JINさんの陽蜂農遠日記

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2023.06.26
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カテゴリ: 国内旅行
庫裡の前にあった「 宥座の器(ゆうざのき)



傾いた器が吊り下がっています。
器の下にある水を 柄杓 ですくい、器に注ぐと、やがて、傾いていた器が水平になります。



さらに器へ水を注ぎ続けると、再び器が傾き、注がれた器の水が、全部下にこぼれてしまいました。



宥座之器 」、「 欹器図 」案内板。



宥座之器
針生清司作 銅製
高さ ニ一〇・〇cm
奥行 一ニ五・〇cm
幅   八ニ・〇cm
平成ニ四年(ニ〇一ニ)
史跡足利学校所蔵の『 欹器図 』を参考にして
群馬県館林市在住の針生清司氏(現代の名工)が制作し
足利市に寄贈されたものです。

体験してみませんか

②傾いている器がだんだん水平になってきます。
③さらに、入れつづけると、器は傾いて、水はこぼれてしまいます。
この「宥座の器」は、孔子の説いた”中庸”ということを教えるものです。
よく言う言葉に”腹八分目”というのがあります。
人は食べ過ぎれば、お腹をこわします。といって、食べ足りなければ、体力がつきません。
食べ過ぎもせず、食べ足りなくもない、腹八分目の状態が理想なのです。
それを中庸といいます。
入れ足りなくてもだめ、入れ過ぎてもだめ。ちょうど、よい分量のとき、器は水平を保ちます。
これを中庸というのです



欹器図
史跡足利学校蔵
紙本墨刷 縦56.2cm 横77.4cm 江戸時代寛政3年(1791)
孔子が魯の国の桓公廟に行くと、金属の器である欹器(斜めに立つ器の意)があった。
役人に問うと「座右の戒めをなす器である」という。

入れたときはひっくり返ってしまうと聞いている。」と述べると、果たしてその通りだった。
孔子は「いっぱいに満ちて覆らないものは無い」と慢心や無理を戒めた。
画面左下の銘文によると、この画題を好んだ北越の人内藤北涯が模刻し、幕臣で文学者として
活躍した太田南畝(1749から1823)がそのことを記した作品である。」



方丈、庫裡、書院等

方丈は、六部屋からなり儀式や行事に使われました。庫裡は、竈のある土間、板敷の台所、
畳敷の四部屋からなり日常の生活空間でした。書院には床、棚、付書院が設けられ、
庠主の接客の場所などに用いられました。
屋根は方丈と庫裡が茅葺、書院が板葺、玄関が本瓦葺です。
(宝暦年間の姿に復原)」



「庫裡」の中に入ると「 参観順路 」案内が。



入口直後には様々な紹介パネルが。



「​ 近世日本の教育遺産群とは ​」👈リンク。



「扁額「杏壇」



扁額「杏壇」
天保14年(1843)徳川治宝 筆
扁額「杏壇」の二文字は紀伊従一位前大納言徳川治宝(和歌山藩10代藩主)の筆によるもので、
天保14年5月24日に足利町の小林彦右衛門らによって寄進されました。この扁額は明治25年、
足利町に起きた大火の折黒焦げとなってしまいました。現在の門にある扁額はこれを元に
複製されたものです。
「杏檀」とは杏の木の多く生えている高台という意味で、孔子が弟子に教えを説いた場所を
さすようになり、さらには広く学問・研究をするところを意味するようになりました。」



「扁額「學校」」



扁額「 校」
寛文8年(1668) 蒋竜渓 筆 上左兵衛尉狛高康 縮模 土井能登守利房 寄進
扁額「学校」は寛文8年以来のもので孔子廟とともに現存する最も古いものの一つです。
当時足利学校には蒋竜渓(一説には明の公使)による「学校」の書があったのですが、
新しい門に掛けるには大きすぎたため書家として知られていた上左兵衛尉狛高康に
縮小模写を依頼し、この扁額が完成しました。
現在の門に掛っている扁額はこれを元に複製されたものです。以来、扁額の掛けられている
中門は学校門と呼ばれ人々に親しまれています。」



