JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.01.18
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カテゴリ: JINさんの農園
そして伊藤若冲の 国宝・ 動植綵絵(どうしょくさいえ) 」の展示コーナーへ。



動植綵絵
伊藤若冲/江戸時代(18世紀)/絹本着色

絵に専念した40歳頃から10年をかけ製作。自ら相国寺に寄進しました。入念な形態描写と
鮮やかな色彩に若沖の独自性を見せています。明治時代に相国寺より献上。



一番右は「​ 紅葉小禽図(こうようしょうきんず) ​」👈リンク。
紅く色づいたかえでのもみじを背景に、一対の小禽を描く。植物のほうが前景に出ていることは、
菊花流水図と同じだ。面白いのは、モミジの葉の一枚一枚が、濃淡の差をともないながらも、
ほぼ同じ形に描かれていることだ。かえでの三本の枝も、大きさの違いはありながらも、
全く同じ方向をむいている。そんなわけで、この絵には反復があふれていると言ってもよい。



紅葉小禽図 」。



画面右下には土手が描かれている。その土手の向こう側に広がるのは、空であるのか水で
あるのか、俄かには判断できない。ただ、背景を単調にすることで、かえでのモミジが
引き立って見える。(142.3×79.7cm)。



小禽はオオルリと思われる。美しい声でなく青い鳥だ。夏にやってきて秋の終わりに南のほうへ
帰っていく渡り鳥なので、この絵のなかのオオルリは、南へと渡っていく直前に、名残惜しく
鳴いているわけであろう。



次に「​ 棕櫚雄鶏図(しゅろゆうけいず) ​」👈リンク。



棕櫚雄鶏図(しゅろゆうけいず) 」。



群生するシュロと、白と黒の2羽のニワトリの組み合わせという構図。
黒いシャモは『南天雄鶏図』、白いニワトリは『向日葵雄鶏図』のニワトリを反転したポーズに
似ている。
シュロは古くは『枕草子』にも記述があり、江戸時代は寺院や大名屋敷などに植えられていた。
シュロの葉は、緑青の銅と砒素の含有量を変えて、微妙な階調差で着色されている。
款記はなく、印は「汝鈞」(白文円印)、「若冲居士」(朱文円印)。



近づいて。



白いニワトリの顔。



黒いニワトリの顔。



見事な羽の描写。



脚の描写も。



左「 棕櫚雄鶏図 」と右「 紅葉小禽図 」。



そして「​ 梅花群鶴図(ばいかぐんかくず) ​」👈リンク。



近づいて。



さらに。





一番左に「 貝甲図 」。





下部に近づいて。



その上部右側にも。



1期:11月3日〜11月26日に展示されていた伊藤若冲が描いた国宝「動植綵絵」
左から「秋塘群雀図」、「老松白鳳図」、「南天雄鶏図」、「菊花流水図」。



​​ 屏風土代(びょうぶどだい) ​👈リンク
小野道風/延長6年(928)/紙本墨書
三跡の一人、 平安時代の小野道風(894 ~ 966) 35歳の書 で、醍醐天皇の勅命で新調された、
屏風の色紙形に書く漢詩の下書き(土代)。随所にみえる書き入れや訂正に推敲の跡が
うかがえます。政治家・井上馨の旧蔵品で、井上家から大正天皇に献上されました。」



