JINさんの陽蜂農遠日記

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2023.01.27
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カテゴリ: 国内旅行
「忠治地蔵(国定忠治刑死場跡)」を後にして、国道406号を利用して帰路に。
高崎市に入り南下すると、左手にあったのが「東善寺」。
駐車場に車を駐め、道路を渡り山門に向かって進む。



小栗上野介の寺 東善寺 」。
小栗上野介は幕末の幕臣。慶応 (けいおう)期の徳川幕府を支えた中心人物の一人。
江戸の生まれ。幼名を剛太郎、また襲名を又一ともいう。のち豊後守 (ぶんごのかみ)、
さらに上野介 (こうずけのすけ)と改めた。1859年(安政6)目付となり、1860年(万延1)
には日米修好通商条約批准書交換のため新見正興 (しんみまさおき)、村垣範正

ロシア軍艦による対馬 (つしま)事件に際してはその折衝にあたり、1862年勘定 (かんじょう)
奉行勝手方、さらに勘定奉行、歩兵奉行兼任、1863年陸軍奉行となり、この間、文久
(ぶんきゅう)期(1861~64)に幕府の三兵(歩・騎・砲)軍事改革を行った。
1864年(元治1)には軍艦奉行、翌1865年(慶応1)にはふたたび勘定奉行勝手方、1866年
海軍奉行、ついで翌年陸軍奉行を兼任し、慶応期の幕政改革を親仏派として栗本鋤雲
(くりもとじょうん)とともに担い、横須賀造船所設立をはじめ、幕府の政治、財政、軍事の
各分野で改革を推進しようとした。薩長 (さっちょう)に対しては主戦論を唱えたが、
幕軍が鳥羽 (とば)・伏見 (ふしみ)の戦いに敗れるや上州(群馬県)へ隠退、新政府軍に
捕らえられて慶応 (けいおう)4年閏 (うるう)4月5日斬 (ざん)に処せられた。



「東善寺」山門。



道元禅師の正法眼蔵「谿声山色」より
渓聲即是廣長舌 (けいせいすなわちこれこうちょうぜつ)
渓流の声はそのまま仏のご説法である と。



山色豈非清淨身(山色(さんしょく)清淨身(しょうじょうしん)に豈非(あらざらんや )」
山の景色は仏の清浄なお姿そのものである と。



更に参道を上って行った。




境内には、昭和二十八年(1953年)八月二十五日に県指定史跡に指定された
小栗上野介忠順の墓 (おぐりこうずけのすけただまさのはか) 」があった。



その横に「地蔵尊」。



「草津街道 信州街道」
「右 江戸駿河台へ131.5km 横須賀へ189.2km」
裏側「左 草津温泉へ 43.9km、小布施へ 96.9km」。



参道の紅葉も西日を浴びて黄金色に輝いて。



「掲示板」。



諸行無常 いつかは変わる いつも変わる 」。



祝 横須賀製鉄所150周年/日本海海戦110周年
特別展 日本海海戦と横須賀製鉄所」 ポスター。
平成27年( 2015年 )に開催されたもののようだ。
小栗上野介忠順(左)と東郷平八郎(右)の写真が。



