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久能山東照宮の楼門を潜り振り返って。右手にあったのが「家康公御手形」。(i家康公三十八歳の時のもの)推定身長 一五五cm~一五九cm程度御手形を写した色紙は授与所にて一五〇〇円で頒布しております。」「家康公御手形天正八年(1580)辰十一月ニ日家康」と。自分の手を重ねてみると意外と小さいと感じたのであった。手形には知能線と感情線がつながった一本の線がはっきりと。これはますかけ線と呼ばれるもので、「天下取りの手相」としても知られているのだと。現代でもこの手相の持ち主は、天下を支配するほどの天運・強運の持ち主が多いとされていると ネットには。楼門の狛獅子(右)。お顔をズームして。楼門の狛犬(左)。お顔をズームして。楼門の先、左手にあった仮設の建物は何であっただろうか?売店?極彩色の楼門・右側を見上げて。極彩色の楼門・左側を見上げて。中央の蟇股の獏(ばく)の彫刻。右の蟇股。左の蟇股。「久能稲荷神社」と「厳島神社」は 合殿され楼門を入った右手に建っていた。朱の鳥居が並ぶ。久能稲荷神社(左)御祭神 保食神御例祭日 4月9日東照宮の創建前から 久能山頂近くに鎮座していたが 明治年代に暴風で社殿が倒壊し 現在地に遷座したという。厳島神社(右)御祭神 市杵島姫命御例祭日 6月17日明治期の神仏分離により 元辨財天が厳島神社になったという。「おもと」園。「おもと奉納 平成二十八年五月吉日」平成28年5月10日家康公を祀る久能山東照宮へおもとを奉納公益社団法人日本おもと協会名誉会長青木慶祐他日本おもと協会会員13名おもと品種44種、本数152株をお祓い所周辺に地植えしました。植え付けたおもとの品種は薩摩富士・外輪山・東天光・桜島・太陽殿の虎・雪中の松・残雪・五大州・駿河富士・福の光・錦秀の松・霧島・白峰・曙・阿賀野川・天光閣・聖光都の図・紫雲楽・他と。「久能山東照宮全景」「家康梅」。「家康梅 奉納 丸子梅園」。「家康梅奉納者 丸子梅園静岡県駿河区丸子徳川家康公は“梅”をこよなく愛され、中でもこの「家康梅」は水戸の初代藩主頼房公(家康公第11男)の出産を祝い、無事成長を祈り家康公自らお手植えされたと伝わる。当初は浜松城内で栽培されていたが、後に水戸に移され、その後静岡の丸子梅園にて接ぎ木して育成したものを由緒深き久能山東照宮に植樹されたものである。」 「家康梅」の花。「手水舎」を正面から。近づいてそしてこちらは「河津桜」か?久能山東照宮「神厩(しんきゅう)」家康の愛馬を飼育するために建てられた厩舎。その昔、愛馬は夜になると家康の神廟の脇で休み、朝になると厩舎で餌を食べていたそうです。ある朝、馬が厩舎に戻らなかったため神廟を確認したところ、静かに眠ったままの姿で見つかり、その話を聞きつけた名工、左甚五郎が愛馬そっくりに彫刻し、この厩舎に納めたと伝えられています。近づいて。「神馬 縁結び・子授け・安産・無病息災」と。金網越しに。金網の隙間から。名工、左甚五郎が愛馬そっくりに彫刻し、この厩舎に納めたと。「久能の唐椿(トウツバキ)」「久能の唐椿(トウツバキ)中国の雲南省、貴州省、江西省の原産でナンキンツバキ、カラツパキとも呼ばれる。延宝元年〈1673〉にわが国に渡来したと言われている。八重・濃赤色の花は四月頃開く。唐椿は日本の椿とは植物分類上全く別種であり、繁殖は極めて困難であるが長命・強健であるという。 奉納者 静崎園 川口厚夫 平成十ハ年三月」花が咲くと(ネットから)。石段の途中から「河津桜」越しに石鳥居を見る。石灯籠が並ぶ。「久能山東照宮 五重塔跡」。三代将軍家光の命により建立された五重塔は30mを超えるもので久能山のシンボルだったが、神仏分離令を受けて明治6年に取払われ、現在は礎石が残るのみ。ここでも、明治の廃仏毀釈、神仏分離の影響を受けていたのであった。「五重之塔 舊跡」碑。「五重塔跡三代将軍家光公の建立て高さ約三十米輪奐(りんかん)美を極めたものである。明治六年神仏分離で取払われ現在は在りし日を偲ぶ礎石を残すのみ中央の朝鮮蘇鉄は駿府城本丸より移植したものてす。」正面から。残存する久能山五重塔の、明治維新直前・直後のカラー化写真をネットから。明治39年(1905)にカラー化 、大きさ : 26×38cm。「五重塔跡」横には奉納された酒樽が並ぶ。東照宮の参道に展示されているは、「菰(こもだる)」と呼ばれるもの。この酒はまこもという植物で編んだ「菰(こも)」と呼ばれるむしろのようなものをまとっているため、「菰」または「菰冠(こもかぶりだる)」と呼ばれます。ただし、現在はまこもをわらや別の素材で代用することが多くなっています。菰は、もともと、江戸時代に上方(大阪や京都など)から江戸に船で酒を運ぶ際、大きな酒樽が壊れないように巻いていたものであった。表面には他の銘柄と区別するために、それぞれの銘柄が特徴的な文字や絵を描いたのですが、そのデザインがユニークでインバクトが強いことから、店頭に並べられるなどして広告や装飾の役割も担いました と。石灯籠の奥の「鼓楼(ころう)」。創建以来、鐘楼として扱われて来たが、明治時代の神仏分離の際、鐘楼は仏教施設であるということから中身を太鼓に替え、現在の「鼓楼」となったとのこと。石段上の「久能山東照宮 唐門と透塀」を見る。「八房梅」。「八房梅」案内板。「八房梅(紅梅)」の花。「唐門」を正面下から。「神楽殿」。久能山東照宮神楽殿は元和3年(1617)に建てられた建物で、木造平屋建て、入母屋、銅瓦葺、桁行5間、梁間3間、建物全体が朱色に彩色され、瓦と木組の端部、金物が金箔で彩られています。現在はサッシが嵌め込まれていますが当時は開放的な建物でした。東照宮に奉納される神楽が行われる施設でしたが、実際には行われず絵馬が奉納される絵馬殿のような扱いだったようです。久能山東照宮神楽殿は江戸時代初期に建てられた久能山東照宮の境内をとして大変貴重な事から昭和30年(1955)6月22日に国指定重要文化財に追加指定されています。左に「実割梅(白梅)」。「実割梅(白梅)。「神楽殿」の内部。徳川家康公。「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。」絵画・家康公像。「葵の御紋」葵紋は徳川氏の家紋として有名。もともとは京都の賀茂別雷神社、賀茂御祖神社の神紋だが、江戸時代は葵紋の使用が制限された。また徳川家康が天皇家から菊紋や桐紋の下賜を断って葵紋を使用し続けたことからより格を上げることとなった。徳川葵:徳川葵紋は、3枚の葵の葉を頭合わせに並べて、通常の太さの丸で囲う。 江戸幕府の将軍家、徳川家の家紋。日光市日光東照宮の神紋、東京増上寺の寺紋、 京都市清凉寺の寺紋徳川家康公:[三つ葉葵―みつばあおい] 二葉葵の変形紋。「丸に三つ葵」とも言う。俗に言う「徳川葵」。 徳川御三家では同じ「丸に三つ葵」を使用しているが、葉脈や芯の数など、細部に 微妙な違いが見られる。植物のフタバアオイには三つ葉のものは非常にまれで、 三つ葉葵は架空のもの。上賀茂神社の神紋であった葵を正式な家紋としたことから、 上賀茂神社の出身であったと言われる。家康は威厳を知らしめるために、三つ葉葵に 限らず「葵」を使用した紋の他家での使用を厳しく禁じた。岡崎二郎三郎信康公:徳川家康の長男(嫡男)。母は関口親永(瀬名義広)の娘で今川義元の 姪・築山殿。また、後に安祥松平家の居城の岡崎城主(愛知県岡崎市)を 務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎 三郎と名乗った丸に三葉葵:三つ葉葵紋は、徳川家康が三河国(現在の愛知県東部)の岡崎城主だった頃に 出入りしていた呉服商人「後藤縫殿助」の御紋控書にも記録があり、徳川家康が 天下人になる前から家紋にしていたことが分かります。松平三葉葵:徳川将軍家の家紋である三つ葉葵の一種。徳川将軍家の家紋は「三つ葉葵」と呼ばれ、 徳川家康が江戸幕府を開いた際に家紋として用いました。水戸三葉葵:徳川家の家紋として知られる葵の一種で、葵の葉を3つ描いた家紋です。 微妙な違いがあり、種類が多いのが特徴です。尾州三葉葵:徳川御三家である尾張名古屋藩徳川氏の家紋。3枚の葵の葉を頭合わせに並べて、 通常の太さの丸で囲んでいます。尾州三つ葵とも尾州中納言葵とも呼ばれます。紀州三葉葵:徳川御三家である紀伊和歌山藩徳川氏の家紋。3枚の葵の葉を頭合わせに並べて、 通常の太さの丸で囲んでいます葵紋の移り変わり三つ葉葵紋は、徳川家一門だけが使うことを許されていました。徳川家一門とは、将軍家と家康公の子孫である4家…御三家(水戸・紀州・尾張)と会津松平家のことです。葵紋は将軍により少しずつ変化しています。葉の芯の数が減ったり増えたり、並び方が変わったり、茎の太さや形が変化したり。四代目以降の将軍たちが、家康、秀忠、家光の三代の将軍を崇敬し、同じデザインでは恐れ多いと変化させたそうです。そして、御三家と会津松平家も将軍家に対し遠慮して、少し図案を変えました とネットから。そして「神楽殿」の壁の手前にあった展示ケース。多くのプラモデルが展示されていた。「「プラモデル」のはじまりは静岡から静岡には『ガンダム』のプラモデルで有名なバンダイの工場をはじめ、青島文化教材社、タミヤ、ハセガワ、フジミ模型とい。た世界的に名を知られている模型メーカーがあります。その歴史をさかのぼると、徳川家康公が崇敬された静岡浅間神社の修繕や、久能山東照宮の造営に際し、日本各地から優秀な職人が集められた事につながります。職人達は工事が終わった後も温暖で風光明媚かっ、最大12万人の京、大坂、江戸に匹敵する大都市の駿府に残り、雛人形や竹細工などの木工製品の製作に携わりました。この技術が昭和に入り、木製の教育玩具や学習教材を生み出し、戦後の木製模型、プラスチック模型の発展につながったのです。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・
2024.03.10
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「熱海梅園」の紅葉を楽しんだ後は、イチョウ他の黄葉が美しいとネットで紹介されていた伊豆市堀切にある「益山寺(ましやまでら)」に向かって進む。走行ルートは数のごとく静岡県道11号熱海函南線~国道136号・伊豆中央道~修善寺道路を利用し進み山田川沿いの狭い山道を登って行った。そして「熱海梅園」から1時間強で「高野山真言宗 養伽山益山寺(ようかざん ましやまでら)」に到着。標高300mの益山の上にある真言宗で、高野山の末寺。空海(弘法大師)の創建で、本尊の観世音菩薩はその自作であると伝えられている。山中にある落ち着いた雰囲気で、お地蔵様、石仏など安置されていた。毎年1月の第3土曜・日曜に「星まつり」が行なわれ、護摩を焚いて1年間の幸福を祈り災いを除く真言密教の儀式が行われるとのこと。境内にある大楓は県指定の天然記念物で、根回り5.46㍍、目通り4.05㍍、樹高27㍍、樹齢900年ほどで県下最大の楓と。木肌が美しく保存は良好で、瘤が多くあり盛り上がる力強さは、風雪に耐えた歴史を見せていた。市指定の大イチョウを従え、この時期・秋の紅葉は美しく、境内にある石仏群と調和してみごとな風物絵巻となっていた。本堂の右奥には延喜式内社である伊加麻志神社(いかましじんじゃ)があった。静岡県伊豆市堀切760。境内の庫裏前には「伊豆の国 北条義時 ゆかりの地」とラッピングされたタクシーの姿が。「伊加麻志神社(いかましじんじゃ)」への石段に向かって進む。「奉納 南無千手観世音菩薩」と赤地に白の文字で書かれた幟が並んでいた。石段の途中から見上げると、前方には黄色く色付いた巨木の姿が現れた。左手にはイチョウの葉が落ちて、一面黄色い絨毯のごとくに。そして石段の上・右側にあったのが、大きく傾き支柱で支えられている「大楓(オオカエデ)」。推定樹齢900年、県下最大の大きさといわれる「大楓(オオカエデ)」の紅葉。廻り込んで。見事な紅葉を見上げて。樹高約27m・根廻り約5m・目通り約4mのコブだからけのダイナミックな枝ぶりの大カエデがどっしりと構えていたのであった。「養伽山益山寺標高三百メートルの益山の上にある真言宗で、高野山の末寺である。空海の創建で、本尊の観世音菩薩はその自作であると伝えられている。寺には三島代官の寄進状や江川太郎左衛門の禁制文などが残っていると。境内並びに参道には百体の観音の石仏があり、県内でも珍しい石仏群集地である。又幕末の剣客「直指一刀流居士」の墓及び県指定の大楓、市指定の大銀杏がある。大楓(昭和30年2月25日静岡県 文化財指定) 根回り:五.四六メートル 目通り:四.〇五メートル 樹齢 :八百六十位の県下最大の楓大銀杏 (昭和49年12月4日 伊豆市 文化財指定) 目通り:五.三メートル 樹高 :二十五.三メートル 樹齢 :三百五十年~四百年 伊豆市教育委員会」「大楓」の周囲には千手観音の幟や、苔むした123体もの観音石仏像も安置されており、一般的な紅葉スポットと言うよりは歴史を感じる厳かな雰囲気が特に印象的なのであった。参道の両側に並ぶ「奉納 南無千手観世音菩薩」の幟。近づいて。その奥にも観音石仏像が並んでいた。「高野山真言宗養伽山益山寺」の「本堂」。「養伽山益山寺」の名前は、一説によると、隣の神社の社号の「伊加麻志」から「伊加→養伽」、「麻志→益」となったらしい と。伊豆88遍路8番札所・養伽山益山寺。賽銭箱が何故か置かれていなかった。「本堂 内陣」を見る。空海の創建で、本尊の観世音菩薩はその自作であると伝えられている。寺には三島代官の寄進状や江川太郎左衛門の禁制文などが残っているとのこと。ズームして。こちらが「大銀杏」(昭和49年12月4日 伊豆市 文化財指定) 目通り:五.三メートル 樹高 :二十五.三メートル 樹齢 :三百五十年~四百年「大銀杏」の周囲にも「奉納 南無千手観世音菩薩」の幟が。再び「大楓」を振り返る。「益山寺」の「本堂」右の石段の先にあったのが「伊加麻志神社(いかましじんじゃ)」。参道を進む。狛狗(右)。狛狗(左)。「益山寺」境内の「観音石仏像」を振り返る。正面の石鳥居を潜って石段に。石段を上ると正面に「伊加麻志神社」の社殿。創祀年代は不詳とのこと。式内社・伊加麻志に比定されている古社。『伊豆國神階帳』に「従四位上 高山の明神」とある神社。社号の「伊加麻志」は、益山の近くに、加麻ガ洞という谷があることから付けられたとも駿河国の伊河麻神社を祀っていた人々が当地に移り住んで、氏神として祀ったとも考えられている。あるいは、「伊加」という語が「神聖な」という意味であるとも。また、益山の名は、猿山(ましやま)からの転訛であるという説もあるようで、結局、なにがなにやら、という感じだ。明治までは、三島神社と称していたことから現在の祭神は、事代主命 (ことしろぬしのかみ)だが、多くの資料では、祭神不詳と。『静岡縣神社誌』には三島大社の御子神とある。「疫病終息祈願 静岡県神社庁」と書かれた幟。社殿の扁額「式内伊加麻志神社」。「伊加麻志神社」社殿前から石段、石鳥居。狛狗を見下ろす。そして石段を降り再び「大銀杏」下に。「大銀杏」の上、下は一面の黄色の世界が拡がっていたのであった。陽光に照らされた、黄金の世界が拡がる。再び「大楓(オオカエデ)」に近づいて。廻り込んで。奥には無縫塔が並ぶ墓地があった。「益山寺」の歴代住職の墓地であろうか?「大銀杏」と「観音石仏像」を振り返って。近づいて。黄色の世界を追う。再び「高野山真言宗養伽山益山寺」の「本堂」を見る。「観音石仏像」に近づいて。本堂下広場の御地蔵様達。そして庫裏まで戻る。「星祭り(星供)」案内。「星祭りについてみなさんは自分の生まれ年、その年々によって、みなさまを導く三つの星があるのをご存じでしょうか?生まれ年による星は本命星(ほんみょうじょう)、元辰星(がんじんじょう)という北斗七星の中の星。年々により変わるのは當年星(とうねんじょう)という九種類の星(日曜星、月曜星、計都星等)があります。この星には吉星と凶星があり、私たちはこの星の導きにより、一年間(節分から翌年の節分まで)の吉凶があります。真言密教では、『宿曜経』などのお経に基づいて、みなさまのその年の星に対してお薦めし、吉星である方にはますますその益が増しますように、凶星の方には難事(災)を小さい難事(小災)で済むようにお勧めする修法があります。今からおよそ千二百年前の八〇四年、弘法大師空海が中国(唐)に渡り、インドから伝わった密教のすべてを授かって日本に帰りました。星供もその時に伝えられました。その後、村上天皇や白河天皇のご命令によって、当時の真言宗の高僧は、この星供を修法し、天皇のご健勝、また国家安穏をご祈願されました。このような伝統ある修法により、みなさまの一年間のご健勝をお祈りいたします。弘法大師が建立された当益山寺では、星供祈願のお印として、御札、祈願だるまをお分けいたします。特に凶星にあたる方には、この星供にてご祈願することをおすすめします。みなさまの本年のご健勝をお祈り申し上げます。高野山真言宗 養伽山益山寺小住合掌」寺の関係者の姿はなかったが。「だるま、招き猫」が並ぶ。「厄除開運 星祭護摩祈願」案内。「厄除開運 星祭護摩祈願」の様子。そして「益山寺」を後にして、往路と同じ路を引き返す。途中山の岩肌に丸く空いた穴が。何か仏の姿が陽刻されているように見えたが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.08
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次に訪ねたのが「東京理科大学 13号館」・「森戸記念館」。新宿区神楽坂4丁目4−4。ここ「森戸記念館」は東京理科大学の理学部第一部応用化学科の卒業生である森戸祐幸氏の寄付により建設されたもの。記念館利用目的は科学と人間の交流の場にふさわしく、東京理科大学神楽坂キャンパスに近接する交通の便に恵まれた場所にあります。国際会議、学会などを開催しております。また、地域住民が主催する文化的活動等(神楽坂まつり)においても、利用されております とネットから。内部には機器展示やカタログ展示が行われていた。また、昔の神楽坂の写真や版画、装着品などの歴史や文化に関する品も展示されていたのであった。玄関ホールには、宇宙飛行士のキャサリン・ケイディ・コールマン氏の記念品や、ガラス工芸作家のジョジュ・シンプソン氏の宇宙をテーマにした作品など、森戸氏のコレクションが展示されていた。ガラス製の地球儀。ここにも。宇宙飛行士のキャサリン・ケイディ・コールマン氏の言葉、「Earth is the site of our planet as beautiful and ever-changing sphere.」『地球は、美しく絶えず変化する球体としての私たちの惑星である。』と。大小様々な、ガラス球体が展示されていた。宇宙に想いをはせた美しい絵画も。1階には童話や絵本、子供向けに書かれた理科に関する図書など、約1000冊を収蔵すると。「坊っちゃんとマドンナちゃんのこども絵本館」も併設されていた。図書棚の上の壁には様々な展示物が。「神楽坂の歩み」-1。神楽坂は、東京都新宿区の北東部にある地区で、JR飯田橋駅付近の牛込見附から西方の山手台地に上る坂の名が町名になりました。神楽坂は、徳川家康の江戸入府前から町が形成されていたといわれています。江戸時代になると、坂沿いは武家地や寺町となり、寺の縁日から賑わいの地、さらに繁華街・花街へと発展しました。神楽坂の歴史は次のとおりです。1628年頃、大老坂井忠勝が坂上の矢来町に屋敷を拝領しました。3代将軍・徳川家光の時代に、牛込御門と酒井家下屋敷を結ぶ形で神楽坂通りが開通しました。明治期には、夏目漱石も通っていたという「地蔵坂」に寄席がありました。大正から昭和初期にかけては「山の手銀座」と呼ばれるようになり、東京の盛り場として賑わいました。神楽坂という名前は、この坂で神社が奏でる神楽の音が聞こえたことに由来します。どこの神社の神楽なのかは、若宮八幡神社、筑土八幡神社、赤城神社など諸説あり定かではありません。「神楽坂の歩み」-2。「神楽坂文芸地図」👈拡大リンク。「五千分一東京図測量原図 : 東京府武蔵國牛込區神楽町近傍」👈拡大リンク。様々な地図やパンフレット。「神楽坂まっぷ 神楽坂あれこれ」👈拡大リンク。「地図が語る 神楽坂」。「地図が語る 神楽坂江戸時代の地図は、「切り図」で、版木を彫って刷られました。明治時代に、海外の測量法や印刷技術が導人されると、行政、陸軍、郵便など、目的に合わせた精緻な地図が作られるようになりました。大正・昭和になると地図は、より身近なものとなります。商店会、企業やお店が、工夫を凝らし、多様な表現を用いたことが見て取れます。今回は、明治初期の地図、関東大震災の災害地図、震災復興調査地図、戦後の再開発計画図のほか、神楽坂通り商店会、学校・銀行・お店などが、私的に作った様々な地図をご紹介します。ご注目いただきたいのは、神楽坂青年会が制作した地図。この地図が、「神楽坂情報系地図の元祖」です。情報と共に地図のデザインも変化してきました。よりシンプルに、或いは、より詳しく・判りやすく・より楽しく・魅力的に・多様性を持って。過去に創られた優れた地図から学ぶことで、神楽坂は、これからも様々な地図を生み出していくことでしょう。」「神楽坂情報系地図の元祖」👈詳細リンク と言われる地図。多くの芸者・芸妓さんのプロマイド写真が並んでいた。「昭和30年頃の神楽坂、1954年に作成された芸者番付で前頭に選ばれた夢太郎さんの艶すがた」近づいて。近づいて。「昭和初期の神楽坂芸者はプロマイドを作り、人気投票を行いました。」集合写真。「神楽坂通り」に出て、石畳の美しい「酔石(すいせき)横丁」を見る。「酔石横丁」沿いの建物の壁の美しいタイル模様。見事な石畳の先、右手には居酒屋「伊勢藤」。向かいには「ブレッツカフェクレープリー」。「坂道、通り・路・道、横丁」 案内図をつくって見ました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.10.25
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「堤 八坂神社」の神輿。「下寺尾 諏訪神社」👈リンク の神輿。海に入り禊が行われているのだが、海に入っている姿は??「香川 諏訪神社」👈リンク の神輿を追う。そして海に入り「禊」。「菱沼 八王子神社」👈リンク の神輿を追う。「甘沼 八幡大神」👈リンク の神輿も海に入り「禊」を。奥に「中海岸 八大龍王神」👈リンク、手前に「本村 八坂神社」👈リンク の神輿。「新町 嚴島神社」👈リンク の神輿。「中海岸 中海岸神社」👈リンク の神輿。鳥居の方向を見る。「下寺尾 諏訪神社」👈リンク の神輿。さらに次々と竹の鳥居を潜って禊へと。「十間坂 第六天神社」👈リンク の神輿。「南湖中町 八雲神社」👈リンク の神輿。その後に「南湖上町 金毘羅神社」👈リンク の神輿。多くの神輿が海の中に入り「禊」を。ズームして。そして「禊」を済ませて砂浜へ戻る「菱沼 八王子神社」👈リンク の神輿。移動して「本村 八坂神社」の神輿を追う。「新町 嚴島神社」、「本村 八坂神社」の神輿。「新町 嚴島神社」の神輿も「禊」へと。そして「禊」を済ませて。「本村 八坂神社」の神輿はさらに沖へと。「担ぎ手」の法被には「本村」の文字が。「担ぎ手」には「舁夫(かきふ)」という名称もあると。舁く人(かくひと)という意味で『舁く(かく)』というのは二人以上で同じ棒を担ぐという意味。 駕籠屋の人夫の事を『駕籠かき』とか山車を担ぐ人の事を舁き山(かきやま)とも言うと。さらに沖へと。これでもかと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.08.14
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「忍城」・「御三階櫓」からの景色。そして「御三階櫓」を後にして、「行田市郷土博物館」の南側の庭園を見る。「手水鉢(ちょうずばち)」。「手水鉢(ちょうずばち)高八〇センチ 幅五一センチ忍城三階櫓の石垣を用いて明治一九年五月に作られた手水鉢。正面に楓に鹿が陽刻され、頂上を穿って水をたたえて一匹の亀が陽刻されている。裏面に旧忍城三重櫓台石ヲ以テ明治十九年第五月造之 三田姓石工小林源次郎と陰刻してある。」手入れの行き届いた庭園。そして再び「行田市郷土博物館」の館内に戻る。「日本遺産 行田」コーナー。日本遺産ストーリー「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」が平成29年4月28日に認定されてから、6周年を迎えた と。「認定証 和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田埼玉県行田市日本遺産に認定する平成29年4月28日文部科学大臣 松野 博一」パネル(中央)。パネル(左)。「和装文化の足元を支え続ける 足袋蔵のまち行田平成29年(2017年) 4月28日、行田市のストーリー「和文化の足元を支え続ける足蔵のまち行田」が日本遺産に認定されました。忍城の城下町行田の裏通りを歩くと、時折ミシンの音が響き、土蔵、石蔵、モルタル蔵など多彩な足袋の倉庫「足袋蔵」が姿を現す。行田足袋の始まりは約300年前。武士の妻たちの内職であった行田足袋は、やがて名産品として広く知れ波り、最盛期には全国の約8割の足袋を生産するまでに発展した。それと共に明治時代後半から足袋蔵が次々と建てられていった。今も日本一の足袋産地として和装文化の足元を支え続ける行田には、多くの足袋蔵等なと歴史的建築物が残り、趣きある景観を形づくっている。」パネル(右)。「認定証最大の田んぼアート計測 17,195m2制作 日本国埼玉県行田市田んほアート米づくり体験事業推進協盟会2015年9月8日」「行田 足袋検定」コーナー。郷土博物館を見学して、足袋に関するクイズを解く検定。館内の展示や資料をヒントにしながら解答し、全問正解で合格となる。合格者には合格認定証を発行する と。主催:行田市日本遺産推進協議会。こぜにちゃんとフラべぇは、行田市のご当地グルメ「行田フライ」と「行田ゼリーフライ」の全国ブランド化に向けて活動中!「フライ」と言えば一般的に揚げ物というイメージがありますが、行田のフライは揚げ物ではなく、焼き物。行田でいう「フライ」とは、小麦粉を水でやわらかく溶き、鉄板の上で薄く焼きながら、ねぎ、肉、卵などの具を入れ、好みでソースまたは醤油だれをつけて食べるもの。クレープのようにふわりとした舌ざわりのお好み焼きのようなものです。「ゼリーフライ」とはフライと名前は似ていますが、「ゼリーフライ」は全く違う食べ物。お菓子のゼリーとも全く別物。衣のついていないコロッケといった風情のもので、そのルーツは、日露戦争の時、中国から伝わった「野菜まんじゅう」だということです。ジャガイモにねぎやにんじん、さらにたくさんおからが入っているのも特徴で、食物繊維が豊富でヘルシー。ソースの味と香りがとても利いていて、モチモチとした食感が大人にも子どもにも大人気。その名の由来は、小判形であることから「銭フライ」と言われていたものの、「銭」がなまって「ゼリーフライ」となったとか。「ミュージアム グッズ」コーナー。御城印やクリアーファイルも販売されていました。「御城印」をいただきました。そして「忍城」、「行田市郷土博物館」を後にして、「道の駅 はにゅう」に立ち寄り遅い昼食を楽しんだ。そしてこの日の最後に、「利根川」に建設されている「利根大堰」を訪ねた。「利根大堰」は、埼玉県行田市と群馬県邑楽郡千代田町の県境、利根川本川・河口から154km地点に建設された、日本でも屈指の規模を誇る堰である。高度経済成長期において、東京都の水需要の急激な増大は深刻な問題となっていった。この為、建設省(現・国土交通省)は、東京の水需要を多摩川から利根川に転換すべく、1963年に利根導水路計画を立案した。元々、東京(江戸)を水害から守るという目的で利根川東遷事業を進めたという経緯があり、水利権の問題はあったが、時の建設大臣(池田内閣)河野一郎の政治的決断で計画されたといわれる。1964年、東京オリンピックを前にして、東京は未曾有の大渇水(通称・東京砂漠)が起こり、危機的状況に陥った。東京都の緊急要請により、建設省は朝霞水路を通して緊急取水を実施した。その後、1965年には荒川に秋ヶ瀬取水堰が建設され、朝霞浄水場へ導水するための整備を行った。こうした中で利根川は「水資源開発促進法」に基づく指定河川となり、水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)が「利根川・荒川水資源開発基本計画」に従い、利根川から水道用水を取水する為に見沼代用水元入がある地点に利根大堰を建設し、首都圏の水需要に応えようとした。堰は1968年4月に完成した。「独立行政法人水資源機構 利根導水総合事業所」の駐車場の車を駐めて散策する。埼玉県道59号線の「須加大橋」から「利根導水路 須加樋管(すかひかん)」が正面に見えた。「樋管」とは、河川の堤防の中に水路(これが本体)が埋設された構造物のこと。利根大堰でせきとめられた水は、須加樋管を経由して利根川の堤防の外へと流れ出ているのだ。下流側を見る。この後見沼代用水、武蔵水路、埼玉用水路に分かれる水がこの時点では1本の川となっているため、水量が非常に多いのであった。「利根大堰」が見える「利根川」の右岸堤防に向かって進む。「利根導水路 須加樋管 水資源機構」の文字が。現在でも利根川上流ダム群の水は利根大堰・利根導水路 須加樋管を経て、東京都の上水道の40%、埼玉県の上水道の70%を供給している。この堰で取水された水は、荒川、秋ヶ瀬取水堰、朝霞浄水場を経由して東村山浄水場まで行く事もあるとのこと。「利根大堰」案内板。「利根大堰」の上空からの写真をネットから。利根大堰には、魚道(ぎょどう)が3ケ所に設けられている。(1号魚道:1号堰柱の脇、2号魚道:3号堰柱、3号魚道:6号堰柱)魚道とは、魚専用の通路のことで、利根大堰が魚の溯上(そじょう:魚が川上の方へ登ってゆくこと)の妨げにならないように設置されている。1号魚道には魚道観察室が付けられているので、水中の様子を覗ける と。堤防上から「利根大堰」を見る。堰の管理用道路は「武蔵大橋(むさしおおはし)」と呼ばれ、道路橋として供用されている。全長687.2m、有効幅員7m。鋼鈑桁橋の一等橋である。1968年(昭和43年)10月竣工。工費は7470万円であったと。武蔵大橋から上流は約13kmもの区間、刀水橋まで一般道の橋は架けられていない。12の水門機械室。場所を移動して。利根川河口から約154kmにある利根大堰は、長さ約500メートルで、12の水門から出来ている。 農業用水、都市用水、浄化用水の取水を行っている可動堰で、(1)取水口 (2)沈砂池 (3)分水工などの施設があります。利根大堰に係わる施設を管理する利根導水総合管理所が、埼玉県と東京都用水の50%に関わっているそうです。ズームして。「利根導水路 須加樋管」越しに埼玉県道59号線の「須加大橋」を見る。移動してに埼玉県道59号線の「須加大橋」越しに沈砂池そして見沼代用水、武蔵水路、埼玉用水路を見る。「利根導水路 須加樋管」直後の流れ。「施設見学案内図」。「利根導水のあらまし」。「利根導水路のあらまし」をネットから。「利根導水路用水系統模式図」。そしてこの日の全ての行程を終了し、往路と同じルートで帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.10
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次に「昔 使われた自動電話交換機(ステップバイステップ方式)」。「昔 使われた自動電話交換機(ステップバイステップ方式)昭和32年9月、県下4番目の自動開式は電話数1,200でスタートしました。行田市が当時のお金で3千万円の債券をお客さまに代わって負担した上、かって病院だった土地を電話局へ提供し、開始時には町で提灯行列をして祝ってくれました。その後、昭和58年1 1月電子交換機に変わるまで26年間活躍しました。」「600号形自動式電話機昭和39年(1964)にわが国電話網の急速な発展にあわせ、通話性能と経済性に優れた電話機として誕生し、昭和46年(1971)からホワイト・グレー・グリーンのカラー電話機が登場しました。国産1号電話機の誕生からほぼ1世紀、通話性能においてほとんど申し分のない電話機の出現でした。【特徴】4号電話機に比べ3倍以上も感度が高く、電気回路にはプリント配線が導入されました。デサイン面では送受信器が自然に正しい位置に収まる様に工夫がされ、ダイヤルもボディに埋め込むなどキメ細かい配慮がされています。」「行田・東京間記念通話」。 「東京都と「自動電話」がつながった!明治42年 113年前 行田に電話がつながる140年くらい前(日本は明治時代のはじめごろ)、アメリカで電話機が発明されました。日本での最初の電話は明治23年(132年前)、東京と横浜の間で始まりました。行田につながったのは明治42年のことです。」「行田の夜が明るくなった!明治43年 112年前 行田電灯株式会社ができる。なんと、忍城のあと地に火力発電所をつくってしまった!(本丸のあと地 いまの博物館の駐車場)埼玉県のなかでも、川越につづいて2つめの電力会社。コークス(石炭からつくるねん料)をねん料とする最新式の発電機で、工場にも電気をおくれました。大正8年 103年前 火力発電をやめ、水力発電の電気を買うようになる。昭和16年 東京電灯(のちの東京電力)の一部になる。」「行田電灯株式会社をつくった人たち発起人(会社づくりの中心になった人)今津徳之助(いまづにくのすけ) 印刷を中心とした実業家 まちづくりに熱心に取り組み、 「行田の渋沢」と呼ばれました。社長 橋本 喜助(はしもときすけ) 大きな足袋屋のあるじ。 実業家てもあり、まちづくりに関わりました。」「足袋だけじゃない!洋服だってつくれるまちへ大正時代 100年くらい前 足袋工場がふえ電動化がすすむ。」「昭和10年代の被服工場」。「銀行とまちの発てん明治29年 126年前 忍商業銀行ができる。銀行とは、みんなからお金をあずかり、そのお金をひつような人や会社にかします。かしたお金はふやして返してもらい、銀行とあずけた人で分けます。」上:「忍商業銀行(創業当時)」下:「忍商業銀行本店 1935年(昭和10年)」「近代産業の発展忍城の城下町として発展した江戸時代から明治時代へと世の中はうつり、行田のまちも近代化への道を歩みはじめた。■交通手段の発展明治時代に入り、鉄道は旅客・貨物の輸送に重要な役割を担うようになった。明治16年(1883年)、日本鉄道が上野-熊谷駅間で開業(現在のJR高崎線)、また、明治34年(1901年)には上武鉄道が熊谷-寄居駅間で開業(現在の秩父鉄道)するなど、行田の周辺でも鉄道を中心とした交通網が整い始めた。■電灯会社の設立明治15年(1882年)、東京銀座に初めて電灯(アーク灯)が灯ったが、行田のまちに電灯が灯ったのは明治43年(1910年)のことだった。忍城址公園内(現在の郷土博物館駐車場部分)にコークスを燃料とした火力発電所がつくられ、行田電灯株式会社が設立された」■銀行の設立明治29年(1896年)、忍商業銀行が設立された。行田周辺の商人や地主などの資本によって設立した地元資本の銀行は、足袋産業と深く結びつき、その発展を支えていくことになった。足袋産業のあゆみー大正から昭和へー大正時代になると行田の足袋産業は大きな転機を迎えた。明治時代の中頃より始まったミシンによる縫製が全ての縫製工程に導入され、現在に続く分業の形が整った。関東大震災で京浜地方の足袋屋が大きな打撃を受けると、発注が行田に集中し震災特需となった。大正時代後期からは足袋に用いる生地もコール天や別珍、キャラコなどへと多様化していき、ファッション化も進み、女性用には赤や紫などの色足袋が流行した。また震災後の衣服の洋装化により、シャツやズボンなどを製造する足袋屋も現れた。やがて日中戦争が始まると忍町に陸軍被服廠行田出張所が開設され、統制経済のもと足袋生産第は減少し、軍需被服品の生産を担うようになった。」「馬車鉄道」。「馬車鉄道明治時代に行田周辺で始まった鉄道の整備だったが、足袋屋が集中するまちの中心部には鉄道が通らず、最寄駅の熊谷駅・吹上駅まで荷馬車などで足袋を運んでいた。■行田周辺の鉄道年表■明治16年(1883年) 日本鉄道が上野-熊谷駅間を開業明治33年(1900年) 忍馬車鉄道が行田-吹上駅間を開業明治34年(1901年) 上武鉄道が熊谷-寄居駅間を開業、翌年秩父鉄道となる。明治37年(1902年) 忍馬車鉄道の事業を行田馬車鉄道が継承、 自動車輸送も並行して行うようになる。大正10年(1921年) 北武鉄道が羽生-行田駅間を開業大正11年(1922年) 北武鉄道が熊谷-行田駅間を開業、 その年のうちに秩父鉄道に合併。大正12年(1923年)行田馬車鉄道が廃線」「馬車鉄道が通った道馬車鉄道は、吹上駅と長野村の間をつなぐ予定だったが、資金難などを理由に計画は変更された。明治33年(1900年)、忍馬車鉄道が吹上-佐間駅の間でひとまず開業、翌年に忍町まで延伸された。しかし、経営はなかなか軌道にのらず、明治38年(1905年)に行田馬車鉄道が事業を継承することになる。大正12年(1923年)、秩父鉄道の延伸をきっかけに廃線となるまで、馬車鉄道は行田の人々の大切な足となった。」「秩父線行田駅」の変遷写真。「埼玉縣北埼玉郡忍馬車鐵道株式會社線 吹上行田間 平面図」。「吹上村」周辺の地図。「成田町」周辺の地図。盤師 吉田寅義 氏。「二代目 吉田寅義 氏昭和2年(1927)、羽生市に生まれる。同25年、初代吉田寅義に師事し、基盤・将棋盤制作に従事、同29年、吉田流太刀盛り皆伝、二代目を襲名した。「太刀盛り」は、日本刀の刃に漆をつけて盤に線を引く日本古来の伝統技法である。作品は木性を生かし盤の個性を表現するため、特に足の彫り、線の流れを強調、裏面の「音ウケ」には物理的理論を基に工夫をこらし、実用面の利点を重視した。作品の多くが、本因坊戦、将棋名人戦などの著名な戦いに使用されている。平成24年(2012)に二代目と三代目吉田寅義氏の技法が「基盤製作技術吉田流太刀盛り」として市指定無形民族文化財に指定された。」吉田流太刀盛り皆伝・「二代目 吉田寅義 氏」。「靴を脱いで比べてみよう!」「足袋のサイズに実測とあるものは、洗濯後の足袋をこちらで測った数字であり、新品の足袋のサイズより1.5~2cmくらい縮んでおります。」力士の足の大きさ左から貴ノ花 29.0cm 若ノ花 28.0cm 小錦 34.0cm 舞の海 25.5cm力士の足袋上段左 曙 太郎(白足袋) 上段右 小錦八十吉下段左 貴ノ花光司 下段右 若ノ花 勝 左から鏡山親方(柏戸) 、大鵬親方(大鵬)、二子山親方(貴ノ花)。「行田市の誕生昭和24年5月3日、忍町は市制を施行し、行田市となった。昭和29年~ 32年までに周辺の8ヵ村、平成18年に南河原村が合併し、環在の市域が確定した。」「行田市の歴史」。「町のうつりかわり明治30年代の行田」。「町のうつりかわり行田市は、15世紀後半の忍城築城以来、忍城の城下町として発達してきた。以後江戸時代を通して、たびたび城下町の拡張整備が行なわれ現在の町並みが形づくられてきた。明治22年の忍城誕生から、昭和24年の行田市誕生までの60年間は、まさに行田足袋の全盛期から衰退期までの時代であった。町には、足袋屋の店先が軒を重ね、家々からは足袋内職のミンンの音が響き、足袋一色に包まれた時代であった。市政施行なら32年の太田村の合併までの行田市域の拡大、30年代以降には学校・公共施設の建設及び上下水道の完成など、町の近代化が進められてきた時代であった。現在は、21世紀に向けて、付加価値のある町づくりを目ざしている。」「炭火アイロン」、「蒸気式アイロン」。「学校のうつりかわり」「学校のうつりかわり天保7年(1836年)、忍城下では藩士の子弟を教育する機関として藩校進脩館が設立され、のちには培根堂・洋学館・国学館などが時代の流れに応じて開設された。また、庶民の子どもたちには手習師匠や寺子屋などが教育を施していた。明治時代を迎えると、明治5年の学制発布により、全国に小学校がつくられた。その後、町村合併や小学校令、学校教育法の整備により学校の統廃合新設などが進められることになる。戦後には中学校の整備、校舎の近代化、通学域の再編成などを経て今日の市内小学校13校・中学校8校が整えられている。」「小学校のうつりかわり明治19年の(1886年)第一次小学校令発布から明治22年(1889年)の「明治の大合併」と呼ばれる町村合併にかけて、1つの町や村ごと、または複数の村の連合によって設けられていた多くの学校は新しい村ごとに統合されていった。昭和24年(1949年)の市制施行を経て、昭和20年代後半~ 30年にかけての「昭和の大合併」期には、14校の行田市立小学校が誕生、昭和40年(1965年)の西小学校・大井小学校の統合により13校となる。昭和時代後半には、人口増加や市街地の拡大から泉小学校・桜ヶ丘小字校が新設、さらに平成19年(2007年)の南河原村合併により市内の小学校は16校となる。しかし、昭和60年代をピークとして行田市でも少子化が進行、適正な学校規模を維持するため、「学校再編」が進められることとなった。」「明治5年の学制発布明治5年(1872年) 8月、近代教育の始まりとして、小学・中学・大学を基本とする「学制」が発布された。のちに行田市となる地域でも、いちはやく小学校の開設が始まることとなり、明治9年段階で29校が開校していた。寺院の建物などを仮校舎としたこれらの小学校は、合併や閉校、新設などを経ながら現在の行田市立小学校へと続いている。」「大木商店足袋蔵・・模型 昭和20年に建てられた蔵です。昭和20年代は行田の足袋産業が復興しはじめ、このような石藏が多く建てられました。」「斎藤医院・・模型斎藤医院は、田山花袋の『田舎教師』に原田医院と出てくる病院で、明治の近代建築でしたが、昭和61年に取り壊されました。」「行田が舞台 田山花袋の小説『田舎教師』明治42年 113年前 小説「田舎教師」が書かれる『田舎教師』ってどんなお話?〇お話の場所 行田・熊谷・羽生(主人公が住んていたまちが行田)〇お話の時代 明治30年ごろ 120年くらい前◯書いた人 田山花袋(明治時代の小説家)〇主人公 小学校の先生になったばかりのまずしい若者 林清三くあらすじ> まずしくて勉強をあきらめ、小学校の先生になった清三てすが、 やりたかったことはほとんどうまくいきません。なやみながらも 先生として生きていくことを決めました。 しかし、しばらくして病気になり、何もてきないままに死んて しまうのてした。清三のモデルは本当にいた人て、かざらないありのままのてきごとをえがいた作品てす。」「斎藤医院」は、作品のなかで「原田医院」として出てきます。主人公の清三が病気になり、心配した友だちが「原田医院」に連れて行くのです。「行田の町の中程に西澤道のペンキ塗りの際立って目につく家があった。陶器の表札には医学博士原田龍太郎と鮮やかに見えて、門にかけた原田医院という看板はもう古くなっていた。午前十時頃の晴れた日影は硝子を通した診察室の白いカアテンを明るく照らした。」『田舎教師』には、他にも本町通りや忍沼、今はもうない牧場やおふろやさんなどが出てます。「昭和30年代の行田忍川のさくら、行田市の10周年を記念して消防隊がパレード、行田の街並み」「戦争・防空訓練」、「戦争・出兵兵士」の写真。当時の「人力車」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.09
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「町と村」。「町と村忍城の城下町としての行田町は、かつて上、下、新町の3町で、のち八幡町が加わり4町となった。町の行政は、村の名主にあたる町年寄によって統括されており、のちには町年寄の下に、町年寄見習、町年寄格、表立などの役ができ、特に表立は、直接一般町民と接する役割を果たしていた。村の場合、忍藩においては、城周辺の村々を佐間組、持田組、皿尾組、 谷郷組の四組に分け割役名主を置いた。忍城の所領のうち、城周辺以外で最も大きなものは、秩父領であった。藩では大宮郷(現秩父南)に陣屋を置き、勘定奉行、郡奉行の指揮下に代官が民政全般に当たった。」「忍城建物入札番号記」。手前に「両替商看板」。むかしの銀行の看板。「忍城建物入札番号記」ニの丸御殿や大手門、三階櫓など主要な建物に1番から1 8番まで番号をつけ、希望者は名前と金額を書いた紙を提出するよう通達が出た。「忍城入札結果」と「忍城の解体城郭の管理は明治政府の成立後も江戸城、大阪城といった江戸幕府直轄の城郭を除き各藩に委ねられていた。しかし、各藩とも財政の窮乏などから城郭の維持をあきらめ破却や修理取止めを明治政府に申し出た。忍藩も明治3年(1870) 8月に、忍城は破壊するに任せ修理を加えないことを申し出て認可された。明治4年(1871) 7月に廃藩置県が行われ、忍藩は忍県となるとニの丸御殿は忍県庁として利用された。しかし同年11月に埼玉県が成立するとニの丸御殿は政庁としての役割を終えた。明治4年(1871) 12月、城郭を管轄する兵部省は関東地方と甲斐国・駿河国の城郭の存廃調査報告書を提出させた。その中で忍城の評価は「城郭ノ四面悉ク沼地ニシテ水満テリ、土地極メテ卑湿往々水難アリ、其他城外高燥ノ地ナシ、廃シテハ如何」と記されている。明治5年(1872) 2月に陸軍省が設置されると同省は武官を各地に派遣し調査に当たらせ、翌6年(1873) 2月に城郭の存廃を決定し、不要な城郭は大蔵省へと引き継がれた。忍城も廃城と決まり城内の建物は競売に付されることとなった。ニの丸御殿や大手門、三階櫓など主要な建物に1番から1 8番まで番号をつけ、希望者は名前と金額を書いた紙を提出するよう通達が出た。落札金額はニの丸御殿635円、三階櫓175円4銭余などで、これに別ロの建物を加えた総額は2,334円81銭であった。こうして忍城の建物は地上から姿を消していった。」「描かれた忍城下『増補忍名所図絵』は、洞季香斎の編述した『忍名所図絵』を、忍藩士岩崎長容か、藩主の命により増補を加え、天保6年( 1835 )完成したものである。もともとの『忍名所図絵』は、香斎が序文で明らかにしているように、『江戸名所図絵』にならって作ったもので、忍城下の名所・古跡・神社仏閣その他の由来や、物産なとを紹介し、ここに展示した風景画などを加えた地誌である。天保6年に岩崎により増補されたものが現在残されており、当時の忍城下を知る唯一の資料である。岩崎長容は、通称角兵衛といい、国学者であるが、絵を好んだ人である。」「増補忍名所図絵」。上記の繰り返しになるが「増補忍名所図会」は文政8年 (1825)に書かれた「忍名所図会」を元に天保6年 (1835)、 同11年(1840)と2度の改訂を経て作成された地誌です。忍城周辺の忍藩領を 東西南北に分け、神社仏閣、名所旧蹟などを挿絵を交えて詳細に記されています。文政8年 (1825) 洞李香斎が「忍名所図会」を著作。 現在その所在は確認出来ていない。天保6年 (1835) 忍藩主松平忠尭の命によ藩士岩崎長容が「忍名所図会」を増補。 天保 6年版と思われるものの写本 が行田市郷土博物館にある。天保11年 (1840) 岩崎長容が2度目の増補版を作成。 名勝の地、古書の図、古器などの追加と、引用文書・口碑の類いを補足。 忍八景の図と寺院神社は熊谷寺以外の図を削除。 天保 11年版は須加村川島家をはじめ、幾つかの写本が確認できる。「増補忍名所図絵」に向かって右側から「荒川」。左上に「甲州山」そして「富士山」。ネットから(以下同じ)。次に「忍城眺望」。「荒川猟鮎」。「刀禰川(利根川)」。「刀弥(利根)の川原」。「小見村観音 岩窟之圖」。「蓬莱山熊谷寺」。「熊谷次郎直実」。「街道と交通」「街道と交通江戸時代の行田町は館林道と日光脇往週のニつの街道が城下町の手前の佐間ロで合流し、町の中心を貫けていたため、旅行者や物資が行き交う宿場町でもあった。新町と本町の境のT字路には高札場が設けられ、町年寄の家が集まっており、樋口家や加藤家が本陣、梅沢家が脇本陣を兼ねていた。物資の輸送を担う人馬も常備されており、安永5年(1776)には25人・25匹と定められたが、その費用は町民が家の間ロの広さに応じて負担していた。また、埼玉村から館林道に合流する騎西道や、持田村を経て熊谷宿へと向かう道、谷郷村から北上し利根川へと至る道などの間道もあり、城下町行田を中心に道路網が放射状に延びていた。」「忍御領分絵図忍城と周辺の村や道、水路などを記した絵図。城を中心に置き、その周りを城附四組:佐間組・持田組・皿尾組・谷郷組)の村々が囲み、その外に小判型をした他領の村々が表示されている。道を赤、河川を水色、堤を緑、村境を紺色で表し城の記載は省略されているが、領内の寺社名や境標、堰を記している。利根川を右(北)、荒川を左(南)に配置し、ニつの大河に挟まれた藩領の道や水路の位置を一目で眺めることができる絵図である。」「忍御領分絵図」。ズームして。城を中心に置き、その周りを城附四組:佐間組・持田組・皿尾組・谷郷組)の村々が囲み、その外に小判型をした他領の村々が表示されている。道を赤、河川を水色、堤を緑、村境を紺色で表し城の記載は省略されているが、領内の寺社名や境標、堰を記している。「木曽街道」。「木曽街道 上尾宿 加茂之社」作成者:渓斎英泉(けいさい・えいせん)日付: 1835頃木曽街道六十九次は1835年から1842年にかけて出版された浮世絵で、木曽街道(中仙道) 69宿に起点の日本橋と中津川宿の習絵各1枚を加えた71枚からなる。当初、渓尞英泉が日本橋から本庄宿までの11枚に加え、宿場を飛び飛びに13枚の24枚を描いたが、その後、歌川広重が引きいでいる。版元も当初の堂から錦樹堂に変わっている。この作品は、木曽街道のうち、日不橋から数えて5番目の上尾宿付近の農家が、風撲機で毀物を精選し俵詰めしている様子を描いている。農家の家屋内では、座繰りによる糸繰りが行われている。隣接する加茂神社は、当時大衆の信仰を隻めていた。「川舟」。「川舟行田市は北に利根川、南に荒川が流れ、その中心に位置する忍城のまわりにも大きな沼があり、かっては船をつかった往来が盛んでした。また、川での魚とりや利根川の洪水の時に避難するためにも使われたので、町中の商家でも持っていました。利根川の沿岸には、こうした川船を造る船大工がいました。この船は行田市下中条に住んでいた最後の船大工、中島徳ーさんが造ったものです。昔は「利根川の水が上から下に流れるあいだは、船大工の仕事はなくならない」といわれたそうです。しかし、鉄道や道路、橋ができてから船の仕事は減り、今では船大工は一人もいなくなってしまいました。」「駕籠(かご)」。「五海道其外延絵図 館林通見取絵図(国指定重要文化財)」。「五海道其外延絵図 館林通見取絵図(国指定重要文化財)この図は、江戸幕府が作成した五街道と脇往還の絵図集の一つで、館林道を描いたものである。城下町や宿場、街道の様子を俯瞰的かつ詳細に描いており、近世交通史の第一級の資料である。館林道は中山道を鴻巣宿北の箕田から分かれて堤根村、佐間村を通り、城下の手前の佐間ロで荒川を渡って吹上村からきた日光脇往還と合流し、行田町に入る。新町・本町・下町を通り長野村、小見村、荒木村を経て上新郷村(羽生市)から利根川を渡り、館林町を通って例幣使街道の天明宿(栃木県佐野市)に達する。八王子千人同心が日光東照宮の火の番に向かうのに通ったり、将軍の日光社参の際にはこれに従う御三家が日光街道の混雑を避けるために通行したいわば日光街道のバイパスである。特に天保14年(1843)の将軍徳川家慶の日光社参の際には、4月に御三家の尾張藩主徳川斉荘・紀州藩主徳川斉順・水戸藩主徳川斉昭が宿泊や通過、5月に御三卿の清水斉彊、一橋慶壽が通過した。」「岐阻街道 桶川宿 曠原之景(きそかいどう おけがわじゅく ひろはらのけい)」。木曽街道六十九次は1835年から1842年にかけて出版された浮世絵で、木曽街道(中仙道) 69宿に起点の日本橋と中津川宿の習絵各1枚を加えた71枚からなる。当初、渓尞英泉が日本橋から本庄宿までの11枚に加え、宿場を飛び飛びに13枚の24枚を描いたが、その後、歌川広重が引き継いでいる。版元も当初の保永堂から錦樹堂に変わっている。現在の埼玉県桶川市当時は日本有数の紅花の産地でした。軒下で乾燥仕事をしている女性に通りすがりの旅人がにこやかに話しかけている情景です。道中浮世絵では珍しい構図です。「岐阻街道 鴻巣 吹上富士遠望」。作成者:渓斎英泉(けいさい・えいせん)日付: 1835頃この作品は、木曽街道のうち、日本橋から数えて7番目の宿の鴻巣と8番目の宿の熊谷の間にあたる吹上から、遠く望む富士山を背に広がる関東平野を行きかう旅人達を描いている。」「岐阻街道 熊谷宿 八丁堤ノ景」。この作品は、木曽街道のうち、日本橋から数えて8番目の熊谷宿の茶屋付近のようすを描いている。あんころ、うんとん(うどん)の看板を掲けた茶屋では馬子が一服。供を連れた一行。道標には「右おしけうだ(忍行田)道」「左深谷ニ里廿丁」と記されている。「岐阻街道 深谷之驛」。作成者:渓斎英泉(けいさい・えいせん)日付: 1835頃この作品は、木曽街道のうち、日本橋から数えて9番目の深谷宿の夜の遊郭のにぎわいを描いている。深谷宿は木曽街道最大の宿場の一つで、多くの旅籠のほか、本陣・脇本陣、遊郭もあった。「支蘓路ノ驛 本庄宿 神流川渡場」。作成者:渓斎英泉(けいさい・えいせん)日付: 天保6- 8年(1835-1837年)宿より5.5キロ離れた神流川渡し場を題材としている。背景の山は上毛三山であり、右から赤城・榛名・妙義山である。土橋は初代戸谷半兵衛こと光盛が架けさせたものであり、長さ30間(約55メートル)、幅2間(約3.6メートル)。出水で橋が流された場合に備え、別に長さ5間5尺(10.6メートル)、幅7尺の渡し船も用意された。光盛は無賃渡しとする為に金100両を上納した。また、右手前(および向こう岸)の常夜燈は3代目戸谷半兵衛こと光寿が寄進したものである(在地豪商である戸谷半兵衛家の経済力と影響力がうかがえる浮世絵となっている。)」「道標」。「道標 佐間・三軒茶屋左 ささい道 右 加うのす道」。「街道の風景石田堤は天正18年(1590)の忍城水攻めの際に石田三成が築いた堤防である。ー里塚は下忍村と佐間村、埼玉村の境に築かれた。もとは道の両側にあったが、西側は崩されて東側のみ現存している。川俣関所は上新郷村(羽生市)の利根川の堤防付近にあり忍藩が管理していた。現在は石碑を残すのみだが、住来する船や川を渡る人々の取締にあたった。」「県指定史跡石田堤昭和三十四年三月二十日指定この堤は、天正十八年(一五九十年)六月、石田三成によって、忍(おし)城水攻めのために築かれたことから、石田堤と呼ばれています。天正十八年三月に始まる、豊臣秀吉の関東平定に伴い、北条氏に味方する、成田氏の拠城である忍城は、同年六月、石田三成、大谷吉隆、長束正家らによって、包囲されてしまいます。石田三成らは、地形を見て、忍城を水攻めすることにし、全長二十八キロメートルに及ぶ堤を、わずか一週間で作り上げたと言われています。実際には、自然堤防や微高地を、巧みにつなぎ合わせたものと思われ、現在残っているこの堤も、自然堤防上に一~二メートル程盛土をしたものです。こうして堤が完成し、利根・荒川の水を引き入れたのですが、地形的に、城や城下町より、下忍・堤根方面に水が溜ってしまい、遂には堤が決壊して、水攻めは失敗に終ります。しかし北条氏の降伏により、忍城は遂に開城するのです。今日では、ここ堤根に約二百五十メートルの堤を、残すのみですが、江戸時代、日光裏街道沿い樹えられた、樹齢三百年余の松や檜葉が並ぶ様は、往時をしのばせる、貴重なものと言えましょう。 石田堤を守る会 埼玉県教育委員会 行田市教育委員会」「川俣関所」。日光裏街道鴻巣から熊谷に出ないで、行田から上新郷を経て利根川を渡り、日光へ行くことができる。この道を日光街道といっていた。元和3年家康の遺骸は、ここを通って日光へ送られた。その時は八王子から川越に出て忍城にはいり、川俣で利根川に渡った。ここへは慶長年間から明治2年まで250余年間関所があった。昭和橋から約30メートル上流の上新郷別所地先の堤の中段に、高さ2.4メートルばかりの長方形の関所址の碑がたっている。江戸より両毛に通ずるこの要地は、忍藩の番士4人の内2人は帰農し、1人は不明だが、もう1人は横浜で医業にたずさわっていた。関所の所在地は利根改修で廃滅してしまったが、石碑から東北百間を去る堤外地であった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.08
