JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.01.29
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我が家から徒歩で15分ほど歩くと横浜市との市境を流れる「境川」がある。
その先が横浜市戸塚区。
そして北に向かって進むと直ぐに横浜市泉区。
1986年11月3日、栄区と同時に中和田支所管轄の地域が戸塚区から分区し、
泉区が誕生したのだ。
「泉区」案内図を『YAHOO地図』から。心臓のような形の「泉区」。



この日は、この戸塚区から入り泉区にある神社仏閣を中心とした古道散策に向かったのであった。
泉区内には「鎌倉街道(かまくらかいどう)」そして「柏尾通り大山道」等の古道が
通っていたのです。

結んだ古道については鎌倉往還(かまくらおうかん)や鎌倉道(かまくらみち)とも呼ばれ、
また鎌倉海道(かまくらかいどう)とも書く。
一方で、現況の道路で「鎌倉街道」や「かまくらみち」と通称される路線も存在するのです。
そして今回歩き始めたのが「鎌倉街道上道」。
「鎌倉街道上道」として定説化しているのは、鎌倉から武蔵西部を経て上州に至る古道で、
鎌倉 - 化粧坂 - 瀬谷 - 本町田 - 小野路 - 府中 - 所沢 - 入間 - 笛吹峠 - 奈良梨 - 山名 -
の高崎のルートなのです。

【http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/kamakura/uemiti/kamakurauemichi1.html】より

そして下図がこの日に主に歩いた「鎌倉街道上道」。
「境川」に沿って上流・北に上がっていくことが判るのであった。



我が市の図書館から「旧鎌倉街道探索の旅Ⅰ 上道・山ノ道編」も借りました。




我が市から「境川」に架かる「俣野橋」を渡り、横浜市戸塚区に入る。
私は「泉区」の南端から入って行ったことが先頭の地図から判るのであった。



「俣野橋」から上流を見る。
この付近は私が子供の頃と全く変わっていない田園地帯。
下を流れる「境川」は東京都町田市相原町大戸の同市最高峰・草戸山(365 m)北東面

流れる。神奈川県大和市付近から南へ流れを変え、藤沢市の江の島付近で相模湾に注ぐのだ。
川の名称はかつて武蔵国と相模国の国境とされたことに由来し、現在でも上流部
(町田市最南部まで)は概ね東京都と神奈川県の都県境となっているのだ。
右側の「境川」の堤防上が「境川サイクリングコース」になっている。
大和市国道246号 ~ 江の島入口間の24.5km。



そして「俣野橋」から100m程で「俣野観音堂前」交差点に到着。
右手の高台に見えたのが、旧横浜ドリームランドのホテルエンパイアであった建物。
現在は横浜薬科大学図書館棟となっている。
大林組により1965年(昭和40年)に竣工した。完成当時は地下2階地上21階、高さは建物部の
高さが68m、尖塔と避雷針を含めて93mであり、工事期間は僅か1年という突貫工事だった。
最上階の21階は回転する構造になっており、回転展望レストランとして使用された。
21階という階数は、来るべき21世紀を象徴したもので、ホテルでありながら五重塔をモチーフと
した和風建築とし、内装について“桃山時代の文化の復元”を標榜したのは、「日本にしかない、
日本でしかできないホテルを目指すべき」という意図によると。五重塔を伸ばして二十段にした
ような独特の形状で、高台の上に建っており近くに高い建物や大きな山が存在しないことから、
多少離れた場所からでも目立つ建造物で、周辺が田畑ばかりだった完成当初は、ひときわ異彩を
放つ存在であった。その後開発によって周辺の宅地化が進んでも、ホテルエンパイアの建物は
横浜ドリームランドの観覧車とともに周辺一帯(戸塚区南西部および藤沢市北部)の
ランドマークとして長年親しまれたのであった。
高校の頃、私も21階の回転展望レストランで江の島の姿を見ながら家族、友人と食事をした
記憶があるのだが。
そしてここからが「鎌倉街道上道」散策のスタート。



