JINさんの陽蜂農遠日記

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オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その5)(09/08) 矢張り有料席から見ると正面から見るので…
jinsan0716 @ Re[1]:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) オジン0523さんへ ありがとうございます…
オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) そして9:20になり、カウントダウンが始ま…
jinsan0716 @ Re[1]:旧芝離宮恩賜庭園 へ(その3)(08/06) オジン0523さんへ 書き込み、ありがとう…
オジン0523 @ Re:旧芝離宮恩賜庭園 へ(その3)(08/06) 根府川山は根府川に関係あるのですかね

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2023.10.22
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カテゴリ: JINさんの農園
この日は10月17日(火)、8月30日(水)に神楽坂四丁目の北側にある飯田橋・お好み焼き屋
「春波」で4年前のブルガリア・ルーマニア旅行の旅友と久しぶりに再会し、お好み焼きを
楽しんだ。その日は、宴の時間の前に飯田橋駅周辺を散策したが、神楽坂周辺の散策は
出来なかったのでこの日に 神楽坂の坂道巡り に向かったのであった。

小田急線で新宿駅に向かい、総武線で飯田橋駅に向かう。
途中「市ヶ谷駅」から「 新見附濠(しんみつけぼり) 」に架かる
「市ヶ谷水管橋」 を車窓越しに見る。

昭和4年(1929年)に株式会社横川橋梁製作所が製造した水管橋には珍しい鋼桁橋。
「市ヶ谷水管橋」は現在、淀橋給水所から都内各家庭へ水道水を供給する管網の一部として
運用されていると。自然流下ではなく、ポンプで圧力を加える圧送管とのこと。



「市ヶ谷水管橋」の上部の写真 をネットから



そして 「市ヶ谷水管橋」下 にあったのが「 市ヶ谷フィッシュセンター 」。



新見附濠 」の西端に、鯉釣り用の鯉池と小さな魚を釣る金魚池がある。
また、同じ場所に観賞魚、水草、草花のショップも併設されている。
本来は国有地であり、当初は施設の運営者が千代田区を通じて利用許可・貸与を受けていたが、
1962年(昭和37年)以降は許可が更新されておらず、以後約60年ほどに亘って違法占拠状態が
続いている。このため過去に東京都議会等でも問題として取り上げられているが、2023年現在も
解決には至っていないのだと。



新見附濠 」を車窓から。
新見附濠は、東京都千代田区と新宿区にある外濠。市ヶ谷橋と新見附橋の間に位置し、牛込濠の
上流に位置している。
外濠は、かつて江戸城を取り囲んでいた堀の総称。内濠や東京湾ともつながっていた。
現在は、外濠にほぼ沿う形で外堀通りが通っているのだ。
新見附濠は、牛込濠と市ヶ谷濠の間に位置 牛込濠は、JR飯田橋駅西口前の牛込橋から
新見附橋の間にある外堀 で、千代田区と新宿区の区境にある。
新見附橋は、牛込濠と新見附濠の間にある橋で、JR中央線の上に架かっている。
新見附濠は、穏やかな水面と整った緑道が魅力であると。



外濠(牛込濠・新見附濠・市ヶ谷濠) の概要。



そして左側に 「新見附濠」から「牛込濠」の間 の「 新見附水門 」を見る。



「牛込濠」。



「牛込橋」の下の牛込濠の上には水上レストランが作られていた。
併設されているボート乗り場の方は、「東京水上倶楽部」と呼ばれ、1918年から。
東京初のボート場だったと。



