JINさんの陽蜂農遠日記

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2023.09.11
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カテゴリ: JINさんの農園
この日は8月8日(水)、五反田にある銀行に向かったが、先日の「汐留・築地・明石地区を巡る」で
訪ね忘れた場所がある事に気が付き、そして更に「新富」、「湊」地区も訪ねたいと思い、朝から
自宅を出発した。
この日も「東銀座駅」で下車し、歌舞伎座の前に。
正面に「 八月納涼歌舞伎 」の演目案内。
第一部  次郎長外伝 裸道中
     大江山酒呑童子
第二部  新門辰五郎
     団子売



歌舞伎座を見上げて。
中央区銀座4丁目12−15。



八月納涼歌舞伎
第三部  三代猿之助四十八撰の内 新・水滸伝 二幕  も上演されると。

一幕目

こちらにも「 八月納涼歌舞伎 」の演目案内。
左右の案内板一対で「 八月納涼歌舞伎 」の演目案内が行われているのであった。



第一部~第三部のそれぞれのポスターが。



道路を渡って、歌舞伎座を見る。



そして歌舞伎座を振り返りながら、銀座五丁目の路地を進む。



「みゆき通り」を「昭和通り」に向かって進む。



歩道右手にあったのが 「佐久間象山塾跡」



「佐久間象山塾跡
所在地 中央区銀座六丁目十五番地域
この地域には、江戸時代後期の思想家で、信濃国(現在の長野県)松代藩士佐久間象山
(1811~1864)の私塾がありました。
象山は初め儒学を修め、天保(1839)神田お玉ヶ池付近に塾を開き、さらに松代藩の江戸藩邸
学問所頭取などを務めました。
後に海防の問題に専心して西洋砲術や蘭学を学び、嘉永4年(1851)、兵学及び砲術を教授し、

嘉永六年改正の絵図によると、「狩野勝川」(幕府奥絵師木挽町狩野家の画塾)と向かい合う
場所に「佐久間修理」(象山)の名が見られます。この塾は二十坪程の規模で、常時三十~
四十人が学んでいたといいます。
その門下には、勝海舟・吉田松陰・橋本佐内・河井継之助など、多くの有能な人材が集まり、
土佐藩士坂本龍馬の名も門人帳に確認することができます。龍馬は、嘉永六年に江戸へ最初の
剣術修行に出て、その最中である十二月一日に象山に入門しました。
木挽町の塾には、諸藩から砲術稽古の門下生が急増しましたが、嘉永七年に門人の吉田松陰が
アメリカ密航に失敗した事件に連座して、象山は国許に蟄居を命ぜられてて塾も閉鎖されました。
平成二十二年三月
               中央区教育委員会」



佐久間象山 」をネットから。



京橋南芝口橋築地鉄炮州辺絵図 」。



「銀中通り」を進み「万年橋西」交差点から「 万年橋 」を見る。
昔は「築地川」が流れていたが、現在は昔の川底を「首都高速都心環状線」が通っているのだ。



そして次に訪ねたのが、これも前回訪ね忘れた
東劇波除稲荷神社 () 」。「東劇ビル」の南側にあった小さな神社。
中央区築地4丁目1−1 東劇ビル。



「奉納 東劇波除稲荷神社 松竹株式会社」と書かれた幟。



扁額「 東劇波除稲荷神社 」。



東劇の駐車場に鎮座している「東劇波除稲荷神社」。
昭和50年(1975)に高層ビルに建替えられた時、この場所に祀られたとのこと。



「社殿」に近づいて。
築地の「​ 波除稲荷 ​」👈リンク から分祀されたものとのこと
この東劇、今はシネマ歌舞伎などを上演している映画館ですが、昭和5年(1930)に開場し、
戦後間もない時期までは歌舞伎などの演劇を上演していた劇場。
劇場には「楽屋稲荷」がありますのでその頃は劇場内にあったのでしょう。
歌舞伎座が東京大空襲で焼亡していたので、1947年11月、戦後初の「忠臣蔵」を上演したのは
この東京劇場であるとのこと。