本書巻は、延長六年(九二八)に醍醐天皇(八八五~九三〇)の勅命によって大江朝綱
(八八六~九五七)が作った漢詩を小野道風(八九四~九六六)が屏風に貼る色紙形に清書するために
試し書きした土代(下書き)である。温和で豊潤な中にも力強さを感じる本書巻の書風は、王羲之の
書法が反映されてはいるが、中国書法に強い影響を受けた平安時代前期の書法の域を脱している。
道風は、平安時代中期の三蹟の一人として極めて著名であり、唐様の書が用いられていたなかで
和様の書を創始し、我が国の書風・書流に極めて大きな影響を与えた人物である。その後、
和様の書は同じく三蹟の一人藤原行成(九七二~一〇二七)によって完成され、江戸時代末に至る
までの我が国の書道の基礎となった。
本書巻には、「春日山居」など七言律詩八首と「問春」など七言絶句三首が行草体で
書かれている。
本書巻の詩は、『和漢朗詠集』には朝綱の詩として「春日山居」の頷聯や頸聯など八聯が摘句
されている。
行間のところどころには、本文の傍らに同じ字を小さく書き加えた箇所がある。また、行末には
書ききれなかった二文字を小さく書いたり、脱字を行間に書き加えている。各漢詩の題辞の上には
「乙一」「丙二」等の文字が小さく書かれており、屏風に色紙を貼る位置や順番を示したとする
説もある。このように本書巻には下書きとしての特徴がよく残されている。
原則として一首を一紙に記すが、うち三首については料紙が小分割されていて、全一八紙である。
紙継目で文字が僅かに切れている箇所があるので、書写してから切断して再び継ぎ直したと
考えられる。
『日本紀略』延長六年十二月条から、醍醐天皇が大江朝綱に命じて「御屏風六帖」の題詩を作らせ、
小野道風に清書させたことが知られる。
世尊寺流の祖藤原行成より五代目の子孫である藤原定信(一〇八八~?)による「屏風土代」
奥書にも同様の記述がある。また、奥書左端には「十八枚也、道風手」とあり、細切れにされた
本紙の枚数と一致しているので、当時から紙数の増減は無いものと認められる。
また、藤原行成筆「白氏詩巻」(東京国立博物館保管、国宝・昭和三十二年指定)には本書と同じく
定信の奥書があり、保延六年(一一四〇)十月二十二日の朝、定信が経師の妻から本書と
「白氏詩巻」を買い求めたことが知られる。
本書巻は、我が国の書道史上で極めて重要な人物である小野道風の真跡として、最も評価が高い
ものである。また、『日本紀略』や奥書の記事によって制作の契機や伝来の経緯など歴史的背景も
押さえることができる。よって、我が国の書道史上の代表作といえるものであり、文化史上にも
比類無く貴重である。



林塘避暑
入林斗薮満襟埃 看取香蓮照水開
池上交朋唯対鶴 樹間鋪設不如苔
境閑客熱辞身去 葉密松風払面来
何必古時河朔飲 残盃更被晩蝉催」

『林塘に暑を避く
林に入り斗藪す襟に満つる埃  看取す香蓮の水を照らして開くを
池上の交朋唯だ鶴に対ふのみ  樹間の鋪設苔に如かず
境閑にして客熱身を辞して去り 葉密にして松風面を払ひて来る
何ぞ必ずしも古時の河朔の飲のみならん 残盃更に晩嬋に催さる』

【林塘に暑を避く
林中に入り身に纒う俗塵を払い落とし、 (池のほとりで)香ぐわしき蓮花が水に照り映えて
咲くのを伺い見る。
(さて)池のほとりに交わる友と言えば唯だ差向いの鶴ばかりで、木々の問に敷き展べられて
いるのは苔。
この地は何とも閑静で、訪れる人の身から暑苦しさが消えてゆき、
木々の葉がびっしりと繁っていて、松風が涼やかに顔を吹き払う。
避暑の飲酒と言えば、古くは河朔の地の故事が名高いが、どうしてその地に限ったことがあろう
(この地も満更捨てたもんじゃない)と思いつつ、夕暮れの嬋の声に飲み残しの盃をますます
促された次第である】という意。 



山中自述
碧峰遁迹臥松楹 謝遣喧喧世上栄
竜尾旧行応断夢 鶴頭新召不驚情
商山月落秋鬚白 穎水波揚左耳清
唯有池魚呼後至 各随次第自知名」

『山中自述
碧峯に遁迹して松楹に臥し 謝遣す喧々たる世上の栄
龍尾の旧き行には応に夢を断つべく 鶴頭の新たなる召にも情を驚かさず
商山に月落ちて秋の鬚白く 潁水に波揚て左の耳清し
唯だ池魚有りて呼びたる後に至り 各おの次第に随へば自らに名を知るならん』

