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『信長公記』の著者・太田牛一は天正9年(1581)8月、おそらく安土城で信長がこう発言したことを記録した。『今度毛利勢が後詰に出づれば、信長もみずから出馬して東国の人数をもって西国勢にまみえ、一戦を遂げてことごとく討ち果たし、この日の本を一挙に平定する所存である(本朝、滞りなく御心一つに任せらるべきの旨)』これは秀吉軍から毛利攻めに参加を呼びかけるプロパガンダによって広められた。信長の朱印状ではなく、秀吉や官兵衛、信長軍のすみずみまで、「信長さまの意思はこの通りである」と流布させたのだ。信長も「甲府の武田はすでに空中分解、最大のライバルの毛利に大勝利することが一挙に天下を平定することになり、もはや関白太政大臣となっても、大きな反抗勢力はなくなる」と明確にイメージしていたのだ。だから安土城を建設した後、天皇を京都から遷座するための「御幸の間・皇居」をしつらえ、それを部下や民衆に一般公開したのだ。しかも、信長本人が太田牛一ら参観者みんなを出口で立って待ち受け、入場料をみずからの手で受け取り、賽銭のように後ろに投げたと生々しく『信長公記』は記載している。一方の光秀は。同年の甲州攻めに参加しているが。丹羽長秀らは戦勝の後、草津温泉で休暇をとるように命令が下された。しかし、光秀には何もない。光秀は甲府まで何をしにいったのか。東美濃・明智城主でありながら、信長に反逆して、甲府に逃亡していた飯羽間(イイバサマ)右衛門は賞金の黄金めあての農民たちに捕らえられ、首を斬られた。光秀もそれを見ていたであろう。裏切り者の最期はこのように凄惨だった。『信長公記』は、光秀謀叛の下りに、「信長公を殺して、自分が天下の主になろうとした」という牛一の推定を加筆している。しかし、そこには特に根拠となる資料は付加されていない。熊本大学永青文庫研究センターの細川藤孝に宛てられた光秀の書状には、信長を殺した自分には、もともと天下を左右する野心はなく、情勢が落ち着いたら引退するつもり だと書かれている。これこそ、同時代の研究者がもっとも注目すべき事実の記述だ。つまり、光秀はもとから信長を殺した後、天下を支配するというはっきりとした信念はなかったのだ。それが本音、あとはまとまりのない犯罪者のうそだらけの幻想にすぎない。四国攻めに集結していた丹羽長秀軍は、長宗我部の軍勢が渡海して上陸すれば、なんとかなる。毛利攻めにかかっていた秀吉軍は足止めを喰らい、そう簡単に反攻には出られない。天皇がいる京都にゆっくりと構えていれば、両軍とも背後を衝かれる危険はせず、日和見に流れるのではないか、希望的観測はしたものの、やがては追い詰められていく運命は自覚していたようだ。このあたりは犯罪心理学からの解説がもっとも信頼できる。自分の生命さえ助かれば、信長の後の権力の座は、誰がすわってもいい。信長が最高権力者になったら、みんな困ったはずなんだから、そういう自己弁護に終始してしまい、いったい何をどうしたいのか、見えてこない。そこにはルイス・フロイスが嘆いたような、光秀の裏切りを好む不安定な虚栄のキャラクターがそのまま現れていると結論したい。光秀は、このままでは自分が殺されるという確信に基づいて、本能寺事件を起こしたのだ。さて、光秀の書状を受け取った細川藤孝は、どうして光秀に寸分の同情も示さなかったのか。光秀はまず長岡京の勝龍寺城を奪い取り、最重要拠点とした。もちろん、藤孝にゆずりわたすつもりで、細川軍に秀吉、丹羽長秀の反撃に対処させようとしたのである。しかし、光秀の書状が届く前に藤孝は家督を忠興にゆずり、剃髪した。それは「もはや誰の命令にも従わないぞ」という難い拒否反応だった。それを光秀は聞いて数日間、怒りまくったと書いている。光秀は、藤孝と昵懇の間柄と信じて疑わなかったわけだが、藤孝は光秀のキャラクターをもともと好ましいとは思っていなかったと推察される。それは信長の勝龍寺城召し上げの原因はそもそも光秀にあったからだ。天正6年(1578)、光秀と藤孝は丹波黒井城の攻囲を続ける一方で、守護一色義道の丹後に侵攻した。 翌年(1579)、義道の悪政に不満を爆発させた丹後の国侍衆の相次ぐ寝返りで居城の建部山城(舞鶴西港)も落城。義道は逃亡中に自害した。しかし一色勢はまだ奥丹後(丹後半島)三郡を実効支配しており、黒井城の陥落、丹波平定まで丹後の制圧は後回しにされた。そうこうするうちに家督を継承した一色義定は、弓木城(宮津市と天橋立を挟んで対岸の丹後半島東岸の与謝野町)で残党を率いて抗戦を始めた。藤孝は宮津に築城する許可を信長から取り付け、天正8年(1580)再び丹後に進攻するが、ここで光秀が加勢と称してやってくる。義定の父、義道はもともと光秀・藤孝とともに、足利義昭の奉公衆の仲間。旧友というほどではなかったにせよ、元同僚だ。「戦う必要はないじゃないか」こうして丹後の北半国である中郡・竹野郡・熊野郡は一色義定の領有が信長から認められ、藤孝は政略結婚によって和議を結んだ。自分の娘・伊也(いなり)姫を一色義定の妻に差し出したのである。しかも藤孝は加佐郡・与謝郡の南2郡の領有にとどめられた。藤孝は悔しくてたまらなかったであろう。ボクシングで、さあ相手をノックアウトで倒してやるぞ、という瞬間に、後ろのセコンドがタオルを投げ込んできて、試合を終わらせたのだ。