、美味しかったのだ。家族全員の一致した意見でコージーが定番になった。コージーは快進撃して、シュークリームもとってもジャンボなのに100円!だったから、もうね、コージー万歳になっていきましたとも。学生時代、バイト先に韓国人の女の子がいて、アーチストだったから、「アーチストはお勤めして仕事なんかしちゃいけない」という信条で、いつもお金を持っていなかった。バイトは良いらしい。で、いつもポケットに数百円しか持っていなかったのだが、ある時、彼女にコージーのシュークリームを食べさせちゃったら、「なんですかぁ、これは、美味しいですね~」という具合に夢中になってしまった。「これが100円は、たまりませんねぇ」と、彼女はポケットの100円を、シュークリームに消費するようになっていった。それくらい魅力的なコージーだった。比べて不二家ときたら、話題はまるでないし、メニューも変わりばえなし。ケーキは昔にくらべて小さくなったような印象だったし、「だったらコージーで」と、きっとみんな思ったんじゃないかな。結局、企業努力が足りなかったのだと思う。何の工夫もなかったもん。ケーキが「スイーツ」などと呼ばれ始め、「パティシエ」という職業が台頭し、チョコレートショップが「ブティック」と言われるくらいの変化があったのに、不二家は変わらなかったもんね。変わらない事が大切だと思うたか?変わらないで良いのは信号機の赤・青・黄ぐらいで、やはり企業は変わっていかないと。あまりに変わらない体制だったから、この辺で刷新せい!という天の声が響いたんでしょうね、きっと。生まれ変わってください。
2007年01月12日
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中学1年生の時、いつも仲良くしていたグループの一人の女の子をしょっちゅうからかっていました。いじめという感覚はなく、むしろ親しいからこそ、そんな事をしていたのですが、その子からは、いっつもぎゃーぎゃー文句を言われました。そうです、その子が大騒ぎするのが面白かったんです。いろんな悪戯をしたような気がしますが、椅子に画鋲を置いておいたのは、そうとう痛かったらしく、特に激しい抗議を受け、周囲からも「それは、まずい」という意見もあり、たしかに、痛いよなー、ということで、2度としないことにしました。(今考えても、それはヒドイよな。自分が怖い)転校する時に、その子が、プレゼントと手紙をくれました。転校先の学校で同じような事をしちゃダメだよ!と書いてありました(苦笑)。まぁ、なんというか、それなりに仲良しではあったような。転校した先の学校では、とっても鈍くさい子がいて、なぜかやっぱり仲良しグループになっていたので、いつも一緒にお弁当を食べるわけですが、あわてる姿が面白いので、よくお箸を隠してからかっていました。結局、食べよう、というちょっと手前で、「あ、こんなところにあるよ」とか言って出してあげるのですが、その子も、よくブリブリ怒ってましたなぁ。泣いちゃうような子には、やらないし、そういうのは、マジでいじめだと思う。私としては、イタズラであり、からかいのつもりでやってたんだけど、まぁ、一歩間違うといじめってジャンルに入りそうな行為ではあったなぁ。なんというか、その子は、とても頭が悪かったので、コミュニケーションをとるためには、こちらは、大人が子供を扱うような感じにならざるを得なかったところがあるんだよね。まじめな話をする相手では決してない人と、仲良くするためには、何か遊びが必要で、イタズラやからかいが、遊びであったわけだ。頭脳のレベルが合わないということは、まともにはつきあえないということにつながるわけで、地域で振り分けられただけの小中学校では、どうしてもこのコミュニケーションのレベルが合わないという問題を抱える。学校というところは、自分のレベルを上げていく場所だから、自分よりも劣る相手とは、できれば関わりたくないのが人情であろう。仲良しグループに、その子が入っていた理由のひとつは、他の誰からも相手にされない子だったからで、クラスで一番頭の良い子と、10番目くらいの私のところでその子を引き受けた感があった。まぁ、貧乏くじをひいた気分でもあったので、そのかわり、遊ばせてもらったというところがあるのは否めない。クラスで一番頭の良い子は、私と違って育ちもよく品行方正、からかう私とからかわれる彼女を、まとめて「バカだなぁ」って目で見てたな。私とクラスで一番頭の良い子は、地域で一番の進学校に進み、からかわれてた子は、誰でも入れるといわれている学校に、無試験、作文のみで進学していった。まぁ、なかなか楽しい関係だった、と、私は思っているが、やはりレベルの違う子とは、友達には決してなれないもんだと、思う。クラスメイトって、友達ではないからね。高校になると、みんなレベルが均一になるから、とてもつきあいやすい。友達ではなくても、距離のとりかたが、イイ感じなので、うまく付き合えるというか。そのまま大学も、レベルはある程度保たれるので、人間関係はそんなに難しくない。で、やっぱりレベルが均一化されている大企業に入ってしまえば、人生、あまり悩まないかもね。社会に出ると、あらゆるレベルの人との関係がはじまる。だから、とても大変になる。社会人の大変さはそこにある、と言っても過言ではないかもしれない。大人の大変さばかり言われてきたが、実は同じ大変さが小中学校には、あるわけだ。大人社会の縮図がねー。大人の自殺がバカみたいに増えたから、子供も自殺が増える。というのは極端な見方かな?大人が死なない社会をつくれば、子供も死なない、そんな風に思えるんだけどな。なんだか話がずれたような、ずれてないような‥。ま、いっか。
2006年11月12日
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なんとなく世間の風潮に乗って、いじめ関連の日記。わたしの体験談などを。といっても、そんなに派手にいじめられた事はなかったかな。女子だからか、まず暴力的ないじめはされなかったな。中学1年生の時に転校した先の学校が、えらく荒れた学校で、不良がどっさりいましたね。教室のドアを開けると、タバコで目の前がモクモクーなんて教室もあったし。とんでもなかったねー。いじめというよりは、リンチというのがあって、やばい学校でした。私が転入したクラスには、後に2つの派閥に分かれる不良グループの中心人物が2名いたため、なんだか不穏でしたわ。転校生というだけで目立っていた私。よせばいいのに初めての自己紹介で「私は、こういう人はきらいですぅー」とかズケズケやったもんだから、そりゃ目をつけられるわな。自己紹介というより挑戦に近い。あはは。普通、言わないよね、そんな事。馬鹿だったなぁ、私。で、また国語の教師が、いきなりテストをするもんだから、転校間もない私は、そんなテストの事は一切知らないし、事前に勉強もしていないわけ。でも、得意だったんだな、国語。けっこう良い点をとってしまった。したら、国語の教師の奴、答案用紙を返しながら、「みんな、転校生でもこんなに良い点を取っているんだ、もっと頑張れ!」とか、言ってくれちゃったもんだから、私の好感度は下がりまくり。本当に教師というのは、よかれと思って余計なことをする生き物だよ。クラスには女の不良1号と2号がいたんだが、1号は、とても性格が悪くて、体育の時間に運動靴を忘れた私が、仕方なく体操着に革靴という頓珍漢な格好でいたら、整列の時に、大きな声で「靴持ってねーのかよー」と嫌味を言った。いやん!と思ったけど、それだけ。不良1号は、意地悪なことを言ったりするけど、けっこうやさしいところもあって、それなりに仲良くなった。2号とも要領よく仲良くなった私だったが、1号は、私が2号と仲良くしていることが気に入らなくて、先輩の不良に訴えて、私はあやうく、もっと危ない不良に待ち伏せされて、因縁をつけられるところだったがタイミング良く難を逃れた。「センコーが来た」って言って、ぴゅーっといなくなったのだ。しょせん上級生もセンコーが怖いんだな、って感じ。私は先生は怖くないから、勝ったね。ふふ。その後、深追いもされず、無事に過ごす。なんだか、やじられたり、文句言われたり、ちょっと危険なことは、日常の中の、ちょっとした事件、という程度だったので、全然いじめ体験じゃなかったかも。私は学校の中で目立つ存在だったらしく、なぜか他のクラスの人にも名前を知られていたりして、知らんクラスの男子に、通りすがりに「バカ。ブス、デブ」くらいのことを言われることが、ちょくちょくあった。この程度の悪口は、ウチの親父の罵倒にくらべたら、かわいいもんだった。しかし、自分が決して男子にモテるタイプではないのだな、という悲しい気分にはなった。でも、よく知らないクラスの女の子が「髪型がきれいだね」って声かけてくれたり、それはうれしかったから、そんな風にバランスがとれていたんだな、って思う。そうそう、ぺったんこカバンが流行って、私も始めたら、ぺたんこにする糸を、休み時間中に何者かに切られるという事件があったな。周囲の証言によると、隣のクラスの女子がやったみたいで、不良1号とつるんでの仕業だったらしい。面倒くさいのでぺたんこカバンはあきらめたさ。以上が中学の時の事かな。別に、たいしていじめられてなかったじゃん。なんか回想してたら、私はいじめられることより、いじめてたことの方が多かったかも、って思い始めたゾ。ヤバイじゃん。そうそう、あいつにあんなこともこんなこともしたっけ。なんだ、私って、いじめっこだったんじゃん。なんか、改めて、思い直した方がいいのかも?「やった方は、砂に文字を書き、やられた方は石に刻む」って本当だな。自分がやったことは、すっかり忘れていた。やられたことは、こんなに覚えているのにね。コワイわねぇー。次は「いじめっこ回想録」か?(大笑)
2006年11月10日
