JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.12.27
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カテゴリ: 国内旅行
そして次に「外国人墓地」の前にあった「地蔵寺」を訪ねたのであった。



「曹洞宗延命山 地蔵寺」寺号標。



「本堂」。
外人墓地の反対側の山側のこの寺は1804年からあり、遊女達の駆け込み寺と言われたと。



扁額「延命殿」。



「有無両縁塔」
台座には、「廓内遊女屋」とあり、施主である山ノ上町遊廓の30名ほどの店主名が
彫り込まれていると。
住吉屋、小田屋、廣田屋、増屋、宮川屋、中里屋、東屋、金子屋、田中屋、小嶋屋、大須屋、

盛屋、茂村屋、伊勢屋、甲屋の12銘。計25名。



「有無両縁塔
この「有無両縁塔」は、元治元年(1864年)に、当時の遊廓の経営者たちが、引き取り手のない
遊女などを供養するために、合同で建立した供養塔である。
かつて山ノ上町と呼ばれた界隈(現在の船見町周辺)には、多くの遊女屋があって賑わっていたが、
箱館奉行が安政5年(1858年)に、その一画を山ノ上遊廓として公認してからは、整備も進んで
いった。さらに、翌年の開港に伴い、日本各地の商人や外国人の往来が盛んになり、遊廊も
一層の賑わいをみせるようになった。
この碑は、開港という新しい時代の陰に、遊廓で働き、ここで生涯を終えざるを得なかった
女性たちがいた事実を残すもので、台石には建立者たちの名が刻まれている。」








石川啄木の歌に、「むやむやとロの中にてたふとけの事を咳く乞食もありき」というの
があるが、この乞食こそ明治から大正にかけての函館の名物男で名を万平といった。
ユーモアがあり、人から恵んでもらわない気骨のある乞食で、毎朝ゴミ箱を探し歩き、そ
の家の人物評を日記風に書き残した。
-例を上げると「11月1日(明治39年)今朝好天気なれば先以て山田邦彦君(函館区長)の
茶箱を探しにゆく。
流石に山田君の夫人は、文明の空気を吸われつつあり、豚の脂身-塊、大根の皮と共に捨
てられたるは、西洋料理の稽古最中と覚ゆ・
・」などとある。
この塚は、大阪から所用で来た鉄工場主「藤岡惣兵衛」が、万兵にタバコの火を借りよう
とした際「帽子も取らすに」となじられたが、その人柄に感じ入り、大正4年( 1915年)万平
の死後、供養塔として函館の知人の協力を得て建てたものである。



「地蔵尊」。
左の「地蔵尊」の台座には多くの女性の名前が刻まれていた。



こちらは祠の中に。



そして「地蔵寺」を後にし、駐車場への道・魚見坂を下り途中弥生町13のT字路を
右折して進むと左手にあったのが「蕎麦蔵」。
函館市弥生町23-5、
ミシュラン2017のビブグルマンを取得した人気の店。
従来の星(三つ星、二つ星、一つ星)の評価からは外れるものの、安くてオススメできる店舗に
与えられる印である。 ビブグルマン(Bib Gourmand)の「Gourmand」はフランス語で
欲張り・食いしん坊といった意味、Bibはミシュランのマスコットキャラクターであるビバンダム(Bibendum)の愛称に由来するという。




開国の時代に外国文化の影響を強く受けた北海道函館市。街のなかには昔ながらの
和洋折衷建築が現存していた。
庶民の生活に欠かせなかった銭湯であるが、洋風の建物が残っているのであった。



大正3年創業の銭湯。
昭和3年に立て替えられた現在のピンクの建物は、レトロな和洋折衷様式で、




「幸坂」の「弥生町2」交差点の角にあった石碑。
「校歌
幸坂は向上の 針路をしめす山の口 仰げば高きまなびやの 庭のおしえの 尊さよ」
「幸小学校百周年事業」で建てたものらしい。
明治16(1883)年9月、「公立幸(さいわい)小学校」として開校. 明治34(1901)年1月、
「函館区立幸尋常小学校」改称. 昭和22(1947)年4月、「函館市立幸小学校」改称.
昭和45(1970)年3月31日、閉校。