娘を敵方の妻に差し出すなど、あからさまな全面降服のやりかたではないか。すべては光秀のエゴから出た策略だった。この翌年、一色義定は光秀のはからいで天正9年(1581)の京都馬揃えにも主役の一人として参加、藤孝の子、忠興は岐阜中将信忠の奉公衆の扱いだった。そして、その直後に勝龍寺城を召し上げられた。宮津城の向こう岸にある弓木城はわずかの間に盛んな城下町を形成、その有り様を藤孝はどう眺めただろうか。本能寺事件の後、義定は山崎の戦いで光秀に加勢。戦後、秀吉から義定による追討命令が下り、隠居だと田辺城(舞鶴)に移動していた藤孝は俄然たち上がり、みずから偽計で義定を招き寄せ、宮津城内で謀殺した。その際、城内に詰めていた一色の家臣や城下の雑兵100人も討ち取り、弓木城も降伏、開城。藤孝はやっと伊也姫をとりもどした。それでも藤孝の心は決して癒えることはなかったであろう。
Feb 25, 2015
今年、「本能寺の変」直前の長宗我部元親の手紙が岡山県立美術館「戦国大名 宇喜多氏と長宗我部氏」展で公開され、2月4日放送のNHK歴史秘話ヒストリアで紹介された。その内容は、本能寺事件の直前に元親が、光秀の家臣で肉親の斎藤利三を通じて、降伏命令を受け入れるというものだった。実際に元親は光秀に使者を送り、和睦したいと信長に申し入れている。これは直ちにはねつけられた。すでに摂津有岡城の荒木村重、大和信貴山城の松永など、元親のような謀叛人の仕置きは定まっていた。本人自害、家族斬首、首は京都市中にさらし、領地は没収。この仕置きに異論をはさむ者も謀叛の加担者として連座処分される。つまり、光秀と斎藤利三は、この連座責任にひっかかったのだ。この書状がそれを証明している。これに先立つ天正3年(1575)、土佐を統一した長宗我部元親は織田信長に同盟を求めた。この時信長は元親に「四国は切り取り次第所領にしてよい」という朱印状も出したという。 天正8年(1580)6月、元親は阿波岩倉城の三好康俊を服属させたことを信長に報告した。また今後の阿波征服のため、康俊の父、三好康長が長宗我部に敵対しないように働きかけてくれるよう依頼、いずれも了解を得た。この頃は光秀が取次役として元親・信長の交渉窓口となっていた。 ところが、三重大学の藤田達生教授によると、同じ頃、三好康長と羽柴秀吉が急接近。その目的は、当時交戦中だった毛利氏に対抗するため、三好氏に旧臣を束ねさせ、瀬戸内海の水軍で加勢させるためだったのではないかと推測する。天正9年(1581)3月、三好康長は秀吉の支援を得て讃岐から阿波に入り、長宗我部に抵抗をはじめた。同年6月、信長は長宗我部氏と三好氏が協力することを求める朱印状を各諸侯に出す。ここから秀吉に押しきられる形で、信長の四国政策が急転換する。 長宗我部氏に圧迫された阿波の三好氏、十河氏、伊予の諸侯は信長に救援を求めた。これに対して、信長は元親に土佐一国と阿波南半分の領有のみを許し、他の占領地は返還するよう命じた。しかし元親は、自分の四国征服はかつて信長が認めたことだとはねつけた。明智光秀は石谷頼辰を派遣して元親を懸命に説得したが、天正9年(1581)後半に織田・長宗我部の交渉は決裂。同年前半に京都馬揃えで信長の面目をほどこして見栄をきった光秀は、一転して四国担当を更迭され、一時無役となった。家康の馳走役など、そもそも大名の仕事ではない。実は長宗我部氏と毛利は密かに協調関係にあった。信長の四国政策の変更は、元親が四国を統一したとたん、毛利を支援して裏切りに出るのではないかという疑惑の確信に基づくものだった。実際、讃岐(香川県)に侵攻した元親は同年9月、毛利の使者を迎えて同盟を結んだ。この情報をつかんだのは、秀吉の軍師、官兵衛孝高である。官兵衛は先祖から引き継いだ売薬の販売ルートから瀬戸内海一円に情報を通知するネットワークをはりめぐらせていたのだ。そこで元親に対抗する伊予(愛媛県)の諸侯は、官兵衛を通じて、中国攻めの陣中にあった秀吉に人質を差し出した。直ちに秀吉は官兵衛に淡路攻撃を指示した。翌10月、秀吉は淡路志知城に進出していた官兵衛に、長宗我部氏に抵抗する勢力に兵糧・弾薬の補給を命じる。もちろん、これは信長の承諾を得てのこと。これが長宗我部征伐の始まりだった。もう引き戻しはできない。11月中旬には秀吉も淡路に渡り、籠城した由良城の安宅貴康を降した。黒田家所蔵の備前長船祐定の名刀「安宅切」は、切腹した貴康の首を孝高が介錯、斬り落としたものである。天正10年4月には塩飽諸島も能島村上氏から離反して秀吉に属した。これは信長の四国政策の変更が、秀吉と官兵衛が策したものという背景の事情を示すものである。明らかにライバル明智光秀の長宗我部調略の功績を狙い撃ち、ぶち壊してめちゃめちゃに排撃するものだった。さて光秀は京都馬揃えを通じて、信長が太政大臣になる助けをして、ほとんど実現するところだったのだが。しかし、秀吉は「いま急ぐことはありません。まず毛利と長宗我部を打ち破り、九州地方を平定し、おおかた日本全土を制覇してから関白をお受けになられてはいかが」と消極的に意見する。このままでは光秀は皇室を擁して信長第一の家臣とされるにちがいなかった。それは絶対に邪魔しなければならない。ここに官兵衛が知恵を出し、毛利と長宗我部の懸案を持ち出したのである。