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<林業経営はシンドイ>WOOD JOB!(ウッジョブ)には光と影があるわけで、影の部分も知っておく必要がある。その蔭のあたりを「木と森の雑学」という本で読んでみました。【木と森の雑学】鈴木啓三著、グラフ社、1985年刊<「BOOK」データベース>よりデータなし<大使寸評>このところWOOD JOB!(ウッジョブ)が気になるわけです。この本で、林業経営はシンドイということがよくわかります。rakuten木と森の雑学<全国きわめつき林業地ベスト10>p118~124 日本の林業は、世界に誇れるほどに立派なものですが、なかでも青森ヒバ、秋田スギ、木曾ヒノキの三大美林は別格としても、ここにあげる10ヵ所はいずれ劣らぬ優秀な林業地ばかりです。覚えておいてソンはありませんよ。1.パイロット・フォレスト(北海道・標茶営林署、カラマツ)2.会津キリ(福島県、日本キリ)3.西川林業(埼玉県、ヒノキ、スギ)4.天竜林業(静岡県、ヒノキ、スギ)5.能登のアテ林業(石川県能登地域、アスナロ)6.北山林業(京都市、スギの磨き丸太)7.吉野林業(奈良県、ヒノキ、スギ、楢)特記すべき点は、他の林業地にはないことですが、村外の商業資本にによって、その9割が支えられていることです。地元にはその保護管理が委ねられており、その山守りの任は権利として世襲されています。村外の森林保有者一人に対して、一人から数十人の山守りがおり、出頭(大番頭)が置かれている例があります。8.木頭林業(徳島県、スギ)9.日田林業(大分県、ヒノキ、スギ、アカマツ)10.屋久スギ(屋久島、スギ、天然広葉樹)(この本には、各林業地のお話が載っているが、吉野林業についてのみ紹介しました)山師といえば、なんとなく詐欺師のようなイメージであるが、次の説明でよくわかりました♪<「素人は山に手を出すべからず」の根拠>p139~141 山師という言葉があるように、山については専門家でない人の感覚がそのまま通用しにくいところがあります。投機的に万に一つの幸運を夢みたり、山なら確かに資産だからと貸借関係の担保にいたり、といったことは避けたほうがよい、とご忠告いたします。 まず林業投資は利率5%程度が最高限度であること、200ヘクタール以上の経営規模がなければ十分成り立つとはいえない事業であることを知っておいてください。 また担保の設定についてみると、全国に202の支店をもつある上位の都市銀行でさえ、山という不動資産の扱いは本店のみに限っています。それほど山林担保はむずかしいということなのですが、仮に担保を取ったとして、この物件を処分する際には、以下のようなポイントを十分理解し、適切な処置ができなくてはなりません。1.その山(森林・林地)は純山林か農地介在林か。2.針葉樹林か広葉樹林か。3.林齢構成はどうなっているか。4.上物(木のこと)の時価はいくらか。5.その森林面積は森林簿によるものか、それとも確実に実測した登記か。6.常時監視できないその山林が慢用されていないかどうか。7.森林林地の境界は確かか、それを示す永久石柱はあるか。 こういう事実を確認するだけでもむずかしく、素人には理解しにくいことがあまりに多すぎるという気がするのですが、要するに公図を見て、その山の地形・環境などを十分読みとることができ、しかもその読みとりと現地の状態とが一致するような知識や経験が、山を扱うには絶対に必要である、ということです。 この意味から「素人は山には手を出さないほうがよい」という教訓となるわけですが、これとは別に、国や地方自治体で進めている緑の国づくり、郷土づくりのための山林共同経営企画、また林野庁が昭和59年から始めた国有林の育林契約制度などがあります。 こちらのほうは、投資というよりも、国や県、市町村の事業に参加するということが目的ですから、あまり大きな見返りを期待せずに緑づくりに参加している、あるいは自分もオーナーの一人であるという誇りなり、満足感のためであれば、大いにおすすめします。2007年、緑のオーナー制度の元本割れが判明する前に述べられた本なので、当時の林野庁の能天気さが見てとれるようです。山師とは林野庁の官僚だったりして、アハハ!次は林業経営についてです。約30年前の本なので金銭事情が古くなっているが、林業経営の苦境は変わっていないはずです。<林業経営でメシを食うのはシンドイ話>p141~146 山持ち、つまり山林の所有者というと、なんだかずいぶんお金持ちのように聞こえますが、実際はそうとばかりも言えません。所有する山林の面積や、そこに植えられている木の種類などによっても、いろいろな違いがあるからです。ここで、一般的林業経営の場合、どのくらいの山持ちであれば、メシが食えるのかを、みてみましょう。 1ヘクタールというと100アール、1万平方メートルです。一般の家庭の敷地などからみたら、とてつもない広さです。そこで、山林を50ヘクタール所有しているというと、相当な山持ちのようですが、実際にはまず200ヘクタールくらいを所有あるいは保有していないと、林業経営者とは言えないのです。 昭和58年度の「」によると、前年度の林家一戸当りの年平均の林業所得は、50~100ヘクタール所有階層では、103万5000円で、これでは家族4人はとうてい食べていけません。100~500ヘクタールではどうでしょうか。この所有階層で、やっと平均328万6000円の収入があり、もう少しで一般サラリーマンに並べるかといったところです。 もう少し詳しく調べてみましょう。 計算の基礎になる数字を、1.人工林率=55%、2.伐採時期=植林後40年、3.法正林率の完成度=三分の一といったところに仮定します。 いま、スギの林200ヘクタール所有の林家が年に伐採し得る面積は、 200×0.55÷3=0.9166 となり、0.917ヘクタールです。 ところで、40年生のスギの立木の材積は1ヘクタールで357立方メートルですから、0.917ヘクタールなら327立方メートルになります。立木単価が1立方メートル当り1万5000円とみて、この林家の収入は491万円になります。 この収入から翌年の伐採跡地の造林費(1ヘクタール60万円として0.917ヘクタールは55万円、うち半分ほどは政府補助)と租税公課を差し引くと、410万円前後になります。 つまり、スギの森林200ヘクタールの山持ちでも、林業収入は400万円程度でしかないということです。 同様に、植林後80年のトドマツ林200ヘクタールを持つ林家の場合、年収は510万円ほどになります。金額だけを比べると、前記のスギ林よりいいとしても、伐採までの年数は倍の80年です。それを計算に入れると320ヘクタール以上ないと追いつかないことになります。 この、時間との勝負が、林業経営者にとっていちばんツライところです。早く育つ木を植えればいいと思われるでしょうが、野菜などとは違って、比較的早く伐採できるウルシやキリにしても15年から20年はかかります。結果的に、樹種にもよりますが、ある程度の広さを所有していないと森林経営はやっていけないということです。この本の著者は営林署長などを経て現在は林業経営コンサルタントとのことである。この本を読むと、森林、樹木を愛していることは感じられるのだが、どうしてもお役人臭が抜けないようです。「緑のオーナー」制度については、制度をつくった当時の責任者(官僚や政治家)が、責任を取るしかないのだが、誰か責任を取ったでしょうか? 失敗しても責任をとらされない今の公務員システムが、今のように無責任国家を作り上げてしまったようです。役人嫌いの大使がこの本を読むと、どうしても林野庁トップにたいするきつい読み方になるわけです(笑)問題は高級官僚の資質なんでしょうね。つまり日本の森林と林野庁組織とではどちらが大事なのかということに尽きるのだが。
2014.01.31
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この本を借りたあとに判ったのだが、著者はチェコ語の権威だとか・・・せめて、仏、独、ロあたりが良かったのだが。しかし、言語学ということでは、何語を選択しても同じではないかと思いなおして、読み進めたのです。【注文の多い言語学】千野栄一著、大修館書店、1986年刊<内容紹介>より古書につきデータ無し<大使寸評>なかなか内容、薀蓄に富む本ではある。イラチな大使には、この本を全文書き写す時間はないので・・・一旦、図書館に返却することにします(笑)rakuten注文の多い言語学文字といえば、大使の関心はやはり漢字にあるわけで、そのあたりが載っている章を紹介します。<もう一度文字について>p143~146 古代文字と呼ばれる七つの表語文字のうち、まがりなりにもやや正確なことのいえるシュメル文字、エジプトのヒエログリフ、漢字の三つを見ても、それぞれの歩んだ道は文字形成の原則に時おり共通点が見出せる他は、全く異なった道を歩んだといってもいい。その中で注目されるいくつかの点は、シュメル文字の成立にのみ長い時間がかかったことが確認されていることと、エジプトのヒエログリフが成立の過程がそれほど明白でなく、しかも、かなり早い時期に、単なる文字の成立からその先の段階へ進んだこと、そして、漢字のみが今日でも用いられていることであろう。 この中で、ヒエログラフの表音化、漢字の今日に至るまでの使用は、明らかにそれぞれの言語の性質に大きく依存している。そのことを述べる前に認識しておかなければならない大切な事実は、分節という近代言語学にとって不可欠な概念は、言語が音声言語としてのみ存在している限りそれほど重要ではないが、言語が文字によって表現されるようになると、分節ということが初めて重要な意味を持ってくるという事実である。その証明の好例としては、漫画の本における叫び声がどのように書かれているかを見れば十分で、文字で示されているのはある状況における発声の近似値にすぎないが、ここで始めて分節がおこなわれたのである。もっと具体的な例をあげれば、ロシア語では[h]の音を表わす文字はなく、感嘆の表現である[aha]という音はaгaという文字で表わされ、また、馬車を止めるときの御者の発する音もпррррと表わされるのはその例である。すなわち、文字こそが言語の分節の基本であって、文字がなかったら、言語を分節するという考え方には到達しなかったに違いない。 そこで、漢字が今日まで使用されていることを考えると、文字の成立、すなわち、ある概念を示すのに一つの文字をあてるという方法が、中国語の構造とうまく対応していたという事実が浮かび上がってくる。今日の中国語と古代中国語とを比較すると、古代へさかのぼるにつれて単音節の語が多くなり、一つの形態素が一つの語であるパーセンテージが多く、その語に対して一つの文字があてがわれている。そして、それらの語の統辞論的な関係は、音的なレベルでの差異を除けば、語順以外には表現されていないところに中国語の特性がある。 例えていえば、真珠のネックレスを考えたとき、一粒一粒の真珠が中国語の語であり、一つの文字で表現される単位であって、その他の要素を含む必用もなかったし、含んでいないといえる。中国語の持っていたこの構造(あるいは無構造)というものが、今日に至るまで中国語での漢字の使用を支えていたのであって、このような構造を持たない言語では、文法の成立と同時に、よりふさわしい文字体系への改良が始まり、このプロセスは現在でも世界のすべての言語で進行中であり、単に規模の大きさにおいて、それぞれの言語で異なっているにすぎない。 ヒエログリフの表音化、あるいは、楔形文字の表音化が進行したのは、そもそも一つの概念を表わしていた単位である文字だけでは、その言語を表現するのに不十分で、それらの概念間の関係を示す要素がその言語の文字表現様式に不可欠になってきたとき、あるいは、文字が一つの概念の表わす音の一部だけを選択して表わすようになってきたときなのである。むむ この章は専門的すぎて・・・なかなか頭に入ってこなかったなあ(汗)イラチな大使は、言語学の役割、利点などを知りたいのであるが・・・ありがたいことに、著者は次のように答えています。<かくし味>p163~165 さて、前置きが長くなったが「言語学は外国語上達法にどのような意味を持つか」という問には、「言語学は外国語の習得にはかくし味のような役割をしている」と答えることにする。かくし味とは何かを厳密に定義できるほど料理に精通しているわけではないが、かくし味というのは料理を作るプロセスでさりげなく入れたものが、後になってきいてくる味のことで、直接的に味を左右するものではないが、全体の味に重要な役割をはたすものである。 すなわち、言語学を学んだからといって、ある外国語を習得するとき、半分の時間ですむとか、単語を倍の早さで覚えられるというものではない(とはいえ、例えばある一定数の単語を覚えたあとなら、語源学というような言語学の一部をなす研究方法で、意味の分からない単語の意味を推定できるような場合もある)。 しかし、言語学を学べば、世界のどの言語といえども、単語(これを定義することは容易ではない)と文法のない言語はない、というような事実にはすぐ気がつく。従って、外国語を習得するということは単語と文法を習うことであるというのはすぐ理解できる。そして、すべての言語において、単語の数と文法の規則の数を比較すると、前者の方が多く、極端な場合を考えてみれば明らかだが、文法だけしか知らない人と、単語だけしか知らない人を比べれば、前者は実世界では何の役にも立たないことに気がつくであろう。旅行をするには三人称単数現在には-sがつくとか、時の一致とか、形容詞の比較級には-erがつく形が多いというような知識より、数詞を一から十まで覚えていったほうがはるかに役に立つことは、誰でも知っている事実である。 外国語の習得とはまず第一に単語を覚えるにつきる。 日本の外国語教育は教養としての外国語を目標としたために、文法偏重で、もし、実際に使える外国語を学ぶつもりなら、現在以上に単語を覚えることを重視しなければならない。そして単語を覚えるにあたって、どういう単語を覚えたらいいかというとき、言語学はかくし味の力を発揮するのである。
2014.01.30
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著者の義弟がサウジ駐在のフランス系保険会社の中東ジェネラル・マネージャーであるという関係で・・・・サウジの中のフランス人社会というまるで人類学的体験のようなお話になっています。(最も禁欲的な国の中に、最も享楽的な人種の租界があるというパラドックス)この著者の特殊な立場がなかったら、描き得なかったサウジアラビアのお話なんでしょうね。とにかく「パラドックス・パラダイス」という副題が、この本の魅力を一言で表わしています。【不思議の国サウジアラビア】竹下節子著、文藝春秋、2001年刊<「BOOK」データベース>より一日五回の祈りタイム、家に閉じ込められる女性たち、金曜日ごとの公開処刑ーいかにも窮屈で恐ろしげな事前情報を手に現地を訪れた著者が見たものは、生活コストが安く、女性は働くことさえなく、政治活動や組合活動の必要もない、この世の楽園だった。されど、我々が追い求める幸せは、こうした豊かさの延長線上にあるのだろうか?黒いヴェールに閉ざされたイスラム大国の「五つのパラドクス」を解きほぐし、真の幸福の意味を問いかける。<大使寸評>この著者の特殊な立場がなかったら、描き得なかったサウジアラビアのお話だと思うわけです。とにかく「パラドックス・パラダイス」という副題が、この本の魅力を一言で表わしています。rakuten不思議の国サウジアラビアサウジ出張先の現場で大使が接した外国人といえば、フィリピン人とインド人でした。それはサウジでの典型的な外国人労働者の実態であったことが、この本を読んでわかったのです。<外国人労働者の立場>p120~126 できるだけ異教徒や外国人を排斥したいはずのサウジアラビアが、しかし、今、多くの外国人を受け入れるようになったのは皮肉だ。メッカ巡礼は別として、膨大な数の外国人労働者がいるのだ。これも石油マネーの魔法で、要するに、金持ちになったサウジアラビア人がブルーカラー労働をやりたくなったことの帰結である。 リヤドの街で見かけるのは圧倒的に外国人の姿だ。人口の半分以上が15歳以下という若い国であり、女性はほとんど働いていないから、サウジ人の就労率は20%台に過ぎない。しかも、農場経営者や商工業のパトロンなどを別としてサウジ人には公務員が多く、オフィスワークがほとんどだから、昼の通りでサウジ服に頭巾をかぶった人を見かけるのは少ない。ただし車を運転をサウジ人の姿は多く、左右の見通しの悪い頭巾を上にからげている人もいる。 街の通りでも目に付くのは外国人労働者で、実数もサウジ人の倍以上である。街ではいたるところに建築中の建物があり、工事現場にいるのもみな外国人だ。外国人労働者のうち四分の一以上がインド人だと言われている。その理由はいくつかある。インドは英国との関係が深いので、英語を話せる人が多く、最初にサウジアラビアに投資したアングロサクソン人とのコミニュケーションに便利だった。また、前述したように、いわゆるアラブ人同士はもともと独立性が高い部族だから、ライバル意識が強くあまり仲が良くないので、できるだけ非アラブ系の外国人労働者を導入しようとしたわけだ。特にアラブ間政争の頻発した1975年以降の傾向である。同じアラブ人同士の湾岸戦争の後は、ヨルダン人やイエメン人の労働者が、それぞれの国がサウジアラビアに味方しなかったということで一掃されたこともある。(中略) 多くの国では、外国人の非熟練労働者というと、有形無形の社会差別の対象になっているのだが、不思議なことにサウジアラビアではこれも他の国とちがう。まず数が多い(全人口約2千万人のうち約三分の一を占める)ので、差別などしていられない。いわゆるマイノリティではないのだ。リヤドの空港にずらりと列を作って辛抱強く入国手続きを待たされる小柄な東南アジアの女性たちを見ていると、奴隷市場を目にしたようなショックを受けるのだが、さりとて対象群となる「自由な女性」の姿が少なすぎる。フィリピン人のメイドなどが、ヴェールはしているものの顔は出したままでスーパーに一人で買い物に来ていたり、連れ立って子供たちを外で遊ばせているのは目にするのに、夫の影のような、黒い幽霊のようなサウジ人女性の姿はめったに見ないし、その姿はメイドたちに比べて自由そうでもない。外見は同じアバヤだから裕福そうにすら見えない。(中略) 差別といえば、この国では非ムスリムというだけで白人ビジネスマンですら、ある種の差別を受けているし、ムスリムでちゃんと祈りにいくインド人運転手の方が非ムスリムの雇い主よりも偉いような部分があるのもおもしろい。フランスのように、旧植民地のアラブ国(アルジェリア、モロッコ、チュニジア)からの移民が多く下層階級の大部分をなしていて、もちろん差別もされているというような国から来ると、非常に不思議な印象を受ける。 フランス人は、たいていの外国でなら自分たちが大使館の外交力で守られていると安心しているのだが、サウジアラビアでだけはこの確信が揺らぐ。外国人でも麻薬を所持していたりすると公開処刑でどんどん首を切られるのを見聞きするからだ。(中略) とは言っても、一般にヨーロッパ人は、植民地支配の名残で非ヨーロッパ圏に住むと植民者的な横柄な態度をとることが少なくないが、サウジアラビアではアラブの誇り高さに圧倒されてみな一応神妙にしている。この国はさまざまな先入観を相対化してしまうだけの力を持っているということだろう。2001年時点で、著者はサウジの現状と行く末について次のように語っています。なかなか鋭い洞察になっていますね。<豊かな時代は終わった>p175~178 「金持ち」であり続けるということ自体も難しくなっている。サウジアラビアの人口増は毎年4パーセントの伸びで、世界一と言われる。近代医療技術の導入で乳幼児死亡率が大幅に低下した。リヤドの人口は70年代、80年代に倍々で増えた。結果として、この20年にサウジ人の平均購買力は5分の2になったと言われる。これまで安い値段で貴重な水を提供していた水道局も民営化の動きがある。各種補助金の削減や公共料金値上げの対策も次々と検討されているところだ。社会保険のシステム導入もようやく視野に入ってきた。未成年が過半数を占め、女性が働かない国での膨大な不労人口を、国が税金を取らないで養っていくのが苦しくなってきたのだ。国営企業では大々的なリストラが始まろうとしている。すでに、1998年12月に開かれた湾岸6カ国サミットで、アウジアラビアのアブドウラ皇太子が「豊かな時代は終わった」と宣言して各国民に倹約と経済的自立とを呼びかけたのは記憶に新しい。 また、他部族を懐柔するため広く姻戚関係を作ろうとして何十人もの子供を持ったアブドウルアジーズ以来、実に2万人に達するといわれる王族の問題がある。彼らは国民総生産の三分の一を消費すると言われるが、そういう消費を支える石油収入にも限界がある。石油輸出国機構(OPEC)の決める生産枠に縛られているので生産高を大きく増やすことは不可能なのだ。空港も王の私物であり王族はみな無料で旅することができるが、絶対数が増えては航空会社は成り立たないわけで、サウジ航空も民営化の動きが出ている。 もう一つの大問題は、外国人労働者の多さだ。サウジ人はきつい仕事や汚い仕事、非熟練労働などにまったく就かないくなったので、労働意欲そのものが低下してしまった。しかも今後5年間で百万人以上の若者が労働市場に参入する予定だ。数だけ増えるので、高い教育を受けても就職できない若者はたくさんいる。 この「普通のサウジ人」たちの「豊かさ」が危機に瀕しているのだ。サウジにはかなりの数の王族や大金持ちが国の頂点にいて、そのすぐ後の脇に「先進国」のビジネスマンやエンジニアがいる。「中流の上」が、国の福祉によって養われ「管理職」群を形成するサウジ人で、「中流の中と下」は、みな移民や外国人労働者が占めている。そしていわゆる下層階級はなく、国のシステムからほとんど独立している遊牧民のグループが全体の4分の1ぐらいとなる。(中略) つまり、普通の人みなが欲望の充足を得られるシステムというのは、その蔭で搾取される弱者がいるということであり、「みな」の部分の人口が増え続けると支えきれなくなるシステムだという当たり前のことなのだ。環境破壊で自らの首を絞める可能性も含めて、問題点は「豊かさ」の持続可能性である。アメリカ式の消費経済至上主義の極北にあるものが「みなが豊かなユートピア」だとしたら、それを可能にするのは弱者の搾取であり、その先に待っているのは内部からの崩壊なのかもしれない。サウジアラビアの現在はそれを暗示している。この本もサウジアラビアあれこれ に収めておきます。
2014.01.29
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日曜日の朝日新聞に読書欄があるので、ときどき切り取ってスクラップで残していたのだが、これを一歩進めて、無料デジタル版のデータで残すことにしたのです。・・・・で、今回のお奨めです。・日本語に生まれて・うな丼の未来 さっそく、図書館に借り出し予約するのもいいかもね。***************************************************************日本語に生まれてより<副題:世界の本屋さんで考えたこと>ドミニカ島の雑貨店兼本販売所、南太平洋諸島、インド、オーストラリア、エストニア……世界の周縁を「本屋さんはどこですか」と聞きながら歩き回った。それは日本語を問い直す旅でもあった。 大量の外国語書籍が母語に翻訳され、家でも大学でも、本も学問も母語だけで何とかなる日本は、世界を見渡すと、実は当たり前ではない。著者は「第三世界」出身の人々に、「どうして日本人はそんなにうまく(近代化を)やれたんだ。おれたちはできなかった」と聞かれるという。電子書籍、本屋の未来--世界を歩きながらも、日本の言語文化に「妙な未練のような感情を抱えてしまった」著者が、やわらかな言葉でつづる旅。 ◇『日本語に生まれて』 中村和恵著、 岩波書店、2013年刊 <「BOOK」データベース>より世界中どこに行っても、必ず訪れるのは本屋さん。「すみません、本屋さんはどこですか」南太平洋諸島からロンドン、エストニア、オーストラリア、どこへ行ってもそう訊きながらめぐり歩く旅の中で、見えてきた「日本語」の姿とは?ユーモア溢れる文章にのせて、深い問いを投げかける。【著者情報】中村和恵:1966年生まれ、北海道出身。東京、モスクワ、メルボルン、シドニー、大阪、ロンドンなどに移り住む。東京大学大学院比較文学比較文化専攻博士課程中退。現在、明治大学教授。専攻は、比較文学・比較文化、英語圏文学。詩・小説の創作、食、衣、性など幅広いテーマについてのエッセイも手がける<読む前の大使寸評>つねづね、日本語に生まれた幸せを感じている大使にとって・・・見逃せないタイトルの本である。rakuten日本語に生まれてうな丼の未来より<絶滅に瀕した稀少種どう食べる:内澤旬子(文筆家・イラストレーター) > ついこの前までスーパーの惣菜コーナーにあると思っていたら、急に高騰したうなぎの蒲焼き。養殖で安定供給されていると思い込んでいたニホンウナギが、絶滅の危機に瀕しているという。一体どういうことなのか。 本書は昨年7月に書名と同じタイトルで、東京大学にて開催されたシンポジウムでの講演やアンケートなどを忠実に再現したもの。 実は野性の稚魚を獲ってきて大きく育てたものを「養殖」と呼んでいたことをはじめ、人工孵化は、どこまで可能になってきたのか、そもそもどういう生態なのか、「絶滅危惧種」に指定されたらどうなるのかなどなど、ニホンウナギとうなぎ食にのしかかる現状と問題点が、22人の研究者、漁業関係者の発表から明らかになる。 稀少な野生種をあまりにも雑に食べてきたことを反省しつつ、今後うなぎをどう食べるべきか、理性的な消費を促すためにも、多くの人に読んでほしい。 ◇『うな丼の未来』 東アジア鰻資源協議会編、青土社、2013年刊 <「BOOK」データベース>より日本人がこよなく愛すウナギの食文化を絶やさないために、考えを持ち寄り、議論を尽くそうではないか。この趣旨に賛同した各界のキーパーソンたちー養殖業者、シラスウナギ漁業者、研究者、行政、メディアが一堂に会した画期的シンポジウム、待望の書籍化。<読む前の大使寸評>内澤旬子さんが選んだ本なので、いい本なんでしょう。マグロにも同じような問題が生じていますね、それから、食文化ということではクジラについても言えるが。rakutenうな丼の未来**************************************************************<asahi.comのインデックス>最新の書評を読むベストセラー解読売れてる本(新聞紙面のデジタル版はだいたい2~3日後にUPされています。)朝日デジタルの書評から34朝日デジタルの書評から(目録)
2014.01.29
