JINさんの陽蜂農遠日記

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2023.01.15
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カテゴリ: 国内旅行
数日、近況報告で寄り道しましたが、
今日から「栃木・群馬県の続日本百名城・寺社・紅葉めぐり」の再スタートです。


この日は11月16日(水)、「栃木・群馬県の続日本百名城・寺社・紅葉めぐり」の2日目。
沼田城跡近くのホテルに宿泊し、この日も早朝起床し、我が部屋からの日の出の光景を
カメラで追う。
東の空の雲の下端が赤く染まって来ていた。
時間は6:26。



雲の色合いが刻々と変わって。






時間は16:41。



空も青く染まって来た。この日も天気は良さそうなのであった。



ホテルでの朝食前に、ホテル周辺の散策に出かけた。
前方に、大きな赤い天狗が収められている建物があった。



街なか天狗プラザ 」。
「大天狗面」を正面から。
沼田市と天狗面の関係は、迦葉山弥勒寺にありあると。天狗プラザにあるこも大天狗面は、
商工会議所青年部が発起人となり平成11年に作られた。
顔の長さ4.3m、幅2.3m、鼻の高さ2.9m。この天狗面は毎年8月3日~5日に開催される
沼田まつりで、女性奉仕者だけが担ぐ天狗みこしとしてまつりに華を添えている と。




沼田市と天狗面の関係は、市街地の北方約16キロの深山幽谷の地にある迦葉山龍華院弥勒寺に
あります。
弥勒寺は848年に比叡山三租円仁慈覚大師により国家繁榮、民生安泰の鎮守護国寺として開創され、
その後、天巽(てんそん)禅師により改宗開山がなされました。
この禅師の高弟に中峰尊(ちゅうほうそん)という僧がおり、伽藍造営の大事業から布教伝道まで、
大いに努め、また、山門の岩屋や険しい岩山など到底人力では登れない処まで修行者を導くなど
神通力を持っており、十年一日のごとく禅師に師事して、その童顔は少しも変わなかったと
いわれています。
禅師がニ世大盛禅師に住職の座を譲るや、中峰尊は、「吾れ迦葉仏の化身にて巳に権化化業は
終わった。よって今後は永くこの山に霊し、末世の衆生の抜苦与楽(ばっくよらく)せん」と
請願して案山峰より昇天され、その後に天狗の面が残されていたといわれています。
以来、その功徳をたよりその御利益を信じ、天狗面を奉納する習わしとなり、近郷近在からは
もとより全国的に参拝の善男善女はその数を増し、天狗のお山として賑わっています。」

沼田市において作成された大天狗面
 年     目的      発起人   素材     顔の大きさ      安置場所
                        顔の長さ 顔の幅 鼻の高さ
昭和3年 今上天皇即位記念 下之町商栄会 不明   5.45m  2.66m  2.18m  昭和4年消失
昭和14年 出兵兵士武運長久 商工会有志  張子   6.70m  4.00m  2.70m  迦葉山中峰堂
昭和34年 商売繁盛     観光協会   木彫   3.00m  2.00m  1.37m    沼田公園天狗堂 
昭和34年 七夕飾り     市内寿司店  張子   5.00m  3.00m  1.80m  上川田町東光寺
昭和45年 交通安全               大天狗奉賛会 張子   4.00m  2.50m  2.70m    迦葉山中峰堂
昭和58年 諸願成就     青年会議所  張子   4.20m  2.30m  2.00m  迦葉山座禅堂
平成11年 観光PR    商工会議所青年部 FRP   4.30m  2.30m  2.90m    街なか天狗プラザ

各地の主なイベントに参加
大天狗面は毎年8月3日~ 5日に開催される「沼田まつり」では、女性奉仕者だけが担ぐ
”天狗みこし”として市内を練り歩きます。
なお、「天狗みこし」は各地のイベントに参加するほど有名になっています。
以下 略



巨大な「​ 天狗みこし ​」👈リンク として女性だけで担ぐというのが沼田まつりの名物 。
写真はネットから。



「街なか天狗プラザ」内の「大天狗」。







反対側から。鼻の高さは2.90m、顔の大きさは縦が4.3m、幅が2.3mと。
手前には小天狗の姿も。



「街なか天狗プラザ」を振り返って。



ホテル ベラヴィータに戻る。
群馬県沼田市材木町178-1。



朝食会場入口。



この日の朝食を楽しむ。



ホテルのフロントロビー。



照明も立派。



フロント。





既にロビー内はクリスマス色にあふれていた。







そしてホテルを出発し、この日の最初の散策場所は、昨日最後に立ち寄った
「沼田城跡」。
この日も「沼田市観光案内所」の駐車場に車を駐め散策スタート。
入口にあった、見事に黄葉した銀杏の老木をカメラで追う。