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今、学校って、どんな風に授業してるんだろうなぁ?もう、自分の時とは時代が違うし、だいぶ変化したかしらん?いや、あんまり変わってないんじゃないかな、と、勝手に希望的観測しちゃうけど、私が通った学校は、小学校も、中学校も、高校も、とても教師に恵まれていたと思う。青春ドラマみたいな、熱いお付き合いがあったわけでは決してないけど、教師が授業中に発する言葉には、ところどころ、とても勉強になる部分があった。授業とは関係ない、人間としての教師の意見つーか、私見が面白かったのだ。だから、いろんな教師のいろんな言葉を覚えている。授業の内容は忘れてしまったけど、その教師がどんな人で、どんな事を言ったかをなぜか、よく覚えている。現代社会の教師は、「本は安い」と教えてくれた。本を一冊書き上げるための労力というのは、とても大変なもので、とても千円程度ではまかなえるものではない。でも、本は千円程度で買える、これは安い、と。ランチを一回減らして、一冊買えるんだったら、安いものである、と。当時は、こちとら高校生だったから、千円といえども大切な小遣いで、おいそれとは使えないと思っていたが、その教師の言い方には説得力があった。この考え方は、現在も私の中で採用されていて、まったくもって、他人様が何年もかけて考えて書いたものを、千円ちょいくらいで公開してもらえるんだから本はやっぱり安いんである。と、現在では、私が主張しているという感じ。これは、これこそが、教育だったかも、だ。先生、ありがとう。小学校の、ゴジラみたいなおばちゃんの先生は「あの人が、こんなことを言っていたよ」と悪い知らせを言う人は、その人自身が、そう思っているということだ、と、教えてくれた。なるほどである。この考え方は、画期的だった。その教師は、自分がよく悪口を言われていて、頭にきて、そういう主張をしたのだ。「先生のこと○ちゃんが、こんな風に言ってたよー」と調子よく近寄ってくる生徒をたしなめたかったのだろう。この考え方も、今なお私の中で生きている。まったく、世の中、その通りだからだ。本のことを言った教師は、かなり自分の意見を主張するタイプの人だった。当時、ソニーのウォークマンが流行り始めて、社会現象になっていた頃だったが、「あれは、閉鎖的な自己を生む」と言って毛嫌いしていた。世界史の教師は、太平洋戦争のあたりの話になると、怒り心頭という感じで、「ハワイに新婚旅行に行くなんてとんでもない!あそこには何人もの日本兵が眠っているのだ!」と、言ったりしていた。個人的な考え方を差し挟む授業が、案外面白かったな、あの時代。教師は、自分の意見に自信と誇りを持っていたなぁ。今は、どうなんだろう?ちなみに、私は、すっげー成績悪かった(笑)。
2006年11月09日
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おろしたての服にコーヒーをかけてしまう。洗濯したばかりの服に食べこぼしをしてしまう。何かを取ろうとして別のものをひっかけて落としてしまう。食べようとしたら、床に落としてしまう。出かけようとしたら急に雨が降ってくる。日常にありそうな、そんな失敗が、人よりも多くあるワタクシ。おそらく人の3倍は、そんな目に合いやすい。これを宿命と呼ぶのだろう。運命は、そんな宿命でありながらも、自分で切り開くモノを言うらしい。そんなわけで、これらの不運な宿命は己の力で克服しなければならない。洗濯やシミ抜きが上手になれば良いし、シミの目立たない色柄の服を買う段階から選べば良い。食べ物を落とさないように、テーブルに顔を突き出して食べれば良い。落としても平気なようにテーブル、床をいつもキレイにしておくとか(笑)。雨については、いつ何時も傘を持歩くくらいの根性で。友人から、「疑い深い」とか「さい疑心が強い」とか「人を信じないよね」とか、批難めいた言葉をよくいただくが、それは宿命的生き方の問題なんだ。不運な事がほとんど起きない人生の人には、気をつける必要がない。私の場合、気をつけていないとヤバいと思わされるシチュエーションが、やっぱり人の3~5倍あったので、人の3~5倍は疑い深くなる。そうそう簡単に人を信じてはならないのである。「人を信じる」ということの尊さを持ち合わせないわけではない。何を信じて、何を排除すべきかを慎重に見ているだけだ。「うかつ」という言葉をもっとも忌避する生き方をしている。あまりそういう目に合わない人は、私のような人種を「単にがさつ」「乱暴」と思うらしい。本人に原因があると、考えるようだ。きちんとやっていても「そうなってしまう」という目に見えない引力の存在までは、どう説得しても、理解できないらしい。まぁ、自分がそういう目にあわないとわからないもんだよね、人間って。小学生の時、クラスに盗癖のある女の子がいた。私が貸した漫画本を返してくれないので「返してよ~」と言うと「もう返したじゃん」と言う。こちらも記憶があいまいなのか、それ以上責められなかったが、しばらくしてその子の家に遊びに行った時、私が貸した本が、その子の本棚に並んでいた。「これ私のじゃない?」と言うと「違うわよ、これは私が買ったのよ」と言う。平和主義の私はそれはそれきり、そのことに触れなかったが、どうやら同じような目に合っている人は他にもいるらしく、そして盗んだ本人に盗んだという自覚がないかもしれないという事もあり、世の中には不条理な人がいる、と知ったものだ。雑貨屋で万引きに間違えられ、補導されかかった事もあった。オトナというのは、恐ろしいとその時思ったな。たまたま店にあるモノと同じモノを持っていただけなのに…。中学の時に、引っ越しをしたが、玄関先に、荷物をどど~っと出してトラックに積んでいた際、黒い箱がひとつ紛失。どうやら通りがかりの誰かが盗んでいったらしい。なんでまた、ウチなんかの引っ越しを狙うかな…。母は、粗忽な人で何十万もする宝石の指輪を紛失。最初は、すわ盗みか?と皆で疑ったが、本人がうっかりゴミに出してしまったらしいということがわかった。疑惑がうずまく家庭を想像してみてほしい…。父は、やはり宝石付きのタイピンをなくして家に帰ってきた。これは、また、違う疑惑…。父はものをなくすよりも、人を惑わす虚言の人だった。高校に入学した私が、クラスの男子の話をすると、「おぅ!そいつのオヤジとは友達だよ!」などと言うので、男子に話すと、先方のお父様は「知らないなぁ~」と。恥をかかされた。荒れる中学の時代、なぜか私のクラスには2大スケバンが勢ぞろい。気の抜けない中学生活だったな~。高校生活は、毎日近くの男子校の生徒とすれ違う時ににらみ合い。8人対私1人であったので、多勢に無勢。あまりにからかわれるので、怒り心頭、1人で立ち向かったこともあった。やはり気が抜けない高校生活だった。学生時代は、間抜けな友達が、目の前で置き引きに合う様を2回も目撃。「私なら、ありえない」と説教をする。私は引越しの多い生活だったが、引越す度にどろぼうに入られた。計3回。うち1回は、私が家の中にいた時に入ってきおった。警察は「はちあわせなくて本当によかった」とコメント。たしかに。社会人になると、毎週のように交通事故に遭遇。新しい事故の形跡を眺めつつ会社を行き来する日々。いつも通る道沿いのビルにでかい穴があいていたことも。きわめつけは、使ってる駅のそばの雑居ビルで事件があったらしく、そこのマスターが刺した青年の血を知らずに踏んじゃったこと。警察は、ちゃんと掃除していかなかったらしい。まったく。目の前で大型トラックが横転したこともあったな~。あれはビックリしたな~。夜道で暴漢に会ったこともある。後ろから羽交い締めにされたが、大騒ぎして追い払った。逃げる後ろ姿は、絵に描いたようなチンピラであった。就職した会社は、役員全員が素性を隠しているような妙な会社だったし、(以前の日記に書いた通り)そこまでにいたる過程でも、父は騙されたり詐欺られたりして一家は凋落の一途。学生時代のアルバイトでも、バイト先の人がレジからお金を盗んでいた事件があり、セクハラもあり、嘘つきもいたり、サボりもいたり…。一緒に働いていた女の子は、当然のごとく商品盗んでたし。これらすべてのしょーもない出来事の原因が私自身にあると誰が言えよう?私が「単にがさつ」とか「乱暴だから」とかいう理由で納得しないでもらいたい。様々な事件が起きるのと同じような作用で、おろしたての服にコーヒーをかけてしまうなんてことが起きやすいだけだ。しかし、最近は毎日「この程度で済んだなら、よかった」と思えるから、穏やかなものである。これも私が長年の困難なシチュエーションから学び、疑い深く、慎重な人間に成長したからである。多少無理のある理屈かもしれないが、そうやって私フリフリ13号は出来たのであります。気を抜くと、突拍子もない事件に遭遇してしまうので、気が抜けないだけなんです。そんな宿命なんでしょう、きっと。
2006年07月13日