こうして信長は「時期が悪い」と官位昇進を差し止め、最後の征服戦争に本腰で乗り出した。天正10年(1582)5月、信長は三男織田信孝を総大将に四国方面軍を編成、四国攻めを指示。三好康長は先鋒として阿波の反長宗我部勢力を糾合。 5月29日には信孝軍は摂津住吉(大阪市住吉区)に着陣、摂津大坂、和泉岸和田に集結した総勢あわせ1万4000の侵攻軍は6月2日に四国へ向けて出航する予定だった。しかし、当日朝に本能寺の変で信長が死亡したため、作戦は立ち消えた。そこで本能寺事件の原因の一つは、明智光秀がこの四国侵攻を阻止するためではなかったか、という説明(桐野作人氏など)があらわれている。私はこの四国説を《孫子兵法》の立場から全面的に支持賛同する。その裏面には確かに軍師・官兵衛の光秀追い落としの悪意が仕込まれていた。秀吉は信長とともに毛利を打ち破り、九州を平定して、京都に凱旋。関白太政大臣の官位をいただき、ついに並ぶものなき天下人となる。いっぽう「捨て石作戦」で、山陰道を進んだ光秀軍は出雲因幡の国境で毛利の最後の抵抗に遭遇、敗戦したとたん、ただちに陣中で目付役から上意討ちの命が下り、命乞いも許されず、斎藤利三ら重臣たちとともに首をはねられるのだ。光秀は戦慄した。「このまま官兵衛に殺られてたまるか」
Feb 18, 2015
たまたま最近、2月4日のNHKヒストリアの長宗我部元親の斎藤利三宛て書状のことを知り、桐野先生の労作のことを知りました。また、本能寺事件の直後に細川藤孝宛て光秀書状が東京の永青文庫で公開されたことも聞き知り、戦略シミュレーション研究の観点から、この問題に興味を持ちました。結論は、光秀が四国侵攻を阻止するため、本能寺事件を起こしたことを確認し、また光秀が命じられた山陰道攻略が堅い出雲の防衛に滅亡必至の捨て石作戦で。信長自身は秀吉と山陽道を下関まで突進し、毛利を制服して凱旋、関白太政大臣となり、二条新造第にいた誠仁親王を新天皇に即位させ、安土城に行幸させて天下に号令する、という《本能寺事件がなかった場合》のシミュレーション結果から、光秀はこれも阻止しようと行動に出たと判断しました。細川書状から推理するに、光秀は、長宗我部との交渉に失敗して元親が毛利と同盟したことで、信長から裏切りもの扱いをされたこと、もし山陰道で敗戦したら切腹も許されずに上意討ちで首をはねられるという恐怖に切迫していたと想定します。したがって、従来の《光秀は怨恨によって信長に復讐した》という考え方は根本的に間違いだと考えます。光秀は、自分が虫けらのように殺されるだろうという浅ましい恐怖から、やむなく信長に反撃したのです。
Feb 18, 2015
伊達政宗の先祖は鎌倉時代初期、奥州合戦に従軍した戦功により源頼朝から現在の福島県伊達郡の地を与えられた初代・伊達朝宗だった。だから秀吉が「国替え」という方法で諸大名の根拠地を奪ったとき、山形県米沢市に本拠があった政宗は伊達郡への復帰を切望した。信長が光秀に「惟任」という名を与えたのは、明智城のある東美濃の形勢(1574)から光秀の執着を奪い、丹波方面の攻略(1575)に専念させるためだったと考えられる。天皇の諮問で名前を決めたのは、おそらく「惟神(かむながら)の道」を説く光秀の友人(藤孝の従兄弟)の公卿・吉田兼見だろう。兼見は比叡山攻略前に吉田神道(神仏混合)の指導者として、信長から「寺を焼いてもいいか」と相談を受けていることを日記に自慢している。つまり「惟任」は任務に集中しろという皮肉な名付けだ。このころの光秀の出世ぶり(安土城対岸の近江坂本の築城など)は、朝倉討伐以来、ずっと極寒の北越に置かれていた家老格の柴田勝家さえ嫉妬するほどだった。しかし、前述のように丹波計略は最初からつまずいた。しかし、黒井城の包囲や波多野の裏切り、光秀の敗走といった織田軍の面汚しの記録は、『信長公記』にはいっさい書かれていない。光秀が部下を見捨てて生命からがら京都の大路に逃げ帰った、などという記述は『信長公記・天正四年正月条』にはどこにも書かれていない。ただ安土城の建設が本格的になって、それらの盛大なありさまが美辞を連ねているだけ。削除されたか、それともあまりの信長の怒りぶりに記録するのをはばかったか。吉田兼見の日記、『兼見卿記』に記されているだけなのである。ルイス・フロイスが「信長は光秀を足蹴にしたことがある」と書いているが、まさにこの時のことだろう。これは重要なことだ。その場で信長が直ちに怒りに任せて光秀の首を斬らなかったのは、「まだ使い道もあるだろう」とじっと我慢をしていたのだ。その後は足蹴にするのも穢らわしいと思ったか、少しのことに激怒すると、近習の森蘭丸に鉄扇で殴らせている。これはひどい恥辱だ。ルイス・フロイスの記述は、キリスト教団側の偏見に満ちているという批判はあるが、彼ら歴史の第三者、つまり庶民層にまでも「光秀の悪評判」がそのように広まっていた、という事情を軽視してはならない。よく光秀の本能寺事件の動機を探る人々は、信長の仕打ちに「怨恨を抱いて復讐した」という見方に偏りがちで、これが最も害を及ぼしている。つまり、歴史のなかに、フィクションを含めて、もっともらしい怨恨の理由を探して回るのだ。今回の永青文庫研究センターの解説も「光秀怨恨の理由がどこかにあるか探せ」という暗黙の伝統的な命題に影響されていると思われる。