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初代教会は多くの迫害の中でも尚成長し続けました。その数的成長にはそれ以上に信徒ひとりひとりの霊的成長がありました。パウロは2テサロニケの冒頭でテサロニケの教会の人々の目に見える成長のためにいつも神に感謝しなければならないと語っています。霊的成長はなかなか目に見えて分かりにくいこともあります。もちろん話をしていくと分かるのですが成長が人づてに伝わってくる。また目に見えて分かるほどというのは本当に素晴らしい成長がそこにあったのだと思います。そこには成長の過程、また結果としてのライフスタイルの変化や言動の変化などその人の人格そのものが大きく成長を遂げていく様があったはずです。テサロニケの教会は迫害や艱難に耐える中でそのような成長をしていったのです。そこにはまさに目先の損得に左右されない一本筋の通った姿がありました。当時ローマ支配色の強い文化の中で信仰を持っていくことは多くのリスクがありました。時にはいのちの危険もあったことでしょう。しかしそういうリスクを乗り越えて余りある神様との関係を選択し彼らは成長していきました。彼らの視点は長くて80年~100年ほどの地上の生活でうまく立ち回ることよりも永遠に続く天国へ続く信仰を選択していたのです。そこには誠実で愛に満ちた人間関係があります。お互いに認め合い助け合う姿があります。現代の日本に住んでいる私たちにはそこまでの危機感はないでしょう。しかし成長においては全く同じです。私たちも神様の前に良い選択をし続けていき、そして成熟していきたいと願います。ひとりひとりが去年より、先月より、先週より、昨日よりも成長していける教会になっていきましょう。
2012.11.27
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法律は人を守るため、また時に裁くためにあります。その決まりを守っていくことで安全に生活し、そして混乱しないために、そして平等に義務と権利を持って生きていくために法律は存在します。旧約聖書を見ると律法という神様が作られた決まりがあります。有名な十戒をもととして多くの律法が記されています。この十戒は最初の4つは神様と人間の関係においての戒めであり、残りの6つは人間関係の中で起こりうる問題に関しての戒めになっています。この律法は現代に生きる私たちには結構ハードルが高いもので安息日(現代でいう日曜日)には仕事をしてはいけないので料理や火を起こすこともしてはいけません。なので前日に用意しておかないといけないなど事細かな決まりがありました。さすがにそこまで決められると不自由に感じますね?でも決まりがあっても全部守ることが出来ない私たちの弱さがあり、罪人であるということを自覚することがなければ赦しや救いに対する必要性も感じないことでしょう。何が善で何が悪かを知り、そして自分が完全な存在ではないことを知るところから神様の愛の深さを実感することが出来るようになります。法律的には裁かれないといけない存在であるものが赦されて自由にされる。法律的にはあり得ないことです。罪の結果を刈り取る責任があるからです。受けて当然のペナルティがあるのに赦されるのは理不尽だと思うでしょう。しかし私たち全員の心も見ておられる方には誰一人裁きを免れることが出来る人はいません。だからこそ完全な愛からくる赦しが必要なのです。ルールを作った方ご自身がそれを変えて下さるからそれが可能なのです。それほどまでに私たちを愛して下さる神様に感謝しつつこれからのクリスマスシーズンを歩んでいきましょう!
2012.11.19
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祈りには大きな力があります。聖書の中には祈りによって山をも動かすという記述もあります。祈りの応えが祈った直後に出ないからといって祈ることを辞めてしまったことはありませんか?祈りとは継続するものであり祈り抜くものです。また祈ったことの応えをすでに受け取ったと信じて祈ることもあるでしょう。聖書にはシンプルに祈り続けなさい。とあります。自分のために祈り、家族や友人のために祈り、教会のために祈り、地域や街、国、世界のために祈る。そうやって祈りを拡大させ祈り、思い巡らすことはとても素晴らしいものです。そういった様々な祈りの中で時として神様の思いにふと気がつくことがあります。祈りを自分の生活の一部として、自然体に思いの中でも神様とつながっていくことでそういった自分の視点ではないゆとりを持った神様の視点を発見していくことが出来ます。そういった積み重ねから祈りが自然体に、また深く、継続した祈りへと変化します。時として断食してでも祈り込む必要があるような状況もあるでしょう。でもいつもそれでは私たちの生活を維持することは難しいでしょう。祈りは短距離もありますが人生という長い期間継続していくマラソンです。そのマラソンを共に祈り合い、励まし合って走っていく仲間が教会の仲間であり、信仰でつながっている信友です。そういった素晴らしい人間関係をこれからも豊かに築き上げていくことが出来るように視野をしっかり広く持って主と共に歩んでいきましょう!
2012.11.12
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責任とか保証というのは本当に大変なことです。責任をとると一言で言ってもそのとり方にはいろいろあります。仕事で大きなミスを犯したら責任をとって辞職するとかありますが経営者であればそう簡単に辞めることも出来ません。ある意味辞めて済むならまだ楽でしょう。その責任を保証するというのは時として継続して多大な犠牲を払う必要があります。そういったリスクから多くの人は逃げたいと思うのではないでしょうか?聖書にはイエス・キリストを自分の救い主として信じるということから神様とのより親密な関係がスタートし、そしてその真実な神様が私たちを全きものとして下さり、守って下さるとあります。この信仰の完成と守りは霊的な領域での聖化の完成、信仰による救いの絶対性を指しています。今はどんな状況であってもキリストを信じることによって天国に行けることの確信と天においてきよめが完成していること、またいま歩んでいる生涯においてもそれに向かって進んでいること、そして助けて下さる聖霊がおられること。これだけの保証が信仰にはあるのです。保証というのは何かがあった時に初めてそのありがたさが分かるものですが、私たちは日々の生活の中で神様の恵みを体験し、守りを体験し、赦しを体験していくことが出来るのです。どんな時にも神様を信じて、そしてその守りのうちに励まされて歩んでいきましょう!
2012.11.05
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聖書を読んでいく時に一見矛盾しているような記述があります。注意深く読み解いていくとどういうことなのか分かってくるのですが両極端ととれるような記載が続くことがあります。第1テサロニケ5章には有名はいつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。という箇所があります。でもその数節先にはすべてのことを見分けて、本当に良いものを堅く守りなさい。悪はどんな悪でも避けなさい。とあります。ここですべてに感謝ということとすべてを見分けること、ある意味疑ってかかることが衝突するわけです。悪すらも感謝すべきではないのかというのが前者を100%実践しようとしたときに起こりうる結果ですが後者は選り分ける必要があると言っています。最終的に最善を尽くそうとした結果、自分の目には悪く見えても目先の損得だけに心を奪われてしまうのではなく、そのことすら神様に感謝していく信仰が大切だということが答えとしては比較的正解だと思います。素直さと賢さを両立することが大切であるということです。私たちが自分で結果を決めつけて「もうだめだ」と言いたくなる状況があったとしてもそこに神様にある可能性や神様の視点からみたらどう映っているかと思い巡らしたりすることで私たちはもう少し視野を広げ、希望を見いだすことが出来ます。魚を食べる時に子供の時は骨が自分で取り分けることが出来なくても大人になって慣れてきたら簡単に肉と骨を分けおいしく食べることが出来るように、日常生活の中にある神様の恵みを的確に知りそしてそこから糧を得ていく時に私たちは成熟していくことが出来るのです。自分に与えられた状況、環境の中からもっと神様の恵みを見つけ感謝する者となりましょう。
2012.11.01
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