そして「東劇」の1Fにあったロビーを訪ねた。
棒しばり ​👈リンク・太郎冠者の衣装 を展示していた。
狂言の登場人物の中で最も代表的なキャラクターが太郎冠者(たろうかじゃ)。
「冠者」とは使用人の事、太郎とは、一番目、すなわち筆頭の召使いという意味。
気が良くてお調子者、主人思いの人物として描かれることが多く、愛すべき人柄。
主人に付き従い、様々な曲に登場するとのこと。



小津安二郎生誕120年 」ポスターと小津が使用していた「 ミッチェル撮影機 」。
日本を代表する映画監督 ・小津安二郎(1903~1963)は、日本の文化や社会状況を背景に、
家族の日常、人生の悲哀などを、練り上げた脚本と〈ローポジション〉をはじめとする独自の
撮影技法によって、細部にまでこだわり表現してきました。
「小津調」と呼ばれるその作品世界は、国境を越え世代を超えて多くの人に愛され、評価され
続けています。 戦後は鎌倉に住み、『晩春』『麦秋』『東京物語』などの脚本を湘南の
旅館・茅ヶ崎館で執筆 、また、戦前から県内各地を撮影地とするなど、神奈川は小津映画に
とって大変ゆかりの深い場所でした。」



棒しばり 大名 曽根松兵衛衣装 白紫紺しじら織段熨斗目白毛抜口着付 」。
曽根松兵衛(そねまつべえ) 太郎冠者と次郎冠者の酒ぐせにいつも困らされている



棒しばり
曽根松兵衛
・白紫紺(しろしこん)しじら織段熨斗目白毛抜ロ着付(おりだんのしめしろけぬきぐちきつけ)。
・藍色龍紋向鶴菱長裃(あいいろりゅうもんむかいつるびしながかみしも)
大名という役柄から、独特の凹凸のシボが特徴であるしじら織で、横段の縞の総柄になっている
段熨斗目の着付の上に、武士の正装である裃の中でも、身分や役の高さを象徴する長裃をあわせた
装い。』



「棒しばり 太郎
」。



『棒しばり
太郎冠者(たろうかじゃ)
・翁格子白毛抜ロ着付(おきなごうししろけぬきぐちきつけ)
・皮色龍紋狂言模様玉子通裏袴(かわいろりゆうもんきょうげんもようたまごとおしうらばかま)
・茶龍紋注連縄(ちゃりゅうもんしめなわ)に御幣青海波玉子裏肩衣(ごへいせいがいはたまご
   うらかたぎぬ)
・白羽二重雲版石帯(しろはぶたえうんばんせきたい)
次郎冠者同様、狂言を踏襲した衣裳となっている。
両手を棒に縛られた次郎冠者と、後ろ手に縛られた太郎冠者が、試行錯誤して酒蔵の酒を飲み、
興じて酒宴になると、明るく愉快に舞い踊る。』



棒しばり 次郎冠者衣装 翁格子白毛抜口着付( おきなごうししろけぬきぐちきつけ )



棒しばり
次郎冠者(じろうかじゃ)
・翁格子白毛抜ロ着付(おきなごうししろけぬきぐちきつけ)
・茶龍紋狂言模様玉子通裏袴(ちゃりゅうもんきょうげんもようたまごとおしうらはかま)
・黒龍紋立浪玉子裏肩衣(くろりゅうもんたつなみたまごうらかたぎぬ)
・白羽二重雲版石帯(しろはぶたえうんばんせきたい)
狂言の「棒縛』を題材とし、歌舞伎舞踊に仕立てた"松羽目物"のひとつ。
衣裳も、狂言の紋尽くしの袴に、大胆に衣全体に描いた立浪模様の肩衣と、
狂言に則った扮装となっている。』