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矢口史靖監督のWOOD JOB!(ウッジョブ)を個人的予告として紹介した大使であるが・・・つらつらと過去の日記を見てみると、折りにふれ矢口作品を見てきたわけです。単なる娯楽映画というにはちょっと違う…なんか生きる元気がわいてくるではないか♪ちょっと褒めすぎたようだが、これまで見た矢口作品を集めてみました。・矢口史靖監督のWOOD JOB!(ウッジョブ)・「全天候型ロボジー」と自称しているので・スウィングガールズ・ウォーターボーイズ(古い日記を探索中です)<矢口史靖監督のWOOD JOB!(ウッジョブ)>まだ先の話だが、矢口史靖監督の「WOOD JOB!(ウッジョブ)」という映画が来年5月に公開予定だそうです。三浦しをん、林業、矢口史靖監督という取り合わせが、大使の興味をひくわけで・・・「ウォーターボーイズ」の矢口史靖監督だから、面白い作品に仕上がるのではないか♪ちょっと気が早いが、この映画の個人的予告を作ってみました。【WOOD JOB!(ウッジョブ)神去なあなあ日常】矢口史靖監督、2014年制作<movie.walker解説>より矢口史靖監督が、林業を描いた三浦しをんの小説を染谷将太×長澤まさみ×伊藤英明で映画化<観る前の大使寸評>movie.walker解説もまだ1行の段階なので、やや情報不足ではあるが、おもしろそうである♪movie.walkerWOOD JOB!(ウッジョブ)神去なあなあ日常『WOOD JOB!(ウッジョブ)神去なあなあ日常』公式サイトなんか昨今では、映画は半年以上前から、公式サイトを作って宣伝しないと、ペイできないのかもしれないなぁ。三浦しをんの作品をまだ読んでいないのだが、就活作家と呼ばれるように、時流に乗るセンスはあるんだろうが・・・・林業に就職というのは、言うは易しであり、無責任に誘うわけにいかない現実があるはずです。この映画の本気度を矢口史靖監督×農林水産大臣対談を見て、調べてみます。<「全天候型ロボジー」と自称しているので>このところの猛暑日でもあり、くだんの2本立て館に「ロボジー」がかかったので・・・避暑を兼ねてでかけたのです。なにしろ「全天候型ロボジー」と自称しているので、この映画は見逃せないのです。【ロボジー】矢口史靖監督、2011年制作、H24.8.10観賞<goo映画解説>より家電メーカー、木村電器の窓際社員、小林・太田・長井の3人組は、ワンマン社長から流行の二足歩行ロボットの開発を命じられていた。近く行われるロボット博での企業広告が目的だ。しかし、ロボット博まであと1週間というところで、制作途中のロボット“ニュー潮風”が木っ端微塵に大破!窮地に追い込まれた3人は、ロボットの中に人間を入れて誤魔化す計画を立てる。ロボットの外装にぴったり収まる人間を探すため、架空のオーディションが開かれ、仕事をリタイアして久しい独り暮らしの老人・鈴木重光(73歳)が選ばれる。しかし、この鈴木がとんでもないジジイで……。<大使寸評>久々に日本のコメディを見たけど、ええでぇ♪脇役専門だったミッキー・カーチスが73歳にして初めて主演した映画であるが・・・スワロウテイルの脇役などでも、いい味でていました♪映画『ロボジー』五十嵐信次郎&吉高由里子 単独インタビューによれば、ミッキー・カーチスは、この映画のためのオーディションを実際に受けたそうで・・・苦労話には笑ってしまいます。goo映画ロボジー全天候型ロボジーは、この後、朝連に出かけます。<スウィングガールズ>今日は神戸ジャズストリートという催しが神戸北野界隈(18会場)であり・・・走る仲間とふたりで、生のスウィングガールズを聴いてきた。「北野工房のまち」では今 公開中の映画「スウィングガールズ」のモデルとなった高砂高校のジャズ演奏があったんですよ。スィングやるべ?と東北弁ではじける映画のほうはまだ観ていないけど、「ウォーターボーイズ」の矢口史靖監督の作品だからきっと面白い映画でしょう。 高砂高校のスウィングガールズ達も、かなりなもんでぶっ飛んだ迫力がありました。トランペットやサキソフォンのソロを奏でる生徒の熱心な(小生意気な)顔も良かったですね。ブラスバンドが大好きというわけでもないが、ラッパと太鼓のスウィング感がいいですね。とくに どのバンドでも何の演奏でも・・・女性ドラマーには無条件に感動してしまいます。神戸ジャズストリートKaren Carpenter - The Drummer
2014.01.28
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朝鮮系の在日は阪神地区に数多く住んでいるが・・・・この本で歴史をさかのぼれば、日朝交流を示す話や史跡が身近にあることがわかるのです。【兵庫のなかの朝鮮】『兵庫のなかの朝鮮』編集委員会 (著)、明石書店、2001年刊<「BOOK」データベース>より「人権と共生の世紀」の21世紀に、忘れ去られようとしている朝鮮との正しい関係の記録を残す意図で製作。近代の朝鮮人関係資料を調査研究している「兵庫朝鮮関係研究会(兵朝研)」、三十数年日朝・日韓関係を学習研究・調査している「むくげの会」と、学校の教員が中心となって在日韓国朝鮮人をはじめとする外国人の教育課題の解決をめざしている「兵庫県在日外国人教育研究協議会(兵庫県外教)」の三団体で企画・編集された。 <大使寸評>全国各地に朝鮮との交流を示す史跡があるようで、明石書店のシリーズではこの本の他に東京、神奈川、京都、奈良が出版されています。とにかく、在日韓国人によってレポートされている部分は目からウロコであり、歴史認識を改めている大使でおます。amazon兵庫のなかの朝鮮この本から、不肖ドングリが馴染みのある地域について紹介します。大倉山には、わりと頻繁に通っているのだが、ここが伊藤博文ゆかりの地であることがわかりました。<大倉山公園と湊川神社:高龍弘>p77~85より●尊王攘夷 「楠公様のように」というのが、勤皇の志士たちのスローガンでもあった。 この先頭に立ったのが長州の水戸学の強い影響を受けた兵法家吉田松陰であった。 1840年のアヘン戦争で中国を破ったイギリスのことは、日本の幕府や知識階級ではかなり知られた事実である。欧米列強が軍事力で日本に開港を迫るのも時間の問題である。そして地図を開くと、鎖国しているのは日本と朝鮮。兵法家でなくても、軍事的にみて朝鮮が欧米に植民地化されたらどうなるか、と誰もが考える。 そのような松蔭の軍事思想は、そのまま門下生に受け継がれる。彼らはどこまでも軍事的にしか朝鮮を見なかった。そこに国があり、人が住んでいるということはむろん眼中にない。そして、それが後代の「征韓論」にまで引き継がれていくのである。 松蔭の松下村塾は、高杉晋作や桂小五郎など多くの幕末の志士を生み出した。そしてその塾のなかに狂介、利助という若者も混じっていた。涙を流して激しい口調で楠木正成の最後を語る吉田松陰の授業を、彼らも聞いていたのである。狂介、利助は後の明治の元勲である山形有朋、伊藤博文である。●大倉山の銅像 かつて、神戸の中心であった現在のJR神戸駅周辺。すぐ北には湊川神社があり、その東隣りには神戸地方裁判所がある。ここは昔、伊藤博文も執務していた兵庫県庁であった。そしてその北には、わずか55mながら、神戸港が一望できる大倉山がある。もともと大倉喜八郎が所有しており、豪華な別荘を建てていた山である。この別荘を、伊藤は自分専用のごとく使い、福原や花隈から芸妓を呼び寄せ、壮大な宴会を催していたという。 韓国統監の伊藤は、東京に帰る際、必ず神戸で下船してこの別荘に寄ったというから、韓国最高責任者の韓国最新情報が、この別荘にまっ先にもたらされたのであろう。 1909年8月16日の伊藤の大倉宛の手紙に、「松方伯爵来訪」とある。元大倉大臣であり、首相でもあった松方正義である。彼の三男が松方幸次郎。神戸の川崎造船所の社長であり、今も「松方ホール」など、神戸に名を残す人物である。この別荘には、ひんぱんに政財界の大物が訪れていた。 その伊藤が、1909年10月26日、安重根義士の銃弾によって死ぬ。 ここで4年前、神戸の群衆によって引き倒された、伊藤の銅像の再建話が持ち上がる。再建は神戸の名士である神田兵衛門らが進め、当初は諏訪山公園に建立する計画が決定していた。 しかし、この時神戸を訪れた大倉喜八郎が自ら諏訪山に登り、「ここは急な坂で、この地に訪れる人も少ないであろう。銅像は、私の別荘のある大倉山に高い台座をつくり、その上に建てて港に入る船からも見えるようにしてはどうか。そして大倉山を丸ごと神戸に寄付してもよい」と述べた。山を一つ丸ごと寄付とは、いかにも豪快な話である。もちろん政治がらみもあったのであろう。当時の写真を見ると、なるほど神戸港を行き交う船からもよく見えるくらい銅像は大きい。もちろん現在は神戸市立中央体育館、神戸大学医学部校舎、文化ホールなどが遮ってしまい、見えなくなっている。いや、見えないはずだ。伊藤の銅像は太平洋戦争中、金属不足のために取り壊されて供出されてしまい、今は台座のみがフェンスに囲まれて残っているだけである。朝鮮人は、もちろん伊藤博文を嫌っている。このところ、中韓に対して戦略的に突出する安部さんであるが・・・タカ派の長州人的資質を過不足なく評価する必要性があるのではないかと思うわけです。三木市は神戸市の北となりであるが、ここも古くから朝鮮との関わりが深かったようですね。<三木の伽耶院:藤原史郎>p143~144より 筆者の生まれ故郷、旧美嚢郡(三木市、吉川町)一帯のなかで「朝鮮」を間接直接に表記しているものが五つある。一つは、「百済」家の表札であり、二つ目は三木の金物の起源を示す金物資料館の「韓鍛冶」の説明文であり、三つ目は「伽耶院」の標識の「伽耶」であり、四つ目は「高麗橋」(吉川町)であり、もう一つは、藤原惺窩生誕の地の説明文に出てくる朝鮮朱子学者「カンハン」である。●百済家 「朝鮮」に関心をもったのが筆者の高校生時代。高一のころ、筆者の座席の後ろに百済君がいた。ある日、意を決して「おまえは朝鮮人か」と聞いた。彼は顔を真赤にして「おれは日本人なんやけど」と答えた。陸上の長距離選手で県下では名をなしていた。親父に聞いた「淡河から百済というのが来ている。彼は朝鮮人か」。父が答えた「もとは朝鮮やろが、ここらではえらい旧家や。裏に住んどった朝鮮人一家とはわけが違う」。親父のこの言葉に、日本人の「朝鮮」に対する見方が端的に現れている。古代の百済家は偉大で、日本の植民地支配以降、日本に来た朝鮮人はダメという価値観である。後者が朝鮮民族に対する今日の差別の意識の因である。筆者は、後年このことに気づいた。 金達寿さんは『日本の中の朝鮮文化』で、この百済家にふれて「石峰寺」の僧の末裔では、と推測をしておられる。石峰寺は大化の改新の折の孝徳天皇の勅願で651年渡来系の法道仙人が建てたという。段煕麟さんは、百済聖明王の王子恵の開基の伝承が残る丹生山明要寺建立に随行し、土着した僧の末裔ではと推測しておられる。後、李進煕さんにお会いした機会に、百済家のことを説明し、いつごろからの家かと聞いた。「おそらく飛鳥時代でしょうね」という返事だった。 今から9年前、百済君の本家筋にあたる百済八十雄氏宅を訪ねた。市立尼崎高校の文化祭に「兵庫の中の朝鮮文化」を展示するためだった。氏は、江戸時代の巻物ふうの古文書を数点見せてくださった。古文書は税の軽減を求める明石藩への上申書のようなものだった。百済家は名字帯刀を認められて、その地の庄屋を務め、当時は百済ではなく加島家だった。いつから百済の姓になったのかと聞くと、明治になって創氏令が出された時という。このことで地元ではよくとも、徴兵で軍隊に入隊した時は、「チョウセン」とよくいじめられたという。百済とした明確な理由は聞けなかったが、代々百済と因縁のあるなにがしかの家伝があり、新しい時代となり創氏令を出たので、この時とばかりに家伝の百済を新姓にされたのであろう。創氏令を出した明治天皇制国家は、その後、朝鮮侵略を進め、百済家に対しても苦渋を強いることになる。大洋漁業の発祥の地が明石であったとは初めて知ったが、大洋漁業の前身「林兼」が朝鮮で発展を遂げたことも、この本で初めて知ったわけです。<大洋漁業と朝鮮:伊地知紀子>p146~148より 「大洋漁業」とは、現在「あけぼの」や「ニッスイ」と並ぶ水産加工食品の大手メーカー「マルハ」の前身だ。かつての大洋ホエールズを所有していたのが、この大洋漁業だった。その前身は「林兼」という。〇(〇の中にはの字の記号)というのが林兼のしるしだった。 「林兼」発祥の地は、明石である。林崎村出身の中部兼松は林屋の屋号で、生魚運搬を営んでいた。林兼を受け継ぎ、後に大洋漁業の創始者となったのが、兼松の二男・中部幾次郎である。幾次郎の面影を見ることはさほど難しくはない。JR明石駅の北側、明石公園大手門入口に、銅像の中部幾次郎が立っている。この銅像は1928年にされた(戦時中に供出され、1951年再建)。日本水産の先駆者と呼ばれる藍綬褒章を受けた幾次郎に対し、明石市は市議会の決議に基いてこの銅像を建てた。まさに、国家のお墨付きの地元の名士であった。そして、その財産は幾次郎が朝鮮の海に進出することで築かれた。 私が「林兼」という言葉を初めて耳にしたのは、1997年済州島の大坪里においてであった。当時93歳の李さんは私に、大坪里に乗り込んできた林兼の様子を教えてくれた。済州島の南西に位置する大坪里には、昔、唐の使者がやって来たことから「唐浦」という名の波の静かな浦口がある。日帝時代、林兼はこの浦口に居座り「松港」と改名した。村には100人以上の日本人が住み、村の人々も日本人相手の商売を始めた。(中略) 幾次郎は、1910年慶尚南道方魚津に朝鮮事業の根拠地を置き操業地を広げた。13年には本拠を下関竹崎町に置き、同族経営で漁船、漁具をどんどん改良し事業を展開していった。方魚津では、漁業のみならず鉄工造船所、商事会社、自動車会社、電燈事業までおこし、小学校や一般住宅を建設した。さらに、漁夫の米を自給しようと農場経営に踏み出し、金海の未開墾地350町歩を買収、蔚山、東ネ、慶州にも手を広げ、2000町歩以上の水田を所有した。 方魚津近海ではアジ、サバを取り尽し漁場は荒廃した。そこで北上しマイワシ漁に着手。18年には土佐捕鯨の株過半数を買収して捕鯨業に乗り出し、21年九竜浦で定置漁業を直営した。 林兼は25年株式会社となり、朝鮮の海で築いた財を基に、北樺太、沿海州での北洋漁業、南洋捕鯨、そして軍需に応えるべく台湾、満州、南方へとさらに勢力を拡張していった。 日本の敗戦直後、幾次郎は大洋漁業と社名変更し、南氷洋捕鯨出漁方針を命じ、1946年81歳でその生涯を閉じた。彼の墓碑は明石市の光明寺にある、中部幾次郎について綴られた華々しい軌跡からは、朝鮮の人々の姿は一切見えない。これこそは、植民地支配のありようを示すといえよう。
2014.01.27
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今回借りた6冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「地域限定&雑学」でしょうか。<市立図書館>・神戸ぶらり下町グルメ・兵庫のなかの朝鮮・不思議の国サウジアラビア<大学図書館>・注文の多い言語学・Art Journal (Vol.72)・木と森の雑学図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)*************************************************************【神戸ぶらり下町グルメ】芝田真督著、神戸新聞総合出版センター、2009年刊<「BOOK」データベース>よりデータなし<大使寸評>地域限定のような情報にあふれ…神戸市民にとって優れもののガイドブックになっています。なお、ネット情報では日本全国B級グルメぐるぐる紀行(神戸中央・西)が、ええでぇ♪rakuten神戸ぶらり下町グルメ神戸ぶらり下町グルメbyドングリ【兵庫のなかの朝鮮】『兵庫のなかの朝鮮』編集委員会 (著)、明石書店、2001年刊<「BOOK」データベース>より「人権と共生の世紀」の21世紀に、忘れ去られようとしている朝鮮との正しい関係の記録を残す意図で製作。近代の朝鮮人関係資料を調査研究している「兵庫朝鮮関係研究会(兵朝研)」、三十数年日朝・日韓関係を学習研究・調査している「むくげの会」と、学校の教員が中心となって在日韓国朝鮮人をはじめとする外国人の教育課題の解決をめざしている「兵庫県在日外国人教育研究協議会(兵庫県外教)」の三団体で企画・編集された。 <大使寸評>全国各地に朝鮮との交流を示す史跡があるようで、明石書店のシリーズではこの本の他に東京、神奈川、京都、奈良が出版されています。とにかく、在日韓国人によってレポートされている部分は目からウロコであり、歴史認識を改めている大使でおます。amazon兵庫のなかの朝鮮ドングリ国近くの朝鮮【不思議の国サウジアラビア】竹下節子著、文藝春秋、2001年刊<「BOOK」データベース>より一日五回の祈りタイム、家に閉じ込められる女性たち、金曜日ごとの公開処刑ーいかにも窮屈で恐ろしげな事前情報を手に現地を訪れた著者が見たものは、生活コストが安く、女性は働くことさえなく、政治活動や組合活動の必要もない、この世の楽園だった。されど、我々が追い求める幸せは、こうした豊かさの延長線上にあるのだろうか?黒いヴェールに閉ざされたイスラム大国の「五つのパラドクス」を解きほぐし、真の幸福の意味を問いかける。<読む前の大使寸評>「パラドックス・パラダイス」という副題が、この本の魅力をほのめかしているようです。rakuten不思議の国サウジアラビア【注文の多い言語学】千野栄一著、大修館書店、1986年刊<内容紹介>より古書につきデータ無し<大使寸評>追って記入rakuten注文の多い言語学【Art Journal (Vol.72)】大型本、アートジャーナル社、2012年刊<「BOOK」データベース>よりデータなし<読む前の大使寸評>なんか他の美術年鑑とは違う、業界誌のような感じを受けるのです。でも、鉛筆画の坂本七海氏の作品がユニークで素晴らしい♪AmazonArt Journal (Vol.72)『坂本七海男の鉛筆画』講座見学が面白い♪【木と森の雑学】鈴木啓三著、グラフ社、1985年刊<「BOOK」データベース>よりデータなし<読む前の大使寸評>このところWOOD JOB!(ウッジョブ)が気になるわけです。rakuten木と森の雑学*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き51図書館大好き(目録)
2014.01.26
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<神戸ぶらり下町グルメ>神戸新聞から出ている「神戸ぶらり下町グルメ」という本が、地域限定のような情報にあふれ…神戸市民にとって優れもののガイドブックになっています。【神戸ぶらり下町グルメ】早川雅水著、神戸新聞総合出版センター、2009年刊<「BOOK」データベース>よりデータなし。地域限定のような本には、BOOKデータが無いようです。<大使寸評>地域限定のような情報にあふれ…神戸市民にとって優れもののガイドブックになっています。rakuten神戸ぶらり下町グルメこの本から大使なじみのお店を紹介します。3年前の本なので、記述内容が少し古くなっているヵ所もあります。<丸玉食堂>p170,171丸玉食堂食べログ兵庫より JR元町駅高架下は、食事処や居酒屋、酒屋の立ち呑みなど老舗や名店が集まっていて非常にディープであった。しかしながら、ここ数年に移転したり、店を畳んだところも少なくない。元町金融や焼き鳥の一平は惜しまれながら店を畳み、マルゲン酒食料品店は立ち呑みを止めた。 台湾料理の「丸玉食堂」は、残った数少ない名店の一つと言えるだろう。いつの創業かはっきりしなかったので、店の人に聞くと「戦前と聞いています」ということだった。いずれにせよ、古くからの営業に違いはない。 かつて丸玉食堂の入口の左横に元町交番があった。現在は元町駅東口前に移転しているが、ステンドグラス風の装いで洒落た交番になった。交番跡は丸玉食堂の貴賓室になっており、8人以上の宴会で使えるとのこと。 店内には料理の張り紙以外、メニューが置いていない。初めての場合、入口の陳列ケースが置いてあるので、じっくり品選びをしてから入ったほうがいいだろう。(大使注:現在は店内にメニューを置いているので、店内でメニューを決めることができます) 店に入ってすぐのところは、テーブル席になっているが、なぜか予約席の札が置いてある。札があっても複数人の場合はすぐに利用できるようだ。奥の方は、うなぎの寝床のように長~いカウンターとテーブル席がある。行ったことはないが、台湾にある食堂の雰囲気である。 昼食時は大変混雑する人気店で、ローメンやヤキメシと汁そばを注文するお客さんが多い。一品ものでは、腸詰や豚の足に人気があるが、手羽のから揚げや牡蠣炒め、鶏、スープ類もオススメである。筆者は、白菜がたっぷり入った肉めしとメニューにない野菜スープを取ることが多い。 冷たい料理として、かしわ、腸、心臓などがある。昼間から、食事がてら飲んでいるお客さんが多いのも、丸玉食堂の特徴である。 飲み物はビールの他、紹興酒もあるがボトルで取る方が安くつく。・営業時間:11時~20時半・火曜、第1,3月曜休B級グルメを馬鹿にしない、わりとのんべの著者のスタンスが見られるのが、ええでぇ♪<八島食堂中店>p166,167八島食堂中店食べログ兵庫より JR元町駅前のJRA界隈には、古くからある八島食堂中店、松屋、世界長、凡太郎に加え、新規の店を含む居酒屋、立ち呑み屋がひしめき合っている。 この近所に住んでる人はいいなあと思う。実際、東京の友人など、ゲタ履きで歩いて美味しい店があるところが便利と、新宿から浅草に引っ越してしまった。 食事もしたい、酒も飲みたい。普通の食事処だと朝から酒を呑むのは気が引ける。そんな場合に、大変便利なのが八島食堂中店である。 元町金杯が店を畳んだ今、界隈で最も古いと思われる八島食堂中店の創業は、昭和22年と聞く。マスターの山口武夫さんや女将さんの人柄が良い店で、おばちゃん達も威勢良く元気に働いている。 店内の調度品も年季が入っていて丁度いい。厚い一枚板のテーブルを見るにつけ、歴史の重みを感じる居酒屋だ。昼間は食事処としての利用が多いが、夕方からは会社帰りのお客さんが、どっと押し寄せる。土曜、日曜ともなれば、JRAの馬券売り場が近くにあるので、開店とともに競馬ファンも押し寄せる人気店。 中島らもさんが愛した食堂として知られていることは、有名な話である。人気のアテには「ネギたま」や「ひろしま」、「東京」などがある。ひろしまとは牡蠣フライ、東京とは納豆のことであるが、使い分けができるようになれば立派な常連さん。 ちょっと一杯のアテにネギたま、すなわちネギ入り玉子焼きをもらった。玉子焼きより10円だけ高いのがほほえましい。 店名に食堂とあるように、例えば玉子焼きに赤出し付きライスを追加すれば立派な玉子焼き定食となる。赤出し付きライスを注文すると、店の人は「赤白一丁」と叫んで注文を通す。 今宵も、遅くまで開いていて良かった八島食堂中店。三宮のサンセット通りにも八島食堂東店があることを付記しておく。・営業時間:11時半~23時・日曜、祝日休ところで、ネット情報としては日本全国B級グルメぐるぐる紀行(神戸中央・西)という優れものがあるので、この本と比較するのもいいかもね。
2014.01.25
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このところWOOD JOB(ウッジョブ)に執心している大使であるが・・・ブログ仲間のクマさんの一言に触発されて、元町の竹中大工道具館を訪ねたのです。元町といえば大使の縄張りであるが…クマさんがこの道具館を訪問しているのに、地元の民として観てないと話にならないではないか(笑)、と思ったわけです。元町駅から観光地図を頼りに竹中大工道具館を探したのだが・・・・大使の縄張りだからと軽く見ていたのが悪かった(笑)。通りがかりの人に聞いても要領を得ないわけで、ウロウロと歩きまわってやっとたどりついたのです。館内には鉋、鋸、鑿など大工道具が展示されています。三木の名工の銘入りの鉋や鋸も見られます。神戸のとなり、三木市は金物の町として知られているが・・・・昔も今も、大工道具では全国トップレベルの技を維持しているようです。鍛冶屋の作業場を展示しています。畔挽鋸の形が今までは意味不明だったけど・・・なるほど、階段の溝を引いたりするのか♪大使が一番興味を惹かれた展示としては、継ぎ手の構造なんです。数種類の継ぎ手があったけど、そのうちの2種類を紹介します。【台持継ぎ】離れた状態の実物大モデル【台持継ぎ】閉じた状態の模型【台輪留め】離れた状態【台輪留め】閉じた状態ま~良くぞ構想したものですね♪ これぞ日本の職人技!ではないか。日々の改良がこの形を生んだと思われるが、3Dで構想するセンスが凄いですね♪ところで、この道具館を見た22日に、偶然にもクマさんが22日の日記でこの道具館を紹介していました。…で、紹介内容がダブらないよう配慮しています♪…というか、クマさんの紹介のほうが良くできているかも。このあと、ネットで木材の継手を調べてみます。・木材の継手一覧表・大工の技 継手・仕口・amazon木組み・継手と組手の技法
2014.01.24
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我が蔵書録のなかに「歴史関連の本」というジャンルがあるのだが、このたび「シルクロード:pen#352」を購入したので・・・追記したうえで、バラバラに並んでいたのを刊行年順に整理してみました。このジャンルは蔵書録作成中4に収めておきます。 <歴史関連の本>蔵書としては近現代史というか司馬遼太郎に偏っていますが、並べてみます。・シルクロード:pen#352(2014年)・戦後史の正体(2012年)・石原莞爾と満州帝国(2009年)・「世界」とはいやなものである(2006年)・昭和戦後史の死角(2005年)*・戊辰戦争(2004年)・昭和史七つの謎(2003年)*・司馬遼太郎の「かたち」(2003年)・昭和時代回想(2002年)・地図で訪ねる歴史の舞台(日本)(1999年)・歴史にみる日本と韓国・朝鮮(1999年)・司馬遼太郎の風景2(1998年)・時代の風音(1997年)・李舜臣と秀吉(1996年)・追悼司馬遼太郎の世界:文芸春秋(1996年)・司馬遼太郎の遺産「街道をゆく」文庫(1996年)・司馬遼太郎の遺産「街道をゆく」別冊(1996年)・韓のくに紀行(1993年)・倭人の登場(1985年)・重要紙面でみる朝日新聞90年(1969年)個人的歴史学7*********************************************************************【シルクロード:pen#352】雑誌、阪急コミュニケーションズ、2014年刊<内容紹介より>今回Penは、古く交易が盛んであった新疆ウイグルを訪ねた。街には、現代のウイグル族の暮らしが土地の歴史に重なり、砂漠には、玄奘が記した古の国の跡が大地に残る。異文化が流入し、民族が出合った軌跡に花開いた文化は、シルクロードが育んだ人類の営み、その豊かさの証しだ。ユーラシア大陸の広域にわたった創造の道を、いま解き明かす。<大使寸評>充実した内容のわりに値段がリーズナブルなので、買ってしまった♪penシルクロード:pen#352【戦後史の正体】孫崎享著、創元社、22012年刊<内容紹介より>日本の戦後史は、アメリカからの圧力を前提に考察しなければ、その本質が見えてこない。元外務省・国際情報局長という日本のインテリジェンス(諜報)部門のトップで、「日本の外務省が生んだ唯一の国家戦略家」と呼ばれる著者が、これまでのタブーを破り、日米関係と戦後70年の真実について語る。目次はじめに序章 なぜ「高校生でも読める」戦後史の本を書くのか第一章 「終戦」から占領へ第二章 冷戦の始まり第三章 講和条約と日米安保条約第四章 保守合同と安保改定第五章 自民党と経済成長の時代第六章 冷戦終結と米国の変容第七章 9・11とイラク戦争後の世界あとがき<大使寸評>8/3ツイッターより@tyufu: 今話題の孫崎享氏の「戦後史の正体」のプレビュー98頁⇒ http://bit.ly/L1b2jk まだ10頁しか読んでないが凄く面白い。馬鹿みたいに口開けて地球の反対側の筋肉祭りを見る暇があるなら絶対読むべし。Amazon戦後史の正体戦後史の正体(チョット見)【石原莞爾と満州帝国(歴史読本2009年9月号)】雑誌、新人物往来社、2009年刊<出版社サイト>より【特集対論】満洲の二人の帝王 石原莞爾と甘粕正彦の思想と行動松本健一vs佐野眞一【特集ワイド】写真図説 石原莞爾の生涯――波乱万丈の六十年幼少年時代/陸軍幼年学校時代/陸軍士官学校・陸軍大学校時代/漢口・ベルリン駐在時代/日蓮信仰/満州時代1 関東軍作戦主任参謀/満州時代2 満州事変/民族協和と石原莞爾/歩兵第四連隊長時代/二・二六事件/参謀本部作戦部長時代/東條英機との確執/最終戦争論/東亜連盟運動/敗戦と極東国際軍事裁判/晩年【深層探求】「夢と野望の大帝国」満洲の実像・概説――「満洲国文化」のエネルギー源・満洲映画協会――国策会社の枠をはみ出した芸術家・技術屋集団・満洲写真作家協会――満洲の地で確立された日本の近代的報道写真・ハルビン交響楽団――大東亜終戦間近に発揮された「満洲文化」の力・建国大学――共産主義に関する書物も回し読みされた国立大学・超特急「あじあ号」――日本独自の技術によって製作された満鉄の象徴<大使寸評>図書館の旧雑誌放出で入手したのだが、拾い物のムック本といえます♪新人物往来社石原莞爾と満州帝国(歴史読本2009年9月号)【「世界」とはいやなものである】関川夏央著、集英社、2006年刊<「BOOK」データベースより>東アジアは日本をより深く知るための反射板になる―。韓国、北朝鮮、極東ロシア、ベトナム、そして巨大で多様な中国。職業的観察者たる著者が歩き、見つめた二十世紀末から二十一世紀にかけての東アジアの大地。そこに息づく社会と人々、そして積み重なる歴史。冷戦は終結し、ソ連は消滅し、9・11があり、いまも世界は変わり続けている。明晰な視点でわれらの時代を語る、傑作紀行文集。 <大使寸評>著者の東アジアを見る目には、一目置いているのです。とにかく、歴史的視野を持って「戦後」を語る人といえば・・・半藤さんとか関川さんが先ず思い浮かびます。Amazon「世界」とはいやなものである【昭和戦後史の死角】保阪正康著、朝日新聞社、2005年刊<「BOOK」データベース>より敗戦、60年安保、左翼と保守、冷戦の崩壊、そして自衛隊のイラク派遣…。混迷の時代にある今こそ、私たちは「昭和」という時代と真摯に向かい合い、その歴史に学ぶ姿勢が必要なのではないか。昭和史研究で菊池寛賞に輝いた著者が、深い洞察で日本社会の盲点を鋭く描き出す。 <大使寸評>追って記入Amazon昭和戦後史の死角【戊辰戦争】佐々木克著、中央公論新社、1977年刊<「BOOK」データベース>より戊辰戦争を問う良書。敗者側から見た戊辰戦争論であり、著者と同じく東北人の自分にとって今改めて戊辰戦争を考えた場合、まさに「時代の転換期に起きた権力闘争」が一つの答えになる。官軍VS幕府軍、勤皇VS佐幕といった表面的な解釈では計り知れないであろう。<大使寸評>大使の歴史探求は現代から過去に遡及しているわけだが、やっと戊辰戦争、明治維新あたりにたどりつきました♪Amazon戊辰戦争【昭和史七つの謎】保阪正康著、講談社、2003年刊<出版社からの内容紹介>より史実を知れば知るほど、調べれば調べるほど歴史の闇は深まる。真珠湾奇襲やソ連の侵攻、そして東京裁判の背後にはいったい何が蠢いていたのか? 卓抜な史眼の著者が資料の山にわけ入り、数多くの関係者の貴重な証言を基に昭和史に肉薄。文庫化にあたり新たに原武史氏との対談「昭和天皇の『謎』」も収めた。<大使寸評>追って記入Amazon昭和史七つの謎【司馬遼太郎の「かたち」】関川夏央著、文藝春秋、2003年刊<「BOOK」データベース>より国民的作家・司馬遼太郎が晩年の十年間、その全精力を傾注し「文芸春秋」に書き続けた「この国のかたち」。さまざまな問題を提起したこの連載の原稿には、必ず編集長宛の手紙が添えられていた。それら未発表の書簡をはじめ、関係者の証言、膨大な資料の検証を通じて浮かび上がる、その痛烈な姿と「憂国」の動機。 <大使寸評>司馬遼に関しては最強の評論家と言える著者が、司馬遼に成り変り「この国のかたち」を説いています。Amazon司馬遼太郎の「かたち」(文字数制限により省略、全文はここ)西域フェチの大使の蔵書にしては、今までシルクロード関連の本がなかったのは・・・・単にこの種の本が高価だったからです(笑)。それだけこの「シルクロード:pen#352」の値段600円がリーズナブルだったわけです♪