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時々「ゴミ屋敷」がニュースになるけど、私が昔住んでいた家は、あと一歩で「ゴミ屋敷」だった。我が父は、不動産の管理などをしていたらしいが、どこからともなく(?)建築資材やら、流しのセット(台所のパーツ)やら、照明器具やら、なんやらかんやら廃品収集の業者のように集めてきては、家の前にうずたかく積み上げていた。山のように積み上げてブルーシートをかけておく。玄関は常に建築現場のようであった。玄関の中も、下駄箱以外の場所には、よくわからないモノがたくさん積まれていて、それは何なのか、それには価値があるのかゴミなのか、家族にもわからなかった。「捨てちゃおうよ!」と言うと「それは大事なんだ!」と言いはるので、誰も何ともできなかった。ニュースで見る「ゴミ屋敷」を築き上げている人物と、困り果てた近隣住人の確執を家庭内で繰り広げていたわけである。が、そのうち、誰も気にしなくなった。幸い、近隣の方々に迷惑をかけるようなことはなかったが、家に帰ってくる度に「この家は、なんじゃろなぁ~?」という気分でカギを開けた。どんどんカオスになっていく家。ある時、私の部屋の窓の外に置かれていた物体に水がたまってボウフラが発生。気持ち悪いし、放っておいたら蚊が大発生する。かといって、もはや、そのエリアは父しか触ってはならない状況だった。「なんとかしろ~!」と騒ぐと、父はしぶしぶ掃除をしていたが、溜め込んだガラクタを処分する気はないようだった。「ウチはさ~、なんかジャンク小屋のようだよ」と友達に話したりしていた。そこに暮らしていると馴れなどもあり、半分ネタにしていた。それでも驚くようなことはあった。驚くような事を、父はやってくれた。ある日、家に帰ると、玄関に「神棚」がとりつけてあった。昔から我が家にあった木製の神棚が、玄関の表側に取り付けてあったのだ。表ですよ、オモテ。普通なら表札とか掛けておく場所に、神棚が!「なんじゃ、こりゃ~!」と叫びましたワ。確かに、他人に迷惑はかからない。でも、これはあんまりヒドイ。父は、気が変になったのか?前から変だけど…。家に入って、「あの玄関の神棚はどーいうことか?」と問うと父いわく「神様は玄関から入ってくるものらしいから、神棚は玄関にあるのがいいだろう」とのこと。なんだかな~。それにしても何故外側?明らかに、他人に対するアピールとしか思えない。宅配便のオニーサンをビビらせるには十分すぎる演出だ。そうまでして父は何を主張したかったのだろうか?とにかくそこに住む身としては、キ●ガイと思われては困る!という気持ちでいっぱいであった。その後、妹が独立し、私も独立し、母が自分で家を借りてその家を出た。別居である。父もまた、その家を後にしたが、ガラクタは捨てずに親戚の家の敷地に移したらしい。実は、小さな小屋を別に借りていた父は、その小屋をまるごとガラクタ小屋にしていた。そこにあったモノもまた親戚の敷地に入れていたらしい。何年か経ち、いっこうに片付けることのない父のガラクタを親戚が処分したと聞いた。捨てるのに、30万円くらいかかったらしい。バカ父は、そのお金を親戚に負担させてしまったようだ。ゴミを溜めると結局コストがかかる。最近は行方不明の父であるが、今では本人が大きなゴミになってしまっているかもしれない。我々家族は、父の行く末は「ルンペン」に違いないと予想していたのだけど、まぁまぁ予想通りになりそうである。どこぞの河原で父の変死体が発見されても、私はあまり驚かないんじゃないかと思う。立派に働いて、ちゃんと生活している父を発見したら、メチャ驚くけどな。ありえん。
2006年05月28日
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私は美術系なんですよ。えぇ、週末にはアトリエにも出向いて絵を描いたりしちゃうわけですよ。大学は美術系でした、ま、当然でしょ。本当は6大学のどれかに行こうと思ってたんですがね、バカでね、無理だもん、って、親に言ったわけ。まぁよく4年間、学費を払えたもんだわさ。子供の頃から「絵がじょうずね~」とオトナ達に誉められたせいで、小学生ですでに「私は絵が上手い」というアイデンティティが出来上がっていた。誰よりも自分が上手と、勝手に思い込んでいたね。中学の時の美術の先生には、「キミの作品が学年で一番よかった」などと言われ天狗になっていた。しかし、高校の美術の教師は変なヤツだったな。学校もちょっと変わっていた。なんていうか、規則があまりない、自由というかね~?進学校だったので、不良とかワルがいなかったせいもあって、いわゆる教師陣の取り締りがなかった。高校なのに大学みたいな雰囲気だったな~。その美術の教師は、堅苦しくない課題を出すので、けっこう楽しみながら制作できた。変な先生だったけど、そういう授業は面白かった。ある時、レコードジャケットをつくってみよう!という課題がでたのね。まだCDとか存在しないから、大きなLPサイズのレコードジャケットをそれぞれ自由に作ってみよう!ということになったわけ。ミュージシャンも曲名も自分で勝手に考えて架空のものを設定して、ポスターカラーで制作するのですワ。今思うと、なかなか高度な課題だったかも。「絵が上手い」私は、上手に水彩画とポスターカラーを使って、こぎれいなジャケットを作成して、これはなかなかいいのではないか?なんて、心の中で自画自賛していたわけ。でもね、別のテーブルでスゴイ作品作ってるヤツがいたんですよ。アートのセンスがあるとは思えない、その男子の作ったジャケットは、タイトルが『大遅刻』だった。なんか黄色と赤のケバケバしい強烈なデザインで、曲名もなんかすごかった。今も覚えているのは『モンゴル人の意気地』という曲。あるなら聴いてみたいよね。これ、見た時に、私は負けた気がしたね。勝てない、コイツには…。なんか、人生最初の挫折だったかも。提出した作品を返す時、先生が全員の前で、寸評するわけですよ。みんなの作品を、ひとつひとつ。この先生は滅多なことでは誉めない。最大の賛辞は「笑い」で、先生がバカ受けしたら、その作品は評価が高いような印象になったりしたから、当然、その『大遅刻』は、かなり受けていて、私はちょっと悔しかったね。私は、正統派な作品を作り、けなされなければグッド、くらいに思っていたけど、なんかね、負けたのよね。今日、雑誌をぺらぺらめくっていて、ふと、思い出したのね。「遅刻」って文字みて。あのジャケット作ってた彼は、今頃どーしてんでしょーね。『モンゴル人の意気地』って、今曲作って歌ったら、売れそうな気がしてならないんだけど…。誰か歌えば~?でも、パクったら著作権侵害なんでしょうかね?やっぱ?
2006年05月16日
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久しぶりに昔の話。廃虚をのっとって家族で住んでいた時、我が妹の部屋の土壁が崩れ、中からありんこが出てきて、もともとあり嫌いな妹は、発狂寸前だったようだけど、自分が生きるのに必死なウチの家族は、「自分のことは自分で」がモットーだったから、誰も妹の部屋の壁の事もアリのことも、気に掛けなかったんだよね。今考えると、恐ろしく可哀想な妹。せまい部屋だったし、そんなアリのはいまわる部屋で寝なければいけなかったんだから、イヤだったろうな。本当に彼女がどういう対処をしたのか、今でも謎だ。それほど当時はお互いに関心がなかった。殺伐としていたんだな。今、妹が寝ていた部屋を思い出せない。それくらい関心がなかった。まぁ、私の部屋にムカデが大発生した時も、家族は誰も関心を持たなかったけどね。ハハとチチは60代になって離婚したけど、そもそもバランバランな人達が、一時でも家族をやっていた、そんな感じだ。ん~、なんとなく思い出したんだな、今日は。尻切れな感じだけど、ま、いっか。
2006年03月26日
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思い出すのは大学の卒業式。時はバブル全盛だったから、みんな気張っていたなぁ。見ないようにしていたけど。毎月いったいいくら親から仕送りしてもらってんだよ~?ってヤツがいっぱいいた。男関係で揉めて引越しするって時でも、頼むと親から100万とか仕送りされてるヤツとかもいた。そいつにとっては普通の事だったかもだけど。卒業式、私はどん底貧乏の果てにようやく卒業を迎えた。4年間、大学に通えただけでもホッとするような赤貧の我が家庭であったから、卒業式だからといって、特にお金をかけられるわけでもなく、イト-ヨ-カド-で買った3000円くらいのヨレたジャケットと、親が着古してタンスの奥に眠っていたタイトスカートで、履き慣れた靴、美容室にも行っていないザンバラな髪で臨んだ。マジで着るものがなかった~!友達は和服なんかで洒落ていたっけ。レンタルではかま姿って人もいたな。見た目としては、とても惨めな自分であった。卒業という目出たい日に、オノレの不幸をかみしめた感じだ。が、貧乏は一生続くわけではない。そう思って生きてきたから、今では高価な衣服も着たいならば着れる。ただ、着たいという気持ちはあまりわかない。変にぜいたくをしない人間になったかも。思うのは、綺麗な格好をするにも「時期がある」ということだ。あの時、本当は綺麗に着飾りたかった。友達にカメラを向けられた時、心から「撮って~」といえるくらいの自信に満ちた自分でいたかった。あの時私はとてもイジイジしていたんだ。だからって、今、素敵な服を着ても何の意味もない。今は、そんな服はいらない。お金はあるんだけどね、今なら。でも、綺麗な服を着れるなら、あの時の自分に着せてあげたかった…。結婚式で素敵なドレスを着ることも、どうやらないらしい。私の人生は「晴れ着」を着ることなく終るらしい。ちなみに成人式も何もなかったから、本当に晴れ着体験はない。一生ないのか…。ガックシ。人生の終わりに経帷子くらいは着せてもらえるのかな?まったく、人生って、思ったようにはいきませんねぇ。
2006年03月20日
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みなさん、お年玉付き年賀ハガキの交換は済まされましたでしょうか?今年は某郵便局員さんの家族が1等から4等までまんべんなく当選したとかで話題にななっていたけど…。どうなん?実際。ふと、自分もはるか昔に2等を当てたことがあるのを思いだした。何が当たったかというと『キャプテンシステム』です。『キャプテンシステム』『キャプテンシステム』なんて、もはや死語ですね。何のことだかわからない人も多いでしょう。まぁ、パソコンの走りみたいなものです。テレビに接続して、さまざまな情報を得る事ができるという、当時の画期的なシステムだったのです。当たった本人もあまりよくわかってなかったし、家族も「なんじゃコレは?」という状態。せっかく当たった2等も、なんだかワケわからない物体で、嬉しさよりも困惑でいっぱいだった。しかし、せっかくだから、と、利用しようとしたところ、システムに対応しているテレビでないと使えないという。激しく貧乏だった我が家のボロテレビでは対応していないので新しくテレビを買わないことには、システムの利用は不可能であった。当時、私は学生で、テレビを買う金なんかない。親も、なんだかワケわからないモノのためにテレビを買うつもりはない。なにしろ廃屋にまで住んだ貧乏っぷりなんであるからにして、「最先端」の『キャプテンシステム』の導入なんてあり得ないのであった。かくて、『キャプテンシステム』と呼ばれる物体は段ボールに入れられたまま、我が家のがらくた置き場にずっと置かれて、その後どうしたのか、まったく記憶にもない。しかし、2等をあてたというのは強運であったと思う。今なら、デジカメとかもらえるのにな~…。なんで、あんな使えないシロモノを景品にするんだ!と、郵便局を呪ったものだ。お返しするので切手をたくさんください!と言いたかった。運というものは、確実に巡ってくるもののようだが、「使えない運」というもの中にはあるみたい。あれは、まことに「運」の無駄遣いであったと、今でも悔やまれてならない。その後、2等が当たったことはないし、せいぜいお年玉切手どまりである。ちなみに『キャプテンシステム』は2002年に廃止されたらしい。どうしようもなくイケてないシステムであったようだ。触らなくてよかったのかも。