小栗上野介情報82
対馬事件 -1​
幕末、小栗忠順は米・英・露・仏・蘭、どの国に造船所の建設指導を依頼するか考え・・
​「ロシアは個人的な人柄はいいが、 何か欲しいといきなり爪を出してくる として敬遠した」と
以前に書いたことがある。この対馬事件の顛末がその典型的な事例といえる。​
幕末、ロシアの軍艦ポサドニク号が九州の対馬に不法に侵攻し滞泊をつづけた対馬事件- 1
(「オレが交渉で解決した」と騙(かた)った勝海舟・・・次号2に続く)
文久元年(1861)【日】・ニ月三日(露・3月1日、西・3月13日)、対馬の浅茅(あそう)湾に
ロシア軍艦ポサドニク号(艦長ビリレフ)が船の修理を口実に入航、芋崎浦に居座った事件。
艦長ビリレフは船の修理を口実に材木や人員資材の提供を要求。しだいに「イギリスの侵入を
防いであげる」と土地の租借へ要求を工スカレートさせた。反発した島民や農兵とのトラブルから
殺傷事件も生じた。対馬藩の報告で、遣米使節から帰国後に外国奉行に任ぜられていた小栗豊後守
忠順は、幕府から目付溝ロ八十五郎とともに「見回り=視察」を命じられ咸臨丸で対馬へ向かう。」
そもそもの発端は英艦の対馬不法侵航
イギリスの不法侵航がはじまり ....1858安政五年の日英条約・日露条約とも「 外国船は緊急の
 気象避難以外には定められた港以外に寄港してはならない 」と定められている。ところが​
・1859安政六年四月にイギリス軍鑑アクチオン号、十一月アクチオン号とドーフ号が対馬で
 不法に測量・上陸した。
 (小栗忠順はこの年九月に遣米使節目付を命しられた。その前後の四月と十一月)
この英艦隊の動きにロシアは焦った
 箱館ロシア領事ゴシケヴィッチ は、「英国は対馬を抑えロシアを封じ込めようとしている模様」
 とロシア外務省に報告。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・使イグナチェフ(元陸軍将校)も英国・・・・・・って
 いると露国東洋艦隊イワンリハチュフ・・・・・・。
 リハチョフは海軍大臣コンスタンチン・ニコラエヴィチ大公(皇帝の弟)に報告した。
​ロシア海軍が「 私的契約で 土地を租価」する方針​   *露国外務省は無関係の立場を取った
​ リハチコフ報告を皇帝の前で披露した海軍大臣コンスクンチンは、対馬に軍艦を居座らせ、
 既成事実の積み上げで対馬の大名から基地を租借することを提案した。その提案に、皇帝
 アレククサンドルⅡ世は日本との外交関係を損なうことを懸念。しかし、海軍大臣
 コンスタンチンは「 日本で幕府とは関係なく了解を大名の了解を得られれば外交交渉の型式を
 取らずに租借が可能
」として皇帝の了解を取り付けると、対馬への進航と既成事実の積み上げで
 基地租借を図ることを提督リハチョフに指示した。​
 海軍大臣コンスタンチンにしてみれば各藩ごと藩主に自治権を与えている幕藩体制の弱点を
 ついた案、のはずだった。
露国 外務省は傍観者
外務大臣ゴルチャコフはこれまでの日露の外交努力をご破産にしかねないずさんな計画とみたが
皇帝の弟の海軍大臣に正面から反対しにくい。「海軍だけで実行してくれ」と一任した。
(外務大臣ゴルチャコフは・・・)この席でイグナチェフをこの問題から解放するように私に願い、
この問題を外交課題としてではなく純粋に海軍の問題にする、それ故に問題をあなたに一任すると
話を
結びました。

対露外交とシーボルト』)
◆海軍大臣コンスタンチン→提督リハチョフ→艦長ビリレフと海軍独断の指示で起きた事件。
◆当然、外務大臣ゴルチャコフは、箱館領事ゴシケヴィチや在北京公使イグナチェフに、対馬で
 露国海軍の問題が起きても一切関わりを持たないよう指示を出し、外務省は傍観者になっていた
 と考えられる。
命令され進航・滞泊している鑑長ビリレフ
​ビリレフとの第2回め会談(日五月十四日露・6月9日)で小栗から不法滞在・測量を非難された
ビリレフは「 船の修理をしていたらちょうどそこへリハチョフ提督から命令があって、ついでに
海図を作成するように言ってきた。・・・詳しいことは提督か領事ゴシケビッチから聞いてくれ
と小栗に語っている。(日野清三著『幕末における対馬と英露』)。小栗は、艦長ビリレフは命令で
動いているから海軍組識の末端で、露艦を退去させるには命令ラインの上部から退去命令を
出させなければならないと判断した。末端の艦長を突いてもこの問題は解決しない。もっと上部
との外交交渉が必要として江戸へ戻った。「小栗上野介は対馬に派遣されて2周間滞在し、わずか
3回交渉しただけで交渉に失敗し、江戸に戻った。」と判断するのは当たらない。​


