JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.04.04
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カテゴリ: JINさんの農園
そして「 宮原百石線 」に出て、正面に「寒川社(宮原)」が正面に見えて来たが、
先に訪ねたのが「 観藏寺(かんぞうじ) 」。



観藏寺 」山門に向かって進む。




本尊は不動三尊で、本堂安置の阿弥陀如来は獺郷(おそごう)にあった西福寺の旧本尊。
現在の本堂は大正大震災後に改築されたもの。
山号   宮原山
院号  不動院
宗旨    高野山真言宗
創建    不明(安土桃山時代)
右「 奉 宮原山 」と刻まれた山門の石柱。



左「献   観藏 」と刻まれた山門の石柱。



境内の入口右にあった「 六地蔵



移動して。
成8年(1996)7月 建立 と。
以前にあった文政6年(1823)の六地蔵は西福寺跡に移された のだと。



本堂の手前、右側にあった「 弘法大師堂 」。



弘法大師石造 文政3年(1820) 」。



相模国準四国ハ十ハヶ所霊場 第六十五番伊予三角寺
御詠歌「花さきて実らぬ草はなかりけり神も仏も秋をみやはら」
江戸文政の頃(1818 ~ 30)頃、鵠沼在の浅場太郎右衛門が、普門寺(高野山真言宗)の僧
善応密師と相談の上、弟子の浄心を四国にやり、ハ十ハヶ所の御砂を取り寄せ、大師像を
近在に配置しました。藤沢には四十四ヶ所ありますが、御所見地区は観蔵寺のみです。



本堂 」。



「本堂」の内陣。




明治期まで道を挟んで隣接する宮原寒川社を管轄 してしいたとのこと。
本尊は不動三尊 で、 本堂安置の阿弥陀如来は獺郷(おそごう)にあった西福寺の旧本尊
現在の本堂は大正大震災後に改築 されたもの と。



観蔵寺を後にして、手前にある「 宮原寒川社」 に向かう。
藤沢市宮原の六本松にある 宮原地区の鎮守の神社
藤沢市宮原1289。



寒川社



前方に 神明鳥居 の「 石鳥居 」。



寒川社
御祭神  品陀別命 (ほんだわけのみこと・応神天皇)
     寒川比古命 寒川比女命
祭儀
 元旦祭 一月一日
 紀元祭 二月十一日
 神立祭 七月三十日
 例大祭 九月二十七日
 新嘗祭 十一月二十三日(七・五・三)
由緒
 創立年月日不詳
延喜式内社・相模国一之宮寒川神社を勧請して鎮守となる。明治六年十二月村社に・
大正四年に(一九一五)末社に指定される。」



鐘楼には梵鐘の姿はなかった
この鐘も第二次大戦時に供出されたのであろうか?



大東亜戦争記録
昭和六年九月十八日満州事変勃発 昭和十二年七月七日支那事変 引続き昭和十六年十二月八日
大東亜戦争となり昭和二十年八月十五日終戦 その間の宮原地区内応召戦没者記名
・・・二十七名の戦没者名・・・
昭和五十◯年十一月ニ十三日 建之」



