JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.12.25
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カテゴリ: 国内旅行
「己巳役海軍戦死碑」を後にし、往路と同じ坂を戻り「咬菜園跡」の手前を左折し
「旧ロシア領事館」方面に向って進む。
途中眼下の展望が開け「函館どつく㈱ 函館造船所」が見えた。



そして「幸坂」通りに突き当たると左手の坂の上には「山上大神宮」の鳥居が見えた。



「幸坂」の下り方面を見る。



正面にあったのが「旧ロシア領事館」。



「旧ロシア領事館
安政元年(1854年) 12月の日露通好条約に基づき、安政5年(1858年) 9月初代領事
ゴシケーヴィチ一行が着任、実行寺に領事館を置いた。万延元年(1860年)、元町の現ハリストス
明治36年(1903年)、現在地で領事館の建設が始められたが、翌年の日露戦争で中断し、完成した
のは明治39年であった。この建物は明治40年の大火で焼失するが、その直後から同じ場所で
再建工事が始まり、同41年暮れに完成した(現在の建物)。
ロシア革命後、大正14年(1925年)からはソ連領事館となったが、最後の領事ザベーリエフが本国に
引揚げた翌日の昭和19年(1944年) 10月1日、領事館は閉鎖された。
昭和39年(1964年)に外務省から函館市が建物を購入、翌年5月から「函館市立道南青年の家」
として近隣町村を含めた青少年宿泊研修施設として使用されたが、平成8年(1996年) 7月
「函館市青少年研修センター」の開館により、その機能は終了した。
設計はドイツ人建築家のR.ゼールで、レンガ造り2階建ての本館は、玄関に唐破風を用い、
日本的な意匠が加味されている。」



「景観形成指定建築物等之證 平成元年三月一日指定 函館市」



レンガ造り2階建ての本館は、玄関に唐破風を用い、日本的な意匠そのもの。



「旧ロシア領事館前より「幸坂」を見る。



「幸坂」を下って行くと左手にはこの後に訪ねた「真宗大谷派 函館別院 船見支院」の
大きな墓地があった。



ピラカンサスには真っ赤な実が、そして歩道にも落ちて。



そして左に曲がり進むと左手にあったのが「真宗大谷派 函館別院 船見支院」の
巨大な楼門が。
楼門の土台がレンガ造りというのが珍しいと感じたのであった。
「実行寺 の東にある寺で、元町の東本願寺函館別院の墓地を管理するために建てられた
寺であると。



「本堂」。




「東本願寺函館別院船見支院
船見支院は、日本最初の鉄筋コンクリート寺院として名高い元町の東本願寺函館別院の墓地を
管理するため、明治37年(1904年)に建てられたもので、現在の建物は大正15年(1926年)に
完成した。
この寺の墓地には、安政3年(1856年)幕府が箱館に設置した諸術調所(洋学の高等教育専門機関)の
教授役で、五稜郭や弁天台場を設計監督した武田斐三郎の妻、美那子夫人の墓がある。
当時、箱館の町名主を勤め、内間町(現末広町)に雑貨店を開いていた小島又次郎(ペリー来航時の
記録「亜墨利加一条写」の著者)の妹で、斐三郎が来箱した翌年の安政2年(1855年)に嫁いだが、
8年後の文久3年(1863年)27歳の若さで病没した。
また、安政3年(1856年)日本最初の西洋型船「箱館丸」を建造した続豊治(明治13年82歳で没)
のほか、明治期の函館発展に活躍した著名人の墓が多い。    函館市」