2014.01.23
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長くパリに住んでいた著者が、セーヌ右岸を案内するとのこと。大使も右岸の下町に一時暮らしたので懐かしいのです。【石畳に靴音が響く】早川雅水著、実業之日本社、2001年刊<「BOOK」データベース>よりパリの達人が、あなたをほんものの「Paris」にエスコート。雨に濡れた石畳、霧にかすむ街灯、アパルトマンの間からエッフェル塔が見え隠れする…。【目次】右岸について-前書きにかえて/バチニョル-今も懐かしい村の雰囲気が色濃く残る/オートイユ-緑に染まる道は近代建築の美術館/レ・グラン・ブールヴァールとその界隈-喧噪の中に19世紀の賑わいを偲ぶ/ベルヴィル、メニルモンタン-パリらしい趣を味わい、パリジャンに出会う/モンマルトル-知ればしるほど好きになる坂の町<読む前の大使寸評>長くパリに住んでいた著者が、セーヌ右岸を案内するとのこと。大使も右岸の下町に一時暮らしたので懐かしいのです。rakuten石畳に靴音が響くボリス・ヴィアンがジャック・プレヴェールと同じ建物に住んでいたそうです。<シテ・ヴェロン Cite’Ve'ron>p181~184より そのムーラン・ルージュのすぐ脇から北に向かって入ったところがシテ・ヴェロン。道幅わずかに3メートル、長さ80メートルほどの小路です。 歓楽街のど真ん中にまるで真空地帯のように静まり返ったたたずまいを見せているのですが、20世紀前半までは地元のおにいさんたちのドヤ、おねえさんたちの連れこみ宿に占領された裏通りでした。 1953年のこと、そんな小路へひとりの詩人がまぎれこんで来ました。ジャック・プレヴェールです。彼が住みついたのが6番地の質素なアパルトマン、その後1972年までの20年間をここで過ごすことになります。 プレヴェールといってもごぞんじないかもしれませんが、シャンソン「枯葉」の作詞者、映画「天井桟敷の人びと」のシナリオ・ライターといえばおわかりでしょう。 プレヴェールからやや遅れて、もうひとりの有名人が同じ建物に引っ越して来ました。ボリス・ヴィアンです。 エンジニア、トランペット奏者、プロのチェス打ち、コラムニスト、ジャズ評論家、翻訳家、画家、彫刻家、作家…並べきれないほどの肩書きを持っていますが、一言で言えば稀代の才人ということです。 日本ではあまり読まれていませんが、何篇かの小説は若者を中心に絶大な人気がありますし、過激な反戦歌として発売禁止になった「デザルトウール」兵役拒否者もシャンソンのスタンダード・ナンバーとして歌いつがれ、聞かれ続けています。 プレヴェールとヴィアンが住んだことで、この小路は間もなく文学サロン、芸術サロン化し、レイモン・クノーやイオネスコなどの作家たちが集まってきては気勢をあげたといいます。 1950年代、60年代に左岸のサン・ジェルマン・デ・プレを舞台にしてサン・ジェルマン文化が花開いたわけですが、プレヴェールもヴィアンもサン・ジェルマン派のスターでした。 そう思ってみると、シテ・ヴェロンには左岸の雰囲気があります。知的で思索的、それでいて自由で軽やか、この小路を歩く時、人は自分が芸術家になったような気分になれるのが不思議です。 道の両側には階の低い、やや荒れた感じの平凡な建物が並び、庭はあまり手入れのよくない花壇になっている。ほかにはこれといったものもない中で4番地が小劇場、そのうしろにムーラン・ルージュの風車が見えます。ラパン・アジルのシャンソンを聞きたかったので、友人を連れて一度だけ行ったことがあるのです。お上りさんのミーハーだったわけですね♪<ラパン・アジルのこと>p200~204より ソール街はそのすぐ先でサン・ヴァンサン街と交差しています。そしてこここそモンマルトルでもっとも心休まる場所、あるいはパリでもっとも美しい地点かもしれません。 右側の小高い広がりはモンマルトルのぶどう畑、19世紀まではパリのいたるところにあったぶどう畑が今ではここだけになってしまいました。 ぶどう畑の向かいにある外壁を淡紅色に塗りあげた小屋はラパン・アジル、はしこい兎という名で知られたシャンソン酒場です。 ラパン・アジルという名まえになったのが1902年のことで、そのずっと前からの酒場ですから、その歴史は百数十年。ここには実にたくさんの人びとの思い出が残っています。 19世紀末まで、モンマルトルのこの一帯は殺人者におたずね者、やくざたちが隠れ住む場所として知られ、静まり返った道の奥にひそむこの酒場はそうした人たちの店でした。当時は店名もそれにふさわしくアササン、人殺しでした。 20世紀の初めに店名はラパン・アジルと変わり、続く第一次大戦までのモンマルトルの黄金時代には若き日のピカソ、ヴラマンク、ユトリロなど、夢だけを食べていた未来の巨匠たちの溜まり場になっていました。 当時のオーナーはフレデリックという名を縮めてフレデと呼ばれていた伝説的人物。よき時代のよきパリジャンだった彼は、今にその名を残すモンマルトルのスターです。(中略) 若者たちに出世払いのツケで飲ませ、彼らの未来への夢に火をつけるかのように得意なギターを弾くフレデ…これぞモンマルトルの心、その温かいギターの音色が今も聞こえてくるようです。(中略) ところで現在のラパン・アジルですが、やはりモンマルトルという場所柄、時代の波には勝てずツーリストが多くなっています。ただし現代のフレデといった心やさしい無名歌手たちが古いシャンソンを歌ってくれるのがうれしい。 9区の下宿から5区のアリアンス・フランセーズまでが、まあ私の通学路みたいなもので、これがちょうどフォーブール・モンマルトル街にあたります。私の場合、メトロ代を浮かすために暑い日も寒い日も、とにかく歩いたのです。<フォーブール・モンマルトル街>p95~102より リュ―・モンマルトル駅のところは交差点になっており、右側の2区側はモンマルトル街、左側の9区側はフォーブール・モンマルトル街です。 フォーブールというのは町はずれという意味で、パリにはフォーブールがつく道が8本あり、たとえばモンマルトル街がその延長でフォーブール・モンマントルと名を換えるのです。 なお8本のフォーブールのうち7本までが右岸にあるのは、右岸がそれだけ奥に広がっているからでしょう。 フォーブールにはもうひとつ下町という意味もありますが、ここも下町風の賑わいにあふれており、生活の匂いのするパリ、素顔のパリが好きな人には魅力的です。 フォーブール・モンマルトル街は19世紀のネオ・クラシック様式の連なりがみごとで、かつてはシックなお屋敷街だったことを偲ばせます。しかし今やどこも1階部分は食料品店だったり、安売りショップだったりで、そのミスマッチが面白い。(中略) 24番地の魚屋さんの店の内装が19世紀そのままで一見の価値があり、その先フォーブール・モンマルトル街とプロヴァンス街の角にある「ア・ラ・メール・ド・ファミーユ」という食料品店はおそらくパリでもっともチャーミングな店でしょう。創業1761年、外装は当時そのままです。内装も19世紀初めのものを残しており、タイムスリップした気分、フランス各地の伝統的な干菓子、砂糖菓子が売り物です。 間もなく5差路に着く。角かどは庶民的なカフェになっていますが、どこでもいい、テラスに陣取って道のパースペクティブを眺めましょう。5本の道すべての両側に19世紀の建物が31メートルの高さで一直線に伸びているところは壮観。19世紀の典型的な町づくりで9区が史跡指定を受けているのは、なるほど当然だとうなずけます。 ところで、Boris Vianの脱走兵(Boris Vian- Le deserteur)をyou tubeで見つけたんです♪この歌は、フォークルの加藤和彦も歌っていましたね。
2014.01.22
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日曜日の朝日新聞に読書欄があるので、ときどき切り取ってスクラップで残していたのだが、これを一歩進めて、無料デジタル版のデータで残すことにしたのです。・・・・で、今回のお奨めです。・ブラック企業ビジネス ・焼肉べんり事典 さっそく、図書館に借り出し予約するのもいいかもね。***************************************************************ブラック企業ビジネスより<信頼を食い潰すビジネスの論理:水無田気流(詩人・社会学者)> 昨今頻繁に目にする「ブラック企業」という言葉。だがその実態や社会背景は、今なお正しく認識されているとは言い難い。『ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪』で、単なる違法企業の問題ではなく、私たちの社会そのものに巣食う悪弊として問い直した筆者による続作。本書ではより具体的に、ブラック企業の業態を助けるさまざまな「ビジネス」を詳解している。 たとえば、ブラック企業を法制度面から支える弁護士や社会保険労務士のような「ブラック士業」という存在。彼らは過酷な雇用環境に対し声をあげた当事者を、脅しや法制度の意図的誤用などの手法を用い追い込んで行く。企業も士業も、利益を生むための行動はすべて「正義」というビジネスの論理。だが、社会全体からすれば部分の最適化に過ぎず、結果として弊害をもたらすと、筆者は警鐘を鳴らす。 学生の就職率を上げたい学校も、ブラック企業ビジネスの加担者となる。なるほど、大量の新卒者を採用して使い潰すブラック企業は、学卒時点での就職率かさ上げに大いに寄与する。大学教員として勤務する評者にとっても他人事ではない。またブラック企業の実態を知らず、正社員の座を死守せよと叱咤激励する家族も、結果としてブラック企業ビジネスの隆盛に寄与する。このような現状を、筆者は日本の社会システム全体のブラック化と呼ぶ。 ブラック企業は、従来の社会関係の「信頼」や「善意」を食い潰すことで自らの利益を得ている。好業績な企業の正社員であれば一生安泰との信頼感は、既存の安定した社会関係の中で育まれてきた社会的資産だ。これを悪用するブラック企業とは、究極のフリーライダー(ただ乗り)かもしれない。背景にあるのは、ビジネスの論理の社会への浸透。本書で語られた、ビジネスとは別種の社会正義の論理に基づく専門知識と対抗策は、極めて重要である。 ◇『ブラック企業ビジネス』 今野晴貴著、朝日新聞出版、2013年刊 <「BOOK」データベース>よりなぜ悪辣な企業がこの社会に根をはり、増殖しているのか。その裏には、ブラック企業を支える弁護士・社労士がいた。若者を使い潰すテクニックを指南する“彼ら”の怖るべき実態とは。ベストセラー『ブラック企業』の著者が、圧倒的な量の取材をもとに労働問題の暗部を暴く!<読む前の大使寸評>日本の社会システム全体のブラック化があるんですか…怖~い。『ブラック企業』で大仏次郎論壇賞を受賞した著者の最新作ということで注目しているのです。さて、どちらを、先に読むか。rakutenブラック企業ビジネス焼肉べんり事典より<眺めているだけでなんか楽しい:青木るえか> この本にはいったいどういう意味があるのか、と思わず考える。意味は明確で、書名そのものの、焼き肉ハンドブックというべき本で、肉の格付けや銘柄牛についてわかりやすい説明がついている。産地別牛肉の特徴、なんてのもある。この特徴ってのが面白くて、東北の牛が「脂が濃厚で食べごたえのある牛肉が多い」のはいいとして、関東甲信越の「神奈川、千葉などの生産者の健闘が目立つ」という、これは牛肉の特徴といえるのか。いや、でも面白いからいいや。 さまざまな牛肉の部位、その呼び名、および写真が図鑑のように載っている。牛だけでなく豚も鶏も羊も載る。聞いたこともない部位があり、勉強になる。「とうがらし」なんて牛肉の部位はこの本を読まねばずっと知らぬままであっただろう。 しかし読めば読むほど、この本を読んで何か役に立つのだろうか、と思うのである。この本を手に取る人は、「こんど焼き肉行く時のために、肉の知識をわかりやすく仕入れよう!」と思うのだろうけれど(私もまあ、そうだ)、そういう人が行く焼き肉屋って、肉の種類なんて「ロースとカルビとハラミとレバーとタン」ぐらいしかないんではなかろうか(私の行く店はそうだ)。で、タレの味つけが激しくて肉の味も焼き野菜の味もみんな同じになる、みたいな。焼き鳥では「皮」と「ペタ」と二つの皮が紹介されてるけど、私がよく行くチェーン焼き鳥店にはペタなんてない。 でも、そういうこととは別に、眺めてるだけでなんか楽しい……というか飽きないというか、気がつくと1時間経ってたりして、時間をつぶすには絶好の新書です。こういう食べ物関係の本でつい眺めてしまうタイプの本は、読んでいるうちに口さびしくなってきて、そこらにある袋菓子を食べたりする。そのせいか「読んでるだけで太る」状況に陥るのだが、この本は、載ってるのが生肉のそっけない写真なので、口さびしくならないのはいいことだ。 ◇『焼肉べんり事典』 日本肉ソムリエ協会、宝島社、2013年刊 <「BOOK」データベース>より肉が好きな人でも、肉に関して知らないことは意外と多い。よりおいしく、より楽しく肉を食べるためにも、肉を知ることは重要だ。肉の種類や部位を知り、調理法を選ぶことによって、さっぱりとしたヘルシーな食べ方や、効率よく栄養を摂れる食べ方も可能になる。この本では、牛肉、豚肉、鶏肉、羊肉のそれぞれの部位の特徴や栄養から、おいしい焼き方や食べ方までを、各部位の写真入りでわかりやすく解説。「ブランド牛だからっておいしいわけじゃない!?」「安い肉をおいしく食べるコツ」など、肉好きならずとも知っておきたいお得な豆知識も満載。<読む前の大使寸評>時間をつぶすには絶好の新書とのこと…期待できそうですね。青木るえかの書評を読んでいるだけで、なんか楽しい♪rakuten焼肉べんり事典***************************************************************<asahi.comのインデックス>最新の書評を読むベストセラー解読売れてる本(新聞紙面のデジタル版はだいたい2~3日後にUPされています。)朝日デジタルの書評から33朝日デジタルの書評から(目録)
2014.01.21
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図書館で「とりあたまJAPAN」という本を借りて読んでいるのだが…本音丸出しというか…ま~すごいわ♪【とりあたまJAPAN】 西原理恵子, 佐藤優著、新潮社、2012年刊<「BOOK」データベース>より正論?暴論?マンガとコラムで世界がわかる。笑って学べる、現代の教科書。【目次】敬老の日/英語公用語化/改正臓器移植法/上海蟹/K-POP/COP10/ノーベル平和賞/羽田空港国際化/池上彰ブーム/ゴッホ没後120年、他<読む前の大使寸評>西原理恵子画×佐藤優文の本であるが、随筆というよりは、トゲのある雑文というか・・・これも、一種の人類学的レポートと言えなくもないのです。(ちょっと無理筋か)露悪趣味というか、本音丸出しというか…ま~すごいわ♪rakutenとりあたまJAPANこの記事にして、この漫画。お二人の視点が若干ずれていて、面白い♪大使が注目したのは、やはり中韓あたりになります。<嫌韓>よりp102、103 俳優の高岡蒼甫氏が、「8は今マジ見ない。韓国のTV局かと思う事もしばしば。うちら日本人は日本の伝統番組求めてますけど」とツイッターで韓国ドラマを多く流すテレビ局を批判したことが賛否両論の大騒動を引き起こした。問題は、高岡氏の発言内容ではなく、なぜこのつぶやきが多くの日本人の感情を刺激したかだ。 国際関係は力のバランスによって成り立っている。東日本大震災後、日本は弱くなった。そこにつけ込んで、韓国が日本との関係を自国に有利な方向に転換しようとしている。竹島上空での大韓航空機のデモ飛行、韓国・欝陵島を訪問しようとした自民党視察団の入国拒否事件などが具体例だ。ただし、韓国は無意識に行動している。意図的行動ならば矯正可能だが、無意識のものは不可能だ。こういうことをされていると、われわれ日本人にも「こっちが苦しんでいるときに、よくもやりやがったな」という負のエネルギーが無意識のうちに蓄積されていく。日本人の間に嫌韓が生じるのは当然のことだ。それが高岡氏のつぶやきをきっかけに爆発したのだ。 これ以上、韓国に日本国家と日本人がなめられないようにするための処方箋は一つだけだ。日本が少しでも早く復興し、強くなることだ。そのためにわれわれ日本人がいままでよりも一生懸命に働いて、生産をあげることだ。弱肉強食の国際社会では、強くならなくてはなめられる。西原氏の漫画が下品であるが、なんとかならないものか…もっともそれが売りなんで如何ともし難いが。長年インテリジェンスに携わってきた佐藤氏の冷厳なご宣託が、ええでぇ♪韓国人と口争いしたら、勝てるわけないやん。いっぽう日本人は、口で負けて手を出す傾向が強いが、そのあたりを注意せなあかんな。
2014.01.20
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「フィールドワークへの挑戦」という本を図書館で借りたが、後で「BOOK」データベースを見ると、フィールドワーカーのセンスを体得できる最良の指南書と絶賛していました。 図書館でこの本を選んだのは、予想以上のクリーンヒットだったようです♪【フィールドワークへの挑戦】菅原和孝著、世界思想社、2006年刊<「BOOK」データベース>より仕事・社会・コミュニケーション・宗教・異文化の5ジャンルを網羅し、40人の初々しいフィールドワークを一挙公開。技術的なノウハウから理論的な設問まで、実践的な助言を満載。フィールドワーカーのセンスを体得できる最良の指南書。 菅原和孝(スガワラカズヨシ)1949年東京生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科教授。同総合人間学部で人類学関係の全学共通科目を開講し、フィールドワークの授業をもっている。京都大学大学院理学研究科博士課程修了。理学博士。霊長類の社会行動研究から出発し、1982年より、南部アフリカのボツワナに住むグイ・ブッシュマンの社会で、身体的な関わり、会話、語り、動物認識などをテーマにフィールドワークを続けている。並行して、日本人の会話と身ぶり、民俗芸能の伝承などについて研究している。<読む前の大使寸評>記憶に残るフィールドワークといえば、「全国アホ・バカ分布考」であるが、著者はこれにかなり対抗意識燃やしているようです。著者の薫陶宜しきを得て、未来の柳田国男、梅棹忠夫が生まれることを期待しております。(おっと 大きく吹いたかも)amazonフィールドワークへの挑戦全国アホ・バカ分布考byドングリこのところの大使の関心は中韓にあるわけで、この本で華僑問題の箇所を紹介します。<「アイデンティティ」の不快>よりp149~153 インタビュー記録のなかで異彩をはなっているのは、在日華僑でみずから華僑問題の研究もしているSA(男性)に叱責されたという事件である。 全国各地に大陸系と台湾系の二つの華僑総会が分立している。後者の正式名称を「留日中華民国華僑総会」という。黒田がSAへの質問のなかでこの名称を口にすると、突然怒りだした。「日本では、台湾のことをチャイニーズ・タイペイって呼んでいるんですよ。台湾は国とみなしていないんですよ。知ってますか?」となじられた。「中華民国」の存在を認めない大陸系の人かと思ったが、あとでべつの華僑の人に聞くと、SAは台湾系であった。SAはつねづね「この市では、大陸系と台湾系が協力しあってきた歴史がある。(華僑の共同墓地)だって区別していない。台湾が独立したら、お墓を二つに分けなければいけなくなって大変だ」と話しているそうだ。どうやら、彼は台湾が中国に併合される事態は避けたいが、かといってあからさまな「台湾独立」によって、国内の華僑が二分されることも怖れているようだ。つまり、台湾の実質的な独立性が曖昧に保たれている現状を望んでいる。だからこそ、中国を刺激し、台湾への進攻をまねきかねない「中華民国」という語には拒否反応を示すのだ。 右の逸話には、フィールドワークにとって重要な教訓が含まれている。現地の人に怒られるのはショッキングなことだが、彼や彼女の「表情をおびた身ぶり」を手がかりにして、その背後に広がる世界に分け入ることもできるのだ。この一点をとっても、黒田が誠実に調査を積み重ねたことは疑いえない。だが、彼がレポートの末尾で展開した「考察」は、ある意味で「力作」であるだけに、わたしに(ネガティブな意味での)衝撃をあたえた。まず黒田は、当初の「仮説」をあっさりと取り下げ、むしろ、在日華僑・華人の「アイデンティティの多様性」に注目すべきである、と主張する。 いっぽうで「日本への同化」を迫る圧力に憤慨する人もいれば、AYのように「ほとんど日本人のアイデンティティといってよい」人もいる。人によってアイデンティティにさまざまなパターンがあることは確かだが、そこには一定の共通性がある。「母国」に対してまったく帰属感を感じずにいられる人はいないということだ。AYのように、ほとんど自分を日本人だと認識している人でさえも、「血は中国人(漢民族)だ」と感じるという。では、ある民族の血をひいているということは、何を意味するのだろう。たしかに人種の違いといったものは認めざるをえないが、民族と呼ばれるものには、目に見える違いのあるものもあれば、差がはっきりしないものもある。民族という実体的基盤があるにしてえも、完全に純血を保つことは不可能であろう。ナショナリズムが社会的構成物とされるように、民族にもそうした側面があるのは否めない。ナショナリズムは、帰属感を与えるという意味で、たしかに意味をもつ。しかし同時に、それは排他的な側面をもつ。グローバリゼーションのなかで、日本のナショナリズムの負の側面を直視し、なんらかの解決策を見出さなくてはならない。 明らかな誤謬や論理の混乱には傍点を付した。文化人類学の重要なジャンルである「エスニシティ論」をもっと勉強していたら、黒田は満点に近い「答案」を書くこともできただろう。だが、「文化人類学用語」を連ねてつじつま合わせをする前に取り組まなければならない、もっとも大切なことがある。それは、自分自身のに目を向け、そのについて自分のことばで考え直すことである。黒田は、自分が「日本人としてのアイデンティティ」を考える機会の乏しいことを「恥ずかしく思った」。「なぜ恥ずかしいのか」こそが、彼が格闘すべき問いの中心になるはずだ。その問いを徹底的に突きつめることは、きっと彼を深い不安につき落とすだろう。人類学的な知とは、そのような不安と向きあうことから始まる。 黒田の「知」が表層を上すべりしているのは、彼が最初からアイデンティティという空虚な概念に呪縛されているからだ。AYやSAへのインタビューからは、生活の便宜に合わせてみずからの帰属を選ぶという「御都合主義」が浮かび上がってくる。そのような生のかたちを「アイデンティティの多様性」と呼ぶのは不正確な概念化である。在日「外国人」や海外に住む「日本人」のコミュニティを研究する際に、アイデンティティという概念に寄りかかってしまうのは、固定的な帰属意識をもつのは人間として当然だという前提に、調査者自身が安らぎを感じていることの反映なのではなかろうか。 最後にもっとも重くわだかまる違和感がある。黒田は、特高に拷問された「悲惨な体験」をもつ戦前生まれの華僑や、同化を強要するような帰化政策をとる日本の閉鎖性に憤慨する戦中派の華僑にもインタビューしている。にもかかわらず、そうした「悲惨」に対する鋭敏な想像力が、彼の考察からは読みとれない。「ナショナリズムには良い面もあるが、という悪い面もある」という八方美人的な結論は、排除される可能性を「わがこととして」想像したことのない人だけにいえることである。 著者の菅原さんはフィールドワーカーとしての誠意について、斯様に述べているわけで、さすがと思うのです。一方の漢民族であるが、辺境民族の心情について一顧だにしないのは、中華の中華たる由縁なんでしょうね(怒)フィールドワークへの挑戦1byドングリ
2014.01.20
