JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.02.20
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カテゴリ: JINさんの農園
そして正面に「淨真寺」の「 楼門・仁王門 」。



再び燈籠の窓に描かれた可憐な純白のサギソウを。



巨大な「 楼門・仁王門 」が目の前に。
楼門形式ということで、 ニ階建ての門で、一階部分に屋根(下屋)を持たない門。
ニ階部分には高欄が配置されていて二層に分かれ、下層は通路の両側に金剛力士像が。
桁行3間(8.1mメートル) 梁間2間(4.2メートル)、入母屋造、銅板葺。
石段中央の手摺は「金剛杖」を表していると。



正面から「仁王門」の「高欄」を見上げて。
桁行3間(8.1m) 梁間2間(4.2m)、入母屋造、銅板葺。



扁額は「 紫雲樓



紫雲桜(仁王門)桜上のニ十五菩薩
当山に参詣される人々は、この桜上に安置してある阿弥陀如来とニ十五菩薩に迎えられて、
三仏堂へと足を運ぶことになる。すなわち紫雲の門より内は荘嚴の浄上(彼岸)であることを
示している。この桜門は寛政年間の建立である。当山の伝統相続行事である「ニ十五菩薩来迎会」
(お面かぶり)は無形文化財に指定せられ、この桜上のニ十五菩薩は、来迎の真髄を示現している
ことになる。」



下層は中央通路の両側に 金剛力士像 が。



仁王門
重厚荘重なる仁王門(山門)は別名「紫雲楼」とも呼ばれ寛政5年( 1793 )の建立である。
一対の仁王像、桜上に阿弥陀如来とニ十五菩薩像が安置されているほか、風神・雷神の像も
あって、寺域全体の安全が意図されている。」



仁王像(阿行) 」(右)。 







仁王像(吽形) 」(左)。







二十五菩薩来迎図・おめんかぶり 」案内板。 
次回は2024(令和6年)5月5日(日)午前11時・午後4時に厳修します。
この行事に二十五菩薩「行者」、お稚児さん「天童」を募集しています。」   



三年に一度行われる九品仏の二十五菩薩来迎会、通称「​​ おめんかぶり​ ​」👈リンクは
5月5日に開催。
来世に見立てた本堂と、浄土に見立てた上品堂との間に橋を架け、浄土から二十五菩薩が
迎えに来る様と、西方極楽浄土へと往生人を救う(連れていく)様を表しているのだと。





「午後四時三十分に閉門いたします。
ご参拝を終了願います。淨真寺」と。 



見事な仁王門正面の竜虎の彫り物は金網に守られて。



「仁王門」の裏側・境内側に鎮座する「 風神 」。



「仁王門」の裏側・境内側に鎮座する「 雷神



「仁王門」脇から「焔魔堂」方向を振り返る。  



そして前方左にあったのが「 鐘楼 」。



鐘楼
仁王門とは対照的に、流麗な建築手法を示す鐘楼は関東でも名桜の誉れ高く、
宝永5年(1708年)の建立である。梵鏝は文化財に指定されており、今に残る深沢の名家谷岡氏の
御先祖がニ親菩提のために鋳造され(宝永5年)当山に寄進されたものである。また楼の四周に
刻まれた十ニ支は作者不詳であるが、名作として特に有名である。毎年大晦日より元旦にかけて、




流麗な建築手法を示す鐘楼は関東でも誉れ高く、宝永五年(1708)の建立 と。 



鐘楼にも様々な絵が彫り込まれていた。



楼の四周に刻まれた十ニ支は見事な彫刻。



ズームして。



「梵鐘」。



「仁王門」越しに「東門」方向を振り返る。



「仁王門」を見上げて。



境内
境内周辺の土手はこの地がかつて奥沢城であったときからの名残りで、鎌倉期における築城学上
「土塁」の形態を示すものとして貴重な史料である。
境内には古木が多く、カヤ(天然記念物)の大木は推定樹齢七百年以上、またトチ・高尾マキ・
菩提樹およびイチョウ(天然記念物)、など古大木があり、つねに参拝する人々が絶えない、
武蔵野の面影を残存する霊域である。
参道・惣門・閻魔堂・仁王門・鐘楼・開山堂・本堂・三仏堂・書院・食堂(じきどう)などいわゆる
七堂伽藍の完備した僧房として数少ない寺院である。
また寺域全体が極楽往生の様相に形どられ、弥陀三六(さぶろく)の願いに即して、境内3万6千坪、
三仏堂各堂丸柱三十六柱、本堂ケヤキ柱三十六柱、さらに三仏堂と本堂のあいだ三十六間という
ように細部にわたって往生にちなんだ数字があてはめられ、いちど九品仏境内に歩をはこび
参拝結縁したならば、往生浄土の信心を得ることができるという願いがこもっているのである。
このような緑の境域は周囲の変化にともない次第に失われてゆく都内の現状の中できわめて
たいせつなものである  将来ともこの風致を永く保存したいと念願いたしておる次第である。
淨真寺「縁起」本堂札所にあります(有料)」 



そして「仁王門」を潜ると左手にあったのが 「奥沢城跡」碑
奥沢城は、吉良氏によって築かれたと言われる平城。世田谷城の出城として用いられた。
昭和62年(1987年)12月18日に世田谷区の区指定史跡に指定されている。
天文 - 永禄年間頃、吉良頼康により築かれ、家臣の大平氏が守った。
天正18年(1590年)、小田原征伐の後廃城となった。
延宝6年(1678年)、珂碩により九品仏浄真寺が開かれた。
周囲の平野部に南の台地から北方に突き出た舌状台地上に占地し、台地上の九品仏浄真寺境内に
方形の郭跡が認められる。九品仏駅前から台地東麓に掛けて城郭由来の地名が残ることから、
城域は九品仏駅付近から台地端まで拡がっていたものと考えられる。



