JINさんの陽蜂農遠日記

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2023.08.10
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カテゴリ: 国内旅行
「忍城」・「御三階櫓」からの景色。







そして「御三階櫓」を後にして、「行田市郷土博物館」の南側の庭園を見る。



手水鉢(ちょうずばち) 」。



手水鉢(ちょうずばち)
高八〇センチ 幅五一センチ
忍城三階櫓の石垣を用いて明治一九年五月に作られた手水鉢。正面に楓に鹿が陽刻され、
頂上を穿って水をたたえて一匹の亀が陽刻されている。裏面に
旧忍城三重櫓台石ヲ以テ明治十九年第五月
造之 三田姓
石工小林源次郎
と陰刻してある。」



手入れの行き届いた庭園。



そして再び「行田市郷土博物館」の館内に戻る。
日本遺産 行田 」コーナー。

認定されてから、6周年を迎えた と。



認定証 
和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田
埼玉県行田市
日本遺産に認定する
平成29年4月28日
文部科学大臣 松野 博一」



パネル(中央)。



パネル(左)。



和装文化の足元を支え続ける 足袋蔵のまち行田
平成29年(2017年) 4月28日、行田市のストーリー
「和文化の足元を支え続ける足蔵のまち行田」が日本遺産に認定されました。
忍城の城下町行田の裏通りを歩くと、時折ミシンの音が響き、土蔵、石蔵、モルタル蔵など
多彩な足袋の倉庫「足袋蔵」が姿を現す。行田足袋の始まりは約300年前。武士の妻たちの
内職であった行田足袋は、やがて名産品として広く知れ波り、最盛期には全国の約8割の足袋を
生産するまでに発展した。それと共に明治時代後半から足袋蔵が次々と建てられていった。今も
日本一の足袋産地として和装文化の足元を支え続ける行田には、多くの足袋蔵等なと歴史的建築物が
残り、趣きある景観を形づくっている。」



パネル(右)。



認定証
最大の田んぼアート
計測 17,195m2
制作 日本国埼玉県行田市
田んほアート米づくり体験事業
推進協盟会
2015年9月8日」



行田 足袋検定 」コーナー。
郷土博物館を見学して、足袋に関するクイズを解く検定。

合格者には合格認定証を発行する と。
主催:行田市日本遺産推進協議会。



こぜにちゃんとフラべぇは、行田市のご当地グルメ「 行田フライ 」と「 行田ゼリーフライ 」の
全国ブランド化に向けて活動中!

フライ 」と言えば一般的に揚げ物というイメージがありますが、行田のフライは揚げ物では

なく、焼き物。
行田でいう「 フライ 」とは、小麦粉を水でやわらかく溶き、鉄板の上で薄く焼きながら、

ねぎ、肉、卵などの具を入れ、好みでソースまたは醤油だれをつけて食べるもの。クレープのようにふわりとした舌ざわりのお好み焼きのようなものです。

ゼリーフライ 」とは

フライと名前は似ていますが、「 ゼリーフライ 」は全く違う食べ物。お菓子のゼリーとも全く別物。
衣のついていないコロッケといった風情のもので、そのルーツは、日露戦争の時、中国から
伝わった「野菜まんじゅう」だということです。
ジャガイモにねぎやにんじん、さらにたくさんおからが入っているのも特徴で、食物繊維が豊富で
ヘルシー。ソースの味と香りがとても利いていて、モチモチとした食感が大人にも子どもにも
大人気。その名の由来は、小判形であることから「 銭フライ 」と言われていたものの、「銭」が
なまって「 ゼリーフライ 」となったとか。