「幸坂(さいわいざか)」の先には「函館山」の裾野が見えた。



「大町4」の「弥生坂」の角近くにあったのが「新選組 屯所」跡地。



蔵の前には「新撰組 屯所」跡地と書かれた史跡案内が建っていた。
このあたりには、1880(明治12)年の大火までは称名寺があった場所と。
称名寺は幕末には英国・仏国の仮領事館がおかれ、箱館戦争時は、土方歳三の
箱館市中取締就任にともなって箱館警備の任に就いた「新撰組の屯所」となったとのこと。
「この周辺は、明治12(1879)年の大火までは称名寺があり、焼失後は現在の船見町に
移転しました。
称名寺は幕末には英国・仏国の領事館、箱館戦争時には「土方歳三」の箱館市中取締就任に
ともない箱館警備の任に就いた「新選組」の屯所となりました。
土方歳三が戦死した場所は一本木関門、鶴岡町、栄国橋(異国橋/現在の十字街付近)など
諸説ありますが、日野高幡不動尊金剛寺の過去帳に「箱館称名寺に鴻池手代大和屋友次郎建立の
土方歳三供養碑がある」と記されています。
当時、旧幕府・箱館政府には財源がなく、地元民から運上金や通行税を徴収していました。
戦況が逼迫してくると軍事金は底をつき、榎本武揚らは富裕な商家から金品を徴収することを
計画しました。この時土方が猛反対して徴収は中止されました。これを知った大和屋友次郎
はじめ箱館の商家の人々は、土方の死を悼んで称名寺に供養碑を建てたといわれています。
称名寺は明治期に3度の大火に見舞われ、その碑は現存していません。
現在ある称名寺の供養碑は、昭和47(1972)年、有志により建立されたものです。



現在は「蔵宿 屯所の庵」
明治42年、 築100年 旧桂久蔵邸の蔵を改修した離れの和室の客室であると。



桂久蔵氏は当時オホーツク・千島・樺太と大きな範囲で活動していた大漁業家であったと。
客室内の天井は総ひのき作りになっており丸いステンドグラスが入った窓もあり洒落た感じに
なっているとのこと。白壁の左上にステンドグラスが入った窓が見えた。



「みなみ北海道最後の武士達の物語」ポスターの
旧幕府軍陸軍奉行並・函館市中取締裁判局頭取 土方歳三 」。



新選組の屯所 称名寺跡
1644 (正保元)年、伊勢国渡来の円龍が亀田村に阿弥陀庵を開創、1655 (明暦元)年に阿弥陀堂と
改称後、1690 (元禄3)年に松前町の浄上宗光善寺の末寺として、寺号を称名寺と公称した。
1708 (宝永5 )年に富岡町(現・弥生町)へ移転し、本堂、庫裏等を建立。幕未期には書院を
箱館奉行仮本陣として利用され、1859 (安政6)年の箱館開港時にはイギリスの仮領事館が
置かれた。1868 (明治元)年12月15日(旧暦)に旧幕府軍の蝦夷地仮政権が樹立。箱館方面の
警備に当たった新選組隊士は称名寺を屯所としたが、翌1869 (明治2)年5月18日(旧4月7日)
には、新政府軍の攻撃に備えて称名寺から弁天台場へ移動、守備に就いた。
なお、同年6月27日(旧5月18日)に箱館戦争が終結した後は、箱館病院高龍寺分院が火災で
焼失したこともあって、称名寺も箱館病院分院としての役割を担い、傷病兵の治療に利用された。
この後、1879(明治12)年の大火により本堂を焼失し、1881 (明治14)年に現在地の船見町へ移転。
1896 (明治29 )年、1907 (明治40 )年の大火に遭遇し、1929 (昭和4 )年に鉄筋コンクリート
造の本堂が完成となった。現在の称名寺境内には、箱館戦争時に新選組の屯所でもあった由縁で、
新選組副長の土方歳三とその隊士達の供養碑が建立されている。」

