JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.02.03
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そして次に訪ねたのが「中之宮左馬神社(なかのみやさばじんじゃ」
昔から「相模七左馬(鯖)の一社」と崇められた社で、新編相模風土記稿にも「鯖明神社」と
記されていると。
横浜市泉区和泉町3253。



参道とその先に「本殿」。



祭神は左馬頭源満仲(さまのかみみなもとのみつなか)・天照皇大神(あまてらすおおみかみ)
で、中和泉地域の鎮守様。和泉川沿いに見られるサバ神社の一社で、源家隆盛の頃の
勧請とのこと。明治6年12月に和泉村の「村社」に列せられた。
寛永2年(1625)12月、和泉村の領主となった松平勝左衛門昌吉は、
この神社を村の鎮守として再興し、能見(のみ)松平家の累代の祈願所とした。
また代々の領主は氏子と共に社の護持や社殿の修復に尽力しており、文化13年、
天保6年の棟札が残されている。

境内には木食觀正碑(もくじきかんしょうひ)・庚申塔・西南の役の忠魂碑などがある。



扁額「中之宮左馬神社」。



「本殿」の右側にあった境内社。



「本殿」の左側にあった左から「光背型青面金剛塔+三猿」・「庚申塔 1861(文久元)年」・
「木食觀正碑」・「地神塔1861(文久元)年」が。

08 | 11月 | 2014 | Dakusai's Blog

中央は「「盡忠(じんちゅう)報国」碑・・1877(明治10)年の西南の役の戦死者2名の慰霊碑、
裏面に「招魂」の文字、1888(明治21)年。」
右手にも小さな境内社?が二基。



「神楽殿(かぐらでん)」。



そして次に「泉中央公園」に向かって細い坂道を上って行くと左側に小さな神社が。
横浜市泉区和泉中央南4丁目32付近。




横浜市泉区和泉中央南4丁目22。



「泉中央公園案内図
泉中央公園は昭和61年に、泉区誕生と同時期に開園した近隣公園です。
水と歴史を活かした公園として長年、親しまれて来ました。
泉中央公園の敷地には、中世の城郭である空堀や土塁の一部が残っています。

呼ばれる池があり、泉小次郎の伝承地として知られています。
再整備により平成28年3月に再オープンした。
この地は鎌倉時代の武将泉小次郎 親衡 の館跡と伝えられている。
遺構として、東側と南側に空堀と土塁が残っています。
公園の周辺には歴史ある寺院や神社などがあり、かっての面影を残しています。」



「泉小次郎 親衡 の館跡(いずみこじろうちかひらのやかたあと)」の南側を見る。
1213年(建暦3 年)に起きた北条義時打倒未遂事件(泉親衡の乱)の首謀者・
泉小次郎親衡の居館とする伝承がある。横浜市地域史跡。



城跡は南北400m、東西200mを測り、曲輪と見られる平坦地は現在「泉中央公園」となっている。
公園東端には南北に走る高さ1mほどの土塁が残り、埋没しているがV字に掘られた空堀も
見つかっている。「空堀」の如きものが確認できたがこれがそうか?



「泉中央公園の館跡」案内板。



「泉中央公園の一帯は、鎌倉時代の武士の泉小次郎親衡の館跡と言い伝えられていますが、
ニ重堀や板碑の紀年などから、南北朝時代のものではないかともいわれています。
公園の西側は和泉川を天然の水堀とし、東側と南には箜堀と土塁が残っていま。
現存する土塁は基底が約3m、高さlm、空堀は幅が約4 ~ 5m程であり、遺構は、南北400m
東西200mに及びます。東側の土塁は堀の前面にあり、土塁前が道路になっていることから、
ニ重堀があったと推定されています。」



「堀
敵の侵入を防ぐために城の周りに造られる防御施設のひとつです。水を引き込んだものを
水堀といい、水のないものを空堀といいます。中世の城郭の多くは、山城と呼ばれる山の地形を
利用したものであったため、ほとんどの堀は水のない空堀でした。水堀を設ける場合は一定の
堀幅を必要とするのに対し、空堀は幅が狭くても深く掘ることで威力を発揮するため、山城に
おいては有効な防御手段でした。
掘り方により底面はV字型、凹型、丸型など様々なものがあります。