「中原悌ニ郎の墓」。



中原悌ニ郎は、近代彫塑の夜明けを告げた作家である。始め画家を志したが、荻原守衛・
ロダンの作品に感動し彫刻に転じ、明治43年(1910年)文展に出品、第3回院展では罍牢賞を
受け、第5回院展で同人に推薦された。
代表作に「石井鶴三像」、「乞食老人」、「平櫛田中像」、「若きカフカス人」等がある。
「平櫛田中像」は、かのプルーデルをして、「これが彫刻だ」と絶賛され、なかでも
「若きカフカス人」は、日本近代彫塑の指針を示す作品であり、荻原守衛、高村光太郎とともに、
一本の柱となっている。
中原家は祖父の代より函館にあって、精米業を開き、後父の代になって釧路に移住、雑貨廻船業
および漁業を営む。
悌ニ郎は、明治21年(1888年)、次男として出生、9歳のとき旭川にある母の弟の養子となる。
札幌中学校在学中、無断出奔、芸術を志す。
苦学と過労により肺結核を発症し、33歳の若さで没した。
悌ニ郎は彫塑に情熱を捧げ、その身を燃やしたが、全作品は11点に過ぎず、期間は10年であり、
一瞬の光芒であった。
遺骨は実父忠四郎に抱かれ、当院の中原家の墓に葬られている。
1983年12月赤光社美術協会      函館市」



「千歳坂」を見る。



千歳坂は明治12年(1879)の大火以後にできた坂で、昔、坂の東側に神社があり、
ここに松の大木があったので、千歳の松に因んでこの名・「千歳坂」が付いた。

これは神社の神楽殿に由来したものであったと。



そして「真宗大谷派 函館別院 船見支院」の隣にあったのが「實行寺(実行寺)」。
北海道函館市船見町18−18。



「妙法大東亜戦争戦死病没者供養塔」は左に、
掲示板には「人には不孝がおそろしき事に候ぞ」と。



「日露役戦死忠魂塔」



「日蓮宗一乗山實行寺」。
実行寺は、六老僧の日持上人に縁のある寺のようであった。



「本堂」。
箱館(現在の函館)開港後は一時ロシア領事館の仮止宿所としても使用されたと。



「実行寺
実行寺は、明暦元年(1655年)、山ノ上町(現弥生町)で清寛という僧が草庵を結んだのが
始まりで、元禄3年(1690年)松前の日蓮宗法華寺の末寺となったが、実行寺と称するように
なったのはいつ頃からか明らかではない。(明治17年山梨県身延山久遠寺の末寺に編入。)
正徳4年(1714年)、富岡町(現弥生町)に移転し、明治12年(1879年)の大火後、
同14年(1881年)にこの地に移った。 その後も幾度か大火に見まわれ、同43年(1910年)
現在の建物が完成した。
実行寺は、安政元年(1854年) ペリーが来航したとき写真班の宿舎にあてられ、同5年(1858年)
にはロシア領事館にも利用された。
また、明治2年(1869年)箱館戦争終結後、旧幕府軍戦死者の遺体が市中に放置されたままに
なっていたとき、住職が侠客柳川熊吉と相談して、寺に葬ったという美談も残されている。」



「海外布教ノ初祖 日持(にちじ)上人像」。
日持は、鎌倉時代中期から後期にかけての日蓮宗の僧。
駿河国松野の出身。甲斐公・蓮華阿闍梨と称する。日蓮六老僧の一人。駿河国蓮永寺の開山。



「日持上人ノ銅像ハ昭和十六年身延山八十三世日謙上人ノ宿願ニ賛同セル当山総代初代梅津福次郎
翁ノ寄進セルモノナリ然ルニ之ガ建立ハ当時ノ情勢ヨリ一時中止ス猶昭和十七年ニハ翁逝去ノ
事アリ此事遂ニ止ムカト憂慮セル時梅津タケ子夫人亡父ノ志ヲ継ギ之ガ完成ヲ申出デラレ
開宗七百年ヲ迎フルノ時除幕ノ式典ヲ奉修ス依テ爰ニ其ノ経緯ヲ記シ篤志ヲ永ク伝ヘントス」
お顔を見上げて。



「日仏親善函館発祥記念碑」
丸い窓の空いた石の彫刻が載っていて, 窓の中央で 左右から突き出た2人の手が しっかり
握手しているという 印象的なモニュメント。



横の面には
「日仏親善函館発祥之碑
1855年フランス・インドシナ艦隊のシヴィル号、ヴィルジニ号、
コンスタンチヌ号の緊急寄港に際し、箱館奉行、竹内下野守保徳は独断で人道的立場から
入港と養生の為の上陸を許可した。
奉行の要請に応じた実行寺16世住職、松尾日隆上人は、傷病乗組員の平癒につとめ、病○した
六名の乗組員を除いてその大半は無事祖国への帰還を果たすことができた。
百有余年の時を経て今、日仏親善の発祥の地、あわせて仏教とキリス教の両宗教者の友愛の
永遠なる証しとなるよう、この地に記念碑を建立する。
2001年(平成13年)10月6日   日仏親善函館発祥記念碑建立準備会
                代表・神父フィリップ・グロード
                函館日仏協会」