ミュージアム グッズ 」コーナー。
御城印やクリアーファイルも販売されていました。



御城印 」をいただきました。



そして「忍城」、「行田市郷土博物館」を後にして、「 道の駅 はにゅう 」に立ち寄り
遅い昼食を楽しんだ。



そしてこの日の最後に、「 利根川 」に建設されている「 利根大堰 」を訪ねた。
利根大堰 は、埼玉県行田市と群馬県邑楽郡千代田町の県境、利根川本川・河口から
154km地点に建設された、日本でも屈指の規模を誇る堰である。
高度経済成長期において、東京都の水需要の急激な増大は深刻な問題となっていった。
この為、建設省(現・国土交通省)は、東京の水需要を多摩川から利根川に転換すべく、
1963年に利根導水路計画を立案した。元々、東京(江戸)を水害から守るという目的で
利根川東遷事業を進めたという経緯があり、水利権の問題はあったが、時の建設大臣
(池田内閣)河野一郎の政治的決断で計画されたといわれる。
1964年、東京オリンピックを前にして、東京は未曾有の大渇水(通称・東京砂漠)が起こり、
危機的状況に陥った。東京都の緊急要請により、建設省は朝霞水路を通して緊急取水を実施した。
その後、1965年には荒川に秋ヶ瀬取水堰が建設され、朝霞浄水場へ導水するための整備を行った。
こうした中で利根川は「水資源開発促進法」に基づく指定河川となり、水資源開発公団
(現・独立行政法人水資源機構)が「利根川・荒川水資源開発基本計画」に従い、利根川から
水道用水を取水する為に見沼代用水元入がある地点に利根大堰を建設し、首都圏の水需要に
応えようとした。堰は1968年4月に完成した。



独立行政法人水資源機構 利根導水総合事業所 」の駐車場の車を駐めて散策する。
埼玉県道59号線の「 須加大橋 」から「 利根導水路 須加樋管(すかひかん) 」が正面に見えた。
樋管 」とは、河川の堤防の中に水路(これが本体)が埋設された構造物のこと。
利根大堰でせきとめられた水は、須加樋管を経由して利根川の堤防の外へと流れ出ているのだ。



下流側を見る。
この後 見沼代用水 武蔵水路 埼玉用水路 に分かれる水がこの時点では1本の川となって
いるため、水量が非常に多いのであった。



「利根大堰」が見える「利根川」の右岸堤防に向かって進む。
利根導水路 須加樋管 水資源機構 」の文字が。
現在でも利根川上流ダム群の水は利根大堰・利根導水路 須加樋管を経て、東京都の上水道の40%、
埼玉県の上水道の70%を供給している。
この堰で取水された水は、荒川、秋ヶ瀬取水堰、朝霞浄水場を経由して東村山浄水場まで
行く事もあるとのこと。



利根大堰 」案内板。



利根大堰 」の上空からの写真をネットから。
利根大堰には、魚道(ぎょどう)が3ケ所に設けられている。
(1号魚道:1号堰柱の脇、2号魚道:3号堰柱、3号魚道:6号堰柱)
魚道とは、魚専用の通路のことで、利根大堰が魚の溯上(そじょう:魚が川上の方へ登って
ゆくこと)の妨げにならないように設置されている。
1号魚道には魚道観察室が付けられているので、水中の様子を覗ける と。



堤防上から「利根大堰」を見る。
堰の管理用道路は「 武蔵大橋(むさしおおはし) 」と呼ばれ、道路橋として供用されている。
全長687.2m、有効幅員7m。鋼鈑桁橋の一等橋である。
1968年(昭和43年)10月竣工。工費は7470万円であったと。
武蔵大橋から上流は約13kmもの区間、刀水橋まで一般道の橋は架けられていない。



12の水門機械室



場所を移動して。



利根川河口から約154kmにある利根大堰は、長さ約500メートルで、12の水門から出来ている。
農業用水、都市用水、浄化用水の取水を行っている可動堰で、(1)取水口 (2)沈砂池 (3)分水工
などの施設があります。利根大堰に係わる施設を管理する利根導水総合管理所が、埼玉県と
東京都用水の50%に関わっているそうです。



ズームして。



利根導水路 須加樋管」 越しに埼玉県道59号線の「 須加大橋 」を見る。



移動してに埼玉県道59号線の「須加大橋」越しに 沈砂池 そして 見沼代用水、武蔵水路、
埼玉用水路 を見る。



利根導水路 須加樋管」 直後の流れ。



施設見学案内図 」。



利根導水のあらまし 」。



利根導水路のあらまし 」をネットから。



利根導水路用水系統模式図 」。



そしてこの日の全ての行程を終了し、往路と同じルートで帰宅したのであった。



                                    ・・・もどる・・・



                 ・・・END・・・



行田天然温泉 ハナホテル行田









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Last updated  2023.08.10 00:00:23
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