JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.04.01
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「横浜市泉区の古道を巡る」の4回目のスタートは相鉄いずみ野線の「弥生台」駅から。
前回は訪ねられなかった場所を、ひたすら南下しながらの今回の散策。
「弥生台」の町名は、町内に弥生時代の遺跡があることから名づけられたのだと。



弥生台駅の桜は既に満開であった、しかし駅構内の待合室のガラスの壁。



昭和51年(1976)年の開業以降に植えられたと言う数多くの桜は開花を初めたばかりであった。



「弥生台駅北口」。



線路に沿って西にむって坂道を上って行った。
線路の斜面には、薄膜太陽電池が設置されていた。
これは神奈川県が実施している「薄膜太陽電池普及拡大プロジェクト」による助成を受けて、
導入されたものであると。

有機半導体を用いた新しい太陽電池の一つ。
有機薄膜太陽電池には、軽量でかつ曲げられるという特徴がある。



3月下旬になれば・・・ネットから。

弥生台駅の桜_d0040267_13483857.jpg
   【https://mitaphoto.exblog.jp/22123435/】より

「弥生台西公園」の横を通過。



そして県道218号線・権太坂和泉線と県道402号線・かまくらみちの交差点を左折し、南下する。



そして泉警察署入口を右折すると直ぐにあったのが神奈中「富士塚」バス停。



バス停の奥に「富士山」の姿が見えた。



ここ「横根稲荷神社」東側の場所は、標高約 65 m位の高台。
西を見れば遮えぎるものはなく、富士山を中心に、右は大山、丹沢山塊、左に箱根連山が
一望できるビューポイント。ここにあった「富士塚」は信仰の対象として、また、この塚の上に
航空灯台 ​」​👈リンク は名所として歌・「戸塚音頭」にまでなっていた。
三、恋のやみ路も雲間の闇も たよる心の二筋道や
  様のプロペラ間近に聞いて、戸塚灯台空の路
  恋のハンドルしっかりと 相州戸塚の空あかり
この航空灯台も、太平洋戦争が勃発すると、敵機の目標になるということで、昭和十九年頃

今は跡形もなく、バス停にその名を残すのみとなっていた。
この日は、やや見通しが悪く、富士山頂の上には笠雲がかかっていた。



運が良ければ・・・ネットから。

【https://www.city.yokohama.lg.jp/izumi/shokai/rekishi/ayumi/meisho/izumi/izmei5-7.html】

そして右手にあったのが「横根稲荷(よこねいなり)神社」。



昭和39年認可された「土地改良事業完成記念碑」が正面右手に。



「横根稲荷神社」は、和泉全域を氏子とし、また昔から「横根のいなり様」といわれて
近郷住民や商人の信仰を集めて来た。さらに大山道に近いことから大山参りの人達も立ち寄り、
旅の安全を祈願したといわれている。境内には巴御前(ともえごぜん)が信濃に落ちて行く
途中で化粧に用いたという「横根感念(かんねん) 井戸」があった。
横浜市泉区和泉町5963。



参道入口左手には「馬頭観世音塔」が。
「横根稲荷神社」の回りでは、昭和12年(1937)頃まで「​ 旗競馬(はたけいば) ​」👈リンク が
催されていた。廻り馬場で、農耕馬や荷馬車の馬を走らせた。近郷近在から集まった老若男女の
見物人は、見せ物小屋や露店をひやかし、見合いの場所にもなっていた。



裏には「大正十四年四月建立」と。



その周囲には小さな「馬頭観世音」碑が並んでいた。
馬頭観世音塔は、高座郡、鎌倉郡の荷馬車運送組合が建てたものなど数基あった。



競馬に出た馬も供養されているのだろう と。



「横根稲荷神社
この神社は和泉全域を氏子とし、周辺の住民や商人の信仰を集め、大山参りの人達も旅の安全を
祈願したといわれています。境内には巴御前が化粧に用いたという「横根感念井戸」があります。
神社の周りでは、昭和1 2年頃まで農耕馬などが走る「旗競馬(はたけいば)」が
催されていました。見世物小屋や露店が立ち並び、周辺の男女の見合いの場所にも
なっていました。鳥居横には馬頭観音碑が数基あります。
また近くにあった富士塚には「​ 航空灯台 ​」👈リンク がありました。」
今は姿を消した「富士塚」は神奈中バス停留所の名称で、わずかに名残りを止めているのであった。