その横に展示されていたのが 「上杉憲実像」
足利学校中興の偉人。



ズームして。



上杉憲実の中興
室町時代中期、関東管領となった上杉憲実は、永享11年(1439)に書籍及び領地を寄進し、
学則を定め、鎌倉の円覚寺から快元を招いて第一世庠主(校長)にするなど、衰えていた学校を
大いに整備し、後の発展の基礎を築きました。
寄進の書籍には、『宋版尚書正義』『宋版礼記正義』『宋刊本附釈音毛詩註疏』
『宋刊本附釈音春秋左傳註疏』などの儒学の経典、他に『宋版唐書』があります。これらは、
中国宋代のもので、当時から大変貴重な書籍でしたが、現在も国宝などに指定され大切に
保管されています。
また学則では、『野州足利学校置五経疏本条目』に学校で学ぶ心構えと書籍の管理規則を定め、
『学規三条』に学問の範囲と学務についての規定を掲げています。
憲実は永享4年(1432)関東管領となりましたが、永享十年に鎌倉公方足利持氏が将軍家に謀反を
起こしたので、持氏軍と戦うこととなり、翌11年これを破って持氏を自害させました。
これを永享の乱と言います。
足利学校の中興には周到な準備が必要だったと思われますが、憲実の置かれた状況を考え
合わせると驚くべき情熱と言えるでしょう。」


上杉氏系図 」。



NHK大河ドラマ「天地人」ゆかりの雲洞庵と足利学校
上杉憲実像の実物は、新潟県南魚沼市にある『雲洞庵』に安置されています。
この『雲洞庵』は、足利学校中興の祖である憲実公が復興(応永二十七年(一四二〇) )に尽力した
曹洞宗の名刹です。「天地人の主人公、直江兼続と上杉景勝は、少年期にこの『雲洞庵』で
学びました。
その直江兼続は、足利学校で学んだ「涸轍祖博(こてつそはく)」と「九山」の二人を
抱えていました。
「涸轍祖博」は、直江兼続に招かれ涸轍書院と号して、書籍の刊行にあたりました。また、
「九山」は、下野国那須雲巖寺の僧でしたが、兼続が足利学校に学ばせ、帰国後、米沢に禅林寺を
開かせたということです。    
    参考資料        「雲洞庵」公式ホームページ
                  「史跡足利学校研究紀要「学校」第二号」」



「雲洞庵の縁起によると、養老年間(七一七~七ニ四)藤原房前(ふささき)の亡母のために
比丘尼(びくに)寺を建立したのがはじまりとされる。
雲洞庵のある南魚沼郡一帯は上田荘で、その一部が山内上杉氏の所領であった関係から、
永享元年(一四ニ九)、兼実が禅僧の顕窓(けんそう)をまねき、雲洞庵を再興した。
後年出家した憲実はここに隠遁し、「雲洞庵主」と号したという。
同庵には、憲実愛用の品といわれる天目茶台や茶釜なども伝えられている。」



左手にある廊下を進むと先に見た 脇玄関 になる。
ここには 賢者の像が5体鎮座 されていた。



左から、孟子、曾子、孔子、顔子、子思子で、孔子廟で知った孔子+四配のオールスターキャスト



その隣が玄関ですが、特に何があるという玄関ではありませんが、良く考えれば畳敷きの
玄関というのも珍しい。



その先が広い「 方丈 」。
主に儀式や行事に使用されていたと言うことから、現在の講堂的(一般的な大学では)な存在
かもしれません。
現在でも行われている儀式、行事があるようです。
儀式としては「釋奠」という孔子を祀る儀式で明治40年ころからは記録に残っているそうです。
また、行事としては「曝書」という、貴重な書籍を虫干しする行事で、江戸時代のころから
行われていたとのこと。



そしてその隣の間には 足利学校のジオラマ が置かれていた。



自由に挑戦してください。
足利学校漢字試験 」と。



足利学校漢字試験 初級 」。



「仏殿」を屋外から写した写真。







手前に見える椅子は「曲碌」といそうで、禅僧の導師が説法や法要で使う椅子であると。



仏殿の左隣が「 尊碑室 」で、 歴代の徳川家将軍の位牌 が納められていた。



徳川幕府歴代将軍の位牌
第9世庠主閑室元吉和尚(別号は三要)は、家康の信任が厚く、有名な関が原の合戦では家康に従って陣中で盛んに易を立て、戦いに役立てました。幕府では寺社職(後の寺社奉行)や外交関係の政策を任されたほか多くの御用を仰せ付けられ亡くなるまで家康の側近くに仕え、重用されていました。
足利学校は、このように閑室元吉と家康との結び付きが強かったことから、幕府より100石の朱印地を賜り、庠主は幕府の任命制となっていました。
その後も徳川幕府により建物の修復費用を下賜されるなど、足利学校は特別な保護を受け続けました。これらのことなどから、徳川幕府歴代将軍の位牌を安置し、礼拝することになりました。
※徳川家康(東照大権現)の位牌は隣の仏殿の間、脇仏壇に安置されています。



徳川幕府歴代将軍の位牌
大猷院殿贈正一位大相国(3代 家光)
厳有院殿贈正一位大相国(4代 家綱)
常憲院殿贈正一位大相国(5代 綱吉)
文昭院殿贈正一位大相国(6代 家宣)
有章院殿贈正一位大相国(7代 家継)」
有徳院殿贈正一位大相国(8代 吉宗)
惇信院殿贈正一位大相国(9代 家重)
浚明院殿贈正一位大相国(10代 家治)
文恭院殿一品大相国公(11代 家斉)