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さらに「行田市郷土博物館」の展示品を追う。「古代の行田 古代から中世へ 奈良平安時代」。「古代の行田 古代から中世へ 奈良平安時代この時代になると、律令を中心とした国家体制が整ってきます。行田もこの流れと無縁ではなく、武蔵国埼玉(さきたま)県埼玉(さきたま)郷の行政区画の中に組み込まれることになりました。武蔵国は、多摩群に国府が置かれ、各群には群衛があり、行政や租税の徴収などが行われていました。また、この時代の特色は、文字が一般に普及し、集落の中からも文字の書かれた土器や硯などが出土しました。」「武蔵国」。行田は、一番東の武蔵国埼玉(さきたま)県埼玉(さきたま)郷の行政区画の中に組み込まれました。「墨書土器 池上遺跡出土 奈良・平安時代墨書土器は、土師器や須恵器に墨などで文字が書かれている土器。漢字一時や符号などが記されている。」「古代の行田 古代から中世へ 寺の造営」「古代の行田 古代から中世へ 寺の造営行田への仏教の伝播は、比較的早く、古墳時代の終わり頃には、古墳の副葬品の中に仏教的要素をもつ品々が含まれています。市内埼玉字下埼玉通にある旧盛徳寺は、大同年間(806~810)創建の寺伝をもち、市内で最も古く建立された寺と思われます。旧盛徳寺は、現在の聖徳寺のやや西方を中心とした寺で、数度の再建を経て、現在の寺城が残されたと考えられます。」「布目瓦 旧旧盛徳寺遺跡出土 奈良・平安時代布目瓦は、型と粘土の間に布を挟んだため、瓦の内側にも布目が付いている瓦。古代の瓦の一つ。」「万葉集 歌碑」👈リンク 案内。右:「万葉遺跡・防人藤原部等母麿遺跡(さきもりふじわらべのともまろいせき) 所在地 :行田市藤原町1-27-2 八幡山公園内 天平勝宝7年(755)に防人(さきもり)を派遣する際、諸国より選ばれた壮丁 (そうてい:成年男子)が父母妻子と惜別の情を歌った短歌90余詩が「万葉集第20巻」に 載せられています。市内若小玉地区にある春日神社、大御田等の地名等から、この地を 藤原部等母麿の遺跡と考察し、昭和36年5月1日に八幡山古墳に隣接して歌碑が 建てられました。碑表には「藤原部等母麿」とその妻である「物部刀自売」の2首の歌が 刻まれています。 「足柄の 御坂に立して 袖振らば 家なる妹は さやに見もかも」(万葉集 二十巻 四四ニ三) 「色深く せなが衣は 染めましを 御坂たばらば まさやかに見む」(万葉集 二十巻 四四ニ四) 歌の大意は、「夫の等母麿が防人として西国に行く途中、足柄峠で袖を振ったならば、 家に残った妹(妻の意味)にも、はっきり見えるであろうか。」妻からは、「もっと色を 濃く背(夫)の衣を染めればよかった。それなら、足柄のみ坂を通ったら、はっきり 見えるであろうに。」と唱和したものです。地理的には行田から足柄峠は見えるわけがなく、 出発前に衣の色にことよせて、別れの悲しみを夫婦間で取り交わした歌です。中央:万葉遺跡・小埼沼(おさきぬま) 所在地:行田市埼玉2636-3 小埼沼は、現在では小さな池が残るだけですが、上代の東京湾の入江の名 「埼玉の津」 万葉集の遺跡とされています。宝暦3年(1753年)忍城主阿部正允(まさちか)建てられた 万葉歌碑があり、正面に「武蔵小埼沼」の文字、側面にこの碑を建てた目的をあらわした 文章、裏面に小埼沼と埼玉の津の万葉歌2首が万葉がなで彫られています。 碑文では武蔵小埼沼はここだと断定しており、そのことを後世に残すことが、この碑を建てた 理由だったようです」 「埼玉の 小埼の沼に 鴨ぞ翼きる 己が尾に 零り置ける霜を 掃ふとにあらし」 (万葉集 九巻 一七四四) この歌は、埼玉の小埼沼にいる鴨がはばたいて、自分の尾に降り積もった霜を掃っている寒い 冬の早朝の風景を歌ったものです。この歌は、上の句が五・七・七、下の句も五・七・七の 繰り返す形式で旋頭歌(せどうか)と呼ばれています。作者は、常陸国(ひたちのくに:今の 茨城県)の下級役人であった高橋虫麻呂(むしまろ)といわれています。左:日本最古の『万葉集』歌碑、前玉神社「万葉燈籠」 所在地:埼玉県行田市埼玉5450 「埼玉の 津に居る船の 風をいたみ 綱は絶ゆとも 言な絶えそね」(万葉集 十四巻 三三八〇) 歌の意味は、津は船着場・河岸のことであり、埼玉の津に帆を降ろしている船が、激しい風の ために綱が切れても、大切なあの人からの便りが絶えないように、と考えられています。 冷たい北よりの季節風にゆさぶられる船の風景と、男女のゆれ動く恋の感情とを重ね合わせて 詠み込んだ歌で、東歌(あずまうた)の中の相聞歌(そうもんか)に分類されるものです。次に「足袋と行田 行田足袋の歴史 行田足袋の起源」。「足袋と行田 行田足袋の歴史 行田足袋の起源行田足袋の起源は、「真享年間(1684 ~ )に亀屋某が専門的に営業」したのが最初であると言い伝えられてきた。この亀屋については、実際にあったことが文化元年の資料により明らかになっています。明和2年(1765)の道中記に(忍のさし足袋名産なり」とあり、当時名産どいわれる程足袋が商品化していたことが知られます。こうした足袋の生産は、農家の農閇期の内職によって作られていたようです。」「革足袋(江戸時代)現在のような布製の足袋が普及したのは江戸時代で、それ以前は動物の革で作ったもの(革足袋)が主流でした。革足袋は野外で履くことを前提に作られ、耐久性と保温性に優れていましたが、通気性に乏しく蒸れやすいという欠点もありました。江戸時代になると、通気・吸湿性に優れて肌触りも良い素材として木綿布が広まり、庶民の衣料に使われるようになりました。こうした流れの中で、足袋の素材も革から木綿布へと移り変わっていったのです。また、明暦の大火(1657)により革の値段が高騰した影響もあったと考えられています。」「紐足袋(江戸時代)と肩紐足袋(明治時代)昔の足袋は、履きロ近くにある紐を足首で結んで留める形式(紐足袋)でした。幕末の忍藩士・尾崎石城が記した「石城日記」を見ると、汚してしまった衣服を井戸で洗おうとする場面で、脱いだ足袋に紐がついていることを確認できます。現在の足袋と同じく「こはぜ」という金具を用いて留める形式(こはぜ足袋)が登場したのは、明治時代の中頃以降だと言われています。」「足袋布用木綿生地機織り機」。「手縫い足袋工程」手前に裁断された布、奥に裁断用具が展示されていた。行田で足袋製造が発達した理由は色々説明されていますが、綿栽培の発達とその糸を使った「青縞」と呼ばれる小巾の綿布が特産であり、それが足袋用の布として利用できたこと、そして藍染が盛んであったことなどです。 次に「忍城の鐘」。「忍城の鐘亨保2年(1717)、伊勢国桑野で鋳造され桑名城の鐘として使用されたが、宝暦5年の桑名大火で破損したため、同14年(1764)に溶かして改鋳された。文政6年(1823)、転封により桑名藩主松平忠堯(ただたか)が忍藩主となったため、鐘も忍城に運ばれ、ニの丸にあった鐘楼に懸けられた。」形状:総高151センチメートル、口径79.5センチメートル、重さ600キログラムこの鐘は、松平忠雅(ただまさ)が山形から備後福山(広島県)を経て桑名へと三度の移封の後に安住出来たのを記念して、享保2年(1717)11月1日に造られました。それから38年後の宝暦5年(1755)1月12日の大火で、城の中外の300余軒を灰にし、鐘も火災で割れてしまいました。現存するこの鐘は、子の忠刻(ただとき)が、父の愛した鐘を失った事を嘆き、宝暦14年(1764年)に再鋳したもので、文政6年(1823)に松平氏が桑名から忍へ移封されるのに伴い、忍城へ移されました。明治時代の郷土史家・清水雪翁が著した北武八志には「今現に忍城にありて日々時を報する者即ち是なり。曽て総州候が伊勢桑名治城の時、鋳造するものなり」と記されており、忍城に由緒深い名鐘です。鐘楼は、城内二の丸の東隅にありましたが、明治10年(1877)に取り崩され、当時の進修館小学校校庭に再建され、時を報じていました。昭和28年(1953)東照宮に移転の後に、平成4年(1992)4月、鐘楼から鐘を取り外され、現在は行田市郷土博物館に展示されていますとネットから。「忍城御三階櫓 縮尺1/50」。そして「忍城御三階櫓」への連絡廊下を進む。「忍城の瓦」。近づいて。「丸に三つ葉葵」の紋は1590年(天正18年)から1600年(慶長5年)まで城番を勤めた東条松平氏と、1823年(文政6年)から1871年(明治4年)まで城主だった奥平松平氏の家紋。「忍城の鯱」。城の鯱は、海にいるシャチのことではなく、想像上の生き物。「鯱鉾(しゃちほこ)」ともよばれ、高い櫓の屋根や、大きな門の屋根に置かれた。火事になると口から水を吐き出すという言い伝えがあり、城を守ってくれると 考えられていた。「忍城の鯱この鯱は、昭和63年1月完成した新しい忍城御三階の屋根に乗せてある鯱と同寸法のもので、展示用に新しく製作したものである。記録によれは、江戸時代の三階櫓の鯱は、高さ6尺2寸で、行田町の町年奇吉羽惣太郎が藩命を受けて尾張国(愛知県)て作らせたものといわれている。忍城の主要な門は、ニ階建ての櫓門て、屋根に4尺ほとの鯱か乗せられ、3棟の櫓にも各々やや大きな鯱が乗せられていた。」「忍城図」ズームして。「忍城図文政6年(1823)松平家移封以後の忍城図。武家屋敷、本丸などの主要な曲輪、道、水路・堀、町屋、神社、寺院をそれぞれ茶、紫、黄色、水色、挑色、赤、灰色で色分けしてある。松平家では家臣の屋敷が不足したため、城内の矢場や馬場を屋敷に転用した。」「忍城二の丸御殿絵図」。「忍城二の丸御殿絵図忍城ニの丸曲輸とその中の屋敷や庭の平面図。当館常設展示室の「ニの丸復元模型」の原図となった資料であり、現在確認されている忍城内建造物の唯一の詳細な図面である。ニの丸は本丸や諏訪曲輪を南側から東側、北側にかけて取り囲むコの字型をしており、その南側部分に藩主の御殿がある。江戸時代初期を除いて本丸に主要な建物がなかった忍城では、ニの丸御殿が藩政の中心であるとともに、忍藩主の日常生活の場でもあった。」「ニの丸御殿は間ロ48.5間、奥行28間、総坪数608坪、畳の数755畳、部屋数72部屋、厠(トイレ) 11箇所、土間8箇所、湯段2簡所を数える。東側に玄関があり、敷台を上がると御広間、南へいくと三之間、ニ之間、御当院と続く。北側には中庭を挟んで御小姓頭や右筆、目付、御坊主等が詰める部屋がある。この部分が「表」になり御殿の公的な空間を形成している。その西側に御三之間、御ニ之間、御居間が続き、その奥に御神前之間、御居間、御寝所といった藩主が日常生活を過す奥向にあたる部屋があり、その北側には湯殿や台所などがある。御殿の最も奥まったところは女中部屋である。表門を入って右側の建物と東側から北側にかけてL字型に配置された長屋には、掃除方や御籠置場、御茶道、油方など御殿と曲輪を管理する者たちの部屋が並んでおり、その先には厩がある。御殿の西側には庭園があり、池の端には「奥」から突き出た御新屋敷がある。庭内には池のほか、東屋や神社、馬場や弓術場なども置かれている。」「忍城鳥瞰図」。「忍城鳥瞰図この鳥瞰図は、明治6 (1873)年に作成された原図を昭和10年(1935)に印刷・発行した城絵図である。忍城を南側から俯瞰しており中央やや左よりに三階櫓が描かれる。忍城の建造物は明治6年以後に解体されるので、その最後の姿を留めている絵図である。広大な沼地とそのなかに生い茂る芦が随所に描かれ、忍城がまさに沼地のなかに築かれた城郭であることがよく表されている。また、本丸や諏訪曲輪は鬱蒼とした森となっている。」ズームして。広大な沼地とそのなかに生い茂る芦が随所に描かれ、忍城がまさに沼地のなかに築かれた城郭であることがよく表されている。「くらしの道具」。「くらしの道具忍城下町は、行田町とよばれて栄えてきた町である。忍城下の特色は、城を囲むように武家屋敷が並び、町家は東にくちばしのように延びた4町からなる町並みだけであった。町明細図を見ると、町内の職種も多種類にわたり、その内容も時代により大きく変化しているようである。行田町内の人々は、その職種により、生活の仕方も、生活用具も異なったのであり、それぞれ特徴的な道具を今に残している。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.07
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「忍城復元模型」。忍城は、室町時代中期に成田氏によって築城されたと伝えられている。城は南北を荒川と利根川とに挟まれ、周囲には広大な湿地帯が広がっていた。成田氏はこの湿地帯を、あえて埋め立てようとはしなかった。陸地同士に橋を渡し、沼を堀のように生かしたのだ。いわば自然堤防に守られた要害であり、まさに「攻めるに難く、守るに易い」堅城で、関東七名城のひとつに数えられた。場所を移動して。さらに。そして次に「近世の行田忍城は、阿部氏により整備されて以来、城下町の拡張はあるものの、基本的な形は幕末まで変わらなかったようである。本丸は、うっそうとした木立に囲まれていたが、現在の忍中学校あたりの二ノ丸には。城主の御殿が建てられていた。土塁とその上の土塀に囲まれた水辺には、三階櫓1棟、二重櫓2棟がそびえ、忍藩10万石の威容を誇っていた。」「松平忠吉」。「藩主とその時代 松平忠吉松平忠吉は徳川家康の4男として、浜松城に生まれた。母は西郷氏で2代将軍徳川秀忠の同母弟にあたる。(東条)松平氏の養子となり松平姓を称し、天正20年(1592)に忍城主となり10万石を領した。関ヶ原の合戦の後、尾張国清洲に転封となり62万石を領したが28歳で病死し、嫡子がなく(東条)松平氏は断絶となった。市内持田の正覚寺には、子供の梅貞童子の墓が残されている。」「梅貞童子御守筒(複製)松平忠吉が長男の無事生育を祈念して作らせた御守筒で、中にお経を入れて背負ったという。ところが、生まれて間もなく長男は亡くなり、梅貞童子という法名がつけられた。」「藩主とその時代 城番の時代慶長5年(1600)に松平忠吉が転封してから、寛永10年(1633)に老中松平信綱が城主となるまで、33年間忍城には城番が置かれ、周辺の領地は幕府領となった。この時期に、幕府によって周辺の河川工事が進められるとともに、伊奈氏や大河内氏らが幕府の代官による検知が行われ、年貢割付状が発行されるなど、農業政策の基盤が整えられた時代であった。」右にあったのが「酒巻村検知帳」と「忍領在々御普請役高辻帳」。天正18年(1590)に徳川家康が関東に入ると、江戸を洪水から守り、関東の肥沃(ひよく)な平野を穀倉地帯に変えていくため、大規模な治水対策が行われました。その要の一つが利根川と荒川に挟まれた忍城を中心とした、忍領の治水対策です。この地域は現在の行田市をはじめ、熊谷市や鴻巣市、羽生市の一部も含まれる広い範囲で、戦国時代には成田氏の支配領域となっていました。河川は多くの村々を通るため、治水対策は一村だけではく、流域の村々が共同で当たる必要があります。ところが、武蔵国の村々は幕府領・藩領・旗本領など領主が分散し、忍領もその例外ではありませんでした。したがって領主が違う村々を共同で治水に当たらせるには個別の領主権力を超えた、幕府主導による組合設置の必要がありました。寛永12年(1635)、幕府は忍領111村、合計10万8千石にも上る村々を対象とした利根川と荒川の維持管理に関する組合を設置しました。この村々の名前と石高を記したのがこの「忍領在々御普請役高辻帳(ごふしんやくたかつじちょう)」です。内訳は、幕府領が51村・4万7480石余、旗本領が50村・4万590石余、忍藩領が14村・1万9987石余となっています。村数の合計が合わないのは、一村に複数の領主がいる相給と呼ばれる村々があるためです。高辻帳に記載された各村の石高が、利根川や荒川の堤防工事や用悪水路などの維持管理に必要な人足や資材を負担する際の基準となりました。これに基づき、幕府代官が忍領内の普請などを実施することとなったのですが、寛永19年に組合の管理が忍藩に移管されました。今風に言うと、国が設置した組合を地方に移管して管理させたということになりますが、忍藩が幕府の権限を代行して執行することになったともいえます。この役割は文政6年(1823)の国替えにより一旦は幕府に戻りますが、同13年には再度忍藩が担当することとなり、幕末まで用水管理と普請を管掌し続けたのです。「大御所となり駿府城(現静岡県静岡市)に生活の拠点を移していた徳川家康は、ニ代将軍の秀忠がいる江戸や忍・川越・岩槻・越谷へも頻繁に訪れた。忍城の周辺には沼地が点在していたため、水草が茂り、鷹狩の獲物となる水鳥も多く生息していた。後の忍城主阿部家の事蹟をまとめた「公餘録」には「御本丸ハ権現様殿之御跡」と記されており、かって忍城の本丸に家康が宿泊するための御殿が建てられていたことが判明している。」「忍領在々御普請役高辻帳 中村家文書 寛永12年(1635) 貞享3年(1686)水害の絶えない利根川と荒川の堤・井堰・堀等の維持・管理に要する費用を負担する流域村々を定めた文書。「忍領」と言われる地域に広がっていたため、忍領御普請組合と呼ばれた。組合に属する村は忍藩領だけではなく、本来は江戸幕府の役人が管理を行う。ところが、幕府は近世を通じて忍領御普請組合の管理を忍藩に担当させた。全国的にも珍しい事例である。」「鯱(しゃち)これは”しゃち”とよばれる想像上の生きものです。おしろの屋根や門の上にいて、火事がおきたときには口から水をはき、火をけしてくれるとかんがえられていました。ここにおかれているのは、江戸時代に忍城の屋根にあった”しゃち”です。長いあいだ、おしろを見守っていたんですね。」「阿部忠秋自筆覚書」。「現代語意訳覚え一、徳川将軍家を中心とする幕府を重んじ、そこへ仕えるにあたってあなたは昼夜とも油断してはならない。このようなことはわざわざ口にすることではないが、私たちはこれまで将軍から特別に取り立てていただいてきた。その恩は非常に深いものでありながら、それに報いるほどの働きをしないことは大変に無念なことである。第一にあなたは冥加のためにするべきことは、私たちに対しては言うまでもなく、先祖たちへの孝行なのである。また、将軍家への奉公にあたっては周りの様子を窺うのではなく、たとえ身の丈に合わないことであっても勤めるよう心掛けることが大切なことである。一、家臣として仕える者については、私たちが取り立てて信頼して仕える者であっても、その者の不忠・不義・無作法はもちろん、あなたの意に背く場合は少しの用捨をすべきてはない。しかし、行儀作法を謹み、忠義を重んじ、悪事を行わない者については、家来の上下にかかわらず信頼して取り立て、慈悲深く召すとよい。私たちが取り立てて信頼し用いる者のうら、右のような者たちはニ代にわたる忠義が浅いものではないということをよく承知しておきなさい。一、世の中が泰平てあるので、武土は武道の鍛錬を怠り、武芸の稽古をする者も少ない。また、身の丈に合わない贅沢をして、家業ではない浪費をし、内々に欲深く百姓を困窮させ、家中の同輩に道理に合わない処罰をして、倹約の筋を誤り、武士道の嗜みを怠り、生活が乱れた者もいるようである。わざわざ口にすることではないのだが、あなた自身の慎みが第一のことなのである。もっとも、家臣の下々に至るまで武士の生き方を忘れ作法を取り乱さぬように心を配ることが肝要なことである。右のとおり油断なく心に留めるように。そのほかについては注意すべきことはないので、右の趣旨をもって自ら考えていくようにせよ。寞文十一年六月廿八日豊後守(花押)阿部播磨守殿」「武蔵国の忍藩領 正徳2年(1712)時点」忍藩領は忍城の城付領だけでなく、荒川流域の秩父領や柿かきのき木領、近畿地方の摂津国にまで及び、所領高は10万石を超えていた。「文政6年(1823)の三方領地替え文政6年3月下旬、3つの大名家を転封させる「三方領知替え」が発令されたこれによリ、白河藩の松平定永が桑名(伊勢国)に、桑名藩の松平忠堯が忍(武蔵国)に、忍藩の阿部正権が白河(陸奥国)に移ることとなった。転封の理由については様々に推測されているが、白河藩が房総半島で行っていた海岸警備が遠隔地で大きな負担となリ、松平定永が場所を移リたいという願いを幕府に上げていたこと、阿部正権が病弱で「奉公を勤められるという確認」である将軍への初めての「御目見」を果たせていなかったこと、これらのニ点が大きなものと考えられているこうして、3家が転封されたことによって現在の3市の縁が作られた。」「松平 忠堯 系譜」松平 忠堯(まつだいら ただたか)は、江戸時代後期の大名。伊勢国桑名藩7代藩主、武蔵国忍藩主。官位は下総守。奥平松平家9代。享和元年(1801年)6月9日、桑名藩主・松平忠翼の長男として誕生。嫡出であったため、家祖・松平忠明の幼名である鶴松丸を名付けられた。文政4年(1821年)、父の死去に伴い藩主となり、文政6年(1823年)3月24日には三方領地替えにより、阿部正権の後の武蔵忍藩へ転封を命じられた。天保3年(1832年)、侍従に任官。天保9年(1838年)、弟・忠彦に家督を譲って隠居した。元治元年(1864年)8月14日、死去した。享年64。「近世の行田 忍城 二ノ丸御殿」。「近世の行田 忍城 二ノ丸御殿現在の忍中学校あたりは、かっての忍城二ノ丸にあたり、土塁、土塀に囲まれていた。この建物は、ニノ丸にあった城主の御殿であり、残されている絵図から再現したものである。そのおおよその規模は間ロ48.5間、奥行28間、総坪数608坪。室数72室。畳数755畳。廊下8ヶ所。厠11ヶ所。土間8ヶ所。湯殿2ヶ所である。周囲には、各係の詰める長屋が建てられていた。」軍服・甲冑が並ぶ。「軍服(複製)」 。忍藩士の鎧 「鉄錆地胸取横矧桶側五枚胴具足」。本甲冑(鎧兜)は兜・面頬・胴に中八幡義一の銘が入った非常に状態の良い具足です。中八幡義一は阿波蜂須賀家御抱え甲冑師として伝わります。兜の吹返には金銅(こんどう:銅や青銅に金めっきした物)金具が付き、胴には金で「丸に三つ柏」の家紋が描かれています。縁起の良い伊多羅貝(いたらがい)の前立と品のある美女相の面頬が特徴的な具足です。浅葱色(あさぎいろ)の縅糸も鮮やかで非常に美しい甲冑(兜鎧)です。「鉄錆地胸取横矧桶側五枚胴具足」「鉄錆色漆塗縦矧桶側ニ枚胴具足」。「鉄錆色漆塗縦矧桶側ニ枚胴具足忍藩士柴田家伝来 江戸時代兜は鉄板16枚をつなぎ合わせて漆を塗った十六間筋兜。忍藩主(奥平)松平家の合印である釘貫紋の前立を立てる。しころは鉄板5枚を黒漆塗として紺色で素懸威とした日根野形。胴は鉄板を縦につなぎ合わせて漆を塗った縦矧桶側ニ枚胴で、前立挙と胸板を黒韋(くろがわ)で素懸威とする。草摺(くさずり)は煉革(ねりかわ)5枚を黒漆塗として黒韋で素懸威とした七間五段下り。袖は鉄板6枚を黒漆塗として縹色(薄い藍色)の糸で素懸威にする。籠手は鉄錆色漆塗の六枚筒籠手。佩盾(はいだて)は鎖に鉄製漆塗の骨牌金(かるたがね)を綴じる。」「近世の行田 城下町のくらし 町のようす」。「近世の行田 城下町のくらし 町のようす城下町行田は、阿部氏の整備によりその基礎が定まり、(奥平)松平氏の移對により拡張され、今日に至っている。城下町特有の間口が狭く、奥行が長い地割りは今でも残されている。江戸時代にはこの町もたびたび大火にあい、特に弘化3年(1846 )の大火では町の大半を焼失した。この時以来、土蔵造りの家は火に強いと、本町や新町に多く造られるようになったといわれる。」「日本遺産 足袋蔵のまち行田」。「足袋と行田」ゾーンでは、「行田における足袋製造の歴史」👈リンク を学ぶことができた。行田は近世より足袋の産地として知られた地域。明治中期にミシンや裁断機が導入され、大量生産が可能となり、最盛期の昭和戦前期には全国生産量の80%を占めていた。ここ行田市郷土博物館が開館以来、長年にわたり収集・整理を行ってきたもので、行田の地場産業として営まれてきた足袋製造に関する用具と、製品や販促品等の関係資料から構成されていた。製造用具は全工程を手作業で行っていた時代の用具から、分業に特化したミシンは裁断機等、機械化以降の用具までがあり、我が国における製造業が近代的な製造形態へと移行していく流れを読み取る上でも重要な資料です。関係資料には行田で製造された製品や付随する販促品、足袋屋の店舗で使用された様々な物品等が含まれています。資料を通じて、製造のみならず販売も自ら行う足袋屋が個々に併存し、地域総体の産業として発展したという行田足袋の地域的な特色が窺えたのであった。「裁断機」。「裁断機・・・・・?????足袋生地の上に裁断用の型を置いて、手動で上からハンドルで押し、抜き打ち裁断する機械」。底型 足袋の底の部分 親指と人差し指の間の 指の股にスリットが入っています。 人間の全体重を支えます。四ツ型 人差し指、中指、薬指、小指の四本の指が入る側、前に進む力を作るなど指が快適に包まれて いることが大切です。親型 親指が入る側 踏ん張ったり、バランスをとったりするのに指が自由に動かせることが重要です。「掛通しミシン」。掛糸通しという工程です。かかとで止め金(甲馳=コハゼ)を掛けるための糸(掛糸)を親型に一気に通します。甲馳に対して寸法を気をつけないと履き心地がよくない。二度通しをしないこと、よりの戻った糸は使わないことで、足の動きを快適にしています。「掛通しミシン甲馳(こはぜ)の掛け糸を付けるミシン。生地のカカト部分に針を刺して引き抜くことで糸を通す。布同士の縫い合わせに使われるミシンと比べて大きく異なる形が特徴。」「甲馳付けミシン」「甲馳付けミシン生地に甲馳を縫い付けるミシン。甲馳形のくぼみがついた専用の板を生地の上に置き、くぼみに甲馳を並べて、その上をまっすぐに一往復縫う。針は甲馳に開けられた3か所の穴を的確に通り、甲馳を傷つけない仕みになっている。」「爪縫いミシン」「爪縫いミシン爪先を縫うミシン。生地に均等な大きさのひだを寄せながら縫い、爪先を立体的に仕上げる複雑な動きをする。元は革靴を縫うために使われていたドイツ製のミシンを足袋製造用に改良したもので、通称「ドイツ八方」と呼ばれる。爪縫いは足袋の履き心地を左右する重要な工程であり、また非常に繊細な作業であるため、爪縫いミシンを扱うには熟練した技術が必要とされる。」「廻しミシン」。「廻しミシン爪先を縫った後、残りの部分を縫って底と甲とを縫い付けるミシン。」「仕上げをする職人」。横から。「仕上げをする職人(チャセンとツッコミボウを使う様子)縫い終えた足袋の形を整える一連の作業を「仕上げ」と呼ぶ。見た目以上に力が要るため、主に男性の職人が担う。」左:「紺紐足袋」右上:「刺し子の紺足袋」右下:「東海木曽両道中懐宝図鑑」「紺紐足袋紐足袋の一種。踵(かかと)側に穴が開いており、内側から紐を通して締め具合を調節できる」「刺し子の紺足袋爪先など、すりきれやすい部分に刺し子(補強用の刺繍)を施し、頑丈に作った足袋。「東海木曽両道中懐宝図鑑」に出てくる「忍のさし足袋」は、刺し子の足袋を示すと考えられる。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.05
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そして「行田市郷土博物館」を訪ねた。「博物館総合案内」かって御三階櫓は、現在の水城公園の付近に建っていましたが、忍城の解体にともない破却されました。現在、忍城址に再建された御三階艪には、郷上博物館の渡り廊下から入ることができ、内部は「忍城と城下町」「近代・現代の行田」を紹介する展示室となっていた。●博物館展示室 ◆テーマ1『中世の行田』 成田氏の忍城築城から1590年の石田三成らによる水攻めにより開城するまで ◆テーマ2 『近世の行田』 江戸時代の忍城主のうつりかわりと忍藩の教育・文化遺産 ◆テーマ3 『足袋と行田』 江戸時代からの足袋製造の歴史と一つの足袋がてきるまての縫製工程 ◆テーマ4 『古代の行田』 古墳を中心とした古代のくらし●三階櫓展示室 (博物館と2階展示室とが連絡通路で結ばれています) 2階展示室 ◆テーマ5『忍城と城下町』 忍城・城下町のくらしと生活道具 3階展示室 ◆テーマ6『近代の行田』 明治以降から昭和30年代頃までの町並みとくらしのうつりかわり 4階展望室 晴れた日には筑波山から日光の山々、さらに群馬三山から富士山までの山並みが 360°の眺望により見ることができます。 入館料:200円/大人 と。「行田市郷土博物館」入口。「ブラタモリ」が7月15日(土)に放送されたのであった。入館料を支払い中に入る。忍城周辺のジオラマ模型。忍城は北に利根川、南に荒川が流れる扇状地に立地。沼地や自然堤防を巧みに利用している。浮き城や亀城とも呼ばれた と。こちらは「忍城」のジオラマ模型。ズームして。「このお城はマッチ棒3,800本を使用して制作したものです」と。「博物館内&御三階櫓」内略図。「歴代忍城主の家紋」が並ぶ。「歴代忍城主の家紋」右から●丸に三つ引き 《成田氏》 戦国時代前期から天正18年(1590) 7月まで 成田顕泰・成田親泰・成田長泰・成田氏長●丸に三蝶の内十六菊葉 《大河内松平氏》 寛永10年(1633) 5月から寛永16年(1639) 1月まで 松平信綱●丸に違い鷹の羽 《阿部氏》 寛永16年( 1639 ) 1月から文政6年( 1823 ) 9月まで 阿部忠秋・阿部正能・阿部正武・阿部正喬・阿部正允・ 阿部正敏・阿部正識・阿部正由・阿部正権●丸に三つ葉葵 《東条松平氏》 天正1 8年( 1590 ) 7月から慶長5年( 1600 ) 10月まで 松平忠吉 《奥平松平氏》 文政6年(1823) 9月から明治4年( 1870 ) 7月(廃置県)まで 松平忠堯・松平忠彦・松平忠国・松平忠誠・松平忠敬まずは第1展示室へ5世紀後半、忍城は忍川の流れ込む沼地に築城されました。展示室では、伝来した城絵図や忍城跡の発掘調査によって発見された資料の数々から、往時をしのぶことができます。天正18年(1590年)の忍城水攻めの経緯についても、戦国武将の書状や石田堤の想定図等から知ることができます。「はじめにわたしたちの郷土『行田』は、水と緑に恵まれた豊かな自然の中にあります。今日の行田を築き上げてきた、わたしたちの祖先は、豊かな自然の中にその歴史を深く刻み込み、また、多くの文化遺産を残してまいりました。長い行田の歴史と多彩な文化を通観すると、大きな三つの特色があります。ひとつは、忍城の栄枯盛衰と城下町の移り変わり。次に「足袋の行田か行田の足袋か」といわれた足袋製造の歴史。最後に埼玉古墳群を中心とする古代の歴史と文化です。常設展示では、この三つの特色を中心にして・行田の歴史と文化が理解できるように構成されています。」「中世の行田」。展示室を望む。「中世の行田 築城と水攻め 成田氏の台頭」天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原城攻めの中で小田原北条氏に属していた成田氏の本城忍城(おしじょう、埼玉県行田市本丸)は石田三成の水攻めにも屈しなかったことで有名です。戦国時代、行田周辺の武蔵武士の中から崎西郡成田郷(きさいぐんなりたごう・現在の熊谷市上之)を出自とする成田氏が台頭し、忍城を築城します。文明11年(1479)、古河公方足利成氏(あしかが・しげうじ、1438~1497)の書状に「忍城」「成田」と出てくるところから既に築城されていたと判断されます。当時の城主は成田顕泰(なりた・あきやす、1465?~1524)で、その後親泰、長泰、氏泰と4代に亘り約100年間忍城を支配していました。忍城が築城された地勢状況は北側に利根川、南側に荒川にはさまれた扇状地で小さな川が乱流し、伏流水が集まって広大な沼地となっている地形を背景に、小島や自然堤防を巧みに利用して造られています。永禄3年(1560)越後から上杉輝虎(謙信)の関東出陣に際し成田氏はそれまでの小田原北条氏の「他国衆」の立場を離れ旧宗主に属したものの、鶴岡八幡宮に於ける関東管領就任式において辱めを受ける事態になりこれを機に輝虎(謙信)と敵対関係となり再び北条氏の傘下に入ります。天正18年(1590)いわゆる豊臣秀吉による小田原北条氏討伐に際しては、同氏に属している成田氏は城主氏長(うじなが、1542~1596)は精鋭の家臣を引き連れ、他の他国衆の城主と共に小田原城に籠城、忍城に残された士卒・兵・農民ら数千人は忍城に籠城します。秀吉の使命を受けて石田三成は忍城を攻めますが、堅城の忍城を攻めあぐね、ここで水攻めにより一挙に落城させ秀吉の期待に応えたいと考えます。ここで後世に名を残す約30Kmとなる「石田堤」を造りますが、忍城籠城兵による細工で堤防決壊、逆に石田側の将兵が水死することになり散々な状況に置かれます。最終的には忍城は落城回避されますが、小田原城籠城の成田氏長が秀吉方に内通し功を挙げたことで忍城城兵の助命を受け入れる形で結果開城することになります。「六条八幡宮造営注文建治元年(1275)に行なわれた京都の六条八幡宮造営に際して、その費用を負担した御家人の名前と額を書き記したもの。また成田入道や若児玉次郎、忍入道、津戸入道、久下権守、熊谷三郎入道、西條人々、別符左衛門尉、須賀入道など、行田や熊谷周辺の御家人の名がみえる。」展示品をさらに追う。「天正年間 武蔵忍城之圖」。ズームして。「忍城址発掘出土品」「馬の頭骨 戦国時代本丸東側、諏訪曲輪との間の堀底から見つかった。頭頂部を下にして、右側頭部を堀に架かる橋の橋足で貫かれており、工事の段階で意図的に置かれたものと考えられている。」「土師質土器」、「忍城出土の各地の陶磁器」。「板碑・大日種子板石塔婆(だいにちしゅじいたいしとうば)」鎌倉時代形状:高さ193cm、幅64cm、厚さ8cm。板石塔婆は、板碑(いたび)とも呼ばれ、鎌倉時代以降盛んに造られました。秩父青石(ちちぶあおいし)といわれる緑泥片岩(りょくでいへんがん)等を使った石碑の一種で、一般的に死者の霊を供養するために造立されました。「大日種子板碑 県指定 嘉禎(かてい)2年(1236)佐間大日塚古墳の墳上にあった市内最古の板碑。初期板碑特有の重厚さをもつ。主尊は金剛・胎蔵両界大日如来。造立者「左近将監」が、彼岸に際し、父母の現世と来世の冥福を祈り造立したものである。」「中世の行田 築城と水攻め 祈りの造形--板碑--板碑は、死者の冥福を析る追善供養のため、また生前に自らの死後の冥福を析る逆修供養のため造立されるもので、この地域では、秩父産の緑泥片岩を使用している。行田市には、現400基余りが確認されている。最も古い例は、嘉禎2年(1236)で、最も新しい例は、元亀2年(1571)である。」中央の大きな「板碑」。「阿弥陀種子板碑 市指定 建治元年(1275)市内最大の大型板碑。今はなき主君の冥福と生きとし生けるものへの功徳を願い造立したもので、供養者の「沙弥西念」は在地の領主層と目される。中断には六字名号と図案化した五輪塔を併刻。阿弥陀種子は三宝珠を伴う。」「阿弥陀種子板碑 市指定 元応3年(1321)」元は市内小針地区にあったものを、史料館に移動した。鎌倉時代形状 :高さ216cm、幅52cm、厚さ8cm。「阿弥陀種子板碑 市指定 元応3年(1321)阿弥陀3尊の主尊に梵字光明真言の組合わせという、典型的な武蔵型板碑の内容をもつ。銘文は文字不明の部分もあるか、春彼岸(「ニ月時正」)、故人の三十三回忌の追善供養のために造立されたことかわかる。」「いたび 板碑この大きな石の板は、板碑とよはれるものです。きざまれているもようには、なくなった人をなぐさめ、平和をねがう、いのりの心がこめられています。この板碑のざいりようは、緑泥片岩というしゆるいの石です。秩父の山からたくさんとれる石で、この板碑も秩父の石で作られたと考えられています。」「板碑の形態」。板碑の形態は、頭部を三角形にし、2条の溝が刻まれ、梵字(ぼんじ)(種子(しゅじ))や画像で主尊とする仏(阿弥陀(あみだ)、大日(だいにち)、釈迦(しゃか)、地蔵(じぞう)、観音(かんのん)など)を表現し、その下に銘文が刻まれているのが一般で、この形態の起源については諸説があるが、五輪塔の形態が転化したものとする説が現在もっとも有力である。「中世の行田 築城と水攻め 忍城水攻め天正18年(1590)6月、天下統一を進める豊臣秀吉は、成田氏一族や家臣が立て籠もる忍城を攻めるため、石田三成を大将とする2万の軍勢を派遣した。着陣した三成は水攻めを行うため、忍城の東側から南側にかけて長大な堤を築いた。これに浅野長吉らの武将が加わり、皿尾口などで成田軍と激しい戦いが行われた。しかし、小田原城が降伏したため、忍城を7月14日に開城した。」右に「豊臣軍関東進撃図/天正18年(1590)」と「石田堤想定図」。「豊臣秀吉朱印状(複製) 天正18年(1580)6月12日」「豊臣秀吉から石田三成に宛てた朱印状。三成に対して、水攻めを行う前の施策としてさまざまな指示を与えている。忍城内から命乞いが出されていることや、水攻めをすれば隣郷が荒地となるため、足弱(老人や婦女子)以下は端城に避難させ、岩付城(さいたま市)同様に鹿垣(第・木でつくった橋)内に留置すること、三成を信用しているので別の奉行は派道しないこと、城内の家財道具を散逸させないようにすべきことなどが命じられている。」「忍之城儀、可被加御成敗旨、堅雖被仰付候、命迄儀被成御助候様与、達而色々歎申由候、水責ニ被仰付候者、城内者共定一万計も可有之候歟、然者憐郷可成荒所候間相助、城内小田原ニ相籠者共足弱以下者端城片付、何茂請取候、岩付之城同前ニ鹿桓結廻入置、小田原一途之間者、扶持方可申付候、其方非可被成御疑候間、別奉行不及被遣之候、本城請取急与可申上候、城内家財物共不散様、政道以下堅可申付候也、 六月十二日 (秀吉朱印) 石田治部少輔とのへ」「読み下し忍の城の儀は、御成敗を加えらるべき旨、堅く仰せつけられ候といえど、命までの儀御助けなられ候ようと、たって色々歎き申すよし候、水責めに仰せ付けられ候は、城内の者ども、定めて一万ばかりもこれあるべく候か、しからば憐郷荒所になるべく候間相助け、城内・小田原に相籠る者共・足弱以下は端城へ片付け、いずれも請け取り候、岩付の城同前に鹿垣結廻し、入れ置き、小田原一運の間は、扶持方申し付くべく候、其方御疑を成さるべきに非ず候間、別奉行はこれを遣わさるに及ばず候、城内家財物共、散らさざるよう、政道以下堅く申し付くべく候也6月12日(天正18年) (朱印) (豊臣秀吉) 石田治部少輔」大意)忍城を落としなさいと、きびしく命じました。しかし、命をお助け下さいと、歎願してきたとのことです。水攻めを命じたのは、城内に一万人はいるに違いないから、郷村が荒れる違いないので、それではあまりに気の毒で手を差し伸べようとしたからです。忍城内や小田原城に立て籠もっている者のうち、足軽以下は支城へ移動させ、忍城・小田原城を落城させるようにしなさい。岩付城は忍城と同様に鹿垣をめぐらせ、小田原北条のためと必死に立て籠もっている者へは、食糧をしっかり与えるよう命じ、籠絡しました。このまま落城できなければ、その方の非を疑うようになるでしょう。しかし、別の指揮官を派遣することはしません。忍城を落城させると必ず報告するようにしてください。落城の際城内が散らかっていることがないように、兵士への仕置を必ず行うよう、ここに命じます。■忍城水攻めの経過。忍城は要害堅固な城であったことから戦国時代には関東七名城の一つとなっており、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の小田原征伐に伴い発生した攻城戦の際、豊臣方の水攻めに耐え抜いた逸話から浮き城または亀城と称されていました。「増補忍名所図会 明治16年(1883)2月23日写忍城周辺を東西南北に分け、それぞれ名所旧跡、伝承などを記した地誌。洞季香斎が文政8年(1825)に記した「忍名所図会」を忍藩士岩崎長容が天保6 (1835)、11年とニ度にわたり増補改訂した。全四巻からなる。第一巻に石田三成が丸墓山(麿墓山)に陣を張ったとの記載がある。「天正年中忍城水攻の時、石田三成此山に本陣をかまへ城中に石火矢を打入れんと窺いしに、城中さだかに見えず。誤て忍遍照院へ打込たりとかや。此山より城中まで路程ハ、九町もあるべし。山上より行田を望む風景よろ◯◯記るされている。」■忍城と城主のうつりかわりズームして。「天正年間武蔵国忍城之図」(1573年~1592年)。天明年間の「忍御城内外絵図」(1781年~1789年)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.04
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そしてこの日の次の目的地の「続日本100名城・忍城(おしじょう)」の「郷土博物館」の駐車場に到着。駐車場が本丸跡になっているのであった。1949年(昭和24年)10月にはここ本丸跡に行田市本丸球場が造られたが後に移転し、1988年(昭和63年)2月17日にはその跡に行田市郷土博物館が開館、御三階櫓は博物館の一部として「忍城鳥瞰図」や文献などを元に、鉄筋コンクリート構造によって外観復興されている。ただし位置や規模は史実とは異なり、内部は展望室や行田の歴史を写真や資料で紹介する展示室として利用されている。また、周囲には土塁の一部が残存している。2017年(平成29年)、続日本100名城(118番)に選定された。 埼玉県行田市本丸17−23。正面に「高麗門」。駐車場隅にあった「忍城御本丸跡」碑。「忍城」周辺の「行田市内 観光案内図」。ここ「忍城」は、以前にも2度ほど来ており、その時に頂いた「行田市郷土博物館」のパンフレットの写真。「忍城は室町時代にあたる15世紀後半に成田氏により築城された城郭です。戦国時代の終わりに豊臣秀吉の関東平定に際し石田三成らによる水攻めをうける中、小田原城の降伏後に開城しました。その後、松平家忠による城郭の修復が済んだのち、徳川家康の四男松平忠吉が城主となります。三代将軍家光の治世には、松平信絅、阿部忠秋が城主となり、以後185年間は阿部家の居城となります。文政6年( 1823 )には伊勢国桑名から国替えとなった(奥平)松平家が城主となり、明治維新、廃藩を迎えます。明治6年( 1873 )に忍城は解体されましたが、現在博物館の周辺にある本丸上塁の一部や櫓の石垣に使われた間知石から当時を偲ぶことがぞきます。」と。「行田市郷土博物館」入口門。「行田の足袋製造用具及び関係資料」が「国重要有形民俗文化財」に2020年3月16日に指定されたと。「有形民俗文化財」とは日本の衣食住、生業、信仰、風俗慣習、民俗芸能、民俗技術といった無形の民俗文化財に用いられる衣服、器具、家屋など形のある資料のことであると。右手がこの後に訪ねた「行田市郷土博物館」入口。さらに奥に進む。「忍城址案内図」。「足袋蔵歴史のまち 蔵めぐりモデルコース」案内板。「蔵めぐりモデルコース」。足袋蔵のまち行田へようこそ足袋蔵と行田市の近代化遺産行田市は江戸時代中頃なら足袋づくりが大変盛んで、最盛期の昭和13年には年問約8500万足、全国シェアの約8割の足袋を生産する"日本一の足袋のまち"として繁栄していました。市中心部には、足袋蔵と呼ばれる足袋の商品倉庫を中心に、その栄華を伝える洋風足袋工場、北側~西側だけを蔵造りにした行田独特の店蔵や住宅など、足袋産業関連の近代化遺産な数多く残されています。近年行田市では、こうした近代化遺産の保存が進められてあり、武蔵野銀行行田支店店舗、十万石ふくさや行田本店店舗、大澤家旧文庫蔵などが国登録有形文化財に登録されています。また、忠次郎蔵、彩々亭、足袋蔵まちづくりミュージアム、足袋とくらしの博物館などさまざまな形での再活用もおこなわれています。」左手前方に「忍城の鐘」。忍城の数少ない遺構として、時鐘(じしょう)があった。この鐘は、1717年(享保2年)に伊勢桑名藩主・松平忠雅によって鋳造され、1823年(文政6年)に松平氏が桑名藩から忍藩へ移封されるのにともなって、忍城へ移されたものであると。忍城の二ノ丸にあり、時の鐘として時刻を知らせていたと。「史跡 忍城の鐘」碑。末広がりの袴のようなクラッシックな造りの鐘楼であった。平安時代頃からはじまり、鎌倉時代に多く建てられたとされる「袴腰付き鐘楼」と呼ばれる様式であると。さいたま景観賞を平成8年に受賞し、これを記念した「都市景観大賞」の「受賞記念碑」。同年平成8年(1996年)、行田市長名で設置したようだ。『都市景観大賞』は、国土交通省が主催して平成3年(1991年)に始まり、景観に関する優れた地区・活動に対し表彰が行われているのだ と。「湧き水」が絶え間なく。更に進むと正面に「東門」が。「忍城の由来忍城(おしじょう)は文明十年(一四七八)頃、成田顕泰(あきやす)により築城された「守り易く攻めにくい」難攻不落の名城であったと伝えられている天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の関東平定の中で戦われた石田三成による忍城水攻めにも耐えこの城は水に浮くのかと恐れられ「忍の浮城」とも称されたという寛永十六年(一六三九)時の老中 阿部忠秋が入城し忍城大改築に着手 孫の正武(まさたけ)の代にいたり忍城御三階櫓の建設 城門 土塀の修築などが完成し面目を一新したという文政六年(一八二三)伊勢の桑名から松平忠堯(ただたか)が移封し忠誠(ただざね)のとき明治維新を迎えた市では維新後とりこわされていた城郭の面影を再建し永く後世に伝えることになった。」この付近は諏訪曲輪。東門は忍城のどこかの門であって、移築されたとのことだが元の場所は不明だと。様々な色彩の風車が竹製の和風格子状衝立に貼り付けられていた。近づいて。東門を潜ると堀には太鼓橋が現れた。「忍城址」碑。堀に架かる太鼓橋・あずま橋を渡る。太鼓橋から「模擬御三階櫓(もぎおさんがいやぐら)」を見る。堀には大きな鯉が。太鼓橋の擬宝珠(ぎぼし、ぎぼうしゅ)越しに東門を振り返る。御三階櫓とは、日本の城における天守建築の呼称のひとつである。天守とは城を象徴する建物であり、3階建て、5階建てなどの域内でも最も高層の建築となることが多く、通常は城の主が指揮をとる場所である。しかし、江戸時代には天守建築の形状であっても、天守閣とは呼ばずに御三階櫓と称された物もあった。これは、江戸城の天守が明暦の大火によって焼失し、そののちは再建をしなかったことから、徳川家へ遠慮をして使われた呼称である。特に関東では、小田原城と沼田城を除き、3階建ての天守建築は御三階櫓とされた。石川県の金沢城のように、5階建ての構造でありながら御三階櫓と称された物もある。現存する御三階櫓では、ここ忍城や青森県の弘前城の物などが知られる。「模擬御三階櫓」と同じ時期の昭和63年(1988年)に復興された「東門」。かつての御三階櫓は、現在の水城公園付近にあたる位置に建っていたが、明治時代の忍城解体にともない破却された。現在の御三階櫓は、郷土博物館の開館に合わせて昭和63年(1988年)に場所を移して再建され、内部は展示室として見学することができたのであった。「『陸王』ロケ地めぐり 忍城址」案内ボード。TBS日曜劇場『陸王』( 2017年10月~12月放送)宮沢紘一(役所広司)が試作ランニング足袋を履いて走るシーンや、宮沢大地(山﨑賢人)と友人が語りあうシーン、茂木裕人(竹内涼真)らダイワ食品選手が走るシーンなどが撮影されました。宮沢社長をはじめ、こはぜ屋のメンバーが何か考え事をする時によくここを訪れていました。」白塀の奥の「東小路」には様々な色の傘のアート展示が。展望ベンチに座り、「御三階櫓」を見上げる。この御三階櫓は実物より大きく外観も異なっており、分類としては模擬櫓になるとのこと。ベンチで暫し休憩して、来た道を引き返す。行田市のマンホール蓋は忍藩10万石の城下町を今に伝える忍城址のシンボル「御三階櫓」と、市の花「キク」を中央に配置し、周囲に市の木である「イチョウ」の葉を 並べたデザインとなっていた。「東門」入口から「御三階櫓」を再び見る。「模擬城門」の扉の光景。柱や扉などに、補強の金属が施され、「鉄門(くろがねもん)」のような光景。立派な石垣の上に建つ「御三階櫓」。「御三階櫓」を支える石垣。「忍城櫓の石垣」が下に並んでいた。「忍城櫓の石垣城内にあった櫓に使用された石垣。元禄十五年(一七〇ニ)に三階櫓一棟、ニ階櫓ニ棟が建てられたが明治六年(一八七三)の廃城により解体された。」この後歩いた「行田市郷土博物館」から「模擬御三階櫓」への連絡通路。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.03