ズームして。



ここは「沼田公園」入口。



冠木門前にあった「 三の丸 」。



「沼田城「三の丸」について
城(城の敷地全体)には本丸・二の丸・三の丸とい
ったその場所ごとの命名がされており、この場所は江戸時代の「三の丸」にあたります。
「三の丸」は、東西約380 m、最大幅約120 mあり本丸・二の丸の南側に位置し、当時
「侍屋敷」が在ったと考えられています。」



「沼田市観光案内所」の駐車場入口・「沼田城 三の丸土居跡」横から「沼田公園」入口を見る。



「沼田市観光案内所」の駐車場。



「日本の歴史公園百選 沼田公園
              平成十九年二月十六日選定」。



「沼田公園」入口の木製の冠木門には
真田家の家紋・六文銭(ろくもんせん)そして「天空の城下町 真田の里 沼田」と。
正確には「六文銭」は「六連銭(むつれんせん、ろくれんせん)」または「六紋連銭
ろくもんれんせん)」というとのこと。



「沼田城の歴史」案内板。



森林文化都市
沼田城の歴史
  天文元年(1532年)沼田市12代の沼田顕泰が築城し柳町の幕岩城から移る。
【上杉氏の支配】
   永禄9 (1566年)、顕泰は子の朝憲に城主を譲り、側室とその子平八郎を連れて川場村天神城へ
   隠居したが、平八郎を城主にしたいため、同12年正月、朝憲を呼びよせて殺した。
   顕泰・平八郎は沼田勢に追われて会津へ逃走。上杉謙信が柴田右衛門尉を城代にした。
【北条氏~真田氏支配】
   天正6 (1578年)謙信死去。代って小田原の北条氏政・氏直父子が支配。天正8 (1580年)6月、
   真田昌幸が入城。翌9年3月平八郎は沼田城奪還のため来攻したが、昌幸の策に乗った金子
   美濃守に城内で謀殺され、沼田氏滅亡。
【滝川氏城代】
   天正10年、織田信長が滝川儀太夫を城代にしたが、六月信長が本能寺で討たれ、滝川は去り、
   真田の一族矢沢頼綱城代となる。
【真田氏城主】
   天正17 (1589年)真田氏は北条氏と和し、北条氏の有となったが翌年北条氏が、真田の所領
   名胡桃城を掠奪したため豊臣秀吉は怒って小田原の北条氏を撃滅し、沼田を真田昌幸に与え、
   昌幸の長子信幸が初代沼田城主となる。
   元和2年、子の信吉。寛永12年信吉の長子熊之助。同16年、信吉の弟信政を経て明暦3
   (1657)年信吉の庶子伊賀守信直五代城主となる。
【沼田真田氏滅亡】
   天和元(1681年)11月、幕府は悪政を理由に伊賀守を追放。3万石の領地を没収。五層の威容を
   誇った沼田城は破却された。
【代官時代】
   以来5人の代官が在任。
【本多氏】
   元禄16 (1703年)、本多正永が城を再建。2代正武、3代正矩が城主。享保15年、
   後藤庄左衙門が代官となる。
【黒田氏】
   享保17 (1732年)から11年問、黒田直邦、直純が城主。
【土岐氏~明治】
   寛保元(1742年)、土岐丹後守頼稔(寺社奉行、大阪城代、京都所司代、老中を歴任)が駿河国
   田中から移封されて沼田城主となり、以来12代土岐隼人正頼知が、明治2 (1869年)藩籍を
   奉還するまで、127年間城主であった。
                             沼田市・沼田市観光協会」