そして次に隣の「称名寺」を訪ねた。
「称名寺」通用門から境内を。



「称名寺」の「山門」。



「山門」を正面から。
1644年創建、1881(明治14)年に現在地に移る。開港当初は英仏の仮領事館が置かれるなど、
頻繁に歴史に登場する。境内には新選組副長・土方歳三の供養碑や著名人の墓も多数。



「称名寺
称名寺は、正保元年(1644年)円龍上人(えんりゅうしょうにん)が亀田村(現市内亀田八幡宮
辺り)に阿弥陀庵を建てたのが始まりといわれており、箱館開港当初はイギリスとフランスの
領事館としても利用された古い寺院である。
明暦元年(1655年)阿弥陀堂と称したが、元禄3年(1690年)称名寺を公称し、宝永5年
(1708年)亀田の衰退と箱館の繁栄により箱館の富岡町(現・弥生町 弥生小学校)に
移転した。
明治12年(1879年)の大火で本堂を焼失し、同14年(1881年)この地に移転した。
その後、幾度か大火のため建物を焼失したが、昭和4年(1929年)現在の鉄筋コンクリート
寺院が完成した。
境内には河野政通の供養碑を始め、高田屋嘉兵衛の顕彰碑、土方歳三と新撰組隊士の供養碑が
あるほか、北海道最古の石碑として有名な「貞治(じょうじ)の碑(ひ)」〔貞治6年2月
(1367年)の銘がある板碑(いたび)で北海道指定有形文化財〕が保存されている。
また、墓地には箱館発展のもとを築いた高田屋一族の墓、新島襄(にいじまじょう)の
海外渡航を助け日本最初の気象観測所を開設した福士成豊(ふくしなりとよ)、
日魯漁業株式会社創立者堤清六(つつみせいろく)の碑など、著名な人の墓がある。」



「本堂」



土方・河野供養碑、高田屋一族の墓
土方歳三と新選組隊士の供養碑
土方歳三(新選組副長)は、榎本軍に加わり、函館で戦死した。その場所は一林(若松町)、鶴岡町、
異国橋(十字街)なと諸説があるが、土方ゆかりの鯨都日野市金剛寺の過去帳には、函館称名寺に
供養碑を建てた、と記してある。
称名寺は、明治期の大災で3回も焼けて碑は現存しないため、昭和48年有志が現在の碑を建立した。
他の4名は新選組隊士で、称名寺墓地に墓碑があったが、昭和29年(1954年)の台風で壊されたため、
この碑に名を刻んだ。
河野加賀守政通の供養碑
河野政通は伊予(愛媛県)の出で、享徳3年(1454年)に渡来し、今の基坂の上に館を築いた。
この辺はアイヌ語でウスケシ(湾の端の意)といったが、この館が箱の形をしていたのでハコダテの
地名が生まれたといい、明治2年までは「箱館」と書いた。
永正9年(1512年)、子・季通の時アイヌに攻められ館は陥落した。
この碑は、宝暦3年( 1753年)に松前藩の亀田奉行が建て、表面に
「捐館高峰印殿加屋凌雲大居士 神儀」と刻み、裏面に碑文がある。
高田屋嘉兵衛一族の墓
高田屋嘉兵衙は、明治6年(1769年)淡路島に生まれ、廻船を業とし、寛政10年(1798年)
箱館大町に支店を設けた。
以来、弟・金兵衛と力を合わせ、千島エトロフの開発と共に、巨富をもって箱館の殖産興業に
多大な業績を残した。
日露両国問の問題解決に努力したのも有名で、その顕彰碑は観音堂前にある。
郷里で没したから墓は淡路にもあるが、金兵衙の系統が函館に住んだので、
称名寺にも墓が建てられた。