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「丸墓山古墳」を下り、古墳の周囲を時計回りに進む。古墳脇にある石仏群。元々は墳頂に建てられていたとのこと。全部で7基あり、手前は延宝元年(1673年)建立、岸海上人とある。隣は寛文七年(1667)の庚申塔(三猿の像:見ざる、聞かざる、云わざる、二鶏)。庚申塔としては古い部類だ。この周辺地域には、寛文年間建立の古い庚申塔が数多く分布しているのだ と。引き返して反時計回りに進み、下から「丸墓山古墳」を見上げる。発掘調査により、埼玉古墳群で唯一、葺石(古墳の外表面に貼られた石)をもつ可能性があることがわかりました。埋葬施設については未発掘のためわかっていません。前方に「稲荷山古墳」の全貌が現れた。前方後円墳の前方墳を見る。「稲荷山古墳全長120mの前方後円墳です。周囲には長方形の堀が中堤をはさんてニ重に巡り、墳丘くびれ部と中堤には造出しと呼ばれる張出しがあります。古墳が造られた時期は、5世紀後半ころと考えられ、埼玉古墳群の中で最初に造られた古墳です。前方部は、1937年に土取りエ事て失われましたが、2004年に復原されました。1968年の発掘調査ては、後円部からニつの埋葬施設か発見されました。そのうち礫槨(れきかく)はよく残っており、多くの副葬品が出土しました。その一つてある鉄剣からは、1978年に115文字の銘文が見出され、他の副葬品とともに1981年に国宝に指定されています。平成19年(2007年) 埼玉県教育委員会」「稲荷山古墳」。Googleマップから。前方墳の階段を上って行った。規模・形状墳丘長120.0メートル後円部径62.6メートル・高さ10.4メートル前方部幅82.4メートル・高さ9.4メートル(推定)後円部西側の裾部に(左くびれ部分に)は造り出しがある。前方部長軸は富士山に向いている。墳丘は二段に築成されており、葺石が使用された形跡はない。方形をした二重の周濠を持ち、濠の深さは築造当時の地表面から約1.8メートルと推定されている。周濠は通常は空で、水位が上がったときに水が溜まったものと考えられている。「前方墳」から「後円墳」に向かって進む。この稲荷山古墳の円墳部頂上に立ち前方部を見ると、中心線の先に富士山が見えることは研究者の間では有名な話であるとのこと。同じ埼玉古墳群にある二子山古墳と、鉄砲山古墳も、規模こそ違うが大仙陵古墳と全くの同形である。また二子山古墳は、武蔵国最大の前方後円墳である。埼玉古墳群の中で、稲荷山古墳と二子山古墳、鉄砲山古墳は、同じ形をして、斜め並列に並び、前方部を三基ともが富士に向けている。三つの古墳とも、後円部から西に突出部があることが特徴的である。稲荷山古墳は5世紀後半に築造され、二子山古墳は6世紀前半、鉄砲山古墳は6世紀後半築造である。稲荷山古墳が指す富士山への直線を、富士からさらに延長すると、前回も採り上げた富士山南山麓にある山宮浅間神社に繋がるようである。横にある二子山古墳の直線は、静岡市の静岡浅間神社の山宮である麓山(ふもと)神社に到達する。そして、鉄砲山古墳のものは、富士宮市の富士山本宮浅間大社を指している。さらに、稲荷山古墳の真北を見てみると、日光に栃木を代表する山である男体山が鎮座している。男体山は、およそ7000年前に噴火を起こし、その時の姿を円錐形のまま残す名山である。また北アルプスにそびえる乗鞍岳は稲荷山古墳の真西に位置しているのだと。後円墳の円頂に到着。後円部の円頂には埋葬施設の復元模型があった。ちなみに、埼玉古墳群内の大型古墳で登ることができるのは、丸墓山古墳とこの稲荷山古墳である。墳頂部の礫槨。「国宝 武蔵埼玉稲荷山古墳出土品115文字が刻まれた金錯銘鉄剣には、剣を作らせたヲワケという人物の8代にわたる系譜と、ヤマト王権に代々仕えていたことなどが記されています。多彩な副葬品とともに、古代国家の成立を読み解く第一級資料として、1983年に国宝に指定されました。これらの資料は詳しい解説とともに博物館に展示しています。」「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」。「埼玉県立さきたま史跡の博物館」の「金錯銘鉄剣」の展示品(レプリカ)。「剣は両刃」、「刀は片刃」を表します。この時代はまだ剣が主流であった。鉄剣に刻まれていた文字。表面「辛亥しんがいの年とし七月中しちがつちゅう記しるす。乎獲居臣おわけのおみ、上祖かみつおやの名なは意富比垝おとひこ…。」「辛亥しんがいの年とし」とは西暦471年のこと。裏面世々よよ、杖刀人じゅとうにんの首くびと為なり、奉事ほうじし来きたり今いまに至いたる。獲加多支鹵大王わかたけるのおおきみの寺てら、斯鬼宮しきのみやに在ある時とき、吾われ、天下てんかを佐治さじし、此この百錬ひゃくれんの利刀りとうを作つくらしめ、吾わが奉事ほうじの根源こんげんを記しるす也なり。現代語訳代々大王の親衛隊長として朝廷に仕えてきた。ワカタケル大王の寺が斯鬼宮しきのみやにあったとき、私は大王おおきみを補佐したので、この立派な刀にその由来を書き残すことにした。表(おもて)面の拡大。裏面の拡大。史料の本文中に出てくる「獲加多支鹵大王わかたけるのおおきみ」とは雄略天皇ゆうりゃくてんのうのこと。「稲荷山古墳 礫槨1968年の発掘調査で、後円部の頂上から発見された埋葬施設です。舟の形に掘った竪穴に河原石を貼り付けて並べ、その上に棺を置きました。棺や衣服などの有機物は残っていませんでしたが、副葬品の出土位置などから被葬者と木棺の位置が推定できます。実物の礫槨は、地下1mに保存されています。」1968(昭和43)年の発掘調査で、後円部の頂上(地下)に埋葬施設が発見された。舟形に掘った竪穴に河原石を貼り付けて並べ、そこに棺を置いたもので「礫槨(れきかく)」という。こちらからは金錯銘鉄剣や勾玉など多数の副葬品が出土したのだと。廻り込んで。「稲荷山古墳 粘土槨」。「稲荷山古墳 粘土槨この埋葬施設は素掘りの竪穴に粘土を敷き、その上に棺を置いたと推定されます。盗掘の被害を受けたため、出土した副葬品は少量の武器や馬具などの破片でしたが、礫槨出土品とともに国宝に指定されています。」後円墳の円頂から前方墳を見る。天気次第では、この先に富士山の勇姿が見られるのであったが。後円墳頂から、この日は時間の関係で訪ねなかった「将軍山古墳」👈リンク を見る。「稲荷山古墳」を後にして、「二子山古墳」方向に進む。「二子山古墳」を見る。「将軍山古墳」をズームして。「二子山古墳」。「二子山古墳」脇を南に進む。「鉄砲山古墳」案内板。「二子山古墳」を振り返る。「二子山古墳全長132mの前方後円墳です。かっての「武蔵国」(埼玉県、東京都、神奈川県の一部にあたる)で最大の古墳です。周囲には、長方形の堀が中堤をはさんでニ重に巡り、墳丘くびれ部と中堤には造出しと呼ばれる張出しがあります。現在遊歩道になっている高まりが中堤にあたります。内堀は、今は水堀になっていますが、古墳が築造された当時は水はなかったと考えられています。本格的な発掘調査はされていないため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など、詳しいことはまだわかっていません。出土した埴輪の形から、古墳の造られた時期は、6世紀初め頃と推定されています。 平成20年(2008年) 3月埼玉県教育委員会」「二子山古墳」平面図。「前方墳」をみる埼玉古墳群の古墳の大きさ「古墳通り」を右折して駐車場に向かって進む。左手にあったのが「行田はにわの館」。ここが「さきたま史跡の博物館」👈リンク 入口。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.02
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次に訪ねたのが、「さきたま古墳公園」。第2駐車場に車を駐め散策開始。「埼玉県発祥の地 行田」観光案内板。現在地を確認。「さきたま史跡の博物館」、「稲荷山古墳/丸墓山古墳」、「将軍山古墳展示館」案内。「さきたま古墳公園 案内図」。近づいて。「二子山古墳と祈りの器」展が7/15~8/31に開催されると。前方右手に寺の山門が。「天祥寺由来旧幕時代大名の数、ニ百七十余藩というが、拾万石以上は五十余のみ、而も大名格の溜間詰は最高の格式にして、井伊大老、松平下総守外六家に過ぎず、御三家、加賀百万石より上位なり。初代忠明公は家康の外孫、初代唯一の大阪城主として大阪復興にあたり、後に姫路城主となり西国探題の名君たり。天祥院殿と法名す。即ち天祥寺開基、京都妙心寺に現存する塔頭、天祥院の本寺たり。九代忠堯公、桑名より忍に移封、天祥寺を今の埼玉に建立、十一代名君忠国公、十ニ代忠誠公の三君、この蛍域の地下に眠る。近時、この地、風土記の丘と称し、古墳群を埼玉県名発祥の地として自然公園とす。現在松平家の墓所は行田市の交化財の指定を受けて目下大方の檀家のご協力を得、加藍建立途上にあります。」「山門」を正面から。「臨済宗 妙心寺派 天祥寺」掲示板。「求める心のない奉仕がまことの布施である。」「聖観音像」。「ご案内この仏像は聖観音様です大きな御慈愛の仏様です当山では、聖観音様の足下に永代供養墓を造営しました以前の宗旨、宗派は問いませんお先軽にご相談ください臨済宗妙心寺派 海東山 天祥寺」歌人 濱梨花枝氏の歌碑。「東方より 光は射すと 玉の柩 現れて輝る 一ふりの剣」このうたの意味は、【日本の東の地方から 古代史の道を開くという 美しい柩 その中から現れて輝く 一振りの剣】即ち、【日本の東の地方(埼玉)から美しい一振りの剣が現れて、不明であった日本の歴史の一部を説明する希望の光が射した】という意味で「金錯銘鉄剣」を讃えたもであると。「歌人濱梨花枝先生は 行田市埼玉のご出身で 先生の歌碑建立の企ては 埼玉地区 全域の有志によって結成された当委員会によって昨年二月以来着々と進められました。埼玉県知事畑和先生をはじめ県内外の多数の方々のご協力をいたゞき多額の資金の拠出を賜り県立さきたま風土記の丘の中に建立の運びとなりました 建立の所以は濱先生の歌に託して 県名発祥の地とされる郷土の大地のこゝろを永くとゞめたいと念するところににあります 有形無形にご協力下さった多くの方々に満腔の感謝を捧げ 建立の概略を録して 雅見に供します。昭和五十八年三月十三日 濱梨花枝先生歌碑建立委員会」ここの「蓮池」には蓮の姿はなかった。ここにも「さきたま古墳公園案内図」。「丸墓山古墳(まるはかやまこふん)」入口の先の一段高い道の両脇には桜並木が。右手には「史跡埼玉村古墳群」碑。「丸墓山古墳」案内板と「さきたま古墳公園」案内板。「石田堤(いしだづつみ)この一段高い桜並木は、天正18年(1590)に豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命(めい)を受けた石田三成(いしだみつなり)が、忍城(おしじょう)を水攻めした際の堤(つつみ)の一部です。長さ28km(一説には14km)に及ぶ堤をわずか5日間で築き、利根川(とねがわ)と荒川(あらかわ)の水を流入(りゅうにゅう)させたと言われています。三成の陣は丸墓山古墳(まるはかやまこふん)の頂上に張られました。」長さ28kmにも及ぶ「石田堤想定図------」をネットから。さらに「石田堤」上を「丸墓山古墳」に向かって進む。「豊臣方の石田三成は城攻めが上手くいかないので近くの小山に登り地形を鳥瞰して研究し、備中高松城の戦いに倣って水攻めにしようと考え付いたと『関八州古戦録』や『成田記』には記されている。しかしこれは明白な誤りであり、実際には三成が水攻めに批判的で、もっと積極的な攻撃が必要とする書状を6月12日に送ったのに対し、秀吉が改めて三成に水攻めの注意点を事細かに指示した書状を送っている。これらの同時代史料から見る限り、水攻めを主導したのは秀吉であって、三成ではない。すなわち、秀吉は完全なる殲滅戦を意図しておらず、そこから終始水攻めを望み、三成はそれを実行していたに過ぎないのである。さらに6月13日に三成が浅野長政と木村重茲に出した書状を見ると、三成は具体的な戦術については、浅野の指示をたびたび仰いでいるという事実が確認される」 とネットから。右斜め前方にはこの後訪ねた「稲荷山古墳」が見えた。「丸墓山古墳直径105mあり円墳では日本最大です。墳丘は埼玉古墳群の中で一番高く、約19 mあります。墳丘に使われた土の量はニ子山古墳より多かったという試算もあリます。出土した埴輪から、6世紀前半ころに築かれたと推定されています。埋葬施設の内容は、現在のところ確認されていません。南側から古墳にいたる道は、1590年に石田三成が忍城を水攻めにした時に築いた堤防の跡といわれている「石田堤」です。水攻めの際には、古墳の頂上に陣が張られました。平成19年(2007年)埼玉県教育委員会」「埼玉村古墳群」碑。「武蔵北部は隣国上野と共に古墳の遺存殊に多く夙に人煙稠密文運の発達熾なるを察せしむ 本村は実に其中枢を占めて埼玉郡名の基く所県名また此処に由来し百を以て算する大小の古墳 累々起伏するもの故なきに非ず 昭和十三年八月特に顕著なる丸墓山二子山等の九基は埼玉村古墳群として文部大臣より史蹟の指定を受けしが古墳群の指定は僅かに九州の一例のみにして未だ他に見ざる所なり 丸墓山は規模壮大の円墳として希有のものに属し天正十八年豊臣氏乃小田原征伐の際武将石田三成陣営を設けて忍城攻略を計ると伝へられ今回保存の実を全ふせん為め挙村の協力に依り指定地域を村 有すると為すに当り建碑の議あり本史蹟の指定に関係すること前後久しき故を以て予に其記を嘱せらる のち一言を此処に叙す昭和十四年十月 柴田常恵篆並撰 稲村坦元書 」。そして正面に「丸墓山古墳」。99段の南側階段を上って行った。そして「丸墓山古墳」の頂上に到着。「丸墓山古墳と忍城天正十八年(1590)、豊臣秀吉の命を受けた石田三成は、総延長28km (ー説には14km)の石田堤を築き、忍城を水攻めしました。丸墓山古墳は高さが19mもあり、周辺を一望できることから三成の陣が張られたと言われています。北の利根川水系、南の荒川水系の水を流し込んでの城攻めは成功せず、豊臣秀吉が唯一落とせなかった城とも言われています。」「新編武蔵風土記稿 忍城の図(江戸時代末期)」上部に「忍城」、中央に「丸墓山古墳」、「将軍塚古墳」が描かれている。ズームして「忍城 御三階櫓」を確認。「丸墓山古墳登頂、お疲れ様でした。南側の階段は九十九段ありました。北側の階段は九十三段あります。お帰りの際も足元にご注意ください。」「丸墓山古墳」頂上から前方後円墳の「稲荷山古墳」の前方部を見る。「将軍山古墳」も見えた。埼玉古墳群の北東部に位置する将軍山古墳は、全長90mの前方後円墳。明治時代に後円部に造られた横穴式石室が発掘され、多くの副葬品が出土した。石室には、遠方より運ばれた二種類の石材が使われていることがわかっている。墳丘の東側は削平され、崩落も進んでいたため、平成3年から古墳の復原整備工事を行いました。墳丘、周囲の堀の復原や、墳丘に埴輪のレプリカを並べるなど、古墳が造られた当時に近い形で整備している。古墳の内部には、複製の石室や遺物の置かれた状態を見学できる施設、「将軍山古墳展示館」が平成9年にオープンしている。99段の南側階段を下る。「蓮池」、「駐車場」方向を見る、 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.08.01
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30分食べ放題の「さくらんぼ狩り」を楽しんだ後は、この日最後の目的地の大月市にある日本酒醸造所「笹一酒造」に向かって進む。山梨県甲州市塩山下萩原404付近。静岡県道218号線・大菩薩初鹿野線の左手前方にJR中央本線が見えた。「景徳院」交差点から国道20号・甲州街道に入る。「日川渓谷竜門峡 湯の沢峠 大菩薩峠 方面」案内板があった。「日川(ひかわ/ にっかわ)」に架かる「丸林橋」を渡る。「日川」は、山梨県の甲州市などを流れる一級河川。笛吹川の支流。大菩薩嶺(だいぼさつれい)付近に源流をもち、断層線に沿って花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)地帯を南に流れ、JR中央本線甲斐大和(かいやまと)付近に達し、西に流れを転じ、日川扇状地を形成、笛吹市一宮(いちのみや)町田中付近で笛吹川に合流する。流域は甲州(こうしゅう)市勝沼(かつぬま)町地区をはじめとするブドウの産地である。中流の田野(たの)から天目(てんもく)山にかけては武田勝頼(かつより)終焉(しゅうえん)の地として知られる。また嵯峨塩(さがしお)温泉、田野温泉などもあり、ハイキングコースとしても知られている。流路延長27.0km、流域面積108.3km2。「道の駅 甲斐大和」前を通過。山梨県甲州市大和町初鹿野2248。「ふれあい広場」周辺。そして国道20号・甲州街道の「新笹子トンネル」を通過。笹子峠を通る道路トンネルは、1938年に開通した山梨県道の笹子トンネル(笹子隧道、延長239m)、1958年に開通した国道20号の新笹子トンネル(2953m)、1977年に開通した中央道の笹子トンネル(下り4717m・上り4784m)がある。このうち国道の新笹子トンネルは、中央道とともに、クルマで笹子峠を通過する場合のルートとして機能している。中央自動車道・笹子トンネル事故2012年12月2日午前8時3分、山梨県大月市の中央自動車道・笹子トンネル上り線でつり下げられた天井板が長さ約140メートルにわたって崩落。走行中の車4台が巻き込まれ、うち3台が下敷きになり、9人が死亡、3人がけがをしたのであった。そして国道20号・甲州街道沿いにあった日本酒醸造所「笹一酒造」に到着。山梨県大月市笹子町吉久保26番地。日本酒醸造所「笹一酒造」の係員の方がバスに乗り込み「笹一酒造」の説明を。笹一の笹は酒を意味し、一は酒の日本一を目指すという思いを込めて命名された。大正八年(一九一九年)から現在まで、笹一酒造の顔として使われ続けているマークは、『八咫の鏡(三種の神器の一つ)』に縁取られた中央に筆太のヒゲ文字で笹一を表している。古来より神聖なものとされている八咫の鏡と酒を掛け合わせ、そして 大正八年の縁起の良い末広がりの〝八〟に因み、八咫の鏡をモチーフとして使用したとのこと。それは、草創期における酒の日本一たる笹一のこころを、八咫を後世に伝えたいという願いでもあるのだと。そして店内に。『八咫の鏡(三種の神器の一つ)』に縁取られた中央に筆太のヒゲ文字で笹一を表している。「笹一」。「樽酒 笹一」。「笹一の祝酒」の「樽酒価格表」。「特選純米大吟醸 笹一」。純米大吟醸酒は、精米歩合50%以下の米を使用。「笹一 山廃純米大吟醸 甲州山田錦35山梨県産の特上認定された「純米の王様」山田錦を100%使用し、精米歩合35%まで磨き上げた、最上級の日本酒です。山梨県産山田錦を35%まで精米した米は、極上の透明感と、米の旨味、コクと酸味の絶妙なバランスをもたらします。「山梨の豊かな自然を日本酒として残したい」そんな想いが繋がって生まれた特別な日本酒です。山梨の雄大な自然から生み出される最高級の味わいをぜひ、体感してみてください。▶テイスティングコメント特上の山田錦で造った純米大吟醸酒は、繊細でありながらスッキリとした上品な味わいに仕上がっております。そして、上品な果実のような吟醸香も存分に楽しむことができます。山廃仕込みでじっくりと低温発酵で醸しておりますので、香りだけでなく、ふくらみある米の旨味長い余韻をバランスよく味わえます」。「にごりわいん笹一酒造が、1982年に販売スタートした“元祖”果実酒シリーズで、ブドウの果汁を発酵させる酵母をワインの中に残した“にごり”を愉しむワインです。アルコール度数も6%以下ながら濃厚な味わいで果実そのものを食べているかのような飲み口を味わえます。フルーティーで爽やかな甘味とフレッシュな酸味を感じられ、そのままはもちろん、氷を入れたり炭酸で割っても美味しくお召し上がりいただけます。」。2001年(平成13)、ギネスに認定される直径4.8mの世界最大の太鼓が置かれている建物のようであったがこの日は世界最大の太鼓の姿は無く・・。ネットから。ギネスに認定された直径4.8mの世界最大の太鼓。「笹一酒造」の店頭を振り返る。横の建物の脇にも歴史を感じさせる品々が展示されていた。「御前水」。「御前水ここにあふれ出ている水は昔から笹子峠に湧き出ているそのままの水です。江戸時代には多くの茶人たちが茶会のためにわざわざここまで水飛脚を立ててとり寄せたといわれる名水です。明治天皇が東京から京都へ行幸された際に道中で召しあがる「御前水」の水質調査が為され山梨県内の一つに選ばれた選ばれたことに由来して笹一酒造ではこの水を「御前水」と名付けました。現在でもこの天然水のミネラル成分を豊富に含んだおいしい水をお酒の仕込水として使用しています。どうぞ皆様方もこの昔ながらの笹子峠のおいしい湧き水をご賞味下さい。」巨大な釜と杉玉。「酒林(さかばやし)(杉玉)の由来元来は酒造りの神として知られる奈良の三輪神社の御神木である杉に由来したもので単に杉の葉を束ねた丈のものでした。後に球状にしつらえた杉玉となり造り酒屋の軒下に掲げられる様になりました。軒下の酒林が真新しい緑色のものに替る時が新酒が出来上がった証しです。良質の酒造りと神の御加護への祈りが込められた造り酒屋のお護りでもある神聖なものです。」「菰樽酒 笹一」。破損を防ぐ目的で、酒樽に菰(こも)を巻き付けたのが、菰樽(菰冠樽:こもかぶりたる)の始まりといわれています。店の前を走るのが甲州街道・国道20号。そして店内での試飲も楽しみ、バスに戻り帰路へ。下を流れる「笹子川」を見ながら「甲州街道」を西に進む。若い頃、排水からの超純水製造プラントの納入でお世話になった現・「NECプラットフォームズ 大月事業所」を懐かしく見る。ズームして。NECは、昭和61年(1986)に光通信システム用デバイス専用工場であるNEC大月工場の操業を開始したのであった。私が現年齢の半分の歳であったのだ。「大月IC」から「中央自動車道」へ。「八王子JCT」に向けて進む。「上野原」を通過。「八王子JCT」で「圏央道」へ。「相模川」に架かる「新相模大橋」と「海老名」の街並みを見る。「圏央相模川橋」を渡る。車窓から「海老名運動公園」。そして東名高速道路に入り「海老名SA」でトイレ休憩。雨も止んで。SA内を散策。駐車場も満車に近く。多くの観光バスも並ぶ。そして予定時間より30分ほど早く到着できたののであった。今回も、富士山周辺にあった「東口本宮富士浅間神社」を訪ねたが、その他の富士山周辺の浅間神社を訪ねたいと思っているのである。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.07.11
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河口湖湖畔にあった「ふなつや」で昼食を済ませ、バスに戻る。バスは河口湖を左に見ながら、国道137号・御坂みちを反時計方向に進む。左手奥に「河口湖大橋」。再び雨がポツポツと。天気が良ければ、富士山の勇姿が見えてくる場所であったが。山梨県南都留郡富士河口湖町浅川127付近。「河口湖大橋」が近づいて来た。この付近が富士山のビューポイント。「河口湖大橋」からの静岡県道707号線と合流し、「河口湖大橋北」交差点を右折する。信号のポール上部には富士山の姿が。「追坂トンネル」、「谷坂トンネル」、「山宮トンネル」そして「新御坂トンネル」を通過。「新御坂トンネル」(延長2778m)は、甲府都市圏と富士北麓地域を連絡する国道137号にあり、昭和39年(1964年)工事に着手し、昭和42年(1967年)有料道路(平成6年11月から無料化)として整備されたもの。「新御坂トンネル」を過ぎると「河口湖町」から「笛吹市」へ。雨の下で新緑が美しかった。静岡県道34号線・白井甲州線に入る。笛吹市一宮町に入ると、車窓には「ぶどう畑」、「もも畑」が拡がっていた。左手に「見晴らし園」。桃の花が咲く時期は斜面一面がピンク色に染まる桃源郷として知られる笛吹市一宮町にある大規模な観光農園。6月下旬~8月中旬はもも狩り、7月下旬~11月下旬はぶどう狩り、10月中旬~11月下旬はりんご狩り、12月~5月はいちご狩りと1年を通してフルーツ狩りが楽しめる県内でも唯一の農園 と。シート屋根設置のための、巨大な鉄塔とワイヤーが設置されていた。北の「山梨市」方向の山々は雨雲に隠されて。「ぶどう畑」が広がる。「小沢葡萄園」。国道20号・勝沼バイパスからの山の斜面は一面のぶどう棚。「勝沼大橋」を渡り県道38号線・塩山勝沼線(旧甲州街道)に入る。そして「フルーツライン(東山東部広域農道)」を走る。左手奥に見えたのが「JR中央温泉 勝沼ぶどう郷駅」。山梨県甲州市勝沼町菱山。この付近から、大きなビニール屋根が施された果樹園が増えて来た。「さくらんぼ果樹園」であろう。甲府市塩山の街並みを見下ろす。「牛奥みはらしの丘」の見晴台にはベンチが。円山市内にはポツンと孤立した山の姿が。これが「塩ノ山」。「塩ノ山」はJR塩山駅北口から登山口まで徒歩で約15分、甲府盆地の東端にポツンと佇む低山で、甲州市のシンボルとして市民に親しまれているのだと。標高553m(山麓が標高約400mなので、山としての比高は約153m)、周囲約3.5km、周りが山などに囲まれていない平地にあり、ぐるっと一周まわることができる珍しい山。そのため「四方からよく見える山」「しほうのやま」から、「しおのやま」と名付けられた。地元の人は「えんざんやま」とも呼んでいると。“塩”の山ということで、「塩が取れるのでは!?」と思われているが、実際はとれないとのこと。また、山の南側にある向嶽寺の山号「塩山」として、「しお」に「塩」の字が充てられている。「塩山」という地名は、実は向嶽寺を指すものだったのであるとのこと。そして目的地の「さくらんぼ園」が近づいて来た。「歓迎 さくらんぼ」の幟も増えて来た。白いビニール屋根の下は全てさくらんぼ園。そしてバスを降り「さくらんぼ園」に向かう。説明を聞き、30分食べ放題の「さくらんぼ狩り」のスタート。「さくらんぼ狩り」園では、サクランボ産地で有名な山形県で最高級品種とされている佐藤錦(さとうにしき)をはじめ、香夏錦(こうかにしき)、天香錦(てんこうにしき)、」高砂(たかさご)、そして南陽(なんよう)等々を栽培していた。こちらは「佐藤錦」。旅友の皆さんは会話もなく、ひたすらさくらんぼを口の中に。やはり、佐藤錦が一番の人気。100個を目標としたが、さすがに・・・・・。そして佐藤錦をお土産に2箱購入しバスに戻る。ブドウも収穫が間近か?「さくらんぼ狩り」、「ちぇり~ふぁ~む」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.10
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「冨士浅間神社」を後にして、「須走IC」から「東富士五湖道路」に入る。天気が良ければ、車窓から見事な富士山の勇姿が・・・。バスガイドさんが、「世界遺産になった富士山てどんな山なの?」を説明してくれた。「富士山はどのようにできたの?実は富士山は4つの火山から成っているといわれています。今から10万年以上前に小御岳火山が誕生し、その後、古富士火山、新富士火山の2世代にわたる噴火活動で、美しい円錐形をした現在の富士山ができあがりました。※最近の調査で、小御岳火山の地下に、より古い先小御岳火山があることが分かりました。」こちらはネットから。上の写真と異なり右側が北方向であるが。「富士山は数十万年もの間、噴火を繰り返し、1万年前にようやく今のような姿になりました。最初に「先小御岳(せんこみたけ)」という山ができ、その後に「小御岳(こみたけ)」と「愛鷹山(あしたかやま)」が、そして、10万年くらい前にこの2つの火山の間に、今の富士山のもとになる「古富士(こふじ)」ができました。古富士の火山活動は非常に活発で、大きく成長して小御岳を覆いこみ、1万年前には愛鷹山のふもとまですそ野が広がり今のような形になりました。4つの火山が積み重なっていることから、富士山は“4階建て構造”といわれています。」白樺林の中を走る。そして「道の駅 富士吉田」に立ち寄った。名物の「吉田のうどん」の看板。富士吉田市が誇る郷土料理・「吉田のうどん」の最大の特徴は、歯ごたえとコシがとても強い麺。力一杯練られた「吉田のうどん」は、噛めば噛むほど素材と出汁の旨みが口いっぱいに広がりとのことだが私には・・・・・・。「富士山レーダードーム館」が見えた。「道の駅 富士吉田」の「農産物直売所」。道の駅「富士吉田」の正面。その右側。店内に入る。山梨県内の道の駅でも最大規模の野菜売り場で新鮮で安価な野菜が売られていた。そして手作りのお菓子類も。隣の部屋は「観光案内所・富士吉田織物コーナー」。多くの観光パンフレットが置かれていた。「山梨100選 選定証 吉田のうどん」、「山梨100選 選定証 吉田の火祭り」。「富士登山 7/1山開き」。そして再び「富士山レーダードーム館」を。「富士山レーダードーム館」は、富士山レーダーの歴史や気象観測について楽しく学べる施設として2004年に開館。1964年に富士山頂へと設置され、1999年まで日本中の気象を観測してきた富士山レーダードームの実物を展示しているのだ。2022年に展示内容をフルリニューアルし、従来の富士山レーダーの歴史や気象観測に加えて、新たに気象観測をより身近に感じていただけるよう防災の内容を追加。ご来光やブリザードを体感できる「富士山頂寒さ体験」は風×映像×音で臨場感がアップした。富士山のふもとで富士山レーダーの歴史、気象観測・防災の世界を十分に楽しめる と。「道の駅「富士吉田」市の紹介富士吉田市を含も富士北麓地域は、富士山の大自然と富士五湖なと優れた観光資源の調和が図れ、地域全体では2,100万人以上もの観光客か訪れる日本有数の観光地となっています。富士吉田市は河口湖と山中湖とを結ぶ中間に位置し、富士北麓地域の観光拠点であり、富主山の登山口、富士山信仰の北ロ本宮富士浅間神社、富士山から市内を一望できるビューポイントで有名な新倉山浅間公園などの数々の観光名所があります。富士吉田市ホームページアドレスhttp://www.city.fujiyoshida.yamanashi.jp/」道の駅について道の駅「富士吉田」は、富士吉田市の申請に基づき、国土交通省より、県内第12番目の「道の駅」として登録されました。(平成14年8月13日)「道の駅」は、一般道路て安心して利用できる道路利用者のための休憩施設て、休憩・情報発信・地域連携の3つの機能を併せ持つ個性豊かなサービスを提供するものてす。道の駅「富士吉田」は、富士吉田市が、トイレ・休憩所・食堂・売店・駐車場、を整備し、国土交通省が道路情報施設を整備しており、地域の特色を生かした休憩施設を形成しています。」「富士山のめぐみ」碑。この水は、富士山に降った雨や雪が、数十年の年月と大自然のしくみによって浄化され、伏流水となったものを地下百メートルからくみ上げたものです。尚、溶岩層によってろ過されたこの水は、多量のミネラル分等を含み、特に「バナジウム」の含有量が高く、まさに富士山のめぐみです。オートキャンプ場「オートキャンプFUJICHU」も道の駅の裏側にあった。「道の駅 富士吉田」を後にして、「スマートIC入口」交差点を左折する。「北口本宮冨士浅間神社」の鳥居を左側車窓から。「景行天皇40年(西暦110年)、日本武尊ご東征の折、足柄の坂本(相模国)より酒折宮(甲斐国)へ向かう途中で当地の「大塚丘」にお立ち寄りになられ、そこから富士の神霊を親しく仰ぎ拝され「北方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より拝すべし」と仰せになりました。これに従い大塚丘に鳥居が建てられ、加えて後の景行天皇50年には祠を建て浅間大神と日本武尊をお祀りし、当社の創建となりました。」とHPから。「造営の歴史」をHPから。機会があれば、ここも訪ねてみたいのである。「横町バイパス」を走り、右手に「富士急ハイランド」を見ながら走る。「スバルライン入口」交差点を右折し県道707号線・富士河口湖富士線に入り河口湖方面へ。走ってきた「横町バイパス」を下に見る。そして河口湖湖畔の駐車場に到着。残念ながら、雲が湖面近くまで降りて。そして昼食会場の「ふなつや」に向かう。 山梨県南都留郡富士河口湖町船津4041。1階が土産店、2~4階が団体客用の食事処になっていた。3階に案内され着席。この日の昼食は「すきやき御膳」。牛肉のすきやきであったが、他の一皿一皿の量がややこぶり。ビールを追加注文し、すきやきを楽しむ。昼食後は1階の土産物店を散策。精算する旅友が順番を待つ。駐車場に戻り湖岸から河口湖遊覧船乗り場を見る。駐車場には大型観光バスが並んでいた。「河口湖大橋」。「河口湖大橋」は湖畔の温泉街の渋滞解消を目的に1968年10月から工事が始まり、2年半後の1971年3月に完成し4月から利用が開始された。当時から2005年6月まで通行は有料で、南側の入口に料金所が設置されていた。旧有料区間の全長は1600 m、河口湖大橋自体の橋長は500 mである。富士五湖のなかで唯一の湖上に架かる橋梁で、橋上からの眺めはさえぎるものが無いことから富士山の展望もよく、1987年(昭和62年)に美観性と機動性を基準に「雄大な富士の道」として、富士スバルラインとともに旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された「日本の道100選」にも選ばれている。バスに向かって戻る。左手前方に「河口湖 富士山パノラマロープウェイ」👈リンク が見えた。標高856mの河口湖畔駅から1,075mの富士見台駅までロープウェイで上ることわずか3分。目の前には裾野まで見渡せる日本一の富士山と河口湖の大パノラマが広がります。ここ天上山は太宰治の名作「かちかち山」の舞台となった山といわれ、物語にちなんであちらこちらでキュートなタヌキとウサギがお出迎えしてくれます。小さなお子様から大人まで楽しめる絶景のフォトスポットです と。我が観光バス。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.09
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「東口本宮 冨士浅間神社」の参道を「楼門」に向かって進む。「富士講狛犬」(右)。楼門前の前には、「富士塚」を模した岩の上に「狛犬」乗っていた。「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす」という、「獅子の子落とし」の諺を倣った親子の狛犬で、非常に珍しいもの。「東京 麻布 三元講社」と。「富士講狛犬」(右)をズームして。「富士講狛犬」(左)。「富士講狛犬」(左)をズームして。谷底へ落とした我が子。試練を与えて這い上がってきた強者だけを育てる。父獅子「強くなりたくばココまで這い上がってくるのだ!」子獅子「とうちゃん…!」と。「楼門ニ階建ての随神門を特に楼門と呼び上層の周囲に高欄付きの縁を回らしている。御門の神様である櫛岩窓神(向かって右)・豊岩窓神(向かって左)が随神として配神されている。貞享ニ(一六八五)年、小田原城主の稲葉丹後守が鳥居と共に楼門を修繕したと伝えられる。しかし、宝永の大噴火(一七〇七年)により社殿と共に大破し、幕府へ再建の願いが出されている。現在の楼門は、明和四(一七六七)年随神が寄進された当時のものと考えられる。」御門の神様である随神・櫛岩窓神(向かって右)随神・豊岩窓神(向かって左)。楼門の扁額「東口 本宮」。さらに「本殿」に向かって進む。右手に「神馬舎」。御神馬の白馬。「休憩所」。絵馬書き処と。内部。更に「本殿」に向かって進む。「末社・恵比須大国社」。境内末社の一社。御祭神は、大国主命と事代主命。例祭は、旧10月20に斎行する。「境内社祭神 事代主命(恵比寿さま) 大国主命(大黒さま)祭神は、七福神でおなじみの恵比寿・大黒様の2神で、福徳の神様です。社殿は、富士紡績株式会社(元・富士瓦斯紡績株式会社)小山工場の第1~第3工場の鎮守として、明治31年より、当神社の御分霊をお祭りされておりましたが、このたび諸種の事情により、当神社に寄進されたものです。」「内陣」。「本殿」前左側の池。「長壽亀石」。「長壽亀石古来、長壽の象徴とされる亀の形をした石。この亀石は当社氏子の家屋工事中に土中より発見されたもの。亀の甲羅によく似た形をしており、大変な吉兆物であるとし、当社に奉納された。以来、長壽亀石と名付けられ、健康長寿に肖ろう(あやかろう)との敬拝を受けている。」「末社・社護神社」当社の境内末社の一社。かつては、日枝神社・山神社・琴平神社・霧島神社・高尾神社・社護神社という六社が境内末社として境内に点在・御鎮座されていたが、現在は社護神社として合祀されている。御祭神は、社護神社の月讀命、日枝神社の金山彦命の他、13柱の神々を祀る。例祭は、毎年十五夜の日に斎行。 その他、商売繁昌を祈願する高尾祭という祭典が、地域の高尾講により毎年12月1日に斎行する。そして「本殿」。扁額「冨士山東宮」。「境内末社この神社には、境内社として次の神社(神様)が祀られている。日枝神社 大山咋命 金山彦命 素戔鳴命 奥津彦命 奥津姫命山神社 大山祗命 火産霊命琴平神社 大物主命 水分命 水速賣命 市杵島姫命霧島神社 邇邇杵命高尾神社 穂見命社護神社 大己貴命 月讀命く由緒〉古い時代より当社境内地には、日枝神社を始め多くの神社かそれそれ祀られてきた。そして何度か神社の合併がなされ、昭和33年、現在のように6社がここに合併された。その中て、社護神社は最も古く本社の鬼門除とされていた。また、氏子崇敬者の信仰篤く「おしゃこつぁん」と称えられ、親しまれていた。毎年仲秋名月の夜、神官によって祭典が執り行われている。」「小山町指定文化財(有形文化財・建造物)冨士浅間神社社殿」 平成十八年八月二十四日指定 所有者 東口本宮冨士浅間神社 静岡県駿東郡小山町須走一二六番地構造 木造・平屋・権現造り及び入り母屋造り 平面積 本殿 三二.一八一m2 幣殿 三五.八一九m2 拝殿 九五.七二八m2 寸法 奥行 二〇.一九六m 間口 一四.五八七m 高さ 九.五三三m特徴 冨士浅間神社は富士山登山道の浅間神社の一社であり、創建は大同ニ年(八〇七年)と伝えられています。宝永四年(一七〇七年)の宝永噴火では当社は三メートル以上の降砂に埋もれ、大被客を受けました。その後亨保三年(一七一八年)に再建された社殿が一部現在まで残存しています。通常、神社の社殿は本殿・幣殿・拝殿の三棟に分けられますが、本社ではこれらが一体化した権現造り様式となっています。手前から拝殿、奥が本殿、そしてこのニつを幣殿が繋いでこの社を形成しております。 平成十八年十二月 小山町教育委員会」御神木の根本には那智黒石の黒玉砂利が敷き詰められていた。木彫りの干支の動物が並んでいた。牛の彫刻には「コロナ アッカンベー」と。こちらにも。そして「本殿」脇を駐車場に向けて進む。ここにも様々な石碑が並んでいた。御神木。2本のご神木が並んでいた。「子授け夫婦杉と貫通岩」。「子授け夫婦杉と貫通岩貫通石奉納 中日本高速道路株式会社根が連なる杉は夫婦杉と呼ばれ、良縁・夫婦和合のご利益があるとされる。当社の夫婦杉は御祭神・木花咲耶姫命の御神徳・子授けと安産を象ったが如き膨らみがあり、これに肖る祈りの場として根本に祠を設ける。祠は貫通石から成り、この石は新東名高速道路・谷ケ山トンネル工事にて生じたもの。貫通石は、神話の一幕・神功皇后の段より安産を導く縁起物とされる。」権現造りの拝殿・幣殿・本殿を横から。本殿をズームして。本殿屋根の破風拝飾(はふおがみかざり)をズームして。新緑溢れる空間。御神木の間から。冨士山登頂「記念碑」。「明治天皇御製萬代の 國乃鎮めと 大空に あふ久は 冨士の 高嶺なりけり」様々な石碑がここにも。中央の石碑。和歌山県にある講社は八百九十九度も富士登山されたと。切りのいい九百回にしないところに深い意味がありそうな感じがするのであった。そして駐車場まで戻り再び「麻布山三元講 講碑群」の前から。数え切れないほどの石碑が並んでいた。幹が養生された樹の姿も。そしてバスに戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.08
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そしてバスを下りて散策開始。雨がポツポツと落ちていた。「世界文化遺産「富士山」構成資産富士山東口本宮 須走口登山道 冨士浅間神社 境内案内図」。「境内案内図」に近づいて。別の「境内案内図」をネットから。「浅間神社」内の史跡名一覧。「冨士浅間神社鎮座地 静岡県駿東郡小山町須走一二六御祭神 主祭神 木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト) 相殿神 大己貴命(オオナムチノミコト) 彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)御由緒 平安時代初頭、桓武天皇の時代・廷歴ニ十一(八〇ニ)年富士山東脚が噴火した。当時の朝廷は 逃げ惑う住人のため冨士山面に位置するこの須走の地に斎場を設け、鎮火祭を斎行した。 すると、同年四月初申の日に噴火が収まった。 この御神威を畏み、報賽するべく、平城天皇の時代大同ニ(八〇七)年に鎮火祭の跡地・現在の 御社殿の地に神様をお祀りしたことが、当社の創建と伝えられる。 江戸時代・宝永の噴火では、神社と街は約三メートルの降灰の被害を受けるが、冨士登山と 交通の要衝として幕府より手厚い支援の下、街を埋めた灰の上に街を復興させ、神社は村民に より灰が除去されて現在に至る。 明治時杙、逸早く自動車化が進んだ地域であり、登山安全と相まって、交通安全・道中守護と しても一層の崇敬を集める。 平成十九(ニ〇〇七)年には、御鎮座一ニ〇〇年を迎え、記念式典大祭を斎行。 平成二十五(ニ〇一三)年には、富士山の世界文化遺産登録に際し、その構成資産の一つとして 登録された。富士山信仰 霊峰・富士山は、古来より浅間大神が鎮座する神体山として、全国の登拝・修験者が最も 尊崇する山の一つてある。富士山本宮浅間大社(富士宮市)を総本宮とし、全国には 約一三〇〇社の浅間神社が鎮座する。 当社は、天正年間開道と伝えられる、かっての東ロ・いまの須走ロ登山道の起点として、 東ロ本宮と尊称される。 須走ロは、富士山項より真東に位置し、おおよそどの位置からでも御来光(日の出)を拝する ことが出来るのが特徴であり、須走の街からは朝陽て染まった縁起物の赤富士が見られる。境内末社(六社合祀) 日枝神社 高尾神社 山神社 霧島神社 琴平神社 社護神社 恵比須大国社(別祀)境外末社 須走ロ九合目鎮座・迎久須志之神社 須走ロ本六合目鎮座・胎内神社 須走ロ五合目鎮座・古御嶽神社 (御室浅間神社・雲霧神社合祀) 東富士演習場内鎮座・野中神社 (旧大日堂)祭礼神事 例大祭 五月五日 開山祭 七月一日 閉山祭 八月三十一日 紅葉祭 十一月上旬 「祈年祭・新嘗祭等の恒例祭」」「鎌倉往還」碑。「鎌倉往還(かまくらおうかん)鎌倉往還は、かつては 鎌倉道などと呼ばれ、幕府所在地の鎌倉から放射状に複数のルートがありました。由来については、現在のところ、源頼朝が鎌倉に幕府を開くに至る源平の合戦にその起源をおくといわれています。鎌倉時代に鎌倉幕府の御家人や坂東の武者達が、有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道であり、当時の御家人らが鎌倉と自領との往還に利用した道でもあります。当時から街道が担ってきた役割は軍用道路としての実質的な目的の他、政治や経済流通としての交易にも用いられ、地方に残る様々な遺物から文化や宗教等も急速に伝えられたことが明らかにされています。かつての鎌倉往還は、廃道となっていたり、拡幅されたり付け替えられたものも見受けられ、また枝道も多くあることから正確なルートについては諸説あります。しかし、未舗装のまま現在に至り、当地のようにかつての雰囲気を偲ばせる箇所も一部に残存しています。当地の鎌倉往還は、まっすくに籠坂峠・御坂峠を越え、甲斐源氏の国の中心、石和へ向かうルートをとっています。このように小山町須走は、古くから富士北麓地域と駿東部を結ぶ交通の要衝として利用されていたことがわかります。」「鎌倉往還」ルート図をネットから。「富士山付近の「鎌倉往還」は、鎌倉から相模(神奈川県)を通り足柄峠を越え、駿河(静岡県)に入って竹之下(小山町)に下り古沢(御殿場市)を通過して、須走(小山町)を登って籠坂峠を越えて甲斐(山梨県)に至る。名称に「鎌倉」と付いているため鎌倉時代に誕生した道のように思われがちだが、ルートそのものは古代から存在していた。人が自分の足で歩くしかなかった時代には、人の移動ルートつまり道は、地形によって制限されることが多かった。富士山周辺で見れば、(1)富士山とそれに連なる丹沢山地、(2)愛鷹山、(3)箱根の3つ山地は、移動するうえで制約になった。しかし、交易などのために内陸部と海(沿岸部)の間を移動する必要はあったため、困難な山越え(峠越え)を伴う移動がおこなわれてきた。甲斐から海に向かう道は古くから富士山と丹沢の山を越え、(現在の)小山町や御殿場市北部を通り、箱根北部の足柄峠を越えて相模に至るルートをとっていた。鎌倉往還のルートと重なる。つまり富士山周辺の鎌倉往還は、本質的には内陸と海を結ぶための道と言える」 と。「麻布山三元講 講碑群」。「麻布山三元講 講碑群江戸・麻布の町に栄えた山三元講は、江戸期の享和三年(一八〇三)山口左門が山吉講から分離独立させた富士講である。富士登拝には吉田口(北口)から登り、須走口(東口)へと下山し、須走を定宿とした。神門前の火山岩によって築かれた塚と一対の狛犬は昭和の初頭に山三元講の人々が築造し、奉納したものである。このように近年まで講と当社・須走との関わりは深い。同じ頃麻布永坂には富士塚か造られ頂上には当社より勧請された浅間社が祀られた。この富士塚は自然の傾斜地を利用して造られ、頂上部は富士山のクロボク(火山石)によって築かれている、浅間社の周囲には記念碑が次々と移され、また新たに造られた。この永坂富士塚も講の解散と共に解体され、昭和六十二年、大半の記念碑がこの地に移設された。これら講碑群は往時、栄えた講の姿を今に伝えている。※永坂富士塚の模型は当社、記念資料館に展示されている。」「麻布山三元講 講碑群」を見る。「裏鳥居」の石鳥居。他の神社では見られない「不二山」の扁額。二つとない(不)素晴らしい山=不二山・富士山という意味 であると。写真右手に「富士浅間神社の根上りモミ」。近づいて。「小山町指定文化財 天然記念物 冨士浅間神社の根上りモミ一、所在地 駿東郡小山町須走一二七番地一、所有者 駿東郡小山町須走一二七番地 冨士浅間神社一、指定年月日 平成三年5月一日一、概要 根上り 四.六m 目通り 三.一m 樹高 二十七m 樹齢 約三〇〇年このモミは約一〇〇年間の降雨による火山灰土の流亡により根上りになったものと考えられます。国内でもとても希少であり、学術上価値が高いと言われています。また、モミの根上り群に寄生するブナ、イヌシデ等の樹木は、樹齢約一五〇年と伝わっています。 平成二十八年八月一日 小山町教育委員会」「冨士浅間神社の根上りモミ」を振り返る。「浅間縁結びの木宿り木(やどりぎ)というのは、普通他の樹木に寄生する木をいう。この結び木は、宿ったというよりもむしろ根がらみの状態で、もみの大木にぶな・かしがしっかりと結び合っている。その様は、男と女の結びつきを表象しているようである。当社の啣祭神 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)様のご加護により、縁結び・安産・子育てのご幸運に恵まれるといわれている。」「東京 廿六夜」碑。「二十六夜講」とは、旧暦の1月と7月の26日の夜に月待をする講で、江戸時代に盛んに行われていたようです。「講」とは同一の信仰を持つグループのことで、ここでは「富士講」を指しています。「月待」とは、月の出を待ち、拝みながら酒を飲み交わすこと と。「富士講講碑群ここには、明治より昭和にかけて、各地の富士講より寄進された記念碑が多く残されている。多くは、三十三度、六十六度など数多く富士登山が成就された事を感謝し、先進や講名を高く揚げ信仰の証とした。」江戸期後半から大正期にかけて隆盛した庶民信仰・富士講の各講社の登拝記念の石碑が並ぶ。記念として建立されたものや、講社の解散に伴い、講社の地元から移築・寄進されたものもある。尚、富士登山では33回が1つの記念すべき区切りとされている。当社に残る石碑の中で最も多い回数は、和歌山県の方による899回である。当社の位置や当時の東海道本線(現・JR御殿場線)の交通の便から、東京・神奈川にかけての講から崇敬を集めていた。「浅間の杜 はるにれの木」境内西側・浅間の杜の中に繁るハルニレの木。ハルニレの木は境内に数本が繁るが、もともとは北海道や寒冷地に繁る樹木であり、温暖な気候にある静岡県には珍しい樹木である。推定樹齢400年の大木であることから、昭和38年に静岡県天然記念物に指定された。境内西側隣に接して通る鎌倉往還道からは背面を見ることが出来、半分近くが根上がりしている様子が伺える。「ハルニレ(春楡)」の木を見上げて。「伊藤? 四谷講社」と。都内四谷にあった富士講・四谷丸参伊藤講社か?「新進講記念碑 男爵若槻禮次郞書」と。「富士講と講社碑富士山は、昔から信仰の山として登拝され、修行の場であった。人穴て修行を重ねた長谷川角行(かくぎょう)は江戸に出て、富士の信仰を説いた。その後、食行身禄(じきぎょうみろく)がさらに教えを広め、富士山七合五勺に入滅の後、江戸では「八百八講」といわれる程、富士講が盛んになった。須走は富士信仰登山の登山口として、古くから栄えてきた。須走浅間神社には、講の人達によって奉納された石碑や石燈寵が多く、その一つ一つから登山する道者(行者)達の息づかいが聞こえてくる。」「三十五回 登山記念 権大教正 金澤徳行翁」と。台座の岩には「安産講社」と。「浅間教會一世 贈大教正 川口源次郎之碑」。緑溢れる「浅間の杜」が続く。石燈籠の先にも石碑が。ズームして。そして「東口本宮 冨士浅間大社」の社務所へ。銘板「東口本宮 冨士浅間神社社務所 御鎮座千二百年 記念資料館」と。御朱印帳も販売されていた。御朱印を頂きました。「浅間神社」案内書も頂きました。「世界文化遺産「富士山」構成資産富士山東ロ本宮・須走ロ登山道冨士浅間神社(静岡県駿東郡小山町須走一ニ六番地 鎮座)御祭神 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)・大己貴命(おほなむちのみこと)・ 彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)由緒 大同ニ(八〇七)年、富士山の延暦ニ十一(八〇ニ)年の噴火に於ける鎮火祭跡地 (現在の社地)に創建。旧県社。 富士山登山道・東ロ=須走ロの本宮であり、起点となる。 須走ロ五合目・古御岳神社、六合目・胎内神社、九合目・迎久須志之神社は、 当社の境外末社である。 平成十九年には御鎮座千ニ百年の佳節を迎えた。 平成ニ十五年、世界文化遺産「富士山」構成資産に登録。主祭事 五月五日 例大祭 本殿祭・神幸祭(パレード) 七月一日~九月上旬 富士山須走ロ登山道開山等 関連祭典【不ニ山】・・・表烏居の不ニ山は、富士講の先達から寄贈された文字で、二つとない 素晴らしい山・富士山を意味する。」「太鼓橋」とその先右側には「道祖神」が。その先の参道には新緑のトンネルが。社号標石「縣社 冨士淺間神社」。左側にあったのが「信しげの滝」境内南、太鼓橋の左に位置する滝で、浅間の杜を走る水流が流れ出て滝となっている。名前の信しげの由来は不明。かつて滝の整備が行われた際に「信しげ」と書かれた石が発掘されたことから、一説では富士講関係者の名前であると考えられているが、推測の域を出ないものである と。四季折々に違った景色を見ることが出来るとのこと。とくに冬場では、滝が凍り巨大な氷柱(つらら)を見れることがあるのだ と。再び太鼓橋を斜めから見る。石鳥居の扁額は「不二山」。「奉雷の杉」。見上げて。「奉雷の杉推定樹齢三五〇年で、境内の樹木で最も長寿の杉の一つ。平成三十年夏、この木か落雷を引き受けてくれた御蔭て、神社や地域に大きな被害を与えなかった。落雷による枯れか少ないことから、雷という圧倒的な偉力に抗ったのではなく、雷を奉り遵った=柔和に協和したと考えられ、奉雷の杉と呼ばれる。以来、その偉大さ・懐の深古に肖ろうと足を運ばれる方か多く見えられる。」鳥居のそばには、富士山噴火の際に飛んできた「火山弾」が。「富士山火山弾」。「富士山火山弾この火山弾は地中の岩奬(熔岩)が噴火のために空中へ吹き上げられ、落下の際に酸化・冷却して出来たものです。右の巨大なもの、左の形が整って大きいもの、いずれも大変貴重なものと言われています。」左手に「手水舎」。「龍口」を見る。「楼門」に向かって進む。ここにも「冨士浅間神社」案内板が。さらに「楼門」に向かって進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.07