【山中自述
美しいみどりの嶺に隠遁して山家に身を横たえ、騒がしい俗世の栄利なぞ無用と辞する。
これ迄仕えていた官吏の道などすっぱり夢と思いきり、御上から新たなお召しがかかっても心を
動かすこともない。
商山には月が傾き、あの四皓の鬚は秋を迎えて一層白く輝いていようし、
潁水には波が立って、許田の左耳は汚れを洗い落としてますます清らかであろうかと思われる。
ただ池にいる魚に声をかけるとやって来て、列を成して泳ぐところをみると、魚たちが名を
解しているかのように思われてならないことだ】という意。



送僧帰山
一自方袍振錫行 別師還媿六塵情
雖観秋月波中影 未遁春花夢裏名
谷静纔聞山鳥語 桟危斜踏峡猿
夜深莫歎迷帰路 定有霜鍾度嶺鳴」

『僧の山に帰るを送る
一たび方袍の錫を振て行きしより師に別れて還た六塵の情に婉づ
秋の月の波の中の影に観ずと雖も未だ春の花の夢の裏の名を逃れず
谷静かに纔かに聞く山鳥の語棧危く斜めに踏む峡猿の声
夜深きも歎くこと莫帰路に迷へることを 定めて霜鍾の嶺を度りて鳴ること有らん』

【師僧が錫杖を振ってお帰りになってからというもの、師に別れたことでやはり様ざまな世俗の
汚れにまみれてしまう己の心が恥ずかしくてならぬ。秋の月が水面に映って波に美しく澄んで
いるが、その月は実体のないものだ(一切のものには実体がないという水月観)などと思いなしても
俗世から脱することはできず、相も変わらず夢中の春の花の如き実なき虚名を求めてしまう始末。
(師僧の帰る)谷間は静かでわずかに山鳥の声が聞こえるばかりであろうし、懸け渡した危い橋を
峡谷にひびく猿の声を下に聞きつつ渡られることだろう。
夜更けて帰路に迷われてもお歎きになりませんように。きっと明け方の霜に鐘が峯を渡って自らに
鳴り(導かれて寺に帰れ)ましょうから】」という意。



問春
山吐雲晴樹競粧 高低無処不添光
再三請問得知否 何故猶残鬢上霜」

春に問ふ
山の吐きし雲も晴れ樹は粧を競ひ 高きも低きも処として光を添へざるは無し
再三請ふ問へ知るを得るや否や  故か猶し鬢上に霜を残せると 』

春に問ふ
山から出た雲も晴れ渡り、木々は春の粧美を競い合 い、高きも低きも大地のすべてが
春のうららかな光を帯びている。何度でも春に尋ねてみなさい、知るや知らずや、
(春とい うのに)一体どうして(自分の)髪は霜のような白毛を残した ままなのか、と】
という意。



楼上追涼
煩熱蒸人不異炊 登楼凜(快)然(被)還(遠)有(風)衣(吹)
凜然還有衣裘想 安用袁宏一扇為」

楼上に涼を追ふ
煩熱人を蒸して炊ぐに異ならず 楼に登り快く遠くよりの風に吹かる 凜然として還て裘を衣んとの
想ひ有り 安ぞ袁宏が一扇を用て為ん』

【うっとおしい熱さは人を蒸し上げるようで、飯をたくのに変わらぬありさま。そこで楼台に登り、
遠くより来る風に心地よく吹かれる。すると身のひきしまる寒さに襲われ皮衣を着たいと思う程だ。
これなら何もあの袁宏の団扇など要しま い】
という意。



七夕代牛女
独坐青楼漏漸深 支頤想像暁来心
風従昨夜声弥怨 露及明朝涙不禁」

七夕に牛女に代はる
独り青楼に坐し漏漸く深し 頤を支へて想像る暁来の心 風は昨夜よりして声は弥よ怨み
露は明朝に及んで涙禁へず

【  七夕に牛女に代はる
独り楼台にすわり夜もまさに更けた頃、頬杖ついて夜明け前の牛女の心に思いを馳せる。
昨夜来の風は(牽牛織女 の離別の)悲しみの声を乗せていよいよ怨みがましく吹き来る。
露は二人の涙さながらに明方に降り敷き、(自分も)涙をこら えきれずにいる】
という意。



                                   ・・・もどる・・・



                    ・・・つづく・・・








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Last updated  2024.01.18 15:00:08
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