新選組隊長・函館市中取締 相馬 主計(かずえ)  生没年不詳
常陸国笠間藩藩士の家に誕生。生没年は不詳。1865 (慶応元)年に脱藩し、江戸幕府の歩兵徴募に
応じた。長州征討車の解散後、新選組に入隊。局長付組頭として隊士を率いた。流山で近藤勇と
ともに捕縛。近藤の嘆願により処刑を免れ、笠間藩に預けられて謹慣した。この後、彰義隊に
参加し東北戦争を転戦後、仙台で土方歳三と合流、蝦夷地へ渡り箱館戦争へ参加し、主に
箱館市中の取締の任に当たった。1869 (明治2)年6月20日(旧5月1 1日)の新政府軍箱館
総攻撃により弁天台場は龍城。6月24日(旧5月15日)に弁天台場降伏となり、相馬は箱館での
新選組隊長である森常吉から隊長を引き継ぎ、新選組の終焉を看取った。台場での謹慣の後、
1870 (明治3)年に伊豆新島に流罪、1872 (明治5)年に赦免となり東京に移り住むが、突然の
切腹死を道げた。」



新選組隊士 中島 登(のぼり) 1838~1887
1838 (天保9 )年、武州多摩郡小田野(現東京都八王子市)生まれ。1864 (元治元)年、新選組に
入隊し、伍長を勤めた。土方歳三や島田魁ら新選組隊士と宇都宮・会津戦争を転戦した後、
蝦夷地へ渡り、箱館戦争に参加した。箱館方面の警備に就き、弁天台場に配置された。
1869 (明治2 )年6月24日(旧5月15日)に弁天台場が降伏し、そのまま弁天台場で謹慎となり、
謹慎中に新選組隊士などの肖像を「戦友姿絵」として描くなど箱館戦争関連の貴重な記録を
残した。翌明治3年に赦免となり多摩に帰還した。1887 (明治20 )年死去。享年50歳。
新選組袖章
中島登が所持していた新選組の袖章。市立函館博物館所蔵のもので、国内には同様の袖章が
京都の霊山歴史館に所蔵されている。(新選組頭取の島田魁が所持していたものとされる。)」



戦友姿絵の新選組隊士
新選組隊士の中島登が弁天台場で謹慎中に描いた、箱館戦争時に戦死した新選組隊士である。
いずれも、戦争当時は称名寺の屯所に居住していた隊士と考えられる。」



「新撰組 屯所」跡地の前の道路の反対側にも「校歌」を刻んだ碑が。
「弥生小学校 校歌
「後に髙き臥牛山 雲間に聳ゆる駒が岳
 雄々しき姿あけくれの 書讀む窓に親しめり」
石川啄木は明治40年(1907年)6月11日、ここ函館区立 弥生 尋常小学校代用教員を拝命、
月給は12円であったと。



「旧寺町界隈
江戸時代から明治初期まで、このあたりは浄玄寺(現真宗大谷派函館別院)、称名寺、実行寺が
建ち並び、参拝客で賑わったので寺町と呼ばれた。開港後の一時期、これらの寺はアメリカ、
イギリス、ロシア領事の仮住居として使用された。また、浄玄寺は、明治5年( 1872年)に
邏卒本営(警察)が置かれたり、同9年( 1876年)、明治天畠巡幸の際には、行在所として
用いられたこともあった。
明治1 2年( 1879年)、大火はこの一帯を焼き尽くし、これらの寺は新たな場所に再建された。
浄玄寺と称名寺の跡地には、同15年( 1882年)に弥生小学校が建てられた。
石川啄木が代用教員となったり、文芸評論家の亀井勝一郎が通った学校である。
現在の校舎は平成23年( 2011年)に、旧校舎の外壁を一部利用して新築された。  函館市」



