JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.04.12
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カテゴリ: JINさんの農園
正面に「 宇都母知神社 」の「 鐘楼 」が姿を現した。
境内の西側、道を挟んだ所にあった。

設置のされないままだったが、昭和50年(1975年)になって、天皇在位50年を記念して
鋳造されたものを再建。
また、境内の全域が風致林の指定を受けており、昭和49年(1974年)には自然環境保全地域に
指定されているとのこと。



「梵鐘」をズームして。
昭和50年(1975年)になって、天皇在位50年を記念して鋳造 されたのだと。



以前に訪ねた時の写真。





鐘撞堂の前に立つ石碑には「寛平三年 式内 宇都母知神社」と。



鐘撞堂の横には
左:「 大地神 」の石柱。
  文久四年(1864)甲子正月 邑惣連 世話人 和田 金子 宮地他
  七沢村石工 前場長エ衛門亮張 と。
右:青面金剛神 南一ノ宮 西□□ 北□□ 天和四(1684)□□



土地改良事業完成記念碑、「 甦る大地  藤沢市長 葉山峻 書
郷土の鎮守、宇都母知神社が鎮座する、藤沢市打戻字大仲及びそれに接する宮台、大谷戸、根下、
矢崎の地は、原始の昔より農耕が営まれてきたが、畑地は傾斜地が多く狭隘であり、山間に位置
した水田は強度の湿田で生産力も低く、長い間耕作農民を苦しめ、経営の伸展を阻害してきた。
昭和四十八年、藤沢市が国の施策である第二次農業構造改善事業を導入するに及び、当地の地権
者百十二名は、この事業の実施推進によって生産基盤の改善と経営の安定を計るべく、度重なる
協議を経て、土地改良区の設立に踏み切った。
以来十年間の歳月を費やし、本土地改良区は、県、市、農協等関係機関の懇切な指導と地権者
及び役員の溢れる熱意により、幾多の困難を乗り越えて、事業費二億七千万円、総面積四十五
ヘクタールに及ぶ土地基盤整備事業を完成させ、更にその耕地内の二十ヘクタールを対象に、
事業費四千五百万円をもって畑地灌水施設を完工し、また、ガラス温室団地及び養豚団地を
配置するを成し得た。これにより、改良地区の中心部を通る、工費六千万円をもって完全舗装
された延長千百三十六メートル、幅員七・五メートルの幹線道路をはさんで、農耕地は平坦に
して整然と区画され、どの耕地も巾四メートル以上の農道に接する、良好なしかも早害の
懼れのない近代的農耕地に生まれ変わった。この改良事業は、今後当地の農業経営の合理化と
発展に寄与するところ限りないものがあると思われる。
思うに、当地の農耕の遥かな歩みの中で、本事業はまさに歴史的かつ画期的な大事業であったと
言うべく、本土地改良事業の完成にあたり、その〇概を記して、後世に伝えんとするものである。
昭和五十八年一月  
         藤沢市打戻土地改良区」
写真は以前に訪ねた時のもの。



西側入口から境内に向かって進む。
宇都母知神社 」案内板。
当地(打戻)の地名の由来として、 宇都母知神社の「宇豆毛遅」(うずもち)が訛って
打戻(うちもどり)となった という説がある。
宇都母知(うつもち)神社は御所見地区では最も古い神社で、、 うつもちの「うつ」は
「囲まれたところ」を
指し、「もち」は「小さな盆地」を意味 し、小出川流域の盆地を
中心とした土地がこのように呼ばれたという説もあるのだ と。
延長5年(927年)の『延喜式神名帳 』に記載されている 相模国の延喜式内社十三社の内の一社
(小社)とされるとのこと。



レンタル自転車置場。



SHONAN PEDAL
このシェアサイクル事業「SHONAN PEDAL(湘南ペダル)」は、江ノ島電鉄㈱様が事業主体と
なって、自治体などの後押しを得ながら様々な場所に設置する事で地域住民・観光客の手軽で
新たなモビリティを提供する目的で立ち上げられた と。
料金は
利用開始30分まで  130円
(延長)15分ごと  100円
12時間まで     1800円
よって 2時間のレンタルで730円 になるようだ。



