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2021.10.04
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カテゴリ: 海老名市歴史散歩
【海老名市歴史散歩】 目次

「龍峰寺」の境内から右に折れ「石坂」を下り振り返る。



突き当りを左折して海老名市国分北2丁目11の住宅街を南に向かって進む。



広い坂道に合流した場所の先の左側の少し高い場所に石碑を発見。



「源頼朝公」と刻まれた石碑。
「黨山開基」と刻まれていたが。



側面には「天明四甲辰載十月十八日 現住龍峯兼清水寺佑天渓志」と刻まれていた。



この坂が「新吾妻坂」らしい。



そして相鉄本線沿いの道と合流した場所にあった「自然と歴史のさんぽみち」案内板。



相鉄本線と大きなマンション群を見る。




この坂が「吾妻坂(権現坂)」のようだ。
昔は吾妻権現社への参詣の道だったが、今は坂の途中で相鉄線が通り、その先は消滅。
右に直角にカーブして南に上っていた。



「吾妻坂(権現坂)」が消滅した場所から相鉄線を見下ろす。



右に直角にカーブして南に上って行くと左手には大きなマンション群が。



グランドレジデンス「ルネ・エアズヒル RENAI AIRSHILL」入口。


海老名市国分南2丁目の住宅街を進む。



北に方向を変え進むと右手にあったのが
郷土かるた「ん」
海老名市国分南1丁目15。



「運河では 相模最古の 逆川」。

伊勢山の南側を回って、国分の台地を経て国分尼寺の小谷戸から海老名耕地に流れていました。
後に現在の相模鉄道の手前で西に流路が変更され、これが新掘と呼ばれるようになりました。
発掘調査により平安時代以前に作られ、船着場と推定されるような遺構も確認されていることから、
運河跡ではないかともいわれています。
国分付近では南から北へ、目久尻川流域での低地から台地上へ流れていることから逆川と

昭和40年代までは流れていましたが、次第に埋め立てられ、ごく一部の地形などにその面影を
見ることしかできなくなりました。
逆川が北へ曲がっている地点に、由来と地図を刻んだ記念碑が建立されています とネットから。



県道407号線・杉久保座間線を南に進む。



そして右手の魚屋の角にあったのが「旧跡 庚申大権現入口」案内柱。



「自然と歴史のさんぽみち」はここが「史跡相模国分尼寺跡」であることを示していた。



進んでいくと道路の右手にあったのが「國分尼寺講堂阯」碑。




残念ながら全面にロープが張られ立ち入りは禁止のようであった。



講堂のあった場所はこの先であろうか?
金堂と講堂の間には、東西二鐘楼と経蔵が配されていたと。



そして反対側にも大きな緑地が広がっていた。
住宅などに囲まれて敷地が保存整備されて残っていた。
相模国分尼寺跡は、海老名市城の相模川左岸に延びる河岸段丘上に立地する。
天平13年(741)の聖武天皇の詔により、全国に設置された国分寺・国分尼寺の一つで、
相模国分寺跡の北方約500メートルに伽藍中軸線をほぼ揃えて配置されている。
大正末年に中山毎吉が著した「相模国分寺志」には、当時中門跡は畑と化したが、明治末年頃
までは瓦と石が塚状に堆積し、そこに2個の礎石が残っていたこと、金堂基壇上には埋没した
16個の礎石が存在すること、講堂跡は明治末年に削平され、その際に礎石が一隅に
移動されたことなどが記されている と。
右側の白い四角は説明板。奥には庚申堂があった。



「相模国分尼寺跡(金堂跡)
この寺院跡は、相模国分寺跡の北方約600メートルに位置しています。
近年、寺域内の発掘調査が数次にわたって実施され、この金堂跡のほか、講堂跡と鑛楼跡の
基壇の一部が確認されました。その結果、中門・金堂・講堂が南北に並び、講堂の両脇に経蔵と
鐘楼がつく伽藍配置をとること、規模は相模国分寺より一回り小さいことがわかりました。
また、金堂跡の確認調査では、基壇上から桁行5間・梁行4間の大規模な礎石建物跡が
検出されました。
平成3年3月31日 海老名市教育委員会」



金堂跡は、東西24.5m、南北19.5m、高さ1mの土壇として残り、基壇上には礎石15個が現存。
礎石は1.5m前後の大型の花崗岩自然石を利用しており、金堂の建物は桁行5間(総長21.2m)、
梁行4間(総長13.9m)で、正面5間のうち中央の柱間がとくに広く、6.3m。
この柱間は東大寺大仏殿を除き、現在確認されている国分寺・国分尼寺の遺構としては
最大規模で、金堂の構造上の特異さを示唆している。国分尼寺は国分寺とならび、律令体制下に
おける仏教体制のあり方を象徴する施設として重要であることから、1997年(平成9)に
国の史跡に指定され、2008年(平成20)に追加指定を受けた。