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この日は6月12日(月)、実兄に誘われて、「老人会」の懇親旅行に参加した。参加人数不足のために動員がかかったのであった。総勢44人で各地区の集合場所に集まった参加者を、バスが移動して拾って行ったのであった。これぞ「老人会」の旅行なのであった。参加者全員をバスに乗せ「秋葉台文化体育館前」を通過。そしてこの日も、小雨の降る中、「東名・綾瀬スマートIC」から「東名高速道路」へ。そして早くも「海老名SA(下り)」で最初のトイレ休憩。日本一混雑すると言われていた「海老名SA」。現在もそうなのであろうか? 下り方面では東名で最初のSAで、休日の利用者数は上下合わせて10万人を超えるとのこと。 それ自体が目的地となるSA・PAの先駆けともいえる「海老名SA(下り)」。「海老名SA(下り)」案内図。やはり、多くの観光バスが駐車していた。から揚げや肉巻きおにぎり、肉まんなど8店舗の屋台が並ぶテイクアウトコーナー「うまいもの横丁」。内部に入って見た。「レストラン・フードコート」。そして再び御殿場に向かって進む。神奈川県足柄上郡山北町谷ケの街並みを左手に見る。天気が良ければ、車窓左手前方に「富士山」の山頂下が見えるのであったがこの日は雨の為に・・・。左にカーブしながら「酒匂川」に架かる「酒匂川橋」を渡る。下を走る線路は「JR御殿場線」。「馬伏川橋」を渡り「東名足柄橋」を左手に見る。静岡県駿東郡小山町に架かる東名高速道路上り線の橋で、斜張橋である。1991年3月に御殿場IC-大井松田IC間の上り線(東京方面)改良・新車線開通に伴い設置された。上り線が下り線(以前の上下線)を跨ぐ構造となっている。よって、この橋より東京方面は都夫良野トンネルの先の高架橋まで、離れてはいるが対向車線の右側に位置する構造(右側通行)となっているのであった。「足柄SA」まで3kmと。左手奥の斜面には「HOTEL CLAD ホテル クラッド」。御殿場プレミアム・アウトレット敷地内の温泉リゾートホテル『HOTEL CLAD』。アウトレットでのショッピング、富士山の絶景、自家源泉の温泉と、休日を心ゆくまで楽しめるリゾートホテルとのこと。そして「御殿場IC」で東名高速道路を下りる。「御殿場バイパス」に入り「山中湖」方面に向かって進む。「御殿場市役所」が左手に。横壁には「市章」が掲げられていた。御殿場市の「市章」をネットから。GOTEMBAの頭文字Gを図案化。中央に富士山を、外枠に箱根外輪山を表現し、美しい自然に囲まれた御殿場の伸びゆく市勢と市民の協和を表現している と。「須走道路」を進む。左手に「加藤学園 御殿場キャンパス」。現在はキャンパスとしては使用されていないようだ。「富士ざくらホテル」。「須走道路」を走る。「道の駅 すばしり 2km」と。「道の駅 すばしり 500m」と。ズームして。 ・・・つづく・・・
2023.07.06
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「足利織姫神社案内図」をネットから。「足利織姫神社」の「手水舎」が左手に。石造りの龍の口から手水が。龍が水を司る神様である事に由来していると。「足利織姫神社歴史と伝統を誇る機業地足利の守護神として、宝永2年(1705)に天八千々姫命・天御鉾命のニ柱の神を勧請しました。明治12年に社殿が建立されましたが、翌年火災で焼失してしまいました。昭和9年舂に新社殿建立に着手し、昭和12年に現在の社殿が完成しました。朱塗りの社殿は緑に映えて美しく、足利のシンボルであり、平成1 6年には国登録有形文化財に登録されています。産業振興と縁結びの神社として、足利市民はもとより、全国から参詣者が訪れています。」「狛犬」(右)。「狛犬」(左)。「社殿」👈リンク を正面から。ズームして。正面には、我々のバスガイドさんがご自分のスマホで撮影中。この神社は初めてであったのだろうか?「社務所」。「社務所」の御守り。こちらにも。「御朱印」を頂きました。七夕期間限定の御朱印も頂きました。「御神木」。この丸く剪定された御神木は「スダジイ」という種類の木で、「3本あると大きな森を形成する」といわれているとのこと。そして境内にあった塔。その後ろで「七色の吹き流し」がはためく。足利市の街並みを望む。「渡良瀬川」に架かる「渡良瀬橋」とその先に「男浅間神社(足利富士浅間神社)」のある「浅間山」がはっきりと見えた。「神楽殿」。再び社殿を見る。中央の「拝殿」をズームして。「拝殿」の「内陣」。「拝殿」の天井の「格子天井」。足利で織られた華やかな生地が使用されているとのこと。「拝殿」の両側に翼廊を配し、拝殿と翼廊を歩楼で結ぶ形に。日本古来の寝殿造建築である平等院鳳凰堂をモデルにしたと。こちらが「平等院鳳凰堂」(ネットから)。「愛の鐘」二人で鐘を鳴らすと幸せになれると。「愛は限りなく広いそして深い」と。「鐘」をズームして。そして帰路は「本坂」の石段を下る。階段途中のポールに境内までの石段の数と語呂合わせ?文字があり楽しいので記録しておきます。境内まで229段:登れば叶う縁結び境内まで182段:いやにならずに一段一段境内まで153段:いこうみんなで織姫の社境内まで118段:いいわ眺望 関東平野境内まで75段:なごむ心で宮参り境内まで38段:宮に向かってもう一息境内まで19段:幾年までも縁結び「本坂」の石段を降りながら順番に撮影しました。「境内まで19段:幾年までも縁結び」「境内まで38段:宮に向かってもう一息」「境内まで75段:なごむ心で宮参り」「境内まで118段:いいわ眺望 関東平野」「境内まで153段:いこうみんなで織姫の社」。「境内まで182段:いやにならずに一段一段」。「境内まで229段:登れば叶う縁結び」。「二二九段登れば叶う縁結び」と。石段の左奥にあった石碑群。「籾山唯四郎君像」。「籾山唯四郎は、1861年(文久元年)に下都賀郡の間々田に生まれました。1884年(明治17年)に助戸村の籾山家の養子となりました。唯四郎は、1890年(明治23年)から、足利町議会議員となり、旧助戸小学校の建設に動きました。1903年(明治36年)には、郡会議員になり、郡立高等女学校の建設に努力しました。その後、足利が市になってからは、市議会議員となりました。また、1920年(大正9年)には、県会議員にも選ばれました。1910年(明治43年)に、「織物改良組」をつくり、よい物づくりに努力しました。足利織物協同組合・足利染色研究会の役員をしながら、自分の織物業のほかにも、たくさんの会社をつくったり、ほかの会社の相談も受けたりしていました。さらに、学習のためにひつようなお金をだし、学生を育てていこうと自分のお金を出して「財団法人・籾山育英団」をつくろうと文部大臣にお願いをしましたが、実現しませんでした。 1922年(大正11年)に、栃木県知事より公益事業功労者(多くの人に役立つ仕事をした人)として表彰されました。しかし、この年に唯四郎は62歳でなくなりました。お墓は、助戸の定年寺にあります」現在残っているのは台座のみで、像は戦時中に供出されたと。「足利氏の略系」碑と「足利と足利織物の歴史」碑。「足利氏の略系」碑「足利と足利織物の歴史足利は中世(鎌倉・室町時代)に活躍した源氏系の足利氏 の所領「足利荘 」です。古代末には藤原秀郷系 の足利氏も活躍しました。足利尊氏 は室町時代に京都に幕府を開き日本を治めました。幕府はまた「足利学校 」を興隆に導きました。古代の足利は各寺社の記録によれば、東大寺(奈良・平安時代)や伊勢宮(平安・鎌倉時代)へ織物を納めています。中世では『徒然草』ニー六段に足利氏三代目左馬頭義 氏が、鎌倉幕府執権北条時頼 に毎年「染物」を贈ったとあります。糸を草木等で染め、織ったもので、量は「三十反」女性着「小袖 」仕上げです。中世後半では足利織物の生産量は、鎌倉の関東公方家、三河国の足利一族、京都の足利将軍家などの需要を背景に高まったでしょう。輸送手段は川・海を利用した水運で、利根水系 には大きな水運業者もできました。綿織物の発達は近世足利藩時代で、糸つむぎ、染め・撚り、織り、仕上げの妙は、魅力的な「足利織 」を産み、江戸中期には全国に知れわたりました。近代には絹綿交織の発達を経、明治中期以降絹織物の生産が盛んとなり、世界に輸出されました。昭和戦前期、絹紡糸を入れた柄模様の素敵な「足利本銘仙 」が日本中の女性を魅了しました。国登録有形文化財 、織姫神社 の社殿はこの時期(1937 年)に建てられました」「頌徳碑」。「飯塚太郎頌徳碑織物整理業。大正・昭和期の足利織物業界指導者の一人。特に、昭和初期の織物同業組合第三部(国内向け)の「足利銘仙会」若手を支援、「足利本銘仙」の開発に貢献。碑は生前、一九三ニ年、同業組合第六部(当時織物整理業)有志により建立された。撰文は栃木県立足利工業学校長の高田義親。」さらにその奥に、トリコット工業協同組合の初代から3代までの理事長吉田孫三郎、殿岡利助、三田禧三郎の3人の胸像。「足利トリコットの歴史足利市は、昭和ニ十ニ年から四十年代後半に至る問、トリコット(軽メリヤス生地、および当初「足利ジャージー」、後半スリップ・ネグリジェなどの製品)の生産額で日本最大であった歴史を持つ。戦後、国策を積極的に取り人れ、戦前の絹織物に代わりトリコット産業を完成させた。その象徴が四十一年完成の「足利トリコット工業団地」で、集団化による中小企業近代化のモデルであった。同産業の発展に寄与された代表的人物が胸像の初代~三代トリコット工業協同合理事長吉田孫三郎・殿岡利助・三田禧三郎氏である。昭和四十四年以降、日米間に「繊維摩擦」、「ドルショック」、「円高」などが発生し、トリコットの輸出は絶たれた。またこの頃から国内需要の主力であったスリップ・ネグリジェの需要か消えた。国や業界の諸改革にも拘わらず、トリコット産業は縮小を続けたが、現在ファッション産業の新たなる展開に向け鋭意努力する現状にある。 平成ニ十四年十一月 日下部高明 撰文」「視床 長重之」の作品。長は東京都出身。1942年に父の故郷である足利市に移り、60年代から地元のガス会社や病院に勤務しながら制作を始めた と。「創造のひろば足利トリコットの創製、発展に寄与された3人の銅像、その歴史碑とともに、現代美術家 長 重之氏の作品「視床ーthalamus」が対峙する創造の空間です。す誉をいの土間ぐす。「視床」は領域や境界に関わる作品で、時空を超えて感性に響くとき、思考の領域まで示唆する作品です。●黒丸の視点に立ち、足利トリコットの歴史とともに、「視床」を見つめてください。そして自身の領域を探求しましょう。人の思考の領域は無限の可能性を秘めて存在します。それに向かってチャレンジする次世代を担う方々へ、期待を込めたメッセージのひろばです。 K HAYAMA」「創造のひろば」の反対側にあったのが「八木節の碑チャッポコ、チャカポコと軽快なリズムを刻む八木節は、明治の終りから昭和の初めにかけて一世を風靡した正真正銘、我が市発祥の民謡であり、日本三大囃子の一つとされております。八木節の源流は、江戸時代例幣使街道八木宿に伝えられた越後の口説節だと言われていますが、これは叙事的でゆったりとした瞽女歌のようなものでした。これを足利市堀込町が生んだ逸材、堀込源太(本名渡辺源太郎 昭・18・12・8没)が、野州気質に合った高音で、はぎれの良い曲調に改変する等、心血を注いで作り上げた心の歌で、正に民衆の活力と確固たる執念から生れた結晶が日本屈指の民謡、八木節であります。初代源太は、幼少の頃から美声で、その素質は若くして四隣を圧したといわれております。このように、郷土の傑出した人物が創出した八木節を、しかりと保存し、後世に正しく伝承して事が、現代に生きる私達の責務と考え、昭和五十四年に足利地区愛好者の連携を図る目的で、市内三十有余のチームを集結、足利市八木節連合会を結成しました。本年発足三十年を迎えることを機に、一層結束を強め、初期の目的達成を念頭に、郷土を愛し足利気質から生まれた八木節を守り、更に躍進させることが私達の使命と信じ、会員一同粉骨砕身精進することを誓願し、この碑を建立するものであります。 平成二十年三月吉日 足利市八木節連合会」。更に、本坂の石段を下って行った。「229段」の石段を振り返る。そして「織姫ハイキングマップ」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.28
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そして、次の訪問場所「足利織姫神社」の駐車場に到着し、バスを降り散策開始。栃木県足利市西宮町3889。栃木県道40号線・足利環状線の先にあったのが「足利織姫神社」。横断歩道の先に「足利織姫神社」の「大鳥居」が見えた。「足利織姫神社」。1200年余の歴史と伝統を誇る機業地・足利の産業の守護神である「足利織姫神社」。天照大神の絹の衣を織っていた天御鉾命と天八千々姫命の二柱を祀る神社。明治12(1879)年、機神山(はたがみやま・現在の織姫山)の中腹に織姫神社を遷宮した。翌年に火災に遭い、しばらくの間は仮宮のままであったが、再建に着手し昭和12年に現在の社殿が完成。京都府宇治市の平等院鳳凰堂をモデルにしたといわれている。平成16年6月には、社殿・神楽殿・社務所・手水舎が国の「登録有形文化財」として登録された。足利織姫神社のご神紋が左側に。「かつて倭建命の御子・足鏡別王(あしかがみわけのきみ)が足利の地を統治していた」という伝承に基づいて、その神鏡の輪郭に、「足」の字を配したのが足利市の市章。それを、昭和12年の織姫神社遷宮に際してこの鏡の輪郭を使う許可を得て、図に用いたという。この鏡の輪郭に、足利氏の家紋である「丸に二」の二を縦に配し、それに織物の糸を組み合わせたのが織姫神社のご神紋。つまり、足利の町・足利氏・織物の三つのシンボルを取り込んだのがあのご神紋ということになるだろうか。「縁結びと産業振興の神社 足利織姫神社太古の昔より皇太神宮御料の神御衣づくりを司った天御鉾命(あまのみほこのみこと)・天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)の二柱が御祭神でございます。」。御祭神の天御鉾命(あまのみほこのみこと)・天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)「足利織姫神社」の「社殿」は、織姫山の中腹にあり、一の鳥居から始まる「本坂」は「社殿」前の境内まで229段の階段があった。階段中央にも手すりがある石段。一方、「縁結び坂」は、ゆるやかな山道だが、手すりがないので足腰に自信のない方は、本坂より上ってください と。左右の「階段手すり支柱」には「天御鉾命」(左)、「天八千々姫命」(右)と書かれた銘板が。「ようこそ 足利織姫神社 境内まで二二九段」と。「国登録有形文化財(建造物)織姫神社社殿・神楽殿・社務所・手水舎織姫神社は社殿(伝)によれば、宝永2年(1705)戸田忠利が足利藩主としてこの地に来た時に土民が創建した神社で、機織の守護神として「天ハ千々姫命」「天御鉾命」のニ神をお祀りしています。現在の社殿は、明治13年(1880)に焼失した社殿を昭和12年(1937)に再建したもので、中央に拝殿、その両側に翼廊を配し、拝殿と翼廊を歩楼て結ぶ形は、日本古来の寝殿造建築である平等院鳳凰堂をモデルにしたといわれています。当時の神社建築は木造が主流でしたが、設計者である小林福太郎(1882 ~ 1938)は、当時珍しい鉄筋コンクリートを用いて木造建築の意匠を再現しました。朱色に塗装された建物が、織姫山の山並みの緑と青空に映え、ひときわ鮮やかに眼に映り、美しい建築を作り上げています。織姫神社は織物を中心とした足利の産業を信仰面から支えてきた存在であり、本市の近代化を語る上でも欠かせない貴重な文化遺産です。近年は、産業振興と縁結びの神社として多くの参拝者に崇められています。」「足利の水道水」。蛇口は写真の裏側にあった。「足利の水道水足利の水道水は、すべて自然のろ過作用により浄化された天然のミネラル分を含む地下水を原水としています。ぜひ、足利のおいしい水道水をご賞味ください。平成2年7月 市制 70年記念 水道創設60周年記念 足利市」左方面に進む「縁結び坂」を利用して「社殿」に向かって進む。「縁結び坂」には「七色の鳥居」が奉納されているとのこと。朱の鳥居の扁額には左右に「天皇陛下 即位 皇太子殿下 即位」と書かれ、中央に「菊花紋章」が。「奉納 織姫の祈り 👈リンク作曲 中北利男作詞・唄 真氣足利の神社(かむやしろ)織姫に 絹(いと)を紡いだ先人の思いは続く渡良瀬の川流れるこの街に 朱い神殿浮き上がり 織姫山(おやま)を彩る二二九段の石段を上れば 願いは叶う そう信じ人は集う春にはさくらの花咲き誇り 秋には色づくもみじ谷 今日も移ろう織姫に祈りを捧げて 麗しき未来へ届け 神々に祈りを捧げて御空の下(した)縁(えにし)の元へ足利西ライオンズクラブ 結成五十周年記念事業 実行委員長 岩崎年春」「足利友愛義団の碑」「友愛」の文字が。「足利友愛義団の碑1891年(明治24年)12月26日、この地に建っていた「好養館」に、萩野萬太郎他4名が集い「友愛義団」結成の発起人会が開催され、翌92年1月6日、萩野萬太郎、磯部安次郎、木村初太郎等22名の青年実業家達により「足利友愛義団」が発足しました。その後、原田定助、足利武千代、横田千之助らも入団して団員も100名を超えたため、1904年(明治37年)には「好養館」を譲り受け、活動の拠点にしました。「足利友愛義団」は、「驚き交流と学び」を活動の主旨として、義援活動、社会教化(廃娼運動)、足利織物も振興、国際化に備え河合運吉・森田金之助両牧師の協力による英語教育の作興、また、岡島忠助、木村浅七、長谷川作七、川嶋長十郎による輸出織物の品質向上のための「五二会」足利支部結成等々・・・「足利友愛義団」の職業論理に基づいた、篤く広い視野の真摯な活動は、近代足利の発展、産業振興の大きな礎となりました。2006年(平成18年)2月、足利商工会議所は「足利友愛義団」の萩野萬太郎が初代頭取を務めた足利銀行の元本店を購入し、「街おこし」の拠点として再生、「友愛会館」と命名し、末永く「足利友愛義団」の精神を継承し、足利経済の発展に寄与することを誓い合いました。---------------------------------------------------------------------------足利友愛義団の碑は石垣の上の岩に嵌め込まれています。」と。隣には「織姫神社造營碑」。非常に巨大なもので大人2人分ほどの高さがあった。碑に書かれている言葉は古いものなので横に口語訳の説明板が立っていた。「足利織姫神社造営碑 碑文(口語訳)貴族院議員 伯爵 金子堅太郎貴族院議員 徳富猪一郎 撰文 (蘇峰)日本の国は、昔から神の国といわれています。万世一系の皇室があって世界に例のない国体です。そして日本独特の神社があります。神社は伊勢大神を始めとして、宮弊社、国弊社、府、県社、郷社、町、村社など格付けはさまざまですが、いずれも国民信仰の中心で、国体に即して国民生活と密接につながっています。昔 天祖 天照大神(あまてらすおおみかみ)が高天原(たかまがはら)を治めていたころ、天御鉾命(あめのみほこのみこと)を神々の衣服を織る役職につかせ、天八千千姫命(あめのやちちひめのみこと)を織女に命じて衣服を織らせました。足利に鎮座する織姫神社が産業振興の守護として、天御鉾命・天八千千姫命の二柱の神をお祭りしてあるのはこのことに由来しているのです。このように織姫神社の根源は、遠く神代の時代までさかのぼり由緒は奥深いものがあります。下野国(しもつけのくに)は、関東のだいじな所に位置し、文化は早くから開け、産業も大いに興り、織物の国として知られていました。なかでも足利は織物の生産地として平安朝のころは、絹織物を朝廷に献上するようになりました。このようなことは史実としてさまざまな形で伝えられています。以来数百年、時代によって栄枯盛衰はありましたが、祭祀は絶えることなく続いていました。明治維新、国運の隆昌と同時に産業もますます発達し、社殿を現在の地に移しました。しかし、明治13年11月、火災により社殿は一朝にして灰燼に帰してしまいました。その後50年余り、有志の人々がたびたび再建を企てましたが成就しませんでした。たまたま、昭和8年皇太子殿下(現天皇陛下)の御降誕を記念として、産業振興を祈願し社殿の造営を決定しました。奉賛会を、組織し、浄財を募り、工事に着工しました。造営主任技師小林福太郎、工事担当小川清次郎を責任者として、昭和9年工を起し、昭和12年竣工しました。4年間の歳月をかけて完成しましたが、神域の拡張は一千余坪、その経費は総額15万円、規模は広荘、金碧燦然として旧時の面目を一新しました。社殿は足利市の中央にあり、その他はさわやかな高台、背後には緑濃い松林の丘陵をめぐらせています。前方には渡良瀬川が容々として流れ、近くは秩父の連山を隔て、甲信の群山を霞がただよう彼方に臨むことができます。遠くは岳蓮(富士山) がひときわ高く青空にそびえ、絢爛たる眺望はみごとなものです。いわゆる朝日のきらめき、夕陰の情景、自然はさまざまに美しい変化を見せます。更にその上を願えば、春秋の大祭毎に多くの人々が集まり崇敬の念をいただいてくださること、それが市民振興の源となり、産業振興の活力ともなります。このことは太古より現在まで、現在より遠い将来まで変えることはありません。奉賛会長 殿岡利助、建築委員長 原田政七、社掌(神主) 日下部幸俊 三君は、これを後世に伝えるために碑の建立を計画しました。そしてその碑文を書いて欲しいと私のもとに来られました。私はそれを快くお引き受けして、その由来をこの一文にまとめました。これを石に彫って後世の人たちに末永くつたえてください。昭和16年5月6日 建石 足利 岩澤諒弌 書」 「縁結び坂」の石鳥居を潜ると、こちらも石段がスタート。石鳥居の扁額は解読不能。その先に紫の鳥居が姿を現した。「七色(なないろ)の鳥居足利織姫神社のご祭神は、男の機織師(はたおりし)と織女のニ柱の神様てす。織物は経糸(たていと)と緯糸(よこいと)が織りあって織物(生地)となることから、男女ニ人の神様をご祭神とする「縁結びの神社」と言われるようになりました。足利織姫神社は、縁結びの神社として「七つのご神徳(縁結び)」を大切にしております。」県立足利高等学校と県立足利女子高等学校が統合されることになり、その記念として、両校の同窓会が、ここ織姫神社に鳥居を奉納したと。最初に「紫色」の鳥居。その先にも「紫色」の鳥居が続いていた。「七色の鳥居 紫色 よき経営と縁結び」。その先に「若草色」の鳥居。「七色の鳥居 若草色 よき学業と縁結び」。つづいて「赤色」の鳥居。「七色の鳥居 赤色 よき人と縁結び」。「えんむすび広場」にあった「織姫神社造營二十周年記念」碑。多くの「寄附者連名」が刻まれていた。「えんむすび広場」は小さな広場。恋人が二人でたたずむ「しあわせの絆碑」(左)と御神徳碑(右手 黒石)が並んで設置してあった。「足利織姫神社御神徳碑 しあわせの絆碑産業振興と縁結びの神社である足利織姫神社の遷宮70年記念事業が多くの皆さまからの御寄進と御協力により目標以上の事業遂行ができましたことに心より感謝申し上げます。事業完工の記念として七つの御神徳の碑を建立いたしました。また、隣接の「しあわせの絆」碑は、人と人との篤き絆の大切さを願い御神徳成就の象徴として建立いたしました。足利織姫神社の興隆発展のために全身全霊を打ち込んであります、足利織姫神社奉賛会長 林 吉郎氏の寄進によるものであります。平成19年5月5日足利織姫神社遷宮70年記念事業実行委員会委員長 菊池 義治」「足利織姫神社 御神徳よき人と縁結びよき健康と縁結びよき知恵と縁結びよき人生と縁結びよきよき学業と縁結びよき仕事と縁結びよき経営と縁結び」その先には「緑色」の鳥居。「七色の鳥居 緑色 よき知恵と縁結び」。「黄色」の鳥居。「七色の鳥居 黄色 よき健康と縁結び」。「青色」の鳥居。「七色の鳥居 青色 よき人生と縁結び」。最後に「朱色」の鳥居。「七色の鳥居 朱色 よき仕事と縁結び」。そして「本坂」の石段と合流し社殿前の境内への最後の石段を上る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.27
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庫裡の前にあった「宥座の器(ゆうざのき)」傾いた器が吊り下がっています。器の下にある水を柄杓ですくい、器に注ぐと、やがて、傾いていた器が水平になります。さらに器へ水を注ぎ続けると、再び器が傾き、注がれた器の水が、全部下にこぼれてしまいました。「宥座之器」、「欹器図」案内板。「宥座之器針生清司作 銅製高さ ニ一〇・〇cm奥行 一ニ五・〇cm幅 八ニ・〇cm平成ニ四年(ニ〇一ニ)史跡足利学校所蔵の『欹器図』を参考にして群馬県館林市在住の針生清司氏(現代の名工)が制作し足利市に寄贈されたものです。「体験してみませんか」①この器に、水を少しずつ、ゆっくりと入れてみて下さい。②傾いている器がだんだん水平になってきます。③さらに、入れつづけると、器は傾いて、水はこぼれてしまいます。この「宥座の器」は、孔子の説いた”中庸”ということを教えるものです。よく言う言葉に”腹八分目”というのがあります。人は食べ過ぎれば、お腹をこわします。といって、食べ足りなければ、体力がつきません。食べ過ぎもせず、食べ足りなくもない、腹八分目の状態が理想なのです。それを中庸といいます。入れ足りなくてもだめ、入れ過ぎてもだめ。ちょうど、よい分量のとき、器は水平を保ちます。これを中庸というのです。「欹器図史跡足利学校蔵紙本墨刷 縦56.2cm 横77.4cm 江戸時代寛政3年(1791)孔子が魯の国の桓公廟に行くと、金属の器である欹器(斜めに立つ器の意)があった。役人に問うと「座右の戒めをなす器である」という。孔子は「宥座の器は、水が空のときは傾き、ちょうどよいときはまっすぐに立ち、水をいっぱいに入れたときはひっくり返ってしまうと聞いている。」と述べると、果たしてその通りだった。孔子は「いっぱいに満ちて覆らないものは無い」と慢心や無理を戒めた。画面左下の銘文によると、この画題を好んだ北越の人内藤北涯が模刻し、幕臣で文学者として活躍した太田南畝(1749から1823)がそのことを記した作品である。」「方丈、庫裡、書院等主屋は、左の方丈と右の庫裡、書院を玄関と北廊下でつないだ建物です。方丈は、六部屋からなり儀式や行事に使われました。庫裡は、竈のある土間、板敷の台所、畳敷の四部屋からなり日常の生活空間でした。書院には床、棚、付書院が設けられ、庠主の接客の場所などに用いられました。屋根は方丈と庫裡が茅葺、書院が板葺、玄関が本瓦葺です。(宝暦年間の姿に復原)」「庫裡」の中に入ると「参観順路」案内が。入口直後には様々な紹介パネルが。「近世日本の教育遺産群とは」👈リンク。「扁額「杏壇」。「扁額「杏壇」天保14年(1843)徳川治宝 筆扁額「杏壇」の二文字は紀伊従一位前大納言徳川治宝(和歌山藩10代藩主)の筆によるもので、天保14年5月24日に足利町の小林彦右衛門らによって寄進されました。この扁額は明治25年、足利町に起きた大火の折黒焦げとなってしまいました。現在の門にある扁額はこれを元に複製されたものです。「杏檀」とは杏の木の多く生えている高台という意味で、孔子が弟子に教えを説いた場所をさすようになり、さらには広く学問・研究をするところを意味するようになりました。」「扁額「學校」」。「扁額「學校」寛文8年(1668) 蒋竜渓 筆 上左兵衛尉狛高康 縮模 土井能登守利房 寄進扁額「学校」は寛文8年以来のもので孔子廟とともに現存する最も古いものの一つです。当時足利学校には蒋竜渓(一説には明の公使)による「学校」の書があったのですが、新しい門に掛けるには大きすぎたため書家として知られていた上左兵衛尉狛高康に縮小模写を依頼し、この扁額が完成しました。現在の門に掛っている扁額はこれを元に複製されたものです。以来、扁額の掛けられている中門は学校門と呼ばれ人々に親しまれています。」その横に展示されていたのが「上杉憲実像」。足利学校中興の偉人。ズームして。「上杉憲実の中興室町時代中期、関東管領となった上杉憲実は、永享11年(1439)に書籍及び領地を寄進し、学則を定め、鎌倉の円覚寺から快元を招いて第一世庠主(校長)にするなど、衰えていた学校を大いに整備し、後の発展の基礎を築きました。寄進の書籍には、『宋版尚書正義』『宋版礼記正義』『宋刊本附釈音毛詩註疏』『宋刊本附釈音春秋左傳註疏』などの儒学の経典、他に『宋版唐書』があります。これらは、中国宋代のもので、当時から大変貴重な書籍でしたが、現在も国宝などに指定され大切に保管されています。また学則では、『野州足利学校置五経疏本条目』に学校で学ぶ心構えと書籍の管理規則を定め、『学規三条』に学問の範囲と学務についての規定を掲げています。憲実は永享4年(1432)関東管領となりましたが、永享十年に鎌倉公方足利持氏が将軍家に謀反を起こしたので、持氏軍と戦うこととなり、翌11年これを破って持氏を自害させました。これを永享の乱と言います。足利学校の中興には周到な準備が必要だったと思われますが、憲実の置かれた状況を考え合わせると驚くべき情熱と言えるでしょう。」「上杉氏系図」。「NHK大河ドラマ「天地人」ゆかりの雲洞庵と足利学校上杉憲実像の実物は、新潟県南魚沼市にある『雲洞庵』に安置されています。この『雲洞庵』は、足利学校中興の祖である憲実公が復興(応永二十七年(一四二〇) )に尽力した曹洞宗の名刹です。「天地人の主人公、直江兼続と上杉景勝は、少年期にこの『雲洞庵』で学びました。その直江兼続は、足利学校で学んだ「涸轍祖博(こてつそはく)」と「九山」の二人を抱えていました。「涸轍祖博」は、直江兼続に招かれ涸轍書院と号して、書籍の刊行にあたりました。また、「九山」は、下野国那須雲巖寺の僧でしたが、兼続が足利学校に学ばせ、帰国後、米沢に禅林寺を開かせたということです。 参考資料 「雲洞庵」公式ホームページ 「史跡足利学校研究紀要「学校」第二号」」「雲洞庵の縁起によると、養老年間(七一七~七ニ四)藤原房前(ふささき)の亡母のために比丘尼(びくに)寺を建立したのがはじまりとされる。雲洞庵のある南魚沼郡一帯は上田荘で、その一部が山内上杉氏の所領であった関係から、永享元年(一四ニ九)、兼実が禅僧の顕窓(けんそう)をまねき、雲洞庵を再興した。後年出家した憲実はここに隠遁し、「雲洞庵主」と号したという。同庵には、憲実愛用の品といわれる天目茶台や茶釜なども伝えられている。」左手にある廊下を進むと先に見た脇玄関になる。ここには賢者の像が5体鎮座されていた。左から、孟子、曾子、孔子、顔子、子思子で、孔子廟で知った孔子+四配のオールスターキャストその隣が玄関ですが、特に何があるという玄関ではありませんが、良く考えれば畳敷きの玄関というのも珍しい。その先が広い「方丈」。主に儀式や行事に使用されていたと言うことから、現在の講堂的(一般的な大学では)な存在かもしれません。現在でも行われている儀式、行事があるようです。儀式としては「釋奠」という孔子を祀る儀式で明治40年ころからは記録に残っているそうです。また、行事としては「曝書」という、貴重な書籍を虫干しする行事で、江戸時代のころから行われていたとのこと。そしてその隣の間には足利学校のジオラマが置かれていた。「自由に挑戦してください。足利学校漢字試験」と。「足利学校漢字試験 初級」。「仏殿」を屋外から写した写真。手前に見える椅子は「曲碌」といそうで、禅僧の導師が説法や法要で使う椅子であると。仏殿の左隣が「尊碑室」で、歴代の徳川家将軍の位牌が納められていた。「徳川幕府歴代将軍の位牌第9世庠主閑室元吉和尚(別号は三要)は、家康の信任が厚く、有名な関が原の合戦では家康に従って陣中で盛んに易を立て、戦いに役立てました。幕府では寺社職(後の寺社奉行)や外交関係の政策を任されたほか多くの御用を仰せ付けられ亡くなるまで家康の側近くに仕え、重用されていました。足利学校は、このように閑室元吉と家康との結び付きが強かったことから、幕府より100石の朱印地を賜り、庠主は幕府の任命制となっていました。その後も徳川幕府により建物の修復費用を下賜されるなど、足利学校は特別な保護を受け続けました。これらのことなどから、徳川幕府歴代将軍の位牌を安置し、礼拝することになりました。※徳川家康(東照大権現)の位牌は隣の仏殿の間、脇仏壇に安置されています。「徳川幕府歴代将軍の位牌大猷院殿贈正一位大相国(3代 家光)厳有院殿贈正一位大相国(4代 家綱)常憲院殿贈正一位大相国(5代 綱吉)文昭院殿贈正一位大相国(6代 家宣)有章院殿贈正一位大相国(7代 家継)」有徳院殿贈正一位大相国(8代 吉宗)惇信院殿贈正一位大相国(9代 家重)浚明院殿贈正一位大相国(10代 家治)文恭院殿一品大相国公(11代 家斉)右から大猷院殿贈正一位大相国(3代 家光)厳有院殿贈正一位大相国(4代 家綱)常憲院殿贈正一位大相国(5代 綱吉)文昭院殿贈正一位大相国(6代 家宣)有章院殿贈正一位大相国(7代 家継)右から有徳院殿贈正一位大相国(8代 吉宗)惇信院殿贈正一位大相国(9代 家重)浚明院殿贈正一位大相国(10代 家治)文恭院殿一品大相国公(11代 家斉)桂昌院殿仁誉興国光公大姉(5代徳川綱吉生母・桂昌院)こちらが東照大権現・家康の位牌。やはり扱いが違うのは当然。「鋳造葵紋燈籠」。「鋳造葵紋燈籠中台に「享和三年癸亥三月吉青享和三年癸亥三月吉青郊代工師佐野天明三木忠右衛門藤原敦造」、火袋部分に「御祈祷殿葵御紋銅燈籠一雙」「下野国足利学校」の刻銘がある。「方丈」の「縁側」から「南庭園」を見る。「牧野富太郎(牧野万太郎)が学んだ植物の本」『本草綱目』は、薬になる植物等を集成し、その作り方や効能、処方の仕方等について解説した本で、中国時代の李時珍(1518~93)が書き、万暦23年(1596)に南京で出版されました。日本へは、慶長9年(1604)頃までに伝来し、駿府(静岡) で晩年をすごした徳川家康(1543~1616)もこの本を読んで薬を作りました。すぐれた内容であったことから、何回も版を重ね、明治時代初明まで読み継がれました。朝ドラ「らんまん」でも牧野富太郎(万太郎)(1862~1957)が本書を読む場面がありました。『草木図説』は、飯沼慾齋(1782~1865)が安政3年(1856)に出版した植物図鑑です。それぞれの草花に、名称や特徴を記した解説文と写実的で一部彩色を施した植物画が付けられています。富太郎が学んだ幕末期では新しく詳細な図鑑でした。『新訂草木図説』は、『草本図説』の一を改訂し、明治8年(1875)に出版されました。『草図説』の版にローマ字で学名と科名を付けて再版したものです。編集は、博物館の父と言われる川中芳男(里中芳生)(1838~1916)と植物学者の小野職愨(野田基善) (1838 ~90)です。この2名は、朝ドラ「らんまん」で、はじめて上京した富太郎(万太郎)が意気投合し、わが朋(とも)と呼んで抱き合った植物学者です。『植物学』は、イギリス人のジョン・リンドレー(1799~1865)が書いた植物の解説書です。もとは英語ですが、清国(中国)の李善欄(1810~82)らが漢文とし、清国の咸豊8年(1858)に発刊されました。日本では幕未の慶応3年(1867)に『翻刻植物学』として発刊されています。全8巻で、植物の構造について図入りで詳しく述べられています。さらに植物や分類方法も書かれています。現代の植物研究で使われることばの多くが、本書を参考にしており、牧野富太郎も、日本値物学の糸口になったものとほめたたえたそうです。足利学校には、足利藩校の求道館から伝わった『翻知植物学』の版木が全55枚遺され、足利市の重要文化財に指定されています。幕末から昭和時代を生きた牧野富太郎は、植物に関するさまざまな本を学び、どん欲に知職を吸収して実践に活かしました。未知のものに対する強い関心とそれを解明しようとする努力は、現代に生きる私たちのよき手本であると思います。※( )内は、朝ドラ上の名前です。」『草木図説』安政3年(1856)刊(筆彩)飯沼長順(慾斎)著」易学を標榜する「天文図」とその前に「孔子像」。「天文図拓本 中国南宋時代 淳祐7年(1247) (財)アンタレス山国際交流基金寄贈これは中国の「黄裳」が作成した天文図を、今から760年ほど前に「王致遠」が石碑に刻んだものの拓本です。上部には北極星を中心に1440個の星の位置が記され、下部には古代中国の世界観などが、天文現象などとあわせて書かれています。現在この石碑は蘇州市碑刻博物館に所蔵されています。」「釋奠」の儀式で使用する祭器。奥にある部屋・書院を見たが、立入禁止となっているのでここまで。「北庭園」を見る。「Ⅶ.足利学校の釋奠(せきてん)釋奠とは、孔子とその門弟を祀る儀式のことをいい、その歴史」は、古代中国にまでさかのぼります。足礼学校では、『足利学校記録』などの史料によると、毎月1日と1 5日に釋奠の略式である釋菜を孔子廟でおこなっていました。廃校なった後も、途中とぎれはしたものの、釋奠は行なわれました。現在では、毎年1 1月23日に孔子廟で執り行われています。儀式て使用する祭器は、古いもので江戸時代のものもあります。」主屋の裏手に小さな建造物があった。その一つが「木小屋」。「木小屋木小屋は物置で、煮炊きに使う燃料用の「木」などを格納する建物と言われています。桁行5間、梁間2間、屋根は寄棟造の茅葺、外壁は上が土嚢の中塗仕上、下が板壁です。床は三和土の土間です。薪のほかには、日常使う用具や食料などもしまっておいたと思われます。例えば、サエンバ(菜園場)と呼んでいた畑を耕す鍬や鋤、鎌などの農具、収穫した雑穀、漬物や味噌などの樽、修繕用の板材や大工道具などが考えられます。(宝暦年間の姿に復原)」そして「土蔵」。「土蔵土蔵は、大切なものを格納する堅牢な大火建築として建てられました。桁行3間、梁間2間の土蔵造です。外壁から屋根にかけて土で塗り固め、漆喰で仕上げています。栗板を使った切妻造の鞘屋根を載せています。内部は、壁が漆喰仕上、床が板敷となっています。(宝暦年間の姿に復原)」先ほど書院から見た北庭園を通り過ぎると、多くの墓石が安置されている一画が。中央が「第18代 青郊(せいこう)武蔵八王子 18年」 の墓石。「庠主(学長)の墓所足利学校は15世紀の中頃、関東管領上杉安房守藤原憲実によって中興されたものであるが、上杉憲実は書籍や学領を寄進し、学規を制定すると供に、鎌倉円覚寺の僧快元を招き、足利学校中興初代の庠主とした。庠主は、明治2年に足利学校が藩校になるまでの約430年間にわたり、23代まで続いた。歴代庠主は、学校の維持管理に苦心しながらも、日本文化史上、学校の名声を高からしめた功績は大きい。庠主の墓は総計17基あり、いずれも無縫塔で、そのうち8基には文字が刻まれているが、残りの9基は不明である。判明している基は次のとおりです。 世代 ・ 名 ・ 出身地 ・ 在籍期間 ・ 墓石の位置(右から)--------------------------------------------------------------------------------第14代 久室(きゅうしつ) 下野足利 36年 (10番目)第15代 天叔(てんしゅく) 京 15年 (6番目)第16代 月江(げっこう) 武蔵八王子 31年 (12番目)第17代 千渓(せんけい) 下野足利 33年 (14番目)第18代 青郊(せいこう) 武蔵八王子 18年 (2番目)第19代 実巌(じつがん) 周防 19年 (3番目)第21代 太嶺(たいれい) 越後 21年 (9番目)第22代 松齢(しょうれい) 美濃 15年 (4番目)「庠主(しょうしゅ)のお墓ここにある庠主のお墓を無縫塔といいます.毎年3月には足利市内小中学校の新任または退任される校長先生がお参りにいらっしゃいます。史跡内は火気厳禁のため、お線香を上げることは出来ません。※庠主:現在の校長先生のこと。」「庠主の墓所」の前には同じように「元足利学校代官 茂木家累代の墓」があった。「元足利学校代官 茂木家累代の墓」。この茂木家とは、宝永6年(1709)生まれの江戸時代中期の儒者「茂木好文」がいた茂木家のようです。下野(栃木県)生まれで、足利学校の代官として16代庠主の月江、17代庠主の千渓を補佐し、50年に渡って経史を講義したのだそうです。子の久隆も代官の職を継ぎ、さらに孫の久周にその職は継がれました。好文の孫である茂木久周は、寛政2年(1790)生まれで、江戸時代の後期の儒者です。足利学校代官であった時の天保2年学校が類焼すると、江戸増上寺の富くじ興行で資金を集めて再建した人だったようです。明治8年に死去されていますので、足利学校最後の代官だったのかも知れません。足利学校にとっては恩人ともいえる家柄ですから、校内に大切に祀られているのであろう。紅葉シーズンにも訪ねたいのであった。「学校門」に向かって戻る。そして竹林の中には大きな「井戸」があった。そして「史跡足利学校」を後にして、徒歩にて「太平記館」駐車場まで戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.26
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そして「孔子像」の前を通り抜けると、前方に深い緑に包まれて佇む「学校門」が見えて来た。「学校門」寛文八(一六六八)年の創建。足利学校のシンボルとして現代へ継承されていると。扁額「學校」。「学校門日本で唯一の「學校」の額がかけられた門です。寛文八年(一六六八)に建てられ、足利学校のシンボルとして江戸時代から今日まで受け継がれてきました。「学校」という言葉は儒学の教科書の一つである「孟子」の中にある言葉です。扁額「學校」は明の書家将竜渓(しょうりゅうけい)の書を江戸国士舘助教授の狛高庸(こまたかやす)が縮小したものです。」私たちが普段使う「学校」と言う言葉は、儒学の教科書の一つである「孟子」の中にある言葉であるとのこと。知らず知らずの内に私たちの側にも儒学の1つが入っている事が分かるのであった。そして「学校門」を潜ると左側にあったのが「旧遺跡図書館」。「足利氏重要文化財 旧足利学校遺跡図書館(付属施設を含む)付新築竣工図この建物は、大正四年八月に建設されたもので、屋根は入母屋造桟瓦葺で、基礎及び外壁はレンガ積みをした上にそれぞれ石材や漆喰で仕上げてあります。和風の屋根、洋風の外壁・内装など和様折衷の様式やポーチの懸魚・蟇股・格天井などの造りや、飾り瓦(水煙)などに意匠的特徴の見られる大正時代の建造物として貴重な存在です。足利学校保全事業の一環として平成六年度県の「輝くまちづくり事業」により屋根を中心に改修しました。 足利市重要文化財(建造物) 平成六年三月二十二日指定 平成八年二月一日 (財)足利市民文化財団 足利市教育委員会」エントランスの右側が図書館の「来賓室」。「旧足利学校遺蹟図書館来賓室足利学校遺蹟図書館は、貴重な書籍の閲覧や来客接待等の場所として大正4年(1915)に建築されたものです。玄関を入って右側にあるこの部屋は、来賓室で接客用として使用されていました。周囲の壁は、腰あたりの高さまでを網代敷きで和風とし、その上は漆喰仕上げの後和紙を貼り、縦長の上げ下げ窓を等間隔に配置するなど和洋折衷としています。天井は約4.5mと高く、周囲に文様を施し高級感あふれる天井としています。全体的に、和風と洋風とが融合した大正時代建築の様相を良好に示しています。」左側が閲覧室のようで、今日は上杉憲実の生涯と題した展示が行われているのですが、写真はここまでですので後は雰囲気だけ。ここにこの足利学校に訪れた100名位の有名人リストが。室町時代から大正までの著名人ですから殆ど名前を聞いたことの無い人々ですが、幾人かピックアップしてみます。最も古い記録なのが、永正6年(1509)、宗長という人で連歌師だそうです。その後、寛永13年(1636):徳川義直 尾張藩主、承応2年(1653):林羅山 儒学者、天保2年(1831):渡辺崋山 画家、嘉永5年(1852):吉田松陰 志士、明治30年(1897):近衛篤麿 政治家、明治39年(1906);東郷平八郎 海軍軍人、明治41年(1908):大隈重信 政治家、徳富蘇峰 評論家、明治43年(1910):渋沢栄一 実業家、黒田清輝 洋画家、井上馨 政治家、明治45年(1912):乃木希典 陸軍大将、大正2年(1913):嘉納治五郎 講道館館長、大正4年(1915):新渡戸稲造 教育家、大正13年(1924):加藤高明 政治家、などなどで、そうそうたる人々が訪れているのだ。特に学問として名高い施設ですから、これだけ著名な人々が訪れるのももっともなこと。図書館を出ると目の前に大きな樹木があった。「ナンバンハゼ」の木だとのこと。「とちぎ 名木百選 足利学校跡のナンバンハゼ栃木県指定天然記念物櫂(かい)(櫂樹(かいじゅ))≪ナンバンハゼ≫ともいいます。大正4年(1915)に、孔子のお墓がある孔林(中国・山東省曲阜)から、初めて日本に種子がもたらされました。成長した株は、多久聖廟(佐賀県)、湯島聖堂(東京都)など、儒学ゆかりの地に植えられました。足利学校にある櫂の木は、大正11年(1922)に植えられたものです。」「栃木県指定天然記念物 ナンバンハゼ(櫂樹)一本この木は日本、特に東日本には自生しない珍しい木であり、別称「孔子の木」「楷」「トネリバハゼノキ」などがあるが、学名を「ピスタシア・シネンシズ」といってウルシ科に属する落葉樹である。現在目通りの太さ三.〇メートル、雌木だけであるから花は咲くが実は結ばない。寄贈者 白澤保美 林学博士年月日 大正十一年三月七日昭和三十一年六月一五日 栃木県指定 足利市教育委員会」「学問の神様 足利学校稲荷社 学業成就」の案内板がここにも。その先にあったのが「孔子廟」の門の「杏壇門」。孔子廟境内は白壁の築地塀で囲まれていた。「杏壇門」に近づいて。「杏壇門」の手前右手にあったのが「字降松(かなふりまつ)」。「字降松足利学校の七世庠主(校長)玉崗和尚は自ら九華老人と称したが、そのころ廟の前に一本の松があった。学生がよめない文字に出合ったとき、紙に書いてこれを枝につけておくと和尚が見てふり仮名や注釈をつけてくれたので、誰れいうことなく字降松と呼ぶようになり、遂には町の人々までこの松に教えを受けたという。当時学問を志して足利学校に学んだ学生と訓導(先生)との交流を、いみじくも伝えた心温まる足利の伝説である。足利市」扁額「杏壇」は紀伊徳川家第10代藩主大納言徳川治宝の書。2020年に「大成殿」の「平成・令和の大修理」が完了した。大成殿は1668年の創建以来、一度も火災や空襲などの被害に遭っておらず、現存する国内最古の孔子廟(びょう)。「大成殿」の様式は中国明代の聖廟を模したものと伝えられている。間口12.7m 奥行10.9m 建坪138.6平方メートル(42坪)「入徳門」「学校門」「杏壇門」「孔子廟」は国の史跡指定に含まれている。「大成殿」の屋根の鯱をズームして。扁額「大成殿」は有栖川宮織仁親王(ありすがわのみやおりひとしんのう)の王子で、のちに京都知恩院門跡となった尊超法親王(そんちょうほっしんのう:1802~1852)の書。左右に「花頭窓(かとうまど)」花頭窓は、窓の形状による名称のひとつで、上部が尖頭アーチ状の窓のこと。花頭窓は、華頭、火頭、花灯、華灯、火灯、瓦灯、架灯などとも書かれる。花頭窓は、禅宗寺院の建築とともに中国から伝わり、唐様(からよう)建築に多く用いられている。「孔子廟孔子廟は、儒学の祖の孔子をまつる廟で、聖廟とも呼ばれています。大成殿を囲んで築地塀をめぐらせ、正面に杏壇門を開いています。大成殿は、寛文8年(1668)に建てられました。正面5間、側面6間、屋根は寄棟造で本瓦葺、周囲に裳階と呼ぶ庇を付けています。内部の正面中央に孔子像、右に小野篁像、左に徳川家康の神位などを安置しています。杏壇門は、明治25年の大火で焼けましたが、焼け残った部材を用いて5年後に再建されました。この聖廟で、孔子とその高弟の顔子・曽子・子思子・孟子を祀る釈奠(せきてん)という儀式が毎年行われます。」大成殿中央の「孔子座像」。ズームして。「県指定文化財 木像 孔子坐像寄木造 玉眼嵌入 室町時代 天文4年(1535)頭巾をかぶり、儒服を着けた像です。弟子たちの教育にあたるこの姿は「行教像」といわれます。像の背中と底の内部の内側の部分に墨書きの文字があり、当時の足利荘の代官長尾憲長など造像に関わった人の名や、当時の学校の様子が記されています。日本最古の孔子の彫像として、また、足利学校の歴史を語る資料としてたいへん貴重です。「文化財保護のため、孔子坐像は複製を展示しております。」「小野篁公(おののたかむらこう)像 」。 「孔子廟」は古くから「足利学校は小野篁の創建なり…」と伝えられるので創始者としてまつったとされているとのこと。「市指定文化財 木像 小野篁公像寄木造 玉眼嵌入 江戸時代中期 延享3年(1746)小野篁(802から852)は、平安時代の公家・歌人で学問にすぐれ、野相公とよばれた人です。足利学校では江戸時代に、小野篁を創健者とする説がとられていました。本像の制作にあたり、小野篁の子孫という江戸時代の儒官人見活(号雪江)(1687から1759)が、金一封を学校に寄進したことが『足利学校記録』 (延享3年【1746】8月19日条)に記されています。」境内の「西階の不断梅」。花が散って実がなり、普通の実が黄色く熟して落ちる頃になっても青いまま木になっている、まさに「落ちない梅」なのだと。「海軍大将 東郷平八郎」の植えた「月桂樹」。こちらは「海軍中将 上村彦之丞手植」、「元帥 海軍大将 伊東祐亨手植」と。そして「孔子廟」を後にして「方丈」へ。「方丈」の向かい右側に「南庭園」。「南庭園足利学校には、方丈の北と南それぞれに池の庭があります。この当時一般に行われていた書院庭園の形態をもつ築山泉水庭です。この庭は、湧き水をたたえた池の入り組んだ汀と巨大な立石、それにかぶさる松が特色です。三つの峰をもつ築山は比較的高く、池の水面から3メートルほどもあり、池に映えてよく調和しています。発掘調査の結果と江戸時代の絵図によって修復しました。この整備の資料として用いた絵図は、精密で色彩も美しいものであり、庭の築山やそれぞれ植木などは絵図により復原したものです。(江戸時代中期の姿に復原)」「南庭園」の池の花菖蒲。孔子廟の東側にあった「方丈」を振り返る。「方丈」は寄棟造りで、屋根は茅葺きとなっています。内部を見学する事ができ、仏殿の間や尊牌の間があり、徳川家康を初めとする、歴代徳川将軍の位牌が安置されていた。梁間(はりま)11m、桁行(けたゆき)17m、軒桁までの高さ5m、外側の柱から茅の先(軒先)までが2.8m。また地上から大棟(おおむね)までの高さは13.8mと。方丈の入口には立派な唐破風、本瓦葺きの玄関があり、茅葺きの大きな屋根とマッチしていた。現在、ここからは入れなかったが、昔はここが玄関であったのだろう。一番東側にあったのが「衆寮」。「衆寮衆寮は、僧房または学生寮です。学生が寄宿し、あるいは遠くから通う学生が寄宿し、あるいは遠くから通う学生が写本をするために泊まったと思われます。桁行8間、梁間2間半、屋根は切妻造で板葺、外壁は上が土壁の漆喰仕上、下が板張です。内部は、6畳の間に、1間の土間がついて一部屋になります。それが四部屋続く長屋となっています。(宝暦年間の姿に復原)」衆寮は当時の学生寮として使われた。長屋の如き建物となっていたのであった。近くにあったのが「上杉憲実公碑」。「足利学校中興の祖」として平成2年(1990)中興550年祭を挙行し碑を建立したと。「裏門」を外側から(前回訪ねた時の写真)。奥には「方丈」の姿が見えた。学生や一般の人の通用門として使用されていたのだと。「裏門足利学校の門は、位置や名称が江戸時代に入って何回か変わっているようです。正門は、学校門で、江戸中期に中門と呼ばれていました。主に、日常使う門が、この裏門でした。学校の裏に位置しないにもかかわらず、この門がなぜ裏門と呼ばれたか明らかにではありません。間口8尺の薬医門で、屋根が切妻造の茅葺です。両脇に目板瓦葺の屋根をかけた袖塀が付いています。発掘調査によって、砂利敷きの通路が門から主屋の玄関や脇玄関へと伸びている様子がわかりました。(宝暦年間の姿に復原)」。そして「方丈」への現在の入口まで戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.25