2006年02月20日
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もうバレンタインデーの準備にかかっている世の中。先取り傾向の強い昨今にあって、正月という一大イベントの後にくるバレンターンデーっていうのは、実は展開期間が短くて不利なのかもしれない。な~んてことを思いつつ、バレンターンデーといえば、「あげる」ことより「食べる事」を考えてしまう食いしん坊なフリフリ13号であった。純粋なチョコレートも好きだけど、生のチョコ感覚を活かした焼き菓子がけっこう好きであります。チョコレートブラウニ-ブラウニ-は、昔自分で何回か作ったことがある。チョコレートの焼き菓子では一番の定番であり、王道だね~。厚みがあってザックリとした歯ざわり。くるみなんか入ってたら最高だね。それでいて口の中ではネットリとからみつくチョコの濃厚な味わい…。おお~、ヨダレが…フォンダンショコラ 6個入り ラトリアケーキ温めてトロ~リとしたところを食べるなんていうのは、その雰囲気がステキですね~。あぁ、またヨダレが…ところで上の「フォンダンショコラ」を売っているのは「スジャータのめいらく」なんですね。「スジャータ」といえば、コーヒーにいれるポーションタイプのミルクで有名。なんで「スジャータ」かといえば、インドのお釈迦様のおはなしに出てくる女性の名前が「スジャータ」で、お釈迦様にミルクをさしあげたからだと、勝手に解釈しているが、まず、間違いないだろうな。その場所に川が流れていてそれが「スジャータ川」というらしい。昔、インドの文化芸術関連のイベントで、イベンターさんが、「スジャータの石」というのをお土産コーナーで売っていた。それは「スジャータ川」のほとりの石であって、間違いなくただの石であった。しかし、小袋に入れられ、先述の伝説などをカードに書いて売場に置いておくと、買う人っていうのは、いたものです。1袋500円だった。(ただの石なのに…)▼コレによく似ていたよ…スペイン ストーンチョコレート 12箱セット「スジャータの石」を買っていたのは、年輩の男性ばかりだった。(当時私はそこでバイトしていたのじゃ)ヲンナは決して買わなかった。なんとなく印象深い想い出である。
2006年01月14日
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横浜生まれの横浜育ち…。しかし、貧乏じゃった~…。横浜には昔から霧笛楼(むてきろう)という素敵なフレンチのレストランがあった。しかし、憧れのレストランには一度も足を踏み入れたことがなく、つきあった男性には「横浜でデートしたい」なんて言ってみたりしたものの、そんな高級レストランに連れて行ってくれる男はおらず、結局、横浜育ちでありながら「横浜知らず」のまま。今なら自分で行けるかな、なんて思ってみても、(誰と行けばいいんじゃい!)という問題もあるし、親や妹を誘えば長女の私の負担が大きいのは必定。そこまで経済的に余裕かましたくはないのだ。ひとりではなんだしな~。くやしまぎれに楽天で検索したらこんなものがヒットしました。ベイスターズクッキーベイスターズか…。横浜って感じですね…。うまいのか?
2006年01月04日
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「ゴミ屋敷」というものが話題になっている。異常な量のゴミを自宅の敷地内にためている人が時々いる。近隣住民は主に「悪臭」に苛まされるので苦情が殺到するのだが、個人の敷地内である以上、ゴミをためる行為を法律で罰することは出来ないそうだ。他人が見て「ゴミ」であっても本人は「ゴミじゃない」と言う場合がある。判断の難しい問題となっているようだ。今朝もテレビでゴミをためている本人をインタビューしていた。それに対して、テリ-伊東さんのコメントが面白く、的を得ているように感じた。「彼には一種の使命感があるんだよ。彼は最初本を集めていたでしょ。それは本っていうのは知識を得たりしようとするものだよね。それから電化製品、冷蔵庫を分解してどうにかしようっていうのは、やらなくちゃいけないという気持ちがあってそれで持ってきて…云々」とおいうようなコメントだったと思う。「使命感」という言葉がヒットした。実は、我が父は、以前「プチ・ゴミ屋敷」を形成していたことがあるのだ。私が中学生の時から、父は大ゴミを拾う傾向が出始め、私もそれを手伝ったことがある。一度、家の洗濯機が調子が悪くなった時、大ゴミに出されていた洗濯機を「あれを拾ってくるぞ!きっと使えるはずだ!」と言って拾いに出かけたのだった。そりゃもうけっこうなお仕事です。なにしろ洗濯機ですからね~、重いのでひとりでは家まで運んでこれません。近所のゴミ置き場に置いてあったので、家から直線距離で数十メートル。父は、運ぶために古い木板に車足をネジで止めて即席台車を作った。「これに乗せて、家までころがそう!」(なかなか良いアイディアだ)と、私も思った。そして父と私と妹は、夜の住宅街を出かけて行き、無事に台車に乗せた中古洗濯機をゲットしたのだった。しばらくその洗濯機を使った。それからというもの、父はたまに大ゴミを拾ってくるようになった。毎日、車で移動していたので、運転中によさそうな大ゴミが出ていると積める時はその場でトランクに入れて持ってきてしまうのだった。なにしろ一時は古本屋もやってたくらいだから、あらゆるゴミに価値を見い出すらしい。事業に失敗して、廃虚を乗っ取った時、そこはすでにゴミ屋敷っぽかったが、このことが彼に拍車をかけたかもしれない。(廃虚の話は以前の日記参照してください)その後、ようやくこじんまりしたアパートに移ったが、その玄関周りは、「プチ・ゴミ屋敷」と言えるような有様だった。いろんなモノが置いてあって、目立つものはシャンデリアの残骸とか、キッチンの流し台とか、木材など。家族は、彼の形成したガラクタの山を通らないと玄関を使えないという状況だった。一向に片付ける気がないらしく、私もあきらめていたけど、ある時、置いてあるモノに雨水が溜まり、そこにボウフラがわいていた。私の部屋の窓際だったので、意を決して文句を言い、撤去してもらった。それ以外にも彼は仕事で使う事務所の一画を物置きとして使い、わけのわからないモノをたくさん溜めていて、最終的に大家さんを悩ませていたらしい。さらに親戚の仕事場の一画にも場所を借りていろんなモノを置いていたらしく、今となってはそれも「プチ・ゴミ屋敷」状態で、撤去するためにも30万円かかるらしく、親戚を悩ませているらしい。本人にしてみればそれらはゴミではなく「宝の山」らしい。彼も最初は本を集めていたのだ。それから電化製品。壊れた電化製品は分解して、よさそうな部品はとっておく。別に使い道があるわけではないけど何かの役に立つことがあると思ってとっておくのだ。仕事も不動産関係だったから、いろいろな不要品があると、とっておく。彼は一時、そういうものをとっておくためだけに古い一軒家を借りていたことがある。その家は、近隣からきっと「プチ・ゴミ屋敷」と思われていたかも。そんな父の行動のもとになっていたものは何なのか。「使命感」だと思う。テリ-伊東さんが答をくれた。最後のゴミが片付いたような気分だ。
2005年11月11日
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私は、絵を描く人間として生まれたんだ~、と、10代の頃は確信していたけれど…。精力的に個展を開いたり、イベントに参加したり、作品をどんどん作り出しているアーチストを見ると、「あぁ!私も!私も、それがしたいの!」って思う。それをやれている人とやれてない私の違いはなんだろう?情熱?うん、そうね、私って、冷めてる。でも、心の中に奥の方にまだ青くゆらめく炎が見える気がする。だから、どんどんやれてる人がうらやましい。妬ましい。言い訳のように聞こえるかもしれないけど、実際のところ、家庭が安定している環境に育った人がくったくなく活躍している。貧乏な家に生まれてしまうとか、狂った家族に囲まれるとか、そういう苦難があると、どうも素直にクリエイティブの道に進めない。生活に対する飢餓感が先に立つため、金になるかどうかもわからない仕事に自分を投入するリスクをおかしたくない。とりあえず、金になる仕事をしようと思う。そして、アーチストの道をはずれる。今の私は、まさしくその選択の結果だ。もし、3億円でもあって、生活に困らないという確信があったなら、私は絵を描いて暮らしたい。それこそ、描いても描いても、とどまるところを知らないくらいにたくさんの作品を描くだろう。だけど、今は、絵を描く材料費だって、細かく計算する生活。溢れんばかりの創造力は、生活を圧迫するだけなのだと、心のどこかで思っている。そして仕事先で唯々諾々とパワーポイントなぞ打っているのだ。こんな人生を生きるとは思わなかったよ。10代の頃は。今の私は、ちょっと燃えたい気分。ちょいと軌道を変えたいな。
2005年10月25日
