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我が家から地元の小田急線の駅に行く道の途中の民家の藤棚に、見事な藤の花が満開になっていましたので、無断で写真を撮らせて頂きました。幅2m、長さ4mほどの藤棚でしょうか。和名「フジ」の由来には定説がないが、一説には本来『風散(ふぢ)』と呼称・発音され、風が吹く度に花が散るので「吹き散る」の意であるという。漢字表記の「藤」は、本来は中国産の種であるシナフジを中国で紫藤と表記したことにより、日本でこれを省略して当てたものであるとのこと。藤という字そのものは藤本(とうほん)、すなわちつる性で木本性の植物を指す言葉であると。花は枝の先端に出て下に垂れるように伸びて60~70 cmにも達し、多数の花を付けていたのであった。日本では藤(フジ)は古来から文学や色の名前、家紋などでも親しまれており、日本の花というイメージを持っている人が多いのでは。そして私の住む市にも「藤」の文字が入っているのである。藤(フジ)全般の花言葉 ネットから藤(フジ)全般の花言葉はいくつかあります。・『優しさ』 小さな花をまとった房が優美な藤(フジ)。 風に揺られてゆらゆらとなびくその姿が、藤(フジ)全般の花言葉のひとつである 『優しさ』を表しているとされています。・『歓迎』 垂れ下がった藤(フジ)の枝の様子が、頭を下げて迎え入れている人を連想することから 『歓迎』の花言葉が付けられたといわれています。・『忠実』 藤(フジ)のツルが幹にしっかりと巻き付き離れない様子が、『どこまでも付いていく』と いう人の意志に通じることから『忠実』の花言葉を託されました。・『恋に酔う』 紫式部が記した長編小説『源氏物語』に登場する藤壺の宮と紫の上にちなんで、『恋に酔う』の 花言葉が与えられました。 2人の女性は、光源氏の生涯の想い人として登場しており、物語の中で常に彼女たちの面影を 追っている様子が描かれています。・『決して離れない』 相手に固執し、執着のような想いを募らせる印象の強い花言葉の『決して離れない』。 ツル性の藤(フジ)の性質にちなんだ花言葉ですが、それだけ相手のことを慕っているという 意味にもつながっているのではないでしょうか。 人を信じる寛容な心や、恋い焦がれる気持ちを表現している花言葉が多いのだとそして我が名(苗)字にも「藤」が付くのだ。「藤」の付く苗字ランキングTOP10は1.佐藤2.伊藤3.加藤4.斎藤5.藤田6.後藤7.近藤8.遠藤9.藤井10.藤原 であるとネットから。毎年きれいなフジの花を咲かせるために、藤棚の剪定(せんてい)を1年を通じて行っているのであろう。花が咲いたのちの「花がら摘み」、冬季の樹形整形や誘引の結束は、次の年にきれいな花を咲かせるために必要不可欠な作業のはず。花後(かご)の実を付けたままにしたり、定期的な剪定(せんてい)を怠ると、栄養がそちらに取られてしまい、「花芽(花が咲く芽の部分)」に栄養がいかず、花が少ない、または咲かないフジとなってしまうとのこと。来年も、この見事な藤棚の光景を楽しみにしているのである。 ・・・おわり・・・
2024.05.05
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「ウィリアムアダムス・三浦安針墓(安針塚)を訪ねる」をアップ中ですが、昨日4月25日(木)の早朝に、車で10分弱の地元の白旗神社に藤の花を愛でに車で行って来ましたので、本日はこれをアップします。境内に車を駐め、まずは境内の奥にある紫の「弁慶藤」に向かう。。ここ「相州・藤沢 白旗神社」は、奥州平泉で最期を遂げた源義経を祀る神社。伝承によれば、義経と弁慶の首は鎌倉の腰越の浜で首実検が行われた後、2つの首がここ白旗神社に飛んで来たのだといいます。正面の藤棚に紫の藤の花が満開に。1m余りの花房を幾重にもつけ見事な「弁慶藤」。「藤」の原産は日本で、本州または四国から九州の比較的温暖な気候である林に見られる。平安時代からは、観賞用として庭園でも育てられて来た。そして現代では、つる性の特性を活かして藤棚となり、公園や遊歩道でも楽しまれているのだ。これぞ「藤紫(ふじむらさき)」の色。藤紫とは、藤の花のような明るい青紫色のこと。平安の頃より女性に人気の高い『藤色』と、高貴な色の象徴である『紫』を組み合わせた色名で、藤色よりも紫みが強い色。藤紫が染め色として登場するのは江戸時代後期とのことだが、明治期の文学作品や美人画などに数多く見られることから、明治文化を代表する色名の一つといわれていると。また、「藤紫」は大正浪漫の女性を虜にしたことから「大正藤(たいしょうふじ)」とも呼ばれたのだと。左側に廻り込んで。『万葉集』にはフジを詠んだ歌が題詞を含めて28首あるのだと。次はそのうちのひとつだ。「須磨の海人(あま)の塩焼衣(しおやきぎぬ)の藤衣(ふじころも)間遠(まどお)にしあればいまだ着なれず」フジの繊維は織り上げると白い衣となったが、ゴワゴワして肌触りが良くなかった。庶民の仕事着とされたり喪服として着用された。取り上げたこの歌では須磨(すま)の浜(現・神戸市須磨区須磨海岸)で塩をつくり出すために働く漁師の作業衣とされているが、和歌を詠みながらも、まだ着心地が悪いと愚痴をこぼしているのだと。そして大伴家持(おおとものやかもち)が詠んだ歌。「わが屋戸(やど)の時じき藤のめずらしく 今も見てしか妹(いも)が笑(え)まひを」奈良時代には山野の藤を観賞用として家の庭などに移植する技術が普及していたことがうかがえると。藤の木から垂れ下がる花房が芳しい香りをあたりにただよわせ、花房のまわりに蝶やクマバチが羽音をひびかせながら乱舞している。平城の京の街中にある家の庭にはそんなフジの花が咲いていたことであろう。我が藤沢市の市の花「藤(フジ)」。そして「藤」の字を持つ名字は種類も数も多い。桜や梅ほど花の美しさが評価されない藤が、なぜこれほどまでに名字や地名に用いられているのか。それは日本人の生活文化のなかに藤が深くくいこんでいるということだ と。藤原・藤田・佐藤・武藤・近藤・尾藤・首藤・安藤・伊藤・後藤、進藤・斎藤・加藤・・と。近づいて。風に僅かに揺れて。藤棚にが2本の老木が。そして「弁慶藤」の右横にあったのが「芭蕉の句碑」。「草臥て 宿かる比や 藤の花」。貞亨5年(1688年)4月11日、『笈の小文』の道中大和八木で詠まれた句。文化2年(1805年)3月、以足建立。以足は江戸の人。別号牛文庵。碑の裏に以足の句が刻まれている。「東路や華にくるまる鈴の音」ここ藤沢で詠まれた句ではないが、ここ藤沢の「藤」にちなんで建てられたものであろう。この句は『猿蓑』にも収録されている と。「芭蕉句碑草臥て(くたびれて) 宿かる比や(ころや) 藤の花 文化ニ年建」と再び右側の藤棚。左側の藤棚。そして次に「社務所」前にある純白の藤の花「義経藤」を訪ねた。「弁慶藤」に比べて一週間ほど遅れて見頃になるのです。こちらは未だ三分咲きか?純白の藤の花「義経藤」。「義経藤」。今年の「義経藤」の開花は例年よりもさらに遅く?こちらも満開になると白房花が1m近くに。藤棚全体を撮影。神事の舞台会場。「藤沢市指定重要無形民俗文化財湯立神楽白旗神社を中心に神官により継承されている神事芸能。湯立てを伴う神楽で、湯花神楽、鎌倉神楽等の名称で、藤沢、鎌倉から三浦半島一円におよんでいる。古くは、関東一帯に分布したとされる神代神楽を源流とし、鎌倉の鶴ケ岡八幡宮の神楽男が伝承し、次第に近隣に定着したものとされる。「湯立て」という神事手法に組み込まれた神楽には品格があり、舞にも洗練されたものがある。演目は十一で打囃子、初能、御祓、御弊招、湯上、中入、掻湯、大散供、笹の舞、弓祓、最後の剣舞・毛止幾で神人共楽の内に終了する。 白旗神社神事 十月ニ八日 平成ハ年三月一日指定 藤沢市教育委員会」「おみくじ掛け」。「一の鳥居」。日本初のグラスファイバー製の「大鳥居」であると。高さ8m、幅6mの明神鳥居で、昭和59年12月に建立された。地震対策のために軽量で耐久性のあるグラスファイバーを取り入れ、建設時には新聞、テレビ、週刊誌等で報道されたのだと。向かい合うようにあったのが「源義経公武蔵丸弁慶公之像」。この「源義経公武蔵丸弁慶公之像」は2019年(令和元年)10月竣工。源義経公没後830年の「記念事業」👈リンク の一つとして建てられたのだ。「義経公・弁慶公の御首は、文治5年(1189)6月13日に腰越の浜で首実検の後、金色の亀に乗り当地に辿り着いたと伝えられています。義経公の首塚は、現在の位置より北に40メートル、当社から南に150メートルの場所にあり、その御霊は当社に祀られました。一方、弁慶公の弁慶塚は藤沢宿 常光寺内にあり、その御霊は常光寺内の八王子社に祀られていましたが、現在は塚のみを残しています。一般的に神社は南向きか東向きに建てられていますが、この八王子社に限っては、主君 義経公が祀られている白旗神社の方を向いていたため北向きに建てられていたと謂います。此度、令和御大典の嘉年と主従役儀830年の佳節を吉年とし、ここに源義経公・武蔵丸弁慶公の銅像を建立し、御霊の平安と隆昌を永年に亘り祈り奉ります。」馬に乗る「源義経公」をズームして。平安武将の大鎧を再現した見事な源義経騎馬像。鎧だけでなく、馬具・轡(くつわ)なども忠実に再現したのだと。そして「武蔵丸弁慶公」。武蔵坊弁慶が主君の義経を仰ぎ見る忠義の士の姿。拝殿への階段手前の右側には石碑が並んでいた。右側から「御大典記念 永代御供米三俵 藤澤米穀肥料商組合」と刻まれた石碑。次に「八海山大神」と刻まれた石碑。次に「御嶽大神」と刻まれた石碑。そして一番左に「三笠山大神」と刻まれた石碑。そして白旗神社のお参りに向かう。拝殿への石段。「白旗神社御祭神 寒川比古命 源義経公配神 天照皇大神・大国主命・大山祇命・国狭槌命由緒古くは相模の国一の宮の寒川神社の御分霊を祀って寒川神社と呼ばれていた。しかし、くわしくはわからない。鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、文治5年(1189年)閏4月30日、奥州(岩手県)平泉衣川館において自害された。その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は腰越の浦に着き、和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。」歌川 広重 東海道五拾三次の内 藤澤 遊行寺藤沢は遊行寺の参詣者が多く、江ノ島への分岐点として賑わった。遠くに北条時宗の本山、遊行寺の伽藍が描かれ、その右手にある家並は道場坂の存在を示し、大鋸橋を挟んで、江ノ島弁天の鳥居がある。お参りをすませた人々が山門をでて橋を渡り、鳥居をくぐろうとしている。そして拝殿への階段手前の左側にも石碑が並んでいた。江の島弁財天道標が一番右に。道標の横には、20数基の庚申塔群があった。正面に「えのしま道」、側面に「一切衆生」「二世安楽」と刻字されていた。杉山検校が江ノ島弁財天に祈願し、成就したお礼に藤沢宿から江ノ島まで48基の道標を建てた。10基が現存し、そのうちの1基。昭和41年1月17日藤沢市重要文化財に指定された。藤沢市指定重要文化財となっている「寛文五年庚申供養塔」。「市指定重要文化財 寛文五年庚申供養塔(有形文化財)庚申信仰は十干・十二支の組合せによって、六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、徹夜で無病・息災・長寿を願う信仰である。「人の体内にいる三尸(さんし)虫が、庚申の夜、天に登ってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」とする道教の教えに由来している。この供養塔の中央上の梵字は釈迦如来(主尊)、続く八字ナムアミダブソワーカーの一呪、下の梵字はここでは青面金剛を表している。猿像の脚ぼその彫刻は、江戸時代初期のものに見かけられるものである。「江の島弁財天道標(建造物)その昔、杉山検校が「多くの参詣者が道に迷うことがないように」との祈念から建てられたものと伝えられる。もとは四十八基あったといわれ、現在は十基が残存している。いずれもほぼ同型で、この道標も尖頭角柱形の三面に「一切衆生」「ゑのしま道」、「二世安楽」と刻まれており、造立者の温情がしのばれる。 昭和四十一年一月十七日指定 藤沢市教育委員会」拝殿への石段を上り参道を進む。左手に「絵馬掛所(えまかけどころ)」。「絵馬」を追う。「令和六年 絵馬」。「心願成就 絵馬」。白旗を掲げて馬上の源義経公。弁慶の姿も。「初宮詣」絵馬。「七五三詣」絵馬。「合格絵馬」絵馬。左側には義経公に纏わる「齋源義経公鎮霊碑」があった。白旗神社の御首と宮城県栗駒町半官森御葬札所の御骸、両地の魂土を合祀し、義経公の兜を象った鎮霊碑で1999年(平成11年)に建立された と。拝殿前の最後の石段を上る。「拝殿」。白旗神社がいつごろできたのかは定かではないが、鎌倉時代より以前から、相模国(神奈川県あたり)にある寒川神社の神様・寒川比古命をお祀りして、同じ名前の寒川神社と呼ばれていた。文治5年(1189)閏4月30日、源義経公は兄源頼朝から怒りをかい、追い詰められ、奥州(岩手県)平泉の衣川館において自害した。その首は奥州から新田冠者高平(にったかじゃたかひら)という者によって鎌倉に送られた。高平が、腰越の宿(鎌倉市)に到着すると、そこで和田義盛・梶原景時によって義経かどうか確認された。伝承では、弁慶の首も同時に送られ、夜の間に二つの首は、白旗川を上り、この地に辿り着いたといわれている。このことを頼朝に伝えると、白旗が源氏の旗であったことから、白旗明神としてこの神社に祀るようにと指示した。こうして義経公を神様として祀ることとなり、のちに白旗神社と呼ばれるようになった。弁慶の首は、白旗神社のそばに八王子社として祀られることになった。現在の社殿は、文政11年(1828)から7年をかけて、天保6年(1835)12月に完成した。本殿、弊殿、拝殿を連ねた典型的な流権現造り(ながれごんげんづくり)で、外壁部の彫刻は江戸時代の匠の技が光る貴重な文化財。昭和55年7月に大改修工事が行われ、平成16年2月に社殿回廊に高欄が設置されたと。近づいて。主祭神 寒川比古命(さむかわひこのみこと):相模国一宮の寒川神社の祭神。 源義経(みなもとのよしつね)共に祀られている神様 天照皇大神(あまてらすおおみかみ) 大国主命(おおくにぬしのみこと) 大山祇命(おおやまつみのみこと) 国狭槌命(くにさつちのみこと) 日本武尊(やまとたけるのみこと)扁額「忠友殿」と。「源氏の家紋・笹竜胆」が多数装飾されていた。白旗神社の幟。「寒川比古命 源義経公 白旗神社」と。寒川比古命(さむかわひこのみこと)は寒川神社の御祭神。 ・・・おわり・・・
2024.04.26
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「柳橋」を渡りながら、上流の「大島桜・オオシマザクラ」を見る。日本の固有種で、日本に自生する10もしくは11種あるサクラ属の基本野生種の一つ。成長が速く再生力が強く古来雑木林に植えられて燃料として多用されたことからタキギザクラ(薪桜)の別名があるほか、葉が桜餅の葉に使われるためモチザクラ(餅桜)とも呼ばれる。開花時期は、3月下旬から4月上旬、早いところでは2月に開花する。緑色の新葉の展開と同時に一重咲きの大輪の花を比較的多く咲かせ、花と花弁の色は白色、花径は30 - 40mm)ある。花弁は5枚で、先が2つに分かれている とウィキペディアより。ズームして。緑色の新葉の展開と同時に一重咲きの大輪の花が。オオシマザクラとソメイヨシノとのコラボ。道路の水溜りに映る桜の花を。円行公園内の赤い椿の花。ここにも落下した花の赤い絨毯が。引地川の下流方向を見る。この切り株は既に朽ちて。中心部分が空洞化して、枯れてしまった為に切られたのであろう。ここにも花を付けていないソメイヨシノの老木が。ところで、1998年施行の改正河川法で、堤防の樹木は根元から水が入り土壌が緩んで決壊しやすくなり、また流木による堤防の損壊や水位上昇につながる恐れもあることから、堤防の川側に植樹することが禁止されたのだと。一般的に桜の木の寿命は60年と言われて、ここ引地川沿いの桜には老木化したものが見られるようになり、10年後か20年後、いつ寿命がくるかわからない状態なのだ。今後、新たに植樹する場合には、川表(堤防を境にして川側)には出来ずに、川裏または桜根が堤防に入らないよう盛土をして植樹しなければならないとのこと。改正河川法の植樹基準では、「治水上等の支障となる場合は、樹木の有する治水機能及び環境機能に配慮しつつ、支障の大きなものから順次伐採することを基本とする」としており、支障があるものについ ては、伐採・移植等を行い治水の安全性向上に努める必要があるのだとも。そして再び満開のソメイヨシノの花を追う。再び「胴吹き桜(どうぶきさくら)」を。この花には既に緑色の新葉が元気よく。一重ヤマブキであっただろうか?ズームして。ここにも「胴吹き桜(どうぶきさくら)」。老木の桜が、エネルギーを振り絞って幹から花を咲かせている姿は、気になり、元気をもらえるのであった。川面を覗き込むが如き枝を追う。そして前方にカーブミラー。カーブミラーに映った桜を。移動して。さらに。そして「神奈川県道403号線」手前まで進む。そして「神奈川県道403号線」に架かる「円行(えんぎょう)大橋」から「引地川」の桜並木を見る。「円行(えんぎょう)大橋」を渡りながら「引地川」の桜並木を。ズームして。エスタテラ湘南台サンライズビュー地上25階、高さ82.5mのタワーマンション。「円行大橋」を振り返って。今年の地元の桜も見納めか!?日本人と桜の縁は非常に古く、『古事記』や『日本書紀』では天孫降臨した天照大御神の孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)に求婚される美しき木花咲耶姫(このはなさくやひめ)が、はかなく散るものの象徴(=桜の花)として書かれていて、桜という名称は「咲耶」から転じたという説があるのだと。また、民俗学においては、田の神を意味する「さ」と神の御座の「くら」が結びついたという説があるのだと。満開の桜には田の神が宿り、田植えから収穫まで見守ってくれるありがたい存在として、農耕民から崇められていたのであった。そして、桜にとってさらに大きな出来事が、江戸末期から明治にかけての品種改良によるこのソメイヨシノの誕生。従来の山桜の花弁は白く、花と葉が同時に現れるのに対して、ソメイヨシノはほんのり紅をさした花だけが先に開き、いっせいに散り、その様子は華麗そのもの。ソメイヨシノが全国に植えられることによって、桜の美しさやその意味は全国に広がったのだ。春の一時期だけしか見られないにもかかわらず、日本人にとってこの上なく大きな意味をもつ桜。その理由は、人々の暮らしに密着し、心に寄り添い続けてきた記憶の継承にある。だからこそ桜は今も日本人にとって最もなじみ深く、特別な存在となり得ているのです。テレビのニュースでは、多くの外国人が、本場のお花見を楽しむことを目的に日本を訪れていると。日本でしか味わえないお花見を実際に体験し大いに楽しんもらいたいと感じているのである。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.04.16
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この日は4月7日(日)、車で10分ほどの引地川沿いの桜並木を愛でに向かう。この場所は引地川の両岸に巨木の桜並木が続く地元では人気の花見スポットの一つ。ほぼ満開の引地川の桜並木。この付近の引地川の堤防上の道路の手摺には桜の模様が。桜の花の姿が打ち抜かれていました。川沿いの道を上流に向かって進む。富士山の如き形の白い雲を背景に。引地川の穏やかな流れの上に。上流側は緩やかに蛇行して。ズームして。打ち抜かれ桜の花の隙間から。川面を覗き込むように枝が伸びて。白い桜・大島桜も。計画的に植えたものか?それとも混じってしまった?ズームして。開花が進むと、花びらの中央がしだいにピンク色に染まってくると。開花直前の蕾。多くの桜の枝が川面に向かって伸びて。再び近づいて。そして老木の太い幹から小枝が出て直ぐ花が。これを「胴吹き(どうぶき)桜」と言うと。老木になり、エネルギーが不足してくると急いで葉を増やそうとして幹の途中から芽を出すことがあります。木のエネルギーは緑の葉からの光合成で作られますから葉っぱはたくさんあったほうが良い。桜の場合、葉っぱより先に花をつけますからこんなことになるようだ。この現象が「胴吹き桜」。衰えつつあっても力を振り絞って『どっこい生きている』その姿を毎年見るたびに感動するのだ。しかし「胴吹き桜」は幹の途中に芽を吹くことから名付けられたのであろう、もう少し夢のある表現はないのだろうか。可愛らしくもあるし、力を込めて一生懸命に花を開こうとする、けな気な、がんばりやさんのイメージを表現した言葉に!!と。「胴吹きの 花は吐息の ように咲き」・・・詠み人しらず「蘖/ひこばえ」と思っていたが・・・。「蘖/ひこばえ」は切り株や根元からの若芽を言うらしい。ネットで調べてみると、「太い幹に対して、孫(ひこ)に見立てて「ひこばえ(孫生え)」という。春から夏にかけて多く見られるが、俳句では春の季語となっている。なお、樹木ではないが、刈り取った稲の株から生える、稲の蘖に相当する芽を「穭(ひつじ)」と呼のだと。別の場所にも。さらに、上流に向かって。桜の関する言葉にいろいろあるのだ。・初桜(はつざくら):その年にはじめて咲いた桜の花・桜狩(さくらがり):「狩る」とは何かを求めること。桜を求めて貼るの山里をたずね、 鑑賞すること・夢見草(ゆめみぐさ):桜の別名。美しさにうっとり見惚れてついた呼び名・花筏(はないかだ):水面に花が散る様子を筏に見立てていう・夜桜(よざくら) :夜の桜の花・花明かり(はなあかり):夜、満開の桜の周囲がほのかに明るく感じられること・花吹雪(はなふぶき) :散り落ちる桜。「落下」「花の塵」「花屑」ともいう・花筵(はなむしろ):花びらを敷物に見立て、その上に座ること・花嵐(はなあらし):桜の花が咲くころに吹く強い風のこと。また、風で桜の花びらが 盛んに散ること。・花冷え(はなびえ):桜の花が咲く季節に一時的に寒くなること・花曇り(はなぐもり):桜の花が咲くころの、曇りがちな天気のことそう!この日は「花曇り」?!川面に我が身・花を映すが如くに。そして「引地川」に架かる「柳橋」を渡る。「橋名板」には漢字で「引地川」。橋の名は漢字で「柳橋」。「橋名板」だが、明治以降の近代橋には、”漢字”と”ひらがな”の二つのパターンで設置されているのだ。そして、時代が進むにつれて、”橋名の漢字”、”橋名のひらがな”、”竣工年月日”、”渡る河の名称”等の四つのパターンが多くなってきている。橋が架かる道路の起点側右手に「漢字河川名」、左手に「漢字橋名」、終点側にはそれぞれ「ひらがな」でと。よってこの道路・「湘南台272号線」は道路名からも判るように、左側・湘南台方向がこの道の起点側であることが判るのであった。そしてもう1つのタイプでは、道路の終点側左に「ひらがな橋名」、右側に「竣工年月日」が書かれているようだ。そしてもう一つ、面白いのは、「◯◯ばし」ではなく「◯◯はし」と記載されているものが多いとのこと。濁点を入れないのは「川の水は濁らず」との想いから来ていると。また「橋が濁流に流されないように」とも。しかし、これは全国の都道府県に公に通達されているのでは無いとのこと。つまりほとんどの都道府県では、「はし」の平仮名は濁らないとの明記は無いのだと。この「柳橋」の平仮名表示は「やなぎばし」となっていたのであった。この様に、花見のブログを書きながら多くの事を学んだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.15
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「日本大学生物資源科学部」のお花見を続ける。そして突き当りの「9号館」前を右折して進み直ぐに左折して「善行長後線」方向に進む。この道の両脇のソメイヨシノの桜並木も満開中。ズームして。そして「バラ園」の手前、「5号館」裏の植栽の場所を訪ねた。桜並木を振り返る。そして様々な花をカメラで追う。「ハナモモ」であっただろうか。「ハナモモは、花を観賞するために改良されたモモです。サクラの花の咲く時期に前後して開花の最盛期を迎え、あでやかなピンクや赤、白の花が春の庭を彩ります。モモは古来より中国では災いを除き、福を招くとされてきました。日本への渡来は古く、弥生時代といわれています。『古事記』にもイザナギが黄泉の国から逃げ帰るときに悪鬼にモモを投げつけて退散させたとあることから、古い時代から栽培されていたことがうかがえます。その後、平安時代には3月3日の桃の節句が祝われ、モモの花が観賞されるようになりました。このようにモモは太古から日本人に親しまれてきましたが、観賞用のハナモモとして改良が行われるようになったのは江戸時代に入ってからです。現在もハナモモの品種改良はあまり進んでおらず、栽培されている園芸品種には江戸時代に作出されたものが多くあります。樹形には立ち性、枝垂れ性、ほうき立ち性があり、狭いスペースにはほうき立ち性、広い場所には立ち性や枝垂れ性など、場所に適した樹形を選ぶことができます。庭木として植えられるほかに、‘矢口’などは促成の枝ものとして切り花に利用されています。」とネットから。そして椿の花。落ちた花を。この切り株は、ソメイヨシノであっただろうか?斑入(ふいり)系というらしいのですが、紅白に色分かれしているもの。咲き方は八重咲き。落下した花びらの姿も美しいのであった。ズームして。ピンクの椿。花びらには僅かに赤い筋が。紅白の「ハナモモ」が並ぶ。白の「ハナモモ」。「赤のハナモモ」。「ミツバツツジ」。ミツバツツジは、関東から中部に分布する落葉低木で、和風、洋風どちらの庭にもマッチする植物です。ツツジやシャクナゲの仲間で、枝先に3枚のひし形の葉をつける落葉(一部常緑もあり)種が、一般にミツバツツジ類と呼ばれており、紫色の花を咲かせ、開花後、あるいは同時に葉が出るのが特徴。椿・「紅白美人」であっただろうか?「紅白美人」は、名前の通り紅白の花色が美しい椿。赤と白と桃色の三色が乱れ咲く花木。「源平枝垂れ桃」であろうか?豪華な色合いは春にふさわしいのだ。赤と白が入り混じるので源平合戦になぞらえた名前。江戸時代から好まれて品種改良されてきたと。日本人好みのハナモモ。近づいて。再び「赤のハナモモ」。近づいて。「ピンクのハナモモ」も再び。近づいて。この桜は「オカメザクラ」?早咲きのサクラの一つで、1947年にカンヒザクラとマメザクラ(富士桜)をイギリスで交配して作ったものが逆輸入された。花色が濃くて華やかでありながらも、樹高が大きくならないことから、人通りの多い場所の街路樹や狭い庭のシンボルツリーとして使われる と。この桜も満開!!そして「海棠(カイドウ)・花海棠(ハナカイドウ)」。近づいて。さらに。「紫木蓮(しもくれん)」。通常、モクレン(木蓮)と言えば、濃紅色の花を咲かせる この「紫木蓮(しもくれん)」。白花を咲かせるのは、 ハクモクレン(白木蓮) 。 春、新葉が出る前に、骨格がしっかりした木の枝先に、濃紅色で卵形の大きな花を咲かせる。 花は上向きに咲き、全開せず半開状(開ききらない状態)に咲く。 花色が濃い紅色は花弁の外側だけで、花弁の内側は白または白味がかった極薄紅色なのだ。白い花は「リンゴの花」であっただろうか。別の「リンゴの花」に近づいて。さらに。さらに。この花びらの先端が丸い林檎の花の、リンゴの種類は「陸奥」??」白亜の建物の前にあったヒマラヤスギに似た「巨大杉」。見上げて。「レバノンシーダー Cedrus libani西アジア産の針葉樹。ヒマラヤスギに似た木で、大木になりますが、生長がおそく、成木は枝先が少し垂れます。(マツ科)」・レバノン、キプロス島及びタウルス山脈(トルコ南部)を原産地とするヒマラヤスギの仲間で、 レバノンの国旗にデザインされている。 ・雄大な樹形が好まれ、欧米ではヒマラヤスギより多く公園等に使われる。日本に渡来したのは 明治初年で、新宿御苑に植栽された。現代でも日本での活用は乏しく、一部の公園や植物園に 見られるのみ。・大木となることや材に香気があり、防虫効果があることから、優良な建材(ピラミッドの 基礎等)、船材(帆船の柱等)として地中海域の古代文明を発展させるのに貢献し、 イタリアンサイプレスと共にノアの箱舟の材料になったとされる。しかし、乱伐の結果 (紀元前10世紀にソロモン王の寝殿造りのために伐採されつくしたとの説も)、自生種は 今日では世界遺産として指定される地域内にわずかに残るのみとなった。・葉の長さはヒマラヤスギとほぼ同じか、やや短い。成長はヒマラヤスギよりもやや遅い。 枝はまばらな印象を受ける。花は8月頃に咲き、「私のことを考えて」などの花言葉もある。葉はヒマラヤスギよりも緑が濃いのでは。「SHONAN STAFF COURT」と入口に。白亜の木造・2階建ての建物。大学関連の職員の住居・宿舎なのであろうか?そして小田急線の駅に向かって進む。校門近くのソメイヨシノ。奥には「日本大学生物資源科学部」の高層校舎の姿が。「日本大学生物資源科学部」の正門。通学路のソメイヨシノの並木。そして小田急線、東海道線、神奈中バスを利用して、平塚市土屋にある「平塚市土屋霊園」に元上司の墓参り&花見に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.14