人間は殺人事件を犯すとき、必ず怨恨が動機で事件を起こすものだろうか。何か動機があるはずだと、下手な推理小説のように理屈をつけようとすることが愚かしいのだ。怨恨は個人の感情である。そのような怨恨はまわりの人々には理解されない。だから「光秀は信長にいろいろな怨恨があったから、本能寺事件を起こしたのだ」と決めつけるのは、もう止めなければならない。その逆の意味で、永青文庫の光秀書状を見直すのが私の立論である。光秀はいつも悪夢に怯えていたのだ。いつかまた黒井城みたいに大敗したら、その時はすぐ信長の命令で、森蘭丸たちがやってきて、今度は鉄扇ではなく、御太刀で頭蓋を叩き斬られるだろうと。よしんば敗戦で、山陰道攻略の主将である自分が陣中で切腹をする間もなく、罪人のように叩き斬られたら、部将である藤孝・忠興はどうなるだろうか。光秀は「このまま信長に天皇と天下をとらせたら、われわれの首は最初の犠牲になるところだったんじゃないのか」と藤孝に痛い胸中を明かしたのだ。
Feb 17, 2015
もとは明智光秀の失敗が原因だった。元亀元年(1570)、但馬(兵庫県北部)の生野銀山(1542発見)をもつ守護・山名祐豊と、隣国の丹波(兵庫県中部)の大名・赤井直正が国境の小競り合いから合戦となり、赤井軍はすすんで但馬側の竹田城(いわゆる日本のマチュピチュ)などを陥落させた。両者はもともと信長に服従をしていたが、調整はつかず、天正3年(1575)末になって光秀が丹波の地侍(現地の豪族)を集めて赤井氏の本拠、黒井城を圧倒的な軍勢で包囲した。ところが翌天正4年正月、黒井城(北近畿豊岡自動車道・春日JCT付近)の入り口にあたる八上城(篠山市)の波多野秀治が攻城戦の最中に突然謀叛を起こして背後から襲撃したので、光秀軍は総崩れになって京都市中に敗走した。この戦いで、赤井直正は「丹波の赤鬼」という異名で天下一の武将と称えられ、織田軍は京童にも嘲られた。光秀の戦歴をいろいろ検証すると、加勢の合戦はだいたい勝利しているが。単独の制圧戦はこのようにうまくいかないことが多かった。これは光秀の性格に由来するものかも知れない。補佐役として主人の脇の甘さ、他人の欠落は指摘できる。しかし、自分自身は隙だらけなので、いつまでたっても一本立ちできない。「のぼうの城」武州忍城をしくじった石田三成もそういう男だった。光秀がもっとも目覚ましい働きをしたのは比叡山焼き討ちだった。10日前の9月2日付けの『和田秀純宛て光秀書状』では、比叡山に近い宇佐山城への入城を命じつつ「仰木の事は是非ともなでぎりに仕るべく候」と現在の大津市仰木町の一般市民を虐殺するように指示している。こうして光秀は宇佐山から日吉大社の奥宮を襲撃し、逃亡してきた女や子どもをもろともに焼き殺した。これは比叡山の僧兵たちが破戒淫乱を極めていた証明となり、織田軍は皇室に対しても大義名分を得ることができた。しかし比叡山延暦寺と対立していた園城寺から進出した光秀軍は、民家を放火殲滅をしながら侵攻したので、逃げ惑う多数の避難民を巻き添えにしただけではないかという疑問もある。しかも夜襲に驚いて、ほとんど抵抗せずに屈伏して逃げ惑うばかりの相手。それでも功績随一とされた明智光秀は近江坂本を領地として与えられた。光秀が何といいわけしようと、正親町天皇の実弟・天台座主を追いやった罪は黙した皇室の心深く刻まれていたと考えねばならない。いっぽう、座主が必死に逃亡するのを道をあけて許したのは秀吉だった。光秀が再び丹波に進出したのは天正6年(1578)3月。ここで信長の命令により、長岡(細川)藤孝も加勢に出た。八上城は麓から200mを越す山城。光秀は八上城をだらだら包囲を続け、付近の諸城の各個制圧した。4月には滝川一益・丹羽長秀らの増援を受ける。しかし当時、秀吉も播磨国三木城に膠着、信長も荒木村重が叛旗をあげた摂津国有岡城、石山本願寺などに包囲され、光秀も前の失策に懲りて優柔不断から八上城総攻撃が決行できなかった。 その間に藤孝は守護・一色義直に反抗する國人衆に導かれて丹後武部山城(舞鶴湾西港)を攻略した。天正7年(1579)2月、黒井城の赤井直正が病床にあるとの内通を得て、光秀は再び丹波に進出した。数年の包囲で八上城は兵糧が欠乏、餓死者も出ていた。兵庫県立歴史博物館所蔵の信長朱印状は同年4月13日、但馬の豪族に宛てた内容で「赤井忠家、赤井直正に荷担した罪を赦免し、去年以来より織田方に一味した者の身上は異論なく扱い、当知行も安堵するので、光秀と相談して益々忠節を尽くすように」とある。こうした赦免状を何十枚も国中にばらまいて、少しでも赤井の勢力を削ごうとしたのだ。6月1日、城主に不満をついに爆発させた城兵が波多野秀治を捕え、光秀に引き渡した。すでに黒井城の直正は3月に病死していた。夏8月、ようやく光秀は孤立した黒井城を攻撃、陥落させた。残存兵力の掃討に手間取り、光秀、細川藤孝らが安土城の信長に丹波平定を報告したのは10月24日。翌天正7年(1579)に信長は丹波を光秀に、丹後を藤孝に与えた。それでも藤孝にとって勝龍寺城は何としても失いたくない場所だった。だから名門の細川姓をやめて「長岡」と改姓したのだ。武家は姓を発祥の地名と位置づける。家康は愛知県豊田市の松平地区を本貫地とした。松平氏の先祖をさかのぼると、群馬県太田市の新田氏の支族、徳川氏につながる。