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今年のサマージャンボ宝くじは、テレビでやってた風水の通りにしたのに全滅であった。何度もそんな目に会っているので「あぁ、またか…」と思ったけど、億万長者になる夢はなかなか諦め切れない。仕事先の若者がロト6の用紙を配っていたので、一枚いただいて台風の迫る中宝くじ売場に買い求めに行ってみた。5口で1000円。結果は…全滅。まぁ、そんなに簡単には億万長者にはなれないようです。でも買わなければチャンスもないので、これからちょくちょく買ってみようと思います。ところで1,000万円って、ゲンナマで見た事ありますか?銀行員の方はちょくちょく見ているんでしょうね。私は人生で2回、目にしたことがあります。そのうちの1回は、父が仕事で預かったお金を見せてもらったものです。リビングルームで父が「ほら、これ持ってみろ!1,000万だ!」と言って私の手にでっかい札束を乗せました。その時、私は中学生(?)だったので、なかなか衝撃的な出来事だったのだワ。父は、自分の娘に1,000万円というものを教えたかったんだろうな。おかげで、私は年若くして1,000万円というものは、実は「片手」で持てるということを悟りました。その時の心情→(なんだ片手で持てるじゃん)だからでしょーかね~?億を手にしてみたいんですよぉ~!億!億!億!億!億!億!億!億!片手じゃ持てないでしょ~~~!うひひ。アタッシュケースにいっぱいの札束を見てみた~い(うっとり)!そうそう、人間には「妄想力」というものがありまして、この「妄想力」を持った人間は、どんなことがあってもへこたれないんです。そうです、私の原動力は妄想です。うっひっひひ。え?2回目はどういうシチュエーションだったのかって?あー、それは言えません。悪しからず。ふふ。
2005年08月27日
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幼稚園に入る前に、迷子になったことがある。これは、我が家では大変な事件だったらしく、私は子供の頃から「オマエは迷子になって、警察署まで行って母と叔母は大変だったんだよ!」と聞かされて育ったものだった。先日、バアサンを見送るために斎場に親族が集まり、その帰りの食事会では、母と叔母を中心に昔の話に花が咲いた。若手の我が従兄弟達は、昔の話すぎて、なにやらわからず話題に乗れないようだったが、母と叔母の盛り上がりはたいそうなものだった。我が母は、実によく笑う。ゲラゲラゲラゲラ本当によく笑う。昔は笑いすぎてチビったりしていたようだが、腎臓病になったため最近はチビることもなくなった。思いっきり笑えるってわけだ。時々、笑ってはならない場面で笑うことがあるので要注意だ。自分の父親の葬式で笑ったことがあるというツワモノである。その時、母は高校生で、急死した父親の葬儀でお坊さんがお経をあげている最中に声を出して笑ってしまったそうだ。母方の実家の宗派は、妙なイントネーションで経をよむので、あまりに可笑しくて、やっちゃったらしい。相当、怒られたそうな。当たり前だ。でもね、この宗派のお経、ホントにおもろい。私と妹も、法事の時につい坊さんの後ろで「グフッ」と笑ってしまったことがある。血は争えんなぁ。で、迷子になった話。私は3歳くらいの子供だったが、自分の名前と住所と電話番号をしっかり言えたらしい。それで周りの人々がビックリしたって話を、聞かされていたので、自分がなかなか優秀な子供だったんだなぁ、なんて長年思っていた。でも、記憶はない。なにしろ3歳の時だから、覚えていることなんて、あまりない。で、その迷子になった時の話になった。その時の詳細が、明らかにされた。私はずっと自分がフラフラして迷子になったのだろうと思っていた。そして商店街で泣いている自分を、どこかのオバサンが警察署に連れていってくれたんだろうと思っていた。違っていた。場所は川崎の商店街。私が公園のトイレに入っている時、トイレの入口で母は待っているはずだった。しかし、母は、私がトイレに入っている間に、ついつい、すぐ近くのお店を見に行ってしまったそうなのだ。そのちょっとしたスキに、私は行方不明になったそうだ。3歳の子供がひとりでトイレできるというのも、なかなかのものだが、トイレから出て来て、いるはずの母親がいないなんて、相当パニックしたことだろう。(と、思う。実際にはどうだったのかねぇ?)母と叔母の話によると、私はどっかのオバサンに保護されたのではなく、自分で警察署まで歩いて行き、保護されたのだそうだ。(なんだ?そりゃ?)よくよく話をきくと、その公園から見える一番大きな建物が、川崎警察署だったそうだ。私は、ひとりでそこまで歩いて行き、警察の人に「自分は迷子」と言って保護されたそうだ。そして、自宅の住所以外に、川崎の商店街でバイトしていた叔母の名前とバイト先の店の名前を告げたため、すぐに叔母のバイト先に連絡が入り、子供がいなくなってあたふたしていた母が、近くの叔母のバイト先を訪ね、すぐに警察署に迎えにきてくれた、っていうのが真相らしい。ようするに、母が悪いんじゃねーか。トイレから離れるからいけないんじゃないか~。今までずっと自分が迷子になった、って思いこんでいたけど、だいぶ事情が違うよね~。その日は、叔母がいたから、真実があきらかになった。みんなで食事しながらでなければ、母は、自分がトイレから離れて、ついお店を見に行ってしまったことを一生白状しなかったことだろう。そういうヤツだ。「ようやく罪を告白しましたね?まだ、何か隠してるんじゃないの~?」と、詰め寄ってみたが、自分の罪を暴露してよほど興奮したのか、もうゲタゲタ笑いっぱなし。血圧も上がっているようだった。まだまだ、叩くといろんな話が出てきそうだ。迷子になった時のことで覚えているのは、警察署でオレンジジュースを出してもらったことと、母と叔母が、喫茶店に連れていってくれて、大好きなチョコレートパフェを食べたことだった。迷子になったりしたら、普通は怒られるものなのに、なんでチョコレートパフェを食べさせてもらったのか、30年以上経って、ようやく合点がいった。
2005年08月15日
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私が親元を離れていわゆる「自立」というものを果たしたのは、ようやく28才も過ぎた頃のことだった。大学を出て、就職もして金も回るようになったのだから、すぐにでも自立できそうなもんなんだが、どういうわけで私はすぐに飛び立たなかったんだろうなぁ…。多分、ある程度の「まとまった金」を貯めたかったんだと、思う。それと、初給料でようやっと「パジャマが買えた」なんていう貧窮生活だったから、とにかく自分の身の回りを「人並み」にしたい欲求の方が先に立っていたかもしれない。その後も「布団」買ったりしてたもんな…。当時、私は貧窮生活であったが、世間は「バブル」に沸き立っていた。「自立」というハードな響きとはうらはらに、「一人暮らし」というのは、優雅でファッショナブルなライフスタイルの代名詞のようになっていたりして「自立」したいからって、風呂なし共同トイレのボロアパートに飛び立つ気には全然なれなかった。多分、私の守護霊様の中には、とっても高貴というか贅沢な方がいらっしゃいますね。だって、何を見ても、直感で「一番値段の高いもの」を選ぶし、基本的な部分がとても贅沢にできてますから。そんな私が貧窮していたんですから、そのストレスは、凄まじいもんでございましたワ。初めて勤めた会社(以前日記に書いた盗聴の会社)は、3年で辞めた。遊ぶヒマのない生活だったし親元にいたので200万円くらいの貯金が出来ていた。しばらくブラブラして貯金を食いつぶし、最後の仕上げに海外旅行に行った。貯金を使い果たそうと思った。自分のための生活を始めようと思った。母のことが気になった。父はろくでなしの自営業で、家に金を入れない。少しでもお金が入ると、自分のために残らず使ってしまう。病気を押して母は働き、病気を悪化させていくばかり。それを気遣うこともない父。私は母を救いたかった。救えるのでは?と、その時は思った。「お母さん、私と家を出よう。私の扶養家族になればいいよ」そう提案した私は、考えに考えて、それでいいのだ、と思って言葉にした、のに。母は「うん」と言わなかった。静かな部屋に二人っきりなのに「聴こえないフリ」をした母。私は「はっきりしてよ!今のままでいいの?!」と詰め寄った。母は、…歌を歌いはじめてしまった。これ以上、私の話を聞くつもりはないだろう。これは私に対する「拒絶」を意味していた。母は、どう見ても悲惨な状況を招いている父を選んだのだ。だから、私は、すっきりと割切って家を出ることができた。母の病気が悪化しようが、それで死のうが、知ったことではない。その道を彼女が選んだ。母もヲンナだったってことだ。やはりヲンナは灰になるまでヲンナなのだ。父が、どうなろうと知ったことではない。彼は、あらゆる人々に迷惑をかけながら破天荒に好きな道を生きている。どこかでのたれ死んでも、もはや驚かないヨ。ひとりで住むための家を探し、荷物と一緒にそこに向かう車の中で、私は、初めて、家族の心配をする必要のない自由を感じていた。もういいのだ。私も、どう生きようと自由なんだ。その後、いろんな失敗もした。なにしろ教育がなっちゃいないフリフリ13号。ハチャメチャな親に育てられちゃったからね。でも、失敗ですら楽しめるのが、自由かもしれない。親は先に生きている。でも、最近は寿命も伸びて、子だから親だから、先だの後だの言ってられない感じがする。予定していたように親は弱っていかない。もはや、身近な敵は親なのかもしれないとすら思える。私がバカだったのは、親の「夫婦関係」をあなどっていたことだ。そこに割ってはいれるほど、娘の存在は大きくはなかったってことだ。自意識過剰な娘であったことを思い知らされた。私がいなくなったことで、初めて夫婦は向き合った。だから母は「別居」というアクションを起こせたし、それを父も受け入れた。家を出て思ったことは「な~んだ、私が邪魔してたってわけだ~」という驚き。そう、父母はある意味、私がいなくなった方が、良い方向に転んだ。親を大切に思うならば、できるだけ側にいてあげるという人もいるが、できるだけ遠くに行く方がうまくいく人もいると思う。私は、遠くに行って、ようやく親との関係を浄化できたように思う。正しいとも間違ったともいえないけど、これでよかった、と思う。そんな実感が財産だと思う。