「北海道警察発祥の地」碑。
明治五年六月
浄玄寺(東本願寺函館別院の古号)に開拓使函館支庁邏卒本営を置く
明治八年十月
邏卒屯所と改称
明治九年二月
開拓使函館支庁警察係と改称
明治十年三月
函館警察署と改称


「函館市立弥生小学校」。
1882(明治15)年創建、昭和9年大火後鉄筋コンクリート造りの耐火建築で再建。
老朽化のため2010年に解体、2012年に旧校舎の外壁を一部利用して新校舎に。



「幾度となく大火に見舞われた函館で、最大規模であった1934年(昭和9年)の大火後の
復興建築として建てられた学校のひとつが弥生小学校です。
1938年(昭和13年)に完成した校舎は、4階建の重厚な鉄筋コンクリート造り。
中央にグラウンドを置いたロの字型で、大火時の住民の避難所としての役割も当てられました。
坂の街・函館らしい傾斜のある地形を生かしたデザインで、街並みを彩る「市景観形成
指定建築物」に指定されています。
設計したのは、函館市の建築課長として復興建築に携わった建築家・小南武一。
大火後に再建された小学校のほか、函館公園にある旧市立函館図書館本館、函館市公民館、
大火遭難記念慰霊堂などを手がけています。
校舎の老朽化のため、2010年に外壁の一部を除いて解体され、2012年に新校舎を建造。
旧校舎の北東角、特徴的な曲面仕上げの正面入口の外壁を保存して、道路に面した
外観デザインのイメージを継承しています。
なお、校内は一般公開しておりません。」とのネット情報。



「明治九年御巡幸行在之地」。
明治天皇の第1回目の北海道行幸は、1876年(明治9年)7月16日~18日の2泊3日で
函館周辺と限られていた。
2泊とも現在の弥生小学校の地にあった東本願寺(浄玄寺)掛所に泊まられたのだと。



これは昔の校門柱であったのだろう。



現弥生小学校の次の角にあった「旧アメリカ領事館跡」



「旧アメリカ領事館跡
安政元年(1854)に締結された日米和親条約を端緒に、伊豆下田とともに箱館は諸外国との
窓口として翌年開港されました。
安政4年の春、合衆国貿易事務官エリシャ・E・ライスが鯨猟船に乗って来港し、浄玄寺
(現在の元町公園の下辺からここ弥生小学校あたり、当時の第1大区1小区富岡町14番地)の
別堂を借り受け、星条旗を掲げ貿易事務所を開設しました。
以来、ライスは箱館に出入港する米国船舶の利益を守り、かつ在留する米国民の保護・
取り締まりにあたり、日米間の融和を計り、のち1865年にライスは、初代米国領事に
任命されました。
明治9年(1876)領事館は一時閉鎖されて横浜領事館の管轄となり、その後、現在の元町4番の
遺愛幼稚園(ハリストス正教会の北隣)、さらに現在の船見町3番(咬菜園跡東側)に移転し、
それぞれ領事代理に委嘱された宣教師や商人たちが自宅を領事館として執務しました。
アメリカ領事館が函館における役割を終え、正式に閉鎖されたのは、大正7年(1918)
11月15日でありました。」



総赤煉瓦作りの「​ 中華会館 ​」👈リンク。



国内に唯一残る中国清朝建築様式の建造物「函館中華会館」。



「中華会館
中華会館は純中国様式の建築として日本に現存する唯一の貴重な建物である。
函館から中国への海産物質易の盛んな頃に在函華商が信仰する三国時代(魏・呉・蜀)の
蜀の武将として活躍した関羽=関帝を奉祀する聖所として中国から大工・彫刻師・漆工らを
招き、煉瓦・祭壇・什器等資材も中国から取り寄せ、約3年の工期と巨費を投じて明治43年
(1910年)12月に竣工した。
内部は金色燦然たる関帝壇を中心として周囲に小部屋を配し、装飾、調度品は壮麗を極めている。
建物は社団法人函館中華合館の所有である。  函館市」。