それで家康は清和源氏の末裔と称し、征夷大将軍の地位を要求できたのだ。同じように毛利氏は鎌倉幕府を支えた大江広元の末裔で神奈川県厚木市内の毛利地区が本貫、武田氏は意外にも茨城県ひたちなか市武田地区が本貫の河内源氏(大将軍頼政の子孫)だという。秀吉は父親は無名、妻ねねの実家・木下氏がかろうじて藤原氏の末裔なので、猿を守護神とする比叡山の日吉大社になぞらえ木下藤吉郎と称した。それで将軍ではなく、後に関白・太閤という高位を極めた。明智光秀の本貫は愛知県可児市明智、明智氏は尾張守護の土岐氏の支族で、足利一門の末裔。その明智城はたびたび近隣の駿河にいた武田軍の侵攻を受けた。信長は「気にするな」という気持ちからだろうか「惟任」という姓を天皇から拝賜させ、惟任日向守と呼ばせた。それにしても光秀という男、合戦には弱いという定評は折り紙がついてしまった。ルイス・フロイスは光秀についてこう書いている。「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」「裏切りや密会を好む」「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」「主君とその恩恵を利することをわきまえていた」「自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた」「誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関してはいささかもこれに逆らうことがないよう心がけ」「彼(光秀)の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者が信長への奉仕に不熱心であるのを目撃して自らがそうではないと装う必要がある場合などは、涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった」「刑を科するに残酷」「独裁的でもあった」「えり抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた」「殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかった」まさにそういう人物だった。
Feb 15, 2015
いま改めて『信長公記』を読み返してみると、安土城を建設した後、楽市楽座で移住人口を増やす政策をとっていた時期、織田信長はそれまで奉行など役人に任せていたであろう町の中の喧嘩にまで介入し、部下を投入して決着をつけさせている。清洲にせよ、岐阜にせよ、そこは旧市街があり、町役となる地域自治のリーダーがいたが。安土城下はだれがリーダーになるのか、先に移住したもの、あとから来たもの、入り乱れた状態であった。毎日のように、あちこちで喧嘩があり、その一部は信長の耳目にもふれた。いわば新都市の規律を細かく整備していったと考えられるが。法華宗と浄土宗が対決した《安土宗論》はもともと街中で説法をしていた浄土宗の高僧に、法華宗の庶民がいいがかりをつけたことに始まる。高僧はその論難を相手にせず、「きみたちの指導者、法華宗の高僧が出てきたら、正々堂々の議論をしてさしあげよう」と応じた。「あの騒ぎは何だ」と城下のありさまを聞きつけた信長は、浄土宗と法華宗の高僧たちをみずから召集し、さらに他宗の高僧を審判に任命、武装兵に警護させ、争乱にならない手筈を整えた。すでに比叡山や本願寺を叩きつぶした後の信長は、ルイス・フロイスが嘆いたように、完全な無神論哲学に固まっていた。しかし、学問と知識は尊重していた。この安土宗論で、法華宗の高僧に勉強不足が発覚すると、勝った浄土宗には褒美を出し、法華宗の者たちには見せしめに市民の嘲弄にゆだね、「もう他の宗派に論争はしかけない」と宗門代表の謝罪誓約書も提出させた。しかし、こんなに気前よく褒美ばかり出していると、さすがの信長もポケットマネーに困り出した。そこで、せっかく移住してきたものに、非行をとがめて財産を没収したり、罰金や上納金を出させて罪を赦したりした。ある富豪は盲目でもないのに金貸しに興味を持ち、目が不自由な人々の集まりに賛助金を出して「検校」というタイトルを買った。検校は目が不自由な人々(座頭)を代表して、その職業をあっせんして、利益をあげる専業を公認された地位。目が不自由ではない健常者がこんなことをやっていいのか、と座頭たちが連名で安土の奉行所に訴えた。最近、大学生のチームが「何十年も閉店しないのに、毎日、閉店セールをやっている店」を調査して、消費者庁に陳情書を提出したが。いまも昔も似たようなものだね(笑) 奉行から報告を受けた信長は、義憤にかられたのだろう、「そのうそつきを召し出せ」と命じた。非行を責めて打ち首にしてやる、というつもりだったのだろうが。にせ検校が謝罪して、財産を差し出すと赦免している。あれあれ。信長は近隣のものに呼びかけて、城内で相撲大会をやった。ところが、優勝者に褒美をやろうとしたのに、ポケットマネーがないという。そこで、非行で財産を没収したものの屋敷を褒美に出すことにした。織田信長さん気前よすぎて金欠で苦しんだこともあったのだね。戦費ばかりかけて働きの悪い光秀に激怒したり、「上様金欠」の内情を察して、さっそく戦地から戦利品を届けた秀吉に高笑いしたり。信長も中小企業から大組織に急成長した経営者として喜怒哀楽の苦労していたんでありますよ。
