JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.04.22
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カテゴリ: JINさんの農園
「満昌寺」を後にして次に訪ねたのが「 近殿(ちかた)神社 」。
「近殿神社」は、三浦氏の祖とされる三浦為通(村岡為通)から数えて第6代当主にあたる、
三浦義村を御祭神として祀る神社。
三浦一族の本拠地であった衣笠城やその支城の大矢部城があった場所のすぐ近くに鎮座して
いるのであった。
神社の御祭神と言えば神話に出てくる神様と思われるかもしれませんが、こちらの神社のように
先祖を祀る神社もあるのです。
このような神社を「御霊神社(ごりょうじんじゃ)」と呼ぶのだ と。
近殿神社の読み方は「ちかどの」「ちかた」「ちかど」と色々あるそうです。
横須賀市大矢部1丁目9−3。



社号標石「 近殿神社 」。



石鳥居越しに「近殿神社」の拝殿を見る。
現在の鳥居は昭和43年に奉納されたものと。



手水舎 」。手水鉢には「 洗心 」と刻まれていた。







三浦氏の実力
三浦為通の父親は桓武天皇の流れを汲む平忠通。前九年の役で武功を挙げ、源頼義から
相模国三浦の領地を与えられたことから、「三浦」の苗字を名乗るようになり、義村、義澄も
その流れを汲む。三浦は日本書紀に「御浦」、万葉集に「御宇良崎」と記されており、古くから
「みうら」と呼ばれていたことがわかる。
相模湾と房総半島を結ぶ海上交通の要衝でもあるこの地を本拠とした一族は海上交通を握る
水軍を発展させた。源頼朝も北条氏も三浦氏に一目置いていた。」



由緒
神社名 近殿神社
鎮座地 神奈川県横須賀市え矢部一丁目九番三号
祭神  三浦義村公
御祭神三浦駿河守義村は、三浦氏代々の頭領三浦為通ー為継ー義継ー義明
ー義澄ー義村ー奉村と続く第六代の頭領 当社は源頼朝を助け衣笠城で討死したと
伝えられる三浦大介義明の孫に当たる義村公を祀る大矢部の総鎮守 であります。
明治6年6月には村社に列格し、創建は不詳でありますが、以前にはこの大矢部には近殿神社の
他に、同大矢部山下834番地に 祭神速玉乃男命(はやたまのおのみこと)を祀る熊野社 、同
大矢部山下722番地に 天照天神を祀る皇大神社 及び 素戔鳴命(すさのおのみこと、
別名、午頭天王)を祀る八雲神社 とその境内社である 本花之開耶姫命(このはなさくやひめの
みこと)を祀る浅間神社 及び 金山彦命()を祀る金之比羅神 社、更に
同大矢部綾子畑250番地に 日本武尊を祀る貴船神社 、そして同大矢部綾子畑239番地に
八街比古命(やちまたひこのみこと)を祀る山頂神社 と数々の神社がありましたが、
大正2年(1913)9月1日一村一社という国の指令で衣笠山の衣笠神社に合祀 されてしまいました。
しかし乍ら世界第二次大戦後に、衣笠山では遠隔不便なため、近殿神社と他の社を元の
当境内地に遷宮 し、 昭和22年(1947年)10月28日に再建し、昭和24年(1949年)2月10日
宗教法人近殿神社の設立 登記届を出し、民主的運営のもと大矢部の氏子の方々により運営
されています。 社殿は明治11年(1878年)に木造茅葺の社殿を再建 しましたが、老朽化して
去る 昭和51年(976年)8月22日に改築造営 して今日に至っております。
   平成14年(2002年)9月
               三浦大介義明公八百年幣実行委員会」 



説明員の山本さんが、三浦家の家系図を出し、上記を説明して下しました。



三浦氏の「家系図」 を再び。



狛犬(右)。
この社殿前の狛犬は岡崎型。昭和52年奉納とのこと。



「狛犬」(左)。



正面から「 社殿 」を見る。
2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で山本耕史さんが演じられた三浦義村を祀った神社。



「社殿」に順番にお参り。




義村の木像(坐高35cm)は下の写真の黒い祠の中に鎮座されていたのだろうか?