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この日は1週間前の4月6日(土)、地元の日本大学生物資源科学部と日本大学藤沢高等学校・藤沢中学校の敷地内にある桜並木を愛でに向かう。途中、道路沿いにある地元の神社・地神社の境内に咲くソメイヨシノを見上げる。満開のソメイヨシノ。ソメイヨシノの下に赤い椿の花が。ズームして。椿の花は既に散り始めていた。そして小田急線の踏切を渡り、日本大学、藤沢高等学校の構内道路に入り、道路脇に自転車を駐め、散策開始。昔は右側にも桜並木があったが、台風で一部の桜が倒れてから、安全を考慮して老木は全て根本から伐採されたのであった。伐採された桜の老木の切り株の姿を。残された老木の桜をの花を見上げて。日本大学生物資源科学部の陸上グランドとその先の小田急線沿いの桜並木。日本大学生物資源科学部の高層校舎方向を見る。左側の緑のネットは、日本大学藤沢高等学校の硬式野球部の練習グランド。陸上グランドの赤いアンツーカーと桜並木のコラボも美しかった。100m競技のアンツーカーと桜並木。ズームして。日本大学藤沢高等学校・日本大学藤沢中学校の正門。ズームして。そして反対側の陸上トラック沿いの通学路の桜並木。ここは、コロナ以後は学校関係者以外は入ることが出来なくなってしまったのだ。入口左側の小さな森をズームして。「しげまるの森案内板この辺りー帯は昭和50年代中頃まで本学の林学科(現森林資源科学科)・樹木園として整備されていました。その後体育館新設に伴い現在の規模に縮小され、長い間放置された森林状態となっていましたが、平成27年3月に除・間伐などの手入れが行われ、樹木とふれ合い森のはたらきを学ぶための樹木見本園(しげまるの森)として整備されました。約0.5haの園内には外国産樹種も含めて30種以上の樹木が生育しておリ、森のニ酸化炭素循環、手入れ不足の森と竹林の拡大、移入外来種などのテーマ別に整備されています。年が明けてツバキが咲き、春のサクラから芽吹きの新緑、夏の涼しい木陰、秋の木の葉の色づきまで、一年を通して森の変化を感じることができます。」通学路の桜並木を見上げて。土曜日の早朝の為か、通学する生徒の姿はほとんどなかった。ズームして。陸上グランドの線路沿いには観覧席も。再び校内の通学路をズームして。これぞ満開。「胴咲き桜」と呼ぶと。「‘染井吉野’を含めた多くのサクラの仲間は、ひとつの冬芽から花あるいは葉のシュートが伸びていきます。花が伸びる芽は花芽、葉が伸びる芽は葉芽と言うこともあります。通常、こうした冬芽は葉の付け根の葉腋と呼ばれる場所に夏季に形成され、翌春に開花あるいは展葉します。ところが、こうした冬芽からではなく、幹や根などから葉のシュートが直接伸びる場合があります。こうしたシュートを不定枝、伸び始めの芽を不定芽と呼びます。どうして不定芽ができるのかはよく分っていませんが、休眠したままだった潜伏芽が伸びる場合もあります。また、‘染井吉野’では樹冠部にストレスがかかって衰弱すると、幹や根から不定枝がよく伸びることも観察されています。幹から直接花が咲いているように見える現象は、この不定枝によるものです。ただし、よく観察すると、花のシュートは幹から直接伸びているのではなく、必ず前年の葉のシュートについた冬芽(花芽)から伸びています。つまり、前年に幹から直接伸びた不定枝についた葉の葉腋に、花芽がつくられて、翌年に開花するのです。不定枝は長く伸びる場合もありますが、数ミリメートル程度の短い場合もありますので、そうなると直接幹から花が咲いたように見えるのです。」とネットから。人工芝、赤いアンツーカーの陸上グランドを見る。再び「日本大学生物資源科学部」の高層校舎をズームして。そして自転車を駐めている場所に引き返す。再び100mトラック、桜並木を見る。 ・・・つづく・・・
2024.04.13
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4月に入りましたが、昨日は急激に温度が上昇し、我が家の庭、菜園の花々も賑やかになって来ました。庭梅(ニワウメ)。この時機になると細い枝いっぱいに梅に似た花を咲かせ、初夏に生食もできる赤い果実を楽しめるのです。別の角度で。近づいて。クリスマスローズ(白)。クリスマスローズ(赤)。ボケ(木瓜)。近づいて。赤いチューリップも。ヒヤシンス(白)。ヒヤシンス(紫)。こちらは葉牡丹。開花直前。今年も我が家の庭の各種スイセンが開花しています。 小型水仙 FORTUNE。「黄色花カップ」黄色の花弁にオレンジ色の口紅カップ。ラッパ水仙白、口紅水仙。白い八重の房咲き水仙「ホワイトライオン」。小型のラッパ水仙。「タヒチ」。黄・黄色の八重咲き。大輪の大型。名前の通り明るい陽気な印象の花。「黄色シボリ」。花弁に黄色と白のシボリ模様が入ってます。ペチコート水仙「バルボコディウム 」。八重の黄水仙。「ピンクチャーム」。花弁が白色、副冠が桃色の大カップ咲き。大輪で大型。花弁も副冠も大きくよく目立ちます。房だけ薄い黄色のラッパ水仙。マウントフッドは徐々にクリーム色に変わるスイセン。八重咲きスイセンムスカリ(紫)。アマドコロ。近づいて。そしてユキヤナギ。近づいて。そして我が家の横の、そしてミツバチを飼う菜園の花々です。こちらはブロッコリーの花。我が趣味のミツバチが大好きな花なのです。近づいて。そろそろ、片付けて、トマトやキュウリを植え込みたいのですが、ミツバチ嬢が毎日訪花しているので、なかなか片付けられません。さらに。スナップエンドウ。スナップエンドウの花。こちらは大根の花。白カブの花。近づいて。更に。イチゴも花を付け出しました。イチゴの花。こちらがそら豆。そら豆の花。別の種類のそら豆の花。花の紫の色がやや濃いのです。
2024.04.01
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「河津桜」を後にして、ひたすら国道135号線を走り、小田原市根府川にある「離れのやど星ヶ山」を訪ねたのであった。訪ねた目的は、「根府川駅」周辺の「おかめ桜」であったが、まだつぼみの状態であった。「根府川おかめ桜まつり」は2月24日(土)~3月24日(日)の開催予定であったのだ。以下は以前に訪ねた時の写真である。「離れのやど 星ヶ山」。清流、白糸川のせせらぎが流れる自然の中の一軒宿。木樹の温もりに囲まれて、ゆっくり・のんびり・ほのぼのとした時間をお過ごし頂けるように願いをこめて、全室離れのログハウス、そして、露天風呂付きの客室もご用意致しました。木の暖かな感触と大自然を近くに感じられ、日常から離れリフレッシュできる空間です とネットから。そして「離れのやど 星ヶ山」の敷地内にある「豆相人車鉄道」の展示を訪ねた。「豆相人車鉄道明治29年全開通から10年間風光明媚な海岸線を4時間を要して走る人車鉄道が熱海ー小田原間を運行していました。その実車復元車両を展示して走らせています。」線路の先に復元車両の姿が。近づいて。こちらにも「豆相人車鉄道明治29年全開通から10年間風光明媚な海岸線を4時間を要して走る人車鉄道が熱海ー小田原間を運行していました。その復元車両は当時の資料を基に製作しました。」と。「車両内部」には木製の座席が向かい合って。明治末期の写真をネットから。小田原と熱海方面とを結ぶ交通の近代化は明治29年(1896)に全線が開通した豆相人車鉄道に始まります。トロッコクラスの小さな車輛を2~3人の車丁が押すもので、人力車の鉄道版といったところです。定員は1車輛6名、4~5輛がグループになって走行していました。豆相人車鉄道は最初から地元住民が必ずしも気軽に利用できるような交通機関ではなく、乗客はもっぱら湯河原温泉や熱海温泉を訪れる湯治客や観光客であったと考えられることから、(中等、下等の)乗客が上り勾配区間で下車させられたり、高額な運賃を支払っていたにもかかわらず客車の後押しも手伝わされたりしていたとの話もあるのだと。正面に「ミニカーハウス」。米国大統領・世界の消防車・ハーレー他1500台以上を展示しています と。正岡子規の句碑。「根府川や石切る山の青蜜柑」「離れのやど 星ヶ山」を開業した内田 昭光さん👈️リンク。「夢に向かって協力し汗をながして努力する 昭光」と。手作りの板葺の屋根を持つベンチも。「ねぶかわ文学碑」。小田原市根府川地区で宿泊施設「離れのやど 星ヶ山」を経営する内田昭光さん(82)が、このほど「ねぶかわ文学碑」を建立した と。「ねぶかわ文学碑文学とはほど遠い生活をしてきました私が、このような「文学碑」建立を思いつきましたのは「根府川地区」の古き時代に関わっていただいた文学者の歴史を伝えることができれば、との思いからです。吉川英治吉川英治さんの曾祖父、銀左衛門さんは大久保の藩士で、根府川関所の役人として務めており、その昔には、根府川岳の山にあったといわれます狼煙灯台の守りの役していたとも聞いています。福田正夫大正時代に片浦村分教場の教論として、地域の学童の教育に尽力され、地域の発展に新風を吹き込んだと伝わっています。その後民衆の詩人福田正夫として、勤労や身の回りの生活等の作詩活動に邁進して多くの作品を残しています。茨木のり子若き日の茨木のり子さんが戦中下、東海道線「根府川駅」を通るたびに兵隊さんとの恋の思いとともに、駅から見渡す、赤いカンナの花の先に広がる大海原へ、戦後の復興を夢見た想いが感じられます。森鴎外箱根、三種の落葉樹として「ヤマボウシ」「姫沙羅の木」「エゴの木」があります。その中の沙羅の木と根府川石を絡めて謳った・・その昔庭の敷石として名をはせた「ねぶかわ石」との情景が見えてきます。正岡子規 歌碑は未完成です。「根府川や石切る山の青蜜柑・・・正岡子規がこの地域を訪れた時、当地を代表する産業の、「石と蜜柑」にふれあった事からこの句ができたと思われます。」「宮本武蔵新平家物語 吉川英治」「根府川の海👈️リンク根府川東海道の小駅赤いカンナの咲いている駅たっぷり栄養のある大きな花の向うにいつもまっさおな海がひろがっていた 茨木のり子」。「沙羅の木褐色(かちいろ)の根府川石(ねぶかはいし)に白き花はたと落ちたり、ありとしも靑葉がくれに見えざりしさらの木の花。 森林太郎」沙羅の木(サラノキ)は、日本では「夏椿(ナツツバキ)」とも呼ばれ、椿に似た美しい白い花を初夏に咲かせる落葉樹 と。「われらは郷土から生まれる われらは大地から生まれる われらは民衆の一人である 福田正夫」「あじさいの小道」を歩く。簡易コンクリートで舗装した小道。小川の上のくつろぎの場。「サンタの森」と。この植物はクレソン?清流、白糸川。食事も出来るテーブルセットが小糸川の上に。「離れのやど星ヶ山」Area Map。ログハウスを見上げて。「希望の鐘」ログハウスが並ぶ。カフェレストラン「ななつの星」の入口。そして「離れのやど星ヶ山」を後にする。途中、JR根府川駅に立ち寄る。根府川(片浦海岸)案内板。「根府川(片浦海岸)は、箱根火山の外輪山です。駅舎横の慰霊碑や近くにある釈迦堂で、1923年の大正関東地震の際の駅裏の斜面の地滑りやその南を流れる白糸川で起きた岩屑なだれなどの被害について、当時の状況を知ることができます。根府川の尾根伝いに断続的に「氏直の構」と呼ばれた戦国時代の土塁が残されており、江戸時代には根府川関所の要塞山として管理されるなど、当時は箱根火山が生み出した地形を生かした要害の地でした。また海岸に沿って、江戸城の石垣用に石を切り出した石丁場が開かれたため、安山岩を切り出す際にうがたれた矢穴(クサビを入れる穴)の跡がある石が現在も点在します。」ここは小田原市の根府川駅。相模湾を見下ろす崖の上にある駅舎。駅前やホームから見る相模湾の眺望は絶景、特に人気なのは、「初日の出」とこの日の「桜」。東京駅から一本で行ける距離にあるため多くの『カメラ爺』がやって来ると。元日に限り、根府川駅で日の出を迎える臨時列車も運行され、一年で最も賑わう瞬間を迎えると。無人駅の改札口を入り右手にあった池とその横に石碑が。「関東大震災殉難碑」👈️リンク。1923年(大正12年)9月1日:関東大震災により地すべり👈️リンク(土石流ともいわれる)が発生し、当駅に進入中の真鶴行き下り列車(8両編成、乗客約150名)が客車2両を残して駅舎、ホームもろとも海中に没した。列車に乗車していた約110名とホームに居た20数名の計約130名が死亡したのだと。「昭和四拾八年九月吉日根府川駅職員一同建之協力者神崎・・・」改札口を入った場所から「海」を見る。待合室の展示品。「日の出が差し込む根府川駅」「根府川・白糸川橋梁走行の国鉄時代の貨物列車」「根府川・白糸川橋梁走行の国鉄時代の特急列車」そして「JR根府川駅」を後にして小田原市早川にある「漁港の駅 TOTOCO小田原」にて海鮮丼を楽しんだのであった。そして西湘バイパス、新湘南バイパスを利用して17:31に帰宅したのであった。2日間の走行距離は418.7kmであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.03.24
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「河津川」の右岸を歩き「豊泉橋」まで戻る。「豊泉橋」の中央のコンクリート橋脚の河床部分から湯気が出ている事に気がついた。ズームすると、温泉が噴出しているようであった。北西300mほどの場所には「峰温泉大噴湯公園」内には伊豆の中でも珍しい噴泉・「峰の大噴湯」👈️リンク があるのだ。「1926年に掘削された温泉で、摂氏100度の温泉が、1日7回、地上30メートルの高さまで噴き上がります。本当はいつでも噴き上がるのですが、管理上普段は止めていて、1時間ごとに噴き上げています。温泉はとても熱いのですが、噴き上がった温泉が降ってくる頃には冷えていますので、噴湯の様子を近くで眺めていても大丈夫です(濡れますが)。迫力の噴湯をぜひ体験してみてください。9:30~15:30まで1時間ごとに1分間噴湯が公開されています。金曜・火曜は源泉維持管理作業のため休み。」とネットから。ズームして。温泉が1m以上の高さまで噴き上がっているのであった。「豊泉橋」の先に移動して。同様にズームして。「東洋一の大噴湯」案内板が駐車場脇に。「豊泉橋」を渡って左岸に向かう。「豊泉橋」から下流側を再び見る。左岸の白き流れと河津桜を見る。橋を渡り終わって、右岸を振り返ると、右岸には花をつけていない河津桜の樹が数本並んでいたのであった。ズームして。病気?寿命によるものか?心配なのであった。ところで、河津桜は1955年に原木が発見されてから広がり、河津川沿い4キロに850本が咲き誇る。毎年100万人が訪れ、経済効果は300億円ともいわれる。しかし、桜の寿命は60年とされ、20年後には枯れる心配がでてきた。だったら少しずつ植え替えていけばよさそうなものだが、これに法律上の壁が立ちはだかっているのだ。1997年に河川法が改正され、「根が弱ると地面にすき間ができ、堤防決壊につながる可能性があるため」(静岡県土木事務所)と、川沿いの植樹ができなくなったのだ。特に川表(堤防を境にして河川側)への新たな植樹は出来ないのだ。さらに、植樹基準では、「治水上等の支障となる場合は、樹木の有する治水機能及び環境機能に配慮しつ つ、支障の大きなものから順次伐採することを基本とする」としており、支障があるものについ ては、伐採・移植等を行い治水の安全性向上に努める必要があるのだと。 「河津川河津桜の現状と課題河津川における河津桜の植樹状況は、下表等(表-1:河津桜の植樹状況一覧表、図-1:河津川 における河津桜植樹状況)に示すとおり、941 本のうち、679 本(約 72%)が川表(堤防を境にして河川側)に植樹されている。 植樹基準を満たさない堤防への植樹は、堤防の弱体化を招き、破堤・越水の原因となることが あり、堤防の安全性を損なう恐れがある。(図-2:植樹基準を満たしていない桜が堤防に与える 影響) 表-1:河津桜の植樹状況の一覧表(平成20年2月時点)「河津川の危険度と桜状況マップ上表の如く、941 本のうち、679 本(約 72%)が川表(堤防を境に して川側)に植樹されているとのこと。河津川の右岸、左岸別そして地域ごとに❀:川表側に植樹されている桜、❀:川裏側に植樹されている桜の本数が纏められている図をネットから。「植樹基準を満たしていない桜が堤防に与える影響川表側の「桜が倒木し、堤防が欠けると、堤防が破堤し浸水する恐れがある。」「桜が倒木し、流下阻害物となった場合、河川の水位が上昇し、堤防から水が溢れる(越水)する恐れがある。」と。「新たな桜並木の形成現在の河津川沿いの桜並木は、街中や河川背後地へ、 新たな桜並木の形成を検討していくことが必要である。 特に、河津川の背後地は、既に植栽帯を整備している場所や建物が立地している場所、農地等、様々な土地利用がされている。そのため、町全体の中でも河津川沿いをメインとする場所においては、桜のボリュームを下げないよう背後地に「2列・千鳥植栽」での新たな桜並木を形成することを検討している。 また、川沿いの美しい河津桜並木の景観も出来るだけ鑑賞期間を長くするため、引き続き既存桜の適切な維持管理を実施していくとともに、川表の桜については、伊豆縦貫道の発生土を活用した、背後の農地かさ上げによる対応も検討していくことにより、治水安全度向上にも寄与できるようなまちづくりとしていきたい。 町全体の桜計画策定については、桜の植樹年代や全体のネットワーク、治水・津波対策の整備必要区間を考慮しつつ、町全体の桜のボリュームを確保しながら決定 していく。」 と。要約すると●現在の川表の河津桜は、維持管理を十分に実施し、長寿命化を企図する。●現在の川表の河津桜は、新たな追加植樹は出来ないので、将来的には消滅する。●上記を考慮し、川裏側の農地を盛土し、2列・千鳥植栽による新たな河津桜並木の形成を 目指す。ということか。いつまでも、残しておいきたい早春の日本の姿・河津桜なのであるが。そして我が地域・引地川にも同様な問題が発生しそうな場所が。以下、2枚は昨年の引地川沿いのソメイヨシノの桜並木の写真です。このように、河川の川表側に桜が植樹され、人気の場所は日本全国に数え切れないほどあることは間違いないのである。再び現在の河津川の白き流れをズームして。そして再び河津桜の花見の報告です。「この橋は豊泉橋です」と。「河津川」には大きな黒い鯉の姿が。ズームして。左岸に戻って引き返す。人気の河津桜の大樹まで戻る。まだまだ多くのカメラマンの姿が。そして2月1日から2月29日まで、まつり開催期間中は毎日18:00~21:00に夜桜がライトアップ👈️リンクされるとのこと。以下の写真はネットから。「来宮橋」まで戻る。やきそば、たこ焼きの店。さらに「河津桜」のトンネルに向かって進む。再び菜の花とのコラボをカメラに収める。近づいて。再び「河津川」の白き流れを。「ぼくに話しかけてネ!ピョコピョコ動きながらものまねするヨ!一緒にあそぼう☆」再び菜の花とのコラボを。川原に白き鳥を発見。足指が黄色いので「コサギ」であっただろうか?ズームして。そして駐車所のある路地まで戻る。藍染の商品が並ぶ店舗。今年も「河津桜まつり」👈️リンク を大いに楽しみ、帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.23
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「かわづいでゆ橋」手前まで辿り着く。ヒヨドリであっただろうか?満開の「河津桜」が青空に映える。「かわづいでゆ橋」を歩く。左岸を振り返って。橋の上から下流方向を。上流方向を。2本のピンクの帯が緩やかに左にカーブして。さらにズームして。名所案内板。「かわづいでゆ橋」までとして、帰路は対岸を引き返すことに。「オオキバナカタバミ」であっただろうか?「二本三大寝釈迦霊場・涅槃堂」👈️リンク 案内板。民家の横にも大きな「河津桜」が満開なのであった。ここにも「河津桜」のピンクのトンネルが。「河津川」の水面を花越しに。小さな石祠。さらに下流に向かって進む。「音蔵の桜」はどれか分からなかった。ズームして。見上げて。「セグロセキレイ」が石の上に。全長21cm。全体が白黒模様のセキレイの仲間の鳥。頭から背と胸は黒色で、頭の黒色の中に額の白色が良く目立ちます。翼は白色部分が多く、腹は白色なので、飛ぶと白い鳥に見えます。着地の折には腰を上下に振ることが多く、セキレイ類の特徴の一つになっています。最近になって韓国での繁殖例が知られましたが、世界的には日本特産種と言ってよいでしょう。北海道から九州までの河川や池沼畔などに棲息し、海岸には出ません。飛行は上下に揺れる波型を描き、その時には「ジジッ ジジッ」といった濁った声を出しています。近年、日本では急速に分布を拡げているハクセキレイとの軋轢(あつれき)があり、個体数が減少する傾向にあります とネットから。人工的並べられた?石の場所が眼下に。川面に落ちた花びらが枝に捕まえられて。花筏(はないかだ)のミニ版か?やはり人工的!!目的は??ループ橋にあった「河津桜」案内板と同じものが。そして右手にあったのが「豊泉の足湯処」。峰温泉の河津川堤に、2003年2月オープン。目の前に続くトリムコースでハイキングや散策を楽しんだら、ここへ立ち寄ってリフレッシュしよう。2月に行われる河津桜まつりの会場のひとつでもあり、同時期にオープンした「さくらの足湯処」とともに、人々の交流の場として親しまれているスポットであると。散策の疲れを癒そうと思ったが、時間がなくて・・・。隣には温泉が湧き出していた。ズームして。「足湯時間 9:00~17:00」と。河津桜まつり開催時のみの足湯なのであろうか?この先にも、「河津桜」観賞用?の大きな石段が。見事なピンク色に染まって。「遊漁について漁業権漁種漁法あまご うぐい・・・・ルアー フライ テンカラ 餌釣にじます おいかわ ・・・・餌釣うなぎ ・・・・餌釣 もじりモクズかに ・・・・もじり1人3籠以内あゆ・・・・・・・・・掛針はイカリ針1段又はチラシ針3本以内のいずれか遊漁期間あまご うぐい ・・・3月1日より10月31日までにじますおいかわ・・・・・・・7月20日より2月末日までモクズかに・・・・・・10月1日より2月末日まであゆ・・・・・・・・・6月1日以降組合が定める日より12月3 1日までうなぎ・・・・・・・・3月1日より9月3 0日まで●鮎のエサ釣は下記期間のみ解禁となります。 ・7月20日から10月10日まで来宮橋から下流域 ・8月1日から10月10日まで河津橋から上流域●保護期間として豊泉橋よリ河口まで 10月11日以降は全面禁漁です。●空カン・ごみを川へ捨てないで下さい。 河津川非出資漁業協同組合」ルアー: ルアー(lure)とは、釣りで使用する疑似餌(おとり)です。 ルアーは、肉食魚のエサになる小魚や甲殻類(エビ)などに見た目を似せて プラスチックや木、金属などで作られています。ルアーを使って魚を釣るのが ルアーフィッシング。フライ: 小昆虫などを餌にして魚を釣ること。フライはハエの意であるが,一般には小昆虫を 模した擬似餌をいう。鳥の羽や髪の毛などを針に結びつけて仕上げるもので,日本では 在来から毛針(けばり),蚊針(かばり)と呼ばれてアユ釣りなどに使用されていた。 フライが水面に浮くものをドライフライ,水中に沈むものをウェットフライと呼ぶ。 イワナ,ヤマメ,アマゴ,ブラウントラウトなどの淡水魚を対象とする。テンカラ:テンカラとは、古くから日本で行われてきた毛バリ釣り。 水生昆虫や陸生昆虫などを模した毛バリ(針に毛を付けてエサに見せかけたもの)を 使い、ヤマメやアマゴ、イワナなどの渓流魚を狙います。 テンカラの仕掛けは非常にシンプル。1本ののべ竿に、1本のライン、1本の毛バリ だけを用いて、渓流魚とのスリリングな駆け引きを楽しみます。 ラインを太くし、毛バリのサイズを大きくすることで、本流域に潜む大型の渓流魚や ニジマスも狙えます。また、毛バリにアタックする魚の姿を間近で見られるのも、 テンカラならではの魅力といえるでしょうと、ネットから。釣りの方法に疎い私には良く解りませんが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.22
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そして私も「河津川」の河原に降りる。右手には、石段を踏み外し転げ落ちた妻を心配する夫の姿が。この後にお巡りさんも来たが、何とか夫に支えられて石段を上って行かれたが・・。二本のピンクの帯の曲線がどこまでも。低い位置から、菜の花と一緒に河津桜を仰ぎ見るのも目線が変わって面白いのであった。人工的に造られた河原か?河津川はこの時期・2月上旬から3月下旬にかけて河津桜の濃いピンク色で包まれるのであった。河津川沿い約4キロ👈️リンク には、河津桜約850本が立ち並んでいるのであった。河原で記念撮影されている方々。下流側方向を振り返って。ズームして。山の名は「天嶺山・349.8m」と。川には多くの大きな石の姿があったが、人工的に置かれたものか?「田中親水園地周辺案内図」。田中親水園地にはトイレ施設もあるので、休憩のポイントになるのであった。さらに上流に向かって。テレビ中継も行われていた。テレビ朝日「大下容子ワイド!スクランブル」か?時間は10:46。この河津桜の木を背景に放送中。静岡朝日テレビ・林輝彦アナウンサー?右手奥に菜の花畑があった。ここにも河津桜が欲しいと身勝手に!!廻り込んで河津桜とのコラボを。西洋ミツバチの姿も。上手く撮れました。「河津川」の西・「峰温泉大噴湯公園」近くの山の斜面にも「河津桜」が一面に開花中。ホテル「玉峰館」からの景観用のものか?「峰温泉大墳湯公園」➡️800m、「涅槃堂」👈リンク 630m と。さらに「かわづいでゆ橋」に向かって進む。しばし、ノーキャプションにて、河津桜を愛でていただきたく。花にズームして。前方に色の濃い、赤い桜の花が開花を迎えていた。琉球寒緋桜(かんひざくら)に似ていたが。本州で桜といえば「ソメイヨシノ」が一般的だが、沖縄で桜といえば「寒緋桜」。この「寒緋桜」は、ひと足早く1~2月にシーズンを迎えるのですが、その姿を見た人の多くが「梅? 」と思いがちですが、実は「寒緋桜」……。花びらの色は濃いピンク。花の向きは下向き、さらに、桜吹雪といわれるソメイヨシノのような「散り方もなく、ボトッと花が木から落ちるのも、寒緋桜ならではの特徴とのこと。蕾をズームして。メジロの姿を発見。メジロを追いかけるが、なかなか・・・・。「周辺案内図」。ズームして。「かわづいでゆ橋」の手前。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.21