かぶきにゃんたろう
「かぶきにゃんたろう」は歌舞伎の魅力をよりたくさんのお客様へ伝えていくためのキャラクター
として2017年4月に初お目見え。歌舞伎座にいるかわいい猫のかぶきにゃんたろうは、とても
珍しく幸運を呼ぶとも言われる三毛のオス。歌舞伎衣裳のたすきのような首輪を付けて、背中の
模様はハートマーク。楽屋にひょっこり現れたり、稽古場をのぞいたり、歌舞伎の動きをこっそり
練習することも?にゃんたろうが歩くと首の鈴がコロコロ鳴ります。歌舞伎座のどこかで涼やかな
鈴の音が聞こえたら、にゃんたろうがそこにいるかもしれません。



多くの 風鈴 が。



この度、夏を彩るイベントとして、一般社団法人東銀座工リアマネジメント主催による
「東銀座ェリア風鈴イベント2023」く7月15日(土) ~ 8月31日(木)〉を開催する運びと
なりました。日本では古来、疫病を避け魔除けを行うために鐘型の青銅の鈴である風鐸
(ふうたく)を飾る風習がありました。その風習に因み、岩手県で親しまれる「南部鉄器風鈴」を
用いて、銀座~築地エリアを中心とした周辺地域ご協力のもと、約500個の風鈴を店舗等の軒下に
吊り下げます。また銀座松竹スクエア内では、江戸時代から伝わる伝統を受け継いだ「江戸風鈴」
も展示いたします。そして短刪部分のデザインには、中央区の三十七町の街並みと各地域に因んだ
絵が描かれた「千社札」の図柄をあしらい、中央区の歴史を感じられる趣向を凝らしています。」
と。



「京橋郵便局」前の交差点を渡る。



その先に 流 正之氏作「波除獅子」 があるはずであったが・・・。
中央区築地1丁目13−10。



これを見に来たのであったが・・・。ネットから。
波除獅子とは、この一帯の産土神で祀られている築地・波除稲荷神社に由来する獅子であると。
流 正之氏は世界的な彫刻家 、作庭家。2018年に亡くなったと。
長崎に生まれ、海軍予備兵の零戦 搭乗員として終戦を迎えます。独学で彫刻を学び、1967年には、 TIMEが選ぶ日本を代表する文化人の一人 に選ばれたそうです。



そして「築地本願寺前」交差点を渡る。
交差点の先に「築地本願寺」の本堂の屋根が見えた。



「​ 築地本願寺 ​」👈リンク の脇の路を進むと、北門が右手に、そしてその先にも本堂が見えた。



そして「築地川公園」を縦断し「聖路加国際大学」の入口近くにある交差点に到着。
「聖路加通り」の先にも、築地川を埋め立てて出来た細長い「 築地川公園 」があり
入口にはカラフルなモニュメントが。



近づいて。



聖路加国際病院 旧館、トライスターハウス、聖路加国際大学 」案内板。



校内を進んで行くと、左手に見えたのが「 聖路加国際病院(せいるかこくさいびょういん)旧館 」。



聖路加国際病院は、米国聖公会の宣教医師トイスラーが明治34年に設立した築地病院で、
同35年に聖路加病院、大正6年には聖路加国際病院と改称。
旧館には昭和8年に竣工した病棟の中央部が保存されているほか、前庭には同年に竣工の
旧宣教師館がトイスラー記念館として移築されている。
なお、旧館の敷地は、浅野家内匠頭邸跡として東京都指定旧跡ともなっている。



旧館の中央部には、昭和8年に竣工したSRC造の病棟の中央部のみが保存されている。
(当初の)設計はアントニン・レーモンド(Antonin Raymond)。チェコ出身の建築家。
フランク・ロイド・ライトのもとで学び、帝国ホテル建設の際に来日。その後日本に留まり、
モダニズム建築の作品を多く残す。日本人建築家に大きな影響を与えた。
第二次大戦時アメリカの対日戦争協力者でもあった と。
東京都選定歴史的建造物
十字架が立つ尖塔をズームして。