   【http://www.ohoka-inst.com/sagamikokubuamaderaato.pdf】より


「相模国分尼寺跡(金堂跡)」から「国分尼寺講堂阯」を振り返る。



そして老木の下にあったのが「國分尼寺金堂阯」碑と「庚申堂」。



正面から。



横から。



郷土かるた「に」
「尼寺跡に 庚申塔と ひがん花」



そして紅白の彼岸花が。



「庚申堂」。



扁額も「庚申堂」。



内陣には「庚申塔」が安置されていた。
板碑型、H108×W43全高118cmの文字塔
碑文は、
「寛文六季 夫神灵(霊?)必有感□□□同心
ウン(梵字) 一揆之善男庚申観進結願造視箴聴
箴言箴者発願益欲衛二世希望而己
午丙三月十六日 三猿 十一人の氏名 国分村 柳田(左)」

「庚申塔銘文の意味
寛文六年 寛文六年(一六六六年)三四四年前
十一人の男、みんなで庚申様をまつり、がんかけをして見ざる、聞ざる、言ざるの三猿
(箴・・いましめ)を造る発心の望みは、二世(現世安穏後生善所)の望みを得たい
からである。
西暦一六六六年三月十六日造立」



「庚申堂」前にあった石碑群。



舟形光背 H70×W35全高79の庚申塔
六臂合掌青面金剛像 邪鬼
天保三癸亥(1683)年 三月吉日



笠付角柱中区 H87×W25×D15全高106cmの文字塔
正面は、(梵字)庚申供養 六人 三猿
右側は、宝暦十庚辰(1760)天 金子源七 他2名
左側は、九月吉日 金子武衛門 他2名



今にも崩れ落ちそうな石碑。
笠付角柱中区 H87×W24×D20全高107cmの文字塔
正面は、(梵字)為庚申供養也 講中六人 三猿
右側は、享保五庚子(1720)年
左側は、 十一月吉日 
であるようだ。



赤の彼岸花。



「庚申堂」柱。



「庚申堂」を振り返る。
近くにあった「相模国分寺跡」と比べると、案内看板も少なく、ちょっと寂しい感じなので
あった。



そして小田急線の座間15号踏切を渡り、西に進む。



「浅井の水」を目指して住宅街を進むと電線工事のトラックの裏にあった「道祖神・庚申塔群」。
中央に双体道祖神が。その後ろには文字庚申等が並んでいた。
海老名市国分北1−24。



そして次に「かがり塚」を目指したが案内板等は一切見つからなかった。



「国分尼寺第一児童遊園」が右にあったがこの奥の木々の生い茂った丘が
「かがり塚(灯塚)」であろうか。



相模野台地の崖際に位置する塚で稲荷の社が乗っているようであった。
「かがり塚(灯塚)」という名称は、昔、付近の小運河を通行する舟の目印のために常夜灯
を置いた塚であったため「灯塚」または「かがり塚」と呼ばれたと。
海老名市国分北1丁目24−7。



そして来た道を戻り「浅井の水」に到着。
海老名市国分北1−24。



「鎌倉時代に清水寺が再興された時に堂前から清水が湧き出したことから清水寺の寺名となったと
言い伝えられています。
この清水が「浅井の水」と呼ばれ、その中央には水神塔がまつられています。
冬の渇水期以外は水をたたえており、永池川の源流点とされています。
清水寺は江戸時代に東の丘に移転しましたが、このような由来から地元の人は今でも
清水寺本堂(龍峰寺観音堂)を水堂と呼んで親しんでいます。
昭和35年頃に水道が引かれるまでは周辺の家の生活用水として利用されていました。」
とネットから。



池の中には水神塔と呼ばれている石仏の姿が。



「浅井の水(浅井の井)」案内板。



「「浅井の水」は、相模野台地西端の崖線にある湧水で、その名は元禄3 (1690)年に記された
国分村の清水寺縁起にもみられます。
この湧水は一級河川「永池川」の源流点とされています。相模国分寺の建立に大きくかかわった、
古代の人工水路である「逆川(さかさがわ)」の流路にもつながっていたものとみられ、
北西にある「かがり塚」にはこの付近を通る舟のための常夜灯があったとの言い伝えもあります。
中央には国分尼寺の銘のある水神塔が建立され、昭和35年頃に水道が敷かれるまで付近の家の
生活用水として大切にされてきました。近年は周辺の宅地化の影響か、冬になると水量が
少なくなります。」



当時の運河ルートと「相模国国分尼寺跡」と「相模国分寺跡」の位置図。



「浅井の水」を後にして更に南下するとあったのが「前の坂」。
この坂に面して五人組のうちの4軒の家があり、その家の前の坂ということでこう呼んだと。
海老名市国分北1丁目14。



「前の坂」の石段を上り振り返る。



「内出稲成神社」。
鎌倉時代の武士団である海老名氏の一族に国分氏がおり、国分の地に館を構えたのではないかと
いわれている。


海老名市国分北1丁目5。



入口左に「庚申塔」。



社号標石「内出稲成神社」。



朱の鳥居。



扁額「正一位 稲荷大明神」。



「本殿」は鞘堂に覆われて。



「本殿」。



そして「足折坂」を上って行った。
昔はもっと短い急坂で転びやすく足を折るような坂だった。
婚礼の際、花嫁は絶対に通らない坂だったのだと。





                              ・・・もどる・・・


                   ・・・つづく・・・





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Last updated  2022.05.18 18:41:00
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