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「来宮橋」から対岸の河津桜を見る。そして再び河津川左岸を上流に向かってさらに進む。川の右左は、上流から下流に向かって右側が右岸、左側が左岸と決められている。そしてこの日の一番人気の見事に開花している河津桜の大樹。多くのカメラマンの姿が。ズームして。さらに進む。「スチールタングドラム」👈️リンク を演奏する若者の姿が。現地で採れたフルーツの販売。メジロの鳴き声が聞こえるが姿は・・・?対岸を見る。ズームして。「日本三大和牛 米沢牛(よねざわぎゅう)」。米沢牛は、山形県置賜地方で飼育された黒毛和種の未経産雌牛の牛肉。米沢牛銘柄推進協議会が認定した生産者が、登録された牛舎で18か月以上飼育された牛肉のみが米沢牛として認められているのだと。食べ物の露店が並ぶ。地元生産の柑橘類売り場。肉、やきそば、だんごと、この周囲は香り豊かに。前方に「豊泉橋」が垣間見えて来た。そして「豊泉橋」から「河津川」の「河津桜」の並木を見る。ズームして。「豊泉橋」からの左岸を見る。左岸をさらに上流に向かって。「河津桜ビール」があったが・・・!!「桜色」のビールです。桜咲く春風薫るお酒です と。遊歩道脇の花壇も綺麗に管理されていた。さらに「かわずいでゆ橋」方向に進むと前方に河原に降りる大きな石段があった。そしてその河原から「河津桜」の絶景を楽しむ多くの人の姿が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.20
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「旧天城トンネル(天城山隧道)」を後にして、ひたすら国道414号を南に進む。途中、「河津七滝ループ橋(七滝高架橋)」に立ち寄る。河津七滝ループ橋は「かわづななだるるーぷきょう」と読む。大きな2重ループ橋(道の高低差を2重らせんで継いだ高架橋)です。地震による土砂崩れの教訓を生かして採用された工法によって生まれたもの。全長1,064m、高低差45m、直径80m。昭和56年以来、河津の名所になっているのだ。駐車場に車を駐め散策開始。「河津七滝ループ橋(七滝高架橋)」の周囲の河津桜も満開間近になっていた。720度・2回転するループ橋を見上げて。ループ橋ができる前は東側の山の中をつづら折れになった国道が通っていたが、1978年の伊豆大島近海地震の際に起こったがけ崩れをきっかけにして、このループ橋が作られた。険しい天城の山を克服するための人々の工夫のひとつ。ループ橋は、その構造や耐震性が評価され、土木学会田中賞を受賞。下図が河津七滝ループ橋周辺の地図。赤いラインが国道414号線であるが、地図のほぼ中央で円を描いているのが分かる。これが、河津七滝ループ橋。そして、緑色のラインが河津七滝ループ橋ができる前の「旧道」👈️リンクとなる。ループ橋下の河津桜をカメラで追う。720度・2回転するダイナミックな直径80mのループ橋の上空からの映像をネットから。ループ橋下に駐車場が見える。中央に移動して見上げる。メジロの姿が。「河津桜カワヅザクラはわが国のサクラの中では早咲きの桜です。開花時期は天候等に左右されますが毎年1下旬から開花が始まります。開花期間は約1ヶ月と長期に及び他の桜にない特徴がみられます。河津桜の原木は、河津町田中の飯田勝美氏(故人)が1955年(昭和30年)頃の2月のある日河津川沿いの冬枯れ雑草の中で芽咲いているさくらの苗を見つけて、現在地に植えたものです。1966年(昭和41年)から開花がみられ、1月下旬頃から淡紅色の花が約1ヶ月にわたって咲き続け注目を集めました。伊東市に住む勝又光也氏は1968年(昭和43年)頃からこのサクラを増殖し、このサクラの普及に大きく貢献しています。一方、県有用植物園(現農業試験場南伊豆分場)は、賀茂農業改良普及所、下田林業事務所(現伊豆農林事務所)や河津町等と、この特徴ある早咲き桜について調査をし、この桜は河津町に原木があることから1974年(昭和49年) (カワヅザクラ(河津桜)と命名され、1975年(昭和50年)には河津町の木に指定されましたカワヅザクラはオオシマザクラ系とカンヒザクラ系の自然交配種と推定されています。まだ肌寒い時期にお花見がいち早く楽しめる「河津桜まつり」は毎年2月上旬から3月上旬まで開催され1ヶ月で100万人もの来場者で賑わいまた夜にはライトアップされた幻想的な河津桜が楽しめます。」河津桜原木カワヅザクラの原木は、伊豆急河津駅から駅の横を通る町道大堰浜線を天城山に向かって1 .2kmの地点、河津町田中飯田氏宅の庭にあります。2009年現在樹齢約61年、樹高10m、樹巾約10m、幹周約115cmの通称「小峰の桜」河津桜原木物語昭和三十年頃の二月のある日この家の主であった飯田勝美氏が河津川沿い(豊泉橋上流の田中地区側)の冬枯れの雑草の中で芽吹いていた約一メートル位育った桜の若木を偶然みつけて庭先に植えた事が始まりでした。約十年後の昭和四十一年一月下旬やっと花が咲き始めました。同年四月、主の勝美氏は花が咲くのを見届け永眠しました。後にきれいに咲く桜を見て譲ってほしいという話もありましたが、思い出の桜の為手放さなかったそうです。当時、この家の屋号からこの桜は「小峰の桜」と呼ばれ親しまれてきました。その後の調査で新種の桜とわかり昭和四十九年に河津で生まれた桜であることから「河津桜」と命名され昭和五十年四月河津町の木に指名されました。」「全建賞我が国の良質な社会資本整備の推進と建設技術の発展を促進するため(社)全日本建設技術協会により昭和28年い953年)に創設された歴史と伝統のある賞で毎年優れた建設事業を実施した機関に授与されるものです。七滝高架橋耐震補強工事はその技術が認められ平成28年度の道路部門において受賞しました。 平成29年6月 静岡県 下田土木事務所田中賞土木学会における、橋梁工学の権威者田中豊氏(1888~1964)の意志と功績をしのび制定された賞て優秀な橋梁及び関連する構造物に対して授与されるものです。この賞は土木学会においては高く評価されている賞で七滝高架橋( ループ橋)建設の技術が認められ1982年作品部門において受賞されたものです。 昭和57年6月 静岡県 土木部」ループ橋の支柱の立つ斜面にも河津桜が拡がっていた。中央の特設ステージは建設作業中であった。ズームして。河津桜まつりの開催期間中、河津七滝ループ橋に特設ステージが出現!2月18日(日)15時から、“旅のSPAC一座”による『伊豆の踊子』👈️リンク パフォーマンスを上演いたします。劇団SPACと演出家の多田淳之介がタッグを組み、川端康成の小説を舞台化した観光演劇『伊豆の踊子』。2023年10月~ 2024年2月下旬まで静岡、下田、修善寺、浜北、沼津と、静岡県内各地を大好評ツアー中です。旧天城トンネルや川端康成も滞在した湯ヶ野温泉の老舗旅館「福田家」など、原作の聖地である河津町。その目玉イベント・河津桜まつりで、『伊豆の踊子』出演メンバーが30分の野外パフォーマンスをお届けします! とネットには。「伊豆の踊子」パフォーマンスの様子をネットから。車に戻りながら。ライトアップの写真をネットから。そして国道414号、県道14号線を30分ほど走り「河津桜まつり駐車場」に到着し駐車料金1000円を支払い、散策開始。静岡県賀茂郡河津町笹原91−23付近。「河津桜」は、濃いピンクの花を咲かせ満開で、私たちを迎えてくれた。「今年・2024年」の「河津桜まつり」のポスター。「河津桜の特色落葉高木、樹形は広卵状で樹皮は紫褐色で光沢があり、若枝は褐色、無色。葉は開花後に展開する。成葉は倒卵状楕円形で先は尾状鋭尖形、基部は円形、長さ12.5~15.0cm、巾6.0~6.8cmで厚い。縁は単鋸歯だが、重鋸歯が混じり、鋸歯の先は芒状、腺はない。表面は濃緑色、裏面は淡緑色、両面ともに無毛。側脈は約10本。葉柄は長さ2.0~2.2cmで無毛、上部に一対の蜜腺がある。托葉は長く、分岐多い。(日本サクラの種・品種マニュアル<財>日本花の会)」と。こちらも「今年・2024年」の「河津桜まつり」のポスター。春を求めて、毎年多くの人が訪れる大イベント「河津桜まつり」が2/1(木)~2/29(木)の期間で開催されていたのであった。桜の木の本数は、河津川沿いだけでも約850本、敷地全体ではなんと約8,000本になるという。その数全てが満開になった風景はまさに圧巻の一言。菜の花も彩りを添え、春色の景色が一面に広がっていたのであった。「河津桜」マップ。河津川の遊歩道の横にあった店には様々な手作りのつるし雛が展示販売されていた。静岡県東伊豆町稲取の雛のつるし飾りは日本三大つるし飾り(福岡県柳川市:さげもん、山形県酒田市:傘福)のひとつでもあるとのこと。五段雛飾りも。2月1日から静同県河津町て始まった河津まつりですが、12日に「見頃宣言」が発表され、大勢の観光客て賑わっていたのであった。河津川沿いに立ち並ぶ約850本の河津桜。例年にない早さて花が開き、河津桜まつりの実行委員会は12日に早くも「見頃宣言」を発表していたのであった。2/10~13日の連休となった会場は大勢の観光客で埋め尽くされ、写真を撮ったり団子を食べたりして早咲きの桜を楽しんでいたのだ と売店のオバチャンから。菜の花とのコラボも見事な情景。これ以後、しばしシャッターを切る手が止まらなかったのであった。「河津川」の上流に向かって河津桜のトンネルになっている遊歩道を進む。今年は雲一つない青空。「河津桜」の魅力は、早咲きの桜であることと花色。ソメイヨシノの淡いピンクに比べ、はっきりとした明るいピンク色。「河津桜」はソメイヨシノと同じように花の後から葉が出て来る山桜の種類などは花と葉が同時に出て来るので、葉の出るタイミングが違うのだ。「河津桜」は、花が咲いている間は木全体が花で覆われたようにピンクに染まって見えるのだ。歩いて来た遊歩道を振り返る。こちらの樹の上部はこれからの開花。そして全体が満開の樹が続く。「河津川」の川面を。菜の花とのコラボを再び。菜の花の黄色と、「河津桜」のピンクの色合いが美しいのであった。河津川の清水の白き流れを。河津桜の一番の特徴は、「長く咲く」ことと「花びらの変化」。パッと咲いてパッと散ってしまうソメイヨシノとは違い、河津桜は約1ヶ月に渡って咲き続けるのだ。また、つぼみや咲きはじめは濃いピンク色をしていますが、満開時にはピンク色、そのあとはだんだんと色褪せていくので、見頃は六~七分咲き頃だと言われてはいるのだが。対岸には巨大な土嚢袋が積み上げられていた。護岸堤防の補強工事用であろうか?遠く山の上には風力発電装置が。「ユーラス河津ウインドファーム」は静岡県伊豆半島の賀茂郡東伊豆町と河津町境界に位置する三筋山山頂付近に設置された風力発電所である。三筋山山頂付近から尾根伝いに10機の風車が設置されているとのこと。総出力 16.7MW風車数 10基運転開始 2015年5月「河津町立河津中学校」の横を通り進む。時間は9:30、人出も増えて来た。右側の堤防上には土産物屋が並ぶ。「金目鯛ひもの」売り場には人の列が。更に進む。こちらは「さくら満開餅」。桜の花の塩漬けも付いていて甘さも程よく!!河津桜の苗木の隣には「ミモザ」の苗木も。春の訪れを告げる花として知られる、ミモザ。黄色の小さな花々が印象的なミモザは、ドライフラワーや結婚式のブーケとしても人気で、イタリアでは男性が女性にミモザを贈る風習も。ミモザの日とは、3月8日に国連が制定した「国際女性デー」の別名。女性の社会的地位や権利を守り、女性のすばらしい活動と勇気ある行動を世界的に称える日です。イタリアでは、国際女性デーに男性から女性にミモザを贈る風習がありました。この文化は世界中に広まり、ミモザの日として定着していったといわれています。ミモザを贈られた女性は、ミモザを胸や髪に飾るだけでなく、仕事や家事、育児からつかの間離れて、お出かけや外食を楽しむと。「生わさび」2本で1500円と。前方に朱の色の橋が見えて来た。河津川に架かる「来宮橋(きのみやばし)」。「来宮橋」に到着し、橋の上から河津桜の絶景を見る。静岡県河津町峰にある来宮橋は、河津川沿いに咲く河津桜を鑑賞できる穴場スポット。この橋から東に200mほど進むと「川津来宮神社」が鎮座しているのだ。来宮橋から荒倉橋までの区間には桜並木と菜の花ロードが続き、桜並木のピンクと菜の花の黄色が美しい景観をつくっていたのであった。川辺へ降りれば、河津桜を見上げるようにして観賞することもできたのであった。堤防上から「河津桜」の巨木が、川を覗き込むように枝が伸びて。この橋は「来宮(きのみや)橋です」と。「峰温泉大噴湯」まで1kmと。「東洋一を誇る峰温泉の大噴湯」は大正15年11月22日正午、爆音と共に地上約50mの上空を突き刺し誕生しました。以来90年以上ひとときも絶えることなく噴き上げ続けています。毎分600リットル100度の温泉が高さ30mまで噴き上がる自噴水です。また、温泉で大噴湯たまごを作ったり足湯を楽しんだり出来ます と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.19
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左手にピンクの「しだれ梅」。 近づいて。「澤田政廣記念美術館」への「梅園橋」から「初川」に架かる「香浮(こうふ)橋」を振り返る。「梅園の入園券」で無料で「澤田政廣記念美術館」を見学できると。熱海出身の文化勲章受章者・澤田政廣(さわだせいこう)の代表作品を集めた「澤田政廣記念美術館」。本名、寅吉。文化勲章受章芸術家、熱海市名誉市民。熱海の海辺に育ち19歳で彫刻家を志し、高村光雲(たかむらこううん)の高弟山本瑞雲(やまもとずいうん)に師事しました。93歳で没するまで、多くの木彫作品をはじめ、絵画、陶芸、版画、書など、さまざまな芸術領域にわたり創作しました。力強く生命感と詩情にあふれた作品は、人々の胸に多くのロマンを語りかけます と。澤田政廣記念美術館に入る前に梅園からの通路にある作品。二人の裸婦が近寄って。「黄泉(よみ)のしこめ」👈リンク 昭和31年(1956)。ズームして。何かヒソヒソと語りあっているのであろうか?建物を取り囲む大きな壁にある穴からは女性像が。地中深く埋もれていた大きな岩の魂が突然地上に現れたが如き壁の姿。「ともしび・昭和21年(1946)」。ズームして大きな壁を廻り込んで。近づいて。「ろうそく」を灯した皿を持つ女性像。「蒼穹・あおぞら 昭和35年(1960)」。 「蒼穹・あおぞら 昭和35年(1960)」。ピンクの花の下に、横たわる男の像。「傷つける武人 昭和35年(1960)」。「傷つける武人 昭和35年(1960)」「澤田政廣記念美術館」を正面から。 人魚像・「海の讃歌」👈リンク。「海の讃歌 昭和38年(1963)」。 そして館内へ。館内は撮影禁止であったため、以下の写真はネットから(順不同)。玄関ホール天井の「飛天」。「隠者(いんじゃ)」という高さ265センチメートルもある大きな作品。長嶋茂雄選手の胸像。多くの「常設展示作品」👈リンク が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.06
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「あたみ桜・糸川桜」を楽しんだ後は、「熱海梅園」に向かう。「日本で最も早咲きの梅、そして最も遅い紅葉と言われる熱海梅園。梅は樹齢100年を超える古木を含め60品種・469本、紅葉樹は約380本もあり、のんびり散歩をしながら自然美を堪能できる場所です。1月上旬~3月上旬の梅まつり、5~6月の新緑、11月中旬~12月上旬のもみじまつりと、四季折々で楽しめます。熱海梅園は、内務省の長与専斎が、「温泉がよく病気に効くのは、ただその中に含まれている塩気や鉄精にばかり頼らず、適当な運動をするからである」(「熱海風土記」梅園記より)と、提唱したことから造成され、1886年(明治19年)に開園しました。温泉保養地として栄えた熱海文化の、重要な一端を担っています。」と。駐車場に車を駐め、「熱海梅園」入口に。「熱海梅園」入口のピンクの梅の花は5~6分咲き。入園料は一般300円、団体(11名以上の場合)200円、市民・熱海市内宿泊者100円、中学生以下無料※梅まつり期間中のみ有料。「1886年(明治19年)に開園した熱海梅園は、 日本で最も早咲きの梅として有名です。毎年11月下旬~12月上旬には、第一号の梅の花が開花します。樹齢100年を越える梅の古木を含め、60品種・469本の梅が咲き誇り早咲き→中咲き→遅咲きと、順番に開花。梅まつり期間中、梅を存分にお楽しみいただけます。期間中、園内には足湯や土産店もオープン。 日によって熱海芸妓連演芸会や大道芸、歌謡ショー、甘酒無料サービスなどのイベントを実施予定」と。「第80回熱海梅園 梅まつり令和6年1月6日(土)~3月3日(日) 8:30~16:00」と。「熱海梅園」内に入る。「熱海まち歩きガイドの会」が「臨時手荷物預かり所」を運営。さらに、黄色のジャンパー姿で梅園入り口付近で無料ガイド活動を展開。40分で園内をぐるっと一回り。園内の見どころをご案内してくれるとのこと。この白梅は満開間近か?近づいて。「初島漁師の丼合戦2024年2月10日(土)~3月10日(日)」熱海港から定期船で30分!リゾートアイランド”初島”で開催。獲れたての海の幸を堪能できるグルメイベント「丼合戦」は、島の漁師が営む食堂を中心とした島内の13店舗が、獲れたての地魚やイカ、エビ、伊豆の名産野菜アシタバなど、旬の食材をふんだんに使った思い思いの「オリジナルの丼ぶり」をふるまう、島を挙げての冬の恒例グルメイベントであると。老木梅の下に「大塚実氏顕彰記念碑熱海梅園は内務省の初代衛生局長であった長与専斎の提唱を受け、横浜の豪商・茂木惣兵衛氏が私財を投じ、明治19年に開園したものです。爾来120余年の歳月が流れ、往時の優美な姿が失われつつあった中、熱海由縁の実業家大塚実氏の私財提供を受けて、開園以来の大規模な工事が行われ、清流初川の渓流を挟んで、晩秋の紅葉と早春の梅花、そして初夏の新緑と夏の夜に乱れ飛ぶ蛍の光が、その景観美を競うという、新しい梅園に衣更えいたしました。ここに熱海梅園を見事に再生させた大塚実氏へ心からの感謝の意を表するとともに、この梅園を永く守り育んでゆくことを誓います。 平成二十一年十一月吉日 熱海市長 齋藤 栄」」花に近づいて。蕾にも近づいて。「熱海梅園」内の「初川」の流れ。「案内標識」に従い進む。「熱海梅園のご案内」。ズームして。<2024年梅の開花状況>2/1現在 全体見頃全体(60品種・全469本)445本開花 →5.86分咲上記のうち・早咲き(全270本)267本開花 →7.03分咲・中咲き(全102本)100本開花 →6.51分咲・遅咲き(全97本)78本開花 →1.88分咲開花している品種(早)矮生冬至、鴛鴦、小田原十郎、鹿児島紅、甲州最小、十郎、新冬至、玉牡丹、唐梅、 緋の司、未開紅など(中)青軸、青竜枝垂、梓弓、鶯宿、大盃、鬼桂花、呉服枝垂、御所紅、酔心梅、長束、 紅牡丹枝垂、満月枝垂、三吉野など(遅)曙、思いのまま、見驚、白加賀、白滝枝垂、玉垣枝垂、月影、花香美、藤牡丹枝垂、 紅千鳥、養老、乱雪、佐布里梅など「中央広場」から。「貫一お宮の梅」。手前は「貫一の梅(白梅)」。「貫一お宮の梅 金色夜叉 第七章「熱海は東京に比して温かきこと十餘度なれば、今日漸く一月の半を過ぎぬるに、梅林の花は二千本の梢に咲き亂れて・・・・・宮は母親を連立ちて入來りぬ・・・・・」 明治の文豪尾崎紅葉の小説金色夜叉では、貫一とお宮とその母と、宮をよこどりした富山の四人の初の出逢いが梅園です貫一とお宮の梅はこれに因んで植えられたものです。貫一の梅(白梅)・十郎梅お宮の梅(紅梅)・紅千鳥」 「貫一の梅」に近づいて。「お宮の梅」は未だ開花していなかったのでネットから。貫一の梅が散るころにお宮の梅(紅千鳥)がさきだすそうです。「第14回全国梅サミット記念植樹」。「献上梅」。12月23日の上皇さまの誕生日に、静岡県熱海市が毎年贈っている「献上梅」と。ここにも「案内板」が。「松尾芭蕉の句碑」。『梅が香に のっと日の出る 山路かな 芭蕉』【早春の夜明け方、山道を歩いていると、どこからか梅の香が漂って来た。折しも、山並みの向こうから朝日がぬっと昇って来た】と。「松尾芭蕉の句碑梅が香に のっと日の出る 山路かな「梅が香に・・・・」の句は元禄七年、芭蕉が五十一歳の時、七部集の第六集として、門人が発刊した「炭俵」の上巻に納められている。これは門人である「志太野波(やは)」、「小泉狐屋(こや)」、「池田利牛(りきゅう)」、「服部乱雪(らんせつ)」等が、翁の旅立ちを記念するための句会の席上、連句の主座として発句したもので、翁の「むめ(梅)が香にのっと日の出る山路かな」のあとを、野波がすかさず「ところどころに雉の啼きたっ」と付けている。その野波が「家晋請を 春のてすきに とりついて」と続け、これに芭蕉が「上のたよりにあがる米の値」と付けている。芭蕉が熱海に来たことがあるかは分からないが、梅園に隣接していた撫松庵(ぶしょうあん)の高台から見た光景が思い描ける句である。建立者 小松精一氏(熱海の先覚者の一人) {熱海温泉いしぶみ巡りより抜粋}。紅梅も今が盛りと。食べ物の売店も出店中。美味しそうな「塩豆大福」、「よもぎ絵巻餅」。満開に向かって。梅園五橋と呼ばれるのは、漸佳(ざんか)橋、迎月(げいげつ)橋、雙眉(そうび)橋、駐杖(ちゅうじょう)橋、香浮(こうふ)橋の5つ。雙眉(そうび)橋を見る。駐杖(ちゅうじょう)橋は唯一朱色に塗られた印象深い橋。近づいて。「初川」に生えているのは山葵であっただろうか。2基の石碑が。「武田鶯塘(たけだおうとう)」句碑。「錦浦観潮 夏すでに 漲る(みなぎる)汐の 迅さかな」。「澤田政廣記念美術館のお知らせ令和5年12月22日(金)~令和6年4月21日(日)物語や伝承を題材として制作された作品を中心に展示します。澤田政廣のイメージから生まれた、描画と立体作品をご覧ください。」。山葵田?の先に「梅見の滝」。ズームして。さらに。滝の裏側に入って。滝の裏側の通路。大きな穴から落下する滝の姿を裏側から。滝の裏側から出て、再び滝を斜めから。正面から、モミジ越しに滝を見る。香浮(こうふ)橋。「茂木氏梅園記念碑」の上部には「茂木氏梅園記」と。「茂木氏梅園記碑文の日本読 内閣総理大臣兼宮内大臣従二位勲一等伯爵 伊藤博文 篆額」「茂木氏梅園記の要約初代総理大臣 兼 宮内大臣従二位 伯爵 伊藤博文 篆額温泉がよく病気に効くのは、ただその中に含まれている塩気や鉄精にばかり頼らず、 適当な運動をするからである。 もし、一日中室にいて、温泉に浸かっていたら倦きもし、疲れもして、養生にならない。山に囲まれ、東南に海を臨む熱海は、温泉で知られている。人々は斜面を削って家を建て、そこに住んでいる。また、東京から遠くなく、その上、気候が温暖なため冬から春にかけて多くの都会人が来浴する。私は、初めてこの地に足を運び、山を巡ってまちの西側を散策すると、起伏に富んだ景色のよい場所を見つけた。そこは清流が乱石にぶつかり、その発する音は風雨のようで、分れたり、合流しながら勢いよく葦藪(よしやぶ)の間を流れ下っている。清流の西側に松や檜がうっそうとした丘があり、そこに登って休んだ。振り返って見ると、あたりはのどかに落ち着き、しばらく帰ることを忘れていた。明治十八年(一八八五)四月、岩倉具視大臣の命令を受け、噏滊館を落成させた。私は、「この地の温泉の効用は顕著であり、今、この館が完成して療養施設は備わったが、保養の場所がないのが残念である」と人々に説いた。そして、前に見つけた場所について話し、そこを造成することを提唱した。すると、中山保次郎神奈川県議会議員が進んでこれに賛成し、横浜の茂木惣兵衛にもちかけた。すると惣兵衛は喜んでこれに応じ、中山氏及び地元の日吉、小松、露木の諸氏と相談してその事業に乗り出した。草木を伐採し、穢れを流し、地形にならって梅三千株や松・杉・楓・柳を植栽した。すると、清流は益々清く、趣のある岩もたくさん出てきて、山水花木、四季の眺めも美しくなった。高みに四阿をつくり、流れには小橋を架け、遊園の設備も整った。人々はここに集まり、酒を酌み、詩を吟じ、全てを忘れ、心なごみ、楽しむことができる。これでこそ、初めて温泉養生の効用を完全に引き出したといえよう。梅を最も多く植えたので、「茂木氏梅園」といわれる。茂木氏は豪商であり、どんなことでもできるだろうが、彼はそうせず、私財を投じてこの事業をおこない、それを私することなく大衆のために開放した。実に偉いではないか。さらに、この花木泉石の名勝は、単に風雅な遊びに適しているばかりでなく、国のために尽くしている人々の疲れを癒し、志気を壮大にし、発想をあらたにさせることができる。その効果は非常に大きい。以上を記し、来園者に伝える。 明治ニ十年四月内務省衛生局長 兼 元老院議官従四位勲三等 長與専斎 撰 市河三兼 書 宮亀年 刻【碑の裏側に】茂木氏がこの園の造成に取り掛かると、横浜の平沼専蔵、朝田又七の両氏も資金を提供するなど協力したことも伝えるべきだ。東京の庭師小川九兵衛が工事を監督した。もともとの天与の地の利もあるが、工事が完成して眺めると、益々素晴らしく、工事にかかわった人々の努力や苦労も忘れてはならない。このことも碑の裏側に氏名などを記し後世に伝える。 専斎又記す」さらに奥に向かって進む。可愛らしいスイセンに似て。「ペチコートスイセン」と、 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.05
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前方にあったのが「新柳橋」。ここにも今年は提灯が。「あたみ桜」と「河津桜」の比較をネットから。熱海桜は花弁が濃いピンク色で花が大きいのが特長。花の中心が更に濃く。濃いピンクのブーゲンビリアも負けじと!!私も見てよ!!と。再びメジロの姿をカメラで追う。メジロが来る桜は寒桜系、寒緋桜系、河津桜、オカメ桜、大島桜などでソメイヨシノには来ませんとネットから。沢山の「メジロ」の他に「ヒヨドリ」が集まり、桜の花蜜を吸っていましたが、なぜなのか、沢山の「スズメ」も飛来して、桜の花びらを散らしていた。良く、観察して見ると・・・、「スズメ」は桜の花の付け根の子房を食べて、花びらを食べ散らかしているようであったが。密の味が其々の場所で違い、鳥によって好みが違うのであろうか?そして再びオブジェが。タコが逃げるかのように。実物大のタコが今にも動き出しそうに!!これでもかの紺碧の青空を背景に。これが瓦斯灯であっただろうか。「あたみ桜「あたみ桜」は、明治4年(1871年) 頃イタリア人によって熱海にもたらされたと伝えられています。その後、先人たちの努力によて殖やされ、現在は市内各所に植栽されています。「あたみ桜」の品種のルーツは、沖縄原産のカンヒザクラと関西以西の暖地帯に自然分市するヤマザクラとの自然雑種であり、開花期は1月で沖縄のカンヒザクラと並んで日本で最も早ぐ花が咲きます。また、ひとつの枝に早期に開花する花芽と後期に咲く花芽が形成されるため、開花期間が1ヶ月以上と長いのが特徴です。(一般的な桜の開花期間は1 ~ 2週間)市制40周年にあたる昭和52年4月には、「市の木」に制定されました」「糸川」を覗き込むが如くに枝を伸ばして。花がモコモコと塊になって咲いて。「ヒラメ」が居眠りしているが如くに。桜の花びらが浮かぶ水盤には清水が湧き出して。姉がヒラメの目の上に浮かんでいた花を!!びっくりしたが如くに急に目が覚めた!!メジロが忙しそうに!!蜜を吸って。再びブーゲンビリアとの競演を。ここにもオブジェが。「蟹」と「マンボウ」。巨大な「蟹」。「マンボウ」。花にズームして。「熱海桜 夜会」ポスター。「日本で最も早く咲く「あたみ桜」の見頃に合わせ、昭和レトロの趣が残るスポットで「熱海桜 夜会」を開催。イベント期間中は糸川沿いのライトアップだけでなく、提灯モニュメントによる演出で、夜桜を幻想的に演出すると。また、文豪が逗留したことでも有名な「起雲閣」や、古き日本文化を体験できる「芸妓見番」での特別イベントも実施。二週間の昭和レトロ体験、お見逃しなく!」と。【糸川遊歩道】 あたみ桜ライトアップ+提灯モニュメント(1/27~2/12迄 16:30~23:00) 立ち飲みカウンター(1/27~2/12 16:30~19:00)【起雲閣】 浴衣や昭和レトロ衣装を着用した写真撮影(1/27~2/12 14:00~16:00受付) 3000円~ ※プランにより異なります【熱海芸妓見番】 演舞鑑賞、演舞鑑賞+寿司、演舞鑑賞+寿司+お座敷体験(1/27~29、2/2~2/4、2/9~12) ※5日前 までの予約対岸にあったベンチをズームして。上手く撮れました。石段を下りて糸川の流れに近づいて。ここにも鳥の姿が。国道135号に架かる「糸川橋」も見上げて。両岸に、糸川の川面に下りられる石段が設置されているのであった。手前がブーゲンビリアでがなく、真紅の桜であったらと妄想!!ズームアップして。河津桜にはない色合いの景色を楽しむ。「糸川橋」を振り返って。「柳橋」。手前に「渚歩道橋」その先に「熱海渚橋」。熱海城をズームして。更に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.03
