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黒御影石製のアーチは、平和のくさびで、彫像の中心には琉球石灰岩の要石を沖縄に見立てて
配置し、下層部はガマ(自然壕)をイメージ。奥に進むと天井から「平和の光」が差し込む
造りになっている と。
デザインは福岡県北九州市の藤波耕司氏。
設置年月日 2001(平成13年)年6月23日 除幕。
アーチ中央に沖縄の大理石トラバーチンをモザイク状に配置。
アーチの高さは7.5m、幅10.6m。
「沖縄平和祈念堂」を振り返る。
「式典広場」には乗用型芝刈り機に颯爽と乗り込み、作業中のオバちゃんの姿が。
「平和の丘彫像」を振り返る。
再び「 沖縄平和祈念堂
」を美しく刈り込まれた芝生広場越しに。
右側の石段の上にも大きな石碑が。
「 島守の塔
」。
この地は、沖縄戦で住民とともに南下を続けた島田知事、荒井警察部長らが摩文仁岳を
最後の地と定め、随行の部下に退去・避難を命じ、この山に構築した壕で自らの生命に
終止符を打ったゆかりの地である。生き残った小渡信一、徳田安全、新垣徳助、當眞嗣盛の
各氏を中心に生存した県庁職員約10人が探索し、さらに金城増太郎三和村長や摩文仁区長らに
よって確認された。
「戦歿 沖縄縣知事島田叡(シマダアキラ) 沖縄縣軄員 慰霊塔」と。
そして「平和の火」に向かって「メイン園路」の歩を進める。
右手にあったのが「 全学徒隊の碑
」。
「戦前、沖縄には21の師範学校・中学校がありました。沖縄戦では、これらのすべての
学校の生徒たちが戦場に動員されました。
男子学徒は主に14歳から19歳で、上級生が「鉄血勤皇隊」に、下級生が「通信隊」に編成され
ました。鉄血勤皇隊は、軍の物資運搬や爆撃で破壊された橋の補修などにあたり、通信隊は、
爆撃で切断された電話線の修復、電報の配達などの任務に従事しました。
沖縄戦により、学業半ばで多くの学徒が短い生涯を散らしました。
女子学徒は主に、15歳から19歳で、陸軍病院や野戦病院などで負傷兵の看護活動に
あたりました。激しい戦火の中、多くの生徒が犠牲になりました。このことを広く伝え
世界の恒久平和を願い、ここに全学徒隊の碑を建立します。
2017年3月 沖縄県
学校名(学徒隊の通称)
以下 21の学校名が記載されていた。」
「沖縄戦当時の学校の位置」。
「沖縄戦における学徒の戦没者数
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