社殿に向かって右側の奥 には山頂神社、金刀比羅神社、貴船神社、八雲神社、熊野社、浅間神社、
皇大神社の 石宮が境内に祀られていた
石祠群の前には歴史を感じさせる狛犬の姿が。



石宮の由緒
こ々に鎮座する八つの石宮は大矢部にあった神社で、その由来については石段下右側の
由緒書をごらん下さい。
石宮の図
山頂神社   貴船神社
熊野社    皇大神社
金刀比羅神社 八雲神社
浅間神社   近殿神社の境内社」

それぞれ、
山頂神社は八街比古命(やちまたひこのみこと)、
貴船神社は日本武尊命(やまとたけるのみこと)、
熊野社は速玉之男命(はやたまのおのみこと)、
皇大神社は天照大神(あまてらすおおみかみ)
金刀比羅神社は金山彦命(かなやまひこのみこと)、
八雲神社は素戔嗚命(すさのおのみこと)、
浅間神社は木花之開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、
が祀られているのだ と。



どの石宮がどの神社のものか??
案内板はなく、数も合わない!?



歌川国芳 作「宇治川先陣」



「宇治川先陣」(うじがわせんじん)を描いたのは、「歌川国芳」(うたがわくによし)。
歌川国貞、歌川広重と共に、歌川派の三巨匠と言われた人物で、武者絵が得意でした。
本合戦浮世絵は、平安時代の軍記物語「平家物語」に登場する「宇治川の戦い」がモチーフ。
1184年(寿永3年)、「源頼朝」(みなもとのよりとも)は叔父である「木曽(源)義仲」
(きそ[みなもと]よしなか)を討つことを決意します。そのとき、活躍したのが、3人の武将。
画面左の「畠山庄司重忠」(はたけやましょうじしげただ)は、実は宇治川に先陣
(せんじん:いちばん乗り)をしたのですが、渡河の途中で馬を射られて徒歩となり、同じく
馬を射られた「大串重親」(おおぐししげちか)を助けるはめに。
次に表れたのが、画面右側の「梶原源太景季」(かじわらげんたかげすえ)。
しかし、画面中央の「佐々木四郎高綱」(ささきしろうたかつな)は、頼朝からいちばんの
名馬「生唼」(いけづき)を拝領していたため、何としても1番乗りになりたいと、景季に
馬の帯が緩んでいると知謀を働いて出し抜き、ついに先陣を切るのです。
猛者揃いで英知にあふれた頼朝軍の様子を伝える、見事な1枚です とネットから。

宇治川先陣

名馬「池月」の姿の写真。
「源頼朝に献上された名馬である。頼朝の所有する代表的な名馬に生食と磨墨
(するすみ、cf. 磨墨塚)の二頭がおり、梶原景季は頼朝に日頃から欲しいと思っていた
生食を所望したところ、頼朝は磨墨ならばと同馬を与えた。ところが、後日、頼朝は生食を
簡単に佐々木高綱に与えてしまった。のちに宇治川の戦いでは生食を駆る高綱が、磨墨を
与えられた梶原景季と先陣争い(宇治川の先陣争い)を演じ、栄誉を勝ち取っている。
生食(および、生唼)は生き物をも食らうほどの猛々しさ、池月は池に映る月に由来する
ことから、立場の違いに起因する異字と考えられる。」とウィキペディアより。



この地・大矢部の歴史に関する様々な本や写真集が紹介されていた。



境内にあった「 薬王寺旧跡 」まで140mとの案内板。



中央に四角い穴の開いた礎石 があった。



「浅間神社」幟旗(のぼりはた)の礎石について
ここに展示の礎石は、「浅間神社」の登山口に設置されていた幟旗(大矢部では幟と呼んでいた)の
礎石で、お祭りのときなどには中心の四角い穴に丸太を立て、丸太に幟を通して高く掲げた
ものです。
浅間神社登山口の左右にありましたが、展示の礎石は浅間神社に向かって右側に設置されていた
もので、左側は失われました。
大矢部の各神社にはこのような幟の礎石が数多くあったと思われますが、開発などにより失われ、
ここに移した浅間神社のものが最後の一基と考えられます、大矢部の貴重な歴史遺産として
後世に伝えたい遣産のひとつです。
  註・・・浅間神社は、大矢部村民が「センゲン山」と呼んでいた山の項上にありましたが、
      現在は横~横道路内になっています、昔は大矢部村の総鎮守社でしたが、享和年間
      (1801~1803)に総鎮守社を浅間神社から近殿神社に替えた事が大矢部の古い文書に
      書かれています。
浅間神社の幟は比較的小さいものだったようですが、大幟と呼はれた幟は並外れて大きく、立てる
のに苦労したと聞いています、礎石も当然並外れて大きいものだったと考えられます。   以上
   平成ニ十一年三月吉日」