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今年も前日のテレビニュースで熱海・糸川桜が例年より早く満開を迎えているとのことで、一昨日の1月31日(水)に車で行って来ました。7時に自宅を出発し、西湘バイパス、国道135号を利用して、8:30過ぎに「熱海親水公園」の駐車場に到着し、散策開始。早咲き「あたみ桜」の名所とされる熱海市中心街の糸川遊歩道。例年1月初めから1カ月程度、濃いピンク色の花を咲かせているのだ。糸川に架かる国道135号の「熱海渚橋」。ポスター「第14回あたみ桜 糸川桜まつり」 2024年1月6日(土)~2月4日(日) ライトアップ 16:30~23:00「第80回熱海梅園 梅まつり」 2024年1月6日(土)~3月3日(日) 8:30~16:00 入園料 一般300円⽷川沿い(57本)、さくらの名所散策路(87本)、梅園前市道(23本)、海浜公園(11本)、渚⼩公園(15本)、親⽔公園渚デッキ(17本)ほか、サンレモ公園、釜鳴屋平七像、梅園内、市役所花ひろば、貫⼀ホテル斜め前、伊⾖⼭国道交番前、姫の沢スポーツ広場駐⾞場前、来宮駅前などで開花中と。ここ「糸川べり」には熱海市中央町の「赤線」があったことを知ったのは初めてこの桜を見に来た時。糸川沿いの右岸を上流に向かって進む。この日の朝は雲一つない晴天で、「あたみ桜」が朝の陽光に輝いていた。早朝のため、まだまだ人の姿は少なかった。前方に見えて来たのが欄干の「波」頭にカモメがいる「柳橋」。「柳橋」に近づいて。見上げて。熱海桜は花弁が濃いピンク色、特に花の中心部がさらに濃く花が大きいのが特長で、 カンヒザクラとヤマザクラとの雑種と推定されているのだと。「あたみ桜開花期 1月~2月特徴 開花期間が1ヶ月間と長い 熱海市」「あたみ桜」は、開花期が1月と沖縄の寒緋桜と並んで日本列島で最も早咲きで、早咲きの桜として注目を集める河津桜より約半月~1カ月早く咲きます。開花期間が長い理由としては、花のつき方が、ひとつの枝に早期に開花する花芽と後期に開花する花芽の二段構えに形成されているためである とネットから。「柳橋」の欄干を見る。今年の「あたみ桜」は、例年より色が濃いとテレビのニュースでは。ゆっくりとズームして。糸川の堤防壁には熱海の海の姿・魚やカモメが。国道135号に架かる「糸川橋」の先にある「あたみ桜基準木」が姿を現した。南西方向の山の上には!?ネットで調べてみると「崇教真光(すうきようまひかり) 熱海遥拝所」と。「あたみ桜基準木」。案内柱「あたみ桜基準木 平成20年12月選定」と。「あたみ桜「あたみ桜」は、明治4年(1871年)頃イタリア人によって熱海にもたらされたと伝えられています。その後、先人たちの努力によって殖やされ、現在では市内各所に植栽されています。「あたみ桜」の品種のルーツは、沖縄原産のカンヒザクラと、関西以西の暖地帯に自然分布するヤマザクラとの自然雑種であり、開花期は1月で沖縄のカンヒザクラと並んで日本で最も早く花が咲きます。また、ひとつの枝に早期に開花する花と後期に咲く花芽が形成されるため、開花期間が1ヶ月以上と長いのが特徴です。(一般的な桜の開花期間は1 ~ 2週間)市制40周年にあたる昭和52年4月には、「市の木」に制定れました。」基準木の下には真赤なブーゲンビリアの花も。「熱海桜」碑。花の色が濃い場所と、薄い場所が複雑に分布。その理由は?陽光の影響か?再び真赤なブーゲンビリアの花をズームして。さらに。常夏を思わせる鮮やかな赤色の「ブーゲンビリア」。風に揺れるやわらかな質感も魅力。ひとあし、いや、ふたあし、みあし早く、既に初夏を感じる光景なのであった。さらに糸川遊歩道を上流に進み、「あたみ桜」をカメラで追いかける。石のベンチは草木に覆われていた。更に「あたみ桜」を追って。そして今年の「桜橋」には提灯が。これぞ八重の鈴なり、いや鈴咲き。ズームして。歌碑があった。読めない!!しかし、ちゃんと「案内板」が!!「ちかき山 ゆきはふれゝと 常春日 あたみのさとに ゆけたちわたる せいえう熱海をこよなく愛した坪内逍遥は、明治四十五年春ここ糸川べり荒宿に、別荘を新築した。やがて時移りこの地も栄え、夜ごとのざわめきを避けて、大正九年水口に移り双柿舎を営み、ひたすら文筆に明け暮れ、昭和十年、七十七歳の多彩多難な生涯を終えた。シェークスピアの完訳をはじめ、小説「当世書生気質」戯曲「桐一葉」「役の行者」舞踊「新曲浦島」「お夏狂乱」等の名作を世に送り、劇文壇、さらに早稲田大学文科の創設など教育面にも多くの先駆的な足跡を残した。ここに先生の熱海を詠まれた歌一首を刻して、先生の敬慕のよすがとした。 昭和六十二年六月七日 逍遥協会」糸川遊歩道にはいろいろなオブジェが飾られていたのであった。亀とマンボウのオブジェ。上部には波の姿が。近づいて。そのオブジェを見下ろすが如くに。その先に見えて来たのが「ドラゴン橋」。糸川遊歩道に架かる橋の中でも、一番人気の橋のようだ。橋の入口にあったのが「大塚実氏顕彰記念碑この糸川遊歩道は、海と市街地を結ぶ「歩いて楽しめる散策ルート」として整備を進めてまいりました。この度、熱海梅園の改修計画へ私財を提供された熱海由縁の篤志家大塚実氏の協力を得て日本で最も早く咲く「あたみ桜」に統一し梅と同じ時期に開花する、常春熱海ならではの桜並木となりました。ここに糸川遊歩道を再生させた大塚実氏へ心からの感謝の意を表すとともに、市街地内の憩いの場として多くの市民や観光客に利用される施設となるように、この遊歩道を永く守り育んでゆくことを誓います。 平成25年1月吉日 熱海市長 齋藤 栄」ドラゴンの姿が橋柱として。ドラゴンの姿の橋柱を覆い隠すがごとき「あたみ桜」。欄干がドラゴンの骨格のように。ドラゴンに近づいて。超密集な「あたみ桜」。三密(密閉・密集・密接)禁止の時期もあったが・・・。いや今も同じか!?「あたみ桜」の花をむさぼるが如きドラゴンの姿。そして「あたみ桜」に訪花する「メジロ」の姿を暫し追ったのであった。スズメ?の姿も。カメラ設定をいろいろ?変えて。まだまだ、「メジロ」と「ウグイス」を混同されている方が多いのであるが。そして「メジロ」を追う和服姿の女性の姿も。よく見ると自撮りの為に和服姿で!!? ・・・つづく・・・
2024.02.02
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小出川左岸の群生場所を下流に向かって進む。彼岸花には何百という品種が存在し、今も品種改良によって日々新しいものが生み出されていると。赤色のイメージが強い彼岸花ですが、他に白、赤、黄、オレンジ、ピンクなどが存在。ただ、日本では彼岸花の流通が少なく、園芸植物として人気が高くはないようだ。彼岸花の球根は毒(リコリン)があるのだと。地中に潜むモグラやネズミは、他の植物の根はかじっても、彼岸花のものはかじらないと。よって彼岸花は、よくこの小出川の如く田んぼの畔道に咲いているのは・彼岸花の根が土手や畔の土をギュッと固めてくれるため。・彼岸花は毒があるため、田んぼを荒らすネズミやモグラ・虫などの被害を防ぐためなのだと。・墓場にヒガンバナが多いのも、異臭や有毒性を利用して遺体を動物から守るためだとも。更に彼岸花は食用は厳禁だが、飢餓の時に球根の毒を水で流して利用したり、水戸黄門の命令で発行した家庭の医学書「救民妙薬」では、球根をすり下ろして患部に当てて湿布剤とした事もあったのだとも。飽食の今の時代には必要のないことですが、昔はひどい飢饉のときに毒抜きが良くできていないものを食べて命を落とした人がいたのであろう。赤い花だけに毒があるとの話もあったが、間違っているようだ。設定を変えてカップルの如き彼岸花を。それぞれ6個の花それぞれに雄蕊と雌蕊がヒゲの如くに。左の花びらの中心部は赤で、縁が白いのでやや白っぽく見えたのです。最近増えてきた白花彼岸花は花びら全体が白一色なので、この花は赤い彼岸花と、白い彼岸花の中間です。紅から白への変身の途中なのでしょうか?それとも自然交配の結果?突然変異?来年はどんな色を咲かせるのか楽しみ。白い縁取りの別の花に近づいて。こちらは7個の花がついていて、つぼみが5個、咲いている花は2個。花びらが6枚(黄色の文字・数字)、花粉の入る「やく」がついたおしべが6本 (白色の文字 ・数字 ) 、少し長いめしべが1本(白色の文字)が見られます。写真はネットから。情熱の赤のカオスが広がる。「曼珠沙華」の季語はもちろん「秋」。有名な俳句がいろいろとある。そのあたり似た草もなし曼珠沙花 正岡子規まんじゆさげ欄に類ひて狐啼く 蕪村仏より痩せて哀れや曼珠沙華 漱石あかつきは白露づくし彼岸花 伊丹三樹彦まんじゆさげタベのひかりとなりて失す 岸田稚魚英語では、hurricane lily(ハリケーンリリー)、cluster amaryllis(クラスターアマリリス)、あるいは、近縁のハマオモト属・ヒメノカリス属と合わせて spider lily(スパイダーリリー)と呼ぶのだと。いつまでも、立ち尽くして目に焼き付けたい空間なのであった。そして富士山、大山の姿を。富士山にズームして。この橋は仮設橋か?錆の状況から古い橋のようでもあるが。農家の方が作業、移動用に架けた橋?その脇には休憩用ベンチが2台。ベンチの上には「みなさんこんにちは「小出ボーイズ」です。ぼくたち小出小学校の4年生は「小出においで」というプロジェクトで、町おこしのイベントについて考えてきました。そのなかで、ぼくたち「小出ボーイズ」は「小出川のひがん花をもっと多くの人に知ってもらいたい。」と思い、ひがん花の道をPRするきかくをいろいろとかんがえました。そして「NPO法人 サポート茅ヶ崎寒川子どもファンド」で助成金がいただけることになりました。その助成金をつかって今日の「ひがん花まつり」で3つのことをしました。①みんなが一休みできるベンチを2台つくりました。②良い写真がとれるようにスマホ(写真)台をつくりました。③オリジナルキャラクターの缶バッチとキーホルダーをつくってスタンプラリーをしている子ども たちにもPRしていくことこれからもひがん花のみちにあそびにきてね」と。小出地区の未来は輝いていると感じたのであった。頑張れ!!「小出ボーイズ」!!。さらに群生地を楽しみながら進む。神秘的な紅の森を一人彷徨うがごとし。紅万点?の花の海の如き光景。そして秋の宝石の散りばめられた庭の如くに。再び富士山と彼岸花のコラボを。紅色の花の絨毯の先には富士の姿が。人の姿もなく「紅い炎の海」を漂う。秋の儚さが舞い踊るこの場所!!これが「小出ボーイズ」の力作「スマホスタンド」。2本の帯が続く。そして仮設橋?を渡って引き返す。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」。いつまでもこうありたい。The boughs that bear most hang lowest.いや、未だ実が大きくならない私!!黄色く実った稲穂が重そうに垂れる稲田。遠くから眺めると見渡す限り黄金色に輝いている。そして富士山を背景に黄金色をした稲田との雄大なコラボレーション!これぞ大昔からの日本の秋の原風景なのであった。紅色と黄金色とのコラボ。この彼岸花は、黄金の稲田を独り占め。逆さに見ると線香花火の如くにも!!線香花火の写真をネットから。似ていませんか?頭を垂れる稲穂と凛として立つ彼岸花のコラボ。この花の名は?「ヤブラン」に似ているが??そして「新道橋」まで戻る。再び「小出川」の上流を見る。そして車に戻り「追出橋」に向かって進む。田園の中に立っていたのが、これは以前訪ねた「土地改良事業完成記念碑茅ヶ崎市芹沢中、西部地区及藤沢市打戻地区の一部は古代より小出川沿いに開田が進められ穀倉地帯と言われましたが形状不整形で道路農業用排水路等不整備にて、腰まで没する湿田のほ場でした。昭和40年(1965)頃からの経済の発展に伴ひ農業の機械化省力化の波が押し寄せて来ました。湿田の乾田化水田の一部埋立て畑地造成等ほ場整備事業の早期実施を望む耕作者の声が急速に盛上がり全員一致の賛成により芹沢西部土地改良区を設立し土地改良事業の施行に着手しました。総面積三十三○○八Ha(組合員所有面積二八三七Ha)事業費四億七千万円、以来二十年間組合員の熱意と協力に依り事業を完成しましたこの事業は土地の価値観を高め農業の近代化はもとより何れの農作目にも適合できる基礎作りであるが将来の土地利用にも活用できる、甦る大地に整備しました。ここに本土地改良区事業の完成にあたり碑を建立し後世に伝へるものである。 西暦1996年 平成8年8月吉日 茅ヶ崎市芹沢西部土地改良区」下記写真は車窓から。茅ヶ崎と寒川の堺の追出橋から延びる道と芹沢の外周をまわる「根通り」の道が交差する三叉路の脇にあったのが「追出地蔵(おんだしぢぞう)」。この地蔵様も以前にも訪ねていた。身近に医者のいなかった時代にはこの追出地蔵にお参りし、疫病神を体の中から『追い出した』といわれています。【追出す(おんだす)】はこの地域の方言化か?いや、私の地域でも子供の頃は【追い出された】を『おんだされた』と言っていた記憶があるのだが。また花嫁行列はこの前を通ってはいけないとも。茅ヶ崎市芹沢4238-1。左側の庚申塔には地蔵像が浮き彫りにされており、台座には「西三谷講中」、横には安政二年の文字が。安政2年(1855)は安政江戸大地震の起こった年。向かって右と真ん中は丸彫りでお顔は失われていたが真ん中は新しく造られたものに代わっていた。そして「追出橋」に到着し、道路脇に車を駐めた。茅ヶ崎市芹沢3854。橋の標識を見て、この橋は「おんだしばし」と呼ぶことを知りました。「追出地蔵(おんだしぢぞう)」の近くの橋なので「追出橋(おんだしばし)」と名付けられたのであろう。上流側には、朱の花の姿はほとんど無く・・・そして人の姿は全く無く。橋の中央からズームしたが・・・。ここにも「小出川 彼岸花群生地」との案内板があったが・・・。やはり今年も猛暑の影響か?道路脇には巨大な配管が空中で「小出川」を渡っていた。神奈川県企業庁寒川浄水場からの水道用管。相模川の寒川取水堰でとられた上水道用の水が横浜市の小雀浄水場へ流れているのである。その先にも、青く細い水管橋の姿が見えた。これは自動エアー抜き弁か?銘板「横浜市水道局 小出川水管橋 昭和44年11月竣工」と。昭和44年は1969年。1969年(昭和44年)のこの日、7月16日(My Birthday)に打ち上げられたアメリカ有人宇宙飛行船「アポロ11号(Apollo 11)」が月面に着陸し、7月20日に人類が初めて月面に降り立ったのだ。そして打ち上げのこの日は、私は御茶ノ水の予備校の近くのラーメン屋で打ち上げの映像をテレビで見ていたのであった。そして「小出川」を渡ると再び水田の中に潜り込んでいたのであった。管の直径は1500mm程度であった。「横浜市水道局 小出川水管橋」を振り返って。昔の人の知恵で植えられた彼岸花。これまでその風景が守られているということは、金色の稲穂を背景に咲く真っ赤な彼岸花の風景を愛おしむ心が、日本人の心として連綿と受け継がれて来ているのだ!!これを再認識した早朝なのであった。『小出川 水のかがやき 曼珠沙華』『群れ咲くも 一輪もよき 曼珠沙華』『曼珠沙華 真紅な花には 毒があり』 ・・・・・詠み人知らずそして帰宅して我が庭の「白の彼岸花」。同じく我が庭の「コルチカム」。「コルチカム」は別名「イヌサフラン」とも呼ばれます。花が「サフラン」に似ていて、「サフラン」ではないところからそう呼ばれるのだとか。”イヌ”を冠した植物の多くは、有用な植物に似ているけれど”役に立たない”という意味でつけられていることが多いと。「サフラン」の赤い蕊は、薬用に用いられたり、香辛料・着色料にも用いられている。その「サフラン」に似ていて、実は”有毒植物”であるところからの命名なのでしょう。今年は、「彼岸花」の開花が遅れていますが、今の時期を代表する「彼岸花」と同じように、「コルチカム」も花が咲いている時には葉っぱが出てこず、花の後、春になると葉っぱが出てきます。いわゆる”葉見ず 花見ず”です。そう言えば、「彼岸花」も”有毒植物”。「コルチカム」と「彼岸花」は、共通点が多いようです。初秋の頃、いきなりニョキっと茎だけ出て花を咲かせる植物は、”ヒガンバナ科”のものが多いですが、「コルチカム」は”ユリ科”の花なのです。彩の寂しいこの時期の我が庭では白とピンクが目立ちます。そして明日9月29日(金)は十五夜(中秋の名月)なのです。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・iPhone 15 512GB simフリー 国内正規品 Apple 本体 端末 新品 回線セット
2023.09.28
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車で、「小出橋」を左に見ながら、県道「大庭獺郷線(おおばおそごうせん)」に出て「新道橋」付近に移動し一時停車。獺郷という地名は、昔ところどころに沼地があり、獺(かわうそ)が多く生息していたといわれ獺の郷から村名になったと言われている。水田の下には湿地帯に生える葦の葉の地層が残っていると言われている。この道はまつりの『せりざわ会場』があった県立茅ヶ崎里山公園に行く道。「しんみちはし」。川の「橋」の読みは、川が濁らないようにと、「ばし」ではなく濁点をつけずに「はし」と読む場合が多いのである。「小出川 彼岸花小出川沿いの彼岸花(曼珠沙華)は、上流の里山などから大水により球根が流れ込み、古くからこの地域に自生していました。平成1 5年頃から流域の彼岸花保護団体が相次いで組織され、増殖・保全活動に努めています。開花期( 9月下旬頃)には、上流の大黒橋から下流の追出橋まで両岸3kmが紅の帯に染まり、西方に望む富士や箱根連山を借景に、絶好の散策コースになっています。毎年、この時期に「小出川彼岸花まつり」を開催し、来場者を歓迎しています。 ・神奈川県藤沢土木事務所・藤沢市・茅ヶ崎市・寒川町 ・小出川彼岸花団体協議会・設置者:打戻彼岸花の会」付近のご案内として、「宇都母知神社」👈リンク雄略天皇の時代(466年)厳粛な祭祀が執り行われたと「日本総風土記」に記されている延喜式内社。境内に「民具・農機具資料館」(祭礼時等に開放)がある。(これより北東方向1.5キロ)と「盛岩寺薬師堂昭和文化館」👈リンクも。盛岩寺の薬師堂は、築90余年の旧商家を再移築した古建築で、昭和文化館として活動をしている。堂内の薬師三尊十二神将は、旧東光寺の本尊で、(明治4年廃寺 盛岩寺に移管)、「堂の前」の名はこれに由来する。(これより北西方向0.5キロ)「小出川」を見る。この辺りは例年より花の数は少なかった。ここにも仮設用単管パイプに取り付けた横断幕「小出川彼岸花」が。下流側近くには僅かに花が。しかしその先に赤の塊が見えた。まずは上流に向かって歩く。今年は雑草が生い茂り、この場所は終章・エピローグへと。まだ蕾の場所もあったのだが。朝の陽光に輝いて。彼岸花はまっすぐな茎の上に花だけをつける。葉は花が散って後にゆっくり生まれ出る。韓国名はロマンチック。「サンシチヨ」と言い「想思華」と書く。1本の茎を共有しながら花と葉は決して出会うことはない。花は葉を想い、葉は花を思い焦がれているから「想思華」と。彼岸花は冬から春にはちゃんと葉が繁り、花をつけない寒い季節にしっかり栄養を球根に貯えているのだと。多くの植物は春に芽を出し、夏に葉を繁らせ秋に枯れますが、彼岸花はその逆。冬に葉を繁らせ春に枯れ、秋に花を咲かせるのだと。この花は?ピンクノウゼンカズラ?稲栽培の水田は、収穫時期が間近に。稲穂の重みに耐えかねてか?この稲田は大きく波打っていた。ここも独り占めして。彼岸花の色別の花言葉を調べてみました。「☆白色:思うはあなた一人/また会う日を楽しみに★赤色:情熱/独立/再開/あきらめ/悲しい思い出/思うはあなた一人/また会う日を 楽しみに★黄色:追想/深い思いやりの心/悲しい思い出 彼岸花は、その印象的な赤い花色から「情熱」「思うのはあなた一人」といった花言葉が生まれたといわれています。しかし、彼岸花の花は死や不吉なイメージの方が強いですよね。それは、「彼岸花を家に持ち帰ると火事になる」「彼岸花を摘むと死人がでる」「彼岸花を摘むと手が腐る」といったいくつかの恐ろしい迷信があるためです。これらは、花色や花姿が炎を連想させることと、彼岸花のもつ毒によるものとされています。決して怖い花言葉をもっているわけではないのですが、死や不吉な印象があることから贈り物として用いられることはほとんどありません。」と。小出川の紅い帯が輝く。設定を変えて撮影してみました。一般的に呼ばれている「彼岸花(ヒガンバナ)」は、秋の彼岸の頃に開花することにちなんだ名前。毒のあるこの植物を食べた後には「彼岸」=「あの世(死)」しかない、ということに由来するという説もあるようだが。自撮りを。所々に、花が絡み合って密の場所もあった。花茎の先に強く反り返った鮮やかな赤い花を咲かせていた。花は高さ30~50㎝程度の花茎の先に、強く反り返った6枚の花被片(花びら)を持った鮮やかな紅色の花が5~7個程度付き、やや扁平な球状の花序となっている。その色といい、形といい、華やかさと妖気を合わせ持った、きわめて個性的な花では。花は9月末ごろには終わりますが、その後、結実することなく、花茎は萎れて枯れてしまいます。日本国内に生育する本種は、染色体数がほぼ全て3倍体(2n=33)👈リンクであるため、結実しないとされているとのこと。最初のたったひとつの不稔(ふねん)の個体から分球(ぶんきゅう)をくりかえすことで殖えてきたとしか考えようがないのであると。このことを初めて指摘したのは、現在NHKの朝ドラで放送中の牧野富太郎博士であったと(明治40年)。彼岸花は中国揚子江沿岸が原産の帰化植物であると。しかし、いつ頃、どのような経緯で我が国に入ってきたのかは諸説あり、よくわかっていないと。燃えているように見えるので「火事花」とも。5年前に訪ねた埼玉県日高市「巾着田」👈リンク、埼玉県幸手市「権現堂堤」👈リンクの見事な彼岸花を想い出したのであった。別の場所でも自撮り、ズームして。「新道橋」まで戻る。遠くには箱根・二子山が見えた。箱根火山のカルデラ内の南東側に位置し、約5,000年前の噴火で形成された溶岩ドームである。箱根駒ヶ岳、神山、台ヶ岳などとともに中央火口丘を構成する。その名のとおり、双生児のように二つの峰が並んでおり、北(右)側が上二子山1,099m高、南(左)側が下二子山1,065m高となる。花からは6本の雄しべと1本の雌しべがまるで装飾のように上方に長く突き出しているのであった。「彼岸花」を楽しむ?「アオサギ」の姿を発見。全長90cm以上。体の上面、翼の上面はうすく黒味のある灰色で、翼の風切羽は青色がかった黒色。鳥害防止用爆音機に驚いて、突然飛び立った「アオサギ」を追う。風切羽と肩の灰色の対照がはっきりしていた。羽の下面は真っ白であることを初めて知る。日本で繁殖するサギの仲間としては最大のようだ。背が高く、脚も長い。飛行姿は長い首をZ字型に曲げ、後方へ脚を伸ばし、大きな翼をゆっくりはばたいて飛んで行ったのであった。「新道橋」からさらに下流に向かって進むと見事な富士山の姿が。この日の富士山には、裾野に横にたなびく「かいまき笠雲」がかかっていた。富士山が雲の浮き輪をしているかの如くに。ズームして。この場所からの日の入りダイヤモンド富士の撮影を来年は是非!!デジカメではなかなか・・・。そして群生場所が現れた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・SIMフリー iPhone 15 Pro Max 512GB 白 5G デュアルSIM 香港版 MU2U3ZA/A 新品 スマホ 本体 1年保証
2023.09.27
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昨日・9月25日(月)早朝に、車で20分ほどの場所にある『小出川彼岸花』を愛でに行ってきました。「第16回小出川彼岸花まつり」は、3日前の9月23日(土)に行われたとのことです。今年は例年に比べ開花が1週間以上遅れているようで、昨日朝にはかなり満開状態を楽しむことが出来ました。『大黒橋』入口にはビニール袋に入った「第16回小出川彼岸花まつり」のパンフレットが。パンフレットの裏側には「まつり会場」案内図が。スタンプラリーも行われたようです。裏面の「まつり会場スタンプラリー」シート。彼岸花鑑賞場所は彼岸花が群生する「大黒橋」~「追出橋」の「小出川」沿い約3km。おまつりの本会場:遠藤会場 他、打戻会場、おおぞう会場、が設置されたようであった。そして「彼岸花鑑賞コース」とその周辺の「おすすめスポット」案内。2023年(令和5年)9月10日付けの「広報ふじさわ」にも案内が。小出川(こいでがわ)・大黒橋の手前に一時車を停め、しばしの散策。時間は6:45。小出川 ”彼岸花”の案内板。大黒橋の周辺は紅白の彼岸花が。この付近は例年と同様な花の数であろうか。ややピークは過ぎていたが。雑草が例年になく多く。発芽前は例年にない猛暑で、雑草の刈り込みが出来なかったのであろうか。「大黒橋」の大きな横断幕「小出川彼岸花」。小出川は、神奈川県中央南部を流れる相模川水系の川で、これでも『一級河川』。藤沢市遠藤の笹窪谷戸に源を発し、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの脇を流れ、駒寄川(こまよせがわ)が流入し、茅ヶ崎市と寒川町の境界河川となる。新湘南バイパスとほぼ平行して茅ヶ崎市の西部を縦断し、千ノ川が流入した後、平塚市で相模川の河口付近に注ぐ河川。この付近の花の数は例年より少なかった。早朝散歩の人の姿も殆どなく彼岸花を独り占め。日本では秋の花として親しまれる彼岸花(ひがんばな)。別名、リコリスや曼珠沙華(まんじゅしゃげ)とも呼ばれ、日本特有の「彼岸」の時期に咲く花として知られている。ネット情報に拠ると様々な名前が。彼岸花(ヒガンバナ)曼珠沙華(まんじゅしゃげ/かんじゅしゃか)死人花(しびとばな)地獄花(じごくばな)幽霊花(ゆうれいばな)剃刀花(かみそりばな)狐花(きつねばな)捨子花(すてごばな)毒花(どくばな)痺れ花(しびればな)天蓋花(てんがいばな)狐の松明(きつねのたいまつ)狐花(きつねばな)葉見ず花見ず(はみずはなみず)雷花(かみなりばな)レッドスパイダーリリーハリケーンリリーマジックリリーなどなど。彼岸花を楽しめる場所は、遠藤の「小出川沿い大黒橋から追出橋まで約3kmの彼岸花コース」。「大黒橋」下の群生場所を振り返る。車で小出川沿いを走る。右手には「道祖神」碑があった。幟「小出川 彼岸花」。「第16回小出川彼岸花まつり」は終了していたが、「写真展示所」は残されていた。写真掲示板を追って。個々の見事な写真を追う。この付近は既に枯れかかっている花も。柿の実も色づいて来ていた。高圧鉄塔にも大きな横断幕が。この付近は例年通りの花の数が。ズームして。山口百恵の歌『曼殊沙華(マンジュシャカ)』👈リンク♫マンジューシャカ 恋する女は~ マンジューシャカ 罪つくり~♫この曲で初めて作詞の阿木曜子が「マンジュシャゲ」を「マンジュシャカ」と発音させたのであろうか。インドの古い言葉(梵語)では「マンジュシャカ」。音写して曼珠沙華。「天上の赤い花」という意味があり、おめでたいことが起こる兆しに、天から赤い花が降ってくるという伝説があるのだと。 彼岸花は「まず花が咲き、後から葉っぱが伸びる」という通常の草花とは逆の生態をもっている。その葉と花を一緒に見ることがない性質から「葉見ず花見ず」と呼ばれ、昔の人は恐れをなして、死人花(しびとばな)や地獄花(じごくばな)などと呼ぶこともあったのだと。またの名を曼珠沙華(まんじゅしゃげ)という。これは梵語でズバリ「赤い花」を意味する言葉だと。それにしても、これほど強烈で刺激的な「赤い花」がほかにあるだろうか。この場所の如くに畦道や川べりに群れ咲くさまは、遠目にみてもドキッとするほどのインパクトなのであった。赤い帯が緩やかにカーブして。「道の辺の いちしの花のいちしろく 人皆知りぬ我が恋妻は」万葉集 巻11-2480“いちしの花”は今の彼岸花といわれる。“いちしろく”は白とは関係なく“はっきりと”の意味で「道端に咲く曼珠沙華ではないけれど、ボクの妻があでやかで人目につく美女だってこと、皆が知っているんだ」という妻をベタほめしている男の歌であるのだと。古代すでにこの花は野面を点々と染めて人々の目をひいていたのだ。 ・・・つづく・・・【中古】【安心保証】 iPhone14 Pro[1TB] SoftBank MQ313J ディープパープル