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図書館で「漆・柿渋と木工」というわりと地味な本を手にしたのだが…これだ、これだ♪木地師が載っているし、民俗学と木工がダブルで語られるとは、ドングリ・ワールドなんですね。それと『脊梁山脈』を読む前に、木地師について勉強しておこうとも思うわけです。【漆・柿渋と木工】田村善次郎監修、農山漁村文化協会、2012年刊<「BOOK」データベース>より阿波半田の塗師、宮城県鳴子の漆かき、越前大野の木地屋と塗師、各地の柿渋屋、南会津の太鼓屋など、伝統工芸を受継いできた人々を訪ねる。 <読む前の大使寸評>これだ、これだ♪木地師が載っているし、民俗学と木工が語られるとは、大使のツボを突いているわけです。全国で五ヶ所の民俗学的フィールドワークが紹介されているが、いずれも昭和52年から61年までのレポートであり、これらが産業として今も残っているか、やや不安を覚えるのです。Amazon漆・柿渋と木工木地師はいろんな職人集団のなかでも最も上流側で、下請けにあまんじていたようです。<木地屋のくらし:須藤護>よりp173~174 木地屋の生活の場も仕事場も山であった。古くは家族ともども年間通しての山暮らしであったが、越前地方では次第に里村や大野市に降り、春から秋までの雪の降らない間だけ山に入るようになったようである。スエさん夫婦も結婚した当初は、冬期間も山を降りなかったというから、大正時代の後期ごろまでは山から山へ渡り歩く木地屋の姿があったとみられる。 さて、越前地方の木地業はかなり早くから分業が成立していたようである。深い山に入って仕事をする職人は先山師とアラガタを挽く木地屋であった。先山師は原木を倒し、円筒形の木片をつくる職人、それを足踏みロクロを使ってアラガタをつくる職人を木地屋といった。アラガタは漆器の産地である河和田や山中に送られて、さらに仕上げをする。この作業をする職人もまた木地屋であった。 先山師の仕事は原木であるトチやケヤキの大木をヨキとノコギリで伐採することから始まる。まず木を倒す方向を見定めて、ヨキグチをあける。ヨキグチというのは倒したい方向にヨキで木の側面をえぐり取ることで、木の芯までヨキが入ると、今度はその背後からノコギリで挽いて見定めた方向に木を倒す。倒した木は3尺の長さに玉切りをして、切断面に椀の大きさに合わせて円を描く。これが椀の直径にあたるが、このときアガタ(芯の赤味)は、はずして木取りをしなければならない。次に円と円との間のいらない部分に溝を掘るようにヨキで削り取り、玉切りした木から円筒状のトボ(丸太)を取り出す。これをヒを掘るという。 ここまでの作業は原木の伐採現場で行い、トボを背負って作業小屋まで運ぶ。夫婦で入っている先山師は、男がトボをつくり、運ぶのは主に女の役目であったという。 そして作業小屋の中でダイギリとよばれるノコギリで椀や鉢の高さに合わせて挽き、円盤状の木片をつくる。これを枚切りといい、木取りの方法はタテキドリである。この枚切りも夫婦で行う場合が多かった。そして枚切りしたものを木地小屋に運び、それからが木地屋の仕事になる。 木地屋の仕事はロクロ挽きである。枚切りした木片をロクロにかけ、まず内側を挽き、次に木片をひっくりかえして外側を挽く。そして最後にコウダイの内部を挽いて大体の椀の形にする。これをアラガタといい、アラガタは1ヶ月ほど煙乾燥した後に、河和田や山中に送られる。<越前の木地屋の歴史:須藤護>よりp180 元亀3年の文書は、当時木地ものを扱う職人として、板物木地の職人と、椀などの丸物木地をつくる職人、そして塗物をする職人が分化していたことを示している。引物師とあるものは挽物師の意とみるのが自然であるが、轆轤師も挽物師も、ロクロを使って丸物をつくる職人ということになるので、あるいは膳や箱物をつくる指物師のことであったかもしれない。 また永禄と天正の文書では、轆轤師と塗物師とが一つの職業集団を形成していたことを暗示している。これから、漆器の産地とまではいわないにしても、漆器を生産する小規模な職業集団が、越前の地に成立していたことが考えられる。それらの地は、「越前州今南東郡吉河、鞍谷、大同丸保」であろう。今日の鞍安川の谷口にある味真野町がその中心地であったとみられる。さらに、年代は明らかではないが、その北の今立町粟田部、河和田町片山なども、古い漆器の産地であったことが知られている。これらの地で生産された漆器が、府中(武生市)、一条谷などに出されていたのではないだろうか。 また、これらの職業集団では、古くは轆轤師の頭が主導権を握っていたと思われるが、轆轤師よりも先に塗師屋が書かれている文書をみると、次第に塗師の力が大きくなっていったことを感ずる。漆器は木地よりも漆のかけ方によって、製品の良し悪しが決定される。したがって漆器の仕上げをする塗師、そして顧客により近いところにいる塗師の力が、轆轤師よりも大きくなっていくことは当然のなりゆきであろう。近世に入って各地に漆器産地が成立し、塗師の力が強くなっていくのだが、その前段階の過程が、これらの文書の中に現れているように思える。それは、主に木地を売りものにしていたであろう中世の轆轤師が、近世の塗師の下請業としての「木地屋」、もしくは「木地師」へと変貌をとげていく過程でもあったように思える。大使が車で帰省するときは吉野川沿いの徳島自動車道を通るが、吉野川SAの手前に半田町があることさえ知らなかったのです。この半田町がかつては「半田塗」として知られた漆器の大産地だったようです。<木地椀が消える:姫田道子>よりp19~20「半田塗という名称は明治時代、小学校の地理の教科書にも収録されていたから、日本中に知られていた。特に郷土の人々には、日常の食生活にかかすことができない膳、椀中心の生活必要品であったから、半田漆器の名は非常に親しみ深いものであった」 これは竹内さんが見せてくれた昭和40年2月の徳島新聞の記事です。ところが竹内さんの仕事場には、膳などはあっても椀は見ることが出来ません。私はそれが気になりました。どうしてお椀がないのかしら。竹内さんのお話では、椀をつくっていたのは、専ら敷地屋という半田では唯一の漆器問屋だったらしい。そして半田周辺の山や、半田の町なかに住んでいた木地師たちがつくった椀木地は、すべてその敷地屋に納められていたといいます。独占でした。また明治20年代の記録では、逢坂には40軒の塗師屋がありましたが、そのうちのほとんどが、敷地屋の賃仕事をしていたといいます。たぶん半田のお椀の大多数は、そういう家々によってつくられたのでしょう。「峠庵から逢坂見れば、朝も早よから椀みがき」「食うや食わずの椀みがき」と替歌にして唄われていた歌があるとも聞きました。 一階の書斎の戸棚に、わずかに1、2個ずつの白木地と錆下地をした椀がありました。竹内さん父子の手によって、仕残されたものではなさそうでした。竹内さんのお話では、お父さんの年代になってからは、山に住んでロクロを挽く木地師たちが、半田に見切りをつけて山を去って行ったといいます。山からの椀木地の供給が絶えた後は、里に蓄積された椀木地を頼りに、里に住む仕上げロクロ師が細々と椀づくりをつづけたようですが、その仕上げロクロ師も転業してゆき、角物専門指物大工の檜木地類に変わっていったようでした。 最後まで漆椀をつくっていたのは、敷地屋の下請けの塗師屋で、椀は椀、膳は膳とそれぞれ専業でやっていたようです。素地と漆と道具を敷地屋から預かり、賃仕事として敷地屋に納めます。ところが大正15年に敷地屋が廃業してからは、そのまま椀の木地も漆も道具も下請職人のものになりました。そしてしばらくは、下請け職人が自ら塗って売るという時代がつづき、やがて手持ちの漆もなくなり、木地もなくなり、半田の椀づくりは、じりじりなくなって行ったようでした。 これはひとつの例ですが、美原安夫さんという人の家では、御自分は役場に勤めながらも、家には職人を入れて御自分も昭和23年まで塗り、そして31年までには漆器類は売り尽し、大量に残った塗ってない椀木地など、若干の木地類を記念に残してあるだけで、他は全部風呂の焚き木にしてしまったとおっしゃるのでした。プラスチック容器の出現などにより伝統産業が衰退していく様が語られていますね。なにげなく見ている地方都市の光景の裏には、時代の流れに取り残された哀惜が隠れているようです。<木地の道:姫田道子>よりp26~31 車で降り立ったところは、中屋といわれる山の中腹で陽が当たり、上を見上げると更に高い尾根がとりまいています。「あそこは蔭の名、おそくまで雪が残るところ。馬越から蔭の嶺へと尾根伝いに東祖谷山の道に通じています。昔、木地師と問屋を往復する中持人が、この下のあの道を登り、そして尾根へと歩いてゆく」と竹内さんは説明して下さると、折りしも指をさした下の道を、長い杖を持って郵便配達人が、段々畑の柔らかな畦道を確実な足どりで登ってきました。平坦地から海抜700メートルの高さまで点在する半田町の農家をつなぐ道は、郵便配達人が通る道であり、かつては木地師の作る椀の荒挽を運ぶ人達の生活の道でもあったのです。(中略) また半田から南東の剣山の麓近くの村、一宇村葛籠までは、峠を越え尾根道をゆき渓谷ぞいの道を歩いて25キロ。竹内さんはここで昔、木地師をしていた小椋忠左ヱ門さん夫妻をさがし当てました。51年の1月と51年の秋に二度訪れております。おそらく阿波の山でこの方ひとりが半田漆器と敷地屋とに、かかわりあいを持った最後の木地師ではないかと思われます。 竹内さんは小椋さん夫妻から、「半田から一宇方面には、定まった中持人が来ていて、敷地屋から木地小屋までを上げ荷といった。来た日は一泊して疲れを取り、翌朝早く木地類を持って出発した。草履は一足余分に腰につけてきている。持ち帰る木地類は品物によっては数量も重さも違うが、菓子皿の場合だったら一荷400枚が定数であった、重さも12,3貫(約50キロ)であった。 冬の山は寒さが厳しく、その上とても寂しい。正月前は半田からやってくる中持人をまだか、まだかと待っていた。(問屋との清算の取引は盆と正月の年2回)」と、お聞きしたと云う。柿渋についてはここに載せています。日本木地師学界HP
2014.01.19
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初詣でには、行ったり行かなかったりする大使であるが・・・阪神大震災の慰霊には、ほぼ毎年、東遊園地に出かけているのです。昨日、市役所の展望フロアから見た東遊園地です。竹灯篭を間近に見ます。ところで、今年は、そごう神戸店で寅さんに合ったのです。全国を巡っていた山田洋次監督50周年記念展が慰霊の日に合わせて、神戸で始まっています。50周年記念展にあわせ、山田洋次監督が神戸訪問より 阪神大震災直後の神戸市長田区で映画「男はつらいよ」のシリーズ最終作を撮影した山田洋次監督(82)の監督50周年記念展が16日、そごう神戸店(神戸市中央区)で始まった。 この日、会場を訪れた山田監督は、被災地の現状について、「立派なビルが立ち並んでいるが、ビルに囲まれた生活で満足されているのだろうか」と述べ、地元の人たちを気遣った「男はつらいよ 寅次郎紅の花」(1995年12月公開)で、寅さんは長田区のパン店を訪れる。そのモデルとなったのが、長田区の「くららべーかりー」だ。経営する石倉泰三さん(61)は、映画に登場した看板を現在も店内に飾っており、今回の記念展に展示用に貸し出した。この会場は撮影禁止なんだが、「くるまや」の居間だけは撮影OKとなっています。映画で毎回見ているので、この居間には皆さん見覚えがありますね。寅さん48作の最後に、神戸ロケを敢行した山田監督、寅さんに感謝です♪なかなか、見所の多い展示である。学校シリーズは4作もあったようだが、大使は1作も見てなかったのです。山田監督の作画では社会問題は、はまり過ぎて見たくない気がしていた大使なんですね。でも藤沢作品3部作で、山田作品鑑賞を再開しているわけです。最近は「おとうと」、「東京家族」を見たが・・・社会問題を手がけても違和感がなくて、監督も82歳ともなれば円熟してきたようですね♪(なんか見方が難しい大使である―笑)
2014.01.18
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年越し用として「漆・柿渋と木工」という本を図書館で借りているが・・・木工といえば、WOOD JOB!(ウッジョブ)そのものであり、これが大使のツボを突いているわけです。ということで、これから読んでみます。【漆・柿渋と木工】田村善次郎監修、農山漁村文化協会、2012年刊<「BOOK」データベース>より阿波半田の塗師、宮城県鳴子の漆かき、越前大野の木地屋と塗師、各地の柿渋屋、南会津の太鼓屋など、伝統工芸を受継いできた人々を訪ねる。 <読む前の大使寸評>これだ、これだ♪木地師が載っているし、民俗学と木工が語られるとは、大使のツボを突いているわけです。全国で五ヶ所の民俗学的フィールドワークが紹介されているが、いずれも昭和52年から61年までのレポートであり、これらが産業として今も残っているか、やや不安を覚えるのです。Amazon漆・柿渋と木工ところで・・・朝日新聞の書評欄では年末に、著名な評者による「今年の3点」というのがあるのですが、そのなかで、三浦しをんが気になるので紹介します。三浦しをん 書評委員が選ぶ「今年の3点」より(1)脊梁山脈(乙川優三郎著、新潮社・1785円)(2)BABEL(重松成美著、小学館・750~800円、3巻まで発売中)(3)「アドリアン・イングリッシュ」シリーズ(ジョシュ・ラニヨン著、草間さかえ絵、冬斗亜紀訳、新書館・945円) ◇ (1)は冒険小説であり推理小説であり恋愛小説でもある傑作。今年読んだなかで最も胸打たれた。古代史まで視野に収めたスケールの大きさと、骨太かつ丁寧な人物描写が魅力的だ。 (2)は電子書籍全盛となった未来の世界で、「最古の紙の本」の謎に迫るSFファンタジー。豊かなイメージで描かれる物語は、ひとの心の深淵、「記述」や「伝達」とはなんなのかという問題へと踏みこんでいく。いま一番つづきが気になる漫画だ。 (3)のシリーズは現在、『天使の影』『死者の囁き』の二冊が刊行中。最近、男同士の海外ロマンス小説がけっこう翻訳出版されているが、なかでもこの著者の作品は、ミステリーと恋愛のバランスがよく、盛大にときめくことができるのでおすすめだ。三浦しおんといえば、5月に公開される『WOOD JOB!(ウッジョブ)』の原作を書いたということで気にしていたわけですが、その三浦さんが『脊梁山脈』を選んだということで…彼女のWOOD JOB!にかける拘りがよく分かるような気がするのです♪でも、三浦しおんと乙川優三郎といえば・・・・片や売れっ子、片や大仏次郎賞受賞者で、意外な取り合わせという感じを受けるのです。【脊梁山脈】乙川優三郎著、講談社、2013年刊<「BOOK」データベースより>福島県費生として上海に学び、現地入営した矢田部信幸。復員列車で助けられた男を探し、深山を巡るうち木工に魅せられ、木地師の源流とこの国のなりたちを辿ってゆく。23歳の終戦、いかに生き直すか。直木賞受賞作『生きる』から10年、著者初の現代小説。<読む前の大使寸評>第40回大仏次郎賞を受賞した本作品ですが、木地師と朝鮮も絡んでいるということで、大いに期待しています。rakuten脊梁山脈『脊梁山脈』について図書館で探したんですが、出払っていて、予約待機者も多く…読めるのはかなり、先になりそうです。なお、映画については矢口史靖監督のWOOD JOB!(ウッジョブ)でとりあげています。
2014.01.17
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図書館でたまたま借りた本であるが、砂漠とラクダが借りる決め手になったわけです。それにサウジアラビアで、心ならずも40℃超という気温を体験したので・・・この本で語られる辛さがよくわかるわけです。【サハラ横断砂の巡礼】前島幹雄著、彩流社、1989年刊<内容紹介>より古書につきデータ無し<大使寸評>砂漠とラクダは西域フェチの大使をくすぐるし、なんといっても「ラクダと歩いた四八七日」という副題に惹かれるわけです。大きな図体でねばり強いリズとの一心同体ぶりが、泣かせるでぇ♪大使のラクダについての拘りは「地図の空白地帯」でもふれています。Amazonサハラ横断砂の巡礼全編にわたって過酷な砂漠が感じられるのだが、その一部を紹介します。p44,45 休みたいが木陰がない。立ったままゲルバの水を飲む。水分が体に染みていくとけだるい朦朧状態から開放され、大脳が濡れ染みるように感じ呼び水のように額に汗が浮き上がる。砂の熱風で目が乾き、太陽を見るとめくるめくように輝き揺れている。 「リズ・サルサビール、楽園の泉よ。天の導きの道というオマエよ、教えてくれ。人はどのように生きれば良いのか」と私は祈るように呟く。すがりつくように鞍に手をかけ、ゲルバの口を開いて直接水をのむ。水を飲むと命に力を与えてくれる。 私はそうして、朝から休むこともなく4時間も歩行を続け自分の限界が近いことを知る。 「早く日陰を探さなくては、ホントにオレは死んでしまう」と身体全体の水分が蒸発、脱水状態寸前にあることを感じていた。 遠く樹木らしい褐緑色の針木と泉に向かうように歩いていく。私は荷物を降ろし、リズを結束して放し倒れた。苦しくて吐きそうだった。体中が麻痺して静止出来ない。マラソン選手が倒れ転がるようにのたうっていた。 「ダメだ。もうお手上げだ。身体がだるく手も足も動かない」とメモした。 倒れ、1時間後、時計を見ると1時45分。日陰で41度ある。風が強い。3時20分、さらに水を飲んで助かったと思う。凄い竜巻が側で渦巻いている。 まだ苦しい。どうということもなく苦しい。力がない。失われていく。 鏡を出して目を見た。4時45分、湯を沸かし紅茶を飲むと生き返った実感がした。この感覚、生きているという歓びの感情こそが、冒険というか危険な味わいであり、一種の麻薬みたいなものかも知れない。 せめてゲルバに水があれば。ゲルバに3分の1水があれば勇気が湧いて来るが、残り少ない。500ccの紙袋牛乳が5個残っているが前進する意欲はない。やはり一人で歩いて、一頭のラクダとゲルバ一袋の水では無理だ。輻射熱が体を焼きすぎる。「無理だからこそいこう」と昨日考えた。しかし正直言って観念と肉体の生理的反応は違う。昨日の頭痛、疲れ、苦しさ。今日の息をすることも出来ない苦しさ。吐きそうな思いだ。「こうして消えていくのか」といった生の放棄感は危険信号だ。肉体の回復度、情熱にしても肉体的なものだ。目的が200キロならまだしも、あと7000キロある。 リズが遠くにいってしまったみたいだ。 リズを追う気力がなく、夕暮れになって、沈みゆく太陽にむかって2,3キロ探し歩く。リズはいない。暗くなりはじめ絶望的気分になる。なんか、漂泊と冒険と根拠の薄い希望がボレロのように繰り返されるが・・・・ところどころに人類学的薀蓄をはさみ、冗長と感じさせないのが、この本の魅力なのかも。それにしても…ラクダを友ととして異文化圏に突き進む著者の無鉄砲さが、すごい♪著者の前島幹雄さんについて、ネットで探してみました。やっぱり、破格なアーティストのようですね。「サハラ横断」と「老人と海」と前島幹雄より前島さんは俳優座に所属していた根っからの演劇人であるが、一時は演劇の世界を離れ、サハラ砂漠横断をはじめ世界各地を放浪し、その世界では大変有名になったひとである。この数年、再び演劇の世界から声が掛かるようになっていた。それは年齢からくる風格がにじみ出て、「老人」役の演技者としてスポットライトを浴びるようになったからである。その集大成が今回の「老人と海」のカジキマグロと格闘する孤独な老人サンチャゴ役であった。 そういえば俳優座の同期生であった故成田三樹夫さんも参加してくれた『サハラ横断 砂の巡礼』の出版記念会のことを思い出す。その会の発起人の交渉のためにお会いした俳優座の主宰者・故千田是也さんが語った、「前島さんはお酒を飲んで舞台にあがり、演劇を壊したことがあるほど繊細な神経の持ち主なんですよ…」 彼はその時の悔しさを、今、晴らしているのかもしれない。
2014.01.16
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芥川賞と直木賞は1年に2度も発表されるので、つまり、新人作家が年に4名出現するわけで…とうてい覚えきれないのです。と言うか、出版業界の商業主義が目立つのです。いら立つ大使が、wikipediaで歴代の大仏次郎論壇賞を見てみると…この賞はいい仕事をしているわけですね♪暇な大使としては、大仏次郎論壇賞受賞作にしぼって借りることもいいかも♪wikipedia大仏次郎論壇賞より散文作品を対象とする大佛次郎賞の評論部門として2001年に新設された。日本の政治・経済・社会・文化や国際関係などを扱った優秀な論考を顕彰することを目的にしている。【受賞作品】(複数受賞の場合、私の判断で年度1冊としています)・第1回(2001年度) 特別賞 - ジョン・ダワー 『敗北を抱きしめて』(岩波書店) ・第2回(2002年度) 池内恵 『現代アラブの社会思想 終末論とイスラーム主義』(講談社現代新書) ・第3回(2003年度) 小熊英二 『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社) ・第4回(2004年度) 瀧井一博 『文明史のなかの明治憲法 この国のかたちと西洋体験』(講談社) ・第5回(2005年度) 中島岳志 『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義』(白水社) ・第6回(2006年度) 岩下明裕 『北方領土問題』(中公新書) ・第7回(2007年度) 朴裕河『和解のために』(平凡社) ・第8回(2008年度) 湯浅誠『反貧困』(岩波書店) ・第9回(2009年度) 廣井良典『コミュニティを問いなおす』(ちくま新書) ・第10回(2010年度) 竹中治堅『参議院とは何か』(中央公論新社) ・第11回(2011年度) 服部龍二『日中国交正常化--田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』(中公新書) ・第12回(2012年度) 大島堅一『原発のコスト エネルギー転換への視点』(岩波新書) ・第13回(2013年度) 今野晴貴『ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪』(文春新書) 1/13大佛次郎論壇賞を受賞して 今野晴貴より■政治の在り方に影響与えた 『ブラック企業』にはどんな意義があったのだろうか。 第一に、「ブラック企業」というインターネット上のスラング(悪口)に過ぎなかった言葉の広がりを、「社会問題」として提起したことだろう。「ブラック企業」とは、若者を正社員として採用しながら、次々に過重労働で使い潰し、鬱病・過労自殺・過労死に追い込むような企業を指している。この認識は、現在では厚生労働省にも共有され、対策も打ち出されているが、本書がはじめて提示した理解である。 そして、若者の「使い潰し」は鬱病の蔓延、医療費の増加、税収の減少、少子化をも招いている。私はたまたまひどい経営者がいるというような、「悲惨な物語」ではなく、事実の集積とその分析によって、個人の被害にとどまらない「社会問題」としてのブラック企業問題を明らかにしたかった。しかし、ま~文学賞の一覧を覗いてみると、文学賞の数の多さに呆然とするのです(笑)
2014.01.15
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このところ砂漠づいている大使であるが・・・10日の新聞記事「サウジ、出稼ぎ追い出し、若者の雇用確保に危機感」は唐突であり、驚いたわけです。つい近年まで、プラントやインフラの導入が続いていたので、サウジ経済は安定しているものとばかり思っていたのだが。退職前の仕事でサウジに関わり、サウジには嗅覚が働くので、たちどころに以下のような問題が頭をよぎるのです。・最後の王制国(絶対君主制)に危機・雇用確保・移民受け入れ政策の破綻・「アラブの冬」の引き金になるか?・オイルダラーと勤労意欲の問題・イスラム圏の優等生はUAE、インドネシア、トルコぐらいになった・エジプト、イエメン、エチオピア、ソマリアの経済に影響・今後のOPECの動きはどうなるのか?、ところで大使のサウジ体験である。サウジ入国時にサウジ人の入国審査官からカルチャーショックのような扱いを受けたわけで・・・この出来事で、一事が万事、彼の地の若者の勤労意欲に疑問を抱いたわけですね(笑)サウジの国内エアラインでも、信じられないような予約便確認があり、ようやくジェッダの現地事務所にたどりついたわけです。(入国時の顛末をサウジの空港職員に書いています。)この事務所では日本人所長の下で働いていたインド人(名前忘れた)に、工事材料調達でお世話になったわけで・・・・なるほど、サウジは彼のような有能な移民で回っているんだろうなと、入国2日めにして感じたのです。彼のような有能な移民は強制排除の憂き目にあうことはないと思うが・・・とにかく気になるのはサウジの行く末である。1/10サウジ、出稼ぎ追い出し 若者の雇用確保に危機感より サウジアラビアなど中東の資源国で、アフリカやアジアなどからの出稼ぎ労働者を追い出す動きが強まっている。各国とも若者の失業率が高く、自国民の雇用の場を確保しなければ、不満が高まりかねないという事情を抱える。■100万人超出国、暴動も アラブ最大の産油国サウジでは昨年11月、警察当局が一斉に不法滞在する労働者の摘発を始めた。 摘発を前に、約100万人は自主的に出国したとされるが、一部の出稼ぎ労働者は強制排除に強く抵抗。首都リヤドや西部ジッダなど各地で、警官隊との衝突や暴動が頻発し、死傷者も出た。結局、摘発を受けてさらに十数万人が出国を余儀なくされた。 サウジ政府の狙いは自国民の雇用確保だ。人口約2700万人のうち、アフリカや南、東南アジアを中心とする外国人は約900万人。統計情報中央局の2013年第2四半期の集計では、外国人の失業率が0.3%なのに対し、サウジ人は11.8%と際だって高い。若者や女性に限れば30%を超す。ただ、出稼ぎ労働者の「追い出し」によって、社会状況がただちに好転するわけでもなさそうだ。サウジの若者は、高給で余暇も多い政府系の職を望み、出稼ぎ労働者が担ってきた単純労働は嫌う風潮が強いためだ。 労働者が大幅に減った結果、市民生活や企業活動にしわ寄せが行っている。地元紙サウジ・ガゼットなどによると、摘発後、約2万の学校で清掃員がいなくなり、中小建設会社の4割が工事を中断した。スーパーやガソリンスタンド、カフェなどの閉鎖も相次いだ。人件費は急騰し、工事の停滞も目立っている。■産油国にも焦り サウジ国民の働き口の大半は、公務員やエネルギーなど政府系企業だった。経済発展の中で失業率の高止まりが続くのは、労働人口の増加に見合うだけのポストを政府が用意できなくなっている事情がある。人口は00年以降だけでも年平均で2.4%増え、今では19歳以下が半数を占める。 一方で、財政支出は膨らみ続けている。北アフリカなどで独裁政権が相次いで倒れた「アラブの春」は、失業中の若者が原動力となった。サウジ政府はこれに対応するため、失業給付金など10兆円規模の経済対策を打ち出し、民主化デモの波及を一部にとどめた。 政府の歳出は毎年、史上最高を更新し、4年間で1.5倍に膨張。一方で、歳入を支える原油価格は、北米のシェールオイル増産などで軟化する見通しが強まっている。手荒な摘発の背景には、「ばらまき」をできる間に失業対策にめどをつけておきたい焦りがある。 将来像を描けない失業中の若者の不満が抑えられなくなれば、その矛先はいずれ王族や政府に向かいかねず、社会不安の「時限爆弾になる」(地元コラムニスト)との危機感が広がる。 こうした構図は絶対君主制の湾岸諸国に共通で、各国は雇用の「自国民化」政策を急ぐとともに、不法就労者の摘発を強化している。昨年だけでアラブ首長国連邦(UAE)は2万2千人超、クウェートで2万5千人超、オマーンでは1万人超を逮捕。エチオピアがサウジへの非難声明を出すなどあつれきも広がった。サウジ情勢の報道が少ないのは、多分ジャーナリストの入国が難しいためだと思うが・・・・サウジアラビアの入国ビザ取得にはインビテイション(招待状)が必要であり、この独特な制度で、外国人にとっては、入国困難な国なのです。
2014.01.14