英艦とのにらみ合いで露艦がスゴスゴ退去した劇画のようなイメージは誤り
もし提醫リハチョフからの命令なしに「英艦が来たから」と退去したら、艦長ビリレフに
間違いなく<任務放棄・命令違反>で軍法会議にかけられる。軍人が一番やってはいけないこと。
・箱館奉行村垣範正から再三の講義を受けた箱館領事ゴシケヴィチが、幕府の抗議と江戸における
 欧米外交団の下評と反発を伝えたので、提督リハチョフが撤退を決意したのは六月末。つまり、
 英公使オールコックらと老中酒井忠毘(ただます)の英艦派遣の相談以前に露艦の退去を決定
 している。
・和・七月二十三日、英艦リンドーブのホーブ中将が対馬に着き、ビリレフに退去を勧告
 ・・・でもビリレフは退去せず。
​​・三日後の和・二十六日に提督リハチョフからの退去指令が対馬の艦長ビリレフに届いた・・・
 それでもすぐに退去せず
・実際に露艦ポサドニックが 対馬を退去したのは ホープ勧告の 23日も後 (和・八月十五日露・
 9月7日)​​である。
 これでは ​「英艦が行ったので露艦が退去した」とはいえない。​
​☆提督リハチョフはのちに 「外交抜きで基地租借交渉する」という指示条件に合わなくなったので、
 撤退を決意した。と報告 (12月、海軍大臣コンスタンチンあての報告書)している。」​
【小栗上野介に濡れ衣】
​​​​​「 小栗上野介が転封を対馬藩に強要した 」とする説( =濡れ衣)が出ています。
小栗は対馬を天領として ロシアに浅茅湾を軍港として貸し付ける 。・・・追い出される対馬藩から
強烈な反発が出るし、対岸の長州も・・・うまみのある対馬経由の貿易が一切不可能になるという
ことで必死の抵抗をするはずである・・・
として、それが理由で
「・・・ 小栗は 官軍によって処刑される が、その原因を対馬問題の時から作っている ・・・」
(上垣外憲・・・『勝海舟と幕末外交』中公新書・2014平成26年刊・抜粋)と、とんでもない
ことを理由に6年後の慶応四年に起きた西軍による小栗上野介父子主従殺害を正当化しています。​​​​
時系列で見ると
・三月二十八日 対馬藩は江戸藩邸の協議で藩政の基本方針として移封要望を決議した
 (日野清三郎『幕末における対馬と英露』)
​​・四月六日  小栗上野介は対馬派遣を命ぜられ→五月七日対馬着。・・・と小栗上野介が
 対馬事件に関わる以前に藩では移封を要望することを決議しているのに、なぜ「 小栗上野介が
 強制した 」ことになるのか、根拠史料も示さず 「移封を強制した」「ロシアに浅茅湾を貸し
 付ける」 とするのは理解に苦しむ。​​
 この濡れ衣を元に、西軍によるく小栗父子主従8名を殺害ー家財没収ー入札で売り払いー軍資金と
 した〉ことを正当化する記述につなげています。
・・・以下 略・・・



NHK大河ドラマ『青天を衝け!
小栗忠順がしばしは登場して、将来の日本のために幕末日本の近代化を図るこれまで知られて
いなかった「真の武士」小栗忠順の姿が視聴者に衝撃を与えています。」
・・・以下略・・・