土塁は地面を掘って、その土を盛り、つき固めて造った塁壁で、城郭の防衛線として造られました。
城郭の最も外側にかれ、傾斜ができるように土を盛ることで、外部からの敵の侵入を防ぐことが
主な役割でした。戦国時代末期から江戸時代の城には土塁を石で覆った石垣が多用されるように
なりました。」



西側は斜面の下は平らな場所であったが。



「泉」が湧き出していた。



園内には、 空充秋(そらみつあき) の彫刻「門」が立っていた。



銘板には「空充秋」の名が。



「泉小次郎馬洗いの池」



「泉小次郎馬洗いの池」 案内板。
「この池は、「泉小次郎馬洗いの池」といわれ、泉小次郎が馬を洗ったと伝えられています。
その昔から一年中水が枯れたことがなく、昭和20年頃まで、干ばつの時には、近隣の農家の
人々により、池の水が汲み千され、雨乞いの行事が行われてきました。
この池の底に沈んでいた小さな島には貞和三年( 1347 )造立の五輪塔があったといわれ、
池のほとりには数基の板碑もありました。
公園の北西に隣接する長福寺は泉小次郎が道場として創建したもので、守護神として祀った
のが須賀神社であると伝えられています。また、中和田村役場跡地公園西側にある神明社は、
泉小次郎が館の鬼門除けとして勧請したものであると伝えられています。
長福寺の西方約200m先に祀られている不動尊は、泉小次郎の守り本尊といわれています。
不動尊の左右には「男瀧」「女瀧」があったので、土地の人々はこの付近を「の前」と呼んで
います。
板碑(いたひ)
板碑は、石塔婆の一種で、板状の石で製作された供養塔です。発見された板碑の中には、
「元徳(1329 - 32 )」、「建武四年( 1337 )ニ月」、「康永元年( 1342 )」
「貞和四年( 1348 )」「延文六年( 1361 )」の銘が刻まれた鎌倉時代末期から南北朝時代の
ものもあり、貴重なものとなっています。
五輪塔(ごりんとう)
仏教の五大思想の教えによる宇宙観を表した地・水・火・風・空の五つの元素から形成されて
いるという考えから発したもので、石造物としては平安末期頃から造立されました。
泉親衡(ちかひら)の乱
泉小次郎親衡は、鎌倉時代の武士で信濃国(長野県)の住人だったといわれています。
親衡は、ニ代将軍頼家を幽閉、殺害し幕府の実権を握った北条義時を討っため、
建保元年( 1213 )ニ月、頼家の遺児千寿を擁し、旗上げを計画しました。
しかし、計画が事前に発覚し、多くの御家人が捕らえられました。鎌倉にいた親衡は、計画が
露見すると、逃亡し行方をくらましたことが「吾妻鏡」に見えます。計画に加わった御家人の
中には、幕府実力者であった和田義盛の子や甥もおり、それが元で、後に和田合戦に至りました。
この戦で北条氏により和田義盛一族は減亡させられました。」



そして坂道を下り「泉小次郎 親衡 の館跡」の下にある「長福寺」を訪ねた。
臨済宗天王山(てんのうざん)長福寺は、円覚寺末で本尊は釈迦牟尼(しゃかむに)仏。
泉小次郎親衡(ちかひら)が道場として創建したと伝えられている。
泉小次郎は、二代将軍源頼家の遺児千寿丸を擁して北条氏を打倒しようとしたが、
その計画が事前に発覚し、逃亡したと伝えられている。
隣の須賀神社は小次郎が鎮守神として祀った神社といわれているのだ。
横浜市泉区和泉中央南4丁目18-11。



「長福寺」の白の漆喰塀が続く美しい光景を振り返る。



「山門」。



扁額は「天王山」。



「横浜市地域史跡 泉小次郎伝承地---長福寺--」碑。



「本堂」。
長福寺は、鎌倉時代の武士泉小次郎が創建した道場だといい、大覚禅師の法弟・空山円印禅師が
開山、円覚寺102世大雅省音禅師(応永26年寂)が円覚寺派として応永2年(1395)に
中興開創したといいます。