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今回借りた6冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「人類学」でしょうか。今回借りた本は砂漠、パリ、韓国、木工、西原・・・と大使の拘りがよく出ていますなお、「フィールドワークへの挑戦」は延長借り出しです。<市立図書館>・サハラ横断砂の巡礼・石畳に靴音が響く・とりあたまJAPAN<大学図書館>・漆・柿渋と木工(宮本常一とあるいた昭和の日本23)・鮨とキムチとハンバーガー・フィールドワークへの挑戦図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)*************************************************************【サハラ横断砂の巡礼】前島幹雄著、彩流社、1989年刊<内容紹介>より古書につきデータ無し<大使寸評>砂漠とラクダは西域フェチの大使をくすぐるし、なんといっても「ラクダと歩いた四八七日」という副題に惹かれるわけです。大きな図体でねばり強いリズとの一心同体ぶりが、泣かせるでぇ♪大使のラクダについての拘りは「地図の空白地帯」でもふれています。Amazonサハラ横断砂の巡礼 サハラ横断砂の巡礼byドングリ【石畳に靴音が響く】早川雅水著、実業之日本社、2001年刊<「BOOK」データベース>よりパリの達人が、あなたをほんものの「Paris」にエスコート。雨に濡れた石畳、霧にかすむ街灯、アパルトマンの間からエッフェル塔が見え隠れする…。【目次】右岸について-前書きにかえて/バチニョル-今も懐かしい村の雰囲気が色濃く残る/オートイユ-緑に染まる道は近代建築の美術館/レ・グラン・ブールヴァールとその界隈-喧噪の中に19世紀の賑わいを偲ぶ/ベルヴィル、メニルモンタン-パリらしい趣を味わい、パリジャンに出会う/モンマルトル-知ればしるほど好きになる坂の町<読む前の大使寸評>長くパリに住んでいる著者が、セーヌ右岸を案内するとのこと。大使も右岸の下町に一時暮らしたので懐かしいのです。rakuten石畳に靴音が響く石畳に靴音が響くbyドングリ【とりあたまJAPAN】 西原理恵子, 佐藤優著、新潮社、2012年刊<「BOOK」データベース>より正論?暴論?マンガとコラムで世界がわかる。笑って学べる、現代の教科書。【目次】敬老の日/英語公用語化/改正臓器移植法/上海蟹/K-POP/COP10/ノーベル平和賞/羽田空港国際化/池上彰ブーム/ゴッホ没後120年、他<読む前の大使寸評>西原理恵子画×佐藤優文の本であるが、随筆というよりは、トゲのある雑文というか・・・これも、一種の人類学的レポートと言えなくもないのです。(ちょっと無理筋か)露悪趣味というか、本音丸出しというか…ま~すごいわ♪rakutenとりあたまJAPAN本音丸出しというか…【漆・柿渋と木工】田村善次郎著、農山漁村文化協会、2012年刊<「BOOK」データベース>より阿波半田の塗師、宮城県鳴子の漆かき、越前大野の木地屋と塗師、各地の柿渋屋、南会津の太鼓屋など、伝統工芸を受継いできた人々を訪ねる。 <読む前の大使寸評>民俗学と木工がダブルで語られるとは、まさにドングリ・ワールドなんですね♪この本はカラー写真も多くて、読みやすく編集されているのが嬉しい♪Amazon漆・柿渋と木工木地師について byドングリ【鮨とキムチとハンバーガー】ケント・ギルバート、池東旭、植田剛彦著、黙出版、2001年刊<「MARC」データベース>より日・韓・米は最も人の行き来が多い割には、お互いをあまりよく知らないのはまことに不思議なことである。そこで、ケント・ギルバート、池東旭、植田剛彦の三人がフツーの人の目線で見た三つの国のホンネ。【目次】1 いちばんたいせつなものは国によってちがう2 英語ができない国、漢字が読めない国3 日本人はわりと結論を急ぎ過ぎる4 中国はかわらないか5 ワールドカップの正しい見方6 教師にカウンセリングができるのか7 いつまで続くアメリカへの片思い<読む前の大使寸評>歴史認識、靖国参拝などで、日韓の感情的対立は最悪とも言える昨今である。やや古い本ではあるが、韓日米のジャーナリストによる鼎談をあつかったこの本が興味深いのです。今まで、有りそうで無かった鼎談であるが…行司役のアメリカが居れば、韓国が認識を改めてくれるかな?(侮日、反日、克日が民族のアイデンティティとも言える韓国はヤワでないようです)rakuten鮨とキムチとハンバーガー鮨とキムチとハンバーガー1鮨とキムチとハンバーガー2鮨とキムチとハンバーガー3【フィールドワークへの挑戦】菅原和孝著、世界思想社、2006年刊<「BOOK」データベース>より仕事・社会・コミュニケーション・宗教・異文化の5ジャンルを網羅し、40人の初々しいフィールドワークを一挙公開。技術的なノウハウから理論的な設問まで、実践的な助言を満載。フィールドワーカーのセンスを体得できる最良の指南書。 <読む前の大使寸評>記憶に残るフィールドワークといえば、「全国アホ・バカ分布考」であるが、著者はこれにかなり対抗意識燃やしているようです。amazonフィールドワークへの挑戦フィールドワークへの挑戦byドングリ*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き50図書館大好き(目録)
2014.01.13
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慶大渡辺教授が古い紀行文の魅力を、いみじくも「リアルに追体験」と表現している。うまい♪・・・大使がイザベラ・バードの「日本奥地紀行」読んだときの感想が、まさにそのとおりだった。昔の、はたまた現代の人類学的紀行が興味深いのであるが、そんな本を集めてみました。・日本奥地紀行1・モゴール族探検記・構造・神話・労働・トクヴィルが見たアメリカ―現代デモクラシーの誕生・中国が海を支配したとき<追加>現代の冒険も含めて追加しました。・サハラ横断砂の巡礼・空白の5マイル********************************************************************************イザベラ・バードが文明開化時の日本を探検しているような紀行文です。【日本奥地紀行1】イザベラ・バード著、平凡社、2012年刊<「BOOK」データベース>よりイザベラ・バードの明治日本への旅の真実に鋭く迫る初版からの完訳決定版。正確を期した翻訳と丹念な調査に基づく巨細を究めた徹底的な注で、初めてわかる諸発見多数。 <大使寸評>イザベラ・バードの見た文明開化後の日本も興味深いが、治安がいいとは言え、秘境の奥地まで1人で旅するイザベラ・バードの好奇心も並外れているわけで・・・当時の日本と、それを見る旅人ということで紀行文の醍醐味が味わえるのです。Amazon日本奥地紀行1戦後初の大規模な海外長期フィールドワークが、京大カラコルム・ヒンズークシ探検であったが・・・梅棹忠夫の探検記は、その人柄を反映して魅力にあふれている。【モゴール族探検記】梅棹忠夫著、岩波書店、1956年刊<内容紹介>より13世紀初頭ジンギスカンが樹立したモンゴール帝国の版図は、遠く東欧から南ロシアにまで及んだ。その末裔とおぼしき蒙古族の一部がアフガニスタン奥地のどこかにいる――。この地図にも記録にも残されていない民族を探し求めて、遂にこれをつきとめ、その風習、言語を調査した京大カラコルム・ヒンズークシ探検隊人類学班の貴重な記録。 <大使寸評>民族学の若き研究員は、アフガニスタンで隠れて暮らしているモゴール族を探し出す旅を始めた・・・・戦後初とも言える海外長期フィールドワークだったようです。梅棹が後に「中洋」と名付けた過酷な乾燥地帯で、モンゴルの末裔たちが身を潜めるように暮らしていた。このモゴール族は、農耕生活で定住していたが・・・・パシュトウーン人に脅かされた生活ですっかり覇気を失い哀れでさえある。当然として、訪問者を歓待するなど期待できなかったようです。とまあ・・・・この本を読むと、地図の空白地帯に踏み込んで行くような、高揚感があるんですな~Amazonモゴール族探検記地図の空白地帯byドングリ【構造・神話・労働】クロード・レヴィ=ストロース著、みすず書房、1979年刊<「BOOK」データベースより>1977年、レヴィ=ストロースは、国際交流基金の招きにより初めて来日し、6週間滞在した。本書は、滞日中に行った講演、対話をすべて収録し、非公開のシンポジウムの記録を加える。民族学がはらむ問題を語った「民族学者の責任」ほか、「構造主義」「神話論」という、構造主義人類学の方法論をわかりやすい言語で語る。<読書途中の大使寸評>初来日時の講演で、日本に対する見方が的確なところが、さすがに世界的な民族学者ですね。「構造主義」はよくわからないけど講演の内容は分かりやすいので、図らずも良質のレヴィ=ストロース入門書になっています。Amazon構造・神話・労働今のアメリカは「民主主義の帝国」と揶揄されるように・・・・・・瀕死の民主主義を抱えているが、民主主義誕生時のアメリカはどんなだったか?当時のアメリカを探検でもするような、興味深い本ですね。トクヴィルが見たアメリカ―現代デモクラシーの誕生より<旅と思索の軌跡、リアルに追体験:渡辺靖(慶応大学教授・文化人類学) > 1831年春、仏貴族出身の判事修習生トクヴィルは友人ボモンと共に9カ月間の米国旅行に出発した。弱冠25歳。刑務所視察というのはあくまで口実。市民が大国を統治するという、人類初の試みから40年余りを経た米国の実情を探るのが真の目的だった。 そのときの観察記『アメリカのデモクラシー』は高評価を受け、1841年には仏知識人の殿堂アカデミー・フランセーズの会員に選ばれた。 米国でも自国の本質を捉えた不朽の名著とされ、今でも保守・リベラル双方が主張の箔付けに好んで引用している。 (文字数制限により後略) ◇レオ・ダムロッシュ著、白水社、2012年刊<「BOOK」データベースより>初めての大衆的な大統領ジャクソンの治世、西へと膨張を続ける一方、はやくも人種問題が顕在化して分裂の兆候を示すアメリカ。1831年、この地を旅したトクヴィルは何を見たのか?デモクラシーを生きるためのアメリカという実験。 <読む前の大使寸評>大使がイザベラ・バードの「日本奥地紀行」読んだときの感想が、「リアルに追体験」だったが・・・渡辺教授が説くこの本の書評には、そそられるのです。尖閣沖で緊張が高まっている昨今ですが、「中国が海を支配したとき」というタイトルが気になったわけです。【中国が海を支配したとき】ルイーズ・リヴァシーズ著、新書館、1996年刊<「MARC」データベース>より大航海時代に先立つこと数十年前に、ヨーロッパ艦隊とは比較にならないほどの大艦隊が世界の海を牛耳っていた。中国に出現した鄭和の艦隊の大航海と、蜃気楼のように歴史の舞台から姿を消すまでを描く。<読む前の大使寸評>1996年刊のこの本のタイトルが、今日的であることが気になるのです。ところで、著者のルイーズ・リヴァシーズさんであるが・・・猛烈なフィールドワーク、歴史学者のような掘下げがあり、たいした女性ジャーナリストであると思うわけです。amazon中国が海を支配したとき中国が海を支配したとき1 中国が海を支配したとき2 中国が海を支配したとき3 中国が海を支配したとき4 ラクダ1頭を友ととして異文化に突き進む著者の無鉄砲さが、すごい♪【サハラ横断砂の巡礼】前島幹雄著、彩流社、1989年刊<内容紹介>より古書につきデータ無し<大使寸評>砂漠とラクダは西域フェチの大使をくすぐるし、なんといっても「ラクダと歩いた四八七日」という副題に惹かれるわけです。大きな図体でねばり強いリズとの一心同体ぶりが、泣かせるでぇ♪大使のラクダについての拘りは「地図の空白地帯」でもふれています。Amazonサハラ横断砂の巡礼著者の冒険への人なみはずれた拘りが、すごい♪【空白の5マイル】角幡唯介著、集英社、2010年刊<内容紹介>よりその空白地帯を埋めんとする古今の探検家たちの旅を追い、やがて筆者も谷を踏破。もう一度訪れたいと仕事をやめて挑むが、想定外の出来事の連続に、最後の旅は必死の脱出行の様相を帯び始める。第8回開高健ノンフィクション賞受賞作!<大使寸評>友人を救うために、ツアンポー川本流に漕ぎ入った武井という人物の描写が、ええでぇ♪1日分の食料を減らし、脂肪や筋肉を消費しながら、雪中の四つん這いの脱出行が過酷である。「リスクがあるからこそ、冒険という行為の中には、生きている意味を感じさせてくれる瞬間がある」とのこと。shueisha空白の5マイル
2014.01.13
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京大人文科学研究所長・山室信一さんががインタビューで「一元的な政権が米国の傀儡の性格を強めている」と説いているので、紹介します。(1/10デジタル朝日から転記) かつて中国の東北部に、13年間だけ存在した「国」があった。満州国と呼ばれたその国は、高い理想を掲げながら、矛盾と偽りに満ちていた。安倍政権の誕生から1年を経た今、山室信一さんは「いま進んでいることは、日本の満州国化だと思っています」という。2014年の日本は、あの国とどこが似てきているのだろうかQ:いまの日本が「満州国化」しているというのは、どういうことでしょうかA:安倍さんは『自立する国家』を掲げてきました。でも現実には、特定秘密保護法やTPPなどで、アメリカのかいらい国家という性格が強くなってきているのではないか。理想国家の建設を掲げながら、日本のかいらい国家への道を歩んだ満州国に似てきています。Q:安倍首相は『新しい国へ』という著書があるように、国をつくり直す意識が強いようにも思えますA:強いでしょうね。『戦後レジームからの脱却』と言いますが、日本国憲法のもとで国家意識が薄れていったのが戦後だという意識があるのでしょう。だから、もう一度、国家主導体制をつくることが戦後民主主義から『日本を取り戻す』ことに直結すると意識されているようです。Q:安倍首相の祖父の岸信介・元首相は、満州国の高級官僚として統制経済を進めた人でしたA:岸と安倍さんは発想がよく似ています。2人とも多元的な勢力の存在が嫌いのようですね。権力が一元化されていないと、物事がうまく進まないと考える。満州国では関東軍と革新官僚だけで全部を決めた。今の安倍政権のように1強多弱になってしまうと、自民・公明という一元的な権力で全て決められる。満州国と同じシステムが今、小選挙区制の下で偶然にでき上がっています。Q:決められない政治への国民の失望が、1強多弱を生んだのではA:これも戦前と同じで、1920年代の対外的危機に際し、民政党と政友会が党争に明け暮れて何も決められなかった。政党政治に対する幻滅が国民に広まり、軍の統率力や官僚の統制に期待したところがあった。もちろん今とは状況が大きく違いますが、出てきている情景は重なって見えます。Q:情景が再現されてきたとA:満州国にいた官僚たちは、戦後の経済政策を担った経済安定本部にもたくさん入っています。『秩序と統制』が国家のあるべき姿だと考えた岸は、満州国で試みたことを戦後に実施し、高度成長の基盤をつくった。岸だけではなく、椎名悦三郎などの満州派は自民党内で力を持ちました。統制国家の実験室であった満州国はある意味で、海を越えて戦後の日本と地続きでもあるのです。 それが一番よく表れているのは軍隊です。もともと満州国は関東軍による占領下に置かれて、独自の軍隊を持たず警察組織だけあればいいとして出発した。それがやがて満州国軍として肥大化していき、関東軍に牛耳られるようになった。これはまさに戦後の自衛隊と米軍の関係です。警察予備隊から自衛隊に肥大し、米軍に依存することなしには存続できない体制となっている。 ■ ■Q:安倍政権は特定秘密保護法をかなり強引に成立させましたA:それもアメリカへの従属とともに、権力の一元化とつながっています。情報の偏在は権力を生む。満州国で岸がやろうとした統制経済も、基本的に政府に情報が全部集まらなければできない。 特定秘密保護法と、岸の日米安保条約改定も重なって見えます。安保反対のデモが国会を取り巻いていたとき、『国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には声なき声が聞こえる』と岸は言いました。おそらく安倍さんはそれを思い浮かべていたのではないか。今度も騒いでいるのは国会の周りの少数派だけで、背後には声なき多数派が自分を支持している、だから一部の反対を押し切ってでも法案を通すことが自分の政治家としての歴史的使命だ、と。Q:安倍政権のアジアへの姿勢はやはり岸政権に近いのでしょうかA:岸は戦後初めて東南アジアを訪問した首相でした。『日本がアジアの盟主にならなければならないという私の意識は、実は私が満州国に行ったときの意識と同じで戦前も戦後も一貫している』と語っています。日本がアジアの先頭に立っているという意識を持ち、東南アジア諸国との関係を深めることでアメリカに対抗しようとした。アジアを盾に『対米対等』を目指す二重性があった。 一方、安倍さんのアジア観はわかりにくい。もともとは対米対等をめざして集団的自衛権をと思っていたのでしょう。でも、中国の台頭や靖国参拝による反発などもあって、アジアの旗頭としてアメリカに対抗するという手段はとれない。それどころか、東アジアでの孤立化を招いたことで対米従属化を強めるしかなく、特定秘密保護法をつくるなど、政策選択の幅を自ら狭めています。Q:安倍首相と岸元首相は、似ているようでも違うとA:岸の本質は経済官僚です。経済力強化が国家の強盛に不可欠だと一貫して考えた。総力戦体制のもとでは経済力イコール軍事力ですから、富国と強兵は一致していました。 安倍さんは、自分の領分を持っていない。官房長官以外には閣僚を経験せず、若くして首相になった。自分の核がないから、官僚やブレーンが持ち込んでくるものをバキューム効果のように取り込んでいく。それが安倍政権に対する野党の攻めにくさになっていると思われます。 ■ ■Q:「理想国家をつくる」という発想では共通しているのではA:もともと日本人は、国家というのは与えられたものだという意識が強いんです。欧米では国家は人々が契約でつくるという意識があるのですが、日本では国体が連綿と続いてきたとされて、人がつくる余地がない。明治憲法も新しくつくったのではなく、あくまでも『皇祖皇宗ノ遺訓』を明文化したにすぎないと説かれました。しかし、これは明治以後に『創られた伝統』といえます。 岸の場合は例外的に、国家をつくるという発想があったと思われます。彼が若いときに愛読した北一輝の『日本改造法案大綱』は、憲法を停止して、華族制度廃止や私有財産制度の制限など、国家の根幹を変えてしまおうというものです。ただ、日本で国家をつくりかえようとすると、必ず天皇制の問題とぶつかる。満州だったから、ゼロから新しい国家をつくる夢を見ることができた。Q:安倍さんも「美しい国」をつくろうとしているのではA:安倍さんの国家観は、自然主義的とでも言いましょうか、国はあくまで自然にあったもので、しかも国家主導は正しいという発想です。戦後レジームだけが否定すべきもので、それ以前の体制は『美しい国』だったと。国家は美しい国土という伝統の中にあって、人がつくるものではない。 もともと存在した国が、戦後の自由主義や個人主義などの思想によって汚されてきた。汚れを除けば、美しい国を取り戻すことができるはずだと。その汚れの元凶が今の憲法なのでしょう。Q:最近は改憲論をトーンダウンさせている印象もありますがA:おそらく安倍さんは、憲法を変えればみんな変わると思っていたのでしょう。戦後レジームの頂点にある憲法を壊せば、すべて正常に戻ると。しかし96条改正への反対が強かったので、解釈や立法で変えてしまおうという方向に行っている。 これは逆説的な状況で、憲法の条文を守ればいいという護憲の虚をつかれてしまった。頂点が不変でも解釈や法令で基盤を壊されれば、憲法秩序の全体が崩れてしまいます。 ■ ■Q:満州国の歴史から教訓として生かせるものがあるとすれば、どのようなことでしょうかA:権力の一元化は、特定の局面突破には効果的かもしれません。しかし一点突破だけを考えていると、全体のバランスが崩れる。満州国は、軍事的な統制だけすればいいと考えたのが崩壊のもとになった。安倍政権も、アメリカとの関係さえうまくいけばいいという一点だけを考えていると、対アジア関係や国内の産業構造が崩壊していきかねません。 満州国は、当初の理想とは全く逆の方向に動いていきました。最初は王道楽土や五族協和を掲げていたのが、対外戦争に危機感をあおって統制を強めるなかで、お互いが監視し排斥し合う『兵営国家』になっていった。安倍さんが掲げるような美しい国の理想というのが本当は一番危ない。ベクトルが反転して動き出す可能性をつねに考えておく必要があると思います。(聞き手・尾沢智史) *山室信一:京都大学人文科学研究所長 51年生まれ。専門は法政思想連鎖史。京都大学人文科学研究所教授。著書に「キメラ―満洲国の肖像」「憲法9条の思想水脈」◆キーワード <満州国> 1931年9月の満州事変の後、32年3月に中国東北部につくられた国家。清朝最後の皇帝・溥儀が執政(のち皇帝)となった。「王道楽土」の建設、「五族(日・満・漢・モンゴル・朝鮮)協和」を掲げたが、実質は日本のかいらい国家。国際連盟は満州国を認めなかった。45年8月、日本の敗戦とともに消滅。対中抑止力か、TPPか、とゴリ押しするアメリカはかつて満州を収奪した日本を彷彿とするわけですが・・・・TPP推進の経済評論家やへたれ官僚がいたりして、従米勢力も少なからずいるようです。
2014.01.12
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「外国漫画に描かれた日本」という本を図書館で借りたのは、ワーグマンやビゴーの漫画に興味を持っていたからです。だけど、読んでいくと・・・日中戦争、太平洋戦争あたりの漫画に迫力があるわけです。とにかく、ジャーナリストの手による風刺漫画であるだけに、戦争の本質が見られるというものでしょう。【外国漫画に描かれた日本】清水勲, 湯本豪一著、丸善出版 、1994年刊<「BOOK」データベース>よりペリー来航から今日までの140年間、日本および日本人の行動は世界の漫画ジャーナリズムに多くのテーマを提供してきた。そこに描かれた傑作の数々を通して、改めて日本の姿をみたとき、もう一つの近代史が浮かび上がってくる。それは国際社会に生きる現代の日本人にとって、世界を理解するために、そして日本という国を理解するために知っておくべき知識であろう。<大使寸評>ワーグマンのポンチ絵から、1994年の漫画まで、外国人による政治風刺漫画が網羅されています。明治維新、日清戦争、日中戦争、太平洋戦争、敗戦、朝鮮戦争、日米経済摩擦など、主に戦争がテーマの作品とその解説が見られるが・・・風刺漫画であるだけに、戦争の本質が見られるというものでしょう。これらの作家の描く日本人はいずれも辛辣である。彼らはアーティストというより、ジャーナリストなので、当然といえば、当然なんでしょう。大使一押しのビゴーにしても辛辣であるが、一転して鄙の女を描く優しさもあるのです。だけど、風刺画とならないそんな絵は、この本では見られません。rakuten外国漫画に描かれた日本この本から太平洋戦争開戦時の漫画を紹介します。<ヒットラーにあやつられる日本>よりp158,159 ベルリンで昭和15年9月27日、日独伊三国同盟の調印が行われた。すでにヨーロッパでは戦火がひろがり、ドイツ軍はロンドンへの爆撃を続行していた。 三国同盟が調印された翌月には近衛首相を総裁とする大政翼賛会が発足し、国民生活は完全に戦時体制へと入っていった。 昭和16年になると、戦時色はさらに強まり、世界大戦の危機が深刻にとりざたされた。1月にはワシントンで米英参謀本部の秘密会議が持たれ、戦争準備がすすめられた。6月、ドイツ軍がソ連軍を急襲し、独ソ戦の火ぶたがきられた。 このような中で、日米間で戦争を回避するための最後の交渉が持たれていた。しかし、すでに戦火をひろげていたドイツには日本の参戦が是非とも必用であった。 図はこのような日独関係を風刺したもので、「お前はわれわれ枢軸側の一員だろう、さあ、お前の手で火種をつかみ取ってごらん」と暖炉に日本猫の手をつっこませようとしているのはヒットラー猫。 10月、東條内閣が成立し、日米交渉もついに結実せず、12月8日に真珠湾攻撃へと至る。 東條英機がいなくても太平洋戦争は起こりえたが、ヒットラーがいなかったら太平洋戦争は起こらなかっただろう、と言われる。<緒戦の勝利が何だったのか、いまにわかるぞ>よりp170,171 真珠湾を日本軍が奇襲してアメリカ海軍主力艦隊に大きな損害を与えた。日本国内では真珠湾攻撃の成功に酔い、アメリカ恐るに足らずとの空気につつまれていた。しかし、日本の戦争指導者たちは、アメリカ本土に侵攻し、ワシントンを占領するなどは考えも及ばず、戦局の有利な時点で第三国の仲介により戦争を終結する程度の見通しであった。 アメリカの国力を考えると、そんな日本の甘い判断はとんでもない間違いであった。 図は真珠湾攻撃直後に描かれた漫画で、日本のおろかな無鉄砲さを風刺している。大きな洞窟の中から少しだけ出ている尻尾をわしづかみにして引っ張っている日本人には、洞窟の中にどんなものがひそんでいるのか見えていない。「ついに敵をつかんだ」とほくそえんでいるのである。 キャプションに曰く、「何をつかんでいるのか、いまにわかるぞ」 すなわち、「緒戦の勝利が何だったのか、いまにわかるぞ」と言っているのである。 こうした論理的な説得力を持つアメリカ漫画に対して、日本の漫画は反米感情むき出しなものが多く、人々に戦争の正当性を説くものは少なかった。こうした迫力のある漫画を見ると、漫画でも日本は負けていたと、つくづく感じる。ビゴーはジャーナリストとして風刺漫画を描いたが、「日本素描集」を描いたように画家でもあったのです。この本の趣旨とは異なるのだが、ビゴー作品の魅力を黒田清輝自筆文献より紹介します。ビゴーは仏蘭西人でポンチ絵を以て有名であつた。ポンチの雑誌を発行して居たこともある、竹内久一氏が其雑誌を持つて居たと聞いて居る。よく其頃渡米した外国人をポンチに描いたので、喜ぶものもあつたが、中には不興に感じたものもあつたさうである。日本人の骨格などは巧みに其特徴を描くので面白かつた。私は仏蘭西に行く前、十八か九の時分からビゴーを知つて居た、其頃松波正信と云ふ人が仏蘭西語の塾を牛込に開いて居て仏蘭西人が教授に来ると云ふので、私は其塾へ行つた、其前私は寺尾壽博士に仏蘭西語を習つて居たのであつた、松波の塾に私は行つたけれども此塾は不思議な塾で、生徒が僅二、三人だけで、松波と云ふ人の態度は授業といふより、生徒と共に研究すると云ふ風で、話沢山であつた。ビゴーも来たが別に何を教授すると云ふ程のことはなかつた。其頃ビゴーは二十二、三位の青年であつた。いつの事か知らぬが、司法省の法律学校の語学の教師にもなつたことがあるが間もなく止めたと云ふことである、元来画家であるから、語学教師としては適任でなかつたらしい。私は偶然巴里で、ビゴーの友人で、日本に来るまでのことを知つて居る人に会つた、其人は石版屋の画工であつた。その話に依ると、ビゴーは頗る有望な青年画家であつたが、日本が大変好きになつて、それで殆んど何の目的か知らんが、二十歳前後に飄然出懸けて行つたと云ふことであつた。 私は仏蘭西から帰つた後、ビゴーと交際した、其交際の初は明治二十七年の十月頃日清戦争の時、広島で会つた、私の宿の隣に居た、英吉利の「グラフイツク」の依頼を受けて従軍記者として画を描きに来て居たので、朝鮮などに旅行して帰つて来て広島に居たのであつた。私はそれから別れて従軍した。それから一二年後、汽車の中で偶然逢つたことがある。伊豆の三津に行くところだと云つて居た。広島で同棲して居た日本の女を女房にして居た。其後たしか明治三十二年頃稲毛の海気館の裏に画室の付いた家を建てゝ居た頃に逢つたことがある、五歳位の子供が居た、女房は離縁したと云つて居た。間もなく仏蘭西人で知名の画家ヂユムーランが、其汽船会社の依頼で、世界一週のパノラマを画く為に来遊した。其画家と懇意になつて、其材料を大分描いたらしい、そのパノラマは、三十三年の巴里の大博覧会で見たが、五月の幟の立つた絵などが日本の部に出た居た。其画家と契約が出来たものか、ビゴーは日本を去つて、巴里の或印刷会社の画工とか工場監督とかになつたと云ふことを聞いた。そのほかに、ビゴー作品のネット資料です。ビゴー銅版画集「日本素描集」より稲毛の女漁師と子どもビゴー作品の魅力仏人の描いた明治