右から
大猷院殿贈正一位大相国(3代 家光)
厳有院殿贈正一位大相国(4代 家綱)
常憲院殿贈正一位大相国(5代 綱吉)
文昭院殿贈正一位大相国(6代 家宣)
有章院殿贈正一位大相国(7代 家継)



右から
有徳院殿贈正一位大相国(8代 吉宗)
惇信院殿贈正一位大相国(9代 家重)
浚明院殿贈正一位大相国(10代 家治)
文恭院殿一品大相国公(11代 家斉)
桂昌院殿仁誉興国光公大姉(5代徳川綱吉生母・桂昌院)



こちらが東照大権現・家康の位牌。やはり扱いが違うのは当然。



鋳造葵紋燈籠 」。



鋳造葵紋燈籠
中台に「享和三年癸亥三月吉青享和三年癸亥三月吉青郊代工師佐野天明三木忠右衛門藤原敦造」、
火袋部分に「御祈祷殿葵御紋銅燈籠一雙」「下野国足利学校」の刻銘がある。



「方丈」の「縁側」から「 南庭園 」を見る。



牧野富太郎(牧野万太郎)が学んだ植物の本



『本草綱目』は、薬になる植物等を集成し、その作り方や効能、処方の仕方等について
解説した本で、中国時代の李時珍(1518~93)が書き、万暦23年(1596)に南京で出版されました。
日本へは、慶長9年(1604)頃までに伝来し、駿府(静岡) で晩年をすごした徳川家康(1543~1616)も
この本を読んで薬を作りました。すぐれた内容であったことから、何回も版を重ね、明治時代初明
まで読み継がれました。朝ドラ「らんまん」でも牧野富太郎(万太郎)(1862~1957)が本書を
読む場面がありました。
『草木図説』は、飯沼慾齋(1782~1865)が安政3年(1856)に出版した植物図鑑です。それぞれの
草花に、名称や特徴を記した解説文と写実的で一部彩色を施した植物画が付けられています。
富太郎が学んだ幕末期では新しく詳細な図鑑でした。
『新訂草木図説』は、『草本図説』の一を改訂し、明治8年(1875)に出版されました。『草図説』の
版にローマ字で学名と科名を付けて再版したものです。編集は、博物館の父と言われる川中芳男
(里中芳生)(1838~1916)と植物学者の小野職愨(野田基善) (1838 ~90)です。この2名は、
朝ドラ「らんまん」で、はじめて上京した富太郎(万太郎)が意気投合し、わが朋(とも)と呼んで
抱き合った植物学者です。
『植物学』は、イギリス人のジョン・リンドレー(1799~1865)が書いた植物の解説書です。
もとは英語ですが、清国(中国)の李善欄(1810~82)らが漢文とし、清国の咸豊8年(1858)に発刊
されました。日本では幕未の慶応3年(1867)に『翻刻植物学』として発刊されています。全8巻で、
植物の構造について図入りで詳しく述べられています。さらに植物や分類方法も書かれています。
現代の植物研究で使われることばの多くが、本書を参考にしており、牧野富太郎も、日本値物学の
糸口になったものとほめたたえたそうです。足利学校には、足利藩校の求道館から伝わった
『翻知植物学』の版木が全55枚遺され、足利市の重要文化財に指定されています。
幕末から昭和時代を生きた牧野富太郎は、植物に関するさまざまな本を学び、どん欲に知職を
吸収して実践に活かしました。未知のものに対する強い関心とそれを解明しようとする努力は、
現代に生きる私たちのよき手本であると思います。
※(  )内は、朝ドラ上の名前です。」



草木図説
安政3年(1856)刊(筆彩)
飯沼長順(慾斎)著



易学を標榜する「 天文図 」とその前に「 孔子像 」。
天文図
拓本 中国南宋時代 淳祐7年(1247) (財)アンタレス山国際交流基金寄贈
これは中国の「黄裳」が作成した天文図を、今から760年ほど前に「王致遠」が石碑に刻んだ
ものの拓本です。上部には北極星を中心に1440個の星の位置が記され、下部には古代中国の
世界観などが、天文現象などとあわせて書かれています。
現在この石碑は蘇州市碑刻博物館に所蔵されています。」