2023.09.26
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更に少し離れた場所にあったひまわり畑に向かう。「今、見頃のひまわりそちらの畑でも咲いています」と。繰り返しになるが、ひまわりは英名で、sunflower(サンフラワー)と呼ばれています。これは、ひまわりの花姿が太陽に似ているからという説や、「following the sun(太陽に従う)」から、「sun-follow」になり「sunflower」に変わっていったという説などがあるとのこと。この展望台も既に立ち入り禁止。私たち人間とひまわりとの間には、とても長い歴史があるのだと。では当時、ひまわりは何のために栽培されていたのでしょうか。それは「食料」としてです。花屋で見かけるように、ひまわりは観賞用としてのイメージが強い方も多いが、もともとひまわりの栽培が始まったのは、目的は食料として。原産国である北アメリカに住んでいたネイティブアメリカン(インディアン)は、種から栽培する唯一の農作物として、ひまわりをたくさんの土地で栽培されていたのだと。ひまわりは高いエネルギーを得ることができるため、とても重要な作物の1つだったのだと。ちなみに当時のひまわりの食べ方は、様々な方法があったと。例えば、ひまわりの種をつぶし、菓子やパンの生地として使ったり、他の肉などの食材とひまわりの種を混ぜて食べたり……そのままだけではなく焼くことや他の食材と混ぜることもされていたのだと。そしてひまわりの種は「パンを焼く時に使われる油も、ひまわりの種を絞って使っていたのではないか」という説もあると。ひまわりは加工の方法が、たくさんあったことがうかがえるのだ。また、ひまわりは食料としてだけではなく、染料や薬としても使われていたとも。1つの「ひまわり」という植物から、数多くの活用があったことを知ったのであった。ひまわりは、アメリカからスペイン王立植物園に持ち込まれたことから、少しずつヨーロッパ・ロシアへと広がって行った。そして日本にひまわりが伝わってきたのは1660年代後半。ひまわりがヨーロッパから中国に伝わり、ついに日本へやって来のだ。日本にひまわりが伝わったのは、スペインでひまわりが栽培されてから100年ほどが経ってから。「訓蒙図彙(きんもうずい)」という図が入った百科事典にも「丈菊(じょうぎく)、俗に言ふてんがいくわ(天蓋花)、一名迎陽花(げいようくわ)」という記述があったことが分かっていると。その後「日廻り(ひまわり)」から「向日葵(ひまわり)」と呼ばれるようになったのだと。「ひまわり」と日本で呼ばれるようになってきたのは、1700年頃と。日本人は、あまり「ひまわりの種」を食べる習慣は今でもあまりありませんが、中国では、頻繁に食べる習慣があるのだと、若い頃中国に出張した際に知ったのです。「ひまわりの種」やウリ科の種を中国語で「瓜子(guāzǐ/グアズ)」と言います。また、「ひまわりの種」を(前歯で割って)食べることを中国語の表現では、「嗑瓜子(Kē guāzǐ・クウ グアズ)」と言います。1個を殻ごと口に入れて、口の中で殻を割り、実と殻を舌で選り分けて、容器に捨てるのではなく足下に殻をペッペペッペと吐きだすのです。よって足下はあっという間に殻だらけになるのでした。これが屋外ではなく、部屋の中のテーブルに座って行われるのでした。全ての花が展望台方向に向いて。そして廻り込んで。ひまわり畑内の小路を歩く。前日の雨の影響でやや泥濘って(ぬかって)いたが。再びセイヨウミツバチを追う。頭部を花粉だらけにして。ここにも。立派なカメラを三脚に載せて。そして駐車場ヘと帰路に。「ルドベキア」の花であっただろうか?「千日紅」。柿の実も色づいて。「ホウセンカ」。花後にはフットボールのような形の果実が出来、熟すと軽く触れるだけではじけ、種が四方に飛び散るのです。そしてひまわり畑の跡地にはたくさんの鳩がひまわりのタネを食べているのであった。そして台風7号の風雨でビニールシート屋根が剥がされて。テーブル上には大きなひまわりの花の後に所狭しとタネがついて。タネが袋詰されて100円/袋にてこの日も販売されていた。来年の我が養蜂場所用に2袋を購入しました。ひまわりの種:今、撒きますと10月中旬に咲きます。 残った種は冷蔵庫で保存。来年の6月に播きますと、8月に咲きます。ひまわり 掴み取り :3本 200円ひまわりの種:1袋 100円「この畑のひまわりは摘み取り出来ます。置いてあるハサミでご自分で摘み取り新聞紙で包みテープで留めていただき、お金は後で箱に入れてください。御自宅に着いたら水をはったバケツの中で水切りします。大矢さんちのひまわり畑」と親切丁寧に!!「摘み取りが出来るのは、この畑のひまわりだけです。ほかの畑のひまわりは絶対に切らないで下さい・おねがいいたします。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・【新品未開封】iPhone14promax256GB 紫 国内版SIMフリー 一括購入品 日本版 プレゼント ギフト 平日15時までの注文で即日発送 送料無料MQ9E3JA 4549995360967
2023.09.25
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この日は8月16日(月)、神奈川県座間市では2023年8月11日(金)から14日(月)まで「座間市ひまわりまつり」が開催されていたが、祭り期間中に訪ねることが出来なかったのでこの日に車で訪ねたのであった。車で40分ほどで、相模川に架かる「座架依橋」下の「臨時駐車場(座間大凧まつり会場)に到着。相模川の対岸には「圏央道」の高架が。まつりは終了した「座間市ひまわりまつり」会場に向かって徒歩で進む。相模川の左岸堤防上を歩く。左手奥にも背を向けたひまわり畑が拡がっていた。堤防上は自動車道の遊歩道が。ランニングを楽しむ人の姿も。そして前方に相模川に架かる「座架依橋(ざかえばし)」が視界に現れた。県道42号線(藤沢座間厚木線)の橋。名前の由来は、座間市座間(ざま)と厚木市依知(えち)を架(か)けることから と。座架依橋のモニュメントを裏側から見上げて。こちらは、以前、2019年に撮影した正面からの写真。堤防を降りる。石段の下、右側・角にあったのが『土地改良の碑』。約35年前の功労者像、「本多菊近翁之像」。其の隣りにあったのが「土地改良の碑 神奈川県知事 長洲一ニ」。「区画整理記念碑 座間市長 星野勝司」。本地域は、古くから相模第一の美田と称せられた水田と、畑地が連なる相模川左岸耕地の北部に位置するが、水田地域に於ける用水不足や農道用排水路の不備。また狭小かつ不整形な圃場区画による農作業の非効率性解消は、関係耕作者永年の願望であった。昭和26年に国が農業基本法を制定されたのを契機に、関係者相諮り既に区画整理完了済の○○○○第一区とし主水路の改良、未整理地区〇第二区として区画整理の実施を目的に土地改良区を設立、昭和33年・・・・・・・(後略) 平成四年三月吉日 座間市新田宿土地改良区そして「座架依橋」に沿って進む。今年・2023年の「座間市55万本のひまわりまつり」ポスター。「ひまわり会場」案内図。「ひまわりまつり会場案内図」の詳細図。まつりの期間は2023年8月11日(金)から14日(月)までであったが台風7号により、8月14日(月)は、おまつりは急遽中止となり、3日間の開催となったとのこと。台風7号の影響、そして早朝の為かひまわりの花が項垂れている場所もあった。まつりの終わった展望台の階段入口には既にテープが張られ、登れないようになっていた。まつりは終わっているが、ひまわりは満開のままで。中サイズのひまわりの花。先日も同じ内容を書きましたがヒマワリはいつも太陽の方向を向いていることから「向日葵(ヒマワリ)」、英語で「sunflower」と呼ばれるようになった、という話は有名ですが、実はヒマワリが動くのは花を咲かせる前の伸長成長をしているときで、ちょうど花を咲かせる頃に動かなくなるのだと。ヒマワリは、花を咲かせる前の成長期に、若い葉が付く茎の先端部分を太陽の方に傾けます。この動きにより、より多くの光を葉に当てることができます。ヒマワリを太陽の方向に向けないように固定すると、個体全体の乾燥重量が13%減少し、葉の面積も9.7%減少したという研究結果が得られています。つまり、ヒマワリは、たくさんの太陽エネルギーを得て光合成をし大きく育つために、小さい頃から太陽を追いかけているのです。ひまわり(ヒマワリ)の花は大きな花を1つ咲かせているイメージが強いですが、実は多くの花が集まって1つの花の形を形成しています。これは「頭状花序」と呼ばれ、キク科の植物に見られる特徴です。黄色い花びらの部分の花を「舌状花」、内側の色が濃く花びらがない部分の花を「筒状花」とも呼びます。ひまわりは学名を「Helianthus」と言い、これは太陽の花という意味。ズームして。セイヨウミツバチの姿も。セイヨウミツバチをカメラで追う。そして反対側のひまわり畑は全員?後ろ姿で。まつり中のゴミ回収設備は風で飛ばされぬように横に倒されて。この日のこれから、まつりの片付け作業が開始されるのであろう。再びひまわり畑をカメラで追う。ひまわり畑の東側には稲田が拡がっていた。こちらの展望台も立ち入り禁止。「使用禁止」と印刷されたテープがこれでもかと。稲は幸い台風7号の風雨には耐えた模様。たわわに実った稲穂!!。その先には別のひまわり畑が。 ・・・つづく・・・【新品未開封】iPhone14promax256GB 紫 国内版SIMフリー 一括購入品 日本版 プレゼント ギフト 平日15時までの注文で即日発送 送料無料MQ9E3JA 4549995360967
2023.09.24
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この日は8月9日(木)。今年も趣味の養蜂の師匠から、ご自宅近くのひまわり(向日葵)畑が開花しているとLINEにて連絡を頂きましので自転車で訪ねて来ました。今年も比較的小柄なヒマワリ(向日葵)が満開。農家の方の畑の緑肥用に栽培されているとのこと。主に土壌の菌根菌を増やして、後作の作物のリン酸吸収を促すのだと。また、深根性のため土壌の透水性改善効果もあるのだと。全国的に5~8月が播種に適しており、農地の景観アップには最高の植物。ひまわりは放射能汚染された土壌の放射線除去にも使用されたとかで話題にされたことがあったが、その効果はあったのだろうか?花が終わった直後に、トラクタ―のロータリーで、立ったままのひまわり(向日葵)を鋤き込むのだと。お盆過ぎには、鋤込みが始まるのであろうか?ヒマワリはいつも太陽の方向を向いていることから「向日葵(ヒマワリ)」と呼ばれるようになった、という話は有名ですが、実はヒマワリが動くのは花を咲かせる前の伸長成長をしているときで、ちょうど花を咲かせる頃に動かなくなるのだと。ヒマワリは、花を咲かせる前の成長期に、若い葉が付く茎の先端部分を太陽の方に傾けます。この動きにより、より多くの光を葉に当てることができます。ヒマワリを太陽の方向に向けないように固定すると、個体全体の乾燥重量が13%減少し、葉の面積も9.7%減少したという研究結果が得られています。つまり、ヒマワリは、たくさんの太陽エネルギーを得て光合成をし大きく育つために、小さい頃から太陽を追いかけているのです。少しずつズームして。そして我が?ミツバチを発見。入道雲がモクモクと。これぞ真夏の風景。養蜂の師匠から、御自宅の2階からのヒマワリ畑の写真を送って頂きました。 ・・・END・・・
2023.09.16
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「古代蓮会館」の「展望タワー」を降りて、駐車場方向に進む。左手にあったのがフードコート「ゼリーフライむらまつ」と「古代蓮うどん店」そして「古代蓮の里 売店」。「行田ゼリーフライ 名前の由来ゼリーフライは100年以上の歴史があります。形が小判型で銭(ゼニ)に似ていることからゼニフライがゼリーフライに訛ったと言われていますが、詳しくは分かっていません。行田では長く市民に愛されていて、小中学校の給食に登場しています。オカラはヘルシータンパク質・食物繊維・ミネラル・レシチン・リノール酸を豊富に含み、低カロリー高蛋白で生活習慣病を引き起こす原因となる肥満を防ぐのに最適な食品です。ゼリーフライのレシピ材料:じゃがいも・おから・にんじんじゃがいもを茹でて、おから、ねぎ、にんじんのみじん切りを混ぜ合わせ、小判型に整え油で揚げてソースに潜らせ出来上がり!」そして東側の「世界の蓮」を最後に訪ねた。花が見つからなかった「千弁蓮」。写真をネットから。全体的にピンク色の花弁で、中央部は濃い紅。花弁の枚数がなんと1000枚を超えると言われます。綺麗に開花するには、人が花弁を開いてあげる手助けが必要な蓮とのこと。それにしても花びらの数が凄い!!「千弁蓮花弁数2000 ~ 3500枚。千弁咲、花径24 ~26cm。花色は桃色から紫紅色。」 。「青菱紅蓮(あおびしこうれん)」。「青菱紅蓮花弁数15 ~ 17枚の一重咲種。花色は紫紅色。」「カスピカム」。「カスピカム花弁数23 ~ 25枚、一重咲種。花径は24~ 26cmと大型。花色はやや濃い紅色。ロシアの蓮。」プーチンに見せたい花!!「ヴァージニア蓮」。蕾も。「ヴァージニア蓮花弁数22 ~ 26枚、花径14 ~ 20cmの中・小型のキバナバス系の一重咲種。花色は濃い黄色。」「小舞妃蓮(しょうまいひれん)」。「小舞妃蓮花弁数16 ~ 18枚、花径18 ~ 20cmの一重咲種。花色は淡黄色で弁先は紫紅色。」「西湖蓮(さいこれん)」。「西湖蓮花弁数100 ~ 120枚前後の白の八重咲種。外弁は幅が広く少し帯緑色。花径は18 ~ 20cm。」「輪王蓮(りんのうれん)」。「輪王蓮花弁数16 ~ 20枚。花色は、全般に白が優先し、そこに淡黄色が入る。花弁の基部は黄色。」「紅万々(こうまんまん)」。「紅万々花弁数100 ~ 120枚、花径27 ~ 30cmの大型の八重咲種。花色は鮮やかな赤色。」「剣舞蓮(けんまいれん)」。「剣舞蓮花弁数18 ~ 20枚の一重咲種。花径は大型で、花色は白に近い黄白色。」「漢蓮(かんれん)」。「漢蓮花弁数50 ~ 100枚の白の八重咲種。花径3 ~ 8cmと小さく、わが国最小の品種」展望タワー。東側の「世界の花蓮」案内板。「中国古代蓮(ちゅうごくこだいはす)」。「中国古代蓮花弁数24 ~ 26枚の一重咲種。花弁はやや細く、花色はピンクで、条線は不鮮明。」「世界の蓮園」の北側には歌碑が。「蓮の故郷👈リンク作詞 作曲 小林亜星歌 ダークダックス一、水の故郷行田の池に 夏が来たよと告げるように 夏が来たよと告げるように 朝の光に誘われて 神秘の蓮が開きます 二千年もの刻を越えて 尊い生命が今甦る あでやかに 気高く 美しくニ、古代の蓮が咲く瞬間に 心の耳に花の開く 幽(かす)かな音を聴くと言う ほら聞こえたね またひとつ 遠い昔の夢の記憶 永遠に変わらない愛の造形 華やかに 優しく 活き活きと三、たとえこの世に憂いがあって 雨に瞼が濡れていても 何時か咲かそう大輪の 華を見事に1人づつ 何故か知ってるはるか昔 恋する二人が歌った歌は 今ここに 咲いてる 蓮の歌」「歌碑の由来このうた「蓮の故郷」はダークダックスの「ゲタさん」こと喜早 哲(きそう てつ)さんが平成12年7月古代蓮の里を訪れた際、行田蓮の美しさに感動し、友人であり作曲家の小林亜星さんに作詞作曲を依頼して作られたものです。平成14年7月吉日」さらに「世界の蓮園」をカメラで追う。「白万々(はくまんまん)」。「白万々花弁数100 ~ 120枚の八重咲種。花色は蕾から開花直前頃までは緑色を帯びているが、開花後は純白となる。」「西光寺白蓮(さいこうじびゃくれん)」「西光寺白蓮花弁数20~26枚の一重咲種。花色は純白で外弁はわずかに緑色を帯びている。」大阪府和泉市の西光寺に伝えられている白蓮であると。「真如蓮(しんにょれん)」「真如蓮花弁数18~24枚の一重咲種。花色は白で外弁は常緑色を呈する。」花容は気品があり白蓮の貴公子と呼ばれている。江戸時代から伝わる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.07.31
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「10万株の行田蓮」を楽しんだ後にさらに進む。左手にあった売店。「はすの実 甘納豆」や「蓮の実」が販売されていた。「蓮の実」がサクサク美味しいスナック菓子に大変身!そしてその先にあったのが「蓮シャワー」。「古代蓮会館」に入館すると「蓮シャワーつくり体験」が出来ると。蓮の葉の3茎を途中で切り取り、そこに水道のホースをつないで下から水を送っていた。葉は、そのままでは水が噴き出さないので、周辺を数センチ切り取って血管のような葉脈を露出させ、そこから放射状に水が噴射するようにしていたのであった。葉の周囲と中央から。葉脈をあまり露出させない(葉っぱをあまり切らない)と何もしなくても中央からのミスト仕様にすることができるようであった。葉の裏側の葉脈の末端付近の薄皮が膨らんだ場所も。「日本遺産 和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち 行田行田市の日本遺産ストーリー平成29年4月28日、埼玉古境群、忍城跡、行田足袋、足袋蔵など行田市の歴史・文化の魅力をまとめたストーリー「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」が、埼玉県内初の日本遺産に認定されました。そのストーリーの概要は、次の通りです。忍城の城下町行田の裏通りを歩くと、時析ミシンの音が響き、土蔵、石蔵、モルタル蔵など多彩な足袋の倉庫「足袋蔵」が姿を現す。行田足袋の始まりは約300年前。武士の妻たちの内職であった行田足袋は、やがて名産品として広く知れ渡り、最盛期には全国の約8割の足袋を生産するまでに発展した。それと共に明治時代後半から足袋蔵が次々と建てられていった。今も日本一の足袋産地として和装文化の足元を支え続ける行田には、多くの足袋蔵等史的建集物が残り、趣きある景観を形づくっている。」更に東方向に進んで行くと、巨大な「田んぼアート」が姿を現した。「古代蓮の里」の東側敷地沿いの道路の先に拡がった「田んぼアート」。地上からは、何が描かれているのかは???ズームして。そして引き返して「古代蓮会館」の「50m展望タワー」に向かう。「古代蓮会館(展望タワー)入口」案内板。「古代蓮会館(展望タワー)入口」。エレベーターで展望台に上って。今年の田んぼアートは映画『翔んで埼玉〜琵琶湖より愛をこめて〜』のコラボレーションデザインとのこと。『翔んで埼玉』は『パタリロ』の魔夜峰央氏が1982年に発表した同名漫画を実写映画化したもの。原作は、2015年に『このマンガがすごい!comics 翔んで埼玉』(宝島社)として30年ぶりに単行本として復刊されたことをきっかけに、テレビ番組、SNS、インターネットなどのメディアで多数取り上げられ、反響を呼んだのだと。GACKT(麻実 麗 役)。『翔んで埼玉〜琵琶湖より愛をこめて〜』二階堂ふみ(壇ノ浦百美 役)そして「水生植物園」を見下ろす。「水生植物園」の先、北側には「オニバスの池」が見えた。「オニバスの池」に咲く「オニバス」(鬼蓮?)は「スイレン科」1属1種の一年草の珍しい植物で、数百年万前の第三世紀(「鮮新世」と言われる時期?)頃はヨーロッパ大陸から」アジア大陸に分布していたようですが、その後ほとんど見られなくなってしまい(絶滅に近い状態?)、残っているものは長い歴史を生き延びてきた貴重な「遺存植物」で環境省レッドデータの「絶滅危惧1A類」となっているとのこと。「オニバス」の写真をネットから。8月上旬にここ行田市「古代蓮の里」で咲く珍しい花「オニバス」の写真をこれもネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・行田天然温泉 ハナホテル行田
2023.07.30
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更に、「水生植物園」の池の奥の道を古代蓮を楽しみながら散策する。前の翅の先端だけが透明、そして金属光沢の強い緑青色の幅広い翅であることから「チョウトンボ(蝶蜻蛉)」であっただろうか。「チョウトンボ」は飛行の際の飛び方が通常のトンボようにキビキビとしたものでなく、まるで蝶のようにヒラヒラと飛ぶという特徴を持つ事から「蝶蜻蛉(チョウトンボ)」と名付けられたのだと。チョウトンボは蝶のような特徴的な飛行の他にも、美しく輝く翅も特徴のひとつとなっており、多くの蝶のようなほぼ透明とは言えないハッキリと色のついた翅を持つ。また、後ろ翅の方がかなり広いという事も特徴のひとつで後ろ翅の方がより広範囲に色がついているのであった。再び「甲斐姫」。ここにも「甲斐姫(かいひめ)」案内板。更に「行田蓮・古代蓮」を追う。絶滅したと考えられていた植物がこのような土木工事をきっかけに発芽したという例は、埼玉県加須市(旧北川辺町)のオニバスがある と。古代蓮の里は24時間入園可能で、花の時期には早朝から多くの人が訪れるのだ。早起きは三文の(徳)!!、美しいハスの花を楽しむことが出来たのであった。再び「古代蓮会館」の「50m展望タワー」を。「50m展望タワー」と「古代蓮」のコラボ。少しずつズームして。青空に浮かぶ古代蓮。真っ青な快晴よりも雲が出ている青空のほうが面白い!?こちらは開花前と開花後のコラボ。6月中旬から8月上旬の約2ヶ月の間、公園の蓮池には42種類、約12万株の花蓮が一面咲き誇る光景は圧巻!!水面から1.5~2mに咲く古代蓮。花言葉は「清らかな心」「神聖」「沈着」「雄弁」。堂々と咲き誇る蓮の花にぴったりな花言葉。この蓮の葉が丸まっている理由は?水分が不足していると、葉の乾燥が進んでしまい葉が丸まくなる現象が発生すると聞いたことがあるが・・・。葉を丸めることで日に当たる面積をなるべく狭め、ダメージを軽減するためとされているが・・、植物から発せられる重要なSOSのサインなのだと・・・。水の豊富な場所に生きる蓮の葉も同様なのか?それとも、夜は丸まる?そして寝坊している?観光客・カメラマンの数も多かったが、被写体が多いので、さほど混雑しているとは感じなかったのであった。水面の映る古代蓮。古代の浪漫と美しさをゆっくりと感じることが出来たのであった。「古代蓮」と「水滴」のコラボ。少しずつズームして。一番低いであろう葉の中心ではなく、手前に留まっている水滴の不思議!!「行田蓮(古代蓮)」案内板がここにも。これは、オオスズメバチの嬢王蜂の捕獲トラップであろう。小川の清き流れ。キノコも。キノコの名前は(多分)オオシロカラカサタケ。 食べると嘔吐、下痢、腹痛などの症状が出るそうで、毒素が強く本当にアブナイキノコだと!!。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・パークホテルさかい
2023.07.29
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西側の「古代蓮池」を後にして、「水生植物園」に向かう。「古代蓮の里この植物園で見られる水生植物」ここにも「古代蓮の里」案内図が。5700m2を有する水生植物園内の「行田蓮・古代蓮」。「甲斐姫」は、平成22年に追加したと。蕾のうちは「古代蓮」に似た色合いであるが。開花すると花色は、中間の黄紅色。甲斐姫の蓮は行田蓮と米国産のアメリカ黄蓮の2種類を掛け合わせた新品種。花びらは18~22枚の一重咲きで、花茎は22~25cmの大型の蓮。葉の緑の波は行田蓮に、花柄はアメリカ黄蓮の特徴がでている と。「甲斐姫」とは、行田市内に構えた城「忍城」の城主、成田氏長(なりたうじなが)の娘。1590年に石田三成軍が忍城に攻め入った際は、城を守るため奮闘したという勇ましい姫 と。その姫にちなんで蓮にこの名前がつけられた と。「甲斐姫(かいひめ)【特徴】花色は、行田蓮の紅色とアメリカ黃蓮(きばす)の中間の黃紅色(おうこうしょく)、それぞれの品種の特徴が表れている。葉の縁の波は行田蓮(母親)に似ており、葉色も緑が濃く生育も旺盛である。花弁数は、18~22枚の一重咲き、花径は22~25cmの大花型。花柄と葉柄のとげは、黒の斑点で黄連の特徴がでている。また、開花前の蕾はは外弁の縁に濃い紅色があり、開花すると色が薄れ、薄い黄色になる。」小さな魚の姿を発見。そして「スイレン・睡蓮」の花も。赤のスイレン。水面に映るスイレンの姿。白のスイレンも可憐に。「スイレンスイレンは英名でWater lilyと呼ばれ、温帯地帯から熱帯地方まで広く分布している。スイレン科は7属から構成される。品種としては約100種類くらい。まら浮き葉はさほど水面を高く出る事はなく、花は水面で咲く。」そして「コウホネ」。鮮やかな黄色の花。「コウホネ池や沼、溝や小川等の比較的浅い場所に生える。深い沼では浮葉植物となる場合があり、流水域では沈水葉だけの群落も見られる。根は水底の泥の中を横にはい、海綿質で太い。これが骨の様にみえるのでこの名がある。」そしてこの花が「アサザ」。この日は花が見つからなかったのでネットから。現地の「案内板」「アサザ6 ~ 8月の間に美しい黄花をつける。名前の由来は、水深の浅い所に生えるという意味の「浅々菜」が転じたものという。ジュンサイと同様に茎と新芽を食用とするため、花ジュンサイとも呼ばれる。」再び「行田蓮・古代蓮」を追う。「行田蓮(古代蓮)古代蓮は、昭和46年に公共施設工事の際、地中の種子が自然発芽、開花したものです。花弁数が1 3 ~ 1 8枚で一重咲種。原始的な形態を持つ1 4 0 0年~ 3 0 0 0年前の蓮といわれています。」雄しべには虫が。行田蓮(古代蓮)の葉の上の水滴。以前にも書いたがハスの葉に水がかかると、水は葉の上で丸い水滴となりコロコロと流れて行く。これはハスの葉の表面に超微細な突起物があるから。そのサイズは数マイクロメートル程度。1マイクロメートルは、およそ0.001ミリメートル。日本人の髪の毛の太さは0.08ミリメートルなので、とても小さいことが分かる。この突起物がクッションとなって水滴を支え、撥水効果を生んでいるのだ。さらに、ハスの突起物の先端には水に溶けにくいワックスがついている。突起物の凹凸とワックス、この2つの相乗効果で、泥水が気孔に侵入するのを防ぎ、高い撥水性を実現しているのだ。こうした撥水効果を、ハスの英語名称(Lotus)から「ロータス効果」と呼ぶのだと。そして再び展望タワーを見る。「ホタルの川」。5月に古代蓮の里園内にあるホタルの川に放流したホタルの幼虫が成長し、6月中旬頃には飛び交うのだと。ホタルは風のない夜、20:00の前後30分くらいに飛ぶといわれていると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.28
