JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.03.21
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「新神明橋」を渡ると正面にあったのが、曹洞宗の寺で「阿久和山観音禅寺」。
元和元年( 1615 )、阿久和村の領主であった徳川家康の家臣、安藤治右衛門正珍が、先の
冥福を析るために創建したといわれています。
宗派は曹洞宗で、旧鎌倉郡観音三十三札所のニ十三番札所です。本尊の聖観世音菩薩立像は、
行基作と伝えられ、33年に一度に御開帳を行う秘仏です。また、釋迦殿には、スリランカから
送られた仏舎利と涅槃像が安置されています。



「曹洞宗 観音禅寺」の寺号標石。



観音 寺「山門」。



観音 寺山門に掛かる「鎌倉二十三番 札所 観音禅寺」の木札が右手に。



山門前のお地蔵さま。



「山門」前にも「曹洞宗 観音禅寺」の寺号標石が。



この石碑は「奉納大乗妙典 坂東 西国 秩父 供養塔」。







「山門」を潜る。



扁額は「阿久和山」。



山門横の白山堂基礎石。



これが「白山堂」であろうか。



山門横には俳号「行々子」の「句碑」が。
「献句 晩鐘に 濡れて暮るる 花の雨」。



そして境内参道から正面に「観音堂」が。
参道の両脇には白梅が咲き始めていた。



「鐘楼」と手前に「六地蔵」。



「梵鐘」は昭和44年(1969年)銘。



廻り込んで。




「地蔵菩薩」ーーこれがお地蔵さまの正式な名前である。
「菩薩」の名前からも察せられるように、数ある菩薩の中の一つに数えられている。
お釈迦さまが入滅し、次の新たな釈迦如来が誕生するその時までの世の中を救う存在が
地蔵菩薩であるとされている。
そんな大役を担う地蔵菩薩は弱い立場の者から救うと考えられていることから、幼くして

子供と縁の深い仏様とされているのである。
赤い頭巾と前掛けは幼子の装いを想起させる
江戸時代に入ると賽の河原の物語が流行し始める。賽の河原の物語とは、幼くして亡くなった
子供が徳を積むために賽の河原(三途の川の岸辺)で石を積み上げる。
しかし、そこに鬼がやってきて折角積み上げた石を崩してしまう。そこに地蔵菩薩がやってきて
子供たちを冥界へと導いて行く。そんなお話が江戸庶民の間に流行し、「地蔵菩薩=子供の仏」と
いうイメージが付いたのである。
そこで思い浮かべていただきたいのは地蔵菩薩、つまりお地蔵さまの格好である。前述した頭巾に
前掛けという装いは正に子供の格好そのままではないだろうか。更に「赤」という色も子供を
表している。幼子を表す言葉に「赤ちゃん」や「赤ん坊」、また赤は太陽を表し、生命の起源を、
さらに迷子になりやすい子供がしっかりと黄泉の国へと行けるように目印としての赤など、
現在ではその赤色について様々な解釈がなされている と。



「お掃除小僧
掃けば散り 払えばまたも 塵つもる 人の心も 庭の落葉も」。



正面に「観音堂」。



扁額「大雄寶殿」。



「平和観音」と右手に球状の「慰霊」碑。




第二次世界大戦終結以来三十七年月を迎えるに 日本経済は世界の尖端をゆき国内挙げて平和な
日おくりを謳歌する今日隅々 世界大戦の激発により挙世惛乱赤誠応徴され国難に殉ぜられた
英霊とその遺族に思いを至すとき 今ありし日の姿なきを見るに寂寥の感に堪えず 洵に哀悼の念
深く感慨尽くるところなし 昨今世相安泰機縁熟し寺租一同本堂の再建と諸堂の伽藍復元を
発願 祖徒一同この勝縁浄業に随喜し大願成就落慶された  これを記念し篤信者より平和観音像
竝びに各戦役戦死病没者諸英霊の慰霊碑寄進建立を期に当山租徒出身にして郷土の衆望を
担い勇んで国難に赴き 再び生きて還らざる諸英霊のみ魂を祀り永く後世に功績を伝承しもって
英霊を慰めんとす 願わくば諸英霊永久に阿久和山上より郷土の平和守護たらんことを茲に
縁起由来を謹記する者也。昭和五十七年八月十五日 平和記念日」



「阿弥陀如来像」と「佛足跡」。



「佛足跡」。



「​ 足に描かれた模様 ​」👈リンク。



「佛足跡
お釈迦様の平らな足の裏には、めでたい印の模様があります。そして人々はお釈迦様を慕って
いまもその足跡を拝んでいます。
お釈迦様が石の上に立って説法されると、そこに足形が残りました。
この足跡を佛足石(ぶっそくせき)といい、これを拝み、手に触れ、沓(くつ)を脱ぎ
足跡に自分の両足を重ねて立つと、とても清浄で心地よくなり智慧と慈悲の光明に照らし
つつまれ、安楽な生活を送ることができると云われています。」



観音 寺「道泉閣」。



「道泉閣」前の稚児像。園児の姿であろうか。



「慈母観音像」。



「一休さん」



木魚を枕に居眠りする一休さん。



観音寺「龍吟殿玄関」。



「手水舎」と手前に「厄除地蔵」。



龍の手水口からは水が流れ出ていた。



「厄除地蔵」。



六地蔵と同じく赤い頭巾と前掛けをして。



「観音堂」を斜めから。



「釈迦殿」内陣には釈迦如来像、仁王像が。


     【https://bunbun410126.blog.ss-blog.jp/2015-12-31】より

その後ろには「涅槃像」が安置されていると。


     【https://bunbun410126.blog.ss-blog.jp/2015-12-31】より

「釋迦殿縁起由来記
阿久和山観音寺は古くは公儀寺格の御朱印地の格式を持った四百年の歴史のある徳川一門の
古刹であります。此の度当山は御縁を得ましてスリランカ国より佛舎利が奉安されました。
併せて篤信の信者より釋迦涅槃像の寄進を受け安置されました。佛舍利は云うまでもなく
佛陀の遺骨の事であります。舍利はサンスクリット語、シャリーラの音訳で、もともと佛陀
または聖者の遺骨のことですが佛教ではいつしか佛の遺骨を意味するようになりました。
当山と致しましてはこの様な尊い佛舍利と釋迦涅槃像を 鑚迎申し上げなければと云う願いから
釈迦殿を建立致しました。釋迦殿は檀信徒への教化は申すまでもなく広く世界と人類の平和と
発展を祈願する生きとし生けるものの安らぎの象徴でもあります。
茲に大願成就に当たって謹記する者也。
平成十年四月吉日 当山二十ニ世 龍吟文丈 撰文」



「孝順心」と刻まれた石碑。
「孝順心」とは、親に孝行を尽くし、その意に逆らわない心。



「合掌小僧」であろうか。



「本堂旧跡地」碑。



「阿久和山 観音禅寺 本堂再建記」。



「阿久和山 観音禅寺 本堂再建記
昭和五十ニ年一月一日当山住職ニ十ニ世龍玲文丈大和尚が発願し檀家の総意により昭和五十ニ年
八月ニ十一日建設委員会を結成、同年十ニ月十七日名古屋市加納社寺建築事務所と契約し
約五ヶ年の歳月と四億円の浄財幷びに植木、天水桶、平和観音像及び慰霊碑灯篭等の寄贈に依り
本堂、位牌堂廻廊及び客殿并竝びに境内地の一切の整備が竣工いたしました。
竝びに建設委員会を解散するに当り尽力された役員の芳名を記して永く後世に伝う者也」。






                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2021.05.25 16:21:06
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