釋奠 」の儀式で使用する 祭器



奥にある部屋・ 書院 を見たが、立入禁止となっているのでここまで。



「北庭園」を見る。



Ⅶ.足利学校の釋奠(せきてん)
釋奠とは、孔子とその門弟を祀る儀式のことをいい、その歴史」は、古代中国にまで
さかのぼります。足礼学校では、『足利学校記録』などの史料によると、毎月1日と1 5日に
釋奠の略式である釋菜を孔子廟でおこなっていました。廃校なった後も、途中とぎれはした
ものの、釋奠は行なわれました。
現在では、毎年1 1月23日に孔子廟で執り行われています。儀式て使用する祭器は、古いもので
江戸時代のものもあります。」



主屋の裏手に小さな建造物があった。その一つが「 木小屋 」。



木小屋
木小屋は物置で、煮炊きに使う燃料用の「木」などを格納する建物と言われています。
桁行5間、梁間2間、屋根は寄棟造の茅葺、外壁は上が土嚢の中塗仕上、下が板壁です。
床は三和土の土間です。
薪のほかには、日常使う用具や食料などもしまっておいたと思われます。
例えば、サエンバ(菜園場)と呼んでいた畑を耕す鍬や鋤、鎌などの農具、収穫した雑穀、
漬物や味噌などの樽、修繕用の板材や大工道具などが考えられます。
(宝暦年間の姿に復原)」



そして「 土蔵 」。



土蔵
土蔵は、大切なものを格納する堅牢な大火建築として建てられました。
桁行3間、梁間2間の土蔵造です。外壁から屋根にかけて土で塗り固め、漆喰で仕上げています。
栗板を使った切妻造の鞘屋根を載せています。内部は、壁が漆喰仕上、床が板敷となっています。
(宝暦年間の姿に復原)」



先ほど書院から見た北庭園を通り過ぎると、多くの墓石が安置されている一画が。



中央が「 第18代 青郊(せいこう)武蔵八王子 18年 」 の墓石。



庠主(学長)の墓所
足利学校は15世紀の中頃、関東管領上杉安房守藤原憲実によって中興されたものであるが、
上杉憲実は書籍や学領を寄進し、学規を制定すると供に、鎌倉円覚寺の僧快元を招き、
足利学校中興初代の庠主とした。
庠主は、明治2年に足利学校が藩校になるまでの約430年間にわたり、23代まで続いた。
歴代庠主は、学校の維持管理に苦心しながらも、日本文化史上、学校の名声を高からしめた
功績は大きい。
庠主の墓は総計17基あり、いずれも無縫塔で、そのうち8基には文字が刻まれているが、
残りの9基は不明である。
判明している基は次のとおりです。
  世代  ・        名               ・ 出身地   ・ 在籍期間  ・  墓石の位置(右から)

第14代 久室(きゅうしつ) 下野足利    36年       (10番目)
第15代 天叔(てんしゅく)   京     15年       (6番目)
第16代 月江(げっこう)  武蔵八王子   31年       (12番目)
第17代 千渓(せんけい)   下野足利     33年             (14番目)
第18代 青郊(せいこう)    武蔵八王子   18年             (2番目)
第19代 実巌(じつがん)        周防        19年             (3番目)
第21代 太嶺(たいれい)        越後        21年             (9番目)
第22代 松齢(しょうれい)     美濃        15年             (4番目)



庠主(しょうしゅ)のお墓
ここにある庠主のお墓を無縫塔といいます.
毎年3月には足利市内小中学校の新任または退任される校長先生がお参りにいらっしゃいます。
史跡内は火気厳禁のため、お線香を上げることは出来ません。
※庠主:現在の校長先生のこと。」



「庠主の墓所」の前には同じように「 元足利学校代官 茂木家累代の墓 」があった。



元足利学校代官 茂木家累代の墓 」。



この茂木家とは、宝永6年(1709)生まれの江戸時代中期の儒者「茂木好文」がいた茂木家の
ようです。下野(栃木県)生まれで、足利学校の代官として16代庠主の月江、17代庠主の千渓を
補佐し、50年に渡って経史を講義したのだそうです。
子の久隆も代官の職を継ぎ、さらに孫の久周にその職は継がれました。
好文の孫である茂木久周は、寛政2年(1790)生まれで、江戸時代の後期の儒者です。
足利学校代官であった時の天保2年学校が類焼すると、江戸増上寺の富くじ興行で資金を集めて
再建した人だったようです。明治8年に死去されていますので、足利学校最後の代官だったのかも
知れません。
足利学校にとっては恩人ともいえる家柄ですから、校内に大切に祀られているのであろう。



紅葉シーズンにも訪ねたいのであった。



「学校門」に向かって戻る。



そして竹林の中には大きな「 井戸 」があった。



そして「史跡足利学校」を後にして、徒歩にて「太平記館」駐車場まで戻ったのであった。




                               ・・・もどる・・・



                 ・・・つづく・・・





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Last updated  2023.06.26 10:31:29
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