交差点の角にあったのがこの「俣野観音堂」。
俣野景久の守護仏といわれる「十一面観音」が安置されていると。
横浜市戸塚区俣野町1023。



「俣野五郎景久と観音堂
治承四年八月ニ十三日(一一八〇)伊豆に配流中の源頼朝か平家政権打倒のため石橋山に
拳兵すると、平家側の総大将として是を襲ったのは藤沢の大庭景親てあったが、
弟俣野五郎景久は家臣長尾兄第(上杉謙信の祖)と源氏の先陣佐奈田与一を討ち取り、
頼朝軍は敗走辛うじて房総に逃れた。
頼朝が源家累代の家臣、千葉一族の協力を得て勢力を恢復し十月鎌倉に人府すると大庭景親を
片瀬川畔て梟首し、五郎景久を遠く京都に敗走させて石橋山の報復を遂げた。
寿永ニ年五月、俣野景久は平宗盛軍の将とし、頼朝の従弟木曽義仲の軍と加賀の篠原て
対戦したが、平家の敗色濃厚で、武将の間から、いっそ源氏に鞍替えしてはとの話か出ると
景久は強く反対し「武士としていさぎよく討死」の覚牾を示し、守護仏の観音像を家臣に
託して母の待っ故郷、相模国俣野村に送って自らは壮烈な最期をとげた。
いま篠原には景久の戦友て共に討死した斎藤実盛の墓はあるが、景久等の墓はない。
推うに実盛はまだ三歳だった義仲が殺されるのを救けた生命の大恩人であるが、是に反し景久は
徹底した反源氏の将なるが故に、その墓の建立が憚られたものに相違ない。
景久に由緒のある観音堂は、茲、鎌倉街道西の道に接してはいるが、治承の昔からこの地に
建立されていたかは定かではない。」



「俣野観音堂」の横には比較的新しい「五輪塔」が。



五輪塔の5つの石材パーツには、それぞれ名称が付いているのだ。
仏教における自然界の5大要素といわれる「空・風・火・水・地」という意味合いと名称が
五輪塔には付けられているのだ。
上から
宝珠形=空輪(くうりん)
半月形=風輪(ふうりん)
三角形(または笠形、屋根形)=火輪(かりん)
円形=水輪(すいりん) 
方形=地輪(ちりん)  



各石材には仏教のサンスクリット語(梵字)が彫刻されているのが特徴。
仏教における読み方は上から
「空(キャ kha)、風(カ ha)、火(ラ ra)、水(ヴァ(バ) va)、地(ア a)」。
そして卒塔婆も同様である事を初めて今知ったのであった。


  【https://www.otsukastone.co.jp/blog/category/2min】より

そして北に向かって細い畑道・鎌倉街道上道を進むと右手にあったのが小さな「地蔵堂」。



堂内には、赤い頭巾を冠り赤い衣を身にまとった地蔵様が白いマスク姿で
道を見守ってくれていた。



そして次に訪ねたのが「俣野神社」。
この「俣野神社」境内に沿う道が古道のようであった。
しかし鳥居の脚が骨折し?ギブス固定であったが。



これぞ村の神社!!



本殿に向かって進む。
俣野氏は
「桓武平氏良文流の系統で鎌倉党の嫡流景宗の子・景久が相模国鎌倉郡俣野にて俣野五郎を称した
ことに始まる。俣野は現在の横浜薬科大学一帯で、境川を挟んで藤沢市西俣野から戸塚区俣野町、
東俣野町にまでおよぶ。大庭御厨の一部であった。境川は古くは「俣野川」とよばれていた。
景久(初代)平安時代末期の治承・寿永の乱において平氏方につき石橋山の戦いなど各地で
転戦したものの、最後は信濃国飯山で敗死したためその後の俣野氏の動向は明らかでない。
俣野にあった大日堂(現・御嶽大神)は鎌倉景昌ゆかりのものであったが『吾妻鏡』によると
景久死後は荒廃していたというから鎌倉時代には既に没落していたものと思われる。」と
ネットから。



手水舎。



「俣野神社
御祭神:須佐之男命、欽明天皇。
古くより欽明天皇御宇の創立と伝えられ、「欽明天王社」と称したが、明治初年
「上俣野神社」と改称した。安政3年社殿を再建、明治6年村社に列格。
同32年氏子中にて改築。
平成16年銅板葺に葺替る。
横浜市戸塚区俣野町763。
これは「鞘堂」であったことは、このブログを書きながらであった。



扁額は「俣 神社」。



神社の内陣。



以下の内陣の写真はネットから。
一説によると左甚五郎が彫ったともいわれているとのこと。


    【https://meseta.muragon.com/entry/370.html】より

見事な彫刻。



一度この眼でと!!