自然石から彫られた手水鉢には湧き水が。



「六地蔵」。



美しい枯山水の庭には蓮の大きな鉢が並んでいた。



別の場所からも。



「​ ネット ​」👈リンク より。
次回は蓮の花の時期にと。

長福寺のハスが開花しました 2016 - 四季の風景

「本堂」に近づいて。



扁額「長福寺」。



長福寺の境内に南北朝期の年代(1300年代)が記された「板碑」が立っていた。泉
中央公園を整備したとき、池のほとりから出土したものであると。
「板碑」は、石塔婆(せきとうば)※1の一種で、死者の追善(ついぜん)※2及び生前の
逆修(ぎゃくしゅう)※3供養の塔で、本興寺墓地・無量寺・密蔵院・東泉寺の宝物殿
(非公開)などに多くあります。板碑は、泉区域の石造物では、最も古いものです。
※1石塔婆:石で作った供養塔
※2追善:亡くなった人の冥福を祈ること
※3逆修:生前にあらかじめ自分のために死後の冥福を祈ること。



「長福寺の歴史---伝承泉小次郎親衡縁起
大凡長福寺の歴史を遡るに鎌倉時代泉小次郎親衡の創建道場と伝う。
開山は大覚禅師の法弟・空山円印洋師なり。中興の祖は円覚寺百二世大雅省音禅師にて
応永ニ年(一三九五年)開創し以来 法燈連綿として今日に至る。
泉小郎郎親衡は信濃の国(上田市小泉)の住人にして信濃源氏の嫡流なり。
建暦三年(一ニ一三年)ニ代将軍源頼家の遺児千寿を擁して、執権北条家打倒(源氏再興)を企てるも
事前に発覚し追手を討ちて行方を晦ます。
小次郎と意を同じくする越後・伊勢・下総の衆三百三十余名に及ぶ。
この泉親衡の乱がロ火となり侍所別当和田義盛の乱起り、北条体制に不満を持っ相摸武士団が
挙兵する(吾妻鏡より)
泉小次郎の行方については諸説あるも、唯一川越市最明寺縁起に鎌倉退出後諸国を転々とした後、
武蔵の国三芳野(川越市)の豊田源兵衛を頼り千寿と共に出家、名を静海と改め文永ニ年(一ニ六五年)
八十八歳で没す。
現在川越市小ヶ谷の墓所は戸泉氏を名のるニ十五代当主守れり。
当寺裏山中央公園には、小次郎館跡・馬洗いの池と呼ばれる史跡あり。
また隣接の須賀神社に守護神を奉斎、鬼門除けに神明社、守り本尊として滝の前不動尊を請した
との伝承あり
ここに祀りし板碑は南北朝時代(元徳・建武・康永・貞和・延文等)の墓石で豪族や武士が供養の為
建立せしものにて古き歴史を物語る。
この度長福十開創六百年を迎えるにあたり泉小次郎親衡の伝承を記すと共に有縁 無縁三界万霊
安らかならんを事を祈念するものなり。」



そして「長福寺」の直ぐ隣りにあった「須賀神社」を訪ねた。
横浜市泉区和泉中央南4丁目18-14。



社号標「須賀神社」。



「横浜市地域史跡 泉小次郎伝承地---須賀神社--」碑がここにも。



狛犬(阿形像)。



狛犬(吽形像)。



「社殿」。
明治の神仏分離までは牛頭天王社と称しており、現在も「和泉の天王様」とも呼ばれている。



扁額「須賀神社」。



広場から「長福寺」の山門と「須賀神社」の石鳥居を望む。
「長福寺」境内の大銀杏も美しいのであろう。



境内広場の石仏・石碑。
左は「六道能化地蔵菩薩」であろうか。右の石碑横には「昭和八年吉日」と刻まれた石碑も。



そして「長福寺」を出て右に折れると「宮沢果樹園」の見事な生け垣が。
手前はモチノキの生け垣であっただろうか。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2021.05.25 16:13:23
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