そして崖下の 横須賀市大矢部1丁目の道 を「 薬王寺跡 」に向けて歩いて行った。



その先、左側にあったのが「 薬王寺旧跡 ​ 三浦義澄公 👈️リンク  墳墓 」。



横須賀市指定史跡 薬王寺旧跡
              所在地 横須賀市大矢部一丁目二一六
              所有者 満昌寺
薬王寺は仏頂山と号し、建暦2年(1212年)、鎌倉幕府の侍所別当であった和田義盛が父杉本義宗や
叔父三浦義澄の菩提を弔うため創建したものと伝えられるが、明治9年(1876年)頃廃寺となった。
もとの本堂跡はここより東南の位置にあったという。
石塔群のうち凝灰岩製の方形石を三重にした石塔は、義澄の墓と伝えられている。最下石の
四方には胎蔵界の種子が配され、ニ層及び三層石の上方には納骨穴様のものが穿たれている。
これら石塔群は、当地出上の元応2年(1320年)銘の双式板碑(市指定重要文化財・満昌寺蔵)と
ともに薬王寺の歴史を裏付ける貴重な存在である。
  令和4年(2022年)七月
                                横須賀市教育委員会」



そして、石塔群のうち中央の、 凝灰岩製の方形石を三重にした石塔は、義澄の墓
伝えられている。
本尊の薬師像は満昌寺に移され義澄の五輪塔だけが残されているのであった。



さらに近づいて。
最下石の四方には胎蔵界の種子が配され、ニ層及び三層石の上方には納骨穴様のものが
穿たれているのであった。



改修記念碑
維時 昭和五十六年十月二十五日
三浦荒治郎義澄公墳墓
施主三浦大介義明公八百年祭実行委員会」



三浦義澄の墓の脇には、 複数の石仏や石塔 などが残されていた。



多くの 古そうな五輪塔 も脇に



「三浦荒次郎義澄之墓」?と刻まれた石碑。



その横にあった木製の小祠。



内陣。



「薬王寺旧跡」の先の路地を広い道へ向うと右から別の道がY字に交わる角に、
上部を伐採された大木の根本に大きな石があり、この辺に薬王寺の山門があったとのこと。
寺の大きさが伺い知れるのであった。



薬王寺山門の「 駒繋ぎ石(こまつなぎいし)」
各武将がこのお寺にお参りする時、馬の手綱を繋いだとされる石とのこと。
土地の人は「こまどめの石」ともいっているとのこと。
手綱をつないだところに磨り減った跡が見えた。



近づいて。



小さな碑には「 薬王寺山門駒繋石 」の文字が刻まれていた。



手前にも石碑が。



横須賀市大矢部二丁目地内の 現「海上自衛隊大矢部弾火薬庫」敷地内に円通寺が 所在 していた。
天保十年(1839 年)にお堂が村民に売り払われ、廃寺となった
ため、詳細な場所は特定できていないと。
中世以前の宗派は不明ですが、江戸時代後期には臨済宗円覚寺末の清雲寺の末寺となっていた
ようだ。
本尊は現在「清雲寺」にある国指定重要文化財の「木造観音菩薩坐像(通称「滝見観音」)」で
あったとされている と。



円通寺と深谷やぐら
浦一族のやぐら群を残す貴重な谷
円通寺と深谷やぐら
初代三浦為通開基と伝わる円通寺の跡地。
為通、為継、義継の供養塔が祀られていたという。谷の山肌には「やぐら(鎌倉時代中期に
作られたお基)」が掘られ、三浦一族の墓所とされていたと思われる。しかし、江戸時代に
廃寺になり、五輪塔などの石塔や、本尊であった観音菩薩像(滝見観音)は清雲寺に移された。
その後は、軍の弾薬庫として接収された。そのため開発を免れ、当時の地形を残す三浦一族
の貴重な遺跡です。」と頂いた資料から。


                                 出典 新編鎌倉誌

ここが「 円通寺跡 」。
緑の場所が 現「海上自衛隊大矢部弾火薬庫」
横須賀市大矢部2丁目。



そしてさらに進むと広い大きな道路に出た。



衣笠IC方向に歩を進めると、道路の反対側・横断歩道の先には、次に訪ねた寺・
「清雲寺」の入口案内柱があった。




                              ・・・もどる・・・


                   ・・・つづく・・・















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Last updated  2024.04.22 07:15:11
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