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昼食後、「足利学校跡」に向かって進むと「国宝 鑁阿寺(ばんなじ)」案内が。「大日大門通り」の先に以前訪ねた「鑁阿寺」👈リンクの「楼門(山門)」が見えたがこの日は訪ねることは出来なかった。「史跡足利学跡」に向かって進む。足利石畳通りの店頭に「足利のお土産」。珍しい色彩のガクアジサイ。「ここは足利市昌平町孔子のふるさと 昌平郷」と。孔子の生まれたとされる魯の国の昌平郷鄹邑、現在の山東省曲阜に、孔子の死後1年目に魯の哀公が孔子の旧宅を廟にしたとされ、そこに孔子廟が作られたのがそもそもの始まりであった と。「昌平郷」。灯籠なのであろうか。儒教の五徳の文字が。儒教には、人が常時守るべき5つの項目があり、この五徳を拡充していくことにより、人の道を全うすることが出来ると説いている。この5つの項目が、 「仁・義・礼・智・信」。 それぞれの意味は下記の通り。・ 仁 仁義、真実、誠。人を思いやり、優しさをもって接し、己の欲望を抑えて 慈悲の心で万人を愛す。・ 義 義理 筋。私利私欲にとらわれず、人として正しい行いをし、自分の なすべきことをする、正しい生き方。・ 礼 礼儀。人間社会において、親子、夫婦、君臣、目上などの、社会秩序を 円滑に維持するために必要な礼儀作法。・ 智 智徳。学問に励み、知識を得て、正しい判断が下せるような能力。・ 信 確信。信頼、信用、正直など。約束を守り、常に誠実であること。ここでは「仁」、「信」、「義」の文字が確認できたが。70年以上慣れ親しんだ「仁」。そして、我が戒名にも!?。足利学校は、足利市「昌平町」にある名所旧跡。案内標識「心のみちしるべ」。「子曰、温故而知新、可以為師矣」と。『子曰く、故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る、以って師と為るべし。』【孔子先生はおっしゃいました。昔の学問を究めそれらを基礎として、新しい道理を発明して、 今日の実際の役に立つように心がければ、始めて人の師となることができる】と。「史跡 足利學校跡」碑。「~生涯学習の時代~「自学自習」の精神を今に伝える教育の原点(日本最古の学校)足利学校の歴史足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説等がありますが、歴史が明らかになるのは、上杉憲実(室町時代)が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、庠主(しょうしゅ 学長)制度を設ける等して学校を再興したころからです。天文十八(一五四九)年にはフランシスコ=ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され「学徒三千」といわれるほどになりました。江戸時代になると、貴重で良質な漢籍を有する文庫として、多くの文人や学者を受け入れました。江戸時代の末期には「坂東の大学」の役割を終え、明治時代の初めに幕をおろしましたが、足利学校の自学自習の精神は現在に引き継がれています。昭和五十七年より「史跡足利学校跡保存整備事業」を実施し、平成二年江戸中期の姿に甦りました。平成二十七年には、水戸弘道館、備前閑谷(しずたに)学校、日田咸宜園(かんぎえん)とともに「近世日本の教育遺産群」として日本遺産に認定され、更に世界遺産を目指して取組んでいます。また、生涯学習の拠点として、論語素読体験等の各種事業を行っています。」と頂いたパンフレットより。「日本遺産 足利学校近世日本の教育遺産群ー学ぶ心・礼節の本源ー平成27年度認定」「下記の日本遺産のロゴマークは日本を象徴する日の丸の下には、格子状のデザインが施されています。実はこの部分には「Japan Heritage(日本遺産)」と書かれており、点在する日本の文化遺産が、ストーリーによって線でつながり、さらに面となってその魅力を世界へ伝えていく、という意味が込められているそうです。まさに日本遺産が理想とする「面で日本をアピールする」という意図にぴったりのロゴマークではないでしょうか。線が入り組み、繊細に文字を形作っているというところも、日本の繊細な文化を象徴しているように見えます。」とネットから。「史跡 足利学校」マップ。そして正面に「入徳門」が。足利学校の入口にあるのが、この「入徳門」。「入徳門」は、足利学校に入る最初の門で「入徳」とは、「徳に入る」という意味で道徳心を習得する所、つまり学校に入るという意味になる と。 「入徳」の扁額は、天保11(1840)年に掲げられたもの、紀州徳川家第十一代藩主徳川斉順公の書。1831年に鑁阿寺の安養院の火災より焼失、1840年に修築され、現在の建物は「裏門」を移築したものといわれている。「日本遺産 近世日本の教育遺産群ー学ぶ心・礼節の本源ーストーリー(概要) Summary of Story我が国では、近代教育制度の導入前から、支配者層である武士のみならず、多くの庶民も読み書き・算術ができ、礼儀正しさを身に付けるなど、高い教育水準を示した。これは、藩校や郷学、私塾など、様々な階層を対象とした学校の普及による影響が大きく、明治維新以降のいち早い近代化の原動力となり、現代においても、学問・教育に力を入れ、礼節を重んじる日本人の国民性として受け継がれている。」右手の「受付」で「入学チケット」を購入。「参観料」は大人420円、高校生210円で、中学生以下は無料ってのがいかにも学校らしいし良心的!頂いたパンフレットの表紙。左側には「足利學校隠寮」と。ここでは足利学校についてのビデオが見られるのであった。奥には「史跡足利学校」のジオラマが展示されていた。足利学校の歴史が学べるのであった。「参観記念スタンプ」置き場。「足利学校入学証」と「學生証」を頂きました。「入学記念スタンプ」も頂きました。御朱印も頂きました。「史跡足利学校跡復元の碑史跡の復原は市民の願いであり 夢であった 指定地の東部分はかって東小学校となっていたが関係者の理解を得て移転したこれを機に整備構想を策定し 発掘調査や文献資料の調査検討を進め江戸中期宝暦年間の姿に復元工事設計をまとめることができた事業の推進には文化庁を始め 多くの関係機関の協力を得 方丈等建物七棟 庭園二箇所 土塁堀などの復原を主とした東部分の整備事業は十年の歳月を要しここに完成した」左手には「孔子立像」があった。足利学校の学問は儒学が中心であり、儒学の祖の孔子立像が学校門手前にあるというのも納得。台座には「至聖先師孔子像」と。その手前・「龍階石」には「昇り龍」が刻まれていた。2018年に訪ねた「中国・故宮(紫禁城)」👈リンク にも「雲龍階石」があったが。近づいて。製作は、足利氏の友好都市である中国・済寧市の人民政府に依頼したとのこと。嘉祥県武氏祠にある石彫工芸研究所で、同県産の天青石を用いて造られた。像の前にある龍階石と獅子の彫り物一対も、中国で造られたものとのこと。さらに。台座を含めると約4mもの高さに及ぶ「至聖先師孔子像」。温かいまなざしで迎えてくれたのであった。「獅子」左。「獅子」右。中国の御物らしく、「獅子」は阿吽ではなく、二匹とも口を開けていたのであった。その先、左にあったのが「稲荷社」。石鳥居、朱の鳥居が2基続けて並んでいた。朱の鳥居の扁額「正一位霊験稲荷社」。その先に社殿が。「正一位霊験稲荷社足利学校第七世庠主玉崗瑞(しょうしゅぎょっこうずいよ 九華(きゅうか))は天文ニ十三(一五五四)年九月、足利学校の鎮守である稲荷大明神の社殿を再建し、八幡大菩薩を合祀したとあることから、創建はこれよりさかのぼる。霊験あらたかで、江戸時代には足利の町をはじめ多くの人々の信仰をあつめた。伝えによれば、稲荷社の狐が異変を知らせてくれたことから、大切にされ、十一月には御供小豆飯(おそなえあずきめし)をわらにのせ、狐穴に供えたという。明和七(一七七〇)年第十六世庠主千渓元泉(せんけいげんせん)が、稲荷大明神を改め、正一位霊験稲荷社とした。参道左右の石灯籠は、元文ニ(一七三七)年と明治四〇(一九〇七)年、水屋の手水鉢は天明七(一七八七)年に、神前にある佐野天明鋳物の灯籠は、安政四(一八五七)年に寄進されたものである。もとは遺蹟図書館付近にあったが、天神などの諸神を合祀し、明治四十ニ(一九〇九)年に現在地に移された。現在は、学業成就の神として信仰されている。 令和ニ年三月吉日」正面に「正一位霊験稲荷社」の社殿。「稲荷社遷宮紀念之碑維時明治四十三年歳庚戌六月建之」。「内陣」。ズームして。社殿前から境内を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.24
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そして最初に訪ねたのが「栃木県道7号 & 西産業道路」沿いにあった「日本酒醸造所」の「第一酒造」。栃木県佐野市田島町488。古くから酒造りの町として知られているこの佐野市田島町で、創業延宝元年(1673年)と約350年の歴史を持つ、県内最古の蔵元であると。入口門の軒下に茶色い大きな「杉玉」が吊り下がっていた。貯蔵用の原酒やブレンド酒など、通常販売にない酒蔵ならではの蔵元限定酒を、店頭にてタンクから直接瓶詰め「量り売り」をしているとのこと。6月の量り売り開華 梅雨の田植え酒 ~純米吟醸 原酒 美山錦~「美山錦」100%使用の純米吟醸原酒。梨を主体に、メロンやリンゴ等が複雑に織りなす香味が楽しめます と。【開催日】6月10日(土)、11日(日)、24日(土)、25日(日)とのこと。杉玉はおおむね2月~3月に飾られ始めると。この時期と言えば新酒の季節。つまり、杉玉には「今年も新酒ができましたよ!」という目印なのだ。しかし、最初の内の杉玉は茶色ではなく本来の緑色をしている。そして季節が過ぎ夏頃には緑が薄くなり、秋ごろには枯れて茶色くなる。茶色のイメージが強いかもしれませんが、実は杉玉の色から旬の日本酒が何なのかを知ることができるのだと。緑色(2月~6月ごろ)は新酒の季節、薄い緑(初夏~夏ごろ)は夏酒、枯れた茶色(秋ごろ)はひやおろしの季節というように、日本酒造りの時期と杉玉の色は同調しているといえる。季節の移り変わりとともに変化していく杉玉の色を見て、日本酒の熟成度合いの変化にも気づく、というのはなんとも風情があるのであった。店内に入る。様々な「開華」ブランドの日本酒が並んでいた。平成10年より北関東3県では初めて全商品が特定名称酒に移行した と。日本酒全体の中で特定名称酒は約30%ですが、開華では100%であるとのこと。江戸時代、佐野の酒は渡良瀬川から利根川への河川流通によって「地廻りもの」として江戸へ運ばれ、関東の酒処として栄えた。現在でも江戸東京博物館で当時の様子が見られるのだと。長年にわたって愛飲いただいている地元の愛飲家の皆様が、どんな開華を呑んでも、美味しいお酒で楽しんでいただけるようにとの想いから、平成10年より全商品を特定名称酒(吟醸酒、純米酒、本醸造など)としたのだと。 香港向け輸出(平成5年)に始まり、現在では北米、欧州、香港、韓国、台湾、シンガポールなどの各国へ輸出されていますが、栃木県内への出荷が全出荷の約8割を占めていると。「特定名称酒」基本的に日本酒は「特定名称酒」と「普通酒」に分けられる。「特定名称酒」になるためには次の条件を満たしている必要がある。米、米麹、醸造アルコール以外の原料を使用せず、また醸造アルコールの使用量は 白米重量の10%以下であること3等以上に格付けされた玄米、またはそれに相当する玄米を精米して使用していること米麹の使用割合が15%以上であること精米歩合について、吟醸酒は60%以下、大吟醸酒は50%以下でなければ名乗れないという決まりがあるのだ。(※1)精米歩合とは、米の精米の程度を表したもの。数値が低いほど、雑味等の原因となる米の 外側部分を多く削っている。(※2)醸造アルコールとは、おもにサトウキビを原料として醸造・蒸留された食用アルコールで、 添加することにより軽快な味わいと華やかな香りが引き出される。 醸造アルコールを使用していないものが、「純米・・酒」である。(※3)吟醸造りとは、低温でゆっくりと発酵させ、特有の華やかな香り(吟醸香)を持つように 醸造すること。そして、上記のような定められた基準に該当しなかったものが「普通酒」となる。「特定名称酒」は法律に定められているが、「普通酒」は通称であり、正式な用語というわけではない。「一般酒」と表記される場合もある と。そして300円を払い試飲用自販機で6種類の日本酒を楽しんだのであった。1合ほどは楽しんだであろうか。売店の奥には酒蔵工場が。ここは工場見学の予約がないと入れないようであった。ズームして。とちぎ地酒「開華」と。仕込み用の琺瑯タンクが。6棟が国の登録有形文化財(建造物)に指定されている と。大きな酒徳利が並んでいた。そしてバスに戻り次の昼食会場に向かった。山の斜面に白い文字が。「大小」と。大小山は足利市の東部に位置する。低山ながら高展望の山として、地元ではなじみのある山である。崖に「大」「小」という大きな文字が掛けられている。シンボルと言える『大小』の文字板は、大小山麓の阿夫利神社(あぶりじんじゃ)に祭られている『大天狗』『小天狗』にちなみ、江戸末期の安政2年(1855年)、無病息災を祈願する周辺住民の手により掲げられたそうだ。現在のものはステンレス製文字板を用いた、一文字7メートル四方、総重量1トン強にもなると。大きい方のピーク(妙義山)の山頂は狭いが、360度の展望は素晴らしいとのこと。ヤクルトのコマーシャルポスター。「目標はまだ先にある。 プロ野球選手 村上宗隆」と。「足利学校跡」・周囲の堀を車窓から。藁葺き屋根の「方丈」が見えた。観光案内所「太平記館」の駐車場にバスが駐まり、昼食会場に徒歩で向かう。この後に訪ねた「日本一の藤のガーデン あしかがフラワーパーク」案内板。巨大な藤棚の写真をズームして。観光案内所「太平記館(たいへいきかん)」。太平記館では、足利のお土産品を多数揃えていた。また、館内には観光情報インフォメーションや喫茶コーナー、休憩スペースなどもあった。レンタサイクル(電動アシスト付有)の貸し出しも行っているようであった。そして5分ほど歩き昼食会場の「めん割烹 なか川」に到着。「「ここが私の出発点・・・大日大門通りと相田みつを」史跡足利学校(日本遺産)から日本100名城でもある鑁阿寺(国宝)を結ぶ大日大門通りは、書家「相田みつを」が「なか川」に通うために歩いていた道としても有名です。昭和20年代初頭、若き日の相田みつを作品を最初に購入した人物となる初代なか川女将が「今度から作品が出来る度にもってらっしゃい」とかけた言葉をきっかけに、代表作「人間だもの」をはじめとする数多くの作品が約50年近くにも渡りなか川に持ち込まれます。最後に訪れた際には「ここが私の出発点・・・」という言葉も残しています。」「生涯筆一筋 足利が生んだ孤高の書家相田みつを(あいだ みつを・1924~1991)相田みつを(本名光男)は、1924年(大正13年) 5月20日に足利市に生まれました。1942年(昭和17年)旧制栃木県立足利中学校を卒業し、歌人・山下陸奥に師事し、歌誌「一路」に参加しました。秋の歌会で生涯の師、曹洞宗高福寺の禅僧・武井晢應老師と出会い、在家のまま師事し、「正法眼蔵」を生涯学びました。1943年(昭和18年)、1 9歳の時には、書家・岩沢渓石に師事しました。1950年頃、旅館なか川(現・めん割烹なか川)の女将・中川光子に声を掛けてもらったことをきっかけに、旅館の看板、部屋札、著袋、ハンコ、マッチ箱のデサイン、さらにはろうけつ染めの座布団、御年賀用の手ぬぐいなど館のあらゆるもののデザインを任されました。このなか川での仕事をきっかけに、香雲堂本店や虎谷の包装紙のデザインを手掛けました。これらの作品は現在でも使用されています。1954年(昭和29年)、30歳で結婚しましたが、問借り生活の貧しい生活でした。しかし、みつをは副業を持たずに筆一本で生活することを貫きました。定収入があると筆に甘えが出てしまうという考えからでした。また、筆、墨、紙は一級品のものを使い、練習用や下書き用でも紙の質は落としませんでした。1954年(昭和29年)、第一回個展を足利市で開催し、以後、足利を中心に定期的に開催しました。また、この年、毎日書道展に入選し、1960年まで7回連続して入選しました。1984年「にんげんだもの」を出版し、後にミリオンセラーとなりました。1987年には「おかけさん」を、1990年(平成2年)には「一生感動一生青春」を出版しました。1991 (平成3年)年に「いのちいっぱい」を出版し、同年12月17日市内の病院で脳内出血のため亡くなりました。67歳でした。翌1992年には遺稿集「いちずに一本道いちずに一ツ事」を、1993年には遺作集「雨の日には・・・」を出版しました若くして病に倒れた広島カープの津田投手が「道」という詩を心の支えとしていたことや、阪神大震災の復興を目指す人々の精神的な支えになっていたエピソードがあるように、みつをの死後も人気は哀えることなく、1996年(平成8年) 9月には、東京・銀座に相田みつを美術館(館長・長男一人氏)が開館されました。 (監修:相田みつを美術館)」足利市のふるさと。足利尊氏の家紋「二つ引両」。そしてこの日の昼食相田みつを先生ゆかりの料理を当時のまま再現したと。先生がいつも食べていた想いで深い料理でもある『にしんの甘露煮』と一緒に、足利名物そば、天ぷらが一度に味わえる人気御膳 と。「ぅむぅ(σ・ε・。) 天ぬきって何??天ぬきがある蕎麦屋が「蕎麦屋文化」を知る店の証天ぷらそばで、そばの入っていないものを「天ぬき」といいます。日本酒を飲みながら天ぷらを食べ、残った汁でそばをつけて食べる・・・これが江戸時代で一番「粋」な食べ方でした。」生ビールをオーダーし『にしんの甘露煮』を楽しむ旅友。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.23
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そして左手前方に東名高速道路の「綾瀬スマートIC」が見えて来た。「スマートIC」とは、ETC専用インターチェンジのこと。 有効なETCカードを所持し、所定の方法で取付・セットアップされたETC車載器を搭載した車両しか出入できないのである。「東名高速道路」を海老名JCTに向かって進む。「海老名JCT」から「圏央道(首都圏中央連絡自動車道)」へ。「海老名JCT」を車窓から。相模川越しに「厚木ガス 本社」のガスタンクが見えた。紅白に塗られた高圧線鉄塔の姿も。「小田急電鉄小田原線」の「相模川橋梁」。ズームして。県道40号線・「相模大橋」とその隣に「あゆみ橋」👈リンク。相模川に架かる「圏央相模川橋」を渡り海老名市から厚木市に入る。「八王子JCT」手前を通過。左手奥に見えたのが「東京サマーランド」。ズームして。直径62mの大観覧車・「スターホイール」も見えた。「多摩川」を渡る。そして「狭山SA」にてトイレ休憩。売店を覗く。平日であったが車の数も多かった。この日の観光バス。「狭山日高IC」を通過。「菖蒲PA」横を通過。「白岡菖蒲IC」手前を通過。水田には水が張られ、田植えも行われていた。「久喜白岡JCT」で東北自動車道へ。「佐野藤岡IC」まで12km。「利根川橋」を渡る。「利根川」を渡り群馬県に入る。束の間の群馬県から「渡良瀬川」を渡り栃木県へ。「三毳山(みかもやま)」は、関東平野の北西端に位置し、南北約3.5 kmにわたって連なる細長い山である。最高峰は青竜ヶ岳と呼ばれ、標高は229 m。そして「佐野藤岡IC」で東北自動車道を下りる。佐野バイパスを進むと前方左手に見えて来たのが「佐野プレミアム・アウトレット」。栃木県佐野市越名町に所在するアウトレットモールである。2003年3月14日開業。三菱地所グループの三菱地所・サイモンが運営する。2003年3月14日開業。チェルシージャパン(現在の三菱地所・サイモン株式会社)のアウトレットモールとしては、御殿場プレミアム・アウトレット(PO)、りんくうプレミアム・アウトレットに次ぐ3番目の施設として開業した。PO事業は、佐野市出身の三菱地所専務(当時)島田勝久が、私的に米国を視察して、日本でも成功すると考えて進言し、誘致に積極的だった佐野市が関東第一号となった。佐野進出に当たっては、姉妹都市である米国ペンシルベニア州ランカスター市をモチーフとした。地域貢献として、名称は「佐野」を冠することや従業員は地元採用を優先することを掲げたほか、既存市街地の空洞化を避けるため、名物である佐野ラーメンはテナントにしない方針をとっているとウィキペディアより。さらに進むと「関東の三大師 佐野厄よけ大師」案内板が。栃木県佐野市にある関東三大師の一つ「佐野厄よけ大師」は、新年の厄よけ・方位よけを求めて、人々がこぞって訪れる名所。“春日岡(かすがおか)”とも呼ばれ、正式な名前は「春日岡山転法輪院惣宗官寺(かすがおかさんてんぽうりんいんそうしゅうかんじ)」。現在は通称の「佐野厄よけ大師」で有名になっていると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.22
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この日は6月7日(水)、今年も自治連合会の研修旅行で栃木県・足利市を訪ねて来ました。研修旅行と言っても、今年新規に自治会長・団体長に就任された方々との親睦が主目的。7:30に地元の小田急線の駅を出発する為に自宅を出て徒歩で向かう。途中、民家の庭には「カシワバアジサイ(柏葉紫陽花)」の花が迎えてくれた。北アメリカ原産で、育てやすく、花の美しい園芸品種として導入された円錐形の花房が特徴のアジサイ。始め白い花が咲き、徐々にピンク、そして満開の頃は赤くなる品種もあるようだが、未だ見たことはないのであるが。深く切り込みの入った葉が、柏の葉っぱに似ているので「カシワバアジサイ」と呼ばれるのだ。そして地元の農家の畑に鎮座する小さな神社。社殿はなく石碑のみが。「白旗大明神」と。「白旗神社」の摂社なのであろうか?この日も道路脇の民家のアジサイを楽しみながら進む。ガクアジサイ。青そして紫に変化するアジサイ。黄色のユリの花。たわわに。白からピンクに変化。近づいて。地元のイチゴ園もランナーから次回用の苗を育てていた。外科医の入口にもアジサイが。植木鉢で育てられた様々な色のアジサイが並んでいた。そして定刻の7:30になり総勢22名で栃木県・足利市に向けてバスは出発。市民センターの事務局の方、そして観光バスの営業の方が見送ってくれました。国道467号を利用して湘南台方面に向かう。「湘南台大神線」を進む。左手に「リサイクルプラザ藤沢」を見る。県道42号線・綾瀬中央通りから富士山を見る。ズームして。山頂付近の雪も残りわずかに。クリ(栗)の花も満開。とても特徴的な花なので一回見たらインパクトがあるので印象に残る花。栗の花には雌花と雄花があり実は写真に写っているのは雄花。白いクリーム色の花がたくさん咲いて遠くから見るとそれが一つの枝のように。また更に遠くからみても緑の中に白いクリーム色の花がさいているのでとても目立つのだ。雌花はこの穂花(雄花)の根元あたりにあってこちらが受粉して実が付くのである。この栗の花の匂いはよく言われますが、いい香りとは言えないのではないかと思います。独特なにおい!!でどう表現をしたらいいのか難しいのであるが・・・。左手にあったのが「綾瀬ふれあい大釜」。屋根付きの建物の下に巨大な鍋が鎮座。五右衛門風呂の如き異様な大きさ。「綾瀬ふれあい大釜一、容量・・・2160リットル(ドラム缶約12本分)一、寸法・・・内径1350mm一、深さ・・・1260mm一、重量・・・釜0.7トン 釜戸2.60トン一、材質・・・鋳鉄一、由来この大羽釜はまわし型という手法で型が鋳造されたもので、畜産をはじめ歴史ある綾瀬農業の発展を願い、市内畜産農家60名から寄せられた浄財をもとに、全国でニ番目の大きさを誇る大釜として、平成2年9月に完成したものです。同年10月のあやせ市民まつりにおいてこの大釜の名前を募集し農家の人々とのふれあいのシンボルとしての願いを込め「綾瀬ふれあい大釜」と命名されました。市氏まつりの日には、この大釜で綾瀬地場産の新鮮な豚肉や野菜をふんだんい使ったとん汁を作りまつりの名物として多くの人々に喜ばれました。」上空には海上自衛隊厚木航空基地から飛び立った飛行機が相模湾に向かって。海上自衛隊哨戒機P-3Cであっただろうか?前方に「綾瀬市役所」の建物が。「綾瀬市役所」入口。本庁舎を振り返る。 ・・・つづく・・・
2023.06.21
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「聖光寺」の「本堂」。蓼科湖周辺にあった中山開拓地の開拓民児童のために旧北山村時代に設置された茅野市立北山小学校蓼科分校(1963年閉校)跡地を転用して1970年、トヨタ自動車を始めとするトヨタグループが施主として建立した寺院である。同年7月9日に薬師寺より長老・橋本凝胤を迎え開眼法要を行った。「交通安全の祈願」「交通事故遭難者の慰霊」「負傷者の早期快復」を三大寺命としており、毎年7月の夏季大祭には必ずトヨタグループの首脳陣が集まり交通安全を祈願する。開 山 昭和45年(1970年)御 本 尊 救苦観世音菩薩(ぐくかんぜおんぼさつ)立像宗 派 法相宗(大本山 薬師寺)三大寺命 交通安全の祈願 交通事故犠牲者の供養 交通事故負傷者の早期社会復帰の祈願本堂の重層の屋根は錣葺(しころぶき)入母屋造に鴟尾(しび)がのる。二重の軒反(のきぞ)りのゆるやかな曲線が美しい。二層目の工夫されたデザインの高欄がキュッと引き締まった感じを与えており、全体のバランスに貢献している。また、正面の柱と桁で区画された方形は中央が正方形に近く、両端は柱間が短くなって下回りの安定感を増している。「本堂」の「鴟尾(しび)」。「本堂」の扁額は「大?通」と。ガラス越しに内陣を見る。写真右側に御本尊「救苦観世音菩薩立像」。御本尊「救苦観世音菩薩立像」。寺務所隣に「不動明王像」。近づいて。「寺務所」。「御朱印」を頂きました。奉納殿奥にある「道場」をネットから。桜並木に中にある「茶室」をネットから。「本堂」前から境内参道を見る。「奉納殿」を廻り込んで。「蓼科山」の扁額が。「奉納殿」では「杉江みどり切り絵展『余韻』2023年4月18日(火) ~ 5月6日(土)10時~16時(無料)」が開催されていた。「茅野市蓼科の聖光寺奉納殿で、人形浄瑠璃文楽をテーマにした切り絵作家杉江みどりさん(64)=大阪府=の個展「余韻」が開かれている。諏訪にゆかりのある八重垣姫など、繊細でシャープな切り絵17点が来場者の視線を集めている。展示作品は「ハ重垣姫乱舞」(本朝廿四孝)、「お三輪回想」(妹背山婦女庭訓)、「静と忠信」(義経千本桜)、「天満屋」(曽根崎心中)など。トレーシングペーパーに下絵を写し、胡粉染めの黒和紙に重ね、その上から切り出す。B1判の大作もあり、登場人物の心情が伝わるような躍動的な場面が目を引く。もう一つのテーマの猫の切り絵も並ぶ。」との新聞記事をネットから。もう一つのテーマの「ネコの切り絵」。「逆櫓 ーひらかな盛衰記ー」。「知盛 ー義経千本桜ー」。「丞和名残 ー菅原伝授手習鑑ー」。「勘助住家 ー本朝廿四考ー」。「十種香 ー本朝廿四考ー」。「八重垣乱舞 ー本朝廿四考ー」。「お三輪回想 ー妹背山婦女庭訓ー」。「八重垣姫」か?ズームして。「静と忠信 ー義経千本桜ー」。ズームして。「岡崎 ー伊賀越道中双六ー」。ズームして。「心中宵庚申」。ズームして。「天満屋 ー曽根崎心中ー」。ズームして。「二人三番叟」。「お七 ー伊達娘恋緋鹿子ー」。「文楽歌留多」。展示風景。「???」。展示風景。「杉江みどり切り絵展『余韻』」の鑑賞を終え、バスに戻る為に参道を引き返す。1週間前には・・・。ネットから。「廻逈功徳観音像」が左手奥に。そしてバスは県道192号線・ビーナスラインを中央高速道路・諏訪南ICに向かって進む。左手にはゴルフ場「蓼科高原カントリークラブ」。「八ヶ岳エコーライン」から「八ヶ岳」の山々を見る。ズームして。左手に「天狗岳」。中央に「赤岳」、その後ろに「横岳」。諏訪南ICから中央高速道路に入り、右から「赤岳」、「天狗岳」、左に「蓼科山」。富士山の山頂が姿を現した。中央自動車道から甲府盆地を見る。「談合坂PA」にてトイレ休憩。もっと混んでいると思っていたが・・・。「圏央道」を厚木方面へ。「相模原愛川IC」を通過。「海老名」の町並みを見る。「海老名IC」にて「圏央道」を降りる。神奈川県道22号線にて新幹線下を通過。そして湘南台駅に到着し、この日の「甲斐・信州日帰りの旅」を終わったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.05.29
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「ビーナスライン」を「蓼科湖」に向かって下っていった。枝垂れ桜が満開出迎えてくれた。「蓼科高原」、「北八ヶ岳ロープウェイ」案内板もあった。左側にあったのが「リゾートホテル蓼科」その先に「ヤマザキショップリゾートホテル蓼科店」。そして左手に「蓼科湖(たてしなこ)」が姿を現した。「蓼科湖」は、昭和27年5月、農業用温水ため池として、また観光のメッカとして誕生した人造湖。湖畔は白樺や落葉松の林にかこまれ、南側に立てば蓼科山の山容が湖面にくっきりと映し出されると。そして右手にあった「聖光寺(しょうこうじ)」駐車場に到着しバスを下車。「蓼科山聖光寺縁起蓼科山聖光寺は 交通安全 一路安穏を専一に祈祷する道場として 、昭和四十五年七月、トヨタ自動車販売株式会社及び関係会社の発願により、山紫明水山嶺神宿の地、蓼科の郷に創建された。本尊は救苦観世音菩薩の霊像にして 日本には稀有なる尊容を示し給い 左手に胡柳を捧持し 右手に花籠を提持し給う この尊体は遥かに天竺と中国を結ぶ天山北路の駅邑湧泉の郷の龕窟に祭祀されたる観世音菩薩なり タクラマカン沙漠を往来する求法僧をはじめキャラバン隊商たちの一路安穩・交通安全の祈りを千年にわたり 一身に受け給う 旅の安全を願うは人間の常なり境内に観世音菩薩の三十三身に化身し給いて慈悲を施し給う尊像を安置す奉斎せる薬師如来は密教蘊奥の浄利 ネパール国将来佛にして 三界所有の有情非情のすべてを安楽なさしめるために 七佛薬師放香報光四十四大願を発願し給い 身心健康の功徳を衆生に施し給う当寺は奈良薬師寺に千四百年の伝統ある唯識教学を伝承する一道場であり その教学は東洋的認識論を説き 世俗にあっては世情認識を正しく得るために正常な人格を養成する修行方法論なり親世音菩薩・薬師如来の脇待尊者として唯識教学を大成したアサンガ(無著)・ヴァスバンドゥ(世親)大士を祭祀し 両大士の完成し給うたる教学により衆生を純真寡悪の世界に導入あらんことを願う」「聖光寺」境内案内図。寺号標石「蓼科山 聖光寺」。「山門」の左前にあった石庭内にあったのは「毘沙門天」。「毘沙門天」をズームして。「観世音菩薩三十三應化身像‥‥‥‥・以下解読不能」正面に見事な「山門」。山門は平安時代の優美さを再現し、観音様の慈悲を示現給う應化身三十三身の中、梵天(ぼんてん)、帝釈天(たいしゃくてん)、天大将軍身(てんだいしょうぐんしん)、優姿塞身像(うばそくしんぞう)が山門に祀られていた。「山門」の扁額は「蓼科山」。「梵天」。「帝釈天」。「格子天井」と「一路安穏」と書かれた提灯が2個。「山門」を境内側から見る。「天大将軍身像」(左)。「優姿塞身像」(右)。「山門」の先にあったのが「旧灯籠」。近づいて。前方に「太鼓橋」。「修行僧」。左手に「放生池」。観世音菩薩の化身、三十三身があちこちに。「伽留羅」。「阿修羅」。「大自在天」。「旧灯籠」、「山門」を振り返る。「本堂」に向かって「太鼓橋」を渡って桜の参道を進む。標高1200mに咲くソメイヨシノの桜はピークは過ぎていたが。本州で最も遅い「ソメイヨシノ」が見られる桜の名所とのこと。1週間前の晴天であれば(ネットから)。この日の桜を見上げて。「本堂」に向かって。右手奥には「鐘楼」が見えた。正面に「灯籠」と「本堂」が。左手に「手水舎」。その先に藁葺き屋根の「奉納殿」。「鐘楼」。「鐘楼」の「軒廻り」をズームして。独特なデザインの「斗拱(ときょう)」。「斗栱」とは、柱の最上部や、軸部の上に設置され、軒桁を支える部位の名称。 基本構造は、斗(ます)と呼ばれる部品と、肘木(ひじき)と呼ばれる部品で構成されている。 斗組(ますぐみ)や、広い意味で組物(くみもの)とも呼称される。「梵鐘」。「灯籠」に近づいて。境内の「枝垂れ桜」も満開。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.28
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「横谷峡」の散策を終えて「横谷温泉旅館」まで戻る。「横谷温泉旅館」入口。我々のツアー「STEPトラベル様」の歓迎ボード。入口にあった湧水?の「水場」。フロントは奥のエスカレータで2階に上がって下さいと。生花に近づいて。エスカレーターから見下ろして。2階のロビーにも「水場」がった。「全館ご案内」。●最大収容人数:530名 と。山奥の旅館とは言えど、造りは旅館というよりも現代的なホテルといった感じ。こちらは増改築を繰り返しているであろう事を感じさせる、informationボード。●室数:80室 新館・仙峡亭 59室 (和室18畳16室/和室15畳20室/和室10畳15室/洋室ツイン8室) 本館・清流荘 21室 (和室9畳+9畳14室/和洋室9畳+ツインベッド7室)「フロント」。そして「大浴場」へ。源泉は湧き出した時には無色透明であるが、鉄分を多く含んでいるため空気にふれると、すぐに茶褐色に。鉄分が沈殿して黄金色の濁り湯となるのだ と。「横谷温泉旅館」には、渓流を臨む2つの露天風呂、渓谷を眺められる2つの内湯、さらに2つの貸切露天風呂があり、鉄分と炭酸ガスを多く含んだ自家源泉を堪能できるのであった。炭酸ガスが溶け込んだ温泉は、血液の循環がよくなり血圧を下げる効果があるといわれ、日本ではめずらしい泉質。また、含鉄泉のため酸素に触れると透明から茶褐色・黄金色に変化する温泉で、貧血や婦人病、神経痛、リウマチ、冷え性、アトピー性皮膚炎に効果があるといわれます。鉄分の多い茶褐色(黄金色)の温泉はややぬるめではありますが、湯上りのあともさめにくいと評判の天然温泉。なお、源泉温度が19℃と冷泉のため加温していると。加水等はおこなっていないとのこと。温泉浴槽の角にはライオンの姿も。「温泉の成分・禁忌症・適応症等」。「温泉」を楽しんだ後は、フロント前のソファで暫しの休憩。「土産物コーナー」を散策。そして「横谷温泉旅館」を」後にして「国道299号・メルヘン街道」を次の目的地の「蓼科湖」近くにある「聖光寺」を目指す。「県道192号線・ビーナスライン」に入り三つ星ホテル「B&B ノマの森」前を通過。ノマの森は 標高1,390m 長野県の蓼科高原のB&Bスタイルの宿。B&BはBed&Breakfastの略「一夜の休息と朝食」を意味すると。部屋は6つ、薪ストーブのあるラウンジ、別棟の貸切風呂のある小さな宿。この周辺の新緑の芽生えはこれから。洋食レストラン「the Switchback TATESHiNA」。北八ヶ岳ロープウェイ方面へ向かう途中、別荘地の蓼科ビレッジ一角に佇む薪窯料理店。長野県内の素材や高原野菜を薪窯で調理する、端まで美味しいピザをはじめとし、シンプルで素材の美味しさが際立つ野菜の窯焼きや蓼科牛Tボーンステーキなどが人気 と。車窓から「蓼科蕎麦・しもさか」入口の「枝垂れ桜」も満開。「ビーナスライン」を更に下って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.27
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「横谷渓谷」を右にみながら、横谷峡遊歩道を更に上って行った。横谷温泉から0.2km、乙女滝から0.6kmと。横谷峡入口にあった「横谷峡遊歩道案内図」を再び。新緑の芽生えもプロローグ。「横谷峡」は乙女滝から渋川の清流に沿ってオシドリ隠しの滝まで約3kmにわたってを横谷渓谷という。ここには、いくつかの滝や巨岩の名所があり、高さ50メートルの壮観で神秘的な王滝、虹しぶき鮮やかな霧降の滝、一枚岩が赤渋をつけて約40メートルにつらなっているめずらしい河床、鷲岩や屏風岩が見られる。側岩の高台には古くから有名な横谷観音が奉られておりここは王滝をながめる絶好の場所でもある。四季折々の景色も又格別である。南八ヶ岳への登山の基地になっているとのこと。至るところに小さな白い滝が。「霧降の滝」。落差はそれほどなく、横谷渓谷の他の滝に比べると地味である と。横から。落差は5mほどか。「横谷峡遊歩道 氷瀑群のご案内見頃12月下旬~ 3月下旬氷瀑は山々からしたたり湧いた水滴が、凍りながら昼夜の寒暖差により成長し、見事な氷の芸術品になったものです。」「屏風岩の氷瀑」。ズームして。手前には赤茶けた岩肌が。赤茶けたような川床の色は、水に含まれる鉄分が酸化した事による。渋川というだけあって非常に強い酸性があり、魚も住まないほど と。注連縄が飾られていた巨岩・「鷲岩・大岩の司」。巨岩の上にちょこんと石祠が鎮座し、 四隅にちゃんと渓谷に棲む「龍」が四つの願いを叶えたと伝えられる御柱があるのがこの地らしかったのであった。山の中にひっそりとたたずんでいる「炭焼窯の跡」。この近くに住居があったのであろうか。中をズームしたが・・・。この近くからは、川床の岩肌は更に赤茶けた色に染まって来ていた。ズームして。さらに。さらに進んで行った。川床全面に白き流れが拡がって。別の場所から。山の斜面には苔むした岩がゴロゴロと。巨木も岩の隙間に根を伸ばし、逞しく。この先に、「屏風岩」、「一枚岩」、「大滝」、「おしどり隠しの滝」があったが、時間が足りずここで引き返したのであった。「屏風岩」が奥に(ネットから)。賽の河原の如き沢山の石積。滑滝の如き「一枚岩」(ネットから)。「大滝」(ネットから)。「おしどり隠しの滝」(ネットから)。そして引き返しながら、赤茶けた川床上の白き流れを楽しみながらカメラで追ったのであった。再び「霧降の滝」をカメラで追う。木橋は壊れて通行不能。ズームして。ここを渡ると何処に行けたのであろうか。白き流れをひたすら追う。樹木の新緑、苔むした岩、キラキラと光る水面、渓流のせせらぎ、野鳥のさえずり…横谷峡はマイナスイオンに満ち溢れ、身も心も綺麗に洗われていくのであった。キラキラと光る水面を追う。マイナスイオンが皮膚で感じられるが如くに。急峻な岩肌には落石防止用の金属ネットが一面に施工されていた。そして「横谷温泉旅館」手前の「河鹿井戸」を再び。数筋の湧水が流れ落ちていた。その下に石仏が。そしてさらに赤茶けた川床と白き流れをひたすら追ったのであった。滝のマイナスイオンとは?滝や小川の近くなど水が激しくほとばしるところでは、マイナスイオンが多く発生する。というのも、元素にエネルギーが加わると不安定な状態となり、イオン化するから。 水が撥ねて急激に水滴が飛び散ると、大き目の水滴についてはプラス側に帯電して落下し、一方霧のように微粒化した極小の水の粒子はマイナス側に帯電するのだ。マイナスイオンはなぜ体にいいのか?マイナスイオンの体に良い作用とは… 血液を浄化させる作用がある。 血液中のガンマグロブリンを増やし、からだの抵抗力・免疫力を高めます。 細胞の新陳代謝を活発にし筋力の活性を高め、内臓を健康にするのだと。可憐なスミレの花が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.26
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昼食会場の「信州手打そば工房 遊楽庵」の先にあったのが「横谷峡」案内板。「八ヶ岳中信高原国定公園 蓼科高原 横谷峡」案内板。その横にも「横谷峡・乙女滝⬆」、「横谷峡遊歩道⬆」、「蓼科パークホテル⬆」、「横谷温泉旅館⬆」とこれからの目的場所の案内板が。「蓼科中央高原周辺 案内マップ」。「横谷温泉旅館」に向かって坂道をバスで上って行った。山桜?が開花中。そして数分で「横谷温泉旅館」が姿を表した。信州蓼科の秘境・横谷渓谷にある一軒宿の「横谷温泉旅館」。黄金色の巨石露天風呂の天然温泉が人気と。駐車場で、バスを降りる。これから約2時間弱の自由行動と。私は最初に「乙女滝」を訪ねて、その後「横谷峡遊歩道」をしばし歩き、「横谷温泉旅館」に戻ることとする。まずは「乙女滝」に向かって、バスで上って来た道を歩いて下って行った。駐車場横の石灯籠。「横谷峡遊歩道 氷瀑群のご案内見頃 12月下~ 3月下旬氷瀑は山々からしたたり湧いた水滴が、凍りながら昼夜の寒暖差により成長し、見事な氷の芸術品になったものです。」。「横谷峡遊歩道案内図」。その下に「乙女滝」案内板があった。案内に従い脇道を下って行った。「世界かんがい施設遺産 大河原堰自然の地形を活かした画期的な水路大河原堰は玉川地区の農業用水不足を解消するため、坂本養川(さかもとようせん)が高島藩に請願し1792年(寛政4年)に開削された農業用水路てす。その全長は約14km、315haの水田を潤しています。現在も見るこができる「乙女滝」も大河原堰の一部で、渋川の急埈な崖を一気に落下させて水の勢いを減らす役割をする人工滝です。蓼科山(たてしなやま)から流れ出る滝ノ湯川の水を、ここから6kmほど上流にある取水口で取リ入れています。取水口の構造は「芝湛(しばたたえ)」と呼ばれ、木や石などで築いた小堤防で河川を堰き止めていますが、全量取水がてきない構造になっています。「乙女滝」から下流は、渋川で水を補給しながら樋(とい)で渡し、泉野地区を経て玉川地区に用水を運んでいます。このように、東西に流れる複数の河川を用水路で結び、水量の多い滝ノ湯川の余水を順々に南部の水不足地域へ送る仕組みは「繰越堰(くりこしせぎ)」と呼ばれ、当時としては画期的な仕組みでした。堰が完成して農業基盤が整備されると、用水が安定供給され、米の収穫量が大幅に増えました。200年以上経過した今もなお、利用者によって維持管理され受け継がれています。平成28年11月には、地域農業発展に貢献し、当時の技術を駆使して造られた歴史ある大河原堰と湯之湯堰が、「世界かんがい施設遺産」として県下で初めて登録された。世界かんがい施設遺産って?建設から1OO年以上が経過し、かんがい農業の発展に貢献したもの、卓越した技術により建設されたものなど、歴史的、技術的、社会的価値のあるかんがい施設で国際かんがい排水委員会(ICID)が認定・登録したものです。」そして右前方に白き「乙女滝」が姿を表した。豪快な水しぶきを上げて落ちる滝の様子は、圧巻。近くによるとごうごうと体を包み込むような音がするため、迫力満点であった。新緑のこの時期、そして紅葉など、四季折々の風景と合わせてみると、さらに美しさが増すことまちがいなし。岩に打ちつけられた滝の水は、空に向かって跳ね返るように勢いよく飛びあがるのであった。晴れていたこの日は、水しぶきの上がる様子が一層美しく、清涼感のある風景として心を癒してくれるのであった。白のカオスをカメラで追う。蓼科にある「乙女滝」といえば、冬の氷瀑の美しさが有名。 氷瀑とは、滝から水が落ちた時の水しぶきが凍ってできるもの。ここ蓼科の乙女滝では、真冬に見事な氷瀑が現れ、素晴らしい景観を楽しませてくれるのだと。これが自然の滝ではなく、人の手で作られた人工の滝であることに驚いたのであった。「乙女滝」を後にして、坂道を上り道路に出て、さらに昼食会場の方へ下って行った。左てにあったのが「横谷峡案内図横谷峡乙女滝から渋川の清流に沿ってオシドリ隠しの滝まて、約3キロメートルにわたってを横谷渓谷という。こには、いくつかの滝や巨岩の名所かあり、高さ五十メートルの壮観で神秘的な王滝、虹しぶき鮮やかな霧降りの滝、一枚岩が赤渋をつけて約四十メートルつらなっているめずらしい河床、鷲岩や屏風岩が見られる。側岩の高台には古くから有名な横谷観音が奉られてありここは王滝をながめる絶好の場所でもある。四季折々の景色も又格別である。南八ヶ岳への登山の基地になっている。」案内板の手前から、流れ落ちる「乙女滝」を上から見下ろす。白の流れの途絶えた場所が、「乙女滝」の「落口」。右手奥にあったのが「蓼科パークホテル」。その手前にあったのが「木戸口神社」。石鳥居の手前左にあった「石仏」。「信玄公ゆかりの地木戸口神社信玄の「上の棒道」の要所、渋川を渡り、川沿いに登って御立場をすぎると、右手に横谷峡が開け、正面に木戸坂(地名)がみえてくる。この木戸坂の入口にいつの頃からか諏訪神社を勧請して、木戸口の入口であることから木戸口神社と命名したという。木戸坂を登ってしばらく迂回路をすぎると向城(むこしろ)に達する。」「木戸口神社の由来木戸口とは昔の関所の代役として居た所で此の口を通りて木戸坂、赤渋平、我党場に至り、此の地よりニ手に別れ一筋は逆さの平から大石峠を経て、松原湖より今の南佐久方面に至り、他の一筋は我党場より馬勢口にて馬を返しそれより足で天祥寺原を経て北佐久方面に通したのである。武田信玄はこの道を利用して捧道と名付け各所に炭を積んで塚を築き又は車用金を埋め又は我が車勢に合図をするために屋根棟(今のバークホテル付近)と我党場は烽火を揚げた場所とし木戸口平に武田勢の勢揃いをした所と聞く、其の后坂本養川に依り水路が開かれ滝が出来てより多くの善男善女が願を達成するためこの滝を潜り身を清め神に祈願し其の願が成就したことに依り乙女滝と呼び其の名は高く世の人の知る所となり今尚、若人達が斎戒沐浴して神に祈願する人跡を絶たずと聞く。又、この木戸口の付近は諏訪大社の古代の牧場にて其の当時の地名が残り遠見場にて見張りをし槙寄せに追込み弓掛木にて獲物を射止め木戸口平に集め御祭事をして神に奉りし所と伝えられ諏訪明神建御名方の大明神の神雲のまします所につき、木戸口神社として祀られたるものなり。」歴史を感じさせる石段を上って石鳥居に向かって進む。扁額「木戸口神社」。正面に「社殿」。近づいて。神社の周りに、御柱が建っていた。御柱は諏訪大社だけのものだと思っていたが・・・。「木戸口神社四之御柱」。そして「横谷温泉旅館」に向けて来た道を引き返す。「横谷峡遊歩道入口」案内図。再び正面に「横谷温泉旅館」が見えて来た。入口のソメイヨシノはほぼ満開。そして駐車場の脇を通り、「渋川」の河原沿いの遊歩道まで下る。「渋川」の清き流れを楽しみながら、上に向かって進む。ズームして。これぞ渓谷の白き流れ。横谷温泉旅館の裏には湧水が流れて落ちていた。苔生す静かな一筋の滝。」「河鹿井戸」と。その先の遊歩道には巨岩が壁のごとくに。さらに遊歩道を上って行った。この周辺は、これからが芽吹き・新緑へと。そして再び「渋川」の清流を楽しみながら。大雨の時は、濁流に変わり岩をゴロゴロと動かすのであろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.25
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「蓼科チーズケーキ工房」を後にして昼食会場の茅野市北山に向かって進む。「上川」に架かる国道152号「鬼場橋」を渡る。「国道299号・メルヘン街道」に入る。「芹ヶ沢南」交差点手前、「横谷峡」を目指して進む。」車窓から枝垂れ桜を。満開の枝垂れ桜。「石遊の湯 600m先 左入る」案内板。鉄鉱石採掘跡地の人気かけ流し露天風呂「石遊の湯(いしやすのゆ)」。最盛期の鉱床が「石遊場(いしやすべ)」だったこと、岩石を組んだ露天風呂のイメージにふさわしい、ということでその名が付いたのだと。「石遊の湯」をネットから。休業中の文字がネットには。メルヘン街道脇にはミツバツツジ(三葉躑躅)の花が。そして左手に見えて来たのが、昼食会場の「信州手打そば工房 遊楽庵」。「蕎麦&酒 ミュージアムin蓼科 遊楽庵」。長野県茅野市北山5522−281。入口は塔の如き建物が。下方には「打坐(たざ)」の文字が。「打坐」とは「座禅をすること」と。バスを降り入口に向かって進む。中に入ると、八角形のホールの壁には日本酒の一升瓶が壁全面にならんで、圧巻!!「長野県の全82蔵の日本酒が一堂に会する、圧巻のミュージアムも開設し、エンターテインメント要素もプラス。さらに2階にはウェルネスツーリズムをテーマに、宿泊可能なゲストルームを設置しました。常駐する保健師や医師のオンライン指導を受けながら、自然のなかでの運動や温泉療法、地元の食材を取り入れた食事療法で、健康的な滞在環境を提供します。」とネットから。長野の地酒が所狭しと。ズームして。しかし、地震で落下する可能性はないのであろうか?と。ホールの天井を見上げる。ネットには「長野県の酒をずらりと並べた部屋の天井には、この地を守ってきた龍神が。横谷温泉旅館が営んでいる蓼科中央高原のそば店が、改修されて〈遊楽庵 打坐(たざ)〉という医食“農”同源をテーマにした体験宿泊型施設に生まれ変わります。」とあったが、この日は龍神の姿は確認できなかったが・・・工事はこれからか?そしてこの日の昼食。山菜御飯・蕎麦羊羹・蕎麦いなり・くぎ煮・漬物・野沢菜・刺し身・かも鍋・お蕎麦。いなり寿司かと思ったが。中には蕎麦が入っていた。ちょっと甘辛い濃いめの味付け。もう1ヶ食べたかったが・・・。そして、国産玄蕎麦と横谷峡の天然の湧き水をが使われている蕎麦。挽き立て・打ちたて・茹でたて・つなぎなしの十割蕎麦。ボソボソしてなくて、とても滑らか。香りも良く美味しかったのであった。昼食を済ませ、店内を散策。そば打ちも見ることができるようになっていた。「石うす製粉機」であっただろうか。大きな「蕎麦 こね鉢」。残念ながら、蕎麦打ちの実演は見ることができなかった。予約すれば、そば打ち体験などもできるようです。様々な形状の「のし棒」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.24