そして反対側の車窓からは「 江戸城 牛込見附跡 」の石垣を見る。




飯田橋ウォーキングガイド・ 東京の歴史と文化を巡る(その8) 」としてアップさせて
いただきます。

「JR飯田橋駅」で下車すると、 「牛込橋」の真下のホーム上には「案内板」 が設置
されていた。



外濠の堰の構造 」案内板。



外濠の堰の構造
牛込見附は牛込濠と飯田濠の間に位置しており、牛込濠の水をせき止める土橋と、
水位を調整する堰が設けられていました。
2017(平成29)年のJR飯田橋駅ホーム移設工事において、牛込橋の真下より、この堰の一部と
思われる石敷(いしじき)が外堀で初めて発掘されました。明治期に撮影された古写真には、
堰の落口が写っており、発掘された石敷はこの落ロの手前の水路をなす箇所の一部分である
ことが考えられます。
現在、この石敷はホームの下に保存されていますが、調査によって明らかになった限りにおいて
この石敷があったと想定される範囲がわかるように、ホーム上の舗装の種類を変えて表現して
います。また、一部取り外した敷石を、駅前広場に展示しており、その大きさを確認することが
できます。
現時点で、外堀の堰の構造に関する文章や記録は残されていませんが、同時代で類似する構造物の
石敷の事例として、神田川から神田上水を市中に引き込むために設置された堰である関口大洗堰
(現在の文京区関口に存在していた)があります。この記録によると、堰の水路に当たる部分の
石材の並び方が、今回発見された石敷と類似していることがわかります。
また、ホーム上から外堀を繋いでいる現在の水路を見ることができます。



牛込御門 」。



牛込見附の堰に敷かれた石敷 」。



「江戸城外堀縦断面模式図」。



そして西口改札を出て、前回は、訪ね損なった、飯田橋駅の西口駅舎2階から江戸城外堀史跡を
望むことが出来る「 史跡眺望テラス 」を目指す。
この階段を上って「史跡眺望テラス」へ。



階段の途中からJ R飯田橋駅西口改札 を見る。



史跡眺望テラス 」からの絶景。
2021年7月21日にオープンし、江戸城外堀跡や牛込見附跡などの国指定史跡を見下ろすことが
できるのであった。
眼下に、「 牛込橋 」、「 江戸城 牛込見附跡 」、「 JR線路 」、「 牛込濠 」、「 神楽坂ビル群 」が
見えた



この後に振り返って見上げたJR飯田橋駅・「 史跡眺望テラス 」。



」。
三井不動産が参画する飯田橋駅西口地区第一種市街地再開発事業によって整備、建設された。
外濠の南東岸に沿う外濠公園通りおよび早稲田通りに面する同地区には、かつて東京警察病院や
飯田橋郵便局、日本基督教団富士見町教会、オフィスビル等があったが、東京警察病院の移転に
伴い同地区の再開発の機運が高まり、オフィス・商業棟、住宅棟、教会棟から成る複合施設の
建設が行われた。各棟の概要は次の通り。
高さ:約150m
オフィス・商業棟:
 4-30階 - オフィスゾーン
 1-3階 - 商業ゾーン「飯田橋サクラテラス」、飯田橋郵便局ほか
住宅棟 :パークコート千代田富士見タワー
教会棟 :日本基督教団富士見町教会(再建)



「牛込橋」手前の(千代田区側)両脇に「 江戸城 牛込見附跡 」の石垣が見えた。
牛込見附門は、寛永13年(1636)に築造された江戸城三十六見附のひとつで、見附門は堀に
面した枡形の門の事。



ズームして。



「牛込御門」の図 をネットから。



手前にも石垣が残されていた。



手前にも巨大な石垣が。



「牛込門と枡形石垣」案内板



「牛込門と枡形石垣
牛込門は、牛込口とも呼ばれ、1636(寛永13)年、徳島藩主蜂須賀忠英が御手伝普請で担当して
築きました。牛込門の構造は、「江戸城外郭御門絵図」に描かれているように、石垣を方形に
めぐらし、土橋から入る「冠木門」(高麗門)と、渡櫓を頂く「大御門」の、ニ重の門を配置する
枡形門でした。「冠木門」から枡形内へ敵が侵入しても、「大御門」ではばみ、渡櫓と方形に
めぐらした石垣から一斉に攻撃できる仕組みとなっていました。
1872 (明治5)年、旧江戸城を城郭として管轄することになった陸軍省は、皇城守衛の観点から
城門の存廃方針を定め、外郭21門の廃止を決定し、東京府に引き継ぎました。東京府は、市街地
整備の観点から、城門や渡櫓、枡形の石垣や土塁の撤去を進めました。
牛込門は、渡櫓撤去後、1902 (明治35年)に枡形石垣の一部が撤去されましたが、東西の石垣が
残り、現在の姿になりました。当初の枡形の形状を、道路面に舗装で表現をしており、この場所
から、枡形の形状を眺めることができます。
なお、石垣の構造は、当駅の駅前広場にて解説しています。
現在、石垣の脇に保存され角石には、「[蜂須賀]阿波守内」と、枡形築造に当った蜂須賀忠英の
刻印が残されています。」