「奉納 ​ 藤扇睦 ​」👈️リンク。
宮原寒川社神輿保存会。



境内右側にあった「 神楽殿 」。



手水舎 」。



「かわせみ ひな祭り」案内ポスター。



正面に「 拝殿 」。

境内には大宮社(大宮姫命)・八雲社(須佐男命)を合祀。

創建時期は不明だが、神仏が習合していた江戸時代には社の西隣にある観蔵寺が

別当役を務め、僧や山伏、修験者など雑多な人々が居住していたと。

その後神仏の分離を経て、明治時代末、打戻の宇都母知神社との合併が取り沙汰される

こともあったが、地域の人々の反対により独立維持されたと。

境内は、南側から正面に拝殿と本殿、左手前から鐘堂、手水舎、社務所、奥に神輿殿、

右手に神楽殿、稲荷神社が。入母屋造の屋根を持つ拝殿は1894(明治27)年に再建。 



⑥宮原・寒川社(宮原1289字六本松)
例祭日9月27日に近い日曜日 神輿渡御
宮原の鎮守。
祭神は誉田別命 (ほんだわけのみこと・応神天皇)
   寒川比古命 寒川比女命 末社 稲荷社
寒川町の寒川神社を勧請したものですが、その年月は不明。
元は観蔵寺が別当を務め、山伏・社僧・法師・修験者が居住していました。
寒川社には、寒川の大神がいずれの国から相摸国に移り住んだ時、茅ヶ崎の芹沢にしばらく
逗留し(腰掛神社:祭神日本武尊)、その後宮原に移り、最後に現在の寒川神社に移り鎮座した
という伝説が伝えられています(相模の古社 菱沼勇)
拝殿は、明治ニ十七年( 1894 ) 本殿は大正十三年( 1924 ) 神楽殿は昭和四年( 1929 )に
再建 されました。 拝殿は軒唐破風向背付き入母屋造、覆殿は銅板豊の切妻神明造で屋根形状が
大きく異なっています。 内部の本殿は三間社流れ造、両下がり屋根の幣殿でつないでいます。
昭和初期、目久尻川の水田区画整理や大昭橋架橋による旧石橋の石が神楽殿の土台に、古材が
拝殿廊下の手すりに再利用されているそうです。





拝殿の扁額「 寒川大神 」。



宮原 」案内板。



宮原(みやばら)
高座郡寒川町宮山にある相模国一の宮寒川神社の社地であった原野を開拓したところから
この地名が付いたといわれている。
村の中央を南北に中原街道が通り、北町に大山街道の近道がとおっていた。往時には
旅人の往来も多く、当時のようすを思い起こさせる屋号も多く残っている。
                      藤沢市」

「宮原は、寒川町宮山にある相模国一之宮寒川神社の社地であった原野を開拓したことによって
できた集落で、「宮の所領の原」で宮原としたとされます。宮原は東は獺郷、西は寒川町會見、
南は寒川町小動(こゆるき)、北は用田に接するほぼ平坦な地で、古くは寒川郷に接し、寒川神社の
領でした。天正年間(1573 ~ 1591)北条氏の令によって当村より藍瓶役の税銭を出したとの
記録があり(足柄下郡板橋村紺屋藤兵衛蓙文書)、この時分当村に紺屋があったことがわかります。
天正十ハ年(1590)徳川家領となり、江戸時代は三人の旗本の領地で(三給)、維新前の石高は、
総高は820石余り、うら佐野肥後守庸貞453石9斗余、今村伝右衛門(佐野家家来筋、中分) 215石
4斗余、佐野六十郎(佐野家分家) 151石3斗余りであった。徳川末期は相模国高座郡ーの宮庄
宮原村でした。
なお、昔、宮原には東宮原と西宮原という地名があり、東宮原は現在の獺郷の一部、西宮原は寒川
の一部と者えられています。江戸時代の検地帳の中に該当すると思われる地名が見られます。
宮原は村の中央を南北に中原街道が通り、北町に大山道の近道が通っていて、住時は旅人の住来も
多く、昔の村のようすを思い起こさせる屋号も多く残っています。現在、植木生産販売業が多く
見られますが、以前は葉煙草、生糸生産等が盛んで、特に生糸は横浜より買い付け業者が住来し
業者相手の商売もありました。」と頂いた資料から。



境内の「 齋正一位稲荷神社 」。



覆殿 」を右側から見る。


あります。これを「 覆殿 」と言うのだと。



令和四年度 寒川社施設整備寄付者御芳名」



寒川社々務所 」。



狛犬越しに拝殿を見る。



狛犬(右)。



狛犬(左)。



神輿殿 」。



寒川社 神輿 」をネットから。

令和4年 藤沢御所見<宮原・寒川社>例大祭 神輿渡御=宮入・着與 - YouTube

覆殿 は銅板豊の切妻神明造。





「大震災記念」碑
「大正十二年九月一日午前十一時五十八分関東一帯激震アリ 當宮原部落ハ戸數百二戸ノ内
全潰四十一戸 半潰六十一戸ニ上リ殃死者一名負傷者三名ヲ出シ土地ノ陥落崩壊道路橋梁用
排水路ノ破壊等頗ル惨状極ム 茲ニ碑ヲ建テ其災害ヲ後世ニ傳フ」。




                                 ・・・もどる・・・



                 ・・・つづく・・・







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Last updated  2024.04.04 06:41:43
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