2005年07月14日
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役所の大部屋でのバイトを終えて、今度は10人位の小部屋でバイトした。そこは、法律関係を扱う部屋で、東大出身のエリートも1人交じっているような所でした。東大出身というと輝かしいイメージだけど、その人の場合は、20代半ばだというのに、すでに頭部が輝いてしまっていた。かなり見事にイッちゃっていたので、初対面の時には、もっとずっと年齢のいった人かと思っていましたワ。「若者」とい言葉が、コレ程似合わない20代を見たのは、それが最初で最後だったかもしれません。この部屋を仕切っているのは「室長」と呼ばれる人で、めったに笑うことのない鬼瓦のような顔をしたいかついオッサンでありました。このオッサンの監視があまりに厳しいため、その部屋の人々は皆、頭部が薄かったり、顔色が悪かったりしているようでした。朝、出社すると、ドアのところに店屋物をとった形跡のどんぶりなどが置かれていることが多く、残業が日常茶飯事になっているようでした。「また、残業だったんですか?大変ですね~」と東大出身に言うと、「本当は仕事はたいしてないんですけどね、あの人が帰らないから、みんな帰れないんですよ」とのこと。「あの人」とは「室長」のこと。「室長」は残業が大好き。で「室長」が帰らないとみんな帰れない(らしい)。ムダに残業させられているのだそうだ。まぁ、居るだけで残業代を稼げるわけで、ここでも税金の無駄使いが横行していた。ある時、お茶を入れている私のところに東大出身がスススーと寄ってきて、「それは室長のコーヒーですか?」と聞くので「そうですよ」と返すと、「ドブのようなコーヒーを入れてやってください。なんなら雑巾でも絞ってかまいません!」そう言ってササッと自席に戻っていかれました…。相当なストレスを溜め込んでいるようでした。(東大を出てもこんな生活かよ…)とつぶやくフリフリ13号であった。雑巾は絞りませんでしたワ。さすがに。さて、この部屋には、毎日10時くらいにやってくるジイサンが2名いた。「顧問」と呼ばれていたそのジイサン達は、来ると毎日、茶をすすりながら新聞を読み、本を読み、また茶をすすり、新聞を読む。それだけ。他には、なーーーーーーーーーんにもしない。することがない。でも毎日来る。時間になると帰る。ジイサン達は、もうすでに定年退職しているのに「顧問」という役職を得て、毎日、役所に来ては、茶をすすり、新聞を読むだけで、おそらく結構なお金をもらっているのだろうと思われた。「室長」が堅苦しい人なので、その部屋では、笑いもなく、常に静か。冗談を交わすこともなく、みんな仕事しているフリをしながら書類に隠して好きな雑誌を読んだりしていて、端から見ていると忙しいんだかヒマなんだか、訳のわからない雰囲気でありましたワ。ともかく、あきらかにやる事のないジイサン2名は、無駄そのものであったと、今でも思えます。それこそ「静かにじーっと座ってるだけ」なのですから。何ぞ役に立っていたのかね?そんなジイサン達に、私はお茶を出していた訳だけど、心の中でちょっと(なんでこんなヒマなジイサンに茶なんか出さないといけないんでしょうか?)という気持ちはありましたワ。ある日、めずらしくジイサンが話しかけてきた。「なんでコーヒーを飲むかっていうとね~…」しゃべり方がゆっくりしていて、もったいをつけた感じだった。「…ヒマだからなんだよね~」絶句です。どう受け答えしていいものやらわかりません。ジイサンは、笑いをとろうと思って言った訳ではなさそうでした。それは、まったりとしたジイサンの「心の声」だったのかもしれません。ジイサンはジイサンで、そんな自分の身上を自ら憐れんでいたのかもしれません。ヒマってのも、時として辛いもんです。ジイサンなりに新聞読む以外の仕事でもあれば、もう少し毎日楽しいのかもしれない。今では「高齢者も仕事した方がイキイキして良い」なんて言われたりするけど、その部屋の雰囲気では、ジイサンが新聞読む以外のことをやりだしたら、「室長」に鋭く見つけられて咎められそうでもあったし。悲哀ただようその部屋で、どれだけの税金が無駄に使われていたのか、はかり知れません…。
2005年07月12日
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テレビ東京の世論調査で、公務員のムダな人員をどーにかすべき!っていうのに87%の人が賛成だったらしいです。高い数値です。先日、テレビの街中のコメントでも、大阪のオバチャンが、「公務員じーっと一日座ってるだけのヤツおるやん、あんなの辞めさせたらええねん!」っていうのがあったけど、本当にその通りだと思うワ。人間ひとり雇うコストがいかばかりのものか。民間企業は一所懸命リストラなんかやってるっていうのにね。学生の時、市役所でバイトをしていた時期がある。まだまだ社会を知らない弱輩者であったけれども、そこが結構ヒマな職場だということは、肌でわかった。そもそも、バイトを入れた理由というのが「予算が余るから」という状況。どうやら役所というところは、その部署ごとに「予算」というものがあって、その「予算」を使って運営されているらしいんだけれど、申請した「予算」が余ってしまうと、翌年からそれ以上「予算」を多く取れなくなってしまうんだとかで、とにかく取った予算は、その期間内に使い切らないといけないらしかったみたい。要するに、お金(必要経費)が余っても、いらないものでもいいから使ってしまえ!という発想で動いているんだな。あかんぜ。だから、バイトといっても、特に必至な需要があるわけでもなく、基本的な事務作業のお手伝い(コピー取りとか)&お茶くみが主な業務内容。楽な仕事でした~。あぁ、でも「お茶くみ」は、あなどれません!なにしろ、8:45出社してすぐに「朝のお茶」を全員にお出しします。私がバイトしたのは大きなフロアでゆうに40人以上いましたから、他の課のバイトのオネーサンと協力して一気呵成に40人分それぞれの机に配って歩くんですから、半端じゃない慌ただしさでしたワ。しかも、それぞれの人に「嗜好」ってものがあって、緑茶、こぶ茶、しいたけ茶、コーヒーブラック、コーヒーミルクのみ、コーヒーミルクと砂糖、紅茶(コーヒーと同じ)、ってな具合で、しかも全員「マイカップ」または「マイ茶わん」というものを持っていて、それを間違えてはイカンのであった。しかも、全員の机に「配って歩く」わけで、机の配置をすべて把握してなければ出来ない。そんでもって、やっぱりエラい人のお茶から出さないと、微妙にまずかったり。これは、つまらないようで、実はすごい大変な仕事だと思いましたワ。ホント。で、「朝のお茶」のあとは「10時のお茶」を一斉に出すので、適当にみはからって、各机からすべてのカップやら茶わんを回収して洗わなければいけません。洗って拭いて、そんなこんなやってるとすぐ10:00。またしても朝と同じ作業をするのです。みなさんの「嗜好」通りのものをつくり、それぞれの机に配り…。次は「お昼のお茶」が待ってます。10時に配ったお茶は、またまた見計らって適当に回収します。そして、またまたキレイに洗って、お昼を社内で食べる人と、外に行く人を見極めて、必要な分を判断して準備します。12:00の合図が館内に鳴り響く時には、配り終っていなければなりません。そんなわけで、お茶汲み意外に何も仕事がなかったとしても、結構忙しいので、驚きました。たまに、仕事っぽいものを頼まれたりすることもあったけど、ほとんどはコピー取りとか、簡単なこと。たまに「タバコ買って来て」なんてものあったし。オイデオイデしている人がいるから(仕事かな?)なんて駆け寄ると、「ま、そこに座ってさ、お話でもしようよ」だってさ。(あんたら仕事ないのかよ)と、さすがに突っ込みたかったですワ。昼が終ると「3時のお茶」をまたまた一斉に配らねばなりません。昼が終るとオネーサンと私は、茶わん&カップを回収し、洗います。で、3時前になると、お茶の準備にかかるわけです。そしてまた、全員に配って歩きます。役所は基本的に17:00で終りますから、バイトも17:00には撤収できるようにしておかねばなりません。その辺は役所だけにキッチリ・カッチリです。「3時のお茶」の回収作業を4時くらいには開始します。そして、またキレイに洗い、最後なので、フキンとかいろいろ消毒したりして、干して帰ります。けっこう充実した仕事ぶりです。なにしろ、一日4回、全員にお茶!です。その他、アラカルトでオーダーされることもあり、なかなかの忙しさです。でも、なんだか、不思議な世界です…。公務員とは、茶を飲むことと見つけたり、って感じです。私は、大部屋のお茶汲みの大変さに、思わず、部屋全体の座席表を作り、それぞれの席に茶わんの絵を書き、誰でも間違えずにお茶を出せるように「大部屋マップ」のようなものを制作しました。それは、ベテランバイトのオネーサンにも、新しく入って来たバイトさんにも好評で、私が辞めたあとも、その部屋の給湯室にその後しばらく貼ってあったとか。まぁ、私はバイトとして「イイ仕事」したと思いますけどね。公務員はお茶ばっかり飲んでるんじゃね~ぞ、と、ヒトコト言っておきますかね。ほほほ。いや、楽しかったンだけどサ。ははは。
2005年07月11日