再び石垣をズームして。



枡形石垣があった位置 」(左)と「 枡形防御の仕組み 」(右)。



牛込御門(『江戸城外御門絵図』) 」。



手前にも石垣が。



その横にも。



神楽坂(新宿区)側に残る橋台
1989 (平成元)年の地下鉄南北線工事における発掘調査で、牛込橋の新宿区側の橋詰に高さ9.5mの
牛込見附の土橋の石垣が確認されました。石垣は軟弱な地盤の下位にある強固な砂層地盤を支持層
として梯子胴木を敷いた上に築かれており、弱い地盤に施工する際の工夫が伺えます。その他、
当時の土橋の側溝の構造がわかる遺構なども発見されています。」



JR飯田橋西口 」と「 牛込橋 」。



牛込門・牛込駅周辺の変遷 」案内板。
外堀は、1660 (万治3)年、牛込・和泉橋間の堀さらいが行われ、外堀(神田川l)をさかのぼって、
牛込橋までの通船が可能となり、神田川沿いに河岸ができました。牛込橋東側の堀端には、
搨場町の「町方搨場」と御三家のひとつである「尾張様物揚場」があり、山の手の武家地や
町人地へ薪や炭などの荷物を運ぶ軽子が、「軽子坂」を往来したといわれています。
牛込門から城内に入ると武家屋敷が連なり、他方、堀端から現在の神楽坂の辺りは、善国寺
(毘沙門天)の坂下の地域が武家地、早稲田側には寺町が形成されました。寺の門前には町家が
立ち並び、江戸名所の一つとして賑わいを見せていました。
明治になると、城外の新宿区側には、空き家と化した武家屋敷跡が芸妓置屋や料亭
となり、神楽坂花街が形成されていきました。他方、城内の千代田区側の武家屋敷跡に学校などが
建てられました。
牛込土橋東側の堀は、1984 (昭和59)年、再開発事業により暗渠となり、現在に至っています。
また、鉄道整備においても削られずに残された牛込門周辺の土塁は、1911(明治44)年、牛込・
喰違間の土手遊歩道を外堀保存のため公園とする計画が決定され、1927(昭和2)年、「東京市立
土手公園」として開設されました。現在でも国史跡指定区域に、外濠公置として歴史的風致が保全
されています。」



図 牛込神楽坂『江戸名所図会 』」。



牛込揚場(江戸土産) 」。



1905(明治38)年頃の神楽坂下 」。



1959(昭和34年)の神楽坂下 」。



牛込濠の桜 」。



甲武鉄道国有化・複々線化と飯田橋駅 」案内板。



甲武鉄道国有化・複々線化と飯田橋駅
1906(明治39)年に甲武鉄道は国有化され、1909(明治42)年に中央東線(1911(明治44))年に
中央本線に改称)の一部になりました。
甲武鉄道の乗客数は、開業した1894 (明治27)年には85万8千人、翌年には242万2千人と急増
していました。大幅に増えた旅客輸送に対応するため、汽車・貨物と電車の分離を目的に、1922
(大正11)年から複々線化工事が行われました。複々線化の際、牛込駅下りホーム等が支障となった
ため、1928 (昭和3)年に電車線の飯田町駅(現在の千代田区飯田橋三丁目)と統合する形で、
そのちょうど中間となる曲線位置に飯田橋駅が開業しました。
開業当時の飯田橋駅は両端に出口があり、東ロ側は高架駅のような構造になっている一方、
西口側は橋上の駅舎でした。この西口は旧牛込駅の利用者に対して影響が少なくなるよう
設けられたものであり、長い通路が造られ、2016 (平成28)年まで使用されていました。
駅の屋根は古レールを使って作られ、現在もホーム上から確認することができます。
飯田橋駅のホームは急曲線にあったため、車両の大型化に伴いホームと電車の間には広い隙間が
できていました。2020 (令和2)年に、ホームを牛込駅があった市ヶ谷駅寄りの直線部分に移設し、
より安全な直線ホームに改められました。あわせて、地域のシンボルとして史跡を活かした
駅前広場や駅舎が整備されました。」