寺務所 」。



正面から。



「拝観受付」。



「東善寺」の「 本堂 」。



扁額「東善寺」。



「小栗上野介源忠順(ただまさ)」像。



「小栗上野介源忠順(一ハニ七~一ハ六八)
昭和ニ十ハ年九月横須賀市より贈られた胸像 朝倉文夫制作
*橫須賀市博物館前庭の像はこの胸像を複製」。



近づいて。



「栗本鋤雲(じょうん)」像



「栗本鋤雲
瀬兵衛安芸守(せへえあきのかみ)(一ハニニ~一ハ九七)
橫須賀製鉄所建設の功労者 函館で開拓、病院開設、蝦夷・樺太千島巡視等に功績あり 
慶応三年滞欧中にアルプス登山した最初の日本人
小栗上野介とともに 幕末の日本近代化に尽力 明治以後報知新聞主筆として活躍 この胸像は
鋤雲の門人大養毅が作らせ御蔵島に蔵置せられる石膏像を原形とする著「匏庵(ほうあん)遺稿」
昭和三十一年五月六日
元海軍建築局長吉田直殿建贈
*横須賀市博物館前庭の像はこの胸像を複製」



そして
小栗上野介忠順の供養墓



小栗上野介忠順供養墓 」碑。
その奥には
小栗上野介源忠順
慶応四年閏四月六日 西軍により無実の罪で村内水沼河原にて斬首さる。四十二歳
ここは供養墓で遺体首級とも上の本墓にあり 」と。



小栗上野介 遺愛の椿
小栗上野介が江戸神田駿河台の屋敷から運んだ鉢植えの椿
五月に黒味がかったハ重の名花を咲かせる」。
現在では、樹齢百数十年の椿の木と
「崑崙黒(こんろんこく)」という、八重咲の黒椿だと。



「崑崙黒(こんろんこく)」の花をネットから。



「小栗上野介忠順」供養墓碑。




近づいて。
小栗の戒名は、「 陽壽院殿法岳浄性居士 」。



小栗上野介忠順の供養墓 」案内板。



「県指定文化財  小栗上野介忠順の墓
指定  昭和二十八年八月二十五日
所在地 高崎市倉渕町権田一六九 東善寺
小栗忠順は、徳川譜代の旗本で文政十(一八二七)年江戸で生まれ、権田村(三七五石)は
禄高二、七〇〇石(九ケ村)の領地の一つであった。
上野介を称し、安政六(一八五九)年三十三歳で井伊大老に抜てきされ豊後守に任官、
万延元(一八六〇)年 日米修好通商条約批准書交換の遣米使節として新見豊前守正興、
村垣淡路守範正と共に米艦ポーハタン号で渡米。任務を果たし大西洋、インド洋を経て帰国。
それより外国、軍艦、江戸町、歩兵、陸軍、勘定の各奉行を歴任、フランスと結び幕府の財政や
洋式軍隊の創設など幕政の改革に尽くし、日本産業革命の地横須賀製鉄所(後の海軍工厰)を
つくった。
明治維新の幕府解散で勘定奉行を免ぜられ、慶応四(一八六八)年三月一日、権田東善寺に隠棲す。
西軍(明治政府軍)がこれを無実の罪で追捕し、閏四月六日、水沼村烏川原にて斬首。
時に四十二歳であった。
平成七年十一月
              群馬県教育委員会
              倉渕町教育委員会」


隣にあったのが養子で同じく惨殺された21歳の「 小栗又一 」の供養墓。
戒名「 本教院殿樹山貞松居士 」。



小栗又一源忠道(養嗣子) 
慶応四年関四月七日 西軍により無実の罪て高崎城内に斬首さる 旗本駒井家次男 ニ十一歳
遺体首級は高崎市下斎田に葬られる。」



滄野の碑 」。
花が咲いた のの花が 滄野に散った 兵士還らず 」。
*滄野(そうや)…青い海原のこと。
*「彼我」とは敵と味方のこと。ニューギニヤの山中で戦病死した弟や味方ばかりでなく、
 敵の兵士も含(ふく)めて慰霊(いれい)する碑。
*石碑は、「雄二君と遊んだサザンカの白い花びらの形」とのこと
*平成7年秋、雨さんの申し出により渋川市の雨さん宅の庭から東善寺境内へ移転設置 と
ネットから。