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西側の「世界の蓮園」を一旦後にして、「見晴らしの丘」の東側を「古代蓮池」に向かって進む。林道横には、小川が流れていた。林の先に蓮池が姿を現した。そして正面に「古代蓮池」。「古代蓮池」の手前西側にあったのが花の終わった「ぼたん園」。「花の交流このぼたん園に植えられているぼたんは、東松山市の「ぼたん」と本市の「行田蓮」との「花の交流」として平成24年度東松山市より寄贈されたものです。ぼたんの”花言葉”は「王者の風格」「富貴」「恥じらい」「壮麗」」。花の終わった「ぼたん園」を見る。「古代蓮池」に架かる木道上から「行田蓮」を楽しむ。6月中旬から8月上旬にかけ42種類12万株の花蓮が蓮池一面に咲くのだ。花弁の数が少ない原始的な形態を持つ行田蓮(古代蓮)は、約1400〜3000年前の蓮であると言われている。花蓮はもちろん午前中が見頃。高さ50mの「展望タワー」を背景に。蓮池の水面から花茎が立ち上がっている様子をイメージした形なのであろう。展望室からは古代蓮の里の蓮池や田んぼアートの他、富士山や関東平野を取り囲む山並みを一望できると。蓮の花は開花時に「ポン」と音がするというが、未だ聞いたことがないが・・・・??行田市指定天然記念物 行田蓮(古代蓮)。古代蓮の里にほど近い公共施設建設工事の際に、偶然出土した種子が自然発芽し甦り、池に開花しているのが発見された。地中深く眠っていた多くの蓮の実が出土し、自然発芽して一斉に開花した事は極めて珍しいことといわれていた。古代蓮の里では、自生地から移植した古代蓮を育てており、可憐な古えの花を大いに楽しめるのだ。奇跡の再生今から約2000年前、「古代蓮の里」一帯は、たくさんの水生植物が茂る湿地帯であった。そこには、蓮の花も咲いていた。そのとき咲いていた蓮の実が地中深くもぐり、ふたたびあたたかい陽射しをあびるまでの長い長い眠りについていたのた。1971年(昭和46年)市では、小針地内に新しい焼却場施設を建設するための造成工事を始めた。掘削によってできた場所に水がたまって池となり、地中深く眠っていた蓮の実が静かに目覚めたのだ。1973年(昭和48年)池の水面に多くの丸い葉が浮いているのが発見された。その後、葉の数も増え続け、ついに7月13日、長い眠りから覚めた古代の蓮が可憐なピンクの花を咲かせたのだ。5月15日 焼却場職員が水面に浮く丸い葉に気付く。6月17日 調査を行い、古代蓮と推測できるものと判明。6月23日 花柄が1本見つかる。7月13日 開花7月19日 花の数は合計52本となる。市教育委員会から依頼をうけた埼玉大学の江森貫一元教授が、出土した縄文土器と、古代蓮として知られている大賀蓮の例を参考に、2500年から3000年前ころのものと推定。1974年(昭和49年)3月25日から3日間にわたって、蓮の研究家である神奈川県歯科大学の豊田清修教授が、学生とともに市教育委員会の協力のもとに蓮の実の採集を行い、日本アイソトープ協会に年代測定の調査を依頼したが、期待したような結果を得ることはできなかった。1975年(昭和50年)4月7日、豊田教授は再び学生と市教育委員会の協力を得て、調査、採集を行った。2回目の日本アイソトープ協会の測定はおよそ1400年前のものという結果であった。結局、行田蓮は考古学的には2500年から3000年前のものとされていることから、豊田教授はおおむね1400年から3000年前のものと推定している とのこと。よって、原始的な形態を持つ1400年~3000年前の蓮(ハス)・「古代蓮・行田蓮」。展望タワーをズームして。既に役割を終えて花托に。古代蓮池(東) 3,200m2古代蓮池(西) 1,800m2「行田蓮・古代蓮」は、他の蓮に比べると花びらの数が少なく(17~18枚前後)、花びらの色はやや濃い紅色をしている。花径(花の大きさ)は25~28cm程度。原始的な形態を今に残す蓮。ズームして。■花托 花の中央にある薄緑色の部分は、すこしふわふわっとしていて花托(かたく)と 呼ばれているところ。 花托とは花床(かしょう)ともいいます。■雌しべ 花托の表面に見える丸いぽちぽちが、ハスの花の雌しべです。■雄しべ 外側のオレンジ色のひらひらとしているのが、ハスの花の雄しべです。 特に花托と雌しべの形はユニークでおもしろいです。 また、雄しべが短かく雌しべに届かないので、自家受粉ができないようです。 なので、虫たちにお願いしているのです」。 受粉が成功したら、雌しべの黄色のところは、茶色へと変わっていきます。さらに古代蓮をカメラで追う。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.27
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「一天四海(いってんしかい)」。斑蓮系統大型 一重花弁の表と裏では紋の形が異なる。一天四海とは、全世界を意味する。「一天四海花弁数は15枚~18枚の一重咲種。花色はやや黄色味のある白色の縁に紫紅色の不規則な帯状の紋が入る斑蓮。」「舞妃蓮(まいひれん)」黄蓮系統の王子蓮と大賀蓮との交雑品種。1966年阪本祐二氏作出。黄紅蓮系統大型 一重花托(かたく)。蜂の巣のような部分を花托という。花托ごとに蓮の実の数は違うのだが、これは24個。「舞妃蓮(まいひれん)花弁数は20~25枚の一重咲種。花色は淡黄色のボカシに淡紅色が入る。「碧台蓮(へきだいれん)」。白蓮系統普通 八重「碧」の字は「みどり」とも読める通り、花弁に緑色が入る。「碧台蓮花弁数は100枚~120枚の八重咲種花色は白色でやや緑色を帯びている。」「瑞光蓮(ずいこうれん)」。爪紅蓮系統普通 一重江戸時代後期、老中を引退した松平定信自ら描いた「池のにしき」に図版と解説があり、当時観賞されていた古今の銘品。「瑞光蓮花弁数は14~18枚の一重咲種。花色は白い地にピンク色の爪紅となる。開花初日はピンク色が比較的濃く、その後後退し白粉の様な白さとなる。」「酔妃蓮(すいひれん)」爪紅蓮系統大型 一重酒で酔って、頬を染めている妃から名前が来ている と。「酔妃蓮花弁数20枚前後の一重咲種。花色は白い地にピンク色の爪紅となる。開花初期は全体にピンク色をしているが次第に白となり、先端だけピンク色が残る。」「白万々(はくまんまん)」。白蓮系統大型 八重江戸時代から伝わる。蕾。「白万々花弁数は100~120枚の八重咲種。花弁は蕾から開花直前頃までは緑色を帯びているが、開花後は純白となる。」「毎葉蓮(まいようれん)」。各立葉毎に花をつけるほど花つきが良いことからこの名がつけられた。江戸時代から伝わる。条線が鮮明。「毎葉蓮花弁数20枚前後の一重咲種。花色は濃いピンク色で条線は鮮明。」「瑞光蓮(ずいこうれん)」。爪紅蓮系統普通 一重「瑞光蓮花弁数は14~18枚の一重八重咲。花色は白い地にピンク色の爪紅となる。開花初日はピンク色が比較的濃く、その後後退し白粉の様な白さとなる。「原始蓮(げんしはす)」。紅蓮系統大型 一重大賀一郎博士が原始的な蓮として命名した。大阪府指定天然記念物。「原始蓮花弁数は25枚前後一重咲種。花色は濃いピンクで退色が早く花弁基部近くは白くなり条線は鮮明。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.07.26
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この日は7月7日(金)、テレビのニュースで埼玉県行田市にある「古代蓮の里」で蓮の花が満開を迎え、多くの来園者で賑わっていることを知り、下の姉夫婦を誘って我が愛車で訪ねたのであった。蓮の花の鑑賞は、朝早くが良いとのことで、自宅を早朝6時に出発。姉夫婦を乗せ、ひたすら「圏央道」を走り、「狭山PA」でトイレ休憩。八王子JCTからに鶴ヶ島JCT向かって最初で唯一のPA。周辺で栽培される狭山茶商品が充実。弓削多醤油などの地元特産品を豊富に取りそろえているのであった。駐車場には大型トラックが駐車場を争うが如くに所狭しと停まっていた。「圏央道」は都心をただ通過するだけの、大型運送トラックを中心とした交通を排除し、また、都心近郊の交通を適切に分散化することにより、首都圏の交通混雑を緩和するために設置された有料高速道路なのであるが。そして「圏央道」の「桶川加納IC」から一般道国道17号を進む。そして、埼玉県道148号線、364号線を利用して、「古代蓮の里」駐車場に到着。時間は8:40。 埼玉県行田市小針2375。「行田市 古代蓮の里」の2023年のポスター。「開花期間 6月24日(土)~8月6日(日)」と。「花はいつ咲くの?花蓮の開花は4日間です。日の出と共に花が咲きはじめ、午前中には花が閉じてしまいます.当園では午前7時から午前9時の問のこ観賞をおすすめしております。」「古代蓮会館 案内展示室 行田の自然や古代蓮を中心に、ジオラマや映像などの展示を通じて 楽しみながら学習できます。 ・行田の自然ジオラマ展示室 ・蓮の観察コーナー ・古代運のレプリカ展示 ・蓮の文化誌コーナー ・大画面映像コーナー展望室 高さ50mの展望室は、行田の自然環境や関東平野を取り国む山並み などの大パノラマを楽しむことができます。天気がよい時は東京都内まで 見渡すことができます。」古代蓮会館入館料 大人(高校生以上) 400円/人 小人(小・中学生) 200円/人」「行田蓮(古代蓮)行田の地で眠りから覚めた「行田蓮』花ひとつひとつの神秘的な美しさと、潔さに感動行田市の天然記念物に指定されている「行田蓮」(古代蓮)は原始的な形熊を持つ1400年~3000年前の蓮であると言われています。古代蓮の里にほど近い公共施設建設工事の際に、偶然出土した種子が自然発芽し甦り、池に開花しているのが発見されました。地中深く眠っていた多くの蓮の実が出土し、自然発芽して一斉に開花した事は極めて珍しいことといわれています。古代蓮の里では、行田市のシンボルともなっている古代蓮を育てており、可憐な古えの花をお楽しみいただいております。6月中旬から8月上旬にかけて濃いピンクの花が、蓮池一面に咲きます。蓮の花は午前中が見頃です。」「蓮の花の命( 4日間)①1日目 開花初日は午前6時頃から花弁が開きはじめ、3 ~ 40crnほど 開いたのち、8時頃にはつぼみの状態に戻ります。②2日目 午前7 ~ 9時頃には満開になります。花は最も美しい時を迎え、 優しい香りが漂います。そしてまた、つぼみの状態に戻ります。③3日目 2日目と同じ経過をたどり、最大に開きます。受粉しためしべは 黒っぽく変化し、花の色が退色します。 昼頃には閉じ始め、閉じかけたまま夜を迎えます。④4日目 7時頃には完全に開きます。早いものでは8時頃から散り始め、 昼には全ての花弁が散っています。パンフの右側には「~42種 花蓮一覧~」の写真が紹介されていた。「園内のご案内公園の面積は14ヘクタール。樹木や水生植物、草花など自然がいつぱいです。大人から子どもまで、1日楽しく週ごせる「古代蓮の里」は、蓮の花のシーズンはもちろん、四季を通して楽しめる見どころ満載の公園です。」周囲が護岸された整形な池になっている「世界の蓮園」。名称の通りハスの種類がとても多く、開花時期のこの日は、はかなりの見ごたえであった。その奥には、古代蓮会館の50mの展望タワーが聳えていた。手前の「世界の蓮園」を巡る。最初に「姫蓮(ひめはす)」。紅蓮系統一重 比較的小型。花つきが良い。この花びらに縦に入った赤い線は「条線」とよばれるもので、これは、蓮によって、あるものとないものがあるが、この蓮は特に条線のきれいな蓮で、濃いピンク色。日によっては白い地にはなびらの先が赤く染まり、綺麗な条線がくっきり見えることもあり、さわやかな咲き方をする蓮である と。「姫蓮花弁数は14~18枚の一重咲き種。花色は濃いピンクで条線は鮮明。」そして「即非蓮(そくひれん)」。即非は隠元の高弟で、隠元に招かれて来日し、長崎崇福寺の中興開山となり、黄檗山萬福寺で、隠元をたすけ、さらに小倉藩主の小笠原忠真の依頼で福聚寺(ふくじゅじ)を開創しました。そして 遂に故国に帰ることなく、日本に骨を埋めました。即非が伝えた蓮が即非蓮です。条線もはっきり見える品種。「即非蓮花弁数20枚前後の一重咲き種花色は桃色で条線は鮮明。」「魚山紅蓮(ぎょざんこうれん)」条線が鮮明。「魚山紅蓮(ぎょざんこうれん)花弁数は 15枚前後で花色は桃色で条線は鮮明。漁山は声明(しょうみょう 僧が仏の徳をたたえて節をつけて唱える)の起源地として伝説に残る中国の地。」白い花は「王子蓮(おうじばす)」黄紅蓮系統大型 一重アメリカ産の王子蓮(黄蓮系統)と東洋産の紅蓮系統との交雑品種。「王子蓮花弁数24~26枚の一重咲種。花色は淡黄のクリーム色」「明光蓮(めいこうれん)」。1971年阪本祐二氏作出。紅蓮系統普通 一重。蜀紅蓮と舞妃蓮の交雑品種。「明光蓮花弁数は16~20枚の一重咲種花色は濃いピンクで、花弁基部にわずかに黄色が見られ退色は遅く、3~4日目に淡いピンク色となる。」そして「大賀蓮(おおがはす)」。大賀一郎博士が発掘した実より咲いた花。千葉県指定天然記念物。昭和26(1951)年3月30日に1個、4月6日に2個のハスの実が、千葉県検見川の東京大学検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)だった泥炭地で、大賀一郎博士と地元小中学生らによって発掘されました。なんとこの実は約2000年前(縄文時代)のものと鑑定された。そして、このうちの1個の実が、翌年の昭和27(1952)年7月18日に見事に花を咲かせ、2000年の眠りから目を覚ましたのだ と。紅蓮系統大型 一重「大賀蓮花弁数14~20枚の一重咲種。花色は鮮やかなピンク色。」「世界の花蓮」案内板。正面から。 ・・・つづく・・・
2023.07.25
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第1蓮池の北西100m程の場所にあるのが第2蓮池。第2蓮池には紅色の蓮の花「誠蓮(まことばす)」が咲くのであるが、この日は未だ1~2部咲き程度であった。「誠蓮(まことはす)」は福岡県の佐藤誠氏が食用蓮「備中」から作った品種であると。開花している花にズーム。大型の八重咲き種。花弁数が多く100枚を超えるとも。色合いが華やかで、とても愛らしい花。お盆用の切り花としても栽培されている品種であると。ズームして。花粉球を持った西洋ミツバチを発見。そして第2蓮池には亀の姿も。この6月から「条件付特定外来生物」に指定された「アカミミガメ」か?「条件付特定外来生物」は、外来生物法に基づき特定外来生物に指定された生物のうち、通常の特定外来生物の規制の一部を、当分の間、適用除外とする(規制の一部がかからない)生物の通称。この第1蓮池にも野鳥の止り木が。「アメンボ」👈リンク の姿も。ハスの葉のように水滴をコロコロとした球体のまま弾く性質を「超撥水」と呼びます。じつは、水面をスイスイと歩くことができるこのアメンボも、足の毛が凹凸のような構造に」なっており、ハスと同じ「超撥水」に分類されるのです。「ミソハギ(禊萩)」であろうか?ミソハギは日本各地の湿原や小川、用水路の縁などに見られる多年草。濃いマゼンタピンクの花が、茎の先端に穂になって咲きます。1輪の花の大きさは1cm弱。明朝は完全開花か?花びらが水面に。水面に浮かぶひとひらの花びら。中心の黄色い部分が「花托(かたく)」または「花床(かしょう)」と呼ばれる部分。そして、花托の表面に見える丸いぽちぽちが、ハスの花の「雌しべ」。外側の黄色のひらひらとしているのが、ハスの花の「雄しべ」。花びら全体がピンクに染まって。大きな蕾。第1蓮池の近くには「ハンゲショウ(半夏生)」。上の方の葉っぱが、ペンキをべったり塗ったように白くなるのがおもしろい。花期に葉が白くなるのは、虫媒花であるために虫を誘う必要から、このように進化したのではないか、といわれている(白くて目立つ)。花が咲き終わって夏の盛りの頃になると、白い葉の白い部分は色落ちして、ふつうの緑色っぽくなる。「半夏生」、 「半化粧」、「片白草(かたしろぐさ)」 など、いろいろな呼び名がある。「半夏生」:夏至から数えて11日目頃(もしくはその日からの5日間)を「半夏生」と呼ぶが、その頃に花が咲くことから。「半化粧」、「片白草」(かたしろぐさ):葉の半分ほどが 白くなることから。花托が覗いて。再び葉の上の水玉を。微妙に真ん中にはない水玉。この日の「誠蓮」も見納め。「カルガモ」。たくさんの種類がいるカモの仲間のうち、クチバシの先だけ黄色いのは「カルガモ」だけ。ペアであろうか。緑色の首をした「マガモ」と同じくらいの大きさですが、マガモより軽いので「軽鴨」の名がついたという説もあるとか。カルガモは雌雄同色であると。こちらが雌?こちらが雄?そして第1蓮池まで戻り、白の「舞妃蓮(マイヒレン)」を再び楽しんだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.07.22
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この日は6月30日(金)、今年も市内鵠沼(くげぬま)にある蓮池を6月30日の早朝に訪ねました。7月の誕生花、幸福の花とも呼ばれる蓮の花、そして私の誕生日も7月。鵠沼の地名の由来は、鵠(くぐい)とは白鳥の古名で、かつてこの辺りには沼が多くあり、鵠が多く飛来していたと言われているのです。 鵠の文字の左は「告」では無く「牛+口」であることを以前知ったのです。小田急線で藤沢まで行き、江ノ電藤沢駅へ。江ノ電の改札口。時間は6:55。正面に花時計。江の島の美しい夕景が。江の島と富士山のコラボ。7:00発の電車の入線を学生たちが待つ。丸窓のある降車ホームの壁。「藤沢駅の外観が円窓に白壁という宇宙船のドックのように見えることから電車を宇宙船に見立てて、窓枠を使った文字がGOという言葉と電車が発射しているような噴射状のスプラッシュを表現しました。また、ホームの端に旅人を見送る町娘を描くことで乗客の旅行気分を高め、降車ホームの壁面には宿場町を描くことで和の要素を取り入れ外国人観光客にも楽しめるような意図を込めています。乗車時の待ち時間に、旅の記念写真を撮れるスポットとしてトイレの周りにランドマークの江ノ島と江ノ電ロゴを描き、降車の際には江ノ電がいつもとは違う日常を味わえる路線ということを示せるように、改札を出る手前でタイポグラフィのアートをお楽しみいただけます。」と。ズームして。電車が入線。そして藤沢駅7:00発の電車が「柳小路」駅に7:03に到着。鵠沼(くげぬま)・蓮池に向かって住宅街を進む。鵠沼藤が谷のここ第1蓮池の蓮は、「舞妃蓮(まいひれん)」という種類。舞妃蓮は、昭和41年に御坊市の阪本祐二氏が、アメリカの黄花ハス「王子蓮」と日本の「大賀蓮」を交配して作り出した、御坊市生まれの蓮。昭和43年の春には、蓮根が現在の天皇皇后両陛下に献上され、その年の夏に東宮御所で開花。そして昭和44年、花の開閉があたかも女性の舞い姿のようであることから阪本祐二氏によって『舞妃蓮』と名付けられたと。時間は7:08。花色は初日は淡い黄色で、全体に淡い紅色が乗り、赤、黄とも日を追うごとに退色していき、二日目以降、淡い黄色の爪紅状になります。屈光性のため、花弁がやや捩れる傾向があり、風に舞うように見える事から舞妃蓮の名が付いたと言われています。ピンクの蕾。蕾の先端がほんのり紅く、開花して1日目はピンク、2日目3日目は黄色に変化すると。そして花が開くと花片下部は薄い黄色に。蓮の花の花心部分に濃い黄色の姿が。そしてエピローグに向かって。第1蓮池の花の姿をカメラで追ったのであった。野鳥が留るポールも設置されていた。池の水面に浮かぶ蓮の葉。丸いかたちをした葉にはほかの植物と同様、気孔と呼ばれる空気や水分の出入り口を持っている。ハスの生息地は沼地。水に含まれた泥が、葉の気孔をふさいでしまう恐れがある。そんな泥水のなかでも生息できるのはなぜか? それは、ハスの葉が高い撥水性を備えているから。ハスの葉に水がかかると、水は葉の上で丸い水滴となりコロコロと流れて行く。これはハスの葉の表面に超微細な突起物があるから。そのサイズは数マイクロメートル程度。1マイクロメートルは、およそ0.001ミリメートル。日本人の髪の毛の太さは0.08ミリメートルなので、とても小さいことが分かる。この突起物がクッションとなって水滴を支え、撥水効果を生んでいるのだ。さらに、ハスの突起物の先端には水に溶けにくいワックスがついている。突起物の凹凸とワックス、この2つの相乗効果で、泥水が気孔に侵入するのを防ぎ、高い撥水性を実現しているのだ。こうした撥水効果を、ハスの英語名称(Lotus)から「ロータス効果」と呼ぶのだと。再び蓮の葉の水玉を追う。中心に集まらず、様々な大きさで葉の表面に留まっているのが不思議!!「ショウジョウトンボ」であろうか?そして一羽・が小魚?を咥えて留まっているのを発見しズームして。カワセミ(翡翠)。カワセミは小さな体に長いくちばし、鮮やかなコバルトブルーの背とオレンジの腹が特徴の水辺に住む鳥。その美しさから「飛ぶ宝石」ともいわれている。一斉にシャッターの音が、そしてその音に驚いたかアッという間に姿を消してしまったのであった。しばらく待ったが、再びカワセミの姿を見ることは出来なかった。再び「舞妃蓮(まいひれん)」を追う。「メロカリス」?との共演。花菖蒲とも。 ・・・つづく・・・
2023.07.21
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今年も我が家の庭のグラジオラスが開花しています。グラジオラスは花色が豊富で、あらゆる花色が楽しめ、花弁もフリンジ咲き、平弁咲き、反転弁咲き、受け咲きなどがあります。グラジオラスの名の由来はラテン語の「剣」という意味のグラディウスで、葉の形からきていると。日本へは江戸時代の末期に一度渡来しましたが、栽培がうまくいかずに明治になって再渡来し、その後に栽培が普及し、現在では切り花として年間を通じて作られていると特に植え替え等はしていませんが、毎年花をつけて楽しませてくれます。グラジオラスの花言葉は「密会」、「用心」、「忘却」、「勝利」、「思い出」。むらさきの色のグラジオラス。夏の花壇を華やかに彩ってくれるグラジオラス。鮮やかな花色の2色咲きタイプ。華やかな色の競演を楽しめるのです。うす緑のグラジオラス。そしてホオズキ(鬼灯)。鮮やかなオレンジ色の果実を提灯に見立て、お盆に飾ることでも有名。 古くに中国から薬草として渡来したと考えられていますが、現在では観賞用として鉢植えや切り花で流通している。7月9日・10日、浅草寺境内を彩るほおずきの屋台は、浅草の夏の風物詩である。この両日は四万六千日の縁日であり、縁日にともなってほおずき市が催されたとテレビのニュースで。そしてカサブランカ。菜園にはノアザミの花が。どこからか種が飛んで来ました。この花の周りの草むしりは、葉の棘が痛いのです。そして我が趣味の養蜂場のヒマワリ(向日葵)の花。今年は多花性・枝咲きのヒマワリをタネから育てました。ズームして。ミツバチのようなポリネーター(花粉媒介者)は、より温度が高い花に飛んでいく傾向があるそうです。さらに、温度が上昇すればするほどたくさんの花粉が放出されると。ヒマワリは、主たるポリネーターであるミツバチが活発に活動する午前中に自身の温度が上がるよう太陽の方を向くようです。つまり、それが東側というわけです。ミツバチが活発に活動する時間帯に温度を上げることが、最も効率よくたくさんの花粉をミツバチに運んでもらうことができる術を知っているのでしょう。そしてこちらも養蜂場で咲くアーティチョーク。和名はチョウセンアザミ(朝鮮薊)。形態的には大型アザミ。若いつぼみを食用とするヨーロッパの春野菜(花菜類)とのことですが、未だ食べたことはありません。そして我が家の裏の農家の温室前の水タンクに咲く蓮の花。鮮やかなピンク!!そして淡い黄色で。 ・・・END・・・
2023.07.15
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我が菜園の「花オクラ」が花を付け出しました。オクラとよく似た美しいレモンイエローの花を咲かせる「花オクラ」。実ではなく花を食べるのが特徴です。花オクラはアオイ科トロロアオイ属に属する一年草。「トロロアオイ」や「黄蜀葵(オウショッキ)」とも呼ばれている。花オクラは中国原産の植物で、花や根の部分が食品や漢方薬として活用されて来たとのこと。日本へも古くから伝わっていて、根と果実の粘液が和紙ののりとして使われていたとのこと。花を5個ほど摘んで来ました。花オクラは実ではなく花の部分を食べるのです。花オクラの花は花弁が5枚で、オクラの花とよく似た淡いレモンイエロー色をしており、中心部と雄しべの柱頭が濃いワインレッドをしています。朝に咲いて夕方にしぼんでしまう一日花。旬は6~8月で、最近では道の駅や農家の直売所などで販売されているようです。花オクラの花は10~20cmほどの大きさで、オクラの花の2倍ほどのサイズ。花オクラも実をつけますが、かたく短い実でオクラのような長いさやにはなりません。食べてもふさふさとした毛が口に残ってしまうため、食用には向かず、食べられることはほとんどないのです。指で根元を切り落とし、雌花やがくを取り除いて花びらだけにします。そして沸騰したお湯でさっと湯通しします。酢を加えたお湯でゆでると鮮やかな色を保ちやすいのです。そして直ぐに冷水に浸します。冷水には、花オクラの黄色い色が溶け出して。そして寿司酢を加えて出来上がり。氷を入れて、ビール片手に楽しんだのでした。特有のぬるぬる食感と美しい色合いが魅力的なのです。淡白な味わいなのでどんな調理法でもアレンジしやすいのです。今まで花オクラを使ったことがなかったという方も、ぜひ花オクラを活用して夏らしい食卓にしてみてください!!花オクラは淡白な味わいなので、さまざまな料理に活用しやすい食材。おすすめの調理法をいくつかネットからご紹介します。「■サラダ新鮮な花オクラが手に入ったら、生のままサラダにしてシャキシャキした食感を味わいましょう。下処理をした花びらにドレッシングをかけてそのまま食べると、花オクラ特有の味わいと歯ごたえを堪能できますよ!花びらを刻んでサラダに入れたり、花びらで生ハムなどをくるんだりするのもおすすめです。■おひたし美しい色合いを活かしておひたしにするのも定番です。酢を加えたお湯でゆでると鮮やかな色を保ちやすいですよ。加熱するととろりとした粘り気が強くなるので、オクラに似た食感も楽しめます!できたてを食べるのはもちろん、冷やして食べてもおいしいですよ。■天ぷら花オクラの天ぷらもぜひ味わってみてほしい一品。花に薄く衣をつけさっと揚げましょう。花びらを一枚ずつ揚げてもよいですし、つぼみをそのまま揚げても大丈夫です。サクサクの衣と粘り気のある花オクラのもっちりとした食感の違いが楽しいですよ。ほんのりと苦味があり、オクラ特有の香りや風味がたまりません!素材の味を感じられるようシンプルに塩でいただくのがおすすめです。■寿司鮮やかなレモンイエローの色合いを活かして寿司にするのも人気です。さっと洗った生の花びらの上に寿司飯とお好みの刺し身や野菜を盛り付ければ華やかなメニューが完成します。小さく握った寿司飯の上に花びらを巻いた手巻き寿司にしてもとても可愛いですよ!」と。次回は「天ぷら」で楽しみたいと思っています。 ・・・END・・・
2023.07.13
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更に「足利フラワーパーク」の奥に向かって進む。「水上花壇」の中の木橋を進む。ピラミッド型の「水上花壇」の花もペチュニアであっただろうか?階段状ピラミッド型の「水上花壇」も。様々な「水上花壇」を追う。そしてこれが「水上花壇」の先にあった「大長藤」の藤棚。根本をズームして。「大長藤」の開花写真。これも。さらに「水上花壇」の木橋を歩く。そして引き返すと、ここにもクレマチス。「八重藤」の案内板の写真。ネットから。ズーム写真。花菖蒲の咲く池。美しい青のアジサイ。クレマチスも負けじと。「むらさき藤のスクリーン」。「むらさき藤のスクリーン」の藤の花をネットから。白い花の樹。「キョウチクトウ(夾竹桃)葉っぱが竹に、花が桃に似ている事から夾竹桃といわれます。非常に丈夫で育てやすいですが、葉・花・枝・根の全てに青酸カリ以上の毒があるともいわれています。公害に強く、以前はよく高速道路や公園に植えられていました。」散策道脇にはユリの花も開花を始めていた。西洋アジサイに似たこの花は「キバナノコギリソウ」?放射状に糸のように咲いていた花の名は?再びバラの花を楽しむ。「ギガンジューム」。「ギガンジュームはネギ属で、タマネギやニンニクの仲間です。学名の「Allium」は、「ニンニク」を意味するラテン語です。近くに寄ると本当にニンニクほどではありませんが、ネギやタマネギのような香りがします。そして「gigantium」は、ラテン語で「巨大な」という意味です。花全体の大きさや、草丈が長いことから由来されたとされています。」と。ペチュニアを再び。「リーガース・ベゴニア」。ガクアジサイの見事な鮮やかな青と白の共演。近づいて。6月3日(土)から「青と白の世界 花菖蒲×あじさいまつり」が開催されると。その他にもここ「足利フラワーパーク」の藤の花のネットからの写真を紹介いたします。「白藤のトンネル」「白藤の滝」。「きばな藤」。「むらさき藤棚」。そして「ショッピングハウス」に戻る。「観葉植物」コーナー。「食虫植物」コーナー。近づいて。傘も色とりどりに。藤の開花の時期に再び訪ねたい、しかしかなりの渋滞を覚悟しなければ、いや1泊を覚悟して!!と思いながら「足利フラワーパーク」を後にし、「東北道 佐野藤岡IC」から往路と同じルートで帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.06.30