Feb 13, 2015
この議論は永青文庫研究センターの問題提起から始めたものなので、主に細川藤孝の周辺から、本能寺事件の経緯を再考することにしよう。さて勝龍寺城の召し上げの問題は天正9年(1581)の記事の後、唐突に『信長公記』に登場する。「すでに南丹後を領有したのだから」という理由だが、この交換は細川藤孝の納得の上とは思えない。信長は細川家知行の再検地を命じ、京都所司代の部下二人に城郭を接収させたのだ。まるで合併した企業の破綻処理だ。勝龍寺城とはどういう城なのか。勝龍寺城はもともと大和(奈良)と河内(大阪)に勢力を持っていた三好氏が支配していた城だった。永禄11年(1568)9月、義昭を奉じて上洛をする途上の信長に、三好と対立する松永久秀が謁見、圧倒的な軍勢の前に落城、三好氏は四国(徳島県)に逃亡した。このとき勝龍寺城はいったん廃墟になった。さて元亀2年(1571)正月から、足利義昭はあちこちの大名に密書(御内書)を送りつけ、前年に信長に対抗した浅井・朝倉に味方をするように説得する運動を始めた。義昭の側近だった藤孝はすぐに「公儀御逆心」と信長に状況を詳細に通報した。これが藤孝文書の第1号の背景である。天皇がいる京都を押さえている信長は、反抗する勢力はすべて賊軍として討伐できたから、あえて義昭を泳がせ、御内書にそそのかされた相手が攻めてくるのを待つ戦略をとったのだ。これは孫子兵法の基本原則の一つ、何度も相手に犠牲の大きい長距離の行軍をさせ、何度も進出した軍勢を追いかえすことによって、本国そのものを疲弊させる、というもの。『曹操注解・孫子の兵法』(273-4ページ)そこで同年、信長は細川藤孝に山城西岡(長岡京市)一帯を領地として与えた。これは信長の比叡山焼き討ち(9月)の直後である。当時の公卿たちは昼夜燃えさかる比叡山の地獄絵と、ひどい有り様の難民たちをみて怖れおののいていた。もちろん正親町天皇おんみずから信長に会うことさえはばかるようになった。焼き討ちで逃亡した天台座主は天皇の実弟、覚恕法親王。これでは困るのだ。そこで信長は細川藤孝を立て、天皇周辺をなだめる役を命じ、あわせて京都洛外の守護に藤孝を任命したのである。それは足利義昭の周辺をより厳重に監視させるためでもあった。同年10月14日の信長より藤孝宛て『印判状』には 勝竜寺要害の儀に付て、桂川より西の在々所々、門並に人夫参カ日の間申し付けられ、普請あるべき事簡要に候、仍って件の如し 織田信長(印判) とあり、桂川より西にある家のすべては3日間の労働に出て、城の改修作事にあたるように信長自身が命じている。つまり築城の資金は、信長が負担したのだ。これによって勝龍寺城は2重の堀をもつ堅固な城となった。このことは藤孝にとって最もうれしいプレゼントだったに違いない。この勝龍寺城のことを、先祖筋にあたる南北朝時代の細川頼春が最初に築城した小龍寺の遺跡だと断定し、自分も細川姓をやめ、地名に合わせて「長岡藤孝」と自称したほど。こうして藤孝は信長の信任に応えるようになった。彼は当初、足利義昭を将軍に擁立して、足利幕府を再建しようとしていたが、義昭のいびつなパーソナリティ、嘘つきで気弱なのにヒステリックに怒りっぽい気まぐれな性格、人をとことんまで見下す人徳の欠如に飽き飽きしていたと思う。元亀3年(1572)10月、信長はついに義昭に詰問17条をつきつけ、「あんたのやってる小細工はみんなお見通しなんだよ」と駄目を押した。翌年、義昭は武田信玄が救援にくると信じて、二条城で反乱を起こしたが、すでに信玄は死んでいて甲斐武田が軍が動かせるはずもなく、たやすく撃破され、京都を追放された。しかし、これで藤孝の重要性、信長にとっての利用価値は一つ欠けた。 明けて天正2年(1574)、武田信頼の軍営は、信長の《孫子兵法》の逆手をうち、辺境の小さな山城を包囲して、激怒した信長を誘き出し、疲弊させる戦略に変更した。戦果のない連戦に欲求不満を募らせた信長は、京都にきて、天皇に請願して、正倉院を開封、名香・蘭奢待を切り取る許可を得る。細川藤孝が、この一件にどう関わったかを記す文献は一つもないが、藤原道長(1019)、源頼朝(1195)、足利義満(1385)、足利義政(1465)と重ねて、勅許を得て皇室の重宝を伐りとる意義を知っている人物、天皇にそれを認めさせる説得ができた人間はそう多数はいない。藤孝だけだ。こうして信長はかつて松永久秀の居城だった奈良市内の多聞山城を訪れ、噂に聞いた4重の天守閣と豪壮な城郭を見た。余談だが、かつて松永は築城(1560)にあたり、まず60mほどの小山の上に天守閣の建造を始め、それから近隣の富裕な豪族たちに土地を分譲して外郭を固めた。これはいまのディズニーランドとほぼ同じ建設方法である。後に織田信長が安土城を建設したときも、同じ方法がとられた。この蘭奢待事件の後、しばらく信長は藤孝の立場の変更は捨て置いた。しかし、天正8年(1580)にいたり、信長は藤孝・忠興父子に丹後の一色氏を攻めるように下知した。藤孝にとってついに避けられない試練の時が訪れたのだ。
Feb 13, 2015
