JINさんの陽蜂農遠日記

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jinsan0716 @ Re[1]:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) オジン0523さんへ ありがとうございます…
オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) そして9:20になり、カウントダウンが始ま…
jinsan0716 @ Re[1]:旧芝離宮恩賜庭園 へ(その3)(08/06) オジン0523さんへ 書き込み、ありがとう…
オジン0523 @ Re:旧芝離宮恩賜庭園 へ(その3)(08/06) 根府川山は根府川に関係あるのですかね

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2022.02.06
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カテゴリ: JINさんの農園
「世田谷城阯」を後にして、次の目的地の「勝光院」へ向かって進む。
途中、「烏山川緑道」を横切る場所にあったのが「豪徳寺橋」碑。
昔はここに「烏山川」が流れており「豪徳寺橋」が架かっていたのであろう。
そしてこの「烏山川」は地下水路となり埋め立てられ「烏山川緑道」となったのであろう。



更に進み、再び「東急世田谷線」の踏切を渡る。



「勝光院」に向かって住宅街を進む。



そして「勝光院」への入口に到着。
東京都世田谷区桜一丁目26-35。



寺号標石「曹洞宗 延命山 勝光院」。




墓地への新装なった入口門。



入口門の先には、綺麗に掃き清められた墓地そして通路があり進んで行った。
目的は「世田谷城主吉良家の墓所」。
吉良氏 ​」​👈リンク と言えば、まず忠臣蔵の吉良上野介義央が有名。そのことから、
吉良氏の領地は、三河の吉良であるということも良く知られている。
よって吉良上野介は三河吉良氏と言われている。
一方、世田谷の領主の吉良氏は奥州(武蔵)吉良氏といわれ、系統が異なるのだと。
先程世田谷城跡を訪ねたが、14世紀後半に吉良治家が世田谷郷に居館を構えたことに始まる
のであった。
もともと、吉良氏は、足利氏の一門。鎌倉時代に、足利義氏の長男の長氏が三河国碧海郡

また、足利義氏の四男の義継が、兄の長氏と同じく三河国吉良荘を本拠とし、「吉良」を名乗る。
兄の長氏の家系は「三河吉良氏」となり、弟の義継の家系を『奥州吉良氏』というのだと。



左手にあったのが「六地蔵」。



そして直ぐ右手にあったのが「世田谷城主吉良家の墓所」。
「勝光院墓地のほぼ中央に所在する吉良氏墓所には、義祇(明暦3年没、1657年)以降の

整然と並んだ墓石のほか、区画の隅に集積された古い墓塔があります。
同墓所内で最も古い年紀をもつ墓石は、貞和5年(1349年)で、「興善寺殿」の院殿号と
「吉良頼氏」の名が刻まれた宝篋印塔です。しかし、その制作は同塔側面に刻まれた寛永19年
(1642年)とみられており、江戸時代になって追善のために建立したと考えられています。」
とネットから。



勝光院は、建武2年(1335)に吉良氏によって、金谿山龍凰寺として創建したが、
天正元年(1573)には、吉良氏朝が天永琳達を中興開山として、父頼康の院号より
興善山勝光院と改称した。天正19年(1591)には、徳川家康より、30石の御朱印状を拝領した。
世田谷区指定史跡の吉良家歴代のこの墓所。
大きな百合の花や黃菊の花が手向けられており、品格のある空間をより高めていたのであった。



「豪徳寺」の「伊能家墓所」如き墓石の案内がないため、墓石人物の特定は出来なかったが。



最奥正面に並ぶ「宝篋印塔」の墓石群。
勝光院内のこの吉良家墓所には氏朝の孫・義祗以降の一族の墓が、全28基と、
墓所内の隅に集積された墓塔が10数基あるとのこと。



正面の右側の墓石群。



正面左側の墓石群。



「吉良氏墓所
吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、三河国吉良荘より起こった。世田谷吉良氏はその庶流で、
十四世紀後半、治家の代に世田谷に居館を構えたと伝えられる。室町・戦国期を通じて、
吉良氏は足利氏御一家として家格の高さを誇り、世田谷地域を支配していた。十六世紀、
頼康・氏朝の代には後北条氏と婚姻を結ぶなどの関係にあった。
関東が徳川氏の支配下に入ると氏朝の子・頼久は上総国寺崎村に所領を移され、以後吉良氏は
旗本として幕末まで存続したが、その間も勝光院は吉良氏の菩提寺であった。
勝光院は天正元年(1573)、氏朝の中興開基で、吉良氏墓所には氏朝の孫・義祇以降の
一族の墓が所在する。全28基と、墓所内の隅に集積された墓塔が十数基ある。」



正面に向かって右側横の墓石群。



正面に向かって左側横の墓石群。
「墓所内の隅に集積された墓塔が十数基」がこれであっただろうか。
隅っこには行き場がないといった感じで墓石や塔がきれいに並べてあったが。



そして幕臣の「廣戸備後正之」も、この寺に葬られていた。
廣戸正之は駿河の出身で、今川義元に仕えていた。
今川家の没落後に徳川家に仕え、致仕後に世田谷に隠棲した。1612年(慶長17年)に死去し、
勝光院に葬られている。なお、勝光院第2世住職観堂宗察も、廣戸氏の一族である。



左の墓石には「廣戸備後正之月翁玄之墓」、右手の墓石には「心叟永本居士 廣戸半十郎」と
刻まれていたが、一番右側は不明である。



そして「勝光院」の墓地を見る。



墓地内から「客殿」その奥の「開山堂」を見る。



「吉良家の墓所」を後にして、「勝光院」の参道に戻り「山門」に向かって進む。
山門の前には竹林を背にして一体の地蔵様が三界萬霊の慰霊碑の上に立っていた。
まるで竹林を守るがごとくに。「三界」とは欲界・色界(物質の世界)・無色界(精神の世界)
趣きを感じる地蔵様なのであった。そして竹林もきれいに整備されていた。