「東坂」との角にあった洋菓子店に、修学旅行学生グループに誘われて我々も入る。
店の名は「アンジェリック・ヴォヤージュ」。



店の新聞記事が。
ケーキや焼菓子を販売するロッジ風のテイクアウト専門洋菓子店。



バナナ入り生クレープ?をテイクアウトで楽しんだのであった。



そして「基坂」、「日和坂」、を横切り「八幡坂」まで進む。



この「八幡坂」を上って行き次の路地を左折して、駐車場になんとか辿り着いたのであった。



「北海道第一歩の地碑
ここは東浜桟橋という場所らしいのだが、青森と函館の航路は1873年(明治6)に開拓使の
弘明丸が最初であり、1908年(明治41)に比羅夫丸、田村丸が青函連絡船として就航した。
その当時は連絡船は桟橋まで来ることが出来なかったので沖に停泊して、艀舟(はしけ)で
桟橋と連絡船を行き来していたそうだ。そしてこの東浜桟橋は1871年(明治4)に
作られたものだ。その後、連絡船の桟橋は1910年(明治43)に若松埠頭に移転したが、
東浜桟橋も色々と活用されたのだと。
この碑は北海道の開道100年を記念して1968(昭和43)に建立された熊とイカリを
モチーフにした碑である。ちなみにその100年前は1868年という事になるが、
これは鎖国から函館が開港した年である。
ただし、函館が本当に最初に開港したのは1854年に有名なペリーが来航して開港を求め、
日米和親条約により、下田(即刻開港)と箱館(翌年開港)を開港することになった。
ただ、この開港は船の欠乏品の補給や漂流民の保護、救助等に限られていた。
その後、1858年に日米修好通商条約が結ばれ、自由な貿易や人々の行き来が出来るように
なったという事もあり、この年(1858年)が開港の年というふうに考えるのが
一般的らしい。(その意味での函館の開港は1859年)



この碑は北海道の開道100年を記念して1968(昭和43)に建立された熊とイカリを
モチーフにした碑であると。ちなみにその100年前は1868年という事になるが、
これは鎖国から函館が開港した年であるのだ。



「北海道第一歩の地碑
明治維新後、函館は名実ともに北海道の門戸となり、この北海道の地を踏むものがその第一歩を
印したのが東浜桟橋である。
青函航路は、明治6年(1873年)に開拓使の弘明丸によって一般輸送を開始し、明治12年(1879年)
に三菱会社が開拓使から青函航路を譲り受け、以後、日本郵船鉄道会社などによって継続されて
きたが、明治41年(1908年)に国有鉄道の航路として比羅夫丸、田村丸が就航した。
当時、連絡船は沖に停泊し、客は艀舟でこの桟橋との間を行き来した。この京浜桟橋は、
明治4年(1871年)に作られた。
連絡船の桟橋は、明治43年(1910年)2月に若松ふ頭に新設移転したが、その後もこの桟橋は
活用され、北洋漁業の根拠地などとしても重要な役割を果たしてきたが、とくに戦前の北洋漁業の
発着時には、大変な賑わいをみせていた。
この記念碑は、熊にいかりを配し、開道100年を記念して開拓に渡道した先人の足跡をしのぶと共に、
北海道発展の未来を志向して昭和43年(1868年)9月建立されたものである。」



「北海道第一歩の地
明治新後、函館は名実共に北海道の門戸となった。そして北海道の地を踏む者がその第一歩を
印したのはこの東浜桟橋である。後に若松町に欽道桟橋ができてからは旧桟橋とも呼ばれた。
国道四号線が認定されるや北海道の道路の基点としてここに道路元標が建てられた。
明治百年を迎えるに当り此地に記念碑をたてて開拓に渡道した先人の足跡をしのぶ。
昭和四十三年十一月三日
寄贈 日本中央競馬会」



錨にも「北海道第一歩の地」と。



「北海道第一本の地碑」から「金森赤レンガ倉庫」群を見る。




                              ・・・もどる・・・

                   ・・・つづく・・・






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Last updated  2020.12.27 00:00:17
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