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「アンブローズアンドカンパニー㈱ 本社」を後にして県道302号線・石和温泉停車場線にて中央自動車道・「笛吹八代スマートIC」に向かって東に進む。左手に見えたのが「遠妙寺」の山門。山梨県笛吹市石和町市部1098。ここ「遠妙寺」交差点を右折。そして「鵜飼橋北詰」交差点を左折して「笛吹川」に沿って進む。左手に見えたのが「笛吹川(ふえふきがわ)」。笛吹川は、日本三大急流の富士川水系の一級河川。山梨県山梨市北部の甲武信ヶ岳・国師ヶ岳に源を発する東沢渓谷と、国師ヶ岳・奥千丈岳に源を発する西沢渓谷を上流部に持つ。広瀬湖(広瀬ダム)を経て甲州市を下り、甲府盆地の南東を潤し、南巨摩郡富士川町で富士川(釜無川)に合流する。 流域に扇状地を多く形成している。灌漑用水を整備した果樹園ではブドウなどの果実栽培が盛んである。笛吹川の名の由来は、「笛吹権三郎」と呼ばれる民話[1]に語られており、川の音が権三郎の吹く篠笛の音のように聞こえることから、誰とはなしに笛吹川というようになったと言われている。深沢七郎は、この川を題材に小説『笛吹川』を書いた。木下惠介監督によって1960年に『笛吹川』として映画化もされている。左手前方の橋は、国道20号・甲州街道(勝沼バイパス)の「石和橋」。「蛍見橋西詰」交差点を左折して、「笛吹川」に架かる「蛍見橋」を渡る。そして「笛吹八代スマートIC」から「中央自動車道」に入る。「中央自動車道」の本線に向かって進む。再び「間ノ岳」が姿を表した。「境川橋」の先から「坊ケ峯送信所」👈リンク を見る。山梨県笛吹市の坊ケ峰にあるテレビとラジオの送信所。左手の小高い丘の上にあったのが「境川自転車競技場」。1983年(昭和58年)3月に完成し、1986年(昭和61年)第41回国民体育大会「かいじ国体」のトラックレース会場となってから、全国大会などの開催、県内外の個人、団体に利用されている。白で自転車の姿と「さかいがわ」の文字が確認できた。山梨県笛吹市境川町藤垈3279。「笛吹川」に架かる「笛吹川橋」・橋長340mを渡る。右:「北岳」、中央左:「間ノ岳」。「笛吹川橋」から下流方向を見る。「双葉SA」を通過し「甲斐駒ヶ岳」・標高2967m(写真右)を見る。その左手に「北岳」、「間ノ岳」の白き山頂が。「甲斐駒ヶ岳」山頂をズームして。さらに。「甲斐駒ヶ岳」は、山梨県にある標高 2,966mの山。かいこまがたけと読む。山域は南アルプス北部に定められている。百名山、夏油三山、甲信越百名山、山梨百名山、信州百名山、一等三角点百名山、日本百高山、新日本百名山に選定されている山。駒ヶ岳という名がつく独立した山は全国に18座あり、その中で甲斐駒ヶ岳は最高峰である。中央自動車道からの右から「甲斐駒ヶ岳・2967m、「栗沢山」・2714m、「アサヨ峰・2799m、「仙丈岳」・3033mを見る白き右側:「北岳」と左側:「間ノ岳」。「韮崎IC」手前から。ズームして。右から「赤岳」、「横岳」、「硫黄岳」を見る。手前に「北杜サイト太陽光発電所」。ズームして。「横岳」にズームして。さらに。「硫黄岳」。南アルプス国立公園内の赤石山脈(南アルプス)の最北の3000m峰。長野県と山梨県の県境にある北沢峠を挟んで甲斐駒ヶ岳と対峙。「仙丈ヶ岳」・標高3,082.6 m(写真右)を再び。「仙丈ヶ岳」をズームして。左側に「小仙丈ヶ岳」・標高2,864mが。「諏訪南IC」で中央自動車道を降りる。県道197号線・払沢茅野線でJR茅野駅方面に向かう。国道20号線・坂室バイパスの「茅野町」交差点に向かう。そいてここを右折。「上川」に架かる「上川橋」を渡る。「仲町東」交差点角にあった「布袋尊」。この場所にある理由は?そして「蓼科高原チーズケーキ工房」に立ち寄った。「蓼科高原チーズケーキ工房」。長野県茅野市米沢127-1。「生ちーずけーき」コーナー。蓼科高原の自然豊かな美味しい水と空気で育った乳牛のミルク。そこから作られたコクのあるチーズを贅沢に使用。まろやかで濃厚、ふんわりとしたチーズケーキを是非ご賞味あれ と。日持ちしない洋菓子類はコールドショーケース内に陳列されており、常温日持ちする各種焼き菓子やゼリー類も非常に充実しており、店内の商品配置もとても綺麗に整備されていた。また、店内も清潔感が溢れており店舗内外共に非常に居心地の良い感じであった。そして、この時は店内には我がグループだけ。ここにも「生チーズケーキ」。「寒天ゼリー試食コーナー」。「驚き!寒天は薬品としても認められている。」地酒、地ビールも販売されていた。別の場所から地ワインを。店内の造花。地元産の「きくらげ」も売られていた。「TV 全国ネットで紹介 きくらげ ダイエットゴースト血管が生き返る!糖を体外に搬出・便秘解消ふりかけなど食べ方ネットで紹介」「ゴースト血管」とは、血液の循環が悪くなり、末端の毛細血管まで血液が届かなくなり、まるで幽霊(ゴースト)のように血管が見えなくなってしまう現象のこと。近年、この「ゴースト血管」が脳梗塞や認知症など病を引き起こすと言われている。「ゴースト血管」の原因のひとつが「ビタミンD」の不足。きくらげには「ビタミンD」の含有量がとても多いため、食べ続けることで「ゴースト血管」が生き返ったというデータもあるんだ とか。屋外の屋根裏には「ツバメ」の巣作りが始まっていた。私の姿に?警戒する「ツバメ」。巣の材料を咥えて一生懸命に運んでいた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.23
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国道137号・御坂みちを北上する。左手に南アルプスの山並みを見る。この▢の範囲がみえていたのであろうか。「間ノ岳」、「農鳥岳」をズームして。車窓から、ニセアカシアの花を見る。ライラックの花。「笛吹川」を渡る。そして次の訪問場所ファッション工房・「さいら甲府工房&アンブローズアンドカンパニー㈱ 本社」に到着。山梨県甲府市川田町 アリア202。駐車場から富士山頂を見る。ファッション公房・「さいら甲府工房&アンブローズアンドカンパニー㈱ 本社」山梨県が誇る伝統地場産業の代表的存在であるジュエリー。宝飾品出荷額は全国シェアの約2割を占め、ジュエリー生産量日本一を誇っている。「さいら」とは「彩楽」と。35周年を迎えたオリジナルジュエリーブランド『Ambrose』を展開する会社。東京・銀座でフラッグシップ店を運営する他、全国のホテルで展示会を行うなど60万人ものお客様に質の高い宝飾品をご提供している。創業62年の歴史を持つ企業で、ここ山梨県・甲府の本社工房で企画・製造。入口には、圧巻の巨大な天然の宝石が。「黄水晶 シトリン 三方晶系 二酸化珪素高さ 195cm幅 135cm(中) 135cm(下)奥行き 55cm総重量 1.154kg産出国 ブラジル リオ・グランデ・ド・スル州」水晶に鉄イオンが混入し、放射線による結晶格子欠陥によって黄色に変色したもの。このような変色種の仲間として紫色のアメジストやピンク色のローズクォーツなどがある と。リオグランデ・ド・スル州で採掘されたものはマデイラ島特産のシェリー酒に似た濃いオレンジイエローをしていることから「マデイラ・シトリン」と呼ばれ、価値が高いとされている。近づいて。シトリンは太陽を象徴する石といわれる11月の誕生石。紫水晶(アメジスト)の原石。近づいて。色ガラスのオブジェ。天然石を使った巨大宝石画玄関ロビーには天然の宝石だけを使った重さ300キロの巨大宝石画が。人が見上げる巨大なキャンバスの中には26種類の天然石がびっしり。少し離れて見ると美しい絵画になり、そのギャップに驚くのであった。様々な表彰状が壁一面に。技能グランプリの表彰状。「この鉄箱の中には、プラチナ鉱石が1トン(1000kg)入っています。」「さてこの1トンの鉱石から、プラチナは何g採れるでしょうか?正解者には、この鉱石を1個さしあげます」と。数百g等様々な答えがあったが、私は3gと当てずっぽうに答えたが、これが大正解との事であった。鹿児島県北部に位置している菱刈鉱山は、鉱石1トン中に含まれる平均金量が約20グラムという高品位を誇っていることを知っていたのであった。このブログの書き込み時の田中貴金属のHPによると金:9644円/g プラチナ:5282円/gなのであった。本社及びさいら甲府工房では販売はもちろん、本来であれば中々見ることのできないジュエリーの製作現場で本物の加工の様子を、職人に手が触れそうな距離で見る事が出来たのも魅力の一つであった。もちろん制作現場内はカメラ撮影禁止であった。下記写真はネットから。そしてプレゼンテーション室に案内された。「Ambrose」。会社名:アンブローズ アンド カンパニー株式会社設立:2003年5月1日「アクアプレーズ(Aquaprase) 世界一新しい宝石」と。アクアプレーズは、2014年にアフリカで発見され、2016年にGIA(米国宝石学会)にて正式に認められた新種のカルセドニーになります。天然グリーンのカルセドニーである「クリソプレーズ」はニッケルの影響の発色ですが、アクアプレーズのブルーグリーンの色はクロムの影響の発色になります。また、クロム発色のカルセドニーは、世界的に見ても非常に希少で、現在ではアフリカのごく一部の地域でしか産出されていません と。「アクアプレーズ(Aquaprase)」。アクアプレーズは、2014年にアフリカのジンバブエで発見された新しい鉱物で、2016年にアメリカ宝石学会で新種の宝石として認定された天然石。カルセドニーの一種で、クロムを含むことでグリーンブルーの色味を持つ のだと。説明員が「アクアプレーズ」に光を当てた。すると、天井には星のごとき輝きが一面に拡がったのであった。「永く愛され継承されている指輪です」。「Pt900 K18YG リング ダイヤモンド 0.31ct ラウンド ストライプ」。「アンブローズ」が製作した真珠のネックレス「TAMAKI」👈リンクは、2023年1月22日に開催された第18回HRDデザインアワード授賞式において第2位を受賞した のだと。代表取締役 堀内 信之氏が2020年12月に「チコちゃんに叱られる」に出演したと。そしてプレゼンテーション会場を後にした。そして宝石展示販売コーナーに行く途中の展示品。トルマリンの原石。近づいて。「トルマリンの原石和名:「電気石」あたためる・こする・水に濡らすと帯電し、体に流れる微弱電流と同じ電気を発発生します。●花瓶に入れると、切花が長持ちした●植物や植木などの水やりに使用すると、植物が元気になった、葉の色が濃くなった、 花がたくさん咲いたという報告も多く寄せられています。宝石言葉 希望、安楽、潔白、寛大、忍耐、無邪気、友情、心中の歓喜主な産地 ブラジル・アメリカ・タンザニア」地球を彷彿とする、美しき水晶。「タッツァ・ファルネーゼ(B.C53年)サードニックスで創られた、精巧なグレコ工ジプトの初期のカメオ。人々はエジプトの神々を表わし、裏例にメドゥサの顔が彫られている。かってパウロ2世の手許にあり彼の死後は、メディチ家のロレンツォの所有となる。現在ナポリ考古学美術館所蔵。(直径200mm)」近づいて。そして。最後に展示総数1,000点以上!圧巻の「ジュエリー販売展示場」へ。これは鑑賞品「瑞祥鳳凰」。「金細工画--松竹梅--日本の熟練した職人が生み出す金のアート。薄さ0.5mmの18金のプレートを一枚一枚切削し、丁寧に磨き上げ繊細なラインで季節等のモチーフを表現しています。松竹梅に鶴と亀は、お正月、また1年を通し最高の縁起物として飾っていただけます。ライトをかざし、浮かび上がるシルエットを楽しんでいただくこともできます。¥500,000-(税抜)※シリーズものとして、春(桜月夜)、夏(凱風快晴)、秋(紅葉)がこざいます。」近づいて。金箔の切り絵の如くに。「優駿」。「伝統工芸品 甲州水晶貴石細工山梨県水晶美術協同組合は経済産業大臣指定 山梨県郷土伝統工芸品認定の団体です。」「水晶五重の塔」。近づいて。「ラピスラズリ名石 駿馬八福ラピスラズリには「成功を保証する」という象徴的な力があり、洞察力、判断力を高めて富と強運をもたらす宝石といわれています。産地はパキスタン・ロシアなどで、「駿馬八福」に用いられた名石は、特に変化に富んだ美しさをもっています。」近づいて。ラピスラズリを原料とした青色顔料に天然ウルトラマリンがある。天然ウルトラマリンはラピスラズリを精製して製造する。ウルトラマリンとは「海(ラピスラズリの場合は地中海)を越えて」きたものという意味。なおウルトラマリンの内、青色のものをウルトラマリンブルーと呼ぶ。19世紀にはウルトラマリンは人工顔料として合成されるようになる。また、フェルメールが天然ウルトラマリンを多用し傑作を残した事から「フェルメール・ブルー」として特に称される。さらに「ジュエリー販売展示場」を散策?する。販売員も買ってくれそうな客を探して!!「瑞龍」、¥19,800,000!!と。様々な宝石。再び「アメジスト(アメシスト)」の原石。「アメジスト(アメシスト)伝統的にアメジスト特有の効力とされているのは酔い覚ましだが、1 5世紀には他にも多くの力があると考えられていた。1 5世紀のイタリア人天文学者、カミロ・レオナルドは、アメジストには邪悪な考えを制御し、知性を高め、商才を授ける力があるとみなした。アメジストを身につけると酔いが覚めるが、酔いをもたらす飲み物を何杯も飲みすぎた者だけではなく、愛情で気持ちが高ぶりすぎている者にも効果があった。さらに、兵士をケガから守って敵との闘いに勝利をもたらし、野生動物を捕らえる猟師にとっても大きな助けとなった。他の多くの宝石のように、身につけている人を伝染病から守る力も持っていた。」「このアメジストの突鉱(原石675kg )は1994年ブラジル、リオ・グランデ・ド・スル州のポルトアレグレ市にて仕入れたものです。濃い紫色、形と大きさが整った結晶が集合した大型クラスクーは大変珍しく、放たれる高貴な輝きに一目で惚れてしまいました。アメジストは月の女神ディアナに仕えた美しく汚れなき女性です。今はアンブローズを護る女神として、ここアリアに鎮座しています。皆様もアメジストのカ、輝きを体中に充満させて、落ち着いた心で健康に日々をお送りください。アンブローズアンドカンパニー株式会社 代表取締役 堀内信之」窓から外の新緑を。ここにも「アンブローズ」が製作した真珠のネックレス「TAMAKI」👈リンク は、2023年1月22日に開催された第18回HRDデザインアワード授賞式において第2位を受賞 報告が。ここにも水晶が。そして屋外に出て再び白き富士山の山頂をズームして。石庭には多種の宝石の原石が置かれていた。宝石原石に負けじと花々が。バーベナタピアン?ノースポール。キンギョソウ。そして白のツツジの花。「間ノ岳」をズームして。「間ノ岳」は標高3190mで日本第3位の高峰であり、日本百名山の一つ。北岳、農鳥岳とあわせて白根三山と呼ばれている。白根三山の中央に位置し、山頂、山稜ともに広大で、東面のカールや二重山稜の地球で地球の歴史が学べる。主稜は展望もすばらしく、爽快な稜線歩きが楽しめる。また、北岳とは違う植生も楽しめる。山頂は静岡県との県境であり、大井川の源流を擁している と。先程覗いた楕円形の窓が。再び白のツツジの花を振り返って。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.22
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この日は4月27日(木)、J:COM主催の甲斐・信州日帰りの旅へ参加。J:COM会員は1名は無料招待、同伴者の旅行代金は20%・6000円と。主な訪問場所は●標高1,200mに咲き誇る満開の桜「蓼科山聖光寺」●渓谷美と黄金温泉で贅沢すぎるひとときを「横谷温泉・横谷渓谷」小田急線の隣の駅の「湘南台駅前」を6:30の出発とのことで地元の駅に向かって徒歩で向かう。途中、民家の前庭には見事な藤棚そして紫の藤が満開であった。ご自分で藤棚の手入れをされているのであろうか?1m近くの濃い紫の花房が「ぎっしり」と。早朝の陽光を浴びて輝く紫の花房は優雅そのもの。ズームして。そして小田急線に乗り、集合場所の湘南台駅東口へ。既に多くの参加者が、観光バスの到着を待っていた。参加者は80名以上で、2台のバスに分乗して定刻に湘南台東口を出発し、東名高速道路の綾瀬スマートICに向かって進む。神奈川県道403号線を進む。左に「藤沢北警察署」。県道42号線・綾瀬中央通りから富士山の勇姿を見る。いつも訪ねている「ハンディーホームセンター綾瀬店」前から。東名高速道路入口の「綾瀬スマートIC南側」手前。「ETC入口」を見る。富士山山頂をズームして。東名高速道路を進むと左手にあったのが「海老名SA」。「海老名JCT」から「首都圏中央連絡自動車道・圏央道」に入り「八王子JCT」に向かって進む。左手の「相模川」越しに「大山」と「富士山」の姿が。「小田急電鉄小田原線」の「相模川橋梁」を。渋滞もなく、「八王子JCT」から「中央自動車道」へ。「初狩PA」手前から。富士山を追う。笹子町の山々の新緑も美しかった。ズームして。その後も中央自動車道をひたすら走り「一宮御坂IC」で「中央自動車道」を降り最初の訪問場所の「甲州わさび漬センター」に立ち寄る。山梨県笛吹市御坂町金川原1185。駐車したバスの中に女性店員が乗り込み、店内の説明があった。そして案内され店内に進む。最初に5種類の「わさび漬け」試食コーナーがあった。試食する旅友たち。既にお土産を購入する旅友たち。ある意味で、この旅行は土産物購入ツアーなのであった。3ケのわさび漬けで1200円と。店内には祭壇があった。狸(タヌキ)の姿が。「紫水晶・アメジスト」の原石。石でできた花。ポスター「近くの故郷(ふるさと)、こうふ。」墨書で様々な言葉が。「白水晶 小菊」。今回の観光バス。「甲斐・信州日帰りの旅 56号車」。横から。駐車場から見えた南アルプスの白き山々。右が「間ノ岳」、左が「農鳥岳」であっただろうか。 ・・・つづく・・・
2023.05.21
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「佐原張り子のひな人形」-1。佐原で昔から愛され続けている伝統的工芸品。「佐原張り子のひな人形」-2。その製法は、粘土で作った型に和紙を糊張りし、2~3日乾燥させてから粘土の型を取りだし、合わせ目を張り合わせてから胡粉、ニカワを練り合わせたものを上塗りし、乾燥させてから泥絵の具で彩色するという、昔ながらの方法。「伊能家の婚礼用打掛」。「伊能家の婚礼用打掛年代: (江戸時代後期)こうさんの母「ひさ」さんが、伊能家に嫁入りした際に持参した打掛で、伊能家の女性が代々、婚礼時に着用しました。打掛とは、内側の着物の上に羽織るもので、裾周りに厚みの有る部分を作ることで、引き摺って歩く際に足にまとわりつくのを防いでいます。」近づいて。さらに。松の古木があしらわれていた。松の下に館が。金糸の刺繍が見事。「伊能家の雛人形」-1。「伊能家の雛人形」-2。「伊能家の雛人形」年代:明治忠敬から5代目の「こう」さんの妹のひな人形です。そして巡って来た展示ブースを再び振り返る。「佐原での活躍」コーナー。「独学の時代」コーナー。「全国測量へ」コーナー。「全国測量へ」コーナーを反対側から。「西日本測量へ」コーナー。「伊能図の完成」コーナー。「伊能図の完成」コーナーを反対側から。正面に「シーボルト事件」のコーナー。そして「伊能忠敬記念館」の数々の展示品を堪能し外に出るとあったのがカラフルなマンホール蓋。「ポケモンマンホール蓋」・「ポケふた」は世界に1枚しかないオリジナルデザインのマンホールで、株式会社ポケモンから観光振興などを目的に香取市に寄贈されたのだと。本事業は、以前から市の若手職員20人以上が企画や検討に携わっており、図鑑に記載している「地域とポケモンをつなぐストーリー」は、若手職員が考えたのだと。タイレーツはヘイチョーとヘイの6匹が隊列を組んで行動。ココガラはどんな強敵にも挑みかかる勇敢なポケモン。江戸時代にたった6人で、危険を恐れずに測量を始めた伊能忠敬の姿と重なるのだ と。そして「小野川」に架かる「樋橋」まで戻ると、正面には先程訪ねた「伊能忠敬旧宅」が見えた。「樋橋」を再び渡る。「伊能忠敬旧宅」の2軒隣にあったのが「小江戸さわら舟めぐり」のチケット売り場である「【お休み処/舟めぐり】株式会社ぶれきめら」。「【お休み処/舟めぐり】株式会社ぶれきめら」の前から小野川対岸の白壁の蔵を見る。このマンホール蓋は汚水マンホール蓋。旧・佐原市といえば水郷。市の花「アヤメ」の咲く水郷での鮒釣りをデザイン。もっとも、アヤメは水辺にはないそうなので、カキツバタかハナショウブかもしれない。3月12日に開催された「さわら雛船春祭り」👈リンク のポスター。千葉県道55号佐原山田線(香取街道)に架かる「忠敬橋」は一部工事中であった。「もともと大橋(佐原大橋)と呼ばれていたが、1882年(明治15年)1月に佐原の人々が協力してアーチ型をした橋長8間、幅員3間の石橋に架け替え、「協橋(かなえばし)」と名づけられた。総工費は4,840円20銭8厘。 第二次世界大戦後は交通量の増加に伴い橋梁幅員が狭くなったため、1957年(昭和32年)に1.8mの拡幅を行った。 アーチ型をしためがね橋は町の中心にあったことから佐原のシンボル的存在であったが、自動車交通量の更なる増大や老朽化により1968年(昭和43年)4月にコンクリートの新しい橋に架け替えられ、郷土の偉人伊能忠敬翁から「忠敬橋(ちゅうけいばし)」と名づけられた。以前、県道の交通量が多かったことから忠敬橋の上に忠敬歩道橋が架けられ、小学生は必ずそこを通行しなければならなかったが、大型車の交通が減ったこと、町並みの景観にそぐわなくなったことから撤去され、押しボタン式信号機が設置された。なお、伊能忠敬の正式な読みは「いのうただたか」であるが、佐原の人は忠敬記念館を「ちゅうけいきねんかん」、忠敬橋を「ちゅうけいばし」というように親しみを込め音読みで「ちゅうけい」と呼ぶことが多い」 とウィキペディアより。「忠敬橋」と書かれた銘板の上には測量計の「象限儀のオブジェ」が設置されていた。「忠敬橋」から「小野川」上流を見る。「忠敬橋」から「小野川」下流を見る。この先、約1.5km先で利根川に流れ込んでいるのであった。再び「植田屋荒物店」が見えて来た。「植田屋荒物店店舗:切妻平入り 明治26年(1893)築(奥)寄棟2階建て 前建物後土蔵:切妻妻入り 明治初年 築創業:宝暦9年(1759)初代辻仁兵衛は、近江(蒲生)の出で現在8代目となる。屋号「植田屋」 かって荒物と畳表の卸業が主で、「大分県から産地直輸入畳表」と書かれた奇妙な看板を見ることができる。明治25年大火後に平屋の店舗を、その後奥に2階建てを増築して店舗兼住宅とした。土蔵は、大火前の建物で一般公開されており、叉首組(さすぐみ)構造の大きな棟木を見ることができる。この棟木は6間の長尺で搬入の際大変であったと聞く。 NPO法人小野川と佐原の町並みを者える会 贈」案内板の下には可愛らしい雛飾りが竹の上に。奥は「蔵」に継っていて、中を見学させてもらった。「蔵へようこそ」のポスターもあった。蔵の中も店の一部となっていた。様々な扇子。美術館の如くに。およそ250年もの間、佐原の人々の暮らしを支えてきたのであろう荒物屋。職人の手で作られた日用雑貨が並ぶ、昔懐かしい荒物屋なのであった。蔵の2階に上がる。叉首組(さすぐみ)構造の大きな棟木を見る。「叉首組構造(さすぐみこうぞう)」は伝統構法の小屋組で茅葺屋根に採用される。別名「合掌造り(がっしょうづくり)」と呼ばれる。叉首組構造は、垂木や合掌の横に渡す木「屋中(やなか)」と合掌の骨組みである丸太と垂木の上に横に渡す竹をワラ縄などで結び作られる。勾配は「矩勾配(かねこうばい)」と呼ばれる45度が多いが、富山の合掌作り集落など雪が多い為に更に急勾配の60度ぐらいの角度で作られるのだ と。合掌の横に渡す木「屋中(やなか)」。2階の床には隙間が設けられていたが換気が目的なのであろうか。様々な雛飾りも。叉首組(さすぐみ)構造の大きな棟木をズームして。黒光りした棟木が歴史の深さを感じさせるのであった。「藍染」であっただろうか。2階から前方の急な階段を注意深く降りたのであった。漆塗りの数々のお椀。草箒(くさぼうき)も並んでいた。そしてこの日の昼食で利用した店・「元祖 すずめ焼き 麻生店」再び「佐原三菱館」を見る。「癒しの雑貨 ラパン」には「「鶴瓶の家族に乾杯」に出たお店です!!」昭和レトロな佐原の路地にはお年寄りが二人のんびりと。「三菱銀行佐原支店旧本館」には「川崎銀行佐原支店」と。この建物は、大正3年(1914)に川崎銀行佐原支店として建設されたものである。当時の建築設計図には、清水満之助本店(現在の清水建設)技術部の設計になることが記されている。昭和18年(1943)に川崎銀行は三菱銀行と合併し、三菱銀行佐原支店となったが、平成元年(1989)に銀行の新店舗が完成したことに伴い、この旧店舗は香取市に寄贈されて今日に至る。建物は煉瓦造2階建て、木骨銅板葺屋根の明治時代の洋風レンガ建築の流れをくんでいる。内部は吹き抜けで、2階周囲には回廊がある。正面右隅に造られた入口はルネサンス風の外観で、この区画の頂上にはドームが付けられており、建物全体の景観にアクセントが与えられている。全体のデザインは、ルネサンス様式で、レンガと花崗岩で構成される特徴的な外観の建物である。「佐原町並み交流館」。「佐原 雛飾り」。「香取神宮入口」交差点手前の民家の門も歴史を感じさせるのであった。そして駐車場のバスに戻る。時間は14:20。そして「佐原香取IC」から「東関東自動車道」を利用して帰路に。本線に向かって進む。「小野川」手前の大規模太陽光発電設備。成田市内の長閑な田園風景の中を進む。そして出発して1時間10分ほどで「首都高速湾岸線」から見えたのが羽田空港の「東京航空局 東京空港事務所」の「旧管制塔」。そして「現在の管制塔」。この管制塔は約116mと日本一高く、世界でも4番目の高さの管制塔。「羽田スカイアーチ」下を通過。羽田スカイアーチは、東京国際空港(以下、羽田空港)の第一ターミナルと第二ターミナルの間にある橋梁である。羽田空港のシンボル的存在とされている。アーチという名称ではあるが、世界でも類を見ない主塔アーチ型の斜張橋であり、赤いアーチの高さは44.5m、アーチのスパンは160m、南北二本の主桁は主塔とケーブルで結ばれている。正式名称も東京国際空港中央南北連絡橋である。平成4年度土木学会田中賞を受賞した。「JALロイヤルケータリング」敷地内のアンテナ塔を見る。「ENEOS株式会社 扇島風力発電所」が右手前方に。「鶴見つばさ橋」から「東京電力横浜火力発電所」の高さ地上200mの排気筒。「大黒PA」にてトイレ休憩。そして「横浜ベイブリッジ」から「横浜ランドマークタワー」を見る。そして横浜新道を利用して、地元駅前にほぼ定刻時間に無事到着したのであった。佐原にあった「伊能忠敬記念館」は、千葉県香取市佐原にある、伊能忠敬が生涯を過ごした地である佐原地区に建設された博物館であった。伊能忠敬は、江戸時代末期に幕府の命を受け、日本全国の地図作成や測量を行った測量家であり、その功績を称え、佐原地区には多くの伊能忠敬関連の史跡が残されていた。「伊能忠敬記念館」は、伊能忠敬の生涯や業績を展示するための施設であり、伊能忠敬が測量に使用した測量器具や地図、手稿などの資料が展示されていた。伊能忠敬の業績や測量技術についてゆっくりと学ぶことができたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.04.22
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「NIPPON」。シーボルトが帰国後にまとめた日本紹介の書です。地理・地誌・自然誌など詳細にわたる記述があります。クルーゼルステルン(ロシアの水路学者)からシーボルト宛の手紙も印刷され、その一節に「これ(伊能図をもとにした日本地図)をヨーロッパで作製された諸地図と比較しても非常にすぐれたものであるとの判定を下さないわけにはゆきません」という評価がされています。」「NIPPONJは、図版編と本文(テキスト)編からなり、伊能忠敬の調査に基づく日本地図などが紹介され、また農村や都市の風景・風習、文化や産業、そして身分のよる服装の相違などを描いた図版が数多く載せられている。ドイツの医者・博物学者として有名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(philipp Franz von Siebold, 1796-1866)は、1826 (文政9)年、商館長に従って江戸に参府したが、その道中多くの医者や本草(薬学)学者に会い知見を広めた。1828 (文政11)年の帰国にあたり、我が国の国禁を犯して高橋景保より受け取った地図などを携行しようとしたことが発覚し(シーボルト事件)、翌年日本を追放されて本国に帰った。しかし、1859 (安政6)年に再び来日して、1861 (文久元)年には徳川幕府の外交顧問となったが、翌年ドイツに戻りミュンヒェンで没した。」シーボルト著『NIPPON(日本)』に取録された「日本邊畍(界)略圖」。「日本邊畍(界)略圖」は、幕府天文方の高橋景保が1809 (文化6 )年に作成したもので、ロシアを含むヨーロッパ人にとって地理情報が不正確であったサハリン(樺太)を半島ではなく、島としてはっきり描いた、当時世界最新の日本北方図として、シーボルト『日本』に収録された地図の中でも最も重要な地図の一つとして知られている。「輯製(しゅうせい)20万分の1地図陸地測量部が伊能図を参考にしてつくった地図。1893(明治26)年までに完成しました。三角測量が進むにしたがって、順次20万分の1帝国図に代えられていきました。「輯製」というのは、現在ではあまり使わない言葉だが、「編集によって作られた」という意味であると。測量による地図は、すでに伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』が1821年に完成していたが、これは、地図の表題通り、「沿海」つまり海岸線を中心とした地図であり、そのほかには、主要な街道沿いの情報しかなかった。「金華山近場」、「千葉霞ヶ浦・九十九里浜」、「鹿児島南部」。「大正までの伊能図幕末から明治にかけて、伊能図をもとにした地図がつくられ、その後の地図の基礎資料となりました。その一つに「輯製(しゅうせい)20万分の1地図」は、近代的測量をへた「20万分の1帝国図」にかえられていきましたが、大正時代まで使用されたものもあります。」「版木 種子島」。ガラスが反射して分かり難いので、ネットから。dの部分は石垣島付近を描いた版木部であると。「版木 種子島官板実測日本地図の版木です。幕府開成所(現東京大学)が作成、幕府抱えの彫刻師天神山につくらせたものです。」天神山とは宮田六左衛門であり、平河町住ひで塙保己一の「群書類聚」などの筆耕ほりとして有名な人である と。「国宝 伊能忠敬 関係資料の世界当館所蔵の国宝「伊能忠敬関係資料」には、地図や測量道具だけでなく、伊能忠敬に関わるさまざまな資料が含まれており、全体は5つの部門に分類されます。ここでは、地図・絵図類・文書・記録類・書状類・典籍類・器具類の中から、代表的な資料の実物を展示し、同資料群の持つ奥深い世界を紹介していきます。」「参考絵図(大州藩領)」。「参考絵図(大州藩領)愛媛県松山市資料名:[大州領沿海図](怒和村)作成年代:不明[大州領沿海図]に関する記事をネットから。これも「参考絵図(大州藩領)」「参考絵図(大州藩領)愛媛県大州市資料名:[大州領沿海図](櫛生村)作成年代:不明「下図(壱岐島)」。「◯箱館付近」。「下図(壱岐島)長崎県壱岐市縮尺:3万6000分の1資料名:[壱岐国下図]作成年代:年代不詳 測量:文化10(1813)年3月13日~27日「下図(伊豆半島北東部)」。「下図(伊豆半島北東部) 静岡県熱海市~伊東市」縮尺:3万6000分の1資料名:[自伊豆国賀茂郡網代村至伊豆国賀茂郡宇佐美村下図]作成年代:年代不詳 測量:享和元(1801)年5月4日~5日「下図(伊豆半島北東部)」。「下図(伊豆半島北東部)静岡県伊東市縮尺:3万6000分の1資料名:[自伊豆国賀茂郡網代村至伊豆国賀茂郡宇佐美村下図]作成年代:年代不詳 測量:享和元(1801)年5月5日~6日」「下図(伊豆半島北東部)」。「下図(伊豆半島北東部)静岡県伊東市縮尺:6000分の1資料名:[自伊豆国賀茂郡網代村至伊豆国賀茂郡宇佐美村下図]作成年代:年代不詳 測量:享和元(1801)年5月6日」「小区域下図第二次測量で、忠敬らが測った一日から二日の成果を書いた下図です。いずれも伊豆半島の北東部の下図です。日中の測量後、夜につくったものと考えられます。縮尺は、36000分の1と6000分の1のものが残されており、この時期の製図は試行錯誤をくりかえしていたことがうかがえます。」「伊能家訴訟依頼状・訴訟費用借用証」。「伊能家訴訟依頼状・訴訟費用借用証資料名:御願申一礼之事(伊能三郎右衛門家訴訟に付依頼状)作成年代:文政11(1828)年正月「伊能家の家事に関する訴訟を水沢家に一任した書類です。この時点では、笹目家と水沢家は反目していません。御頼申一礼之事一伊能三郎右衛門家事不取締ニ付御両家様旁御深情ニ相成忝奉存候、然ル処此度無拠 御公訴ニも相成可申旨承知仕候、何分御丹情ヲ以家事取締 永続ニ相成候様偏ニ奉頼上候(中略) 文政十一子年正月 伊能三郎右衛門妻 ※さた(爪印) さた実父 笹目八郎右衛門(印) 立会人 柏木久兵衛(印) 永沢次郎右衛門 殿 同 半右衛門 殿※「さた」は忠誨の妻で、後に「くに」と名乗ります。」「伊能家の親類一同で伊能茂左衛門に三郎右衛門家の管理を任せた書類です。居宅は他人に貸して、忠誨の妻だった「くに」は実家か親類の家に行き、食料代と衣類代10両を与えると書かれています。早速一決いたし、是迄居宅者年中他江貸渡、後家くに身分之儀者里方又者親類之内江参り居、扶持井衣類等之手当として一ヶ年二金拾両ツゝ相渡、右ニ而無不足相賄、」。「伊能家家財管理依頼状」「伊能家相続協議書」「伊能家相続協議書資料名:為取替申儀定一礼之事[伊能三郎右衛門家相続議定書]作成年代:天保9年(1836)年10月「天保9 (1838)年の伊能家親族の協議書の冒頭に、忠誨存命中に永沢駒吉を養子にしたことがかれています。為取替申議定一札之事一去ル文政九戌年中伊能三郎右衛門重病ニ付、永沢次郎右衛門倅駒吉伊能三郎右衛門方江拾弐ヶ年前養子ニ貰請相続取究メ罷在候所、」「伊能家のその後文政元(1818)年忠敬が亡くなった後、伊能家の家督をついだのは孫の忠誨(ただのり)でした。忠誨は高橋景保の指導の下、伊能図の幕府への献上や佐原で天体観測などを行いました。文政9(1826)年、忠誨は重病により永沢駒吉を養子にしました。翌年の忠誨の死後、妻の実家笹目家と永沢家で伊能家の家督をめぐって争いになりました。弘化2 (1845)年に、忠誨の妻は実家にもどり、伊能家の当主は不在になったので、一族の伊能茂左衛門が忠敬に関する資料も含め、伊能家の家財一切を管理するようになりました。」「伊能忠関係資科の写真集図録「国宝伊能忠敬関係資料」「受付でお買い求めいただけます。」伊能忠関係資科の写真集図録「国宝伊能忠敬関係資料」1冊1 , 000円」「国宝 伊能忠敬関係資料」。伊能忠敬の書状。近づいて。「永井甚左衛門様御代官山田茂左衛門様御役所へ御出被成候て御かけ合の上御手かた御引かへ被下候間今日下し候も御りやう所名主へ相渡し候米と引かれいたし候やう仰出候よし」「忠敬の孫・忠誨は天文方の役人としての扶持米(お給料)を地元佐原付近の幕府領で引きかえてもらっていた」。「何事も浅草先生 直々 山田茂左衛門様へ 御かけ合 被下候ゆへ」伊能忠敬の娘「伊能イネ書状」。「伊能イネ書状これはイネ(忠敬の娘)から、忠誨(ただのり・忠敬の孫)に送られた手紙です。忠誨からみると、イネは伯母にあたります。ここでは、天文方雇(幕府の役人)としての忠誨の扶持米を佐原付近の天頂で引替えられるよう浅草先生こと高橋景保が取り計らってくれたことが書かれています。」「此間しつねんいたし候いねぢはんの半ゑり御とのへ被下可申候一本もみの半ゑり壱つ是ははしきれにても宜しく候」「いねは、忠敬とミチの長女イネ(のちの妙薫)のこと。文中ではいねの襦袢(はだぎ)のえりにかける「半衿(はんえり)の相談をしているようです。」「一 なかぬきそうり二足鉄之介さしかさ壱本右之しな御せわさまおって申あけまいらせ候」「鉄之助は、忠敬とミチの長男景敬のことです。」「伊能ミチ書簡」。「伊能ミチ書簡」妻ミチから夫忠敬宛ての書状。今回はおひなさまの展示にちなみ、伊能家の女性が書いた書簡を2通紹介します。一般的に、女性の書く文章は、ひらがなが多く使われることが特徴として挙げられます。忠敬の妻ミチが夫へ宛てたこの手紙も例外ではありません。かな混じりで綴られるやわらかい文面でできた手紙の中身は、子供のいねや鉄之介に関する相談となっており、文面だけでなく内容もやさしくほほえましいものとなっています。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.21
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「伊能忠敬記念館」の展示品の見学を続ける。伊能忠敬が測量時に使用した「御用」旗。「御用旗伊能忠敬測量隊の旗です。幕府の正式な仕事であることを示す「御用」の文字が染めぬかれています。忠敬が、友人の久保木清淵に依頼して作らせました。」「西日本測量経路図」●第5次測量は畿内、中国地方の測量で1805年(文化2)2月15日江戸出発、東海道を 西へ浜名湖の周辺で長期測量、桑名をへて山田(伊勢)では木星の衛星による食(凌犯現象) を観測、紀伊半島南を回り、大坂から京都、大津、琵琶湖周辺、宇治、摂津、尼崎、岡山、 翌年に赤間関(下関)、萩、浜田、松江、隠岐島、山陰沿岸、若狭湾、大津、東海道への 長距離行程になっています。1806年(文化3)11月15日帰着しました。全行程 5000キロメートル超、640日の長い旅でした。この測量では下役(伊能配下の役人) として坂部貞次郎などが加わっています。伊能は松江で大病を患い療養のため隠岐島は部下に 測量をさせました。測量隊の規律が乱れ、また高橋至時から戒告の書状が出されました。 江戸に帰着後、内弟子の平山群蔵(平山宗平と兄弟)ほか一人を破門しました。 この測量成果により作成された地図は「中國沿海地圖」(中図)、「畿内沿海地圖」 (中図)が残存しています。●第6次測量は四国、大和の測量で1808年(文化5)1月25日江戸出発、大坂から淡路島、 鳴門、徳島、室戸、高知、宿毛、宇和島、松山、川之江、丸亀、大坂、大和郡山、桜井、 伊賀上野、伊勢、東海道の行程です。四国では沿岸部一周のほか高知、川之江間の四国縦断も 行われました。翌1809年(文化6)1月18日帰着しています。下役として青木勝次郎 (絵師、伊能の肖像画を描画)が加わり、沿道風景の描写をしています。瀬戸内海の塩飽 (しあく)諸島では日食を観測し、伊勢では元日に内宮、外宮を参拝しています。「伊能忠敬・測量の概要」●第7次測量は下記●第8次測量は下記●第9次測量は伊豆七島の測量で1815年(文化12)江戸出発、71歳の伊能は高齢のため 参加を取りやめ、下役の永井甚左衛門(充房)が隊長、弟子たちであたりました。江戸から 東海道を三島まで、伊豆半島を下田まで行き、下田湊から御用船観音丸で八丈島へ向かう ところ船は流され三宅島に到着、その後伊豆七島の測量をしました。●第10次測量は1816年(文化13)と一部は前年に江戸府内の測量をしました。 伊能はほとんど参加していないようです。翌年地図の作成が行われました。伊能の測量はすべて 完了します。「経度の測定」経度は、日食・月食などの天体現象を観測して、その時間差から算出しました。経度を精密に求めるには、日食などが2地点以上で観測できることと正確な時計が必要でした。伊能忠敬の全国測量中に13回の日食・月食がありましたが、雨天などで観測できない場合があり、テータとして使用できたのはわずか5回だけでした。また、時刻の測定には垂揺球儀(すいようきゅうき)を使用しましたが、地◯時の決定に誤差が生じました。」「経度測量の失敗伊能忠敬は日食・月食を観測し、経度を確定することにつとめました。しかし、忠敬はこの測定についてはかんばしい成果を残せませんでした。それは、気象の影響や正確な時計のない当時の科学技術の限界でもありました。」「九州測量九州の測量は、2次にわたる大事業になりました。当初1回で完了する予定でしたが、屋久島・種子島への渡海がかなわず、測量を延期することになりました。この測量の最中、忠敬が片腕として信頼していた坂部貞兵衛が福江で病没し、長男景敬(かげたか)も亡くなるなど、忠敬にとって、公私ともに大きな悲しみがおとずれています。」●第7次測量は九州東南部の測量が主で1809年(文化6)8月27日江戸出発、江戸郊外の 王子から岩槻、騎西、熊谷をへて中山道を近江へ、一部測量を省き淀、西宮、中津、杵築、 大分、佐賀関、延岡、佐土原、飫肥(おび)、大隅半島、鹿児島、甑島(こしきじま)、 天草、熊本、大分、翌1810年(文化7)に中国地方、内陸の主要街道、甲州街道をへて 1811年(文化8)5月9日帰着しています。鹿児島では日食観測に失敗しています。 第7次測量に参加した箱田良助(備後国箱田村出身)は榎本武揚(えのもと・たけあき 1836~1908、幕臣)の父でした。江戸に帰着後、間宮林蔵が伊能宅に住み込み測量術を 伝授され、蝦夷地測量に出発しています。●第8次測量は九州残部の測量で屋久島、種子島、五島列島が含まれています。 1811年(文化8)11月25日江戸出発、藤沢から大山街道をへて御殿場へ、富士山麓の 北側を回り東海道、山陽道をへて1812年(文化9)1月下旬、小倉へ、ここから手分け して南下、鹿児島、山川、屋久島、種子島、小倉に戻り、博多、唐津、伊万里、佐賀、久留米、 島原半島、大村、佐世保、1813年(文化10)は平戸、壱岐、対馬、五島列島、長崎、 小倉、赤間関、中国地方内陸、広島、松江、米子、鳥取、津山、岡山、姫路で越年、 1814年(文化11)は西脇、生野、福知山、宮津、京都、津、岐阜、下呂、高山、野麦峠、 松本、善光寺、須坂、松代、冨岡、大宮、川越、1814年(文化11)5月22日帰着して います。伊能の測量では最長期間となりました。この測量では離島が多く難航しました。 また天文方下役の坂部貞兵衛(さかべ・ていべい、1771~1813、惟道とも)を 五島列島の福江で亡くしています。第7次測量(九州1次)、第8次測量(九州2次)の伊能本体と坂部分隊のルート図。「日本地図へ」コーナー。「日本地図へ伊能図は、下図からつくられた大図、中図、小図の3種類があります。下図は測量結果を記録した野帳をもとにつくられました。大図(縮尺86,000分の1)は214枚で中図(縮尺216,000分の1)は8枚で、少図(縮尺432000分の1)は3枚で日本列島をカバーしています。」「地図のつくり方忠散たちの地図づくりは、ます測量結果を記録した野帳をもとに線をひいて下図をつくります。次に、下図の下に紙を重ねて固定し、線の曲がり角に針で穴をあけ、重ねた紙にあけた針穴を赤い線でつなぎます。それから、現地で写生した風景を描き、神社、寺、港などの記号(地図合印)を押し、地名を書くと地図が完成します。」右:「地図経緯表」。「下図」「伊豆半島東海岸」実際の縮尺を50%に縮尺したもの。「大図」「伊豆半島」。実際の縮尺を60%に縮尺したもの。「中図 関東」。三宅島や八丈島、青ヶ島(青島)まで伊豆諸島の島々も描かれている。実際の縮尺を40%に縮小したもの。「少図」、実際の縮尺を40%に縮小。「正確な伊能図伊能図と現在の地図を比較すると、経度のずれがみられますが、個々の形については正確に描かれていることがわかります。伊能図は、簡単な器械で測量した成果としては、驚くべき正確さを備えているといえましょう。」「現在の地図」と伊能図のズレ。中央:日本列島左上:琵琶湖右横:佐渡左上:琵琶湖右横:佐渡中央:日本列島北海道、東北をズームして。関西、中国、四国。九州。「香取市で行われた大図フロア展の様子」「大図・中図・少図の大きさの比較」「伊能図の世界伊能図には、多くのバリエーションがあります。縮尺の異なる大図・中図・小図の3種類、名勝地を絵画のように描いた特別大図、そして日本全図などさまざまです。このコーナーでは、そうした伊能図の数々を紹介いたします。」「香取市で行われた大図フロア展の様子」平成24年4月26日~ 5月2日実施「大図・中図・少図の大きさの比較大図の縮尺は3万6000分の1、中図は21万6000分の1、小図は縮尺43万2000分の1ですので、小図と比較すると中図は縦横2倍、面積は4倍。中図と大図では縦横6倍、面積は36倍にもなります。」緯度、経度の入った「小図:西日本」。「小図:西日本」。縮尺:432,000分の1原資料名:沿海地図小図(西日本)作成年:1821(文政4年)原資料神戸市立博物館蔵「小図の部分拡大(京都付近)」。「小図:東日本」。「小図:東日本」。縮尺:432,000分の1原資料名:実測輿地全図(本州中部)作成年:1821(文政4年)原資料東京都立中央図書館蔵「小図の部分拡大(江戸付近)」。「中図:関東・中部地方」。「中図:関東・中部地方」。縮尺:21万6000分の1原資料名:沿海地図(中)東海道・北陸道・東山道作成年代:文化元(1804)年原資料国宝 当館蔵「小図:北海道」。「小図:北海道」。縮尺:432,000分の1原資料名:沿海地図小図(北海道)作成年代:1821年(文政4年)原資料神戸市立博物館蔵「伊能大図・中図・小図の接合図1枚で日本列島全体を描いた伊能図はありません。大図は214枚、中図は8枚、小図は3枚に分割して描きます。」「中図:中国地方」。「中図:中国地方」。縮尺:21万6,000分の1原資料名:東海道歴紀州中国到越前沿海図(上)作成年代:文化4(1807)年原資料国宝 当館蔵「中図:東海・畿内地方」。「中図:東海・畿内地方」。縮尺:21万6,000分の1原資料名:東海道歴紀州中国到越前沿海図(下)作成年代:文化4(1807)年原資料国宝 当館蔵「大図」が並ぶ。「大図(奥州街道)」。「大図(奥州街道)」。(岩手県岩手郡岩手町~青森県三戸群五戸町)縮尺:3万6000分の1原資料名:奥州街道図 第十一 (自御堂/至五戸)作成年月日:文化元( 1804 )年測量:寛政12 (1801)の年5月5日~ 6日、9月26日~ 29日/享和元 (1801)年1 1月1 1日~ 1 4日「大図(奥州沿海)」。「大図(奥州沿海)」。縮尺:3万6000分の1原資料名:自江戸至奥州街道図 第十九(自野辺地至油川)作成年代:文化元(1804 )年測量:寛政12 (1801)の年5月7日~ 9日、9月21日~ 25日/享和元(1801)年10月27日~ 11月6日~ 9日「歴第三号 国宝指定書伊能忠敬関係資料一、地図・絵図類 七百八十七点一、文書・記録類 五百六十九点一、書状類 三百九十八点一、典籍類 五百二十八点一、器具類 六十三点法量 品質形状等は別添目録の通り右を国宝に指定する。 平成二十二年六月二十九日 文部科学大臣 川端達夫」「東河伊能先生之墓」墓石は角石で、正面に「東河伊能先生之墓」と隷書で刻む。伊能忠敬は延享2年( 1 7 4 5 )神保貞恒の子として上総国に生まれる。名を三次郎という。のち下総国佐原の酒造家・名主の伊能家を継く。名を忠敬と改め、伊能家の家業興隆に精出すかたわら、数学・測量・天文などを研究。漢詩・狂句も良くし、子斉と字し、東河と号した。5 0歳の時、家督を譲り江戸に出て、高橋至時(よしとき)の門に入り、西洋暦法・測図法を学ぶ。寛政1 2年( 1 8 0 0 )幕府に願い出て、蝦夷地(現・北海道)東南海岸の測量に着手。以来1 8年問、全国各地を測量して歩いた。しかし地図未完のうちに文政元年( 1 8 1 8 ) 4月1 8日没す。享年7 4歳地図作成は、幕府天文方が引き継き、没後3年の文政4年に成。その地図は『大日本沿海輿地全図』という。また『日本輿地全図』『実測輿地全図』ともいい、俗に『伊能図』と呼ぶ。わが国最初の実測精密地図である」〔左側面〕東河伊能君墓銘并叙 江都 一斎佐藤担爲文君諱忠敬字子齊伊能氏號東河稱三郎右衛門晩稱勘解由北総香取郡佐原村人本姓神保氏南総武射郡小堤村神保貞恒之第三子出冒伊能氏伊能氏世爲閭右族其先出於大和高市郡西田郷大同中有諱景能者知北総香取郡大須賀荘居伊能村因以氏焉子孫蝉聯占其地至永禄中有諱景久者始徒佐原天正中爲居民開肆塵貿易實君九世祖也高祖諱景利曾祖諱昌雄祖諱景慶考諱長由長由無子其配神保氏君之從祖姑也因●君爲嗣長由不幸●歿産頗荒君既來嗣慨然以幹蟲爲志听夕黽勉務検禁奢靡家衆百口以躬率先之天明三年關東大饑君爲發私儲賑貸郷里施及旁近村落多所全活六年又饑救之如初地頭津田日州君並優賞之君好星暦至寛政六年委家事於子景敬躬獨来江都而従事暦學當時所傳層法君疑其<この面に書かれていること>忠敬の履歴と伊能家の由緒について記されています。忠敬の人となりを「伊能家の再興を志し、朝晩励んで、自ら率先して質素倹約に努めた」としています。また、天明の飢饉の際に、村民を救済し、死者を出さなかった功績について書かれています。〔右側面〕及度数譜行程記至文政元年齢七十有四罹病其四月十三日劇殆不起至四年七月輿地全圖等成進呈以其九月四日歿 官追賞其功賜廩米宅地於孫忠誨以旌之君為人真率不修邊幅精力絶人毎測量 命下轍喜見顔色不日而發乃躬歴険阻凌海濤奔走数十百里風雨寒暑未嘗少沮喪何其氣之邁而事之勤也哉所著有國郡書夜時刻考対数表紀源術並用法割圓入線表紀源法地球測遠術問答凡若干巻皆藏於家君先配長由之女繼配桑原氏皆先歿得三男二女昆季並殤仲子景敬嗣亦先歿孫忠誨嗣君之葬在城北淺草源空寺東岡君之塋域從遺嘱也忠誨以状来請余銘乃畧叙之爲銘日源深以遠流長以?善積之厚慶則有?叩天之?極坤之輿瘴烟毒霧不能爲瘉祈寒暑雨不能爲痛乃如之人能有幾興貞珉可●跡則不(渝?)文政五年壬午嘉平月下澣淡海關研書 孝孫忠誨立<この面に書かれていること>忠敬の業績への賞賛が記されています。碑文には「文政4年7月に沿海輿地全図を完成させその後の9月4日に忠敬がが亡くなった」と記されている点が注目されます。忠敬は正直で見栄を張らず、精力的だった。測量の命が下れば喜んで出発し、険しい道を行き、荒波をしのいで奔走し、風雨や厚さを寒さにもくじけなかった。なと気力にあふれ、実行に励んたことか」と讚えている。〔背面〕有所不合偏就暦家質之猶未釋然既而 官會有改層之擧召高橋東岡者新自浪速来君執贅往見始聞西洋暦法理精数密宿疑乃解遂棄舊學學之推歩測量之精東岡之門獨推君云寛政十二年閏四月 官命君測量北陸道及蝦夷地方東南沿海以定地度明年正月 官賜君父子銀各十錠許佩刀稱姓氏賞其於天明年内兩救窮民也享和元年三月又 命測量伊豆相摸二総常陸陸奥沿海六月又 命測量出羽三越佐渡能登駿河遠江三河尾張沿海至文化紀元集地方各圖爲一大圖進呈其九月 官賞賜廩米擢爲小普請組属天文方既而又 命測量山陽山陰西海南海四道壹岐対馬二島官道及沿海十二年又 命測量伊豆七島及箱根湖既竣事測量江都府内十四年四月府内圖成進呈自蝦夷測量之初至此閲十有八年五畿七道無地不渉●陬僻壌盡測量而圖之最後有 命集成寓内沿海輿地全圖<この面に書かれていること>忠敬が、子の景敬に家督をゆずって江戸に出てから、全国測量を行い、地図の作成に至るまでが記されています。「当時の暦法に疑間を抱いていた忠敬は、改暦のため、大坂より来た高橋東岡(至時)から西洋暦学を聞き、その理論の精密さに、長年の疑間を解くことができ、これまでの疑問をすてて、これを学ぶ」と、西洋哲学との出会いを興味深く取り上げています。「外国の影響伊能図は海外に紹介され、外国の日本地図に影響を与えました。ドイツ人シーボルトが伊能図の写を持ち出し、はじめて海外に日本の正確な姿を伝えました。幕末に日本を訪れた英国海軍のアクテオン号は、幕府から伊能図の小図を与えられ帰国し、それにもとづいた日本の沿海図が1863年につくられました。」「左上」:クルーゼンステルンの海図等にもとずいたイギリス製日本沿海図。 1865年刊行。1940年に公表されたシーボルトの日本図が、一部しか参考とされて いないため、正確な日本図になっていません。「左下」:伊能図(小図) 伊能図の写。1861年、駐日イギリス全権公使オールコックの請求により、幕府から 贈られアクテオン号らによってイギリス本国にもたらされました。「右上」:シーボルト日本図「右下」:伊能図にもとずいたイギリス製日本沿海図 1863年刊行。アクテオン号がもたらした伊能図を直接参考として作成されたもので、 正確な日本の姿を描いています。「シーボルト事件長崎にきていたドイツ人医師シーボルトが、海外に伊能図を持ち出そうとしました。高橋至時の長男・景保が、外国の書と伊能図を交換したのです。当時、日本の地図を外国人にわたすことは禁じられていたため、1828 (文政11)年、景保は罰せられ牢屋で病死しました。シーボルトも国外追放となりましたが、ひそかに写しを持ち帰り、海外に日本の正確な姿が伝えられました。」「封廻状」「シーボルト事件関係者の判決す。すでに獄死していた高橋景保(かげやす 至時の子)にも死罪が命じられています。」右から高橋作左衛門(景保) 存命候はば死罪 忠敬の測量に参加した人物。下河辺林右衛門 中追放 忠敬の測量に参加した人物門屋清次郎 江戸十里四方追放 忠敬の測量に参加した人物永井甚左衛門 江戸払 忠敬の測量に参加した人物 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.20