仁王門の北側(右手)に 4基の庚申塔 が並んでいた。どれも保存状態の素晴らしいもの。
江戸時代の奥沢村にはたくさんの地蔵や庚申塔があったという。大部分は昭和初期の大規模な
耕地整理で無くなってしまったようだが、道端や辻にあったものは近隣の寺社に移設されたと。
浄真寺に移設されたものが最も多いと言われると。



一番右の石碑には「」と刻まれた石碑が。



そしてその手前に 4基の駒型青面金剛庚申塔



反対側から。



一番右は違う場所から移されたものらしい。世田谷区の庚申塔の資料にも載っていないと。
造立年は享保6年(1721)とこの中では最も新しい。新しいと言っても都内の庚申塔の中では
かなり古い部類に入るのだと。
青面金剛、邪鬼、三猿が彫られており、「 奉青面金剛講中…奥沢村 」とある。
武州荏原郡世田谷領 」という文字もあるので、奥沢村のものであるとのこと。



右から2番目は、同じく板状駒型で青面金剛と三猿、造立年は元禄17年(1704)である。
ここの庚申塔は1690年から1721年という造立で、実は山門よりも相当古い。後からここに
設置されたにもかかわらず、寺域の中では一級の場所を与えられているのはその時代の
古さからであろうか。



右から三番目の庚申塔は 青面金剛、邪鬼、三猿 がきれいに描かれている板状駒型。
造立は享保4年(1719) 、等々力村の銘があり、8人の願主の名前がある。
高さは112㎝あるが、この庚申塔だけでなく4基ともが高さ1mを超えている大きなものだ。



一番左の庚申塔は、青面金剛像に 三猿、元禄3年(1690)の造立 である。
板状駒型のこの庚申塔は以前は等々力6丁目24-18にあったもので、民家の建替えにより
浄真寺に移された。この庚申塔だけでなく、左から3基目までが同じ場所にあったものである と。



「鐘楼」を再び。



参道を更に進む。



参道の両側には巨大な石が、枯山水の如くに並んでいた。



前方右手の大イチョウは既に多くの黄色の葉を落としていた。



淨真寺 本堂 」を横から見る。



そして右手の細い路に入ると、石を丸くし彫り込んだ「 手水場 」があった。



そしてその奥に句碑が。
鷺草を詠んだ鎌倉の物故俳人・吉岡富士洞の「句碑」と。
天碧き 日は鷺草の 天に翔つ 』。



「手水場」。
どなたかが写真撮影用に・・・?しかし、これぞ「落葉舟」。
ほとんどの紅葉のモミジ葉が沈んでしまっていたが。



その奥、本堂の裏手に「 鷺草園 」が。
池には菖蒲や水草も植栽されているのだと。



サギソウ(鷺草)
花を見た人はきっと名前にうなずいてしまうサギソウ。
花が鳥のサギが羽根を広げた様子にそっくりなのでこの名前がつきましたが、これは3枚ある
花弁のうちの1枚で、ラン科植物に独特の唇弁(しんべん)とよばれるものです。
がく片は緑色で3枚あり、花のうしろに長い距がつき出します。地下に小さな球根があり、
花の頃から数本の匐技(ふくし)をのばし、その先新しい球茎をつくり、繁殖します。
斑入りの銀河という園芸品種もあります。
サギソウの自生地は、現在少なくなっていますが、おもに本州~九州の低地の湿地に生え、
食虫植物のモウセンゴケ類、ミミカキグサ類などとともに生育しています。かっては
世田谷区にも自生があったと言われています。花期は7月中旬~ 9月上筍で、地域によって
違いがあり、南に行くほど遅くなると言われています。
みどりとみず政策担当部
公園緑地課 玉川公園管理事務所」



ズームして。



背がく片側花弁がフード状となります。
唇弁は3裂して側裂片は大きく縁が細裂します。
唇弁の基部に3 ~ 4cmの距があります。



「鷺草園」に繋がっている枯山水の池。



湧き上がっていたのは湧水であろうか?



鷺草(さぎそう)について
鷺草(昭和43年8月1日、区の花に指定)=[ラン科]は陽の当たる湿地原野に生える
多年生草本で7~8月頃、高さ20~30センチの茎に純白の花を咲かせ、その形が飛んでいる
鷺の姿に似ているところからこの名前がついたものと思われます。
区内では大正の末頃まで九品仏周辺の奥沢田甫に自生し奥沢には「鷺の谷」・また地続きの
目黒区自由ヶ丘には「鷺草谷」という小字の地名がありました。この鷺草にまつわる悲話も
いくつか伝えられておりますのでその一つを御紹介します。
「室町時代世田谷城主吉良頼康には、家臣の奥沢城主大平出羽守の娘で常盤姫という美しい
側室がいて頼康の愛を一身に受けていたが、古くからいる側室達が、これをねたんで常盤が
不義をしたとあらぬ告げ口をしたので遠ざけられた。悲しんだ常盤は幼い頃から愛育した白鷺の
脚に遺書を結びつけ、両親の住む奥沢城に放った。たまたま奥沢城附近で狩をしていた頼康が
白鷺を射落したところ脚に手紙が結んであったので開いてみると常盤の遺書であった。
頼康は驚いて急いで帰館したがときすでに遅かった。白鷺の射落された場所から一本の草がはえ、
やがて鷺に似た可憐な花をつけたのです。」。



花が咲くと(以前に訪ねた時の写真)。



そして右手に「本堂」の姿を見ながら「鷺草園」を後にしたのであった。



                                  ・・・もどる・・・



                   ・・・つづく・・・







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Last updated  2024.02.20 12:00:13
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