左手にあったのが「客殿」。



そして「山門」前まで進む。



「山門」を潜り、石段を上って行った。



石段を上り終わると右手には竹林を背に「鐘楼」が。



ズームして。



廻り込んで。



「勝光院の梵鐘
所在地   世田谷区桜一丁目二十六番三十五号
所有者   世田谷区桜一丁目二十六番三十五号
指定    平成十二年十一月二十八日
製作年代  元禄十一年(一六九八)
作者    加藤太郎兵衛吉高
材質・構造 銅鋳造
総高    一四四・五センチ

本梵鐘は、元禄11年、当山第13世隆山傳盛の代に制作されたもので、区内に伝わる梵鐘としては、
二番目の古さである。第二次世界大戦に際し供出に応じたが、幸い鋳潰しを免れ、しばらくの間、
葛飾区東金町の金蓮院に伝えられていた。昭和52年当寺に返還され、今日に至っている。
梵鐘の形姿は、優美で均整がとれ、各所に見られる装飾も堅実な出来栄えであり、工芸品として
優れている。制作者の加藤吉高は八王子に本拠をおき、江戸時代をつうじて主に三多摩地方を
活動範囲とした所謂「加藤鋳物師」の一人である。
本梵鐘は、吉高の力量が窺えるとともに、加藤鋳物師制作の鐘の変遷を考えるうえでも重要な
位置を占めている。また、元禄年間頃の当寺について記す史料は、井伊家文書中の
「世田谷二拾ヶ村御帳」(元禄8年/彦根城博物館蔵)以外知られておらず、この時期の銘文を
有する本梵鐘の存在意義は高い。
近世世田谷の歴史を知るうえで、また、世田谷の近世美術工芸品を語るうえでも、本梵鐘は
貴重な遺品である。」



そして「勝光院 本堂」。




吉良治家氏(法名興善寺殿月山清光大居士)によって創建され、初めは臨済宗の金谿山龍鳳寺と
名付けられていたと。「新編武蔵風土記稿」によると、開山は吟峯公禅師となっている。
その後は衰退していったようで、天正元年(1573年)に吉良氏朝が天永琳達禅師を中興開山
として、父頼康の院号(勝光院殿脱山浄森居士)により興善山勝光院と改称し、この時に
臨済宗から曹洞宗に改宗したのだと。天正十年には客殿(旧本堂)の建立を行い、その時に
家臣の関加賀守が現在の本尊である虚空蔵菩薩像を寄進したのだと。



扁額は「興善窟」か。



「本堂」に右側にあったのが「庫裡」。火灯窓・花頭窓が美しかった。



こちらの建物は「書院」の玄関。



近づいて。



「勝光院書院
所在地 世田谷区桜一ー二十六ー三十五
所有者 延命山勝光院
指定  昭和五十七年十二月二十八日
建築形式 一重 寄棟造 茅葺
規模   桁行 四・五間(八・一八メートル)
     梁間 四・〇間(七・ニ八メートル)
この書院は、勝光院の旧寺地にあったが、天保四年(一八三三)の諸堂再建の際に曳屋され、
現在地に移されたものである(小屋束墨書銘 、大場弥十郎 著「自然賛ー 巻五ー」)。
当書院の間取りは、四間取りで、南側の表座敷二室と、北側の裏座敷、納戸座敷の二室からなる。
昭和五十二年の改修で内縁を廻らしたが、当初は表座敷二室と南側と西側が外縁の切目線で、
東側の表座敷、裏座敷の東・北側は内縁のすのこ縁が廻り、雨戸が建て込まれていた。納戸座敷の
北、西側には縁は廻らず、開口部は三本溝で舞良戸二本と明障子一本の建具が入っていた。
表座敷二間のうち、西側の八畳が上座敷で、北側に床間、天袋付違棚、西側に平書院を構える。
納戸座敷を除く三室はいずれも仕様が同じで、柱、長押、竿縁の各材は面皮付の杉材を使って
いる。壁は漆喰壁であったが、当初は大津壁(黄土)であった。柱間寸法は六尺(一・八二
メートル)、材質は杉が使用されている。
建築年代は、柱枘より「文政六年十月二十七日」(一八二三)と記された墨書の他、同年銘の棟札から
明らかである。
当書院は、江戸時代後期の数寄屋造書院形式を伝える貴重な遺構 である。」



この書院は文政6年(1823)に横根村(現在の大蔵1丁目付近)の棟梁・岡庭政右衛門の手で
建立されたもので、本堂の裏手に位置している。


    【https://setagayadigitalmuseum.jp/collection/21683/detail/51160350/】より

寄棟造茅葺の建物で、南側に表座敷二間と北側に裏座敷、納戸座敷を配した四室からなっている。
内部は数奇屋風の書院造りで、上座敷には平書院、床脇を備えた床構えがある。


   【https://setagayadigitalmuseum.jp/collection/21683/detail/51160350/】より

この巨大な石から削り出した水盤には水はなく。



「勝光院」を後にして進むと、ここが「勝光院」の参道入口。
昔は150mほどの参道の両側にはソメイヨシノが植えられていて、ちょっとした桜並木に
なっていたと。今ではそういった面影は全く無かったが。



「禪曹洞宗 勝光院」碑。



「瀬田貫井線・都道472号線」を南に向かって進むと都道3号線・世田谷通りと合流する場所に
あったのがスーパーマーケット「オオゼキ上町店」。



左手にあったのが「東急 世田谷線 上町駅」。



                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.02.06 08:22:42
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