社号標「正一位横根稲荷神社」。



石鳥居。



参道を進む。



境内の「梛(なぎ)」の木。
梛はマキ科マキ属に含まれる常緑高木。雌雄異株であると。



初めて見る?木「なぎ(梛)」。



珍しいと感じた「梛」の葉の写真をズームで撮り帰宅後ネットで調べてみると
「梛は熊野の御神木。その葉は金剛童子(仏教徒の守護神で、阿弥陀如来の化身とされた)の
変化身と考えられ、参詣者は帰途の安全を願い、梛の葉を護符として袖や笠などに付けました。
あるいは武士が戦場で兜や鎧に付けました。梛の葉が災厄避けのお守りとして使われたのです。
梛はマキ科の常緑高木。針葉樹でありながら、広葉樹のような幅の広い葉をもちます。その葉には、縦に細い平行脈が多数あって、主脈がありません。その独特の構造のため、梛の葉は、横には簡単に裂くことができますが、縦にはなかなかちぎることができません。
葉の丈夫さから梛にはコゾウナカセ、チカラシバなどの別名があり、その丈夫さにあやかって男女の縁が切れないようにと女性が葉を鏡の裏に入れる習俗がありました。
梛はマキ科の常緑高木。針葉樹でありながら、広葉樹のような幅の広い葉をもちます。
その葉には、縦に細い平行脈が多数あって、主脈がありません。その独特の構造のため、
梛の葉は、横には簡単に裂くことができますが、縦にはなかなかちぎることができません。
葉の丈夫さから梛にはコゾウナカセ、チカラシバなどの別名があり、その丈夫さにあやかって
男女の縁が切れないようにと女性が葉を鏡の裏に入れる習俗がありました。」
と「​ ネット ​」👈リンク から。



更に陽光の射している場所をズームで。
なるほど針葉樹なのに広葉樹の如き葉、葉脈の中心の太い主脈、主脈から放射状に分かれ
出ている側脈がないのであった。



手水場。



「巴御前ゆかりの感念井戸」碑。



「巴御前ゆかりの感念井戸。
むかし、木曾義仲の夫人、巴御前は女武者として義仲とともに勇名をはせていました。
しかし、寿永3年(1184)に近江で義仲が敗れると捕われの身となり、和田義盛に
引き取られて、義盛の本拠地三浦で暮らすことになりました。
そして建歴3年(1213)の合戦で義盛も敗れ、巴御前は木曾へと落ち延びていきました。
途中、横根稲荷神社で一夜を過ごした巴御前は、境内にある鎌倉石と七沢石で囲われた古井戸の
水を化粧の水として使ったと言われています。
その後、この井戸は「横根の感念井戸」といわれるようになったということです」とのこと。
手押し井戸ポンプは現役中のようであった。



御神燈。



「拝殿」前の「老松の根」。



こちらにも、かなりの古木であったのだろう。



「拝殿」。
勧請年代は不詳であるが、明治の神仏分離までこの神社の別当であった密蔵院に文政二年
(一八一九)の文書が伝わっている。要約すると、昔、村内に病人や厄災が度々発生した。
老人が言うには、昔、横根原に小さな社が祀られていたが、跡かたもなく廃祠同然になったので、
社の神の崇りであろうということになり村中で相談して再建した、と記されている。
(和泉全域が氏子)。
祭神は宇迦之御魂大神(うかのたまのおおかみ)。



玉を咥えた狛狐(右)。
「玉(宝珠)」は霊の力、「鍵」はその霊力を引出すカギ、「巻物」は神様からのお言葉、
「稲」は富、子キツネは「子宝」などを象徴しているのではないかと言われているのだ。



巻物を咥えた狛狐(左)。



「拝殿」には扁額はなかった。



「内陣」。



「拝殿」前から境内を振り返る。



祭り備品用の倉庫であろうか?



境内の多くの木々が何故か切られていた。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2021.05.25 16:25:21
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