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「足利織姫神社」を後にして、次の目的地の「足利フラワーパーク」に向かって「織姫神社前」交差点を東に進む。そして10分ほどで「JR上毛線」の「あしかがフラワーパーク駅」前を通過。駅の階段には巨大な満開の紫の藤棚がラッピングされていた。この階段を降りて5分歩けば「足利フラワーパーク」正面玄関へ。「足利フラワーパーク」手前のいくつかの大きな駐車場を見ながら進む。そして「あしかがフラワーパーク正面駐車場」に到着。正面ゲートに向かって進む。駐車場にも見事に開花した花々の植栽が。正面ゲート。「樹齢160年におよぶ大藤と四季折々の花が楽しめる「花と光の楽園」。特に春は600畳敷きの藤棚を持つ大藤や、長さ80mもの白藤のトンネル、きばな藤など350本以上の藤が咲き誇り観るものに感動を与えます。また、同時期に見頃を迎えるクルメツツジや、5~6月には「バラ」「クレマチス」「しゃくなげ」「花菖蒲」、夏には「アジサイ」「スイレン」が園内を彩ります。秋は20,000株の「アメジストセージ」が園内一面むらさき一色に染め、10月中旬~2月中旬にかけては日本三大イルミネーションに認定されている「光の花の庭」も見所。」と。「花菖蒲」が迎えてくれた。近づいて。青と白の額縁の可愛らしいアジサイの花。お菓子のような「アジサイ コンペイトウ」と。様々な色のアジサイが1鉢2000円で売られていた。縁が濃いピンクのアジサイ。青の「ダンスパーティー」。近づいて。ペチュニア。「園内マップ」。「ショッピングハウス」を横から出ると右側の「フラワーステージ」の一面にピンクの花々が。近づいて。バラの花も。「フラワーステージ」入口の通路にはつるバラのアーチが。近づいて。前方に「うす紅の棚」が見えて来た。右側の「フラワーステージ」の花々を楽しみながら進む。「ペチュニア」。そして「うす紅の棚」の手前の池の木橋を歩く。「うす紅の棚」の藤の花をネットから。別の場所にあった案内板の写真。そしてその先にあったのが巨大な「大藤」(左側)。大藤は2本あり、それぞれの藤棚(公園マップではA大藤とB大藤)がつながるように配され、各々600畳の広さがあると。(合わせて1200畳以上)。栃木県指定天然記念物(2007年指定)の案内板によると、名称はノダナガフジNO1とノダナガフジNO2になっていた。ズームして。野田長藤NO1樹齢140年、幹廻り4.05m、花房1.8m、南北36.3m、東西33.4m開花中の「大藤・野田長藤NO1」の写真をネットから。巨大な「大藤」(右側)。野田長藤NO2樹齢140年、幹廻り5.15m、花房1.8m、南北35.8m、東西37.1m開花中の「大藤・野田長藤NO2」の写真をネットから。案内板の大藤の花の写真。「奇跡の大藤1991年足利市中心部にあった樹齢130年、幹回り3m60cm、棚面積600の大きさの藤(当時)は町の再開発の為移動せざるを得なくなりました。しかし、幹の直径1 m以上の藤は、移植成功の前例がありませんでした。何年も移植の方法を模索し、1994年ようやく移植の準備が開始されました。幹がもろく柔らかい藤の移動は困難を極めましたが、延べ2 0 00名の人々の努力と、諦めない強い気持ちにより、1996年移植が実施され、日本で初めての成功例となりました。」夜の「大藤」をネットから。その先には「クレマチス」の白い花が。紫の「クレマチス」。正面に「うす紅橋」。「うす紅橋」の見頃の夜の写真。夜の「うす紅橋」の写真をネットから。こちらはイルミネーションの写真(ネットから)。橋の上から。廻り込んで「うす紅橋」を見る。ネットから別の場所からの「うす紅橋」の写真を。「バラの咲く島」を歩く。様々なバラの花をカメラで追う。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.29
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そして「大清水アジサイロード」を後にして帰路に。途中、民家の横の広場に、種類の異なるアジサイが咲いていたので、車を停める。ガクの小さなアジサイ。こちらは鮮やかなピンク。このアジサイも白のガクが細かく。近づいて。様々な色のアジサイが開花中。「スイセンノウ」。白のアジサイ。ピンクのガクアジサイ。近づいて。さらに。「スイセンノウ」、白&青のアジサイとのコラボ。白をズームして。青をズームして。そして5分ほどで帰宅。我家の庭の「金糸梅(キンシバイ)」。近づいて。多くの我が?ミツバチが訪花していました。そして我が庭のガクアジサイ、これから色合いを増して来るのであろう。こちらは青の西洋アジサイ。これぞ我が家の「明月院ブルー」。明月院に植えられているのは、ほとんどが「ヒメアジサイ」と記憶している。「ヒメアジサイ」は、ホンアジサイとエゾアジサイとの交雑種と考えられているようだが、野生のものが存在しないことから、詳しいことはわからないのだ と。親子の姿のごとくに。今年も、「日比谷花壇大船フラワーセンター」、「大清水アジサイロード」、「我が家」の紫陽花(アジサイ)を大いに楽しんだのであった。そして「アジサイの歴史」👈リンク についても、学んだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.06.20
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我が家の近くの農園の隅に立つ「ネムノキ(合歓木)」が可愛らしい、ふわふわした夢のような花をたわわにつけています。樹高は5~10mで樹皮は滑らかで灰褐色をしており、枝は上部で横に伸びている。ネムノキ(合歓の木)の名前の由来は、鳥の羽に似た葉が夜には、自然に閉じて木が眠ったように見えることから、ネムノキ(合歓の木)という名がついた。 漢字名の「合歓木」の「合歓」は、左右の葉っぱが合わさって閉じることから男女の伴寝の意味とも。中国においてネムノキが夫婦円満の象徴とされていることから付けられたものである と。英名はシルク・ツリー(Silk tree:絹の樹木)と呼ばれており、これは多数の雄しべを絹に見立てたものである。万葉集 紀女郎(きのいらつめ)の歌。「昼は咲き 夜は恋ひ寝(ぬ)る 合歓木(ねぶ)の花 君のみ見めや 戯奴(わけ)さへに見よ」 【昼は咲いて夜は恋いつつ眠る合歓木の花を、あるじだけが見てよいものだろうか。お前も見なさいな】と。奥の細道 松尾芭蕉「象潟(きさかた)や 雨に西施(せいし)が ねぶの花」(”西施”とは、中国の春秋時代の傾国の美女のこと。花をこの美女にたとえた)芭蕉が象潟を訪れたのは、1689年6月15日。その日は、雨で鳥海山の山が隠れるほどであった。翌日は雨上がりの晴れ。「松島は笑うがごとく、象潟はうらむがごとし。寂しさは悲しみにくはえて、地勢魂をなやますに似たり」と。【象潟に雨が煙っている。岸辺にひらくねぶの花が雨に濡れて、うちしおれる様は、 中国の絶世の美女・西施が憂いにまぶたを閉じてうつむいている姿のようで、象潟の風情を 象徴しているように見える】と。小林一茶「合歓咲く 七つ下りの 茶菓子売り」【ネムノキの花が咲く季節、午後四時頃、空腹を覚えるような時間に茶果子売りがやってきて、声を出す様子。夏のこの季節の、少しノスタルジーを感じるような、夕方の風景がすごく共感を持って感じられる風景を、一茶らしい感性で切り取っています。】葉は特徴的なので見分けやすい。20~30cmの2回偶数羽状複葉で、節ごとに1枚ずつ方向を異にして生えている互生である。2回羽状というのは、全体として羽状で、部分である羽片自体も羽状になっているという意味である。羽片を構成する葉を小葉と呼んでいる。羽片は7~12枚で対生。羽片には小葉が15~30枚で対生する。小葉は包丁型である。表面は光沢のある濃緑色で、裏面は粉白色である。夜には小葉が閉じて、夜明けとともに葉は開いて花は萎んでしまう。葉が似ているオジギソウの葉は、触るとシューッと閉じるが、ネムノキの葉は触っただけでは閉じない。夜になるとゆっくりと自分で閉じるのだ。2回偶数羽状複葉の偶数羽状複葉(ぐうすううじょうふくよう)とは「鳥の羽のように葉がつき、小葉(しょうよう)の数が偶数(ぐうすう)のもの」こと。2回とは羽状複葉(うじょうふくよう)の形を、2回くりかえしたタイプ(フラクタル)。すなわち、2回羽状というのは、全体として羽状で、部分である羽片自体も羽状になっているという意味である。地方によっては「七夕」の日に、「ネム流し」といって、「合歓木」の枝と大豆の葉を川の流れに流して、邪気をはらう行事があるとのこと。花をズームして。花は化粧用の刷毛(はけ)に似ているのだと。淡い紅色の花が枝先に十数個集まって咲く。 長く伸びた糸状のものは雄しべである。ネムノキの花の構造。ネムノキの花は、花序の周りに側生花があり、中央に頂生花があります。頂生花の雄蕊の花糸は、根元から上の方まで大部分が合着しています。筒状の花弁の基部が他の花より太くなっているのがわかります。この基部に甘い蜜がたまっているそうです。ネムノキはマメ科ネムノキ亜科の落葉高木。豆果は長さ10~13cmの広線形で、種子は10~15個入っている。種子は、長さ1~1.5cmの楕円形で褐色。『ねむの木の子守歌』👈リンク は1965年11月の秋篠宮文仁殿下ご誕生に合わせて作曲され献上された子守歌。歌詞は、上皇后美智子さまが高校時代にお書きになった詩が用いられた。作曲は、山本直純氏の妻・山本正美さん。♫ねんねの ねむの木 眠りの木そっとゆすった その枝に遠い昔の 夜(よ)の調べねんねの ねむの木 子守歌薄紅(うすくれない)の 花の咲くねむの木蔭(こかげ)で ふと聞いた小さなささやき ねむの声ねんね ねんねと 歌ってた故里(ふるさと)の夜(よ)の ねむの木は今日も歌って いるでしょかあの日の夜(よる)の ささやきをねむの木 ねんねの木 子守歌♫ ・・・END・・・
2023.06.19
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この日5月27日(土)の朝は5時半過ぎに目が覚め起床。天気が良かったので、車で10分ほどの場所にある「大清水境川アジサイロード」に今年も向かう。藤沢市と横浜市戸塚区の境を流れる「境川」の岸に植栽されているアジサイ群。「大清水境川アジサイロード」と呼ばれている。地域住民が自宅の庭などで育てたアジサイを植栽したもので、毎年、アジサイ祭が開催されているのだ。「大清水境川アジサイロード」のスタート地点の「大清水橋」を渡る。左手の上流側に見えたのが「横須賀水道路境川水管橋」海老名市社家の相模川から有馬浄水場経由で田浦配水池へ送水される有馬系統の導水管であると。以前は半原系統の導水管(φ500)も敷設されていたが、需要減少、水質悪化、施設老朽化などに伴い2007年(H19)に取水が停止され、2015年(H27)に系統と共に撤去されたのだと。 構造種別:1径間三弦トラス(1個のトラス構造で上弦材1本と下弦材2本の三角形構造) 河口からの距離:7.1km 橋の長さ:約57m 水管径:φ1000 完成:不明「神奈川県立藤沢清流高等学校」前に車を止め散策開始。アジサイの語源ははっきりしないが、最古の和歌集『万葉集』では「味狭藍」「安治佐為」、平安時代の辞典『和名類聚抄』では「阿豆佐為」の字をあてて書かれている。もっとも有力とされているのは、「藍色が集まったもの」を意味する「集真藍(あづさあい/あづさい)」がなまったものとする説である と。まだ花のピークには1週間ほど早かったろうか?紫陽花の漢字の由来は、唐の詩人、白居易(はくきょい)が招賢寺というお寺を訪れた時、お寺に咲いていた紫色の花を「紫陽花」と名付けたことから来ているのだ とネットには。しかし「紫陽花」は日本原産ですからこれは誤り?で、白楽天が詩に詠んだ花とは違うのでは??。淡いピンクに染まったアジサイ・「紫陽花」。アジサイ(紫陽花)の別名には、こんなものがあるのだと。 ●七変化(しちへんげ):七変化とは、咲き始めてから時間が経つにつれ、色を変える ことからついた別名 ●四片・四葩(よひら):「花びら(正確にはガク)が四片あること」からつけられた名前 ●手毬花(てまりばな):丸く集まった装飾花の形から ●オタクサ :この名は、シーボルトの美しき恋心から生まれた名前。 1823年、長崎に渡来したドイツ人医師シーボルト。 植物研究にも情熱を注ぎ、とりわけ紫陽花に夢中になった。 ●刺繍花(ししゅうばな):手毬花と同じく、刺繍に見立てる。 刺繍から連想するのは、西洋紫陽花ではなく山紫陽 ●八仙花(はっせんか):「七変化」と同じ。さまざまな色合いに変化することから 名づけられた名前花(萼)の色はアントシアニンという色素によるもので、アジサイにはその一種のデルフィニジンが含まれている。これに補助色素(助色素)とアルミニウムのイオンが加わると、青色の花となる。アジサイは土壌のpH(酸性度)によって花の色が変わり、一般に「酸性ならば青、アルカリ性ならば赤」になると言われている。これは、アルミニウムが根から吸収されやすいイオンの形になるかどうかに、pHが影響するためである。すなわち、土壌が酸性だとアルミニウムがイオンとなって土中に溶け出し、アジサイに吸収されて花のアントシアニンと結合し青色を呈する。逆に土壌が中性やアルカリ性であればアルミニウムは溶け出さずアジサイに吸収されないため、花は赤色となる。したがって、花を青色にしたい場合は、酸性の肥料や、アルミニウムを含むミョウバンを与えればよい。同じ株でも部分によって花の色が違うのは、根から送られてくるアルミニウムの量に差があるためである。花色は花(萼)1グラムあたりに含まれるアルミニウムの量がおよそ40マイクログラム以上の場合に青色になると見積もられている。ただし品種によっては遺伝的な要素で花が青色にならないものもある。これは補助色素が原因であり、もともとその量が少ない品種や、効果を阻害する成分を持つ品種は、アルミニウムを吸収しても青色にはなりにくい。土壌の肥料の要素によっても変わり、窒素が多く、カリウムが少ないと紅色が強くなる とウィキペディアより。また、花色は開花から日を経るに従って徐々に変化する。最初は花に含まれる葉緑素のため薄い黄緑色を帯びており、それが分解されていくとともにアントシアニンや補助色素が生合成され、赤や青に色づいていく。さらに日が経つと有機酸が蓄積されてゆくため、青色の花も赤味を帯びるようになる。これは花の老化によるものであり、土壌の変化とは関係なく起こるのだ と。日本に自生していたガクアジサイ(額紫陽花)が母種となり、西洋にわたって品種改良されたものが世界の紫陽花の主流になったのだ と。青のガクアジサイ(額紫陽花)。紫陽花の花は、装飾花と両性花から出来ていると。まず、装飾花とは、一般的に花と認識されている部分のことを指す。つまり、花びらが4~5枚あるように見えている部分のこと。一方で、両性花はガクアジサイやヤマアジサイの花房の中心部分にある、地味な花のことを指す。ガクアジサイの装飾花に囲まれた部分のことです。ちなみに、装飾花で大きく目立つようながく片は、花粉を運ぶ昆虫を呼ぶ際に利用するために発達したといわれているのだ と。西洋アジサイは←が花の部分。「平成16年度藤沢市まづくり賞 受賞ここは、大清水小、中、高等学校がひまわりの苗1200本を植え、境川を美しく彩りました。その活動が、「第23回沢市緑と花いつぱい推進活動」において「まちづくり賞」を受賞しました。」この、ガクアジサイは、「日本で昔から自生していた品種」👈リンク。まるで線香花火の如し。さらに「大清水アジサイロード」を下流に向かって進む。川の向こうに見えたのが「藤沢市民病院」。車で移動し「鷹匠橋」を渡り振り返る。「鷹匠橋」。徳川時代に将軍が鷹狩りをする目的で、藤沢御殿が造られた。現在の藤沢市民病院の側であった。その関係で、藤沢の辺りには鷹匠も住んでいたと。このことから市民病院北東の境川にかかる橋は、『鷹匠橋』と名付けられているのだ。歴史を感じさせる橋名。藤沢市内にはもう一つの「鷹匠橋」がある。こちらは「伏見稲荷大社」に向かって進むと引地川に架かる橋であり「大場鷹匠橋」と呼ばれているのである。よって正確には「鷹匠橋」はこの橋のみなのであるが。構造種別:1径間PC桁河口からの距離:6.5km橋の長さ:33.5m有効幅員:11m完成:1990年(H2)欄干には半透明ガラスにスミレとチョウを描いた洒落たステンドガラスの如き絵が飾られていた。近づいて。下を流れる川は横浜市との市境になっている「境川」。前方に藤沢バイパスに架かる「境川大橋」。「境川」の上流側を見る。「鷹匠橋」の欄干には同テーマの造形作品も。近づいて。白いスミレの花であろうか。別の場所のステンドグラス。「さかいがわ(境川)」。歩道にもタイル模様が。モンシロチョウの飛ぶ姿が微妙に異なるのであった。車に戻ったが、昨年は右岸にも多くのアジサイが植栽されていたが、今年はそのアジサイの姿が全く無かった。この場所は「境川サイクリングロード」の「藤沢・大和自転車道」になっているため、このサイクリングロードの安全確保の為なのであろうか? ・・・つづく・・・
2023.06.19
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そして次に「すいれん室」へ。しかし「熱帯スイレン 植え替え中です」との表示板が。熱帯性、昼咲き、黄色、小中輪の園芸品種が育っている部屋なのだが。熱帯スイレンは、花茎を水面より上に数cm伸ばして花を咲かせます。「セントルイスゴールド」。「ワンビサ」。「ワンビサ」。「クリント ブライアント」。「クリント ブライアント」。「ドーベン」。花弁の先にほんのりとブルーの入る白花種です。花は小さいものの非常に育てやすく、秋遅くまで咲き続けます。「ドーベン」。「ティナ」。明るい青紫色で、やや小ぶりな花ですが、非常に花つきが良く、小さな株のうちから絶え間なく花を咲かせてくれます。「ティナ」。「スター オブ サイアム」。濃い紫色の模様が明瞭な昼咲き性の熱帯スイレン。花は青紫色で、大きくはないが、葉だけでも存在感のあるスイレン。これは?そして食虫植物のコーナーへ。「サラセニア」。「サラセニア」の筒のような体は葉です。この葉は袋状になり、上部にフタがついています。袋状の葉の表側(前面)には縦に羽がついています。フタの表や裏、入り口や袋の上部から出る蜜で虫をおびき寄せます。この蜜をゆびでさわるとベタつきます。サラセニア」の捕虫葉は、ただの袋ではなく、獲物を捕まえるためのわなであり、落とし穴。蜜に誘われてやってきた虫が、袋の入り口で足を滑らせて中に落ちるのをじっと待ち構えています。うまくわなにかかり、虫が袋の中に落ちると、今度ははいあがることができません。なぜなら、サラセニアの袋の内側には下向きに毛が生えていて、よじのぼろうとしても毛に邪魔されて、のぼることができないのだと。「ネペンテス・ベントリコーサ」。ヒョウタンのように途中でくびれた翼のない捕虫袋を付ける。「ネペンテス・ベントリコーサ」。「ムシトリスミレ」。「ムシトリスミレタヌキモ科ムシトリスミレは土の養分の少ない高い山や湿原、崖地に生育しています。葉の表面で小さな虫を捕らえて消化吸収し不足する養分を補っています。スミレに似た花を咲かせるが、スミレ科てはなくタヌキモ科の植物」「ブロッキニア レズクタ」。「ブロッキニア レズクタギアナ高地原産の食虫植物筒状になった葉に虫を落として捕まえます。白い粉は虫を滑り落とすのに役立っていると考えられます。近年、食虫植物であることが、認められました。」「ホワイトゴーストトウダイグサ科 ユーフォルビア属原産:インドホワイトチョコレートをかけたような外観が特徴多肉植物の一種であるため、水は控えめに与える。」その名の通り「白い幽霊」を思わせる不思議なフォルム。そして、「グリーンハウス」を出て、「花壇」を歩く。ここにも満開中の「オルレア」が。「オルレア」は清楚でナチュラルな雰囲気が魅力で人気のセリ科の一年草(または多年草)。白くレースで編んだような繊細な花は、同じセリ科のコリアンダーの花に似ている。「オルレア」の名前は、学名のOrlaya grandiflora(オルレア・グランディフローラ)に由来。オルラヤと呼ばれることもあると。日本ではオルレアとして主に流通している園芸品種の‘ホワイトレース’のほうが学名より先に有名になったため、ホワイトレースと呼ばれることもある。しかし、別の草花であるホワイトレースフラワーと名前も草姿も似ているため混同されることが多く、近年では「オルレア」と呼ばれるようになっているとのこと。紫の「ルピナス」と共に。プロペラのような真っ白い花びら、葉はニンジンのような、洋ゼリのような。黄色の「ルピナス」と共に。手前のこれから開花する花は?そして再び入口側の「ハナショウブ園」に立ち寄る。「遠山の月」。「遠山の月」。「唐牡丹」。「唐牡丹」。「湘南」。「湘浦」。「和田津海」。「和田津海」。「揚羽」。「揚羽」。「❤」。入口に向かって進む。入口にあった小さな小屋。写真撮影用であろうか?「OFUNA FLOWER CENTER」と。子供達が記念撮影中であった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.06.12
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次に訪ねたのが「ハナショウブ(花菖蒲)園」。既にここも花もピークは終わっていたが。「春の雪」。「春の雪 伊勢系」。「金冠(きんかん)」。「金冠 交雑種」。「堺の黄金」。ズームして。「堺の黄金」。「新世の輝き」。「白紅」。「白紅」。この先にも「シャクヤク園」があった。「大船フラワーセンター案内図」。「オルレア」。「セイヨウミツバチ」を発見。正面に「グリーンハウス」が見えて来た。「グリーンハウス」に向かう。入口にあったのが「チュウキンレン」。「チュウキンレン(バショウ科)中国雲南省に分布する植物で、バナナに近い仲間です。黄色の花びらのように見えるのは苞葉で、本当の花はその内側にあります。「地面から湧いてきた金色の蓮」という意味で、「地湧金蓮(元は中国名)」と呼ばれています。」苞葉の内側に花が見えた。そして「グリーンハウス」の「らん室」へ。この部屋には洋ランを中心にアナナス類、しだ類、うつぼかずらなどを展示しています。入口付近には花はなく。最盛期には、「モンステラ」👈リンク、「コチョウラン」👈リンク、「オンシジューム」👈リンクの花が見られる場所。この株は?葉がシカの角のような形で、「ビカクシダ(コウモリラン)」ではないかと師匠から。「ビカクシダ」は世界中の熱帯地域に分布する着生シダ植物で、「コウモリラン」とも呼ばれています。 「コウモリラン」と呼ばれる由来は、垂れ下がる葉を「羽ばたくコウモリ」に例えたものだと言われている と。「ビカクシダ(コウモリラン)」の花を」ネットから。「ハイビスカス室この部屋にはハイビスカスを中心にその仲間やブーゲンビリアなどを植えました」様々な色の「ブーゲンビリア」。近づいて。正面には濃いピンクのブーゲンビリア。近づいて。「ブーゲンビリア」は、鮮やかで豊富な花色が特徴ですが、じつはこの色づいた花びらに見える部分は花を取り巻く葉で、苞(ほう)という。実際の花は、苞の中央にある小さな白い部分。「サンデリアーナ」。「サンデリアーナ」。右側が「サン ディエゴ レッド」。「サン ディエゴ レッド」淡いピンクの「オレンジ キング」。「オレンジ キング」。そしてこちらは「リュウゼツラン」・「アガベ」。日本では「リュウゼツラン」あるいは「アガベ」の両方で呼ばれることが多いが、趣味家にとって「リュウゼツラン」とはあくまで1つの品種のことを指すので、総称としては「アガベ」と呼ばれているとのこと。2年ほど前、知人のご自宅の前で開花してるこの「リュウゼツラン」👈リンクを見たのであった。「アガベ品種名:ベネズエラリュウゼツラン科品種によって耐寒温度や日照りの強さがかなり異なる鋭いトゲ、シャ-ープな姿に惹かれる愛好家は多い、「センチュリー・プランツ」とも言われる。また、開花すると株は枯れてしまう」肉厚で鋭いトゲのある大きな葉を竜の舌に例え、竜舌蘭の和名がついているのだと。上部の花。「100年に一度の開花アガベの花が咲きましたTVで取材されました4月2日 フジテレビ 「なりゆき街道旅」」「デュランタ 青」。近づいて。「デュランタ 青」。「コエビソウ」。近づいて。朱色の苞が重なったユニークな形がエビのように見えて美しいですが、その間から出る白い花はあまり目立ちません。「コエビソウ」。「ペトレア ウォルビリス」。「ペトレア ウォルビリス」。「ソラヌム シーフォーシアヌム」。ナス科のつる性常緑低木で熱帯アメリカ原産。近づいて。「ローレルカズラ」。近づいて。「ローレルカズラ」。そして「バナナ」。「バナナ」の花。これは、以前この場所を訪ねた時の写真。バナナの実がどのようにして出来て来るのかを理解できたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.11
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「日本の自生アジサイ展」を後にして「バラ園」へと向かう。右手には6月に行われる予定の「蓮鉢」が並んでいた。そして「バラ園」の入口へ。つるバラがアーチ状に。ハマナスの花は既に終わっていた。残された一輪の「ハマナス」の花を。そしてバラ園に。既にピークは終了していたが。このつるバラは満開状態で。その手前下には真紅のバラが。近づいて。「ガザニア」であろうか。そして開花中のバラの花をカメラで追う。「花山吹」。花名は源氏物語で紫の上を見初めた際の光源氏の衣の色合わせに因んだ名前だと。蕾は黄色に赤が混じり、咲き始めは淡い黄色地にピンクがのり、開花につれ赤味を増して行く。「花山吹」。「バラ園」の「休憩所」周りのバラの花を追う。黄色の「アンドレグランディエ」。ふちに近づくにつれ、やわらかなクリーム色に変化していくライトイエローの花は、独特の色彩。「アンドレグランディエ」。「月光」。剣弁高芯咲き。満月の日の月明かりは、こんな色合いなんだろうな・・と連想させるバラ。「月光」。「デンティーベス」。一重咲きの花びらの内側がソフトピンク、外側はローズピンク。そして赤紫色を帯びる花のしべ。「デンティーベス」。つるバラ「ルフス」。赤色のカップ咲き、小輪。近づいて。さらに。「ルフス」。1925年にイギリスのAllenが作出した。花のピークが終わったバラ園には人の数は少なかった。「光彩」。花弁の表が鮮やかな赤色で裏や底が黄色。「光彩」。「HTの中でわ小型のタイプ」と???「カインダ ブルー」。藤色の花びらが地面に散って。「カインダ ブルー」。近づいて。大きめの花が房になって咲く姿は見事。「サティーナ」。小ぶりのピンクの花が群がって咲いていた。「サティーナ」。「ニコロ パガニーニ」。花色は鮮やかな紅色。緑と真紅のコントラストが大変美しく、フロリバンダローズでは珍しい、剣弁高芯咲 と。「ニコロパガニーニ」。バラ園の「休憩所」前を歩く。こちらは「シャクヤク園」への入口。「シャクヤク園」には花はほとんどなく。ここにも、つるバラが。「シャクヤク園」側から。「バレリーナ」。株を覆いつくすほどの花付きで見事な景色を作り出す、つるバラの「バレリーナ」。ひとつひとつの花は小さいものの、それが房となって一斉に開花する様は圧巻。「バレリーナ」。「ドゥフトボルケ」。「香りの雲」の花名通り、甘い香りが素晴らしい。銅色を含む独特の花色に重ねの多い花容はボリュームもあり魅力的。「ステファニー ドゥ モナコ」。モナコ公国ステファニー王女に捧げられた、ピンクのグラデーションが大変美しい名花。「ステファニー ドゥ モナコ」。「シャコック」。赤みの強い花だが、咲き進む事によって色合いが変わる花のようだ。「シャコック」。「フリージア」。英国ではもっとも優れた黄色のフロリバンタ3種の一つに数えられる品種。鮮やかな花色は満開になっても褪色せず、黒点病に強く育てやすい品種 と。「フリージア」。「ブラッシング ノックアウト」。淡いピンク、丸弁咲き、小中輪房咲きの花。「ブラッシング ノックアウト」。小屋には「RoseGarden」と。「サンライト ロマンティカ」。サンライトの名の通り、光り輝くような黄色の花色とクラシカルな花形、強い香りが。「サンライト ロマンティカ」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.10