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「暦象考成」「当時最新の暦学書てす。伊能忠敬は、暦学の基礎をすでに勉強していたので、高橋至時(よしとき)への入門とともに、この本から学ぶことができました。」「高橋至時の著書伊能忠敬が写した、師高橋至時の著書です。日食の予報や惑星の軌道解明などにとりくんだ本で、当時最高水準の歴学書です。」2023年は寛政の改暦の立役者である高橋至時の没後219年にあたる。高橋至時は明和元年(1764)に大阪の下級武士の家に生まれた。天明七年(1787)、大阪で天文暦学を教えていた麻田剛立の門下に入り、同門の商人、間重富はざましげとみと共に天文暦学の研究に励んだ。その頃改暦を考えていた幕府により、江戸出府を命じられ、寛政七年(1795)至時は天文方、重富は頒暦所御用として、浅草天文台で改暦作業に従事することになった。「寛政暦法」は西洋天文学を採り入れた中国の暦書『暦象考成 上、下、後編』をもとに考案された。五星 (惑星) は周天円の組合わせによったが、太陽、月は楕円運動を用いた画期的なものだった。しかし、至時はこの暦法に満足できず、享和三年(1803)から亡くなる享和四年(1804)の約半年間で、オランダ語天文書の『ラランデ暦書』の解読に励み、『ラランデ暦書管見』を著述した。この超人的な仕事が命を縮めたといわれる。41歳であった。至時の指導で緯度の観測を始め、ついに精密な日本地図を完成させた伊能忠敬、師の隣に眠ることを希望したので上野源空寺の高橋至時の隣に墓がある。「気朔交食推法」「新修五星法 図説」 全2冊、寛政12-享和3年 天の中心に地球があるとし、その周りを地球に近い順に水星 金星 太陽 火星 木星 土星 恒星が めぐるという、いわゆるプトレマイオス体系を用い、またすべての惑星の軌道は各星固有の 半径を持った楕円軌道の導円上を太陽天と同大で黄道と平行な傾きを持った楕円軌道の 周転円中心が運動しその周転円上を惑星が運動するというモデルを構築したのである。「修正赤道日食法」 寛政12年稿、享和2年補。 「寛政暦法」 宝暦暦が出来の悪い暦法であったことから、幕府は西洋天文学を取り入れた暦法に改暦を しようとし、高橋至時を幕府天文方に登用し、同門の間重富とともに改暦の準備に 当たらせた。高橋至時らは先任の天文方(山路徳風ら)と協力し、寛政9年(1797年)に 暦法を完成させた。この暦法では、西洋天文学の書物の漢文訳である『暦象考成後編』を 元に、月と太陽にだけであるが楕円軌道法を導入したが、惑星については周転円に基づく 理論であった。また、精度の悪い古代の観測結果を説明するために、消長法を採用した。 弘化元年(1844年)渋川景佑らにより『寛政暦書』(35巻)が出版。図にティコ・ブラーエ のものをいれるなどしている。 天保8年(1837年)の大小暦(大月〈30日〉、小月〈29日〉)は、2月、4月、6月、9月、 11月が小月であり、その覚え言葉が「西向く士」であった。文政8年(1825年)の大小 月覚え言葉は1月、3月、5月、7月、10月、12月が大月で「大好きは雑煮草餅柏餅ぼんの ぼた餅亥の子寒餅」という。「ラランデ暦書管見」 「ラランデ書」の主要な部分や参照すべき部分を、高橋至時が自身の解釈や疑間を 交ええながら訳した書物。原書の「ラランデ暦書」は、フランス人天文学者ラランドの 著書をオランダ語に訳したものである。国宝「伊能忠敬関係資料」のなかには全部で8冊 現存する。本書により、地球が偏平楕円形であることが日本に初めて紹介されるとともに、 忠敬の導き出した緯度1度の距離の推計(28里2分)の正確性が確かめられた。「増修消長法」 忠敬の師である高橋至時の著した天文暦学書を忠敬が写したもの。至時は、麻田剛立が 考案した消長法(1年の長さが変化することを前提とした天体運行の計算方法)を理論的に 解説するために本書を著した。本書の中で至時は、地球自体が移動すると考えることによって、 惑星の軌道がより単純に説明できるとの見解を示している。至時が地動説的な理解を受け入れ つつあったことをうかがわせる。「忠敬の地球図」「忠敬の地球図伊能忠敬が写したと伝えられる世界地図。製作年代は不明。17世紀中頃のヨーロッパ製の世図を精密に写し、漢字で地名を表記するなど手を加えた図を伊能忠敬が複写し司馬江漢の世界図等でさらに注記を加えたものと考えられます。18世紀の日本人にとって、それほど古くはない世界図に司馬江漢の地図から情報を書き込んでいることから、当時における先端の世界地図を求めようとした伊能忠敬の意気込みが感じられます。」「ロシアの領土拡張図」。□1580年以前の領土□1581~1681年の領土□1682~1796年に拡張□1801~1825年に拡張「伊能測量隊の正式参加者」。「蝦夷地測量18世紀の末期、幕府は、日本を北方から脅かしていたロシア帝国などに対する海防のため、蝦夷地(えぞち:現在の北海道)の正確な地図をもとめていました。同じころ、日食予測のため、地球の子午線一度(緯度1度)の長さを測定し、地球の大きさを確定することが高橋至時らの願望でした。至時がこのニつの思惑を調整し、忠敬の蝦夷地測量が実現しました。彼はもともと日本地図をつくるために測量をはじめたわけではありませんでした。」「東日本測量経路図第1次測量 1800(寛政12)年第2次測量 1801(享和元)年第3次測量 1802(享和2)年第4次測量 1803(享和3)年」「俄羅斯舩之図(おろしあふねのず)1792(寛政4)年、日本人漂流者大黒屋光太夫らをともなって、日本へ通商を要求するために根室にやって来たロシア人ラックスマンの船の図です。」ラックスマンが乗ってきた「エカテリーナ号」を描いたもの。「深川~浅草間測量図江戸深川の忠敬宅から浅草の暦局までの地図です。子午線一度(緯度一度)の距離を求めるために、忠敬か測量して歩いた最初の成果です。」「黒江町・浅草測量図」。忠敬の最初期の実測地図。縮尺6000分の1。下方「深川黒江町」が隠宅。上方左の「司天臺」が浅草暦局。国宝。「蝦夷地測量辞令1800(寛政12)年閏4月14日、蝦夷地掛り宅で受け取った辞令です。忠敬の身分は「下総国香取郡佐原村元百姓 浪人」でした。」「蝦夷地測量少図」。「蝦夷地測量少図寛政12年(1800)、伊能忠敬らが最初に行った東蝦夷地(北海道の太平洋岸を主とした地域)および奥州道中の測量図。東京国立博物館での名称は「蝦夷地実測図」である。本図は伊能忠敬が上呈した当時の形態を保っている地図と考えられている。たたみもので表紙に相当する部分に外題が墨書され、「蝦夷地第1図 自シリウチ至ヤマコシナイ」というように記される。針突法によらない作図を行い、大小2種類作り、大図が縮尺1:43636、小図が縮尺1:436360となる。大図は蝦夷地シラオイからヒロウまでを欠き、奥州図では浅草から津軽平館までの10図相当を欠いている。「浅草文庫」の朱印がある。「子午線一度弧長暦か正しいかどうかは、日食を正しく予報てきるかどうかにかかっていました。日食の予報を行うためには地球の大きさ、形状を正確に知る必要があり、そのためには、地球上の子午線一度(緯度1度)の長さを正確に決定することか必要でした。 360x子午線一度弧長X (地球の直径) =-------------------------- 3.14 「緯度を求める緯度は観測地で恒星の南中・北中の高度を象限儀ではかり、江戸で観測した高度との差を平均した値を、江戸の緯度、北緯35度40分30杪に加減して求めました。」日本では伊能忠敬が第二次測量(1801年)の結果から緯度1度に相当する子午線弧長を28.2里と導き出したのだ。「4次測量を終えて忠敬は、4回にわたる東日本の測量から、子午線一度(緯度1度)の長さを28里2分と算定しました。この数値は、当時最高水準の暦学書である「ラランデ暦書」をもとに計算した数値とほぼ一致するものでした。また、忠敬は測量の成果をみごとな地図にあらわしたので、その技術を認められ、幕府の役人にとりたてられました。」「雑録伊能忠敬の測量成果をまとめた本です。展示した部分は、子午線一度の長さの記録です。それぞれ28里2分に近い数字が得られています。」「ラテンデ暦書管見高橋至時がフランス人ラランデ著の天文書(オランタ語訳書)の一部を抄録した本です。この中に、子午線一度の長さについての記述があり、算出の結果、伊能忠敬の測量成果28里2分とほぼ一致しました。」「東日本沿海図」。千葉県などが記された「東日本沿海図」(縮尺43万2千分の1)は、1804(文化元)年に完成した。この地図の出来栄えを江戸幕府の首脳部が絶賛し、忠敬を幕臣に登用。以後の測量は幕府の正式な事業となった。「第1次から第4次までの測量成果1804 (文化元)年7月完成、8月上呈され、9月には将軍家斉も閲覧したといわれています。この地図の出来栄えが幕府首脳部の絶賛を得て、忠敬は臣に登用され、以後の測量は幕府の正式な事業になりました。」「地方測量之図」卍老人89才(葛飾北斎)。北斎は嘉永2年(1849)に死亡しており、この絵は最晩年の作品です。応需と描かれており、版元より依頼された仕事である。内容は測量免許を取得したお祝いに配る記念錦絵のようである。画中には「地方測量之図 地方測量術免許 長谷川善衛門弘門人 越前福井藩 大橋文五右衛門敏之・肥前大村藩 森荘助英明・同 川原順左衛門忠正」とあり、陸奥盛岡藩の測量風景かも知れない。大田区の六郷用水も検地とはやり方は違うが、用水を流すために微少な高低を計り、用水路を決める測量も同じような風景であったと考える。「尺(大・小)1尺の長さの基準としたと伝えられています。当時、関東では享保尺、関西では又四郎尺が使われており、1尺の長さに違いがあったため、尺度をそろえたものです。」大:縦4.9 横36.0 厚1.1cm小:縦4.6 横34.6 厚0.6cm表面には対角斜線目盛が付されており、また大きい方の裏面には「田中丹柳作」の銘がある。「象限儀」(小)。坂道の角度をはかる道具です。この器具で測量した角度と距離から三角関数を利用して、真上から見た水平距離を算出しました。」「坂道の測り方勾配のある坂道では、斜辺(A点~B点)を測ってしまい、地図つくりに必要な水平の距離(A点~B’点)より長くなり、誤差の原因となります。そのため斜辺の長さと坂道の角度を測り、計算で水平の距離を求めます。①A地点に象限儀(小)を垂直に立て、のぞき穴から目標地点B点を見ます。②象限儀(小)から真下を指す指標板が作る角度を測ります。この角度が道の角度と同じになります。この場合14度です。③A点からB点までの距離を測ります。(導線法で測った距離と同じ)④斜辺の角度から割円八線対数表(現在の関数早見表と類以のもの)を使い、A点~B’点までの水平距離を計算で求めます。」「半円方位盤遠方の山や島の方位を測る道具です。」「交会法(こうかいほう)(誤差補正の方法)A~G点(海岸線や街道などです)を導線法で丹念に測っていても、長い距離を測っていくうちに誤差が発生します。その時、各地点から見える山などの目標物に対して北からの方位角(ここではA点から山へは北から50度・D点では10度・G点では323度)を半円方位盤で測っておきます。宿や江戸の自宅に戻って地図を作成するとき、山への方位線が一致しなければどこかで誤差が発生したと考えられ、その誤差を修正するのに使います。伊能図の山などに引かれた朱線は、誤差補正に使われた意味を持ちながら、伊能図を美しく引き立てる特徴になっています。忠敬は導線法・交会法を使い、A点からB点まで測るのに距離のほかに水平の角度・上下の角度・山への角度の3つの角度を測りました。」「杖先方位盤(つえさきほういばん)(わんからしん)」「杖先方位盤(つえさきほういばん方位をはかる道具です。杖の先につけられた方位盤は、どんな場所でも水平に保つことができました。忠敬が、一番よく使った道具です。」「量定車距離をはかる道具です。道の上で引っぱると車輪が回り、その回転数によって距離がわかります。実際には、当時の道は凸凹していて、あまり使いませんでした。」「鉄鎖距離をはかる道具です。長さ1尺(約30cm)を単位として、60本つなげて10間(約18mまではかることができました。」「定規」、「分度器」。「導線法(街道や海岸線の測り方)①A~G点(A・B・C等の点は、海岸線や街道の道の曲がり角などです)の各点に梵天 (現在の測量ポール)を立てます。②最初にA点にワンカラシン(杖先方位盤)を置き、B点まで北からの方位角を測ります。 この場合北から東へ60度です。 (正確に測るため、逆方向のB点からA点までの方位角も測り、お互いに角度があっているか 確かめました) 次にA点からB点までの距離を間縄や鉄鎖を使い、距離を測ります。この場合30mです。③B点へワンカラシンを移動させ、C点までの北からの方位角を測ります。この場合北から東へ 145度です。 B点からC点の距離を測ります。この場合35mです。④C点へワンカラシンを移動させ同じようにD点までの方位角(この場合北から東へ62度)と距離 (この場合27m)を測ります。以上のように測量中は次々と方位角と距離を丹念に測り、記録をつけていきました。このようにして伊能図に描かれた鋭角に折れ曲がった朱色の測線は、実際に測量した道であり、伊能図の正確さの証ともなっています。」「梵天(ぼんてん)」。「梵天(ぼんてん)測量するときの目印です。曲がり角などに、人に立ててもらい、方位などを見通すときに使用しました。」「垂揺球儀(すいようきゅうぎ)」。「垂揺球儀(すいようきゅうぎ)振り子式の時計です。24時間で、約59,000カウントし、日食や月食の時間をはかりました。「地味で丹念な測量術測量隊は、道などのまがりかどに梵天(ぼんてん)をたて、その方位をわんか羅鍼(らしん)ではかり、梵天までの距離を鎖や測縄で測量していく導線法と、その誤差を補正するために、遠くの山などの方位を半円方位盤で測量する交会法を順次行っていきました。この測量方法は当時目新しい方法ではありませんでしたが、忠敬は器具をいくつも使い、できるだけ誤差を少なくするようにつとめました。」「観星鏡(かんせいきょう)」「観星鏡(かんせいきょう)星をみる道具てす。大坂・貝塚の岩橋善兵衛に製作してもらった天体望遠鏡で、木星の衛星の観測などに使用しました。」「測食定分儀日食や月食をみる道具です。望遠鏡につけて、太陽や月のかけぐあいを観測しました。」「ゾンガラスサングラスです。太陽を観測するときに使用しました。」「天体観測忠敬が精密な日本地図をつくりあげることができたのは、天体観測で観測値を地球上に位置づけたからです。緯度は、象限儀(しょうげんぎ)で北極星などの星の高度をはかってもとめました。経度は、日食や月食などを測食定分儀で観測し、その時刻を垂揺球儀ではかり算出した。忠敬測量隊はこの作業を、日中地上の測量を終えた後、夜半まで熱心に行いました。」「象限儀(中)」「象限儀(中)組度をはかる道具てす。北極星など星の高度をはかり、観測地の緯度を算出しました。これにより忠敬たちのつくった地図は、とても正確になりました。」「西日本測量へ」「糸魚川事件1803 (享和3)年、伊能忠敬は第4次測量中に越後国糸魚川で地元の役人とのトラブルにまきこまれました。忠敬は町役人に対し、姫川の測量妨害を詰問しました。地元の人達は忠敬の行動が横暴であると、領主松平氏を通じて、幕府に訴えました。高橋至時は幕府の問い合わせに対し、終始忠敬を弁護し、忠敬には測量事業の意義を説明し、行動をいましめました。測量隊の指揮者として、測量の完遂を目指す、高橋至時の活躍がうかがえます。」「陰の功労者 高橋至時伊能忠敬の測量には、師、高橋至時の存在が不可欠でした。第4次測量の途中でおきた、糸魚川の町役人とのトラブル(糸魚川事件)のときも、至時は、幕府に伊能忠敬の行為を弁明するとともに、忠敬にも事業の重大性をうったえ、測量の完遂に気をくばりました。至時は、東日本測量終了の直後亡くなり、事業は子の景保(かげやす)に受け継がれました。」「伊能測量隊の正式参加者」。「全国測量をめざして1804 (文化元)年、忠敬に西日本測量の命が下りました。この測量は幕府の正式事業になったため、測量隊員が大幅に増員され、測量用に徴発できる人馬の数もふえ、忠敬らの手当ても増額されました。また、幕府から大名に対し、測量への協力が命じられ、東日本測量とは規模、質ともに大きく変貌しました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.19
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「小野川」での「小江戸佐原舟めぐり」を終え、「樋橋」の先にあった「伊能忠敬記念館」に向かって進む。「伊能忠敬記念館」の入口。「伊能忠敬」は江戸時代、日本国中を測量してまわり、初めて実測による日本地図を完成させた人。忠敬は、延享2年(1745年)現在の千葉県九十九里町で生まれ、横芝光町で青年時代を過ごし、17歳で伊能家当主となり、佐原で家業のほか村のため名主や村方後見として活躍します。その後、家督を譲り隠居して勘解由と名乗り50歳で江戸に出て、55歳(寛政12年、1800年)から71歳(文化13年、1816年)まで10回にわたり測量を行いました。その結果完成した地図は、極めて精度の高いもので、ヨーロッパにおいて高く評価され、明治以降国内の基本図の一翼を担いました。「伊能忠敬記念館」。「伊能忠敬記念館案内開館時間 9:00~16:30休館日 月曜日・年末年始入場料 大人500円コロナ対策 展示室内の同時収容人数 MAX150人」「国宝 伊能忠敬 関係資料の世界」と。伊能忠敬関係資料は、平成22年6月29日に重要文化財から国宝に指定された2345点の資料群。国宝に指定された資料は、地図・絵図類、文書・記録類、書状類、典籍類、器具類に分類され、忠敬の全国測量に関る資料のほか、孫の忠誨(ただのり)の資料も含まれています。●地図・絵図類 787点 彩色された伊能図、その元となった下図(したず)、測量経路の風景を鳥瞰図的に描いた 麁絵図(あらえず)、各測量地から提出させた参考絵図などがあります。 伊能図の作成過程をうかがい知り、また各地の測量技術を明らかにできる貴重な資料群です。●文書・記録類 569点 日本全国測量中の日記、山などの方位を測った山島方位記、夜に天体観測した星の観測記録、 先生である高橋至時の御用日記、測量御用の辞令や先触、忠敬の孫である伊能忠誨 (ただのり)が作成した星図などの資料です。●書状類 398点 忠敬直筆の書状のほか、息子景敬、娘イネなどの親族、先生の高橋至時・高橋景保、 尾形謙二郎や坂部貞兵衛など弟子たち、友人の江川英毅・久保木清淵や諸藩の役人との書状が あります。●典籍類 528点 忠敬が学んだ暦学書、測量書、和算書や測量に関わる中で集めた地理書などがあります。●器具類 63点 地上測量の器具には、量程車や半円方位盤、象限儀(小)などが、天体観測の器具には、 緯度測定に使う象限儀(中)、経度測定に使う垂揺球儀があります。 また、地図を作成する時に使った烏口や地図記号の印もあります。特に忠敬の孫の忠誨が 使用した垂揺球儀もあり、国内でも有数のコレクションとなっています。「伊能忠敬記念館」パンフレットと入館券。今、気が付きましたが「水郷佐原山車会館」との共通入館券を買っていたようです。「伊能道 千葉県一周 五一七キロ」ポスター。「「伊能道」とは実測による日本地図を江戸時代に作成し千葉県の偉人。「伊能忠敬」の測量の旅にちなんだモバイルスタンプラリーです。海沿いや川沿いに設置された全21箇所のスタンプスポットを訪ね、海風や川風を感じながら歩いてみませんか。伊能忠敬(1745~1818)延享二年(1745年)現在の千葉県九十九里町小関生まれ。十七歳で佐原の商家、伊能家の婿養子となる。四十九歳で家業を譲って江戸に移り住み、徒歩で全国を測量し、大日本沿海輿地全図などを作成した。このスタンプラリーは既に2023年3月31日(金)で終了した と。掲示板にも様々なポスターが。映画「大河への道」👈リンク ポスター。劇場公開日:2022年5月20日落語家・立川志の輔による新作落語「大河への道 伊能忠敬物語」を映画化。主演の中井貴一をはじめ、松山ケンイチ、北川景子らキャストがそれぞれ1人2役を務め、現代を舞台に繰り広げられる大河ドラマ制作の行方と、200年前の日本地図完成に隠された感動秘話を描き出す。千葉県香取市役所では地域を盛り上げるため、初めて日本地図を作ったことで有名な郷土の偉人・伊能忠敬を主人公にした大河ドラマの開発プロジェクトが立ち上がる。しかし脚本制作の最中に、忠敬が地図完成の3年前に亡くなっていたという事実が発覚してしまう。1818年、江戸の下町。伊能忠敬は日本地図の完成を見ることなく他界する。彼の志を継いだ弟子たちは地図を完成させるべく、一世一代の隠密作戦に乗り出す。「花のあと」の中西健二が監督を務め、「花戦さ」の森下佳子が脚本を手がけた と。「伊能忠敬翁モザイクアート」の手前でアルコール消毒を。平成27年6月26日(金)、27日(土)に開催された千葉県立佐原高等学校の星輝祭(文化祭)に、1年H組の生徒たちが、82,560本の爪楊枝で描いた伊能忠敬翁のモザイクアートであると。生徒一人ひとりが、A4サイズの発泡スチロールに1,290本の爪陽枝を差し、計64枚のピースで縱2.4m、横1.6mの作品を作り上げたのだと。展示コーナーへ。「展示室のご案内」。●佐原時代 忠敬が佐原の商人として活躍した前半生と、進むべき道を見出していった様子を紹介します。 忠敬は、50歳で江戸へ出るまで佐原の名主・村方後見を務め、家業では醸造業等を 営んでいました。 34歳の時松島への旅行では神社仏閣を訪ねる旅でしたが、48歳の時伊勢神宮への旅の途中には、 緯度・方位観測を行っており、このころから天文や暦学への興味をいだいていました。●全国測量 忠敬の江戸での勉学と、苦労しながらも全国測量を行っていく様子を紹介します。 江戸で、幕府の天文方(てんもんかた・暦を司る職)である高橋至時の弟子になり勉強を本格的に 始めます。 55歳で北海道南岸の測量を行い、以後計10回に及ぶ日本全国の測量を71歳まで行いました。 忠敬は73歳で亡くなりますが、彼の没後3年にして日本全図は完成しました。●伊能図の完成 完成した伊能図の特色と、その後の地図への影響を紹介します。 伊能図には、1821年完成の「大日本沿海輿地全図だいにほんえんかいよちぜんず」 (縮尺36,000分の1である大図が214枚、縮尺216,000分の1である中図が8枚、 縮尺432,000分の1である小図が3枚)のほか、測量ごとに作った地図や名勝地を描いたもの など、多くの種類があります。いずれの地図も実際に測量してつくられたので、とても正確で あるとともに、芸術的な美しさを備えています。 (国宝の伊能図や測量器具は2ヶ月ごとに展示替えを行っています)」●映像「人間忠敬」 夢にチャレンジした忠敬、偉業を残した人物としてだけではなく、人間的な側面も 紹介します。(約10分)●地図の世界 地図の持つ不思さ・面白さ・楽しさと、様々な地図に描かれた佐原を紹介します。●情報検索 忠敬と佐原(町並み・香取神宮・水郷)の情報をコンピュータで紹介します。頂いたパンフレットより-1。中央に「大日本沿海輿地全図」。ズームして頂いたパンフレットより-2。頂いたパンフレットより-3。入口には「伊能忠敬像」と、忠敬が作った日本列島の地図・「伊能図」が迎えてくれた。「伊能図とランドサットから見た日本列島」「伊能図」「ランドサットから見た日本列島」。「伊能忠敬像」。絹本着色掛幅装 90.4cm×31.4cmズームして。伝青木勝次郎江戸時代/1821香取市重要文化財孫の忠誨の日記に青木が持参したことが記されており、この頃作製したと考えられる。「久保木清淵の賛」が書かれていた。「能令餘慶在兒孫 知是勤渠不朽事 地域成圖報國恩 家門修業䔍前烈」と。chatGPTによると「もし、残された功績が子孫たちに知られるならば、それが最も不滅のことである。同時に、祖国の地域や報国の恩について記録を残し、家族の門戸は先祖の事績を継承することでより堅固になるでしょう。」と。そして展示会場内に。まずは「佐原での活躍」展示ブースへ。「当時の佐原」「江戸~佐原間流通図」江戸から佐原へ持ち込まれた品々、佐原から江戸への品々。「関東醤油造家番付」 江戸時代の醤油釀造家のランキングを示しています。最高位の大関に、佐原の鶴屋弥重郎の名がみえます。「金の草履」一九が晩年にかけて、名著「東海道中膝栗毛」と並行して書き綴った紀行文書で、佐原地域をしるした第十編は1814(文化14)年、52歳のときの作です。「佐原周辺の出身者や佐原に縁のある文人」 久保木竹窓、楫取魚彦、今泉恒丸、小林一茶、渡辺崋山。「当時の佐原お江戸見たけりゃ 佐原へござれ佐原本町 江戸まさり佐原は江戸と関東農村を結ぶ利根川水系の河岸(かし)であり、商業都市として繁栄しました。この自由な商業都市の雰囲気が佐原の文化をささえていました。伊能忠敬もこうした環境のなかで才能を育まれることになります。」「高瀬舟」。「川船としては日本最大級の貨物船で長さ25mを越す舟もあり、利根川水系の運輸を担いました。船員寝泊まりできる設備(世事)もありました。江戸時代、佐原には20~30艘あり、米、酒、しょうゆなどを江戸に運ぶために活躍しました」別の角度から。米俵が積まれて。「元禄国絵図・下総」「伊能家屋敷図」「四家略系図」「樋橋」「伊能家屋敷図」酒蔵があることから天保以前の敷地の様相を伝えるものと考えられます。「元禄国絵図・下総」1696(元禄9)年から1702(元禄15)年にかけて、幕府が全国に命じてつくらせた、国単位の絵図の1つ。「樋橋」もとは、佐原村用水を本宿から新宿へ、小野川をまたいで通す樋でした。「名門 伊能家上総国山辺郡小関村(現在の九十九里町)に生まれた三治郎は佐原の名門伊能家の婿養子となり、伊能忠敬と名乗りました。伊能家は学問的素養も深く、測量の伝統をもつ家柄でした。景知は佐原村用水工事にかかわり、景利は元禄期の国絵図作製に際し、佐原の村絵図をつくりました。忠敬はこのような伝統のある伊能家の影響を受けることになります。」「四家(伊能家、平山家、神保家、小関家)略系図」伊能忠敬は1745(延享2)年1月11日、小関貞恒、ミネの次男として生まれた。小関家は九十九里の名主で小関村(現千葉県九十九里町小関)にある。忠敬は三人きょうだいの末っ子で兄と姉がいた。忠敬の幼名は三治郎といい、母ミネは長子で、15キロほど北に離れた小堤(現・横芝光町小堤)の神保家から婿をもらった。六歳の時、母が急死すると、婿養子だった父は三人の子がありながら兄と姉を連れ実家の小堤村の神保家に返された。母には弟がおり、弟が家督を継いだ。三治郎は祖父母の元に残り、父は手の掛からない兄と姉を連れて実家に戻った。読み書きを学ばせなければならない三治郎を小関家に託し、いずれ迎えに来ることを約束し帰った。小関家は江戸ともつながりが深く、幼い三治郎に基礎教育をしっかり学ばせた。学問好きな少年で親戚の平山家の人に漢学を、常陸の僧に数学を、土浦の医者から医学を学び、土木作業を監督させたならば人使いがうまかったとか、家に泊まった幕府役人から計算を習ったといった逸話が残されている。約束通り三治郎が十歳の時に父の元に引き取られ、十七歳まで父の元で過ごした。九十九里町小関から横芝光町小堤までの一帯は忠敬が神保三治郎として青春時代を過ごした土地だった。1762(宝暦12)年、十七歳の時に、香取郡佐原村(現・千葉県香取市佐原)の伊能家に婿養子に入り、ミチと結婚した。佐原の酒造業、伊能三郎右衛門家では当主を亡くし、子持ちで二十一歳の未亡人のミチが婿を求めていた。十七歳と二十一歳、子持ちの縁談だった。平山家を仮親として、幕府学問所頭取(現在の東大総長)林大学頭の門人になり、林大学頭から『忠敬(ただたか)』という名前をもらい、平山忠敬として伊能家に婿入りした。伊能家の記録によると、当時千二百石の酒造家だったが、忠敬の働きにより、造酒高千四百石になったとの記録がある。醤油(しょうゆ)の醸造、貸金業を営み、江戸への水運の権利を持ち、運送業もやり、江戸に薪(まき)問屋を持っていた。分かり易(やす)くいえば、現在の総合商社のようなものだ。江戸時代の伊能家屋敷は今の佐原の旧宅よりはるかに広く、貸家もあった。米の仲買などで財産を築き、名主や村方後見として郷土のために尽くし、かなりの才覚の持ち主で、伊能家の再興の祖といわれている。「当時の伊能家忠敬は、1745 (延享2)年1月1 1日、現在の千葉県九十九里町に生まれました。1 7歳で伊能家の娘・達と結婚しました。伊能家は、酒造りや米の売買などの商売をしている名家でした。これまでの伊能家の主人たちの中にも、用水工事をした人や、村絵図をつくったり、村の古い記録をまとめたりした人がいました。」「伊能家経営帳簿」、「・・屋勘定帳」「店御目録帳」:伊能忠敬は、29歳(安永3年)から49歳(寛政6年)までの20年間て家産を 3倍以上に増やしました。 伊能忠敬は、20年間で家の財産(ざいさん)を3倍以上に増やしました。「忠敬の活躍佐原の名門伊能家の婿養子となった伊能忠敬は、不運のなかにあった伊能家の再興につとめ、家の財産を3倍以上にふやし、念願を達成しました。また天明の飢饉のときは、困窮した村人を助けたり、利根川の堤の修築につとめたほか、村に賦課された新税をめぐる河岸問屋一件では佐原の代表として活躍し、村に貢献しました。」「忠敬の活やく忠敬は商売に力を入れ、伊能家の財産を3倍以上にふやしました。天明の飢饉のときは、浅間山の大項火や利根川の大洪水で苦しんでいる村人を助け、利根川の堤防工事を行うなど、村の名主としても力をつくしました。※飢饉・・・農作物がとれなくなり、食べ物が不足すること」「忠敬の活躍」を示すパネル。「伊能家の収入」:伊能忠敬は29歳から49歳まで20年間で家の総収入を3倍以上にのばしました。「佐原河岸問屋一件」:1771 (明和8 )年から1774(安永3)年にかけて、幕府が佐原河岸に新税を 賦課した事件。伊能忠敏は幕府勘定所の詰問に対し、佐原の権益保持の ために答弁しました。「佐原村河岸一件嘆願書」。「幕府は川沿いの町に新しい税金を払うように求めました。佐原村では、伊能忠敬ともう一人の2人だけで払うこととしました。」「江戸時代中期、幕府は河川沿いの物資の集散地である河岸に河岸役という新たな税金を賦課する政策を進めました。河岸の一つであった佐原村もこの調査対象になり、忠敬らは何とか賦課されないように努力しましたが、結局受け入れることになりました。議事録は伊能忠敬が同族の伊能茂左衛門とともに奉行所に提出したもので、河岸役をニ人だけで支払うことを願い上げています。」「浅間山噴火夜分大焼之図」👈リンク1783(天明3)年、浅間山が噴火し、大飢饉や洪水をもたらしました。「火口から巨大な火柱を上げて噴火する浅間山の姿が描かれている。天明三年の浅間山噴火の様子を、南麓側から描いたもので、3回大爆発があり、火山弾八十斤(42㎏)が飛び、上州のうち200ヶ村で人家焼失、降灰が雪のごとく激しく、100里(約400㎞)四方に及んだと記されている。」と。「三十リ程ハ火玉八十斤程ノ飛散、上州之内二百ヶ村程人屋焼失死亡多シ。焼炭ノフリテ雪ノ如ク五 六寸ツモリタルトナリ。風上ノ方ハ二一二寸程ツモル、其外百里四方二炭フス」。 「利根川の治水」:1783 (天明3)年、幕府により利根川沿岸の堤の修復が行われ、伊能忠敬は 佐原村の担当者として活躍しました。「忠敬の蔵書目録一覧」。「興味津々忠敬は、文学・歴史・医学・数学・測量術・天文暦学の本に親しむ教養人でした。松島に芭蕉の句碑を書きとめながら旅行する風流人でもありました。特に、暦学については熱心で、京都や江戸から暦書を取りよせ、独学で勉強するようになりました。後年江戸に出て、高度な西洋流の暦学を受け入れることができたのは、佐原時代の勉学があったからでした。」「好奇心がいっぱい伊能家にはたくさんの本があり、忠数はいろいろな分野に興味をもつ人でした。妻の達(みち)と旅行した松島(宮城県)では、松尾芭蕉の俳句を書きとめています。その後、天文暦学については、熱心に勉強しました。江戸に出て、好きな学問をもっと学びたいと考えていました。※天文暦学・・・星の動きを観測して、正しい暦をつくる学問」。「書籍目録」(上左)「奥州紀行」(上右):1778年(安永7)年6月7日、現宮城県岩沼市内の竹駒神社内にある芭蕉の 句碑「桜より松は二木の三月越し」を記しに部分です。「書籍目録伊能忠敬隠居直前の蔵書目録です。和関係書・測量関係書・暦学関係書なとがみえ、伊能忠敬は佐原にいるころからすでにこれらの学問に接していたことがうかがえます。」「奥州旅行1778 (安永7 )年6月7日、現宮城県岩沼市内の竹駒神社境内にある芭蕉の句碑「桜より松はニ木の三月越し」を記した部分です。」左:竹駒神社境内ある、松尾芭蕉の句碑 「桜より松は二木を三月越し(桜よりも、私を待っていてくれたのは二木の松で、 三月越しにようやく見ることができましたよ。)」右:現在の竹駒神社です。「関西旅行経路」。「関西旅行1793 (寛政5)年、忠敬一行は太々神楽の奉納のため、伊勢参りの旅に出ました。この旅では、名所旧跡を訪ねるだけではなく、ところどころで方位角や緯度の記録を行うなど、地理的情報に関心をむけています。関西旅行は、江戸修学以前の忠敬の測量に関する技術の集大成にあたる旅でもありました。」「関西旅行記静岡県の久能山から伊豆の◯◯山の方位(巳の五分)や、岬の弁天までの方位(未の八分)を記し、駿府(静岡市)の緯度(北極出地三十五度)を書きとめています。伊能忠敬が地理情報に注意を払っていたことがうかがえます。」※「北極出地」は天の北極の高度を意味する言葉。当時は「緯度」という言葉はなく、北極出地○○度という使い方をしていたと。「家訓書」。「忠敬が、長男景敬にあたえたと伝えられる自筆の家訓㐧一 仮にも偽をせ須、孝悌忠信にして正直なるへし」第二 身の上の人ハ勿論、身下の人に天も教訓意見あらハ急度相用、堅く守るへし」第三 篤敬謙譲と天、言語進退を寛裕ニ諸事謙り敬ミ、少も人と争論など成べから須」 亥 九月廿一日」(現代語訳)第一 かりそめにも人をあざむく事をせず、親に孝行兄弟仲良く、人には真を尽くし、 正直にしなさい。第ニ 目上の人は勿論のこと、目下の人のいう事でも、なる程と思ったら取り入れるように しなさい。第三 あつく敬い、へり下るというように、物の言い方や動作をこせこせせず、総べての事に つけてへり下り慎み、決して人と争いなどしてはいけません。「芝蘭堂新元会(しらんとうしんげんかい)重要文化財閠学者大槻玄沢が寛政6年閏11月11日(大陽磨1795年元旦)に同好者を集めて行った新年を祝う様子を描いています。新元会は恒例となり1837 (天保8 )年まで44回開かれました。杉田玄白:解体新書平賀源内:エレキテル山東京伝本居宣長:古事記伝林子平 らの姿が。「芝蘭堂新元会」とは、江戸時代において、医学や薬学を学ぶ者たちが集まって、知識の共有や交流を行うためのグループのことを指します。具体的には、医学や薬学に関する論文の読み合わせや討論、実践的な技術の研究などが行われました。また、会員同士が情報や技術を共有することで、医学や薬学の発展に寄与しました。芝蘭堂新元会は、江戸時代後期には医学や薬学界の中心的な存在となり、現在でも日本の医学史において重要な役割を果たした団体として知られています とchatGPTから。「当時の学問事情江戸中期、蘭学・国学などの新しい学問が芽生えはじめていました。天文暦学の分野でも、日食の予測に失敗した土御門家の権威は失墜し、実証を重んじる麻田剛立(こうりゅう)の一門の名声が高まっていました。麻田一門は、さかんに天文観測を行い、観測器械改良や考案を行い、天文暦学の発達に貢献しました。この一門の一人高橋至時(よしとき)に弟子入りしたことが、忠敬のその後の人生に決定的な影響を与えたのでした。」「天文暦学学系図」 --- 京都派 土御門家官僚派---¦ ---高橋至時------------高橋景保 --- 江戸派 渋川春海 ---------¦--間 重富 ¦---渋川景佑 ¦ ¦---伊能忠敬 旧長崎派(南蛮学統) ¦市民派--- 新長崎派 志筑忠雄 ¦ その他 麻田剛立------¦「宇宙図高橋至時が、「蘭書」から画き抜いた図です。一つの球か太陽系(「太陽天」)にあたり、他の球も同様の恒星系であることを示しています。宇宙全体はこうし恒星系が数十万存在する広大無辺なものであることをえがいています。高橋至時は太陽系の星々しか願中になかった伝統的な歴算家をこえて、広く宇宙論にまで興味を示していました。」「高橋至時のもとで」。1800年(寛政12)年、忠敬が江戸深川で観測した日食の記録。「高橋至時のもとで自分より19歳も年下の高橋至時の門に入った忠敬は「暦象考成」の学習にとりくみ、当時最高の暦学理論を学ぶとともに、熱心に天体観測の実習にはげみました。また、観測器械は京都、大阪から買い入れたり、江戸の職人につくらせました。この天体観測の技術と器械類が、後の全国測量で大いに役立っことになりました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.18
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「伊能忠敬旧宅」の見学の後は「小野川」に架かる「樋橋」に向かって進む。「佐原の歴史的町並み」案内板。香取市佐原の小野川と香取街道沿いには、江戸時代から利根川水運により繁栄した商家の町並みが残っていた。和風の町屋や洋風建築など、時代の変遷を映し出す伝統的建造物が、小野川の河畔や香取街道、下新町通り沿いに佇み、住民の暮らしが息づいていたのであった。このような落ち着きと風格ある地区は伝統的建造物群保存地区及び景観形成地区に指定され、まちをより良くするため住民の協力のもとに建築物の外観の保存、再生に努めているのであった。「樋橋(ジャージャー橋)」手前にある「だし」と呼ばれる荷揚げ用の石段があり、今は観光船・小江戸佐原舟めぐりの乗り場になっていた。小江戸佐原舟めぐりに出発する舟、そして手前には次に出発する舟が準備中。「樋橋」手前下に舟をつける船頭。私も1300円払って「小江戸佐原舟めぐり」のチケットを購入。「おみこし会社 ぶれきめら」の文字が。「ぶれ」はギリシャ語の「青」で、水郷佐原の水の青・空の青を表しています。会社のトレードマークの「きめら」はギリシャ神話に出てくる、頭は獅子・胴は山羊・尾は蛇という伝説上の生き物です。それぞれの異なる能力・才能を集めて、より優れた「まちおこし」の仕事を成し遂げようという願いから名付けました とネットから。そして舟に乗り込む。関東地方で初めて「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された江戸風情が残る町並みをサッパ舟風の観光船から、のんびり、ゆったりよ眺めることができるのであった。四方を水に囲まれた水郷地帯であるこの地域は、水とは切っても切れない土地柄であり、農業や生活には櫓(ろ)を使う漕ぎ舟(通称・ろ舟)が欠かせませんでした。そのろ舟のことをこの地域ではサッパ舟と呼ぶとのこと。その名の由来は舟の形が・笹の葉に似ていた、・サクバタ(作場田)舟が訛って変化した、など諸説あるとのこと。 船頭さんの操るサッパ舟に揺られて水路をめぐる舟旅は、水郷情緒たっぷりなのであった。救命胴衣を着けて靴を脱いで足を伸ばしてゆったりした気分で楽しめた。舟にはこたつがセットされて足元は温かく見学できたのであった。定員は10名のようであった。「舟めぐり運行コース」。「伊能忠敬旧宅」前から出発し、「北賑橋」手前で折り返すのであった。そして出発。前方に見えてきたのが「忠敬橋」。「忠敬橋」は、香取市佐原の中心部小野川と香取街道が交差する地点に架かる橋である。もともと大橋(佐原大橋)と呼ばれていたが、1882年(明治15年)1月に佐原の人々が協力してアーチ型をした橋長8間、幅員3間の石橋に架け替え、「協橋(かなえばし)」と名づけられた。総工費は4,840円20銭8厘。 第二次世界大戦後は交通量の増加に伴い橋梁幅員が狭くなったため、1957年(昭和32年)に1.8mの拡幅を行った。 アーチ型をしためがね橋は町の中心にあったことから佐原のシンボル的存在であったが、自動車交通量の更なる増大や老朽化により1968年(昭和43年)4月にコンクリートの新しい橋に架け替えられ、郷土の偉人伊能忠敬翁から「忠敬橋(ちゅうけいばし)」と名づけられた とウィキペディアより。下流にある利根川に向かって進む。右手の「だし」と呼ばれる荷揚げ場には小さな木造の小屋が置かれていた。内部には、かわいい雛人形が飾られていました。両岸の全ての「だし」の場所に。カーブの先、右側には黒塗りの土蔵が。そして正面には「共栄橋」その先に「NTT東日本 佐原ビル」の鉄塔が見えた。「共栄橋」を潜る。その先にあったのが「中橋」。ここにも雛飾りが。「中橋」を潜ると左に緩やかにカーブして進む。今年、2023年3月12日に「さわら雛舟春祭り」👈リンク が行われたとのこと。ここ香取市の佐原地区を流れる小野川を雛衣装を着たお雛様とお内裏様が舟に乗ってパレードするイベント。「さわら雛舟春祭り」では、5艘の舟が次々と小野川に登場。お雛様・お内裏様や三人官女などが本物の十二単などの華やかな衣装に身を包み、船上パレードを行ったと。2艘目の舟には香取神宮の雅楽隊が乗船し、雅楽の生演奏も披露された。さながら歴史絵巻の世界に迷い込んだような光景に観光客は皆、思わずうっとり!とネットには。前方にも野鳥の群れが羽を休めていた。「カルガモ」であっただろうか?2種の野鳥が仲良く。「コブハクチョウ」と「カルガモ」であろうか。「コブハクチョウ(瘤白鳥)」。「コブハクチョウ」は顔がピンクがかり、ひたいに名前の通りのコブがあります。そして小野川沿いの街路灯にはオブジェが。振り返って。そして「JR鹿島線」の「小鮒橋」。その先に「新橋」。前方に緑の欄干の橋が。「万代橋」。引き返す前便の舟とすれ違い。手をふる我が自治連の会長。そして前方に国道356号・利根水郷ラインに架かる「北賑橋」が見えて来た。正面に「だし」が見えた。そしてこの先・「北賑橋」手前でUターンして折り返す。この「だし」の場所には雛飾りの小屋はなかった。この黄色い花木はソシンロウバイであっただろうか?「JR鹿島線」の下を通過し「開運橋」へ。「開運橋」の欄干にある、「鯉」のオブジェに触ると「開運」すると船頭さんから。「カルガモ」の群れを再び。雌雄同色で嘴の先が黄色いのが特徴。「だし」。小野川から物資を陸に上げるための河岸である「だし」が今でも残っていて、川沿いの通りから川岸へ降りる階段があちこちに保存されているのであった。「だし」に置かれた雛飾り小屋の先に大きな土蔵の如き建物が現れた。明治34年の建造物を改装した「フランス料理店・夢時庵(ムージャン)」と。ネット情報では閉店しているようであるが・・・。家紋の如き文字は「正上」と書かれていると師匠から。寛政12年創業の「いかだ焼本舗正上」の蔵であったのだろうか。「だし」に置かれた雛飾り小屋を再び。柳が芽吹き、緑の葉が風に靡くこの場所の光景は美しいのであろう。そして前方に終点手前の橋・「忠敬橋」が見えて来た。そして終点の「樋橋」に到着し下舟。「樋橋」の先には次に訪ねた「伊能忠敬記念館」の建物が確認できた。「樋橋」。その隣に「手づくり郷土賞」の銘板。「樋橋(とよはし)樋橋は、江戸時代の初期、佐原村の灌漑用水を東岸から西岸に送るため、木製の大きな樋をつくり小野川に架けられたものです。もともとこの橋は、人を渡すためにつくられたものではなく、後に大樋を箱型につくり、丸太の手摺を付け板を敷いて、人が渡れるようになりました。橋の名は、大樋でつくられたので樋橋といい、また大樋から水がジャージャーと流れ落ちていたのて「ジャージャー橋」とも呼ばれました。昭和に入り、コンクリート製となり、現在の橋は平成四年に架け替えられたものです。」「樋橋」の上から乗舟・下舟場を見下ろす。「樋橋」を渡り、対岸から「伊能忠敬旧宅」を再び。「小江戸佐原舟めぐり」の観光客の数も増えて来ているようであった。そして「樋橋(ジャージャー橋)」は落水施設の故障により落水できない状態がこの日も続いていたが、2023年3月24日に復旧が完了し、午前9時から午後5時まで30分間隔で落水し、その水音を聞かせてくれるようになった とネットには。もとは江戸時代の前期につくられた佐原村用水を、小野川の東岸から対岸の水田に送るための大樋であった。300年近く使われ、戦前にコンクリートの橋になってからも橋の下側につけられた大樋を流れる水が、小野川にあふれ落ちて「ジャージャー」と音を立てるので、「ジャージャー橋」の通称で親しまれていたとのこと。今の橋は観光用につくられたもので、この樋橋の落水は「残したい日本の音風景100選」に選ばれていると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.17
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そして小野川の岸に建つ「国指定史跡 伊能忠敬旧宅」を訪ねた。小野川に面した旧宅の正面には「だし」と呼ばれる荷揚げ場があり、今は観光船の乗り場になっていた。「国指定史跡 伊能忠敬旧宅」入口前から「小野川」に架かる「樋橋」を見る。「国指定史跡 伊能忠敬旧宅」への入口。「伊能忠敬旧宅入館無料開館時間:午前9時~午後4:30分休館日:年末年始」「国指定史跡 伊能忠敬旧宅」。「伊能忠敬旧宅」⬅入口。伊能忠敬が17歳から50歳まで住んだ家。伊能家は酒造りの商売をしていたので、原料や商品の船積みに便利なように小野川沿いに家が面している。国の史跡に指定されている。「伊能忠敬旧宅 平面図」。上図の「入口」から「土間」に入る。「帳場」その奥に「座敷」を見る。正面から。「国指定史跡 伊能忠敬旧宅店舗・正門・炊事場・書院・土蔵からなります。伊能忠敬が17歳で伊能家に婿養子に入り、主な家業である酒造業を営だ家です。江戸時代当時から比べると、敷地と家屋の規模が縮小していますが、昭和20年代まで伊能家の住居として使われ、伊能家資料を守り公開した場所です。商いを行った『店舗』は、主蔵だった建物を作り変え、帳場を設けています。また旧宅奥にある『土蔵』は、観音開きが普及する以前の引き戸形式の扉が残る、佐原でも貴重な建物です。これらは江戸時代の雰囲気がよく残っています。」この日は、右側の六畳の座敷には「七段飾りのお雛様」が飾られていた。「七段飾りのお雛様女雛・男雛・三人官女・五人囃子・左大臣右大臣・仕丁を揃えたし段のお雛様で、昭和40年代後半に飾られました。2組のお雛様は、香取市内の方から寄贈されたものです。(伊能家のお雛様は、伊能忠敬記念館にて展示中)」。ズームして。「店舗店舗は、江戸時代の土蔵を改造して、当時店として使っていました。幅ー間のちょう場、七畳半2部屋の「ざしき」があり、「どま」の上には小屋裏があります。」左側の七畳半の座敷には「伊能忠敬」が座っていた。「炊事場」へ進み、左側に廊下のある「座敷」、「帳場」を右に見る。「炊事場」を見る。「炊事場」の奥には「測量方 御用」と書かれた幟と忠敬が愛用した「測量器具」が展示されていた。そして「炊事場」から外に出ると左手にあったのが「書院」。書院の脇に用水路があり清水が流れていた。屋敷だけでなく、敷地も江戸時代より縮小したというが、建物の南側と東側には、水路を取り入れた端正な庭園があった。縁側からは、書院の部屋も覗くことができちゃ。屋敷は、全体として贅沢さはなく、機能的でむしろ質素。伊能忠敬とその子孫たちの質実さがうかがえたのであった。北側から「書院」を見る。庭の奥にあった石碑と像。石碑「この一歩から 測量の日」。そして「伊能忠敬先生之像」。伊能忠敬(1745~1818)は江戸時代に日本国中を測量して初めて実測による日本地図を完成させた人物。延享2年(1745年)に現在の千葉県九十九里町で生まれ横芝光町で青年時代を過ごし17歳で伊能家当主となり、佐原で家業のほか村のため名主や村方後見として活躍。その後、家督を譲り隠居して勘解由と名乗り50歳で江戸に出て、55歳(寛政12年)から71歳(文化13年)まで10回にわたり測量を行った。それにより完成した地図は極めて精度の高いものでヨーロッパにおいても高く評価された。顔をズームして。50歳を過ぎてから日本全国を測量して歩き、測量の期間はなんと17年にも及ぶ壮大なミッション。完成した地図は「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」という。足下は草鞋にて。台座「伊能忠敬先生之像」。「土蔵」。「土蔵」は、観音開きが普及する以前の引き戸形式の扉が残る、佐原でも貴重な建物。「土蔵」の内部。再び「書院」と「用水路」を見る。「用水路」は「農業用水路」を引き込んでいるのであろうか?「書院」を反対側から覗く。六畳の書院奥の部屋。「書院」、「庭」への入口門を庭側から。「伊能忠敬旧宅」入口方向を見る。白梅の花。「日本遺産「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の街並み 商家の町「佐原」国宝 伊能忠敬関係資料 2,345点 平成22年(2010)6月29日指定伊能忠敬(1745 ~ 1818 )は上総国山辺郡小関村(現、九十九里町)に生まれ、17歳で佐原村(現、香取市)の伊能家に婿入りし隠居後、寛政12年(1800)から文化13年(1816)にかけ10次にわたって測量隊を統率して日本全国を測量し、国土の形状とその地球上の位置を最初に図示しました。本資料群は地図・絵図類、文書・記録類、書状類、典籍類、器具類からなり、忠敬の学問、地図制作の具体的方法のみならす、生涯の事績を多面的に伝えるものです。その一部は、伊能忠敬記念館で公開しています。史跡 伊能忠敬旧宅 昭和5年(1930)4月25日指定旧宅は、伊能忠敬が17歳で伊能家に婿入りしてから隠居して江戸に出る50歳まですごしていたところです。店舗、土蔵については忠敬が伊能家に婿入りする前から存在していた建物と思われます。」。「伊能忠敬家家訓書」碑。㐧一 仮にも偽をせず、孝悌忠信にして正直なるへし第二 身の上の人ハ勿論、身下の人にても教訓意見あらば急度相用堅く守るへし第三 篤敬謙譲にて言語進退を寛裕ニ諸事謙り敬ミ、少も人と争論など成べからず 亥 九月廿一日つまり、偽らずに正直でいること、良い意見は目下の人からも取り入れること、謙虚、寛容で人と争わないこと、というものである。シンプルだが、なかなかできることではない。しかし、この精神があったからこそ、翁は大偉業を実現できたのであろう。 「佐原観光マップ」「お江戸見たけりや佐原へござれ、佐原本町江戸優り」このように戯れ歌に唄われるほどの賑わいをうかがえる佐原は、江戸時代に利根川水運と結びついた商業活動によリ「佐原河岸」として、下利根随一の河港商業都市に発展しました。酒造りなどの醸造業も発展し、今も小野川沿いや交差する街道沿いには、多くの商家や土蔵などが立ち並び、江戸の風情を感しることができます。江戸時代に初めて実測による日本地図を作製した伊能忠敬の旧宅やその記念館も小野川沿いにあり、また少し難れたところには、下総国の一宮と称される香取神宮も鎖座しています。夏7月、秋10月には、佐原囃子の調べにのせて、各町内の山車が曳き廻される佐原の大祭が行われます。」地図をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.16