2014.01.11
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このところ鄭和に入れ込んでいる大使は、図書館で「中国が海を支配したとき」という本を借りたのです。とにかく、この本のタイトル「中国が海を支配したとき」が刺激的なんですね。【中国が海を支配したとき】ルイーズ・リヴァシーズ著、新書館、1996年刊<「MARC」データベース>より大航海時代に先立つこと数十年前に、ヨーロッパ艦隊とは比較にならないほどの大艦隊が世界の海を牛耳っていた。中国に出現した鄭和の艦隊の大航海と、蜃気楼のように歴史の舞台から姿を消すまでを描く。<読む前の大使寸評>1996年刊のこの本のタイトルが、今日的であることが気になるのです。amazon中国が海を支配したときこの本の紹介の最後となりますが、訳者のあとがきから、一部を紹介します。<訳者のあとがき>よりp321~322 ここで本書の特色をもうひとつ述べるならば、記述を鄭和の遠征のみに絞ることはせず、明初の内政事情や外交状況、また当時の東南アジアの政治状況まで取り込んで、立体的な歴史を書こうとした点があげられるだろう。最終章とエピローグにおいては、華僑の精神の中に生きる鄭和像や、オーストラリアとアフリカとにおける考古学的考察までが含まれている。言ってみれば著者は広い人類史・文明史の立場から鄭和の遠征を位置づけようとしているのであり、このような姿勢は中国の歴史に慣れしたしむ機会の多い私たち日本人にとっても、新鮮な視点を提供してくれるものと思う。 周知のように、ヨーロッパ人による大航海時代は新世界発見であると同時に、それから何世紀にも引き続く過酷な植民地支配の幕開けでもあった。一方、鄭和の率いた宝船艦隊は、尊大な「中華意識」に裏づけられたものであったにせよ、著者に導きの糸を与えたジョセフ・ニーダムのことばを借りれば、「基本的に平和的な性格」を持ったものであった。 その原因はさまざまに考えられるだろうが、ひとつには本書からも読みとれるように、鄭和やその部下たちにおける実質的な多言語主義と宗教的寛容主義があげられるだろう。鄭和にしてからがイスラム教徒でありながら同時に道教の女神をも信奉する人間であったし、部下にはたとえば馬歓のような、中国語にもアラビア語にも堪能といったバイリンガルやマルチリンガルが数多くいたと思われる。 もし、鄭和たちが宗主国の言語と宗教とを朝貢国に押しつけ、ヨーロッパ人たちと同じく容赦ない武力支配をおこなっていたならば――世界史は現在見るものとはまったく異なったものになっていただろうことは想像に難くない。コロンブスがもはや英雄ではなく、「残虐な略奪者」として批判される今日において、なぜアジアの大航海者はそうならなかったのか。しかしもし鄭和たちが積極的に植民地経営に乗り出していたとするならば、現代の世界はいったいどのような形になっていただろうか・・・・こうしたアンビヴァレントな問いかけが、欧米社会に身を置く著者を本書の執筆に駆り立てた深い動機なのではないかと推測される。 それにしても、歴史から消え去っていった宝船艦隊は、単なる壮大な蜃気楼、あるいはみずからの巨体ゆえに自滅していった恐竜のごときものにすぎなかったのだろうか。 鄭和は去勢された宦官であったにもかかわらず、男性的な行動力を持った司令官だったようですね。それから、他宗教にも寛容なイスラム教徒というイメージが、尊大な漢族と違ってわりと爽やかな印象を与えるわけです。ところで、著者のルイーズ・リヴァシーズさんであるが・・・猛烈なフィールドワーク、歴史学者のような掘下げがあり、たいした女性ジャーナリストであると思うわけです。中国が海を支配したとき1 中国が海を支配したとき2 中国が海を支配したとき3 中国が海を支配したとき4 この本も中国歴史に関連する本に収めておきます。
2014.01.10
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歴史認識、靖国参拝などで、日韓の感情的対立は修復不能とまで言える昨今である。やや古い本ではあるが・・・韓日米のジャーナリストによる鼎談をあつかったこの本が時宜を得ているし、興味深いのです。【鮨とキムチとハンバーガー】ケント・ギルバート、池東旭、植田剛彦著、黙出版、2001年刊<「MARC」データベース>より日・韓・米は最も人の行き来が多い割には、お互いをあまりよく知らないのはまことに不思議なことである。そこで、ケント・ギルバート、池東旭、植田剛彦の三人がフツーの人の目線で見た三つの国のホンネ。【目次】1 いちばんたいせつなものは国によってちがう2 英語ができない国、漢字が読めない国3 日本人はわりと結論を急ぎ過ぎる4 中国はかわらないか5 ワールドカップの正しい見方6 教師にカウンセリングができるのか7 いつまで続くアメリカへの片思い<読む前の大使寸評>歴史認識、靖国参拝などで、日韓の感情的対立は最悪とも言える昨今である。やや古い本ではあるが、韓日米のジャーナリストによる鼎談をあつかったこの本が興味深いのです。今まで、有りそうで無かった鼎談であるが…行司役のアメリカが居れば、韓国が認識を改めてくれるかな?rakuten鮨とキムチとハンバーガー兄弟喧嘩のような、この本音トークが興味深いというか、面白い♪<韓国と台湾は仲が悪い>よりp26~28池:今、ちょうど台湾の話が出ましたけど、アメリカはチャイナ(中華人民共和国)と台湾に対して、本音でどう思っていますか。ケント:中国をまず、あまり信頼していないですよね。それで、台湾特別法があるように、台湾をずっと支えてきたわけだから、それに対する責任がある。見捨てることはできないんです。でも、だからこそ、これから難しいですよね。池:韓国はね、中国に対しては、ものすごく畏怖感を持っているわけなんですよ。ケント:ああ、そうなんですか。池:はっきり言って韓国人は、アメリカ人より中国人のほうが、もっと怖いです。これは中国は、長い間ずっと韓国の宗主国でしたからね。韓国は中国に対して、アメリカ以上に怖がっている。逆に台湾を、ものすごく見下してるんですよね。ケント:なるほど。見下しているんですか。どういう意味ですか。池:台湾もまた、韓国を見下してる。お互いにライバル意識があるんですよ。ケント:じゃあ韓国の世論としては、台湾が中国と合併したほうがいいということなんですか。池:いや、そこまでは言わない。だけど、とにかく韓国は、台湾に対して強烈な競争意識があるんですよね。同じNIESの新興工業国で、アジアの模範ということで、経済的にもライバルだった。もうひとつは、日本の植民地だったでしょう。両方とも。植民地だったということで、韓国は解放後ものすごくアンチ・ジャパンだった。いっぽう、台湾はずっと親日的でしょう。ケント:そうなんですよね。池:韓国人はね、みんな、腹の中で台湾の人たちを「なんだ、腹まで腐ってるね」とまでは言わないけど軽蔑する(笑)。こっち(韓国)は、これほど反日、反日って言って頑張っているのに、あっちは親日だって見下してるんです。逆に台湾は、「なんだ、韓国は借金だらけで」とね、お互いに見下しあっているんですよ。 だから、1992年に韓国が中国と国交を結んだ時は、台湾に一言も挨拶しないでやったんですよね。もう台湾は、カンカンになって、もうそれから国交断絶して、今は飛行機も飛んでないんですよね。お互いにものすごく見下してるんです。台湾がどうしてあれほど親日的かといったら、韓国人は、「あれは昔から独立したことのない国だから」と、もう当然ですね。我々韓国は昔から独立国家だからと、こう思っているんです。ケント:中国の隣で、よく独立できていましたね。池:はい。まあ、そういうわけで、お互いものすごく感情的に反発してるんです。おもしろいのは、台湾出身のインテリ、日本に住んでいる人たちね、邸永漢さんとか金美齢さんとか、みんな日本のことを褒めてますね。逆に、日本に住んでいる、いわゆるコリアン系の人は、日本の悪口を言わないとレーゾン・デートル(存在理由)がないんです(笑)。だからシン・スゴ(辛淑玉)さんもそうでしょう。日本の悪口をポンポン言う。植田:すごい、あの人は。しかし、何でも言えばいいってものじゃない。池:そう。でも、台湾出身の人は、絶対日本の悪口は言わないのね。これが全然違うんです。植田:確かに、在日の韓国、朝鮮の人たちの、多少インテリというか、言論人の方々からは、非常に日本に対して「大きなお世話だ」というぐらい、大変よく、ご忠告頂いています(笑)。池:でも、そう言わないと、韓国人のアイデンティティがなくなる(笑)。だから逆に韓国の人間に言わせると、「ああ、台湾はだらしないね。ゴマすってる」と、こうも言うしね。台湾にしてみれば、「なんだ、あんたたち。そんなに偉かったら、さっさと本国に帰りなさいよ」って、思ってるはずですよね。だからお互いに台湾と韓国、ものすごく仲が悪いんです。植田さんは、かなり抑えて発言しているが、本音トークって、面白いですね♪いい悪いは別にして、韓国は華夷秩序というアイデンティティから逃れられないんでしょうね。恨500年なんたらの浪花節的エモーションを憶測できるのは、日本人くらいだと思うんだけどね。
2014.01.09
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歴史認識、靖国参拝などで、日韓の感情的対立は修復不能とまで言える昨今である。やや古い本ではあるが・・・韓日米のジャーナリストによる鼎談をあつかったこの本が時宜を得ているし、興味深いのです。【鮨とキムチとハンバーガー】ケント・ギルバート、池東旭、植田剛彦著、黙出版、2001年刊<「MARC」データベース>より日・韓・米は最も人の行き来が多い割には、お互いをあまりよく知らないのはまことに不思議なことである。そこで、ケント・ギルバート、池東旭、植田剛彦の三人がフツーの人の目線で見た三つの国のホンネ。【目次】1 いちばんたいせつなものは国によってちがう2 英語ができない国、漢字が読めない国3 日本人はわりと結論を急ぎ過ぎる4 中国はかわらないか5 ワールドカップの正しい見方6 教師にカウンセリングができるのか7 いつまで続くアメリカへの片思い<読む前の大使寸評>歴史認識、靖国参拝などで、日韓の感情的対立は最悪とも言える昨今である。やや古い本ではあるが、韓日米のジャーナリストによる鼎談をあつかったこの本が興味深いのです。今まで、有りそうで無かった鼎談であるが…行司役のアメリカが居れば、韓国が認識を改めてくれるかな?rakuten鮨とキムチとハンバーガー意地を貫くためには、どんな不利益にも耐えるという意固地さを改めて欲しいんだけど。特に、漢字廃絶は民族的損失とも思うんですが。<漢字が読めない韓国の若者>よりp81~84池:韓国で大きな問題になっているんですが、今、学校では漢字を教えないんです。植田:ハングルだけですよね。池:ハングル。ハングルもね、実は同じ発音が多いわけなんです。もともとあれは全部漢字から出た単語なんですよね。ところが今、韓国の若い人たちは、これが分からない。例えば「輸入」という言葉。import。これは、韓国の発音で「スイプ」なんですよね。ところが「スイ」というのは「受け入れ」、receiveもスイプだし、また「収入」、revenueですね。これも「スイプ」なんです。そうしますと、同じハングルでポンと書いてあると、これがimportなのかreceiveなのかrevenueなのか、前後のコンテクストを見ないと分からなくなるんですよね。 私は、韓国の新聞を読むと、日本の新聞を読むより遅くなる。日本の新聞は、見出しでも何でも漢字で書いてあるでしょう。一目でパッと入ってくるんですよね。韓国の場合「スイプ」と書いてあっても、これは輸入の意味なのか収入なのか、読んでみないと分からないんです。これが今、非常に韓国で大きな問題になってるんです。韓国の若い連中が、成田エアポートに降りて、ほかの国の人みたいに東京までみんな、リムジンバスに乗らざるを得ないのは、電車に乗って日暮里で乗り換えた方が安いし、便利なのに、その「」って漢字が読めないんからなんですよ。ケント:なるほど、なるほど。池:ローマ字でもあまり表記してないでしょう。みんな高いリムジンバスに乗ってくる。箱崎まで来て、ここからまたタクシーに乗って目的地へ行くわけなんですね。韓国で漢字を教えてない。これが非常に大きな問題になってる。ケント:なるほど、そうですか。漢字を復活させようという運動は、ないんですか。池:そうすると、今度は韓国のナショナリストたちが、また反対なんですよね。ケント:なるほどね。池:漢字というものは、中国のもので、これは文化的な従属になるということで、我々のアイデンティティのためには、駄目だと言っているわけなんですよね。学校では教えませんならね。若い連中たち、漢字知りませんから、日本に来ていちばん苦労するのはそれなんですよね。ケント:でも、韓国の新聞をパッと見ると、漢字が所々出てますよね。池:所々だけだから。ケント:それぐらいは教えてるんですか。池:固有名詞には漢字が出るんです。例えば人名で、「柳」という名字がありますね。柳と同じ、この「愈」という名字もあるんです。同じ発音なんです。その場合「ユ」というのが、「柳」なのか「愈」なのか、ハングルでは分からない。 例えば、「愈」長官って書く時は、長官は「チャンガン」ですが、「チャンガン」だけハングルで書いて、人名は「愈」と漢字で書く。すると「ああ、この人か」って分かるんですよね。だから北の連中たちは、名前が全部表記が違うのは、北は完全にハングルだけですからね。だから、「キム・ジョンイル」の「イル」と言っても、「イル」の発音は、「日」も「一」も同じ。本当に「正しい日」なのかね。適当に字をあてはめてるわけなんですから。植田:あてはめてるんですね。ケント:ああ、そうなんですか。植田:名前の場合、例えば「テツ」ね。「哲学」の「哲」も、アイアンの「鉄」も、みんな「チュル」でしょう。池:そうそう。だからケントさんのお子さんが漢字で日本語を覚えるのは、本当に正解だと思うんです。日本語の単語は、ほとんど漢字ですからね。植田:そうです。ケント:大和言葉はね、いいんですよ。それは漢字が要らないんです。でも熟語となると、漢字が分からないと無理です。池:そう。例えば、韓国で日本の皇太后(香淳皇后)が亡くなられたことを報じる。この亡くなった時、韓国の新聞の見出しに、どうあったかというと、皇太后は、「ファンテウ」なんですが、そうハングルで書いても、誰も意味が分からないんです。つまり、発音だけでしょう。日本語でも「皇太后」と漢字であれば分かるけど、カタカナで「コウタイゴウ」だけでは、日本人でもすぐには分かりませんよね。植田:そうですね。池:だから韓国の新聞は、見出しに「前の日本の王様の奥さんが亡くなった」というふうに表記するわけなんです。ケント:なるほどね。だけどまた、韓国で漢字を復活させると、教育が複雑になるというわけ。池:そう。だから日本みたいに、常用漢字ですか、その1950字ぐらいでいいんですよね。そうすればいいんだけど、とにかくみんな反対してますからね。私はこれが今、韓国の文化を駄目にしている大きな理由だと言うんです。漢字を教えないというのは、おかしい。韓国の言葉、本来は全部漢字ですからね。漢字問題については呉善花さんが、口をすっぱく述べ立てても耳を貸さない韓国であるが…一度、日本贔屓の国賊とみなしたら、どんな良いことを言っても、聴く耳を持たないのは、どうかと思うけど。漢字問題の詳細については呉善花さんはどんなかな?2 を参照ください。鮨とキムチとハンバーガー1
2014.01.09
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「フィールドワークへの挑戦」という本を図書館で借りたが、後で「BOOK」データベースを見ると、フィールドワーカーのセンスを体得できる最良の指南書と絶賛していました。 図書館でこの本を選んだのは、予想以上のクリーンヒットだったようです♪【フィールドワークへの挑戦】菅原和孝著、世界思想社、2006年刊<「BOOK」データベース>より仕事・社会・コミュニケーション・宗教・異文化の5ジャンルを網羅し、40人の初々しいフィールドワークを一挙公開。技術的なノウハウから理論的な設問まで、実践的な助言を満載。フィールドワーカーのセンスを体得できる最良の指南書。 菅原和孝(スガワラカズヨシ)1949年東京生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科教授。同総合人間学部で人類学関係の全学共通科目を開講し、フィールドワークの授業をもっている。京都大学大学院理学研究科博士課程修了。理学博士。霊長類の社会行動研究から出発し、1982年より、南部アフリカのボツワナに住むグイ・ブッシュマンの社会で、身体的な関わり、会話、語り、動物認識などをテーマにフィールドワークを続けている。並行して、日本人の会話と身ぶり、民俗芸能の伝承などについて研究している。<読む前の大使寸評>記憶に残るフィールドワークといえば、「全国アホ・バカ分布考」であるが、著者はこれにかなり対抗意識燃やしているようです。著者の薫陶宜しきを得て、未来の柳田国男、梅棹忠夫が生まれることを期待しております。(おっと 大きく吹いたかも)amazonフィールドワークへの挑戦全国アホ・バカ分布考byドングリ韓国に行けば、ここかしこに見られるPC房(PCバン)が気になるので、一度、中に入ってみたことがあるが…ハングルフォントのPCではお手上げの大使であった。この本でPC房のレポートが取りあげられているが、日本とは別の道を歩む韓国が感じられます。<ネット社会の襲来-韓国のPC房>よりp153~156 小木郁夫が韓国のPC房に興味をいだいたきっかけは、なかなかドラマチックだ。 2002年4月のNHKの番組で、FBIが9.11テロの実行犯を追跡したプロセスを紹介していた。主犯格の一人がラスヴェガスのインターネットカフェからログインしていたという証拠の画面が映し出されたとき、小木は息を呑んだ。画面の隅にハングル文字の表記があったのだ。案の定、記者の取材に応じたカフェの経営者は、韓国人であった。小木は、韓国で大流行のPCバンがすでにアメリカにまで普及していることに衝撃を受けた。 ここから、彼の探索は始まる。2002年6月から8月にかけてソウルに滞在したおりに、10数軒のPCバンで客や経営者の話を聞いた。 「PCバン」に対応する日本語訳はない。しいて訳せば「インターネットカフェ」であるが、他の国々に普及しているものとは、かなり違う特徴をもっている。その特徴を浮かびあがらせることが、この研究のひとつの目標でもあった。 韓国のPCバン店舗数は1997年のわずか100店から始まって幾何級数的に増大し、2001年には1万8000店にまではねあがった。客の60%は学生である。 かれらは多くの場合、複数で来店し、思い思いにオンラインゲームやチャットを楽しんだかと思えば、何かおもしろいことがあると1台のディスプレイを取り囲み、みんなでのぞきこんでワイワイ盛り上がる。 日本のインターネットカフェとの大きな違いは、飲食物の持ち込みがほぼ自由なばかりか、店の中にさえコンビニなみの豊富な品ぞろえがあるということだ。 このような空間で可能となった新しいコミュニケーションとして、「オンライン合コン」がある。チャット用DVカメラを完備した店どうしをつなげば、8~10分割した画面に男女同数の動画が映しだされる。画面をスクロールするだけで、たったいま過ぎ去った会話を「思い出し」「引用する」ことが可能であり、「席が離れているから話しかけられない」ということもありえない。 この特徴を「会話の開放性」と呼ぶことができる。つまり、合コンの「地政学的制約」に関係なくだれとでも平等に会話できる。いっぽう、チャットには「ひそひそ話」機能も保証されているので、周囲を気にせずに「会話の閉鎖性」も確保できる。ヴァーチャルなコミュニケーションもほうが、「会話の開放性/閉鎖性」を駆使することによって、対面的なもの以上に親密なコミュニケーションを可能にする場合があるのだ。 PCバン内部での観察以外にも、IT革命の波に翻弄される社会のなかで起きるさまざまな病理現象が掘り起こされている。小木の研究内容そのものは、サイバースペースへの依存を加速度的に強めている社会への文明批評的な色合いさえおびており、高い水準に達している。だが、このレポートを読み通すことに、わたしは多大の忍耐を要した。 ブロードバンド700万世帯を超す/大統領のリーダーシップ/大胆な政策/教室のネット接続100パーセント/主婦もIT/国民みんなが使えるように/・・・・ これは、レポート全編に溢れる小見出しの一部である。その下には、一口メモみたいな「情報」が掲載されている。この種の言説を「書かれたもの」として楽しむことは不可能である。ここからは、著者の思考を血肉化する「文体」が欠落している。「情報のパッチワーク」は、「生のかたち」の深みへと測鉛を降ろすことには不向きだ。どんなに優れた着眼があろうとも、そのような「知」は「異文化」の表層を軽やかに滑り続けるだけなのである。ところで小木さんは、何語で取材したんでしょうね?英語なのか韓国語なのか?どちらにしてもすごいのだが。この外にも、初々しい突撃レポートの紹介と著者による批評が見られるのだが・・・お後は、この本を読んでみてください。最終章として「書くこと」が、著者によって述べられています。フィールドワークに関するこの内容は、同時にノンフィクションを書く意義ともなっていて、大使はおおいに啓蒙されたのです♪<書くこと>よりp315~317 フィールドから帰ったあなたがするべきことを簡単にまとめておこう。あなたは書かなければいけない。「書く」とは、データを箇条書きしたり、情報をパッチワークすることではない。それは、あなた自身の文体で、「おもしろい」ストーリーを組み立てることにほかならない。なぜ「おもしろく」なければならないか。そうでなければ、だれも読んでくれないからである。 「おもしろく」書くために跳びこえねばならぬハードルが三つある。あなたは、すべての読者が容易に理解できる平易な文章を書かねばならない。同時にその文章は、明晰な論理につらぬかれていなければならない。さらにそれは、何ごとかをするものでなければならない。なかでも最も厳しいハードルがである。 とは、の報告にとどまらず、そののもつを展開することによって、つぎつぎと新しい言明を生みだし、それらを総合して結論に至るプロセスである。 だが、あなたは、自分の手にした事実からいかにしてを発見するのか。最も手っとりばやい道は、その事実と関連した問題群に関して積み重ねられてきた思考の空間に分け入りヒントを与えてくれるようなに出会うことである。そのようなを、と呼ぼう。 フィールドワークによってあなたが手にしたは、いっけんしたところ、瑣末なものかもしれない。だが、それをより広い文脈に置きなおすときに、そのからイモヅル式にいろんな問題がたぐり寄せられ、さらにそこから、あなたが生きることにとって重要なが照らし出される。だが、自分の膂力だけによっては、観察をより広い文脈に置きなおすことができない場合がある。そのとき梃子として働くのがである。べつにそのを忠実に踏襲する義理はない。あなた以外の人の思考が、あなたに「発想の転換」をもたらし、堂々めぐりに風穴をあけてくれさえすればよいのだ。 「だが、」―と懐疑家のあなたは反論するかもしれない。「だれかに『読んでもらう』必用がどこにあるのだろう。フィールドワークの感動をしてしまうことこそ不誠実ではないのか。フィールドワークから得たは私一人が保持していさえすればよい」。これはいっけん潔い態度である。だが、あなたはみずからのがあなたの「心」のなかに自律して存在すると信じている点において、まちがっている。「心」と呼ばれる何ものかがもし存在するとしても、それは刻一刻と変転しているのだから、今日の「感動」や「思考」や「記憶」が、明日も「同じもの」としてあなた自身に認識される保証はどこにもない。それらいっさいは、コミュニケーションの回路へ放りこまれることによってのみ、あなたと他者の双方にとって、ぬきさしならない意味をもつようになるのである。なお、「全国アホ・バカ分布考」の読書レポートを「探偵!ナイトスクープ」の世界に収めております
2014.01.08