こちらが「 聖路加国際大学(せいるかこくさいだいがく) 」。
聖路加国際大学は、1920年にトイスラーが設立した聖路加国際病院附属高等看護婦学校が母体と
なっている。
立教大学によれば、聖路加病院が開設された築地居留地37番は、ウィリアムズが私財を投じて
購入した土地で、病院開設前は、立教の校舎(当時は、立教大学校)が建っていた場所であった。
居留地37番を後にした立教学院は、居留地57~60番へと移転したが、その場所が現在の
聖路加国際大学の敷地で有ると。立教学院と聖路加国際大学は、米国聖公会を母体とする教育機関で
非常に近い関係にあるのだ。



そして一番奥にあったのが「 聖路加国際病院トイスラー記念館 」。



聖路加国際病院トイスラー記念館
所在地 中央区明石町一〇番
昭和八年 、トイスラー記念館は 隅田川畔の明石町19番地 に聖路加国際病院の 宣教師館として
建設されました。
設計者は米国人建築家のJ・V・W・バーガミニィで、施工は清水組(現在の清水建設株式会社)
が行いました。建物の躯体は、昭和初期の住宅建築には珍しい鉄筋コンクリート造一部木造の
二階建てで、 ヨーロッパの山荘を思わせる重厚な風格のある建物 でした。
平成元年に解体工事が行われ、平成10年(1998年)2月に現在地へと移築復元されました。
復元にあたり、創設当時の施工技術や構造上の特徴を精密に記録し、再利用可能な部材を
できる限り用いています。
外観は、外部に柱や梁を表現したハーフティンバー風の意匠です。室内はチューダー・ゴシック風
のデザインで、玄関ホールやリビングなどに重厚な木の内装がみられます。
この建物は、聖路加国際病院の歴史を物語るとともに、築地居留地時代から引き継がれてきた
明石町の歴史の一端を伝える貴重な文化財です。
平成十八年三月 
             中央区教育委員会」



創設者 R.B.トイスラー医師」碑 


創設者 R.B.トイスラー医師 」。



DR. RUDOLF BOLLING TEUSLER' FOUNDER

その精神は百年を経た今日も受け継がれ、永遠に生き続けます。
This hospital is a living organism designed to demonstrate
in convincing terms the transmuting power Of Christian love
when applied in relief of human suffering.

キリストの愛の心が人の悩みを救うために働けば 苦しみは消えて、
その人は生まれ変わったようになる。この偉大な愛の力を、だれでもがすぐ
わかるように あらわせるよう、計画されてできた生きた有機体がこの病院てある。 
聖路加国際病院     2002.10.18」



アメリカ公使館跡石標 」。



アメリカ公使館跡石標
アメリカ公使館は安政6年(1859)ハリスにより港区元麻布1-6、善福寺に開設されたが、
明治8年(1875)12月築地の外国人居留地内のこの地に新築され、はじめて形容を整えた。
のち明治23年(1890)3月赤坂の現在地に移転され、現在の大使館になっている。
最後の移転により、この地には8個の小松石の石標が残された。石標には、白頭鷲、星条旗、
星の3種類の彫刻が施されており、白頭鷲はアメリカの国鳥であり、星条旗に彫られた13の星は
同国初期の13州を示す。
8個の石標のうち3個は昭和59年(1984)10月に日米友好のシンボルとして、赤坂のアメリカ
大使館に寄贈され、現在同大使用館の前庭に配置されている。残る5個の石標は、築地の居留地
時代を伝えられるものとして中央区民文化財団に登録されており、うち3個をここに、2個を
旧病院前に設置する。


         聖路加国際病院」



右から「 星条旗 」。
「星条旗」に彫られた13の星は同国初期の13州を示す。



中央「 白頭鷲 」。
もちろん、「白頭鷲」はアメリカの国鳥。



左に「 」。





                                 ・・・​ もどる ​・・・



                  ・・・​ つづく ​・・・







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Last updated  2023.09.11 06:13:31
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