そして 「拝殿」の手前 にあったのが「 神輿殿 」。



「宇都母知神社」の「​ 神輿 ​」👈️リンク の写真をネットから。

平成30年 藤沢市打戻 郷社・宇都母知神社例大祭 神輿発輿 - YouTube

神明造り の「 拝殿 」を斜めから。



正面から。
御祭神 天照皇大御神(あまてらすおおみかみ) 
    稚産霊神(わくむすびのかみ) 
    若日下部命(わかくさかべのみこと)
天照皇大御神は伊弉諾(いざなき)、伊弉冉(いざなみ)二神の生み給う方 で、高天原を治められ、
神徳宏大で人々から敬われ、日神とも称え奉られた。 稚産霊神(わくむすびのかみ)は豊受大神
の御親神で五穀や養蚕を司る神 であります。 若日下部命(わかくさかべのみこと)は仁徳天皇の
皇女で雄略天皇の皇后になられた方で非常に人徳の高い方で養蚕を盛んに奨励された。
祭日 9月15日 
由緒  当神社は創立年代は詳かではないが延喜式内社で二十一代雄略天皇の御代(西暦四九五)
   に厳粛なる祭祀が行われたことが日本総風土記に記されている。なお風土記によると
   当神社の所在地は相模国鷹倉郡宇都母知郷にあったとあります。六十一代朱雀天皇
   天慶2年9月(西暦939)、若日下部命の御尊霊を大和国泊瀬(はつせ)より遷座して
   相殿に奉祀されました。九十代伏見天皇正応3年8月(西暦1290)、鎌倉八代将軍
   久明親王の執権北條貞時が社殿を改築し、同年9月に参拝された。寛永4年11月
   (西暦1627)、領主高木主水源正次が社地900坪を寄進し、また本殿の改築を
   行った。震災当時の建物は安政5年(西暦1858)に建築されたもので当時の記録に
   よると本殿9坪(約30平方米)拝殿25坪(約82平方米)幣殿4坪 神楽殿20坪
   (約66平方米)であった。また、当神社は明治6年12月に郷社に列せられた。
         大正12年の関東大震災により、社殿等全てが倒壊したが村人一同の総力をあげた努力
         により倒壊後わずか3年、大正15年9月に総てが現状のように復旧した。本殿神明造
         6坪(約20平方米)幣殿5坪(約16平方米)拝殿12坪(約40平方米)神楽殿
         16坪(約53平方米)参集殿15坪(約50平方米)神輿殿3坪(約10平方米)が
         再建された。境内地は約1丁6反(約16000平方米)で全域風致林の指定を受け、
         また昭和49年、自然環境保全地域の指定を受けている。打戻字大平2009番地には
         溜池1反5畝(約150平方米)の社有地もある。



この神額は、第65代花山天皇の後裔である神祇伯資顕王(1731年~1785年、花山源氏嫡流、
白川伯王家)によって江戸時代中期に謹書されたもの
神額左下に「 神祇伯資顕王謹書 」と見える。
白川伯王家は、伝統祭祀を継承された公家源氏であり、神祇伯(神祇官の長官)に補任されて、
のちに白川を称した。



日本国旗 が青空にはためく。
複数の日本国旗の姿を同時に見るのは、何時以来 であっただろうか?



提灯台に納まった提灯には、「 宇都母知神社 」の文字、「 十六葉一重菊 」紋が。



拝殿を望む。
正応三年(1290)鎌倉幕府九代執権北条貞時が社殿を改築、同年九月に参拝しました。
寛永四年(1627)には領主高木主水源正次が社地九百坪を寄進の上本殿を改築しました。
現在の建物は、旧建物が関東大震災で全壊し、大正十五年(1926)九月に内務省造神宮技師の
設計に基づき再建されたものです。
正規の神明造りで、拝殿は「土間神殿」と呼ばれ、床がなく現在はコンクリートになって
いますが、以前は砂利が敷き詰められていました。特に本殿は楝持柱が一直線に地面に延び、
側面が美しいものです。
拝殿内は拝殿内撮影禁止 と。