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この挑発的なタイトルの本を本屋で立ち読みしたが・・・ええやんけ♪購入しようか、図書館に置かれるのを待つか?悩ましいところです。…で、先ず、くだんの図書カードを作ってみました。【君に友だちはいらない】瀧本哲史著、講談社、2013年刊<商品説明より> 現在の日本は、かつてなく「仲間づくり」(チームアプローチ)が重要な時代となっている。 その理由のひとつには、「グローバル資本主義の進展」がある。 グローバル資本主義とは、世界全体がひとつの市場になって「消費者」と「投資家」のおカネを引きつけるために、あらゆる「企業」が国境を越えて競争している状態のことを指す。 世界中の消費者は、自分の必要としている品質の製品を、世界中から探して「もっとも安く」手に入れることができる。投資家は、全世界の会社のなかからもっとも効率よく儲けさせてくれる会社やプロジェクトに資金を提供し、そうでない会社・プロジェクトからは、一瞬にして、資金を引き上げる。この世界レベルでの消費者と投資家のお金の動かし方は、国家、企業から個人の人生にまで避けがたい影響を与えている。<読む前の大使寸評>グローバル資本主義を毛嫌いする大使にとっては、興味深い内容である。NHK-NEWS WEBで見かける瀧本哲史氏は、ちょっと生意気な感じであるが…それはさておいて、読んでみるか。rakuten君に友だちはいらない瀧本哲史氏のインタビューがネットに載っていたので、読んでみましょう。1/3「元来の日本は、オープンかつ競争志向だ」瀧本哲史氏に聞くより<僕の中にある「日本観」>Q:『君に友だちはいらない』のカバーが印象的です。カバーには、黒澤映画『七人の侍』の一場面から抜き出した7人の人物が配され、グラビアっぽい。電子書籍の時代に紙の本で残すのだから、本であることにこだわりがあるものにしないと意味がない。雑誌のような発想で作っている単行本として、紙や造本をはじめ、いろいろと工夫をした。Q:英語の副題がついています。実はその副題の“The Best Team Approach to Change the World”が実際の内容。要するに、「世の中を変えるようなことをするにはどういうチームを作ったらいいのか」が、この本のテーマだ。『七人の侍』は、7人をチームとして考えたときにその作り方がまず面白い。世界の人がイメージする日本人のチームワークは、むしろこれではないか、と思い、考えついた。Q:チームワークという言葉には日本的なイメージがあります。われわれが日本的と呼んでいるものには大きな誤解がある。いわゆる日本的なものはここ20~30年の実績しかない。本来の日本的なものはもっとダイナミックで、世界的に普遍性があるものだと言いたい。この本の最後に、日本社会や日本人を再定義しようと書いているのも、この認識に基づいている。多様な人が集まって新しいことをやっていくのは、実は日本的なことなのだ。日本は東アジアのフロンティアに位置し、リスクを取ってチャレンジする人々が逃げ込んできて、肥沃な土地だったから定住した。事実、渡来人がたくさん来ている。そして、今の日本人は新たに来た人と一緒になってできた。だから、元来の日本は、オープンかつ競争オリエンテッドで、「堅い組織」ではなかった、という日本観が僕にはある。Q:今なぜチームアプローチ、仲間づくりなのですか。世の中が大きく変わっている。「正道なこと」を本業の人がやっていても成功は難しい。成功するには邪道なことを傍流の人たちが集まってやる。それが当たり前になった。つまり、今までと違うことは、これまでと違うメンバーでやることによって実現できると考えている。だから、どういうことが新しいことかと語るよりも、どういう違うメンバーで運営するか、その組織構成のほうが重要になる。新しいことを今までと同じメンバーでやっても、いいことはない。新しいメンバーによる、元来の日本的な働き方ならば、できるようになる。<倫理性では絶対に譲ってはいけない>Q:大きな環境変化があるわけですね。本物の資本主義になってきた。同じ仕事をしているのではしだいにコモディティ化して儲からなくなる。つねにイノベーションし続けないと現状維持さえできなくなる。今までとは違い、非連続のイノベーションを提案しないかぎり、その会社は存続するのが難しいし、その中の社員もいいことがない。新しいメンバーで英知を出し合い新たに試してみて、そのどれが正しいかは市場が決める、というように変わっている。Q:それもグローバルで。本物の資本主義は以前から世界で行われていて、日本が完全につながったのだ。それゆえ、世界を変えるようなことをしないと意味がない。それは、答えを探しに行くのではなく、問題提起自体をやっていくような非定型的なプロジェクトになる。こういうプロジェクトは伝統的な組織ではできなくて、チームの新編成が必要だ。しかも、いわゆるチームワークで「頑張る」のではなくて、新しいタイプの多様な人が集まってプロジェクトベースで協力し合うチーム編成でないといけない。Q:その際のよいチームとは。少人数でメンバーが互いに補完的なスキルを持っていることが第一。それに共通の目標と達成責任を持ちつつ、問題解決のアプローチを共有する。メンバーには相互責任もある。そういうチームがいちばん望ましい。メンバーは流動的でいいが、何よりビジョンを大きくブチ上げることだ。たとえばアップルは、IBMを倒すという、当時としては無謀すぎる目標によって未来を見据えていた。Q:メンバー、仲間というと、『ワンピース』が思い浮かびます。あの仲間はあまりに仲良しすぎる。『海賊の経済学』という本に書かれているとおり、海賊はもっと目的合理的なはずだ。仲間内だけの単なる自己承認では何も起こせないからだ。むしろ縮小再生産になっていく。とかく互いにかばい合う楽しい会社は内向きで、潰れていくのと同じだ。『ワンピース』の仲間には目標はあるのかもしれないが、「いいね!ごっこ」のような仲間内感が強すぎないか。世の中を変えるには、仲間というより戦友になることだ。Q:メンバーの倫理性も強調しています。そうでないと、内側から潰れてしまい、安心して戦えない。倫理的に問題がある人には、一つだけではなくて、いろいろ問題があるものだ。そして、行くところまで行ってしまう。ギャンブルにはまるように、最初は小さいことでも、どんどん膨らんでいく。またそういうことは伝染する。これくらいは大丈夫だよと言う人がいると、皆がそう思うようになり、どんどんエスカレートしていくから、倫理性では絶対に譲ってはいけない。Q:元来の日本的になるには、世代交代が必要ですか。時代の常識が変わるには時間がかかる。一般にパラダイムシフトは、旧学説の人たちを新学説の人たちが論破したから起こったと考えられがちだが、そうではない。たとえば天動説から地動説へのシフト。旧学説の人たちはそのままずっと天動説を信じ、証拠を見せられても、いやこう見えると反論し続けた。新世代の若い人が地動説を選び、天動説の現存世代が少数派になって、地動説にようやくシフトできた。つまり大きな考え方の変化が起きるとき、違いがありすぎると旧学説の人は新学説を理解できないので、世代交代があるまで本格的には変わりにくい。そうやって大変化は起こる。これから日本で起こる変化も、世代交代を経て実現するだろう。Q:旧世代も大事ともあります。一方で、世代がただ若ければ変わるのか、というとそんなことはない。明治維新の実現も旧世代のサポートがあればこそだ。世代交代がキーポイントだが、旧世代にもその役割はある。 ◇瀧本哲史(たきもと・てつふみ)京都大学産官学連携本部イノベーション・マネジメント・サイエンス研究部門客員准教授。エンジェル投資家。東京大学法学部卒業。同大学大学院法学政治学研究科助手を経て、マッキンゼー&カンパニーで、主にエレクトロニクス業界のコンサルティングに従事。新規事業立ち上げや投資プログラムの策定を行う。独立後は、日本交通の再建に携わる。京都大学では教育、研究、産官学連携活動を行っている。
2014.01.07
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大晦日の喧騒から逃げるように(笑)、くだんの2本立て館に繰り出したが・・・・今回の出し物は「天使の分け前」と「最後のマイ・ウェイ」であり、館主の設けたテーマは何だったんでしょうね?2作の共通点はヨーロッパ映画としか思いあたりません。「天使の分け前」はもちろん素晴らしかったが、「最後のマイ・ウェイ」もそれなりに良いわけです。カラオケで「マイ・ウェイ」を歌う際は、きっと、この映画を思い出すことでしょう♪【天使の分け前】ケン・ローチ監督、2012年英仏伊ベルギー制作<Movie.Walker作品情報>スコッチ・ウイスキーが根付くスコットランド。この地は今、不況にあえいでいた。家族とうまくいっておらず何かにつけ暴力沙汰を起こしてきたロビー(ポール・ブラニガン)は、またしても問題を起こし捕まる。しかし恋人との間にできた子どもがじき生まれることを鑑みて、刑務所送りではなく社会奉仕活動をするよう言い渡される。そこで指導者のハリーと出会い、ウイスキーの奥深さを知ったロビーは、次第にテイスティングの才能を目覚めさせていく……。「麦の穂をゆらす風」で第59回カンヌ国際映画祭パルム・ドールを獲得したケン・ローチ監督が、トラブルばかり起こす青年がウイスキーと出会ったことにより成長していく様を描いたヒューマン・コメディ。“天使の分け前”とは、ウイスキーが熟成する過程で年2%ずつ減っていくその減少分を指す言葉。<大使寸評>「麦の穂をゆらす風」とは一転して、ベラボウな値段の銘酒を盗むというサスペンス仕立てとなっているので観てて面白いのである。でも、前科モノの厳しい現実や社会復帰を支援する老いた公務員の気概を描いているところに、社会派ケン・ローチ監督の面目が表れています。その老公務員にさりげなく銘酒をプレゼントするシーンが出てくるが、粋で、ええでぇ♪この作品はケン・ローチ監督の「天使の分け前」という個人的予告を作って見張っていたものです。見つかってよかった♪Movie.Walker天使の分け前【最後のマイ・ウェイ】フローラン・エミリオ・シリ監督、2012年仏制作<Movie.Walker作品情報>1939年、エジプト。クロード・フランソワはスエズ運河の通航を管理する父と派手好きな母の間に生まれる。裕福な家庭に育ったが、スエズ運河が国有化され第二次中東戦争が勃発すると父は失職。モナコへ移住した後、クロード(ジェレミー・レニエ)は地元の楽団で働くようになる。それは家計を助けるためであったが、厳しい父は彼の仕事を認めようとはしなかった。1960~1970年代にかけてフランスで人気を博し、フランク・シナトラが歌い世界的なヒットとなった『マイ・ウェイ』を作曲、39歳という若さでこの世を去ったミュージシャン、クロード・フランソワの半生を描く。監督は「いのちの戦場-アルジェリア1959-」「スズメバチ」のフローラン=エミリオ・シリ。「夏時間の庭」「ある子供」のジェレミー・レニエが、時代を先取りするスーパースターを演じる。<大使寸評>日本でも、人気とりで臭い人情話をでっちあげる例がありますね。人気者の実態はフランスでも同じなんだ。女性遍歴が多彩なクロードの最初の伴侶は、アジア系(ベトナム人?)の踊り子であるが可愛いのだ♪…ジルベル・ベコーに取られてしまうけど。この作品では人気歌手の裏表が描かれているが、どちらかと言えば臭い裏面が延々と描かれているだけに・・・「マイウェイ」という1曲の素晴らしさが逆に際立ってくる。監督はそこまで計算しているのか。Movie.Walker最後のマイ・ウェイ
2014.01.06
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元旦の深夜にみたNHK討論「この国のカタチ」 で若手リーダーの討論を拝見したが刺激的であった。これを見て、日本も捨てたものでもないと思ったわけですが、印象的な3人をあげるとすれば・・・・与那覇潤(日本史)、家入一真(クラウドファンド&シェアハウス)、ハリス鈴木絵美(ネットで改革)あたりになります。与那覇先生は若いのにすでに老成したような歴史認識をお持ちで別格として♪家入一真さんがシェアハウスを運営する先験的な行動力がすごい♪また、美人でアクティブなハリス鈴木絵美さんが、ええでぇ♪それでは鈴木絵美さんのインタビューを見てみましょう。なんか、元気印が歩いている感じが、するのです♪社会課題に参加するきっかけをつくる ―ハリス鈴木絵美インタビュー(上)より ウェブで賛同者を募り、少しずつ社会を動かす「Change.org」。世界196か国、5000万人が利用する署名キャンペーンサイトが、日本でもユーザーを増やしている。社会を変えたい気持ちを形にするのは、意外に簡単。その成果も着実に生まれている。キャンペーンディレクターのハリス鈴木絵美さんに聞いた。 Q:日本のChange.orgは、2012年の8月に立ち上がりましたね。いきなり注目を集めたのは、「なでしこジャパンのロンドン五輪からの帰国時は男女平等にして頂きたい」というキャンペーンでした。男子のサッカー日本代表チームの移動フライトがビジネスクラスなのに、女子のなでしこジャパンがエコノミークラスなのはおかしい、という。ハリス鈴木絵美(以下、エミ):サイトを立ち上げてからほんの数日後でしたが、なでしこファンの女性2人がキャンペーンを発信し、2週間足らずで2万人以上の賛同者の署名が集まりました。イギリスのガーディアン紙が取り上げ、発信者もBBCにインタビューされるなど、とくに海外での反響が大きかったですね。結果として、合宿からの帰国便は男女ともビジネスクラスになった、という円満なストーリーでした。Q:エミさんの印象に残っている成功事例はありますか。エミ: わたしがいちばん好きなのだと、「フランクフルト空港税関が押収した堀米ゆず子さんのバイオリンを無償で返してください」という昨年のキャンペーン。世界的なバイオリニストである堀米ゆず子さんのバイオリンが、フランクフルト空港の税関で押収されてしまったときのケースですね。彼女の友人が日本語・英語・ドイツ語で発信し、5000筆を集めて駐日ドイツ大使に連絡を取ったら、無償で返還されました。Q:たしかに、署名集めというアクションが、確実に物事を動かしていますね。日本代表や各国政府を動かした事例が続きましたが、もっと身近なテーマのキャンペーンもあるんですよね。エミ:そうなんです。日本国内、たとえば大学内の課題解決もけっこうおもしろいものがあります。「北海道大学構内におけるレクリエーションエリア廃止の撤回」というキャンペーン。これは結果的に、大学当局と話し合いの場を設け、互いに歩み寄って落としどころを探るという目標が達成され、キャンペーンは成功となりました。次に、家入一真さんをウィキペディアで見てみましょう。家入一真より 家入を運営責任者とする『Livertyプロジェクト』によるクラウドファンディング型学費支援プラットフォーム『studygift』を、ブロガーのヨシナガと共同で立ち上げた。2007年には、第5回Webクリエーション・アウォード Web人賞を受賞ネットを駆使した行動力がすごいですね♪でも、ブログが炎上したりして、出る杭は打たれた経験があるようです。與那覇先生については、新著について触れていたので、再掲します。日本人はなぜ存在するかより<歴史の見方の「殻」を破る:原真人(本社編集委員) > 通説にとらわれない新鮮な日本史観を提示してきた気鋭の歴史学者が、こんども多くの読者が興味をそそられるであろう「日本人とは何か」というテーマに迫った。ありがちな日本人論を想定して読むと、その先入観はことごとくひっくり返されるだろう。 まずは「集団主義的な日本人」というイメージ、「日本の伝統文化の起源は奈良や京都」といった常識を次々と覆す。それも心理学や社会学、文化人類学などの研究手法をあの手この手で駆使してだ。 過去に「本当の日本人」を見つけに行っても見つかるわけがない、最初から実在していないのだから、と著者は言う。では“日本人”とは何か。著者が探ろうと試みるのはそれが存在するかのごとく人々を信じさせた「物語」がどうやって生まれたか、だ。 まるで哲学入門を読んでいる気分にさせられる本だ。そうか、歴史をたどるとは哲学的な作業だったのだ。歴史の見方の殻をまた一つ破ってくれた。與那覇潤、恐るべし。 ◇『日本人はなぜ存在するか』與那覇潤著、集英社インターナショナル、2013年刊 <「BOOK」データベース>より日本人は、日本民族は、日本史はどのように作られた?教養科目の人気講義が一冊の本に!【目次】1 入門編ー日本人論を考える(「日本人」は存在するか/「日本史」はなぜ間違えるか/「日本国籍」に根拠はあるか/「日本民族」とは誰のことか/「日本文化」は日本風か)/2 発展編ー日本人論で考える(「世界」は日本をどう見てきたか/「ジャパニメーション」は鳥獣戯画か/「物語」を信じられるか/「人間」の範囲はどこまでか/「正義」は定義できるか)<読む前の大使寸評>與那覇先生の日本人論とあれば、読まないといけないでしょうね♪rakuten日本人はなぜ存在するか
2014.01.05
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御節料理を食べあきたし、「インドカレーなんか食べたい」と思いたったので・・・三が日を自宅にこもっていた大使は、国内のインドカレー屋に向かったのです。名の知れた神社で新年を祈願するほどの義理もないので、今年は鉄人28号を前に、新春を寿いだのです。ドングリ国で復興のシンボルといえば、何といっても鉄人28号がその任にふさわしいのです♪以前には無かったけど、説明パネルも整備されています。説明文で中国向けに2種類(大陸&台湾向け?)書かれているのが…お・も・て・な・し、なんだろうね♪この地域は、神戸市内でも、震災を機に最も大きな変貌を遂げた地域であるが(説明パネル参照)・・・・この街が、復興しているのか、衰退しているのか?は、なんか微妙である。この地域の苦しい事情は神戸、大正筋の再々開発に表れています。というわけで・・・馴染みの店で、馴染みのカレー・ナンセット、ビールを所望した大使はご機嫌で帰還いたしました。
2014.01.04
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<朝日デジタルの書評から33>日曜日の朝日新聞に読書欄があるので、ときどき切り取ってスクラップで残していたのだが、これを一歩進めて、無料デジタル版のデータで残すことにしたのです。・・・・で、今回のお奨めです。・紅白歌合戦と日本人・英国一家、日本を食べる 今回は2作とも日本を対象としています。さっそく、図書館に借り出し予約するのもいいかもね。***************************************************************紅白歌合戦と日本人より<安住の地求める大晦日の儀式:保阪正康(ノンフィクション作家) > 本書の初めに、「私たち日本人が60年以上にわたって『紅白』を見続けてきたのは、そこに〈安住の地〉を見出してきたから」との一節がある。この〈安住の地〉が本書の中でなんども用いられる。末尾にもしめくくりの語として使われている。 この語には多様な意味が仮託されている。共同体、ナショナリズム、あるいは歴史という語をあてはめてもいい。1951年に始まった紅白はそれ以前に伏線があったこと(占領期のGHQの思惑にどう抗するか)などが語られ、紅白誕生の秘話なども明かされる。この歌番組の戦後史を辿ることで、著者は三つの試みを行っている。日本社会の故郷喪失と再生、戦後歌謡史の歩み、歌詞を通しての日本人の心情分析。紅組司会が宮田輝という男性アナウンサーになったとき、中村メイコという司会者が「等身大の主婦」であったとき、歌手が紅白出場を断らなくなったとき、過疎化する農村を意識しての紅白の村まつり化、人生応援歌で人びとを励ます紅白への変化など、この番組は時代の中でその役割を変えていく。 著者の調査は緻密、分析は具体的で、著者自身の心情も窺うことができるので説得力を持っている。巧みに戦後日本の正直な姿が語られていて驚かされる。たとえばしだいに軽くなっていく演歌に対して、77年の紅白で、ちあきなおみが歌った「夜へ急ぐ人」に司会の山川静夫が「何とも気持ちの悪い歌ですねえ」と感想を洩らした。この発言にこだわる著者の目は紅白の本質に迫っている。 このような分析は、永六輔、阿久悠の歌詞の紹介、フォークソングの語り口などにもあらわれていて、紅白歌合戦はまさに〈安住の地〉を求める日本人の大晦日の儀式であり、保守基盤の確認だった。 2012年の美輪明宏の「ヨイトマケの唄」の記述は感動的である。 ◇『紅白歌合戦と日本人』 太田省一著、筑摩選書、2013年刊 <「BOOK」データベース>より 今なお、40%台の視聴率を誇る、紅白歌合戦。「紅白」の歩みは、私たち日本人の歩みでもあった。美空ひばり、坂本九、山口百恵、都はるみ、SMAP、美輪明宏…。大晦日の夜、時代を彩る歌手が一堂に会し、その年のヒット曲を、懐かしの歌を、心に残る名曲を歌い上げる。 時代とともにそのあり方を変えながら、国民的テレビ番組であり続ける「紅白」に、私たち日本人は何を求めてきたのか。今日に至るまでの「紅白」の歴史をたどり直し、日本人の心の軌跡を描き出す渾身作!<読む前の大使寸評>評者の保阪正康さんがこの本を選んだとは、目のつけどころがええでぇ♪ 歴史に強い評者が、著者の時代を見る眼に感応したのではないか。今年の紅白では、女性のトリは大使好みの高橋真梨子であったが・・・なんか見直したぜ、紅白が成熟してきたのかな~♪rakuten紅白歌合戦と日本人英国一家、日本を食べるより<和食たたえる新鮮な描写:斎藤環(精神科医)> 私たちは「外人の眼から見た日本」ものが大好きだ。イザヤ・ベンダサンからポール・ボネに至るまで、この手の本の人気は常に高い。批判にせよ称賛にせよ、彼らの言葉はいつでも私たちの自己愛をくすぐってくれる。誰よりも日本を理解している私、という自己愛を。 しかし意外にも、“外人視点”から我が国の食文化に焦点を絞って書かれた本はこれまでほとんどなかった。著者は英国のフードジャーナリストだが、本書は単なる調査報告書ではない。妻子3人を引き連れての100日間の来日珍道中ものでもある。 東京から北海道へ、京都から大阪へ、そして沖縄へ。B級グルメから超高級の懐石料理まで、一家はひたすら食べまくる。いくつかの食材を除けば、和食は彼らの心を完全にとらえたようだ。 考えてみれば、日本が真に世界に誇りうる文化として、現在「日本食」以上のものはない。味覚の鈍感な(そう思われている)イギリス人が、日本の豊穣な食文化に圧倒されてひれ伏す姿が見たい、という向きにとっても本書は満足感を与えてくれるだろう。 しかし、意外と言っては失礼だが、著者の和食の描写にははっとさせられる点も多い。例えば大阪の餃子入りうどんのだし汁を絶賛する彼の描写は、「もぎたての豆のように甘く」だ。新しい語彙は私たちの味覚を豊かにしてくれる。本書にはそういう楽しみもある。 それにつけても残念なことは、著者が絶賛してやまない健康的な沖縄料理や、伝統的な和食文化の一部が失われつつあるという指摘だ。和食までも「逝きし世の面影」にさせないことは、著者から私たちへの宿題だろう。 ◇『英国一家、日本を食べる』 マイケル・ブース著、亜紀書房 、2013年刊 <「BOOK」データベース>より市場の食堂から隠れた超名店まで、ニッポンの味を無心に求めてー東京、横浜、札幌、京都、大阪、広島、福岡、沖縄を縦横に食べ歩いた100日間。<読む前の大使寸評>フランス人ならいざ知らず、味覚音痴と評されるイギリス人が100日間も食べ歩いたとは、ええ根性してるで♪rakuten英国一家、日本を食べる***************************************************************<asahi.comのインデックス>最新の書評を読むベストセラー解読売れてる本(新聞紙面のデジタル版はだいたい2~3日後にUPされています。)朝日デジタルの書評から32朝日デジタルの書評から(目録)
2014.01.04
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ブログのトップ画面に【今夜の一曲】を掲げて、気分によって載せ代えているのだが・・・・歴代の曲をストックから並べてみます。【新規追加】薬師丸ひろ子を追加しました。・知りたくないの・コニーフランシス 翻訳 甘く切ない歌声を・夜の歌といえばmea culpa(夜は恋人)ですね♪・Edith Piaf-La foule・青江三奈メドレー1はどや。大人の歌やでぇ♪・Das gibt`s nur einmalはどないだ。元気が出るでぇ♪・枯れ葉散る秋たけなわとなりましたが、La Bohemeでも聴きましょう・道頓堀人情 天童よしみ上方の根性を見せたりんかい♪・A demain sur la lune (1969)落ち込んでいるので、こんな明るさがいいかも♪・めまい小倉桂は天才だなあ、やっぱり♪・愛しき日々小倉桂は天才だなあ、やっぱり♪・泣きたい夜もあるだろうPink Martini feat. Saori Yuki - Mas Que Nadaでも聴いて、元気出してよ♪・泣きたい夜もあるだろう由紀さおりの手紙でも聴いて、元気出してよ♪・PPMの悲惨な戦争はどないだ♪・桃色吐息【in N.Y '93】高橋真梨子はどないだ♪・Parlez moi d'amourムスクーリ風のこぶしがええでぇ♪・青江三奈メドレー1はどないだ♪・泣きたい夜もあるだろう高橋真梨子 ワインレッドの心でも聴いて、元気出してよ♪・踊り子~村下孝蔵~はどないだ♪・泣きたい夜もあるだろう時代 中島みゆきでも聴いて、元気出してよ♪・復活した薬師丸ひろ子 Woman "Wの悲劇"は、どないだ♪*********************************************************************【掲載候補】・情熱の花・内気なジョニー/ジョニー・ソマーズ・カレンダー・ガール/ニール・セダカ・John Denver-Take Me Home, Country Roads・Toi Qui Regarde La Mer (papillon theme) / Nicole Grisoni・さくらんぼの実る頃・弘田三枝子 60'sメドレー*********************************************************************【カラオケの錆び落とし】:カラオケ禁断症状が出そうより・寺尾聰 - Re-Cool ルビーの指環・時の流れに身をまかせ・李成愛 カスマプゲ・思いで迷子 チョー・ヨンピル・サチコ ニックニューサ・「思案橋ブルース」中井昭・高橋勝 とコロラティーノ・長崎ブルース 青江三奈・青江三奈メドレー1・踊り子~村下孝蔵~
2014.01.03
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東京のシェアハウスでは、若者がネットで仕事をしているが、半径5mのような生活圏であり・・・その若者にとって「この国のカタチ」はどう映っているのだろう?昨夜の深夜放送でニッポンのジレンマ僕らが描く この国のカタチ2014を見たのだが、刺激的であった。若手アナの青山さん、若手リーダーの古市さんの司会で討論が進みます。与那覇先生の発言がクールであり、図らずもオピニオンリーダーという感があったのです♪与那覇先生が司馬遼太郎を讃えたところ(大使、喜ぶ♪)・・・若者たちから「司馬遼って誰?」という質問が速攻で殺到し、与那覇先生が嘆くわけですね(笑)「団塊あたりはまだ戦後を引きずっているが、今の若者は「戦後」という言葉さえ知らない。我々は、この断絶を埋める責任がある」・・・という旨、与那覇先生が述べていました。高校に行かなかった(つまり中卒)家入一真さんが、シェアハウスを運営し、クラウドファンドにまで手を染めていると映像での紹介があったが・・・すごい♪ソーシャル起業の仲暁子さんが、英語話者のメリットを強調し、「若者は英語を学べ」というふうな言い草があり、場からかなり浮いていた(笑)そこで、温厚な施光恒さんが、「英語も学ぶべきだが、母語を優先し、クレオール英語が世界標準になるべき」ととりなしていた。以下のご意見がありました。グローバル化(アメリカ化)の波に乗るのもいいが、ネットがある今は、広がりよりも地域ではないか。グローバル化はスピードを要求するが・・・速いことは、そんなに良いか?【出席者】青山:NHK司会、古市憲寿:司会、橋本奈穂子ちゃん:NHKキャスター江口晋太郎:編集者、与那覇潤:日本史、先崎彰容:思想研究、藤村龍至:ソーシャル建築、家入一真(中卒):クラウドファンド&シェアハウス、ハリス鈴木絵美:ネットで改革、仲暁子;ソーシャル起業、伊藤春香:αブロガー、施光恒:政治学者、白井聡:政治学者美人でアクティブ、鈴木絵美さんが気になるので・・・社会課題に参加するきっかけをつくる ―ハリス鈴木絵美インタビュー(上)を読んでみます。番組のタイトルにもなった「この国のかたち」です。【司馬遼太郎の「かたち」】関川夏央著、文藝春秋、2003年刊<「BOOK」データベース>より国民的作家・司馬遼太郎が晩年の十年間、その全精力を傾注し「文芸春秋」に書き続けた「この国のかたち」。さまざまな問題を提起したこの連載の原稿には、必ず編集長宛の手紙が添えられていた。それら未発表の書簡をはじめ、関係者の証言、膨大な資料の検証を通じて浮かび上がる、その痛烈な姿と「憂国」の動機。 <大使寸評>司馬遼に関しては最強の評論家と言える著者が、司馬遼に成り変り「この国のかたち」を説いています。Amazon司馬遼太郎の「かたち」
2014.01.02