「滄野の碑
弟勇二君と彼我の兵士を悼んで(裏の碑文)
文  雨 横手 由男」



「裏面」。



遺体と館林から盗み返した首級を埋葬した本墓は、供養墓から2~3分登った所に
あったのだが・・。
こちらが訪ねなかった「 小栗上野介忠順 小栗又一忠道 の本墓 」。
以下3枚の写真はネットから。



正面から。



群馬県指定史跡
小栗上野介忠順の墓
慶応四年(一八六八)閏四月六日朝、小栗上野介は家臣三名とともに水沼の烏川河原において
斬首された。小栗上野介の遺体(胴体)は、村役人池田長左衛門等によりこの場所に埋葬され、
その首級は養子又一の首級とともに館林に送られ、東山道鎮撫総督岩倉具定の首実検を受けた後、
法輪寺境内に葬られた。のち、中島三左衛門等が首級を奪取し、一周忌当夜、この地に埋葬する
に至った。すなわち、ここが小栗公の本墓である。向って右は、上野介とともに斬首された
家臣三名の墓である。
所在地 高崎市倉渕町権田一六七番地
指 定 昭和二十八年八月二十五日
               高崎市教育委員会」


石仏、石祠。



石仏。



六地蔵。



墓石群。



「頭部を打ち落とされた石仏たち
慶応四年三月明冶政府が発した「神仏分離令」により、「排仏(日本は神の国、外来の仏教は
やめよう)運動が過激な「廃仏(寺・仏像・仏具をうちこわせ)に発展、頭部が落とされた」

その先に「 家臣の墓 」。
境内の小栗上野介父子と家臣らの墓は、明治初年に権田の村人が建立した。
正面に小栗父子の墓、左右に家臣と家族、会津で戦死した村人の墓が5つずつ並んでいた。
手前には 閻魔大王 の姿が。



5名の墓石が並んでいた。



(右から)
塚越冨五郎  権田出身
 小栗夫人を護衛して会津へ行き 慶応四年九月一日耶麻郡高郷村一竿で戦死 ニ十三歳
 一竿に慰震碑がある
佐藤銀十郎  権田出身
 小栗家歩兵の一人 小栗夫人を護衛して会津へ行き九月十一日喜多方市熊倉て戦死 ニ十一歳
   熊倉に葬られ墓がある
渡辺太三郎源吉享   江戸からの家臣
  上野介に従って権田へ移り 西軍により上野介とともに斬首さる
大井磯十郎  権田出身
 小栗家歩兵の一人 西第により上野介とともに斬首さる
荒川(江幡)祐蔵    江戸からの家臣
  上野介に従って渡米 権田へ移り西軍により上野介とともに新首さる 三十六歳」



こちらにも「 家臣の墓 」。



家臣の墓
(右から)
塚本真彦源勉  江戸からの家臣
 上野介随員として渡米 権田へ移り西口により高崎城内て又一とともに斬首さる 三十七歳
 又一と共に高崎市下斎田に葬られる
沓掛藤五郎  江戸からの家臣
 上野介に従って権田へ移り 西軍により高崎城内で又一とともに斬首さる ニ十五歳
 又一と共に高崎市下斎田に葬られる
多田金之助  江戸からの家臣
 上野介に従って権田へ移り 西軍により高崎城内で又一とともに斬首さる ニ十歳
 又一と共に高崎市下斎田に葬られる
塚本ミツ  真彦の毋
 難を逃れ富岡市七日市へ向かう途中 地蔵峠付近の山中で四月ハ日孫チカとともに自害
塚本チカ  真彦の長女
 難を逃れ富岡市七日市へ向かう途中 地蔵峠付近の山中て四月ハ日祖母とともに自害 七歳位」



入口の守護仏(左)・ 奪衣婆



                               ・・・​ もどる ​・・・


                 ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2023.01.28 07:08:04
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