鐘楼には鐘の姿は無かった。



天井には吊り金具のみ。いつ頃から無いのであろうか?
天井にも穴が開いて。



「俣野神社」を後にし、鎌倉街道を大きくハズレて、途中急な細い坂道を上った角にあった
「相州春日神社」と「神鹿苑」を訪ねた。
戸塚の遊園地と言えば、今はなき懐かしのドリームランド。
その横浜ドリームランドの建設に際し、その発展と繁盛を願って敷地内に奈良の春日大社の
分霊を勧請し「ドリームランド春日神社」が建立されたのであった。
その後、神社とドリームランドとは敷地・組織とも切り離され、「相州春日神社」と改名。
ドリームランドがなくなった今でも神鹿は健在とのことを聞いたので神鹿を訪ねたのであった。
横浜市戸塚区俣野町700。



社号標「相州 春日神社」。



手水舎には可愛い鹿が二頭。



この日はコロナ禍の影響で口から清水が出ていなかったが。



鮮やかな朱色の楼門が美しかった。
奈良の春日大社にそっくりであった。
境内には凛とした空気が漂い、気持ちを落ち着かせてくれたのであった。
この春日神社は、奈良県の春日大社と同じ神様を祀っているのだろう。



扁額は「春日神社」。



「由緒
当春日神社は、昭和三十九年八月に奈良春日大社の 御分霊を勧請し、ここ俣野の地に
ご鎮座なされました。 御祭神は皇祖肇国(ちょうこく)の折、神功あらせられた
武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命
(あめのこやねのみこと)と比売神(ひめのかみ)を奉斎(ほうさい)し、
武甕槌命、経津主命二柱の神は、国土開発の守護神として、天児屋根命は文筆の神と仰がれ
学業成就を願う崇敬神として、比売神は安産の神として御神徳いよいよ高くこの四柱の神々を
尊崇して春日皇大神(かすがすめおおかみ)と申し上げ、皇室に於かれましても代々御崇拝
遊ばされ、又国民等しく敬仰する神々であります。
殊に武甕槌命が奈良にお移りの際、本社鹿島の宮を御出発になり、途中無事奈良にご到着に
なったことから、鹿島立の信仰が生れ、爾来旅行安全、交通安全の神として尊ばれています。
此処に横浜ドリームランド開設されるに当り、開発の神殖産興業、安産の守護を仰がれる
春日大社の御分霊を勧請し、奉斎されたものであります。」



右手に「社務所」。



「拝殿」。



「拝殿」の内陣。
相州春日神社には春日大社と同じ神様・武甕槌神(たけみかづちのみこと)・
経津主神(ふつぬしのみこと)の二柱をお祀りしているのだと。



境内末社 「正一位稲荷大明神」



「正一位稲荷大明神」。



境内を右に行くと「神鹿苑(しんろくえん)」。



「神鹿苑」。



「神鹿について」



境内には春日大社から賜わった「神鹿」の子孫が飼育されており、奈良に行かずしても
奈良観光の気分を味わう事が出来るのであった。
10頭はいたであろうか。









社務所にて鹿せんべい(100円)を購入し、直接鹿たちに上げることができると。
せんべいをもらった鹿はちゃんとお辞儀をし、とにかく可愛らしいのだと。



再び「拝殿」前から「楼門」を見る。



神社の敷地からは、旧ドリームランドのシンボル「ホテルエンパイア」が見えた。
今は、横浜薬科大学図書館棟となっているのだ。



そして「楼門」前の梅の木には既に花が。







                   ・・・​ つづく ​・・・・





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Last updated  2021.05.25 16:11:25
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