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人工透析をしている母が、いつものように透析を終えて病院の門から出ると、父がいたそうである。向こうの縁石に腰をかけて、こちらを見ながら、ニヤニヤしていたそうだ。母はビックリしたが「おう!」と挨拶だけして、一緒だった透析仲間にとりあえず「元亭主」とだけ紹介して、草々にその場を去ったそうな。父がどのような理由で何を目的としてそこに現れたのかは謎である。母が追求しなかったからだ。追求しなくても「金がない、なんとかしてくれ」と言われることだけは、予想がついている。だから聞く必要がないのだが、こんな風に、突然「待ち伏せ」されたのは、初めてのことだそうで、「ストーカーみたいで、コワイ~」と、母もちょっとビビっていた。父と母は去年正式に離婚している。母が別居するための新居を借り、生活は別になった。母の方から離婚をもちかけていたのだが、父はしぶっていた。なかなか応じず、何年かが過ぎ、しびれを切らしていた頃、借金がかさんでどうしようもなくなった父が、突然母のところにやってきて「迷惑をかけるかもしれないから」と言って、あっさり離婚届けにサインしたのだ。何を考えているんだか…。病院の前で待ち伏せしていた父は、去っていく母を追うでもなく、しつこくするでもなく、その場に置き去られたまま。母としては、後味の悪い「気持ち悪さ」が残ったようだ。それを聞いて、娘である私もいよいよ行動がおかしくなった父を思うと、なんともいえない気分である。
2005年07月09日
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父方の祖母が、そろそろヤバいらしい。以前、日記に書いた祖母のその後だけど、以前の日記を自分でもよく捜せないので、改めて説明すると、我が父は長男だがロクデナシ。その弟もまたロクでもない。妹だけが、まともな暮らしをしている。ってなわけで、連絡は妹である我が叔母に来る。それを我が父は、知らされない、というか、あまりにロクデナシなので、叔母も我が母(血縁ではないが実の兄よりは信頼できるらしい)にいろいろ相談してくる。父とは関わりたくないらしい。先日のイトコの結婚式にも我が父と、叔父は呼ばれなかったくらいだ。それでも我が父は長男。母親の危篤にあってどう出るのか!?ってのが見物だったんだけど、実際、連絡がつかないという状況が続き、叔母がいろいろ対応していたらしい。バアサンは、転んで骨折して、寝たきりになってしまい、もはや親族が訪れても誰だか認識すらできない様子らしい。(生きてるうちに会いにいくべきか?)なんて私も考えたが、会っても誰だかわからないんじゃ、意味がないよな~、と思い、ただひたすら「訃報」を待つことにしてしまった。先週、母から「今日、明日にもアブナイかもしれない」なんて電話があったので、この前の土曜あたりは、急きょ黒い服に着替えなければならないかも?なんて覚悟していたのに。持ち直したらしい。たくましいバアサンだ。こんなに情をはさまないでいれるのは、もう25年以上会っていないからだろう。でも、幼い頃は、うんと可愛がってもらった。それはよく覚えている。でも、あっちに記憶がない。残念だ。人間というのは、その存在自体が実に微妙だ。タイミングが合わないってだけで、何もできない。こんな時、どんな感情を持ったらいいんだろうか?お手本がほしい。自分がとても冷たい人間のような気がする。でも、そんなことはないとどこかで思う。でも、評価というのは、他人が下すもので、自分ではわからない。でも、こんなことを他人に評価とかされたくもないし…。そうなると、やはり肉親と考えを同じくしておくことが大事かも。突出して優しすぎても非難されるだろうし、突出してドライであってもまた然り。結局は、親や親族をお手本にして動くしかないのである。その上で世間と照らし合わせてみると、やはり我が家族はちょっと変わっているのかもしれない。バアサンが成仏できるのか、ちょこっと心配だが、もともとたくましい人のようなので、さほど心配いらないの、かも?どうなんでしょ~ね?
2005年07月06日
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その昔、横浜の豪邸を売りに出して、一家は一路、安くて汚い集合住宅(コーポラス)に移った。豪邸にあった家具やら財物を運びこんだわけだから狭くてしょーがない。家族4人「狭い」ストレスを抱え込んで不機嫌そうに過ごしていたあの頃。じめじめと暑い季節だった…。そんな状況でも、年頃だった私は1人部屋を与えてもらって、それなりに快適(?)に暮らすことは出来ていたのだが…。ある日のことじゃった~。夕暮れ時、ふと、部屋の壁を見ると、青色の小さなムカデが張付いていた。ムカデというと赤いイメージがあるのだが、そいつは青くて、まだ子供のようだった。ううむ~、どう見てもムカデだ。どうしよう。ゴキブリもイヤだけどムカデもイヤだ。どうやって退治するか…。対応策を高速回転で考えつつ、固まっていたら、もう一匹あらわれた。「え?!」よく見ると、カーテンにも同じ青いムカデがいるではないか!「え?え?え?」そうです。大量発生とでも言いましょうか。部屋中に青いムカデがいる事に気が付いてしまいました。我が家族が住んだのは1階で、私の部屋は草むらのような庭もどきに面していて、窓の隙間から這い上がって侵入したのだと思われました。奴らは、上へ上へと向かっていく習性があるようで、こちらが苦悩している間にもゆるゆると壁をよじ登っている。私は、百科事典を取出し「ムカデ」の項目を見た。そこには、ムカデが南国生まれの肉食虫であること、毒を持っていて、人を刺す(噛む)こと、穴があると侵入する性質を持つことなどが書かれていた。そして驚愕なのが、19××年に、寝ている乳児の鼻の穴か口から侵入したムカデが乳児の内臓を喰い荒らし死亡の例がある、と、書かれていたことだった。恐ろしい!なんて恐ろしいんだ!(冷や汗)壁にはベッドが横付けされている。本日、このムカデ達を一匹残らず退治しなければ、取り逃がした奴が寝ている間に…あ・あ・あ…ぎゃ~!(苦悩絶頂!)そんなわけで、まずは殺虫剤を部屋の下部に撒き、上に追い上げることにした。壁にはりついているのを叩くのは、壁がよごれるし、はずした時にどこかに飛んでいってしまうことも考えられるので、良い考えとはいえない。そうだ奴らが天井に来た時に捕獲しよう!そう考えて、ビニール袋を用意した。幸い、大ムカデのようにやたら速い動きをしない。天井で捕獲するために、ベッドの上に仁王立ちになり、壁を登るムカデをじっと見守るフリフリ13号。天井に来た。最初は、チャレンジだった。ビニールをかぶせて、無理矢理天井から剥がせば、なんとか生け捕りできるだろうと考えていたのだが、壁から剥がす際のバトルが心配だった。(へたすると噛まれるからな)しかし、安心して眠るためには、やらねばならん。「ほい!」っと、ビニールをかぶせたところ、あっさり、簡単に、自分からビニール袋にダイブしてきた。周囲の空気が遮断されたことによって、何らかのパニックが起こるのかもしれない。案外簡単。(これならイケル)さらに這い上がるムカデを待つ。今夜は仁王立ち…。家族が、何事か?と覗きにくる。私が稀なる虫害に面して必死であることを訴えると、なんと、家族は「バカ受け」して笑っていた。我が家族は、どうも他人の不幸を面白がる傾向があって、よろしくない。個人主義が徹底しているというか、この場合、私のみが問題に直面しているのであって、彼等は関係がないらしい。同じ屋根の下にいながら「対岸の火事」って構えだ。ムカデの捕獲は、夜中の2時まで続いた。何時間、仁王立ちだったろう。ようやく(もう、いないな)という確信を持ってから眠りについた。家族はというと、「お前、まだやってんの?」という言葉を残して、すでに就寝していた。あれは、孤独な戦いだったなぁ…。今でも時々思いだす。
2005年06月29日
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中学生の頃の話。教室で「席」がどういう配置になっているか、というのは、案外重要だ。私の隣には、期せずして優秀な男子が座ることが多かった。いつも「あいつらデキてる」なんてウワサを流されるので、徹底的に否定していたら、誰もよりつかないヲンナになっていたりして、人生の悲哀やらなんたらを噛み締める中学生活であった。さて、そうはいっても毎日隣同士の同級生というのは、話し相手になるわけで、和やかな話もあれば、憎々しい会話もあり、まぁ、いろいろ話すわけです。ちょっと成績の良い部類だった私と隣のヤマダ君は、仲が良いというよりは、競り合ってる感じだったかも。ヤマダ君は、明らかに私よりも優秀な男子で、そういう存在を見ると、私も負けるものか~!などと盛り上がっていました。そろそろ高校受験という時に、ヤマダ君から聞いた話は「オレさ、合格したら親にステレオセット買ってもらえるんだ~」でした。うぉ~!その頃は、ステレオといえばマニアックなアイテムで、ミニコンポとやらがようやく市場に出始め、レコードとCDが一緒に売られていたくらいの時期であった。まぁCDの黎明期とでも言おうか…。ステレオといえば!私は事業に失敗した父親から「オマエ、オレのステレオ買わない?」と言われて、提示された30,000円を、「キャッシュで払うから20,000円でどう?」と言って、アンプ、チューナー、カセットデッキ、プレーヤー、スピーカー、ラックの一式を買い取ったことがあった。小遣いやらなんやら貯金していた金で、親から買物したのである。中学生の子供とその親の取引である。(阿呆かって感じ?)そのセットは、往年のオーディオマニアのモノらしく、現金だからといって、20,000円というのは破格であろうと中坊にもわかったが、父親の「背に腹はかえられない」姿勢につけこんで手に入れてみたのだ。いろいろな機能が独立しているので、2重録音なども出来て、実に面白かった。我ながら(キャッシュにすれば値切れる)と思ったあたり、今思いだしても、なかなかのものである。偉いゾ自分。その話は父親との直談判だったので、後で母親は呆れ返っていたっけな。しか~し、時代はCDに移行していたし、もっとコンパクトで高性能なコンポが欲しいとは思っていたのだった。「ステレオセット買ってもらえるんだ~♪」というヤマダ君の口調は、明らかに挑戦的であったし、目指していた高校が同じであったこともあって、負けじと私も(合格したら絶対ステレオ・ミニコンポ買う!)と心に決めた。親に買ってもらうというセンは、あり得なかった。過去の日記を読んでもらっている読者にはお分かりとおもうが、そういう家風ではなかったのだ。一応「ネェネェ~、ヤマダ君合格したらステレオセット買ってもらえるんだってェ~」な~んてカマはかけてみたんだが、あっさり「へぇ~、そう」とかわされたし。