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「八坂神社」境内にあった「水郷佐原 山車会館」を後にして、「忠敬橋通り」を西に進む。次の目的地は昼食会場の「麻生屋本橋元店」。右手に歴史を感じさせる門そして住居があった。左手に「忠敬茶屋」。「忠敬茶屋」は小江戸佐原の昭和レトロなフードコート。「佐原町並み交流館」。ガラスに映るコンクリートの建物は「蜷川家具店」。その先には赤レンガの建物が見えて来た。「佐原三菱館」。「佐原三菱館」は、旧川崎銀行佐原支店の建物として大正3年(1914年)に清水建設の前身清水組によって建てられた。屋根は木骨・銅版葺で、一部にドーム形式を用いた明治洋風レンガ建築。レンガはイギリスから輸入したもので、内部は吹き抜けになっており2階周囲に回廊がある。「重要伝統的建造物群保存地区」の一画にある。平成3年(1991年)に千葉県の有形文化財に指定された三菱館の建物は、佐原市(現・香取市)に寄贈され、現在は館内で企画展を開催するなど、観光施設としても活用しているとのこと。千葉県 香取市 千葉県佐原イ1903-1多くの和傘が並ぶ「素顔屋(すっぴんや)」。レトロモダンな色彩の傘がたくさん広げて並べてあった。この建物は、歴史を感じさせる和風建築だが、すぐ隣にはレトロな外観の重厚感のあるコンクリート造りの家具店・「蜷川家具店」が並び、その対比が興味深く感じたのであった。さらに佐原の街並みを進む。かつて利根川の水運で栄えた佐原は、今も江戸の面影を残し、情緒ある街並みが続いていたのであった。蔵造りの店は、小江戸佐原の癒し雑貨店「らぱん」。その先、反対側にあったのが「甘味処 鎌倉」。その先の二階には立派な黒塗りの蔵が。そしてその先にあったのが目的地の「麻生屋本橋元店」。看板には「元祖 すずめ焼 麻生屋」と。麻生屋は、天保三年 1832年に川魚問屋として創業した、佐原の老舗。「坂東太郎」と呼ばれる利根川のほとりに立つ本店と、いまも創業当時の面影を残す小江戸の町並みの中心、忠敬橋のたもとにあるここ本橋元店。「御食事処」。「うな重」を食べたかったが。「海老天重」。店内のイチゴの装飾。手作りの「つるし雛」であっただろうか。それぞれ、予約席に。我々のこの日の昼食は「海老天+野菜天」重であった。「霞ヶ浦の帆曳き漁」の写真。明治13年(1880)、シラウオ漁を目的に旧霞ヶ浦町の折本良平によって考案された。その後、ワカサギ漁の主役として昭和42年(1967)までの約100年間、霞ヶ浦漁業の花形として一世を風靡したとのこと。恵比寿様(左)と大黒様(右)。そしてアルコールなしの食事を済ませ店を出る。ここからは15時まで散策自由行動とのこと。時間は12:40。まずは「伊能忠敬旧宅」を目指して進む。店の前にあったのが「植田屋荒物店」。小野川に架かる「忠敬橋」の手前にあった案内板。最上部に「伊能忠敬記念館」。小野川に沿って左へと。「忠敬橋」から「小野川」を見る。「佐原の街並利根川囲図志(づし)(一八五五年)に「佐原は、下利根附第一繁昌の地なり、村の中程に川有りて、新宿 本宿の間に橋を架す(大橋と言う)、米穀諸荷物の揚さげ、旅人の船、川口より此処まで先をあらそい両岸の狭きをうらみ、誠に、水陸往来の群集、昼夜止む時なし」と記してある。江戸時代の佐原は「小江戸」と呼ばれ、この周辺の町並には、国指定史跡伊能忠敬旧宅や県指定有形文化財小堀屋本店店舗、仝正文堂書店店舗をはじめ、土蔵造リの古い商家がある。また、関東三大祭りの一つとして数えられる「佐原まつり」は、豪華絢爛を競い、山車で奏される県指定無形民俗文化財佐原囃子は水郷情緒を代表するものである。昭和六十年六月一五日 県民の日 佐原市」。「植田屋荒物店」の川沿い入口。江戸中期の宝暦9年(1759年)に創業し、250年もの間、ここ佐原の町で人々の暮らしを支えてきた「植田屋荒物店」。職人の手で作られた日用雑貨が並ぶ、昔懐かしい荒物屋さん。そして小野川には白い鳥の姿が。「コブハクチョウ」であっただろう。そして「舟めぐり」の店「ぶれきめら」が左手にあった。「ぶれきめら」の「ぶれ」はギリシャ語の「青」で、水郷佐原の水の青・空の青を表しています。会社のトレードマークの「きめら」はギリシャ神話に出てくる、頭は獅子・胴は山羊・尾は蛇という伝説上の生き物です。それぞれの異なる能力・才能を集めて、より優れた「まちおこし」の仕事を成し遂げようという願いから名付けました とネットから。「嫁入り舟」の写真が壁に。水郷地帯のお輿入れの再現「嫁入り舟」があやめ祭り期間中の水郷佐原あやめパークで行われるとのこと。一般公募で選ばれた方しか挙げることが出来ない、香取神宮より神官をお迎えした本当の結婚式。花菖蒲が咲く中、サッパ舟に乗った新郎新婦は、園内水路ゆっくり進み、来園者からたくさんの拍手と祝福の言葉を受け、真新しい夫婦の最高の笑顔が見られるのだ と。そして前方に「伊能忠敬旧宅」前の「小野川」に架かる「樋橋(ジャージャー橋)」が見えて来た。伊能忠敬旧宅前にある、小野川にかかる橋。もとは江戸時代の前期につくられた佐原村用水を、小野川の東岸から対岸の水田に送るための大樋でした。300年近く使われ、戦前にコンクリートの橋になってからも橋の下側につけられた大樋を流れる水が、小野川にあふれ落ちて「ジャージャー」と音を立てるので、「ジャージャー橋」の通称で親しまれていたとのこと。今の橋は観光用につくられたもので、30分ごとに落水させている。この樋橋の落水は「残したい日本の音風景100選」に選ばれている と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.15
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さらに「水郷佐原山車会館」の山車の見学を続ける。「下川岸区の山車」を後側から見上げて。全長7mの巨大な鯉も後ろから。「下川岸区の山車」の後面を見る。「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」を見上げて。神輿もあった。佐原のハ坂神社の祇園祭(7月)と諏訪神社の秋祭り(10月)に行われる祭礼を華麗に彩る山車の一覧であったがピンボケ。「佐原市市制50周年記念 24台の山車勢揃い」の写真。「佐原市市制 50周年記念24台の山車勢揃い平成12年10月8日(日)於:佐原コミュニテイセンター駐車場」「写真の解説佐原市市制 50周年祝賀行事に際して、全24台の山車が勢ぞろいした。夏祭り:本宿10台秋祭り:新宿14台平成12年10月8日(日)秋祭り3日目に夏祭り10台が特別参加佐原駅北ロ 文化会館前(お祭り広場)」。「旧佐原市市制施行50周年記念 24台山車整列 山車詳細」。「建速素盞嗚尊の山車佐原の祭は亨保年間よりの永い伝統を受け継がれている江戸時代からあったと伝えられた当下川岸区の山車は明治二十九年の大洪水に惜しくも流出し現在の山車は明治三十一年に制作されたもので八方にらみといわれる形で四方どこから見ても同じに見えるのが特徴とされている。山車の飾り物の人形は建速素盞嗚尊(たけはやすさのおのみこと)で出雲国肥の川にて櫛名田比賣を呑まんとして来た八岐大蛇を退治して姫の危難を救ったその勇壮な姿を現したものである。山車は総欅造りで周囲には豪華な彫刻がはめ込まれ人形と共に往時の名工の作である又正面の額は市内二十五台の山車の中でも最も豪壮なものといわれ宏遠の文字は正二位伯爵東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)の書である。 下川岸区」「下川岸区の山車」案内。正面から近づいて。額「宏遠(こうえん)」。時間的、空間的に広大なこと。「下川岸区の山車」(右側面)案内板に近づいて。「方立左面」の見事な彫刻。左面後:国常立尊 猪を殺す左面前:素盞嗚尊 八岐大蛇退治下高欄 左面後:新田義貞 稲村ヶ崎に太刀を投じる下高欄 左面右:名和長重 神器を背負って走る「国常立尊 猪を殺す」。「素盞嗚尊 八岐大蛇退治」。「下川岸区の山車」(左側面)案内。「下川岸区の山車」(後面)案内。「方立後面」の彫刻。「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」「経津主命(ふつぬしのみこと)」「菊池武光 筑後川の戦い」「菊池武光 筑後川の戦い」「建速素盞嗚尊」を見上げて。「佐原の街並み」ポスター。「水郷佐原山車会館」の「売店」。「佐原の大祭」の「夏祭り」&「秋祭り」のポスター。「水郷佐原山車会館」を後にして外に出ると八坂神社境内に揖取魚彦(かとりなひこ)の歌碑があった。「入日さす 豊旗雲は わがこふる よしのの山や 越て来つらむ」碑の歌は江戸中期の明和6年( 1769 )、47歳の時、夫人雅木と大和へ旅した折のものである。天性豊かな語感をもち、壮麗な自然を生き生きと詠んでいて、清純な古代への愛情を汲むことができる。雲を詠じた「天の原吹きすさみたる秋風に走る雲あればたゆたふ雲あり」も写生の秀作で忘れ難い歌であろう。「火伏之神」と刻まれた碑。境内の一画には「悠仁親王殿下」御誕生記念植樹の高野槙が健やかに育っていた。「悠仁親王殿下」御誕生記念植樹の「高野槇」。「八坂神社由緒祭神 素戔嗚尊街神徳 厄除け家内安全・商売繁盛・子孫繁栄創建 寛永十四年に奥宮より勧請される。奥宮 諏訪上字天王宮に鎮座する。末社 水天宮 舟運安全・子育守護の神 琴平神社 海上安全の神 三峯神社 盗難除けの神祭典 大祭式 祗園祭 七月十日 神輿神幸・山車巡行は 七月十日以降の金・土・日に行う 建国・春祭 二月十一日 日本国の栄えと豊饒を祈る 秋祭 十一月ニ十三日 収穫感謝祭 中祭式 元旦祭 一月一日 節分祭 二月三日 福寿祭 九月敬老の日 境内末社の水天宮を遥拝する祭。(交通安全と敬老子孫 繁栄を祈る) 小祭式 奥宮祭 七月一日 祇園祭斎行に先立ち奥宮に安全祈願を行う。 新入学児童安全祈願祭 三月最終日曜日旧神輿(市指定文化財) 江戸時代中期の成作により、市内に現存する神輿の中でも古いものと言える 代表的美術品である。 現在山車会館に展示されている。祗園祭山車巡行 当社氏子中を本宿惣町と言う。本盾惣十一面内の内、十町内に十台の山車が有り。 その山車まつりは、国の「重要無形民俗文化財」に指定されており、山車を飾る彫刻の 見事さと、大天井に鎮座する大人形の勇壮な様は見る者の心を奪い、山車ともう一方の 主役お囃子(下座連)は、日本の祭りばやしの中でひときは秀出たものである。 山車の夜間巡行は山車の灯かりが川面に揺れて雅で美しい。 当社の山車行事は、平成ニ十八年十ニ月一日にユネスコ無形文化遺産に登録される。」「百年祭記念の碑八坂神社の現御社殿は明治二十年に御造営されここに満百年という記念すべき秋を迎える事となった。我々はこの期の到来に合せ実行委員会を組織し氏子崇敬者各位の篤きご奉賛を得て茲に御屋根銅板総葺替えという奉祝事業を成し遂げたものである。」この石碑は?「大燈籠建立記念」碑。石鳥居。「水郷佐原 山車会館」案内塔。「ユネスコ無形文化遺産登録国指定重要無形民族文化財江戸優り 佐原の大祭水郷佐原山車会館」と書かれた幟も。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.14
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「香取神宮」を後にして、県道55号線・佐原山田線を西に向かうと前方に見えて来たのが「香取神宮一の鳥居」と。更に西に進み「水郷佐原山車会館駐車場」をバスに駐め「水郷佐原山車会館」に向かって県道55号線を徒歩で進む。佐原市の消火栓マンホール蓋。マークは香取市章(Kの図案化)、消防車デザインの円形消火栓蓋。そして右側に見えて来たのが「八坂神社 大鳥居」。奥に見えたのが「八坂神社 拝殿」。案内に従い「八坂神社」の西側の道を北に進む。右手にあったのが目的地の「水郷佐原山車(だし)会館 山車搬入口 搬出口」。「八坂神社」の西側にあった石鳥居から「八坂神社」の境内に入る。「八坂神社は古く佐原諏訪山近傍の天王台に創建。江戸時代前期の天和年間(天正以前の説あり)に現在地へ遷座し、佐原・本宿地区の総鎮守となった。当初表口は浜宿側(現千葉萌陽高等学校側)にあったが、明治初年社殿改造の際に現在の八日市場側(千葉県道55号佐原山田線・通称香取街道側)にも増設された。それ以来、この神社には正門が2か所存在し、それぞれ浜宿口、八日市場口という呼び方がされ、正門は1年置きに交代する。」とウィキペディアより。よってこちらは「浜宿口」と呼ばれるようだ。今年は、ここが「正門」となっているのであろうか。「浜宿口」の石鳥居を潜ると左側手前にあったのが「琴平神社」。香取市小見928。その先にも多くの石鳥居、石祠が並んでいた。「浜宿口」の「手水舎」。「八坂神社」の御神木の「欅」。「欅 樹齢三百年 御神木」と刻まれた石碑。そしてこちらが「水郷佐原山車会館」の入口。千葉県香取市イ3368。入館時間まで、「八坂神社」を散策する。正面に「拝殿」。千葉県香取市佐原イ3360。「佐原イ」の由来は?「江戸時代、村の数は極めて多く集落1つで1つの村という規模だった。明治になって行政単位の村が生まれた際、さすがにこの規模では村の運営が厳しいため、いくつかの村を合わせて1つの行政村とし、かつての村名は大字に引き継がれた。ところが、千葉県の一部では旧村名を大字とはせずイロハに置き換えたところがある。ここ佐原では明治22年(1889)の町村制施行の際に佐原町となり、大字のかわりにイロハを採用した。佐原の中心街はイロハの最初である「イ」をあてたことから「佐原町イ」となり、香取市に引き継がれて香取市佐原イとなったものだ。千葉県では、他にも旭市、匝瑳市(旧八日市場市)、八街市、東庄町、山武市(旧蓮沼村)などでもみられる。」とねっとから。主祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。日本神話のなかで活躍する神。『古事記』『日本書紀』によると,アマテラスオオミカミ(天照大神)の弟であるが、乱暴な行動が多かったので、天上の高天原追放された。そこで出雲に天降り、八岐大蛇を退治し,クシナダヒメ(櫛名田姫)と結婚して出雲国を開いた。扁額「八坂神社」。こちらは「八日市場口」側の「手水舎」。「佐原案内情報■歴史的町並み小野川沿いや取街道筋には、県指定文化財の正文堂書店、小屋屋本店、三菱銀行佐原支店旧本館、福新呉服店、中村屋乾物店、正上醤油店など、蔵造りの家や町家が連なっています。関東初の重要伝統的建造群保存地区に選定(平成8年12月) 日本遺産に認定(平22年4月)■伊能忠敬記念館伊能忠敬は、50歳を過ぎてから、日本全国を測量して歩き、わが国最初の実測日本地図をつくりあげた人物です。記念館では、忠敬の人生を年代順に追い、その業績の結晶である伊能図をあますことなく紹介いたします。■伊能忠敬旧宅伊能忠敬が30年余りを過ごした江戸時代の店舗の一部と表門、土蔵がそのまま残されており、国の史跡に指定されています。■水郷佐原山車会館ハ坂神社の祇園祭(7月)と諏訪神社の秋祭り(10月)に行われる祭礼を華麗に彩る山車と、祭りに関する数々の資料を展示しています。館内には2台の山車が常設され、ビデオシアターでは祭りの迫力が実感できます。■観福寺真言宗豊山派の寺。関東三大厄除大師の一つとして知られる北総の名刹。寬平年間(890年頃)高僧尊海の開山。本尊は平将門の守護仏といわれる観世音菩薩です。寺宝の鋼造薬師如来坐像のほか3体(国の重要文化財)は鎌倉時代の秀作です。境内には伊能忠敬の墓があります。」そして入館可能時間に成る。入館料は団体割引で350円/人であった。内部正面。ビデオシアターは3面パノラマ大画面の映像で、「佐原の大祭」👈リンクの紹介をしていた。迫力のある映像で、佐原の大祭の熱気と興奮を体感出来るのであった。そして桜の紹介。鯉のぼり。あやめ祭り。「水郷佐原山車会館」では、佐原の大祭で曳き回される高さ9メートルにも及ぶ絢爛豪華な山車が2台展示されており、いつでも祭りの熱気と興奮・本物の迫力を体験することができるのであった。まず最初に「下川岸区の山車」。2つの提灯には「山車会館」と「下川岸区」と。「八坂神社」の主祭神の「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」と書かれた提灯も。正面から全長7mの巨大な鯉。顔に近づいて。「この鯉は八日市場区の山車飾り物として、本祭、準本祭時に限り制作され本宿惣町を三日間泳ぎ廻り祭礼終了と同時に取り壊されるのが習わしとなっている。鯉が町内民芸として山車の飾り物として乗ったのは文久年間からと云われているがその由来については数々の説があるが定かではない。材質は木材、竹、その年に収穫した麦藁を主に使用し、町内各戸の協力により皮むきされた麦藁で仕上げる。完成迄三十日を要するが主要部分の作成に当っては世襲?によって受け継がれ現在迄至っている。全長七米、周囲三米昔から鯉が山車に乗った年は大水害に見舞われると言い伝えられて来たが治水事業の完備した現在ではこれも伝説化しつつある。 平成三年七月 八日市場区」反対側から。尾に向けて撮影。「山車と飾り物山車とは、祭礼に引く山・鉾・人形・鳥獣・草木などを飾った屋台のことで、民族語彙から「出し」の意と解され、【出し】の部分に神がおり立つ、神の依り来る目標(依代(よりしろ))とされております。(「日本民族学の視点」より)山車は、欅を主な材料として作られ、高欄を配し、四方を新しい藁で作った【しめ】縄や天幕でめぐらされています。これは、山車が宮座を現わしているためです。床(一般に大天井とよんでいる)には、飾り物が飾られます。この飾り物は、古くは風流物として年々新しく作られましたが、幕末になって、江戸の職人による豪華な人形が造られるようになって一定しました。山車は、それぞれ町内により、四方同型造りとか、桝型造りとか工夫が施されております。」「佐原の大祭」の「山車」案内。「三百年伝統の山車祭り佐原の山車の大人形は江戸後期~昭和初期に、江戸・東京で活躍した人形師達によって制作され、現在ではこのような大木偶人形を作れる職人はいないといわれ、貴重な文化遺産となっています。」「八日市場区」の「鯉の山車」をネットから。「佐原の大祭」の「山車」の写真。「佐原の山車佐原の山車は4輪2層構造で作られています。高さは約4m、奥行き3.8mにもなり、材料は主にケヤキ材やヒノキ材を使用しています。山車を動かすときは、長さ約4m、重さ20kgほどある『テコ』と呼ばれる2本の長い丸太を山車と車輪の間に差し込んで、方向を変えたり、停止させたりします。山車に飾られている彫刻は、龍や獅子のほか、日本神話などの伝記物や軍記物、三国志などの中国の故事をもとにしたものが多く、話の名場面が表情豊かに表現されています。山車の天井には、日本神話や歴史上に登場する人物の人形が飾られています。人形の背丈は4m以上で日本最大級の大きさです。これは江戸時代後期から昭和初期にかけて活躍した名工たちによって制作され、歴史のあるものは200年以上も昔の作品です。また、麦わら細工の鯉や稲わら細工の鷹など、町内に住む人達の手によって制作される飾り物もあります。」そしてこちらは、「浜宿」の山車「武甕槌命( たけみかずちのかみ)」👈リンク。額文字は柔和「にゅうわ」と。「武甕槌命( たけみかずちのかみ)」。「建御雷神とも記す。記紀神話に出てくる剣神。国譲りの使者となって大国主命(おおくにぬしのみこと)に国譲りを承諾させ、また神武(じんむ)天皇が熊野(くまの)上陸の直後に失神した際に、命ぜられて平国の剣の韴霊(ふつのみたま)を降(くだ)し、建国の事業を助けた。その剣神である証(あかし)は、自らのかわりに剣を降したり、国譲り交渉で剣先扶坐(ふざ)の姿をとったりするところに明らかである。しかしその本源は甕(みか)ツ霊(ち)であり、それは伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の火神殺害の神話で、甕(みか)ハヤ霊(ひ)とともに、あるいはその子として初現することから推定できる。この神の剣神化により、物部(もののべ)氏の剣神経津主神(ふつぬしのかみ)はその地位を失っていくが、経津主神は『古事記』にはまったく現れない。なお、この神はのちに鹿島(かしま)神宮の主神となり、藤原氏の氏神として奈良の春日(かすが)神社にも祀(まつ)られた。」と。「浜宿区山車の由来この山車は、浜宿区が七年の歳月をかけ、平成九年三月完成いたしました二台目の山車です。初代の山車は、江戸時代後期の天保時代(一八三〇)の作と言われ、佐原で最古の山車と伝えられておりました。その歴史のある山車も老朽甚だしく、激しい曳き廻しに耐えがたく、新たに建造されたものです。これに飾る彫刻や扁額、玉簾、螺鈿細工などはそのまま新山車に受け継がれております。とりわけ彫刻は、当時の名工と言われた後藤茂右衛門正綱の手によるもので、一見の価値があります。また、山車に飾る大人形は、昭和十二年東京下町の鼠屋が制作した鹿嶋神宮の祭神「武甕槌命」で命が、天照大御神の命を受けて東国平定時の勇姿を模したものと言われております。」「武甕槌命 浜宿区山車の飾り物は、祭りの出し物にさまざまな趣好をこらし年々目先をかえて行くのが本意で工夫を重ねるたのしみがあったがいまでは飾り物はだいたい一定している。浜宿町では江戸時代後期から明治中期までの間は、当時流行った三人立人形で中国の史話で有名な三国志に出てくる関羽、玄徳、張飛の三人立人形がかざられたが、日清戦争が始まるや敵国の人形を飾ることは不都合であり売国奴と云われ、これを破棄した。これにかわって造られたのが三番叟の人形で初代三番叟は、目や舌が動くカラクリ人形でした。二台目三番叟は、当時佐原随一と云われた関戸町山車の飾物猿田彦(通称天狗様)に次ぐ大きな人形で対岸の潮来町からも見えたと云われ有名でした。この飾り物も昭和十年頃まで飾られていましたが破損甚しく使用に堪えなくなり現在の飾り物に造り変えました。現在の飾り物は当時の軍国主義世相を反映して鹿島神宮祭神である武甕槌命が造られました。作者は東京下谷の人形師ねずみやで製作費は総額約九百円を要しました。昭和十二年四月に完成しその年の七月に町内あげて盛大な完成祝いをしたことは町内の人々の多くが知るところです。」「浜宿武甕槌命(山車飾り)鹿島神宮の祭神。伊那郡岐尊が迦具土神を斬った時、剣から滴り落ちた血から生まれた神。日本書紀では、経津主命と共に國譲り、國土平定をしたと書かれている。建御雷之男神との力比べに勝利し、葦原中國を平定した。神武東征の際には天照大御神と相談し、自分の分身である霊剣を高倉下に降ろし、神武天皇の手助けをした。名前の「ミカズチ」は雷のことで、雷神、刀剣の神、武神として鹿島神宮の他、春日大社などでも祀られている。」「浜宿区山車」案内(右側面)。「浜宿区山車」案内(左側面)。「浜宿区山車」案内(後面)。下高欄「唐獅子牡丹」。「波に亀(霊亀) (左面胴羽目)。霊亀は四霊の一つ。(霊亀、麒麟、鳳凰、応龍)亀は千年生きると毛が生え、五千年で神亀、一万年で霊亀と呼ばれる。」「波に亀(霊亀) (右面胴羽目)。下高欄「唐獅子牡丹」。下高欄「唐獅子牡丹」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.13
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「香取神宮」の散策を早足で。「本殿」の裏にあったのが「末社 櫻大刀自神社(さくらおおとじじんじゃ)」。御祭神:木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)(安産子育ての神)。御神徳:縁結び・安産・子育この神様は発酵とも縁の深い神様で女性の発酵の神様とのこと。「刀自」は、酒作りの「杜氏」の古語。酒作りのリーダーである杜氏さんは、古代日本では女性が担っていたのだと。それで刀自(とおじ)は、女性のリーダーの意、それと同時に発酵を司る神様でもある と。「拝殿」の正面左側に廻り込む。香取神宮で行われる11月の「大饗祭」の折に神様のおもてなし料理が準備される場所がこの「神饌殿」。祭りの当日朝からここで神職が神饌を「調理」するのだと。一般的に神社で神饌といえば加工しない状態の食物を奉納するのだが、この大饗祭のようにまれに調理、加工した食物を奉納することがあるのだと。これを「特殊神饌」というのだと。10月・神無月、ご祭神の経津主大神(ふつぬしのおおかみ)は出雲には行かず、東国鎮守に徹すると。周辺神社の神様が出雲から帰還した際に、同祭を斎行し、神々を慰労するのだと。「御神砂(おすな)」。希望すれば、この清浄な砂・「御神砂(おすな)」を分けていただけると。海上自衛隊練習艦「かとり」の錨。「練習艦かとりの錨海上自衛隊練習艦「かとり」は昭和四十五年建設され、平成十年除籍になるまでの二十八年間、毎年、海上自衛隊の幹部候補生を乗せ世界の海で公開訓練を行い、世界各国を歴訪して友好と親善を深め、幾多の幹部自衛官を輩出した。この錨は去る平成十年七月除籍の記念として、かとり命名の由緒の深い当神宮に奉納されたものである。」そして「三本杉」。「三本杉後冷泉天皇御字源頼義公が参拝し「天下太平社頭繁栄子孫長久の三つの願成就せば此の杉自ら三枝に別れん」と祈願したところ一株の杉が三岐に別れた以来これを三本杉と云う」真ん中の太い杉の幹は枯れてしまっていたが・・・。「摂社 匝瑳(そうさ)神社香取大神・経津主大神の親神御祭神 磐筒男神(いわつつおのかみ) 磐筒女神(いわつつめのかみ)」「大和心」碑。「平成甲午二十六年第十二回式年祭紀念碑題辞 大和心(やまとごころ)香取神宮奉三賛会長 安倍晋三様より戴きました大辞であります」「大和心 乙末終日 安倍晋三平成甲午年式年大祭典の厳修に際り平成甲午二十六年 皇紀二千六百七十四年は明治十五年に午歳を式年と定められてより第十二回の大際の年である。式年大際記念事業として昭和五十三年式年より四度の午歳に際り 拝殿 幣殿 本殿の一部漆塗彩色檜皮葺と表参道朱鳥居の修復 楼門内側の敷石改修と これ等はすべて大際を前に竣成することが出来た。即ち平成二十五年初冬に勅使唐橋在倫掌典の御参向を仰ぎ遷御奉幣の両儀が厳修されたのである。平成二十六年四月十四日の式年祭には勅使北島清仁掌典の御参向のもと厳修十五日十六日の式年神幸祭は両日とも好天に恵まれ伝統の随に延々長蛇の行列は四千名に近い供養者の奉仕のもと万余に及ぶ奉拝者は利根堤を埋め尽くして大利根川に於ける御船遊びは一大絵巻を展開した。本大祭を通じ御神の昂揚これより大なるは無いのであり 国家鎮護の大神に皇室の弥栄と国家の隆昌を祈念するとともに特別崇敬者 氏子崇敬者 全国御分社御関係各位の御誠意溢るる御奉賛に心より感謝をしつつここに大事業を勒し末永くこれを伝えるものっである。 平成二十七年 晩秋 香取神宮宮司 高橋照二」「摂社 匝瑳神社」前から「本殿」を見る。「本殿」の両流造をズームして。唐破風+千鳥破風。屋根は檜皮葺き(ひわだぶき)。更に「懸魚(げぎょ)」を。そして「香取神宮」の「拝殿」、「本殿」を後にして、「楼門」に向かって歩く。「楼門」の内側にも木製狛犬が鎮座していた。境内の神代杉を使って制作された狛犬は、昭和九年三月二十日(1934)帝国在郷軍人会千葉支部一同によって奉納されたもの と。そして、この木彫狛犬は彫刻家の佐藤朝山(玄々)が作ったもの と。右側の狛犬(吽形像)。左側の狛犬(阿形像)。「天皇陛下 皇后陛下 御親拝記念碑」昭和四十八年十月・・と刻まれていた。御札売店。「末社 諏訪神社」。「末社 諏訪神社御祭神 武御名方神(たけみなかたのかみ)」。「楼門」を潜り振り返る。「香取神宮 鳥瞰図」。「日本書紀編纂千三百年~日本書紀と香取大神~令和ニ年は日本の歴史書である『日本書紀』が完成して一三〇〇年を迎えます。日本書紀は奈良時代、天武天皇(四十代)の命により編纂が始められ、舎人親王によって撰進された最初の正式な歴史書(正史)です。養老四年(七二〇)に完成しました。全三十巻で、神代から持統天皇(四十一代)までが取り扱われています。一方日本書紀と共に、「記紀」と称される『古事記』も天武天皇の命で編纂されましたが、こちらは稗田阿礼が後述したもの太安万侶が書き留めたもので、和銅五年(七一ニ)に完成、神代から推古天皇(三三代)までの全三巻となっています。どちらも日本の神話が描かれており「記紀神話」とも呼ばれていますが、両者には異なる部分があります。古事記は大和言葉をもとにした変体漢文の物語調で表記されているのに対し、日本書紀には漢文、しかも年代順に記されており、さらに中国や朝鮮半島の文献も引用しています。これは何を意味するかというと、古事記は国内向け、対して日本書紀は国外向けに編纂されたということです。その内容は共に天皇の日本統治の正当性を示したものですが、日本書紀には特に自国の歴史を国外に知らしめる目的があったのです。さて、香取神宮の御祭神は『経津主大(ふつぬしのおおかみ)』・天照大御神の御神意を奉じて出雲の国譲りの大業を成し遂げられ、日本建国の基を築かれた神様であります。この経津主神は日本書紀に記されいるのに、古事記には登場しません。日本書紀には、度重なる葦原中国の平定失敗に高天原の神々は、次に遣わす神は経津主神が適任であるとした。これに対し武甕槌神(たけみかづちのかみ、鹿島の神)は、『経津主神だけが雄々しい立派な神で、私は違うのか!』と激しく抗議した。そのため経津主神に武甕槌神を副えて葦原中国へ遣わした、とあります。古事記の「国譲り」では鹿島の神【虍御雷神】に天鳥船神(あまのとりふねのかみ)を副えて遣わしたとありますが、日本書紀は、香取の神が「主」であり、鹿島の神は「従」の関孫となっています。日本書紀と古事記とではこうも記述の相違があり大変興味深いものがあります。」左:平国の広矛を奉る出雲・大国主神 右:香取神・鹿島神。そして「神池」まで戻る。「神池昭和五十三年式年大祭記念事業として同五十五年竣功。亀甲の池・菖蒲ヶ池・宮下の池の三池より成る。」石灯籠が並ぶ表参道を下る。大きさも異なる石灯籠が並ぶ。1基奉納するのに幾ら必要なのであろうか?「奥宮当宮の旧参道脇に御鎮座。御本殿に経津主大神の和御魂(にぎみたま)を御祀りするのに対し、奥宮には荒御魂を御祀りする。これは大神の大いなる御働きのひとつで「心願成就」に霊験あらたかである。現在の社殿は、昭和四十八年伊勢神宮御遷宮の折の古材に依るものである。要石古伝によればその昔、香取・鹿島のニ柱の大神は天照大神の大命を受け、芦原の中つ国を平定し、番取ヶ浦付近に至った。しかし、この地方はなおただよえる国であり、地震が頻発し、人々はいたく恐れていた。これは地中に大きな鯰魚が住みつき、荒れさわいでいると言われていた。大神たちは地中に深く石棒をさし込み、鯰魚の頭尾を押さえ地震を鎮めたと伝わっている。当宮は凸形、鹿島神宮は凹形て地上に一部だけをあらわし、深さ幾十尺とされている。貞享元年(一六六四)三月、徳川光圀公が当宮に参拝の折、これを掘らせたが根元を見ることが出来なかったと伝わる。」「千葉県指定天然記念物香取神宮の森昭和四十九年三月十九日指定この地は古くから信仰の場として保護されてきたため、目通り幹囲り三メートルを越えるスギをはじめ、イヌマキ・モミなどの巨木が林立しており、落葉に埋もれた古道や古井戸は往時の景観をしのばせている。また森の全景が亀に似ていることから亀甲山と称されている。この森の高木層はスギで占めているが、高木層にはスダジイ・シラカシ・シロタモなどの常緑広葉樹が多くみられる。草木層にはアスカイノデ・フモトシダ・イワガネソウ・べニシダなどのシダ類をはじめとしてリュウノヒゲ・ヤブラン・フウランなどの草木類が数多く自生している。スギの老齢林としては県下でも有数であり、学術的にも貴重なものである。昭和六十年ニ月一日 千葉県教育委員会 香取市教育委員会」「要石道」碑。「奥宮 要石」案内板。その先に今井夫妻の碑が立っていた。「元衆議院議員今井健彦先生頌徳碑」。「今井健彦翁頌徳碑今井健彦は明治十六年静岡県榛原郡初倉村に生まる。夫人邦子女史との間に一男一女あり・・・・・」「今井邦子の歌碑いつきても 胸すかすかし 神宮の しつけき森に いろつく楓 邦子女史作紫草の中より」。そして「赤の鳥居」が前方に。「赤の鳥居」を潜って。「定一、車馬を乗入れる事一、魚鳥を捕える事一、竹木を伐る事右境内に於て禁ずる。香取神宮香取神宮年中主要祭事歳旦祭 一月一日 神嘗祭 十月十七日元始祭 一月三日 明治祭 十一月三日星鎮祭 一月十六日 新嘗祭 十一月二三日節分祭 二月節分日 大饗祭 十一月三十日紀元祭 二月十一日 賀詞祭 十二月一日祈年祭 二月十一日 内陣神楽十二月四日御田植祭 四月二日 囲碁祭 十二月七日例祭 四月十四日 天長祭 十二月二三日神幸祭 四月十五日 月次祭 毎月一日一四日参道を戻っていくと二つの胸像が右手に。よど号ハイジャック事件で乗客の身代わりとして人質になった山村新治郎(11代目)と、その父(10代目)の像。千葉県佐原市(現在の香取市)出身。江戸時代から米穀商を営む由緒ある名家に生まれ、九代目新治郎のころから深く政界にかかわり合いを持ち、父の10代目新治郎は、衆議院議員として予算委員長、議院運営委員長、自由民主党の国会対策委員長等の要職を歴任し、第3次池田内閣において行政管理庁長官を務め、政界に重きをなしたと。右手に父十代「正三位勲一等 山村新治郎先生之像」。「一九七〇年日航機よど号乗っ取り事件で乗客百余名の人名を救った身代り新治郎」「第十一代 山村新治郎の像第八十二代八十三代 内閣総理大臣 橋本龍太郎 書」山村の名前を一躍有名にしたのが、よど号ハイジャック事件である。1970年、山村が運輸政務次官を務めていた時にハイジャックが発生。当時の橋本登美三郎運輸大臣と共にソウルに向かい、交渉の末、乗客の身代わりとして人質になり、よど号に搭乗して犯人らと共に北朝鮮に向かい、その後解放されて帰国した。この英雄的行動により「男やましん」「身代わり新治郎」として山村新治郎の名が広く知れ渡った。乗客救助の功により内閣総理大臣顕彰を受賞した と。そして「香取神宮 初詣」ポスター。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.12
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バスを降り、「香取神宮」の参道入口へ。千葉県北東部、利根川下流右岸の「亀甲山(かめがせやま)」と称される丘陵上に鎮座する。日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する経津主神(フツヌシ)を祭神とすることで知られる、全国でも有数の古社である。古くは朝廷から蝦夷に対する平定神として、また藤原氏から氏神の一社として崇敬された。その神威は中世から武家の世となって以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。現在も武道分野からの信仰が篤い神社である。文化財としては、中国唐代の海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)が国宝に指定されている。建造物では江戸時代の本殿・楼門、美術工芸品では平安時代の鏡、中世の古瀬戸狛犬が国の重要文化財に指定されており、その他にも多くの文化財を現代に伝えている。「歓迎」と書かれたゲートの先には「参道商店会」の土産物屋が参道の両脇に。「香取神宮」。神紋は「五七の桐」。参道を「赤の鳥居」に向かって進む。前方両脇には、未だ硬い蕾の桜の老木が。朱の鳥居を潜り石灯籠の続く表参道の坂道を上って行った。左にあったのが「要石道」。入口には石碑が立っていたが、帰路に訪ねることに。香取神社 境内案内。更に石燈籠の続く「表参道」を進む。そして前方に「総門」に続く「石鳥居」・「三の鳥居」が現れた。扁額「香取神宮」。左手にあったのが「神池」。石段手前の両サイドに最初で最後となる巨大な狛犬(阿形像)が迎えてくれた。巨大な狛犬(吽形像)。石段の先には「総門」が。右手には「神徳館」への勅使門があった。勅使門の扁額「神徳館」。「千葉県指定文化財 香取神宮勅使門 一棟」案内柱&案内板。「千葉県指定文化財 香取神宮勅使門 一棟この勅使門は、江戸時代中期の天明元年(一七八一年)に香取神宮大宮司邸の表門として建てられたことが棟札によって知られています。大宮司邸は勅使を迎える斎館の役割もあったと考えられますが、残念ながら一九四六年頃の火災て焼失し、この門だけか残りました。規模は桁行三間(ニ一・〇七五尺)、梁間ニ間(一二・三五尺)で、形式は一重の切妻造、茅葺の門で両袖塀が付属します。この門は建ちの高い大規摸な茅葺の門で、香取神宮の大宮司家の格式を示すものであり、類例の少ない社家建築の遺例として重要であることから、令和四年に千葉県指定有形文化財に指定されました。香取神境内に遺る唯一の茅葺屋根の建造物として保存されています。」約30段の石段を上って行った。「総門」の先には「手水舎」が見えた。「手水舎」。「手水舎」の色彩豊かな彫刻。「香取神宮の御由緒ご祭神 経津主大神(フツヌシノオオカミ)大神は天照大御神の御神勅を奉じて國家建設の基を開かれ國土開拓の大業を果された建國の大功神であります。故に昔から国民の崇敬非常に篤く、國家鎮護、國運開發の神、民業指導の神、武徳の祖神として廣く仰がれて居ります。御創祀は神武天皇十八年と傅へられ現在の御社殿は元禄十三年の御造営にもとづくものです。明治以降は官幣大社に列せられ毎年四月十四日の例大祭には宮中より御使が参向される勅祭の神社であります。」そして「楼門」。重要文化財・楼門は本殿同様元禄13年の幕府造営のもの。三間一戸で、様式的には純和様で構築され丹塗りが施されていた。屋根は入母屋造銅板葺ですが、当初はとち葺であったと。楼上の扁額は沈黙の提督の名でしられる「東郷平八郎」の筆によるものと。「楼門」内安置の随身は俗に左大臣・右大臣と呼ばれている。一説には、正面に 向かって右は竹内宿祢、左は藤原鎌足とのこと。「左大臣(正面に向かって右)」。右大臣(正面に向かって左) 。そして正面に「拝殿」。重要文化財である本殿(元禄13年(1700)建築)の正面に、権現造風に繋げて建てられている。昭和11年(1936)から15年(1940)にかけて行われた、内務省神社局の直轄による大修築に際し、造営されたもの。木造平屋建で、拝殿正面には、千鳥破風と軒唐破風を付け、足元から頭貫下端までの軸部は黒漆塗り、組物と蟇股は極彩色が施されていた。また、拝殿の内部は、床板と折上小組格天井の格縁が黒漆塗り、幣殿内部の床板・化粧垂木も同じく黒漆塗りであるのに対し、神饌所内部は、床・壁・天井とも素木(しらき)で仕上げられている。屋根はいずれも檜皮葺きで、複雑な権現造と調和。拝殿上部にも色鮮やかで見事な装飾が施されていた。 内陣をズームして。御朱印授与所・祈願受付所。正面から。右手奥に「社務所」そしてその手前の「神楽殿」を横から。正面から。「神楽殿」は「祈祷殿」とも呼ばれていると。立派な「神楽殿」!!と思ったら。下記の如く旧拝殿なのだと。現拝殿が落慶したのが昭和15年(1940年)なので、元禄13年(1700年)の造営以来、200年以上拝殿を務めてきた建物でやはり風格が溢れていた。この「天水桶」も歴史を感じさせるのであった。「千葉県指定有形文化財 香取神宮拝殿元禄十三年(一七〇〇)本殿や楼門(いずれも重文)などと一緒に造営された。桁行五間、梁行三間・入母屋造、向拝一間、銅板葺き。昭和十三年(一九三八)現拝殿の新築に際し移築された。修理に係わる四枚の棟札が附(つけたり)指定となっている。」附指定(つけたりしてい)あるいは単に附(つけたり)とは、建造物、美術工芸品、考古資料、歴史資料等を重要文化財や都道府県指定文化財等に指定する際に、文化財本体に関連する物品や資料等を本体と併せて文化財指定することであるとのこと。「おみくじ掛け」。御朱印授与所・祈願受付所の右隣にあったのが「宝物館」。「千葉県指定有形文化財(工芸品)香取神宮古神宝類古くから武の神として崇められてきた香取神宮の祭神の御料として、数多くの神宝類が伝えられています。海獣葡萄鏡(舶載)を含む、奈良から江戸時代にわたる三十九面の銅鏡とはじめ、神代盾と称される盾形鉄製品、天文十七年(1548)在銘の鉄釜・金銅扇形御正体・金銅扇・銅製供器類・大刀(銘利恒)・元和四年(1618)在銘の行器・寛正七年(1446)在銘の鏡筥・黒漆菊文様蒔絵手筥・潤漆手筥・黒漆手筥・螺鈿蒔絵藤文小筥・螺鈿蒔絵絵文櫛・櫛・狂言面・伝亀山上皇宸筆の木製神号額・香取古文書・旧源太祝家文書などがある。これらの古神宝類は、美術工芸品として優れているばかりでなく、学術的価値という点からも大変貴重である。」「神徳◯◯」碑。「さし石昔から若者たちが力競べに用いた石で競い方としては肩上げ両ざし(両手で頭の上に差上げる)片手ざしなどがある。この力石には差上げた者の名を刻んで奉納したもの。」「御神木」。「祈祷殿(神楽殿)」前から、「拝殿」を振り返る。「香取神宮」の「本殿」。平安時代には伊勢神宮などと同様の20年ごとの建替えの制度があったが、戦国時代に廃れ、現在の本殿は、元禄13年(1700)に幕府によって造営されたものである。正面柱間が三間で前庇と短い後庇を加えた両流造(りょうながれづくり)の全国でも最大級のもので、黒漆塗、檜皮葺(ひわだぶき)の重厚な社殿である。また、蟇股(かえるまた)や虹梁(こうりょう)・組み物には極彩色の装飾が施され、前代の慶長期の桃山様式の手法を受け継いでいる。黒と金が織り交ざった装飾でありながら、「本殿」は流造を採用し、流線形が美しいのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.11
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この日は2月15日(水)、私が役員を務めている自治連合会の「防犯協会」が開催した令和4年度視察研修会に参加しました。目的地は千葉県香取市にある「香取神宮」、「水郷佐原山車会館」、「伊能忠敬旧宅&記念館」。地元の小田急線駅前をバスにて8:00に出発。国道467号を利用して国道1号へと向かう。途中、右手前方に見えて来たのが「横浜薬科大学」の「図書館棟」。ドリームランド時代から地域住民に親しまれている戸塚のシンボル。1965年に五重塔をモチーフにホテルエンパイアとして誕生。長年にわたり区民から「戸塚のシンボル」として親しまれてきたが、95年にホテルが廃業、2002年のドリームランド閉園の憂き目にも。しかし、2006年開学の横浜薬科大学の図書館棟として再スタートを切ったのであった。ホテルエンパイアの68m、1時間で1回転する最上階のレストランで、富士山の雄姿を見ながら数回食事をした懐かしい想い出があるのだ。「原宿」交差点から国道1号へ。車窓からの風景を楽しみながら進む。右手に「戸塚警察署」。「横浜新道」の「戸塚料金所」を通過。ユニークな基礎工事・擁壁の上に建つ「横浜栄養専門学校」が右手上に。2月10日、横浜市内の住宅街で、斜面の壁が幅およそ7メートル、高さおよそ5メートルにわたって崩落。崩れ落ちたのは、斜面の土砂崩れなどを防ぐためにコンクリートで固められた「擁壁」なのであった。首都高に向かって進む。下側が走って来た「横浜新道」。「横浜横須賀道路」の高架を通過。「首都高速神奈川3号狩場線」に合流する。「首都高速神奈川3号狩場線」の「狩場本線料金所」を通過。そして前方に見えて来たのが「首都高速湾岸線」の「横浜ベイブリッジ」。斜張橋のケーブル。右手前方に見えて来たのが、「鶴見つばさ橋」。そしてトイレ休憩の為「大黒PA」に向かう。再び「鶴見つばさ橋」を見る。この日の観光バス。そして「首都高速湾岸線」を更に進む。右手に見えて来たのが仕事でお世話になった「JFEスチール(株) 東日本製鉄所」。JFEスチール(株) 東日本製鉄所(扇島)のコークスガスタンク。可燃性のガスが入っているのでチェッカー模様が目立つのであった。JFEスチール(株) 東日本製鉄所(扇島)の石炭ヤード用の巨大クレーンが右側に。右手に「ダイバーシティ東京プラザ」。ダイバーシティ東京(DiverCity Tokyo)プラザ」は、東京都江東区青海にある複合商業施設およびオフィスビル。「東京ベイコート倶楽部ホテル&スパリゾート」。東京ベイコート倶楽部ホテル&スパリゾートは東京都江東区有明三丁目にある、リゾートトラストが運営する会員制リゾートホテル。2008年(平成20年)3月29日オープン。「パナソニックセンター東京」はパナソニックグループのショウルーム。「りんかい線」の「国際展示場駅」。右手奥に「東京ゲートブリッジ(Tokyo Gate Bridge)」。東京ゲートブリッジは、東京港第三航路(東京東航路)を跨ぎ中央防波堤外側埋立地と江東区若洲を結ぶ橋梁である。建設時は仮称として東京港臨海大橋と呼ばれていたが、一般公募の中から「東京ゲートブリッジ」の名称が付けられた。また、恐竜が向かい合っているような特異な形状をしている事から恐竜橋とも呼ばれる。「ダイヤと花の大観覧車」東京都江戸川区所在の葛西臨海公園内にある観覧車。地上高は117mで、2016年7月1日に大阪府吹田市の「REDHORSE OSAKA WHEEL」(地上高123m)が完成するまでは日本一の高さだった。・回転輪直径:111m/地上高:117m・ゴンドラ数:68台(冷暖房完備)・所要時間:1周約17分・定員:6人乗り×68台「舞浜大橋」を渡る。「東京ディズニーランドホテル」。「東京ディズニーランド」。「幕張メッセ」にある「ワールドビジネスガーデン」。千葉県千葉市美浜区の幕張新都心にある超高層建築物。マリブイーストタワーとマリブウエストタワーの2棟からなるツインタワーで構成されている。「東関東自動車道」沿いにあった「酒々井リサイクル文化センター」。「佐原香取IC」まで1kmと。「佐原香取料金所」。「佐原香取料金所」を出て直進すると正面に「香取神宮」の案内板が。その先の交差点の角には「地図の町佐原」と書かれた日本地図を模したモニュメントがあった。日本地図を実測により完成に導いた、伊能忠敬(いのうただたか)ゆかりの町を象徴して、香取市に市町村合併する前の旧佐原市時代に建てられたものであるようだ。そして「香取神宮」の駐車場に到着したのであった。「おいしいは 香取市 香取(ここ)にある さつまいも」と。「千葉県のサツマイモ産出量は鹿児島県、茨城県についで全国で3位となっています。特に首都圏向けの青果用として、市場関係者から高い評価を受けています。香取市の畑作地の土壌は関東ローム層という火山灰土壌で、サツマイモの栽培に適していることから、古くからサツマイモの産地として京浜市場などへ出荷しています。香取市で採れるサツマイモは「ベニアズマ」をはじめ、「べにはるか」「べにこまち」など品種も多彩です。」とネットから。 ・・・つづく・・・
2023.04.10
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そして「片浦稲荷大明神」参道手前にあった「石灯籠」。「片浦稲荷大明神」。現在の東京渋谷近辺にあった享保12年(1727年)建造の稲荷社や狐を譲り受けて祀られた と。「片浦稲荷大明神」の鳥居。「片浦稲荷大明神」への参道には銅製灯籠が。【石造稲荷社は享保12年(1727)武蔵国豊嶋郡渋谷村の銘があり、現在の渋谷近辺にあった稲荷社と思われる。四匹の狐も当時のもの。縁あってこれらを譲り受け、新たに「片浦稲荷大明神」としてここにお祀りした。鳥居と灯篭は旧九段会館の屋上にあったもので、解体に伴いここに移設された。】「五輪塔 鎌倉時代(1185~1333)」【大分県国東半島は修験道の霊場として古代から知られ、山中には多数の石塔が残る。この五輪塔は中でも大型の塔で、軟石の石肌は苔むしている。】「数理模型 0010」【数学上の双曲線関数を目に見えるように模型化した。この数式では双曲線が無限点で交わる。実際に無限点までは作れないので、先端部を5ミリまでとした。作れなかった部分は想像力の中で夢想するしかない。無限点は物質界において人間の脳の中にのみ存在する。この模型の基壇として反射望遠鏡の為に作られた光学硝子を置いた。 cos ux=-------------- cosh μ sin uy=-------------- cosh μz= μーtanh μ ( 0≦ u≦2Π, 0 ≦μ≦∞)】上記数式から、空に向かって無限に細くなるのであるが、先端を5mmで止めたのだと。「木化石 新生代」【珪化木とも呼ばれる。悠久の昔、地震による土砂崩れなどによって地中に埋もれ化石化した樹木。日本では日本海側で発見されることが多い。新生代(6500万年~ )のものと思われる。内部には年輪が残され、また一部には水晶化が見られる。半分に切断しべンチとした。】「展望台」案内板。令和5年の石垣を建造中。そして前方高台に見えてきたのが「柑橘山 春日社」。「道標 右堺大阪道 江戸時代(1603~1868)」【大阪を流れる今の淀川のほとりに立っていた道標。堺へと通ずる大坂道を示している。片側には五穀成就道中安全と記され豊作と旅人の安全を祈願している。文久3年( 1863 )の銘がある。】「柑橘山 春日社」から相模湾を見る。「春日社 参道」。「春日社」。【甘橘山春日社社殿は、現存する最古の春日造りの姿を残す奈良・円成寺の春日堂を採寸し写した。参道右上に据えられた礎石は奈良時代、和泉国の国分寺跡から出土したもの。2022年春、ここ「甘橘山」に奈良・春日大社より御霊を勧請した。】移動して。前方に「光学硝子舞台」、「冬至光遥拝隧道」、「夏至光遥拝100メートルギャラリー」を見る。「春日社」を振り返る。こちらが「みかん道」からの参道。みかん林と相模湾雄を見る。みかん林とその先に「春日社」。左に「化石窟」からの「みかん道」を見る。坂道の途中にあったのが「細見古香庵収集 石仏群 室町-江戸時代(1336-1868)」【大阪府泉大津の実業家、細見亮市は茶人として古香庵と称し仏教美術の名品を多数収集し、そのコレクションは京都の細見美術館に受け継がれている。この石仏群は泉大津の邸宅にあったもので、永禄の年号のある宝篋印塔板碑や天正の年号のある五輪塔板碑も含まれている。】「冬至光遥拝隧道」の先端部を見上げて。菜の花と一緒に。「フランス旧家の石の階段 19世紀」【平成26年(2014)、パリのパレ・ド・トーキョーで開催された杉本展「今日世界は死んだ、もしかしたら昨日かもしれない」展の為に探し出された石の階段。鎌倉時代の雷神像の基壇として使われた。】「春日社」そして「真鶴半島」方向の相模湾の海岸を見る。そして「光学硝子舞台」の「檜の懸造り」を見上げて。「野点席」【蜜柑畑の石組みを再利用した野点席。冬至の朝には暖を取る為の焚き火の場となる。】「泥川」と刻まれていたのであろうか?「生命の樹 石彫大理石レリーフ 12-13世紀」【旧約聖書に記載されているエデンの園にあったとされる生命の樹が、大理石のレリーフとして表現されている。今に残るべニスのグランドキャナルに面した商館のフアサードに嵌め込まれていた。動物と鳥達が若葉の芽生えた樹に絡みついて登る意匠は生命の神秘を感じさせる。古代ローマ円形劇場写しの入り口に扁額として掲げた。】次に訪ねたのが「待合棟」。【建物は4面をガラスで覆われ、箱根外輪山が見渡せる。中央に置かれた大テープルに樹齢一千年を超える屋久杉が使われている。その木目と年輪には荒々しく過酷だったテーブルの片側を支えるのは、高野山の末寺、大観寺にあった石製の水鉢】そして「待合棟」の手前に敷かれているのは「京都市電 軌道敷石 明治28年-昭和53年(1895-1978)」【待合棟前の広場を始め、敷地内の巡回路に多数使われている。数十年に渡り自動車路として共用されたために、石の肌が摩耗して味わいがある。京都市電は明治28年(1895)に京都電気鉄道により、日本初の電車事業として開業した。その背景には、琵琶湖疏水の完成と蹴上の水力発電所による電力の供給があった。昭和53年(1978)惜しまれつつ廃業。軌道石は民間に払い下げられた。】そして「待合棟」の地下への階段には杉本博司氏の絵画が展示されていた。モノトーンでまとめられた空間に置かれたベンチの色が印象的。襖絵として杉本氏の「放電場」シリーズ作品の一つのようだ。展示されていた写真に近づいて。ここにもモノクロームの世界が。「劇場」・「U.A. Play House, New York, 1978」と。「道標 右こうや左よしの至 江戸時代(1603~1868)」【高野街道と吉野街道の分岐点、現在の和歌山県橋本市にあった道標(みちしるべ)。】「古信楽井戸枠 室町時代(1336-1573)」【昭和7年(1932)頃、北大路魯山人が信楽の旅の途次買い求めたもので、その後昭和37年(1962)頃に小林秀雄の所蔵となった。小林秀雄は鎌倉の自宅の庭にこの井戸枠を据えその緋色を愛で親しんだという。特に雨に濡れる時、その緋色が映える。】棟内の様子。杉本博司氏の著作本そして「江之浦測候所」関連本が展示販売されていた。この一枚板(屋久杉)のテーブル。「待合棟」を後にして、「京都五条大橋礎石」前を通過し再び「夏至光遥拝100メートルギャラリー」の南側にあった石段を上る。日本石庭そしてその先に相模湾。「石舞台」とその手前に「東大寺七重塔礎石」そして「相模湾」。最後に「観桜台」を訪ねた。【檜の懸造りで作られた展望台。江之浦集落が一望される。夏至の日には100メートルギャラリーの軸線に沿って朝日が昇るのを見ることができる。】廻り込んで。階段を上る。「夏至光遥拝100メートルギャラリー」そしてその右手奥に「石庭」を見る。 「待合棟」を見る。 参道を歩き駐車場まで戻ると「送迎バス」が。「根府川駅」までの送迎バス。出発時間は15:15と。これが「江之浦測候所」の上空からの写真。展示案内図(1/2)。展示案内図(2/2)。そして私のこの日の散策ルート。広い敷地内の展示をおおいに楽しんだのであった。2025年には新たな展示施設が開館予定とのことで、次回はその時にと。そして、愛車に乗り込み、二宮の旅友宅経由で帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2023.02.23
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