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私たちは本来罪のある存在でしょうか?それとも元々は罪のない真っ白な存在でしょうか?赤ちゃんは罪もなくきよい存在でそれがだんだんと汚れていくと多くの方が思っていると思います。しかし聖書は私たちが罪人であると明確に記しています。難しいことばで言うと原罪ということばになりますが、エデンの園でアダムとエバが神様のいいつけを破ったことに始まる私たち人類が負っている生まれながらの性質です。利己的で腐敗しやすい体質がそこにはあります。利己的であるからこそおなかが空いたら泣くし、愛を求めてだだをこねて私たちは成長してきました。しかしその性質が原罪であることをみことばから受け止める必要があります。神様の赦しは完全であり、すでに用意されているからです。私たちが自分の罪を神様の前に言い表す時にそこには裁きではなく赦しがあります。そして赦すだけではなく罪からきよめて下さいます。頭では分かっていても、私たちの日常生活で起こってくる様々な問題に対してどこかで自分は悪くないと言い張る自分を発見したことはありませんか?そういった時にこそ自分の弱さ、罪の性質を発見し、神様の前に出ていくべきです。そこに真理があります。赦しを受け、きよめられていく中で私たちは少しづつ成長していくことが出来るのです。昨日の自分を超えることが出来るのです。一度出来たからといって怠慢な心になってはいけません。日めくりカレンダーのように日々私たちはこの罪と悔い改め、赦しときよめを信仰のサイクルとしてこなしていく必要があるからです。そこに信仰の戦いがあります。主にあって罪に打ち勝ち、主の前に日々遜る者となりましょう!
2012.04.23
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本当の信頼とはどういったものでしょうか?自分がそばにいるときに信頼出来るというのはまだ足りないものがあります。それはある意味監視されている状態だからです。監督者の前でいいように振る舞うのはどちらかというと当たり前という部類に入るでしょう。物事を安心して託すことが出来る。自分の代わりに単独で行動を任せれられるようになるとそれは信頼の印だと思います。新約聖書の歴史はこの「信頼」から成り立っています。イエス様はペテロをはじめ弟子達を信頼しました。そして弟子から使徒へと呼び方自体も変化していきました。習う人から指導できる人へと変わっているのです。弟子は師匠以上にはなれないかも知れません。しかし使徒として働くペテロ達の姿を見るとイエス様が公生涯にしていなかったことを多く成し遂げて教会を確立していく姿があります。そしてそれはイエス様が彼らに期待し委ねた働きでした。そしてこのイエス様の信頼は、それに値すると誰しもが認めるだけの成長を遂げてから与えられたものではありませんでした。ペテロが挫折し、葛藤し、回復する過程を通る以前にイエス様は彼にその信頼を伝えています。神様の信頼は見合うだけの能力を身に付けて、また目標を達成した人にだけ与えるものではなく、未来完了形で与えられます。そしてそれを成し遂げるのは信仰です。私たちも未来完了形で教会を建て上げていきたいと願います。そしてそれを期待し、励まし合い、成熟から成熟へと進んでいける群れでありたいと願います。主によって愛し合い、主によって歩みましょう
2012.04.16
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イースターおめでとうございます。イエス様の復活を祝うイースターですが、今年はディズニーランドもイースターイベントを取り入れるなど様々なかたちでイースターが日本にも浸透しつつあります。ただきれいな卵を飾って喜ぶ日ではなく、本質的に私たちはイエス様の復活と共に自分の死んだ生き方から主にある命に生かされる生き方を見直し、そして実行していく時として受け止めていきたいと願います。イエス様が復活された時に天使がマリア達に弟子達とペテロに伝えるようにとあえてペテロに伝えることを強調して語る場面があります。ペテロはマタイ26章69節以降において自分の信仰生活のどん底を体験します。その箇所において3回イエス様を知らないと言ってしまうのです。そんなペテロに対してイエス様は立ち直るように祈っていること、また後に私を愛するかと3回問われるなど特別にペテロを扱われました。その結果彼は今までとは違う逞しい信仰の人となりました。ペテロと同じように私たちも恐れや不安などで信仰がぐらついたり否定的になることがあるかも知れません。しかしイエス様の愛はそんな不安定な私たちをも包み込んで下さる大きな愛です。決してペテロだけが特別なのではありません。私たちも同じようにイエス様は期待し、祈り、支えて下さるお方です。主と共に日々新しくされる人生を歩んで行きましょう!
2012.04.14
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しゃべることは時と場合によって楽しかったり辛かったり様々な感情を私たちに与え、また多くの人を時として励まし、また傷つける諸刃の剣のようなものです。聖書に舌を完全に制御できるならその人は体全体を制御できると書いてあるくらい私たちの口から出ることばはまだまだ不完全であり発展途上と言ってもよいかも知れません。しかし言葉において失敗することを経験し同じことを繰り返さないようにと意識する方はそういった勉強をしたり、また上手に語る人を観察して確実に成長していると思います。聖書はさらに深く掘り下げてうわべのトークテクニック以上にしゃべる時の心構えに関してから多くのことを私たちに示唆しています。コロサイ4章6節には外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさいとあります。これは伝道においてのことに重点がおかれて書かれているという前提がありますが、前半の外部の人に対して賢明にふるまうことはとても大切なことです。自分が客として店にいっていても、また逆においてもへんに偉そうにしたりせずにいつでも賢明に振る舞うことは私たちの品性を高めてくれるだけではなく、すべての人を自分よりすぐれた者だと思いなさいとあるようにみことばを実践する行為に他なりません。そういったベースとなる心構えや考え方を整えていく時に口から出ることばも愛のあることばになったり塩気の効いたものとなるでしょう。答えはそういった経験の積み重ねから自ずと出てくるものです。聖書に根ざし、みことばを土台として考え方を整えて、口から出ることばがその心からすっと出てくるように、祈り整えられていきたいですね!
2012.04.06
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