「土方歳三と新撰組隊士の供養碑」。



「第二次世界大戦 函館空襲戦災跡地 戦災者慰霊碑
第2次世界大戦末期昭和20年(1945)7月14・15の両日アメリカ艦隊機動部隊の戦闘爆撃機
グラマン・コルセア50余機により主要攻撃目標であった函館港内や津軽海峡航行中の船舶は
爆撃を受けて85隻が沈没や破壊され多数の犠牲者が出ました。市内では駒止町天神町旅籠町
船見町鍛冶町松風町若松町大森町海岸町等の民家が空襲を受け家屋169棟戸数384戸余を焼失。
破壊家屋も多数にのぼり、多くの死傷者を出しました。特に駒止町天神町旅籠町船見町鍛冶町
地区は函館空襲最大の戦災地で老人と子ども等23人が爆弾や機銃掃射を浴びて犠牲者となり、
また多数の負傷者を出し384戸が全半焼しました。この戦争・空襲による悲惨な歴史的事実を
想起して函館における空襲犠牲者の霊を慰め、軍縮を希求し、平和を守り抜く誓いを堅持いたし
たく、有志者一同が称名寺住職須藤隆仙師の御高配を頂いて、戦災跡地を見下ろすこの境内に
記念碑を建立しました。」



「日魯漁業株式會社 従業員精霊塔」
1924年(大正13年)、操業中に命を落とした従業員への追善供養と、人間の食品とされる動物や
植物供養のために建立された。題字は、日魯漁業株式会社の創業者である堤清六による。
毎年、日魯漁業株式会社株式を創業した堤清六の命日である9月12日に、ニチロ会が施主となり、
施餓鬼法要が営まれている。



「河野加賀守正通公の供養塔
河野政通公は享徳三年(一四五四)南部大畑より渡来し、現在の函館病院附近に館を築き
函館一帯の地を治めた。
後、アイヌ等を和人の間に争を生じ館は陥ち政通公も戦歿す。ここの供養碑は宝暦三年
(一七五三)時の亀田奉行、政通公の祭祀の無きを嘆き弥生小学校辺にありし称名寺に
建立せしが、後称名寺の移転と共に現在地に至りしものである。」。

河野政通は伊予(愛媛県)の出で、享徳3年(1454年)に渡来し、今の基坂の上に館を築いた。この辺はアイヌ語でウスケシ(湾の端の意)といったが、この館が箱の形をしていたのでハコダテの地名が生まれたといい、明治2年までは「箱館」と書いた。
永正9年(1512年)、子季通(すえみち)の時アイヌに攻められ館は陥ちた。
この碑は、宝暦3年(1753年)に松前藩の亀田奉行が建て、表面に「捐館高峰院殿加屋凌雲大居士 神儀」と刻み、裏面に碑文がある。



「称名寺 合葬墓」。



「高田屋嘉兵衛顕彰碑」



「高田屋嘉兵衛顕彰碑
高田屋嘉兵衛(1769-1827)は淡路の人。28歳のとき渡来し、50で皈国するまで、函館を
根拠地として北海の天地に活躍した。初めてエトロフ島への海路を開き、17の漁場を作って
北海漁業の先駆をなし、又箱館に大店舗を構え、奉行所松前移轉後もエトロフ、幌泉、
根室場所の漁獲物の集散と仕込物資の調達をになって、箱館の繁栄を築き、更にゴロウイン
拘囚のとき、沈着剛胆よく日露の側を奔走して無事釈放につとめ、永く露国感謝せられた。
今年嘉兵衛の百四回忌に当り、高田屋まつりを行い、この碑を建ててその功績を顕彰する。」
ロシア語で
「ТАКАТАЙ-КАХИ

“Вь КАЖДОЙ ЗЕМЛЕ ЕСТЬ СВОИ ОБЫКНОВЕНИЯ, НО ПРЯМО ДОБРЫЕ ДЕЛА ВЕЗДЕ ТАКОВЫМИ СЧИТАЮТСЯ”何れの邦土にも其の邦の風習はあるが 斯様な仕事を為せる者を真の愛国者とす」




「観音堂」。






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Last updated  2020.12.25 00:00:20
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