細川藤孝は、本能寺事件の年、すでに織田信長政権にとって、光秀と同等に「無用の長物」の扱いを受けていた。なぜなら、信長は自分自身が平清盛に習って太政大臣になろうとしていて、正親町天皇の皇太子・誠仁親王に自分の京都の邸宅だった二条第を譲っていた。 だから本能寺を宿舎としたわけだ。光秀の心情はともかく、信長が本能寺事件の直前にやろうとしていたことはほぼ状況が解明されている。信長は、天正9年(本能寺事件の前年)初めに安土で爆竹祭りである「左義長」を挙行した。特筆すべきは、この祭りに信長はすでに太政大臣に内定していた近衛前久を招待したことである。この盛大な祭りを聞いた朝廷側が、ぜひ京都御所の近くで再現してほしいと求めた。すると信長は応諾しつつ、さっそく直轄軍団とともに上京。 2月28日、京都の内裏東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行った(第一次京都御馬揃え)。このとき、信長は細川藤孝から献上させた聖徳太子ゆかりの蜀江錦を陣羽織に仕立て着用していた。朝廷側の驚愕と動揺を確認した信長は、3月5日に名馬500余騎馬をもって再び馬揃えを挙行した。洛中洛外を問わず、近隣からその評判を聞いた人々で京都は大混乱になった。 3月7日、天皇は信長を左大臣に推任。3月9日にこの意向が信長に伝えられ、信長は「正親町天皇が譲位し、誠仁親王が即位した際にお受けしたい」と返答した。朝廷はこの件について話し合い、信長に朝廷の意向が伝えられた。3月24日、信長からの返事が届き、朝廷はこれに満足した。だが4月1日、信長は突然「今年は金神の年なので譲位には不都合」と言い出した。朝廷は困惑した。もともと信長が平氏を自称していたが、馬揃えのとき織田軍は平清盛と同じ旗印を用いていた。朝廷側はこれを「左大臣ではなく、信長は太政大臣の地位を要求している」と解釈して、信長の意思を確認した。その反応は秘密にされていたので記録はないが、2月に太政大臣に就任したばかりである近衛前久が5月に辞任してから、空席となっている。本能寺の変後の翌年7月17日に羽柴秀吉から毛利輝元に宛てられた手紙において、秀吉が信長のことを「大相国」と呼んでいる。信長は死後、太政大臣贈官が10月に提起され、その宣命には「重而太政大臣」の語句があるので、信長は本能寺事件の時点で太政大臣の就任について、誠仁親王への譲位と同時に応諾すると返答したことが推論されるのである。さて光秀はこの馬揃えの主宰として参加したが、実は細川藤孝は参列も許されず、丹後の宮津城にいた。しかも馬揃えの後、『信長公記』によると、信長は「細川には丹後の半国を与えたから」として、細川家の旧領だった勝龍寺城(長岡京市)をかなり強制的に接収した。このとき、丹後は北半分に旧領主で信長に降伏した一色氏が許されて残存していた。藤孝は織田政権のもっとも辺境に追いやられ、本拠地だった城(息子の細川忠興とガラシャの幸せな新婚生活の地でもある)を奪われた。明らかにこの措置は、正親町天皇にもっとも親しく、その譲位強請に異議をもっていた藤孝に対する冷遇と考えられるのである。
Feb 13, 2015
さて、後れ馳せながら、熊本大学の永青文庫研究センターのみなさん、そして稲葉継陽先生の業績に心からの敬意を申し上げたい。しかし、書状の文言の解釈はすべての真相を明らかにするものではない。歴史資料は、いわば点である。足場になりうるかは、点の数で決まる。違う方向、位置にある2点(歴史資料)が存在すれば、それは有力な説、3点以上が一致すれば、それは限りなく真相に近い。現代の政治家の記者会見の発言だと思えばいい。よく政治家は「真相が間違って伝えられたが、私の真意はこうだ」と発言の解釈を説明する。しかし、その真意の説明は、マスコミの一方的な解釈に対する反論であり、自己弁護なのだから、素直に読み取れないことは言うまでもない。光秀は真意を語っているかもしれないが、大袈裟に物事を語り、嘘をついているかも知れない。それは書状だけでは読み取れない。しかし永青文庫研究センターのチームは、「光秀の山陰道攻略に、丹後の細川家も全軍をあげて協力するように」という信長の絶対命令があったことを明らかにした。それを光秀は拒否した。しかも、信長を殺害して山陰道攻略作戦を中止することが、「私もそうだし、細川家にとっても、存亡の瀬戸際だったはずだよ」と哀願したわけだ。光秀の山陰道攻略が、信長の戦略全体では「捨て石」だったことは間違いない。実際に信長は、秀吉の山陽道攻略に参加するために京都に短期滞在していた。いわばトランジットで京都で対策を練っていたという立場。高松城の水攻めの報告はすでに秀吉から詳細に届いている。毛利はほとんど全軍を投入して、高松城の近くに布陣していた。したがって毛利の本拠地だった出雲(島根県)と安芸(広島県)は手薄な状態。山陰道から光秀が一気に乱入したら、高松の毛利本陣の背後をかく乱するわけで、毛利は防戦の窮地に立たされ、本国に撤退を余儀なくされる。そこまではいい。しかし、本国撤退は毛利も計算のうち。山陰道を攻め込んだ光秀軍は、もとの領主にして姦雄・尼子経久が針ネズミのように砦や出城を配置した出雲領内で蜘蛛の巣網にかかった蜂のように身動きがとれなくなる。そこに広島の領地を捨てた毛利軍が攻め入ったら、光秀と細川の山陰道攻略軍は完全に殲滅されるだろう。