「神楽殿」。



「社務所」。



「本殿」を右側から見る。



「拝殿」の右側には2社が。



菅原神社 」。



御祭神:菅原道真。



菅原神社
【御祭神】 右大臣菅原道真公
【神徳】  学間の神(入試合格・学業成就) 文芸の神(芸道上達)
【御由緒】
菅原道真公は幼少より詩歌に才能を発揮し、十一歳で初めて漢詩を詠んだとされています。
宇多天良の厚い信頼のもと、文章博士に任じられ、寛平六年(八九四年)には遣唐大使に
任じられました。
醍醐天亶の御代に右大臣に昇進して左大臣藤原時平とともに国家の政務に努められました。
故あって大宰府に赴任されましたが、詩歌・文筆に親しみ励んだことにより、復世広く学問・
文芸の神に仰がれるに至りました。
現在においても「学問の神様」、「天神様」として入試合格、学業成就、芸道上達の信仰厚く、
人々の生活の中に受け継がれています。
道真公のお使いとして「使いの牛」があります。これは道真公の生年が乙丑の年、薨去が丑の日と
いう説、道真公の御遺骸を載せた牛車が座り込んで動かなくなった場所を基所と定めた説など
道真公と「使いの牛」の関わりは深いと言われます。」



「絵馬」掛け所。
「絵馬」には「馬」の字が鏡に写った如くに。
「うま」を逆から読むと「まう」と読めます。「まう」という音は、昔からめでたい席で
踊られる「舞い」を思い起こさせるため、福を招く縁起が良いのだと。



菅原神社
菅原道真公をお祀りした神社です。菅原道真公は誌や文学に優れ五歳には詩歌を詠んだと
いわれています。
絵馬
古来神様に祈願する時は生きた馬を奉納しましたがその後馬の絵を奉納するようになり
最近では十二支などいろいろな絵や文字を書いて奉納するようになりました。」



「菅原神社」。



「第ニ次世界大戦集結五十年
伊勢神宮鎮座二千年記念
菅原神社造営
   平成八年九月建立
社殿ノ損耗著シク氏子ノ総意ニヨリ社殿ヲ建築シ鳥居、灯籠等ヲ設置スル」



再び「宇都母知神社」の本殿を見る。



朱の鳥居の先には「 内錑稲荷神社 」。



社殿に近づいて。



稲荷神社
【御祭神】 字迦之御魂大神(うかのみたまのかみ)
【御神徳】 稲作・農業の神
       (家内安全・商売繁盛・厄除)
【御由緒】
 お荷さんは、全国に三万社以上あるとされていますが、総本宮は京都の伏見稲荷大社です。
 『山城国風土記』によると、和銅三年(七一一年)秦伊呂具(はたのいろぐ)という人物が、餅を
 的に弓を射た際に餅が自鳥に変わって山の彼方へ飛んでいき、その降り立った場所に稲が
 たくさん実ったと伝えられています。その場所に、神様をお祭りして伏見荷大社が創建
 されました。
 稲作・農業の神として全国にその信仰は広がり現在では「家内安全」・「商売繁盛」・「厄除」
 など、生活全般にご利益をもたらす「お稲荷さん」として崇敬されています。
 稲荷神社の象徴であるキツネはお稲荷さんの使者であり、神聖な動物とし鎮座しています。」



境内社の右側に並ぶ、石碑と石燈籠。



内錑稲荷神社
燈籠の復元について神社の境内に散乱する燈籠を確認前場石材店の協力により平成十九年六月に
建立する。
以下略」。



御神燈が2基。



「霊峰富士山信仰として浅間講なる集まりが発展したものと思われる。
厚木市七沢地区にある、鐘ヶ岳の頂上近くにある浅間神社へ登る。
参道に一丁目毎の石碑に打戻村の住人五十六名の方が刻まれている。」と。
以下五十六名の氏名・子孫の名前が刻まれていた。



神明造りの本殿を横から。



「平成五年九月 水道管布設寄付者芳名」板。



反対側に回り込んで本殿を見る。



説明員の方が古地図から現在地を説明。




                               ・・・​ もどる ​・・・




                  ・・・​ つづく ​・・・







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Last updated  2024.04.12 05:51:58
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