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入口から、再び通路左側の展示アジサイをカメラで追う。「松中手まり11号」。「松中手まり11号 高知県」。「チビタ ちび太」「チビタ ちび太 Y(ヤマアジサイ) 愛知県四国中央市土居町二つ岳付近」。「姫草の氷雪ナデシコ」。「姫草の氷雪ナデシコ Y(ヤマアジサイ) 愛媛県仁淀川上流」。「紅紫光」。近づいて。「紅紫光(ベニシコウ)大分」。「九重の花吹雪」。近づいて。「九重の花吹雪(ココノエノハナフブキ) 大分」。「屋久島白雪」。近づいて。「ヤクシマシラユキ(屋久島白雪) 鹿児島」。「姫草の宝石」。「姫草の宝石(ヒメクサのホウセキ)(愛媛)」。「紅紫光」。「ベニシコウ(紅紫光)(鹿児島)」。「屋久島コンテリギ」。近づいて。「屋久島(ヤクシマ)コンテリギ 屋久島」。「クレナイ」。「クレナイ 長野」。外の壁際にも展示されていた。「九重至宝」。「ココノエシホウ(九重至宝) (大分)」。「舞子 三重」。そしてUターンして反対側も再び。「白妙」。「しろたえ(白妙) 静岡県産」。「土佐虹絣」。「土佐虹絣(トサニジカスリ) 森藍絞り」。「桃雀」。「桃雀(モモスズメ) 九州」。再び「満天の星」を。「マンテンノホシ(満天の星) 高知県いの町本川」。「NHK おはよう日本で紹介された新種「満天の星」「姫草の永雪ナデシコ」」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.09
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「日本の自生アジサイ展」に関する新聞記事も紹介されていた。「自生アジサイを250品種集め紹介鎌倉日本全国に自生するアジサイを集めた「日本の自生アジサイ展」が鎌倉市岡本の日比谷花壇大船フラワーセンターで23日から始まる。愛好家が丹精込めて育てた全国各地のアジサイが並び、幽玄な雰囲気を醸し出している=写真。28日まで。市民団体「鎌倉アジサイ同好会」が例年5月下旬に開いているもので、約250品種300鉢のアジサイが並ぶ。今年は気温が高く例年に比べ開花が1週間程度早いという。また新型コロナウィルスの感染状況が比較的落ち着いていることから、アジサイの育て方などを紹介する講習会も開く。同会の前川英吉さんは「自生するアジサイの多彩さやわびさびに注目してほしい」と来場を呼びかけている。フラワーセンターへの入園料が必要。講習会は24日以降毎日午前11時から。問い合わせは、同センター☎0467(46)2188。」「苗の販売について」2ポットで500円の販売とします。「薩摩紫紺」。「薩摩紫紺 鹿児島県」。「剣の舞」。「ツルギノマイ(剣の舞) 徳島県」。「紅紫光」。「ベニシコウ(紅紫光) 鹿児島」。「乙女」。「オトメ(乙女) 愛媛」。「土佐のまほろば」。「土佐のまほろば 高知」。「クレナイ」。近づいて。「クレナイ 長野」。「千姫」。近づいて。「センヒメ(千姫) (広島)」。NHKテレビで紹介された「姫草の氷雪ナデシコ」。「紅紫光」。近づいて。「紅紫光(ベニシコウ) (大分)」。「屋久島白雪」。「ヤクシマシラユキ(屋久島白雪) 鹿児島」。日本国内の山等に自生するアジサイの「多彩さ」や「わびさび」を大いに感じながら、その色の美しさを楽しむことが出来たのであった。日本にずっと存在しながら、長らく日の目をみない花であった紫陽花。現在では多くの人に愛され、その鮮やかな色で人々を惹きつけているのだ。変わりやすい色もかつては敬遠される原因であったと。しかし今では、多様な色のバリエーションが、お祝いやプレゼントに使いやすい要因となっているのであろうとも感じながら展示会を後にして、さらに園内の散策に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.08
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全国に自生するおよそ250種類のアジサイを集めた展示会が、ここ神奈川県鎌倉市の「神奈川県立大船フラワーセンター」で5月28日まで開かれていた。展示会は地元でアジサイを育生する愛好家グループ・「鎌倉アジサイ同好会」がここで開き、およそ250種類、300鉢あまりのヤマアジサイなどが展示されていたのであった。「アジサイは、日本の固有植物(その地域にしか生息しない生物)だ。外観から、ガクアジサイ型とテマリ型、形態や生態などからガクアジサイ、ヤマアジサイ、エゾアジサイなどに分けられている。このほかに、蕾が特徴的なタマアジサイやノリウツギ、ツルアジサイ、装飾花のないコアジサイ、ガクウツギなど多様な系統がある。ガクアジサイは、伊豆・房総・伊豆七島などに自生し、葉が厚くて光沢がある。大株になる。ヤマアジサイの系統は、関東以西の湿っぽい山地に自生し、葉には光沢がない。小型である。エゾアジサイは、新潟・長野県の豪雪地帯から北の山地、および日本海側の山地に自生。葉は大きいが光沢はなく毛深い」 とネットから。まず最初に「展示場」横の屋外展示場を訪ねた。「ヤマアジサイは、主に太平洋側の福島県から四国・九州に分布しています。半日陰の湿り気のある林や沢沿いに生育しています。このことから別名のサワアジサイの名前がつきました。周辺の自然によくなじんでいる樹木です。中央から花の外側に向かって咲き、縁に沿って装飾花をつけてガクアジサイ(Hydrangea macrophylla f. nomalis)と同じようにガク咲きとなります。装飾花(中性花)の萼片は、白色または白青色で少し反り返りますが、紅色を帯びることもあります。ガクアジサイよりも花序が小型なので、コガクと呼ばれることもあります。アジサイに比べて葉は、薄くて細長く小型です。野趣に富んだ樹形で、花色や花形は地域による変異が多く、愛好家の間で人気の高い花木です。と」「京の舞姫」。「京の舞姫」。「青葉の笛(エゾ) 新潟県」。「青葉の笛(エゾ)」。「星のささやき 高知」。「星のささやき 高知」。「紅紫光」。近づいて。「紅紫光 鹿児島県産」。そして「展示室」内に展示されている「日本の自生アジサイ展」会場へ。日本原産の紫陽花=ガクアジサイ、それがヨーロッパに渡り品種改良された、てまり咲きのあじさいが西洋あじさいに。現在は300種類以上あるといわれています。「シーボルトが帰国して出版した『フローラ・ヤポニカ(日本植物誌)』には誤りも含めて17種のアジサイ類が掲載されているという。このなかに「オタクサ」があった。先述のように「オタクサ」は西洋アジサイの母種として重要な品種のひとつになった。オタクサの名は日本での妻、「楠本滝」に由来するという。日本でアジサイを「オタクサ」と呼ぶことはないので、その命名の理由があれこれ推察されているとのこと。まずは中央通路の左側のアジサイを見る、「満天星」。「満天星」は鮮やかなブルーのテマリ咲きのヤマアジサイです。整った花形が魅力の品種。近づいて。さらに。NHKのテレビニュース・大船フラワーセンター・日本の自生アジサイ展でも紹介されていた。「満天星(マンテンボシ)・大分県」。「九重山」。「九重山(クジュウサン) 大分県」。「白妙」。「白妙(しろたえ) 群馬県産」。「アジサイ」は古来より多くの詩歌に歌われ、俳句は夏の季語である。さまざまに色が変化する装飾花は、梅雨時の風物詩となっている。「アジサイ」が詠われている和歌は万葉集には二首のみ。・言問はぬ木すら味狭藍諸弟(もろえ)らが練の村戸(むらと)にあざむかえけり (大伴家持 巻4 773) 意味:ものを言わない木でさえ、紫陽花(あじさい)のように色鮮やかに見せてくれますね。 それ以上に言葉をあやつる諸弟たちの上手い言葉にすっかりだまされてしまったことですよ。・紫陽花の八重咲く如やつ代にをいませわが背子見つつ思はむ(しのはむ) (橘諸兄 巻20 4448) 意味:宴席で宴の主人である多治比国人の長寿を祝い詠んだ歌とされており 「紫陽花が八重に咲くように末永く栄えてください。 花を見るたびにあなたを 思い出しましょう。平安後期になるとしばしば詠まれるようになった。・あぢさゐの花のよひらにもる月を影もさながら折る身ともがな(源俊頼『散木奇歌集』)・夏もなほ心はつきぬあぢさゐのよひらの露に月もすみけり(藤原俊成『千五百番歌合』)・あぢさゐの下葉にすだく蛍をば四ひらの数の添ふかとぞ見る(藤原定家)「アイヒメイ」。「アイヒメイ 藍姫 徳島高知県境剣山系」。「トサノアカツキ」。「トサノアカツキ 土佐の暁 高知県」。「トサミスズ」。近づいて。「トサミスズ 土佐美鈴 高知県」。「松中てまり」。「松中てまり 高知県」。「屋久島白雪」。「屋久島白雪 屋久島」。「チヨノヒカリ 千代の光」。「チヨノヒカリ 千代の光 高知」。「シロマイコ 白舞子」。「シロマイコ 白舞子 静岡」。「木沢の光」。近づいて。「木沢の光 (徳島)」。「酔湖姫」。近づいて。「酔湖姫 (高知)」。「白鳥」。「白鳥 (静岡)」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.07
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この日は5月25日(木)、NHKテレビニュースで「大船フラワーセンター・日本の自生アジサイ展」が開催されていることを知り、急遽愛車で向かった。入場料150円(シルバー割引)を払い、園内に入る。「日本の自生アジサイ展」会場に向かうまで園内の花々を楽しみながら進む。「園内」には保育園の子供達が母親と一緒に来園していた。園内入口の石の「モニュメント」。そして「スイレン池」を訪ねた。白のスイレン(睡蓮)が可憐に開花中であった。この「睡蓮」ですが、決して「水蓮」ではないのです。この「睡蓮」にもちゃんと名前の由来があって、花は開いて閉じてを3回繰り返すのだと。これを人間のサイクルに例えて 日中(開く=目覚める)、夜(閉じる=眠る)というところから「睡眠する蓮」→「睡蓮」なのだと。なるほど納得なのだが、「蓮」も開いて閉じては同じはず。そして、「蓮」の文字は艹(くさかんむり)に連続の連。「つらなる」を意味する「連」と「艹(くさかんむり)」を組み合わせて、「連なった実をつける植物」を表現している。はす。はちす。スイレン科の多年性水生植物。「艸+音符連レン(つらなる)」。株がつらなって生えることからいう。純白の睡蓮が仲良く寄り添って。「スイレン池」の先には大きな野鳥が羽を休めていた。「アオサギ」であっただろうか。ペリカン目サギ科背中が灰色で、国内では最も大きなサギ。全長:93cm九州以北での林で集団繁殖し、各地の水辺で見られる。北日本では、秋冬に暖地に移動するものが多い。正面からは白く見えるが、横、後ろからは灰色に見える。成鳥では首が白く、頭に黒い冠羽があるが、若鳥では首や冠羽の色が淡い。立ったまま翼を半開きにして、日光浴をする。アオサギは漢字では「青鷺」あるいは「蒼鷺」です。体の羽の色はほとんど「灰色」なのになぜ「青・鷺」なのか不思議でした。理由は日本人の「色認識の基層」にあるようです。三浦佑之氏の「日本神話と色彩」によれば、古代日本人が認識した色の基層は赤、白、青、黒の4色で、「古代日本語の『青』は、青垣 ・ 青山 ・ 青葉などグリーン系統、青波 ・ 青雲などブルー系統のほか、青幣帛などグレー系統も表す幅広い色概念をもつ語である」とのことです。古代、日本人にとって青色は「緑〜灰色」までの概念だったようです。「青」と「緑」の区別が付けられ始めたのは平安時代末期から鎌倉時代のようです。アオサギと言う呼び名は,奈良時代にはすでに使われていたようですから、古代人にとって「青鷺」はごく自然な呼び名だったと思われます。奈良の都の「あをに(青丹)によし」の青丹色はややくすんだ「緑色」です と。花時計。さらに「スイレン池」をカメラで追う。ピンクのスイレンは外の鉢に。近づいて。「スイレン池」の前の遊歩道横に咲いていたのが「タチアオイ」。空に向かって元気に伸びていた。様々な色の「タチアオイ」。「ピンク」。「赤」。「オレンジ」。「紫つゆ草」であっただろうか。そして花の上には緑の昆虫の姿が。「バッタ」の幼虫?「紫つゆ草」👈リンク の花に近づいて。「クサフジ」?の花に似ていたが。そして「アジサイ(紫陽花)」。「カシワバアジサイ」。紫の「アジサイ」。この周辺は、紫の花々が寄り添っていた。白と緑のストライプのススキの園芸種であろうか。さらに園内の遊歩道を進む。「ドクダミ」の花。ムサシアブミの葉。果実は緑色の期間が長く、春の終わりに緑色の果実がつき、秋の終わりまで緑色で、冬になると朱色になる。「ムサシアブミ(武蔵鐙)」と。 ・・・つづく・・・
2023.06.06
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「林泉寺」の境内の散策を続ける。本堂の左奥にあったのが、旧落雁堂、六角堂の「水子堂」。手前には、この時期でも真っ赤に色付いたモミジが。新芽から赤い「ノムラモミジ」であろうか。春に出る新芽から赤く、そこから秋に葉が落ちるまでずっと赤いのが最大の特徴。 「ノムラモミジ」はアントシアニンという色素が多いため、ずっと赤いのだと。 差し色(アクセントカラー)として江戸時代から庭木として親しまれ、古くは「武蔵野」という名前で呼ばれていたと。内陣には「水子地蔵」が。近づいて。子どもを抱いている水子地蔵は、別名を子安地蔵(こやすじぞう)とも言い、本来は妊婦の安産を守護してくれる地蔵尊。あるいは子どもをなかなか授からない人のために、妊娠の計らいをしてくれる存在でもあるのだ と。その先にあった墓石群。太平洋戦争で亡くなった陸軍兵士の墓が並んでいた。合同墓であろうか。台座には「南無」と。「南無」とは「仏様に帰依します」という意味を持つ言葉。南無とは「なむ・なも」と読み「仏や三宝などに帰依します」ということを表す仏教用語。 帰依とは、神仏や高僧を深く信仰し、その教えに従って威徳を仰ぐこと。山の下にも古い墓石が並んでいた。引き返して再び手入れの行き届いた境内の池を見る。石仏の姿が。これも羅漢様であろうか。水面には庭園の木々が映り込んでいた。ズームして。裏山から湧水が引かれているとのこと。この湧水は、荻地区に水道が整備されるまでは、地域の生活用水として大切に使われていた。湧水地点は、山の林の山腹に掘られた横穴だが、足場が悪いため、訪れるのはおすすめしない と。清らかな湧水が勢いよく。池の前から再び藤棚を見る。左手が本堂。庚申塔。二体の羅漢像の後ろの大きな岩の手前は、金剛杖?を持った庚申像であっただろうか。林泉寺は伊東七福神の「福禄寿」を祀っているがこれは「布袋様」か。熊手を持つ石仏があったが・・??寺務所。本堂を後にして再び六地蔵を。樹齢約300年の大木のフジで、大きさは目通り周囲1.5メートル、枝張りは約13メートル四方に及ぶとのこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.19
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「ニューヨークランプミュージアム&フラワーガーデン」には入園しなかったので、急遽、これに変わる場所をスマホで検索。そして、伊東市荻にある「伊東温泉七福神」のひとつである曹洞宗寺院の「林泉寺」の境内にある藤棚が県内有数の藤の名所として知られいることを知る。1970年に静岡県の天然記念物にも指定された、樹齢200年超の藤の大木が2株あるとのことで、この寺をこの日の最後に訪ねることとする。「アンティークショップ さくらさくら」を後にして、国道135号線に戻り北上する。途中左にあったのが「いろり水産」。「伊豆のお土産といえば海産物、当店では干物は常に10種類以上揃えてあります。日本一の水揚げを誇る伊豆の金目鯛はもちろん、伊勢えび、あわび、さざえ、お酒がとまらない塩辛など、海の幸が盛りだくさん。その他にも伊豆特産の『ぐり茶』、『わさび漬け』なども取りそろえております。駐車場は小型車30台完備、大型バスも20駐車できます。生干しのイカの看板が目印!伊豆に来たら、ぜひ、お立ち寄り下さい。」とHPから。途中「梅ノ木平」交差点を左に進みし、「一碧湖」方向に進む。「一碧湖」湖畔につきあたり右に進み、ナビに従いこの先を左折して進む。そして静岡県道351号線に合流し進むと、右手にあったのが目的地の「林泉寺」。境内の「駐車場」に車を駐め、「林泉寺」の散策開始。境内入口から寺号標石「林泉禪寺」そして「藤棚」を見る。寺号標石「林泉禅寺」に近づいて。その隣に「静岡県指定 天然記念物 林泉寺のフジ 伊東市・萩」案内柱寺号標石「林泉禅寺」の隣に「南無阿弥陀佛」碑。境内そして本堂を見る。「伊東温泉七福神」のひとつである曹洞宗寺院の「水東山 林泉寺」の境内にある藤棚。県内有数の藤の名所として知られ、1970年に静岡県の天然記念物にも指定された、樹齢200年超の藤の大木。境内参道の左側と本堂入口の2株が見えた。大きな藤棚の前に。花房が長いものでは150cm近くにも及び、貫禄ある美しさ。藤棚を見上げて。紫の世界に暫し閉じ込められているが如し。先端の開花はこれからの房も。「県指定天然記念物林泉寺のフジ林泉寺は、約500年前に建立され、薬師如来像、日光月光菩薩を御本尊とし、今から約300年前に信者がフジを寄贈しました。花の長さは最高1m50cmにものび、平均90cmの紫色のフジが咲き乱れます。 目通り1m55cm 枝張広さ30cm 指定 昭和45年6月2日 伊東市教育委員会」本堂への参道側に廻り込むと「六地蔵」が。すべての生き物は6種類の世界(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)で生まれ変わりを繰り返すとされていて、そのすべての世界で苦しむ人々を救ってくれると言わている六体並んだお地蔵様を「六地蔵」と呼んでいる。赤いよだれかけと頭巾を付けているこの地蔵様。地蔵様は子供を守る神様として信仰される事も多く、自分の子供が元気に育つようにと、よだれかけや丸い頭にかぶせる頭巾を奉納するのだと。ではなぜ赤いものを付けているのか?赤という色は、清く正しい正直な色と信じられており、魔よけの意味もあり、赤ちゃんやお地蔵様に赤いものを着せる風習があるのだと。よく知られている長寿のお祝いの一つである還暦でも赤いものを身につけるが、これは干支が一巡りして赤子に還るという意味で、地蔵様や赤ちゃんが赤いものを身につけるのと同様の意味で贈られているのだと。持ち物、地蔵名については諸説あるようであるが左から「宝珠(ほうじゅ)」を持つ「持地(じじ)地蔵」:「修羅道」を救う。「幢幡(どうばん)」を持つ「宝印地蔵」:「畜生道」を救う。「経巻(きょうかん/お経を記した巻物)」を持つ「日光地蔵」:「天道」を救う。「合掌印」の「除蓋障地蔵(じょがいしょう)」:「人間道」を救う「左手に宝珠 右手に錫杖」を持つ「壇陀地蔵」:「地獄道」を救う。「柄香炉(えこうろ)」を持つ「宝珠地蔵」:「餓鬼道」を救う。場所を移動して。藤棚は鉄骨製。振り返って。そして本堂前には、もう1本の藤の樹が。藤棚の手前には、酒を飲みながら語り合う赤い頭巾の羅漢像の姿が。瓢箪から「まあ、一杯」とばかり酒を注いでいる羅漢像(左)。瓢箪には泉の文字が確認できたが。盃(さかづき)で酒を受けるホロ酔い気分?の羅漢像(右)。この二人の羅漢像と酒を酌み交わしたいと思ったのであった。仲良く語り合う羅漢像の姿も。この姿を見ているのは心温まる時間であったのだ。本堂手前の藤棚の下へ。藤棚の奥に「本堂」の姿が。藤棚を見上げて。こちらはパイプ棚。歴史を感じさせる見事な太さの幹。右側は1711年に植えられた樹齢300年あまりと。ひだりにももう1本。よって合計3本の林泉寺の藤。こちらの花房も150cm以上か。ここにも六地蔵が。藤棚越しに本堂の姿が。ズームして。本堂の正面から。山号を「水東山」と称する「伊東温泉七福神」のひとつで、草創期を1545年の覚隣により真言宗より回収された時とする曹洞宗寺院。本堂には、御本尊である釈迦如来像をはじめ、幸福・財産・長寿の三徳を兼ね備えた福禄寿の他、江戸時代の1802年に当地に移ってきた際に安置された薬師如来像と月光菩薩像、一刀彫りの三十三体観世音菩薩像がある。毎年5月8日には、三十三観音大祭が執り行われる。見事な彫刻。扁額「林泉寺」。道元禅師の文字も。「藤の花志納 ひと口500円 玄関にて2口より林泉寺特製オリジナル和ろうそくをプレゼント」と。内陣。圧倒されるような黄金の天蓋(てんがい)が。ズームして。御本尊の釈迦如来像。更にズームして。比較的新しそうな本尊であったが。斜めから。本堂前、左側にある池のある日本庭園。本堂前から藤棚を見る。緑と紫の競演。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.18
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「小室山つつじ園」を楽しんだ後は、伊東市富戸にある「ニューヨークランプミュージアム&フラワーガーデン」を目指して進む。国道135号を伊豆高原方面に南下する。途中、県道109号線へ左折し進み伊東市富戸のこの交差点を右折。そして「ニューヨークランプミュージアム&フラワーガーデン」に到着。城ヶ崎海岸を背景に230種類以上のあじさいや四季折々の花々が「癒し」を与えてくれる、伊豆シャボテン動物公園グループの「ニューヨークランプミュージアム&フラワーガーデン」。ここが入口門。入口のゲート越しに内部を除いたが、花もピークを超えているような気がしたのでここは、パスすることにした。内部の別館には、約120年前に作られたティファニーのテーブルランプやウィンドウパネルなど珠玉のステンドグラス作品を70点ほど展示しているので見たい気持ちもあったが、入場料も1,500円と高価なことも・・・。入口門の左が城ヶ崎の名所となっている長さ48メートル・高さ23メートルの海の吊橋・「門脇つり橋」👈リンク への遊歩道への入口であった。出店でソフトクリームを楽しむ。二人共、抹茶ミックスを。そして隣にあった「Antique & Shop さくらさくら」を訪ねた。アンティーク中心のみやげの店「さくらさくら」。「ニューヨークランプミュージアム&フラワーガーデン」内にあった「TIFFANY LAMP MUSEUM」のポスター。「展示室とカフェを併設しています。一歩足を踏み入れると、ランプやステンドグラスパネルが煌めく夢空間へ再び舞い降りたような感覚になります。そしてアンティーク家具の中に並ぶ美しいファブリルガラスの器たち。ステンドグラスやアンティーク作品を眺めながらカフェでひと休み。贅沢なひとときをどうぞ。」と店内に入る。様々な種類、色の「アロマライト」が並んでいた。「コンセント型アロマライトセルジョーク」モザイク模様が美しいお洒落なアロマライト。香りを楽しむアロマランプとして使うものと。それぞれの「コンセント型アロマライト」に近づいて。「アロマライト」「アロマライト」とは 電球やヒーターなど、電気の熱を使って精油(エッセンシャルオイル)を温めるディフューザーのこと。温まった精油の香り成分を、空気中に拡散させ香りを楽しむことができるのだ。これも一つ一つ近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.17
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「小室山観光リフト駐車場」横にあった案内板。「小室山公園案内図小室山公園は、一年を通して楽しめる自然公園です。海抜321メートルの山頂ならは360度の大パノラマがひろがり、つつじ、つばき、小室桜をはじめとする四季折々の花は公園全体を彩ります。」「小室山公園 つばき園約15,000平方メートルの地に1,000種4,000本のつばきが植栽され、10月上旬から咲き始め月中旬までさまざまな種類を観賞できる、日本一の規模を誇るつばき園です。見頃を迎える2月中旬なら3月中旬には「つばき観賞会」が開催され、可憐なつばきの一輪挿しの展示などが行われます。園内にある庵「富士見亭からの、咲き誇るつばきと富士山の眺望も見事です。」「つつじ園公園の西側麓には、約35,000平方メートルに40種・10万本のつつじが植栽されているつつじ園が広がっており、4月下旬頃から5月初旬までの開花時期には、園内は赤い絨毯を敷き詰めたようにつつじが咲き誇り、つつじの絨毯と富士山を望むことができます。4月29日~ 5月5日の小室山つつじ祭りは市内外から多くの観光客が訪れます。」「山頂からの眺望観光リフト、遊歩道で向かう小室山山頂からは富士山をはじめ相模湾と伊豆の島々、天城連山など、360度の眺望をお楽しみいただけます。」「小室神社小室神社は、元禄十六年(1703年)の大地震によって被害を受けた小田原領の西方鎮守として、広く関東一円の沿岸を望み見る小室山山頂に建立されました.地震・海難・火災・疫病から人々を守り、復興を見守る神として信仰されています。」「伊東市」案内板。「伊東市観光マップ春は10万本のつつじと桜、10月中旬なら4月中旬にかけて咲きほこる4.,000本のつばきなど、一年中楽しめる花の名所です。標高321mの山頂までは観光リフトがあり、山頂からは伊豆七島や天城連山など、360度の景観を楽しむ事ができます。」。「伊東市 地図」。「現在地周辺の観光スポット1.道の駅 伊東マリンタウン2.東海館 👈リンク3.一碧湖4.松川湖5.さくらの里・大室山6.城ヶ崎海岸 👈リンク」「小室山公園」碑を再び。「小室山リフト山麓駅」を訪ねた。「小室山リッジウォーク MISORA」「Cafe・321」「展望ブリッジ」「山頂の自然な起伏を活かしたボードウォークからは、北に富士山、東には相模灘や房総半島、南には伊豆諸島、西には天城連山など雄大な景色が360°広がります。」「展望ブリッジ(カフェ利用者専用スペース)山頂の自然な地形を活かし、地中に潜り込むようなカフェ。店内からは相模灘と伊豆大島などが眺望できる絶景ビュースポットです!」「カフェ店内」「リフト乗車運賃表大人 往復 800円 片道 500円」「小室山専用リフト」を見上げて。標高321mの小室山の山頂までは、リフトで約5分。今では珍しいレトロなシングルリフト。「小室山観光リフト駐車場」の北側にあった芝生広場中央の作品。地元彫刻家の重岡建治氏作の平和モニュメント「愛のモニュメント」原水爆禁止伊東市協議会と憲法9条を守る伊東市民の会が市に寄贈した作品で、高さは台座部分を含めて3.2メートル。重岡氏が手掛け、2011年に新築された中国・北京の日本大使館に設置された像とほぼ同じ形とした のだと。「愛のモニュメント K.SHIGEOKA」と。そして再び上って来た階段を下る。この右側に冨士山が見えるのだが。オレンジ色のつつじ。「レンゲツツジ」であっただろうか。斜面を見上げて。写真を加工してみました。つつじのトンネルに向かって進む。ここが最初のトンネルか?身長よりも高いつつじが通りの両脇を覆い、色鮮やかなつつじに囲まれるのであった。最盛期であれば(ネットから)。この辺りは今が盛りと。トンネル出口付近。例年「つつじ祭り」の期間中は、見頃に合わせてライトアップ(19:00~21:00)を開催!闇に浮かぶツツジも、昼間とは違って幻想的な美しさでお薦めと。特にこの"つつじのトンネル"は一見の価値があるとのこと。駐車場に向かって戻る。そして最後に小室山リフトをバックに。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.05.16
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