すると、秀吉と信長の総攻撃軍は、一気に安芸(広島)から長門(山口県)まで軍を突進させる。毛利は光秀軍を撃破した後に、改めて信長と出雲・石見(銀鉱山あり)の線引きで和睦する、これが孫子兵法の戦略シミュレーション解析である。信長はあえて「お前は死んでこい」という命令を下し、それに細川藤孝を巻き添えにしようとした。だから光秀は「信長の殺害は、細川家の存亡のためでもあるのだ」と言い張ったのだ。しかしなぜ、細川藤孝を信長は光秀といっしょにお払い箱にしようとしたのか。足利義昭を追放して、完全に京都を軍事占領、大阪の石山本願寺も滋賀の比叡山も叩きつぶした信長は、安土城に天皇を遷御する準備を整え、実際に清涼殿など天皇の御座所となる施設を建設していた。京都に天皇がいて、たくさんの公卿たちに囲まれている状況であれば、細川藤孝のような博覧強記の天才は活躍の場がある。つまり、天皇から意のままの詔勅を出してもらうためには、天皇の文書を管理する立場の公卿たちをうまく操縦しなければならない。もともと細川藤孝はそういう立場だった。しかし、信長は光秀とともに細川藤孝を切り捨て、「お前はもう捨て駒だから必要ない」と決めつけていたようである。本能寺事件の数ヵ月前からの書状は、まったくの命令書であり、つまり信長の官僚機構から通達された無機質なもの。稲葉教授はそのことは確認できるはず。信長自身の命令でもなく、すでに発動されていた山陽道攻略優先の作戦手順で、中央本部の作戦会議が信長の承認を得ながら動いていたと。天皇を京都から強制移動させ、言いなりになる公卿たちだけを同行させれば、もう公卿の引き付け役の藤孝はいらなくなるわけである。実際にいらなくなったのだ。だから京都から追い出され、丹後に左遷されたのだ。その理由は、藤孝が天皇の安土城遷幸の構想に異議を申し立てたからであろう。後に、黒田官兵衛が秀吉の韓国征伐に異論を唱え、逆に前線にいけと命令されたように。加えて、毛利には足利義昭がいた。義昭がいる毛利を攻めろという絶対命令は、まさに藤孝の異心を実検するため、信長が突きつけた無理難題だったのだ。
Feb 13, 2015
今日2月12日、日本テレビ系列で「くりぃむしちゅーの歴史新発見 信長59通の手紙を解読せよ」が放送された。熊本大学永青文庫研究センターの歴史資料研究の活動、信長の手紙の解読と研究の過程を垣間見ることができたのは面白かった。しかし、稲葉継陽(永青文庫研究センター長)教授の見解は非常に慎重なもので、一次資料である信長の最後の手紙、本能寺事件の1ケ月前の文面で、「丹後の細川藤孝は、山陰道の総大将、明智光秀の別命を待て、と信長から直接指示された」と指摘。光秀が細川軍を指揮する立場にあったことで、信長が光秀を不当に扱ったという定説のほとんどは、「すべて一次資料によらない伝聞に基づくもので、必ずしもそうとは言い難いのではないか」と疑いを向けられていた。あんまり目立たない意見だが、定説に異議をつけることは、実は歴史学者としては乾坤一擲の勝負というところだろう。さて本能寺事件の後、細川藤孝は信長の死を悼んで、ただちにチョンマゲを断ち切って、家督を長男の忠利にゆずり、その妻ガラシャ(光秀の娘)を丹後の山奥に幽閉した。これは光秀と盟友だった藤孝が、「光秀、きみとはいっしょにやれないよ」と関係断絶を一方的に宣言したに等しい。 ここで細川藤孝がどんな人物だったかを再確認する必要があるだろう。彼はまず足利義昭を奈良の興福寺から脱出させ、越前まで落ち延びたが、光秀と提携して織田信長と交渉。ついに足利幕府の再興をなしとげた人物だ。つまり、天皇、公家、武家のそれぞれを分権して顔を立てる役割をつけて配置する当時の中央政府機構の複雑な組織図が描ける知恵者だったということ。この時代の公卿と公儀(将軍)が尊重したルールブックはすべて過去の先例の記録。いまでいう裁判所の判例集と同じもの。気位の高い公卿たちは、知識豊富な細川藤孝に「これは、あなたたちの偉大なご先祖、藤原道長公も同じようになさったことですよ」と先例でダメ押しされると、不満も言えないわけ。これは光秀にはできない。だから光秀は藤孝が必要だった。光秀の三日天下と言われる新体制構築の不如意と迷走は、すべて藤孝の不参加が原因。だから秀吉は清洲会議の直後に血判状を書いて、藤孝に新体制の信任を懇願した。藤孝は戦争しか知らない黒田官兵衛とはちがう当時最高の知恵者だったことの証明だろう。さて、本能寺事件のあと、1週間ほどしてから明智光秀は細川藤孝に書状を送った。そこには、「今回、信長を討った理由は、藤孝さん、あなたとあなたのご家族のためでもあるのですよ。そのことはわかってるでしょ」みたいな内容が書かれていた。もう僧籍に入って引退隠居の意思表示をした藤孝に対して、「やっぱり、あなたがいないとやっていけないよ」と光秀が本音で哀願した手紙だったのだ。この内容の解釈について、稲葉継陽教授は「歴史にifはありませんから」と言葉を濁した。なぜ、光秀は本能寺事件の理由を「藤孝さん、あなたのためでもあるんだから」と恩着せがましく書き込んだのだろう。稲葉教授に代わって、孫子兵法からの解析で、この明智光秀の理屈を読み解いてみよう。【2】につづく。
Feb 12, 2015
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