図 飯田町牛込間新停車場 」。



写真 戦後直後の飯田橋駅航空写真 」。



写真 飯田橋旧西口周辺 」。



牛込駅 」案内板。



牛込駅
1894 (明治27)年10月9日に甲武鉄道市街線の新宿・牛込間の開通とともに牛込駅が
開業しました。この牛込駅は翌年4月3日の飯田町駅開業までのわずか半年の間ですが、
甲武鉄道の始発駅として活躍していました。
牛込駅があった位置は、現在の飯田橋駅のホームのうち牛込橋から市ヶ谷駅方向のあた
となります。当時、駅舎と線路敷設のために堀の一部が埋め立てられており、現在の中央線速の
あたりにホームが作られ、中央・総武緩行線のあたりに駅舎が作られました。
駅の改札ロは現在の新宿区側と千代田区側の2方向にそれぞれ設置されました。千代田区側は、
駅のこ線橋から階段で土手を上り、土手沿いの道路に面して改札の建物が設置されました。
その駅舎脇にあった土手の擁壁が現在でも外濠公園入口の付近にそのままの姿で残っています。
一方新宿区側は、牛込見附の土橋の脇を埋め立てて道路が整備され、堰の水路付逝に設置された
小型の連絡橋を渡って駅舎に行くことができるようになっていました。現在もその連絡橋の橋台の
遺構が残っており、牛込橋上やホームから確認することができます。」



牛込駅 写真 」。



牛込駅と土橋 」。



甲武鉄道市街線の誕生 」案内板。



甲武鉄道市街線の誕生
中央線の前身である甲武鉄道は、1889年(明治22年) 4月に新宿・立川間、同年8月に
立川・八王子間を開業しました。その後、1894 (明治27)年10月に市街線(新宿~牛込間)が開業し、
1895 (明治28)年4月に飯田町(現在の千代田区飯田橋三丁目)まで延伸されました。
市街線整備の許可を求める本免状出願の動きが起こると、地域住民から「首都の景観を損ない、
公衆の安全を害し、商業の衰退を招く恐れがある」として敷設反対の誓願が東京府知事宛に提出
されました。
こうした動きを受けて、当時の東京の都市計画を担っていた東京市区改正委員会は、四谷や市谷
などの外堀の眺望を実地調査した上で、四谷~市谷間の土堤が突出する部分は掘削をやめて
隧道(トンネル)にすることや、土手の樹木伐採は認めないなどの設計変更を条件とすることで
整備の許可を決議しました。当時の議事録によれば、東京市内での踏切設置は危険なため、
牛込見附において道路の下を通過してから土手に上る線形とするように設計を改める指示も
出されていました。
その後、1906 (明治39)年に甲武鉄道は国有化され、1912 (明治45)年に万世橋まで
延伸しました。」





甲武鉄道市街線 のルート図・飯田町駅・周辺施設の写真



写真手前がJR飯田橋駅西口にあった「 史跡眺望テラス の展望テラス



史跡眺望テラス の展望テラス からの風景を再び



石垣の先にあったのが「 日本基督教団 富士見町教会 」。



エキュートエディション飯田橋 エスカレーター 」。




                               ・・・​ もどる ​・・・



                 ・・・END・・・








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Last updated  2023.10.24 23:42:51
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