そんなわけで、見事、志望校に合格したワタクシは、「ステレオ買う!」という雄叫びをあげ、家族で電気やさんにGO!しました。そこで、気に入ったステレオコンポをみつけ、70,000円近くする商品を、うやうやしく購入したのです。えぇ、自分の小遣いをためたお金ですとも。まぁ、働いてなかったですから、お年玉とかね~、コツコツためてね~。そんなお金でね~。さて、私がそんな行動に出たことで、我が父のとった行動はといえば…、なんと…、娘に向こうを張って、110,000円くらいのコンポをお買い上げになりました。なんなんでしょう。そんな余裕があるなら、高校合格を祝って、娘にステレオセットを買ってあげればいいと思うのですが、娘がそのようなものを買うなら、自分はもっと高性能のものを!という考えのようで、私が会計をしている間に、父親も買物をしておりました。そんな父に、母は「何考えてるんだ?」と疑問をなげかけていたようですが、意にも解せず。張り合ってるのは、明らかです。ん~、なんで自分の娘に張り合うかな~?とっても不思議ですが、その日、電気屋さんでは、1家族から2セットもステレオセットのお買上げがあって、大変、いい日だったと思います。ヤマダ君は、無事合格しステレオセットを手に入れたみたいでした。私も、負けじと頑張って、ステレオセット買いました。ヤマダ君には負けていません!でも、オヤジのバカが、もっと良いステレオを自分のために買ってます。とっても複雑な気分だったな~。あの時…。その頃は、自分の家が、金持ちなのか貧乏なのか、よくわかってなかった。「廃虚」に済むことになったのは、その数年後のことである。
2005年06月19日
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学生時代はアルバイトをした。いろいろなバイトをやってみたけど、一番長く続けたのは大きな文具店の筆記具売場だったかな。隣の売場にいた短大生のバイトの女の子は、いかにもお嬢様という雰囲気で、ちょっと艶っぽくてお高い感じ。いや、本当はお高い性格なんかではなく、気さくな人だったけどね。時々、彼女は「今日は親が来てるの~」と言って、休憩時間をどこかで両親と過ごして戻ってきた。その手には大きな包みを抱えて…。「前から欲しかったのを買ってもらった」と嬉しそうにしていたので、「何を買ってもらったの?」と聞くと「バッグ!」と言って見せてくれた。『ロエベ』というブランドのバッグだった。ブランドものらしく、うやうやしく大きな箱から出されたバッグは、なんだかピカピカしていて、…高そうだった。人間というのは、どうしてもついつい自分と人を比べてしまいたがるもので、私の頭の中には、「親がこんな高いものをプレゼントしてくれるなんて、ウチではありえない」とか、「やはりお嬢様は違う」とか、「彼女はバイトしたお金は、また別に使えるんだ、いいなぁ」とか、そんなことばかりがグルグルと渦巻き、どんどん劣等感の雪だるまが大きくなっていった。私がバイトで稼いだお金は、毎月そこから2万円を親に上納しなければならなかった。もちろん親は小遣いなんてくれない。なぜ2万円なのか、理由を聞いたが、納得いく答は得られなかった。上納金は、家に住んでいる以上「義務」だと言われた。「いやなら1人でどこかに行け」と言われたが、そんな生活力はなかったし。つまり、選択肢がなかった。そんなわけで、4万円お給料をもらっても、2万円しか手にできないという生活だった。彼女をうらやましく思うのは、当然だったと思う。彼女が私に育んでくれた「負け感」は、これだけではなかった。年齢が一緒だった私達は、同時に「成人」を迎えていた。「成人式」なんて、そんなに重要視してはいなかった私だったが、彼女の指にダイヤの素敵な指輪をみつけた時に、彼女がこぼれるような笑顔で「成人に記念に母がくれた」という言葉に、またまたノックダウンされてしまった。もうね、単純です。「いいなぁ~…」のひとことに尽きます。20歳なんてね~、欲しいものがいっぱいありますよ。物欲!この物欲が旺盛な時期に、使えるお金があるかないか、って、かなり深刻な問題です。子供の心理=「なんでだろう?」です。「あの人は○○なのになんで私は○○なの?」この問いの答を、延々と「なんでだろう?」って考える充分な時間を持っているのが「子供」なのです。ちなみに、この場合の子供っていうのは、社会的に自立していないという意味。私の場合は、ウチは貧乏だしな~、とか、オヤジはちょっと頭が変だしな~、とか、母は病気だしな~、とか、まぁ、いろいろ無理矢理自分を納得させる材料があって、どんなに他人がうらやましくても、自分を見失わないで生きることが出来た訳だけど、今どきの子供が、極端な犯罪行為にはしってしまう心理って、こうして「なんでだろう?」「なんでだろう?」って考えても考えても、自分を納得させるだけの答が見つからなくて気が変になってしまうからじゃないかな~、なんて思います。この、自分という存在を問いつめるような「なんでだろう?」の心は、哲学者を育てもするけど、重度の鬱や、自殺者または犯罪者をも育てるのではないかと。で、私は、特に物欲を刺激される学生時代に、悶々と「なんでだろう?」「なんでだろう?」と自問自答を繰り返し、哲学者への道(?)を選んだのであります…。「負け感」のおかげで、モノを考える人間になれたわけです。しかし「負け感」の副産物は、他にもあり…、20歳くらいから社会人になるまでの数年間、私は「物欲」を失くしてしまったのでした。ある時から、な~んにも欲しくなくなった。自分でも「これは異常かも?」と思うくらい、無欲になってしまった。他人をうらやましいと思わなくなった。なんだったんだろうな~、あれは。「負け感」に免疫が出来てしまったのか…。ふっきれたんだか、壊れたんだか、普通の20歳の感覚ではなかった気がする。虚無僧のような20歳。成人式の招待状は役所のミスで受け取れず。式には行かず、誰にも祝われもせず、金はなく、恋もせず、お洒落もせず、買物もせず、ただ黙々と生きていた。あの時代、あぁ、食欲だけは旺盛だったかな…。ぷぷ(⌒▽⌒)
2005年06月10日
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人生で初めて「負け感」を感じたのは、小学生の時だった。誰が見ても可愛らしい親友の家に遊びに行った時、彼女の部屋で、彼女が私の好きなBクンに誘われてスケートに行ったことを聞かされた時だった。彼女の家は、ピアノがあって、彼女はピアノが弾ける。それだけでも、うらやましいと思っていたのに。小学生でも、ハートブレークは一人前だった。高校生の時、絵が上手だった私は、やっぱり絵の上手な友達とつきあっていた。サークルも漫画とかアニメとか全部所属。部活は当然美術部。どのサークルも一緒だった女の子がいた。見た目もちょっとふくよかで、私達は似ていた。でも、彼女のお父さんは、大企業の重役で、彼女はお嬢様。ある日「誕生日に叔父さんがくれたのよ」と言って見せてくれた木箱に入った海外の色鉛筆のセットは、私のお小遣いでは決して買えない、親に言ったって絶対買ってもらえないような高級品のようだった。100本以上のセットだった。木箱は2段になっていてお洒落。私は、その頃、絵を描くのは、自分が学校中でイチバン上手い!なんて勝手に思っていた。だって中学の美術の先生が、君は学年で3本の指に入るよ!と太鼓判してくれたんんだもの。でも、高校に入って、もしかしたら彼女の方が上かも?なんてライバル意識を持っていた。だから、そんな色鉛筆セットをプレゼントされる彼女には、「かなわないんだ」と、思った。負けた、というか、もともと負けているような気分になった。その彼女が、私の好きな男の子とつきあい始めたので、ますます「負け感」に沈んでいった。仲がいいだけに、どこで待合せをしている、とか、どこで初めてキスした、とか、聞かされる。私は、彼もいなかったので、キョ-レツに「負け感」だった。大学に入ると、そこにいたのは、あらゆる地域からやってきたぼっちゃん、お嬢ちゃん達だった。私立の美大にやってきたのは、大半が生活のなにもかもを親の潤沢なお金で、なんとかできる人達。ある大学教授の息子などは、20万円の革ジャケットを着てキャンパスを闊歩していた。私の状況はといえば、廃虚に住んでいたのであるから、そこに自分が交じっていること事態が不思議であった。そんな大学でも、親しくする友人が出来た。芯が通った人だけど、やはり親に頼れるあたりが、ぬるいような気がした。卒業前に、冒険のような海外旅行に行ったけど、それは実家がしっかりしている人にしかできないんじゃないかな~、なんて私は思ったサ。冒険したい気持ちは負けないと思うんだけど、私には、いざという時に支えてくれるバックボーンがない。彼女は「こんな冒険をした」という想い出を作れたけど、私にはそんなことはできなかった。金もないし。社会人になってから行った海外から、自宅にコレクトコールを試みた時、英語の電話にビビった母は、意味もわからず、ひたすら「NO」を繰り返し、私はオペレーターに「相手がNOと言ってるので繋げない」と言われたことがある。帰国してから問いただしたら「あれはそうだったのか~」なんて言う親だ。カイロでテロがあった時に、そこにいたので、心配ではないかと電話したのに娘が行ってる国でテロがあったことすら、知らなかったようだ。国際感覚はゼロらしい。ま、それはそれとして。ようは、頼れる人が1人もいない状況で、冒険旅行は無理だな、と。それが「シベリア鉄道」に乗った友達に感じた「負け感」。その友達は、その後、男とこじれて、引越しを繰り返した。引越しってーのは、金がかかる。資金は親が100万円以上負担したようである。それでも、何万円もするバッグを普通に買物していた。そんなにバイトしていた様子もないのに。廃虚に住んで、バイトもしていたのに、常に金欠だった私には、とってもとっても不思議なことであった。つづく
2005年06月09日
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