「沼田市指定史跡 沼田城跡」案内板」。



「沼田市指定史跡 沼田城跡
指定     昭和五十一年三月三十日
所在地  沼田市西倉内町
管理者  沼田市
沼田城は、天文元年(一五三二)に三浦系沼田氏一ニ代万鬼斎顕泰ガ約三ケ年の歳月を費やして
築いた。当時蔵内(倉内)城と称し、沼田市街地発祥のかなめで、当市の歴史の起点でもある。
築城して四ハ年後の天正八年(一五ハ〇)武田勝頼の武将真田昌幸が入城し、城の規模を広げた。
天正一ハ年(一五九〇)昌幸の長子信幸が沼田領二万七千石の領主となり、慶長年間に五層の
天守閣を建造した。天和元年(一六ハ一)に真田氏五代城主伊賀守が徳川幕府に領地を没収され、
翌ニ年一月に沼田城は幕府の命により破壊された。その後、本多氏が旧沼田領一七七ケ村のうち
四六ヶ村・飛地領合わせ四万石の藩主として入封し、幕府の交付金で城を再興し三の丸に屋形を
建てた。次いで、黒田氏ニ代、土岐氏一ニ代の居館となったが、明治になって版籍奉還し屋形も
取り壊された。時を経て本丸・ニの丸跡が、現在の沼田公園に変貎した。
         平成十二年三月                                            
                                                                             沼田市教育委員会」



「沼田城址」碑。



「沼田公園(沼田城跡)」案内板。
春の桜をはじめとして様々な花木の美しさが楽しめる公園
沼田城跡(本丸・二の丸・三の丸の一部)に整備された
沼田市を代表する公園で日本の歴史公園100選に選定されています



「現在地」はここ。



この後、この案内板を参考に「沼田公園」内の名所旧跡の訪ねたのであった。





名称入りの案内地図をネットから。



前方にロータリー。



ロータリー右のモミジが陽光に黄金に輝く。



「黄金の輝き」をカメラで追う。








しかし、実際には幸村はほとんど沼田城にはいなかったはず。
「戦国無双 〜真田丸〜(せんごくむそう さなだまる)」の「真田幸村」像。
「戦国無双 〜真田丸〜」は、コーエーテクモゲームスより発売されたアクションゲーム。
キャッチコピーは「真田一族、熱き戦いの物語。」であると。



沼田の歴史物語
真田信幸(信之)其之壱
父の昌幸が沼田領を巡る家康からの要求を拒絶し、徳川軍と戦った第一次上田合戦(神川合戦)では、
信幸はわずかな兵を率いて徳川軍の主力部隊を巧みに奥地に誘き寄せ、勝利に貢献するなど、
幸村に勝るとも劣らぬ戦(いくさ)上手ぶりであった。
そして、乱世における真田家の運命を託せる人物として徳川家康を選び、父昌幸、弟信繁(幸村)と
敵味方に分かれた。関ヶ原の戦いでは東軍につき、名も信幸から信之に改めた。」



ロータリーの分かれ道。



左の「鐘楼・御殿桜」方向に進む。



沼田公園寄贈者
久米民之助〈1861--1931年〉
旧沼田藩士の子息久米民之助翁は、1861年に現在の東倉内町で生まれ15歳となった明治9年6月に
上京し工部大学校(現車京大学)に入学、卒業後宮内省に入りニ重橋の造営などにあたった。その後
数々の事業して成功を又め、衆議院議員も務めた人物です。
現在の沼田公園は久米民之助翁が自分を育んだ故郷に恩返しをたいと考え、私財を投じて
荒れ果てた城址を購入し大正5年9月から、現在の公園の西半分を中心に2か年に亘り造営工事を
行い、大正15年に沼田町に寄贈されました。
さらに東側の工事が進められている中、昭和6年に亡くなられました。翁の意志は現代に引き継がれ、
市民や観光客など多くの人にいこいの場として親しまれています。
(平成元年11月沼田市名誉市民となる)」



道路の反対側にあった「久米民之助」胸像。



ズームして。



下部には土木測量用の「トランシット」、そして両ツルハシ、スコップが陽刻されていた。



真紅の紅葉を追う。









沼田の歴史物語
小松姫(稲姫)其之壱
小松姫は名を稲姫。徳川四天王のひとり本多忠勝の長女として生まれた。
小松姫の嫁入りについてこんな逸話がある。
婿探しのために、大名の子息たちが浜松城に集められた。
小松姫は一人一人、髷をつかんで顔を覗き込む。皆が家康の威光を恐れ、
されるがままになっているとき「無礼ではござらぬか!」と怒ったのが真田信之であった。
これを見て、小松姫は真田信之の元に嫁ぐことを決意したといわれている。」



                               ・・・​ もどる ​・・・


                 ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2023.01.15 09:07:18
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