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このところ鄭和に入れ込んでいる大使は、図書館で「中国が海を支配したとき」という本を借りたのです。とにかく、この本のタイトル「中国が海を支配したとき」が刺激的なんですね。【中国が海を支配したとき】ルイーズ・リヴァシーズ著、新書館、1996年刊<「MARC」データベース>より大航海時代に先立つこと数十年前に、ヨーロッパ艦隊とは比較にならないほどの大艦隊が世界の海を牛耳っていた。中国に出現した鄭和の艦隊の大航海と、蜃気楼のように歴史の舞台から姿を消すまでを描く。<読む前の大使寸評>1996年刊のこの本のタイトルが、今日的であることが気になるのです。amazon中国が海を支配したとき大使にとって、最大の謎とも言えるのだが・・・・帝国海軍の消滅、およびその理由あたりについて紹介します。<鄭和、最後の航海>よりp247~249 1430年にさしかかる頃、宣徳帝は帝国の朝貢貿易が目立って衰微している状況を憂慮していた。皇帝の理解するところによれば、国際社会で影響力を失ったことの一因はあきらかに安南経営の失敗にあった。そこで皇帝は、諸外国における帝国の威光を取り戻し、ふたたび「万国を客として迎える」ことを正式に宣誓する。強硬な海外遠征反対論者であった夏原吉が死んでまもなく、宣徳帝は第7次宝船航海の勅命を下した。1430年6月29日のことである。(文字数制限により省略) 60代に入っていた鄭和は、これが自分の指揮する最後の航海となるだろう、ということを悟っていたように思える。彼はそれまでおこなった大航海の成果を記録に残そうと、ふたつの石碑を建立した。ひとつは1431年3月14日の日付をもち、揚子江河口近くの劉家港に建てられたものである。もうひとつはやはり1431年の仲冬の吉日を選んで、福建省ビン江河口域に位置する現在の長楽県に建てられたものである。 長楽県に建てられた碑文の中で、鄭和は、「四海と天下を統一することにおいて」宝船の遠征が歴代王朝のいかなる海事上の達成をもはるかに越えたものであることを誇らしげに語っている。<宣徳帝急逝>よりp254~255 1433年7月、宝船艦隊は揚子江河口へ帰港した。7月27日、北京において、皇帝は艦隊の士官・船員一同に褒賞の衣服と紙幣とを授けている。宣徳帝は航海の首尾に満足していた。9月14日にはスマトラ、セイロン、カリカット、コーチン、ホルムズ、ズファール、アデン、さらに他のアラブ諸国からも大使たちが来朝し、奉天殿で馬や象、キリンなどを進貢している。キリンはふたたび聖獣としての麒麟と考えられ、礼部の役人が、このまことに貴重な進物を記念して公式に祝賀会を開くべきだ、と皇帝に提案した。しかし、祖父の永楽帝がかつてそうしたように、宣徳帝もこの提案をしりぞけた。このよろこばしい天意の表現を過大に解釈するのは無分別なことと思っていたのである。 「外国の産物それ自体に興味はない」と皇帝は述べた。「はるばる遠方から足を運んでくれた誠意をよしとするからこそ、こうしたものを受け取るのである。わざわざ祝う必用はない」(中略) 宣徳帝は、インド洋海域での朝貢貿易を復活させ、「万国を客として迎える」という目的を達成したかのようであった。第7次航海隊の帰還につづく数年間は、各国の朝貢団がひきもきらずに来朝してきたし、1435年のはじめ、病床に伏してまもなく宣徳帝が急逝したときも、そんなことでは中国の海上支配力はいささかも揺るがないように見えた。南京の龍江造船所は依然として生産可能な状態にあった。実際、宝船航海は1470年代にいたるまで何回となく計画されている。しかし、宣徳帝の崩御とともに、インド洋における中国の支配力は確実に引き潮に向かいはじめた。結局、鄭和が率いた第7次航海隊が、宝船艦隊の棹尾を飾る大遠征となる運命にあったのである。<海の時代の終焉>よりp255~258 最初、変化はほとんど眼に見えない形でやってきた。各国から使節団が訪問してくることに変わりはなかったが、1436年、南京の監督官が造船職人の数を増やすように朝廷にたびたび上申したとき、その要求はすげなく却下されてしまった。国民に対する負担を憂慮した結果、宣徳帝の後継者は船舶の建造を停止し、倹約を旨とする経済政策を推進したのである。1437年、琉球諸島からやってきた国王が、朝貢品を献上したあと新しい礼服を下賜されるよう皇帝に願いでた。これは明代に入って以来の習慣で、いつも皇帝は気前よく礼服を授けていた。琉球国王は述べた。この前いただいたものはすでに古びてしまいました。それに、今や渡航は危険かつ困難でありますから・・・と。ところが、皇帝は礼服をさずけるのを断ったのである。また、翌年、シャムの使節団がたずさえてきた真珠や金や翡翠の朝貢品が、広東の悪徳官吏ふたりによって略奪されてしまうという事件が起こった。(中略) 朝貢貿易体制の箍は少しずつ緩みはじめていた。外国使節団が山のような朝貢品をたずさえてくることはもはやなかったし、かたや皇帝の方も下賜品をいちいち出し渋るようになった。また、「使節団」とはいいながら、その正体はこれまでになく怪しい者が多くなっていた。(中略) 中国沿岸では地方市場が次々に発生し、そこでは一般庶民があたりまえのように外国製品を買っていた。朝廷は貿易上の独占体制をあきらかに失いつつあり、同時に、沿岸地方と外国勢力とが手を結んだら、中央の権威はいっそう掘り崩されてしまうのではないか、という怖れを抱いていた。そしてついに、明の帝国海軍は、外洋において貿易使節団に安全な航行を保証することがもはや不可能な状態に立ちいたる。 15世紀初頭、全盛期にあった明の大海軍は3500隻の船舶を擁していた。そのうち2700隻は海岸のいたる所に配置された沿岸警備局に所属する戦艦であり、加えて南京近くの新口江を基地とする400隻の戦艦が存在していた。残る400隻は武装した穀物輸送船である。セッ江省だけをとってみても、700隻以上のジャンク船からなる艦隊が存在していたのだ。しかし、1440年までにセッ江の船舶数はその半分以下に減ってゆき、15世紀半ばまでには最盛期の数分の一になってしまう。1500年には、3本以上のマストを備えた船を建造した者は死罪に処されるきまりなっていた。 1525年、遠洋航海船を見つけたらすべて破壊し、それに乗って海へ出ようとする商人は捕縛してよいとする勅令が沿岸当局に対して出されている。さらに1551年、南東沿岸に倭寇の来襲はげしいさなか、複数のマストを備えた船で海へ乗りだそうとする行為は、たとえ交易のためであっても犯罪とみなされることにきまった。こうして、わずか百年以内のうちに、それまで世界最大を誇った明の海軍はみずからに縮小を命じて消え去っていったのである。それにしても、なぜ?<捕虜となった正統帝>よりp258~260 この疑問に対しては、朝廷政治の動向がある程度の解答を与えてくれるはずである。すなわち、15世紀の中頃は、宦官勢力と儒者勢力とのあいだで皇帝をめぐる緊張が高まっていた時期だった。航海および海外貿易は伝統的に宦官たちがつかさどってきた領域であったが、かたや儒者たちはそうした事業に打撃を与えることで、敵対勢力の権威と収入の源泉とを絶やそうとしたのである。 宣徳帝の統治下において、儒者と宦官それぞれの権力が双方ともに強化されたことが、その後に生ずる軋轢の下地を作った。宣徳帝はショウ林院のメンバーを母体とする大学士の地位を引き上げ、単なる助言的集団であったものを、自立した力をもつ一種の行政機関(内閣)へと昇格させた。大学士たちは朝廷の根幹をなす6部の省が立案する政策を認否できる権力を握ったのであり、宣徳帝は彼らの意見を採用することがしばしばだった。その一方で宣徳帝は、宦官たちを宮廷内の学校で教育して文書処理の能力を身につけさせ、各省庁間でおこなわれる連絡の一切を任せた。宦官は、結果として、皇帝の耳に届かせるべき重要議題を取捨選択する実権を与えられたことになる。(中略) その人格的魅力と細心な監視とによって、宣徳帝はふたつの勢力をさばく手綱をうまく引き締めていたといえるだろう。しかし1435年に宣徳帝が36歳の若さで急逝したとき、まだ7歳であった皇太子がそうした采配をふるうすべを身につけていなかったとしても無理はない。年少にして皇位を継いだこの英宋正統帝の治世がはじまると、宦官は秘密警察の指揮権を握り、さらに軍務と財務を監督するという自分たちの役割を強化した。同時に彼らは、不正な商取引きをおこなったり税金をつり上げたりすることで、莫大な富を蓄積していった。知らず知らずのうちに、個人教師をつとめた悪名高き宦官・王振の人質になっているありさまだった。王振は、一介の局長の地位から帝国を動かす実質的な支配者にまでのし上がった宦官である。彼は中国の歴史上もっとも恥ずべき一時代を現出させた張本人であり、その国家経営は結果としてのちに明朝を滅亡に導く遠因を作ったといえよう。王振のとった政策は、危険を冒しても帝国の対外発展をめざすという永楽帝の哲学や、宝船の航海が象徴するあらゆる要素と対立するものであった。 王振の貪欲には限りがなかった。彼の家の倉庫には、もはや日常と化した政治的策略によって巻きあげた商品がうなっていた。彼は皇帝に献上されたモンゴル馬さえ横取りしている。さらに友人や親族を軍と行政の要職につけることによって、自分の行状に抗議する意見を封じこめた。ショウ林院学士の劉球が、雲南・ビルマ国教上での軍事行動に対して疑問を呈したことがある。すると、王振は彼を投獄した上、殺した。このあと、この専横な宦官独裁者にあえて逆らおうとする者はいなくなる。権力闘争の起源について、ナショナルジオグラフィックを再掲します。ナショナルジオグラフィック2005年7月号より 紀元1644年の明の崩壊までに、10万人以上の宦官が北京に暮らしたという。なぜそんなにたくさんの宦官がいたのだろう。当初、宦官の数が膨大だったのは、捕虜の少年と成人男性がしばしば去勢されたからで、おそらくその目的は捕虜の血統を確実に絶やすことにあった。 政府を運営する儒者官僚らは、常に宦官と権力争いを繰り広げていた。やがて宦官は、政府の最高幹部の権力闘争に加わるようになり、皇帝の交代に影響を与えたり、黒幕として政治を動かすことすらあった。彼らの権力は、王朝によって盛衰し、唐では強く、宋では弱まり、モンゴル民族の元と明で再び力を増した。 中国皇帝に仕えた最後の宦官は孫耀庭だった。彼は末代皇帝の溥儀に仕え、1996年に死亡した。中国が海を支配したとき2 :中国が海を支配したとき1 :明けまして、おめでとうございます
2014.01.02
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このところ鄭和に入れ込んでいる大使は、図書館で「中国が海を支配したとき」という本を借りたのです。とにかく、この本のタイトル「中国が海を支配したとき」が刺激的なんですね。【中国が海を支配したとき】ルイーズ・リヴァシーズ著、新書館、1996年刊<「MARC」データベース>より大航海時代に先立つこと数十年前に、ヨーロッパ艦隊とは比較にならないほどの大艦隊が世界の海を牛耳っていた。中国に出現した鄭和の艦隊の大航海と、蜃気楼のように歴史の舞台から姿を消すまでを描く。<読む前の大使寸評>1996年刊のこの本のタイトルが、今日的であることが気になるのです。amazon中国が海を支配したとき早すぎた文明とも評される中華であるが、中華の早すぎた貿易管理、汚職、テロ対策あたりを最新報道と絡めて紹介します。<鬼奴>よりp37~38 また唐の皇帝たちはこぞって朝鮮の女性に熱烈な執着をもち、後宮にたくわえるため「貢物」として所望した。小人やピグミーも船で船で連れてこられていたし、「ザンギ」あるいは「ゼンジ」という地名のアフリカ東海岸の土地からも黒人奴隷が運ばれてきていた。(中略) 9世紀以降、中国の資料にはアフリカについてのすぐれた記述がみえる。当時中国のジャンク船がまだアフリカに到達していないとするるなら、少なくともペルシャかアラブの商人を通じて信頼できる情報を得ていたにちがいない。(中略) 中国の奴隷貿易の実態は把握しにくい。人を奴隷にすることは刑罰の一環として漢代からおこなわれていたため、隷属の身分となる男女はいつも国内にあふれていたにもかかわらず、広州の「ほとんどの富裕な家庭」では、門番として「鬼奴(黒人奴隷)」と言われていた。アフリカ出身の奴隷はほとんど牛馬と変わらないあつかいを受けた。重い荷をかつぐのに使役され、また、「まばたきひとつせず泳ぐ」と信じられていたので、水の漏る船を修理する潜水工として酷使された。おそらく、その多くは中国へ到着してもそう長くは生きられなかったにちがいない。腸の障害に苦しむアフリカ人を描写した記録が残っている。中国人は、調理した食物にアフリカ人が慣れないからだろうと考えていた。<広州の外国人>よりp39~40 国境を出入りする物品の流れは、8世紀に南部沿岸の広州に設置された市舶司という役所が仔細に監視していた。そこの長官はどうみてもたいした理由もなしにしばしば関税率を変えるので、不満をもつ商人がベトナムへ移ったりした。輸入品の四分の一は役人のふところに入るしくみになっていた。輸出用の船荷は密輸防止のため二重にチェックされた。中華の貨幣、女性、そして奴隷が「夷狄」の民へ渡らぬようにするためであるが、一部でひそかに輸出されていたことは疑いない。腐敗した役人たちは規定以上の関税を取り立て、ときにはみずから私設の船団を組織して密貿易をおこなうこともあった。 約20万人におよぶペルシャ人、アラブ人、インド人、マレー人が7世紀の広州の町に居住していた。商人や職人、あるいは金属細工師としてである。外国人たちは仕事の上でも居住環境の上でも中国人と交流を深めたとはいえ、ことあるごとに両者のあいだに緊張した状態が発生した。おそらくそれは差別的な法律が一因だったのだろう。 たとえば628年に発布された法令では、外国人が中国人の女性を妻とした場合、本人は中国に帰化することが義務づけられている。外国人が遊び半分に中国の女性に手を出すのを防ごうというわけだ。また799年には、ウイグル人が中国人の女性に言い寄ったり、みずからを中国人と名のったりすることが法律で禁じられ、ウイグル人は民族衣装を着るように強制された。さらに836年には、外国人が国内に土地家屋を所有すること、中国人と同居することを禁止している。 外国人の繁栄を蓄財を中国人が不快に思うことは当然あっただろうし、同時に広州に住む外国人にしても、猫の目のように変わる関税率と差別的な法律にうんざりしていたことは想像に難くない。それにしても、758年にアラブ人とペルシャ人が広州で起こした騒乱に火をつけたものが正確に何であったのかは、よくわかっていない。彼らは暴徒と化して倉庫を荒らし、中国人の家屋を焼き打ちし、広州の知事を市から追い出した。しかし結局は外国人側も、本土から南に海峡を渡ってすぐの海南島に逃げこむことになった。この事件で中国側にどれほどの死傷者が出たか記録に残されていないが、手痛い経験ではあったらしく、このあと皇帝は50年間にわたって外国人を港から閉めだしている。 878年には、中国側がたまっていた不満を爆発させた。黄巣という逆臣の率いる勢力が、重税と堕落した官吏とに我慢ならず広州を占領し、多くの中国人を殺害したばかりか、約12万人にのぼるユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、そしてゾロアスター教徒を殺したのである。シーラーフ出身の十世紀アラブ人作家アブ・ザイドは、長びく混乱の中で中国の反乱者たちが好き勝手に制裁と虐殺を働き、アラブ人とペルシャ人とを迫害したさまを書き残している。それによれば、「災いはシーラーフやオマーンの船長や水夫までにおよんだ」。黄巣は最後には捕縛されたが、この事件は唐朝の瓦解を告げるものとなり、あとには小国が覇権を争う時代がつづく。 シーラーフやウブラーのにぎやかな店では、長い航海を終えた船員たちが集まっては、延々と自分の経験した冒険譚を吹聴しあっていた。これが、やがてシンドバッドの物語としてまとめられることになる話の発生源である。「おれはお日さまが生まれる海を見てきたぜ」と話ははじまる。「空から落っこちた巨人の指輪みてえな珊瑚礁も踏んできた。浅瀬やデルタやらいろんな群島やらで稼がせてもらったね。サラハットからセレンディブに渡って、コマリにもケラにも行った。こっちから生姜やら樟脳やら龍涎香、それから象牙と真珠をもっていけば、あっちで絹とかシナモンとかよく効くクローブとかに交換してくれるのさ」・・・当時は、外国人との共生を阻む法整備が進んでいたようですね。斯様に、周辺民族と緊張を生む歴史が続いていたようで、これが中華の非寛容なマインドを形作ったと思うわけです。そして、ここまで読んでくると、中華の人種差別あるいはコロニアリズムには年期が入っていることに思いあたり・・・・さすがに中華、と暗澹とするわけです。一方、遅れてきた日本と言えば、朝鮮・満州経営で初めて帝国主義的スキルを持ったわけで、このあたりが円熟した中華や大英帝国と違うようです。ここで、現代の朝廷とも言える中国共産党の少数民族対策を最新の報道に見てみましょう。ウイグル自治区の騒動は、はたして「暴力テロ事件」と言い切れるものか?12/31新疆で武装集団射殺 中国当局、警察署襲撃の8人より 中国新疆ウイグル自治区西部のカシュガル地区ヤルカンド県で30日午前6時半ごろ、なたを持った9人の武装グループが警察署を襲撃したと、自治区政府系ニュースサイト「天山網」が伝えた。当局側は8人を射殺し、1人を拘束したとしている。 同サイトによると、武装グループは爆発物を投げつけ、警察車両に放火したという。武装グループの民族名や事件の背景は公表されていない。中国外務省の秦剛報道局長は30日の記者会見で、「暴力テロ事件」との認識を示した。 同自治区ではこれまで、漢族とウイグル族の対立を背景とする事件が相次いでいる。2009年7月に区都ウルムチで起きた大規模騒乱では、当局発表で197人が死亡、1600人以上が負傷した。今回の詳細は明らかになっていないが、民族対立に根ざした事件だった可能性がある。 カシュガル地区では今月15日、警察と武装グループが衝突する事件があったばかり。警官2人が死亡、武装グループの14人が射殺された。11月には刃物を持った9人のグループが派出所を襲い、全員が射殺された。同地区では人口の約9割をウイグル族が占める。 首都北京の天安門前に車が突入した10月の事件では、炎上した車内で死亡した3人と、のちに拘束された5人はいずれもウイグル族とみられている。当局は「ウイグル独立派組織が関与した組織的なテロ」と断定した。 同自治区では政治経済の主導権を漢族が握っている。ウイグル族には、イスラム教の自由な宗教活動が認められないとの不満がある。中国当局は天安門前の事件を受け、テロ対策を名目にしたウイグル族への締め付けを強めているとされ、ウイグル族の反発が一層広がっているとの見方が出ている。げに、漢人の非寛容さと、ウイグル人の抵抗はいつまで続くのでしょうね。話は少しそれて、現在の移民問題であるが・・・外国人奴隷を持つまでに至らなかった日本帝国主義は、現在の日本に微妙な影響を与えたと思うのです。つまり、現代の日本には移民を受け入れるマインドは育っていないというか、少数派のようです。少子化では世界の先端を走る日本であるが、将来的に移民の受け入れ無しで、やっていけるんでしょうか?中国が海を支配したとき2 :中国が海を支配したとき1 :明けまして、おめでとうございます
2014.01.01
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明けまして、おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。年越し用として図書館で借りた5冊ですが、「中国が海を支配したとき」をメインに読もうと思っているのです。とにかく、この本のタイトル「中国が海を支配したとき」が刺激的なんですね。…では、年を跨いで読んでいるこの本を、最新報道と絡めて紹介します。【中国が海を支配したとき】ルイーズ・リヴァシーズ著、新書館、1996年刊<「MARC」データベース>より大航海時代に先立つこと数十年前に、ヨーロッパ艦隊とは比較にならないほどの大艦隊が世界の海を牛耳っていた。中国に出現した鄭和の艦隊の大航海と、蜃気楼のように歴史の舞台から姿を消すまでを描く。<読む前の大使寸評>1996年刊のこの本のタイトルが、今日的であることが気になるのです。amazon中国が海を支配したときこの本の冒頭部のさわりを、一部紹介します。著者の中華を見定めるスタンスが感じられるけど、ええでぇ♪<夷狄の民>よりp30~32 2世紀以降、漢王朝の隆盛にともなって儒教は上層階級の道徳規範となり、同時に形を整えつつあった封建官僚制度の基盤となった。華南の大部分をはじめて統治下においた漢は、皇帝の政治的・道徳的権威を強化し。同時に諸王の力を抑える切り札として、儒教を国教に採用した。孔子は、皇帝こそ天と人とを媒介する存在であるという、商(殷)に起源する古代的観念を主張したにとどまらず、さらに、真の支配者たるものは「社会を徳で感化する」存在だと述べている。 漢の皇帝たちは1種のアカデミーを設置し、儒教の普及に努めた。そうした風潮のもとでたちまち公務と農業こそが徳ある人間の就くべき職業として称揚されてゆ一方、商業や交易は本質的に堕落した行為として貶められることになった。商人は社会的に職人の下に位置する階層とされ、ぜいたくをいましめる法律によって上質の絹服を着てはならない存在とされたのである。 3世紀、漢王朝の没落に引き続く混乱した時代の中で、華北一帯における交易活動は、皆無とは言わないまでもきわめて限定されたものでしかなかった。まずは生きのびるのが先決という状況にあっては、異国に対するさまざまな好奇心が育たなかったのも無理はない。後漢が滅亡したのち、分裂した各地方勢力はその後400年間を絶えざる戦争状態の中で過ごすことになる。7世紀のはじめにいたって、ついに李家が覇権をおさめ、隋の後を継いで618年に唐を建国する。唐の軍勢はモンゴル地方にいた東トルコ系の諸民族を破り、満州南部および朝鮮を支配下に置いたのち、今度は西に向かって進み、現在の新疆(ウイグル自治区)にあたる地にいたトルコ人たちを制圧した。 こうして成立した大帝国は、その内部にトルコ人、ウイグル人、ペルシャ人、アラブ人、そしてインド人といった多数の「夷狄の民」を抱えこむことになった。中国は人種のるつぼとなったわけだが、そもそも唐の皇室自体にトルコ人の血が混じっている。当時の中国人はこうした異国の民について知りたくてうずうずしていながら、一方では外国人に対する儒教的な疑惑がその好奇心に歯止めをかけているという状態にあった。 このふたつの相矛盾する感情は、荒れ狂う海の波のようにめまぐるしく両極を行き来した。それをもっともはっきりと示した場所は、ほかならぬ長安にあった唐の朝廷であろう。異国人のまねをしたかと思えば次にはそれを唾棄すべきものとし、惜しげもなく歓待したかと思えば次には迫害するということを繰り返していた。ジャレド ダイアモンドの中国観をなぜ中国は眠れる獅子だったのかで紹介したが、このルイーズ・リヴァシーズさんの中国観も、なかなかなもんやと思うのです。ここで、現代の朝廷とも言える中国共産党の海洋政策を最新の報道から見てみましょう。覇権のための新ルールを目指しているようだが、その自己中なマインドが果たして通用するでしょうか?12/25航行の自由、異なる思惑 日本・中国より■日本、あいまいさに利点 「何としてでも『航行の自由』を入れてくれ」 10月9日にバンダルスリブガワン(ブルネイ)で開かれた日本と東南アジア諸国連合(ASEAN)の首脳会議。安倍晋三首相は直前まで、議長声明の文言を巡って各国との調整に走る外務省幹部に発破をかけた。 首相は昨年12月の就任以来、外国首脳との会談などの場で「航行の自由」の重要性を訴えてきた。東シナ海や南シナ海に大量の漁船を送り込んだりして周辺国を威圧している中国への牽制であるのは明らかだった。 ブルネイでは親中派の国が尻込みしたが、なんとか議長声明に盛り込ませることができた。 さらに、12月14日の日本・ASEAN特別首脳会議では、議長声明より格上の共同声明に「航行の自由」が明記され、行数も増えた。「ブルネイが下地になった」と外務省幹部。 「航行の自由」は、海のルールである国連海洋法条約(UNCLOS)の根幹であり、太平洋を仕切る米国の金科玉条だ。ただ、米国と日本との間には微妙な温度差がある。 米国は、沿岸国に水産資源の探査・開発の権利を与えている排他的経済水域(EEZ)でも他国は軍事活動を原則としてできる、と繰り返す。 対して、日本政府は「他国のEEZ内でも軍事的活動はできる」と公言するのは避けてきた。2003年に参議院で当時の外務省北米局長が、国連海洋法条約の「自由だが沿岸国に妥当な配慮が必要」という条文をなぞった。それが公式見解だ。 対中外交の交渉の余地を残しておきたいためだ。 海洋問題に詳しい海洋政策研究財団の秋元一峰・主任研究員は「『あいまい』にプラスの面がある」と指摘する。 日本の最南端、沖ノ鳥島を巡って中国は「島ではなく岩だ」と主張している。「島」と認められると周りは日本のEEZとなる。沿岸国のEEZでの他国の軍事的活動は規制される、との立場の中国の海軍は、周辺海域での活動を自粛するしかなくなる。米軍の拠点のグアムなどの情報を集めるのも難しくなる。■中国、新ルールめざす 米国と中国のEEZをめぐる対立の歴史は浅い。1982年に国連海洋法条約が採択されてからだ。 海洋ルールづくりが本格化したのは第2次大戦後。58年に領海や公海に関する条約が採択された。60年代になって先進国と途上国の対立が起きると、新興の独立国が水産資源の権利を主張。それまでの条約を見直して一本化する形で国連海洋法条約の交渉が73年に始まり、EEZの創設につながった。条約づくりでは、すでに海洋大国だった米国と旧ソ連が、軍事活動に不可欠な「航行の自由」が脅かされないよう領海の範囲をあまり広げない方針で一致し、交渉をリードした。 同志社大学の坂元茂樹教授は「航行や上空飛行の自由を制約されたくない先進国と、小国なので脅威を減らしたい途上国のせめぎ合いだった。このため、軍事的な活動との兼ね合いも十分に考慮されて作られた」と話す。EEZで経済的な権利だけを与えることにしたのもそのためだった。 一方、中国は出遅れた。「当時は海洋法の研究は十分ではなく、交渉の最初のころは法律の専門家も入っていなかった」と上海社会科学院中国海洋戦略研究センター主任の金永明氏。不満が募り、EEZでの他国の軍事活動の規制を正当化するようになる。 EEZは新しい法的概念のため、「条文にはあいまいなところがあり、一部は自国に有利に解釈できる」(金主任)。実際、中国と同じようにEEZでの航行の自由に否定的な立場を取っている国はブラジルやインドなど約20ある。 米国の海洋専門家の多くは「中国は大きくなり続けるため、航行の自由を尊重していくようになるだろう」(元米海軍大佐のカーレトン・クレイマー氏)とみている。 ただ、アジア太平洋安全保障研究センター(APCSS)のジェフリー・ホーナン准教授は「中国に変化を期待するのは容易でない」と楽観論をいさめる。 「中国がEEZの管理を強めたいのは、西側諸国に植民地支配されてきた歴史的な背景がある。欧米主導のルールとは異なる新たな海洋秩序を目指している」■摩擦、防空圏に飛び火 11月23日午前10時(日本時間同11時)。「海」の緊張が「空」に飛び火した。中国国防省が突然、日本の領土の尖閣諸島の上空に防空識別圏(ADIZ)を設けたのだ。 ケリー米国務長官はすぐさま「東シナ海の現状を一方的に変えようとする行為だ」と批判。日本も「一方的な措置は認められない」(岸田文雄外相)と色をなした。日米も周辺にADIZを設定しているが、中国は一方的で、内容も強制的だったためだ。 通過するすべての飛行機に飛行計画などの提出を義務づけ、指示に従わないと軍が緊急措置をとると言い切っていた。 中国は「ADIZは領空ではない」(国防省)と国際法に沿った姿勢をみせている。 ただ、中国は以前から、「EEZでの軍事活動を規制するな」という米国に対し、「米国は本土から遠く離れた公海上にADIZを設け、飛行する場合には自国に目的地などを事前通知するよう求めている」(上海交通大学の薛桂芳教授)と反論してきた。 ADIZは沿岸国が管轄できる空域と我田引水の解釈をし、海と空を連携させて米国に対抗しようとしてきたのだ。今回のADIZは、中国流EEZの空中バージョンといえる。 中国は、米国と旧ソ連が主導した海のルールに納得していない。APCSSのホーナン准教授は「ADIZの問題はEEZの話と似ている。中国は空でも新たな秩序をつくろうとしている」と指摘する。 中国国防省はADIZ設定について「軍の能力や国の政治状況を総合的に判断し、ふさわしい時期に発表した」と説明。南シナ海にも設ける方針だ。 東シナ海と違って南シナ海は中国大陸から遠く、大陸にある対空監視施設のカバー範囲に限界がある。このため、中国空軍が全域で情報収集や警戒監視・偵察をするのは難しく、すぐには設定できない、との見方もある。(寺西和男、倉重奈苗=北京、奥寺淳=ワシントン、織田一)◆キーワード <国連海洋法条約> 海洋のルールを包括的に決めた条約。166の国・機関が批准し、「海の憲法」とも呼ばれる。海洋を、沿岸国の主権が及ぶ「領海」、領海の外にあり、沿岸から200カイリ(約370キロ)までの「排他的経済水域(EEZ)」、どの国の領海とEEZにも含まれない「公海」に区分。EEZでは、沿岸国に天然資源の開発などの権利を認めている。米国は批准していないが、国際慣習法として順守する立場だ。
2014.01.01
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